ティラナの各大使館で起こったことは重大な事態だった。しかし、全体において支配的だった悲劇的色合いの一方では、醜怪な悲喜劇の様相を併せ持っていた。
今までとは異なる政府のやり方のせいで、相反し、対立する命令が乱れ飛んだ。前日までは死の門だった大使館の入口が、唐突に万人に対し開放されたり、数時間後には閉鎖されたり、しかしまた開かれたりした。多くの人は問いかけた。「どうなってるんだこりゃ?事実とはいえ信じられん」
ならず者達が妬まないはずはなかった。鉄柵を乗り越えるのに甚だ高い代償を支払った彼らが目にしたものは、自分達以外の人々が、警官達の、それも笑顔で見守られる中、柵上にひしめき合っているようだった。ひしめく人々は限りなかった。かつての政治犯、ユダヤ人の若者、妊婦、失業者、学生、画家、医師、ジプシー達。脱出など思いもよらなかった人達を、突然に冒険心が捉えたのである。脱出しよう、行けるところへ行こう!
亡命者の大半はドイツ連邦共和国大使館にいた。フランス大使館、イタリア大使館がこれに続き、更にチェコスロヴァキア、ポーランド、ギリシア、トルコ、はては中国の大使館までもが同様だった。最も憎まれたのはキューバ大使館だった。ここでは、駆け込んできた数少ない亡命者である兄弟2人を、警察に引き渡したのである。キューバに対する軽蔑感は強まり、大使館は「第3管区警察本部」と称される始末であった。しかしそれだけでなく、翌日、この憎むべき大使館に対する制裁であるかのように爆弾が投げ込まれた。
アルバニア政府はこの爆弾投げ込み事件を利用しようとした。既成事実に国際的な陰謀の側面を付与しようとしたのである。だがそんなことには誰も耳を貸さなかった。
確かに、爆弾を投げるというのはやり過ぎだったろう。しかし考えてみればわかることだが、人々が大使館に逃げ場を求めた際の横暴さは、社会主義に敗北したはずなのに、人々の望まぬ時にさえ顔を出す、古い慣習法に関連したものである。アルバニア人はそのことに理解を示した。この慣習法によれば、家の主人たる者、扉を叩く者には開けてやらねばならない。これに背いて開けない者は厳罰に処される。「家の主よ、友を迎え入れよ」といういにしえのしきたりが、「外国大使館よ、友を迎え入れよ」として現代に戻ってきたのである。それはアルバニア人にとっては昔と同じ効力を発揮した。だから、亡命アルバニア人達が西側へやって来た時、彼らが与えた第一印象は「彼らは今までにない類の亡命者達だ」というものだった。卑屈でもなければ、ことさら有難がる風でもなく、むしろ特にフランスの報道姿勢において目についたように、傲慢で気まぐれだった。彼らにとって見れば、フランスやドイツ連邦共和国やその他の国々への亡命受け入れは、その道徳的義務の履行に過ぎないし、闇夜の中で扉を叩く友人である自分達に敬意を示すのはごく当たり前のことであるし、しかもフランス人記者には評判の悪い「マルボロ」の煙草すら自分達にはほとんど望むべくもないからだ。
明らかにこれは誤解である。アルバニア人という人種が昔から対峙してきた悲劇的な誤解の一つなのだ。
古典劇にはよくあることだが、7月2日のドラマに続く幕間では、悲劇の幕を下ろすに先立って諷刺劇が演じられた。
大使館の庭、とりわけドイツ、イタリア、フランスの大使館の庭がすっかり踏み荒されていた。出入りがさほど難しくなくなったので、大使館に入った数十人が、色々事情もあって気が変わったのか、ドイツ大使館の方がいいとでも誰かが言ったのか、探していた友人や娘が見つからなかったのか、単なる好奇心であちらこちらと出たり入ったりしたのかであろう。後悔して元の場所に戻ってきた人達は、「世間」つまりよその大使館の庭での出来事を話して聞かせたりした。
自宅で一晩寝ようと出かけ、翌日には「娑婆」から戻る者もいた。日用品を買いに出かける者、ドルを調達しに行く者、親戚にお別れを言いに帰る者もいた。鉄柵の外では年老いた男女が、子供達に戻るよう呼びかけていたり、泣いたり、衣類や靴やチーズパイなどを差し入れたりしていた。外へ出る者もあったが、大抵の者は離れたところから親達をせせら笑っていた。
大きな不安が、首都に住まう家庭の中に広がっていた。重い気持ちで彼らは息子や娘の帰宅を待った。最初は子供の気持ちを理解することで、事態の悪化を避けようとした。しかし、子供が夕食に1時間や2時間遅れても割合安心しているその時に、「お子さんが大使館へ行ってしまいましたよ」と誰かが知らせに来るということが相次ぐようになった。
すっかりウジェヌ・イオネスコの「犀」の一場面のような雰囲気になっていた。
一方庭の中では、新しい習慣が生まれていた。「さん」や「君」といった言葉が使われるようになり、子供に洗礼を受けさせる者が現れ、多くの人が首から十字架を下げ始めた。
時には笑い話のようなことも起こる。地方から来た田舎者が列車でティラナに着くなり大使館を訪ねて出国しようとした。と或る鉄柵の前に来てみると、それが余りにも荘厳なものに見えたので、こうひとりごちた。ここがきっと一番いい大使館なのだ、と。そこでよじ上ったところ、向こうにいた警官が下りるようにと手を振っているので、こう言った。あんたに何ができるもんかい、俺は外国の大使館にいるんだからな!ところが警官はこう答えた。何が大使館だ、このとんちきめ、そこは文化省じゃないか。こっちの忍耐が続かなくなる前に、とっとと失せろ、と。(2週間前、その人物は警察に連行され、出国を謀ったかどで禁固10年をくらった。『おお時世よ、おお風俗よ』古参党員達はそうささやき交わしたものだ。)
教条に憑かれた古参党員達は、まさしくそんな風に考えていた。7月2日に流された血すら彼らを満足させはしなかった。国家が毅然とした対応に出ないことを、議長があたふたする様を彼らは非難していた。(まったく、これがあの『彼』であれば!彼なら容赦しないだろうに!)
亡命者達の出国許可を約束したことへの対抗作用として均衡をとるべく、またアルバニアの国家が内外の圧力に屈した訳ではないことを証明するべく、再び国はその拳を突き出した。警官による路上での暴行は前例を見ない程のものになった。大した理由もなく、ただ服装や歩き方に「奴ら」の仲間と思しき疑いがあるというだけで、しばしば身柄の拘束、拘禁、逮捕が行われた。特に髭を生やした人達、要するに伸ばしっ放しの人達は弾圧された。独裁体制は、髭面に対する際立った憤怒の念をいま一度示したのである(こんな髭など悪いこと以外の何ものでもないということは、最初からわかっていたではないか?どうしてこんな馬鹿げた有り様を、来る日も野放しにしていたのだ?今こそびしびしやるべきだ、失った時間を取り戻すのだ!)。
一方、前例のない外交的なはたらきかけで、関係各国や国連、国際赤十字や、またデクエヤル事務総長自身も、亡命者出国問題の早期解決に向けて努力していた。3部作の醜怪な場面はまた忘れられ、思ったよりも早く出発の日、というより夜がやって来た。
ティラナはその晩眠らなかった。小さな首都の中に五千人以上の人々がいた。パリの若者に例えて言えば十二万人、モスクヴァなら二十万人に相当する数である。夜が首都を包み込む頃、何が語られ、ささやかれたか。列車で出発し、ドゥラスから船に乗り込むことになっていたが、誰もその時刻を知らなかった。出発が夜半になることはわかっていたが、バスがいつ停留所に到着するのかということになると見当がつかなかった。おまけにどの道路を通るのかということもわからなかった。夜中まで、更にその後まで、人々は黙り込んだまま、盲目のように、或る時はドゥラスへと続く通りへ、また或る時はカヴァヤの方へ、また或る時は大通りへ、バスが少しでも目に入らないものかという希望を抱きつつ、歩き回った。
人々は1時近くまで、墓場のような闇と沈黙の中を歩いた(或る国連大使の目撃によれば、叫び声はおろか、騒ぐ声さえ聞こえなかったという)。聞こえるのは、エンジンの振動音だけだった。ドゥラス行きの列車が出発した時には喝采が起こったが、船に乗り込む前にはむせび泣きが聞こえてきた。人々は暗闇の中で大地に口づけし、それから、彼らの国が終わり、海が始まる方向へと去った。
翌朝、まだ薄暗い路上の、バスが行ってしまった後の場所で通行人達が目にしたものは、住所や電話番号の書かれた紙片、中に写真の入った封筒、お金や、思い出の品々らしきものであった。それらの多くには、住所や電話番号と一緒に、それらを見つけた通行人宛の文が書いてあった。「通りすがりの方へ。どうかこの手紙を私の母に渡して下さい」
それらは様々な筆跡で書かれていたが、全てが例外なく一つの形式に従っていた。それはまるで、墓碑銘のようだった。
その翌日、墓場を荒すよりひどく、虐殺より非情なことが行なわれた。
集会。
党によって組織された集会。
アルバニアの若者五千人の国外退去を祝うために。
人の死を歓迎するために。
党が国民よりも強いこと、党が人の血縁関係よりも優位に立つこと、そればかりか党がその優位性の故に国民に拍手を義務付けるということを、アルバニア国民に知らしめるために。
「スカンデルベウ」広場から文化宮殿の柱列にまで及ぶ、集会に強制動員された十万人の先頭に並んでいたのは、いつもより貧相に見えるこの国の首相、ティラナ市党委員会の書記、「無能な党員」ピロ・コンディ、そしてしんがりに控えていたのは、「山」から呼び戻されて体制のナンバー2の地位、また闇の勢力ナンバー1となった役人ヂェリル・ジョニであった。ヒュスニ・カポの家族が多数登用されていたことは、暗闇が今や再びアルバニアを覆っているという何よりの証拠である。彼らの背後は他の役人衆、退役軍人、青年組織や女性組織の代表、労働者、哲学者、作家という順序だった【註9】。
独裁体制が己のしきたりにならって悪行を為した後で、そのことを広く知らしめたのである。ヴェズヴィオ山の灰のように、それは多くの人々の肩の上に、しかも可能な限り万人の肩の上にあるはずだった。或る点では確かにその通りだった。非人間的な、恐らくこの国で幾たびか行われた内で最も非人間的なこの集会こそが、そのことを証明していた。
党は、このような暗欝な祭典(圧政の、とりわけ共産主義の圧政の思考の内で最も暗い側面は、常に祭典という場で顕在化する…行進、集会、行列、祝典、オリンピック、スパルタキアード)によって人心を破壊しようと考えていた。事実、その日「スカンデルベウ」広場でも何かが壊された。もっとも、それは共産主義的国家が望んでいたものではなかったのだが。
アルバニア人は、祝祭事も往々にして悲劇になること、祭典が暗転することを既に知っている(コソヴォが死者に涙していた夜、ベオグラードではシャンパンを飲んでいたのではなかろうか)ので、このような屈辱をも再び耐え忍ぶだろう。だがそれもきっと今回で最後だろう。
この忌まわしい集会も期待通りの結果を生まなかったということが、カヴァヤで示された。人口三万のこの小都市は、アルバニア人の長い歴史のどの時点に於いても言及されたことがなかったのに、思いもかけず反体制の城塞と化した。不穏な情報が昼夜を問わずこの地から寄せられた。ティラナからの公用車に、この地を通過する勇気はなかった。はっきりしていたのは、カヴァヤに何らかの適切な教唆を与えなければ、更に悲惨な事態が発生するだろうということだった。
スィグリミが、この平穏な田舎町をねじ伏せることを引き受けた。そのための計画はひた隠しにされた。結局頓挫したものの、最初の段階だけでも充分なものであり、実行に至ってはそれが如何に恥ずべきものとなるかということを思わせた。それは虐殺に他ならず、遠方から目に飛び込んでくるものだった。
始まりの筋書きはこんな具合だ。サンピスト達を載せたトラック2台が、ドゥラスの某農村から嵐のように飛び出す。そうすると最初の障害物になるのは、ドゥラスとカヴァヤの中間にあって、カヴァヤの人達がよく海水浴に訪れるゴレミ海岸だ。連中は浜辺へ我がもの顔で乗り込むと、そこで休みを過ごす人々に殴りかかり、女性の水着を引き裂き、怪我を負わせる。犠牲者達が逃げまどう中、サンピスト達は車に乗りカヴァヤへと疾走する。路上を走り抜ける彼らは叫ぶ「俺達はエンヴェル・ホヂャの息子だ!」。そしてカフェに乱入し、客を叩きのめす。おい、お前らときたら本当にあの勇敢なカヴァヤ市民なのかい?はっはっはっ!家の敷居の上では幼い子供が殺される…
それは、結果として虐殺にならざるを得ない、古典的な煽動の筋書きである。
カヴァヤは、この挑発に乗ってしまった。憤激した人々は憎むべきサンピスト達と入り乱れ、殴りつけ、負傷させ、地上から抹殺しようとした。市民の怒りは(虐殺の首謀者による予測を越え)収まらなかった。人々はスィグリミや警察の建物、党委員会、商店のショウウィンドウへ殺到した。反革命の典型的図式である。このことで戦車隊の導入が正当化され、流血がそれに続いた。この流血のおかげで陰謀の成就が何と容易になったことだろうか。内部の敵、その外国諜報機関とのつながり(この時期カヴァヤで大使館の車を目にすることなどなかったのに?)、亡命者達の出国との関わり、知識人グループとの結び付き、CIA、NATOとの関係、等々「エンヴェル同志が前から我々に教えていた通りだった」。
では何故筋書きは終わりまで実行されなかったか?どうしてうまく行かなかったのか?この悲劇に突如怖気づいたのは、誰か?
のちに何百という人々が真実を知ろうと努めたが、そのことは次第に闇に包まれつつあった。虐殺の首謀者も、それを阻止した者さえも姿を現さなかった。他方では前例のないことも起こった。町中が、反体制派も共産主義者も公務員も党委員会総会も一緒になって抵抗したのである。
国家は後ずさりした。カヴァヤを統括するドゥラス党委員会の議長として憎悪されていたムホ・アスラニは解任された。そしてとうとう、国家保安庁の長官として激しく忌み嫌われてきたZ・ラミズィもその職務を解かれた。警察庁のD・ベンガスィ長官がこれに続き、更には内務省のスィモン・ステファニも降ろされた。政治局からリタ・マルコが外された時には、ネヂャト・トザイが私に電話をかけてきてこう言った。
「これで恐れるべき連中の6人目まできた。残るは7人目、検事総長だけだ」
だが喜びは冷えきって、ユーモアさえも出てこなかった。以前なら私達が喝采で迎え、互いを食事に招待し、民主主義に乾杯したであろう解任劇は、何の感動をも起こさなかった。私達だけではない、他の誰であれそうだった。
もう遅過ぎた。何もかも遅過ぎた。この言葉は今や「死」という語と同義のものに思われた。
ラミズ・アリアは、歴史に加わる機会を逸した。かくも長きにわたって開かれ、待ち続けた大いなる門は、カフカの「審判」さながらに閉ざされてしまった。残ったのは多分、脇にある別の門である。もっとも歴史の入口とは、たとえそれが脇の戸口であっても常に無視してはならないものなのだが。
日曜の午前中を過ごしに来た海岸で、私は、長女を連れて散歩に出た。娘は休みで戻っていたが、勉強を続けるためにまた出国することになっていた。波音の中で、私は自分の出国の決意を語った。以前は、娘の気を煩わせたくないと思っていた。だが結局、よく理解しておいてもらう方が良いだろうし、そのことによって、別れるべき全てのものと別れることができるだろうと考えたのである。
私の話を、娘は無言で聞いていた。ただその瞳には涙が溢れていた。
夏が終わろうとしていた。首都では高校が始まる頃だった。人々はそわそわしながら、学生達が戻るのを待ち受けた。学生は夏休み中だったので、このドラマの舞台には参加していなかった。だから彼らがどのような態度をとっているのか、皆目わからなかったのである。党の諸委員会は、空の雲より激しく乱れながら秋に備えた。方々の会議から戻った特使、指導員、活動家、内通者達は校門をくぐり、そして国家への想いに満ちた表情で出てくると、また別の会議へ、法廷へ、或いは盗聴室へ赴くのであった。
今や諸々の出来事の上に、時間の流れという最初の被膜が覆いかぶさろうとしていた。本質を一層際立たせるために、一つ一つの事柄はぼやけつつあった。より明瞭に見えるのはいつも、警官やサンピストと乱闘した人々、国外へ去った人々、スィグリミによって拘束され、投獄や営倉送りになった人々といった舞台役者達であった。しかし9月の初めには、出来事の遠影の如く、夢の中のようにぼんやりと、別の人々の一団が姿を現した。それは、大使館に侵入し、その後様々な事情で秘かに抜け出し、二度と戻ってこなかった人達だった。(うちのクラスの男子で、そこに行ったんじゃないかって噂の4人がいるの、と高校に通う娘が教えてくれた。ぼんやりして、心ここにあらずという感じで、すっかりひとが変わってしまったの、と。)
彼らこそまさに別の類(種)の人間だった。彼らは禁断の実の、罪深き、吸血鬼の館であるあの場所へ行ってしまった。今でこそ他の人々の中に戻ってきてはいるが、その意識の中には、あちら側の印が刻まれているのである。(みんなびっくりしてたわ、だって、よその世界の人間みたいだったんだから。娘はそう語った。)
娘の口調には秘かな称賛の感情が容易に聴き取れた。
日々は、緩慢な苛立ちと共に流れた。あちこちで、原因を発見した、主犯格(知識人グループなどのことだ)を摘発したという声はあったが、何一つ決定的なものではなかった。誰もがすっかりうんざりしていた。
時が経つ程に、事件はその醜怪な面を一層あらわにしていった。人々が殺されたのは、約束されたことの実行を要求したからだった。暴行を受け、投獄され、拷問された人々は皆アルバニア人だったが、その彼らを殴打し殺害したのもまたアルバニア人であった。そして事件は、アルバニア人の独立国で起こったのである。更にそれは、幻想の時代の只中で行われた。それも、この私自身が一心に支えてきた幻想なのだ。著名な作家である私の権威をもって信じ込ませてきたものなのだ。良心の呵責は拭い去りようもなかった。
アルバニア人の国家はそれでも、赦しを乞ういささかのそぶりも見せなかった。謝罪や憐憫の気持ちは、共産主義的世界にあっては知る由もないものだった。憐れみの心を消し去ることこそ、共産主義の最初の過程であった。それはマルクスの貧困な精神と、レーニンの卑屈さと、その後継者達の野蛮さ及び劣等感に端を発していた。(9月に行われた知識人と議長との会見の際、私は、今日の官僚化されたアルバニアには人類固有の価値である同情心も罪悪感も見当たらないと強い調子で発言した。すると、こんなことを言う人達が大勢いた。いわく、イスマイル・カダレは下らない問題を持ち出したものだ、罪悪感なんぞ何の役に立つというんだ…。マルクス・レーニン主義でがちがちになっているこの人達の頭には、『罪悪感の役割』こそ人間関係の礎に他ならないということなど、これっぽっちも理解できないのである。)
国家は、起こった出来事を巡ってアルバニア人に謝罪しようといういささかの配慮も見せないその一方で、解任され地位を追われた者達の不満には充分気を遣っていた。リタ・マルコには「メルツェデス・ベンツ」の新車が買い与えられ、あれだけ多くの犯罪行為の責任者であった前最高裁長官は、ストラスブールへ派遣された。それも、人権問題の会議へだ!
寒々しい空模様だった。「穴蔵」の中には、行方不明者の遺体を探す人々がいた。私は書斎で原稿を整理していた。2年経ったら出版するつもりのものもあれば、もっと後回しにしようというものもあった。特別な機会があれば公にしたいと思っていた特別な二百ページは、しかし陽の目を見ない見込みの方が大きかった。アルバニアに民主化が訪れたあかつきには、焼却してしまうつもりだった。まさにそれは、神々に捧げる犠牲であった。単なる迷信で言うのではない。そうする方が国民にとってずっといいことだ、と私には思われたのだ。
やがて雨が降り出した。大使館の柵は、雨に濡れて一層黒々として見えた。通りかかる人々は皆感慨にふけり、追憶に浸っていた。この鉄柵の上を「彼ら」は飛び越え、そこで傷付き、また殺されたのである。あれから毎日のように年老いた女性達が、彼らの何がしかの痕跡を、サンダルを、帽子を求めて歩き回っていた。折り良く何かを見つけると、彼女達は湿って泥だらけのそれを胸に抱きしめた。各々がそれを、自分の息子かまたは娘のものだと信じて疑わなかった。
私が原稿を調べていると、妻が、私の最新作でありながら結局店頭に出されなかった「書斎への招待」を一冊持って帰宅した。
印刷所でどうにかこれだけ手に入れてきたわ、妻は言った。それにしても、あなたったら何てことをしたのかしら?自分の出国を、それもおおっぴらに宣言するなんて。
妻は最初のページをめくって「時は熟さず」と題した一節のある箇所を出した。それは私が一番最後に書いた詩で、本が印刷に回される一日前という土壇場で加えたものだった。
その詩を、私は妻と一緒にゆっくりと読んでみた。妻の言う通りだった。私は今頃になって、自分がしたことの愚かしさにあきれ果てた。
詩には、私にとって最後の瞬間、つまり死のそれが描き出されていたのだが、唐突にも、私が入ろうとする墓場はいきなり飛行機の中に変わってしまうのだ。
山と荷物を抱えた旅人のように
まもなく飛び立つ飛行機の前で
まだ重たそうに積み込んでいる
私は、泥だらけの墓場へと入る。
持っていたのは、重い手荷物、多分持ってくるべきものと置いていくべきもの、今更私を悩ませるもの、これで全部だ。
一体何処へ、どうしてこんな物を持っていくのか、
こんな重いものを抱えて、何処へ、またどうして。
こんなものがあっては下へ降りることもできない、
といって、決して上に置いて行く訳にも行かない。
墓場へ降りてゆくこと、飛行機に乗り込むこと、それは言い換えればこの世界からの脱出、アルバニアからの脱出に他ならなかった。終わりの節はこんな具合だ。
苦しみ抜いた、最後の最後まで
無言の故に、悲劇の重みの故に 恐らくは理解し難い合図を一つ
全ての人々に残して、私は去る。
詩の末尾には「1990年春」と書いてある。あらゆることが明白だった。私は望まずして、自分が最大の秘密としてきたことを明らかにしてしまった。私はアイスキュロスについて書いた本に不満だった。それが作家の脱出で終わるからだった。それなのに、今になってこんな叫びが出てしまうとは。
もうすることがない、私はエレナにそう言った。公然たる脱出の記録がここにあるのだから、と。
とは言え、悔いは何一つ残っていなかった。私にはいつも迷信じみた確信があった。詩によってもたらされ得る不幸は、どんな時でも、まだまだ耐えられる方なのだ。
出版主のクロード・デュランが細君を連れてティラナへやって来たのは、9月11日のことだった。私は出迎えに行く旨を伝えておいた。
自宅での夕食の後、「ダイティ」ホテルへ2人を送る道すがら、私は自分がやろうとしていることを話した。彼は私の話を黙って聞いていた。ミシェル・ピコリの時と同様、彼もこうした考えに敢えて賛成しなかった。といって別に反対するという風でもなかったが、真の友人である彼の態度は、それでもことの困難さを私に感じさせた。
次の日、私と彼は散歩に出かけ、ドゥラスのひとけのない浜辺で静かに語り合った。濡れた砂の上を歩きながら私は言った。ゆうべ寝る時、このまま夜が明けなければいいと本気で考えていた、と。
よくわかるよ、と彼は答えた。
その翌日の9月13日、私達は夫妻、そして何も知らぬまま夫妻に伴われた私の末娘と一緒に出かけた。エレナと私は9月27日の航空券を予約しておいた。空港の滑走路まで入る許可が下りたので、私はもう一度クロードと話をした。娘が向こうにいるという理由で私の出国が認められない場合は、あなたのほうで娘をすぐ帰国させて欲しい。娘はここに…残る(最後まで『犠牲にする』などという言葉は使わなかったが)しかないだろう、と。
彼は「わかった」とうなずいた(私と彼との付き合いの中でも格別重い『わかった』であった)。そして私達は別れを告げた。
2週間後の9月27日、私と妻は出発した。エレナは鎮静剤を口にした。私は、身体が麻痺したような感じだった。
会話はあまりなかった。
北イタリア方面へ向かう飛行機の中で、私達は、しばらく修道院にでも閉じ込もったらどうだろうかと話し合った。
やがて飛行機はどうやらフランス領内へ入った。私は言った。この旅は、まさしく私にとって牢獄へ続く道だ。アルバニアで投獄の憂き目に遭ったことのない私は、だから今、それを実現させるために行くのである。この、フランスに。