VI

 
 いつもの土曜の夕方と同じように「ウィンターズ・カフェ」は混雑していた。窓ガラスには水滴がはりつき、外から見ると、カフェの店内では密集した客たちの間に親密な関係が築かれているかのようだった。小さなグラスとコーヒーカップと客たちの目が、互いにちらちらと光を放っていたが、女たちの赤い唇が男たちの口元に重なることは決してなかった。
 ゲント・ルヴィナとレナは、交差点の一部が見える大きな窓ガラスのそばに腰をかけた。
「すてきね、ここ」
彼女が言った。
 時折、ゲントは窓ガラスの方を向いて、ぼんやりとかすんだ通りの風景を眺めた。そうしながら、彼女の横顔を見つめていたかった。彼女の目が何かもの思わしげな風をしている時には、特にそう思った。
 通りの向かい側には「薬局」の文字がまたたいていたが、それを見た彼女は、青ざめた、まるで別世界にでも迷い込んだような遠い表情をした。待ちきれなくなって彼は、家具店の赤い文字を一つ、二つ、三つ、四つと数え出した。すると彼女は、家庭の暖炉のそばにいるようなぬくもりのある表情をした。そしていきなり彼に寄り添ってきたが、それもほんの三秒ほどしか続かなかった。それからあとは、ずっとそんなやりとりの繰り返しだった。
「憶えているかい?僕たちが出会ったあの夜、君は今夜とまったく同じ髪型だった」
彼は彼女に言った。
「ええ」
彼女はゆっくりと答えた。
「あの夜は突然だった。大きな変化の時には、女性はきれいになるのかも知れない」
「そうかも知れないわね」
どんな恋人たちでもそうするように、二人もまた、初めて出会った日の追憶を楽しんでいた。まるでそこにいま一度、何かを見出し、また取り戻そうとするかのようだった。
 しばらくの間、二人はいろいろ細々としたことを回想していた。二人がパーティ会場を抜け出した時にオーケストラが演奏していた音楽、月の下での口づけや、それから彼女を連れ出した時の、彼の荒々しい目つき。
「きっとあなたは思ったでしょうね。知らない男の首に飛びつくなんて、何て自堕落な女なんだ、って」
ゲントは小さなグラスを指先でくるくる回していた。
「正気に言うと、そう思ったさ。ただ、自堕落とかじゃなくて、びっくりしたって言ったんじゃなかったかな」
レナは笑った。
「前から思ってたんだけど、『びっくりした』って言えば、他のことは言わなくても済んじゃうのね」
二人は笑った。そしてゲントが言った。
「相変わらずだね、君はものごとを訂正するのが早い」
あの夜のことを話していても、先にやめるのはレナの方だった。二人とも、婚約パーティの日から思いを遠ざけることができないでいたが、あの日から遠ざかりたがらないのはいつも彼の方で、彼女はどちらかといえば忘れたがっている風だった。
「タクシーを外に待たせております、女王様」
彼女は彼の言葉を繰り返した。
「タクシーの中で君は震えていた。憶えてる?」
彼は訊ねた。
「何となくね」
「そして君は我を忘れていた。とりとめのないことを口走って、すっかり熱にうかされたようだった」
「そうね。そう聞いたわ」
「ぼんやりしていて、別の意味にもとれるようなことを喋っていた。文体は古めかしくて、尋常じゃない、聞いたこともないような調子の喋り方だったよ」
レナはため息をついた。
「あの年は、ずっと大学で古典文学をとっていたのよ。たぶんその影響だわ。それに彼あなたも知ってる彼よが博物館勤めで、しょっちゅう私に古代の碑文の話をしてくれたの。でも、もうこの話はよしましょうよ。もうあのことは思い出したくないの。わかるでしょう?今でも身体に震えがくるのよ」
「いいよ、何かもっと楽しいことを話そうか」
彼は言った。
 カフェの入口には、席が空くのを待つ人だかりができていた。
「ほら、君みたいな女の子がいる」 ゲントがそちらの方を向いて言った。
「ずっとそうだと思ってたんだけど、いや僕の印象に過ぎないけどね、近頃のアルバニアじゃブロンドが流行ってるんだね」
 二人の話は再び、初めて出会った夜のことになった。初めて抱き合った時のこと。彼女が彼に、モスクワに親密な間柄の女性がいたのかと訊ねたこと。そして彼が「いた」と答えたこと。
 レナが言った。
「それであなた、ああして激しく抱き合った時にもう私のこと、情熱的な女だってわかってたんでしょ?」
ゲントはうなずいた。
「そうしてあなたは嘘をついた」
彼女は憂鬱そうに言った。
「違う」
彼女は苦笑した。
「何でまじめに聞かないの?」
「まじめに聞いてるさ。嘘なんかついてないよ」
「あなたは嘘をついた」
彼女は憂鬱そうに言った。
「違う」
「あなたは嘘をついた」
彼女は同じことを繰り返した。
「理由はあなたもよくわかってるでしょ。私が冷たい女だってこと自分でわかってないんだって、思ってたでしょ」
「今さらそんなことを」
彼は答えた。
「冷たいとか、温かいとか、僕には大したことじゃないよ」
「どうでも、あなたは嘘をついたってことを認めるのよ」
僕には大したことじゃない。ゲントはそう思った。冷たいのは当然さ、彼は彼女にそう言いそうになったのだ。なぜって・・・なぜって・・・彼の頭の中には、土地の子供たちのはやしたてる声が響いていた。
「トロイのヘレナ、トロイのヘレナ」
そのことを教えてくれたのは彼女自身だった。三千年ぶりに目覚めた(そして今は当然のことながら冷たい)美女にも似て、もの憂げにであった。彼はどうにかして考えをまとめようとしたが、彼女はそれを理解しようとしないだろうなと思った。
 実際、自分で書いたあのメモのためか、ゲントはレナについて、まるで土地の子供たちのように想像をめぐらせた。時に自分と彼女の間に幻想的な会話のやりとりを思い浮かべては、自分がまるで、いにしえの女王にインタヴューする現代人ででもあるかのような空想にひたっていた。
 彼が自分のメモのことを話してからは、彼女もしばしばその戯れに加わって、彼の戯言に付き合ったりもした。しかしそれも、彼自身がそのことに没頭する時間に比べれば、ごくわずかなものだった。
 ラジオは、八時のニュースを伝えていた。今夜もまた、いつもの夜のニュースと同じように(それが生み出されてからというもの、ずっとそうなのだが)ある国が別の国に対して圧力を加えているとか、非難だとか、戦争を引き起こそうとする公然あるいは秘密裡の脅威だとかについて報じているが、今現在起こっている戦争については何も伝えないのであった。
 二人の座っている席の隣が空いて、入口で待っていた若い二人組がそこへやって来た。女性の方は、レナに似ているとゲントが言ったブロンドの彼女だった。二人は仲よさげに腰を下ろした。
 その女性は、テーブルの上に郵便切手がたくさん貼られた小包を置いた。名前と住所が大きな文字で書いてあった。見るともなしにゲントは、その住所を読んだ。

化学工業公社 研究員 アナ・シュンディ

「中世の時代でも、きっとアルバニアではブロンドがしょっちゅう流行っていたのだろう」 ゲントはつぶやいた。
「しかし、バルカン半島全域へのオスマン朝による入植政策で、それも稀になったのだろう」
 レナは、自分に似ているとゲントが言った女性の方に、注意深く顔を向けた。しかし視線が合うと、即座に目をそらしてしまうのだった。それで彼女は、今度はもっと注意深く、そちらの方を見ようとつとめたのだが、今度こそ、視線をそらしたのが偶然ではないことを確信した。向こうは硬直した、怯えたような目つきでこちらを見ていたのである。
 レナは自分の考えを振り払おうとした。最近の彼女は神経が過敏だった。レナとゲントの二人とも、以前なら気にもとめないようなことにさえ、いちいちこだわるようになっていた。
「何の圧力なんだ」
ゲントは首をかしげた。紛れもなく彼は、今しがたラジオが伝えたばかりのニュースについて喋っていたのである。
 再びレナは、隣席に目をやった。その見知らぬ女性の顔は、怯えているどころか恐怖で真っ青になっているように見えた。
「どうなってるのよ」
レナは、あたりを見回しながらつぶやいた。だが見知らぬ女性の視線は彼女に釘付けになったままであった。その恐怖の原因が他の誰かによるものだなどとは、考えるだけ無駄なことだった。
 レナはいろいろと考えているうち、急に疑念に突き当たった。
「マックスの親戚かしら?ゲントの昔の彼女?何か秘密がある人なの?嫌な予感がするわ・・・」
 見知らぬ女性の手は神経質そうにかばんを引っかき回し、そうする間にも、名前と住所が書かれた郵便小包を二度三度と動かした。レナはようやくのことで、そこに書かれている字をさかさまのままで読んだ。

化学工業公社 研究員 アナ・シュンディ

「どうかしたの?」
レナは見知らぬ女性に、そう訊ねたくなった。
 彼女はまったく落ち着きを失って、冷静に考えることができなくなっていた。しかし仮に落ち着いていられたとしても、彼女の不安が何か他のものによって引き起こされたなどと説明するのは、難しかっただろう。
 と不意に、まるで拷問をようやく終わらせることにした人物のように、レナはその相手に訊ねることにした。
「どうしてそんなに私を見てるのよ?私あなたに何かしたの?」
そう思ってもう一度振り向いたのだが、その時にはもうそこの席は空っぽだった。
「最悪」 彼女はつぶやいた。
 ゲントはそんな様子にまったく気づかず、カフェの喧噪の中でラジオから流れる声を聴き取ろうと懸命になっていた。
社会主義陣営内の分裂については、いまだ一言もなかった。しかしどのニュースにも、ある種の悪化したものが感じられた。おそらく、ギリシアとトロイア間の関係悪化の知らせもこんな風に、口づてに広がっていったのだろう。それらに続く形で、ギリシアの諸都市で学んでいたトロイアの学生たちは帰還を余儀なくされたのだ。トロイアからはギリシア軍も撤退したが、彼らはおそらく、トロイア人たちに「ギリシアの火」の使い方を教えるために来ていたのだろう。そしてついには、双方の大使の召還をめぐって激烈な声明のやりとりが・・・
 突然、レナの瞳に恐怖の影がよぎった。彼女は口の中で何かぶつぶつとつぶやいた。
「どうしたの?」
ゲントが訊ねた。
「ここから出ましょうよ」
彼女は小さな声で言った。
ゲントはレナの手をとり、軽く握りしめた。
「何で?」
「出るのよ」
そうレナは繰り返して、おびえた目を隣のテーブルへと向けた。
「またあの、頭のおかしい奴かい?」
 ゲントは振り向いて、今しがた空いたばかりのテーブルに腰掛けている人物を見たが、そこで彼の視線は止まった。いつぞやの男だった。顔色はさらに青白く、瞳には、その病的な炎がめらめらと燃えていた。
「君のことは知らないんじゃないか?」
ゲントは訊いた。
「それともどこかで会ったんじゃないのか?」
「わからないわ。でも、どこかで会ったかも知れない」
「悪魔みたいに、こっちをじろじろ見てやがる」
ゲントが言った。
「口でも裂けそうだな」
 レナは、ゲントの腕にそっと手をやった。
「出た方がいいわ」
「いやだよ」
「お願いよゲント、私のために、そうして欲しいのよ」
 ゲントには、こんなおかしい奴のせいで出ていかなければならないことが腹立たしく思えたのだが、レナはどうしても出ようといってきかなかった。
「もうこれ以上ここにいられないわ、頭がすごく痛くなってきたの」
結局、彼は給仕を呼んで支払いを済ませることになった。
 二人が立ち上がってから外へ出るまでの間も、青白い顔の男は凝視を続けていた。
「あの馬鹿が」
通りに出るとゲントはつぶやいた。
 レナは何も言わなかった。
 外は寒かった。ネオン灯に強く照らされた大きなショウウィンドウに沿って、二人は歩道を歩いた。中心部へ向かう道には、まだ人がたくさんいた。それでも、町全体を徐々に静けさが覆い始めていた。
 交差点は人もまばらで、通りに面した酒場にも静けさが立ちこめていた。映画館の入口まで来てみると、映画の看板やポスターが、まるで取り残されたようにそこにあった。市内バスもまた同様で、バスの窓ガラス越しに見える人々の顔も今はもの思いにふけるといった風情で、切符売りたちにも午後の活気は既になかった。
「どうして急に、あんなに悲しそうに?」
中心部まで来た時、ゲントが訊ねた。
「悲しくなんかないわ」
レナは答えた。
「ちょっと、いらついたのよ」
「カフェにいた、頭のいかれた奴のせいだろ?」
「そうよ」
「びっくりしたんだよ、レナ。君はあいつのことなんか知らない、少なくとも、誰なのか全然憶えてないって言ったじゃないか。それがどうしてあんなに大変なことなんだよ?」
「あの青白い顔が、怖かったのよ」
彼女は弱々しくつぶやいた。
「退院したばかりなんだろう。たぶん黄疸ぎみなんだよ」
「それに目よ。頭をいじられでもしたみたいな、あの目よ。気がつかなかったの?本当に怖かったんだから」
「君、まるで子供だなあ」
そう言って、ゲントはレナの肩に手を置いた。
 二人は、しばらく映画のポスターの前に立っていた。彼女は、彼に並ぼうと少しだけ前に出た。その時彼は、彼女の尖った踵の上にすらりと伸びた美しい脚に目をとめて、自らにこう思った。
「この女に去られることが、おまえにとってはどれだけ苦痛なことだろうか。そして、この尖った踵があとどれだけの年月、おまえのいるところで打ち鳴らされ、とどまってくれるだろうか」
彼はもう、彼女の元婚約者のことを考えても嫌な気分にはならなかった。
「新しい洗濯機が出てるじゃないの」
一軒の大きな店のショウウィンドウの前を通った時、レナが言った。
「ショウウィンドウを見ながら歩くのって好き」
彼女は喋り続けた。
「こういう機械が出た時は、特にね。あら、洗剤もあるわ」
出し抜けにそんなことを言って、彼女はまた真剣な表情に戻った。
 ゲントは、彼女の横顔を愛しげに眺めていた。洗剤の何がそんなに大事なのだろう?
「変なこと、思い出しちゃった」
レナが言った。
「言ってごらんよ」
「私にも、何と言っていいかよくわからないことなんだけど」
「君の方が、僕にはちょっとした謎みたいなものだけどね」
ゲントが言った。
「いつだって、君は何かしら不思議なことを思い出すんだから」
「本当にびっくりするようなことなのよ」
彼女は言った。
「ショウウィンドウの中の洗剤を見て、急に思い出したのよ。ある日、ああいう洗剤で彼のマックスのことよシャツを洗おうと思ったの。その洗剤を使ったのは、その時が初めてだった。シャツがすごく白くなるって聞いていたから、早く試してみたいと思っていたの。それでね、彼のシャツが入っていたカバンを持ってきて、中を開けたんだけど、服を引っ張り出してみた途端に唖然としたわ。カバンの中には、白いシャツに混じって、鉄製のシャツが入っていたのよ」
「鉄製のシャツだって?」
「そうよ。確かに昔の時代にあったような、鉄製の古いシャツだったわ。映画でしか見たことのないようなものよ」
「そりゃたぶん、どこかから見つけ出してきて、博物館に寄贈しようと思ってたんじゃないかな」
ゲントは言った。
「そういう仕事だったんだろう?」
「そうだけど、でも本当にびっくりしたのよ。自分の目が信じられなかったわ。手にとってみたら、それは重い鉛でできていたの。重くて、冷たくて。昔のものだから、もうぼろぼろだったわ。夜になって彼と会った時、訊いてみたの」
「彼は何て?」
「何も。でも、全身をぶるぶる震わせて、私に向かってぞっとするような顔つきで笑ってみせたわ。だからもう何も訊けなかった」
「それで、その服が何なのか、彼は言わなかったわけだ」
「何もね」
「かわいそうに、君は」
ゲントは言った。
「頭のおかしな奴とつきあう羽目になったわけだ」
 やがて二人は、両側に菩提樹の立ち並ぶ通りへと出た。樹々の奥には邸宅群が見えた。庭を囲む鉄製の柵は濡れていた。どこかから音楽が聞こえていた。
「きれいな道ね」
レナが言った。
「ここはまだ通ったことがなかったわ」
 立ち並ぶ菩提樹のはるか向こうを見ると、月が地平線上に冷たく輝いていた。ゼラチンの中に固められたような、冬の大きな月だった。
「町の真ん中からずいぶん離れたわね」
リタが言った。
「これからどこへ行くの?」
「足の向くままに。道がきれいだって君が言っただろう。楽しくない?」
「楽しいわ。でもね、町の賑やかな通りの方がもっと好きよ。あっちなら、自分自身が安全なような気がするから」
「不良連中が怖いの?」
「そういう人たちじゃないわ。もっと普通にこう、夜になって通りに誰もいなくなると、不安になるのよ。農村市や果物屋台が、まず最初に姿を消して、みんなバスやカフェやマンションの入口に呑み込まれるようにいなくなるわ。その内、どこかから鐘の音が立て続けに聞こえてくるの。まるで『帰れ、帰れ、帰れ』って言ってるみたいに。みんな帰ってしまって、外にはあなただけが取り残されて、不安で心細くて、悪い夢みたいで。あなたは必死に孤独から逃げようとするけれど、人の気配は全然なくて、ただ寂しさと寒さと、悪い予感がするだけなのよ。そうよ、それが怖いのよ私は!」 彼女は哀しげな声でそう言って、彼の腕に一層強くしがみついた。
 ゲントは、彼女の肩を抱き寄せた。
 二人はそれからしばらく、無言のまま通りを歩いた。生い茂る菩提樹の並木が、夜風にざわざわと揺れていた。そのざわめきは、道の上に伸びた二人の身体の影のように、薄く、そして長かった。
 横を市内バスが通り過ぎて、少ししてから彼は曲り角のところで立ち止まった。バスを降りた人々は急ぎ足で、散り散りに歩き去った。
「ここがバスの終着点か」
彼が言った。
「乗らないの?」
「もう少し歩こう。寒くない?」
「大丈夫よ」
 二人は、町外れの家の前を通り過ぎると、暗い道へと出た。あちこちにぽつりぽつりと灯りが見える。その辺から村になっていた。
「もう町の外へ出てしまうわ」
彼女が言った。
「ねえ帰りましょうよ」
「ひと休みしていこうか?このあたりに小さい公園があって、木のベンチがある」
「いいわ、それで」
 彼は彼女の手を取り、道端の、人気のない公園へと連れていった。
「夏はここでダンスパーティをする人たちもいる。きれいなところだからね」
「本当?じゃあ今度、一緒に来ましょうよ」
「もちろんさ」
 二人はベンチに腰掛け、ゲントはレナの肩に手を置いた。
「寒くない?」
「大丈夫って言ったでしょ」
 彼はタバコに火をつけた。
「ね、菩提樹がゆれてる」
彼女が言った。
「夏はたぶん、このあたりってきれいなんでしょうね。オーケストラの演奏があって、ウェイターたちが大忙しで歩き回るんだわ。ダンスもあるのね。忘れないで連れてきてちょうだい、ね?」
「もちろんさ」
「一緒にいろんなところに行きましょう。行きたいところがたくさんあるの」
「どうしたの?僕らにはまだまだ時間があるじゃないか。ずっと、僕らの時間なんだよ。いつだって、どこにだって行けるさ」
「人生が短く感じられることって、あるものなのよ」
レナは言った。
「でも急に、長く、長く思えることもあるの。自分が何世紀もこの地球で生きているような感じがすることって、あなたにはないかしら?そんなことってない?」
「そうだなあ」
彼は言った。そうして、ひとり考えた。
『君には何だって普通と違う風に見えるのさ、君は眠りの森の美女だから』
「あのね、さっきのカフェで・・・あなたが気がついていたかどうかわからないけど」
レナが言った。
「ああ、あのおかしな奴のことなんか忘れろよ」
「その話じゃないのよ」
彼女は言った。
「私が言いたいのは、私の方をじっと見ていたあの女のことなのよ。私を見て、すごくびっくりしたような感じだったわ」
「え、そうだったのかい?君も誰かに気がついて、怖がってたってことかい?」
 ゲントは声をあげて笑った。
「ちっとも笑いごとじゃないわ」
リタが言った。
「真面目に言ってるのよ。言ったでしょ、あの女の人は私のことを恐れていた。あの人の顔は、恐怖で凍りついていたわ、そんな感じがしたの」
 ゲントは肩をすくめた。
「たぶん君にはそんな風に見えたのかもね」
 レナは、深いため息をついた。それからひとしきりバッグの留め金をいじっていたが、やがてこう言った。
「たぶん、ね。きっとあなたの言う通りだわ。ああいう場所で、同じことがあったら、私だってそう言うでしょうね」
 ゲントは、彼女のこめかみにキスをして、何かしら甘い言葉をつぶやいた。いつも彼は、女性になぐさめの言葉をあれこれ費やすよりも、こうするのが最も適当な方法だと思っていた。
 二人が座っていたベンチからは、村がずっと向こうまで見えていた。月の光は暗闇に染みわたらんばかりに輝いていたが、それも闇にふれた途端に胡散霧消するのだった。その弱まった光のために、あたり一帯はさらに荒涼として見えた。
 レナは、ぼんやりとその辺を眺めていた。
「私が何を探してるか、わかる?」
少しして彼女は言った。
「あなたの木馬よ」
 彼は微笑んだ。
「本当に?」
「あそこよ、右の方に、黒い、しみみたいなものがぽつんと見えるわ。たぶん、あれじゃないかしら?」
「たぶんね」
ゲントは答えた。
「大学では昨日、陣営内の分裂の話でもちきりだったわ。あの・・・博士論文は、どうなるの?」
 彼は微笑した。
「君は、冗談がうまいね」
 彼女は、彼の腕をさらにぎゅっとつかんだ。
「冗談なんて、言わないわ。私はいつだって真面目に考えてるのよ。もし木馬がある朝、町のそばに姿をあらわしたら、って」
「そいつが姿をあらわしたら、か」
ゲントが言った。
「象徴的な意味で言ってるんじゃないの。本当によ、その・・・肉も骨もあるものだって、言おうと思ったんだけど」
そこで彼女は微笑んだ。
「昔みたいに、板と釘でできてるのよね」
「同じだよ」
彼は言った。
「あなたが書いたもののことを私に話してくれた時から、何度もそのことを考えていたの。もしも木馬があらわれて、その中に、他の人たちに紛れて私の元婚約者が本当に、鉄製の服を身につけて隠れていたら、どんなに恐ろしいことかしら?」
 ゲントは、何も言わずに微笑んだ。
「最初に、木馬のことについて書こうと思ったのはいつ?」
彼女が訊ねた。
「大体、僕らが知り合った頃からだよ」
彼が答えた。
「でも、そういう考えはずっと昔から、自分の意識の中にあったような気がするな。確か学校に通っていた頃、古典文学の時間に先生がトロイア陥落の話をしてくれるたび、深い悲しみをおぼえたものさ。先生はギリシアの陰謀について話してくれたんだが、僕はこう思ったね:
『ああ、もしもトロイア人たちが木馬を中に入れさえしなければ。ああ、もしもその木の化けものを破壊し、火を放っていれば。或いはせめて外に出したまま、風雨に朽ち果てるのを待ちさえしていれば』」
「そうしていれば、ずっと良かった?」
彼女は訊ねた。
「君もそういう風に思うだろ?僕はね、ホメーロスの文学を習う世界中の生徒の大半が、同じような悲しみをおぼえると思うね」
「きっとそうね」
 三千年にわたるトロイアへの憐憫、か。彼は思った。自分の思索に対して名付けるには、悪くない表題だろう。
「木馬が背負い込んでいたであろうあらゆる不幸を考えれば、あれは市の城門の外に置き去りにしておく方がよかったんだ。一年でも、二年でも、百年でも、千年でも」
ゲントは話し続けた。
「そうして或る日になったら、中に何があるのか見るために背板を引き剥がして、骨組みだけにしてやるんだ。オデュッセウスや、メネラーオスの骨組みも・・・」
「もう、身震いがするわ」
レナが言った。
 彼は彼女に、こういう場合にはいつもそうなのだが、神話の解釈に関する推論を一から十まで話して聞かせようとした。そうして話している内に、また新しい着想が出てくるのだ。どうにかして、しかるべき変更を加え、自分自身とレナを永遠の木馬の前に置いて考えつつ、自分のメモに今晩のやりとりを書き加えるつもりだった。
 実際、彼が描いたいにしえの登場人物たちの立ち回る姿や、神話の解明のために書いたメモ(それはしばしば数式にも似ていたが)に加えてどうしても必要なのは、生身の人間をその舞台に上げることであった。それはあたかも、三千年前の歴史的記念物の廃虚の前で観光客たちが対話するようなものである。
 うち捨てられたワゴン車が残っているであろう、村のある方の真っ暗闇に視線を向けながら木馬の話をしていると、二人の会話のあらゆる部分が、まるで変圧器にかけられたように、彼の思考の中で急速に変容していくのであった。

『何て不遇なのかしら』
彼女は、木の化けものから目をそらして言った。
『そうやって何日も、何か月も、待って、待って・・・この上まだ何を待つというの?私たちが求めてもいないのに、それがわからないのかしらね?』
『まだ望みはあるような気がする』
彼は言った。
『これを求めている人たちがいるかも知れない』
『あなたの言う通りね。きっと、これを求めている人たちが』
『しかし、町の方に向かって歩みを進めることはないだろう』
彼は言った。
『そうして、この広い荒野で、背板の一枚また一枚と剥がれ、その体内に隠れていた骨も崩れ落ち、やがて朽ち果てるのだ』
『私は、そうは思わないわ』
彼女が言った。
『どうして?』
『こんなに時間が経っても、全然雨も降らないし、風も吹かないからよ』
『遠くから見ているとそうだが、近寄ってみれば、背板もあちこちひび割れているし、脚だって泥の中にめり込んでいる』
『そうかもね』
『いずれにしても、見た目ほど恐ろしいものではないさ』
彼女は首をふって否定の意を示した。
『そんなことないわ。この木馬はそう簡単に消えてなくなったりしない。長い時間かけて、この町に近づいているのよ』
『でも、町の方が先に木馬を撃退するだろう』
『あなたは、木馬が初めて私たちの前に姿をあらわした日、あの忘れようもない朝にもそう言ったわね。数カ月もすれば朽ち果てるか、嵐で吹き飛ばされるだろうって言ったわね。でもそうはならなかった。あの日に言ったこと、憶えてる?』
『憶えてるさ』
『あの時も、今と同じように私は野原いっぱいのひな菊の花を見ていた。みんながその上を不注意に歩き回ったり、座り込んで食べ物を広げたり飲み物の瓶を捨てていくのが残念でならなかったけれど、初めての、楽しいピクニックだったわ』
『音楽もあったような気がするよ』
『もちろんよ。オーケストラが来ていたし、他には、男の子たちが手にさげて持ってきていたラジオが何台かあったわ。あれが急に私たちの前に出てきた時は、何もかも楽しかったわね』
『子供たちが騒ぎ出したんだ:
「ねえねえママ、何だろう、あのワゴン!」
ってね』
『憶えてるわ、子供が二人か三人ほどいて、ツェン・トゥフィン製の古いワゴン車があるって言っていたのよ。いくらか昔に、持ち主もろとも事故に遭ったんだって』

[アルバニア語Cen Tufinëは車種名か社名と思われるが不明。中国車の様でもあるが、詳しい読者の情報を待つ]
『そうだ、今思い出したよ。最初はてっきり、棄てられた大きなワゴンの車体のように見えて驚いたな』
『みんな、すっかり呆気にとられてたのよ』
彼女が言った。
『あなた、自分が眼鏡をかけた男の人に訊ねた時のことを憶えてる?:
「あの原っぱにあるのは何です?」
そうしたらその人、いらいらしながら答えたわ:
「おいお若いの、おまえさん一体全体、目玉がついてないってのかい、それとも、私をからかってるのかい。ありゃあワゴン車だよ、ワゴンの車体だよ」』
『それからみんなが口々にこう言ったんだ。
「こんな野原の真ん中に、どこからあんな車が出てきたのだろう?」
でも君だけは、あれを見た途端にぶるぶる震え出して、僕の背中にしがみついてきた。
 それで思い出したよ、その時
「どうしたの?」
って君に訊ねたんだ。すると君は小さな声で、どもりながらこう言った。
「あの、あの野原にあるものって、木馬の形に見えないかしら」』
『そうしたら、あなたは大声で笑ったのよ。
「木馬だって!あれはどこにだってあるようなワゴン車だよ」
でもね、あなたの目の中には、かすかな疑いの念が見えていたわ』
『最初は、確かにただのワゴン車だと思っていた。けれどね、その内に僕もほんの少しだけれど、ワゴン車の外観が、馬の隆起のように見えてきたんだ』
『でもあなた自身はそれを認めないで、ずっと車だと言い張っていたわ。おまけに、ずっと私にもいらいらしていたでしょう』
『恐怖をふり払おうとしていたんだ』
するとレナはため息をついた。
『他の人たちの中にも、ワゴン車の外形に、私たちが見たのと同じものを見いだした人たちがいたに違いないわ。そういう人たちは、表情を見ればわかるもの』
『たぶんね。でもほとんどの人はそんなことに構ってやしなかったんだ。みんな屋台の方へ集まって、お互いにビールやアルコールで乾杯していたんだ』

「何を考えてるの?」
レナが、襟元にかかった髪をなでながら訊ねた。
「ずいぶん深く考え込んでいたわ」
「一緒にピクニックに行ったことについて考えていたんだ。もっとも実際は、僕ひとりで行ったんだけどね」
「あなたに言うのを忘れてたんだけど、本当に、私をいつかその車のところに連れていってくれるわよね?」
「もちろんさ、あそこはきれいだったよ。でも今はまずいな、冬が近いし、夏みたいに散歩には向いていないし。君に、あの日曜日のまだ僕らが知り合ってない頃だけどピクニックのことは、何か言ったっけ?」
彼は訊ねた。
「そういえば、何か聞いたわね」
「そう、あの時に、僕のメモのアイディアが浮かんだんだ。あいにく、僕らはあのピクニックには一緒に行けなかったんだけどね。
 でも、あの場所にも、それに他のいろんな場所にも、君と一緒に行っているような気が、すごくするんだよ」
 レナがずっと襟元にかかった髪をなでている間、ゲントの思いは、あのピクニック場の、そこにあった罠にかかったかのように、その場に留まったままだった。
『一体あれは何だ、草っ原の真ん中に放り捨てられた、あのワゴン車は?』
誰かが叫んだ。
『どうかしてるよ、どこかの地区公社が、あんなところにがらくたを置いていきやがったんじゃないか?』
『その通りさ。ああいう場所ってのは、ごろつきや悪党どもが夜更かしするにはもってこいだからね』
と誰かが返事をした。
『ごろつきやら悪党どもだって?』
今度は、半分空になったビール瓶を手にした誰かが口を挟んできた。
『隠れるんならそういう連中ぐらいだろうよ、だがな、それならまだマシな方さ。反体制派だか、もっとたちの悪い連中だかが隠れていやあしないかな」
 そう言い終わるかしないうちに、その人物は手を振り上げると、力まかせに瓶を、ワゴン車の方へ向かって投げつけた。瓶はワゴン車の背板で粉々になった。
 そうすると、まるでそれが合図ででもあったかのように、集まっていた人々は酒と陽気に浮かされたかのごとく、次々にビール瓶をワゴン車へと放り始めた。
「ラーオコオーンだ」
としばらくしてゲント・ルヴィナは思った。
「いにしえの神話のようだ、一つどころではなく、何十と」
 レナの手は、まだ襟元にかかった髪をなでていた。
「あなたは、社会主義陣営が私たちを見放すと思っているの?」
彼女は訊ねた。
「ハンガリーも、東ドイツも?」
「間違いないさ、どの国も」
彼の声には、不透明な希望にかきまわされた不快感が感じられた。
「ハンガリー人やドイツ人の技師たちの動きには、ほとんど変わりがないらしいけど」
「つまらない期待をしないことさ。それももう終わった話だよ」
ゲントが言った。
 レナはため息をついた。
「どうしてよりにもよって、私たちが知り合ったこの時期なの?」
「怖いのかい?」
彼は訊ねた。
「何て言ったらいいかしら。何かひどく普通じゃない感じがするの。社会主義陣営の外で生きるなんて・・・人の心って、なかなか適応できないものなのよ。怖くないだなんて、言いきれないわ。それとも、今こうしてあなたと出会ったから、そうなのかしら」

『怖いのかい?』
彼は彼女に訊ねた。
『何て言ったらいいかしら。初めてあの木馬を見た時、心の中で誰かがささやいたのよ;
「これはおまえの婚礼のための馬だ。ヘレナよ、この馬はおまえのためにやってきたのだ」
って』
彼女は言った。
『でも、そうじゃないってことは、君だってよくわかってるじゃないか。この馬がここへやってきたのは、僕たちみんなに関することなんだよ』
『漠然とした不安よ、そこに私の身体が少しだけ埋もれているのよ』
ヘレナは答えた。そして小さな声で、
『時々、怖くなるわ』
と付け加えた。
『夜は特に怖くなるの。あの野原のずっと向こうで、あの木馬がいきなり動き出すような気がするのよ。
 それは月の光を浴びて、巨大な関節をぎこちなく動かしながら、近づいてくるの。ガクン、ガクン、ガクンって、木のきしむ音が聞こえてくるようだわ』
『おかしなことを言うんだな君は』
そう言って、彼は笑った。
『そんなくだらないことで妄想を盛んにするなんてことは、やめた方がいいよ』
 ヘレナはため息をついた。
『あれは、私をどこか遠くへ連れていくつもりなのよ。私は、髪の毛をひっつかまれて、あの中に引きずり込まれるんだわ』
『もうよそう、ヘレナ』
『あなたが言ったのよ、あの木馬の中に隠れてるんだって。他の連中に紛れ込んで、私の前の婚約者もいるんだわ』
『あそこにいるのは、世の中の古くさいガラクタどもばかりさ』
『だからね、何だかさっきからずっと、あれが私の馬のような気がするのよ。私をつかまえにやってきたのよ』
『よせよ、ヘレナ。あの馬はこれっぽちだって、前に動きゃしないんだ。やがて朽ち果てて、あそこに立ったまま崩れ落ちていくのさ。だってあれは、ただの木でできた馬なんだから。木でできた馬は、自分で動けやしないんだ』
『でも、引っ張ることならできるわ』
ヘレナが言った。
『以前だったらそんな可能性もあっただろうさ、前だったら、みんなあの見た目に騙されて、丸め込まれもしたろうさ。だが今はもう、それは昔の話なんだよ』
『でもね、別な人たちが、新しい世代の人たちが来ることもあるんじゃないかしら。そうしたら、木馬を町の中へ引っ張っていくことだって、あるかも知れないわ。もしそうだったら、どうなるかしら?』
『いや、そもそもどんな世代の人たちだって、自分たちのことだけじゃなく、後の世代の運命にも責任を負わなきゃならないんだよ』
『でも、私たちは・・・ああいやだ、あれと一緒に人生の一部を送るのよ、おしまいまで言うにも及ばないことだわ。
 何て不幸なのかしら、よりにもよって今この時代だなんて。私たちが出会った、この時代にだなんて』
『だからね、ヘレナ、今、言ったばかりじゃないか・・・木馬はあそこで、朽ち果てていくんだよ』
『じゃあ、それにずっと時間がかかったらどうするの?
 もしあれが、何年たっても、地平線の一部としてあそこに留まり続けたら?
 そしていつのまにか、私たちが、あの木馬なしでは地平線をみとめられないほどに馴染んでしまったら?
 そんな風にしてあの木馬は、私たちの精神に刻み込まれ、そうして私たちは慣らされてしまうんじゃないかしら』
『そうなる前に崩れてしまうだろうさ』
『崩れてしまう・・・でも、それはいつのことなの?三十年、四十年だなんて言うんじゃないでしょうね。
 その頃には私たちだって歳をとっているわ。あの怪物への恐怖におびえて、人生の一番美しい時期を通り過ごすのよ』
[訳注;とここで初めて、この小説の表題でもあるアルバニア語『怪物përbindëshi』が文中にその姿をあらわしたことになる]
『でもたぶん、あれが姿をあらわさなかったら、僕たち二人は出会っていなかっただろう』
そう言ったゲントの方を向いたヘレナの目は、恐怖に凍りついていた。
『僕の言ったこと、違ってるかい?』
彼は訊いた。
 ヘレナは、彼の肩に頭を寄せた。彼女の息遣いは穏やかだった。ふと彼は、彼女の内にごく僅かながら、もっと遠い、別の息遣いが感じられたような気がした。
 突然、彼女は彼に顔を向けた。彼女の瞳は彼のすぐそばにあって、ほとんど彼の目とくっつかんばかりだった。まるで、何一つとして見過ごすまいとするかのように。
『じゃあ、何もかもが本当じゃなかったら?』
冷たい声でヘレナは訊ねた。
『何が?どこが本当じゃないって?』
ゲントが訊ね返した。
『私たちの周りの何もかもよ。木馬だの、緊張だの、危機だのって。そのどれもこれもが、作られたものだとしたら?』
『だったら、誰に作られたものなんだい?』
彼は穏やかな声で訊いた。
『わかるわけないでしょ』
と彼女は苛立ち気味に答えた。
『私には何もわからないの。自分でも何を言ってるのか、わけがわからないわ』
 ゲントはヘレナの髪を静かに撫でながら、彼女の頭を自分の肩に寄せようとした。
『あなた、私に話してくれたわよね。昔の人たちは、目の前にあるものをしょっちゅう疑ってばかりいたって。
 だけどね私、あなたが言っていたのを憶えてるわ。昔の人たちは、ヘレネーのことについても疑いを抱いていたんじゃないかって』
『ああ、そうさ。昔の詩に関して、そういう推論があるんだ;
「トロイアにはヘレネーなんて来なかった。それは、彼女のように見せかけたものに過ぎなかった」』
『そうに違いないわ』
『でもまあ、そういう風に説明しようと思えば、ある程度はできるんだよ。ギリシア人たちは、パリスが彼女と一緒にトロイアへ向かうのに先立って、何度もその出奔を要求していたのさ。自分が犯したしくじりのために父王を恐れていたパリスは、それこそ四六時中ヘレネーについてまわっていたんだ』
[訳注;パリスの父とは、トロイアの王であるプリアモスのこと]
とそこまで語っていてゲントは、あの地方のうらびれたホテルで過ごした二日間のことを思い出していた。ちょうどそれは、ゲントの父が脅迫状の電報を受け取った頃のことだった。
『姿を消した女王の帰還を要求したギリシアの使節団に、それでもトロイア側が極めて丁重な態度で対応したというのも、うなずける話だよ;
「あなたたち、気は確かですか?さもなきゃ起きたままで夢でも見てなさるのか?ここには、ヘレネーなんて人は来ちゃいませんよ。その影でも来たというなら、話は別ですがね」』
ヘレナは笑った。
『そこまで詳しい話は一度もしてくれなかったじゃないの。で、それから?』
『それから、ヘレネーは実際に着いたのさ。ところがそこから風説が大いに広がってね。
 それはトロイアのありふれた居酒屋で、人から人へと伝わっただろうね;
「うちの王子がギリシアのお妃を略奪してきたんだとよ、本当かね?」
すると他の奴がこう言っただろう
「馬鹿なこと言うんじゃねえ、そりゃあ、我が国の名に泥をかけようってたくらんでる連中のでたらめさ!」
とまあ要するに、そういう話が余りにも広がったものだから、本当にヘレネーが来た時でさえ、彼女の影か何かだろうと思われていたんだ』
『面白いじゃないの』
ヘレナは言った。そしてつぶやいた。
『どんな昔の事件にも、そういうひきつけられるような部分があるものなのね。私、木馬の話を聞いただけで、身体じゅうが動かなくなってしまうのよ。そうして光を見失って、恐怖に襲われるのだわ。あなたが少し前に話してくれている間も、私、こう思っていたわ;
「一体どんな希望の無い場所からやって来たのかしら、あの真っ黒な木馬は?」』
 ゲントは彼女の髪を撫でながら、地平線に浮かぶ黒いしみを、目で追っていた。
イーリオンの廃虚を離れ何を探し求めるのか
別の時代の狭間を夢遊病者のようにさまよう
トロイアの炎にも神殿にも叫びにも満たされぬ
怪物よ! 都市の肉におまえは慣れてしまった
[訳注;イーリオンはトロイアの別名。イーリオスが建都したとの伝説にちなむ]  彼はどこかでこんな詩を読んだことがあった。それともそれは、どこかの壁際にある苔むした寝床のような、彼自身の意識の中で生み出されたものだったのだろうか?
『違うよヘレナ、どんな神話からも、どんな時代の深淵からも、あんな馬は出てきやしない。あれは僕たちの時代に生まれたんだ。ただ、どこかから借りてきたような姿をしているというだけでね。ああいう形って、普通は借りものだからね』
『ずいぶん遅くなったわ』
ヘレナが言った。

「遅くなったわ」
レナが言った。
「寮の守衛さんにまた何か言われるわ。もう帰りましょうよ」
 二人はベンチから立ち上がり、自動車道へ出ると、抱き合ったまで歩いた。
 二人は既に平原に背を向けていた。月の光に照らされてできた二人の影が、黒いアスファルトの上に長く伸びて、舞い踊っていた。それはまるで二人とは何の関係もない、何か別のもののようであった。
 町に戻ると、道はすっかり人もまばらになっていた。警官が一人、黒い防水コートに身を包み、と或る大使館の詰め所の前でタバコを吸っていた。隣接する通りの向こうで、話し声が聞こえた。
「清掃員たちが出てきた」
ゲントが言った。
「もう夜中なんだ」
 向こうで少人数の一団が、たぶん夕食か何かの帰りであろう、愉快そうにいとまを告げ合っていた。その時、ゲント・ルヴィナは、自分の著作の新しい一章の書き出しを考えていたが、そこにはことごとくどういうわけかはよくわからなかったが向こうで散会している人々の口にする『おやすみ』とか『こんばんは』とか、或いはそれらに似たようなことばが混ざっていた。

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