大阪>ヴィーン>ティラナ>アルバニア各都市(ドゥラス1 ドゥラス2 ドゥラス3 クルヤ ヴロラ)>セサロニキ他>コルチャ>ティラナ>ヴィーン>大阪
これは私の視点による記録です。日本側の人物については、姓または名の頭文字のみ示します。正確を期したものの、記憶違いや誤解があるかも知れません。その場合、全ての文責、は私個人にあります。アルバニアに詳しくない方にも読んでいただける様に配慮しましたが、御不明な点があれば、どうぞお問い合わせ下さい。
前日夜に高速バスで広島を出発、休日でごったがえす早朝の関西国際空港に到着。3階の国際線ロビーで、今回の旅行を企画するという大仕事(本当に大仕事だったことが徐々に明らかになる)をやってのけた日本アルバニア協会事務局のK氏、氏と共に金沢在住のオーストラリア人学生S嬢、少し遅れて東京のT君、福岡のA嬢と合流。私にとって3度目(もはや年中行事)で、春の事件以降初めてのアルバニア行は、ひとまず計5人で開始された。
オーストリア航空機で、別にどうということもなく機内食と間食と映画をこなしてヴィーン・シュヴェヒャートSchwechat空港へ。バス、鉄道、タクシーで郊外のホテル「ボザイ」(Hotel Bosei, Gutheil-Schodergasse)に宿泊。S嬢とT君はオペラ「ロメオとユリア」へ。夕食はヴィーナーヴァルトWienerwald(ドイツ語圏に旅慣れた方なら御存知、鶏料理の有名チェーン店)。
ヴィーン行きの機内と夕食の席で、今回の計画を一通り聞く。第3週には、東京のテレビ番組製作会社の撮影で、アルバニア南東部の都市コルチャKorcaにある身障者施設Institucioni per femijet antikap、通称「燕たちdallendyshetの家」を訪れるとのこと。ここで働いていたという日本人が番組内の主役として同行するのだが、彼女の過去の行程を再現するため、陸路ギリシアのセサロニキThessalonikiまで足を運ぶらしい。つまり、アルバニアの中部から南東部を縦断するのだ。そりゃすごい、というのが第一印象。だがそりゃ無理だ、というのが第二印象だったが、K氏は本気。ティラナのDHLに勤めるニコ・フラシャリNiko Frasheri氏に車等の手配を依頼するとのこと。彼には私も会ったことがある。長期の日本滞在歴があり、日本語も完璧に喋れる好人物だ…が、本当にうまくいくのか?
半信半疑のままヴィーン2日目。まずは、S嬢の在日ヴィザ延長の件や事前の情報交換を兼ねて日本領事館へ。案の定、くれぐれも気をつけて下さいと念を押されるものの、特に新しい情報はなし。K氏はここでも日本アルバニア協会の広報活動に尽力。午前中に用件を済ませると、あとは専らS嬢の希望で聖シュテファン寺院St.Stephan、市庁舎Rathaus、「麗しの泉」またはションブルンSchoenbrunnと、お馴染みの名所を見て廻る。市庁舎内では子供の絵画の展示会。ここでお茶とケーキの休憩。
夜はS嬢らがホテルの従業員に教えてもらったというヴィーンの美味処へ(Franz-Josefs-Kai?)。
朝から吹雪。やはりヨーロッパの秋冬はこうでなくては。
ギリシア行きを想定して、シュヴェヒャート空港の売店で現代ギリシア語の会話書を買っておく。午前中にオーストリア航空機(ただし小型機)でティラナのリナスRinas空港へ。所用時間は1時間半強、到着は正午過ぎ。ティラナはあたたかいが、雨模様。
雲の下にはアドリア海、そびえる山々と、斜面の段々畑、ところどころ広がる赤茶色の地肌、畑地の中に点々と並ぶ質素な住宅地。1年半ぶりに見るバルカン半島の景色は一つも変わらない。リナスの滑走路の左右には羊の群れ、そして相変わらず、草の間からにょきにょき生えた巨大キノコの様なトーチカ。ぶっ壊れたものもあるが、これだけはなかなか消えてくれない。
アルバニアに近付くと、機内で「出入国カード」が配られるので、少なくとも短期滞在の日本人ならば、これに必要事項を記入してパスポートと一緒に税関へ提出し、10ドル支払えば、問題なく国境を通過できる。
入国手続きを済ませた外国人が空港の出口に姿を現すと「タクシーいかが」と大勢群がって来るのはお馴染みの風景である。が、今回私の前には懐かしい顔が待っていた。ティラナで書店を経営するエストレフ・ベガEstref Bega氏である。日本にいる私にいつも良い本を紹介してくれる、知的で親切な人物だ。そしてその友人で、前回も移動で世話になった運転手のヂェマルXhemalが、車を用意しておいてくれた。
アルバニア・日本協会の代表として今春訪日した科学アカデミーの地震学者ベティム・ムチョBetim Muco氏も、空港入口で我々を出迎える。一同はエストレフとムチョ氏の車に分乗し、ティラナ市内へ入った。
私を除く4人はホテル「ステラ」(Hotel-Restorant Stela, Rruga e Dibres)へ。中心部に近い3つ星ホテルである。開業して4年になるレストランが1階、1年前に2階の部屋を増築し、宿泊業も始めたという。
一方私はエストレフの自宅へ。彼はもともと国営出版公社に勤めていたが、現在は自分の書斎を事務所にして、海外の顧客へアルバニアの書籍や定期刊行物を通信販売している。息子エディことエドヴィンEdvin、秘書役のミレナ・ゾトMirela Zotoと再会。
昼食、午後の昼寝の後、夜7時ムチョ氏らと食事に。参加者はアルバニア・日本協会からベティム・ムチョと経済学者マルタMarta・ムチョの夫婦、イリル・ジラIlir Zhila、ニコ・フラシャリとその恋人アイダ・ダウティAida Dauti、その他。ジェルジ・テネチェヂウGjergj Teneqexhiuとその恋人エロナ・タバクElona Tabaku。ジェルジは、私が4年前に日本で知り合った最初のアルバニア人で、大蔵省の予算課に勤めている。レストランで肉を食い、「黒い広場Sheshi i Zi」や「リースリングRiesling(何故かドイツ語。時々ラベルがReislingと誤植されている)」などの国産ワインとラキraki(蒸留酒)を飲む。
9時頃、私は途中までムチョ夫妻と帰り、エストレフ宅の一番大きなベッドを借りてラジオを聴きながらぐっすりと眠った。
今日もまだ雨は時々降っている。
エストレフは、自宅なのに朝から背広とネクタイで書斎の机に向かっている。よく働くものだと感心すると「ねずみ講で損しちゃったからね」。なるほど、しかし、この堅実な人物まであれにひっかかってしまったのか。
まずコーヒーで目を覚まし、朝食は1年半ぶりのアルバニアのパン。日本でこれは絶対に食べることができない。歯応えのありそうな1斤のかたまりをナイフで切り分ける。蜂蜜、ギリシア製のマーガリン、そしてアルバニア風の固くて塩味が濃くて風味の強い白チーズ。アルバニアに来る度、どんな高級料理よりも私はこの簡素な朝食が気に入っている。食後には、カモミールkamomil草を花ごと入れたアルバニアのお茶。
朝食後、エディと一緒に仕事先回り。彼はドイツ留学を企てているが、書類集めは楽ではないらしい。兵役が済んでいないことも影響しているのだろう。
郵便局の傍でドルをレクに両替。1ドルが約140レクだから、1レクはおよそ1円弱。ここ数年の相場から極端にかけ離れてはいない。パン1斤が50レク前後、新聞1部が20ないし30レクである(ちなみに10年前の1レクは約20円に相当し、新聞は0.3レクだった)。
午後「ステラ」へ行き、K氏、S嬢、T君、A嬢の4人と合流。K氏は早くも今後の旅程に頭を抱えていた。夕方、一同はムチョ氏と共に、ホテル・ティラナ近くのビジネスセンターで開かれたばかりの展覧会を訪ねる。途中、スカンデルベウ広場に面した文化宮殿の前でサリ・ベリシャが演説をぶっていた。確か、ハンストの最中だったはず。雨のせいもあろうが、集まっているのはせいぜい100人程度。ほんの5年前なら、広場に人が溢れる程だったのだが。
Radio Tirana Faxと題する展覧会場内には、送信されたファックス用紙の拡大コピーが数多く貼られていた。で、よくよく文面を覗いてみると、送り主はどれもアルバニアやイタリアの名だたる作家、画家、知識人ばかり。先にカタログを買って確認。詩やら絵画やらが、ファックス送信後の独特の点と線に置き換えられており、言われてみればこれもこれで白黒の芸術だろう。奥の方で誰かが記者に囲まれて喋っているな、と思っていたら、間もなくレヂェプ・メイダニRexhep Mejdaniが目の前を通り過ぎた。同時刻に雨の下で喋っていた前任者とは対照的に、痩躯で学者然とした風貌の男。
招待客の中にどこかで見た顔があると思ったら、詩人ヂェヴァヒル・スパヒウXhevahir Spahiuとテオドル・ケコTeodor Kekoだったので、ムチョ氏に紹介してもらう。スパヒウ氏には前回ティラナ市内で偶然会い、連れのエストレフに紹介してもらったのだが、本人はよく覚えていなかった。(もっとも私の方も、エストレフに教えられるまでは、中国雑貨の袋を手に提げた只のおじさんかと思っていた)
展示会の後、K氏らはそのまま「ステラ」へ、私はムチョ氏と共にエストレフ宅まで帰ることにした。オーストリア製のごみ収集車が、通りのゴミ箱から中身を回収している。一見散らかり放題のティラナ市だが、外国からの援助で、以前より少しは体系的にゴミ回収も行われている。歩きながらスパヒウ氏や他の作家の話をしている内に、アルバニア作家・芸術家同盟の週刊新聞「ドリタDrita(光)」(1961年創刊)の話になった。かつて労働党体制下で文学活動を一元的に管理し保護し評価してきた作家同盟だが、もちろん今日そうした統制は機能していない。様々な出版社や文学者集団が次々と独自に才能を開拓し続ける現状では、「ドリタ」も、優れた文学を発掘できる唯一最上の刊行物ではもはやない。スパヒウ氏が編集に携わっていた月刊の機関誌「11月」に至っては、もう発行されていない。アゴリやカダレといった国民的大作家の権威は相変わらずだが、それはそれとして、アルバニアの本屋は今でも本で溢れている。
今日も雨。エディが連れて来たロレンツLorencの運転で、港湾都市ドゥラスDurresへ。市中心部から西へ伸びるドゥラス通り(そのまま!)をひたすら走り続けると、約1時間で目的地に到着。殉死者の碑の近くで待っていると、何やら見覚えのある人物が近寄ってきた。ムチョ氏と共に来日したメト・デルヴィシMet Dervishi氏である。政権交代で仕事が変わりドゥラスに移ったという氏の案内で、まずは妻フロラFloraが勤める図書館を訪問。続いて、考古学博物館でイリリアの発掘物を見学。それから海の見えるレストランで魚料理の昼食。ここで、K氏がアルバニア産松茸を日本に輸入できないものかという旨発言したところ、 デルヴィシ夫婦が目を輝かせる。以後、我々はこの話題でこの夫婦にじりじりと追い詰められていくのだが、この時はまだそれを知る由もなかった。
この後、車に分乗してK氏とT君はデルヴィシ家へ。S嬢、A嬢、エディに私はロレンツの車でエディの従姉妹宅へ。コニャックとチョコレートとトルココーヒーをたらふく御馳走になり、小雨の降る海辺へ寄り道しながら、明るい内にティラナへ戻った。
ティラナでK氏らと合流。T君はデルヴィシ氏の娘3人に囲まれて楽しかったらしい。医師のアルベン・ケルチクArben Kerciku氏が「ステラ」を訪れ、週末に夕食の約束をする。彼の弟はA嬢の住む福岡で留学生活を送っており、彼自身も春に訪日している。夜、ギリシア、コルチャ行の件でホテル「エウロパパークEuropapark」(オーストリア資本。95年開業)内のSkanderbeg Travel社に行くが、大きな進展はなし。帰りにルイジ・グラクチ通りと「バリケード」通りの交差点にあるカフェ・エウロパKafe Europaで休憩。
朝、中央郵便局で手紙を出してから「ステラ」へ行くと、K氏がムチョ氏ら3人のアルバニア人と早くもマツタケ談議にふけっていた。ムチョ氏の隣には生物学者、その隣にもう1人、学者風の老紳士がいたが、この時は何者かよく分からなかった。この後ムチョ氏は学会参加のためソフィアへ発った。
市内を東西に横切るラナLana川に沿って外務省まで行き、イリル・メロIlir Melo氏に会う。彼も春の訪日組の一人だが、半年の間にほとんど全員の職場が変わってしまい、再会するのも一仕事である。「ステラ」へ戻る途中、現在は国際文化センターとして使われている、かつてのエンヴェル・ホヂャ記念館の前を通る。通称「ピラミッド」とはよく言ったもので、本当にそういう形をしている。ところで、私の知る限り、アルバニアで「ピラミッド」という言葉には様々な隠喩が潜んでいる。アルバニアの政権体質はホヂャからアリアからベリシャのそれに至るまで、しばしば「ピラミッド」と揶揄されてきた(イスマイル・カダレが労働党体制下では出版できなかった作品に、そのものずばり「ピラミッド」という小説がある)し、「ねずみ講」もアルバニア語ではpiramidaと言った方がよく通じる。少なくとも、良い語感はない。
露店で学校の教科書が売られていたので、小学校の歴史と数学、それに高校の古典文学の教科書を買う。歴史教科書の記述は、80年代に刊行されたものからかなり変わっていた。古代・中世の項目に極端な書き替えはないが、解放戦争の項目には非共産党勢力の説明が増え、解放記念日まで変わっている(このことが引き起こした問題については、このホームページ内の「最近の情報」の項目を御参照下さい)。1944年以降の章では労働党による反対派排除の過程や、親ソ、親中から「自主孤立」路線への変遷、経済政策の問題点が正確に記述され、1990年以降については「民主革命の勝利」として書き加えられている。更に、ギリシア、イタリア、コソヴォのアルバニア人に関する記述が大幅に増えている。昔は、国内政治路線との整合性を保つために、書けないことも多かったのだろう。マザー・テレサの読み物も加えられている。刊行時が民主党政権下の95年なので、最後はサリ・ベリシャの顔写真と解説で終わっている。とすると、数年後に改訂される時はレヂェプ・メイダニが加わるのだろうか(もしかすると、ファトス・ナノかも知れない)。 教科書で思い出したが、「無名戦士の像」でK氏らが焼きソーセージを買った時のことだ。露店の主人が何やら緑表紙の上製本から1枚引きちぎって包み紙にしてくれたので、よく見ると「エンヴェル・ホヂャ全集」第2巻だった。
「ステラ」へ戻ると、デルヴィシ宅へ夕食に招かれることになっていた。ドゥラス行きのマイクロバスには、何故か午前中に会った謎の老紳士が同乗。ジョン・デディGjon Dediと名乗るこの人、現役時代は経済専門家で、実はフロラ・デルヴィシの兄弟だった。 ドゥラスの市庁舎付近でデルヴィシ氏を待つ間、モスクの裏手にある円形劇場の遺跡を見に行く。S嬢が遺跡を撮っていると、遺跡の上にある家から子供達が物珍しそうに集まってきた。A嬢が一緒に写真を撮ったり住所を尋ねたりしている間、彼らは私が小脇に抱えていた教科書をじーっと見つめ、なんでそんなもの持ってるのか、先生でもするのかと私に言った。
道路沿いの壁に「武器ではなく花をください」と書かれたドゥラス市当局のポスターを貼っている人達がいたので、少し頒けてもらう。 迎えに来たデルヴィシ氏と共に夕方の海辺を散歩。前日は雨だったが、今日は朝から天気も上々。スケートボードで遊んでいた子供達が集まってきて、また私の教科書に注目。一番年下の子が本当に欲しそうな顔をしていたので、えいと思い切って数学の教科書を差し出す。年上の子は歴史の教科書を御所望らしいが、これは私も探し求めていた品、そう簡単に譲るわけにはいかない。そう言えば、ティラナの露店にまだあったかも知れないな、と考え、君には明日同じものを買って送ってあげますと約束して住所を書き留めた。(翌日、私はこの約束を実行した)
海辺のカフェで休憩。メトは、私にアルバニア文学の翻訳を強く勧める。私も、試みたことがあるにはあるのだ。その中の一つが、1990年政治的変化への歩みをイスマイル・カダレ流に描いた記録(「アルバニアの雪どけ」と題してこのホームページの中に載せています)なのだが、ありゃ小説じゃないとメトは納得しない。この作品、一部では「体制内作家」カダレの政治的アリバイ作り、自己弁護だという批判もあるのだ。ついでに、ドリテロ・アゴリが見かけに反して大食漢で大酒飲みだという話を聞く。労働党体制のごく初期、ソ連との関係が良好だった頃(スターリン批判より前)ロシア作家の生活様式に感化されて、アルバニアの文学者達が大食らいになったという。が、どこまで本当かは分からない。
魚屋に寄ってからデルヴィシ宅へ。ドリアダDoriada、ダオルサDaorsa、ネルティラNertillaの娘3人に、ジョン、フロラの父イブラヒムIbrahim、その他大勢で夕食。夕食を挟んでダオルサの日本留学の可能性や、90年代以降のアルバニアの変化について会話。筋金入りの民主党支持者でもあるメト・デルヴィシは、1991年以降の時代を「民主体制Demokracia」と総称する一方、社会党機関紙「ゼリ・イ・ポプリト(人民の声Zeri i Popullit)」を「共産主義」と決めつけてはばからなかった。もっとも、この国の政治関係者には、政敵を非難する際に誰彼構わず「共産主義者」呼ばわりする癖がここ数年来ある様だが。
この日、我々も含めティラナから来た全員は、デルヴィシ家にて一泊。私の寝た場所は娘達の部屋で、壁に「セーラームーン」やらレオナルド・デュカプリオやらべたべた貼ってあった。
11月はアルバニアにとっていろいろある月らしい。1912年11月28日にアルバニアは独立を宣言した。半世紀前を振り返れば、11月17日はティラナ市、29日はアルバニア全土の解放記念日。おまけにかつて11月7日は十月革命記念日で、8日は労働党創建記念日だった。ついでに、未読だが、「11月の首都」(カダレ)という小説もある。
ドゥラスの朝。一番早く起床したK氏と、近くのカフェへ。デルヴィシ家でアルバニアのパンとチーズと牛乳で朝食の後、メトに昨日の円形劇場を内部まで案内される。ローマ時代に建設された基層の上に、ヴィザンツ期の建築が重なる興味深い構造。競技場の幅120メートル、高さ20メートル、15000人が収容できたという。かつてのイリリアの技術力・財政力を示す重要な遺跡だが、30年前から発掘が開始されたものの、現在は事実上進んでいない。遺跡整備のためには日本の金銭的・学術的援助も必要だ、と強調される。
路地裏に展開中のイタリア軍兵士が通り過ぎるのを見ていたら、K氏らが1人の男性と挨拶を交わしている。民主党ドゥラス支部の人物らしい。週明けに支部へ話を聞きにいらっしゃいとメトに勧められている。ということは、私にも来いということなのだろう。
土曜の海辺のカフェでくつろいでから、駅前発のマイクロバスで昼過ぎにティラナへ戻る。夜、アルベンと夕食。アルバニアでも有数の秀才だという彼は、うまくいけば来年辺りに日本で勉強できるかも知れないらしい。食事後、私は彼の自転車に二人乗りさせてもらい、エストレフ宅へ。帰宅してみると、エストレフは私と入れ違いにドゥラスの親戚宅に泊まりに行っており、エディしかいない。テレビのチャンネルをドイツの放送局に合わせてもらうと、ケルンのRTLが映った。「Wie Bitte?!」と「SamstagNacht」を視てから寝る。
エディはめかし込んで友人の結婚式に出かける(が、いい年齢をしてネクタイの締め方を知らなかった)。会場は「国民の殉死者」大通りに面したホテル「アルベリアArberia」。午後4時までに間に合えば、私も出席できるだろう。
今日はS嬢の知人でヴィオレッタという女性の案内であちこち行くらしい。それにしても、アルバニア人でヴィオレッタなんて思い切りイタリア風の名前があるんだろうか?と思って本人に会ったら、ヴョルツァ・ジナVjollca Gjinaだった。
てっきりティラナの北方30キロにあるクルヤへ行くものと私は思っていたが、今日はティラナ大学の南側に広がる人造湖の辺りへ出かけるという。我々はカフェ・エウロパの前でヴョルツァの呼んだ車を待っていた。その時、店内から「もし、日本のお方」(Japonez!と一言だけなので、状況によっては「おい、日本人め」という語感にもなる)と呼ばれたらしいので振り返ると、ヂェヴァヒル・スパヒウ氏だった。少しの間だけ、店内で言語学研究所のアリ・ヅリモAli Dhrimo氏と文部省の職員1人に紹介される。後者はこれから東京へ出張するそうだったので、あちらは寒いから風邪ひきません様にと大したことない助言をした。
車でティラナ大学の脇を抜けて人造湖のほとりのレストランへ。食通のK氏らに比べ私はどうも料理に疎いから、こういう所での注文はいつもステーキbiftekかキョフテqofte(楕円や棒状に丸めた挽肉を焼いたもの)になる(できれば羊のだが)。
食事の後、市内のカフェで、親中国だった60年代アルバニアの話題が盛り上がる。50年代の親ソ路線が破綻した時、多くのロシア人・アルバニア人夫婦が離婚を強いられた経緯があったが、これに懲りたのか、次の60年代には中国人技術者とアルバニア人の接触そのものが極端に制限されていたという。元々、アルバニアと中国との個人間交流はそれ程盛んではないのである。とは言え、基本的に我々が町で呼びかけられる際は「もし、中国のお方(これもKinez!なので「おい中国人」という場合もあるだろう)」だ。
いつもより早目にエストレフ宅に戻り、初めて3人で夕食。焼いたソーセージに、たっぷりのオリーヴ油でこしらえた目玉焼き、野菜と、もちろんアルバニアのパンにチーズ。南東ヨーロッパの夕食は日本の場合より遅いのが普通だが、ここの家庭は特に極端で、平気で夜10時過ぎに何か食べている。
テウタTV(民間放送局の一つ。国営局はTVSH)で、労働党時代に作られた映画を見る。戦時中ドイツ軍に協力した人物の忌まわしい過去をめぐって、若い主人公(?)や年配の登場人物達の間で緊迫したやりとりが展開される。特にプロパガンダ的な作品ではなく(そんな作品なら放送されないだろう)内容の質も高い映画の様だったが、ゴミ一つ落ちていない整然とした街角や、随所に「おはよう、同志(と拳を頭の高さに挙げて)」とか「党に乾杯」といった台詞が出て来るのは、今見るとやはり妙だ。
そう言えば結局、アルバニア人の結婚式へは行けずじまいに終わった。
大事な用だから10時までにドゥラスへ来てくれ、というデルヴィシ氏との約束があるので、K氏と共に、ティラナ駅の近くからドゥラス行きマイクロバスに乗る。実を言うと最初は普通のタクシー乗場へ行ったのだが、値段を尋ねたところ、運賃の相場も何も知らない外国人だと思ったのか、スカンデルベウ(最高額紙幣の1000レク)3枚を見せて「これだけ」などと言うので即座にお断りした。他3名はすっかり御疲れの様なので、昼頃には戻るからと言い残して「ステラ」に放ったらかしておく。
しかし、何だかんだと言っては30分やら1時間やら予定がずれるアルバニア的時間感覚にすっかり順応していた我々2人がドゥラス市内の待ち合わせ場所に着いたのは、ほとんど11時。さすがにデルヴィシ氏も待ちくたびれた様子で、若干急がせ気味に我々を民主党のドゥラス支部まで案内した。
退役軍人会などの事務所が同居する建物内に通されてしばらくすると、支部の代表で、人民議会の民主党議員団の副団長も務めているというフェルディナンド・ヂャフェリFerdinand Xhaferri氏(実は土曜日にすれ違った男性と同一人物だが、私はしばらく後まで気付かなかった)が現れた。党専従となったのはここ5年程らしく、以前は鉄道公社の代表職に収まっていたという。執務室に通されると、書棚にはサリ・ベリシャ党首の写真が立ててある(一方この頃、社会党のファトス・ナノ党首はアルバニア首相として「クレタサミット」に出席中)。ソファに腰掛けると、まだ午前中の勤務時間だというのにラキとトルココーヒーが出される。
氏は、野党となった民主党の建て直し状況、民主党を中心とする中道右派勢力の結集(私の知る限り、これは昨年の総選挙直前に結成された「民主主義のための同盟」も指すのだろうが、王党派の連中まで一緒にしたままで良いのだろうか?とふと思った)、 日本の政党、特に与党自民党との交流(と言うより、他党については全然知らないのではないか)を強く求めていることなど、熱心に語った。日本・アルバニア協会として特定の政党に肩入れするわけにはいかないが、例えば協会内の個人と情報のやりとりをされる分には問題ありませんとの旨を伝える。ただそう言った直後、日本で「アルバニア民主党」と言われてすぐピンと来る人がそもそも少ないのだから、やはり一般向けに広い分野の情報で持続的に関心を呼び起こす作業の方が先だな、と少し考え込んでしまった。
もう少し突っ込んだ話題もあった。6月の出直し総選挙で、なぜ民主党は予想以上の大敗北を喫したのか?ベリシャは今日どう評価されているか?ゲンツ・ポロGenc Polloら現在の党指導部について問題はないか?
これらの質問には、ヂャフェリ氏の個人的見解と断った上で、概ね次の様に答えてくれた。まず、彼も民主化運動の象徴としてのベリシャの業績を一応認めている。ゲンツ・ポロも優れた人物だという。しかし、ベリシャを始めとする現指導部には年代的にも、また政治的経歴の点でも労働党時代の手法を引きずっている部分があり(世代交代の必要性、彼自身が次世代の側にいることをそれとなく伝える様な表現だった。そう言えば社会党のナンバー2、野党との交渉役でもあるパンデリ・マイコPandeli Majkoも、ナノなどに比べれば随分若い方だ)という。総選挙敗北については、社会党が公約通りにネズミ講の損失額を払ってくれるとは誰も期待していないこと、しかし一連の事態悪化に民主党政権が有効な手段をとれなかったので国民多数は民主党に嫌気がさしてしまったこと、そこで少しでも今と違う状況を求めて社会党へ投票したのではないかということ、加えて、反政府武装勢力(というのは、民主党にとっての社会党支持者ということになる)の支配地域では正当な選挙運動や投票行動が妨害されたこと、などが原因だろうと分析した。
1時間弱の会談?後、6月総選挙時のポスターとパンフレットを貰い、デルヴィシ氏とカフェへ立ち寄る。ここで氏は、件のマツタケ輸出はどうなったとか、ドゥラスに日本情報センターを作ろうとか、日本から英語で原稿を集めてアルバニア語で新聞を出そうとか、もうすぐドゥラスからソフィアまで貫通する道路ができて(後日、これは実在の計画であることが判明)ここはバルカン半島の玄関口になるぞとか、威勢の良い話をひとしきりぶちあげた。ところが、余りの威勢の良さに圧倒されたのか、K氏の顔色がだんだん悪くなってきた。すぐ近くにフロラの勤める図書館があったので、まずそこへ連れていって様子を見た後、車でデルヴィシ家へ。
家に着くとフロラは体温計や血圧計を持ち出してごそごそやっていたが、その内お湯を沸かし始めた。何をするのかと思って見ていると、それに砂糖をごっそり溶かしてK氏にがぶがぶ飲ませ、さあ腹の中のものを全部もどしちゃいなさいと言う。効果はてきめんで、しばらくするとK氏はトイレに立てこもった。私は、折りからやって来たイブラヒム夫妻とこの「民間療法」の一部始終を見ていたが、トイレから戻ったK氏はすっきりしたのかぐっすり眠ってしまった。ちょうど昼時だったので、帰宅した3姉妹と一緒に昼食(アルバニアのパン、白チーズ、豆のスープ、酸っぱく味付けした茄子の煮物)を御馳走になる。
それからデルヴィシ夫妻や3姉妹とテレビで「4D」(高校生と親達が恋愛などのテーマで討論するTVSHの番組。司会が電話インタヴューしている途中に突然回線が切れたりするところが、アルバニア的)や「メルローズ・プレイス」や「キャンディ・キャンディ」(こちらはもちろんイタリアのテレビ局)を視ていると、K氏もかなり元気になって目覚めた。食事を済ませると、イブラヒムに駅まで送ってもらう。
せっかくの機会だから、列車で帰ることにした(かつて外国人は鉄道を利用できなかったという)。ティラナまでマイクロバスなら100レクだが、列車なら40レクである。夕方5時台の列車を待っていると、外国人が珍しいのか、次々と人が寄って来る。
やがて列車が到着、真っ暗なホーム(この時期、5時頃にはほぼ完全に陽が沈む)に出てみると、何と車内は1両を除き全部真っ暗。イブラヒムに連れられて、良さそうな席の車室を見つけてもらう。座席のつくりは何となく西ヨーロッパ風なのだが、とにかくおそろしく古いのが気になった。
さて列車が走り出すと、検札係らしき女性が懐中電灯片手に現れた。検札と言っても指で切符の端を少々裂くなのだが、二三質問された後、こちらへ来なさいと手招きされた。何事だろうかと2人でびくびくしながら隣の車室へ行くと、既に女性客がもう1人。その内、同じ様な格好(後で明るい場所に出て分かったが、れっきとした制服)の男女が2人入って来ると、どこから来たか?仕事は何か?結婚してるか?家族は何人か?(同じヨーロッパでも、ドイツ等では最もぶしつけな話題として嫌われるこの質問だが、アルバニアでは赤の他人からさえ極めて頻繁に尋ねられる)と盛んに話しかけてきた。何のことはない。単に我々2人がもの珍しくて雑談相手に呼んだだけなのだ、と徐々に分かる。
制服の男女は鉄道専門の警察官だった。男1人の方は(わざわざ腰の銃を抜いて見せてくれた)ナディル・カポNadir Kapoという名で、ドゥラスに妻と幼い子がいる。学校卒業後すぐに警察学校で訓練を受けて(ところで、理由は正確に分からないのだが、労働党体制も含め最近まで、空手やサンボ等による訓練は許されていなかったという)警察に就職した、公務員一筋の人物。月給は約50ドルというから、7000レクということだろう。アルバニアの物価が日本の10分の1程度である点を考慮しても、スカンデルベウ7枚だけでは楽ではないだろう(しかし、そんな彼もイタリアやギリシアに旅行したことがあるという。現地に暮らすアルバニア系の知人を頼みにした面もあるのだろうか)。
日本人の印象を尋ねると、高度の文化と経済水準を持つ優秀な民族だ、という答えが返ってきた。また、アルバニアの警察は汚職だらけだが、日本の警察には非常に規律正しい印象がある、とも語っていた。もっとも、こういう人達の場合はそもそも「知らない」が最大の印象なので、手放しで悦に入るわけにはいかない。
日本人の給料はどの位か?と聞かれたので、K氏の年収をドルに換算した額を告げた瞬間、一同は息をのみ、カポ氏は座席後方へ思い切りのけぞった。それで急いで住宅ローンの返済額や商品の値段を教えると、少しは落ち着いてくれた(隣の女性同僚に「じゃあこの日本人と結婚するかい」などと冗談を飛ばす)が、それでも彼はその後しばらく首を振ったりため息をついたりしていた。その後、アルバニアの随所で日本人の収入をめぐる話題は頻発するのだが、その度に「でも日本じゃ新聞1部が120レクはするんですよ」と言い添えなければならなかった。
アルバニアの政治家をどう思うか、誰が一番良い政治家か、とK氏が尋ねると、このアルバニア人一同は4人とも同じ返答をくれた;どいつもこいつも泥棒みたいな連中だ。国民のことなんか少しも考えていない。外国の政治家の方がまだあてになる。カポ氏は「ハイドゥトhajdut」という言葉を使っていたが、これは「ぬすっと」「すり」「かっぱらい」といったかなりひどい意味の単語だ。
ところで、これらの会話は決して楽に進まなかった。というのも、彼らはこれまで我々が会ってきた「そこそこ外国語が話せて、外国人への対応に慣れた知識人」ではなかったからだ。こちらの聴き取り能力にお構いなしに、まったく普通の速さで、しかもこれ以上ない程に俗な口語調の言い回しで、自分達の感情を叩きつけてくるのである。正直な所、何度か聞き返さなければならない箇所も多かった。
40年前のイタリア製で、6年前からこの路線を走っているという列車は、時速30キロ程でのんびり進み、しかも時折(駅でもないのに)停車した。窓から顔を出すと、車内が真っ暗で都市部の光も少ないから、夜空の星が綺麗に見える。
7時近くにようやくティラナに到着。警官達は再びドゥラスへ戻った。K氏が一緒に撮った写真を送るために住所を尋ねようとしたら、女性達は遠慮して教えてくれない。アルバニアの男は嫉妬深いので、外国人男性の写真なんかが家に届いた日には、夫と大変な問題になるとおっしゃる。興味深い事情である(どこまで本当かは別だが)。
私とK氏は、あれこそ普通のアルバニアの労働者だと話しながら、予定より大幅に遅くなって「ステラ」に帰り着いた。残っていた3人は、昼頃には戻るという私の言葉を信じて待ちぼうけを喰わされ、すっかりおかんむり。おまけに、民主党のポスターもデルヴィシ宅に置き忘れてしまった。取り敢えず御疲れ様でしたということでK氏と1階のレストランでワインなどをいただく。
飲み食いしている内に、いつもより遅くなりそうになった(独りで帰る時は、遅くとも9時半頃に外出先からエストレフ宅へ戻る様にしていた)ので心配していたら、経営者の1人でスピロSpiroという男が、実エストレフと同じアパートの住人だと判明。安心して閉店時刻の11時まで居座り、家まで連れていってもらった。
今日はようやくクルヤに行ける(後述するが、ここまで待ち望んでいたのには事情がある)。ニコの手配で、DHL職員(名前忘れたが20歳の女性)の父親タラス・クロイTaras Kroi氏が運転手を務めるベンツ(!)に乗り、1時間弱の行程。
ティラナから北へ進み、カムザKamza村の農業高等学校の横を過ぎ、フシャ・クルヤFushe-Krujaの市場の賑わいを東へ通り抜けると、道は徐々にうねる上り坂になってくる。まずは、クルヤのふもとKala Krujaにある博物館へ向かう。
山の中腹で車を降り、崖を見上げながら徒歩でしばらく進むと、古城の様な体裁のジェルジ・カストリオト・スカンデルベウ国民博物館Muzeu Kombetar Gjergj Kastriot Skenderbeuがそびえている。プランヴェラ・ホヂャPranvera Hoxha(エンヴェル・ホヂャの親戚らしい)らの建築で、この度開館15周年を迎えた(11月1日の記念式典では研究者達から全面的改修の必要性が指摘されたという)。つまり、クルヤは遺跡の街だが、別にこの博物館自体が遺跡というわけではない。1階から2階にかけて、スカンデルベウの生い立ちや当時の時代背景、「クルヤの戦い」、トルコからの独立を達成した経緯の解説、それらを描いた壁画や、当時の装飾品の展示。3階には、当時の外交文書やスカンデルベウ関連の文献(アルバニア語のみならず、ヨーロッパ諸言語や中国語による)をぎっしり収めた図書室がある。
博物館のすぐ隣にあるレストランで昼食。食後、私は1年半ぶりに「約束」を果たす。「約束」とはこういう話だ;実は去年の春、留学中のドイツからアルバニアを訪れた時にエストレフらとここで食事をしたのだが、その時店の主人に「今度また日本からお客が来た時のために」和英辞典を頼まれていたのである。その後ドイツから日本に戻り、いつか郵便で送ろうと思いつつ、つい先伸ばしにしていたところ、間もなくアルバニア国内が混乱に陥り、今年の春には郵便さえも送れなくなってしまった。夏が過ぎ、郵便業務は再開されたが、そこへアルバニア行の話が舞い込んで来たので、これ幸いと荷物の中に新品の和英辞典(もちろん外国人向け)をしのばせ、直接手渡すべくここまで来たのである。あいにく当の店長はイタリアへ旅行中で留守だったが、従業員に事情を説明し預けておく。
昼食後、土産店が軒を並べる中腹部の小路を少し散策してから、昼下がりのティラナに帰還。カフェ・エウロパ付近で車を降り、アヴニ・ルステミAvni Rustemi広場周辺の市場などを少しうろつきながら「ステラ」へ戻る。
夕方、運転代金の領収書を携えてタラスとその娘、更にその夫(新婚だったのだ)でAP記者のエルヴィス・トチElvis Tociの3人が「ステラ」へやって来た。この3人にK氏と私と計5人で夕暮れのカフェへ行く。コーヒーを飲みながら、海外特派員の話や、来週以降のギリシア方面への旅程などが話題に上った(余談だが、アルバニアでギリシア行の話を持ち出すと、誰も彼も「私が何とかしてあげよう」と言って運転手候補を連れて来たりするのだが、その結果、最初に手配を頼んだニコ・フラシャリとの調整がつかなくなり、あわや「船頭多くして船沈」みかけた。で後半になると、初対面の人物にギリシア行の件は話さない様努めていた)。途中、急に周辺が停電になったのでロウソクの明かりでどうにかしのいでいたところ、1人の人影がトチ氏に近付いてきた。「ゼリ・イ・ポプリト」編集部に勤めるアルフレド・ダリピAlfred Dalipi氏だという。
「ゼリ・イ・ポプリト」!アルバニアを知る人なら少なくとも名前だけは承知であろう、この旧労働党機関紙を、私は1991年の最初から購読してきた(何とも微妙な時期だ)。その後、共和党の「レプブリカRepublika」や民主党の「リリンディア・デモクラティケRilindja Demokratike」なども取り寄せ始めたが、今年に入ってから一連の事態により発送は事実上途絶していた(そのせいか、近頃は独立系紙「コハ・ヨネKoha Jone」に少々「浮気」していたのだが)。ここで「ゼリ・イ・ポプリト」の人間に会ったのも何かの縁と思い、事情を話したところ「御名前は?」と尋ねられ、イウラと一言告げると合点がいった様子(他に日本人の読者がいないのだろうか?)で、お暇な時に直接編集部へどうぞと言われる。
カフェを出て一同と別れると、前日の帰りが遅かったのでこの日はすぐエストレフ宅へ戻った。夕食をとりながらイタリアのチャンネルで「ホーム・アローン2」を視る。テレビを視ながら、父エストレフがストーリーを勘違いしてとんちんかんなコメントを発し、息子エディが突っ込むという、日本の茶の間にもありがちな微笑ましい(?)場面を目撃。
朝、エディと「ステラ」へ行ってみると、かつて外務省の極東担当で日本へ来たことのあるトニン・ベチTonin Beci氏が来ていた。最近は職場も変わってお疲れの様子だ。氏が立ち去った後、K氏ら4人は、金曜日に会ったイリル・メロ氏の自宅へ昼食をいただきに出かける。後でエストレフ宅へも来てもらう事にして、エディと私は先に帰宅。途中、私はアルバニア・テレコムへ寄り道して新しい電話帳を購入。
骨付き肉のスープで昼食を済ませ、ベッドでうとうとしかけていると電話が鳴った。A嬢が一足先にこちらへ向かっているというので、近所のギリシア正教会(毎朝ここの鐘で起こされた)の前まで迎えに行く。彼女を書斎の「店」へ案内し、「社長」であるエストレフに、初心者のためのアルバニア・英語辞典などを紹介してもらう。
ニコが交通手段(何しろ、セサロニキからテレビの撮影班が機材もろとも乗り込んでくるので大型バスが必要なのだが、これが容易でなかったのだ)の打ち合わせに来るというので、夕方「ステラ」へ。するとニコが来るより前に、エディらの手配で何と8日の土曜日にヴロラVloraへ行くことになっていた。南150キロ先である。ギリシアへの出発が土曜日だったので一旦断ったはずだが…これでは予定を日曜日の早朝へずらさなければなるまい。明日は明日で、湖で有名なマケドニア国境の街オフリド(Ochrid アルバニア語Oher)へ1泊2日で遊びに行くと言う。私は、ティラナ市内にあるジェルジ・テネチェヂウの家へ遊びに行く予定だったので、オフリドへは同行しないと2日間の別行動を宣言。で、ジェルジ宅へ電話をかけておく。
間もなく、ニコがアイダと共にやってきたのでK氏から事情を説明し、出発日を1日延ばすことにして準備を頼む。結局、ニコと夕食のはずがそのままエディらと過ごすことになり、ニコは折から通りかかったエロナ&ジェルジ(さっき自宅へ電話したのに何故ここに?)と立ち去ってしまった。ああ、面倒ばかりかけて友人を1人失ってしまった…と思ったが、向こうはさほど気にしていなかった。
ところで、K氏らはメロ氏宅へ行く途中、「統一協会」系団体の日本人女性らを目撃したそうだ。半年前にティラナを脱出し、ボンでテレビ局の取材に答えていたあの人達である。
朝9時、オフリドへ向かう一同を見送った後、まずはDHLで電話を借りて(もう「顔パス」)ニコと直前の打ち合わせを行い、閣僚評議会と「エウロパパーク」ホテルの近くにある大蔵省を訪れる。
南棟3階、廊下の突き当たりにある予算課に行くと、ジェルジ・テネチェヂウは仕事中。1年半ぶりに同僚の方々と挨拶して、ちょっと近くのカフェへ。もう一人の同僚氏がアメリカ人夫婦と仕事の打ち合わせをしている。アルバニアのGSMシステム(携帯電話の方式名)開始は1995年だという話などを横で聞いた後、これから会議というジェルジとは午後2時にもう一度会うことにして、一旦市内へ出る。本屋をまわったり、文化宮殿の前で偶然ヴョルツァ・ジナと会ったり、ティラナ大学へ行ってみたり(T君がe-mailを送らせてもらったらしい)して時間をつぶす。
さて2時より少し早目に大蔵省の建物へ戻り、階段を上って南棟の突き当たりの部屋まで来ると、ドアには鍵がかかっている。ははぁ、まだ会議中かと廊下で待つ内、30分…1時間…1時間半…???と思いながらうろうろしていたらジェルジが「何してるの、ここは2階だよ」と呼びに来た。「中国人が建物内をうろうろしている」と知らされて「もしや」と思い当たったそうだ。
4時頃退庁。「エウロパパーク」ホテルの前で、オーストリア航空事務所のエロナと待ち合わせ、3人でピザを食う。エロナは、ジェルジに続いて日本への留学を考えているらしい。店内のテレビでは5日と6日に行われていたミス・アルバニア選考会の様子が映っていた。ここで恋人同士の戯言;エロナ「これ、わたしもなれるかしら」ジェルジ「なれるよ、選考委員ならね」
食事の後、洗面台、ベッド、照明器具など、幸せな二人の婚礼家具物色に付き合わされ、VEFAのスーパーで食料品を買ってジェルジ宅へ行く。ジェルジの母に迎えられて、まずはコニャクにチョコレートのおもてなしを受け、テレビを見ながら世間話に興じる。この日は共和党の党大会最終日で、ニュースはサブリ・ゴドSabri Godoの党首辞任を伝えていた。エロナは「ビバリーヒルズ」がお気に入りらしい(しかしシャネン・ドゥハティが出ていないぞ。「高校白書」じゃなくて「青春白書」の方か?)。その後、夕食(さっきのピザは間食だった!)。パン、オリーヴのサラダ、酸っぱいスープに焼いた鶏肉、デザートに手作りのお菓子。食事を挟んで兄夫婦(兄は自称「ジェルジの毛のない方」)やその息子が入れ代わり立ち代わり訪問。9時過ぎに退出、すっかり慣れた夜道を一人で帰宅。
今日も夜まで単独行動だ。まずは午前中のんびりと書店巡り。科学アカデミー前の店(場所柄もあってか、学術書の品揃えが良い)へ向かう途中、国際文化センター裏のカフェでジェルジの兄に呼び止められる。彼は女性と仕事の話をしていたが、このコチKoci氏という方、警察の麻薬対策課の長だという(ちなみにジェルジの兄は医者)。コーヒーを御馳走になる。
ひととおり本を買った後、昼飯時までかなり時間があったので、「ゼリ・イ・ポプリト」の編集部へ行ってみることにした。市内を南北に縦断する「国民の殉死者」大通りにあるので、場所はすぐ分かる。
編集部の建物の近くまで来ると、たまたま入り口にいたアルフレド・ダリピ氏に呼びかけられた。彼と話していた女性が私を見るなり「イウラ・イチロー?」とフルネームで話しかけてきたので驚く。で彼女らの言い分によると、例年通りの購読代金が支払われていなかったので何度か手紙を送ったそうなのだが、その手紙がまったく私の手元へ届いていなかった。一連の事態に加え、春頃ちょうど私が転居したことも原因だろう。とりあえず後ほど連絡することにして、編集室などを案内してもらった(後で知ったのだが、周りからは新華社の特派員が来たと思われていたらしい)。編集部廊下で、APのエルヴィス・トチとばったり出会う。
広報担当アルベルト・シャラAlbert Shala氏の部屋に通される。イウラとは一体どんな人物なのか、前から興味があったという氏と、アルバニアの現状やアルバニア語学習の難しさ、日本・アルバニア協会の活動などについて話す。
ところで「日本・アルバニア協会」といえば、かつて親中派の日本共産党(左派)の傘下団体で「日本・アルバニア友好協会」という組織があったことは、日本人で古くからのアルバニア通なら周知(?)の事実だが、これに関してシャラ氏が興味深いエピソードを披露してくれた。かつて、労働党の実力者でトディ・ルボニャTodi Lubonjaという人物がいた時、左派党の日本人がアルバニアを訪問した。ところが、訪問団が日本へ戻って間もなく、トディ・ルボニャは失脚してしまった(これは1973年8月の話だろう。当時ルボニャは国営放送局長だったが、労働党第4回総会で党を追放されている)。しかしそれを知らない左派党は、機関紙「人民の星」中で「親愛なるトディ・ルボニャ同志は…」と書いていたのである。編集部も、笑うに笑えなかっただろう。
場所を変えて、編集部隣のカフェへ。アルバニアでも「アルバニア」「クラン」などの新聞・雑誌がインターネットにホームページを開いたりe-mailを受け付けたりしているが、「ゼリ・イ・ポプリト」にそういう予定はないのか?e-mailは送れないのか?と質問すると、未定という返事。与党系機関紙にも資金面でいろいろ事情がある様だ。
ミュンヘン大学のアルバニア人講師アルディアン・クロスィArdian Klosi氏について話が盛り上がった。私もミュンヘン留学中に氏の演習に参加したが、コソヴォ方言(正確にはアルバニア北部のゲグ方言全般なのだが)の専門家で、氏本人が作家でもある。政治・文芸批評家としても有名で、「ゼリ・イ・ポプリト」や他のアルバニア紙によく寄稿している。民主党政権時代はベリシャの権威主義的政治手法を辛辣に批判していたが、最近は社会党にも容赦がないらしい(そう言えば8月頃の『ゼリ・イ・ポプリト』にも『過去はどうでもよい、未来こそ問題だ』と題して、メイダニとナノ宛に公開書簡なんか書いていたな…)。アルディアンは批判家だ、左派で極端だ、いや極左じゃないが、しかし要するにひどく批判的なんだ、とシャラ氏は少し参った様な表情で語っていた。もっとも、そう言いながら本人と会えば和気あいあいの風でコーヒーを飲み、喧嘩寸前まで論争したかと思うと、何時の間にか握手していたりするのが、アルバニアの知識人風情である。
昼過ぎにエストレフ宅に戻り、マカロニとトマトソースとレタスサラダの昼食を浴びる程いただく。何しろ「自分のパンはなくても、友に与えるパンはある」というのがアルバニア的おもてなしの作法である。残そうものなら怒られかねないので、ワインと共に一所懸命腹に詰め込む。そしてぐっすり昼寝、これもアルバニア的。
夕方、エディとK氏らが戻る頃を見計らって「ステラ」へ。途中、「ペルメト会議」通りと「2月4日の殉死者」通りが交差する所にある銀細工の店で10ドル程度の買い物。初めてアルバニアに来た時に教えてもらったこの店には、毎年必ず何かを買いに行く。アルバニアでは本と新聞ぐらいにしか金を使わない私の、唯一の贅沢である。店員に「僕のこと忘れた?」と聞くと「お得意さんだね」と気前の良い返事をくれるが、本当に覚えているかどうかは不明だ。
自転車に乗ったアルベンと偶然会ったりしながら「ステラ」に着き、レストランで待っていると8時近くに一同無事帰還。皆思い思いに土産を抱えていたが、A嬢はマケドニア語の猫の絵本、K氏は「安かったから」という理由で靴を数足、そしてエディの手には何故だかパンダのぬいぐるみ。うねる山道を殺人的スピードで飛ばす運転手の話や、K氏がオフリド湖で「ぼったくり」船頭を警察に突き出した武勇伝などを聞く。ところで、せっかくアルバニア人が同行したのに、アルバニア語はさっぱり通じなかったという。
ところで、このホテルへ来る度にレストランやK氏らの部屋で朝に昼に夕べにテレビを見るのだが、人民議会の議事中継やら、閣僚インタヴューに公開討論会やら、朝の番組では新聞各紙の紙面紹介(「朝刊チェック!」とでもいった雰囲気)やら、労働党政権の時代よりも、というよりむしろ民主党政権の時代以上に、多彩に、敢えて言えば「西欧的」スタイルに近づきつつある様な気がする。
エディと共に帰宅。TVSHで古き良き映画(白黒)を視る。外国の支配下で母語の文字を奪われていたアルバニア各地へ、文字を伝えて旅をする文人(山岳風景の映像が絶品)。その従者として仕えながら、次第に民族意識に目覚めてゆく男。一方、それを快く思わないギリシア正教会の司祭達(これがまた思い切り「悪代官」風)から送り込まれる刺客。最後に文人は暗殺者の手にかかって命を落とすが、従者の男は文人の遺志を継ぐことを決意、残された本の箱をロバの背に積み、旅を続けるのであった…
エディらと共に朝8時「ステラ」出発…のはずだったが、ニコが翌日のギリシア行き貸切バスの運転手を紹介すると言うので、K氏と共に「2月4日の殉死者」通りのDHL近くへ連れていかれる。旅行会社の代表らとカフェで話す内に1時間が経過し、結局「ステラ」に戻って出発したのは朝9時。
まずドゥラスへ入り、今回の企画を裏で操っていた(?)フロラ・デルヴィシを乗せる。そこからゲームやアルバニアの民俗音楽を楽しみつつ南へ進み、カヴァヤKavajeの果物店でオレンジやスイカを買い休憩した後、ロゴジナRrogozhine、ルシュニャLushnje、フィエルFierを通過して(フィエル近くのアポロニアApoloniaは古代遺跡で名高いが、時間及び治安上の問題で立ち寄らず)計4時間強の行程でヴロラへ到着。フィエルとルシュニャではそれぞれの県境で警官に止められ、少々警告を受ける。もちろん、今のアルバニアで真っ昼間から銃撃戦が続いているわけではないが、万一の場合に生じる責任を考えれば、神経質にならざるを得ないのだろう。なお、この南西部一帯に限らず、流出した武器の動きを止めるため各県の出入り口には常に警官が検問に立っていた。
実家を訪ねるというフロラを郊外で降ろし、市内へ入る。半年前には最も戦闘が激しかったと言われるヴロラでも、街には露店や散歩の風景が戻り、人々は既に普段通りの生活を営んでいた(パンを小脇に抱えて通り過ぎる人など見かけると、ほっとする)。しかし市中心部の体育館など、いくつかの施設はガラスもほとんど破られたままで、廃虚の様な姿をさらしている。海岸沿いに出ると、道路脇には焼け焦げた自動車が転がったまま。土曜日の昼だというのに海辺のホテルやレストランは閑散として、外国人の姿はまったくない(本来ヴロラはアルバニア有数の観光地である)。アドリア海が見渡せる絶壁の傍らに立つ「VLORA」の標識には、銃弾の貫通した穴が無数に残り(面白半分に機関銃で撃ちまくったか?)、その穴の周囲は潮風で錆付き始めていた。思わず「自然は美しいのに…」とうめく。
海岸のレストランで昼食。S嬢の手相占いなど楽しんだ後、余り道草を喰っていると帰りが遅くなるので、食後すぐ出発。市内の郵便局近くでフロラを待つが、なかなか来ない。で、来たと思ったら連れがいて、一緒に乗せていってくれと言う。しかし車は既に満員。乗せる乗せられないでもめた挙げ句、やっぱり別の車に乗ってもらう事にして我々がヴロラ市を出発したのは既に5時過ぎ。小雨混じりの空に稲妻が走る中をティラナへ急ぐものの、予定を2時間近く遅れている。あっという間に辺りは真っ暗。一同疲労困憊。
途中、夜道でトイレ休憩。女性陣は近くにあったレストランの中へ。私も、と着いていこうとしたら「男性はこちら」と駐車場の裏へ案内される。いわゆる、天然のトイレという奴だ。K氏悪寒に襲われ、席替えでまた一騒動。
ドゥラスでフロラを降ろす(うちに泊まっていきなさいと最後まで勧められたが、明朝以降の日程を考えると今回ばかりは洒落にならないので、きっぱりお断りした)。エディも、マイクロバスで帰ると言い残してドゥラス市内で降車。ぐっと広くなった車内でくつろぎながら、9時頃ティラナへ戻る。
「ステラ」でアルバニア人らと別れ、1階のレストランで5人揃ってようやく一息。料理を注文していると、ベティム・ムチョ氏の友人と称する2人が訪ねてきた。名刺を拝見すると、科学アカデミーの経済学者デフリム・シュクピDefrim Shkupiに、自称「ビジネスマン」のサミル・マネSamir Mane氏。例によって、他の先進国がアルバニアに援助しているのに日本からはまだほとんど何もない、という話に始まり、良い企業の投資計画があれば教えて欲しいという。日本からの援助が少ないのは、そもそもアルバニア自体が日本人に知られていないからであり、文化的関心を高める作業がまず先決であることを念押しする。
そう言えば、5月末にDHLでエストレフに日本・アルバニア協会の創立を伝え、何か手助けできることはないかと書いた時、届いた返事曰く「手助けすると言っても、遠い日本から何ができるんだい?まずは君がアルバニアへ遊びに来てくれ。あとは、協会が将来もっと大きくなってからの話だ」なるほど、彼はよくわかっている。
宿泊代の精算を済ませておきたいとK氏が言うので、スピロらに領収書を作ってもらうが、いざ支払いの段になるとレクもドルも足りないことが判明。日本円を見せても、従業員一同こんな紙幣見たこともないといった風で、使いものにならない(今後アルバニアへいらっしゃる方はくれぐれも御注意を。アジア有数の通貨も、かの地では紙切れ同然です)。ギリシアに行けば両替できるだろうということで、未払い分は13日にティラナへ戻ってから渡すことに。
閉店後、スピロの自転車に二人乗りして、無人同然の首都中心部を抜け帰宅。エストレフ父子は既に就寝中。そっとベッドに入り、約7時間後に始まる今回最大の行程に備えてひと眠り。
ファトス・ナノ政権は発足から100日を迎えた。エストレフとエディを起こさない様に荷物をまとめ出発。
朝7時、運転手ヒュスニHysniの大型バスでティラナを出発…しようと思ったらまずカフェで一服するところがやっぱりアルバニア風…した我々5人は、工業都市エルバサンElbasan、リブラジュドLibrazhdから、見事な景観の山岳地帯を快調にがたがた飛ばし、オフリド湖のほとりでTVSHの取材班と某歌手(顔には見覚えがあるが名前は未だに分からない)に遭遇し、そこに居合わせたグリゴルGrigorという男を、ヒュスニの頼みでセサロニキまで一緒に乗せることとなった。時折道端では、数人~数十人が手を思い切り振り上げてヒッチハイクをしている。
ポグラデツPogradecの手前の湖畔のカフェで小魚の群れを眺めながらコーヒーで休憩。そして昼過ぎにコルチャ到着。ここでクルナツカkernacka(件のキョフテのコルチャ風)等の昼食。ティナラの無秩序な喧噪から程遠い落ち着いたたたずまい。折良く街路には落ち葉も舞い、良い雰囲気の街。去り際に、後日の取材対象となる施設の場所をレストランの店員に尋ねてみたが、Home on the Hillという英語の通称しか手元になく、アルバニア人には全く通じない。
市中心部を出ようとすると、前方からパパラパパラと鳴り響いてくるので何事かと思ったら、ヒュスニが「婚礼だ!(Nusja!)」という。日曜日ということもあ ってか、婚礼帰り(行き?)の新婚夫婦が乗る車を先頭に、派手なデコレイションを施した車列が我々のバスとすれ違う。
ところで、コルチャへ向かう道だけでなく、ドゥラスやヴロラへ向かう道の脇には、しばしば真新しい墓碑が建てられている。その日付のほとんど全てが今年、特に3月から4月にかけてのもので、年齢も様々だが、中には私と生年が等しい男性のものもあった。この彼は、その日どこで何をしていて、何故命を落としたのだろう?生活のため外出していたのか?武器を執っていたのか?家族はいたのだろうか?
もう一つついでに気付いたことだが、アルバニア国内を走っていると、運転手がしばしば外を見ながら「Firma gabi!」と叫ぶので「どこかに店でもあるの?」と一緒に眺めてみるのだが別に何もない。辞書にもないので、これは一体何のことかと、日本に戻ってからムチョ氏にe-mailで尋ねてみた。実はfirma gabiというのは、アルバニア国内に住むロマ(いわゆるジプシー)達が道端で開いている中古品(主に古着や食器類や小物)の露店を指す俗語で、別に「ガビのお店」などがあるわけではないのだ。従ってアルバニア語で「firma gabiで買い物をした」という言い回しは「中古品を買った」の意味になるのである。
コルチャを出るとしばらくは広大な農耕地帯(とそこに規則正しく並ぶトーチカ)が続く。ここでも道路端に真新しい墓碑、動かない戦車を目にする。山を越えていく一団にグリゴルが、不法越境者だと説明してくれた。もっともこれは冗談かも知れない。思ったより早く国境の街カプシュティツァKapshticeに着くと、税関を待つ車の行列。ここでグリゴルはバスを降り、単身出国手続きに向かう。その方が都合が良いらしい。我々のパスポートの手続きはまとめてヒュスニに任せ、特に問題なくアルバニア側を通過。
Kalos ilthase(ようこそ)!
緩衝地帯を抜けると、今度はバスを降りて一人一人ギリシア側の入国審査となる。緊張しそうになるが、よく見ると、窓口の係官は受け取ったパスポートのふちでコンピュータのキーをぺこぺこ押しているし、ラジオでサッカーの試合を聴きながら奥の同僚とやりとりしている。最初にパスポートを見せた私、及びK氏、唯一日本人でないS嬢だけが入国スタンプを貰う。やはりEU圏内だから日本人は警戒の対象外なのかな?と思う。ヒュスニとグリゴルはヴィザの確認で少々手間取る(アルバニア人は出国査証をグリーンカードと呼ぶが、その理由がこの時分かった。確かに用紙が緑色なのだ)。この時初めて、グリゴルがギリシア語を流暢に話せることに気付く。
ほとんど形式的な車内検査の後、再びグリゴルを乗せて出発。道路の舗装は良くなっても、風景は余り変わらない。国境の小さな町クリスタロピイKrystallopigiをあっと言う間に通過後、最初の検問で止められた。A嬢とT君のパスポートに出国スタンプがないのが問題らしい。ヒュスニ、続いてグリゴルがギリシア語で仲介に入るが埒があかない。税関に電話で確認した結果、もう一度戻って押してもらってきて下さいということに。国境から既に半時間近く走っており、げんなりしながらも結局税関へ戻る。ヒュスニが2人のスタンプを貰ってきてくれて、再び検問へ。今度は問題なく通過。
この後もう一回だけ検問を通過。アルバニアからギリシアへの通路は警戒が厳しい。そう言えば最初の検問場所にあった標識には弾痕が数多く残っていた。夕闇迫る国道をセサロニキへと急ぐ。
最初の町らしい町フロリナFlorinaに入る。ここでK氏は電話をかけるため両替に向かう。しかし銀行はとっくに閉店。こりゃ無理だ…と私が言おうとしたら、氏は道行く人をつかまえ、何とその人が経営する普通の食料品店でドルをドラクマに替えてしまった。一方A嬢はその隣の店に入り、銀行の開店時間を尋ねていた(ちなみに7時半だったそうだ)。私は彼(女)達の勇猛果敢さに開いた口がふさがらなかった(良い意味で)。ドラクマを手に入れたK氏は、先にギリシア入りしていた取材チームに街角のキオスクから電話連絡。
まったく街の灯が見えない国道をひた走り、途中立ち寄ったレストランは結婚式の貸し切り状態で入れず、郊外でグリゴルを降ろし、空きっ腹を抱えてセサロニキThessalonikiに着いたのは9時頃…ところがギリシアとアルバニアとの間には+1時間の時差があるので、実はとっくに夜10時。しかも宿泊先は未定のまま。おまけにその夜訪れる予定だった取材チームのホテルの場所を誰も(ヒュスニさえも!)知らない。案の定、宿探しは難航を極めたがそこはそれ、現地のアルバニア人ネットワークの力を得て、ホテル「ペラ」(Hotel Pella, I.Dragoumi)に一夜の宿を得ることができた。
で、安心したのも束の間、ヒュスニが「めしはどうするの?」と尋ねてきた。だが全員食事ができるだけのドラクマを誰も持っていない。日本で言うところの駅前食堂(店の親父が腕組みしながら常連客と一緒にテレビのサッカー中継を眺めている)といった感じの安い定食屋では、K氏の「VISA Card OK?」も「Pizza?」と聞き間違えられる始末で、てんで相手にされない(pistotiki karta?)。一同途方に暮れかけたがそこはそれ、現地のアルバニア人ネットワークの力を得て、普通の夕食にありつくことができた。あの時のアルバニア人の皆様、この場を借りてお礼申し上げます…それにしても、セサロニキにはすっかり慣れていた風のあなた方が、ギリシア語をひとことも喋れなかったのは何故?
ところで、この日の夜9時からアルバニアでは「プロイェクト・ヨン」のライヴがテレビ放映されていた。見たかった…
朝食代を別払いで請求されたのでフロントと一悶着。こういう喧嘩はギリシア語でやりたかった、やるべきだったとしみじみ考える。英語なんか喋っている時点で、自分はもう勝負に敗れているのだ。
これから別行動に入るS嬢を中央駅前で降ろした後、ラッシュアワーのセサロニキ市内を、取材班の待つシティホテル(Hotel City, Komninon)へ…って、誰もそのホテルの場所を知らないのにどうやって?とりあえず唯一知っている住所「コムニノン通り」を求め、ギリシア第2の大都市をヒュスニと共に走り回る。出勤者に混じって正教の司祭も歩いているところが、やはりギリシア。
予定より1時間余り遅れて待ち合わせ場所に到着。東京の取材チーム、今回番組の主役となるYさんら5名と初めて対面。バスがホテル前まで入れないので、全員で慌ただしく機材をバスまで運び込み、走り出したバスの中で慌ただしく自己紹介を済ませ、中央駅近くのバス乗り場から慌ただしく撮影開始。主役Yさんが乗ったフロリナ行きバスを追って我々のバスも走り出すが、向こうのバスの出発を待つ間に、ヒュスニが駐車禁止で警告キップを切られるというおまけつき。
更に月曜日の午前中で車の量が多い上、我々のバスの前方には軍の装甲車両の列が出現。乗合バスはどんどん見えなくなる。向こうのバスに乗ったYさん達はどこのバス停で降りるか分からないから、うっかり追い越してしまうかも知れない。取材チームの方々はやきもきして私にいろいろ尋ねてくるが、私としてはヒュスニに任せる以外にない。
フロリナに着くと、やっぱり(?)先発組はどこか途中で降りたらしく、来ていない。一同天を仰ぎかけたがそこはそれ、現地のアルバニア人ネットワークの力を得て[この表現、昨日から頻出している様な…]、彼女達が一つ前のアンディゴノンAntigononという町で降りたらしいことは分かった。好天気の下、一同眼を皿の様にしながら(ここで白状しますが、疲れたのと、もうどうでもよくなったのとで、私は途中寝てました。ごめんなさい)バスはもと来た路を引き返す。昨夜街の灯が全く見えなかったわけがこの時分かった。左右が全部広大な平原で、住宅などほとんどないのだ。
約2時間後、主通りから数キロ外れた小さな町アンディゴノンで無事全員を保護、再びフロリナ市内へ。しかし我々が街に入ったのは月曜日のしかも午後。銀行もレストランも本屋もまるで開いていない。おまけにドラクマもありゃしない。我々とヒュスニは、取材チームと別々に昼食。で、入った店の名前が「アフロディテー」だったのはすごい偶然(?という方は、このホームページ内の日本アルバニア協会に関する項目を御覧下さい)。
この後、取材チームの宿泊先であるホテル「リンゴス」(Hotel Liggos, Tagm.Naoum)に我々も泊まることになり、まずは一段落。と、ここでグリゴル再登場。近くの親戚宅からアルバニアへ戻るためやって来たらしい。
その夜は近くのレストランでラキならぬウゾouzo(葡萄の種からとった蒸留酒)にレツィナretsina(松脂で香りをつけた白ワイン)を飲みながら、ヒュスニが70年代にストックホルムの射撃大会で優勝した逸話などで盛り上がった。
朝9時出発。もちろんグリゴルも一緒。車内で、Yさんが前回の単独行でギリシア人から貰ったというメモを拝見する。ところどころ誤字が多いが、後日日本に戻って調べたところ、こういうことらしい;
クリスタロピィに行きたいです
どのバスに乗ればいいですか
英語話せます
再びクリスタロピイに着くと、ここで店の電話を借りて撮影開始。店との交渉ではグリゴリが通訳に立つ。
店先のテーブルでは、老紳士達がギリシア語とアルバニア語を一緒くたにして喋りながら我々の方を見つめている。火曜朝のクリスタロピイは誰もいないかの様に静かで、聞こえてきたものといったら、折良く(?)やって来た果物売りの車のマイクから流れる客寄せの声だけ。撮影が続く間、ヒュスニとグリゴルが買ってきてくれたオレンジを噛りながら時間潰し。
電話をかける場面を撮り終えると、主役Yさんはカメラマンを連れて国境へと歩き始めた。かつて徒歩でアルバニアへ向かったYさんの行程を再現しようという寸法である。
彼女達を追い抜いてはいけないのでバスを停めて待っていると、グリゴルは待ちきれなくなったのか、通りかかったタンクローリーに便乗して去った。以来彼の姿を見ていないが、元気だろうか。
20分ばかり待ってから再出発。これまた待ちきれなくなって道端をうろつき始めていたA嬢を拾い、ギリシア側を通過、続いてアルバニア側で入国審査。一昨日と同様、ヒュスニに全員のパスポートを渡してお任せする。待ち時間の間、K氏やA嬢はバスから降りると、銃を抱えた私服の警備員と写真(!)を撮り始めた。いいんだろうかと少しどきどきしたが、K氏が一人のいかつい警備員をつかまえて、あんたはランボーだと誉めちぎって持ち上げたことに加え、徒歩で先行した取材チームが既に撮影許可を得ていたことも幸いしたらしい。俺も俺もと調子に乗って、全員しっかり記念撮影しまくっていた。私はこの時、アルバニア人達の中に戻ってきたなと実感した。
カプシュティツァからアルバニア側に入り、徒歩組を乗せると、最大のヤマ場は越えた。ホッとした私が「さあヒュスニ、もう好きな様に運転してくれ!」と言えば、ヒュスニも「コルチャへだね!」と待ってましたとばかりの返事。かくして車窓からの風景を撮りつつ、我々のバスはがたがた快調に飛ばして再びコルチャに到着。
今回は、番組制作上の方針で人間ドラマの側面が重視されており、アルバニアそのものよりも、主人公Yさんと子供達との再会が撮影の中心となるという話だった。そのせいだかどうだか知らないが、取材陣の面々はかの「名物」トーチカの隊列にも余り感慨や興味を示さなかった。まあトーチカと言わ
れても、ただ並んでいるだけといった感じらしいし、その背景などを踏まえて眺めなければ、さして感じるものがないのも無理はないだろう。ところで、アルバニア語でトーチカは「bunker」というのだが、これを後部席の日本人に発音してみせるのはいささか肩身が狭かった。何故といって、よく考えたらヒュスニの耳には「トーチカ!ト・オ・チ・カ!」・・・いやこれじゃロシア語だ・・・「塹壕!ざ・ん・ご・う!」と、アルバニア人には余り嬉しくない単語を外国人が連呼している様に聞こえているわけで、気を遣って小声になる。
コルチャ市内のレストラン前でニコ・フラシャリの合流を待つ間、老舗ホテル「イリリア」や、Yさんがかつて泊まったという丘の上のホテルを見に行く。「イリリア」もかなり老朽化していたが、さすがにかつての一流国営ホテルだけあって、ちゃんと営業していた。一方、丘の上のホテルは無人の廃業状態。しかも窓ガラスには、投石とは思えない物体が高速で貫通した痕跡まで残っている。先程からコルチャの変貌ぶりに驚きを隠さなかったYさんだったが、これには特に呆然としていた様だ。
レストランへ戻って昼食を頼んだ所へ、ニコとアイダが到着。食事(日本人撮影チームの物凄い食事の速さに、ヒュスニは眼を白黒させていた。私もだが)の後で新築ホテル等を見て廻り、結局かの取材陣は「イリリア」に、そして我々(と言ってももう3人しかいないが)は中心部から徒歩5分の所にあるムスタファMustafa家に滞在することになった。父ユリYlliは生物教師、母イェタJetaは地理教師、長女イルダIldaも教師になりたてという教員一家、他にまだ学校へ通っている次女ドリアナDoriana、長男で末っ子のベスニクBesnikと、猫3匹がいる。
ここで、ようやく私はヒュスニに仕事上がりを伝え、彼は、我々より一日早くリナスから飛行機に乗らなければならないT君と共にティラナへと出発した。3日間お疲れ様。暗くならない内に無事に帰っておくれ。
その夜、散歩と取材の後で我々3名は「イリリア」の隣のレストランに出かけ、アルバニア人の常連客が珍しそうに眺める中、一皿20レクのごく簡単なスパゲティとピラフを食べ、特に寄り道もせず11時頃家路に着いた。
結局、今回のギリシア「小」旅行で私が最も多く喋ったギリシア語は「コムニノン通りどこ? Pou ine i odos Komninon?」だった。
冷え冷えとした空気に目覚めて部屋の外へ出ると、玄関の周辺では猫達が早くもうろうろしていた。
この日K氏は、取材チームと共に施設下見・撮影のため、朝食を済ませると早速ムスタファ家を出発。A嬢は応接間で、イェタ夫人の求めに応じて日本料理の説明。私も横で会話に加わっていたが、その内、私共が肉じゃがでも作りましょうかという話になった。とりあえず市場へ買い物に。ティラナを上回る規模、そこに生きる人間の活気に満ち溢れた市場の雰囲気に圧倒されながら、ただでさえ物珍しいアジア人2人に次々とやってくるお誘いの声を、時には無視し、時には巧みに受けかわし、時には立ち止まって値段や分量を交渉しつつ、野菜やら肉やらを買い求めていく。無言のままレジの金額通りに金を出して済ませるスーパーの買い物に慣れた人には、かなりきついだろうな、と思った。他の地方都市同様、ここでも旧レク価格(現レク価格より一桁大きい)が公然と書き出されており、分かっているつもりだったのに、肉屋の店先でうっかりスカンデルベウ(1000レク紙幣)を出しそうになった。ちなみに挽肉300グラムが150レク、野菜類は大抵500グラムで30レクから50レクといったところ。
市場を出て、イリリアホテルの前を通過し、アルバニア最初の幼稚園(庭に大きなABCの彫刻がある)を見ながら、建設中の教会と、国民的彫刻家オヂセ・パスカリの傑作「民族の戦士」像(百レク紙幣の顔)の前を歩いていくと、ムスタファ家の近くの公園にはセミストクリ・ゲルメニイThemstokli Germenji(コルチャに初等教育の基盤を作り、第1次世界大戦期にコルチャをフランス領自治区として事実上の独立へ導いた)の立像、その付近にはこれまたスカンデルベウの胸像もある。コルチャはアルバニア有数の古都なのだ。
ひとまずムスタファ家に食料を預けると、お土産の入ったバッグを抱え、石畳の路地を歩いて丘の上の施設へ向かう。間違えて丘の上の教会へ辿り着いたりしながら、何とかそれらしい建物の前に着くと、玄関に腰掛けていた少年が我々を見るなり大声で建物内の人達を呼んでくれた。2階の部屋に案内されると、ニコやK氏や取材チームは既に責任者であるユリ・チリンヂYlli Qirinxhi氏(ムスタファ家のユリとは別人物)と取材の打ち合わせ中を済ませて立ち去るところだった。お土産を渡し、せっかく来たことだから、ということで後発組の我々はユリ氏に施設内を案内してもらう。
この建物はかれこれ築30年。Yさんが働いていた90年代初めに比べると、隣に新しく別棟が建っており、若干雰囲気も明るくなっているらしい。テレビのある部屋には子供や老若男女が集まって番組を楽しんでいた(好きな時間に見られるらしい。もっとも夜中に見る人はいないだろうが)。教室に「セーラームーン」を描いた絵がたくさん貼られているのも微笑ましい。とは言うものの、壁や天井はかなり老朽化が進んでおり、一刻も早く改修しなければ危ないかも知れない。山の貯水漕が近いので水不足の問題は比較的軽いという話だったが、浴室は機能しているのが信じられない程の状態。そしてここでもそうだが、別棟への通路の白い壁には直径2センチ程の弾痕が生々しく残っていた。ユリの話では、ここ数年スイス等からの支援もあるが、それでも全面的な修復には足りないらしい。人手も充分ではない。特に台所の担当は2人、しかも半日交代だから、実質一人で数十人の食事を賄わなければならない。これは大変だ。こうした施設は既に現在アルバニア国内に数カ所(ティラナにも)あるそうだが、ここコルチャの場合は、精神のハンディキャップを負う子供のためのプログラムが整えられている点で、比較的充実した方だという。一つ問題(本当は一つでは済まない様だが)だというのは、この施設の子供達が充分成長した段階で受け入れてくれる職場・機関が少ないこと。確かに、我々を見て親し気に話しかけたり手を握ってきたり、各部屋に入る度「ここが自分のベッド」と坐らせてくれた人達の中には、かなりの年長者もいた。
翌日授業を見学させてもらうことにして、この日は早目に帰宅。子供達や職員と写真を撮って、帰り際に振り返ると、建物の正面に何か文句が彫り付けてある。少々読み辛かったが大体次の様な意味;
孤児達のための
この建物の
土地と建築は
エラスティエ未亡人の寄進により
グリゴルは語る[?]
その子ニコラオスの魂に
コルチャ 1931年6月1日
帰りは、行きと別の道を歩くことにした。病院の前で、狭い路地を通過するトラックを避けて一人道端に寄り、ふと気付くと、向こう側のA嬢がアルバニア人女性と話し込んでいた。例の如く「中国人?」の言葉に「日本人です」とアルバニア語で返したところから話が膨らんだらしい。
かくして、マヌシャチェ・イスマイリManushaqe Ismailiと名乗るこの女性の家庭に招かれる羽目になった。夫ヴァレルValerはプロテスタントの牧師。私の知る限りキリスト教と言えばギリシア正教のアルバニア南部で、プロテスタントとは珍しい。ドイツの教区とつながりがあるらしい。そのせいか夫婦共にドイツ語ができる様だった。子供はハヌリHanuriとエステルEster(聖書からとったに違いない)の姉弟(AniにStelaとも言うらしい。何で?)。単調な生活の中で日本人の友人ができて彩りが添えられたと喜ばれ(ついでに近頃のアルバニア人の道徳的堕落まで嘆かれ)、お菓子にジュースにトルココーヒーでもてなされ、帰り際にはカダレ「石の年代記」初版(1971年!)等の本まで頂戴した。
ところで、アルバニア語が分からない人でもアルバニアにしばらく滞在すれば必ずと言って良い程覚える言い回しに「スカ・プロブレム S'ka problem」というのがある。「問題ない」「大丈夫」という意味だが、これについてヴァレル・イスマイリが非常に印象的な話をしてくれた。曰く、アルバニア人の現状からすれば、本当は問題だらけなのだ。しかしそうであっても、または、むしろそうであるが故に人々は「問題ない」と口にする様になっている、と。何にでも「スカ・プロブレム」を連呼するからといって、陽気で楽天的なアルバニア人気質、などと早合点してはいけないということなのだ。自戒に値する話である。なお、S'が否定詞なので「カ!プロブレム」と言えば「大変だぁ」となる。
帰途、途中までヴァレル氏に送ってもらう。中央広場の傍、建築中の寺院横にしつらえられた派手な電飾のゴーカート乗場の前を通り過ぎる時、ヴァレルが「明るいのはあそこ だけですね」とつぶやいた。この敬虔な宗教者、暗に「嘆かわしい」と言いたげだ。ちなみに、似た様な遊戯設備がティラナのスカン デルベウ広場の一角にもあるが、そこはかつて巨大なエンヴェル・ホヂャが東を向きそびえ立っていた場所である。
ムスタファ家に戻り、肉じゃがとほうれん草のおひたしと松茸御飯(某社製『まつたけごはんの素』使用)を準備する。K氏が取材先からなかなか戻らないので、申し訳なかったが先にいただいて寝る。
ところでこの頃になって気がついたのだが、あの春の事態についてほとんどのアルバニア人は「ルフタlufta」という語で呼び、語っていた。これはまさに「戦争」を意味する名詞である。外国人の私などが「混乱」とか「困難な時期」とか婉曲に表現するのも空しくなる様な直截さであった。
またも早々と出かけたK氏達を追って、A嬢と共に再び施設へ。しかし入れ違いになり、別棟の小さな教室(知能にハンディキャップのある年少の生徒用)で職員に熱いトルココーヒーをご馳走になる。女性の職員から「あなたがユーラでしょ?」と言われ、まあ聞いて頂戴よ、とここでも給料の話に。朝の授業開始直前に戻ってきたニコやK氏と共に慌ただしく施設を去り、「イリリア」前でアイダを乗せ、そして何故か昨日のヴァレル・イスマイリ氏も通りかかったのでお別れの挨拶をして、一路ティラナへ。あとは取材チームで何とか頑張ってくれ(新しい通訳もいたから大丈夫だろうけど)。元気でね、コルチャで会ったひとびと。また来るよ。
今にも雨が降りそうなポグラデツで軽食。今日のオフリド湖は灰色。かつての国営ホテル「グリ・イ・クチGuri i kuq(紅岩)」は、窓もあちこち破壊されたきりで、見る影もない。再びリブラジュド、エルバサンを通過、秋も深まるアルバニアの河岸、森、放牧された羊の群れ、すれ違うトラクター、工場、線路、無数の小さな町や村(そしてやっぱり無数の無言のトーチカ)を次々と目にしながら、日没の少し前、午後4時頃にはティラナへ帰り着いた。
「ステラ」に戻ると、レストランのテレビでは荘厳な曲の演奏が続いていた。ニュースでは、半旗を掲げた各都市の建物が映っている。今日と明日は「オトラントの悲劇」(このホームページ内の「最近の情報」の項目を御参照下さい)を追悼する日で、TVSHは終日特別番組を組んでいた様だ。スピロ達から、先に戻っていたT君の無事出発を知らされる。
1階のレストランでK氏やエディらと夕食後、5日ぶりにエストレフ宅へ。アルバニア最後の夜を葡萄やコカコーラでもてなされながら、今回の滞在を振り返る会話。
朝、エストレフに昨年分の本の代金を手渡す。今年の前半は日本からアルバニアへの郵便も銀行送金も休止状態で、ついつい払いそびれていたのである。午前中にグラムシGramsh(中部の都市。ティラナの西方約100キロ)へ行くエストレフと共に、ヂェマルの車で「ステラ」まで乗せていってもらう。するとアリ・ヅリモ氏が来ていた。日本にいる留学生への荷物を預かってから、アルバニア語の研究について少しだけ相談。
エストレフとヅリモ氏が去った後、ニコの車が迎えに来るまでかなり時間があったので新聞を買いに行く。案の定、今朝はどの紙面も「ヴロラ」と「オトラント」一色である。途中でムチョ氏に呼び止められ、御土産にコニャックの逸品「スカンデルベウ」をいただく。そのまま車で「ステラ」へ連れていってもらったのだが、まだ時間が余っていた。A嬢が子供向けの民話の本を探していたので、顔馴染みの本屋へ御案内する。郵便局の前で職場(イギリスの財団「子供のための基金」のアルバニア支部)へ向かうアイダに偶然会って取り敢えず別れの挨拶を交わす。
「ステラ」に戻ってしばらくすると、ニコが再びアイダを連れて到着。アイダから「プロイェクト・ヨン」のカセットテープを貰う。アルベンもやって来て、慌ただしく荷物をまとめながら「ステラ」の従業員諸氏(といっても3人しかいなかったが)と併せて最後の挨拶を済ませ、アイダの父が運転する車で正午過ぎにリナスへ出発した。
空港に着き、荷物を抱えて(空港入口でアイダの父が「こちらは日本アルバニア協会の方々だ。敷地内まで通してくれ」と頼んだが、無駄な努力だった)出国カウンターまで来た私(とK氏)はびっくりした。すっかり改築され、おまけに広くなっているのである。ここ去年までカフェじゃなかった?(ちなみにカフェは空港敷地の隣に移動していた)
更に税関と荷物検査を通過すると、搭乗待合室なのだが…あのぼろぼろのソファどこ行った?!一つ残らず、新しい椅子に取り替えられていたのである。先々週くぐり抜けた入国通路が全然昔のままだったので、なおさらこの変わり様には開いた口がふさがらなかった(これも良い意味で)。K氏の夜更かし譚など聞きながら2時過ぎまで待った後、久しぶりのオーストリア航空機でアルバニアを離れる。
4時半頃、すっかり日も沈みかけたヴィーンに着いてみると、さっきいた国とは大違いに空気も冷えきっていた。やはりヨーロッパの秋冬はこうでなくては。その夜はK氏の提案で日本料理店(ただし従業員は1人を除き全員韓国人)にて夕食。
翌11月15日の午後、週末帰りの日本人観光客にもまれてシュヴェヒャートから再びオーストリア航空機に搭乗。最初5人、途中10人、最後に3人となった我々は、約半日後の16日朝(?)無事に関西国際空港へ戻り、そこで今回の旅行もおひらき。
おしまい FUND
Leur voyage est termine Mais la vie continue
11月7日夜にエストレフ宅で見た映画は、1978年の作品「文字の道(Udha
e shkronjave)」であることが最近に
なって分かった。原作はヂミタル・シュテリチDhimiter Shuteriqiの小説「パンとナイフ」。主人公の文人ヅァスカル・トド
リDhaskal Todriを演じていたのはサンダル・プロスィSander Prosiで、他多数の国産映画で主演をこなしてきた名優。
主人公の遺志を受け継ぐ従者トゥンヂTunxhi役はブヤル・ラコBujar Lako。
ちなみにこの作品は翌1979年4月のアルバニア映画祭で特別賞、監督らも解放三十周年記念共和国賞を受賞。