最新情報 (4月1日~4月30日)

アルバニア 死刑を正式に廃止
 アルバニアのレヂェプ・メイダニRexhep Meidani大統領は3月31日午前のアルバニア人民議会総務会で開かれていた「死刑廃止に関する委員会」で、改正アルバニア共和国憲法にもとづいて死刑に関する条項を削除することを宣言した。
 これにより、1998年11月の国民投票で既に違憲性が認められていたアルバニアの死刑制度は正式に廃止された。
(Kosovapress 2000.04.01)


ルチ疑惑の波紋
 昔「プリンプリン物語」に出てた将軍のことではなく、人権同盟党(PBDNJ)のゼソ・ルチZeso Lluci氏がセルビア社会党の党大会に招待され参加していたのではないかという疑惑

(2000.00.00)


中央選管2名辞任
 アルディアン・クロスィArdian Klosiが中央選挙管理委(KQZ)の委員を辞任した。
ダンは「もういやになりました」と
(2000.00.00)


見出し
 コソヴォ解放軍の実質上の後継政党であるコソヴォ民主進歩党(PPDK=Partia e Progresit Demokratik te Kosoves)のハシム・サチ党首は
 
(2000.00.00)


セルビア社会党幹部 自殺
 ユーゴスラヴィアBeta通信によれば、セルビア社会党(SPS)で長年コソヴォ問題を担当してきたヴォイスラフ・ジフコヴィチVojislav Živkovićが自殺した。自殺の動機は明らかにされていない。
(Kosovapress 2000.04.17)

「モンテネグロ語」?
 先週ワシントンで開催された「バルカンの政治における民族と言語」の討議の席上、ユーゴスラヴィア連邦からの脱退・独立の動きを強めているモンテネグロ共和国の言語政策が話題に上った。これまで「セルビア・クロアティア語」とされていたモンテネグロの公用語を「モンテネグロ語」とする可能性はあるのか?という点について、ノースキャロライナ大学のロバート・グリーンバーグRobert Greenberg教授のコメント
「モンテネグロがセルビアからの独立を達成すればそれはありえる事だが、仮にモンテネグロがユーゴスラヴィアの中に留まるとしても、『モンテネグロ語』の公用語使用は既に宣言されているし、その言語はセルビア・クロアティア語とは異なるモンテネグロ固有の言語特徴を有している」
(Kosovapress 2000.04.17)


ナノとルゴヴァ ついに逢う


(2000.00.00)


さらばラインハルト
 KFORのクラウス・ラインハルトKlaus Reinhardt司令官が17日、半年間の任期を終え、最後の記者会見に臨んだ。司令官はNATOによる空爆の終結からKFOR進駐、現地の暫定統治機構やUNMIKとの協力による様々な活動をふり返り、ミトロヴィツァMitrovicëで続く混乱への懸念などを述べた。会見での最後のことばは次の通り;
「コソヴォに今必要なのは安定であり、それによって外国からの投資を呼び、コソヴォに経済的安定をもたらすことです。そしてこれこそが、コソヴォがEU統合に加わり発展していくためにも大切なことなのです」
(Kosovapress 2000.04.17)


劣化ウラン その後
 NATOがユーゴスラヴィア空爆で使用した劣化ウラン弾(depleted uranium)で放射線障害を受けたとして、空爆後のコソヴォ現地で停戦監視活動にあたったイギリス軍兵士12人がイギリス国防相を訴える裁判を起こした。兵士らはいすれも癌や免疫力低下、慢性的疲労感などの健康悪化をうったえており、訴訟が成立した場合、さらに数百人の帰還兵が訴えを起こす構えでいる。コソヴォで停戦監視活動の任務についたイギリス軍兵士は10500人にのぼる。
 劣化ウラン弾が原因と考えられる同様の症状は、1991年の「湾岸戦争」から帰還したアメリカ軍兵士にもみとめられており、「湾岸戦争症候群」と呼ばれている。
(Sunday Times 2000.00.16)


中国の見解
 NATOによるユーゴスラヴィア空爆から一年、中国共産党機関紙「人民日報Renmin Ribao」は大要次のような声明を出した;

(2000.00.00)


その時「緑」は
 NATOによるユーゴスラヴィア空爆から一年、1998年に社会民主党(SPD)との連立政権を実現した緑の党(Die Grünen)は、従来の反戦叛軍路線から一転、NATO域外派兵への連邦軍初参加に道を開く役割を果たした。ではその時、党内では何が起こっていたのか?1999年5月13日にビーレフェルトBielefeldで開催された党大会の投票結果から;
  1.「NATOによるユーゴスラヴィア空爆の一時停止を求める決議」に代議員800人中444人が賛成。過半数がヨシカ・フィシャーJoschka Fischer外相(緑の党党首)の方針に同意しなかったことになる。ただし空爆の完全停止を求める党内左派の主張は通らなかった。
  2.党指導部はNATOによる空爆を原則的に拒絶することはなかったが、「NATOはユーゴスラヴィアへの空爆を一方的に停止すること」を含めた12項目からなる要求を連邦政府に提出した。
  3.党大会は「重大な政治的相違はあるものの、様々な意見を尊重しつつ共に歩む」との声明を出した。
(taz 2000.04.17)


ひと目でわかる「コソヴォ戦争」(1999年)の3ヵ月間

3月19日 OSCE(全欧安保機構)と国連の難民支援団 コソヴォ現地より帰還

3月23日 NATO(北大西洋条約機構)  ユーゴスラヴィアへの空爆を決定 / ユーゴスラヴィア(セルビアとモンテネグロ)のミロシェヴィチ大統領 非常事態を宣言

3月24日 NATO軍 国連の承認を受けずに空爆開始 / ドイツ連邦軍 第二次世界大戦後初の戦争参加

5月6日 G7(英・独・仏・伊・加・米・日)とロシア ボンで停戦案に合意

5月7日 ユーゴスラヴィアの首都ベオグラードで中国大使館に爆撃

5月27日 国連戦犯法廷 ミロシェヴィチ大統領を起訴

6月9日 ユーゴスラヴィアとNATO セルビア人部隊撤退で合意

6月10日 セルビア人部隊 撤退開始

6月12日 KFOR(コソヴォ停戦監視軍)進駐 / ユーゴスラヴィア軍撤退

6月18日 ロシア軍 KFORに参加

6月20日 NATOのハビエル・ソラナ事務総長 空爆終結を宣言

結果:コソヴォのアルバニア人のうち約10000人がセルビア人部隊によって、また少なくとも150人がNATOの爆撃によって殺された。800000人が国外へ避難し、セルビアもコソヴォも壊滅した。


(taz 2000.04.17)

イブラヒム・ルゴヴァ 空爆1年後に語る
 
イブラヒム・ルゴヴァへの独誌インタヴュー
(Der Spiegel 2000.04.17)


オルトゥニョきたる
 KFOR総司令官クラウス・ラインハルトKlaus Reinhardtの後任として、欧州連合軍Eurocorpsの指揮にあたってきたスペイン軍のフアン・オルトゥニョJuan Ortuño中将がコソヴォに到着した。18日にプリシュティナで行われた就任記念式典にはKFOR、NATOの現地首脳陣、コソヴォ暫定統治機構ほかコソヴォの主要政治勢力の代表が出席した。 就任あいさつ
 一方、後任への引継ぎを終えたラインハルト「前」司令官はドイツ・ハイデルベルクの総司令部へ帰還した。
(Kosovapress 2000.04.18)

ナシュもきたる
 ミトロヴィツァMitrovicëの暫定統治にあたるウィリアム・ナシュWilliam Nash行政官が18日から現地での公務を開始した。行政官は同地の政治勢力の代表らと会談し、ミトロヴィツァの現状について報告を受けた。ミトロヴィツァではこの3ヵ月間に行政官が3回も交代している。
(Kosovapress 2000.04.18)


月曜日は休み
 コソヴォの文化教育局によれば、復活祭にあたる4月24日、初等・中等学校は共に休校とすることになった。
(Kosovapress 2000.04.21)


イースターおめでとう
 コソヴォ暫定行政委員会のハシム・サチHashim Thaçiは22日、行政府代表とコソヴォ民主進歩党(PPDK)の名で、マルク・ソピMark Sopi司教に復活祭を祝うメッセージを送り、「初めての自由で平和な状況における復活祭」に祝意を述べた。この日は、コソヴォの他の主要政治家も復活祭を祝うメッセージを発表している。
(Kosovapress 2000.04.22)

まぼろしの銃声
 コソヴォ東部に接したセルビア共和国南部で発砲があり、未確認の情報によれば、アルバニア人1名が死亡した。アメリカ軍Bondsteel駐屯地で停戦監視にあたっていたラッセル・バーグRussell Berg広報担当によれば、21日の正午頃にコソヴォ暫定当地区の外側に面したジョルジェヴァツDjordjevac村附近で銃声が聞こえたが、発砲そのものは目視できなかったという。
 なおこの情報に先立って、ユーゴスラヴィアBeta通信も同様の報道をしている。
(Associated Press 2000.04.22)


セルビア南部 緊迫
 セルビア共和国南部の、コソヴォと境界線を接する地域で3度の発砲があり、ユーゴスラヴィアBeta通信によればアルバニア人2人が死亡、セルビア側の警官2人が負傷した。KFORはUÇK(コソヴォ解放軍 Ushtria Çlirimtare e Kosovës)の後継武装組織とされるUÇPMB(プレシェヴァ・メドヴェジャ・ブヤノフツィ解放軍 Ushtria Çlirimtare e Preshevës, Medvegjës dhe të Bujanovcit)が武装活動停止の約束を反故にしたと非難している。
 Beta通信によれば、セルビア南部のアルバニア人政党である民主協商党は、境界地域の非軍事化を要求しており、プレシェヴァ、メドヴェジャ、ブヤノフツィ各地域の自治区化へ向けた交渉をベオグラード当局に求めている。また同党指導部は、セルビア軍・警察が「弾圧と差別と暴力の矛先を現地のアルバニア人に向けている」と非難している。
(taz 2000.04.27)


プリシュティナ緊迫
 プリシュティナPrishtinëで4月26日、セルビア政府の獄中にあるアルバニア人全員の釈放を求める「抗議する市民会議Këshilli qytetar i protestës」の呼びかけに応じて数千人が集結。朝8時に「マザーテレサ Nënë Tereza」通りを出発、「アルベリアArbëria」などプリシュティナの主要交差点を通過してフシャ・コソヴァFusha-Kosovë[プリシュティナ郊外のセルビア人居住区.セルビア語名『コソヴォ・ポリェKosovo-Polje』]へ向かう橋からラピLlapiのモスク、高等医学校へと行進した。この日のデモにはプリシュティナの学生・生徒が授業を休んで参加、手にプラカードや家族知人の写真を持ち、安否すら不明な獄中の人々の即時釈放を叫んだ。
 同日午後5時には「抗議する市民会議」が記者会見を開き、デモの目的について説明すると共に、行方不明者に関する情報公開について国連やUNMIKがミロシェヴィチ政権側と交渉にあたること、などの要求項目を明らかにした。
(Kosovapress 2000.04.26)


ベオグラード緊迫
 ベオグラードで4月25日深夜、ユーゴスラヴィア航空(JAT)の社長が暗殺された。事件翌日、翌々日の政府系日刊紙による報道は次の通り;
 25日夜、ベオグラードのヤシェ・プロダノヴァJaše Prodanova通り20番の路上で、長年にわたりJATの社長を勤めてきたジカ・ペトロヴィチŽika Petrović(61)が銃火器により殺害された。これは紛れもなく、ユーゴスラヴィア連邦共和国の指導的人物に対するテロリストの行為である。内務省( MUP)[Ministarstvo unutrašnjih poslova]の捜査員がこのテロリストの発見に向け鋭意捜査中である。
 ジカ・ペトロヴィチは1939年生まれ。1967年にベオグラード大学交通科学科を卒業後、ユーゴスラヴィア航空局交通センターに勤務。当初エンジニア部門に従事し、間もなくJATの社長に選出。その後、国家航空運輸局の局長に任命された。
(Politika 2000.04.26)
 JATの広報担当によれば、自宅で殺害されたJATのジカ・ペトロヴィチ社長の葬儀が、27日14時からポジャレフツPožarevcの旧墓地で行われる。葬儀にはセルビア通商産業委員会のモミル・パヴリチェヴィチMomir Pavlićević代表ら[原文ではその他、経済界要人の名が並んでいるが省略]が出席する。また葬儀に先立ち、同日10時からベオグラードのサヴァSavaセンターで、この著名な経済人の業績を偲ぶ追悼式が行われる。
(Politika 2000.04.27)

ユーゴスラヴィア 要人暗殺の系譜
 ジカ・ペトロヴィチŽika Petrovićは最初の犠牲者ではない。少し前には
  民兵部隊の司令官だった「ビジネスマン」ことゼリコ・ラズナトヴィチZeljko Raznatović(またの名をアルカンArkan)、
  パヴレ・ブラトヴィチPavle Bulatović国防大臣
が射殺されており、さらに前には
  ラドヴァン・ストイヴィチRadovan Stojivić内務副大臣、
  ユーゴスラヴィア左翼連合のメンバーで国営製油企業「ベオペトロルBeopetrol」社の社長でもありミロシェヴィチ大統領夫人[ミラ・マルコヴィチMira Marković左翼連合党首のこと]にも近いゾラン・トドリヴィチZoran Todorivić、
  通称「ビジネスマン」でミロシェヴィチ大統領の実子の盟友でもあるアレクサンダル・コヴァツェヴィチAleksandar Kovacecić、さらに
  独立系新聞「ドネヴニ・テレグラフDnevni Telegraf」のスラフコ・チュルヴィヤSlavko Ćuruvija編集長
も暗殺されている。いずれの事件も犯人は捕まっていない。
(taz 2000.04.27)


さらばクラーク
 27日にベルギーのNATO総司令部で、ウェスリー・クラークWesley Clark最高指令官が退任直前の記者会見を開き、
(2000.04.)

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