経済学の大御所ヂェラディン・アポロニア教授は、しわの刻まれた長額にグレーの髪、長身に、いつもと同じ灰色の背広姿で、仕事部屋に座り安らいだ心持ちで、座ったまま、口にくわえた煙草より立ちのぼる青白い煙の間から、感慨深げに本棚を眺めていた。ちょうど、学会で発表するつもりだった若干の経済問題に関する原稿を仕上げたところだった。数日間にわたって彼を悩ませ、大いに頭痛の種となった原稿だった。このことを理解できるのは、ただ学問的創造と探究の畑に育った果実を味わおうと試みる者だけだった。
大きな窓に広いバルコニーの仕事部屋、彼が書斎と呼ぶ仕事部屋に座り、そして、いわゆる創造的な気分に浸っているところへ、古くからの同僚二人が入ってきた。
彼らは高い学位を持ち、国内学会の中央準備委員会で委員も務めていた。科学アカデミーの特別会員、ズュラプ・カンダリにソティル・クツカである。広陵な文化的地平に立つこの二人の秀才は、柔和な顔立ちで、またお互いに大変よく似ており、双子かと間違える程だった。しかも服装も、ネクタイからシャツまでそっくりだった。ただ靴だけは別だったが、これは二人の足の大きさが違っていたからである。おそらくは、仕事においても同じ学術研究の領域にあり、それがこの二人を似せることになった。そして喋る時も、同じ様な言葉遣いや、用語の使い方や、定義の仕方になっていた。つまり「経済概念」「経済法則の営為」「蓄積」「価値」「費用」等、一連のものである。
さて彼らは、ヂェラディン・アポロニア教授の書斎へ、賞賛と、深い謙虚の念をもってやって来た。そして握手を交わすと、二人して同時にこう言った。
「や、終わりましたな!」
ヂェラディン・アポロニアは肩をすくめ、二人に腰を下ろす様にと極めて丁寧に促し、そして答えた。
「終わったよ、厄介な原稿だった!価値、剰余価値、その他の基本法則…」
とそれから、こう続けた。
「で、奥さん方は連れて来なかったのかね?ああまったく、女達ときたら!家事だ、仕事だ、子どもには頭が痛いし、店には行列だし…」
ズュラプ・カンダリは、大いに意味あり気な顔でソティル・クツカの方を見た。おやおや!高名な我らが教授は、学術研究に打ち込む余り、しばしの間、家事労働における女性の負担を忘れてしまったと見える!何てお方だと思いながら、彼は答えた。
「妻達はあとから来ますよ、先生」
「原稿は終わった、さてと!」とヂェラディン・アポロニアは言うと、珠玉の様な業績の秘められた用紙を手に取り上げ、軽くはためかせ、そして軽く撫でながらもとの場所に戻した。
古くからの同僚二人は、まるで大変な権威のある御仁の前に出た時の様に、心服した面持ちで視線をその原稿の上へとやった。
とこの時、ソティル・クツカが飛び上がると、二枚の小さい唇で「お」の口を作った。
「おや、本当に原稿が遅れましたね!しかし、樫もプラタナスも芽吹くのが遅れていますからね。扁桃にすももが芽吹くのは早かったですが!で、ここには樫のごとき堅実な原稿が。はっは!」
そして細い指をピンと立てた。
「おや、樫のごとき原稿とはね!」同僚ズュラプ・カンダリが繰り返した。
ヂェラディン・アポロニアはにっこりと唇を曲げ、指先でぴかぴかに磨かれた机をこつこつ叩いた。これが部屋へ持ち込まれた時にはすぐに、とりわけ心から満足して叩いたものだ。
「価値、剰余価値、その他の基本法則…」
彼は原稿の中で憶えている語句を繰り返した。
「さて、理論的計画では!」
とズュラプ・カンダリが言った。
「さて、理論的次元では!そしてこの次元にあっては、経済的諸現象が考慮されるべきで。はっは!」
とソティル・クツカが言って、つぶらな瞳を左右に動かした。
「この様な経営、或いはこの様な協同組合において獲得し得た程の正確さに我々が到達することなど、できはしませんて。政治経済、すなわちマルクス主義の心髄において…」
「そしてレーニン主義の、だ」
とズュラプ・カンダリが遮った。
「すなわちマルクス主義の心髄…」
とソティル・クツカは繰り返した。
「そしてレーニン主義の…」
と再びズュラプ・カンダリが遮った。
「おい頼むよ!本当に!君は私に『レーニン主義』って言わせない気か。私が『マルクス主義』って言う度に、邪魔をするんだな」
ソティル・クツカは腹を立てたようだ。
「で、政治経済、すなわちマルクス・レーニン主義の心髄において、重要なのは発展の基本的諸法則なのです:価値、剰余価値、物-生産物-貨幣の転化。これが我々の研究対象です。まあ、様々な雌牛の群れがどれだけの乳を与えてくれるか、獣医や乳搾人達は知りたがっているわけで…」
しばし沈黙が入った。ヂェラディン・アポロニア教授の書斎には、本と原稿と議論と講演と書類という実りの労作が息づいていた。ズュラプ・カンダリとソティル・クツカの視線は、これら輝かしい、その書斎の壁という壁にひしめいている労作をしばし愛でた。
「大変なのは奥様ですな、こんなに本があると!ほこりを取って、整理して…」
とズュラプが本を見ながら言った。
「おいおい、ほこりは溜まっていないだろう、しょっちゅうペ-ジをめくるんだから。しかし整理されているものだ、ねえ!」
とソティル・クツカが割り込んだ。
「そう、そうだ!我々は奥様にはお目にかかってませんよ!」
とズュラプ・カンダリが言った。
と、教授は立ち上がり、両手の親指をチョッキから両腋の下に突っ込むと、かのレ-ニンの如く、胸を張って歩き出し:
「あれは、娘のことで少々ごたごたしているんだ。おととい、例の名高い教授が会ってくださるというので、あれがウィーンへ出発するのを見送ったのだよ。もうだいぶ扁桃をやられてね!」
と言った。
ズュラプ・カンダリは真面目な、何か辛抱する様な顔になり:
「まったく、扁桃はいけません!」
と言った。
ヂェラディン・アポロニア教授は髭を手でさすりながら、もう一方の手でチョッキのボタンを一つ留めた。
「我々のところの医者達も立派なものだ。しかし、幹部の子供達となると手が震えてしまう。あの時も、扁桃の一つをその子がやられてね。それで幹部としては、ウィーンかパリで、子供に手術を受けさせることを余儀なくされたのだ」
「扁桃は二つ…扁桃は一つじゃなくって…二つでは…」
とソティル・クツカが口を挟んだ。
ここで三人は揃って笑った。が、その笑いがまだ消えないでいる内に、ヂェラディン・アポロニアがサロンと呼ぶところの廊下に女性達の声が聞こえた。まもなく書斎の中へ、声と一緒に、香水の芳香が入ってきた。やって来たのはお待ちかねの彼女達、アデリナとアニフェヤだった。ズュラプの妻アニフェヤは、美人で長身で、扁桃形の切れ長の目に、きらきら流れるような栗色の髪、それに柔らかな声の持ち主で、ヂェラディン・アポロニアに手を差し出すと、自分の輝く眼差しの範囲内に彼を取り入れるかの様に、その前に腰掛けた。
ソティル・クツカ夫人のアデリナは健康的な薔薇色のスーツに、ブロンドの髪、遠慮がちに、少々こわばった風で、物憂げな溜め息をひとつつくと夫の傍らに腰掛けた。
そのすぐ後に、ソティル・クツカの妹のリタも入って来た。独身で、色黒で、紙の様に真っ白なブラウス姿で、下唇の真ん中には薄く縦筋が結ばれていた。美貌に、蛇の様な飾り気のない肢体で、今入って来た女性達の中では彼女が一番きれいだった。他の二人と違い、彼女は学生くらいの若さだったからだ。もっとも医学部を出てから二年経ってはいたが。リタが誇らし気に、畏れを知らぬ風にあたりを見渡したので、ヂェラディン・アポロニア教授でさえ、彼女の眼差しから目をそらした程だった。
教授夫人は、しばらくの間彼女達を夫達の会話に加わらせておいて、もてなしに必要なものを用意した。大きな盆にリキュールやコニャクのグラス、飴にチョコレートを載せて、ようこそとふるまった。
赤い唇にグラスを寄せながらアニフェヤは、机の上に広げられている教授の原稿に目を落とした:
「終わりましたの、先生?」
「ようやくね!」ヂェラディン・アポロニアには言わせず、その妻が勝ち誇った様に答えた。
「女性達だって原稿の完成に協力してくれたのさ!…」と教授が目を上げ言った。
「はっは!当然ですとも。学者の家庭というのはね、いつだって学問の話をするもんです」とソティル・クツカが言った。
ヂェラディン・アポロニア教授は、再び両手の親指をチョッキの両腋に突っ込むと、立ち上がり、胸を張り、書斎内の幾分空いたところへ行くと、何やらもの思いにふけるような仕種をした。女性達はひたすら畏敬の念で彼を見つめ、一体いかなる思想が、首都の誇りの一つにも数えられるこの偉大な教養人の内にひらめくものかと待ち構えていた。
「一般に、家族の会話から、その家の長がどんな職に就いているかという結論を導き出すことができるね。教師の家では教育問題が話題になるし、運転手だったら交通および道路問題だ」と教授は言った。
「先生はどちらでこんなみごとな表現をお考えになったのですかしら!」とアニフェヤが、唇に匂やかな笑みを浮かべ、目を扁桃の形でぱちぱちさせながら言った。
リタはと言えば、それを軽蔑の眼差しで見つめていた。アニフェヤがまるで教授に屈従している風に見えたからだ。つまるところ、教授の言葉には何の際立った思想もなかった。どんな人でも口にすることのできる、ありふれた言葉だった。アニフェヤはリタの軽蔑した眼差しに気付くと、瞳をそらした。教授もそれに気付いて、状況をやり過ごそうと頭を上げた:
「ではもう一度、兄弟姉妹に乾杯!」
グラスを干した時、思いもかけずドアベルの音が聞こえてきた。一同は、この名高い学者のもとでは片時も心安らかではいられないことに不快の表情を浮かべた。いつもこうなるのだ。和やかに会話が始まったと思ったら、誰かがドアを叩いて愉快な気分を奪っていくのだ!
「お友達とお約束でも、先生?」とアニフェヤが尋ねた。
ヂェラディン・アポロニアは両手をひろげてみせた:
「家には門があるのだね!門というのは、入ったり出たりするためにあるものさ」
「何というすばらしいお言葉!」アニフェヤは溜め息をついた。
実際、思いもかけぬ客であった。それは教授の幼い頃からの友人で、ティラナ区の外の協同農場に勤めているダネ・ガイタニだった。故郷の樫の木くらいの長身で、手には麦藁帽、女性達の香水が匂うのか鼻にぎゅっとしわをよせた。彼はヂェラディン・アポロニアと抱擁を交わし、一人一人と握手してから、膝に麦藁帽を乗せて腰を下ろした。ヂェラディン・アポロニアはすぐさまふさぎ込んでしまった。
あぁ、どうかダネが昔のあの習慣を持ち出そうなどと考えません様に!あぁ、なんてまずい習慣があるものだろう!もしそれを出されたら、自分達はこのご婦人方の目に恥をさらしたものだ!どうかあいつがその気にならぬ様に!お助けを!とひとしきり考えてから、ヂェラディン・アポロニアは、この竹馬の友に語りかけた:
「長いことティラナに来なかったじゃないか!」
ダネ・ガイタニは、ずっと麦藁帽を膝に乗せたままで、鼻の先からは長い毛が伸びていた。彼は美貌の御婦人達をちらと見やってから、何気なく視線をその夫達へ、それからヂェラディン・アポロニア教授の方に向き直り…
「学会に呼ばれているんだ。でも他に用もあったし、少し早めに来たんだよ」
「そうなんですか?」と、ズュラプ・カンダリとソティル・クツカが同時に聞いてきた。
ダネはこのアカデミーの特別会員二人を見下ろし、麦藁帽の端を握って尋ねた:
「あんた達は兄弟かい?」
これはまったく儀礼を欠いた質問だったので、まるでダネ・ガイタニが相手をからかっているかの様な印象を与えた。しかし実際のところ、彼は大真面目でこのいきなりの質問を発したのである。
「初めて見たことにも同じように考えるんですものね。でも兄弟じゃありませんわ。とても仲の良い友達なんですのよ」
とアニフェヤが言った。
「そりゃけっこうなことだ!」と言ってダネ・ガイタニはヂェラディン・アポロニアの方を向いた:
「お前さんテレビで見てるよ、ラジオでも聴いてるし、新聞でも読んでるぜ、ヂェラディンよ!俺達のあの昔の学校の、あの机を並べた頃からすごいことになったもんだ。偉いもの知りが出たんだからなぁ。いろいろ会って話したいことがあったんだよ。テレビの画面じゃお前さんは透き通ってて、すぐぱっと消えちまう映像で、ものの照りかえしみたいで、まるで手が届かねえからなぁ」
婦人達は口元に笑みを含みながら、一見して文化の領域からは程遠いこの男に注目し始めていた。ひとりリタだけが無反応だった。彼女はグリーンリキュールのグラスを手にして、教授の書斎にある大部の本や書類を眺めていた。麦藁帽の人物にも、その話が終わるまでは大した印象も持たなかった。おそらく、自分自身を出すことも好きではなかったろう。若い女性達がするのと同じく、射る様な冷酷さで以て今風を気取っていた。後になれば、そういう冷酷さが散り散りに、氷の欠片のように砕けて、彼女らを丸裸にしてしまう時が来るものなのだが。それにしても、あの人物の鼻から伸びた黒くて長い毛は、リタにとって印象的だった。こういう鼻をしたこんな人は、何か驚く様なことをしでかすに決まってる!そう思った彼女は、この考えに釣り込まれて笑い出した。
ヂェラディン・アポロニアは振り返って同僚達に言った:
「ダネ・ガイタニとは、君達も本人の口から聴いた通り、小学校が一緒でね。私は大学を卒業し、彼は経済上の理由で一旦は学業を断念したが、後になって続けたんだよ。今はN協同農場で獣医をしている。冗談好きな奴でね」教授はこう言って、ダネの例のひどい習慣のことを考えた。
「あれをやられたら、とんだ恥さらしだ!」
ズュラプの妻アニフェヤは、目を扁桃形にしてダネの方へウィンクしてみせたが、それも鼻先に伸びた長い毛の上で止まり、その毛を凝視する内、驚きの表情の中に消え失せてしまった。
この毛ったら、喉から胸元まで伸びそうだわ、何にも感じないのかしら、くすぐったくないのかしら、と彼女は思った。そういうわけで、その雪玉のように白く小さな手で口元を隠しながらくすくす笑っていた。
ダネ・ガイタニは、アニフェヤの呆れ返ったような視線を浴びつつ、鼻から伸びた毛に指先をあてていた。ヂェラディン・アポロニアはダネの習癖をよく知っていたので、今度はいったいどんなろくでもないことになるかとそわそわし始めた。
「奥さん」ダネ・ガイタニは鼻に手をやりながら話しかけた「わしの鼻の毛で目の保養をしようなんざあ、いただけませんな」
[訳注:動詞kullos『目の保養をする』は本来『家畜を放牧する』の意。つまり『鼻の毛』を『牧草』に見立てているのである]
そんなことを恥ずかしげもなく、さも当たり前のことであるかのように言ってのけた。そのため一同はすぐさまアニフェヤから視線をそらしたのだが、そのうち、抑えようもない笑いが場を支配した。そして笑われた方はというと、激しく息を吸い込んであえいでいた。
夫ズュラプ・カンダリは立ち上がると、ダネ・ガイタニを横目でにらみつけ、コップに水を注ぐと、妻の息づかいを鎮めようと手渡した。一方リタは膝を抱え、しぼり出すように笑っていた。そうしてこの刹那から、ここ学問の世界にいる男性達にはないものを感じさせるこの人物について、驚嘆の念を持つようになっていた。
夫が腰を下ろすと、アニフェヤは白のハンカチで目もとを押さえながら言った。
「ああ、おかしかった!」
ズュラプ・カンダリは苦々しげに妻の方を見やった。笑うことなんか何もないし、ガイタニの言ったことがいかに野卑で恥知らずであるかについて言おうと思った。が、黙っていた。
さてヂェラディン・アポロニア教授はというと「こんなのは序の口だ。だが他のことをしでかした時は、みんな気づくなよ」とひとりごちていた。
「あなたも、何か研究をなさっておいでなの?」リタはおもむろに顔を上げると、こう尋ねた。
ダネ・ガイタニは日焼けした顔でふり返った。でかい顔で、両頬に大きなできものがあり、黒人のようにぶあつい唇に、太い眉毛だった。
「いやいや!さっきティラナで初めて、学問って奴を見たばかりだよ」と言うと彼はすぐに、彼女の美しい顔から目をそらした。
リタは顔を赤らめた。おまけに気持ちも穏やかでなくなって、この書斎ではもう何も質問すまいと心に決めた。この男の恥知らずぶりは、今や周囲を席捲しつつあった。
「で、あなたも学会の招待を受けて?」アニフェヤが尋ねた。
「うちの村の議長も呼ばれてたな。おぼえてないかね。あんた方のだんなは学者としかしゃべってなかったっけかなあ?まあ、あの演説は学者向けじゃなかったが」ダネは答えた。
「あぁら!」アニフェヤが声をあげた。
「私どもの発表も、学者向けでないと?」ズュラプ・カンダリが聞いてきた。
「ありゃあ、うちの村の議長の発表みたいなもんだな。『この路線において特に重要なのは~』うんぬん。で他もこんなもんだ。売りものの論文、売りものの人間!学問だって、からっぽになるまで売り尽くしたってやつだな・・・」
「あ、あ、あ!」婦人衆が声をあげた。
この「あ、あ、あ!」がわき起こったあと、しばらく沈黙が支配した。
リタはダネに対して容易ならざる感情を抱き始めていたので、彼の機嫌を取ろうと語りかけた。
「あの、あなたももう発表をなさったのでしょうね」
「発表はしてないよ。しかしチャンスがありゃあ、討論だってできるだろうよ、お嬢さんや。生き物の経済問題を議論するだろうね。俺は生き物には詳しいんだ。獣医だし、畜産経済もやっているしね」ダネ・ガイタニは、なぜか落ち着き払って答えた。
『ああ、いつものくせが始まったぞ』
ヂェラディン・アポロニア教授は恐怖と、つかみどころのない不安をまたも感じていた。そこで黙ったまま、哀れみに満ちた視線を机の上の原稿へと落とし、溜め息をついた。
それに気づいたズュラプ・カンダリは、教授の書斎に入ってきた時に発したことばをまたくりかえした。
「や、終わりましたな!」
ヂェラディン・アポロニアは原稿に手を伸ばし、繊細な指先でページをめくり、考え深げに口を開いた。
「終わったよ!・・・価値、剰余価値、その他の基本法則」
「お見事ですわ!」アニフェヤはチューリップのような唇を開いてこう言ったが、ダネ・ガイタニはというと、毛の伸びた鼻にしわを寄せていた。
「ふん!価値、剰余価値か・・・」ダネはひとりつぶやくと、手を伸ばし、原稿を取り上げた。
ダネ・ガイタニはひとしきり原稿を読むことに没頭していた。学者たち、その妻たち、そしてリタまでもが興味津々、おし黙って、原稿を読む彼の表情にあらわれる変化を見つめていた。一度ならずダネ・ガイタニは顔色を変え、その度に一同は不安げに互いの顔を見合った。
これは驚いた!この男、人を引きつける上に、催眠術の心得があると見える。ヂェラディン・アポロニアのような学者でもなく、ズュラプ・カンダリのような者ですらないのに。
ダネは原稿(それは9ページあった)を手放そうとしなかった。それを見て婦人連中は、教授の研究が議論の余地ない意義を持っているからだろうと考えた。
「ね、すばらしいでしょ?」アニフェヤが問いかけた。
「すばらしいものですよ!」ズュラプ・カンダリが話しかけた。
「独創的な方法論ですな!」ソティル・クツカも話を合わせた。
ダネ・ガイタニは何も言わなかった。膝の上に置いた帽子に手をそえて、もの憂げに座っていた。ヂェラディン・アポロニア教授はついと立ち上がり、チョッキのわきの下に指を二本突っ込んで、ごそごそやり出した。と、ダネ・ガイタニも立ち上がった。ヂェラディン・アポロニアは不安におそわれ、自分が立ち上がったことを後悔し始めた。
ああ何だって立っちまったんだ。どうかあいつが、あの癖だけはやりませんように!
ヂェラディン・アポロニアはおそれにかられながら、近づいてくるダネを見つめていた。
ダネ・ガイタニは「価値、剰余価値、その他の基本法則・・・」とつぶやきながらヂェラディン・アポロニアに歩み寄り、その上着の背中の切れ目へと指を伸ばした。ヂェラディン・アポロニアは背後にダネ・ガイタニの指先の気配を感じ、チョッキにつっこんでいた手を出して、ゆっくりと、そして懇願するような口調で「ダネ!」と呼びかけた。
「価値、剰余価値、その他の基本法則・・・」ダネ・ガイタニは教授にはかまわず、なおもつぶやきながら腰を下ろした。
一同は恥ずかしさのあまり、互いの目を見ようとさえしなかった。よくもまあこんな振る舞いができるもんだ!高名な学者に向かって指をさすとは。
まるで書斎の天井が机の上に落っこちてきたかのように、一同は目を伏せていたが、ただリタのみが視線をそらさなかった。羞恥を知らぬ彼女がダネ・ガイタニの口元を見ていると、彼は右目をつむり、不愉快だというしぐさをしてみせた。一方、学者の妻二人はひそひそとしゃべり始めていたが、そのうち、夫に気づかれぬようにくすくす笑い出した。
しかしアニフェヤはもう黙っていられなくなり、顔を真赤にして思いっきりげらげら笑い出した。
「ああもうやだ、死んじゃいそう!」
かくして、一同揃って笑い声をあげないわけにはいかなくなった。そしてそれにつられてヂェラディン・アポロニア教授も笑い出した。しかしダネ・ガイタニは膝の上に帽子を置いたまま、憮然とした表情で座っているだけだった。
そこへヂェラディンの妻ネタが入ってきたので、場の雰囲気がなごむことになった。というのも、この教授夫人がとても愉快げな表情をしていたからだ。もっとも、本人としては特に変わりはないつもりだったが。
彼女はダネの帽子を手にとり、肉づきのよい尻で背を向けながら言った。
「何だって帽子をずっと膝に載せてるんですの?誰かが盗るってわけでもないでしょうに」
ダネ・ガイタニは彼女の尻に視線をやり、かすかに指先を動かしたが、顔つきは暗く、無言のままで、不機嫌そうに首を振るだけだった。
ヂェラディン・アポロニアは、妻がこちらに尻を向けた時もそこに突っ立ったままだった。またあいつが何かとんでもない恥ずかしいことをしでかして、ネタの尻を指さすようなことになりでもしたら!
「いやいや実に、この発表は学術的にも高い水準のものでして」ソティル・クツカはこう言ってダネ・ガイタニの意見を求め、そして事態を鎮静化させようとした。
するとダネ・ガイタニはいきなりこんな歌をおっ始めたものだ。
そこへ来たのは忘れられた友
はるか雲のかなたの田舎より
うち捨てられた運命に疲れはて
毛むくじゃらのあわれな鼻っつらで
収穫が山と積もるあの地から
百姓が羊を呼ぶあの地から
議論うずまくこの地へとやって来た
偉大な法律のため
法律は書物の中に生きているが
百姓は牛も持てずに生きている
学会は豆をあぶり焼きにするが
百姓はチーズに頭を悩ますのだ
我らの口にのぼるは政治経済
研究発表はパンくずのごとし
ああダネよ、英雄の舌持つおまえは
毛むくじゃらのでかい鼻っつらで...
階下へ降りたところでダネ・ガイタニは立ち止まり、耳をそばだてた。サンダルのかかとを忙しく、規則正しく鳴らす音が聞こえてきたからだ。
その拍子の一つ一つすべてに彼は、何かしら生き物をあてはめることができた。羊、山羊、牛、馬、騾馬・・・
ご婦人たちの誰であるか、それを区別することは、最初に鳴らした音を聴くだけで、もうじゅうぶんだったのだ。
ああ、これはあの女だな。調子のとれた靴音を聴きながらダネは思った。よくできた詩の一節を読み上げるような感じがしたからだ。
彼は朝や夜の静けさの中、聞こえてくる女たちの足音に耳を澄ますことが好きだった。その靴音の中に彼は思い浮かべることができたからだ。魅惑的な太ももやふくらはぎを、皿に盛られて揺れる卵のようになめらかで丸みをおびた腰を、その内側に刺をひそませて不安気に上下に揺れる胸を、やわらかく前後に動くすべすべした腕の先を・・・朝方にはその足音が、彼にとっては夜の夢の続きにさえ思われた。また夜にはその足音が、昼間のこまごましたこと、やっかいごとを忘れさせもしたのである。
で、そんな靴音がいきなり上の階から響いてきたものだから、彼は立ち止まり、耳をそばだてていた。
それからひとり笑いして手をぶらぶらさせ、はおっていた背広をわきへやりながらつぶやいた。価値、剰余価値、その他の基本法則、か。
そうしてつぶやいている内に彼は、その調子のとれた靴音がだんだん明るく、はっきりとしてきたことに気づいた。彼女が近くにいる、彼は思った。が、振り返りはしなかった。
と、
「ダネ・ガイタニ先生!」
と呼ぶ声がした。
彼は振り向かず、そのまま立ち止まった。声の主はリタ・クツカであるとわかっていた。
しかし、彼女が何の用だ?
確かに俺はつい今しがた、あの知的な交流の場に居合わせたのだがな。彼は見じろぎもせず考えた。
リタもそうだが、ああいう今風のご婦人方は、口を閉じているかと思えば口を開き、しなやかに身体をのばして振る舞うかと思えば虎のように荒々しく、優雅に見えて時には蛇とかげのようにがさつで、求めて退屈な社会のしきたりに従順としているかと思えば、好んでけたたましいおしゃべりの喧騒に興じていたりもする。
そうして浅はかな知恵と、顔やら手やら足やら胸やらを不釣合いに動かすしぐさとで、けらけらと笑うのだ。
しかもそういう享楽の類が、驚くべきことに、この首都にあっては、どうやらとても大切なことらしいのだ。
これは笑うべきことだ。しかしみずからを凡庸なものにおとしめるような言動には、深刻な気分にもなる。前から見るとでかい三角形で、後から見ると人の肉でできた鋤鍬のような、ややきつめのサンダルをつっかけて、土鋤き馬につけるくびきのようなベルトを締めて、寝起きのようにぼさぼさの髪型をして、睫毛やら目のふちやら眉毛やらを妙な色に染めて、女性らしい顔を台無しにして・・・
だがリタのような女性はきっと、自分自身をおとしめるような振る舞いはすまい。むしろ優雅な魅力をかもし出すべく、中庸を保とうとしているだろう。
いやしかし、そんな彼女でさえ、別な部分ではおのれを駄目にしてしまうのかも知れない。粗雑で陳腐なおしゃべりをしたり、気どったふりをしたり、道徳も放り出して、恥知らずであけすけなものの考え方をするのかも知れない。きっと政治的姿勢も無難なものなのだ・・・抗議はするが、誰に対して抗議しているか自分でわかっていない・・・そうして彼女もこのダネ・ガイタニを笑いものにするのだ。
「ダネ・ガイタニ先生!」
ふたたびリタの声が聞こえたが、彼はその毛の生えた鼻先を見せるのが怖いのか、振り向きもせずその場にただ立ち止まっていた。
「あんたも、わしの鼻の毛で保養をなさったんでしょうな?」
ダネは前を向いたまま言った。
すると、リタがかん高い笑い声をあげた。そこで初めてダネはうしろを振り向いて、リタの方を見た。
鹿のようにしなやかですべすべした肢体が、すぐ近くにあった。リタは腰に手をあててダネの方を向いていた。その姿勢は、まるで二人が昔からの知り合いのようで、しかも彼女の方が、この美しき女性に対する男の無遠慮な振舞いを叱責しているかのようにも見えた。
「まったく」ダネが言った。
「うしろを向くのも大儀なことですわい。十五の頃からこういう風なんですがね、それがわしの鼻から毛がのび始めた頃なんだよ。
昔は恥ずかしくて人前に顔を出せなかったもんだ。みんなわしを見るなり『鼻毛野郎』と言いやがるんで、恥ずかしくてうしろを向いたまんまでかい声でしゃべらにゃあならなかった。顔を見せたくなかったからね。
わしにそういう癖があるんだって、わかったでしょうが?」
「私、あなたの鼻毛、好きよ」
リタはわるびれもせず、ごく自然に、何の気どりも見せずに答えた。
「お嬢さん」ダネは口を開いた。
「そんなおほめのことばを女性からいただくのは初めてですな。あんたのようなご立派なお嬢さんは、鼻だの毛だの口にするもんじゃあありませんよ。もっともわしはこの毛とずっといっしょにやってきましたがね。そんな毛だったら、他のところにもどっさりありますぞ」
するとリタは顔を真っ赤にして笑った。
「これはまた飾り気のない娘だ」ダネはそう思った。
「ヂェラディン・アポロニア教授の部屋であなたがおっしゃったこと、本当に素晴らしかったですわ。つまりその、たいそうエスプリがおありなのね」
とリタは言った。
「あの部屋で素晴らしいことなんか私はやっちゃいませんよ。
あんたはわしをかいかぶってる。偉い先生方の中にいきなり入っちまったもんで、わしは居心地が悪かっただけなんだ。くだらないことをしゃべっちまったが、あんたにはそれが何か特別なことに見えたんでしょうよ。
頭のいい連中の中であほなことを言えば、何となく特別に見えるものなんだ。だがね、特別かも知れないが、しかしこれっぽちも大したことじゃないんだよ。
あんたにはね、お嬢さん、わしが賢い男じゃないってよくわかってるだろう。
わしはもう五十になる。二十歳の頃から、自分があほだと思っていた。そしていやはや、今もとんだまぬけときた。何か変わりがあったといって、てんで大したもんじゃない。わしの年頃にはありがちなもんでしかないんだよ。
それに引きかえりゃ、あちらの先生方はまったく賢い方々ばかりだ。
いいかね、『お嬢さん』」
ダネはやたらに「お嬢さん」ということばを使っていた。
「わしの人格をこんな風にねじ曲げてしまったのはね、わしの鼻にはえてるこの毛なんだよ。あんたのお気に召したという鼻毛がだよ。
ほら、ほら!お笑いなさんなよ!あんたがひねもす『鼻毛野郎』と呼ばれたらどんなだね。ひとつ考えてみなされよ。ああまったく、そりゃ『お嬢さん』にはひどい責め苦だろうよ。
これが田舎なんぞに住んだ日には、ああいうところの連中はあだ名をつけるのが好きでしょうがないたちだ、こんな目立ったところのある者を放っておくもんかね。
田舎であだ名をつけられるってのはね、ひまつぶしの、なぐさみものに使われるようなものなんだよ。
鼻っつらの先から内側までのびてる毛をなくそうと、わしがどれだけ苦労したことか。まだガキの時分には、一日二回毛を剃ってみた。
だがわしは馬鹿だったよ。毛ってのは、剃れば剃るほど増えちまうものなんだな。牧草とおんなじで、刈り取った先からどんどん、前よりびっしりとはえてくるんだ。
そのはえてきた毛ときたら、まるで牧場の草だったよ!前より濃く長くのびた毛を見て、田舎の連中は言ったもんさ。
『おい見ろよ、ダネの奴を!またまた鼻からおっ生えてるでねえか。ありゃあ晩にはおふくろさんが鋏で刈りとるんだろうよ、なあ?』
それも、男ばかりじゃないんだ。田舎じゃあ女たちもそういうことを言うんだよ。わしを見れば、口を手でおさえて笑ってるのさ。
『ひ、ひ、ひ!ダネの鼻ったら、毛だらけじゃないのさ。まるで・・・』
そうしてろくでもないことばを口にしやがるんだ、どんなことばかは言いたくもないがね。
それで、亡くなったおやじが、わしを医者のところへ連れていってくれた。毛を取り除くような薬が何かあるだろうと思ったんだな・・・
医者は言ったよ。鼻を切り落とさない限り、毛がはえるのを止める方法はないんだとさ。
おやじが気の毒そうにわしの顔を見るので、わしは穏やかじゃなかったね。するとおやじはこう言ったのさ。
『おまえはこの鼻の毛に誇りを持て、こういう人間は珍しいぞ、これはおまえが活力にあふれて、みのり豊かであることのあらわれなんだからな』
まったく、何ておやじだい!この鼻毛が、みのり豊かであることのあらわれだとさ、いまだに結婚もできないのに!仮に結婚していたとしたら、相手の女性は何て言われるだろうな。
『鼻毛野郎の女房』
な、『お嬢さん』や。あんたがわしといっしょにいるところを人に見られでもしたら、そいつらはあんたを指さしてこう言うだろうさ。
『鼻毛野郎の彼女が歩いてるぞ』」
リタはうなずき、ほんの少しだけ微笑んだ。
「今、うなずいたように見えたがね?」
ダネ・ガイタニは訊ねた。
「そう!はかりしれない収穫を、わしはこの鼻の毛から手に入れたんだよ。
わしのことをずっと愛してくれて、そして今だって愛してくれているのは、かわいらしくて野蛮な動物たちなのさ。そしてそういう動物たちの鼻には、毛がもじゃもじゃ生えているものなのさ。
結局とどのつまり、愛してくれるのは人間より動物なんだってことだよ。
人間なんて、階級闘争だの、陰謀だの、嫉妬だの他人様の噂話だの、利権・特権の類だのにかかずらってばかりいるんだ。ソティル・クツカみたいな学者先生に何の価値があるっていうのかね?おっと失礼、ソティル・クツカはおまえさんのご兄弟だったね。
『価値、剰余価値、基本法則』なんて論文でひゃっぺん唱えてる人間より、雄山羊の方がずっと魅力的だよ。雄山羊がどんなに素晴らしいか、おまえさんご存知かい?どんな名誉ある大先生だって、彼にはかなわないさ」
ダネ・ガイタニはそう語ると、イルカのようにまるくすべすべしたリタの背中のくぼみに思わず知らず手をのばし、その臀部がふたつに割れるところまで手をおろしていった。
リタは最初のうちこそ、子羊のようにおとなしくしていたが、そのうちダネ・ガイタニの手に刺でもはえていたかのように飛び上がった。それでダネは、まるで焼けた石炭にでも触れたかのようにあわてて手を放した。いや本当に、彼女の尻には焼けた石炭があった・・・
「どうか勘弁してくれ!やっぱり、わしは阿呆な男なんだよ。急に手が、言うことを聞かなくなっちまった」
「こういう類の女は、結局のところ、うわべほど現代的じゃないんだな」ダネは思った。
こういう女性たちの現代的というのには限界があって、それはせいぜい彼女たちや、彼女たちの連れが着飾るつくりもののお行儀の良さまででしかないのだ。そしてひとたびその限界を超えてしまうと、現代風という見せかけを放り出し、普通らしさという衣服も脱ぎ捨ててしまうものなのだ。
彼女たちにとって現代的というのは、ホテル「ダイティ」だのホテル「ティラナ」だのに足しげく通い、煙草をふかし、外国の新聞を読み、文明社会についてじっくりと語り合うような連中のことなのだ・・・[『ダイティDajti』と『ティラナTirana』はアルバニアを代表する高級ホテルで、首都ティラナで現在も営業中。ちなみに社会主義時代、外国人の宿泊可能な施設はこの二つに限られており、ホテル内のカフェはアルバニア人特権階級のサロンでもあった]
「気分でも悪いの?」
リタがほんの少しだけ朱を増した顔色で訊いた。
ダネ・ガイタニは背広を反対側の肩にかけなおしながら答えた。
「何でもない。ちょっと考えごとをしていたのさ、理性から理性へと渡り歩いてね。理性のジャングルの中では、明晰な思考を見失って、具体的現実的に生きていけなくなりがちだよ。あんたがわしに気分が悪いのかと訊いた時、わしは、女性の現代的であるということの真髄を、あれこれ思案していたのさ」
リタは興味津々な表情でダネを見つめた。
「で、どういうお考えなんですの?」
ダネは悪びれもせず、先ほどまで考えてきたことを説明してみせた。するとリタは言った。
「それは違うわ。私には、『ダイティ』の連中よりあなたの方がずっと現代的に見えるの」
こう言うと、リタは少しの間黙った。そして自分でもなぜだかわからないが、ため息をついた。それは、魔法でじゅうぶん発酵させた特製の生地から作られたこの人間にも、弱みがあるかのような姿だった。
「おまえさんがため息なんぞついてるのは、燃えるような思いでわしのことを知ろうとしてないからさ」
臆面もなくダネはそう言った。
「毛むくじゃらの悪魔」
リタは返事をするかわりに、心の中でそうつぶやいた。しかし実際のところ、何と返事をすればよかったのだろう?
リタはダネが暮らす村へ行ってみたいと思った。彼の家におじゃましたい、どんな生活を営んでいるか見てみたい、そう思った。人はことばだけでは理解できない、家まわりや台所、仕事部屋、寝室の調度や、訪ねてくる友人たち、テーブルに皿にスプーンに、壁の写真・・・そういうものもあって初めてわかるのだ。あらでも、彼の部屋の壁に自分の写真をかけてもらいたいなんて、何と言えばいいのかしら。
「ばかみたい!」
リタはひとりつぶやくと、笑い出した。しかし
「何がおかしい?」
と言われて戸惑った。
「いいえ別に。
私ね、ある医師団に加わってコルチャ[Korçë アルバニア南部の古都]に行くことになってるの。あなたの村にも行けるわね」
そう言ってリタはダネ・ガイタニにまっすぐな視線を向け、自分のことばが相手の表情にどのような力を及ぼすか見つめていた。
するとダネは自分の鼻の毛に手をやって言った。
「よく考えたもんだ、恥ずかしげもなく!まるで新人作家だな。医師団なんて、あんたのつくり話だろう。いや仮にそんな医師団があったとしても、あんたは参加しようなんて思ったこともないんだろう」
彼女は自分の顔が赤くなっていないかと、思わず手で口元を押さえ、そうして顔色を元に戻そうとした。
確かに、彼女はその医師団に参加しようなどとはこれっぽっちも考えていなかったし、医師団のことも知り合いから聞いたに過ぎないのだった。この鼻毛の悪魔は、そんな罪のない軽い嘘まで暴き出すのだ。
ダネ・ガイタニは背広を肩に羽織ると、リタとの長ばなしにうんざりしたような体で時計を見た。そして低い声で言った。
「つくりものか!」
リタは侮辱された思いでいた。男性にこれほど恥をかかされ、思いをみすかされたことは、彼女には一度だってなかった。まるで、催眠術の魔法のような視線で、しかも世間一般の道徳の枠組みをぶちこわすようなぶしつけさでだ。
「あなたは、いったい何を怒っているの!」
ダネが沈黙したので、リタは言ってみた。
「ふん!」
とダネは答えた。
「わしにはな、あんたも、何もかもいらいらするのさ。そう、みんなさ。学者も、女も、指導者連中も、道路も、町も、通行人も・・・どこでもここでも目に入るのは、正体を隠したおしゃべり屋と偽善屋ばかりだ。失敗を成功と言いたて、でたらめな経済・社会の法則を理論の基礎に置き、それによって貧困を正当化し、そんな法則や原則を、肉やミルクやチーズやジャガ芋のかわりに、店のショウウインドウに並べていやがる・・・おしゃべり屋と嘘つき屋のジャングルだ!そしてそのジャングルに、あんただって住んでいる・・・」
ダネ・ガイタニがそんなことを大きな声でしゃべったので、すれ違った三、四人がこちらに視線を向けていた。
「あんたには、今聞いた話は現代的じゃないんだろう!あんたにとって現代的ってのは、ヂェラディン・アポロニア教授の書斎に、ヴィーンで治療するような娘の扁桃なんだよ。あんたにとって現代的ってのは、『ダイティ』にたむろするやさ男たちのおしゃべりなんだよ。そこのカフェではコーヒーが50レクもするが、それは、羊や牛の鳴き声もしないさびれた家畜小屋で働く農民の日給と同じ値段なんだよ[社会主義時代のアルバニアで大衆向けのカフェのコーヒーは2レク程度。ちなみに都市労働者の月収は600~800レク。当時の外貨比率で換算すると1レク≒20円。なお、現在は1レク≒1円]。会議だの学会だのでやかましいおしゃべり屋と軽口たたき屋の鞄には、薄っぺらい思想とめちゃくちゃな哲学で裏打ちされた論文の束が詰まっているんだよ」
ダネは歯ぎしりしながらしゃべり続けていた。
「もうやめて!」
リタが手で耳をふさいで叫んだ。
ダネは彼女をその場に残したまま、麦わら帽子を頭に載せ、背広を肩にかけ直すと、あらゆるものへの敵意を自身の中に抱えながら歩き出した。彼はリタの方を振り返って見ようともしなかったが、彼女の混乱ぶりには気付いていた。
不意に哀れみと悲しみがわき上がってきた。ヂェラディン・アポロニア教授の本だらけの書斎が、二人のへつらい屋、外見から中身までそっくりなソティル・クツカにズュラプ・カンダリが、そして三人のめかし込んだ女性たちが、経済の基本法則に関するやりとりが、ヴィーンでおこなわれているという扁桃の手術をめぐる誇らしげな会話が、頭の中でぐるぐる回っていた。
治療に必要な血清もなく、28歳で死んでいった村の若者のことを思い出した。イリルという名だった。あの教授の娘の名もそんな風だった、たしか、イリリアナだったかな。
「何てこった」
ダネはため息をついた。こんなのが、俺たちの人生なのか?
背広を肩にはおったまま外へ出てみると、人の姿も見えず、まるでトリチェッリの真空の中へ出たようだった[『トリチェッリの真空』は理科の教科書に載っています]。何も感じず、風もなく、目に入るものさえなかった。
そう、畑のパプリカが実る頃だ。だがどの家にも、それを炒める油もバターもない!
村の農民たちは、ひとかけらのパンをかじり、砂糖か酸い糖蜜を入れた水を飲んで朝食を済ませている。そしてそんな暮らしをさせているのは、経済の基本法則とやらを扱う、国の学会なのだ。
通りには、村へタネつけ用の精液を運ぶ自動車が待たせてあった。そしてダネ・ガイタニは、厄介と面倒だらけの味気ない日々へと戻っていった。