IV

 アカマースが戻ってきたのは夜も更けた頃だった。白い光を放つランプの立ち並ぶ間を抜けて彼が姿をあらわすと、皆うとうととまどろんでいた。
「んっ?」
オデュッセウス・Kが声を上げた。
「ひどい天気だ。ぬかるみの中を歩いてくるのがやっとだった」
アカマースは膝まで泥だらけになったブーツを見せた。
[訳注;オデュッセウスはホメーロス『オデュッセイア』の主人公。英名ユリシーズ。ヘレネーの返還を求めてトロイアへ出征した。アカマースはテーセウスの息子。彼もヘレネーの返還を求めてトロイアへ赴いたとされる]
「新聞は持ってきたか?」
「ああ」
「何か変わったことは?」
「別に変わったことはない。俺たちは言われ放題だ」
アカマースが言った。
「いつものことだな」
オデュッセウス・Kが言った。
「ああ、ひどい恨まれようさ!カフェにいても、道を歩いていても、切符を買う行列に並んでいても、何処にいようがそんな感じだ」
アカマースが言った。
「そりゃ当然さ」
オデュッセウス・Kが言った。
「他にどうしようもあるまい」
「だが子供までもがだぞ。郵便局の脇の建物でずっとチェスの選手権をやってるが、そこの正面入口にでかいポスターが貼ってあって、馬の首が描いてあるんだぜ。今日そこを通り抜けようとしたら、ガキ共の叫んでるのが聞こえたのさ。
『やあい木馬め!あの木馬に唾でもひっかけてやれ!』」
オデュッセウス・Kは軽蔑するような顔つきになった。
「誰かつけてきたか?」
ロベルトが尋ねた。
 アカマースは笑ってみせた。
「俺は尾行されるようなドジじゃない」
「何か食うか?」
ミロシュが訊いてきた。
「いや結構。飲み屋で食ってきた」
 ミロシュは彼に近づいた。
「女たちのことを聞かせてくれよ。外にいい女はいたかい?」
猫撫で声で尋ねた。
 アカマースは軽蔑の眼で彼を見た。
「俺はスカートのあとを追いまわしてるわけじゃないぜ」
しわがれた声で言った。
 ミロシュはぶつぶつ言いながら、部屋の隅へ戻って寝てしまった。
 アカマースはマックスの寝惚けたような、どうでもいいような表情をじっと見つめた。それからちょっと思案した後、そのそばに腰掛けた。
「マックス」
彼は低い声で話しかけた。
「君のところのヘレナを見たぞ」
「何だって?」
マックスが顔を上げた。彼は寝不足で赤くなった眼をぎらぎらさせていた。
「君のところのヘレナを見たんだ」
アカマースはもう一度言った。
「どこで?」
「『ウィンターズ・カフェ』だ。男子学生と一緒だった」
 マックスは、喉がつかえたような感覚に襲われた。瞳がきらりと光ると、それが彼の顎ひげと、赤らんだ顎の間を突き抜けたように見えた。彼はアカマースの腕を掴み、腰を下ろさせた。
「座れよ」
マックスは口ごもりながらも言った。アカマースは腰を下ろした。
「教えてくれ。何もかも教えてくれ」 アカマースはマックスの腕をほどくと、嘲笑を浮かべた。
「教えるって、何をだい?何か飲んでいたよ、ワインみたいだったな、それから話をしていた」
「見られたか、彼女に?君のことは気づかれたか?」
「いや、俺の方は見ていなかった。彼女のうしろの席に座っていたからね」
「二人が話しているのは、聞こえたか?」
「ちょっとだけ近づいてみたから、聞いたぜ」
「うん、教えてくれ」
「よくある恋人同士のたわごとさ。ところどころわからなかったが、よく聞き取れなかったんだ」
マックスはうなり声をあげた。
「彼女は本当にその男を愛していて、騙しているわけでもないというのか。だったら、この俺が騙されたってことか」
アカマースは笑った。
「商売女め」
そうマックスはつぶやいた。
アカマースは立ち上がろうとしたが、
「待てよ」
とマックスが引き止めた。
「まだ聞きたいことがあるんだ。ああ、そう、そうだ。彼女が一緒にいたその男だが、どんな奴だった?」
「さあな、男の方は知らないよ。身なりからすると、どうも外国帰りの大学生みたいだったな」
「あいつだ」
マックスは唇を噛みしめ、歯の間から漏れるような声で訊いた。
「それで彼女だが、髪はどんな風だった?」
「普通だよ」
「ブロンドか?」
「ああ、でもブロンドってだけでもなかった。プラチナだな、今どきはああいうのがお気に入りなんだろう」
「染めやがったんだ、あのあばずれが」
「まあね。でも髪を染めてるか染めてないかなんて、俺には見分けがつかないけどね」
「何を話してた?」
マックスは同じことを尋ねた。
「恋人同士の語らいさ」
「彼女は笑ってたか?」
「もちろんさ、甘い甘い微笑みだったな」
「本当か?」
「時折、二人して手に手を取り合ってもいた」
するとマックスは更に唇を噛みしめ、憎しみの炎がちろちろと燃える瞳でアカマースの方を見つめた。
「お前は最低だ」
マックスは言った。
するとアカマースは立ち上がった。
「ごちゃごちゃ言うのはごめんだよ。もう遅いしな」
「お前は最低だよ、こんなことまで教えやがって。俺が苦しむのを見て喜んでいるんだろう」
マックスは言った。
「何て小心な奴だ」
アカマースはつぶやいた。
「何度も何度も、ヘレナを探してくれ、見つけてきてくれ、そうして何もかも知らせてくれと頼んだのはお前じゃないか。それを今になって・・・」
「そうだった、確かにな、俺が頼んだんだ。すまない」
マックスは詫びた。
「今度またどこかで彼女を見つけるようなことがあっても、お前にはもう言わないぞ」
「い、いや、また教えてくれよ」
マックスはうなるような声で言った。
「そうしたらまた、俺のことをひどい奴呼ばわりだろ?」
「もう絶対言わないよ」
「それならいい。もう寝るよ」
「ちょっと待った」
マックスが尋ねた。
「君はどう思う?あの二人、結婚するつもりなんだろうか?」
 すると、アカマースはうなずいた。
「さあてね、それはさっぱりわからなかった。まあ、アパートが見つかれば、すぐにでも結婚するに違いないさ」
 マックスは身震いして立ち上がった。
「いいか、君は俺のことを小心者だと言ったが、俺はそんなんじゃないぞ。俺がどんなに激しい男か、みんなよく見ていろよ。俺は、復讐してやるんだ。俺の復讐というのはな、身の毛もよだつものになるだろうよ」
「誰に復讐するのさ?」
「あいつと、あの女にだ」
「それはないな」
「何?」
「そんなことに関わっていられるわけがないことぐらい、お前だってわかってるだろう・・・大体、この町を手中に収める日のことを、お前は考えてるか?その時になれば俺たちは、大規模な流血沙汰を引き起こすことになるんだぞ。
 その前にヘレナに復讐なんかしたところで、お笑いぐさになるか、せいぜい騒いだ割に大したことにならないのがおちさ。我が木馬の製作者の言う通りにな」
「ああ、そんな神聖なる時の来る日なんか、考えちゃいないさ。俺はそんな日まで待っちゃいられないんだ。俺はもっと早く、復讐がしたいんだよ」
マックスは答えた。
「とても信じられないね」
「それをやるのはたぶん、四月のあたたかな月の夜だろう」
マックスは暗い声で言った。
「俺は、その夜がやってくる日を待ちかまえる。あの二人、身のほど知らずにも町の外へ出て、誰が見てもうら寂しい田舎道をほっつき歩いていることだろうよ。それで俺は、その古風な沈黙を破って、ゆっくり、ゆっくりと地上に姿をあらわすんだ。
 見るとあいつら二人は、互いに手と手を取り合ったまま、春の草地の上に寝そべって、田舎の空気と恋心に酔いしれている。遠くからでも、俺にはあの金色の髪が見てとれる。しかし俺の足音はあいつらには聞こえない。何故って、虫の鳴く声でかき消されてしまうからさ。それに、月の光の下だとあの女は我を忘れて、何でもやりかねなくなってるんだ。
 俺は、自分の影で気づかれないよう、月を背にして二人に近づく。そうしてあいつらの上におおいかぶさり、この槍を突き立ててやるんだ。まずはあの女ののどに、次にあの男の肩にな。
 わかるかいアカマース、こういう古い型の槍を使うと、それはもうおぞましい傷ができるんだ。長いこと博物館勤めだったからな、俺はこういうことには詳しいんだぜ。こういう年季が入った槍は、もう作れるもんじゃない。
 だからこいつはな、見たこともないような年季の入った傷を、人の体に残すのさ。槍の穂先が、ぱっくりと引き裂かれた、赤い大きな傷跡を作るんだ。それはまるで西に沈む太陽のように、辺りに赤いものをまき散らす。その傷がもとで、ヘレナはくたばるだろう」
 マックスはそこでちょっと黙った。そして深く息をつき、なおも話を継いだ。
「この時代の人間どもを恐怖させる傷なんだよ。どうだい?」
「そうだな、マックス」
アカマースは答えた。
「もう寝よう、疲れたよ」
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