其之壱
「ル・モンドLe Monde」紙に掲載されたコソヴォ臨時政府首相ハシム・サチHashim Thaçi(コソヴォ解放軍)のインタヴュー[アルバニア語版からの訳];
-ハーグ国際法廷がミロシェヴィチを告発したことに対する評価は?
正しい決定ですが、少し遅かったですね。ともあれ、国際社会がコソヴォ問題に真剣に臨んでいるということでしょう。ミロシェヴィチの時代は、終わったと思います。政治的解決を議論するような正当性は、彼にはもうありません。コソヴォ問題を調整することができるのはコソヴォ・アルバニア人と国際社会だけです。ミロシェヴィチは無条件降伏することになるでしょう。
-交渉による解決を目指す外交努力に対する評価、特にロシアの活動については?
政治的解決へ向けたロシアの役割は評価しています。ただ、それで問題が解決できるとは思いません。セルビアとの関係では、それも一つの良い面かも知れませんが、政治的解決の鍵にはなり得ません。政治的解決には時間が必要です。私は、そのためにここ[パリ]で活動しているのです。しかし、国際社会にはやるべきことがまだあります。それは、地上部隊をコソヴォに送ることです。それが妥当な解決に至る唯一の条件であり、それなくしてベオグラードが政治的解決を受け入れることはないでしょう。
-西側諸国によって地上部隊が投入された場合、UÇK(コソヴォ解放軍)が果たす役割は?
UÇKはコソヴォの軍隊です。できることはやります。これまでも軍の専門組織化と民主化、またセルビアへの攻勢という点で、著しい前進を遂げてきました。国際社会は今やUÇKを一層理解し、UÇKもNATOも共通の敵に立ち向かっているのです。だから私は、この両者によってこそ、コソヴォで早期の勝利を獲得することができると思います。
-UÇKがNATO軍にコソヴォ内の攻撃地点を指示したというのは事実でしょうか?
あり得ますね。NATOには随所に情報源が必要なのではないでしょうか。NATOは、特にUÇKの部隊に対し、戦術面でいくつか失敗をしていますが、それが戦争につきものであることは理解できます。
-イブラヒム・ルゴヴァも、あなたと同じ時期にパリに滞在されていますが、お会いになりましたか?
私は公式訪問でここに来たのです。ルゴヴァに会いに来たのではありません。数日前、会見を申し入れる書簡を彼に送りました。LDKの代表団が、我々の関係改善によってコソヴォ暫定政府に加わるようにと思ったのです。私は、彼からの返事をずっと待っているのですよ。
-ルゴヴァのことを、どのように認めているのでしょうか?
LDKを認めているのです。私は、あそこの党機関とは直接連絡をとっています。彼らも、ルゴヴァが[LDKの]党機関ともう連絡をとっていないことを認めているのです。ルゴヴァは党を私物化し、自分の側近以外は近付けないのですから。
-しかしマケドニアの避難民は彼に喝采を送っていましたよ。
避難民を政争の道具にするのはまったく正しくありません。ルゴヴァは民衆のことも、コソヴォのこともわかっていないのです。プリシュティナでの彼は、事務所と家の間を行ったり来たりするだけでした。私だって避難民から喝采を受けたことはありますが、皆がこのサチの味方だなどとは思ったことがありません。
私はコソヴォの首相です。ランブイエで代表団を率い、西側とのつながりもあります。西側諸国は、コソヴォには尊重するに値する独自の統治機構があり、それは特定の個人や政党・派閥を越えるものであることを理解しています。ルゴヴァの言うことなど、何ら重要ではありません。彼は政治と軍事の現実を把握しておらず、コソヴォの未来に加わる資格もないのです。
-あなたも署名したランブイエ合意書に想定されている「実質的自治」を、今後も目標とされるのでしょうか?
ランブイエの合意は、充分な基礎となるものです。そこで想定されている自治は、自己決定のための住民投票をも含む、暫定的な自治だからです。この合意文書には正確でない点もありますが、コソヴォの将来を語る上で、これは一つの通過点となるでしょう。
-和平案に従って国際監視団がコソヴォに入った場合、UÇKは武装解除を受け入れるのでしょうか
ランブイエで私達は、コソヴォの平和を目指す計画のため大いに活動しました。それから、さらなる戦争が起こりました。そして今、私達はUÇKの政治的・軍事的情勢の変化を受け容れようとしています。兵力2万人の軍隊は不要になり、再編成する必要も出てくるでしょう。そのために私達は、国際社会と協力しているのです。
-NATOが軍事目的を達成した場合、将来のコソヴォ政府はどうなるのでしょう
自由選挙を準備し、統治機構を選出する必要があります。西側諸国は私達を支援し、私達の再建に手を貸さなければならなくなるでしょう。過渡期にあっては、そうした支援も必要ではありませんか。
(Kosovapress 99.05.29)
ルゴヴァは語る「ルゴヴァ-UÇK会談はなぜ実現しなかったか」
「UÇK指導部は5月28日に予定されていた会談に招待されていながら、それを無視した」とルゴヴァは主張する。「私は今日UÇKの人々と会うつもりでいたのに、彼らはパリを発ってしまったのだ」
ルゴヴァはハシム・サチと同様、西側諸国歴訪をこなしていたが、それでも、コソヴォ問題の解決を困難にするようなUÇKとの不一致は最小限にすることができるだろうと期待していたという。「難民の帰還とコソヴォの再建という2点をめぐってUÇKと会見する計画に、私は自信を持っていた」
ルゴヴァはフランスのジョスリン Charles Josselin 経済協力相との会談後、記者会見に臨んでいた。それより少し前、サチは、ルゴヴァがもはや当人自身と側近以外の何者をも代表していないと言明。
フランスのヴェドリヌ Hubert Védrine 外相は27日、両者が不一致を乗り越えるよう求めると共に、数十万のコソヴォ難民の帰還の可能性について両者が対話できるよう、会談を準備した。ルゴヴァもサチも、西側の圧力によって相互の不和を克服するよう求められている。
ルゴヴァがミロシェヴィチと会って以来、UÇKとルゴヴァとの距離は広がる一方。その間にもコソヴォからアルバニア人が追放されているのだが。UÇKは、ルゴヴァが民衆に背を向けたと主張し、ルゴヴァの側近は、ミロシェヴィチとの会談は強制されたものだと主張しているのである。
(Kosova Info 99.05.30)