「凶夢(まがゆめ)」
上司ゼウスが私を呼びつけて、再び地上へ赴く様新たな命を下した。外へ出ると、眠りの神ヒュプノシスが若い「希望」の女神とこそこそささやき合っていたが、話をやめて私に視線を向けた。その皮肉混じりの視線は、ゼウスのもとを下がるときに私に注がれたものと同じだった。一見してその視線には、まるで自分達とこちらを比べるかの様な、道徳的優位を誇る感情があらわれていた。つまり向こうは人間達に希望や、素晴らしい夢、正夢を与えるが、こちらときたら不道徳で、ほとんど淫売の様なもので、うそいつわりで人々を誘惑し、卑劣な行動に陥れようとするからだ。だがそうして向こうが自分達の行いを見せびらかそうとするなら、私は、その目つきにはただ嫉妬の念があるばかりだ、と言うところだろう。
ゼウスがいつにも増してこの私の仕事を評価しているという嫉妬。この私が成し遂げる使命が、選ばれた人材による、極めて慎重さを要するものであって、ただの運搬人夫のごとき彼らの仕事と差をつけられているという嫉妬(考えてみれば、向こうはありふれた夢や希望ばかりを幾百万という人間達の為に計画し製造するのだから)。そして、もう一つあげるなら、私がこういう仕事にかかずらうのを気に入っていないことに対する嫉妬。
私はいつもの様に、別段気にかけるふうもなく彼らのそばをすり抜け、自分にいつだったか投げかけられた軽蔑の言葉を思い浮かべ、そして地上へと出発した。何万余といういつわりの夢をひろめるために。そしてそれは容易な仕事ではなかった。一人一人、定められた人間を見つけ出し、その各々が眠る場所で、その眠れる者達の頭を間違えぬ様注意しなければならない。特に婚礼をあげた者達は厄介で、余りにも強い愛情で、互いにしっかりと絡み合って眠っているために、一方の手足と他方のそれをごっちゃにしない様にするのは実に至難の業である。慎重さを要するのは紛れもなく、眠っている人間の頭の上にしばし立ち、その頭の上でひっきりなしに流れている眠りの奔流の中へ破壊的な夢を注ぎ込むことだ。どれくらい注意を要するかと言えば、赤子に与える乳、あるいは病人に与える薬が一滴たりともその口からこぼれぬ様つとめるのに等しい。
三分の一ばかり夢をひろげてまわったところで、私は疲れを感じ、ひと休みした。こういう時はいつもの通り、私の胸にはいろいろのことが去来するのだ。とりわけ、この悲運の更なる運命、わけても、ゼウスがなぜこの者達にいつわりの夢を届けるのか、なぜいつもこんな陰気な仕事が我々家来に与えられるのか、と。
冷えてきた。天の星々が寒々とまたたき、私はひとり口にした。
「御託を並べるがいいさ、ひとつもっとうまくこの仕事をやり遂げてみせてくれ」
包囲されたポリスの正面にある陣屋で、しばらくかけて軍勢の大将を探し出した。アトレウスの子アガメムノーンとかいう人物だったが、正直なところ探し回って少々いらいらしていたせいか、うっかり夢をとりこぼしてしまった。見ると彼の頭の外に一部流れてしまっていたが、それでも私自身としては、頭に入った分だけでも彼を愚行へ引き込むには充分だと考えて満足した。
実際やることがたくさんあって、もし自分のしなければならないことをもっと用心深くやっていたら、任務遂行のために私に与えられた時間ではとても足りなかった。私はほっと息をついて、更に夜の闇の中を突き進んだ。
そう言えば、私が持っている名簿だが、どうして今回はこんなに多い様な気がするのだろう。ホセ・T・ホセ・ムラナ、孔子、クロード・F、アラン・ポン、トム・ジャクソン、イエス・キリスト、クロード・F・D、ハンス・クレーマー、クルト・K、マクベス、イブラヒム
・オグル、ミハイル・ゴルバチョフ、ルイス・ボルヘス、リン・ミン、クルルマ、マリア・モレナ、I・カダレ、クロード・デュラン、ニキ・ニキ・B、トトメス三世、アンナ・K、アンナ・V、シュティェファン・ジェチョヴィ、ユカムラ、ヴィード王子、アダム…
それまでに私が偽りをふりまいてやった者達、記憶の中から掃き出してしまった者達を除いても、まだ何百人も続いていた。更に驚くべきは、この著名人達の才能だった。彼らが人間としての創造活動のためにその才能を生み出すのは、彼ら本来の虚偽の中からなのだ。
たまたま、ぼんやりとした星あかりの下で、彼らの夢が封じ込められたチューブがちらと目に入ることがあった。たまに、ごくたまにだが、その計画の中身はまずまずのものに思われた。大部分はまるで大したものではなかったが。例えばつい今しがた、夢を小劇に組み立てていた人間のチューブを、三人の魔女でからっぽにしてやったばかりだ。また別のチューブの中身は人間の頭を燃え立たせ、ブラックホールの中へと放り込んだ。己の居場所を求める内に、ブラックホールによって時の狭間に呑み込まれ、自動車がプレス機にひと握りされるかのごとく恐るべき圧力で押しつぶされる様にしてやった。そんな目に遭うのも、つまりこの哀れな奴のもつれたところをからめ取って、街やら川やら人間としてのつながりやら教会の鐘つき塔やら山々やら旗やら雪やら歴史やらその他いろいろなものを取り去ってやるためなのだ。
そこで思い出すのは、ダンテ・アリギエリとかいう者のチューブを、うっかりダイダレイオスだかダイダロスだかいう者のそれと取り違えてしまった時のことだ。私にそれほど責任があったわけでもない。私は疲れていたし、それだけでなく、この二人は名前がDで始まるし、この二人の夢は何やら構成が神秘的で、一方は迷宮の様だったし、他方は死者だけが乗るある種の初歩的な地下鉄みたいだったからだ。だから、チューブを空けて入れ換えて、それからはっと間違いに気付いたのである。私の手元に残っていたのは、最初の相手に中身を流し込み過ぎてしまったチューブだけ。とこういう次第だ。ところが、私の予想に反して、上司ゼウスは何故だかそれをみとめてくれた。私が帰還した時、彼の表情はこの上もなく暗かったが、私が許しを乞うと途端に表情をやわらげ、そればかりか私の方へかがみ込んでこう言ったのだ。
「おまえの小さな間違いも、下界では深刻なことになるのさ」
そら御覧!そう言って彼は、その二人の内の一人が書いたばかりの本を私に見せた。
(分かっていたこととはいえ、私を更に激しく驚かせたのは、人間の一生の短いことだった。私にとっては一夜のことでしかなかったあの時間も、下界の哀れな者達にとっては、彼らのひと世代が生まれて死ぬのに充分な程だった。ほんのひととき前に起こった出来事も、彼らにとっては太古の昔の出来事というわけだ。そう、例えば、私がまだ任務から戻らぬ内に、あの孤独な者達の一人は、私の注いだものによって頽廃させられ、更には人間の結びつきを頽廃させ尽くすべく、詩編の刊行に着手していたのだ)御覧、と言ってゼウスは私にその本の題名を見せた。
「神曲 地獄篇」
この本はダイダロスのものとなるはずだった。それがこれだ。(ゼウスは、本の作者名が印刷してあるところを指差した)そしてこのダンテ・Aこそ、迷宮に陥るべきだったのだ。それなのに、おまえのうっかりで、下界の誰も想像すらしなかったことが起こってしまった。
私は何とも返事のしようがなかった。ただ阿呆の様に笑うばかりだった。かの地では出来事が実に深刻に受けとめられていた。とりわけそれが、時の流れに関わるものであれば尚更だった。彼らにとって時は、過去から未来へと、一つの方向へ進むものなのだ。もし、その逆もあり得るのだ、過去が未来の後に来ることもよくあることなのだ、また未来や現在や過去が同時にやって来ることだってあるのだ、などと言ったものなら、彼らはいよいよ頽廃しきっていたことだろう。
またある時(あれは確か、騒がしい夜だった。私の疲れ方では不充分だとばかりに、帰路につく身に彗星が降り注いでいた)私の身体をさすりながらゼウスは言った。自分がチューブの中身に気をつけているのは、それがよく洗い落とされていないからだ。現にチンギス・ハンとかいう者のチューブには、以前に使った分がちょっぴり残っていた。そのために、アドルフ・Hというドイツ人の夢が混ざってしまった。また、ジョイスとかいう者は、名前は忘れたが、どこかの盲目の老人のチューブの中身と同じことをしでかしたのだ。
殊更に私を驚かせたのは、この我が上司がそれでもなお人間の頭脳について、微妙な問題、例えば治安の問題、それに対する可能な協定の問題に関わるのと同じ程の真剣さで関心を持っていることだった。
我々の仲間内では、このことについてあらゆるやり方で説明が為されている。大多数は、それは彼の趣味に過ぎない、という考えだ。だがプロメーテウスは、本当の目的は別にある、と主張している。ゼウスは人間を恐れており、彼にはこうするより他に方法がないのだそうだ。我々はと言えば、それを信じようと信じまいと、彼の言葉を聴いていないかの様にふるまっている。口にしないほうがいいと分かっていることがままあるものだ、という風に。
また今は、徹底した秘密裏にゼウスが人間改造計画を準備している最中なのだ、とも噂されている。更にまた、凶夢を携えた私のこの往来こそが、この新しい計画の先行工作に他ならない、とも。
【本短篇に興味を持たれた方は、ぜひ村上光彦氏訳(ただし仏語訳からの重訳)によるカダレの長編『夢宮殿』(東京創元社1994)を御一読頂きたい。】