学会開催の前日、ヂェラディン・アポロニア教授の書斎にはいつもの友人たちが集まっていた。科学アカデミーの特別会員、ソティル・クツカにズュラプ・カンダリの小物二人も来ていた。そのやんごとなき妻、アデリナにアニフェヤも来ていた。そして、気高く微笑みをたずさえた、かのリタも来ていた。すでに論文を書き終え、あとは若干の手を加えるだけということで、学者たちもうちくつろいだ様子だった。男性陣は長椅子に腰かけて脚を組み、しきりに手を動かしながら、会話の端々に知的かつ賢明なことばを織りまぜようとつとめていた。いわく「文明」「過程」「競争」「不寛容」「構造」「基盤」「手続き」「継続性」・・・
こうしたことばの数々が学者たちの辞書の紙面におどるようになったのは、アルバニアがかつてないほどに飛躍を遂げた、ここ最近のことである。そして言うまでもないが、こうした躍進のはじまりの時期に新しいことばが辞書の紙面におどるというのは、さながら、暖かな微風にあおられてさざめく湖面で小魚たちが飛び跳ねるようなものなのだ。紙面から飛び出したこれらのことばは、見えざる力でいとも軽々と、下方より上方へ飛び上がろうとするような勢いを見せる。そしてそのようなことばでもって学者たちは、何かしら耳慣れない、尋常ならざることを告げてまわるものなのである。
そういうわけで、かの有名な「はじめにことばありき」というのも、まんざら意味のないことを言っているわけではないのだ。
さて知的なことばのやりとりを終えた学者たちは、自分たちが訪れたヨーロッパの国々のこと、その進んだ経済状態、そのブルジョア民主主義について、アルバニアとヨーロッパで機能する経済の諸法則とからめて、あれこれ論じ始めた[言うまでもないが、当時アルバニアの外に出ることのできる人々は極めて限られていた]。経済の諸法則、とりわけ原則的なそれは、アルバニアにあっては他のヨーロッパ諸国よりも堅実な基盤の上に置かれている、それは事実にかんがみても当然なことだと彼らは考えていた。それらの法則はマルクス・レーニン主義的客観性から導き出されていて、物価を安定させ、度し難く腐敗し没落に瀕した資本主義が生み出す失業をも克服するからである。
「生産の計画と、調和のとれた経済諸分野の成長は、偉大な成果をもたらす。自然さえも計画のうちにある!それさえも、諸分野の調和のうちにあるのだ!野蛮に満ちた世界を把握して、その機構を明らかにするのだ!この世界は計画されている。例えば:男と女はそれぞれどれだけ必要か、ということさえもね。こうした計画は他の種にも適用される。兎、熊、狼、猫はそれぞれどれだけ必要か。また、一定の領域内に鼠はどれだけ必要か。自然の計画はきわめて中央集権的なんだ。
中央集権主義を問題にする輩もいるが、まったくお笑いぐさだよ!中央集権というものがなければ、生産には無秩序がはびこり、インフレが激化し、それは経済全体を席捲してしまうだろう」
ヂェラディン・アポロニア教授はそこまで語ると、窓の外の美しい景色を指さした。そこには、文化的なおもむきの女性達が、散歩を楽しんでいた。
「まあ、先生はどちらでそんな表現をお考えになったのですかしら!」
アニフェヤが、肉づきのよい手にリキュールのコップを持ったまま、感嘆の声をあげた。
「それに、うるわしいおことばですこと!」
アデリナが雪のように真っ白な首を見せながら、もの憂げに身をくねらせた。
一方ソティル・クツカはというと、コニャク(それはヂェラディン・アポロニア教授の健康を祝して用意したものだった)を一杯かたづけるかかたづけないかという辺りで、がたがた震え出した。ヂェラディン・アポロニアがそれに気付いて声をかけた。
「どうかしたかね、ソティル君?」
「いやはや何としたことか」ソティル・クツカはかよわい表情と声で教授に答えた。
「はっは!私にはわかりますよ、この震えの理由がね!」とズュラプ・カンダリが狐にも似た表情で、謎めいたことを口にした。
人間と動物が似ているといっても、それは特におかしなことではない。熊に似た人もいれば、牛にたとえられるような人だっている。河馬に近い人だっているし、狼かライオンと見分けがつかない人さえいる。それは普通なことだ。我らがソティル・クツカとズュラプ・カンダリは狐にそっくりだった。ただし、狐の聡明さにちなんでそう言われているわけではないのだが。
「ソティルは明日、経済計画の論文を発表するんですよ。先生がさっきのようなことをおっしゃるから、論文のことを思い出して不安になったんでしょう。あまりよく書けていないと思ったんでしょうな。ですが、先ほど先生がご披露になったお話で、何か新しい独創的な考えが浮かんだ、ってところでしょうか」
ズュラプ・カンダリは説明した。
ヂェラディン・アポロニアはそれを聞くと、自分のことばがもたらした素晴らしい効果に満足し、うなずいてみせた。そして
「うん、そうかね?」と訊ねた。
ソティル・クツカは手にしていたコップをテーブルの上に置くと、まだがたがた震えながらヂェラディン・アポロニアの方を向いた。
「いやまったく、ありがたいことです!先生のお話は、自然の計画性に関する独創的なお考えですなあ。先生のご教示のおかげで、私の論文の水準も格段に上がろうというものです。なかでも驚嘆すべきは、経済計画を自然の均衡と比較なさったという点でして・・・ほっほっほっ!」
そう言ってソティル・クツカは手を擦り合わせてみせた。
ヂェラディン・アポロニアは目許がうるんでいたので、指先でふいた。それからレーニンのごとく腕を脇の下に挟むと、大きな声で笑った。そうしてハンカチを取り出してまた目許をふくと、ソティル・クツカに向かって言った。
「この考えはね、ソティル君、君が使ってもかまわんよ!うまくいくようにやってくれたまえ!これで論文もできあがりだ、学会も成功、聴衆も驚嘆することになるだろうね」
ソティル・クツカは抱擁されて、ワイシャツの襟どめまでも赤面しそうになった。そして口をぱくぱくさせて、自分に素晴らしい着想を授けてくれたヂェラディン・アポロニアに何か言おうとしたが、感謝のことばが見つからなかった。
彼は自分が学会の会場で論文の内容を発表する様を思い浮かべた。それから[労働党の]政治局の面々、我が国の高名な人々の顔、自分に向けられるテレビ局のカメラ、ラジオ局のマイクを思い浮かべ、全身に喜びがわきあがってくるのを感じていた。では自分の発表を聴いている人々の様子をば、見てみようではないか:
『しかも、この大いなる自然界には、見えざる計画が存在するのです!』この考えを披露すれば必ずや、聴衆の学者たちは驚嘆の声をあげ、拍手という名の高価な贈り物を自分に捧げてくれるに違いあるまい。そして休憩時間の会場内では一躍、話題の中心となるのだ:
『君のような思想家こそが、我々には必要だ』
しかしその喜ばしい想像も、悲しい現実にとってかわられるのだった。ヂェラディン・アポロニア教授が学会を主催することになっている。ということは、開会に際してこの人は、自身のことばで、件の着想を口にしてしまうのではないか?
ソティル・クツカは、ヂェラディン・アポロニアの薄情さを示すような場面をあれこれ思い浮かべていた。一度など、ある会議の場でヂェラディン・アポロニアはズュラプ・カンダリの研究を誉めそやしたかと思うと、別の学会ではそれを公然かつ激烈に罵倒した上、棄却してしまったのだ。
「あ、私、何か言いました?」
ソティル・クツカは我にかえって訊ねた。自分がそれまでの空想を大声で口にしていることに気付いたのだ。
ヂェラディン・アポロニアは両手を広げて
「いやいや、君は何も言っとらんよ」
と答えた。
ソティルの妹リタは、掃除機が吸い込んでいくような視線を兄に向け、その唇から攻撃的なことばを吐き出したが、それは居合わせた他の連中にも聴こえたらしかった。
「え、何?」とリタの兄が言った。
「インポ野郎!」リタは、彼のキャベツの皮みたいな黄緑色の耳元に唇を近づけて、低い声で繰り返した。
ソティル・クツカは飛び上がった。この恥知らず、そんな・・・非合法な・・・ことばを使いおって!こいつはいつだって、自分を兄として慕ったためしがないのだ。妻のアデリナとも、たちの悪いかけすのように言い争ってばかりじゃないか[アルバニア語grifshë『かけす』は『口やかましい女』の意]。この俗物にはまったく手のつけようが・・・
で結局、男性陣の話題は、先ほどの話ほどの広がりはなく、大して面白くもないものへと移っていた。それは、彼らのうちの誰かが、ティラナ市内でダネ・ガイタニを見たとかいう話であった。
「でね、あいつが誰といっしょにいたと思います?」ソティル・クツカが口火を切った。
「うん?」ヂェラディン・アポロニアが訊ねた。
「『子供の家』の所長女史なんですよ」
ソティル・クツカが答えた。
「でもねえ、子供なんて、あのダネ・ガイタニにいたかしら?」
とアニフェヤが横目でリタの方を見ながら言った。
リタはいらいらしたように髪をかきあげて、自分がこのおしゃべり屋どもをつくづく気に食わないのだということをわからせようとした。
「ああら、あたしたちったらダネのことなんかよく憶えてないじゃないの」アデリナはもの憂げにそう言うと、真っ赤な唇をゆがめてみせた。
リタは軽蔑を込めて、この台所に巣くう類のうっとり屋の大喰らい女をにらんだ。アデリナは義妹の軽蔑に満ちた視線に気付いて
「あら、あなたには結構だったかしら、こういう話って?」とため息まじりにつぶやいた。
「結構よ!」リタは冷たく言い放った。
「でも何といってもあの人の鼻毛ったらねえ・・・」
と言って、むちむちのアデリナはのろのろと首を傾げた。
「私には、あの人の毛だらけの鼻の方がずっといいわ。あなたのからっぽなおつむに比べればね」
リタは義妹に向かって言い返すと、顔面の右側、美しい鼻先の辺りを神経質にぴくぴく震わせた。
そのやりとりを聞いていた一同はうなだれて、どうしてこの話を切り上げたものか、と途方に暮れていた。
ソティル・クツカは不安におののいていた。以前から、この猫と鼠のような関係の義姉妹同士に、何かしら争いが勃発するのではないかと思っていたからだ。学問の世界では皆アデリナをかばって、彼女の精神的肉体的愚鈍さについては大目に見るようにしていた。だがそのことが、名高い知識人の集団にみずからを溶け込ませようとしながら、結局のところ知的なご婦人を妻にするに至らなかったソティル・クツカという人物の立場を、ますます低からしめることにつながっていたのだ。
明らかに、このおしゃべり屋たちこそが、ソティル・クツカの立身出世に影響を与えていた。それは効き目の緩慢な毒薬のように、彼のアカデミー入会の可否に影響しつつあった。彼の人生とは『特別会員』どまりなのだ。
『こういう無駄なことは、しばらく放っておいて、と』ソティル・クツカは考えた。
『あの二人は手に負えんよ!大体だな、リタのあの、俺に対する軽蔑に満ちた態度は何のつもりなんだ?鼻毛野郎のダネ・ガイタニには好意を寄せるくせに、俺のこととなるとまるで低く見て、馬鹿にしているんだ。あいつの言うことなら雄々しいだの何だのと持ち上げるくせに、俺のことは老いぼれの種なし野郎だと言うんだ。
犬が俺のナニを喰っちまっただと!俺のはだな、学会だの文壇だの、選ばれた人たちだの都会ものだの、上流家庭だの高級クラブだの、社会の上の連中ばっかりいる場所ではちぢこまってるんだ。不安や羞恥心が出てきても、心に自信を持って乗り切ろうとするさ。でもたまにはその自信が揺らぐことだってある。ヂェラディン・アポロニア先生の前で科学や歴史や芸術や新旧の文明について話をしていると、何かヘマをしでかすのではないかと不安でたまらないんだ。
ある時、ネタ夫人が仕事に出ていた時のことだ。リタは先生の書斎にこもっていた。新品の長椅子に隣り合って座って、あの二人はお互いにうつろな眼で見つめ合っていたんだ・・・』
ソティル・クツカは、その時のことを忘れることができなかった。彼がヂェラディン・アポロニアの書斎で目撃したのは、髪も乱れ、顔も真っ赤な妹の姿だった。何か重大なことが起こって、彼女は兄が来たことにも気付いていないようだった。ヂェラディン・アポロニアも呆然とした体で、ソティル・クツカの方に目を向けるのがやっとというありさまだった。
明らかに二人の間に何かがあったのだ。そう、何かしら色恋沙汰が・・・
この事態にソティル・クツカは、自分が何の用でやって来たのかということまで忘れてしまった。しばらくその場に立ち尽くした後、リタに起きるようにと促した。ヂェラディン・アポロニア教授は昼食を食べていくよう勧めたが、ソティルとリタは何かしら理由をつけて辞去した。
ソティル・クツカは道を歩きながら、妹に何と声をかけたらいいかきっかけがつかめずにいたが、我慢ができなくなって言った。
『人生にはいろいろある・・・いろいろ・・・それは自分にとってもさまたげになる・・・おまえにもわかるだろう・・・人間には魔がさすこともある。論理的な思考が、感情に流されてしまう。そして、後悔するんだ・・・』
『私は後悔なんかしてないわ!・・・今日は、今日だけは先生のことが好きだったの。明日はわからないけど・・・』とリタが言った。
『何てことを言うんだこいつは・・・』
ソティル・クツカはそれから家にたどり着くまで口を開かなかった。
リタにとっては大したことではなかったのだ。コップもろとも中身まで飲み込んでしまおうというつもりだったのだ。
リタは恐れる風もなく、恥ずかしがる気配も見せず、ヂェラディン・アポロニアの書斎への出入りを続けた。ソティル・クツカとズュラプ・カンダリの妻たちは顔を寄せ合い、リタの恥知らずなふるまいと、五十代の学究のよろめきについてささやき合った。
リタは勘付いていた。アニフェヤとアデリナの表情からは、目つきや顔の筋肉の震えや唇の端の動きによって、秘密の話も気付かれるようになっていたのだ。もちろんリタの前でそんな話はしなかったし、知られる気づかいもないと思っていた。しかしある時は顔の表情から、またある時はリタが不意に入ってきた時の慌て具合から、そしてまたある時は不注意なこそこそ話から、秘密はすっかりばれていたのである。そんな見せかけばかりの態度にリタは苛立ちをおぼえ、機会さえあれば、そのとりすました化けの皮をひっぺがしてやろうとさえ思っていた。
この、天使のようにすましこんだ豆粒どものことを、リタは頭のてっぺんから足の先まで知り尽くしていた。他人に何か奇態なことが起こるや、彼女らの塗りたくった唇の先からは、男女の身体各部とベッドの上でのありとあらゆる肉体的快楽と男女の生殖器官をめぐる下品で恥知らずなことばの数々が、ボッカッチョの「デカメロン」もかくやと思われるほど豊富な逸話の類をとりまぜて、あふれ出てくるのだから。
ある日も、リタは彼女らのあけすけなやりとりの場にちらりと目を向けた。すると彼女らはひとしきり押し黙ったが、それから目配せしてささやき合った。
「ね、世間ってそういうものよね!ねえ・・・」
リタは、七月の蜜蜂のようなくびれた腰に手をあてた。彼女のスカートも緑とレモン色で、これまた蜜蜂のような黒茶色の縞模様が入っていた。
「続けなさいよ・・・どうして途中でことばを呑み込むのかしら?ことばを呑み込んでおなかも一杯ってところ?」
アニフェヤとアデリナの顔にさっと朱がさした。
「えっ・・・あのね、私たちにも秘密があるってことなんですのよ!ことばだってね、女みたいなものなのよ。裸で人の前になんか出せないの」
「私はね、そのことばを素っ裸にしてやりたいのよ。ヂェラディン・アポロニア先生とネタを別れさせてやろうと思ったことだってあるわ。そして私が彼と結婚するのよ!そうしたらあなたたちは、私のスカートのうしろで舌なめずりするんでしょうね。だって、私は学者夫人になって、あなたたちの夫まで手に入れるんだから」
リタは答えた。
アニフェヤとアデリナは口をぽかんとさせていたが、やがてげらげら笑い出した。
「まあ、おかしくって死んじゃいそう!あーはっは!おっかしい!」
アニフェヤは肉づきのよい膝をばちばち叩いて笑いながら言った。
リタは腰から手を放すと、彼女たちのいるところの反対側にある兄の書斎(そこにはめったに入ったことがなかった)の、毛皮のソファに腰をおろした。
そう、それは覚醒の瞬間だった。リタの全身はまるでぴかぴか光っているようだった。誰かがうっかり触れようものなら、大火傷を負ってしまうだろう。目は病気で熱を帯びたか、八月の熱波にあてられたかのように、ぎらぎらとしていた。
「このあばずれ女!能無しども!あんたたちは毎晩毎晩、夢魔に犯られてればいいのよ。他人が見てさえいなければ、煙突掃除夫とだって楽しんでるんでしょうが!」
リタは、焦点の定まらない目つきで支離滅裂なことを口走った。
義姉であるアデリナは、スカートからのぞく二つの膝の上にぼんやり手を置いていたが、リタの視線に気付いたので、男の前でなら出しっ放しにするはずの真っ白な太ももを隠そうと、スカートのすそを引っ張った。
「やだ、ぞっとしたわ!」
彼女はのろい口調で言った。
ちょうどその時、玄関のドアが開いた。ソティル・クツカが仕事から戻ってきたのだ。
アニフェヤとアデリナは、長いこと毛皮のソファに座っていたためにしわがついてしまったスカートのすそを引っ張りながら、立ち上がった。それに続いて、鹿のような長身のリタもソファから立ち上がった。
ソティル・クツカはさっきサロンで顔を合わせたばかりだったので、彼女たちが立ち上がるのを見て、少々うんざりした。彼は、女たち、特に自分の親友であるズュラプ・カンダリの妻アニフェヤとのつきあいは、ごく少なめにしておきたかったのだ。その匂いをかぐことも含めて。
「いいから、いいからそのままで・・・」
と言いながら彼は札入れを置き、黒いビーズ玉のようにちいさな眼をくりくりとさせた。
「お待ちしてましたのよ、ソティル。ズュラプも来ることになってるんですけど、ご一緒じゃありませんの?」
アニフェヤが色っぽく、甘えたような口調で訊ねてきた。
「ええ、いつだって一緒ですとも!」
ソティル・クツカは、心からの笑みをたたえて答えた。
アニフェヤはソティルと握手を交わして部屋を出た。リタは自分の部屋に戻ったが、それを見るやアデリナは、夫ソティルにこの義妹のことをひそひそささやき出した。もっともそれは、ソティルもまんざら知らない話題ではなかった。
彼は妹のことをよく知っていたし、妹が結婚しようとしないことは彼にとっても頭の痛い話であった。それはすでに家庭内の大きな問題となっていて、家の中の隅々に暗い陰を落としていた。彼女がたまたま留守の時でさえ、いずれそのうち戻ってくるのだと思うだけで、不安と憂鬱をひき起こした。
ソティル・クツカは、妹が家を出てくれるように、アパート探しに奔走した。しかし彼女には、兄が探してくるものはことごとく気に入らなかった。やれ街の中心部から遠いだの、気持ちが悪いだの、壁がゆがんでるだの、天井がでこぼこだらけだの・・・
そんなことを考えているうちにソティル・クツカの心は、自分の妻と妹の衝突が勃発しようかという時であるにもかかわらず、ヂェラディン・アポロニアの書斎を離れていくのだった。
衝突が勃発すれば、家の中は大いに緊張する。両者は頭を引っ込め、腰に手を当て、肘を突き出して何も言わずに小突き合った。だがそれは対決の第一幕に過ぎない。それはさながら競技のようでもあり、あるいは民俗舞踊のようにも見えるのだ。ソティル・クツカはその様子を黙って盗み見ながら、さりとて止めに入ろうともしなかった。いつぞや自分がつまらないことをうっかりだらだらと喋ってしまったがために、女たちの逆襲を喰らったことがあるからだ。
肘による小突き合いがひと段落つくと、二人は腕を下ろして正面から向かい合い、しばらくは互いに口もきかなかった。まじろぎもせず、互いに品定めでもするかのように激烈ににらみ合っていた。それからまた腰に手をあてると、さらに小突き合いながら、下品であけすけなことばをぶつけ合った。
アデリナは、リタがヂェラディン・アポロニア教授とひとしきり書斎にこもって、お楽しみにふけっていたことを思い浮かべた。それでリタのことを、現代的な女性を気取ってティラナの上流階級にもぐり込み、学者たちとよろしくやっている「あばずれ女」だと言った。そしてそのありさまを、指折り数えながら一つまた一つとあばき立て始めた。黒毛の売女だの、飲んだくれだの、でかっ尻だの、けだものづらだの、太股びちびち女だの・・・リタはというと、その様子を、つんとすました表情で眺めていた。
「黙っているに限るわ、こうして無視していれば、ことばを無駄遣いする必要もないのよ!ああ、今まではこうではなかった!こうしているのが、どんなことよりも、どんなことばを口にするよりも値打ちがあるってことなのね!」
ここでリタは、自分の兄に顔を向けるのだ。
「ソティル・クツカ、この肉のかたまりが!自分の腰の肉でローストができるでしょうよ!自分で自分から腰肉が手に入るんだから!」
とそこでソティル・クツカは我に返り、目をぱちぱちさせて、ヂェラディン・アポロニア教授の書斎を見わたした。
状況は緊迫の度を増していた。教授の妻ネタはこの困難な状況を打開しようと考えたのか、大声で、ダネ・ガイタニにまつわるうわさ話を繰り返した。
「あのくたばりぞこないの男が、アニフェヤに何て言ったと思う?『わしの鼻の毛で目の保養をしようなんざあ、いただけませんな』ですってよ」
「ヂェラディン・アポロニア先生には、うしろから指さしてどんなことをしたんでしたっけ?」
言いながらリタは、笑いをおさえようと口元に手をあてた。
ソティル・クツカがリタをおしとどめようと口を開きかけた。その時、ヂェラディン・アポロニア教授が、まるで何も聞いていなかったような顔で入ってきたのだ。
「リタ!」
「先生!」
ズュラプ・カンダリはヂェラディン・アポロニアの方を向いた。
「やあ!」
「よりにもよってあのダネ・ガイタニが学会に来るんですって?」
「彼だって招待は受けているさ!たしか、前に協同農場の議長をやってたんじゃなかったかなあ。まあ、あまりの変人ぶりに解任されたがね。一種の反乱ってやつだよ!」
「で、討議にも参加しようってんですか!冗談でしょ!」
ズュラプ・カンダリが言った。
ソティル・クツカは口元をにやけさせた。
「あんな男、一体全体、どこが歓迎するっていうんですか!」
「まあそりゃ、そうなんだがね」
と言ってヂェラディン・アポロニアはため息をついた。
リタは額を手で押さえた。頭の中に、あの日のダネ・ガイタニのことばが響いてきて、リタは思わずぶるっと身震いした。彼があの口調で、学会で発言なんかしたら、それこそ大騒動だわ!
あの老いぼれたちは、何にもわかっていない。ダネ・ガイタニのことをあれこれとささやき合う学者たちを見ながら、リタはそう思った。
女性陣は、美しい顔を寄せ集めて、低い声でこそこそとやり始めていた。話しながら、時折口元に手をやっては、軽い笑い声をあげた。ヨーロッパ製の香水のかぐわしいにおいがただよっていた。きっとその口元ではダネ・ガイタニを槍玉にあげながら、そのダネの肩を持ちたがるリタにも、ちくちくとやっているのだろう。一方、男性陣はのろのろと口を開きながら、時計に目をやっていた。時計の針もゆっくりと、実にのろのろと回っているらしい。男たちのことばの鉱山も、目下のところ、採掘し尽くされていたようだ。ことばの鉱山が資源に満ちあふれ、それを掘り出そうとする情熱が熱く燃えたぎるほどに、時計のばねもまた勢いよく針を回らせるものなのである。
学者たちが時計を見ながら出かける用意をしていると、玄関のベルが鳴った。彼らは互いの顔を見合い、女性たちは互いにささやき合い、先ほどまで寄せ合っていた顔を遠ざけた。玄関のベルは、まるでダネ・ガイタニが発することばのように、彼女らの顔と顔の結びつきを引き離したのだ。
「あいつだ!」
ヂェラディン・アポロニアが沈痛な面持ちで言った。
「ああああ、何てこったい!」
ズュラプ・カンダリは平手打ちを喰らったような顔つきで叫ぶと、自分と瓜二つなソティル・クツカの方を見て、これはおおごとだということをわからせようとした。
「あの人が学会に来るというのは、わかってたことだろうが!」
ソティル・クツカは嘆息して言った。
リタは他の女性たちから離れて、別の椅子に腰を下ろした。彼女の中の玄関のベルは、みぞおちの奥まで鳴り響いていた。それは不安の響きであると同時に、ふたたびあの人に会えるということへの好奇心に満ちた響きでもあった。
またベルが鳴った。しかも先程より長く。ヂェラディン・アポロニアは、敬服すべき愛妻であるネタの方を見て、合図を送った。
「悪いが、ドアを開けてやってくれ」
「ご自分で開けておやんなさいな。私はうしろから、あの人の手をひねりあげてやりますから」
ネタは下を向いたまま言った。
アデリナとアニフェヤは互いにうなずいて、抑えた声でくすくすと笑い出した。だがリタは、手際よくしつらえられた台座の上の彫像のように微動だにせず、きちんと椅子に腰かけたままだった。
「やあ、ダネ・ガイタニ!ちょうど君のことを話していたところだ!」
とヂェラディン・アポロニアは大声で言いながら、ダネと抱擁を交わし、足でドアを閉めた。
「『犬を見れば杖を用意せよ』か」
とダネ・ガイタニが言った。
「いやいや!『友を見れば食卓を広げよ』だよ」
ヂェラディン・アポロニアは笑いながら言った。
[訳注:共にアルバニア語の慣用句]
ダネ・ガイタニは白い背広を身につけ、白い麦わら帽子をかぶっていた。おまけに驚くべきことに、居並ぶ女性たちの目には、彼の背が伸びて、ついでに鼻の毛も、前よりもずっと生い茂っているように見えたのだ。驚きのあまり女性たちは互いに目くばせし、それから視線を、ダネの靴へと落とした。もしや靴のかかとを上げているのではないかと思ったのだが、その通り、そういう靴だったのだ!
ダネは書斎の中を歩き、男性たちと握手を交わすと、敬意のしるしに帽子をとってみせたりした。
「部屋の中が少し暗いな!何だか知らんが、家庭的なロマンティックな雰囲気を出そうってんで、明かりを落としてるのかね?しかし光が少ないとなると、ものはいくぶん大きく見えるし、人間も大きく見えるもんだよ」
とダネは言うと、リタのそばに座って、麦わら帽子を膝の上に置いた。
女性たちは目をむいた。まあこいつ、この男ときたら!
たしかに、彼が書斎に来た時はまず一番に、真っ昼間だというのに部屋中の明かりをつけさせていた。論文を読むためだと言って。だから、ダネ・ガイタニが小さく見えていたのだ。
「学会にご出席になるために、いらしたんですの?」
アデリナが、やわらかな口調で訊ねた。
「ん!」
ダネはひとことで答えた。
「経済の論文のご関係ですか?」
ソティル・クツカが興味津々といった体で訊ねた。
ダネ・ガイタニは質問に答えようと、ズュラプ・カンダリの方に顔を向けた。たしかに、二人は顔だけでなく、心の中までも一緒だったのだが。
「私が訊いてるんですよ」
ソティル・クツカが注意を向けようとして言った。
「ああこりゃ失礼!あんたがたが本当によく似ていなさるもんで。で、質問は何だったかね?」
「経済の論文のご関係ですか?」
ソティル・クツカは同じ質問を繰り返した。
「何だね、この国にそんな論文があるっていうのかい?俺はよく知らんがね。俺が知ってるといえば、俺の田舎の羊やら牛やらについて書かれた論文だけさ!」
ダネ・ガイタニは寂しげに答えた。
ダネ・ガイタニのニヒリズムによって緊迫した沈黙が、書斎の中を支配した。男たちも女たちも、ひとことも口にすることができなかった。この男は、その厚顔無恥ぶりでもって、居合わせた全員をぺしゃんこにしてしまった。
だったらヂェラディン・アポロニア教授の御著書は経済論文ではないというのか?科学アカデミーの特別会員であり、幾多の著書もものしているソティル・クツカにズュラプ・カンダリの研究は、経済論文ではないというのか?そして我らが指導者たちの著作は・・・?
それじゃあ、私たちの夫たちは何もしてこなかったということなのね・・・と愛すべき女たちは思った。このダネ・ガイタニという男は、私たちに恥知らずでシニカルなことばを投げつけた。それどころか、偉大なるニヒリストだわ。そんなことを口にして自分がどうなるか、わかっているのかしら?ふん、壁とおしゃべりすることになるわね・・・監獄行きよ・・・何にでもケチをつけていればこの男も・・・
とその時アデリナが、そのあらん限りの肉体的かつ精神的だらけぶりを発揮すべく口を開いた。
「経済論文がないだなんて、それどういうことですの?だって、ヂェラディン・アポロニア先生のご著作があるじゃありませんの!」
「だめだね!」
ダネはひとことで返した。
「うわあ・・・!」
居合わせた一同から期せずして叫び声があがった。
ダネ・ガイタニは、そばにいたリタを肘で小突いて訊ねた。
「何で『うわあ』なんだ?」
リタは、ダネが自分に注意を向けてくれたことをよくわかっていたのだが、何も答えなかった。
「それは違う、我が友よ。我が国の経済学には豊かな蓄えがあるのだ」
ヂェラディン・アポロニアは言った。
「いずれにせよ、それは多岐にわたる課題なのですよ」
もう問題を広げまいとして、ソティル・クツカが言った。
しかし実のところソティル・クツカには、ダネ・ガイタニがヂェラディン・アポロニアの業績をだめ呼ばわりしたことが愉快だった。
どんなにダネにだめ呼ばわりされていても、ヂェラディン・アポロニアはその業績のおかげで、学会や公式の行事や、新聞やテレビの画面で賞賛を浴びている。総会で彼の席が用意されていないような場面は決してないし、そこにダネのような人物が一人で来れば、総会からつまみ出されるだろう。
しかしだよ、もし将来、何人ものダネ・ガイタニがあらわれたらどうだ?二千人、三千人、四千人のダネ・ガイタニがあらわれて『だめだ』と叫んだら、ヂェラディン・アポロニア教授はどうなるんだろうな?
そんなことを考えて、彼はにやにやしながら掌をこすり合わせた。
「どうかしたかね、ソティル?」
ヂェラディン・アポロニアが声をかけた。
「考えを、具体化させておりまして」
掌をこすり合わせながら、ソティル・クツカは答えた。
ズュラプ・カンダリは、友人の挙動が神経症ではないかと思って、眉をひそめた。
もはや討論は続きようもなかった。その行く手には大穴が口を広げていた。ヂェラデン・アポロニアの書斎は慢性の病を患っているようなものだった。長椅子に横たわるその病身は、深呼吸をしたり、ため息をついたり、咳き込んだり、歯の間から抜けるように発される、ぬるいとりとめのないことばを交わしたりしていた。
ダネ・ガイタニは指で帽子をぎゅっとつかみ、リタ・クツカに向かって鼻を鳴らしてみせた。科学者の妹や娘たちが社交界というものに魅せられ、長い間にわたって関わってきたこの眠気をもよおすような世界、そして退屈きわまりない人間たちのことをダネがどう思っているか、彼女にはよくわかっていた。そんな世界をダネ・ガイタニが軽蔑している、それは、彼自身がこの玄関をまたぐことができないでいたことから来る嫉妬にあらわれている、とリタは思った。
田舎に閉じ込められ、彼はすべての文明世界に復讐を誓い、そのあがないを求めたのだろう。ダネ・ガイタニの苛立ちの理由はそういうところにある。リタはそう思った。
ダネ・ガイタニは音を立てて息を吸い込み、ゆっくりと吐き出した。そして膝の上で両腕を組み、その膝を少々立て、室内の人間たちには目もくれず、窓の外をじっと眺めながら言った。
「はあ、あの連中と来たら!うきうき気分で友人たちと待ち合わせ、くだらない話題にうつつを抜かし、食卓をちらかそうっていうわけのさ!
奴らにとっちゃ、机の上に並ぶものなんか、どうだっていいんだろうな。ヨーロッパ製の皿が並んでいて、目も眩みそうなぴっかぴかのスプーンにフォークにナイフが揃っていて、しゃれた刺繍のある、しみひとつない真っ白なナプキンが三角に折ってあって、歯をきれいにするためのつまようじの箱が置いてあって、クリスタルグラスが並んでいてその前にはアーモンドとライチが盛ってあれば、それで満足なわけだ。大皿の上にはまだ何もなく、空っぽで、一つのかけたところもない。小皿にはアーモンドとライチとナッツだ。そして誰かが、存分かつ盛大にごちそうをふるまってくれるんだろうな。
空虚さ、普通に言えば『むだ』なんだがね、そのありように注意してみることだ。まったく、あの連中は!あいつらは肌のお手入れにも気をつかうのさ。肌ばかりか口にもだ。口に必要なのは肉に、乳製品に、野菜に飲み物・・・肌に必要なのはクリームに、オーデコロンに、口紅に、石鹸に香水、それに剃刀とひげ剃りクリームも欠かせない。だがいいかね、その肌のために一つの産業部門がフル稼動しているんだよ!そういう産業につられて、この国には気どり屋があふれているのさ。国の外に出ればこの亡者どもは、クリームだのコロンだの口紅だの買いあさる・・・しかし、そんな気どり屋趣味の恩恵に触れるのはエリートなんだ・・・」
ズュラプ・カンダリはヂェラディン・アポロニアの腕をつかんで話しかけた。
「いやはや、彼は何を言っているんでしょうな?いったい何の話を?」
「いいから、いいから言わせておけ、いいから、ズュラプ!奴がしゃべっている、奴が!・・・」
ヂェラディン・アポロニアは半ばもうろうとした状態で答えていた。
「悪くないわ、すばらしい・・・」
アニフェヤは朦朧としながら、唇を開いた。
「でも、何のことをしゃべっているのか私にはさっぱり!」
とズュラプ・カンダリが言った。
「ほら、世界には人間がいる、と言ってるのさ」
ソティル・クツカが答えた。
そこで鼻毛男は一同に視線をやったが、何も言わなかった。その見やった先には、悲しみと喜びにあふれた頭が並んでいて、それらにはいくつも穴があいている。目に、耳に、口に・・・
家の外からは乗用車にトラックの騒音が聞こえていた。そよ風が半開きの窓から流れ込み、薄いカーテンを揺らしていた。町はまだ眠りについてはいなかった。道を行き来する人々の中には、何か叫ぶものあり、歌うものあり、壁に瓶をぶつけて割るものあり、そしてあちらこちらで、警官の警笛の鳴り響く音が聞こえていた。
ヂェラディン・アポロニア教授が口を開いた・・・
ダネ・ガイタニは、深いむなしさを感じていた。どんよりと薄暗いヂェラディン・アポロニア教授の書斎の中で、彼は世界から切り離され、電話もテレビもラジオもなく、孤独だった。その行く手には、形の定かでないものがうごめいていた。そこにはソティル・クツカとズュラプ・カンダリの影が、そばにはリタ・クツカの影が、そしてネタとアニフェヤとアデリナの影があった。そして、ヂェラディン・アポロニアの大きな影もあった。
影たちは、影たちのことばで語っていた。そのことばには文字がなく、子音と母音には音がなかった。
影だな。彼はそう思った。影から出てくる学問には、取り扱いのしようがあるのだろうか?
「影だな!」
ダネ・ガイタニが沈黙を破って、大声で叫んだ。
「何のことだかわからんが」
ヂェラディン・アポロニアは悲壮な顔で言った。
「影から出てくるのは影の学問さ!俺には取り扱いようもない!」
そう言うと、ダネ・ガイタニはひとつ歌を唄ってみせた:
何百遍とささやきたて
何百遍と鳴いてわめく
商品だ、価値だ、剰余価値だ
マルクスだ、エンゲルスだ、レーニンだ
俺もまた影になるのだ
あの三つの影のように
すると俺の頭は、くそ仕事め
価値と剰余価値でいっぱいだ
からっぽの頭が重くなった頃
夜明け前、影が俺に言うのさ
「友よ、価値はおまえ自身が持っていけ
剰余価値はヂェラディンにくれてやれ」