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 午後1時に私は彼の執務室を訪れた。午前中ずっと会見の準備をしていたので、不安や躊躇は全くなかった。私は、万事について率直に話すつもりで赴いた旨を告げた。それこそ望ましいことだ、と彼は答えた。執務室での会話は記録されるとわかっていたが、不愉快だとは思わなかった。むしろ全てが証拠として残されるのは結構なことだった。
 まず私は、現在アルバニアのみならずコソヴォでアルバニア民族が経験している困難な時期について語った。そうなるのも、他でもなくこのような困難な時期こそが、私達のあらゆる思考、あらゆる情熱を要するものだからだ。東側で起こっていること、ルーマニアのこと、破局を回避するための2つの方法も当然話題にのぼった。一つは、保守派によって呈示された強制の道、もう一つは民主化の道である。彼に、後者の道に賛成のはずだろうと念を押すと、彼は「そうだ」とうなずいた。
 しかし民主化のためにはやるべきことがある、と私は続けた。以前なら認められていたいくつかのことが、今また許されなくなっているからだ。
 私は議論の核心、即ちアルバニアにおける人権侵害の件に迫ろうとしていた。半年前、ネヂャト・トザイの小説「ナイフ」に関する論考の中で私がその問題を取り上げた時も、彼は私に対して憤慨し、そのことで私も彼に怒りをぶつけたが、それは20年も前から私達の友人関係の原則を壊すことなく続いてきたことだった。
 私は彼に言った。アルバニアは、人権というものに対して抱いている馬鹿げた発想を今すぐ捨て去るべきだ。人権を、住まいや職や社会保障と結びつける前に、法の蹂躙や警察の暴力や投獄や独裁に対して適用すべきである、と。
 話が始まって30分になる頃、彼が私の言葉を静かにさえぎった。 「最初にあげた方だが、それらは人権の内に入らないというのですか?」 「もちろん入ってますよ。しかしそれだからといって他のことを、つまり隠されている部分の方を問題にしないままであってはいけないでしょう」
 それというのも、と私は話を続けた。えせ哲学やらえせアカデミズムやらに支援されてきた長年のプロパガンダが、人権は独裁と関わりのないもので、社会問題にこそ関わるものだとか、それぞれの国にはそれぞれ異なる人権があるのだとかいう思考を、アルバニア人に植えつけてしまったからだ。
 私は彼に、2カ月前パリで自分が初めて倫理学・政治学会に出席した際、耳まで赤くなるほど恥ずかしい思いをしたことを話した。というのもそこでの主要議題が、独裁体制はいかにして抑圧を正当化するか、というものだったからだ。たまたま発表者はアルバニアについては触れなかった。しかし、と私は続けた。言及された他の独裁体制もまた私達の国と同じようなやり方で正当化を行っていたのである。
 彼は、注意深く私の話を聞いていた。私は話を続けた。文明化された現代の世界には、人権に対してただ一つの認識しかないのだ。即ち、人権は普遍的なものであって、それぞれの国ごとに砕かれ(細分化され)てよいものではない。あなたはアルバニアに人権侵害などないとおっしゃるが、それは非常識な話だ。
 私がこれらのことを話し続けていると、彼はやっとのことで簡単な質問を口にした。 「続々と罰せられるあの内務省の閣僚達は、どんな犯罪をおかしたというのだ?」
 決まってますよ、あの閣僚達がやったことは何よりも、朝から晩まで人権を侵害していたということです。
 彼は私の話を聞くと、顔を曇らせてうなずいた。 「あなたの言う通りだ。アルバニアでは、人権が侵害されている」
 このような肯定の台詞を、しかも国家元首である人物から聞いたのは初めてだった。
 勢いづけられた私は、政治犯について話を進めた。アルバニアには、真の民主国家になるためのあらゆる条件が存在する。アルバニア人には、バルカン或いは地中海の若干の民族と違って、アナーキーな傾向がない。決められたことは、どれほど下らなく厳格なものであっても(その他、古くからの慣習法に由来するものでさえも)遵守する。要するに、この点に関してはドイツ人と似たようなところがある。それ故、民主化の過程で、若干の国々に起こったような混乱や誤解は生じないだろう。アルバニアは例えば、政治犯のいない国になることもできるのである。
 そこまで話したところで彼が私をさえぎった。そして我々はこの話題についてしばらく話し合った。彼は言った。
「敵は力尽くで権力を握ろうとしている。私達はそんな連中を自由にさせておくのですか?」
 私はそれに答えた。不法な手段で権力を手に入れようとするのは、政治的反対派ではなく、テロリストというのだ。それはどこの国でも罰せられる。
 私達は議論を続けた。彼は私に、囚人の数は全部で約五千人だと言ったが、もっともその内の何人が政治犯なのかは定かでなかった。このことに関する対話で、私は彼にこう言わずにはいられなかった。
「はっきり教えて欲しい、彼らを釈放するのに何の不都合があるのです?おわかりでしょう、ほとんどの人が無実の罪でとらわれているということを。あなたがついこの間釈放したトディ・ルボニャもそうだった。御存知でしょう、大半の人が国家に対して危険人物などではないということを。彼らを自由の身にすることこそ、国にとって多大な利益を引き出すのです。仮にその中の何人かが実際に『敵対的行動』をとり始めたとしても、そうした否定的な面は、よい面と比較すれば問題にもなりますまい」
 彼が内心では私と同意見だという確信はあった。彼も、自分の続けていることが無意味だということを、不安というよりもっと別の点によって知っていた。彼がおそれていたのは、或るタブーをおかしはしないかということだった。つまり、政治犯のいない社会主義国家など存在したためしがない、ということである。それは彼にとって、土台や屋根のない家のように思われた。つまり、それは独裁体制の本質を崩すことだった。
 彼の反論は強いものではなかった。しかし同時に私は、説得が半分しか成功していないような気もした。
 この件に続けて、自分が説得の完璧な成功をあせったか、はたまた話題を変えようとしていたのかはわからないが、私は自分のメモに「雌牛」という単語と共に書いておいた主要な話題の一つを、外交問題よりも先に持ってきた。私が持ち出した件とは、次のようなものだった。
 公式の宣伝はともかく、アルバニアは決して貧しい国ではなく、アルバニア人はよりよく暮らしていけるはずだ。アルバニア人はどう見てもギリシア人より豊かで、食糧事情もよく(国の南部で、ギリシア人の一団が食糧を求めてアルバニアへ入ろうとしたことは記憶に新しい)、住むところも、いくつかの小さな地域を除けば広くて快適なものだ。
 人々は時折、またしばしば次のように問いかける。どうして、いまだにいい生活ができないのか?何が原因なのか?何が足りないのか?
 また、至るところで一つの厳しい批判が出来上がりつつある。その原因は、人々のよい生活を望まない者達がいるからだ、そいつらは、人々をよりよく支配するためには人々を窮乏化させておかなければならないと思っているのだ、と。
「どうして、そんな風に考えられるのです?」私の言葉を彼がさえぎった。ただその声ははっきりしたものではなかった。
 私は答えた。説明が足りないから、人々は当然のようにそう考えるのだ。くる日もくる夜も新聞で、世界経済の危機だの信用債の悪化だの石油相場だの生産性の低下だの官僚主義だの自由化だのと言い立てて、人々をあざむくことはできても、もう誰もだまされないところまで来ているのではないか。
 そしてここから、次のような厳しい問いが為される。雌牛など家畜を農民に与えればよい結果がすぐに得られるという、なぜなら雌牛は、国際的な金融体系や、石油や、アメリカの湾岸に対する利害や、ティラナの工場における技術転換とは何の関係もないからだ。それは誰でも知っている。それなのに、そうしたやり方に何が足りなくて不満だというのか?マルクス・レーニン主義の教義か?小規模所有は段階的に資本主義を惹起するというレーニンの理論か?言い方を変えれば、要するに足りないのは社会主義だというのか?
 中央委員会にいるのは、表向きではマルクス主義の原則のために、アルバニア人民を飢え死にさせようとするペテン師どもだ(ラミズ・アリア自身、2年前の演説の中で、エンヴェル・ホヂャのあの忌まわしい発言を繰り返していた。『アルバニア人民は、地に生える草を食べることになっても、マルクス・レーニン主義の防衛から手を引くことはないだろう』しかし私はそのことについては彼に問いたださなかった)。彼らは恥知らずにも、農民に雌牛を与えるなど教義にもとることだと、あちこちでふれまわっているのである。
 あなた達は1月初め、各農家に仔羊2頭を与えたのに、と私は話し続けた。それなのに、農民の大部分はそれらを返してしまったではないか。彼らが仔羊を返したのは、そのことに彼らが少しも満足していなかったからだ。彼らが欲しかったのは雌牛だ。もしあなた達がその供給を遅らせようものなら、1年後には農民は雌牛にすら満足しなくなるだろう。あなた達のやることはいつも時期を逸している。だから何もかも駄目になってしまうのだ。遅れて実行したところで、誰も喜びはしない。機械がリズムを失い、空回りするようなものだ。それこそ恐るべきことではないか。
 雌牛の一件について語る私は、人から見れば驚くほど執拗であった。私は農業問題にほとんど関心のない作家だと思われてきたからだ。しかし雌牛の問題は、単に農業問題に留まらない。最近の数カ月間、地方へ取材に訪れた新聞記者や経済専門家、著名な医師達と対話した際、誰もが似たような悲惨な図式を持ち出してきた。いわく、農村の貧困は耐えがたく、何十万人という子供達がミルクも飲めず、肉も口にすることができないでいる。栄養失調が原因で、前例のない疫病が蔓延している。こうした不幸は、民族存立の根幹をおびやかしている。
 雌牛を直ちに供給しなければならない。それは、人口の3分の2を占める農村部だけでなく、国全体を癒すことになるのだ。仔羊も山羊も、牛の代わりにはならない。山羊でも羊でも仔羊でも駄目なのだ…
 喋りながら私は、これまでにない暗い激情が、そうする間にもこの小さき家畜達のことで私をとらえるのを感じていた。私の頭の中では、或る芸術的な断片が動き出しつつあった。それはただ黒一色に塗りつぶされた、今までこうした場では想像だにしなかったようなものだった。山羊も仔羊も私にとっては、ただただおぞましい存在そのものであった。ほとんどそれは…スターリン主義のようなものだった。だからこそ雌牛でなければならない…過去のアルバニア文学において雌牛のために供された舞台は実に、多く存在したのである。
 ラミズ同志も承知だろう、「ミジェニ」の有名なくだりを。山の住人達が或る凍てつく夜、雌牛を火のそばに置いてやったが、それがもとで乳飲み子は凍え死んでしまったのだ。御存知だろう、雌牛が「黒い牛」といういにしえの民謡にもうたわれているということを。
 この古い民謡こそ、スターリン主義の教条に対する格好の素材だということを私は発見した。それはどう扱われようと常に対立し、明らかに、この困難な時代のために、国民によって生み出されたものだと言ってもよいだろう。
 議長は狼狽しているようだった。家畜の供与に向けた圧力は、既に多数の人々によってかけられていたが、これこそ決定的なひと押しだと私は感じた。
 この件に引き続いて、私達は外交政策へと話を進めた。これまで以上にアルバニアは開放を必要としている。コソヴォの問題一つとってみても、いかなる躊躇も捨てるに足るものだ。私が最初に述べたこの困難な時期が、そうした手続きを必須のものとしているからである。
 1989年秋、フランス革命二百年祭のあとでミッテラン大統領が私をエリゼ宮の朝食会に招待してくれた。その時私は、アルバニアやコソヴォ、そしてセルビアの民主化が、複雑な機械仕掛けの一部分を構成しているのだということを彼に特に語った(フランス大統領と会うことについては、誰の許可も得ていなかった。それはアルバニアにとって歓迎されることではなかったからだ。事実、報道機関はそのことについて何一つ伝えなかったようである。しかし帰国後私を批判する者はいなかった。もっともそれは単に、私が彼と何を話したか尋ねた上で不同意を表明しようとする者がいなかったというだけのことだが)。
 アルバニア民族にとって困難なこの時期に求められているのは、アメリカ合衆国やソヴィエト連邦との早急な外交関係樹立である。私はこの2超大国に言及しつつも、主にアメリカ合衆国に重点を置いていた。ソヴィエト連邦には既にその支援者が存在することを知っていたからだ。つまり、中央委員会の任に就いていた者達の内、ソヴィエト連邦への再接近をどうにかこらえている者はようやく半分しかいないという状態だったのである。
 一方、合衆国については、対話を歓迎する者がまだ一人もいなかった。これに対して私は、長らく「西側の代弁者」と呼ばれていたので、この問題を隠そうとしないばかりか、公平に語ることをいとわなかった(東側官僚の悪しき常として、どんなことでも二分法でとらえようとするところがある。自分達の注意がいつも一方にしか向いていないことが、知れているにも関わらず)。
 私は、自分がフランスの二百年祭でミッテラン大統領の私的な招待客として各国指導者達と昼食や晩餐を共にした2日間を利用し、アメリカ合衆国がコソヴォのアルバニア人問題について支援してくれたことをブッシュ大統領に感謝したこと、またそうした件とは別に、アルバニアの報道機関が恥知らずで偏狭なやり口で合衆国を非難し続けたことについて陳謝にこれ努めたことを、自国の議長には言えなかった。
 しかしその他のことは彼にも話しておいた。歴史的にアメリカ合衆国は、今世紀の初めから今日この世紀末までアルバニア問題への支援をしてくれた唯一の国であり、私達はそのことに感謝すべきである。もっとも、私達が歴史に何一つ責任を負おうとしないというのなら話は別だが。
 私はこの点でも自分が彼と理解し合っていると感じていた。だがそこでふと自分のメモに目をやると、そこにはソフォ・ラズリの名があったのである。私はその名前を赤く囲み、余計な註釈を加えなかった。それ以外に必要なことなどなかった。
 議長にとって主要かつおそらく唯一の、外交問題に関する相談役であるこの人物は、知識人、とりわけ作家に対する憎悪の念でも名が知れていた(本人が『教授』の肩書を所有していたにも関わらず)。親スラヴで、病的なまでに自尊心が強く、彼を称して私達は、世界に向けたアルバニアの開放上深刻な障害物だと呼んだ。私が事前に手を打っておかなければ、嫉妬に狂った彼があらゆる手段を用いて、私と国家元首との対話の好結果を何もかも台無しにしてしまうだろう、と私は確信していた。
 時刻は3時になろうとしていた。この人物の話題を進めるのに、上品ぶったものの言い方をひねり出す時間も体力も私にはなかった。そこで単刀直入に話を切り出した。
「こういう問題についてあなたの相談役連中が何とおっしゃるか、私にはわからない。ただその中でも、例えばソフォ・ラズリなら、あの人が作家に対して抱いている憎しみ故に、何かにつけて私と対立するでしょうね」
 すると彼は首を振って否定した。 「あの人は私の大切な、ことに有能な相談相手です」 「有能かも知れないが、彼は知識人を毛嫌いしているし、知識人もまた彼を嫌っている。あなたもちゃんと御存知のことでしょう」
 議長は薄笑いを浮かべて言った。 「いつもあなたが正しいわけではないことを証明するために申し上げるのだが、アメリカ合衆国に関しては、彼も似たような反論を私にされていますよ。あなたとうり二つの言い方でね。あなたのお話しを聞いていると、まるであなた方が事前に示し合わせておいたかのように思えるのですが」
「そりゃ結構ですね」と私は言った。心に後悔の感情が生じたが、それも長続きはしなかった。
「もちろんそういうことならいいのです。私が間違っていればいいと思いますよ。しかし彼が私達の会話を聞けば、私からあなたに申し出たこと全てを放り捨てようとするに決まっているのです」
 議長はなおも薄笑いを浮かべたまま 「あなたは間違っている」と言った。
 厄介だが、どうしてもかたづけなければならない仕事をようやくかたづけた時のように、私は次の2つの話題へ入ることを急いだ。それはスターリンと宗教の問題だった。
 このことは以前にも別の件で話題にしており、その点今回はかなり楽に話が進むだろうと思っていた。2つの問題はすぐさま解決できるものだったが、アルバニアの名にとっては甚だしい重荷となっていた。アルバニアでもコソヴォでも、どこへ行ってもスターリンは憎悪の対象とされており、アルバニア民族に対する略奪者の悪名を欲しいままにしていた。そしてそのことだけでも彼を直ちに捨て去るには充分だった。彼の立像は撤去すべきであり、彼の名は今後抹消すべきである。
 宗教について言えば、それは過去の迫害に対する報復を現在既に開始しており、今後も復讐は更に激しくなるだろう。故に、行われてきた過ちは出来るだけ早く正されねばならない。ギリシア人がみずからの宗教に関する少数民族としての立場に不安を抱くのはもっともなことなのだ。2つの民族同士のあらゆる良好な関係が、不幸な事態によって損なわれつつある。教会の開放を、特にギリシア系少数民族(いわく、我々は違う民族だ。あなた方はあなた方の好きにすればいいが、我々には教会が必要なのだ)に対して行うべきだ。シュコダルのカトリックや他のキリスト教徒についても同様である。ムスリムも、自分達のモスクが開放されることを求めている。
 私は、あらゆる宗派の中でもムスリムこそが、最もそのことを望んでいるだろうと思う。アルバニアはキリスト教に肩入れしてきた。それはキリスト教が、トルコに支配される前の古い記憶や郷愁や文化と結びついているからに違いない。年月が流れる中で、オスマン・トルコと一緒にあとから入ってきたイスラームの信仰は弱められ(まずアルバニアで、それからコソヴォでも)、キリスト教に、正確に言えばキリスト教文化にその居場所を奪われた。そして一つの災難(1967年の宗教弾圧)を乗り越えて、ようやく好機が訪れたのである。アルバニア民族は、母なるヨーロッパ大陸との統一を加速するという、大きな歴史的修正をしようとしている。
 彼は、考え込むように私の話を聞いていた。「そうだ」とも「違う」とも言わなかった。時刻は3時半になろうとしていた。時間をかけたことを詫びようとしたが、別に気にすることはないと彼は言った。
 私は、急いで残りの話をすることにした。人権や、弾圧や、スィグリミの連中の妄想、とりわけ、まるで国家を倒壊させないための唯一の支柱であるかのように流される虚偽や情報の歪曲、その濫用について、何度か話題は前後した。私は、指導部の一部は人民に憎まれているが、そのことは見たところ国家を転覆させるような傾向ではない、と述べておいた。
 4時少し前に彼の執務室を出た。秘書と警備員のいささか驚いたようなまなざしが、私を見送っていた。


6

 しばらくの間、私は議長との会見のことも、ましてや私達が対話した内容も、誰にも話さなかった。アルバニアの望ましい発展を台無しにすること(全てを台無しにし、無にしてしまうのは何とたやすいことか)の一つは、先行する噂のささやきだということを知っていたからだ。言葉半分でも全てを駄目にするには充分だろう。ことは悪化するだけでなく、正反対の結果をもたらす。
 私は結果を心待ちにしていた。初めは何も起こらなかったが、その後、刑法改正、新選挙法、弁護士団や法務省の配置替えといったささやきが、おそるおそるではあるが聞こえてきた。これらのことには間違いなく他の人々もはたらきかけており、こちらで或ることが語られれば、あちらでまた或ることが語られ、実名や匿名の手紙が出され、人によっては出世人生を危機にさらし、おそらく他にもいろいろなことがあっただろう。しかし、万事が希望の中に留まり、眠り込み、狂乱し、混乱しているような全般的な不確実さの条件下では、私が国家元首に与えたヒントこそ決定的だったのだと確信していた。
 こうしたささやきは、政治犯数名の釈放に結びついたのだが、どの国家でもこれ見よがしに行うようなことを、アルバニアの国家はひっそりと実行した。静かに、まるで猛獣を起こさぬような忍び足で門を飛び越えるがごとく、一人また一人と刑務所を出た。
 このことも私達の会見の成果だと、私が考えたのも無理はないだろう。さて或る朝新聞を開いた私は、誰言うともなくつぶやいた。「ほら、結局どう考えてもあの話し合いから出たことだ」内務省(どうしてまたこんな所が?)が政治犯の数を約80人と発表したのである(例の会見で議長にこのことを尋ねた際、ちまたでは五千人から四万人というとんでもない数字がささやかれていると言っておいたのだが)。
 もちろんこんな数字を信じる者はほとんどいない。しかし重要なのは、そうした数字が公表されたということだ。獄中にある者の数が、銃殺刑に処せられた者の数(それは最近10年間で合計4人だった)と同様に公表されることによって、その数を減らし、死刑の廃止を求めようとする傾向はおのずと広がった。或る国では、そうしたことが以前なら「階級闘争を弱めるもの」だと言われたものだ。それは即ち教義に対する背信であり、見過ごすべからざることであった。
 一方スターリンに関しては、何も起こらなかった。宗教の許可についても皆無であった。またアメリカ合衆国やソヴィエト連邦との国交問題について言えば、そこかしこで半ばささやきのようなものはあっても、全くおどおどしたものだった。
 喜ぶべきか悲しむべきか。或る晩、テレヴィがニュースを伝えた。農民に雌牛が提供される!私は二重の意味で喜んだ。第一に、この確かな、しかも主要な問題、実に多くの人々を罪に陥れてきたことがようやく解決されたからである。第二に、他のどんなことよりこの問題に対する私の希望が大きかったからである。2月4日、別れ際に扉のところで私の腕をとって、議長はこう言った。「全て実行されるでしょう」彼が最後に言ったその言葉を、私は今、まるで指輪の値踏みをしようとくるくる回してみるように、何度も何度も思い返していた。
「でも、あなた私にしたかしら、そんな話?」妻がテレヴィの素晴らしいニュースを視た後に言った。
「そんな話、初耳よ」 「え?…どうしてだろう、わからんな…でも、確かにそうなんだ、そう私に言ったんだよ、別れる間際に」
 彼が最後に口にしたその言葉を、どうして忘れていたのか、或いは、むしろ私自身がそれを記憶から差し引いていたのか、私は今さら思いだそうと努力していた。そして程度はともかく、或る解釈を与えてみた。彼はその言葉を、特に喜び祝うような口調でもなく、もってまわった言い回しでもなく、薄笑いも浮かべず、反対に、何か喜ばしくないことを打ち明けるような、緊張した面持ちで語っていたのである。
 とはいえ、彼が私にその言葉をこれ見よがしにでもなく、社会主義特有の誇張された色合いも含ませず述べたにも関わらず、半ば夢うつつのように、それを強く信じることで私は満足だった。
 雌牛と土地の供与が実施されて最初の日曜日、私はいつものようにドゥラスの浜辺のカフェへ出かけた。ドゥラスとティラナを結ぶ自動車道は異様な混雑だった。
「雌牛や家畜の自由売買が始まったんですよ」運転手が説明した。シヤクでは、昔ながらの大きなバザールが開かれたという。
 道の両側に、買ったばかりの雌牛や仔牛を連れた農夫が見えた。荷馬車に載せられているものもいた。時折走り過ぎるオートバイには、うしろに乗った人が仔羊を1頭抱えていた。
 私の歓喜は限りなかったが、決してそれは無邪気なものではなかった。東側諸国の中でただ一つ、ここでは変化がごくゆっくりと行われているのに違いない。そしてその成果を何ヵ月も何年も(その日が確実に到来するならばの話だが)待ち続け、それがどのような奇跡となるかを理解しようとするのに違いない。今日この日、アルバニア中の何千という農家が雌牛を手に入れ、明日の朝には彼らの家にミルクとバター、そしてしばらくすればチーズと肉も届けられるだろう。次の週には更に何千という家庭にも同様のお祝いが送られ、そして次から次に、そしてくまなくそのようになるだろう。少なくとも50万人の子供達の、栄養失調にさいなまれた身体と心が再び息を吹き返す。数の少ないアルバニア民族にとっては、これで充分過ぎるくらいだ。言ってみれば、フランスの子供達八百万人にミルクや肉を与えるのと同じくらいのことなのである。
 しかし私の喜びは決して単なる無邪気なものではない。これらの雌牛と土地によって、農民は失われた独立と尊厳の一部を取り戻し、その精神的健康を回復するのである。確かに独裁体制は、まるで年老いて弱りきった魔女のように乳を搾り尽くしてしまった。ミルクは、無数の見えざる敵の一つ、民族の糧にして慰めなのである。即ちまさしく決定的に、再び舞台に登場したミルクが、或る意味において流血を回避することになった。
 午後ドゥラスから戻る途中、自動車道は更に賑わいを増していた。シヤクの近くで、運転手が通行人の一人に尋ねた。「何かあったのかい、シヤクで?」
「シヤクでかい?」通行人が聞き返した。「あれは実に大きなバザールだよ、誓って言うがね。あんなのは夢の中でも見たことがない」
 それは、おそらく元来のアルバニアの再生だった。年老いたアルバニアではない。ヅィミタル・パスコが描写したところの永遠のアルバニアであった。家畜達の群れと壮大なバザールのアルバニア、そこはバルカン中から人々が買い物に訪れ、またどんな国際会議や集会よりも、諸民族が親睦を深められる場であった。

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