XIII

 暖炉の前に座ったまま、ゲント・ルヴィナは、さっきからずっと踊っている二組のカップルの方を見ながら、くるくる回るレナの髪の、金色のヘアピンがちらちらとまたたくのを目で追っていた。
 既に深夜を回り、何人かの招待客は、隅の方にあるソファや椅子に腰掛けて、ダンスに興じる連中の邪魔にならないようにしていた。
「神話って、情熱的なものね」 と言いながら、その家の夫人がゲントの隣に座ってきた。
「ちょっと前にあなたがしてくれたアキレウスの話は素敵だったわ・・・ギリシア文学で最初の英雄であり、しかも、反英雄・・・間違ってたらごめんなさいね、あなたが書いてる学位論文ってその話なんでしょ?」
「うーん・・・ある意味ではね」
とゲントは答えた。レナの髪につけたヘアピンがそこから輝きを放っていたが、その輝きはぎらぎらしていて、触れると傷つきそうだった。
 招待客の一人が会話の仲間に入ってきた。
「裏切りのアキレウスか。ふむ。逆説的ということは、いつだって美しいものだね。しかし僕が君の説でいいと思うのは、アキレウスが戦車の原型だったというところだよ。君は自分の着想を突き詰めるに当たって、彼のかかとのことも忘れていなかったんだからね、要するに、対戦車兵器を見出したわけだ」
「もしアキレウスが秘密兵器だとしたら、かかとは、その秘密が一時的にあらわれたものだろう」
とゲントは答えた。
「歴史の中では、どんな兵器もそういう形で姿をあらわしてきた」
「実にいいことを言うね。アキレウスは当時としては最先端の兵器だったわけだ。もっとも、その反英雄としてのはたらきについては、正直なところ私にはよくわからなかったんだがね」
[訳注;反英雄antiheroとは、典型的ヒーロー像にあてはまらないヒーローのこと。アンチヒーロー。原文では英雄hero/反英雄antiheroの関係が、戦車tank/対戦車兵器antitankの関係と対比されている]
 ゲントは、彼らが会話を切り上げてくれるようにと、しばらく微笑んでいた。どうやら彼には、これ以上その話を続ける気がないようだった。相手はまだ何か訊きたそうだったが、ちょうどそこへダンスを終えたレナが座ってきたので、みんなは少しずつ場所を入れ替えた。
「ああ暑い!」
と言って彼女は髪をかき上げた。
 間近に見る金色のヘアピンは、弱々しく、神秘らしさもなかった。
「退屈?」
そう言いながら彼女は首に手をやった。
「いいや、どうして?」
「つまらないんじゃないの、神話の話なんかして。あなたがそんな話なんかしたくないのはわかってるのよ。でも話のきっかけは私のせいね。一緒に踊る?」
 踊っている間、二人は長いこと喋っていたが、それはすぐに忘れてしまうような話だった。だが彼女は、何かしらねばりつくようなものが、踊っている間にも彼の話し方をのろのろとさせているような気がした。レナはさっきからずっと不安に襲われていた。そして彼に「訊きたいことがある」と言われた時は、足元が崩れるようだった。
「君に訊きたいことがあるんだ、悪いんだけど。でも答えて欲しいんだ」
 彼の声は尋常でなかった。少しかすれていて、その聞き慣れない息遣いの中にかき消されてしまいそうだった。
「訊いて」
彼女は言った
 レナの首筋は白く、無防備だった。祭壇に捧げられた犠牲のようだった。
「今まで訊いたことがなかったけど、あいつとの身体の関係のことなんだ・・・君が僕に話してくれたのは、あいつが冷たい男だったということだけで・・・それで、こんなこと訊きたくはないんだけど・・・ただ、君がちゃんと満足できていたのか、それだけ知りたくて、要するに、君がオーガズムを得ていたのかって・・・」
 レナはゲントの腕の中で、他殺死体のように全身をこわばらせた。
「答えてよ」
ゲントは低い声で言った。
「君を信じている。こんなことを訊くのは、これが最初で最後だから・・・」
彼はレナをいたわるように「ごめんね」と言って髪を撫でたが、彼女は口を開かなかった。その頬は涙で濡れていたが、肩には震えているような気配がまったくなかった。それから沈黙と静寂が続いたが、先に肩をぶるっと、まるで黒いコートが肩から落ちそうなほどに震わせたのは、他ならぬゲントの方だった。
「何てことをしちまったんだ」
彼はつぶやいた。そしてまた身を震わせたが、それは先ほどとは違って、顔から仮面を振るい落とそうとするかのようだった。
 その日の夜明け前、レナは自分の部屋でその事件のことを思い出そうとしていたが、それは思い出すそばから彼女の中で溶けていくのだった。
 レナは寝つけなかった。先ほどのゲントとのやりとりを思い出そうとし、また思い出し直そうとしたが、そのきっかけらしきものは何ひとつ浮かんでは来なかった。
 不意に、カバンの中に彼のメモ書きが何枚かあることを思い出した。レナは立ち上がると、音を立てないように苦心しながら、そのメモを探し出した。明け方の薄暗い光の下で、ゲントの神経質そうな筆跡で埋められた行の一つ一つを貪るように読み始めた。
『デルポイの神託。当時の神秘的な機構。
 重大な事件を目の前にして、ギリシアもイリュリアもほとんど全ての国家が、のみならずペルシアやシュメールの王たちまでもが、伝令を走らせて神官らと協議していたというこの事実こそ、この名高い神託がまさしく、国際化された政治機構の一つであったことを示している。
 それは、会談の場であり、脈を推し測る場であり、様々な権謀術策が渦巻く場であった。そこではさしあたっての突破口が開かれ、意見が投げかけられ、可能な限りの同意策が先立って論じられていた。要するに、記者会見なり今日の公式な声明なりを欠いていたから、このような国際機関が立ち上げられたのであり、それはしばしば、今日で言うところの「赤いテレタイプ」[訳注;電送式印刷機]の役割を演じていたのだ。神官らによる熱のこもった発言は、確かに、政治の専門家たちによって伝えられたことの解読を可能にするカギであった』
『アキレウス。最初の英雄。最初の脱走兵。
 アキレウスとアガメムノーンの確執が、一人の女をめぐってのものでなかったことは、きわめて明らかだ。
[訳注;アガメムノーンは、愛人クリューセーイスを父である神官クリューセースのもとに返した後、今度はアキレウスの愛人であったブリーセーイス(ヒッポダメイア)を奪った。このためアキレウスとの間に確執が生じ、アキレウスは戦闘から一時身を引いたとされる]
 原因は他にある。つまりアキレウスは戦争から逃げ出したかったのだ。ギリシアは、他の多くのことと同じように、その事実を隠蔽した。
 しかしホメーロスがこの真実に一筋の光を投げかけた。ホメーロスは、神聖なる者たちがアキレウスのために持ち出してきた二者択一に考え至った。いわく、もしアキレウスが戦場に留まれば死ぬが、未来永劫続く栄光を勝ち得るだろう。もしアキレウスが戦場を去れば平穏に歳をとれるが、栄光は得られないだろう。これは、様々なやり方で多くの人々に対して突きつけられてきた、典型的な二者択一の論法である。
 そして、多くの人々と同じようにアキレウスも、二つの選択の間で苦悩したのである。行きつ戻りつし、長いこと思い悩み、ついに或る朝、生への欲求が栄光を欲する心を上回り、そして彼は戦場からの逃亡を宣言したのだ。
 アガメムノーンはこれに恐れおののいた。
「アキレウスの逃亡は、軍の解体を意味する」 彼はきっと、指揮官会議の席でそう言ったに違いない。おそらく、自分がこの戦争のため、おのが娘を犠牲に供することをためらわなかったということにも言及していただろう。他の者たちも同じことを言っただろう。
[訳注;アガメムノーンはトロイア遠征時、アルテミス神に「今年生まれた最も美しいもの」をいけにえに捧げると誓った。ところがその年に娘のイーピゲネイアが生まれたため、彼女をアキレウスと結婚させると騙して呼び寄せ、同神の犠牲にしようとした。アルテミス神は彼女を憐れみ、タウロスの地へと逃した]
 だがアキレウスの気持ちは揺るがなかった。彼が同意したのはただ一点のみであった;「戦場からは去らない。しかし、戦争には加わらない」
 無論ギリシア軍には、この抜きん出た英雄が戦いから身を引いた真の理由は知らされなかった。ましてや、彼がもはや戦闘に加わらないということなど。そんなことが伝わったら最後、軍の解体は不可避のものとなる。数千のギリシア兵たちがアキレウスの場合と同様の二者択一に右往左往し、誰のことも信じようとしなくなるに違いない。それだからこそ軍に向けては、二人の指揮官が女のことでもめている、としか知らされなかったのだ(単純な思考をもってすれば、似たようなまやかしは大いに信じ込まれてしまうのが常である)。
 不思議なことに思えようが、このことからアキレウスこそ、長く続き過ぎて無意味なものになった戦争に倦み疲れた、最初の人々の一人であったことがわかる。彼は勝利への確信を失った。そうしたものより生への誘惑の方が上回れば、その苦悩の光景は完全な姿で描き出され、彼は精神的危機に陥り、ひとり浜辺をとぼとぼと歩くのだ。ホメーロスの英雄の中で最も奥底の知れないこの人物は、彼自身の時代を離れた、未来へのまなざしを備えて、現代という時代に近接している」
『ホメーロスの失明。世界と同じくらい古くからの疑惑。私もその疑惑に同感だ。彼には眼でなく真実の望遠鏡が備わっていたに違いない。その見事な場面描写は、旅客機からでなければ得られるものではないのだ。彼がいつの時代に生きていたか知らない人なら、この年老いた吟遊詩人がローマ~アテネ~イスタンブール便を何度も利用していたのだと思い込んでしまうだろう』
『Hの失明は単なる符号ではない。彼が、霧に覆われた、つまり人間の目には見えないものごとを歌っていたということを示す、象徴なのだ。こうしたものごとの前では、大衆のほとんどが盲目となる。ところが大衆はそのことを受け入れず、自分らの代表である詩人を盲目にさせるのである。要するに、自分たちの前にある幕を取り除けて、それを詩人の目にかぶせてしまう。有罪か?無罪か?後者の方がずっとありそうだ』
『スレモフの問題。トロイアにも彼ら自身の詩人がいたと考えるのは、当然なことだ。後にギリシアへやってきたH.とは違い、トロイアは自分たちの国民的詩人をと躍起になっていた。なぜなら、トロイアには未来がなかったからだ』
『だから我々は、トロイアにおけるホメーロスをという最初の、いわば前ホメーロス的な試みを、推し測ることができる。私はその名はREMOHだと考えた。HOMERのアナグラムだが、自分の手が勝手に動いて、頭にThをつけていた。即ちThremohだ。だがそれは、彼がHomerthのような者であったと言いたいのではない。ヨーロッパのこの地域ではアルバニアとギリシアにしかない“th”の音素を用いて、その名前にギリシア-イリュリア的な色付けを施したかったのだ。』
[訳注;バルカン半島の主要な言語の内、ブルガリア語、マケドニア語、ルーマニア語、セルビア語、クロアティア語のいずれにも[θ]の音はない。例外は現代ギリシア語とアルバニア語]
『トロイアの陥落から一年後。メネラーオスの宮殿。春。
 ヘレネー、四十歳。
 問題はM...』
 苛立った手つきでレナはカバンの中をかきまわして、もう紙きれは見つからないかと探したが、メモはそれで終わりだった。
「問題はM...問題はM...ああ何てことなの?あの人は、こんなことで苦しんでいたかも知れないっていうの?一度だって、何も教えてくれなかったのに」
彼女はそう思った。
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