註1 この箇所を書いた1990年11月の時点で、私はその1カ月後に起こった事態を予測できなかった。この本が印刷に回された12月、学生と知識人のデモに引き続くアルバニアの民主化は、遂に前進を開始したのである。「春はその芽を冬から受け継ぐものだ」に、次のように付け加えさせてもらいたい。「しかし冬でも実りを収穫することはできる」

2 トディ・ルボニャは、アルバニア・ラディオ・テレヴィ局の局長だったが、1973年の悪名高い第4回中央委員会総会で批判された。あらゆる教科書、学位論文、演説や「アルバニア労働党史」などでは、ありもしない「トディ・ルボニャとファディル・パチュラミ一派」の首謀者(或いは文化に対する陰謀)として言及されている。これは1973年から1976年に及ぶ一連の糾弾の発端となった。

3 のちに人々からこの名で呼ばれるようになった、100行余りのこの詩は、「光明」紙の副編集長A・M氏によって印刷にまわされたが、木曜日の夜(発行日が毎週日曜日だった)、不明瞭な点の多い状況下で、1部がエンヴェル・ホヂャに次ぐナンバー2であったヒュスニ・カポの手に渡った。詩は直ちに押収され、作家連盟の党書記A・K氏は印刷された詩と原稿全部を提出するよう要求した。このためテクストは紛失してしまったが、或いは中央委員会の文書室に収容されているかも知れない。私は詩の中の最初の部分だけを憶えている。「政治局は午後開かれる」 そして次のようなくだりである。
 赤いパシャ達、党の御墨付き男爵達  石油成金達、悪運の強いベイ達  古い典礼の賛歌を唱和しつつ
 革命の棺を、墓場へと運ぶ  数年後、ラミズ・アリアの執務室での話し合いにいあわせた作家のラザル・スィリチは私にこう語った。「会議でとったメモを昨日見て、我が目を疑った。社会主義陣営全体の中で、1人の作家があれほど激しく糾弾されたということが、私には信じられない」

4 アルシ・ピパはその研究の中で、「城(雨の太鼓)」「偉大なる冬」そして何より「石の年代記」といった小説において私が共産主義体制、とりわけエンヴェル・ホヂャに反対の態度をとっていることを明らかにしようと努めていた。アルシ・ピパの非難は特に「石の年代記」に関するそれにおいて、私を終身刑か、それ以上のひどい状態へ追いやるに充分なものだったが、彼なら、どれだけ多くの人がエンヴェル・ホヂャの私生活に関与したかどで消されたか、よく知っていたはずである。

5 この法案が阻止されたことで、スィグリミはユリ・ポパ博士に対する意趣返しを試みた。長期間にわたり彼に対する中傷じみたキャンペーンが展開された。あらゆる機会を可能な限りとらえて利用することにたけたこの連中は、今度は、ユリ・ポパがエンヴェル・ホヂャの担当医の1人だった事実をつかんでいたのである。相対する2方向から非難が行われた。国際会議に参加するような自由主義者の医師である彼が、エンヴェル・ホヂャの死期を早めたのではないかという疑念が、ごく限られた範囲ながらささやかれていたのだ。また正反対のことも言われていた。ユリ・ポパこそ、エンヴェル・ホヂャの専門医として特権を享受していたという噂が広がっていたのである。かくしてこの学者は各方面で孤立させられそうになった。
 実際のところ、ユリ・ポパ博士は医者というだけでなく高名な知識人であり、数回に及ぶ外国旅行も、彼の並外れた、アルバニアの学問分野においても常に誇るべき、才能と教養に資するためのものだった。また思うに、エンヴェル・ホヂャの担当医師団の中にいたことで、彼が面倒ごとや不安の他に得るところなど、何もなかっただろう。(なお本書が印刷にまわされた頃、1990年12月22日にティラナで創設された人権擁護委員会では、ユリ・ポパ博士が委員に選出された。)

6 フォト・チャミは政治局で唯一、学位を持つ人物で、期待にたがわぬ自由主義的改革派と見られていた時期もあった。かつてアルバニアのナンバー2と目されていたが、後に影響力を失った。察するところ、外国報道で褒めまくられたのが主因らしい。7月事件の後にヂェリル・ジョニが登場して、フォト・チャミの失墜は確定された。悪しき保守派の巣くう政治局から彼が排除されたのは突然のことだったが、どこか混乱と矛盾に満ちていた。明らかに、均衡維持を理由とした故意の混乱、補償とされた可能性がある。或いは、学生達に対する過日の暴行に不満だった彼が(こうした不満は他の機会においても、実力行使に対する彼の発言に見られたが)辞任したのかも知れない。

7 予測はどうやら正しかった。民主化闘争に初めて広範な学生、知識人が加わったことは、私の脱出が一部で考えられていたような失望でなく、逆に奮起を促したことを実証した。新聞報道によれば、その衝撃は激しかったらしく、アルバニアから私に宛てた数十通の手紙でも、そのことは再確認できた。実際、1990年12月に知識人が舞台に登場したことは、時宜を得たものであり、民主化の隊列にとって決定的なものだった。私が去ってほんの数日後、国は、それまで店頭に出回っていなかった私の最新作2冊の販売を許可した。それは単に、数時間の内に60000部もの本が民衆の手に入ったということだけでない。もっと重要なのは、アルバニアの国家が初めて示した、前例のない寛容さであった。逃亡作家の本が売られたのである。作家が逃亡して48時間後にそんなことをするような国は、東側にはなかった。こうして国は反対派との共存を受け入れたのである。事実、国は野党を認可した。アルバニアの知識人、そして何より学生達はこの上なく甘美なひとときを享受することができた。

8 のちにこうしたグループからアルバニア最初の野党、アルバニア民主党の基盤が生まれた。その中にいたのはサリ・ベリシャ、グラモズ・パシュコ両氏、著名な作家にして記者のB・ムスタファイやその他の面々だった。複数の筋の情報によれば、サリ・ベリシャ氏は、議長のもとへ赴いて学生達の要望書を手渡し、野党認可の確約を取り付けた人物だという。その数日後サリ・ベリシャとグラモズ・パシュコは首相に対して自分達の政党への公認を求めた。そして彼らはそれを成し遂げた。今や国の内外に知られているこの政党は、困難な道、民主化へ向けた未知の、予断を許さぬ、起伏に富んだ道を歩み始めた。
 アルバニアは予想外にも、複数政党制の許可からほんの数時間にして、確たる綱領を持ち、威厳と教養を備え、信頼し得る最初の野党を生み出した、最初の共産主義国家だろう。
(その他の政党で、早くも非合法下で結成されていたことを後日表明したエコロジー党は、その綱領において何ら野党たる形跡が認められず、どのような人物によって運営されているかについてもいまだに示されていない。それは1945年時の共産党における秘密主義を想い起こさせるものがある。)

9 大使館をめぐる危機的な時期の間、亡命者を非難する声明を出すことが多くの文化人に要求された。引き受けた者もあれば、拒否した者もあった。私は明瞭に拒否したし、声明らしきものすら一切出さなかったのだが、そのことも、スィグリミが著名人を失墜させてきた方法と経験を活かして正反対のことを拡大させるのを防げなかった。そして悪いことに、嘘がまかり通った。スィグリミの仲間達がそれを外国人記者にまで押し広げた。一部の記者達は事実を確かめるために頭を使おうともせず、至るところでアルバニアのスィグリミによる虚構を蔓延させてしまった。
 このような欺瞞が行われたのは、私を、親戚が国を離れているような人々と殊更敵対させるためであった。そして同じことが、かなり限られた範囲ではあるが、私の作品である「書斎への招待」についても行われた。今度は私を同業者達と対立させようとしたのである。この本のフランス語版にはアルバニアの作家に対する非難が含まれているとの噂が広まった。こうした手段でスィグリミは、私に対立する作家達の声明を難なく引き出そうと考えたのである。しかしスィグリミにはそれができなかった。詩人のルドルフ・マルク、画家のZ・マティ、アナスタス・コンド、外国人記者に自分をいっぱしの文士のごとく売り込んだ無名人達のようなごく僅かな例外を除けば、作家や芸術家達がスターリン主義と結託することはなかった。

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