XIV
春の雨は、再三にわたって大地を湿らせた後、地面の一部を泥に変え、或いは水溜まりだらけにした。そこには雲や、ごく稀に、飛び回る鳥や、そして孤独な空が鏡のように写り込むのだった。
時々、腹ばいになり、肘をついて、彼らは四六時中も水溜まりの面を眺めていた。また時に運が良ければ、雲は稲妻をも抱え込んでひっきりなしに往来し、鳥たちは怯えてあちらこちらでずっと鳴き騒ぐのだった。しかし大抵の場合、水溜まりの表面には荒んだ空模様しか見えなかった。
「ゆうべの月は嫌な感じだったな」
とロベルトが言った。
「見たか?」
誰も返事をしなかった。
「あれはまるで悪魔だったよな」
ロベルトは喋り続けた。
ミロシュがあくびをした。
「俺に限って言えば、月がそんな風に見えたことは一度もなかったな」
と彼は言った。
「女と月を比べるってのは聞いたことがあるが」
アカマースが言った。
「そういう比較は間違いなく、単細胞な連中のすることさ」
ミロシュが言った。
「この月と、女の間に何の共通点があるっていうんだ?」
ロベルトが笑って
「遠くて、手が届かないところさ」
と言った。
するとミロシュは考え込んだ。
「それはその通りだ。まったくな、女のことでは散々だった」
「そりゃお前はそうさ」
とアカマースは言って町の方を指さした。何千という人々が、そろそろ冬服を脱ぎ始めていた。そうしたら間もなく海開きだ。
「俺が考える邪魔をしないでくれ、アカマース」
言われた方は軽蔑気味に笑った。
「俺たちは月の話をしていたんだ」
ロベルトが言った。
「ゆうべの月は見たかい?そいつが前脚のところにある大きな水溜まりにあった時は、悪くはなかったと思うんだが、それからぬかるみの方へ移り出したら、じめついた黄色いゼリーみたいになっちまった。見てて気分が悪くなりそうだったよ」
「おい、何で俺が考える邪魔をするんだ」
とミロシュが言った。
「だったら他に何を邪魔すればいい?」
それからしばらくの間、沈黙を破る者はいなかった。
木馬の製作者は本を読んでいた。マックスはタバコを吸っていた。オデュッセウス・Kは胸元で手を組んで、何やら思案していた。
「こん畜生め!」
ロベルトは言った。
「俺たちは背中を散々にどやしつけられた。脚が埋もれてしまってからというもの、もう身体を思い切り伸ばせやしない」
木馬の製作者は本を閉じると、ロベルトの方を見た。メガネのガラスが分厚かったので、その奥の目が小さく、ぼやけて見えた。
「ロベルト、木馬は少し傾いてる」
と製作者が言った。
「だが泣きごとを言うほどじゃない」
「眠れないんだ」
とロベルトが返した。
「肩がこってしようがない」
「そりゃ、脚が少し埋もれたからな」
木馬の製作者は言った。
「誰にも予測できなかったことだ」
「問題は、それを予測しなきゃならなかったことじゃないか」
ロベルトがいらついた口調で言った。
「問題はすべて土台にある。俺たちの場合は土台が悪いんだ。あんたは、ここは地面がどこも弱いんだって知ってるだろう。
だが俺たちはこのぬかるみのど真ん中に落ち込んで、そうしてだんだんと、ぬかるみに飲み込まれていくんだ。すぐに木馬の腹のところまで泥につかるぞ。そうなったらどうする?」
「まだそうならないうちからパニックになるもんじゃない」
木馬の製作者はそう答えた。
「俺は、パニックになんかなってない。俺は冷静に訊いてるんだ:木馬の腹が泥につかって水が中に入ってきたら、どうするんだよ?」
「何とかするさ」
「あんた、わかってないんじゃないか?」
すると木馬の製作者は本をその場に置き、低い声で言った。
「ロベルト、俺たちは何度この話をした?何度その問題を説明した?少しは、年長者の俺に敬意を払ったらどうなんだ?」
「わかった、わかったよ」
ロベルトは、少し黙った後でそう言った。
「あんたを馬鹿にするつもりじゃなかったんだ」
「お前だってよくわかってるだろう」
木馬の製作者は言った。
「この木馬はひと晩の内に造られたんだということをな」
「そんなの、知らないわけがないさ」
「あの夜は」
と木馬の製作者は続けた。
「お前たちはみんな、木馬が夜の内に造られるとは信じていなかった。あれは、俺の人生で一番長く、同時に一番短い夜だった。あの夜がどんなに暗かったか、憶えてるかい?まるで何千という夜の闇が次々と積み重なって、その夜の暗さを作り出したようだった」
「確かに、信じられないくらい暗かった」
「それで俺たちは前から決めてかかっていた、あの夜が最も真っ暗に違いないと。そう、だからこの夜、俺は木馬の建造を指揮した。お前たちは信じなかったがな」
「どうして信じられる?重たい板材や角材が腕から腕へと運ばれて、まるでどこかわからない真っ黒なところから来て、どこかわからないところへ消えていくようだった」
「だがそれらが、俺の命令の下で組み立てられていったんだ、俺が精魂込めた設計図に従って」
「長い夜だった。時々、作業しているのが一世紀ぐらいのように思えたよ」
「それは俺も時々そう思ったよ。あの夜は、二千年、三千年も前のような気がするな」
とアカマースが入ってきた。
「記憶は受け継がれるっていうよな」
ロベルトが言った。
「もし本当にそうなら、魂の不死というのは単に世代から世代に伝わる記憶に過ぎないと考えてもいいんじゃないかな。だけど、過去の追憶とかとは関係なく、あんたは確かに大した設計士だよ。人類の巨大建造物の歴史において、新しいものを形にしたんだからな。エジプトのピラミッドにもひけを取らないぜ」
「どうも、まんざらでもないよ」
木馬の製作者は言った。実際、彼自身が自分に言い聞かせていたことをロベルトに何度も言われたので気分が良くなっていたのだ。もっとも、ロベルトが本気でそう言っているのか、馬鹿にしているのかは定かでなかった。
木馬の肩を支えている木材の部分から水がしたたり始めたので、彼らは濡れないように少し場所をずらした。
「ちぇっ、また始まったか」
「いや、雲は小さいぞ」
「で、あの夜は、俺は何もかもについて考えなければならなかったんだ」
木馬の製作者は喋り続けた。
「何もかもだ、建造技術上の問題に始まって、木馬の外見に至るまで。なぜならば、とどのつまりはだな、これは芸術作品でもあって、その外見は多かれ少なかれ時代に即したものでなければならなかったからなんだ。木馬は今世紀における自動装置に似せたものでなければならなかった。中でも、トラックに見えるのが最も適切だ」
「始めに見た時、俺にはまるっきりトラックにしか見えなかった」
とミロシュが言った。
「お前たちは信じなかったがな」
木馬の製作者は言葉を続けた。
「だから夜が明け始めて、木馬が闇の中で輪郭をあらわし始めた時、お前たちはみんな口をぽかんとさせたままだった」
「そのことは決して忘れてないさ。木馬は俺たちの目の前に、おそろいほどのでかさで立っていた。半分は夜の闇と霧に包まれて、残りの半分はまだ寝ぼけた夢の中だった」
「そしてお前たちは、木馬の前ではちっぽけに見えた」
「それはよく憶えているよ」
アカマースが言った。
「たしか、最初に気付いたのはオデュッセウス・Kだったな。木馬の方に頭を向けて、かの有名なセリフを口にしたんだ:『この木馬は、あらゆる時代の人類を恐怖に陥れる!』」
「何だって?」
自分の名を呼ばれてオデュッセウス・Kは訊き返した。
「別に」
ロベルトは答えた。
「昔のことを思い出しただけさ」
「ついさっきまで月のことを哲学していたくせに、今は昔の思い出話にうつつを抜かしているとは」
オデュッセウス・Kは皮肉混じりに言った。
「じゃお前に言わせりゃ、どうしたらいいんだ?」
オデュッセウス・Kは返事をしなかった。
「どうやってあの町に入り込むか、頭を悩ませるのか?」
とロベルトは言った。
「そのために俺たちは何千日も何千夜も頭を悩ませ続けてきたんだからな」
「俺たちが向こうじゃなくて、まだここにいる限りはな」
オデュッセウス・Kはそう言って、町を指さした。
「それはつまり、まだずっと考えなきゃならないってことだ」
「いつまで?」
「『いつまで』だって?アカマースよ、お前は映画の中みたいなことを言うしか能がないんだな。映画のセリフなんかもううんざりだよ。特に『マリオよ、なぜそんなことに?』と言われるのには」
「マニアックだなお前は、オデュッセウスよ」
とロベルトが言った。
目をパチパチさせるような風で、オデュッセウス・Kは何か辛らつなことを言いたそうにしていたが、結局思い直した。彼は新聞を開いて読み始めた。木馬の製作者も再び本を読み出した。マックスは目を半分閉じたままでいた。うとうとしているようで、赤っぽい髭を剃らぬまま、胸元まで伸ばしていた。
「だから考えてもみろよ、年は去り、時は進む」
ロベルトは悲しげな口調で語った。
「いいか、こういう時代にはな、こういうことを言う連中が出てくるんだ、『五時か六時に電話してね』とか『公園の前で待ってる』とか」
「ああ」
ミロシュが答えた。
「それはすっかり忘れていたな」
「まるで俺たちが夢でも見ていたようだ」
「俺たちは忘れていた。この古ぼけた木造物の中に引きこもって、ずっと待っているのだから。待っているのだ」
オデュッセウス・Kが再び顔を上げた。
「大いなる目的があるなら、そのためには犠牲になることが必要だ」
「確かに」
とロベルトは言った。
「一つの目的という名の下での犠牲か。だが運の悪いことには、その終わりが見えないんだ」
「それは俺たちの責任じゃない。それにな、何も達成できてないというのは違うぞ。ここに、この町の地平線の上に俺たちがいるということだけで、奴らの精神状態に圧迫感や不安感を生み出しているんだ。俺たちは奴らの胸を重苦しくして、息もできないようにしてやるんだ」
「おい何だ、そんなことのために俺たちはここに来たのか?」
アカマースがそう言って間に入ってきた。
「俺たちがここに来たのは、奴らを息苦しくさせるためじゃない、息をさせるためだ。少なくとも俺はそう思う」
オデュッセウス・Kはそれを冷ややかな目で見ていた。
「違いない、アカマースよ、違いないぜ」
「町だ、木馬だ、お前が俺たちにそう言っているんだぞ」
アカマースは問い続けた。
「そうじゃないか?」
「そうだな、アカマース。町だ、木馬だ!だがどんなものにも、それ自体の時代というものがある」
とオデュッセウス・Kはうんざりしたような口調で言った。
そう言って彼は長いこと黙り込んだ。その沈黙を破る者は、沈黙の張本人である彼自身の他にはいないように思われた。
「どんなものにもその時代がある」
と彼は三度繰り返した。
「木馬は今まで多くの都市を手に入れてきた。何ものもその歩みを阻止することはできない。ただ必要なのは、忍耐だ」
アカマースは口を開いて、たぶん「いつまで」というセリフを言おうとしたらしい。実際それは映画から取ってきたものだった。しかしオデュッセウス・Kの嘲笑が思い出されたので、顎をぐっと引き締めた。
ミロシュは片方の手で支柱をつかんだまま、裂け目から遠くの方を眺めていた。
「いまいましい町め」
彼は怒りを込めてつぶやいていた。
「昼も夜も、あのいやらしい鉱炉や灯りを俺たちに向けてきやがる」
寝不足で赤くなった目でマックスは、鉄製のシャツの上に放り出された古代の槍を見つめていた。
時折、彼は絶望感に襲われるのだった。結局、あの町に入ることなどできっこないような気がするのだ。急に自分たちが足止めを食わされ、思いもよらず闇の中で、飛び越えねばならない境界を飛び越えることもできなくなった時の、あの悪夢のように。時には、あの町に頭から喰われるような気がするのだ。
ああ!
夏も残り少なそうだ。また長く憂鬱な秋の夜がやってくる。風が木馬の空洞を通り抜ける。最初は口笛のように、そして唸り声に変わっていくのだ。
オデュッセウス・Kは、裂け目から、水溜まりだらけの大地を見ていた。水溜まりの表面に灰色の大きな波が起こっているように見えて、彼は、その上でどう動いたものかと思っていた。
馬鹿どもめ。お前たちはこの俺が好きこのんでここに、この黴臭い半分暗闇の中に留まっているとでも思っているのか。昼も夜も俺のことを待っている家からも、家族からも、子供たちからも、妻からも遠く離れて。妻は暖炉のかたわらで俺を待ちあぐね、俺の黒いセーターを編んでいるが、その内にいらいらしてそいつを解きほぐし、それからいらいらしてまた編み始めるのだ。
きっと彼女の家族、彼女の母は、彼女が再婚してくれないかと気をもんでいるに違いない。だが彼女はそれを受け入れない。彼女は俺のために黒いセーターを編み続けるのだ。昼も編み、夜も編む。なぜなら彼女は知っているのだ、俺がいつの日か戻ってくることを。火のそばに座り、遠く過ぎ去った年月のことを語り始める日のことを。俺は、自分が異国の町で、いかにこの木馬の中に潜んでいたかを、町へ入ろうとしていかに長い年月を待ち続けたかを、いかに日々が流れたかを、始まりも終わりもない鎖のような夜がいかに過ぎていったかを、この古ぼけた木造物がいかに風や雨や吹雪におびやかされたかを語ってやろう。目の前にはよどんだ水と、危険と憂鬱がある。ああ、何たる憂鬱!