石のスローガン
ユリェト・アリチュカ

 大学を終えるとすぐ、アンドレアは北部のひなびた山村の教師に任命された。その村に着いたのは夕方で、小さな学校に寝泊りすることになったが、そこには十人の教師がいて、その内の六人は近隣の町から、他数人は首都からだった。
 翌日、その学校のパシュクという年配教師は、
「彼らのメガネにかなうように労働し生活する」ためのやり方について存分に語った。
 パシュクは、村の実力者たちの序列について説明し始めた。まずは、党書記でもある教師のサバフ、次に共同農場の議長、そして校長という順であった。この校長について、パシュクはこんな風に紹介した。
「決して悪い人物ではないよ。生徒を殴るなんてことは滅多にないし、そんなことは思いもよらない。もっとも、殴る時には足腰立たなくなるまで殴るがね。彼とは、うまくやっていくようにすることだ、何もかも彼の匙加減しだいなのだから。ふん、何もかもだ・・・時間割も、スローガンも」
「スローガンって何ですか?」とアンドレアは訊ねた。
「スローガンって何ですか、だって?」パシュクは仰天した。
「各クラスの担任に、石でスローガンを作る仕事があるんだよ。そのスローガンには最後まで責任を持たなければならない」
「ああ、なるほど」とアンドレアは言った。
「君なら、たぶん簡単にできるだろう?」とパシュクは言った。
「いや・・・」と言いかけて、アンドレアは口をつぐんだ。アンドレアが不審そうな表情をしたものだから、彼が無知ゆえに想像もできないでいることについてまで、パシュクは説明しなければならなくなった。
「君は教師としては新人だし、将来もあるから、きちんと説明しておこう。君が、党と当局によく見られたいのなら、張り切って立派なスローガンを作りたまえ。立派なスローガンを作るには、計画的にやろうとすることだ」
パシュクは話し続けた。
「決して手を抜かないこと、要するに、最低週一回はスローガンのところへ行くことだ。あと、雨が降ったらすべて台無しだぞ。雨が溝からあふれて文字が泥だらけになるし、石の石灰分が抜けてまだら模様になってしまう。君は、近頃ここで起こった事件について知っているかね」
「いいえ」アンドレアは答えた。
「なら教えてやろう」パシュクは言った。
「バフティ先生のスローガンが崩れた時のことだ。その真相がすっかり明らかになるまでに、およそ半年はかかった。実際、バフティ先生は見事なスローガンを作ることにかけてはダントツだったんだ。ところが数ヶ月前、突然、彼のスローガンが崩壊し出した。バフティを探したければ、誰にでもその居場所はわかっていた。スローガンのところで、文字を直していたんだ。彼は何度も何度も自分のスローガンへ出向いた。夜でさえもだ。
 実はね、共同農場の羊飼いで、そいつはこの村でも特に落ちぶれた家の一つだったんだが、そいつが朝早くに羊を放牧地まで連れていく時に、バフティ先生のスローガンの上を通らせていたというわけなんだ(そう話す時のパシュクの目は、秘密を発見した者のようにきらきらと輝いていた)。バフティは毎日、必死でスローガンのある場所へ出かけていった。気の毒そうな声で、しょっちゅう嘆いていたよ。
『何で俺がこんな不幸な目に逢うんだ?あの羊らと俺のスローガンと、何のかかわりがあるんだ?なあ、おい?』
でも彼は思いつきもしなかったが、彼のスローガンにはこんな言葉があってね。
『最も危険な敵とは、忘れられた敵である』
まさにそいつが羊らを連れまわして、こんな滅茶苦茶をしたというわけさ。
 何度もバフティは校長にスローガンを変更させてくれるよう頼んだよ、『かくのごとく単純にも、迷信のゆえに』だ。だが校長には、スローガンを変えるつもりはさほどないらしかった。
 実際、羊らの「潔白さ」にまず疑いの目を向けたのは、他でもないバフティ本人だった。地面を注意深く調べ上げた末に、彼はその疑念を党書記に申し出たんだ。
『驚くべきことに』と彼は訴えた。
『私のスローガンの周辺には、羊が通り抜けられるような穴がまだ他にもありました、それも実におあつらえ向きにです。そもそも、羊というのは獰猛な家畜とは区別がつきません。例えば、山羊ならば、スローガンのある斜面を踏み荒らしてしまうでしょう!』
 他にも疑惑が出てきて、これも問題追及の追い風になった。最近、その村の羊飼いが市場で不審な塩の購入を続けているという噂が流れてきたんだ。
 まあ、この羊飼いは相当ワルなことをしていたわけさ。奴は両掌に塩をのせて、羊たちにそれを舐めさせながら、『敵』の字のある辺りまで連れていったんだ。
 君も知ってるだろう、羊ってのは塩に目がないんだ。ま、バフティの疑いは事実だったってわけさ。さっそく地区一帯に指令が飛んで、それから民兵グループが動員されて、昼も夜もバフティのスローガンの警備にあたったんだ。村の連中が草陰に隠れて、羊飼いに連れられた羊たちがやってくる、まさにその時を待ち構えていた。そして遂に、万事が白日の下にさらされることになった。朝早く衛兵が、いや村人がね、その共同農場の羊飼いがバフティと彼の生徒たちの丹精込めて作った文字に乱暴狼藉をはたらいているところを目撃したのさ。
 そこで彼らは、奴の行為を確認するや、素早くその背中に飛び乗って、まさに作戦完了の合図を出したわけだ。
 勿論、捕まった時には羊飼いは全てを否認したさ。だが全てが人民の前に暴露されて、奴が敵対行為の容疑で逮捕されるまでに二、三日とかからなかったよ。最後の瞬間まで奴は、あの場所には羊の足跡しかない、羊はこういう無意味な法律の下では結局責任を問えないのであって、自分には何の罪もない、と自己弁護を試みたんだ。
 事件の後、校長はバフティに、丘の上に別なスローガンを作るように指示した。彼には『栄光あれ』とか『万歳』の部分を割り当てたのだが、お察しの通り大した仕事でもなくてね、今やってる最中さ」
「結局はね」とここでパシュクは声を落とした。
「教師にとっちゃ、スローガンの内容なんか大して重要じゃないのさ。そいつが与えられた瞬間には、直感的に文字数を計算することだ・・・」 と、バフティの話をし終えたたところでパシュクは、アンドレアの出世のための解説もおひらきにした。
 その二日後、アンドレアは校長に呼ばれて担当クラスや時間割やその他の指示を与えられた。スローガンを任せる段になると、校長はこう言った。
「君はまだ新人だし、学校からそれほど離れていない場所を頼もう。でスローガンだが、ふむ・・・」と言いながら校長は赤いノートを開き、しばらく考え込んでから、こう言った。
「初めてだから、自分で選びたまえ。まだ一つずつ、二つ残っている。一つは『党は労働者階級の剣先である』で、あとは・・・あとは・・・『クロムで経済封鎖打破』だ」
 アンドレアは既に事情を知っていたから、おそるおそるこう言った。
「それでは、クロムの方にします」
[訳注;『党は労働者階級の剣先である』は原語で“Partia është maja e shpatës së klasës punëtore”、『クロムで経済封鎖打破』は“Kromi çan bllokadën”。39文字と17文字で、明らかに後者の方が短い。アルバニアはクロム産出国]
「よろしい」校長はこともなげに言った。
「実際そんなに難しくはないだろう。あそこは、前はフロクの土地だったな。さて、君の場所は平らにならしてあるんだが、ただ、フロクという年金暮らしの男が、ごくたまにだがスローガンの上を通っていくことがあってね。まあ、年寄りさ・・・じゃ、まあ、よろしく頼むよ」
そう言って校長は話を終えた。
 翌日、授業を終えたアンドレアは自分のクラスの生徒らを連れて外へ出ると、三十分ほどかかって、スローガンを作る場所へたどりついた。その場所は確かに平らにならしてあったが、残っているスローガンときたら無残なありさまだった。至る所に、彼がスローガンを作るのに十分な空間が広がっていた。
 生徒たちに文字を割り当てる段になった途端、大騒ぎになった。生徒たちをアルファベット順に並ばせて、文字を作るのに必要なだけの石の数で割り振っていこうとしたのだが、彼らは一番ラクな文字のところに回ろうとしたがったのだ。そんなわけで、まずは“i”の字をめぐっていさかいが起こった。この文字はたまたま一つしかなく、その次は“l”、その次は“p”、とそんな順だった。
[訳注;『クロムで経済封鎖打破』“Kromi çan bllokadën”に“i”は一つだけ、“l”は二つ、そして“p”はないが“b”はある]
 そんな大騒ぎの中、生徒たちの分担を正確にしたいと考えていたアンドレアは、ふと思いついてこう訊ねた。
「フロク先生は、どんな風に分けていた?」
「ああ、あの先生はしょっちゅう変えてたよ。最初は名簿順で、それから女子は身体の小さい順にして、病気の子には“i”の上の点とか、他の点のところとか」
「でもさ、フロク先生ってひいきするんだ」別の生徒から声が上がった。
「わかったわかった、それじゃあ、さっき決めた通りにしよう。そのかわり・・・そのかわりだ、先生も作業をするからな!」アンドレアは感極まって叫んだ。
「そんなあ、先生」生徒たちは納得しなかった。
「先生、ちゃんとやってよ」
 しかしその後はうまくいった。三時間近く、生徒たちはまるで子栗鼠のように、石のある場所と草むらの間を跳び回っていた。
 そして作業を終えた後は、生徒たち自身でスローガンの出来栄えを眺めていた。
 すっかりくたびれた生徒たちは、カバンや作業道具を肩にかけて、一人ひとり「じゃさようなら先生!」と声をかけながら、それぞれの方角へと散っていった。
 アンドレアは家路につく生徒たちを見ながら、名残り惜しい気持ちになった。食事もせず、服も汚れていたが、しかし皆楽しそうだった。もっとも生徒たちの誰一人として、あのスローガンがどういう意味なのか理解していなかったし、理解しようともしていなかったに違いない。
 彼はゆっくりと自分の部屋に帰り着いた。くたびれていたが、務めを成し遂げて穏やかな気持ちだった。そして横になるやすぐに深い眠りに落ちていった。
 朝起きると、彼は他の教師たちと顔を合わせたが、スローガンのことを口にする者は誰もいなかった。
 後でその内の一人ひとりに会ってみると、彼らは袖の伸びた背広を着て、くわえ煙草で、至って牧歌的な雰囲気で落ち着きはらっていたが、歩き出した途端「とりあえず、スローガンのところへ行こう」と言ってきた。
 どうやら、彼らにとっては或る種の娯楽のようなものになっているらしかった。
「こんな人里離れたところで、これからどうなることやら」アンドレアは何度もそう考えた。
 やがて彼も、最低週一回はスローガンのところへ行くのが普通になっていった。落ち葉や泥や土を取り除け、文字の向きを直し、その傍らでひと息つきながら、仕事帰りの農民らと挨拶を交わすのだった。
 五ヶ月も経たない内に、アンドレアはスローガンの書き換えを命じられた。実のところ、大多数の教師もそのように言われていた。
 パシュクが説明してくれたところによれば、スローガンの書き換えはそれほど頻繁なことではないが、いずれにしても書き換えを決定するのは他ならぬ党委員会であり、それは極めて厳格な規準に基づくものなのだという。その発表に当たっては、県や地区の政治状況、富農に知識人に政治犯に通常犯のパーセンテージ、共産主義者の人数、地区の経済発展、早麦の産出量、農業破壊行為に対する闘争、県の文化的・歴史的伝統、地区特有の状況など、一連の様々な事柄が考慮に入れられているらしい。
 例えば、聞いた話では前に一度、或る学校の校長が、或る教師の経歴に疑わしい点があることに気づいたのだが、その時その地区では、直ちにスローガンの書き換えが行われた。すなわち、『プロレタリア国際主義万歳』は『警戒、警戒、また警戒』と『プロレタリア的道徳を高く掲げよう』に置き換えられたのである。
 普通、スローガンの割り当ては、教員会議がある日には最後に来る重要議題だった。しかし教師たちは、割り当て指示があるかどうかについて、程度の差こそあれ前もって知っていた。その前の日には党書記でもあるサバフが党委員会に呼ばれて行き、戻ってきた時には暗く真剣な、重大な政治情勢に全面的に責任を負っているような顔つきになっていたからだ。彼は、教師たちがスローガンの内容について知りたがっている気持ちを充分に感じ取っているようだった。彼は周囲にいささかそっけない挨拶を送った。それはまさに、サバフが他の教師たちよりも抜きん出て特別扱いを受けることのできる数日間であった。その時ばかりはサバフに嫉妬を感じる者が多数であった。
 その日、スローガン変更に関する趣旨説明として校長は、北部の某都市から政治局員が訪問することを取り上げた。要するに、その政治局員は彼らの村の附近を通っていくということなのだ。
 教師たちにスローガンを割り当てる時になると、不平や激情があらわになった。実際、割り当てられるスローガンの長さや内容は、教師たちにとって多くのことを意味していたからだ。つまり、自分が指導機関のお気に召しているか、さもなくば不興を買っているというわけだった。
 校長が穏やかな口調で、教師の名前とスローガンの名称を読み上げていった。教室内には時折、不安と安堵のため息が聞かれた。
 いざこざが発生したのは、ディアナのスローガンが読み上げられた時だった。彼女は首都出身の教師で、アンドレアとそれほど親交があるわけではなかった。二、三度ほど同じ車に乗り合わせたが、運転手たちは女性を自分の車に乗せたがるので、いつもアンドレアがディアナの外出を待ちかねる格好になり、そうでなければ彼は出かけなかった。一人、部屋に戻って、その次の日はずっとスローガンのところで過ごすのだった。
[訳注;労働党時代のアルバニアでは自動車の個人所有が禁じられており、自動車の絶対数も少なかったので、通りすがりのトラック等に便乗して移動することが多かった]
 理由はよくわからないのだが、校長はディアナのことをひどく嫌っているらしかった。そのことは、校長が彼女に数キロにも及ぶスローガンを与えた時に明らかとなった。
『山を登り尾根を渡り、平地のように実り多いものにしよう』
 これまでの書き換えの際にも校長はディアナに指示を与えてきたが、それは多くも少なくもなかった。だがこのスローガンは48文字もあるのだ。
[訳注;原語“T'u qepemi kodrave e maleve, t'i bëjmë ato pjellore si fushat”はコンマとアポストロフ抜きで48字]
『革命家のように思考し、労働し、生活しよう』
[訳注;原語“Të mendojmë, të punojmë, të jetojmë si revolucionarë”は上と同様にして43字]
 ディアナの唇は怒りでぶるぶると震え出した。平静を保とうと努めたが、耐え切れなくなって、とうとう机を叩いて叫んだ。
「わかってたわ、最初からわかってたのよ!」
「何が最初からわかっていたのかね?」
校長は冷淡な調子で訊いた。
「校長お願いします、いつまで私にこんなことを続けるつもりですか?スローガンに個人的な感情を持ち込むなんて、まったく大人気ないですわ、わかっていますのよ私には」
ディアナの声には怒りがこもっていた。教員会議の空気は凍りついた。誰一人、声をあげようとはしなかった。
 校長は何事もなかったかのように、冷静な口調だった。
「わからないねえ。まったくわからないよ。何を怒っているのかね君は、いやはや。それともまさかこのスローガンに反対なのかね?」校長は狡猾と言えなくもない調子で続けた。
「これはエンヴェル同志が第七回党大会で言った言葉なのだよ」
 効果はてきめんだった。ディアナは怒りに満ちた目つきを隠さなかったものの、それ以上は何も言おうとしなかった。教師たちはこっそりと、残念そうにその様子を盗み見していた。その沈黙を破ったのは、教師連中の中でも特に賢いと言われる一人である、ジニだった。彼は手を挙げると、声を震わせながら、この状況を沈静化させるための提案を校長に申し出た。
「校長同志」ジニが申し出た。
「私の『時代の先頭に立とう』のスローガンと、ディアナのを交換してはどうですか」
 しかし校長は気に入らなかった。
「いかん、断じていかん!そんな風に、個人個人の都合でスローガンを分け合うのに一日を費やすなど、あってはならんことだ。スローガンは、政治的な義務なんだからね、それを書くことに反対する者がいるのなら、それは別の問題だ」 そう言って彼は話を打ち切った。
 会議室から出ようとしていたアンドレアの耳に、ジニがディアナに何かささやいているのが聴こえてきた。
「気にしないことだよディアナ、そう腹を立てるもんじゃない。君のスローガンは、私も手伝いに行くよ。なに、大したことじゃないさ。ひと晩かそれぐらい家に帰らなければいい。それとも午後から取りかかって、一緒に・・・どうだい?」
 だがディアナはぼんやりしたままで、何も聴いていなかった。
「まったくひどいもんだ」アンドレアはその様子をうんざりした顔で見ながら、つぶやいた。
 この時、アンドレアに課せられたスローガンは『プロレタリアート独裁が強くなれば、社会主義的民主主義も強くなる』だった。
[訳注;原語は“Sa më e fortë Diktatura e Proletariatit, aq më fortë Demokracia Socialiste”だから、お世辞にも短いとはいえない]
 彼はその長さを嫌だとは思わなかった。それどころか、そのスローガンをうまく描くことについては、校長から特に念押しをされていた。
「アンドレア、君のこれまでのスローガンには、特に良い印象を受けているよ、よくやった」
「ありがとうございます・・・」とアンドレアは満足だった。
 こうして二年が過ぎ、スローガンもまた同様だった。アンドレアは相変わらずスローガンのところへ出かけていた。週末など、家にも帰らないことがあったが、孤独な彼には、スローガンだけが救いの手であるかのように思われた。
「ありがたいものだ!こいつがなくて、どうしてこの寂しさを紛らすことができるだろうなあ」と彼はスローガンの石をいとおしげに磨いたりこすったりしながら、そう思うことしばしばであった。
 或る秋の午後、ひとり寂しくタバコを吸っていたアンドレアは、ひと気のない校舎の入口でディアナに出会った。
「どうしたの?」彼は訊ねた。
「別に」彼女は言った。
「いい天気だね」彼は言った。
「そうね」
「スローガンのところへ行かないか」
「別に、いいわよ」彼女は答えた。
「もうずいぶん雨が降ってないわね」
「でも、葉っぱはどうかな・・・?秋だから、落ち葉が積もってるかも知れないよ。まあとにかく、来たければ来なよ」
「わかったわ」とディアナは、特に気に留めもせず言った。
 二人は林の小道をゆっくりと歩いていった。川に出たところで、道が一旦途切れていた。ディアナは手で水をすくって顔や髪の毛をしめし、それからもう一度両手に水をすくうと、それをアンドレアの顔に向かってかけた。アンドレアが意表をつかれたようだったので、ディアナは腹の底から大笑いした。だがアンドレアも落ち着きを取り戻すと、ディアナに向かってひとつかみの水をひっかけた。それで彼女はまた濡れてしまい、慌てて駆け出した。アンドレアがそこでぽかんとしているわけもなかった。大いに勢いづいて、両手に水をすくうと彼女のあとを追いかけた。果樹林のそばまで来たところで息が切れてしまったディアナに追いつくと、水を彼女の肩にかけた。水は彼女の上着をつたって背中のあちこちに浸み通った。アンドレアはもう辛抱できなくなって、彼女の首筋に手を回すと子供のように強く抱き寄せた。
 ところがディアナは彼の腕をすり抜けるとこう言った。
「いや!」
「いや?どうして?」不意をつかれてアンドレアは問い返した。
「だって、好きじゃないから」
ディアナはそう言うと、黙って、スローガンのある斜面の方へ歩き出した。
「じゃあ、その気がないのなら何で、あんな水のかけあいっこなんかするのさ?」
アンドレアはそうつぶやきながら、すっかり落ち込んだまま、自分のスローガンのある方へ歩き出した。とはいえスローガンは確かにきれいで、石灰の爽やかな白さをまだ保っていた。ところどころに落ち葉があった。アンドレアがそれらを取り除けると、もう何もすることがなくなった。彼はディアナがいる斜面の方へ歩いていった。
 アンドレアは、ディアナが彼女自身のスローガンのそばの草の上に座っているのを見て驚いた。『革命家のように思考し、労働し、生活しよう』が、果樹から落ちた葉で埋もれていた。彼女はすっかりぼんやりしていた。上着はまだ乾ききっていなかった。
 彼はそのそばに腰を下ろすと、おそるおそる切り出した。
「ごめん」
「何が?」と彼女が訊ねた。
「さっきのことさ」
「ああ、いいのよ。もう忘れてたわ」
それからまた二人は黙り込んだ。
「どうして葉っぱを片付けないの?」アンドレアは訊ねた。
「だって、こうやって秋の落ち葉がいっぱいある方がずっといいじゃないの、ただ真っ白なだけよりはいいでしょ。それってずっとロマンティックじゃない?」ディアナは自分自身に言い聞かせてでもいるようだった。
「こうしていると、別のメッセージになるわね、革命的・ロマン主義的スローガンとでも言うのかしら」
「或いは革命的ロマンティシズム・・・」アンドレアが笑いながら付け足した。
「それにしても、きれいにした方がいいよ」
と彼は言って立ち上がり、彼女のスローガンの落ち葉を取り除けた。
 ディアナは、その様子を目で追っていたが、しばらくするとゆっくり立ち上がり、アンドレアの方に近付くと、落ち葉を一枚取って静かに払い落とし、それからアンドレアの手をそっと握った。アンドレアは何も言わなかった。うつむいて掃除を続けていた。
 するとディアナはアンドレアの手を強く握り締め、目を見つめると、アンドレアの頭を抱き寄せた。彼は激しい勢いで彼女の方に向き直り、彼女にキスをした。
 二人はスローガンのある場所から離れるのももどかしく、『革命家』と『のように』の間の、柔らかい地面の上に寝転がった。二人とも気付かぬ間に足を不注意にばたばたさせるものだから『革命家』の文字の一つを壊していた。
[訳注;原語は“si”と“revolucionarë”]
 二人が村に戻ってきたのは、夕方遅くなってからだった。翌日、二人は何ごともなかったかのような冷静な態度で顔を合わせた。そしてその日以来、二人はしばしばスローガンのところに出かけるようになった。
 村の単調な生活を、或る日、最古参の教師であるレシの事件が揺るがした。レシは協同組合の小さな学校で働いていたが、それは中央の学校の付属校で、彼はそこでアンドレア同様の協同組合人生を送っていた。レシの村は中央の協同組合から二時間ほどのところにあって、本来なら校長が年二回の監査で学校を訪れなければならないはずだったのだが、余りにも距離が遠いものだから、それもだんだん稀になっていた。
 その一大事が起こったのは、最近の監査が入った時だった。レシの学校のそばまで来た校長は、スローガンを見て仰天した。
『ヴェトナムは勝利する』
 校長の驚愕は、それはもう大変なものだった。ヴェトナムが解放されてからもう15年余りになるのだ。おまけにそのスローガンの出来ばえは完璧なもので、真っ白い石灰の跡が今なおはっきりと残っていた。初めのうち、校長はどう振る舞ったらよいのかわからなかった。彼は、レシに会おうと思った。ちなみにレシは校長のチェス仲間でもあった。
 レシは仲間内でもとりわけ忠誠心の篤い教師として知られていて、冗談でそんなことをするような人物ではなかった。どちらにしても、校長にとって放っておける問題ではなかった。よくわからないが、どうしてこんなことが今まで問題にならなかったのだろうか。とっくに訴えられていてもおかしくない話だったのに。この前の協同組合の会議で彼は、その日の重要議題として、レシのスローガンの問題を取り上げた。
 会議の日、レシは二時間も前にやってきた。もし誰かが彼を見たら、その顔色の悪さには本当にいたたまれない思いになったことだろう。
[訳注;原語“dyll i verdhë”は「黄色い蜂蜜」で、これはアルバニア語で「顔面蒼白」の比喩の一つ]
 レシは、一本また一本とタバコを消しては、つとめて親しげに、平静をよそおっていた。彼は、入口のところにいる教師たちに話しかけてみた。
「よう、長いことチェスをやってないなあ・・・協同組合で試合をやらないか?」
パシュクは憐れむように彼を見て、こう言った。
「ああ、レシよ、だがなあ、今どき誰がチェスなんかやってるかねえ」
「おいおいこいつめ、とっちめてやろうか。なあパシュクよ、また一緒にやろうぜ」
とレシは声を上げて笑った。しかし他の教師の誰も笑わなかった。
 会議が始まり、レシのヴェトナムのスローガンの問題が取り上げられるまでの間はずっと、レシが座っている机の下から、足を動かす貧乏ゆすりの音が聴こえていた。彼はそうやってこの困難な時をやり過ごそうとしていた。いつも自分の仕事を賞賛されることにばかり慣れきっていたからだ。だが今日は違っていた。
 実際のところ、校長はレシの件を手短かに取り上げた。彼はその問題を形式的に流そうとしているようだった。まず事実を説明すると、次にレシの方を向いて訊ねた。
「で、レシよ、どうしたわけだね?」
レシはそんな風に質問されるとは思っていなかったので
「どうしたわけ、ですか?」
と言うのがやっとだった。長い沈黙が訪れた。彼は立ち上がると、ぎこちない手つきで、何やらポケットの中を探っていた。一同はその様子をじっと見守っていた。
 ようやくのことでレシはポケットから一枚の、くしゃくしゃになった紙を取り出した。それで一同には飲み込めた。彼は自分の発言を紙に書いて準備していたわけだ。
 レシは紙の上に目を落としていたが、しかし、なかなか口からことばが出てこなかった。かなり混乱しているようで、持っている紙がさかさまになっていることにも気付いていなかった。隣に座っていたジニが、小声で話しかけた。
「しっかりしろよレシ、紙がさかさまだ」
 「あ、ああ」レシは安心したようにつぶやくと
「ありがとうよ、ジニ」
と満面に感謝の表情をあらわした。そして組合員らに目を向けると、話し始めた。
「同志の皆さん・・・」
 しかし次の言葉を口にしない内に校長がそれをさえぎった。
「ああ、いや、レシよ、発言は長々とやらなくていいから、あそこのあのスローガンとか、あれは何の真似か、それを教えてくれたまえ・・・」
それでもレシは実に救われたような思いがした。彼は長い時間かけて自分の発言を紙に書いて準備したらしかった。目の周りにくまができていた。
[訳注;原語“rrathët e zinj përreth syve”は「目の周りの黒い引き網」]
そこでレシは、早口で舌をもつれさせながら、自分の「それはこういうわけで」という話を手短かに語り尽くそうとした。
 約17年前、その頃のレシは、党の勤勉な書記の一人だったが、誰に言われるともなく、この僻地の農村でスローガン作りに熱中していたという。
「やれる限りの場所で、見えようが見えまいが、ですよ」とレシは語った。
 ヴェトナムのスローガンに出会ったレシは、技巧の限りを尽くしてそれを作り上げた。そのうち皆レシのスローガンのことなど忘れてしまったのは無理もないが、もうスローガンを維持しなくてもいいのだとレシに伝える者は、一人もいなかった。こうしてレシは毎週、授業が終わると、或る時は生徒と、また或る時は独りだけで、スローガンのある場所へ出かけては、そのスローガンが常に綺麗であるように気を遣うのだった。
「わかったよ、だがな、なぜヴェトナムなんだ?!ヴェトナムは15年も前に解放されてるんだぞ」
サバフィが訊ねた。
「いやいや、でもね、私はそのスローガンを命じられたんですよ」レシはいらいらしながら答えた。
「だから言ってるでしょうが。誰も私に向かってもうやめろとは言わなかったんですよ」
 もうこれ以上、話を続けても無駄なことだった。この時点でレシを告発するには充分だったのだ。国際情勢に対する彼の無知さ加減には、度し難いものがあった。
「な、あいつはああいう具合なんだ」
パシュクがアンドレアの耳元ににささやいた。
「もうどうしようもないだろ?」
 しかし、校長は結論にあたって、そんなレシの抜けたところにはさらりと触れただけで、あとは
「運動の停滞については、国際情勢に応じてこれを日々新たにせねばならない」ことに注意をうながすのだった。それでレシはすぐさまこう言い返した。
「そりゃ私だって知っているさ。要するに、ヴェトナムをかつて挑発し、今も挑発しているのは、いつだって資本主義国家だったんですよ。そう教わってきたんですから」
「わかった、わかったよ」と言いながら校長は、こんな話題を取り上げたことを後悔していた。
 教師たちはそうだそうだという風に首を振って、カバンを手に帰り支度を始めた。
[訳注;バルカン半島では首を横に振ると「はい」の意]
 レシは、ようやく危機を乗り越えたと感じながらも、気分は晴れなかった。
「ちょっと、ちょっとよろしいですか、校長同志」
そう言うと校長の同意も得ないうちに立ち上がり、内に決然としたものを抱いて、話し出した。
「同志の皆さん、私は自分にできる限りのことをして、誇りを持って働いてきたのです、求められたスローガンを作るために、それから・・・」
「ああ、いやレシよ」校長は我慢の限界だった。
「誰も君の責任感を疑ってなどいないし、スローガンの件で君を罰したりなどしないよ。ただね、とうに15年も経った時代のスローガンのせいで、こういう騒動になっているということなんだよ」
「なるほど、では」レシは気を取り直した。
「私にその、今どきのものから何か一つ、お願いしますよ」
「いや君に私が?何を頼むっていうんだ?」
校長はすっかりイライラしきっていた。
「私が何をだって?一体全体、何を?!」
 するとレシは、自分がどんなスローガンをやりたいのか校長が知りたがっているのだと思い込み、さらに声を上げて言った。
「そうですね、じゃ『ヤンキーはヴェトナムから出て行け!』とか」
 組合員たちは仰天し、たまりかねて「おいおいおい!」と叫び出した。
 会議の厳粛さがかけらもなくなってしまったと感じた校長は、急いでしめくくりの言葉に移った。
「では同志諸君、議題も出尽くしたことですし、これで閉会としましょう。おやすみなさい!」
 教師らは皆、大急ぎで駆け出していった。最後に出たのはレシだった。黙ったまま、タバコを口にくわえ、ゆっくりとそれに火をつけ、深くひと吸いすると、ひとり、こう言った。
「何ごとも、なかったな」
 レシがスローガンを与えられぬまま、辞職したというニュースは、またたく間にその小さな村をかけめぐった。
 レシの妻のマリアは、工作班の女たちから離れて、ひとり夜を明かしていた。
 数日後、工作班仲間の女の一人がマリアのところにやってきて、気の毒そうな顔でこう訊いた。
「ねえマリア、村で流れているあの噂だけど、本当なの?」
「何の話よ?」マリアは表情を変えなかった。
「ほら、たしか、あなたのご主人のレシが、その、ええと、ごめんなさいね・・・聞いた話だけど、レシがスローガンを取り上げられたとか、ってことはつまり、レシのスローガンがなくなったってことでしょう」
マリアは恥ずかしそうにうつむき、そうだという風に首を動かした。
 少しして、マリアは口を開いた。
「そうよ、確かにその通りよ。で、正直に打ち明けるけどね、今はスローガンじゃなくてレシの方が問題なのよ。あの日からずっと私たち、家ではくつろげなくてね。うちの人は眠れないし食事ものどを通らなくて。だってねえあなたたち、そりゃもう、自分ちの子供にだって、あのスローガンほどには手塩にかけてやいなかったのよ、うちのレシときたら」
 その工作班仲間の女はどうにかお悔やみを述べようとした。
「そんなに気にしちゃ駄目よ。そんな大した災難じゃないじゃないの。あんな、誰も憶えちゃいないような国のことを書いたスローガンなんか壊しちゃってさ、しばらくスローガンなしで過ごしてみれば。そのうち、村の人たちだって忘れちまうわよ」
「ごもっともなことね」マリアは言った。
「でもね、レシがすっかり落ち込んで、何をする気もなくなってしまったってことが問題なのよ。あの人はねえ、自分の仕事を批判されることに慣れてないのよ。あんなヴェトナムのスローガンに関わったせいで、レシはすっかり駄目になってしまったわ」
 するとその工作班仲間の女は、他の女たちが思いもしなかったようなことを思いついて、マリアに言った。
「でも、そんなに大変な仕事なんだったらいっそのこと、家の前にでもこっそり書かせてあげたらいいじゃないの。そのヴェトナムのでもいいし、何か他のでもいいのよ、それでご主人の気が済むんだったら。お子さんたちも大きくなってることだし、手伝わせればうまくいくわよ」
 ところがマリアは唖然としていた。
「おやまあ、レシはねえ、誰の助けだって必要ないのよ。あの人は自分でスローガンを作りたいのよ、こっそりだなんてできるもんかしらねえ」
「どうして駄目なのよ?」
相手はしつこく問いかけた。
 レシがそんな女性班の提案に気分を持ち直したのかどうか、定かではない。ただ、彼が新しいスローガンをもう書こうとしなくなったことだけは確かだった。
 会議から二週間も経っていない或る日、校長とサバフィがアンドレアを校長室へ呼びつけた。校長は彼の肩を叩きながら言った。
「アンドレア、今回は君に大事な話があるんだがね。君は気付いていたかな、車で丘の上を走っていた時だったが、倉庫の壁の表面がひどく剥がれ落ちて、随分とみすぼらしくなっていただろう?そこでだ、サバフィ同志とも相談したんだが、あそこに赤の油絵具で大きなスローガンを書こうということになってね」
サバフィもこくりとしてみせた。
「生徒たちにはこの作業はさせられないし、だから、君が自分でやりたまえ。梯子と刷毛と、油絵具はこちらで用意しておくからね。スローガンは『プロレタリア独裁万歳』だ」
[訳注;RROFTË DIKTATURA E PROLETARIATIT]
 アンドレアは、黙ってうなづいた。部屋を出る間際、彼は振り返って校長に訊ねた。
「あの、スローガンの色は何色で?」
校長は、軽蔑するような笑みを浮かべると、サバフィの方を見やりながら言った。
「おいおい、決まってるだろうアンドレア。赤色だよ」
 その倉庫というのは古い建物で、それは悲惨なありさまだった。灰色で、ほこりまみれで、大きくて分厚くて不恰好な石がごろごろと積まれていた。その週末アンドレアは家にも帰らず、土曜日の午後からスローガンの下書きに取り掛かり、日曜日じゅうを費やして作業にあたった。油絵具は倉庫のどこにも見当たらなかったので、彼は錆止め塗料でスローガンを書いた。それは本当にくたびれる作業だった。これほど大変なことだとは予想もしていなかった。色は壁の割れ目に浸み込んでしまい、文字は石の表面になじまなかった。しっくいがすっかり古くなっていて、刷毛をあてる度にぽろぽろと割れた。結局、二日がかりの作業になった。
「アンドレア先生よ、お疲れさんだね!」と農民たちが通りかかる度に声をかけてきた。
「よくできてるよ、まったく」
「おかげさまで」
アンドレアは梯子の上から挨拶を返すと、錆止め塗料やほこりと格闘しながら、根気強く作業を続けた。
 とうもろこしの収穫にあたる作業班の女班長で美人のマルタが、アンドレアに声をかけてきた。
「アンドレア先生、手に気をつけることよ。絵具で手がかぶれると、首都の女の子たちにもてなくなっちゃうから」
 アンドレアはその冗談に、心から笑った。
 作業が終わったのは夜だったが、スローガンは彼の気に入らなかった。倉庫の壁ではこれといって問題ないが、地ならし具を手に丘に上ってみると、そこからでは違って見えるのだった。
 仕事に納得できぬまま、彼は夜遅く帰宅した。
 そして、そう思ったことは間違っていなかった。翌々日、急に校長とサバフィに呼び出された。嫌な予感がした。
「アンドレア、あれはまた何という不始末をしでかしてくれたんだ?君のせいでこの地区じゅうが大騒動だぞ」
校長は声を張り上げた。皆の言う通りだ、怒り出したらまるで手がつけられないんだから。
「何ですか?」
アンドレアは消え入りそうな声でそう言うのがやっとだった。
「何ですか、だと?」
校長はサバフィの見ている前で、自分の怒りをどう伝えたものやら、わからなくなっていた。
「君は一体どうやってあのスローガンを書いたんだ、手でか、それとも足でか?」
校長はちらりとサバフィの方を見た。まるでこう言っているかのようだった。
「ほらな、サバフィ、今度もまたこんなことになるんだ」
 だがサバフィの表情は何も語っていなかった。
 どうやら、かなり厄介なことになっているようだった。
 アンドレアは、実際のところ何が起こっているのか、どうにかして知りたかった。あとになって周りが教えてくれたところによると、地区の宣伝担当の党書記が監査のために来ていたらしい。石のスローガンをくまなく調査していたが、その途中で倉庫のスローガンが目にとまった。近寄ってみると、色が褪せていた。書記は五分ばかりそれを黙って見ていたが、やがてサバフィの方を向いて訊ねた。
「これを書いたのは誰だね?」
「アンドレアです、首都出身の科学の教師です、書記同志」
待ってましたとばかりにサバフィが答えた。書記は何も言わず、協同組合の事務所の視察へと回り始めた。そのうしろに付き従っていた連中は皆、書記は今のことを忘れてしまった、これで仕事も終わりだと思っていた。ところが書記は協同組合の党委員会の事務室に入るなり、同行者たちの方を向き、しばらくの重い沈黙の後、ただひとことこう言った。
「あのスローガンを書いた者には、求められるべき情熱が欠けているね」
党書記のメッセージはきわめて明瞭であった。
 それから二日後、アンドレアは党機関に呼び出された。
 彼にとって大いなる孤独の日々は、二日しか続かなかった。教師たちは冷ややかに噂し合っていたが、サバフィは無言だった。
 党機関からアンドレアへの告発は、サバフィが行った。彼は、出来得る限りの進歩的な、同時に問題を解決し得るような形式を保とうと努めていた。彼は次のような言葉で発言を始めた。
「アンドレア同志、党機関が知りたいのは、君があのようなことをした原因だ、或いは、その、ふむ、君をあのようなことに突き動かした真の動機とでもいうべきものかな、君があのようなものを書かずにはおれなかった心情というかな、いやもっと正確に言えばだね、なぜあのような不始末をしでかしたのか、つまり『プロレタリア独裁万歳』のごときスローガンをだね、雑に書き殴るなどという真似をしたのかね?いや、回りくどい言い方はやめよう。私はね、何が君をあのような行為にかりたてたのか、君が党機関に対して誠実に釈明してくれることを望んでいるんだよ」
 重苦しい空気が流れた。
 告発に対してアンドレア自身は、次のような点をあげて釈明をおこなった。
「石の質が悪かったんです。倉庫の壁もひどく汚れていて、しっくいが古くなっていて・・・」
「いやいやそういうことじゃなくて」とサバフィは素早くそれをさえぎった。
「君はまたそんなことを言うのか。しっくいがああだとかこうだとか、そういう問題じゃないんだよ。そんなことではいつまでたっても終わらないじゃないか」
「だったら、あなたにとってはどうだっていうんです、サバフィ同志?」
アンドレアは苛立って訊ね返した。
「そういうことも、問題ではあるだろうさ」
サバフィは答えた。
「だがそんな話を我々にしてどうなるというんだ。いいかね君、党の機関はそのようなありきたりのことに関わっている暇はないのだよ。私はね、君が党機関に対して心の中を打ち明けて、進んで自己批判をしてくれるものと思っていた。ところが、今こうして見ている限りでは、まるでそういうことになっていない。そういうことなら、だ」
サバフィはがらりと口調をあらためると、一段大きな声でこう続けた。
「同志諸君、アンドレアがあのスローガンを書くにあたって情熱を欠いていた理由について、我々は、彼がプロレタリア独裁を心から望んでいないからだとは余り思いたくない。同志諸君、この問題はもっと単純に見るべきだろう」
と階級闘争に関する分析を行ってから、サバフィは更に続けた。
「主たる要因は、彼の家族歴、その周囲に求めるべきだろう。彼の父方のおじは戦争中に自殺し、母方のおじは収容所へ送られた。そしてまた一方では・・・わからないかね共産主義の同志諸君、敵はかくも狡猾に立ち回っている・・・そうだその通りだ、階級の敵だ、それは党から身を隠そうとしている。党は惜しみない温情をもって、その潜んでいる泥沼から出てくるようにと、手を差し伸べているではないか?それなのに、彼はそれを望んでいないのだ」
 アンドレアはもう、何が起こっているのか理解できなくなっていた。ただ彼の人生と運命に関わるようなことが話し合われているということだけは、どうにか理解できた。
「待ちたまえ、ちょっと待ちたまえ、サバフィ同志よ」
党機関に属する最古参の共産主義者の中から一人が声を上げた。彼は、その判断の正確さでよく知られている人物だった。
「我々はこのような極左路線に進むべきではない。この教師に責任があることは否定できないが、階級の敵と呼ぶほどのものでもあるまい。諸君にはもっと冷静に問題を見るべきだと提案したい」
 アンドレアには、もはや議論の行く末が見えなくなっていた。
 結局、決議に移ったために、彼は議場の外に出された。一時間余り経って、サバフィが出てきた。彼は乾いた、断固たる口調でアンドレアに決定事項を告げた。
「党機関は今回、君に手を差し伸べることに決定した。君は半年間だけ、作業班で矯正労働につくように」
「ありがとうございます」
アンドレアは静かに答えた。マルタのいる作業班で働くことが決められた。農民たちは彼を冷ややかに迎えた。アンドレアはたくさん働いて、そして夜遅く疲れきって家に戻ると、死んだように眠りに落ちた。
 新聞を読んでくれと頼まれることも、たびたびあった。
 マルタは、彼に親切にしてくれた。彼女は時々アンドレアの手を優しく「子どもにするように」撫でまわすのだった。
 或る日、マルタはアンドレアが昼食時間に一人で食事をしているところに来て、こう言った。
「午後は、向こうにある別の区画で働いてもらうわ。丘のはずれのところよ。必要なら私も手伝うから」
「ありがとう」アンドレアは感激して言った。
「大丈夫だよ、一人でできるから」
「まあ」マルタは笑いながら言った。
「一緒に働くのが嫌なの?」
そう言って微笑みながら、彼女はその肉付きの良い指先を細かく動かした。
 彼は、それを熱いまなざしで見つめていた。
 その日の午後、マルタはようやくのことで、遠く広がるとうもろこし畑の中で穂を摘んでいる彼の姿を見つけた。
 彼女も一緒にとうもろこしの穂を摘み始めた。その内、何も言わぬまま二人は抱き合い、地面に寝転がった。さらに降り出した雨で、二人は泥まみれになった。
 すっかり暗くなってから、二人は別れた。アンドレアはとうもろこし畑を抜け、村の自分の家へこっそり戻った。遠くの方で犬の鳴き声が聞こえた。
 彼は芯までびしょ濡れになって、自分の部屋に帰った。
 作業班で半年働いてから、アンドレアは学校での仕事に戻った。校長は、何ごともなかったかのように彼を暖かく迎えた。校長は彼にスローガンを指示すると、部屋を出ようとする彼に言った。
「ああ、忘れるところだったよ、アンドレア。最近は、スローガンを書くのに天然の石じゃなくて白いケイ酸レンガを使うという、熱心ぶった先生が一部にはいてね、見た目も随分良いからと薦めているらしいんだ。だがこういうことをやっていたら生徒たちが堕落してしまうばかりじゃない、建物のレンガを盗んでいないか、カバンの他にレンガを詰め込んだ袋を持って登校してこないか、毎日のように見張るはめになる。党の地区委員会は原則としてこういうものに反対しているし、確かにそんなものを使ったら、スローガンそれ自体の持つ性格や、独創性が失われてしまうからね。そういう独創性があるからこそ、人民はしばしば自分たちの自由な思考を、それに合った方法で、自分たちに合った言葉で表現するわけで・・・」
 二人はしばらく互いの目を見つめていた。
「わかりましたよ、校長」
アンドレアは丁寧な口調で答えた。
「ご提案について、考えてみます」
そして部屋を出ると彼はすぐに頭の中で、たった今命じられたばかりのスローガンの字数を数え始めるのだった。





訳者による覚え書き
 この短編は2001年の東京国際映画祭でグランプリを取ったアルバニア映画「スローガン(Slogans)」の小説版原作(Ylljet Aliçka, Parullat me gurë. Tiranë 2003)の全訳である。
 映画冒頭にも字幕で表示されるが、これは労働党時代の実際にあったエピソードをもとに作られている。もちろん最初から最後までこの小説通りの出来事がどこかの村で起こったわけではないだろうが、社会主義時代の日常生活の中に見られた大小の典型的な悲喜劇が、この短編の中に散りばめられている。
 映画は原作にかなり忠実に作られているが、アンドレアが女教師のディアナと本格的に親密な関係になる(しかも校長はディアナに言い寄って手ひどくふられ、それを根に持って長いスローガンを彼女に割り当てる)とか、スローガンを蹴散らした羊飼いが文盲で本当に悪気がなかったらしいとか、作品中でのレシの役割が少し変わっていたりとか、原作と異なる箇所もいくつか見受けられる。「スローガン」が日本で映像ソフト化される予定は今のところないが、万一にも実現したあかつきにはこの短編と読み比べてみるのも一興だろう。
 原書は14作の短編から成る作品集の末尾に収録されている。他の短編も興味深いのだが、それらの紹介は別の機会にしよう。ちなみに、映画の原作ではあるものの、本の形で出版されたのは上映後の2003年である。また、今回の訳の参考には余り参考にしていないが、ほぼ同じ内容の作品集がフランスで出版されている(Ylljet Aliçka; Les slogans de pierre, Castelnau-Le-Les, Éditions Climats 1999)。入手も容易なので、フランス語が読める方はそちらをご覧いただきたい。