VII

 
「こんばんは、諸君」
アカマースが、木馬の前脚に空いた穴から身体を伸ばして言った。
「こんばんは」
他の人たちが返事をした。
 アカマースはいつものように新聞を持ってきていたが、それを木馬の中に放り出すと、支柱のかたわらに腰を下ろした。
 オデュッセウス・Kはその新聞を手に取り、石油ランプのところまで行った。
「何か問題は?」
オデュッセウス・Kは相手の方を向かずに訊ねた。
「何も」
アカマースは答えた。
「いつもと同じ、土曜の夜さ」
 それからアカマースはマックスとミロシュの方に目をやり、二人の、何かを懇願するような赤く充血した目を見た。
「道ばたにはいつも通り、いい女たちが」
彼は笑って言ったが、すぐに表情は暗くなった。そしてマックスと目が合った。
「見たか?」
そう言って、マックスはようやくトランジスタラジオのスイッチを切った。
 アカマースは『そうだ』とうなずいてみせた。
「カフェで?」
「二人はカフェにいた。彼女は俺のことを知っていたようだったな、立ち上がって出ていったよ。今頃はどこかの公園を散歩しているだろう」
「あいつと?」
アカマースはうなずいた。
「アカマース、俺が言っていた本のことは訊いてくれたか?」
木馬の製作者が訊ねた。
「訊いたさ」
アカマースは答えた。
「二週間後に店に出回るそうだ」
「で、またあいつと?」
マックスが訊いた。
「今言っただろう」
「相変わらず、美人だったか?」
「ああ」
「あいつに優しく微笑みかけていたか?」
「決まってるだろ」
「あばずれが」
「まあ、大したこともないか」
オデュッセウス・Kはもの憂げに言うと、読んでいた新聞を隅の方に押しやった。
「ほとんど何もないさ」
とアカマースは答えた。それからミロシュの方を向いて言った。
「知ってるか?聞いた話だと、もうすぐ詩の劇場の前に我らが友人の彫像が立つらしいぞ」
「友人って、誰だ?」
ミロシュが訊ねた。
 アカマースは、彼の方に視線を投げかけた。
「あの晩、くだらない百代言をたれていた友人さ。もう忘れたのか?」
「ああ、俺たちが子どももろとも皆殺しにした、あいつのことか?」
「何だって?」
ロベルトが言った。
「俺たちの木馬を攻撃したあいつのために、彫刻だって?」
「お前は能なしだな、アカマース」
不意にオデュッセウス・Kが言った。
「そのニュースが俺たちにとってどれだけ重大なことか、お前にはわからないのか?」
「重大だって?そうは思えないな」
「たやすくわかることさ」
ロベルトが言った。
「連中は、最初に木馬を侮辱した人間を記念しようとしているんだぞ。目下の問題での、彼らの我々に対する態度がわかろうというものだ」
「ああ、そのことに気付かなかったわけじゃないさ」
アカマースが口を開いた。
「ナイフを使う方がよっぽど楽ちんさ、あんな、きべ・・・詭弁よりは」
「そんなセリフ、何の映画でおぼえた?」
オデュッセウス・Kは嘲笑った。
「俺たちの中じゃ、映画を見に行くのはお前だけだからな」
 アカマースは顎をガチガチいわせていたが、不意に
「俺のことなんか放っといてくれ」
と叫んだ。
「俺は疲れてるんだ、こん畜生め」
「休めよ、誰もお前の邪魔なんかしないさ」
オデュッセウス・Kが言った。
 それから長い沈黙が続いた。しばらくの間は、隅にいるアカマースを包む古毛布のこすれる音だけが聞こえていた。オデュッセウス・Kは再び新聞の束を手に取ると、灯りの方へ近付いていった。
「ブロンズの彫像を見ただけで自分の手で殺した人物だとわかるとは、お前はすごいと思うよ」
ミロシュが言った。
「俺が同じような場にいたら、うっかりナイフを出してしまうだろうな」
木馬の製作者が笑った。
「お前は若い、すぐかっとなる」
そして訊ねた。
「子どもを殺したことがあるか?」
「いや。それはアカマースだ」
ミロシュは視線を落とした。
「俺たちは二人して話し合って、まずあの男を手にかけることにした。そうした後は、どちらかがガキどもを殺すつもりだった。
 だが実際は、あの男が死んで地面に崩れ落ちるや、アカマースは子供たちの中の一人の髪を引っ掴んで、その首にナイフを突き立てた。俺は別の子を捕まえためらったかも知れないがその震える身をアカマースの方へ投げやった。そうしてあいつが他の子供も片づけたので、俺たちは暗い裏道を走り去った」
「子供たちに罪はなかったんだろうがな」
木馬の製作者が言った。
「しかし、俺たちは正しいことをした。木馬を侮辱する者は、無慈悲に処刑しなければならない。そいつがやった侮辱と同じぐらいに、無慈悲にな」
「俺は、その時そこにいなかった。しかし、聞いたことはある」
ミロシュが言った。
「ああ、お前はあの時、また俺たちの仲間にはなっていなかった」
 木馬の製作者は溜め息をついた。
「あの日は、俺たちにとって人生最高の栄誉ある日になるはずだった。だが、運命は不意に俺たちに背を向けた・・・眠くないか?大丈夫なら、聞かせてやろう」
「話してくれよ」
ミロシュは言った。
 木馬の製作者は話し始めた。木馬を作り上げたのは、暗い、じめじめした夜のことだった。樅の木から背板や支柱を切り出し、釘で打ちつけた。製作者自身は、そんな夜の混乱の中で命令を下していた。そして朝が来た時、まだ暗闇が残る寒空の下、木馬は何百人もの畏怖の視線の中で、威厳と恐怖に満ちてそびえ立っていたという。
「まるで、はるか遠く有史以前の時代から、俺たちの前に恐るべき来訪者が姿をあらわしたかのようだった。それがこの平野に歩みを止め、人々は息をのんでただ見守っていた。
 それからオデュッセウスは皆に立ち去るよう命じたが、籤引きで木馬の腹の中に隠れることになった人々は、その限りでなかった。皆が去り、自分たち五人だけがその場に残った。俺たちはちっぽけで、荒野の中にかき消えてしまいそうだった。それから四人が順番に立ち上がり、内部へと入っていった。自分だけが外に留まった。そして夜を明かしていたのだ。霧がかき消され、やがて東から輝く朝日が昇ってきた。
 俺は、いま一度我らが作品を見上げ、それからその足元に広がる空と地平線を見つめた。そして自分が作った木馬の威容を感じていた。疲れきっていた。身体の節々が眠気でがくがくしていた。しかし、俺は立ち去ることができなかった。胸の上で両手を組み、木馬の前に立ったまま、来たるべき我らが栄光の日を思い浮かべていた。
 俺は偉大な製作者だ。かくも独創的かつ斬新、そして人類史に二つとないものを構想したのだからな。万里の長城がどうした?要するにだ、エジプトのファラオのピラミッドだって、俺が作ったものに比べれば、どれほどのものだ?大建築、自動車道、エッフェル塔、神殿、城、橋、摩天楼、寺院、これら全ては、お互いに似せ合って石や鉄で作られたしろものであり、すっくと大地に屹立しているが、いずれはその生まれた廃虚に帰ることを運命づけられたもの、それ以外の何ものでもないのだ。
 しかし俺が作り上げたのは、天才的作品だ。現実と夢、かりそめと永遠のはざまにある作品だ。自分が作った木馬こそ、その足で神話の世界に立ち、その頭を現代世界へと向けた機械だ。それは、あらゆる時代、あらゆる世代の人々に適応し、恐怖をもって作用することのできる、恐怖の機械なのだ。力学の法則に従いながら、あらゆる世紀にそびえ立ち、また移動していくのだ。必要とされればどんな時にでも、まつろわぬ人々や街々の地平線上に突如その姿をあらわして、威圧し、人々の意識に影を落とし、その心に絶え間ない疑心と畏怖と不安を抱かせるのだ。
 どんな蛮族どもも、悪疫も、独裁体制も、この木馬ほどのことはできないだろう。ピラミッドの圧迫感さえ、何千年という時の流れの中では色あせ、革命のギロチンもやがては鉄の道具になり下がり、そんな風にして専制者のあらゆる装置も教義も道具も、いつかは死ぬか、或いはその価値を失うよう定められているのだ。それらが持つ、本来の性質ゆえにだよ。わかるかね?だが、俺の木馬はそういうものとはまったく違う。それは理解できるものでもあり、同時にまた理解できないものでもあり、人間の外側にも内部にも存在し、悪しきものでもあり良きものでもあり、その伸ばした腕の先で殴りつけもするし、また不意に愛撫もする。それがどこに存在し、またどこに存在しないかさえ、誰にもわからない。どんな姿ででもあらわれることができるが、音も立てずに消えることもできる。人々は、この悪しきものがいないような場所、自分たちの目の前にあらわれても、見ずにすむような場所を探しまわるのだ。
 なあお前、奴らは互いに悲鳴を上げてまわるだろうよ。なぜって、誰もが他人の目には悪魔に見えてきて、いつか奴らの疑心は大きくなるだろうから・・・そうこうする内にもありとあらゆる不幸が姿をあらわしたこの地上に、俺は新たな、最も完璧なまでの恐怖、或いは最も全面的な恐怖、今風に言うならば政治的テロルを生み落とした・・・俺は、偉大なる木馬を構想した。その蹄は輝きながら打ち鳴らされ、人類の生きる時代に恐怖をもたらす・・・とまあそんなことを、その時に考えていたのさ。
 それから陽が昇るのを確かめると、俺もまた立ち上がり、我らが創造物の体内へ入っていった。仲間たちは武器をかたわらに置いて眠っていた、今と同じようにな。風通しの良い背板や支柱のところで、無防備に身体を伸ばしていたよ。木馬の中には、強い樹脂の匂いが漂っていた。あちこちの割れ目から、薄暗い光が差し込み始めていた。俺も木馬の肋材のところに横になったが、すぐさま眠りに落ちていった。それは、鉛のように重い眠りだった。
 どれぐらいそうして眠っていただろうか。俺たちは、外から聞こえてくる鈍い、大きな音に目を覚まされた。俺たちは次々に起き上がり、割れ目の間から外を見ようと駆け寄った。
『来るぞ!』
最初に叫んだのはアカマースだった。木馬の頭のところへよじ登り、目の穴から耳を澄ませていた。平原の彼方には大群集が、その数を増しつつあった。それと一緒に轟音も近くなってきた。
『来るぞ!来るぞ!』 俺たちは興奮して叫び合った。激しい疲れも、魔法のようにかき消えていた。身体中が軽くなり、心臓は力強く打ち鳴らされていた。額が汗に濡れている者もあった。決戦の時、木馬の偉大なる勝利の時が、近づいていたのだ。
 俺はその時、自分の手が震えているのを感じていた。ロベルトは、俺の顔が真っ青だと言った。それも当然のことだ。その間にも群集の先頭は接近し、十歩ほど手前で止まった。そこには男や、女や、子供や、まだ若い少年や少女がいた。まるで、ピクニックにでも来たかのようだった。いずれも驚きの眼差しで、指さしながら、うなずき合い、言葉を交わし合っては、また驚嘆していた。さらに向こうから、近づいてくる数百人が目に入った。まさしく民族大移動だ。
 俺たちは、木馬の穴や割れ目のそばで固まったように立ちつくし、神経を昂ぶらせながら聞き耳を立てていた。今となっては、起こるべきことが起こるのを待つだけだ。待っていれば、町の方から別の一団が梯子と縄を持って駆けつける。そして家具職人や、それに続いて鍛冶職人たちが走り寄ってきて、木馬の足に車輪を取り付け、歓声や凱歌の中、町へ向かって引っ張り始めるだろう。
 ところが、さっきも言った通りだ、運命は俺たちに背を向けた。期待していたことが起こるかわりに、予想もしていなかった恐るべきことが起こった。あの男だ、俺たちはその名前さえも知らなかったが、ひと月後にはお前とアカマースと二人して殺すことになるあの男が、木馬の方へ二三歩ばかり近づくと、怒りの声を上げながら、手に持っていたビール瓶を投げつけてきたのだ。
 木馬は、まるで巨大な槍に撃たれたように震えた。いや、俺たち自身が強烈な精神的ショックを受けていたのかも知れない。
 そいつの攻撃が一種の合図ででもあったように、群集の一部は口々に怒鳴ったり、侮辱や中傷の言葉を投げつけたり、口笛を鳴らしたり、悪態をついたりし始めた。一方では、興味がなさそうにビールを飲んでいるだけの連中もいた。騒ぎは耐えられないほどのものになってきた。
『あの男は死ぬべきだ!』
オデュッセウス・Kが、最初に攻撃をしかけた奴を指してそう言った。木馬を襲っていたのは数百人だったが、その中でも処罰に値するのは、最初の一人だけだった。
 木馬の周囲の騒ぎは何時間も続いた。それから人々は、町へと戻り始めた。特に興奮していた一団が、一番最後に立ち去った。陽が沈み、再び平原は静寂を取り戻した。地面には、踏みつけた煙草の空箱や、引きちぎれた新聞の切れ端や、放り捨てられた飲み物の瓶だけが残された。それらは幾晩も、物悲しげに輝く月の光の下で、白く輝いていた。今もそうだし、これから先、何年も、月の出る晩に下の方を見れば、あっちにもこっちにも割れたガラスのかけらが、憎しみの輝きを放つかのように光っているのを目にすることだろう。
 なあミロシュよ、これがあの日のできごとだ。この終わりなき、呪われた期待の始まった日のことだよ。じゃあもう、おやすみ。俺は眠くなった」
「おやすみ」
ミロシュは言った。
 彼は支柱に寄りかかろうと身体を動かしたが、彼が動くのと一緒に、彼自身の影もまた無気味に動いた。それは彼が一歩進むごとに、形や長さを変えていくのだった。彼は自分の居場所まで来て腰を下ろしたが、横になりはしなかった。眠れなかったのだ。他の連中は、何時間も前からずっと眠りを貪っている。アカマースは軽くいびきをかいていた。マックスだけが、毛布にくるまったまま何度も寝返りをうっていた。ミロシュは立ち上がってそこへ近づいた。
「マックス」
彼は小声でささやきかけた。
 マックスは夜具から顔を出した。その目は相変わらず赤く充血していた。
「何だ?」
「いや、眠れなさそうだったから、来てみたんだが」
「眠れないよ」
「こっちも眠くないんだ」
ミロシュは言った。
「俺にどうしろって言うんだ?」
マックスは怒った声で言った。
「俺には俺の問題があるんだ」
「邪魔して悪かったよ」
ミロシュは言った。
「おやすみ」
 マックスはまた顔を毛布に埋めたが、しばらくするとそれをはねのけた。
「待てよ、外に出ないか」
マックスは小声でミロシュに持ちかけた。それでミロシュはついてきた。
「製作者殿の奴、お前に何を話してたんだ?」
マックスが訊ねた。
「昔のことだよ、思い出話さ」
「奴の自画自賛じゃなかったかい?」
「少しはね」
マックスは皮肉な笑いを浮かべた。
「ああいうインテリってのは、まるで女みたいだな。自分で自分を可愛がりたくて、しようがないんだろう」
 ミロシュは何も答えなかった。
「要するにだな、頭の中に、理屈の虫がわいてるんだよ」
マックスは言った。
「眠れなくなるのも無理はない」
 しかしミロシュは、暗い目でマックスを見るだけだった。彼はまったく別のことを考えていた。この赤髭がいつの日か美しいヘレナの喉をかき切る時の様子が、目に浮かぶように思われたのだ。
「何を蛙みたいな顔してこっちを見てる?どんな話がお前のお気に入りだか、俺は知ってるぞ」
マックスは言った。
「お前、女のことを考えてるだろう」
ミロシュは、しいて笑おうと努めた。
「話してやろうか?女のことを」
マックスは言った。
「座れよ」
だがミロシュはためらっている風だった。
「座れって言ってるだろう、本当に話してやるからさ」
ミロシュは座った。
「どんなことが知りたい?売春宿の話をしてやろうか?」
「ヘレナの話をしてくれ」
ミロシュは冷静に言った。
 マックスは顔を伏せた。表情が暗くなった。
 確かに、彼にはヘレナのことしか話したくない気持ちがあった。しかし、そのことを最初に話したくはないという思いもあったのだ。そのことはみんな知っていた。
「いいとも」
マックスはゆっくりと口を開いた。
「話してやろう」
 彼はひとしきり顔を伏せ、じっと考え込んでいた。それから小さな声で何やらぶつぶつと誰かのことを罵っていたが、やがて顔を上げた。
「タクシーが、ずっと入口のところに止まっていたんだ」
と彼は不意に話し始めた。
「招待客の誰一人として、それに不審を抱かなかった。みんな笑いながら、阿呆どものように先を争って入ってきたが、タクシーには誰も疑いの目を向けなかった。
 もし考える余裕があれば、おかしいと思ったはずだ。いや、少なくとも、こう訊ねる人ぐらいはいただろう;
『玄関の前にタクシーが止まってますが、ありゃ何です?』
『誰か待たせてる人でもいるんですか?それとも誰もいないんですか?』
『もし待たせてるんなら、こんなに長いことやってこない気取った奴は、どこの誰です?』
『もし誰も待たせてないんなら、何だっていつまでも、あんな所でぐずぐずやってるんです?』
 少しでも頭を使う人がいれば、それぐらいの疑問は出ていただろう。だがあの晩は、みんな多少いかれてた。飲んだり踊ったりすることしか頭になかったんだ。大騒ぎで飛び込んできて、ヘレナにお世辞を並べ立て、俺のことをさんざん羨ましがっていた。
『ついてるよ、お前は!』
そんな言葉をあの晩は何度も聞かされた。だが、ついているのかそうでないのか、俺にはよくわからなかった。
 俺は何かイライラしていた。彼女の散漫な態度に、不安を感じていたのだ。彼女の目には何かしらとらえどころのないものがあった。その瞳の奥には、傷ついた鳥のようにぴちぴちと蠢くものがあった。 そうだ、あの晩の彼女は何か変だった。俺たちの婚約祝いのためにみんな集まってくれていたし、彼女はひときわ美しかった。俺たちは婚約したんだ、不安に感じる理由など何一つなかったのに。
『どうしたの?』
俺は何度も彼女に訊いた。彼女は俺を驚いたような顔で見た。
『いいえ何も、ちょっとびっくりしただけよ』
 その頃、タクシーは入口から数メートル離れたあたりの、歩道のそばの陰になったところにずっと止まっていた。獲物を待ち受ける獣のように。わかるか?それは、角張った鱗だらけの獣なんだよ。そして、招待客の誰も、後から来た連中さえも、それには気がつかなかった。いや、たとえ気づいていても、
『あのタクシーはこんな時間に、一体全体どんな奴を待ってるんだろう?』
などと不審に思って訊ねる者などいなかった。誰もが、テーブルの方や、食べ物や飲み物のことしか考えていなかったからだ。
 ああ、何という不運だろう!何という薄汚れた人間ども、何という呪われた運命だろう!
 万事おひらきになった頃、ようやく招待客の多くが意外そうに声をかけてきた。
『外にタクシーが止まっていたんだ、別におかしいとは思わなかったが・・・』
 俺はその時キッチンにいた。家の人たちに何かを頼んでいるところだった。そうして、戻ってくると、招待客の中に彼女の姿はなかった。
『ヘレナはどこだい?』
と何度も訊ねた。しかし俺の問いかけを気にかける者は誰もいなかった。何人かは鼻で笑ってさえいた。それから俺はさらに彼女を探し続け、他の招待客にも訊いてまわった。
 ついに俺はテープレコーダを止めて叫び出した。
『ヘレナ!ヘレナ!』
だがヘレナはどこにもいなかった。すると誰かが声を上げた。
『外にタクシーが止まってたんだが、そのタクシーが見えなくなってるぞ』
 そうだ、タクシーは確かにかき消えていた。その夜ずっと、そいつは俺のヘレナを待ちかまえていたんだ」
 マックスは首を振りながらひとしきり何かつぶやいていたが、やがて話を終えた。
「あんたがこの町を憎んでいるのは、要するに、ヘレナが住んでいるからなんだな」
ミロシュは言った。
「俺も、この町が憎い」
「だが俺ほどに憎むことはできまい」
「憎んでいるさ、ずっと強く。俺の父を銃殺したんだから」
「それでも、俺ほどに憎むことはできまい」
「俺たちが町に入る時には、誰のことがこれほど憎いか、教えてやるよ」
「悪党め」
そう言われてミロシュは沈黙した。
「あの時から、タクシーが死ぬほど憎い」
とマックスは言った
 その後も二人は、生活の中で特に自分の憎らしいものについて互いに語り合った。ぴゅうぴゅう鳴る風、煉瓦の屋根、かまど、ミルクの被膜、朝の目覚め、ベージュの服、ガラス、土曜日。
「何時かな?」
ミロシュが訊ねた。
「夜中だろう」
「他にも話してくれよ。何か楽しい話をさ」
「何の話がいい?」
「何って・・・その・・・ほら・・・ヘレナのこととか」
「楽しいことなんか何ひとつ憶えちゃいない」
「彼女の身体のことなんかどうだ」
ミロシュは持ってまわったような口ぶりで言った。
「ヘレナの腰とか、足とかさ」
「おい貴様、考えてものを言え!」
「いいから話せよ」
ミロシュはぼそぼそとした声で頼んだ。
「あの女と寝たんだろう?どんな感じの腰だった?どんな下着だった?それをどんな風に脱がした?どんな風に脱がしたんだよ、教えろよ」
「どういうつもりだ?」
マックスは今にも大声を上げそうになった。
「どうしてかって?面白いからに決まってるじゃないか。おまえのことはどうだっていいさ」
「最低な奴だ」
「教えろよ、マックス。なあ頼むよ、教えてくれ」
「狼みたいに目をギラギラさせやがって。貴様を見てるとむかつくんだよ」
「好きなだけ悪態をたたくがいいさ、いいから教えてくれよ」
マックスは物憂げにミロシュを見た。
「あの日は、寒かった」
彼は少し考えながら言った。
「あとは、そうだな、子持ちには見えなかったよ」
「それから?」
ミロシュが待ち切れず口を挟んだ。
「それからって何だ?」
「その女と寝た時はどんな風だったんだよ?全部しゃべってくれよ」
「このゴミ野郎が」
そうマックスは言ったのだが。それから、少し考えた後で話し始めた。 ミロシュは熱心に聞いていたが、時々話の途中に割り込んでは、より詳細なところを聞き出そうとつとめたので、それがいちいち彼のしゃくにさわった。
「もう戻るぞ」
もう話すことがなくなったマックスは、うんざりした口調で言った。
「寝るのか?」
「いや、独りになりたいんだ」
「もう少し夜更かししないか」
「おまえ、まだ眠くないのか?」
「ああ」
とミロシュは答えた。
「アカマースに言って、もう少し睡眠薬を貰ってこなければ」
「俺には、睡眠薬なんていらないよ」
そう言ってミロシュはため息をついた。
「じゃあ、おやすみ」
「おやすみ」
「灯りを消してくれよ」
マックスが言った。
 ミロシュはランプを吹き消し、自分の居場所まで這っていった。そうして毛布にくるまり目を閉じたが、眠れそうにもなかった。頭がずきずきと痛んだ。
 そこで、マックスの話をあれこれと思い出してみることにした。そうして、ヘレナについてもいろいろと夢想してみた。彼独自の考えをあれこれとめぐらせている内、頭の中はヘレナでいっぱいになっていった。しかし彼女との出会いの様子がどうも満足のいくものではなかったので、彼は自分の気に入るような出会いの姿になるように想像をたくましくしてみた。
 それは冬の雨で鉛色に湿った夜、彼が初めて野原で木馬に出会った夜のことだ。彼には最初それが、古びた大型のワゴン車に見えた。
 彼は何度も、木馬が地中から生えてきたかのように突如として眼前に出現した、あの暗く冷たい夜のことを思い返した。あの時彼は、雨宿りをしようとその木馬の足元に近づいた。そして一晩中そこに居続けて、この荒野に姿を現した木製の怪物は何なのか、何とか理解しようと頭をひねっていた。今になってあの夜のことを思い出してみると、あの野原のどこかで、ヘレナに出会ったことになるわけだ。そして二人して雨を避けようと、木馬の腹の下に潜り込んだのだ。
 彼は彼女に自分の上着を貸して、彼女の身体を暖めてやる。そうして二人は木馬の前脚を上り、その腹の中へと入っていく。木馬の腹の中はがらんどうで、荒れ果てている。二人は肩を寄せ合って、横になる。外では冬の嵐が吹き荒れている。風が真っ暗な穴を通って、支柱の間を吹き抜け、雨の雫が垂れてくる。彼女は身体を震わせる。彼は彼女の気を鎮めようと、胸をさすってやる。それから、彼女の服を脱がせにかかる。
 とここまできたところで彼の空想は止まった。野原での出来事がごくあっさりと過ぎてしまい、すぐに一番の見せ場に来てしまったからだ。これではもう、夢想できるようなことがほとんど残っていない。そこで彼はもう一度、自分とヘレナが野原で出会ったところまで空想を引き戻した。雨の中でたたずんでいる場面が延長されて、それから木馬の腹の下で雨宿りしているところでは、二人が会話をするということにしてみた。この会話というのは重要だ。それはごくたわいもない、大した意味のないものだが、夢想することの楽しみを減ずるようなことはなかった。そもそも、昔からあるような恋物語というものには、多かれ少なかれ、こういったことばのやりとりが聞かれてきたものなのだ。
 さてそこから再び二人は木馬の体内に入り込み、そして風が吹きすさぶところで、またしても彼の空想は中断した。風が吹き荒れたら、その後には彼女の服を脱がせるところなのだが、その風が吹く段で空想を止めてしまうのだ。まるで、テーブルの上に溢れんばかりのご馳走を前にして、ひと切れも口にせず、ただ手を擦り合わせているだけといった趣である。
 何につけても、空想とはゆっくり、緻密に、正確にやらねばならない。マックスの話をもとにして、いかなる細かな部分も見過ごさぬように。もっとも、彼の夢想は雑で、まとまりがなかった。
 実際の風が、木馬に空いた穴をぎしぎしと吹き抜け始めた。そうしてあちこちを壊さんばかりに思われた。
「こんなひどい風じゃ、俺たちにだってどうすることもできやしない」 彼はぶつぶつ言いながら、風の音が聞こえないようにと、肘の辺りで耳を押さえた。だが、それは無駄なことだった。

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