XV

 霧の日だった。建物も公園の木々もその中で、酔っ払ってでもいるようにゆらめいて見えた。
「あのね、私、できちゃったみたいなの」 レナは会うなりそう言ってきた。
「え?」
ゲントはその時、通行人の視線が好奇心に満ちてレナの方を見つめているような気がした。
「本当に?でも君はまるで・・・」
「私だってそう思っていたわ・・・でもね・・・私だってびっくりしたのよ・・・」
彼女の目は優しく、少しだけ眠たげだった。目の下の翳りが小さな夕闇のようだった。
「どうして驚いてるの?」
「驚いているさ、本当に」
ゲントは答えた。
「そんなこととは思わなかったから」
「行きましょう。ここにじっと立っているから、みんながじろじろ見てるでしょ」
 レナはゲントの手を取って、一緒に学生競技場沿いの道へと出た。
「レナ、本当なのかい?」
「当たり前よ」
レナは言った。
「でも君はまるで・・・」
「だからね、言ったでしょ。私だって信じられなかったわ、でも」
「でも、確かなのかい?何かの間違いじゃないのか?」
「あなたは、間違ってる方がいいの?」
「そんなことないよ、レナ」
「間違いなさそうよ。ゆうべ、寮の医学部の女子学生のところに行ってきたの。もう二カ月ぐらいのはずよ。」
 道路は人で溢れていた。カップルに、若い男子に、子供を乳母車に乗せた女性たち。
 レナはゲントの腕にもたれかかった。
「時間が流れて、一日一日が過ぎていくような感じ、憂鬱な、憂鬱な感じだったわ。時々だけど、まだ目も覚めないうちに朝が来たって感じがしていたの。そんな感じだけど、一日一日を数えているのは怖かった。何だか、冷たい計算をしていると、この魔法が急に解けてしまいそうで」
 ゲントはそれを呆然として聞きながら、何とはなしに、建物の正面のライトアップされた文字を読んでいた。
「何だか具合が悪いみたい、私どうしたらいいのかしら」
「何でそんなこと言うの?僕だって嬉しいよ、君と同じくらい」
「だったらどうして何も言ってくれないの?」
「びっくりしたんだ。それだけだよレナ、誓ってもいいさ」
 ネオンランプの明かりの下で、彼女の顔は普段より白く見えた。白くて、唇のかすかな赤に比べると少し不自然だった。それは徐々に色を変えていった。
 ネオンの明かりほど、二人の別れにうってつけのものはないな、とゲントは思った。二人の顔色は冷たく、遠く、互いにそれぞれの秘密を抱え込んでいるように見えるのだった。
「どこか店にでも入ろうか?良い知らせのお祝いをしなきゃ。ごめんよ、こんな風で。ごめんね。妊娠したなんて言われたら、キスしてあげなきゃいけなかったんだ。でもびっくりしてしまって。それだけ、嬉しかったんだよ・・・」
 レナはゲントの腕にしがみついた。
「どこへ行くの?」
「『ウィンターズ・カフェ』は?」
「あそこはいや、散歩している方がいいわ。今夜は暖かいから」
『ISISで生活保障』
[訳注;ISISは労働党時代に実在した国営の社会保険機関Instituti Shtetëror i Sigurimeve Shoqëroreの略称。ただしここでは、エジプト神話における冥府神オシーリスの妻イーシスと語呂を合わせている可能性がある]
「良い知らせのお祝いとはいいことを言う。知らせを伝えた。電報を送った。七ヶ月後には私はここにいる、あなたたちの間に、いや、赤ん坊が」
 タクシーが一台、二人の前で騒々しくブレーキをかけた。
「おい、どこに目をつけてる?」
運転手が運転席の窓から顔を出して怒鳴った。
 レナは楽しそうに笑った。手をつないだまま、二人はやや小走りに、警官が警笛をピリピリ吹き鳴らす中、交差点を飛び越えた。そうする間もゲントは指で他の標識をなぞっていた。
『子供たちに交通規則を教えましょう!』
 レナの目は、ずっと微笑を含んでいながらも、どこか遠くの方を盗み見ていた。まるで今にも、周りの家々の窓から子供たちが姿を現しでもするかのように。
 道の両側の建物はまばらになっていた。邸宅が立ち並ぶ道の前で、鉄製の柵の向こう側に広がる庭が薄暗く見えた。
 『ISISで生活保障』
「どこに行こうか?」
とゲントは言いながら、町外れの広告を見て、自分たちが町の外に出ていることに気付いた。
 その先の道は確かに薄ぼんやりとしていた。遠くから、ダンスの音楽が聞こえていた。
「この辺りに夏の公園があるはずなんだけど」
ゲントは言った。
「冬の時のこと、憶えてる?」
「ええ、憶えてるわ。連れてきてくれるって、あなた約束したでしょ」
ゲントは足を止めた。
「行ってみようか、そんなに遠くないはずだし」
「道を歩く方がいいわ。今夜は天気がすごく良いもの」
「それでもいいよ」
 二人は寄り添ったまま歩き続けた。音楽が遠くなったので、公園が背後に遠のいていくのがわかった。
「あの時のこと憶えてる?」
とレナが言った。
「ここは寒くて、暗くて、怖かったわ」
 レナの目は、何かを地平線の向こうに探していた。高速道路は、折から顔を出した月の光で白みを帯び始めた。一組のカップルが向こうを、二人の遥か前方を通っていった。遠くからでも女性の方の白いスカートと、その肩に置かれた相手の手が見てとれた。
「菩提樹の香りがする」
ゲントが言った。
「わかる?」
 レナはゲントの肩に頭を寄せた。ゲントは、月で弱められた暗闇の向こうを見つめていた。
 二人の前方を歩いていた女性の方は、レナと同じ金髪をしていた。
「一日中、今日の大学は、陰謀ばなしでもちきりだった」
ゲントが言った。
「じきに裁判が開かれるそうだよ」
「私たちの間でも話があったけどね、私は、正直言って興味なかったわ」
 レナはその間もずっとゲントの肩に頭を寄せたままでいた。
「もっと他の話をした方がよくないかしら」
「トロイアのヘレネー」
とゲントは独り言のようにつぶやいた。
「子供たちからそんな風に呼ばれてるの?」
「時々ね」
レナは答えた。
「前はしょっちゅうそう呼ばれたわ。今は、それほどでもなくなったと思うけど」
「そう呼ばれて、君は嬉しいと思う?」
「そうじゃないと言えばウソになるわ」
「でも、あんまり嬉しくないんじゃないかと僕は思うな」
「おかげさまで。でもね・・・」
「トロイアのヘレネーは、あんな大混乱を起こしたとかそういうこととは関係なく、単なる普通の女だったんだ」
とゲントは言った。
「どうして?」
「どうしてかって?」
彼はあわや叫びそうになるところだった。
「君は受け入れるのかい、例えばさ、僕たちが別れたとして、君が運命に屈して、元婚約者と一緒になるなんて?」
「決して」
レナは答えた。
「決して、ありえないわ」
「でも彼女はまさにその通りになってしまったんだ。あの戦争が全て終わった後、彼女は昔の夫とおとなしく宮殿に暮らして、そこで時々、世界からのニュースを受け取っていたんだ」
 レナはゲントのメモを思い出した。
『トロイアの陥落から一年後。メネラーオスの宮殿。春。』
「でもね、君は『決して』と言っただろ!だって君は彼女より上なんだから」
「ありがとう、神様・・・」
とレナは言った。
「『学位論文』はどう?」
「もう終わりだよ」
 実は少し前、ゲントは何となくだが、二人の会話の一部を、自分の著作のために選り出していたのだ。

『さあ、これだ』
と彼は言った。
『何が?』
『木馬さ』
彼女は彼の肩から頭を離した。
『月の光だと白っぽく見えるね』
『そう思えばそうも見えるかしら』
彼女は物憂げに言った。
『時間が経ってみると、何も印象がないわね』
『そうなのかい?』
『そうよ。以前は見ただけで恐ろしくなったわ、もっとも今はこういうことなんだけど』
『それは素晴らしい。でも、どういうわけだか君はこいつにおそれをなしていたってわけだ』
『それが、時間が経ってみると、ただの馬にしか見えないわ』
と彼女は言った。
『時間が経つと、馬どころかトラックにしか見えないのよ』
『すごいな君は!』
『今夜は特に』
彼女は眠そうに答えた。
『今夜は特にね、ゲント』
 彼は彼女の金髪を横目で見た。その手は、温かかった。
『前脚の二本がだんだん地面に埋まっているそうだけど』
『馬というよりトラックよ』
彼女は言った。
『支柱四本で固定されたトラックよ、支柱の二本が重みでめり込んで曲がってるんだわ』
 彼は彼女の髪を撫でた。
『あなたにはそう見えない?あれが昔の私たちに不安を与えていた木の入れものだなんて、おかしいとは思わないかしら?』
『いや』
 彼女は低い声で笑った。
『昔は、今とは逆だったわね』
と彼女は言った
『でもね、結局のところ、あれをどうすればいいと思う?あの原っぱに、かかしみたいに立たせておけばいいのよ。私たちは愛を語り合っている方がいいわ』
『あの中に潜り込んで、愛し合った方がいいとでも?』
『さあどうかしら』
と彼女は答えた。
『そんなの一度だって考えたこともないわ』
『もしいつか僕らが、この原っぱにいて雨に降られたとしたら、あそこは単に雨宿りするだけの場所かい?』
『さあ』 と彼女は答えた。
『そうね、あなたはどうなの?』
『僕は違うな』
と彼は氷のような声で答えた。
『あの骨組みの下で愛し合おうか・・・いやいや、とんでもない』
『あら、おかしなことを考えつく人ね』
 彼女は彼をなだめるようにその首筋を撫でた。
『トロイアのヘレネー』
彼が言った。
『子供たちからそんな風に呼ばれてるの?』
『時々ね』
彼女が答えた。
『前はしょっちゅうそう呼ばれたわ』

 高速道路は月の光の下で白っぽくなっていた。二人の前を歩いていたカップルの姿はもう見えなかった。遠くから聞こえる犬たちの鳴き声が、平原をさらに荒涼としたものに感じさせた。
「帰ろう」
とゲントが、少ししてから言った。
「だいぶ遠くまで来てしまった」
 レナは彼をずっと見つめていた。その目はぼんやりとして、時に輝いて見えた。
「これって、私たちのための夜だと思わない?今夜は嫌がらないでね、原っぱへ行ってみましょうよ。あそこに寝そべりたいわ、草の匂いを嗅ぎたいのよ」
 ゲントは何も答えなかった。
「ねえ」
 レナの瞳は月明かりで濡れているように見えた。道の両側には畑地が遠く広がっていた。捨て去られた犬たちの鳴き声が彼方まで響き渡り、それが果てしない感じを与えていた。
「ねえ、ゲント」
 そして二人は道から外れ、夜の中へ入っていった。

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