あれから1年[コソヴォから]
少なくとも七千百五拾六人
なお続く移動と受け入れ
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「コソヴォの市民のみなさん、
北大西洋同盟軍によるユーゴスラヴィアの軍事・警察拠点に対する爆撃開始から今日で一年になります。これは、新しい世界秩序の価値を維持するためのものでした。コソヴォは、長きにわたる占領状態から自らを解放することを決意し、苦闘の末ついに、支配に対抗するための基幹となる組織『コソヴォ解放軍』を生み出しました。コソヴォ解放軍の長期的な視点に立った政策によって、国際社会との協力による秩序の回復、諸活動の共同を達成することができたのです。また国際社会や主要な決定機関、西側諸国との強力な同盟関係によって、アルバニア人民を防衛するための諸条件も整いました。
コソヴォからのセルビア人勢力の撤退、並びに住民の故郷への帰還という二つの重要な課題は迅速に実現されました。それによってコソヴォの再建と民主的政治確率のための課題にも着手できるようになりました。しかしこうした政治的進展の過程にあっても私たちは、ミトロヴィツァ、プレシェヴァ、メドヴェジャ、ブヤノツィで今なお未解決の問題を決して忘れません。今この時もセルビアに無権利状態で投獄されている人々のことを忘れません。戦いに殉じた人々の家族、戦傷者、破壊された町や村々のことを忘れません。アメリカとの共同によってプレシェヴァ、メドヴェジャ、ブヤノツィに政策協議会を創設できたことは、問題の政治的解決、武力衝突の回避、同盟国や私たちの友人たちとの協調関係による事態の沈静化、あらゆる領域における民主化に資することでしょう。現実の政治における国際社会との協力によって、コソヴォ、のみならずバルカンにおけるアルバニア人の問題に、大きな展望が開けることを私たちは信じています」
(Kosovapress 2000.03.25)
あれから1年[ドイツ紙より]
1999年3月25日。
NATOが爆撃した。ドイツも爆撃した。[イタリアの]ピアチェンツァPiacenzaから飛び立った「トルネード」はユーゴスラヴィアの対空施設にミサイルを発射した。
ルドルフ・シャーピングRudolf Scharping[国防相]は操縦士たちの作戦遂行を賞賛し、定例記者会見を毎日開いた。ベオグラード当局は西側記者達を国外へ退去させ、NATO加盟諸国との外交関係を断絶した。連邦議会ではPDS[民主社会主義党]から緑の党の一部をも含む全政党が空爆を了承した。連邦憲法裁判所は、ドイツ軍の作戦参加を違憲とするPDSの訴えを退けた。ビル・クリントンは、ミロシェヴィチがバルカン折衝グループによる和平案を受け入れるまで空爆を続けるつもりだった。セルビア野党勢力のゾラン・ジンジチZoran Djindjicは、ミロシェヴィチが「すぐ倒れる」とふんでいた。数万人のアルバニア人避難民は、雨の中で救助を求めて立ちつくした。
当紙記者ベティーナ・ガウスBettina Gausの記事「NATOは、その好戦的かつ国際法に抵触しかねない脅迫行為によって自らをのっぴきならぬ状態へ追い込んだ」
(taz 2000.03.25)
コソヴォ・アルバニア人の人権擁護団体「自由と人権を守る委員会(KMDLNj)」は、1999年の1年間にコソヴォで殺されたアルバニア人の数を7156人と発表した。
このうち女性が859人、子どもが553人、高齢者が1312人である。
村落ごとに殺された人数は次の通り;レチャクRecakで48人。イズビツァIzbiceで127人。ヴァルボツVerbocで350人。ハラチHallaciで23人。プリシュティナのシュカバイShkabaj i Prishtinesで10人。スカンデライのタルナツTernac i Skenderajtで24人。リピヤンのスロヴィSllovi i Lipjanitで35人。ラホヴェツのネグロツNegroc i Rahovecitで42人。ドレニツァのアブリ・エ・エパルメAbri i Eperme i Drenicesで32人。タルデツTerdecで34人。アチャレヴァAcareveで16人。レザラRezalleで82人。ポラツPolacで30人。クラスミロツKrasmirocで20人。スタノツStanocで28人。クルシャ・エ・マヅェKrusha e Madheで204人。ポドゥイェヴァPodujeveで17人。スカンデライSkenderajで40人以上。スフレカSufrekeで80人以上。ミトロヴィツァMitroviceで20人以上。カチャニクのコトリナKotline e Kacanikutで27人。ドガナイDoganajで25人。ペヤのダルダニア地区Lagje Dardania e Pejesで38人。ルベニチLubeniqで66人。チュシュクQyshkで37人。ザハチZahaqで22人。ペヤのルトグラヴァLutogllave e Pejesで13人。
一家全員が殺された例は次の通り;ポクレクPoklekuのムチョリMucolli家、43人。カチャニクのコトリナKotlina e KacanikutのロクLoku家、12人。ラホヴェツのホチャ・エ・ヴォグルHoqa e Vogel e RahovecitのベリシャBerisha家、13人。ラホヴェツのナガヴツィNagavci i RahovecitのアヴドゥラヒミAvdurrahimi家、17人。クルシャ・エ・マヅェのホティHoti家、30人。ツェリナCelinaのゼチリZeqiri家、15人。マリシェヴァのツァラルカCaralluka e MalishevesのクラスニチKrasniqi家、25人。ラホヴェツのパスタセリPastaseli i Rahovecitのクラスニチ家、34人。マリシェヴァのアストラズビAstrazubi i MalishevesのモリナMorina家、15人。等々。
この他;
ドゥブラヴァDubraveの監獄では173人のアルバニア人が処刑された。
アルバニア人が「人間の盾」とされたプリズレンPrizrenのコリシャKorisheではNATOの爆撃により87人が死亡、120人が負傷した。クラランKralan、ラプシュニクLlapushnik近郊でも同様の攻撃で多数の死傷者が出た。
コソヴォ領内で発見された集団埋葬地のうち、まだ遺体の発掘・再埋葬が行われていない場所は少なくとも108カ所ある。
(Kosovapress 2000.03.06)
ヴィティVitiには3月5日までに、コソヴォ東部から女性・老人・子どもを主にして69人が避難してきた。現在はホテル「アグロモラヴァAgromorava」に仮居住している。5日にはコソヴォ民主進歩党(PPDK)の現地指導部が避難民を訪ね、逃れてきた際の状況や生活・食糧の状態について意見を聞いた。
一方、赤十字によれば、ジランGjilanのラシュティツァLlashtice村では空家を利用して避難民の受け入れ準備が進められており、ジランのバス停に着いたばかりの避難民170人が入居することになっているという。
(Kosovapress 2000.03.06)
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