最新情報
(6月1日~6月30日)
「97年兵役」解除へ
1997年の「ねずみ講」破綻を発端とする騒動では軍の一部も離反し、国の兵力減少を防ぐために臨時の兵役召集がかけられた。その際入隊した市民の兵役がまもなく正式に解除される見通し。
1日に人民議会で可決予定の「1997年3月の事件によるアルバニア市民および兵士の軍務解除に関する法律」により、3780人(全体の2.3%)が兵役を解かれることになる。
(ATSh 2000.05.31)
民主同盟党 民主党を批判
連立与党に参加している民主同盟党(PAD)は5月31日、新しい選挙法に基づく中央選挙管理委員会(KQZ)に民主党(PD)をはじめとする右派諸党が不参加を続けていることについて、「政治的緊張を高め、有権者の投票意欲を損なうものだ」と非難した。民主同盟党はレヂェプ・メイダニ Rexhep Meidani 大統領に対し、憲法の規定に従って中央選管の空席を他候補で埋める措置を取るよう、求めたという。
(ATSh 2000.05.31)
万博出展へ
1日からドイツのハノーファー Hannover 市で開催中の博覧会「Expo 2000」にアルバニアも参加・出展することになった。総責任者はエディ・ラマ Edi Rama 文化相で、「国際アルバニア・デー」にあたる9月3日を目処に、ブトリント Butrint の遺跡のレプリカなどから成るパヴィリオンを建設する予定。ドイツ政府からは80万マルクの支援が行われることになっており、既にアルバニア政府もパヴィリオンの借賃として17万マルクを支払ったという。
(ATSh 2000.05.31)
民主党改革派 動き出す
民主党(PD)のゲンツ・ポロ Genc Pollo ら党内改革派は2日、次期地方選挙に立候補予定の野党候補らを集めて「民主派の十年 Demokratet e Dekades 」集会を開いた。
民主党のゲズィム・ルリ Gëzim Luli 元代議士は「今の民主党は自由な雰囲気によって権威を得ているのではなく、指導部の言うことにしか耳を貸さないトーチカと化している」と述べた。
参加者はいずれも90年代初頭の民主化運動の理念の復活を求めている。民主化運動時に学生で、現在民主党の青年フォーラム(FRPD)の代表であるクレシュニク・チョラク Kreshnik Çollaku は「民主党が分裂し、党内派閥を生み出しては何も期待できなくなる」と述べた。かつて民主党員で現在は右翼民主党(PDD)党首を務めるペトリト・カラクラ Petrit Kalakula は「改革を成し遂げた民主党こそ、権力を獲得し小政党を糾合することが可能となる」と主張した。
なおサリ・ベリシャ Sali Berisha 党首にも招待状が送られたが、本人は出席しなかった。また、民主党結党時の中核となった現在の中道勢力に招待状は送られていない。
(ATSh 2000.06.02)
9か条
「民主派の十年 Demokratet e Dekades 」集会で決議された項目は次の通り;
-民主党の党員として党の民主化に努める。
-民主党政府(1992~1996)の業績を否定しないが、一方で1996年から1997年にかけての一連の事態に対する責任の重みを痛感する。
-国の重大な危機を事前に避けられず、解決できなかったことについて有権者に謝罪する。
-社会党との対決のために団結する。
-民主党は法治国家の基盤を改善するために、展望を持ち、寛容さを備えた現代的な政策の実現に努める。
-民主党から離れていったすべての政治勢力に、個々の立場を尊重しながら共通の綱領で団結しよう。
-右派の統一戦線を作り出そう。
-欧州連合(EU)、全欧安保機構(OSCE)や「アルバニアの友人たち」、欧州民主同盟(EDU)、欧州人民党(EPP)による民主党民主化への支援と助言に感謝する。【欧州民主同盟、欧州人民党はいずれも欧州議会の保守・右派会派】
-社会の平和、政治における相互理解、欧州民主主義の価値の尊重、健全な選択と競争
(Shekulli 2000.06.03)
民主同盟党 おかんむり
その中道勢力の一つ、民主同盟党(PAD)のネリタン・ツェカ Nerita Ceka 党首は2日、民主党(PD)改革派が開催した「民主派の十年 Demokratet e Dekades 」からの招待状をもらっていないと明らかにした。
同党首は「これで、彼らが改革と無縁であることが分かる。改革派がベリシャ党首の議席を奪おうとしているのなら、おぞましい話だ。本気で民主化運動をしようというのなら、ベリシャの選挙区とは別なところで地盤を見出すべきだ」と批判している。
ちなみにその「民主派の十年」には、1990年12月と1991年2月のハンガーストライキに加わった学生らを中心に、民主党結党時のメンバー300人が招待された。
(ATSh 2000.06.02)
そのころ大統領は
レヂェプ・メイダニ Rexhep Meidani 大統領は2日、政府高官、人民議会関係者、主要各党の代表者らを集め、次期地方選や中央選管委(KQZ)の運営、まもなく発効する改正選挙法などについて意見を聞いた。
この集まりには、全欧安保機構(OSCE)からティラナに派遣されているゲルト・アーレンス Gert Ahrens 大使や欧州連合(EU)の選挙担当らも出席した。
(ATSh 2000.06.02)
国を去るものたち
経済社会研究センター(Centre for Economic and Social Studies)の統計によれば、学卒者の77%はアルバニアを出たいと考えているという。毎日数百人の市民が出国ヴィザを求めて徒労に終わり、密出国業者に1000ドル程度の代金を支払ってドゥラス Durrës やヴロラ Vlorë からモーターボートでアドリア海を縦断しようとする。しかし結果はというと、イタリア当局によれば、1999年だけで20000人以上が拿捕され、また少なくとも173人が途上で命を落としているのである。
一方、トルコやイラクから西側へ逃れようとするクルド人にとってアルバニアは重要な中継地点となっている。1999年の時点でアルバニアへ(空路リナス Rinas 空港から、または陸路ギリシアとの国境を越えて)違法入国したクルド人は少なくとも1900人という。イタリア警察によれば、1999年時の違法出入国者49000人のうち、アルバニア人はわずか7000人であった。
(ATSh 2000.06.02)
「青の館」の主人 怒る
民主党(PD)のサリ・ベリシャ Sali Berisha 党首はトリタン・シェフ Tritan Shehu 元党首について、同氏がエドゥアルド・セラミ Eduard Selami 元党首に対して「墓穴を掘るような真似をした」と非難している。またゲンツ・ポロ Genc Pollo 前副党首についても同様の非難をしている。
ベリシャ党首は3日、シェフ&ポロ両氏がセラミ氏のことを操り人形であるかのように批判したことを指摘、「セラミのことをトリタン・シェフはあれこれ言っているが、ゲンツ・ポロが他の人々に同じことをしている点には触れないのだ。もっとも私は、こんな論争に関わるつもりはない」と述べた。
シェフ氏は民主党創設メンバーの1人だが、民主党政権時代のベリシャ指導体制に対立してポストを外された。セラミ氏はベリシャに近いと見られていたが、後に同様の「粛清」に遭っている。
【『青の館 selia blu 』は民主党本部のこと。同党のシンボルカラーが青なので】
(ATSh 2000.06.04)
「石の街」保存
アルバニア南部の都市ジロカスタル Gjirokastër に残る11世紀~18世紀の古い街並みや宗教施設を保持するため、文化省は現地の史跡保存課に700万レクを交付した。「今後三年間で、最新の技術によって史跡を整備し、史跡保存課の設備も向上させることができる」と同課のヨルゴ・ヅハノ Jorgo Xuhano 課長は喜んでいる。
(ATSh 2000.06.04)
民主党 選管ボイコット続行
中央選挙管理委員会(KQZ)で空席となっている野党代表のポストについて、民主党(PD)議員団のイェミン・ジャナ Jemin Gjana 代表は6日、人民議会のナミク・ドクレ Namik Dokle 副議長に対し「中央選管発足の経緯そのものに問題がある」として代表を送るつもりが依然ないことを伝えた。
(Shekulli 2000.06.07)
人気投票
ティラナの独立系日刊紙「シェクリ Shekulli 」(http://www.shekulli.com.al/)では主要政治家12人について「今年もっとも成功したのは誰?」と題するネット・アンケートを実施中。
6月7日現在、サリ・ベリシャ Sali Berisha 民主党党首とパンデリ・マイコ Pandeli Majko 前首相の両名が他を圧して競り合っており、このあとをイリル・メタ Ilir Meta 現首相、レヂェプ・メイダニ Rexhep Meidani 大統領、ファトス・ナノ Fatos Nano 社会党党首が追っている。
(Shekulli 2000.06.07)
1999人
6月9日のコソヴォ戦争「勝利1周年」を記念して、1999人のコソヴォ市民がプリズレン Prizren に集結。かつてコソヴォからの避難民が殺到したクカス Kukës まで行進を行う予定。
(ATSh 2000.06.07)
社会党 ドクレ書記長辞任
人民議会副議長を務める社会党のナミク・ドクレ Namik Dokle 書記長が7日、議会の役職に専念するとの理由で書記長を辞任した。与党社会党では先日、党と国の指導的役職を兼任することを禁じる決議が承認されており、この流れに沿った辞任と見られる。同様の例として、スパルタク・ポチ Spartak Poçi 内相が就任時にティラナの党委員会を退いたという件がある。
後任について、党指導部ではムサ・ウルチニ Musa Ulqini やエンヴェル・レチ Enver Reçi の名が上がっている。
一方独立系紙「シェクリ Shekulli」の報道によれば、ドクレ氏は「個人的にはパンデリ・マイコ Pandeli Majko が適任ではないかと思う」と述べているという。また、昨年秋の党大会でも候補に上がっていたアルベン・マライ Arben Malaj も有力候補になりつつある。
(ATSh 2000.06.07)
コソヴォの少数派
7日、コソヴォのプリズレン Prizren をコソヴォの政治要人らが訪問、少数民族であるロマ【いはゆる『ジプシー』】の現状を視察した。顔ぶれはハシム・サチ Hashim Thaçi、イブラヒム・ルゴヴァ Ibrahim Rugova、レヂェプ・チョャ Rexhep Qosja に加えて、独立系日刊紙「コハ・ディトレ Koha ditore」のヴェトン・スロイ Veton Surroi 編集長、エヴェルツ Daan Everts 全欧安保機構(OSCE)代表、マクナマラ Dennis McNamara 国連全権特使(UN Special Envoy)といったスゴいもの。一同はロマの居住区を訪ね、住民代表のハヂ・ズュルフィ・メルヂャ Haxhi Zylfi Merxha 氏と会見した。
視察後の会見でヴェトン・スロイ氏は、少数民族の置かれた状況は比較的良い、としながらも「少数民族の問題については、強い指導の下で雇用や住環境の整備を進める必要がある。またこうしたことはヴォランティアだけに任せきれるものではなく、憲政の枠組みの中で取り組まなければならない」と述べた。
(ATSh 2000.06.07)
「ねずみ講」張本人の要求却下
97年の「ねずみ講」騒乱を引き起こした張本人、「ジャリツァ Gjallica」社の社長だったシェムスィエ・カドリア Shemsie Kadria 容疑者に対する裁判で7日、彼女の弁護人であるシェフチェト・ムチ Shefqet Muçi 弁護士が拘置期間の3ヶ月が近付いていることを理由に、通常拘留を自宅拘置に切り替えるよう要求した。
これに対してビルビル・メテ Bilbil Mete ら検察側は、容疑者の逮捕用件は弁護側が拘置切り替えの根拠とする刑事訴訟法333条【何だか分かりません】に当てはまらないと反対。裁判所も、容疑者の拘置期間は6ヶ月であるとして弁護側の要求を却下した。
(ATSh 2000.06.07)
右派 中央選管参加へ動き
民主党ら右派の不参加状態が続いている中央選挙管理委員会(KQZ)に、右派政党の統一会派であるアルバニア右翼連合(BDSH)からクレメント・ズグリ Klement Zguri を参加させる動きが進んでいる。
これについて、連立与党に加わっている民主同盟党(PAD)は「ズグリ氏がどのような政治的な陣営に加わっているかは、問題ではない」として、同氏受け入れに理解を示した。
(ATSh 2000.06.09)
戦後1周年 クカスの集い
9日午後5時、クカス Kukës でコソヴォ紛争1周年を記念する集会が開催された。「われらの心のクカス」("Kukësi, zemra jonë")を合い言葉に、コソヴォとクカスの住民合わせて5000人余りが参加した。
主催者を代表してミトロヴィツァ Mitrovicë のラヒム・ビュテュチ Rahim Bytyçi 氏は「1999年の廃墟を一掃して、2000年はあらゆる面で開かれた、友好の時代を切り開こう」と述べた。1999年3月27日から6月12日までの間に、クカス、ハス Has 、トロポヤ Tropojë の3地区だけで418600人のコソヴォ・アルバニア人が避難生活を送っていた。
なおこの日はプリズレン Prizren で「プリズレン同盟 Lidhja Shqiptare e Prizrenit」122周年を記念する催しがあり、クカスからも数十名が出席した。
(ATSh 2000.06.09)
ベリシャ コソヴォへ
民主党のサリ・ベリシャ Sali Berisha 党首が11日にプリシュティナ Prishtinë を訪問すると予告したため、周囲に波紋が広がっている。アルバニア政府は「国連コソヴォ暫定行政機構(UNMIK)の権威を不安定化させる恐れがある」として懸念を表明した。
一方、その国連コソヴォ暫定行政機構も「ベリシャ氏は、コソヴォのいかなる政治勢力とも関係がない」とわざわざ言明し、国連の現地高官も「私人として来るのは構わないが、問題を起こさないようにしてもらいたい」と釘を刺すような声明を出している。
(ATSh 2000.06.10)
貧困いまだ消えず
最近の調査によれば、ティラナで生活状態が最低水準(収入が2万レク以下)にある貧困家庭は11300世帯にのぼるという。しかもこの内3000世帯は「法的条件を満たしていないため」生活補助も受けていない。
経済援助局 Zyra e Ndihmës Ekonomike によれば、こうした貧困家庭が集中しているのは、シュコザ地区 Lagja Shkozë、「アリ・デミ Ali Demi 」通り、飛行場周辺 Fusha e Aviacionit、セリタ Selitë、カマズ地区 Kodër Kamëz、「スィリ・コドラ Siri Kodra 」通り、「サディク・ペトレラ Sadik Petrela 」通り、「チェマル・スタファ Qemal Stafa 」通り、「ヨルダン・ミスャ Jordan Misja 」通り、「ニルファン・トニニ Nirfan Tonini 」通り、「アヴディ・ペタ Avdi Peta 」通り、「ジェルジ・レギスィ Gjergj Legisi 」通り。これらの地区に住む世帯の52%が他所からの流入組であり、法的に確認できないため保護を受けられないでいる。その多くは農村からで、もとの土地が既に他者の手に渡っているため帰れないという事情もある。
(ATSh 2000.06.10)
ベリシャ コソヴォ行は水曜日
民主党(PD)スポークスパースンのエディ・パロカ Edi Paloka 氏は10日、記者会見で「サリ・ベリシャ党首は14日にコソヴォを私人として訪問し、セルビアからの解放を祝う式典に参加後、フランスでフランス共和国連合(RPR)の党大会に出席し、シラク大統領と会見する」と述べた。
(Rilindja Demokratike 2000.06.12)
1年前の6月13日
ベルリンの日刊紙 die tageszeitung の記事より;
戦争は終わったのか?
もう爆弾は落ちてこない。NATOはユーゴスラヴィアに対する空爆を停止した。3日前からユーゴスラヴィア軍・警察の戦車、装甲車、輸送車輌数百台がセルビア方面へ移動している。
数百台?そう、数百台だ。
道端に負傷した外国人記者が立って、NATO戦闘機がこの79日間で破壊したものは何だったかと自問している。戦車に牽引されて、セルビア人たちがコソヴォを去っていく。今やこの人たちが難民だ。自宅に火をつけて、アルバニア人が入居できないようにした人もいる。他の建物もコソヴォ解放軍に破壊される。復讐は時間の問題だ。
退去するセルビア人たちの後方数キロでは、KFORの兵士たちがコソヴォ進駐を開始している。停戦監視軍が入った村では、アルバニア人が歓喜して「NATO!NATO!」とくり返しながら、ドイツ連邦軍に花束を投げる。
プリズレンでは、連邦軍のことを少しもこころよく思わない2人のセルビア人が銃を発砲した。ドイツ兵が撃ち返し、1人は死亡、もう1人は重傷を負った。
(taz 2000.06.15)
1年前の6月14日
ベルリンの日刊紙 die tageszeitung の記事より【原文の地名はセルビア語】;
KFORに参加しているイギリス軍はプリシュティナ空港を掌握するつもりだったが、ボスニアのSFORからやってきたロシア軍200名の方が早かった。空港へ向かう途上にはバリケードが築かれ、イギリス軍戦車は立ち往生するしかなかった。アメリカ合衆国のタルボット Strobe Talbott 国務次官がそのことを知ったのは、モスクワからブリュッセルで向かう飛行機の中でだった。即座に操縦士に引き返すよう命じ、モスクワに事態の説明を求めた。ロシアはコソヴォにおける独自の担当管区を要求し、しかもNATOの指揮下に入るつもりは毛頭なかった。
コソヴォは混沌と生存の危機の只中にあった。セルビア警察15000人は既に退去し、そのあとにコソヴォ解放軍がやって来たが、そのやり方はそっくりだった。コイロヴィツァ Kojlovica では解放軍兵士がセルビア人難民の列を止め、3人兄弟を引きずり出し、並べて射殺した。
「シュテルン Stern 」誌の記者、フォルカー・クレーマー Volker Krämer とガブリエル・グリューナー Gabriel Grüner はKFORに同行してドゥリェ Dulje に入った時、ゲリラの十字砲火を浴びた。クレーマー記者は頭を撃たれ即死、グリューナー記者も腹を撃たれて間もなく死亡した。
(taz 2000.06.14)
1年前の6月15日
ベルリンの日刊紙 die tageszeitung の記事より【原文の地名はセルビア語】;
コソヴォは混乱に陥っていた。西側指導者らが恐れながらも、口に出しては言わなかったことが起こっていた。セルビア人勢力撤退からKFOR進駐までの数時間、憎悪は頂点に達した。KFORには、多くの村に燃え上がった暴力の嵐を止めることができなかったのである。
停戦監視軍は次から次にセルビア人勢力による残虐行為の証拠を見つけ出した。ヴェリカ・クルシャ Velika Kruša では、ほとんど腐敗したか焼け焦げた死体が20も見つかった。ぺチ Peć では、2箇所の集団埋葬地のそれぞれに120人の死体が発見された。
グニィラネ Gnjilane では1人のセルビア人住民が、KFOR進駐を歓迎するアルバニア人住民の集団に手榴弾を投げ込み、子ども2人を含む13人が重傷を負った。惨劇に対するアルバニア人の悲憤は、コソヴォ解放軍による報復となってあらわれた。解放軍兵士はセルビア人の家に放火し、住民を追い出し、男性は撲殺した。この日コソヴォから逃れたセルビア人住民は33000人。一方アルバニアやマケドニアから戻ってきたアルバニア人住民が混乱に拍車をかけた。この日だけで20000人。そして50000人が、山中の隠れ場所をあとにした。
(taz 2000.06.15)
140
国連戦犯法廷によれば、今年に入ってから大小140箇所の集団埋葬地が発見された。探索は今夏も続けられ、更に新しい埋葬地が発見される見通し。
(taz 2000.06.15)
「正確な数字はわからない」
ベルリンの日刊紙 die tageszeitung によるNATOのシェイ Jamie Shea 広報官へのインタヴュー;
―78日間に及ぶユーゴスラヴィア空爆で、あなたは「航空戦 air campaign 」の概念を確立されたようですが、空中戦が想定しているのは敵機ではないのですか?
我々が行ったのは、空爆だけではありません。偵察機も飛ばして、我が軍のパイロットを敵の領空から守りましたし、セルビア軍のMIG戦闘機を15機も撃墜しています。この概念は正しかったと言えます。
―それは空爆とは関係ない話ですよ。
もちろん、我々が一般市民に対する戦争をしているわけではない事をはっきりさせるために申し上げたのです。我々の目的をはっきりさせるためです。
―あなたはいつも、空爆が市民に向けたものではないとおっしゃってきましたが、TV局にせよ、自動車工場や製油工場にせよ、軍事目標だけを攻撃してきたとは、とても言えないのではありませんか?
それはどれも軍事的であるか、あるいはコソヴォでの弾圧と密接な関連を持つものです。セルビアのTV局は他の民族を人間以下だと宣伝し、憎悪の雰囲気を作り出し、コソヴォでの弾圧を可能にしたのです。石油は戦車に利用されるのであって、そのつながりは明らかです。製油施設の破壊で市民に被害が出たのは事実ですが、対価と実利は常にはかりにかけていかなければなりません。
―メディアでもずっと、コソヴォの住民に対する大量虐殺が喧伝されてきました。あなた自身、コソヴォの状況をカンボジアの「キリング・フィールド」になぞらえておられますが。
私は大量虐殺について語ったことはありませんし、それと比べたこともありません。それは危険で許されないことです。人間のすることを私が制御することはできません。「キリング・フィールド」について直接に言及したこともないですよ。
―大量虐殺というメディア宣伝はまったくのウソでしたね。全欧安保機構の報告でも、コソヴォで1998年12月から1999年3月末までのセルビア側による犠牲者は88人、コソヴォ解放軍による犠牲者は85人だったというではありませんか。
私はもっとたくさんの犠牲者があったと聞いていますよ。もっとも、私も正確な数字を確定できるわけではありません。正確な数字は誰にもわからないでしょう。確かなのは、コソヴォで大規模な人権侵害が行われ、住民がその属する民族によって差別されていた、ということです。今日それは完全でないにせよ、前よりは良くなっています。
―でも、NATOの記者会見をよく読めば、NATOが戦争に勝ったと確信できるんでしょうかね。NATOが破壊したセルビア軍の戦車は14台ですし、今のコソヴォではセルビア人に対する差別と迫害が続いています。
セルビア軍の戦車が何台破壊されたかは誰にも分からないことです。我々にも分からないし、14台だと報じた「ニューズウィーク」誌にも分からないことです。現在のコソヴォがスイスのようにならないからと言って、作戦が失敗だったわけではありません。住民にとっては1年前よりましな状況です。それは、コソヴォの多文化共存型への道筋が見えているからです。我々の基本的判断は正しかったのです。
―正しかったというのは、ミロシェヴィチ Milošević は大使館というものをわかってないからNATO本部からの中継も見てないんだろう、というあなたのジョークもですか?
あの頃、私は一日16時間も働いて、400人の記者に情報を提供していました。あれは息抜きで、記者たちをくつろがせようと思ったんですよ。完璧な人間なんて、いないんです。
(taz 2000.06.15)
クカスの6月15日
クカス Kukës では15日、一年前の空爆集結を祝う催しが行われた。催しにあたってメイダニ大統領は「今や未来はアルバニア人の手にある。私達はコソヴォの民族浄化で犠牲となった人々を思い起こす。この人達こそが、アルバニア人の不屈の精神をヨーロッパや世界に知らしめた」とのメッセージを送った。
クカス市のサフェト・スライ Safet Sulaj 市長は「平和こそが、この困難な状況を打開する最良の路である。クカスこそが、平和は勝利するのだということを示している」と挨拶した。この他にもクカス地区代表や国連難民高等弁務局(UNHCR)の現地担当官らが挨拶に立った。
式典に併せて、同市の「H・プリシュティナ H. Prishtina 」文化会館では写真展も開かれた。
(ATSh 2000.06.15)
600000人
全欧安保機構のエヴェルツ Daan Everts 現地担当官によれば、15日までにコソヴォで選挙のための有権者登録を済ませた人は600000人に達した。現在コソヴォで選挙権を得られる16歳以上の人口は1200000人と言われている。
(ATSh 2000.06.15)
新しい記念日
アルバニアの人民議会は15日、6月12日を「コソヴォ平和勝利の日 Dita e Triumfit të Paqës në Kosovë 」とすることに決定した。
1週間にわたる討議の中で問題になったのは、記念日をNATO軍がコソヴォに進駐した12日にするか、避難民のコソヴォ帰還が始まった15日にするかという点であったが、コソヴォ暫定行政評議会(KTK)代表者の意見も取り入れた結果、12日案で落ち着いた。
(ATSh 2000.06.15)
ベリシャ コソヴォへ行けず
15日のアルバニア各紙報道によれば、14日にコソヴォへ行くことを明らかにしていた民主党のサリ・ベリシャ Sali Berisha 党首がコソヴォ入りを拒否された。
(Shekulli 2000.06.16)
社会党ティラナ市委員会
21日に行われた社会党ティラナ市委員会の第7回会議で、ムサ・ウルチニ Musa Ulqini 元情報相がクリスタチ・ティレ Kristaq Tile に218対174の差をつけて党市委員長に選ばれた。
ウルチニ氏は1997年からティラナの社会党を指導し、特に地方選挙の担当。
(ATSh 2000.06.22)
右翼同盟 選管参加を確認
アルバニア右翼同盟(DBSH)のダシャミル・シェヒ Dashamir Shehi 氏は22日の記者会見で、中央選挙管理委員会(KQZ)にクレメント・ズグリ Klement Zguri 氏を代表として参加させる意向について「他の候補者は考えていない」と述べた。同組織は政治目標として「政治的二極化を進め、アルバニア政界の新たなオルタナティヴを強化する」ことを掲げている。
(ATSh 2000.06.22)
文化相 スポーツ改革を主張
エディ・ラマ Edi Rama 文化・青年・スポーツ相は22日、議会でルフティム・アフメティ Luftim Ahmeti 議員の質問に答え、ここ数年の改革をスポーツ、とりわけサッカーの分野にも拡大し、選手団体を株式会社化することも段階的に進める必要があると述べた。
(ATSh 2000.06.22)
ラジオ人気
アルバニアのラジオ聴取者は増加の傾向にあるが、IFDC/AAATAの調査によると、最もリスナーに人気がある放送局はヒット曲中心の民間局「トップ・アルバニア Top Albania Radio 」で全体の41%。2位が老舗の国営放送「ラジオ・ティラナ Radio Tirana 」21%。3位が90年代初期に誕生した最初の民間局「コハ Radio Koha 」で11%。
(ATSh 2000.06.22)
(ATSh 2000.06.22)
(ATSh 2000.06.22)
(ATSh 2000.06.22)
もどる