イスマイル・カダレ「アルバニアの雪どけ」

 これは或る作家の記録である。ここで語られることは文学と無関係であるにもかかわらず、まさに文学として読まれるべきものである。言い換えればこの記録は、情景を正確に呈示しようとするものではない。言ってみれば、たまたまあった眼鏡が、それをかけた人の眼にぴったり合うことはほとんどない、ということと同じだろう。
 激動の時代として常に洗礼を受けてきたこの緊張に満ちた時代、作家にしばしば求められたことは、変わること、更には作家であることをやめることであった。こうした要求は様々な方面からのもので、まったく正反対の立場から行われる時もある。全体主義国家の時代以降、「生きるための知恵」とか「大衆の中へとけ込む」といったスローガンの下で、作家は、文学を放棄し、体制という現実を報告し賛美することを執拗に要求されてきた。反体制派もまた、自分達の立場で同じことを要求した。言うまでもなくその目指すところは逆であったが、作家は文学を捨て、体制の告発者となることを求められた。左であれ右であれ、東側であれ西側であれ、作家は同様のことを求められる。変化せよ、そして作家たることをやめよ、と。こうした要求は、「情勢がそれを必要としている」などといった煽情的な文句を伴い、更にそうした要求のトーンに荘厳さを増すべく、「時代の要請」の術語を付け加える。
 要するに、道徳の名において一種の背徳、生の名において死が、作家に要求されている。こんなことになるのも、激動の時代にあっては多くの人が、文学について語るのを聴こうとしないからである。人々は文学にいらだち、文学などというものは、より平穏な、未来の時代の贅沢に過ぎない、と言う。だがそのような時代が何らかの形で到来することを認めたとしても、そのような時代は決して真実ではないし、また決して訪れ得ないものであろう。
 「非常時」の旗を振りかざす者達は、作家が一つの時代の従僕でもなく、時代の法則にも拘束されないということを忘れている。事実は単純だ。作家は、時代の下で存在する者に過ぎない。作家は、芸術の法則というただ一つの法則にしか支配されない。もしも、この世界でたまたま作家が生きる運命になった時代の法則が、その上位にある芸術の法則に一致しないのであれば、作家はその時代に背を向けるだけだ。
 だがしばしば考えられていることとは別に、独裁が荒れ狂う悲惨な時代こそ、文学にふさわしいのである。独裁体制と、真実の文学とは、来る日も来る夜も互いに苦しめさいなむというただ一つの形式においてのみ共存できる。作家は独裁体制の天敵であり、いかなる時も、たとえ独裁体制が眠り込んでいると思われる時でさえも、独裁体制と闘争する。何故なら、それは作家の遺伝子に書き込まれていることだからだ。独裁体制と、真実の文学とは、絶えず取っ組み合う二頭の野獣のような姿にしかなり得ない。その獣の持つ爪は数多いが、受ける傷跡も同じくらい数多い。作家が受ける傷は、それがただごとではないため重傷に見える。しかし一方作家が独裁体制に与える傷は、遅ればせの打撃でありながら、決して癒されることがない(その全てのいきさつに関する、この作家のもう一つの記録は、『書斎への招待』という本の中で述べられている)。
 作家を独裁体制へ立ち向かわせるものは、種の本能である。だから作家は生物として、野蛮と暴虐によっても弱められることなく、みずからを鍛え上げ、外部からの攻撃に対する反撃をおのずからエスカレートさせていくことになる。独裁体制に対するこうした路線において最も果敢なこの作家の作品「夢の宮殿」が執筆され出版されたのは、アルバニアがその悲惨の極みにあった1981年であった。この時期、作家は文学を捨てることを勧告された。だがそれは決闘の最中に楯を放り出すようなものだ。文学は作家の根幹であり、作家の拠って立つ場所であり、作家の力であり魔法である。文学を奪われた作家は、まるで新芽のように刈り取られてしまうだろう。
 これから読まれる記録は、或る作家の記録であり、常に作家であるように努めてきた者の記録である。その作家は、文学によって自由へと導かれた。決して、自由によって文学へ導かれたわけではない。作家の歩みのリズムはおそらく遅々としたものだったが、或る意味ではアルバニアの人民のリズムに一致していた。1912年、アルバニアの人民はオスマン朝の支配から一番最後に逃れた。1990年には、スターリン主義を一番最後に脱した。だがこの遅れを後退と言うべきではない。いかなるものも通さない鎧のようなその遅れの内側には、成熟と光明が準備されていたのだ。世界大戦の大波はこの新興国家を荒廃させたが、それでも1924年当時のアルバニアは、ヨーロッパに3つか4つしかなかった民主的国家の一つであった。新たな大波がアルバニアをおおい、そして1945年のヤルタで、不可避の運命から解放された。だが今度は、多大な困難の末に逃れたはずの東側の世界に、再び連れ戻されてしまったのだ。
 このような重い十字架を背負った世界の孤児アルバニアは、世紀末の今、ヨーロッパという名の母親、いつも冷淡で、キリスト教徒でありながら慈愛を注いでくれたこともないこの母親の家の戸口を、ようやく叩こうとしている。


第1章

記録

1

 午後遅く電話がなった。人民議会幹部会議長の執務室の係官からだった。「お渡ししたい資料がございます。今からお届けにあがります」
 お役所言葉の「資料」にはいろいろな意味が含まれている。それは招待、依頼、指令、誕生日のお祝い、事前通告、手紙などである。その最後の一つを、私はすぐに思い浮かべた。
 事実、15分後に私が手にしたのは、議長からの手紙が入った封筒だった。私は、開ける前の封筒を妻に見せながら「こんな手紙には期待していない」と言った。妻は何も答えなかった。
 私の悪い予感に理由がないわけではなかった。3週間前、私は議長に宛てた長い手紙を書き、その中で微妙かつ厄介ないくつかの問題を提起した。手紙の形式は、あえて返事を求めないようなものにしておいたが、実際のところ私は返事を期待していなかったし、返事が来ないことを内心望んでさえいた。
 手紙を出してから2週間、毎日のように手紙の結果が現れた。時には失望させられたが、それらの結果は驚くべきものであった。スィグリミのサディスト役人2人が直ちに職務を停止された。人民議会が、出国に必要なパスポート発行のための法案を可決した。私が厳しく告発していた最高裁判所長官は即日解任、年金暮らしに追い込まれた。デクエヤルは熱烈な歓迎を受け、緊張緩和と和解の雰囲気がいたるところに生まれた。
 魔法のようなこれら全ての出来事も、しかし、今日予期せず届いた手紙によって打ち砕かれるような気がした。封筒を開けて手紙を読んだ時、私は自分の不安が誤りでなかったことを思い知らされたのだ。手紙はこの上なく失望させられる代物だった。妻は何も知らないふりを続けようと、コーヒーを入れに書斎の外へ出ていたが、戻ってきた時には落胆した面持ちであった。あとで打ち明けられたのだが、周りの世話をしながら妻が見た時の私は、驚きと、そしてそれと同じくらいに、理解できないといわんばかりの表情だったという。
 「それ、読んだの? で、何て書いてあるの?」 妻が聞いた。私は口元に皮肉な笑いを浮かべた。
 「今、議長の手紙に『党』が何回出てきたか数えていたところだが…議長は、私の手紙がそのことに一度も触れていないのがお気に召さないらしい…」
 「えっ、それじゃあ…」「そうだ」と私は首を振った。手紙はひどいものだった。絶望の他に、希望は一つとして見えなかった。
 私は、まるで葬式の晩のようにゆっくりとコーヒーを飲み、それから妻を散歩に誘った。歩いている時の2人は、ただひとことしか喋らなかった。「何の望みもない、この国を出るしか」
 1990年の5月21日、アルバニアのひどく不安気な短い春は、もう終わっていた。


2

 春はその芽を冬から受け継ぐものだ【註1】。
 1989年12月、私と妻はスウェーデン旅行から帰国の途についていた。私達は、ティラナに戻る前に数日間をパリで過ごすことにしていた。
 その頃ヨーロッパは騒乱の只中にあった。その全体像を明らかにするには、スカンディナヴィアから空路パリへ入るのが最も確かな手段である。一つの事件がそれを裏付ける象徴的な形の跡を必要とするように、新聞で読みテレヴィのニュースで聞いたあらゆる出来事も、移動する暗雲、飛行機の翼におおいかぶさる厚い雲や、遠方の稲妻のように、次から次へと私達の目に映る。
 水晶のように輝いていた12月のスウェーデンは既に遠く、私達の下方には、暗く、不安に満ちた大陸が広がっていた。機体が地面に接した時、その摩擦熱による振動が伝わってきた。
 だがパリで待っていたことは更に激しく私達を揺さぶった。ルーマニアの例の事態が始まっていたのである。ノイーユの友人のアパートに閉じ込もり、私達は時々刻々変化するそのドラマを追っていた。パリに来て、どこへも出かけず誰とも会おうとしなかったのは初めてだった。30分毎にニュースが入り、私達はずっとテレヴィの画面に釘付けになっていた。それは今までの人生に一度としてないことだった。チャウシェスクによる政治集会、群衆による命賭けの野次、群衆の峰起、暗闇の中の銃撃戦、混沌、そして地面に横たわるチャウシェスクの死体。その赤いネクタイの結び目が最初は血痕に見えた。ひとけのない兵舎の壁。全てが悪夢のように休みなく繰り返された。いや、ここはもはやパリの町ではなく、ブクレシュティとパリの混ざり合った、ブカパリとでもいうべき場所なのだ。そしてその中に、ティラナの名が入ろうとしていた。私はそれを引き離そうとしていた。ティラナでこんなことが起こってはならない。いかなる形でも、断じてあってはならないのだ。
 「アルバニアのために我々は何ができるのだろう?」1週間前ストックホルムでの夕食の席で私に尋ねたのは、友人でもあるピエール・ショリィ外務次官であった。「あなた方に何ができるのかって?それは、アルバニアが民主主義を恐れることはないと信じられるようにすることだ」と私は答えた。それが最も難しいことの一つであるのを知らないわけではなかった。しかし、最も難しいことこそ、最も夢みることなのである。
 ティラナに私達が帰ってきたのは、寒い日だった。空港から家に戻る途中、迎えに来た下の娘が、最近のことを教えてくれた。あちこちで不穏な騒ぎが広がっており、大通りのスターリン像には爆弾が投げつけられた。自宅のそばの「フロラ」書店でも同じようなことが起きていた。シュコダルでも何かが起こっているという噂で、みんながルーマニアで起きたことを知っているらしい。
 通りの左右には、外国から帰る度に胸を痛める貧困の光景があった。私の空虚な心は、悲しみでいっぱいになった。    


3

 それは、アルバニアで最も隠欝な冬の一つだった。いたるところに不安と怒りといらだちが感じられた。それなのに、シュコダルでは平穏な集会が行われたと伝えられた。群衆はスターリン像を引き倒そうとしていた。ようやくその首にロープをかけたところへ、サンピスト(特殊奇襲部隊)と警官隊が突入したという。その夜多数が逮捕されたが、逮捕された者のほとんどが人目に触れないよう救急車で連行されたという。他にもいろいろな噂があったが、2,3日後には事実が明らかとなった。実は、群衆は市の中心にあるスターリン像の前に集まり、ロープも用意していたのだが、首にかけるまでには至らなかった。群衆と警官隊のにらみ合いがしばらく続いたが、とうとう勝負がつかないままデモ隊は解散したのである。
 2月は1月よりも陰気だった。ティラナでも似たようなことが起ころうとしているとの噂が流れたが、いつ、どこでなのかは誰も知らなかった。政府はまだ警戒を続けていた。人々の心理状態は時と共に変化していった。
 ついにティラナでも、かつてないような雲が立ちこめてきた。集会の日付けばかりか、場所と時刻も知らされた。「スカンデルベウ広場、日曜午後6時」
 まさにカフカの世界から抜け出たような、驚くべきことだった。第一、誰が決断を下したのかがわからなかった。特に問題だったのは、時刻と場所の選択である。その時刻のスカンデルベウ広場は、黒山の人だかりなのだ。そんな場所で、デモ参加者とただの通行人を、更にその中に間違いなく数百人はいるであろうスィグリミを、どうやって見分けるのだろうか?
 しかもそれだけではまだ足りないように、ちょうどその日の午後6時、広場に面したオペラハウスでは外国合唱団のコンサートが開かれていた。このようなコンサートには外国からの代表団が出席することになっていたから、これではデモ隊が外国の秘密機関と結び付いているのだとスィグリミが勘ぐって当然である。更に数日前からユーゴスラヴィアのテレヴィ局がニュースを配信しており、アルバニアとユーゴスラヴィアとの国境では二百人余りの記者達が「異常な事態」を待ちかまえていた。
 ティラナ中で、ただ一つの話題が語られていた。「広場、日曜6時」人々はいらだちと、不安と、好奇心と、そして期待感を抱きながら待っていた。この厄介な事態を一掃しようとする当局機関は、烏合の衆、示威行動、敵対的反乱、或いは単に「広場の散歩」など既に多くの呼び名を付していたものに、更なるレッテルを貼ろうと躍起になっていた。アルバニア民主戦線の各地域委員が家から家へと訪ね歩き、次のように告げてまわった。「今日の6時に広場を出歩いてはいけない。特に青少年については行かせないこと」
 ドラマには喜劇がつきものである。母は私の姉妹に「民主戦線の人が来てね、『スカンデルベウ広場が敵に占拠されたから、行ってはいけない』というのよ」と語っていた。全てが熱にうかされたようだった。
 5時に、高校に通う娘のベスィアナが私の書斎に来て言った。「パパ、6時になったら友達と出かけるわね」「好きにおし」と私は答えた。娘は妻のところにも聞きに行ったが、妻も同じことを答えた。娘は落ち着かない様子で家の中をうろうろしていたが、私達は何も気付いていないふりをしていた。不安と、そして私達をかりたてるそれと同じくらいの未知の感動が混じり合っていた。
 ベスィアナが、私と妻が書斎でコーヒーを飲んでいるところへ戻ってきた。その時彼女が尋ねたことはまったく予想外のものだった。「もう少しおしゃれしたほうがいいかしら」
 私と妻は、いつもと同じでいいよと答えた。6時少し前に娘の友達が来た。そして6時になり、6時5分を過ぎた。家から百歩と離れていない広場からは、普段と変わった音は何も聞こえてこなかった。
 6時20分になって、私も妻のエレナとともに外出した。遠くからみると、広場はいつもと同じく人であふれていた。それは群衆であったが、確かに遠くから見たところでは誰がデモ参加者で、誰が、幸運にも再びこの「事態」に対処する機会を与えられた者達、つまりスィグリミの職員や、サンピストや、党組織の活動家や、忠誠心にあつい退役軍人なのか、見分けるのは困難であった。
 どこもかしこも現実と夢が半々に混じり合い、どうにでも解釈することができた。なぜなら、誰でも隣にいあわせた人物に、こう質問する権利があったからだ。「君は何者か?どの旗に所属しているのか?その顔は素顔なのか、それとも仮面なのか?このドラマでは何の役を演じているのか?」
 遠方から緊張感が迫ってきた。私達が広場に入ると、青年の一団から落ち着いた声が響いた。「遅いじゃないか」また別の声が聞こえた。「見たまえ、君の人民の慎重ぶりを」他の集団からもまた別の声が聞こえてきたが、どれも平静で、真剣で、威厳に満ちていた。
 人混みの中にはスィグリミの職員、活動家、内通者達もいた。救急車に偽装した数台の車両の中からは、隠しカメラで写真を撮っているようだった。しかし人々はそれほど気にとめていなかった。不安は蒸気のように、真っ黒な地面から立ちのぼっていた。そして、ただそれだけだった。そこでは、半分デモで半分散歩のようなことが行われていた。それは初めての恋にも似た、心をとらえるようなものだった。祝日のような雰囲気だったが、誰もかれも控え目で、真剣だった。誰一人として、アルバニアに大聖堂があった頃以来の昔ながらのやり方に耳を傾けようとはしなかった。若者達の眼には独特の輝きがあったが、ヒステリーや暴力の徴候は見えなかった。私の頭の中では以前にもましてはっきりと、一つの確信がかたちづくられていた。「この国では、ルーマニアのようなことはない!」
 帰宅した私は、「遅いじゃないか」という台詞を思い浮かべていた。彼らは、或る種の遅れを感じるほどに長く私を待っていてくれたのだ。もっとも私の友人達は、日曜日の6時に私がやってくることはないだろうと信じて疑わなかった。スィグリミは以前から私をつけ狙っていたし、左右を問わず私に対する脅迫が行われていた。しかもこのことが、私に意趣返しをするための思わぬ機会となった。もめごとや、周到に準備された策謀が次から次へと現れ、あげくの果てには「他の活動家達が革命の勝利を防衛せんと出ていたのに、あの作家ときたら人民の敵共に殴られていた」などと喧伝される始末であった。
 だがこうなったからには、彼らもパニックに陥って目の前が見えない状態だったのである。彼らにとってはあらゆることが初めての経験で、すっかりいらだっていたようだ。
 そしてまったくその通りだったということがまもなく実証された。その後数日間、スィグリミは政府に対し、すべてが西側諸国に関係のある知識人のグループによって組織されたものだったということを信じさせようと懸命になっていた。更に、150人分ものリストが作られた(私と私の友人達の名が筆頭にあげられていたことは言うまでもない)。彼らは私達を逮捕するか、除名するつもりだったのである。ハヴェルの幻が長いこと私についてまわったが、しばらくの間は誰でも、昼夜を問わず私の姿を目にすることができた。


4

 2月は1月よりも更に陰欝として訪れた。ティラナの2月は、いつも最低の月だ。アルバニアには2月にちなんだことわざが数多くある。アルバニア語の「2月」は、私の知る限りヨーロッパでただ一つ「短い」という言葉がもとになっており、いささかのさげすみを込めて「短い月」と呼ばれている。実際、寒いながらもけだかい1月と、若々しい3月との間には、ひどくうっとうしい2月が存在するのである。
 本当のところ、2月は普段より死人の数が多いのだろうか、或るいはニュースで耳にするよりも葬式に出る機会が多いから、そう思えるのであろうか。以前でも、こうしたお悔やみごとについてはしきりと語られていた。葬式に出てみると、一層正確で一層真実に近く、日々の陳腐な決まり文句など遠く及ばないような言い回しを思いつくものだ。1990年2月に葬式に参列した人々は、そこで口にされたことを思い起こしていた。極めて想定しがたい可能性、希望、希望の喪失、絶望、そしてまた希望。
 緊張が緩和されるのか、対立が生じるのではないか、臨時党大会は召集されるだろうか、「日曜6時」の件で逮捕された者達は全員釈放されるのだろうか、誰も釈放されないのではないだろうか。「もう結構だ」とラミズ・アリアが言ったのを、或る人は「充分なことはした」ということだと思い、別の人は悪い意味に解した。また別の人達はこうも言っていた。再度デモがある、主催者をさがしている、有名な知識人達が中核になり運動を指揮する、ラミズ・アリアは動揺している、など、など。
 これら全ての根のところは一緒である。上層部の動揺は、日を追うごとに明らかになった。指令と指令が互いに衝突し、ゴム製の棍棒を携えた傲慢な警官連中が、次の日には低姿勢で棍棒も持たなくなったかと思うと、また次の日には全てが元通りになっていた。
 外部にいる者が見れば狂気の沙汰としか思えないようなその渦の中に、あらゆることがらが巻き込まれていった。人々は、ほんのわずかなチャンスをとらえてそこから逃れようとした。親しい相手を食事に誘ったり、踊ったり、ありふれた生活を送ろうと振る舞っていた。だが、待ち合わせの時も、乾杯のグラスを鳴らす時も、抱き合って踊る時も、たわむれに興じようとする時でさえも、或る問いかけが頭をもたげてくるのだった。「さてどうなる?」
 私に議長との会見を決意させたのは、まさにこの問いかけだった。2月3日の11時、議長秘書に、急を要することではないが、と告げた上で、議長の時間が空き次第、自分と面会してもらうよう申し入れた。
 1時間後、その秘書が私に電話をかけてきた。 「ラミズ同志からあなたに、お話があるそうです」
 電話口に出た議長の声は、以前話をした時と同じようにくつろいだ調子だった。
「私に御用がおありだとか。結構、今すぐにおいでになっても構わないが、12時半には大使2人と約束がありましてね」
「ラミズ同志、秘書の方には、急ぎの用ではないからと言っておいたのだが」
「ああ、そうですか」議長は言った。「だが、私もあなたに会いたいと思っていたのですよ。明日にされてはどうです?時間も充分にとれるし。午後1時ではどうでしょう?」
「あなたのよろしい時に」
 議長とは何年も前から顔なじみだったが、彼の丁寧さはよく私の目についた。といって別にその丁寧さや行儀のよさは問題ではなかった。彼の態度は、対話への意欲のあらわれを感じさせたし、のみならず対話を盛り上げるようなものだった。私は彼のそういうところをよく知っていた。
 私がフランスでこの原稿を書いている現在も、これまでのいきさつはともかく、私が彼をよく知っていることに変わりはない。なぜならば、自由も独裁体制と同じように、目に見えるような、または目に見えないような源泉から発しているものであるからだ。折々の歩みや、振る舞いや、対話が、しばしばその後のもろもろの歩みや勇気に連なっているのである。だからその彼について、あれはごく一時期のことだったとか、もう彼と会うことはないなどとしても、それによって彼とのこれまでの親交を否定してもよいということにはならないのだ。
 議長とは顔なじみだったが、それは彼が文化宣伝部門を担当していた4半世紀の間に頻繁に顔をあわせていたからというだけではなく、別の特別な事情もあった。私達には、不幸にして世を去った共通の友人が2人いた。一人は抑留先で死に、もう一人も獄死したが、彼らは黒いヴェールのように、私達2人を結びつけ続けていた。この間接的なつながりが、今はもう闇の中へ去ったもう一人の人物を通じて、とりわけ或る種の力を帯びることになった。
 全体主義体制のもとでは、友人や知人が裁かれることで自分の交際範囲そのものが黒い闇におおわれたようになることがしばしばである。友情は凍りつき、打ち壊され、誰もが互いに距離を置き、一緒に笑い語らった食事のことを忘れ、そうすることで以前から自分の身に迫っていた危険を遠避けようとするかのように見えた。官僚や出世組にとって、それは何十倍にもこたえることだった。
 私と未来の議長との間にこうしたことが起こらなかったのは、特に議長にとって幸いなことだった。彼も大きな危機にさらされたことがあるからだ。私が知っていた有能かつ知的な人物の一人であるトディ・ルボニャ【註2】は、議長にとって一番の親友であると共に、私にとってもごく親しい友人数名の中の一人であった。その彼が15年の禁固刑を宣告された時も、私達の間には何のかげりも生じなかったし、ラミズ・アリアその人の最近の手紙に込められている私への親愛の情と心遣いは、むしろ強められた。私はこうした心遣いに、私の人間性を上回るような一つの意味を常に見い出した。私はそれを、彼の心の痛み、郷愁、消えかけたものへの誠実さ、そして希望、常に地平線に隠れている何がしかの希望だと思った。こうしたことの全ては、トディ・ルボニャと私達とのかつての親交、そしてまた現在の彼の心遣いも皆の知るところであるという事実の故に、より意味の広いものとなってくる。そればかりか、そうした事実が余りにも知られていたので、折りにふれて私はあちこちで断片的な不満を耳にした。
「考えるまでもない、あの2人はぐるだ、昔同じ一派に属していたのだ。だが、もう大した奴らじゃない。我々の時代が来る。党は、決して忘れないのだ…」
 私が激しやすく、そして冷めやすいということのために、彼に対して腹を立てることは決してなく、私達の関係を悪化させるような事態も実際起こらなかった。それでも最大の危機はあった。1975年、まさに私がこれから訪れようとしている建物の中での出来事だ。「赤いパシャ達」と名付けられた詩【註3】に関して、彼が私に放った(しかも墓場のような沈黙の中でメモをとり続ける20人の役人の前での)批判は、かなり苛烈であった。私は、彼の言葉をさえぎって問いかけた。
「あなたのおっしゃることがその通りだとすると、私はこの国にとって敵だということになるのか?」
「それについて我々に答えるのが、あなたの義務だ」と彼は答えた。 「では今ここでお答えする。私は敵ではない」
(1時間後、私は妻にことの顛末を話して聞かせた。その話の中で、糾弾されている間は何度も目の前の窓ばかり見ていたと打ち明けた。というのもその時の恐怖に比べたら、そこから飛び降りた方が楽に思われたからだ)
 その席にいた人達はあとになって「今になって思い返してみると、あれは何か悪夢のようだった。あれはきっと、この国で誰に対して為された批判よりも激しいものだったに違いない」と私に語った。議論の中で、彼は特に次のようなことを述べた。「私には、あなたが私との友情をどう理解しているのかがわからない。私はそれを、常に党の原則内での友情として考えているのだ」(トディ・ルボニャが投獄されて2年目の頃だった)彼はそれを問いかけの形で述べたが、私は何も答えなかった。
 次の危機は1982年のことだった。彼がエンヴェル・ホヂャの後継者として知られるようになり、実質的に国を指揮していた頃である。この時は私の「夢の宮殿の家臣」が槍玉に上げられた。その中の「文学の良質な部分に対して為された批判は、全く納得できる」という箇所をめぐって、私は作家連盟の総会で一つも自己批判しなかったのである。そこでは出席者の半分が政治局員だったが、先頭にいたのが、未来の人民議会幹部会議長その人であった。
 だがこうした出来事の後も、私達の交友関係は以前と変わらず続いていた。ただ実のところ私は彼に対して少なからず不満を抱いていた。というのも、私の作品の半数が、出版後に深刻な問題をひきおこされていたからだ。彼が宣伝を担当していた時期は、しょっちゅう不愉快なことが私の身にふりかかってきた。
 もっとも、彼に腹を立ててばかりいられる立場だったわけではない。その点を他の人に尋ねてみても、皆同じような返事だった。おそらく、彼のそんなところによって、彼が1990年の春に大多数のアルバニア人から尊敬されたこと、また獄中にあった者を含めたあらゆる人々から希望を託されたことの説明もつくのだろう。

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