ファトス・ケルチク 多いに語る in 河合塾

 1999年7月10日の15時から、河合塾広島校S館(広島駅近く)にて河合塾文化講演会「コソボ問題を考える」が開催された。
 会場となったS館8階の大講義室には200人を越える受験生・一般市民が詰めかけた。
 最初に河合塾世界史科講師の青木裕司氏が、世界史の受験範囲の復習を兼ねてユーゴスラヴィアとコソヴォ問題について解説した(略)。
 続いて、まず九州大学法学部の客員講師でモンテネグロ共和国出身のペヨヴィチ・チャスラフ Pejović Časlav 氏が、NATOの空爆に反対する立場から講演した。
  続いて、九州大学工学部の大学院生でアルバニア共和国出身の[日本・アルバニア協会のみなさまにはおなじみの]ファトス・ケルチク Fatos Kërçiku 氏が、NATOの空爆を支持する立場から講演した。以下は両者の講演の概要。
  なお二人は通訳を介さず、みごとな日本語で聴衆に語ったが、原意を損なわない範囲でより分かり易い日本語に書き改め、[  ]内に註釈を加えた。


チャスラフ氏の話 ...rekao je g.Časlav

 コソヴォでどのように衝突が起こったかについて、セルビア人とアルバニア人とでは話が全然違います。セルビア人が書いた本では、セルビア人が被害者、犠牲者であり、アルバニア人が加害者だということになってます。アルバニア人の本ではセルビア人の本と異なることを書いています。アルバニア人はビザンティンの時代より前からコソヴォに住んでいて、後にロシア人[セルビア人?]がやってきた、ということになってます。セルビア人に話を聞くと、いや違う、コソヴォはセルビア人の聖地、エルサレム[みたいなもの]だと言います。セルビア人が先にいて、アルバニア人はオスマン・トルコと一緒に来た、というのです。
 しかしこれは、大したことではないと思います。セルビア人もアルバニア人も、コソヴォに住む権利があります。どちらが先に来たかは大したことではありません。今のアメリカ人はヨーロッパから来た人たちですね?でも今のアメリカ人に出て行けと言いますか?言わないでしょう。コソヴォも同様で、アルバニア人もセルビア人も一緒にそこに住む権利があります。でもどうして仲良くできないのか、そこが問題です。
 詳しく歴史の話をするつもりはありませんが、コソヴォは1952年[と聞こえるが、1878年か1913年の間違いではないか]にセルビアのものになりました。その前はオスマン・トルコのものでした。戻ってきたセルビア人が最初にしたのは、アルバニア人に対する虐殺です。もちろん、その前にアルバニア人に同じことをされていたかも知れませんが。それから第一次世界大戦になって、オーストリアとドイツのあとを追う形で、アルバニア人はセルビア人をやっつけました。ユーゴスラヴィアになってから1918年には、またセルビア人が増えて、支配しました[セルビア・クロアティア・スロヴェニア連合王国成立のことか]。第二次世界大戦のとき、ドイツとイタリアのもとで多くのアルバニア人がセルビア人をやっつけた。たくさん「民族浄化」をやったわけです[枢軸国の支配下に置かれたユーゴスラヴィアでアルバニア人ファシスト組織が行ったセルビア人虐殺のことか]。第二次世界大戦までは[セルビア人とアルバニア人の比率は]たぶん50%と50%でした。第二次世界大戦後、追い出されていたセルビア人が帰る権利は、ユーゴスラヴィア共産党の政治によって[認められ]、多くのアルバニア人がアルバニアへ帰って、もう[セルビア人もアルバニア人も]仲良くしよう、と。第二次世界大戦が終わった時点でアルバニア人は68%、セルビア人は30%でした。そういうバランスになってました。第二次世界大戦の後から。第二次世界大戦後しばらくはセルビア人が[コソヴォを]支配していました。ユーゴスラヴィアの憲法は1974年に新しいものができて、[コソヴォの]アルバニア人はけっこう権利をもらいました。

ケルチク氏の話 ...tregoi z.Kërçiku

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  敬称略。

(おおおお)?

おおお>


 この後、両氏と青木氏ら講師数名(となぜか聴衆の中にまぎれ込んでいた井浦)は予備校近くで夕食をとりながら歓談の後、解散した。
 両者共に相当の知識人、しかも一方はコソヴォから離れたティラナ出身、もう一方はユーゴスラヴィア連邦離脱へ向かうモンテネグロ出身ということで、直接感情が対立する立場にない。その結果、むしろ論理的で節度のある対話が実現した。野次馬的なノリで白熱した「トークバトル」を期待していた向きには、さぞ期待はずれだったことだろう。
 茅島さん、伝習館闘争のおはなし、面白うございました。
 

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