XI
その二カ月後。スレモフの死

 実は、スレモフはそれから69日後に死んだのだ。しかしラーオコオーンも、そしてトロイアの誰一人として、彼が最期を迎えたことをまったく知らなかった。それは、トロイア自体がその前に死んでいたからという、しごく単純な理由によるものだった。
 彼が忘我の境地にあり、日に日に身体のあちこちが硬直しつつあったその頃、トロイアの燃えた灰はその廃墟の中でゆっくりと熱が冷めつつあったが、その芯まではなかなか冷えなかった。
 彼がトロイアの滅亡を知っていたのかどうか、誰にもわからなかった。後に粘土板の中から見つかった、彼の言葉と思われる僅かなものの中からそれを推し測るのは困難だった。
 スレモフはヒッタイトに着いた時には既に病におかされていた。身内の者たちとの別離に対する絶望感、祖国の運命に対する不安、自分の行為に対する疑念といくばくかの後悔の念、それらが彼を完膚なきまでに打ちのめしたのだ。空しくも彼は、自分の頭脳と肺腑にはトロイアの栄光が宿っていると友人たちに言われた言葉を想い起こし、己の魂を持ち直させようとした。だがそれも長くは持たず、ヒッタイト人たちの疑念に満ちた態度や言葉に、彼の不安は再び増していくのだった。
 実際、当時トロイアとは良好な関係にあったにもかかわらず、ヒッタイトはトロイアに対する不誠実な態度を隠そうとしなかった。彼らが発する問いは極めて不愉快なものだった;粘土板に記さねばならないというそれは、一体全体何なのか?なぜそんなに急ぐのか、その粘土板を次はどこへ持っていくのか?
 無理解が広がったのは、ヒッタイト人たちには『ユーリアス』に相当するようなものが過去にも現在にもほとんど存在しなかったからで、ましてや粘土板に刻むことなどはお話にもならなかった。彼らが粘土板を用いるのは主に外交上の書簡や声明のためであり、そこに刻まれ得るものは死者に向けた哀歌(ヒッタイト語に『詩』という言葉が見当たらなかったので、スレモフは代わりに『哀歌』の語を使った)であるという考え方、そういうものを刻むのだという考え方こそ、疑いようもなく、この奇矯なヒッタイト人たちにはお似合いだった。
 そうした事柄はさらにスレモフを苦しめた。そして彼があきらめてトロイアへ帰ろうとしていたその時、おそらくまさにその時に、ヒッタイト外交官の極秘の伝令がかの地より到着し、スレモフとその任務に関する情報をもたらしたのだ。
 そのことが、詩人に対する態度を一変させた。彼が必要とすると思われる一切のもの、粘土板に書記、そしてトロイア人の言語を楔形文字に翻訳できる熟達者たちが確保された。
 スレモフはそのことに何ら喜びの姿勢をあらわさなかった。うつろな目で彼は粘土板を見つめるだけで、その全身には、顔といわず髪といわず手といわず、際限のない苦悩があるばかりだった。
 何日もの間、彼はそうして粘土板の前にいるだけだった。時折、何かを口にしようとするかに見えたが、顎に震えが出てそれを妨げるのだった。まるでそこに口枷を嵌められてでもいるかのように。
 黙ったまま、スレモフの支援者たちは彼のもの言わぬ苦悩ぶりを目で追っているだけだったが、その原因については皆目見当がつかなかった。一部の者たちは、スレモフが詩の内容を忘れてしまったのだと思った(私の頭からこの地獄を取り除くには何を引き替えにすればよいのだ、と彼は後に彼らの内の一人に語っている)し、また特に変わった説を思いついた者たちもいたが、彼の本当の苦悩、彼が粘土板に向かって示そうとした負い目や罪悪感や恐怖感は、誰一人として理解することができなかった。
 それは、吟遊詩人たる種族の、いにしえよりの苦悩であった。始まりははるか昔、文字が生み出された頃にさかのぼるが、とりわけそれは、禁断の言葉が始めて思想として表れ、彼らの詩もまた書き残されるようになった頃からのものだ。
[訳注;『吟遊詩人』の原語aedëtは、フランス語版でもaèdesで、ギリシア語aoidós『歌人,詩人』に由来する]
 疫病が蔓延したという知らせなど、このような話に比べれば、吟遊詩人の耳にはましに聞こえるものだった。狂気に満ちた雰囲気に突き動かされたように、あちらこちらと歩き廻り始め、互いの身を打ち合い、嘆き叫び合い、長髪をかきむしって、文字の発明者たるシュメール人たちを追放したりもした。或る者たちは、自らが支配者と認める者たちのもとへ行っては正義を希求し、また或る者たちは絶望のどん底に沈み、いまだ文字の作り出されていない地へと逃れ、錯乱し、或いは自らの命を絶った。
 もしも、文字の発明が人間にとって最大の苦しみであったとして、しかもそれが、文字という枷によって人間の自由な発想を凝り固まらせてしまうからだとしたら、吟遊詩人たちにとってこのような発明は何十倍も殺傷力のあるものだということになる。彼らがこの世の終わりを想像することなどは、彼らの詩歌が粘土板の上に結び付けられ文字を刻むための針によってはりつけにされ(神よ!)死罪に処せられたようになることに比べれば、まだましなことなのだ。
 いやいや、そうではない。彼らは嘆き悲しみ、気でも狂ったようにあちらこちらから立ち去っては、その立ち去った方向から舞い戻り、知らない方角へ向かって歩き出しては、それによって苦痛をまぎらわそうとした。それでも苦痛は断ち切れなかった。詩が文字によって結び付けられることなどない、と彼らはみな泊まり先の宿屋でむせび泣くのだった。それでは詩が死んでしまう、息の根が止まってしまう、と。
 詩を粘土板に刻み付けるなど、詩を死人の棺桶に寝かせるも同然だ。呼びかけても、肺腑は詰まりもう起き上がることもできない。血管は固まり新たな喜びも、新たな憂いも、もはやそこには流れない。恋している女のように気持ちを変えさせることも、抱き寄せることもできない、なぜって死んでいるのだから。そうなったらあなただって嘆き悲しむ。地面に崩れ落ち、四十もの涙を流して泣き叫ぶのだ。
 そうしたことの全てが、粘土板を見つめたまま固まっていた時のスレモフには思い出されていたに違いない。吟遊詩人たちによるそのような混乱が、結局は、勅令によって詩歌を書くことの禁止へとつながった。ところがスレモフは、おそらく真っ先にその誓いを破ったのだ。
「お前がしたことは、ユーリオンのためなのだ」
彼は自身に言い聞かせた。
「トロイアのためなのだ」
[訳注;原語Yllijonはアルバニア語ylli jonë『我らの星』と、トロイアの別名であるギリシア語イーリオンĪlionをかけた作者の造語]
 トロイアは、我らすべての上にあるもの。心に不安がよぎり、その不安の中、彼はようやくのことで『ユーリアス』の最初の三行を刻み付けた。熱に襲われ、頭の混乱が身体中に回ったのだろうか?その顔は真っ青で、歯がみしてどうにか震えをこらえようとしていた。寒気があった。やっとのことで四行目を取り上げた;
『トロイアにとっては残念なことになるだろう、だがもう遅い、何もかも手遅れだ』
五行目は、一言たりとも口にすることができなくなった。顎が急に重くなって、まるで錆び付いた金属のようだった。
 医者たちにも、容態を緩和させることはできなかった。それから後の数日間、彼はほんの数時間だけ我に返っては、更に何行かを彫り込むに至ったのだが、そこにはまるで脈絡がなく、それらはいよいよ熱に浮かされたようになっていった。その数行の内の一行には、彼が見たギリシアの艦隊とヘレネーのことが唄われていたが、その他の行についてはよく理解できなかった。彼が埋葬されて後、二十枚余りに及ぶ粘土板の束はとりあえず裁判所の建物内の地下室に保管された。人々はそれらをどう扱ったらいいかわからなかったので、首都へ移送しようと考えていた。ところがそんなことをしている間に向こうから命令が来て、トロイアに関するものは一切運んではならないという。なぜならトロイアがもう存在しないからだった。
 粘土板を収めた箱は裁判所の建物から、反対側にある遺失物保管所の建物へと数回に渡って運び込まれた。この建物が、新しい庁舎を建てるというので取り壊される間際には中にあったものが総ざらいされたが、その時、住民たちが引き取っていったものの中には粘土板も含まれていた。それを持っていった或る人は、最も大きな板は家の浴室の床張りに使用し、さらに何枚かは家にある噴水の湧き出し口を飾るのに用いた。
 それから数年後、疫病が流行ったためにその家は、周辺の他の多くの家々と同様、長年にわたって放置され、荒れ果てた。噴水は完全に壊れ、辺りの土地は長い間、そこから流れる水のために泥沼と化していた。スレモフが最期を迎え熱に浮かされながら刻んだ粘土板はそのままにされていて、あちこち泥にまみれて見えなくなっていたが、辺りにはもう誰も住んでいなかったので、それらに気をとめる者もいなかった。
 それから二千五百年後、隻脚のティムールの軍団が猛り狂う風の如くこの地を通り過ぎた時、一頭の馬の蹄に、太陽の光に輝く何やら固い物が当たって二つに割れた。後を走っていた騎馬兵がその光るものに気付き、もう少しよく見ようと振り向いたが、一団の走るのが余りにも速かったので全く止まることができず、おまけに、土煙が辺り一面もうもうと立ちこめていた。
[訳注;ティムール帝国創始者であるティムールの渾名「隻脚のティムール」は原語版Timur Leng、フランス語版Tamerlanで、共にトルコ語Timur-lenkより由来]
 それから六百年後、ヒッタイト語の解読が始まる少し前に見つかった粘土板の片割れが、どうやらそれらしい。数千枚ある他の粘土板には事務的な文書が書かれていたのだが、その粘土板だけは表面に詩が、正確に言うと、詩の半句が書かれていた。しかし解読されたその言葉は、何とも予言じみたものだった;『だがもう遅い、何もかも手遅れだ』
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