アルバニア最新情報


「オトラントの悲劇」

 …アルバニア全土が混乱の只中にあった1997年3月28日、金曜日の夜。南部の町ヴロラVlorëを出港した小型船「ラダ4」Katri i Radësが、オトラントOtranto沖でイタリア軍の艦船と衝突。アルバニアを脱出しイタリアのブリンディシを目指していた乗客約120人もろとも沈没した。大多数は女性と子供だった。

 日本の新聞では3月29日から4月3日にかけてごくわずかにしか報じられなかったこの事件は、今日もなおアルバニア人社会の中に「黒い金曜日」の忌まわしい記憶として残っている。

 時期が時期だけあって国内メディアでも情報が錯綜し、事件の経緯にはまだ不明な点が多い。事件直後に34人が救助され、子供2人を含む4人の死亡が確認された。翌日イタリア国防省は、これ以上の行方不明者が見つからなかったと報告。しかし当時のアルバニア政府(フィノ首相)は、生存者からの情報として依然79人が行方不明のままであることから、イタリア政府に正式の調査を依頼。その後沈没船の引き揚げ、周囲の捜索によって発見された遺体は50人近くに。

 特に問題になったのは衝突の原因だった。イタリア側は「不慮の事故」であった点を強調。しかし当時イタリア軍がアルバニア脱出者の入国を阻止し始めていた背景もあり、アルバニア国内(特にヴロラ)では一時、故意に「撃沈」されたとの反伊感情が高まった。30日には、当時南部の反政府勢力を掌握していた「救国委員会」による数千人規模の抗議集会がヴロラで行われ、多国籍軍(イタリア軍を主力とする)の投入さえ一時危ぶまれた。

 4月2日、イタリアのプロディ首相はヘリで南部のジロカスタルGjirokastërに入り、フィノ首相と会談(ヴロラへは入れず)。事件の犠牲者に弔意を示し、援助の用意があることを表明。間もなく多国籍軍が海路アルバニア国内に展開、治安回復へ向けた「アルバ」作戦は無事(?)開始された。

 そして事件から8カ月が経過した11月14日、ようやく52人の遺体がヴロラに戻り、ナノ首相とプロディ首相が出席して追悼式典が行われた。13日と14日は国民の服喪日となり、コソヴォも含めたアルバニアの各都市で追悼の行事、礼拝などが続いた。なお、主要日刊紙10社(与党機関紙のZëri i Popullitを除く)が予定していた14日の発行ストライキは、こうした事情に配慮して15日に変更された(Koha Jonë 29.10. 02.11. 06.11.97 Klan, Dita informacion, Zëri i Popullit他、11月14日付各紙)。


 解放記念日論争ひとまず決着。(Koha Jone 31.10.97)

 第2次世界大戦中、アルバニア共産党(後に労働党、今は社会党)率いる反ファシスト国民解放戦線は各地でイタリア、ドイツの両占領軍と戦い、1994年11月17日にはティラナ、そして29日のシュコダルShkoder解放をもって全土を解放した…ことになっていた(もちろん、日本語で書かれた文献でも全てそうなっている)。11月29日は「祖国解放と人民革命勝利の日」として、労働党体制消滅後も祝日のままだった。

 しかし1993年12月、前年発足した民主党政権の下で祖国解放の日は11月28日となった。当時の共産党シュコダル地区委員会の文書の中に28日付の「解放」声明があった、ということが理由の一つらしい。おまけに1912年の11月28日は、ヴロラの国民議会がアルバニアの独立を宣言した日でもある。民主党政権は28日をアルバニアの独立解放記念日として盛大に祝い、一方社会党は従来通り29日を記念日として扱い続けた。

 10月30日の人民議会はこの問題で議論。与党社会党は祝日を29日に戻す法案を提出、民主党は「エンヴェル・ホヂャへの郷愁だ」と反対。反共産党系解放運動の流れをくむ「国民戦線」党は「ファシストに対して戦ったのは、赤い星をつけた連中だけではない」「11月29日は、ホヂャによる(当時アルバニアに影響力を持っていたユ-ゴスラヴィアからの)引き写しだ」と非難。自称「アルバニア共産党中央委員会」のマクシム・ハサニMaksim Hasani議員が激昂、ドリテロ・アゴリDritero Agolliやスパルタク・ンジェラSpartak Ngjelaからは、双方に自制を求める発言。「そもそもの間違いは、民主党が解放記念日を変えたところから始まっている。この調子では、議会の権限で人の誕生日まで変えられかねない」

 結局、野党は退席。解放記念日を29日に戻す案は議場にて可決された。議員中、唯一のパルティザン経験者であるドリテロ・アゴリ曰く;この日付もまた、ベリシャ政権下の政治犯の一人だ。


 近頃ファトス・ナノはついている?

 首相就任100日を迎えて、11月2日の週刊誌「クランKlan」は特集を掲載。その中で、ティラナや周辺都市の市民約1000人に実施した電話アンケ-トの結果が発表されている;

 現政権に満足しているか?   はい58% いいえ18% 無回答24%

 現政権に早急に取り組んで欲しい課題は?   ねずみ講で失った金の返済61%   武装解除と治安の回復28%   雇用の創出9%   何も期待しない2%

 現政権は何年続くと思うか?  4年55% 3年3% 2年5% 1年25% わからない16%

 現政権は「国民和解政府」たり得ていると思うか?   はい43% いいえ21% わからない36%

 テレビでは閣僚を連れて公開討論番組に出演し、政権の意義を強調。連立与党の一角を占める民主同盟党の第1回党大会(31.10-01.11)に登場して盛り上げた。もっとも他方の社会民主党からは、社会党による連立内の不一致を指摘する声もあるが(Koha Jone 08.11.97)。

 ナノ首相はギリシアでの第1回南東ヨ-ロッパ諸国会議、開催地にちなんで通称「クレタサミット」に参加し、11月3日にはミロシェヴィチ大統領と会談。ほぼ半世紀ぶりにユ-ゴスラヴィア国家の元首との対面を実現させて、セルビアとの対立緩和、コソヴォ問題の進展をアピ-ル。ただしコソヴォの学生達は、セルビア側と会ったこと自体も含め、おしなべてこれに批判的(Koha Jone 04.11.97他)。


 近頃サリ・ベリシャはついてない?

 政府による通信人事への批判として、国営放送局前で右腕のアゼム・ハイダリAzem Hajdariらとハンストを仕掛ける(Koha Jone 01.11.97)。ただ、その後ティラナの中心で演説しても、もはやかつての様にスカンデルベウ広場を埋め尽くす程の聴衆は集まらない。

 続いて民主党、及びその会派「民主主義のための同盟」の名で地方都市の官公庁に11月7日のストライキ突入を呼びかけた。当日、民主党側は全土でストライキ突入との声明を出した(Rilindja Demokratike 06.11.97 08.11.97)が正確には、ティラナも含めて18の県で、参加した役人は420人。与党は「政治的動機に欠けた職務放棄」と非難(Koha Jone 08.11.97)。

 もちろん、彼は現政権には容赦がない。「クレタサミット」でのナノ・ミロシェヴィチ会談について「ナノは投降した」「サミットで得をしたのは、国際舞台に登場できたミロシェヴィチの方だけだ」「1960年会談(ユ-ゴスラヴィアによるコソヴォ統治を故ティト-との間で確認したと言われる)の再現だ」と酷評し、「私だってセルビアの友人達から招待を受けている」とまで豪語。「ミロシェヴィチがティラナに来ても会うつもりはない」が「コソヴォとセルビアの対話は必要だ」とし、問題の解決には「平和的抗議行動とコソヴォ議会の招集」こそ必要と指摘(Koha Jone 05.11.97)。100日目のナノ政権については「もはや辞任するしかない」(Koha Jone 08.11.97)

 ところで「オトラントの悲劇」から8カ月。民主党は、ヴロラで行われる政府主催の追悼式典に党首脳が出席することを強調。しかし、この日ベリシャは外遊中のはずなのだが?(Koha Jone 11.11.97)


 アルバニアの有力右派政党の一つである共和党は11月5日と6日に第3回党大会を開いた(大会報告はRepublika 06.11.97)が、最終日にサブリ・ゴドSabri Godo党首が突然辞意を表明。後任にはファトミル・メディウFatmir Mediu副党首が選出された。  アルバニアでのゴドは、1991年の共和党結成まではむしろ歴史小説「スカンデルベウ」などの作家として知られた人物。共和党は民主党政権下で連立の一翼を担ったが、ゴドは、社会党には言うまでもなく、ベリシャ政権をも是々非々の立場で厳しく批判してきた。辞任後の会見では、92年から辞任を求めてきたものの今日まで条件が整わなかったことを説明、「私は、余人に代えがたい長老ではない」と自身への権威付けを否定し、後継者となるメディウ新党首への信頼感を表明した。名誉議長就任の可能性については「壁に掛けられる写真になるより、党中央の一党員として活動していきたい」(Koha Jone 07.11.97 08.11.97)。


 民主党は「影の内閣」を作成(Koha Jone 07.11.97)。サリ・ベリシャが大統領、党内ナンバ-2のゲンツ・ポロGenc Polloが首相、アゼム・ハイダリが内相という、ほぼ世間の予想通りの布陣。かつてナンバ-2だったが昨年来ベリシャとの反目が伝えられるトリタン・シェフの名前はなし。なお、ドゥラス支部の代表フェルディナンド・ヂャフェリFerdinand Xhaferriが運輸相というのは、鉄道公社の経歴を買われたためか。

 続いて、キリスト教民主党も影の内閣を発表(Koha Jone 09.11.97)。どちらかと言えば民主党に近い同党の独自案だが、何故か大統領候補は現職レヂェプ・メイダニのまま。


 作家ミラ・メクシMira Meksiが代表を務めるヴェリヤVelija文化財団の97年文学賞が発表された。小説の部ではヴァス・コレシVath Koreshiの「ウルクとウィリ」、詩の部ではヂェヴァヒル・スパヒウXhevahir Spahiuの「未完」が選ばれた。両氏には賞金2500ドルが贈られる(Koha Jone 31.10.97 Zeri i Popullit 01.11.97)。「ウルクとウィリ」は著者曰く、15~16世紀のアルバニア語世界に着想を得て書かれた作品で、その語体は難しくも魅力的。一方、最近アルバニアの出版界では新旧ギリシア文学の翻訳(ホメ-ロス、サッポ-、カヴァフィス、カザンザキ)が続いている(Zeri i Popullit 08.11.97)が、「未完」にもポルフィラス、セフェリス、ヴァルナリス、リツォスのスパヒウ訳が収められている。

 有力な文学賞として定着したヴェリヤ賞だが、ちなみに初回95年の受賞者はキム・メフメティKim Mehmeti(小説)、ヴィサル・ジティVisar Zhiti(詩)。96年はバシュキム・シェフBashkim Shehu(小説)、ドリテロ・アゴリとバルヂュル・ロンドBardhyl Londo(共に詩)。


 今アルバニアでは歌手アルディト・ジェブレアArdit Gjebrea率いる「プロイェクト・ヨンProjekt Jon」(直訳すると「イオニア計画」)の曲が大人気。最近アルバニアへいらっしゃった方には、ビンゴのテレビCMの曲、と言えばお分かりでしょう。アルバニアの伝統的民俗音楽に現代風テイストを活かした曲調が、世代を超えて受けた様です。詩人ヂェヴァヒル・スパヒウも「転機と希望の音楽」と絶賛(Koha Jone 01.11.97)。11月9日と10日に行われた初ライヴには、あのガゼボも出演。しかもアルバニア語の歌詞まで覚えて!(Koha Jone 09.11.97 Zeri i Popullit 09.11.97)

 ソロス財団やイタロアルバニア銀行等と共に協賛者でもある独立系日刊紙「コハ・ヨネ」は10月20日、27日、11月3日の3回にわたって入場券150枚をプレゼント。


 11月5日と6日に「ミス・アルバニア」選考会。23歳から15歳までの計55人が17日の選考会へ(Koha Jone 09.11.97)。この時点で更に31人になっているはずですが、それにしてもこの国民的ミス・コンいつまで続くのだろう?

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