III

 町から数マイル離れた広い空き地に、巨大な木馬がうち棄てられていた。晴れた日には、それは町の家々のテラスや二階からもはっきりと見ることができたが、夜のとばりが降りた後や、空き地が霧に包まれた時は、その中にかき消えてしまうのだった。この十月では特にそうだった。
 しかし秋の霧が風に散らされさえすれば、木馬は再びその姿をあらわした。始めの頃、木馬は頭の先だけを少しかしげて、町の方を向いているように見えていた。そしてそのうち首や肩が、そして最後には胴体と脚までもが、その向きを変えていた。その様子は、人々には木馬が少しだけ町に近づきつつあるように見えていたが、それは事実ではなかった。それは秋の湿った空気で視界がよくなったために起こる、単なる錯覚であった。実際、木馬は微動だにしていなかった。そしてそんなことが起こるはずもなかった。なぜならそれは木製の馬であって、誰かに持ち去られでもしなければ、姿を消すはずもないからだ。
 その作り上げられた構造物は、ちょっと見ただけでは硬い印象を与えるものだったが、にもかかわらず、製作者が樅材板の巨大さと格闘した結果として、その巨体に何かしら躍動感のようなものを与えることには成功していた。少し遠くからその木馬を眺めてみた時には、特にそういう感じが目につくのだった。まるで大地の奥底から重いギャロップで駆け出してきたように見えて、町から右方向に数マイル離れたこの荒涼たる地では不似合いに目立っていた。それは首をかしげ、荘厳な面持ちで町の方を見つめているかのようだった。
 もし近くに寄ってみたなら、その木馬の胸元から脇腹にかけての古い木材部分が太陽の光と雨に打たれてひび割れ、まるで怪物の皮膚のようになっており、また重そうな脚の部分が歳月の流れと共に、膝まで地面にめり込んでいるのを目にすることができただろう。
 ある雨の日のことだった。そのひび割れた部分から、木馬の腹の中に隠れている連中が、退屈そうに外を眺めていた。そこに見えるのは、彼らが同じ場所から幾度となく見続けてきた風景だった。絶え間なく煙を噴き上げる工場の煙突、そしてカフェやレストランの色とりどりの灯であった。飛行機が一機、空港の滑走路の一つに向かってゆっくりと高度を落としつつあった。
「冷え込んできたな」
オデュッセウス・Kが言った。
「鬱陶しい秋が来る。ロベルトは、こういう季節が好きなんだろう?」
「いいや」
ロベルトが答えた。
「俺が好きだったのは昔の話さ。今は違う。今はもう、風のうなる音も聞いていられないよ。去年の冬のことを憶えてるか?」
「どうして忘れるもんか?」
「この、おぞましいひび割れが起こすようなものすごい音は、今まで一度だって聞いたことがないよ」
「何がこのひび割れのせいなものか」
そう言ったのは製作者本人だった。
「何度も言っただろう。これがなけりゃあ、この馬を作ることなんて思いもしなかったって。だったら言ってみろよ、どうやったらこのひび割れが消せるんだい?」
「さあね」
ロベルトは言った。
「こいつは俺の仕事じゃないからな。それにしたって、この馬には割れ目が多過ぎるんじゃないかな」
「口で言うだけなら簡単さ」
製作者が言った。
「だがな、作る上での制約ってものも、ちょっとは考えてみたらどうだ。わかってないんだよ、おまえは」
「アスピリンあるかい?」
ロベルトが訊ねてきた。
「どうも風邪をひいたらしい」
 皆、思い思いの姿勢でその中に潜んでいた。仰向けに寝転がっている者もいれば、木馬の脇腹の部分に寄りかかっている者もいた。隅の方では、マックスが膝の上に小型のトランジスタラジオを載せ、顔を近づけて「君が僕のもとを去った時」という悲しげな歌を聴いていた。
「何の話をしてたんだ?」
オデュッセウス・Kが訊いた。
「このびゅうびゅういってる風のことさ」
ロベルトが答えた。
「神経にさわるよ」
 オデュッセウス・Kは軽蔑のまなざしでロベルトの方を見た。
「あれ以外に俺たちがしなければならないことなどない」
オデュッセウス・Kは言った。
「しなければならないって、何を?」
木馬の製作者が訊ねた。
「またその話か?」
ロベルトは手を挙げて、町があると思しき方向を示した。
「俺たちはもう何年も、そのことばかり話してきたんだぞ。何べん同じことを言わせれば気が済むんだ?」
 オデュッセウス・Kは疲れきって落ちくぼんだ目で、彼らを見た。
「何べん同じことを、と言ったな?何千回でも、何万回でもだ。俺たちがあそこに、たどり着くまではな」
彼はロベルトが指差したのと同じ方向へ手を挙げた。
「俺たちのところへたどり着くまで」
ロベルトが言った。
「それは、俺たちのところへたどり着くまでっていうのは、おまえがそう望んでいるからだろう」
 木馬の製作者がため息をついた。
「だが、あの連中にそのつもりがなかったら?」
「ああ、また始まったぞ!」
マックスが嘆息して言った。
「たどり着くだの、たどり着かないだの!毎日毎日、同じことをわめきやがる」
 彼は指先を頭髪の中に突っ込んで、そこに何かしら残っていないか、探るように動かした。
 その様子をじっと見ていたミロシュが、低い声で言った。
「少しはみんなの話を聞けよ。髪の毛を気にしてると、よけい抜けるっていうぞ」
そう言われてマックスは、喉の詰まったような声を出した。
「どうした?」
話が自分に向いていたことを思い出して、木馬の製作者が訊ねた。
「別に」
ミロシュは答えた。
「みんなが知ってるようなことを話していただけさ」
「みんなが知ってるようなこと、か・・・」
木馬の製作者はその言葉を繰り返した。
「人生なんて、うんざりすることばかりだ。みんながそう言ってきたことだ。もっとも、誰が言ったかまでは憶えちゃいないがね。マックス、酒はどこだ?」
「ここだ」
とマックスは言うと、足元にあったコニャックの瓶を差し出した。
「何だ、もう半分も飲んじまったみたいだな」
「いらいらするんだよ」
「どうにもならんよ。天気だって似たようなものだしな」
「ひどい天気だ。人生のいいことなんか、一つだって思いつけやしない。いまいましいことばかりだ」
「天気が下り坂の時は、こんな感じだよ」
「こんな鬱陶しい天気じゃ、話にならん」
とマックスが言った。
「俺だって鬱陶しいものを抱え込んでるのに」
そう言って、自分の胸を手で叩いてみせた。
「そういらいらするなよ、いずれおさまるさ」
そう言って木馬の製作者は、古い旋律を口ずさみ出した。「曇り空だ、兄弟よ、心の中まで・・・」
「そうさ、どんなことだって、いずれ通り過ぎていくものさ」
彼は繰り返した。
「いいや、俺は忘れん。そう簡単には忘れんぞ」
「時が解決してくれるさ」
「時、時か・・・そんな言葉じゃ辛抱できん」
 木馬の製作者はコニャックを飲み、マックスのひどい顔つきを盗み見るような風で見つめた。木馬の右脇腹の部分に長い槍が刺さっていて、古びて少々錆付いていた。マックスの視線がその槍にとまり、彼は憑かれたようにずっとそれを見つめていた
「婚約者と別れたんじゃ、無理もない」
木馬の製作者はそう思った。
「正式に婚約しているわけではなかったが、本人はそのつもりだったし、そうでなければ自殺でもしそうな勢いだったからな」
 彼はまたコニャックに口をつけた。それから、木馬の骨組みのところに寄りかかると、その首のあたりのひび割れたところへと進んだ。そこには無数の割れ目があって、水滴があとからあとから骨組みを伝い、したたり落ちていた。
 木馬の製作者はその割れ目から外の方へと目をやった。木馬の外は既に、十月の夜のとばりが降りていた。町には灯がともっていた。ここからだと、幹線道路の明るいところが筋状になって、町を縦断し、あるいはその周囲をまわっている様子も見てとれた。中心部にある商店のショウウィンドウ、それに大小様々な店舗の、赤や青の光も見えた。それら全ては、遠くで静かにまたたき揺れ動いていたが、町の周辺部へ目をやると、ラジオ局の信号灯や、あるいはさらに向こうにある空港など、ごく僅かな光しか見当たらなくなっていた。さらにその外側には暗闇が広がり、そのまた先にはただ大地が続いていた。
 木馬の製作者はひとしきり外を眺めていたが、やがて仲間のところへ戻ってきた。
「すっかり暗くなったが、アカマースが戻ってくる頃じゃないのか?」
ロベルトが訊ねた。
「外はひと荒れ来そうだな」
ミロシュが言った。
「あの風の音が聞こえるだろう?」
「まるで悪魔そのもののうなり声だな」
「やれやれ、いまいましいこの割れ目ときたら」
ロベルトが言った
「神経にさわるよ」
「ロベルト、また始まったのか?」
木馬の製作者が、非難するような口調で言った。
 雨混じりの風が、木馬の古くなった板の部分に激しく当たっていた。風はうなりをあげながら、腹部や脇腹の部分の割れ目を通って吹き込み、巨大な首の部分に向かって押し寄せたが、そこにある真っ暗な空洞部にぶつかると、まるで罠にかかった野獣のように悲痛な叫び声をあげた。
「ひどい天気だな」
マックスが言った。
「ラジオもまるで聴けやしない」
そう言って彼は髪に手を伸ばし、そうしていつものように、指先にからみついた抜け毛をひとしきり見つめた。それから、ラジオのスイッチを切ると、錆付いた長い槍の方へ視線をやった。
 木馬の製作者は再び、あの忌まわしい、いにしえの旋律を口ずさみ始めていた。
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