ひび割れた背板のあちこちに、古びた証明書の類が白く浮き上がって見えた。ひび割れから吹き込んでくる風がそれらを吹き飛ばし、隅の方へと追いやったが、それらはそこからまた別の場所へと吹き上げられていた。
やれやれ、こういう書類だって彼らは、踏みつけないようにとごくごくささやかな努力をしながら過ごしていたのだ。しかし、動かすまいとしていた彼らの足も、結局のところなるようにしかならず、それらの書類の上をしっかりと踏みつけていた。以前なら、オデュッセウス・Kはそういうありさまを見ると軽い苛立ちをおぼえたものだった。彼は皆に注意を促し、口うるさく言っていたのだが、結局は彼自身そうやってがみがみ言い続けることにうんざりし、半ば懇願するような口調に変わっていた。
「おいおい、きれいにしておいてくれよ」
彼はそう言っていた。
「どれもこれも、いつか必要になる日が来るんだからな」
それらはかなり古い証明書類だった。様々な問題についての交渉計画、水路の利用証明書、ゼウス神殿に関する長期の認可、共同船舶基地の建設計画書、公式な声明の準備書類、アムネスティ・インターナショナルに対するプレス回答の準備書類、諸々の議事録、二者協議に関するおびただしい分量の草案の山。それらがまるで手つかずのままだった。
書類の一部は、もう随分長いこと使われていないような古いアルファベットで書かれてあって、しかも書かれた言語もとうに死語になっていた。現代語や現代のアルファベットに書き直そうという試みはあったのだが、結局のところ、相変わらず古いままだった。
最初の頃は、彼らもこれらを整理しようと努めていたし、全ての書類のファイルも作っていた。しかし何年かすると、オデュッセウス・Kが口を酸っぱくして指図していたにもかかわらず、書類に対する注意は失われ、ファイルは散逸し、木馬の穴から吹き込んでくる風や雨粒を防ぐために書類が利用されて、あちらこちらに空いた穴の辺りでくるくる回っているという始末。その内いたるところ白い紙だらけになり、書類をまとめて脇にまとめておこうとする者もいなくなったが、もはやオデュッセウス・Kもいちいち口を出すのに疲れたらしく、何の注意も払っていない風だった。
寒い冬の日だった。12月の空は高く、憂鬱で、どんよりとした雲に覆われていた。雲は層状に積み重なり、どこも同じぐらいの厚みで、空の真ん中に陣取っていた。地平線上のあちらこちらでは、それらの雲が時折うっすらと、何かしら意味ありげな姿のものを描き出そうとしていたが、大きな灰色の雲が今にもそれらを、重々しくやるせない単調さの中に飲み込んでしまいそうでもあった。空は、何世紀も前に誕生した灰色の荒野のように見えた。
木馬の製作者は、木馬の支柱に頭をもたせかけて、背板のひび割れから垣間見えるどんよりした空模様をぼんやり眺めていた。救いようのないような思いにとらわれ、心の中まで疲れきって憂鬱に沈んでいた。
その時突然、遠雷のように鳴り響く音が聞こえた。彼は初めのうち、耳鳴りがしているのかと思ったが、そうではなかった。正真正銘の轟音だった。
木馬の製作者はのろのろと立ち上がり、遠くの方へ目をやった。そこで目に入ったものに、彼は仰天した。平原は見渡す限り人で埋まっていたのだ。群集はゆっくりと、黒く粘り気のある波のように、木馬の方へと近付いていた。どよめくその声は、時に弱まったり、また時に強まったりもした。
木馬の製作者はにやりと笑った。
「おいみんな」
と呼びかけながら彼は仲間のところに戻った。
「来るぞ」
仲間たちは起き上がると、外を見るために近付いていった。
「本当に来るぞ」
マックスが言った。
「ついに来たか」
オデュッセウス・Kがつぶやいた。
彼らはしばらくの間、黙ってその様子を眺めていた。
「まるで婚礼の行列だな」
とロベルトが言った。
だが彼らはその言葉をさえぎって、ずっと外を見ていた。群集はなおも接近を続けていた。その地響きの音は、更にはっきりと聞こえるようになっていた。それは、前と同じように、単調で、抑えたようなどよめき声だった。そして今、群集の最前列は百歩ほどのところに接近し、一方その最後尾は見きわめることさえできなかった。まるで町じゅうが木馬に向かってなだれ込んでくるかのように見えた。
これ以外の事態など、起こりようもなかった。木馬の製作者はそう思った。町はついに、木馬に手をかけようとしているのだ。これが木馬の運命だったのだ。そして今、奴らはそれをしようとやって来ている。
「おい見ろ」
ミロシュが声をあげた。
「奴ら、中立ラインを越えやがった」
群集はさらに木馬へと近付いた。そして彼らはところどころに僅かな隙間を残して、木馬を四方から取り囲んでしまった。何千人という男や女、子供や老人の頭が、木馬の方を向いたまま上下にうねっていた。それから何千本もの手が木馬の方に向かって突き出された。だが話す声は聞こえてこなかった。聞こえてくるのは初めの頃と同じ、静かで押し殺したようなどよめきだけだった。
「中で言い争っているな」
とオデュッセウス・Kが言った。
「見ろよ、仲たがいが始まったぞ」
声は聞こえてこなかったが、集まった人々が小突いたり、口笛を鳴らしたり、唸り合ったりしているということは容易に察せられた。
すると群集の中から一人が歩み出て、半分ほど飲んだビール瓶を、からかいながら木馬めがけて投げつけた。ビール瓶は空中できらきらと輝きながら、ゆっくりと弧を描いて木馬の足元に落下した。しかし木馬の板の部分はどこも傷つかなかった。瓶を投げたのが弱い奴だったらしい。
木馬の製作者はほくそえんだ。マックスとアカマースも顔をほころばせた。ミロシュはこの勇気ある人物を散々にけなしていた。
「いやあ、大した英雄だ」
オデュッセウス・Kはげらげら笑いながら、そう言った。
今や群集全体が沸き立っていた。
群集は、巨大な木馬を罵ってやろうという者をも巻き込んで、さらに近寄ってきた。驚いたことにその中には、手に手にロープを持って急ぎ足の連中も見えた。更に車輪を抱えた者、ロープに加えてのこぎりまで持っている者もいた。そうして彼らは、木馬の足元でハンマーの音を響かせ始めたのである。
「素晴らしい」
オデュッセウス・Kは両掌をさすりながら言った。
「連中、車輪を取りつけようとしているぞ。予想通りだ」
何かを打ちつける音がひっきりなしに聞こえていた。そしてそれは一層強まっていた。おまけにのこぎりをギコギコとやる音までし始めた。
「地面に立ってるところを切り出したか」
ロベルトが言った。
「おまえさんの代表作をぶち壊しにかかっているんだ」
と彼は木馬の製作者に向かって話しかけた。
木馬の製作者は何も返事をしなかった。のこぎりをひく音は彼の心にこたえたが、それを口に出しては言わなかった。偉大なその日のために我々は、多くのものを犠牲にする覚悟ができていたのだから。彼はそう思っていた。
車輪のようなものが取りつけられ、脚部の切断も完了すると、太くて頑丈なロープが何千本もの手によって引き上げられた。四本の脚はそれぞれ数十本のロープで縛られた。人々は先を争ってつめかけた。
木馬の製作者は、新年の夜のことを思い出していた。踊る人々の中で、色とりどりの紐飾りが舞い動いていたものだ。だがここから見える景色はまるで違うものだった。果てしなく長いロープが群衆という身体の上で蛇のようにのたくり、くるくると回ったりねじれたりしていた。まるで、その下でなおも力強く活動する暴徒を鎮圧し、その手足を縛り上げようとでもするかのよう見えた。
突然、木馬が一回、そして二回と揺れた。古くなった支柱や背板が悲痛な声をあげてきしんだ。木馬の製作者は顔面蒼白になった。木馬は三回目の衝撃で、ずれそうなほど振動した。
「やれやれ」
そう言って木馬の製作者は、冷や汗をぬぐった。他の仲間たちは、驚いた様子でそれを見ていた。
「人類で最も偉大な製作者だよ、おまえさんは」
とオデュッセウス・Kが言った。
「どうも」
俺の木馬が引っ張られまいとして抵抗しているんだな。製作者は思った。
愛すべき、古き俺の木馬よ。
支柱や背板が、心地よい音を立ててきしんでいた。それは彼にとって、今まで長く生きてきた中で聴いたどんなものよりも、麗しい交響曲のように聞こえたのだ。
外を眺めていた彼は、荘厳な光景を目のあたりにした。喧騒は今や消え失せて、数限りない群集は、神をたたえるいにしえの賛歌を歌いながら、穏やかに、そして従順に、町へ向かってゆっくりと移動しつつあった。彼らの背後には何百本ものロープで縛り上げられた木製の怪物が付き随っているのだ。木馬の牽引作業に参加できなかった若い娘や女たち、老人や子供たちが、夫や息子たちをむしろ賞賛しつつ、かけられたロープを何かしら神聖なものであるかのように、手で触れてまわっていた。
「木馬が町の方に動いてるぞ」
とオデュッセウス・Kが、祝福するような口ぶりで言った。
「みんな、この時刻は憶えておけよ」
自分は幾度となくこの瞬間を想像してきた、或いは夢に見てきた、いや、寝ても覚めてもそうだったのだ、と木馬の製作者は思い起こしていた。しかしその夢はいつもうんざりするような、緊張を強いるようなものばかりであった。心の中にある陰鬱なベッドが、そのような夢を見させていたのだ。
彼が見た夢の中では、彼らの木馬は引かれていた。そうだ、群集によって、町の方へと。だがその作業は終わることのない拷問だった。木馬は町に近付いているように見えて、実際には近付いていないのであった。そうかと思えば、木馬が近付くと町の方が彼方に去ってしまうように見えて、距離は縮まらず、誰もが夢の中で責めさいなまれて汗だくになる。夢の中で、木馬がついに平原から町へと向かう道に出た時でさえも、木馬の製作者は同じようなことを、しかも普通以上にやろうともがいていたのである。それというのも、木馬が近付くにつれて町の姿形がぼやけ始めたからだ。何もかもが彼の眼前で薄ぼやけ、溶けていくのであった。建物も、橋も、道路も、それらの固定した状態から解き放たれて、薄く、形もなく、意味もなく、どこにも存在せず、しかし同時に至るところに存在するようなものへと拡散していったのだ。
しかし今回、彼らは確かに町へ近付いていた。距離は急速に縮まり、早くも、大きなビルの窓を見分けることができるほどになっていた。外では群集がいにしえの賛歌を歌い、木馬の支柱や背板がそれに合わせてミシミシときしんだ。
木馬は町の入口に近付きつつあった。今や木馬の製作者にはホテルの看板を読むこともできた。それらは意味の分からないものばかりだったが、彼にとってそのことは大した問題ではなかった。
既に町の中心部もよく見えるようになっていたが、そこでは人々や車が活発に行き来していた。ショウウィンドウがきらきらと輝き、映画や劇場の出しもののポスターも見分けることができた。道路をゆっくりと、バスが通り過ぎた。
木馬の製作者の横で、ミロシュは目を見開いたままぼんやりと外を眺めていた。
「おまえは目がいいんだろ」
製作者が訊いた。
「今夜の映画は何だって?」
「文字は読めるんだが、意味がまったくわからんのだ」
とミロシュが答えた。
「そりゃ驚いたな」
木馬の製作者は言った。
ホテル「トゥーリズム」の照明が、昼だというのにちらちらとまたたいていた。木馬の製作者は鉄道駅の建物にある大きな時計が何時なのか見ようとしたが、駄目だった。飛行機が一機、音もなく、空港の方から飛び立つのが見えた。並んだ工場の炉からは煙が上がっていた。
突然、木馬が町の入口のところで停止した。
「何だ?どうして止まったんだ?」
ミロシュが言った。
誰も返事をする者はなかった。全員が、割れ目の間から外を見た。群衆は数を増し、あちらこちらを埋め尽くしていた。道路の両側にあるビルの窓もヴェランダも人であふれていた。歩道もまたしかり。ただ木馬がこれから通ろうとする道だけが空けられていた。交通も至るところで寸断されているようだった。
「どうしていきなり止まったんだろう?」
マックスが訊ねた。
「考えが変わったのかな?木馬を調べるつもりじゃあるまいな?」
と言ってロベルトが顔色を変えた。
「それはありえない」
オデュッセウス・Kが答えた。
木馬の製作者はおし黙ったまま外を見つめていた。余りにも考えることに集中し過ぎて、疲れを感じていた。とは言え、木馬が止まった理由に最初に気付いたのも彼だった。
彼らから百歩ほど先のところでは電気工たちが大急ぎで、道路の上を走る電線を撤去していた。地面から電線までの距離が木馬の背丈より短いので、木馬の頭に引っかかって切れてしまわないように、取り除こうとしていたのだ。
木馬の製作者は苦笑した。
「おやおや、昔と同じく几帳面なことだな」
彼はそうひとりごち、また繰り返した。
「そう、昔と同じようにな・・・だがしかし、それは一体いつのことだったろう?」
彼の記憶はいつも、そんな風だった。どの記憶も、既に死に絶えた者たちの世代から受け継がれた記憶によって形づくられたもののように、曖昧模糊としているのだ。
ああ、そうだ。彼は思い出した。あの時彼は、木馬の高さがトロイアの城門の高さよりも手のひら二つ分だけ大きいことをあらかじめ見越して、少なからぬ策略をめぐらせたのだった。ほんの二つ分だけだ、それ以上ではいけない。
遠くから見てもまったく気付かれず、それどころか、この城門ならあの怪物も通れるだろうと見せかけておいて、実際に木馬が城門のところまで近付いてもはや町への搬入を止められない段階に至って初めて高さの問題が発生し、そのためにトロイア人たちが城門のアーチ状の部分を少しだけ削らざるを得ないように仕向けるのだ。ほんの少し、それで城門の骨組みが弱くなるように・・・
電気工たちが作業を終えると、群集は再びロープを引っ張り、歌を唄い始めた。木馬は中央通りを動き出した。木馬の背丈は建物の四階と同じぐらいだった。
木馬の割れ目から覗いてみると、窓をうずめた無数の顔という顔がこちらを見つめていた。その窓は彼らの目と鼻の先、わずか数メートル先のところにあるのだが、にもかかわらず、そこに見える人々の顔ははっきりと区別することができなかった。誰もが感情をあらわにしていたが、それはとらえどころのない、ほとんどどうでもよさそうな風情の表情だった。
窓によっては部屋の様子まで見えるところもあった。木馬の製作者が見ると、それらの部屋の中の一つで、老夫婦が二人して食事をとっていた。外で何が起こっているのかと顔を上げるような気配も見られなかった。また別の部屋では、半裸の若い男女が大きなソファに寝そべっていた。二人は愛の営みに疲れ果てた後と見えて、呆けたように絡み合っていた。
そのうち彼は別の窓にヘレナの姿を見つけた。その顔は死人のように真っ白で、掌で目を覆ってこの恐怖の光景を見まいとしていた。
今夜で彼女もおしまいだな。木馬の製作者はそう思った。どこに隠れようと、マックスが彼女を見つけ出してしまうだろう。俺に何がしてやれるというのだ?自分のことを考えるのがせいぜいさ。もう長いこと立ちっぱなしだったので頭がふらふらしてきた。座った方がよさそうだ。
木馬の製作者は、血圧が上がってきたので、梁のところにもたれかかって両掌で頭を押さえた。一方、木馬はもう平原にいた時のようにぐらぐらしてはいなかった。アスファルトはやわらかく、木馬は穏やかに揺れながら町の中心部へと移動していた。木馬の外からは群集の、単調で、抑えたような歌声が聞こえていた。その古代の歌を彼はどこかで聴いたことがあったのだが、いつどこでかは思い出せなかった。それは陰鬱に、途切れがちに、赤く染まった虚空を悲壮にさまよった。警鐘を鳴らす音が響く。ゆがんだ十字架。寺院の天井に反射する炎の光。そして、祖国を追われた者たちの果てしない行列。
どのくらいそこにそうしていただろうか。長いこと引っ張られている内に、歌声は遠のいていった。うとうとしている間に、意識がなくなっていたようだ。頭を上げてみると、人々の声は止んでいた。辺りは、墓場のような静けさに包まれていた。周囲を見回してみたが、誰もいなかった。仲間たちは、木馬から下りて町へ行ったらしい。木馬の製作者はただ一人、木馬の腹の中に残されていた。たぶん、気分が悪くなったと思って自分だけ置いていかれたのだろう。
彼らは武器を手に出て行ったらしい。いつも木馬の肋骨のところに立てかけてある錆びついた槍も、今はその場所に見当たらなかった。マックスが持っていったと製作者は考えた。鋤だけが、いつもの場所に残っていた。鋤は時期尚早なのだ。[訳注;アルバニア語plugは牛などに引かす大型のもの]
木馬の製作者はのろのろと立ち上がり、木馬の頭部へ歩み寄ると、目の穴の部分から外を見た。木馬は町の中心部に立っていた。周囲に人の気配はなかった。広場も、歩道も、商店も、まるで死に絶えたかのようだった。まさに、荒涼の地だ。
「どうしたことだ、これは?」
彼は思った。
「ここから下りてみたものかな」
木馬のうしろ足の方へ行ってみると、仲間たちが下りるのに使ったらしいロープが、地面まで伸びていた。彼は用心深くそれにつかまり、木馬を下り始めた。
数メートル先が地面だった。地面を踏むのは、実に久しぶりじゃないだろうか?しかしよく思い出せなかった。太いロープにつかまって下りていくと、地面はあとほんの少しだった。
そしてついに彼は地面についた。ロープを離すと、誰もいない広場の真ん中にすっくと立った。真昼だった。冬のどんよりとした昼だった。
「どうしたことだ、これは?」
彼は同じことをつぶやいた。
どうしてまだ日が出ているのに?あいつらは、昼間から活動を開始したということなのか?どうして夜が来るのを待たなかったのか?全ては夜の間に行われる手筈だったのに。あれほど何度も、重大な計画だからこと細かに打ち合わせしたはずなのに。
だがしかし、今日のこの昼は、夜よりもずっと静かで、すべてが死に絶えたかのようだった。群集が木馬を引くのに使った太いロープは既にほどかれて、無人の広場に無造作に放り出されていた。おそらく人々は、木馬を引くのに疲れ果て、ロープをほどく機会を待ちかねていたのだろう。そして今、ロープはまるで、途方もなく長い蛇の群れがアスファルトの上でまどろんでいるように見えた。その光景が、町の中心部の寂寥感を際立たせていた。
仲間たちは外へ出て正解だったのだ。木馬の製作者はそう思った。この昼間は、夜よりもずっと静かなのだから。静寂。恐ろしいほどの静寂だ。
彼はゆっくりと、考え深げに広場の真ん中へ歩み出た。商店やカフェやレストラン理髪店やタクシー乗り場の大きな看板、かつては彼はその輝くさまを遠くから見ているだけだったが、今それが彼のすぐそばに、それも頭上すれすれのところにあった。巨大な、生気の感じられない、異国の文字が書かれたそれらの看板が、自分の頭上から斜めに傾いてぶら下がっているのを、彼は見つめていた。それらの文字には侮蔑と、あからさまな威圧感があったが、文字と文字との間には沈黙が横たわっていた。
確かに、その沈黙は驚くべきものだった。木馬の製作者は、劇場や映画館のポスターを読みながら、先へ進んだ。「アガメムノーン」の上映開始。「あなたの貯蓄を貯蓄銀行へ」と書かれた広告。日曜日のスポーツの試合のポスター。別の広告には、「『ウィンターズ・カフェ』へまたどうぞ」とあり、どの商店のドアにも「閉店」「閉店」「閉店」と書かれた小さな札が出ている。
「宴のあとの町が、疲れ果てて眠り込んでいる」木馬の製作者はひとりつぶやいた。
「眠りについたまま、おびえた瞳を二度と開くことなく死んでいくのだろう」
広い交差点にたどり着いたところで、木馬からどれだけ離れただろうかと振り返ったその時、彼は最初の炎を目にした。それは、空港のある方角から立ち上っていた。ラジオ局の大きな建物が炎上しているようだった。
「始まったな」
彼はつぶやいた。
さらに歩いていくと、今度は右手の方角に炎が見えた。首相官邸だ。やがて四方八方から炎が上がり始めた。巨大な、すさまじい炎だった。ほとんど真っ白に近い、蒼白い炎が12月の空を静かに舐め尽くしていった。昼間なので炎の色はほとんどわからなかったが、それにしても、そんな炎を彼は一度も見たことがなかった。しかし、そのことで彼は少しも驚かなかった。
彼は先へと進んだ。今度はそこいらじゅうが燃えていた。国営銀行の建物も、靴工場も、国立図書館も、大型ホテル「トゥーリズム」も。大通りの突き当たりまで来ると、炎は鉄道の駅を覆い尽くしていた。随分と遠くまで来たので、振り返ってみると、木馬も炎に包まれそうになっていた。彼はもと来た道を歩いていった。
町の中心部にたどり着かないうちに、早くも首をつっている連中に行き当たった。それは、電話線の電柱の上で静かに揺れていた。さらにその先では、路上のあちこちに人が倒れていた。銃で撃ち抜かれ、小さな血だまりを作って横たわっていた。店のショウウィンドウの前には、惨殺された二遺体が転がっていた。木馬の製作者はそれを、どうでもいいといった風で見やりながら、先へと進んでいった。
何もかもが正確に実行されている。彼はそう思った。オデュッセイア・Kが何度も念押ししていたのだ;
『炎が空を覆い尽くす時、路上は縊り殺された者や撃ち殺された者たちで埋め尽くされる』
木馬の製作者は満ち足りたものを感じていた。彼は、万事につけて正確さを好む男だったのだ。
死体の間をすり抜けると、また別の撃ち殺された者たちのひとかたまりがあった。自動小銃から雨あられと飛び出した弾丸が商店のショウウィンドウを粉々に撃ち砕き、砕け散ったガラスの破片が、血に染まった死体の周りに散乱していた。
奴らは立ち向かっている。木馬の製作者はそう思った。見上げると、あの高く、灰色の空が目に入った。まるでそこだけ時間が止まっているかのように。
別の交差点に来たところで、ようやくアカマースとミロシュを見つけた。二人は急ぎ足でスタジアムの方からやってくるところで、どこかの男の腕と髪をつかんで引きずっていたのだが、その手といわず顔といわず血まみれだった。引きずられていた男は身をよじらせ、何とか逃れようともがいていた。しかしいかなる抵抗もむなしく、二人は男をビールの空き瓶で殴り倒した。殴った時にビール瓶が割れたらしく、二人の手には、割れた瓶の半分だけが残っていた。
「何だ、散歩か?」
アカマースが訊いてきた。
「どうだ、大殺戮だぞ」
「何だい、こいつは?」
木馬の製作者は訊ねた。
「こいつが、今朝、俺たちの木馬に瓶を投げつけようとした奴さ」
ミロシュが答えた。
「見憶えがないか?」
「憶えてるよ」
「俺たちから逃げようとしやがったけど、捕まえたのさ。そうだろ?」
と言ってアカマースはその男の方を向くと、血で濡れた瓶の残り半分でその顔を殴りつけた。ガラスの破片が、裂けた傷口でルビーのようにきらきらと輝いた。
「じゃあまたな」
ミロシュはそう言うと、アカマースと二人して、殴られた男を引きずりながら交差点の方へと去っていった。
「殺戮か」
木馬の製作者はつぶやいた。こういうことを待ち望んでいたのだ。今、彼の心は凝り固まって、揺らぐことがなかった。まるで、あの12月の雲のように。
彼は町の中を歩きながら、燃えさかる郵便局の巨大な建物に彫られたレリーフを、これが見納めと記憶に残しておこうとした。いつも木馬のひび割れの間から、はるか遠くにそびえる美しい建物を彼は見つめていたのだ。ガラス張りの正面入口が太陽の光の下で輝いていた。今はそこに、紫色の炎が舞い踊っている。
炎の間から「電信電話」をあらわす「PTT」の大きな文字が見え隠れしていた。彼にはそれが「PIETA」と書いてあるように見えた。[訳注;アルバニア語PTTはPostë-Telegraf-Telefon(郵便・電報・電話)の略。イタリア語ピエタpietaは本来『哀れみ』の意味。また、イエスの遺体を抱いて悲しむマリア像のことをさす]
とその時、ミロシュが興奮した様子で近くのアパートから飛び出してくるのが見えた。つかんだ腕の先には、若い女が薄い寝巻き姿でもがいていた。ミロシュは女を路上に押し倒すと、寝巻きを引き裂いて暴行し始めた。
「これが、あいつの一番の夢だったわけか」
木馬の製作者はつぶやいた。
「哀れな奴だ。木馬の中で長いこと、修行僧のように閉じこもっていたものだから」
やがてミロシュは女から身を離すと、そのまま路上に放り出し、あとも見ないで立ち去った。女はよろよろと物憂げに起き上がると、首うなだれたまま家の方へと戻っていった。
「破壊行為そのものだ」
木馬の製作者はつぶやきながら、さらに町の中を進んだ。電柱という電柱に、首つり死体がぶら下がっていて、どれもこれも同じ動きでぶらぶらと揺れていた。歩道は、射殺体や惨殺体であふれかえっていた。
彼は死体の山の中に、木馬を侮辱した男の姿を見つけた。どうやらミロシュとアカマースが一足先にとどめをさしていったらしい。ビール瓶の破片が胸元や腕や顔のあちこちに突き刺さっていた。
大学の正面階段のところで、木馬の製作者は、マックスが誰かの髪の毛を引っつかんでいるのを見た。彼の片手には古びた槍が握られ、もう片方の手には、ふさふさとしたブロンドの髪の毛が輝いていた。
「ついにヘレナを見つけたか」
木馬の製作者はそう思った。
「あの美しい髪を血で汚すとは、罪深い奴だ」
マックスはおそらく、ヘレナを女子寮から引きずり出したのだ。そして今、彼女の身体は大理石の階段の上でもがいていた。彼女は彼に白い胸をはだけてみせて、許しを乞おうとしていた。
「マックスは言っていた。たとえ彼女が白い胸をはだけてみせても、自分は彼女を許さないと」
木馬の製作者は思い出していた。
「あいつは誓っていた。あの不実な女の胸を、錆びついた槍で刺し貫いてやるんだと。見てやろうじゃないか、あいつにそんなことをするだけの度胸があるかどうか。それにしても、俺はどうしてこんなに疲れているんだ?」
「戻った方がよさそうだな」と彼は思った。この炎の様子から考えて、まもなく確実にこの辺りは大変な高熱に見舞われるだろう。ただ一つの涼しい場所は、木馬の腹の中だけだ。少しだけ、横になりにいこう。こういう時はまたアカマースが目の前に出てきて、あざ笑うような目つきを投げかけてくるのだ。それはまるで、こう言っているようだった;
『おやおや、えり好みの激しいインテリさんよ、あんたは自分の手を血でぬらさないんだ。この仕事はあんたには嫌でたまらないだろう。こういう仕事は俺たちみたいな、俗物にこそふさわしいのさ。あんたは哲学やら計画ごとやら、俺にはわけのわからないことにかかずらってるんだから』
「あの石頭には、我慢がならない」
と彼はつぶやいた。
そして、彼は再び町の中心部へと向かった。今や町の中心部は完全に炎に包まれていた。そしてその炎の中に木馬が、高く、黒々とそびえ立っていた。彼にはまるで、今にも木馬が燃えさかる荒野の上で、突如この世の終わりのようないななきをあげるのではないかと思われた。
「ついにこの町の死命を制したな」
木馬の製作者はそう言った。
この仕事も終わったな。彼は疲れを感じつつ、そう思った。明日の朝には、この町はその屍をさらしているだろう。町の運命が、その生きゆく先を決めたのだ。都市も人間と同じだ。こまごまとしたものを生み出し、流れる川のほとりには、その汚れがたまっていく。始めは子供のようにシンプルで愛らしく、柔らかな木材でできたこぎれいな家々や緑色の建物が並んでいるのだ。ところが成長してくると、大地のあちこちを食い荒らし、土台に鉄やコンクリートを流し込み、塔や高炉が天をも脅かさんばかりにそそり立ち、やせ細り、堅くなり、手がつけられなくなり、そして灰色の廃墟と人気のない住宅地とうち捨てられた道路に覆われて老い衰え、その上には雑草が生い茂り始める。かつては町が大地を力ずくで粉々に砕いたように、今度は大地が町を粉々にし始める。
老いさらばえた町は、周辺の土地から徐々に手放すことになる。郊外の住宅地からは雑草がゆっくりと、しかし確実にその中心へ向かって生長していく。城壁は崩れ落ち、家屋は荒れ果てる。ついに雑草は、町の心臓部ともいえるその中心部を覆い始める。町が死ぬというのは、こういうことだろう。
しかし稀に、ごく稀にだがこんな風に、自然死ともいうべき死を遂げる都市もある。その多くは若くして、その強さや麗しさの頂点を極めたところで最後を迎えるのだ、ここと同じように。それらは地震や疫病や戦争で没落していったのだ。この町も木馬によって24時間以内に死ぬ。明日になれば、ミロシュとロベルトが木馬の腹の中から古い鍬を引っ張り出してきて、この町の中心部に最初のひとくわを入れる幸運は誰のものになるか、くじ引きを始めることだろう。
ひとりもの思いにふけっていた木馬の製作者は自分がまたも中心部から遠ざかっていることに気付かなかった。円形劇場の近くまで来た時、彼は最初の避難民の一団を目にした。それは激しい濁流のように路上を埋め尽くしていた。大部分は、乳飲み子を抱えた女性や、歩くのもやっとという感じの老人で、若い男性の姿がちらほら見える程度だった。男の一人は顔面に傷を負っており、年老いた父親の手を引いていた。どの顔も、火事のためにすすけていた。炎と銃弾の中からやっとのことで抜け出したところらしく、町を離れようと急ぎ足で歩いている。木馬の製作者はレストランの入口の蔭に隠れて、その様子を見ていた。手に手に小さな彫像を握っている者たちがいる。それは家の守り神の像のようにも見えたし、マルクスの胸像のようにも見えた。
避難民の一団は、廃墟の方へと去っていった。
あれは、遠くへ移住していくのだろう。木馬の製作者はそう考えた。どこか別の土地に根を下ろし、新しい町を立ち上げるのだろう。彼らは今夜の災厄を忘れようとするだろうが、それはどだい無理な話だ。忘れたつもりになっても、今日のこのできごとはしばらくは残り続ける。愛の営みにふけるあたたかな夜でさえ、その胎内の子の中へ混ざり込んでいくのだ。そしてその子たちは生まれ育ってからは、時折おびえた目つきで地平線の彼方を見つめるようになるだろう。そこから木馬が姿をあらわしはしないかと思いながら。
木馬の製作者はまた町の中心部に戻ってきた。彼は木馬に近付き、その足元に立った。そして、雨風にさらされ、古ぼけた背板の部分や、朽ちかけた膝の部分や、何かが当たってこすれたのどの部分を、いとおしげに見つめた。
俺の古い、大切な木馬よ。
「お前は老いぼれて、年齢のために骨は折れ、のどはしわだらけでおまけに傷だらけだ」
彼は木馬ののどをさすってやりたかったが、それは彼のはるか頭上にあった。
「だがしかし、お前はこの町を滅ぼした。お前のひずめが、この町の胸板を踏み砕いたのだ。どうだい老いぼれよ、そいつは誇りに思ってもいいんじゃないか?」
木馬は、夕暮れの中で沈黙を守っていた。
「この荒れ果てた瓦礫の上で、草を食むんだな」
木馬の製作者が大声でそう叫んだ時、不意にそばで笑い声が聞こえた。
飛び上がって目を覚ますと、彼のすぐそば、ほんの二歩ほど離れたところで、アカマースとミロシュがげらげら笑っていた。
「何だよ?」
木馬の製作者はうろたえた。
「いや別に」
アカマースが答えた。
「寝言を言っていたぞ」
「さっきからずっと聞いてたぜ」
とミロシュが言った。
木馬の製作者は頭に手をやった。
「熱があるみたいなんだ。長いこと、うたた寝していたのかな?」
「半時間ってところだよ」
木馬の製作者は外を見た。真昼だった。12月の憂鬱な昼間だった。遠くの方に、町工場の煙突がかろうじて見えた。ヘリコプターが一台、地平線の上にぶら下がっていた。
「何てこった」
彼は自分でもわけがわからず、ため息をついた。
「今日は、彫像の除幕式の日だ」
アカマースが言った。
「そうかい?」
「双眼鏡のいいやつがあれば、町の中心に群がってる群集が見えるんだがな」
「何てこった!」
と木馬の製作者はもう一度言った。
「つくづく何てこった!」