10

 私の予想は当たっていた。5月21日の午後、電話がかかってきた。聞き慣れぬ声が 「議長執務室です。お渡ししたい資料がございます」と告げた。私も大方のことはわかっていた。
 望まざる手紙が届いていた。数カ月または数年は遅れるか、もう来ないのではと思っていた。私の人生の行く末を変える手紙だった。
 妻が入って来た時私は「党」の語数を調べていた。あとで妻が語ったところでは、その時彼女は一抹の不安を覚えたという。あれほどおとなしく、あれほど興奮し、またあれほど落胆し、あれほどにやにやし、また不機嫌なあなたを見たことがない…その…まるで全然別な…人間でなくなったようだった、と。
 時間はその場で凍りついたようになっていた。妻が持ってきたコーヒーを私はゆっくりと飲み、言った。
「あの人が手紙で何回『党』という言葉を出してると思う?」
「いくつなの?」
「23回だ」
 それから30分後、私と妻は路上で、まるで死者を語るように冷淡に、出国の件を相談していた。
 体制を柔軟化させるためにできる限りのことはした、私はそう思っていた。全体主義体制というものが真実の文学と共存することを受け入れるならば、そのことは、体制が変化(柔軟化)を受け入れる証ともなり得るだろう、私はそう考えていた。私は自分の作品で、そんな幻想をアルバニアの人民や世界中の何千という読者の間にまき散らしたのだ。そして今私は、たとえそうした夢の中にもいくばくかの真実があるにしても、幻想は所詮幻想のままなのだということを思い知った。幻想から、使いものになる現実に立ち戻るためには、何らかのきっかけ、何らかの新たな局面を開くことが必要なのだ。私がいなくなるということが。
 そこにないということ、或いは影や幻影といったものに大きな力があることはわかる。いにしえの詩(『不在と帰還の歌』)はまさしくこのために作られた。私がここに留まることは何一つ有利に働かないばかりか、逆に私の作品の成果を阻害する、という条件がある以上、私は去るべきだろう。350万ばかりの人口の中に広まった私の百万冊の本は、私がここにいることよりも、いなくなることでこそ効果を発揮するだろう。私自身、ここからいなくなれば一層大きな影響を及ぼすことができるだろう。私がこの地で現実と鼻を突き合わせているせいで実現できないことを、遠方より達成させよう【註7】。
 新しい世界を生み出そうとして、私はこの世界、即ち日毎に耐えがたいものとなる世界、スローガンと、パレードと、祭典と、貧困と、指令だらけの論説と、党の指導者達と、活動家共の傍若無人と、欺瞞と、偽善と、退屈に満ちたこの世界の力を落とし、弱めたいと望んできた。しかしこの世界は、私が考えていた以上に強固なものだった。ことを進めるためには、それ故まだやらねばならないことがある。ここからいなくなることの先は見えない。しかしこうした局面の打開は、私の文芸活動を拡大させ、それ自体そのように先が見えない一方で、私の仕事に意味を与え、本来の輝き、時代のほこりのせいで薄暗くされていた輝きを与える。そうして刷新された私の仕事、及び私の同業者達の仕事、及び今まさに生まれつつあるあらゆる新たな文化が、この熱狂の世界、このうわべだけの歓喜、この見せかけの安定の全てに疑問を投げかけ、そのことでこの世界は自己否定、恥の認識、悔悛、謝罪へと向かわせられるだろう…
 これこそ真の解放への糸口であり、流血によらずこの世界を引き戻す唯一の方策である。そして、私がただこのことを夢想し、また度重なる失望の後でもなお今日までこうしたことを信じているとすれば、それは即ち私がまだ希望を抱いていることの証明である。それは、災いがこの国のそれほど深いところまで根を下ろしてはいまいという希望、ただの人から国家元首に至るまであらゆる立場の人々が善を求め、寄せ集め、取り出そうと努力するだろうという希望なのだ…
 そんなことを考えていたのが、あの5月21日の夜だった。私の評判を落とそうとする国家保安庁の懸命の努力や、中傷、事実の歪曲、私が言いもしないことを流布させるなどといった他の事情は、大した理由ではない。もはや勝手知ったるスィグリミの脅迫である。彼らには、人を追い詰めるような力はまるでない。私を動かすものはもっと別のもの、もっと深遠な、もっと人智を越えたものである。
 最後の最後に私は、残されたためらいを振り払い、みずからに問うた。私は自分の作品において、半死半生の人間という題材を行きつ戻りつしていたのではないだろうか?私はそれを、自分自身のものとしていなかったのか?
 これは、おそらく私の運命だ。そして運命には従わねばならない。
 脱出…それは、多くのアルバニア人の人生にあっては、たとえほんの一刹那であれ何らかの形で思い及ぶ試みだ。私自身は、二度試みたことがある。最初は1962年の夏、フィンランドから帰る途中のプラハでのことだった。私は独裁体制にうんざりしていた。だがいきさつ自体はしごく単純だった。つまり毎月の軍事訓練、際限なく続く集会、 「どこでも全てに備えを」だの、「地に生える草を食べることになってもマルクス・レーニン主義を防衛しよう」だのといったスローガンに飽き飽きし、うんざりしていたのである。しかしそれにも増して、しばしば言われてきた長髪禁止令こそ、この世の終わりに思えるものだった。(うんざりした気分も、独裁体制の一つである。長髪禁止がもたらすうんざりした雰囲気は、独裁体制がしばしば行ってきたものだ。髪型の問題は時として、独裁体制と、何千人ものアルバニアの若者との間に戦場を生んだ。前者はこれを短くしようとし、後者はこれに抗した、つまり伸ばそうとした。おそらく監獄に由来する異常な心理状態によって、髪型こそ諸悪の根源であるという先入観を、独裁体制は抱いたのだろう。人間の画一化と精神の貧困化を成し遂げるために、髪型と服装の画一化がまず試みられるべきだというのは、かつて中国で行われたことだ。それを拒否することは抗議の第一歩であり、容赦なく弾圧された。その後、アルバニア政府はこの忌まわしい髪型を国際的なものにしようと、リナス空港に外国人用理髪店まで設置した。)
 この単純な動機こそ、私が…ソヴィエト連邦へ逃げたいと思った事情である。出発に先立ち、家族や、当時付き合っていた学生、即ちのちに私の妻となる女性を残していくことはためらわれた。それでも私をモスクヴァへと引き寄せたものは、髪を切るのが嫌だということを除けば、ロシアにいる友人達の存在であった。
 こういう訳で私は、ブラシのように伸びきった規則違反の髪型のまま、旅行の最終日に代表団を抜け出した。ホテルの部屋の狭苦しさも、充分私の決心を促した。数時間プラハ市内をうろついて、ヴァンツェスワフ広場からさほど遠くないホテルにようやく一室を得た。夜になっていた。くたくたになった日々の後で、少しは羽根を伸ばそうと思った。ところがそうして横になっている内、その部屋がひどく嫌なものに思えてきた。そこにいればいるほど、ますます狭苦しく、ますます圧迫されるような、まるで墓場にでもいるような気分になった。
 私は、どうするあてもないまま起き上がり、外へ出た。そしてプラハの通りを夢遊病者のように歩いた。ヴァンツェスワフ広場に出たところで市電に乗り…別のホテルへ行った。見るとそこは、もとの私の部屋だった。私はもう何も考えられず、同室だった画家のV・キリツァが、一日中どこに行っていたのかと尋ねるのも構わず、死んだように眠り込んだ。(翌日彼はこう言った。『あなたが逃げだしたと思っていた。しかし、心配することはない。誰も気付いていない。私も、あなたは買い物にでも行ったことにしておいたから』)彼は大した人物だった。その後このことについてはひとことも口に出さなかった。
 その後、小説が全く書けなくなる不安(当時の私は、詩集を2,3冊出していただけだった)にとらわれて、逃げきっていたらどうなっただろうという考えを打ち消した私を、更に悩ませたのは、この世の出来事はかくも偶発的なものなのかということ、つまり、千年も前に建てられたホテルの部屋の狭さといったようなものが、後世の国民文学に影響を与えることもあるのかという考えだった。未知のチェコ人建築家に対して、その建築様式や、発想の貧困さや、またおそらくはこのようなひどいホテルを生み出した凡庸ぶりを感謝したとしても、充分信じてもらえるだろう。
 脱出へ向けた二度目の試みは、1983年11月だったか、その時の事情はもっと深刻だった。この年には体制との関係が極めて先鋭化し、表向きはごろつき連中のように見せかけた暗殺の脅威が迫っていた。先の見通しが立たないこの時期の全てを「書斎への招待」という本の一章にあてて私は執筆した。それは唯一、出版するのに気が進まないものだった。11月の寒い晩、アカデミー・フランセーズで夕食をとりながら、私はミシェル・ピコリとその妻に対し、ことを実行する旨を初めて明らかにした。私達は長時間、広く問題を話し合い、最後には、私がアルバニアへ戻るべきだという意見にまとまった。
 のちに私はこの旧友に感謝することとなった。あの助言がなかったら、「暗黒の年」や「月夜」や「クフ王のピラミッド」や「アイスキュロス」や「書斎への招待」や、それらの小説の最終形態である「演奏会」や「怪物」を書くことはなかっただろう。
 そして三度目がある。それは1990年9月27日、パリの地に足を踏み入れた時だった。その時最初に私の心をよぎった疑問は「どれだけの作品が、結局、失われるのだろう?」というものだった。
 誰もこのことを知らなかった。おそらく誰にも知られるはずがなかった。だから、誰もこのことで悩んだはずはなかった。
 これは何だというのだろう?何のために私は、こんな無駄話を書く必要があるのだろう?
 議長の手紙などもう読むまいと、私はそれを自分の書類入れのどこかに封じ込めてしまった。それでもその手紙は、私の心の中を行きつ戻りつしていた。手紙の中に彼を見いだすことはもはやできなかった。一体、彼が自分で書いたのか、何らかの共著なのか?ソフォ・ラズリのことが、幾たびか私の心に浮かんできた(アメリカの報道様式に精通していることを印象付けようと彼が用いる『三千語』の表現が、私に疑念を抱かせた)。彼がここのところ言い回しとして全く用いていなかった言葉「党」や「エンヴェル・ホヂャ」のこの氾濫、彼自身も慣れ親しんできた硬直的な官僚言葉、とっくに過ぎ去った時代への回帰を予期するようなこれらの言葉が、私をいぶかしがらせ、また疑わせ続けた。私はたびたびこう考えた。おそらく私の疑いは無意味である。それは無邪気な希望や許され得ない嘘(幻想)に対する、或る種の代価だったのだ。おそらく彼はこんな風に、いつも強硬で、先見性に欠けた独裁者なのだ。それなのに、彼に対する自分の対応を正当化しようとした私は、まるで溺れて自分の髪をつかむように、彼の人間性に対する評価を深めていたのではないか?
 こうした疑念を、しかし私は即座にはねのけた。確かに私は誤っていた。だがそれでは2カ月前、彼のためなら火中に身を投じることも辞さなかった何十万という人々も、夜中に「独裁打倒、ラミズ・アリアばんざい」と壁に書いた人々も、誤っていたのか。そんなことが、どうしてあり得るだろう?私への手紙で「今は彼だけが、我々にとって唯一の希望なのです」と明言した政治犯達も、結局は誤っていたのか?
 悪夢のように自分の問いが甦ってきた。あなたは、どうしていきなり立ち止まったのか?あなたはゴルバチョフより運がいいのに。何故ならあの人の場合、国内より国外ですこぶる評判が良いだけだが、あなたは国内でも同様に必要とされているのだから。
 しばしば問いは、暗い谷底へ落ちるように深まっていった。何があなたを邪魔しているのだ?何があなたを引き止めているのだ?
 彼の犬が毒殺されたという、上層部に広がっていた噂のことを私は思い出した。実際それは脅迫、より正確には、彼に対する脅迫の遺言がどこかに預けられているとの噂と関係のある、一種の事前告知だった。そしてそのことは、国内国外の某所で彼に対する襲撃が公言されているという噂とも結び付いていた。
 こうしたことは何もかも、犬の毒殺に端を発しているというのだろうか?  次の日の朝、普通ならものごとはもう少し冷静に見えてくるものだが、逆にその手紙は私にとって一層ひどいものに見えた。と、突然私にはその新たな悪しき面がはっきり見えてきた。この手紙には、未来と歴史に対する視点が欠けているのだ。手紙を書いた人物は、自分がそうした点に何の注意も払っていないことを示していた。私にとってそれは辛いどころでなく、何よりも危険なことだった。
 まさしくそのことこそ、この手紙から引き出されるメッセージであった。悪しき、危険な思想だった。
 私の立場は難しいものになっていた。まるでスキュルラとカリュブディスの間にいるようだった。一方では人々が毎日のように一層多くのことを私に要求し、他方では国家が監視を続けている。許されていた境界線を、越えようとしているのだろうか?
 ハヴェルの影が私から離れなかった。それは2つの方向に向いていた。一方では私に対抗する勢力の結集をはたらきかけ、他方では議長を屈服させようと躍起になっていた。(共産主義者が必ず理性を失い、盲目になること、それは権力だ。)
 ハヴェルのようになるべきだ。ハヴェルのようにはなれない。ハヴェルではない。
 私は、仮に望んでもハヴェルのようにはなり得ない。「ミジェニ」の前書きで述べたことだが、著名な作家を投獄する可能性のないような独裁体制があるとすれば、その作家には最後の機会などというものが何処にあるだろうか。監獄の門という可能性がなければ、その作家に残されているのは地獄の門の他に何もない。
 友人や、私に好意的な人々はよく言ったものだ。用心しろ、自分の周りの状況が見えてないのではないか?と。一方では別の声が唱和を続けていた。ハヴェルだ、ハヴェルでない、と。それにしょっちゅう加わっていたのが、カフェにたむろする外国報道陣だった。彼らは芝居を見たがっているのである。強制収容所で「オイディプス王」を演じたユダヤ人の素人俳優が、観客の目前で本当に眼を潰して死ぬ、かのアルベルト・モラヴィアの作品よろしく、役者が舞台の上で本当に死んでしまっても、彼らにとってはどうでもよいことなのだ。
 彼らは、私がパステルナークやハヴェルやサハロフや何々氏や誰々氏のようになれないかと問いかける。だが反対に、こうした面々の方が私のようになるかという質問をしようと考える者は、一人もいない。彼らは私を、独裁後、即ち独裁が緩和された時代に作品をものする異端者達と比較するが、私が独裁体制下で、独裁体制の波涛、その只中の暗闇の中で作品を生み出してきたことを忘れている。私は、この半世紀において、こうした条件下で人々の心の糧を生み出し、更にその糧を人民に供給することができ、またそれをほんのつまらぬものとはせず、アルバニア人の生活の重要な糧と成し得た、稀有な作家だ。ここに、一つの重大な逆説が生じる。プロレタリアート独裁下の人民が、世界の自由な諸国民の満足すると同じだけの水準で、普遍的な心の糧を享受しているのである。こうした逆説は或る者達には喜ばしく、また或る者達には穏やかならざるもので、多くの誤解と疑問を引き起こした。いわく、こんな謎かけが何になる?どうしてこの作家がこんなことに確信を持てるのか?それが誰の利益になるのか?いま我々の目に見えるのは、独裁体制もそれほど悪いものではないということではないのか?
 利益とは、独裁体制のものでないことは疑い得ない。とはいえ、もったいぶった謙遜を排した上で確信をもって言うのだが、その利益は私のものでも決してない。それは何よりもアルバニア国民、あらゆるアルバニア国民のものであり、彼らはどんなことがあっても無数の手段(余りに多いのでいちいち列挙して説明するのが難しいぐらいだ)でもって、この作業を見守る方法を見い出すのである。
 このことを理解するには人々への愛情が必要だが、こうしたことには首を縦に振らない人もかなりいるだろう。彼らにとっては、心の糧をこの悲劇の国民が得るとも言えるし、また得ないとも言える。しかも、或る見方(それは新聞紙上にも見られたが)からすると、独裁体制下で生まれたこの文学は、彼らの頭の中の確固たる図式を打ち砕くものらしい。そして、どのような手段によろうと、彼らはその頭を砕かれることには抗しきれないだろう。
 長時間にわたって私が感じ、また間違いなくアイスキュロスの本を書くよう私を突き動かした虚無への衝動が、随所に姿を現していた。
 何を為すべきか?(たとえキリストのように十字架にかけられることになっても、あなたはアルバニアに留まるべきだ。殉死したコソヴォの作家アデム・デマチは、私が祖国を去ってのち、私宛ての公開書簡でそう書いた。最近の作品『書斎への招待』で私が幾度か言及した十字架の刑とは、公開討論や、多少なりとも自由な報道や、少なくとも開かれた法廷での裁判といった、民主化における第一の基準を要求するものだということを、どうやってこの同業者に説明したものか?この全体主義国家のどこで、このような贅沢を目にすることができようか?スターリン時代の40年間、ソヴィエト連邦で誰一人として十字架にかけられるのを目にしなかったのは、果たして偶然だろうか?そして、アルバニアも同じではないのか?独裁体制下では誰も十字架にかけられたりはしない。キリストのようにただ殺されることはある。しかし決してキリストのように十字架にかけられることはない。)
 背後から命を奪われる、それはまだ災いの半分でしかない。それが「人民の敵」の仕業と喧伝され、体制の塔のてっぺんに己の棺をかつぎ上げられるとすれば、それこそ作家の人生における、最大の悲劇的な皮肉である。
 そしてそれは、まんざら理由のないことでもなかった。スペインの記者エルヴィラ・ウエブレスは1990年夏の「エル・ムンド」紙にこう書いた。「或る晩、ティラナの路上で見知らぬ人物が私に言った。イスマイル・カダレが体制批判を持ち出せば、暗殺準備が開始されるだろう、と」
 1982年から1983年にかけての歴史が、今また繰り返されようとしていた。この見知らぬ人物とはどんな人物だったのか。私に脅迫状を送り付けてきたスィグリミの職員か、それとも親しい人物か(それでは今後何を信用すればいいのやら)、問題の核心は残されたままだった。


11

 6月の初めには、この夏がただではすまないような気がしていた。それは気候や景色や変わりゆく木の葉の色だけではなかった。もっと別のところ、一部の若者の外観にもあった。過ぎゆく毎日の中、彼らは暗闇に閉ざされてきた。それは比喩的な意味ではない。他でもなく髭を生やしていることが理由で、彼らは暗がりにぶち込まれてきた。そして今や初めてアルバニアの通りに、髭を生やした若者達が何千人と姿を現したのである。
 国は困惑し、また憤って、望みのかけらもも伺い得ないそれらの顔面が次第にかげりを増すのを追い回した。こんな髭面では、多分どんな集会やテレヴィ取材でも社会主義的楽観主義の笑顔は失せてしまう。こんな顔が、この40年来あれだけ賞賛してきた新しい人間の顔であるはずがない。まるで外国人だ、お先真っ暗だ、脅威だと、警察とつるんだ当局や体制順応主義のスパイ共やあらゆる体制支持者達がこれに立腹するのも無理からぬことだった。彼らは会議で不平をこぼし、党中央委員会に手紙を書き、こりゃどうなるんです、国はこの状況がわかってるんですか、何で介入しないんですかと不満をぶちまけた。
 国はといえば、ここ最近の常で、疑心暗鬼に陥っていた。その注意はまだ、不穏事を指導している「知識人グループ」とやらの摘発に集中していた。
 以前、このような疑いがわき上がった時には既にシナリオが作られ、こうしたグループの摘発はこの世で最も確実なこととされていた。4、5週間後に、最初の逮捕者が出た。翌週第二の逮捕があったが、人々は三件目を待たずして思案気に首を振ったものだ。いわく、まだグループはある!
 だがこうした慣行も、この時のアルバニアでは緩和されようとしていた。小説「ナイフ」が世に出た前年の秋、ラミズ・アリアは或る知識人グループを排斥する一方、中央委員会書記としてプロパガンダを引き受けていたフォト・チャミに対し、その認識の欠如を厳しく非難した(その後、フォト・チャミに対する非難は、最終的にソフォ・ラズリが報道の指揮権を掌握するまで続いた。おそらくこの人物こそ陰謀の張本人だったということを示しているのだろう。)。とはいえ半年以上過ぎても、そのグループの件は表に出なかった。
 ここには二つの可能性がある。一つは、伝統に則りこうしたグループが、預言された通りに疑惑が発生した初日の、その企ての細部に至るまでデッチ上げられる場合。二つ目は、正真正銘のグループが摘発される場合、つまり、実在するからには出てくるだろうということだ。
 考えられるのは、スィグリミが、全ての施しを与える存在である党への手土産とばかりに、活動に熱中することだった。スィグリミは、グループの摘発、或いはもっと正確に言えばデッチ上げにこれ努めていた。多くて150名、少なくとも12名の載った何種類かのリストが幾つも作られたという噂が流れた。一部の名前もわかっていた。医師では、新聞に大胆な記事を書いていたユリ・ポパとサリ・ベリシャ。学者では、誤りは公然と認めねばならないと或る文章の中で述べたH・ベチャ。経済人では、「ヴォイス・オヴ・アメリカ」の歓迎されざるインタヴューに応じたことがあるグラモズ・パシュコ。作家では、或る会議の席上でスィグリミを批判したB・ムスタファイ【註8】。私のインタヴューを掲載したR・ラニ。その他の記者、映画制作者、俳優、経済人、法曹、大学人や学生。私とネヂャト・トザイがあらゆるリストの、ものによっては序列の首位にあろうことは、想像にかたくなかった。
 こうしたグループは伝統にたがわず、さながら豪華な宴席のごとく「都合の良いグループ」の条件を万事持ち合わせている。肥え太り(著名人がいるからだ)、顔ぶれも多彩で(主要な調査の一つによれば、グループには1人、できれば3人か4人は社会的生活の場でも重要な人物がいるそうだ)、特殊技能を持つ専門家が加わっている可能性が大いにあり(エンヴェル・ホヂャの担当医だったユリ・ポパ。もっともこの『白衣』氏については、かの小スターリンもついに処罰し得なかったのだが)、外国旅行歴(これで外国の諜報機関のことを連想できない奴は愚か者だという訳だ)、以下こんな調子だ。
 6月の第3週、私の「アイスキュロス」のアルバニア語版が無事出版されるに際し、私は文芸紙のインタヴューを受けた。その中で私は、来たるべき逮捕者リストに見られるような、知識人に対する監視を告発した。このような一覧表作りに携わる人達を、私は「クズ連中だ」と呼んだ。それが、アルバニアにおける私の最後のインタヴューとなった。エルヴィラ・ウエブレス記者がティラナに着くなり、路上で見知らぬ人から、私を暗殺する計画について聞かされた、まさにその時分であった。
 不穏な空気が、6月末の日々をゆっくりと進めていた。作家・芸術家連盟に面したトルコ大使館では早くも人々が鉄柵を乗り越えていた。私達は事態の好転を見込んでいた。熱気と、息の詰まりそうな砂ぼこりの中で、人々の一団はトルコ大使館をあとにして 「アルベリア」ホテルへ駆け込んだ。ヴィザの取得を求めるこの最初の亡命者達は、イスタンブールへ出発する前にアルバニアでの最後の昼食を取っていた。家族や友人や支持者達は、不安と喜びの中で、眼に涙を浮かべ、或いは好奇心と共に、みずからの国を出ていく人達、飛び越え得ないものを飛び越えた人達を見つめていた。
 首都はかつてないほど動揺し、混乱と不安の只中にあった。人々は右往左往したが、警察もまごついていたらしく、命令が絶えず錯綜した。
 汗まみれになり、瞳をうるませ、人々は憤りを語り合った。フランス大使館でも鉄柵を乗り越える者があった。イタリア大使館でも同様だった。ドイツ大使館は人々を受け入れなかった。ドイツ大使館なら他のところより楽だろうというのは当たらなかった。ドイツときたら、全くこの通りなのだ。
 一方で老人達は問いかけていた。もう法律が通ったのに、何を急いでいるのか?国がパスポートを渡すまで待ってくれ、子供達よ。どうして鉄柵で傷だらけになり、命を落とすのか?
 しかし人々の流れの中には別の意見があった。パスポートなら取りに行くがいいさ、老いぼれめ。警官にあばら骨をへし折られて帰ってくるのがおちだ。
 真実は、徐々に知れ渡っていた。法律は確かに通ったが、内務省がこれに納得していなかった。内務省は、自らの権力が、神通力が消え失せてしまうのではないかと恐れていた。だからパスポートもほんの僅かしか発行しなかった。全く出す気もなかったどころか、申請者は室内に監禁され、何の説明も受けぬまま…殴りつけられた。
 国家のけちさ加減、何をやるにも後手に回り、寸足らずで、心がなく、暴力と憎悪に満ちたこうした姿勢に対し、群衆がそれ相応の返事をしたのである。
 どこでもこの混乱を語らぬところはなかった。夜のテレヴィでは、コソヴォにおけるセルビアの蛮行振りを報じていた。そこでは、もう一つのアルバニア民族が、別の種類の暴虐を受けていた。このような二重の不幸が、古くからの、何百年も昔からの図式の繰り返しの中で、多くの人々を深く苦しめてきたのである。この民族の不幸!


12

 7月2日の夜、私達はパシュコ氏宅にいた。すると10時に義理の兄弟から電話があった。散歩に行くつもりでも外に出てはいけない、通りは大変な騒ぎだという。
 家に電話をかけると、姉妹と下の娘がいた。彼女らも、遠くからではあるが銃声を耳にしていた。
 胸騒ぎがして、私達はユーゴスラヴィアのテレヴィを見た。そしてコソヴォで何が起こったかを知った。セルヴィアはその時コソヴォに攻勢をかけていた。議会が閉会した日、その日はアルバニア民族にとって心の暗くなる日となった。しかもそれではまだ足りないかのように、再びの、二重の悲劇が起こってしまった(そういえば、アルバニアの旗を飾るのは双頭の鷲ではなかったか?)。ここティラナでも、共産主義者の権力掌握から46年目にして、初めての暴動が発生した。
 これは運命のいたずらなのか。或いは悪魔が、二つの出来事を重ね合わせるのに手を貸したのか?
 そうだとするなら、このような事態の一致が誰の利益になるのだろう?さながら、街の片隅で犠牲者を葬り去るべく、他の場所で騒ぎを企てる殺人者のように、どんな時でも一つのドラマを別のドラマの視点へ引き寄せようとするのは誰なのか?こうした問いが、何百という問いと共にその日発せられ、のみならず或る種のやり方で報道にも現れた。しかし誰もそれに解答を与えなかった。
 いま述べたような問いについて、やり方は様々であれ一つの答えを思いつくことはできた。しかしその一方で、別の問い、疑心に満ちた暗闇があちこちに生じていた。こうした事件の一致が一方の側面、または他の側面、或いは両方の側面(これが最も考えられることだが)にとって利益になる、と理解されるとなれば、その利益を受ける者はどう納得するのだろう?どんなやり方で、どのような秘密協定に基いて?…
 いつの日か歴史家が1990年7月2日にまつわる謎を解き明かす時、そのことは20世紀後半におけるアルバニア人の悲劇的な歴史の中の説明し得ない事件の結び目をときほぐす手がかりの一つになるだろう。(時折考える。願わくはその時まで私が生きていることのないように、そしてその時を目にすることのないように。私達はかくも多くの失望を味わい、かくも多くの落胆を耐え忍んでおり、それらを次の世代に残していくであろうから。)
 午前1時、家に帰ろうとすると、道路の至るところを軍用車や武装警官隊が通り過ぎていった。街の中心部にある私の家の前の公園では、警官が犬を連れて警備していた。戒厳令そのものの雰囲気が漂っていた。
 その夜のティラナには、眠らない場所もあった。「スカンデルベウ」通り(大使館通り)で起こったことの真相は、翌日になって知らされた。
 その日は一日中、大使館地区の各所で騒ぎになっていた。群衆が動き回り、警官隊との小競り合いが発生し、そこかしこにいらだちと緊張が見受けられた。夜になると「スカンデルベウ」通りには何千人という若者達が行き来し、歩道に陣取って気勢を上げた。ドイツ連邦共和国大使館の黒い鉄柵が、そこからさほど遠くない位置にあった。他の場合ならありそうにないことだが、この鉄柵の構図を目の当たりにしたアルバニアの若者達にとっては、民主主義や西側の魅力やその音楽が、危険や死と隣り合い、折り重なり合って見えた。
 夜の帳が下りる頃、騒ぎは各所に広がった。警官隊による最後の介入が試みられた。10時、群衆の中の先鋒である「ならず者」達が鉄柵へ押しかけた。(このティラナのジャルゴンは、ごろつき、与太者、闇商人、いかさま師、無法者の部類に入るとはいえ、かつてはそれなりにまともだったような若者の類を表している。この言葉が、もっぱら亡命者の意味にとり違えられ、必然的にそのことがら自体を意味するようになってしまった。しかもそれは、彼らの一部が『ならず者』だったからというだけではない。またそういう者達がごく僅かであるのに、その傾向が色濃く反映されていたからというだけでもない。問題の根はもっと深かった。今や首都を脅かすならず者達、『勇敢さと高潔さ』を市民に敵対するために用いることはあっても、決して体制に向けることのないような人々を悩ませるならず者達、しかも彼らは、もっともっと知識人に敵対するようスィグリミにけしかけられてきた。だがそんな彼らが初めて政治的行動に着手しようとしていたのである。『ならず者』という言葉が初めて毎日のように私達の会話に上り、程なくその意味には変化と訂正が行われた。彼らが去って数日が過ぎる頃…そして首都はようやく平穏になったのだが…この言葉は、郷愁と共に、或いは瞳に涙を浮かべて想い起こされる。そして、連中を遠くへやってしまえなどという以前のような言い方では、二度と使われなくなるのである。)
 10時、その「ならず者」達が押しかけた。警官隊はまず空に向かって、次に人々の真上に向かって発砲した。ならず者達は移動したが、歩道まで戻った者は僅かだった。見ると、兵力は更に増し、怪我人もいたが、彼らはそれでも後退しなかった。5分後に攻撃が再開された。今度は弾丸が雨あられと降り注いだ。彼らは警官隊と殴り合いながら、ひたすら黒い鉄柵へと向かったので、傷だらけになり、血を流し、言うまでもなく死んだ者もあった。殺された人の正確な数は全くわからないが、重傷者の数より少し多いくらいだろう。あとで私が聞いたところでは、怪我人は無惨に殺害された、逮捕された人も殺され、死体はティラナの「穴蔵」の中で秘かに葬られたという。そして、大使館の門を開けようとしたことで、「虐殺」がまさしく公然と行なわれたのだという人もいた。他にも噂が広がったが、それらに裏付けは全くなかった。

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