この連載はイスマイル・カダレ( Ismail Kadare )著 Nga një dhjetor në tjetrin. ( Fayard, Paris 1991)の序章及び第1章の日本語訳である。作品の原題は直訳すれば「或る年の12月から翌年へ」とでもいうべき意味だが、内容を考えてとりあえず「アルバニアの雪どけ」とした。実際の原註は巻末にまとめられているが、連載回毎に分けて掲載した。作品全体は「第1章 記録」「第2章 往復書簡」「第3章 希望」の3部構成になっている。第2章と第3章も、機会があれば訳出したい。
訳出にあたりフランス語版( Printemps albanais. (traduit par Michel Métais) Fayard, Paris 1991)並びにドイツ語版( Albanischer Frühling. (übersetzt von Miriam Magall) Neuer Malik, Kiel 1991)を参考とした。フランス語版はアルバニア語からの翻訳だが、ドイツ語版はそのフランス語版からの重訳である。また、未見だが、1992年にロンドンの Saqi 社から Albanian Spring. The Intellectual and the Dictator. の書名で英語版も刊行されている。
イスマイル・カダレは1936年アルバニア南部のジロカスタル( Gjirokastër )に生まれた。ティラナ( Tiranë )大学、その後モスクヴァのゴーリキー国際文学研究所で文学を専攻し、アルバニアがソ連との国交を断絶した1960年代以降は主としてアルバニア国内に留まり、アルバニア作家芸術家同盟の一員として作家活動に携わってきた。ちなみに妻エレナ・カダレ( Elena Kadare )も国内では著名な作家である。
カダレの主要作は英語、ブルガリア語、チェコ語、デンマーク語、フランス語、ギリシア語、ドイツ語、オランダ語、ハンガリー語、イタリア語、ノルウェイ語、ポーランド語、ポルトガル語、ルーマニア語、ロシア語、セルビア語、スウェーデン語に翻訳されているが、特にフランス語訳については小説のほとんどが Fayard 社から刊行されており、容易に読むことができる。同社からは著作集の刊行も進んでいる。
数ある小説の中でも有名なものとして、第2次世界大戦後に旧侵略国イタリア・ドイツから遺骨収集にアルバニアを訪れた一団とアルバニア人との微妙な確執を描き、著者を「アルバニアのイェフトゥシェンコ」として一躍有名にし、マルチェロ・マストロヤンニ主演で映画化(1982年)もされた「死せる軍隊の将軍(1963年)」、アルバニア民族の歴史や因習に題材を取った「婚礼(1968年)」「城(1970年)」「三本柱の橋(1978年)」「冷血(1980年)」「裂けた四月(同)」や、出身地であるジロカスタルを扱った「石の年代記(1971年)」、ソ連との国交を断絶した1961年前後の世界とアルバニアを舞台にした作品「偉大なる孤独の冬(1973年)」や「或る首都の11月(1975年)」等を挙げることができる。
この中で「偉大なる孤独の冬」は1977年に「偉大なる冬」と題して再刊され、カダレの代表作としてフランスやドイツで高い評価を受けている。また詩人としても多くの作品集を出しているが、更に詳しい作品の紹介については次の文献を参照していただきたい。
Robert Elsie: Dictionary of Albanian Literature. (Greenwood Press, Westport 1986)
Tefik Çaushi: Universi letrar i Kadaresë. (Dituria, Tiranë 1993)
Tefik Çaushi: Kadare. Fjalor i personazheve. (Enciklopedike, Tiranë 1995)
Injac Zamputi: Ekskursion në dy vepra të Kadaresë. (Dituria, Tiranë 1993)
カダレは人民議会の代議員だった他、第9節でも話題にしている様に、アルバニア民主戦線(アルバニア労働党の指導下にあった大衆組織。労働党体制下では人民議会の議席を独占する仕組みになっていた。議長はエンヴェル・ホヂャの妻ネヂミェ・ホヂャ)の副議長を努めた。一見すると「体制側知識人」の様だが、ことがそれ程単純でないのは、本文、特に第7節のアルシ・ピパに対する反批判を再読すれば明らかであろう。1990年の2月から5月にかけて、他の知識人らと共に、当時の最高指導者ラミズ・アリア( Ramiz Alia )労働党第一書記兼人民議会幹部会議長に書簡或いは会談で食糧事情の改善、宗教活動禁止の解除(労働党は1967年、中国型の『文化大革命』を自国で展開し、キリスト教の教会やモスクを破壊、閉鎖して『無神国家』を宣言し、宗教活動を禁止した)、複数政党制導入等の改革を求めたが、状況の遅滞(または悪化)に失望し、遂に9月末、家族を連れてパリへ亡命した。本文は、この一連の経過を作家カダレ自身の視点で記録したものである。
ここで、本文で扱われている時期を概観しよう。旧「東欧」に於ける変化のドラマは1989年12月のチャウシェスク処刑(第2節)で一旦その幕を降ろした(日本の新聞がルーマニアの件に触れる際、『東欧最後の』を枕詞の様に頻発していたことは個人的に印象深い)。だが、とり残されたアルバニアのドラマが始まったのは翌年の2月だった。首都の目抜き広場でデモの噂が流れ(第3節)、スターリン像に爆弾が仕掛けられる、マルクス・レーニン主義の文献や労働党指導者の著作を専門に扱う書店「フローラ」が襲撃される等、不穏な動きが各所で始まる(第2節)。流血を未然に防ごうとする国内知識人達の動きはアリア議長への請願となって表れ(第4~5節)、一定の譲歩を得る(第6節)。しかし、労働党内保守派と内務省直属の秘密警察「スィグリミ(『治安』の意味のアルバニア語)」の攻勢により、前進の一方で、それと引き換えの後退が画策される(第7節)。カダレは新聞と議長宛て書簡を通じて改革の推進を訴え、5月8日の人民議会は全欧安保への参加を表明する一方、食糧事情の改善、一部保守派の更迭、出国の自由を約束した。折からアルバニアを訪問したペレス・デクエヤル国連事務総長を、アリア議長は歓迎する(第8節)。
だが国連事務総長がいなくなると状況は再び逆戻りし、カダレは民主戦線の会議の場で保守派の頭目であるネヂミェ・ホヂャ(Nexhmije Hoxha)議長と対決する(第9節。なおこの節で著者がアルバニア人の人種差別観を率直に語っている箇所があり、興味深い)。こうした中でアリア議長から返信が届くが、それはカダレに深い失望を与えるものだった(第10節及び第1節)。そして遂に、6月から7月にかけて「大使館駆け込み」事件が発生、衝突と、最も恐れていた流血の事態が起こる。大量の出国者をしり目に、労働党は強制的に動員した政治集会で権力を誇示する(第11~13節)。続いて地方都市カヴァヤでも流血の惨事で少年1人が射殺され(ただし中央に対する抵抗運動は見られたのだが)、カダレは亡命を決意(第14~15節)、実行する(第16節)。
その後の情勢は急速に変化した。11月から年末にかけてアリア議長は信教の自由や複数政党制の導入を表明、戦後最初の野党として「アルバニア民主党」が結成され、次いで翌年には「アルバニア共和党(党首サブリ・ゴドは長編『スカンデルベグ』や『アリ・パシャ・テペレナ』等で知られる作家)」やギリシア人組織「オモニア」、環境政党「エコロジー党」、労働党からの離党者達による「アルバニア社会民主党」等が登場した(労働党保守派は『アルバニア共産党』を結成したが、間もなく非合法化された)。
しかし翌年1991年3月31日に行われた人民議会選挙では、依然強大な組織力を有していた労働党が6割以上の得票で勝利し(似た様なことはブルガリアや旧ユーゴスラヴィアでも見られたが)、民主党他を含む挙国一致連立政権が誕生する。
1991年3月31日(補選4月8日) 総議席数250
労働党 169(67.6%) 民主党 75(30.0%) オモニア 5(2.0%) 退役軍人会 1(0.4%)
労働党は6月の党大会で西側社会民主主義政党をモデルとする「アルバニア社会党」に改組、社会主義経済体制やプロレタリアート独裁に関する項目を削除した新憲法を制定し、新設された大統領の座に着いたラミズ・アリアのもとで穏健な改革に乗り出した。だが結局この連立は長続きせず、相次ぐ分裂とゼネストの頻発で崩壊し、翌年1992年3月22日の人民議会選挙で民主党が単独与党の座を奪い、サリ・ベリシャ党首が大統領となった(もっとも、社会党はこの時点でなお最大野党であった)。
1992年3月22日(補選3月29日) 総議席数140
民主党 92(65.7%) 社会党 38(27.1%) 社民党 7(5.0%) 人権同盟 2(1.4%) 共和党 1(0.7%)
※「人権同盟」は「オモニア」の議会組織。
1994年11月、ベリシャ大統領は新憲法草案の是非を問う国民投票を実施したが、5割を越える反対票によって草案は否決された。与党民主党内では、社会党への対応をめぐって現党首エドゥアルド・セラミ( Eduard Selami )とベリシャ大統領との間の対立が噂され、大統領の威信は低下した。一方、社会党、社会民主党、民主同盟党等の左派は1995年2月末、共同新憲法案を発表した。また他方では共和党、「国民戦線」党、「合法運動」党(この2団体は、第2次大戦中に民族解放戦争の主導権をめぐって共産党と対立し、戦後史では一貫して否定されてきた)等の右派が右翼連合を結成した(ただし1994年結成された民主右翼党は、こうした動きから距離を置いた)。
そこから1996年5月総選挙、1996年後半からの混乱、6月総選挙、社会党政権復活後の動きについては、別サイトに譲る。
亡命声明後のカダレは、主にフランスで著述を続けている。1990年代に入ってからは「H文書(1990年)」や、本文でも言及されている「アイスキュロス この大いなる喪失(同)」「書斎への招待(同)」「恐るべき闇(1991年)」がフランスに続いてアルバニア国内でも出版された。最近はアルバニアにもしばしば戻る様になり「ピラミッド(1995年)」「鷲(1996年)」「アラン・ブスケとの対話(同)」などが刊行されている。アルバニアの新聞紙上のインタヴューにも登場し、アルバニア国内の情勢について発言を続けている。