XII
トロイア陥落から一年後。
メネラーオスの宮殿。春。
彼は客間から聞こえてくる彼女の声に、目を伏せた。彼女がそばにいるようになってからもう何ヵ月か経つというのに、毎日毎日が夢というヴェールでもかけられたかのようだ。とりわけ、朝はそうだった。
あの苦難の年月の間、それこそ本当に何度となく夢の中に彼女はあらわれた。目覚めた時に彼女がいないことほど辛いことはなかった。幾度か医者に頼んで、夢を見なくなるような薬を探してもらったりもしたが「ご主人さま、そんな薬はございません」と言われたこともある。
そして今、彼女は彼のそばにいる。友人たちの声に混じって、彼女の話す声が聞こえてくる。早くそちらへ行きたくて辛抱できなくなった彼は、髪結い係に急ぐようにと合図を送った。彼女が去ってからは、抜け毛が一番憂鬱なことの一つになっていた。誰かの視線を感じるたび、彼は思ったものだ。
「たぶんこいつも、私の髪の毛が抜けてきたことに気付いているのだろう。それが彼女のせいだということもきっと・・・ましてやあのトロイアの色男には、あんなにふさふさの巻き毛があったのだ・・・だが今はあいつもその巻き毛もろとも土の下に・・・」
やっと髪結いが済んだので、彼は友人たちのところへやって来た。大抵の客がそうだが、ここでも彼らはニュースにこと欠かなかった。アガメムノーンの未亡人は、愛人と公然と同棲しているそうだ。実は夫の方が殺されたのもその不倫関係が原因で、あの政治じみたたわごとのためではなかったらしい。
[訳注;アガメムノーンはトロイアからギリシアに帰還後、妻クリュタイムネーストラーとその愛人アイギストスによって殺された。理由については、アガメムノーンが娘のイーピゲネイアを騙してアルテミス神の犠牲にしようとしたことへの恨みだとか、アガメムノーンがトロイア遠征の途中で捕虜とした神官クリューセースの娘を愛人として囲ったことへの嫉妬だとか、諸説ある]
「バカな女」
とヘレネーは言ったが、彼女が本当は『売女』と言いたいのを辛うじてこらえているのだということは、誰もが感じていた。彼女にとっては従姉妹だったにもかかわらず、最もしゃくにさわる存在だった。総じて、何かしら恋愛がらみの話をぺちゃくちゃしゃべるどんな女たちよりも、しゃくにさわるのだった。口さがない連中は、ヘレネーが従姉妹に妬いているのだとか、もう恋愛沙汰から手を引いてしまったのだと言っていた。若い自分に男遊びに興じた女というのは往々にしてそうなるものだ、とも言われていた。もっとも、メネラーオスはそうは思っていないだろう。
話題を変えようと、メネラーオスはオデュッセウスのことを訊ねた。だが彼に関してはまだ何の知らせもなかった。いまだにイタケーにも到着しておらず、彼がどこにいるかは、神のみぞ知るであった。彼は溺れ死んでいるだろうという神兆もあった。だがその一方、オデュッセウスの妻ペーネロペーは、自分に言い寄ってくる若い求婚者たちをすげなく追い返していた。まさに彼女こそ妻の鏡だ。
[訳注;オデュッセウスはトロイア戦争後アガメムノーンと共に出帆したが、嵐のために別れ別れになった(海神ポセイドーンの怒りに触れたためとされる)。その漂流中の冒険を歌ったのが、ホメーロスの『オデュッセイアー』。イタケーはイオニア海に浮かぶ島で、現在のイサカ]
女は信用できるかどうかというところに会話が戻りそうになると、客たちはどうにかその話題を避けようとした。なぜなら、首吊り役人の家で紐の話はするものでない、とことわざにもあるからだ。
しかし彼らが驚いたことには、メネラーオスもヘレネーも、そういう話に全く気分を害していなかった。それどころか、ヘレネーは話をさらに煽ってさえいた。彼女が人の道について語っている間、客たちは目のやり場に困っていたのだが、そのうち彼女は、自分が経験した男遊びの数々にも言及し始めた。彼女がそういう話を切り出したことで、その場の真面目な雰囲気はすっかり解きほぐされ、会話は一層愉快なものになった。
罪深い考えを振り払おうとすればするほど、客たちの視線は一層しげしげと、その主婦の、薄い上衣から透けて見える身体の線へと向けられるのであった。いやはや、時の流れというのは速いものだ。例のアヴァンチュールの時、彼女は二十五歳だったのに、今はもう四十を過ぎている。腰の辺りが少し太くなり、頬の肉はたるみ、腕の肉付きもずっとよくなったが、それでも、昔以上ではないにせよ、昔と同じくらいに愛しい女なのだ。
ヘレネーが戻ってきたことは町に住む女たちに波紋を巻き起こしたが、それは、彼女の帰還から九ヵ月たって町の出生数が上昇したことからも明らかだった。
しかし、彼女がいることによってかき立てられたのは、客たちの想像だけではなかった。客たちが家を辞して後、他ならぬメネラーオス自身が、彼女が浴室を使っている内に、情欲のとりことなっていたのだ。そして彼の情欲もまた、客たちの存在と無縁ではなかった。どんな客であっても、妻を盗む男となり得るのだから。だが驚くべきことに、その怒りと不安に混じって、激しい愛欲が彼を飲み込んだのだ。それはまるでどす黒いマグマのように、どこか奥深いところからこみ上げてくるのだった。
ヘレネーはようやく浴室から出てくると、裸のままで彼のそばに寝そべった。彼は長い間、彼女の太腿の付け根を、それからその奥の、彼女の肉体の翳りの部分を見つめていた。そして低い声で、前に何度もした質問を繰り返した;
「最初、あいつに連れて行かれたのは、どこの島だ?」
「それはもう言ったでしょ・・・よく憶えてないのよ・・・島なんてどれも、名前なんかないし、同じようなものばかりだったんですもの」
彼女の声はずっと吐息混じりだったので、それが彼の感覚をさらに燃えたぎらせた。
「それでも、思い出してくれよ・・・」
「憶えてないわ。もう随分前のことだし。たしか船の上だったけれど、船が揺れるから、頭がふらふらしていたの・・・」
「ならその後の宮殿では?宮殿だよ、トロイアの、ずっと良かったんじゃないのか?・・・」
「そうね・・・あそこは別だったわ・・・あとは、私たちが着いた日の夜には、トロイアのほとんどの窓に朝まで明かりが灯っていたのを憶えているわ」
「そこでお前はあいつと最初のオーガズムを経験したんだろ?」
「・・・そうよ」
沈黙があった。
「でも、それは滅多にないことだった。あの人は私の不感症ぶりをずっと嘆いていたわ・・・」
「そうかい?畜生め」
「私に子どもができないことにも不平を言っていたわ」
「ふむ・・・だがデーイポボスとなら別だったんだろう・・・あいつとはずっとたくさん愛し合ったんだな、そうだろ」
[訳注;デーイポボスは、ヘレネーを連れて行ったパリスの弟]
「だから言ってるでしょ・・・ええそうよ・・・その通りよ・・・それだけじゃないわ、兄の方よりも、よかったのよ、雰囲気が、そんな感じだった・・・何と言えばいいのかしらね・・・トロイアの抱える不安を感じたわ・・・トロイアが滅びる予感・・・何もかもがいつもお祭りのようでもあり、お弔いのようでもある感じがしたの・・・そういう感じに、私はとらわれていたような気がするのよ・・・あと、あなたが前よりももっと近くにいて、すぐにまた会えることもわかっていたわ、それに・・・」
「それに、何さ?」
「それに、あれが・・・木馬が造られ始めた時からよ・・・どんな話題の中でも木馬のことが言われていた・・・あなたがあの中に、他の人たちと一緒に隠れているんだわって・・・ああ何て馬鹿げた話かしらね、でも、そういうことだとわかっていたから、あそこにたどり着くのを想像しないではいられなかった・・・」
「あそこって、どこだい?・・・聞かせてくれよ・・・もっと話して・・・」
「あそこって、その・・・馬のところよ・・・私が夜の間にこっそりと城門を出て・・・あの怪物の足元まで来て、そうしたらあなたが上から紐を降ろしてくれて、私がそれで上に行けるように・・・」
「で、それから?・・・」
「それから服を脱いで愛し合うのよ・・・こんな風にね・・・」
「ああ・・・そうだな・・・」