IX

 広場に通じる六つの通りはどこも、そこに向かう大勢の通行人たちをすばやく呑み込んでいった。今しがた彫像の除幕式がおこなわれたばかりの美術館の入口にはまだ見物人がたむろしていたが、その大半は美術学校の学生だった。
 ゲントとレナは彫像をもっとそばで見ようと近付いた。このブロンズの人形たちに、彫刻家は苦心の末に内面の躍動感を宿らせた。だからこれを目にするや否や、あの娘たち女たちの一団が荒れ狂う嵐の中にいるような印象を受けるのだった。彼女らは数年前、夜のダンスパーティが終わった時、北部の狂信的な連中によって殺害された。それは、ナムナの山で開かれたダンスパーティの、最初の夜のことだった。彼女たちは、人生最初にして最後のタンゴを踊ったのだ。だからこの彫像は、今も「タンゴのあと」と呼ばれていた。[訳注;ナムナ山脈Bjeshkët e Namunaは『アルバニアのアルプス』とも呼ばれる北部国境付近に位置する]
 ゲントは少し身をかがめて、事件のあらましと犠牲者の名が書かれた銘板を読んだ。彼はレナをそちらへ連れてこようとしたが、一足遅かった。彼女も近寄って銘板を読んでいたのだ。
 その時初めて二人は、山岳地帯の伝統衣装を身につけた男女の一団がいるのに気付いた。犠牲者の家族に違いなかった。彫像以上に身を凍りつかせて、向こうの方に立っていた。近くに、その家族を乗せてきた「アルブトゥリスト」のバスが停まっていた。[訳注;アルブトゥリストAlbturistはアルバニアの国営旅行会社(当時)]
 広場の交通の流れは、除幕式のために一時寸断されたが、元に戻り始めていた。彫像のそばを乗用車やオートバイクや灰色のトラックが勢いよく走り去っていく。
「中へ入ろうか?」
ゲントが話しかけた。
「エジプト・ギリシアの彫刻の写真展が始まってるんじゃないかな」
 レナは何も言わず、彼のあとについてきた。入口を上がろうとしたところで、二人はもう一度振り返り彫像の方を見た。それはバスの窓ガラスに自然な感じで映り込んでいた。まるで何年も前から、その場所にあったように。
「知ってる?今日、大学で聞いたけど、何かの陰謀が暴露されたんですって。あなた知ってる?」
 ゲントは肩をすくめた。
「小耳に挟んだだけで、はっきり聞いたわけじゃないけどね。道端でたまたま顔見知りが二人いたから、訊いてみたのさ。君が僕に訊いたようなことをね:
『陰謀があったっていうけど、君たち何か聞いてないかい?』
でも何も知らないどころか、僕のことを頭がいかれてるんじゃないかって顔で見やがったのさ」
「あなたには前にも同じことを言ったような気がするんだけど:
『いつも思うのだけど、そういうのって全部、私たちの頭の中だけの話なんじゃないかしら』」
「いやいや、違うよ」
と彼は言った。
「それはちょっと違ってたはずだよ:
『そういうことはたぶん、私たちの頭の中にひそかに入り込み、浸透していくんじゃないかしら。昔の人たちが考えていたように、夢というのは神々たちが、眠っている人間の頭の中に流し込むのよ』」
「不安だらけだわ」
レナはそう言って、胸に手をやった。
 ゲントはレナの髪にキスをしてやった。
「ケフレンのピラミッドの横にある、あの名高いスフィンクスだってそうだけどね」
ゲントは話しかけた。[訳注;原語ケフレンKefrenはギリシア語名。エジプト第4王朝の王。カフラーとも]
「君は『不安だらけだ』って言うけどね、いいかい、不安の創造というのは、どんな秩序でもまず第一に注意を傾けてきたことの一つなのさ。武器や手錠を製造することと並んで、そこを重視しているんだよ。スフィンクスを見てごらん。ファラオの警察は、民衆がその神秘的な姿を見て畏れるように仕向けたんだ、それ以上のことがあると思うかい?」
 すると今度は彼女が彼の腕をさすってきた。
「スフィンクス、不思議なスフィンクス、木馬って・・・どれもみんな工場が作ったものね」

(『いつだって裏切りの時代だ』
と彼は言った。
『全身木製の馬の時代だな、そういう言い方があるとすればだが。略して、全馬時代だ』
『全馬時代ね』
彼女が繰り返した。
『何だかぞっとするわ』)

[訳注;『全馬』は原語Totalkali 仏語版はhippototal ]

 レナは振り返ってもう一度、夕闇の中で撮ったスフィンクスの写真を見た。しばらくして、二人は別々の方向に歩いていった。
 彼女が戻ってくると、ゲントがラーオコオーン像の写真の前に立っているのが見えた。
「これもまた、謎めいた人物だよ」
ゲントはそう言いながら、写真の方へ首を振ってみせた。
「謎めいた?」
「間違いなくね」
と彼は答えた。
「この痙攣ぶりにしても、苦しみ方にしても、蛇どもから身を守ろうとしての肉体的苦痛という以上のものがあるよ。もっとも、こんなことを言うのは僕が初めてじゃないけどね。知ってる?昔、思想家同士の論争があったんだよ。ウェルギリウスでは、ラーオコオーンは息が詰まる寸前に恐怖の叫びをあげたと書いてある。だが見ればわかる通り、この像はそんなことをしていない。口は少しだけ開いているが、精神的な苦痛を表現しているだけだ。
 他にこういう議論もあるよ。ウェルギリウスによれば、この像もそうだが、ラーオコオーンは子供たちと共に絞め殺されている。ところが古代の詩人たちに言わせれば、蛇が狙っているのは子供たちだけだというんだ。そこでだ、彼に対して周りからの圧力があったんじゃないかと言われてるわけさ、現代の世の中に見られるような話でね:子供たちによる脅迫さ」
「いやだわ!」
レナはそう言って向こうへ行こうとしたが、ゲントはその場を動かなかった。
「よく見てごらん」
彼はレナの肘を軽くつかんだまま、そう言った。
「あちこちで環が閉じているのがわかるかい?この、手や足がつながってるところさ、全部が全部逃げ道のないように閉じているんだよ。動くこともできない。口をきくこともできない。あらゆるものがそこで終結し、凍りついている。彼は我と我が身で謎をあらわしているんだ」
 レナは強いて笑おうとつとめた。
「あなたは、この人の話が、今まで言われているようなこととは違っていたとでもいうの?」
「間違いなく、そうだ」
「もう向こうへ行った方がいいわよ」
とレナは言った
「気分がよくないの。たぶん空気のせいよ」
 確かにそこはかなり暑かったし、外へ出てみると少しは風があった。
「どこかレストランで食事でもしようか?」
ゲントが言った。
「いいわよ」
レナは答えた。
 二人はいつもなら学生食堂で食べていたのだが、その日は12月最後の日でもあり、特別なような気がしたのだ。
 レストランの入口のところで、レナは辺りを見回し、ほんの少しだけためらって、どこか他の店がないか探すようなしぐさをした。
「ここじゃ嫌かい?」
ゲントが訊ねた。
 レナは『邪魔しないで』とでもいうように肩をすくめ、先に立ってドアを押した。レナは一度このレストランに来たことがあった。だからそこに来ると、婚約式のほんの数日前、元婚約者たちと一緒に初めて夕食をとった時の嫌な記憶がよみがえってくるのだった。彼女は自分がその時に座った場所を憶えていたが、前にも話したようなことをゲントに告げるつもりはなかった。
 店内は客もまばらだった。二人は庭が見える窓のところに座った。木々の葉は落ちきって、すっかり薄着になっているようだった。髪型をしっかり整えたウェイトレスがメニューを持ってきた。離れたテーブルのところに一人の酔っ払いがいて、目を上げてこちらをじろりと見つめた。ウェイトレスが、皿とスプーンとフォークを持ってきた。それからそばに立ち、レナの髪を見つめていた。酔っ払いが何やらむにゃむにゃとつぶやいた。
「何になさいます?」
ウェイターが二人の肩越しに訊ねた。
 同じウェイターだった。際立って突き出た喉仏に、髭剃りのせいだろうか、赤くなっている部分があった。
「何にする?」
ゲントが訊いた。
「あなたと同じでいいわ」
レナが答えた。
 ゲントが注文をしている間、レナは葉の落ちた庭を見ていた。きっと夏にはダンスができるだろう。向こうにいる酔っ払いがまた何やらひとりごとをつぶやいていた。
 レナはガラス窓の方を向いたままでいた。あのおぞましい晩餐のことをおそらく憶えているであろうウェイターに、少々嫌気がさしていたのだ。
 酔っ払いがまた何かつぶやいた。彼はレナから目を離さなかった。
「ここはいい店だね」
ウェイターがいなくなると、ゲントが言った。
「気に入ったかい?」

(『さあさあいらっしゃい、こちらに席を予約しておきましたよ』
『テーブルはどれくらい?』
『四つです。これだけあれば充分でしょう』
『確かに』
『いくつだって?』
『あ、叔父さんですか。四つですよ』
『そりゃ結構』
『素晴らしい、実に素晴らしい婚約式だ』
『さあこちらに』
『こっちだ、こっち』
『こっちよ、母さん』
『どうかしちまったんだよ、気の毒に』
『無理もないさ、大喜びだよ』
『座って、お母さん。座ってください、レナのお父さんも』
『父親と仲人さんはどうした?』
『ほらあそこだ、やって来たよ』
『あの父親のひげときたらどうだい!』
『しっ!』)

 レナは二人の親のことを思い出して、何故だか胸に突き刺さるものがあった。婚約を破棄してかた、二度だけ会ったことがある。その時は醜態にすっかり取り乱し、何かしら責任を感じているようだったが、娘には良いとも悪いともひとことも言わなかった。
 一週間前、二人が手紙を送ってきた。二人の住む小さな田舎町で、あちこちゆがんだ字で書かれた手紙だった。
『私たちは、お前がそのティラナのカフェに来ていることを知っている』
父はそう書いていた。
『娘よ、私たちはもの知らずだ、お前の婚約のことでは失敗した。私たち二人とも、そんなつもりではなかったのだ。お前は学問があるし、私たちよりものの道理がわかるし知ってもいるのだから、そんなティラナのカフェに行くべきか、行くべきでないか、わかるだろう。
 お前に望むことは一つだけだ、我が娘よ、私たちに恥をかかせないでおくれ。今、頼みたいのはそのことだけだ。あとはお前の好きにしなさい』
手紙の最後にはいつものように、『おわり』と書くのを忘れていなかった。その手紙に続けて、父よりも繊細な母が、道を歩く時でも食事の席でも婚礼に呼ばれた時でも何かにつけて父の蔭に隠れたがってきた母が、手紙の上では取り乱し、四行にわたって書き連ねていた。
『レナ、可愛そうなお母さんに、私たちに恥をかかせないでおくれ。母の大切な娘。そんなカフェやら、そのこん畜生には注意しなさい、いつも嫌なことをしてくるのだから、気をつけなさい。心から大切に思い、あなたにキスをします』
 ウェイターがワインの瓶を持って戻ってきた。レナは窓の方を向いたままだった。ゲントがワインの種類を訊ねた時、ウェイターはレナのことを誰だか思い出すに違いない。

(何だっておまえ?赤ワインかい、それとも白ワインかい?『カルメト』の白ワインは全然ないんだよ。さあさあこちらへ。で、おじさんは?いやおじさんのことをすっかり忘れていたようだ。注文はしておいたよ、注文はしたよ。そうですね、お義父さん、昔は死人のしゃれこうべで飲んでたんですよ。へえ、博物館なんかで働いていると何でも知ってるものなんだね。何だって、そんな怖い話をしてるんだい?マックスの言う通りだよ、おじさん。スウェーデン人は今の時代でも飲む時は『健康を!』の意味で『スコル』って言うんだが、これは英語なら他でもない『スカル』だ、つまりしゃれこうべだな。ほう、ほう、この若い奴ときたら、お前さんをもの知り責めにあわせるんだな。ほらほら乾杯だよ、甥っ子たちや。乾杯!お母さんはもういないのか、かわいそうに。ああ頼むよ君、いやいや、そっちはいい。おばさん、あっちに座る方がよくはないかい?ああ君、ここ風が吹き込んでるような気がするんだけど。ああいや、おばさんちの坊やかい、こっちは大丈夫。おばさんはどうしたの?ああそこにいたのかい、仲人さんのうしろだったのか。ええと、君、それはそのままでいいよ。うん、そうだ、そりゃ君に嘘を言っているんだよ、間違いない。え?)
[訳注;『しゃれこうべ』にあたるスウェーデン語と英語は、原文ではそれぞれskollとskullになっている。ただし実際のスウェーデン語ではskalleとつづるのが普通。]

 ウェイターが皿を運んできた。二人は黙って食事を始めた。店内は静かだった。ナイフとフォークのかちかちと鳴る音だけが響いて聞こえた。ウェイターたちは立ったまま、胸のところで手を組んで、店内を見廻していた。
「ああ?」
酔っ払いが言った
「第三次世界大戦だって?何が第三次大戦だい、おい、俺はな、女房に逃げられちまったんだよ。世界大戦の話なんかして、俺をいらつかせやがってよ」
 ウェイターの一人が酔っ払いのいる席に近付いくと、しばらく二人して低い声で何か話していたが、やがて酔っ払いはおとなしくなり、うなだれていた。

(花嫁と花嫁の父の健康を祈って!とこしえに栄えますように!さあおいで、レナ、乾杯しよう、『スコル』だよ、んん、ん、何だって、えっ、何て言ったんだい、聞こえなかった。そのままでいいんだよ付添人さん、髪の毛はしっかり整えたから。ブラーヴォ、ブラーヴォ、マックスよ。いや、いやよしてくれ。かわいそうに、お母さんは血迷ってしまった、古い博物館の中で。さあもう乾杯だレナ、おめでとう。おいもう飲むんじゃない、もうよせよ。いやまったくね、末永くお幸せに、はっはっは!)

 並んでぶら下がっている黄色いシャンデリアが、店内の静けさを増していた。
「ワインはおいしいかい?」
ゲントが訊いた。
レナは「ええ」とうなずいてみせた。
「どうしてそんなに黙ってるの?」
 レナは肩をそびやかした。ゲントには、彼女の肩が薄地の上着の中で震えているように見えた。レナの手がゆっくりと、しかししっかりした動きで、ワインのグラスや、こぼれた塩入れや、きらきら光るナイフの間をすり抜けて、ゲントの手を求めてきた。
「どうしたのさ、レナ?」
「何でもないわ」
 レナは「何でもない」と言っていたが、その手はゲントの手を不自然な感じで、神経質そうに、助けを求めるかのように握り締めていた。

(君の健康と幸福を祈って!レナ、涙を、涙を、涙をお拭きよ。スウェーデン語では何と言ったかなあ、ええとレナ、ヘレナ、スコルだ)

「何か言うことがあるんだろう」
ゲントが言った。
「何もないわ、少し頭が痛いのよ」
「ワインのせいじゃないか」
「そうかもね」
 滅多にないことだったが、彼女の目に涙は見えなかった。しかしその内側にこみ上げてくるものは感じられた。
 愛しい人よ、とゲントは思った。これが、彼女の姿なのだろうか。
「えい」
酔っ払いが何か言っていた。
「どうなってるんだ、このレストランは!政府がわかっていさえすれば」
 ウェイターの一人が、再び酔っ払いのいる席に駆けつけて、低い声で何か話しかけた。ところが酔っ払いはおとなしくならなかった。
「俺に指図するのはよしてくれ」
酔っ払いは言った。
「俺はな、ここで起こったことをだな、俺のこの目で見てるんだよ。うん、何を見たのかって?何を見たのか、ちゃんと内緒にしててくれるんだったら、俺が話してやるさ。見たんだよ、いかさま野郎が食事をしてるところを。ああそうさ、俺の言う通りなんだよ。やってきたのはよそ者で、そいつはいかさま師の衣裳を脱ぎもしないで、人造湖から出てきたばかりで、全身から水がしたたり落ちていて、首まで泥まみれで、それなのにあんた達はそいつの相手をしてたんだ。おまけにあんた達の主人のヤニときたら、そいつの鉄かぶとの紐をゆるめてスープを食わせてやっていたんだぞ。なあ、あんたは俺に喋るなとか何とか言ってるがね、ここでそういうことがあったのさ。」[訳注;実際、ティラナ大学の裏に大きな人造湖がある]
ゲント・ルヴィナは吹き出した。
「笑わないでちょうだい」
小声でレナがささやいた。
「こっちを見てるじゃないの」
酔っ払いは喋るのを止めて、本当に二人の方を見つめていた。そしてしげしげと眺めた後、
「もう言うことはないぞ」
と言わんばかりに両手を広げてみせた。
「出た方がいいわ」
レナが言った。
「外の方がいいに決まってるから」
ゲントはウェイターに手を上げて合図した。
「どうもお騒がせしまして」
とウェイターは勘定をしながら言った。
「申し訳ございません」
「かまわないよ」
とゲントは言った
「で、そのいかさま師のあんばいはどうなんだい?」
ウェイターは微笑んで
「そのようなお話は初耳です」
と答えた。
 ゲントが支払いを済ませ、二人は席を立った。
 道路は音と人であふれていた。空は高く、曇り模様だったが、今だけは太陽がかろうじて雲の間から顔をのぞかせ、ほんの僅かの間だけ町を照らしていた。
「見て」
中央広場に出たところでレナが話しかけた。
「郵便局が燃えてるみたいよ」
 冬の弱々しい陽の光は衰えかけていたが、郵便局の建物の大きな窓ガラスに反射して、狂気じみた炎が乱舞しているようだった。
「本当だ、まるで火事になったみたいだね」
ゲントは言った。
 レナはひとしきり我を忘れた様子で、まるで、その炎をどこかで見たことがあるかのように見入っていた。
「彫刻も。午後になると違って見える」
 歩道の人通りはまばらになりつつあった。黒いスモックを着た児童の一団が、レナの方をじっと見ていた。
『あなたの貯金を貯蓄銀行へ 日曜ボクシング』
「ここのマンションもきっと綺麗でしょうね」
左手の方を指さしてレナが言った。囲いの向こう側には未完成のビルの、煉瓦造りの壁が立っていた。労働者たちが正面のモルタルを塗っていた。
 レナが歩道の上で立ち止まった。
「入ってみましょうよ」
とレナは言った。
「たぶん入らせてくれるわ」
 二人は、板で囲まれた場所をぐるりと歩きながら出入口を探した。出入口のところに一枚の看板が立っていた。
『期限前に計画を達成しよう』
「ちょっと見せてもらってもいいかい、同志?」
ゲントが労働者の一人に訊ねた。労働者は二人を見ると首を振った。
「作業班長に言ってくれ」
 作業班長が階段を降りてきた。彼は体じゅうが石灰まみれだった。
「どうぞ。でも気をつけて、床板の上を歩かないようにして下さい」
 二人は、モルタル塗りが済んでいない階段を、楽しそうに上った。石灰と、生木と、松やにの匂いが漂っていた。
 二階に上がった二人は、部屋の一つに入った。
「素敵だわ!」
レナが言った。
「ここに大きなサボテンを置きましょうよ。ここには小さなラジオを。それから猫も。小さくて、色の白い猫よ、目がきれいで、毛がふさふさの」
 ゲントは微笑しながら廊下に出た。バスルームと収納庫を見てから、他の部屋のドアを開けてまわった。
「ここが寝室ね」
彼のあとについてレナが入ってきた。
 ゲントはガラス扉を開いてバルコニーへ出た。レナは扉のそばに立ったまま、見惚れたように、幅の狭い床面の板が黄金のように黄色く輝いているのを見つめていた。何十枚もあるオーク材の板材の一枚一枚が、ぎっしりと密に並んでいた。

 もう遅いわ。そろそろ寝ましょうよ。遅い?そうよ。もう12時よ。ちょっと面白いものを読んでいたんだ。もう寝ましょう。ここは道路が本当に静かだね。もう遅いんだから、道路も静かに決まってるわ。扉は閉めたかい?ええ。でも冷蔵庫だけは休まない。一晩中、まるで生きてるみたいにうなってる。ランプをつけようか?だめよ。暗いところで脱ぐ方がいいの。暗いところで?どうして?君、まだ僕の前じゃ恥ずかしいの?恥ずかしいわ。君って本当に恥ずかしがりやなんだね。わかってるわ、でも、暗いところで脱ぐ方がいいのよ。変わってるな。ランプをつけないで。今夜はじめじめする。もう全部脱いだ?ええ。これでいいわ。おいで。愛してるわ、あなた。

「おいで、レナ」
バルコニーからゲントが呼びかけた。
 レナは黄色い床板を渡ってバルコニーへ出た。
「眺めは気に入ったかい?」
ゲントが訊いた。
 レナは「ええ」というしぐさをしてみせた。瞳がうっすらと潤んでいた。
 部屋の中へ戻ると、ゲントはレナを抱き寄せ、激しく口づけをした。彼女は少しだけ震えた。そしてゲントを優しく押し返した。
「仕事してる人たちが、いつ入ってくるかわからないわ」
彼女は弱々しい声で言った。
 ゲントは彼女の手をとって、部屋の外へ出た。
「今日は随分歩いたわね」
通りへ出るとレナが言った。
「くたびれた?」
「ちょっとね。でも、もう少しだけ歩きたいわ」
 大きなショウウィンドウには、わずかに綿の飾りつけがあった。商店の一つにはもう、新年を祝うツリーが置いてあった。
「もう数日したら、もっと綺麗になるだろうね」
ゲントが言った。
「新年の二、三日前には、通りにもっとたくさん人が出て、どのショウウィンドウも雪で真っ白になるよ。特に12月30日の夜は」
「その夜はいっしょに町に出るの?」
「もちろんさ」
「12月30日の夜は、何かいつもと違うのよ」
レナが言った。
「嬉しいのと、不安な気持ちが一緒になるの」
「それはそうさ」
ゲントが答えた。
「一年の終わりだからね」
「通りに出れば、手に包みや瓶や果物を抱えた人たちが急ぎ足で通り過ぎるの。そんな人たちを見ていると、いろいろなことが思い出されて、思ってもいなかった時間を誰かのために費やすことになるのよ。そうして店から店へと出たり入ったりして、ショウウィンドウを、オレンジの楽しそうな色と、綿飾りの冷たい色を眺めて廻るの。瓶の銘柄が急に大事なものに思えてきて、まるで本の書名でも探すように、いつまでも読んでいるのよ。私、憶えているわ。高校生の頃、クラスに好きな男子がいて、新年にプレゼントをあげようと思ったの。ネクタイを買おうと思って、町じゅうを探したのよ。12月31日の午後だったわ。あちこち歩いてすごく時間がかかって、だけどどこにも見つからなかった。私は泣き出したわ。彼は私のことなんか何とも思ってなくて、それでも、私は彼がすごく好きだった。通りがかりの人と何度ぶつからずに済んだかしら。私のことをじろじろ見る人もいたわ、たぶん、私の目が涙であふれていたから驚いたんでしょうね。なれなれしくしてくる人もいたわ。でも私にとっては、買ってきたプレゼントがまるで鉛のように重かった。そうよ、夜までかかって探したの。でも見つからなくて。あの晩、どこをどうして帰ってきたのか、全然わからなかったわ。そういう風だったのよ・・・」
「で、そのネクタイどうしたの?」
「捨てたわ。家の近くまで来たところで、屑かごに捨てたの。他にしようがないでしょ?誰にも、彼にもひとことだって言わなかったわ」
「本当に、どうしようもなく繊細な日だね」
ゲントが言った。
「人の心が、普段にないほど感じやすくなっているんだな。ほんの些細なことでも、大したことでなくても、一つのドラマになってしまうんだから」
「まるで、大きなプラカードに書いて、交差点に立ててるみたいだわ;
『今日は大切な日です。お互いにイライラしないこと。孤独な人を出さないこと』」
 ゲントは笑った。レナも笑った。
 二人は郵便局の前に来た。町には明かりが灯り出していた。
「郵便局に入ろう」
ゲントが言った。
「新年祝いのカードを買わなくちゃ」
 郵便局の中は人でいっぱいで、みんなどうにか長いベンチに座る場所を見つけて、そこでカードを書いていた。
「何考えてるの?」
ゲントがペンを片手にしばらく何か考え込んでいるので、レナは訊ねた。
「別に」
とゲントは言って、書き始めた。
 本当は、彼は美術館のことを考えていたのだ。自分が何十回も見てきたあの有名な彫刻が、この12月の終わりの日になって急に違って見えるようになったとは思えない。あの凍りついた唇・・・あの謎めいた大理石の・・・
「どうしたの?」
レナがまた訊いてきた。
 ゲントは慌てて振り向いた。まるで、この世で最も突拍子もない問いを投げかけられたかのように。

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