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イスマイル・カダレ 『大いなる孤独の冬』

第1部 過ぎ去った夏への鎮魂歌

1
 九月の終わりに強い風が起こり、嵐が48時間間断なく吹き荒れた。嵐は多くの損害を残していったが、テレビのアンテナにも被害を及ぼし、それらの大半をねじ曲げてしまった。嵐がやんでから数日間、人々は屋根の上に登りアンテナの修理に追われた。むき出しになった針金のかたわらで雨に濡れないよう頭からレインコートをかぶったその姿は、どこかずっと遠く、別の時間の中にいるように見えた。
 ニュースの放送時間はどんどん長くなっていた。それというのも、夏の数ヶ月間は半分休止状態だった会議や戦争が、再び開始されたからだった。戦争は各大陸の周辺地帯で行われ、一方、幾百もの大都市では、灰色の、時代がかった建物の中で政府間の対話が行われていた。そういう政府は世界中に百余りもあったが、二つの政府を擁する、神話の中の双頭の犬のような国々は数に入っていなかった。
 人々はニュースを追いかけながら、悪天候の時の空の鳴る音を聞いた時、室内で暖かいところにいるにもかかわらず生じる感覚にも似たようなものを感じていた。そんな感覚をさらに強めたのが気象情報であった。ヨーロッパには引き続き霧が立ち込め、アジアの半分は今や雪に覆われ、気温と気圧の変化によってサイクロンは砂漠地帯の中心部から移動しつつあった。そういったことを伝えた後だから、アナウンサーが口にした『おやすみなさい』とか『よい夜を』という挨拶の中に、どこかしら皮肉めいたものが混じっていたのも当然だった。

 ベスニクが通りへ出た時、時刻はまだ七時半をまわっていなかった。湿っぽい夜だった。大通りで上着を着込んだ人々を始めて目にして、彼は何か予期せぬ発見をした時ででもあるようにびっくりした。秋がもうそこまで来ていた。
 歩道は人であふれていた。各省庁の建物の高い扉が開いて、大勢の職員が外へ出て来るところだった。しばらく人混みの間を歩いていると、タバコがないことに気付いたので、バーに入った。そこから出てマッチを探していると、指先に何かすべすべしてひんやりとした感触があった。フィルムだった。この間の土曜日に写真機で撮ったものだが、まだ現像に出していなかったのだ。それは海で撮った写真だった。
 ザナと一緒に過ごす初めての夏だった。ベスニクはセルロイドのフィルムから指先を離さぬまま、そう思った。彼がドゥラスの海岸の至るところでザナの写真を撮った。ティラナに戻ってから数日間というもの、彼女は写真を心待ちにしていた。ところがベスニクがずっと編集部の仕事にかかりきりになってしまった。一週間前、ザナはフィルムが現像にもまわされていないばかりか、写真機から取り出されてもいないことを知って、ベスニクの忘れっぽさに腹を立てた。ベスニクはザナに謝った。謝罪の気持ちが本当であることを示そうと、彼女の目の前で写真機からフィルムを取り出してみせた。
『気をつけてよ、光が入っちゃうじゃないの』 フィルムに焼き付けられたものが不意に消えてしまっては大変とばかり、ザナは手を伸ばしてそれをひったくった。
 フィルムが光にさらされる。閃光で、顔も髪の毛も海岸も焼け崩れてしまう。核爆発の目もくらむような光と同じだな。最近の若手作家たちがよくそんな詩を書いていた。ベスニクはそんなことを考えていた。
 前に、旅団通りに写真屋があるのを見かけたことがあるのを思い出した。彼はスカンデルベイ広場を横切ってディブラ通りに入った。右側の歩道の薬局のそばに、ベニがいるのが目に入った。前にも何度か同じ場所に、同じ年頃の連中とたむろしているのを見たことがあった。今夜も今夜で、壁に背をもたせて、軽く膝を曲げた格好で寄りかかっていた。彼らはタバコを吸っていた。もう何度も、そうやって時間をつぶすのはやめろと言ってきたのだが、しかしそうやって自分が口うるさい兄貴の役割を演じるのは気分が良くなかった。だからベスニクは何も見ていないふりをしたまま歩調を速めた。
 ディブラ通りでようやく人混みから抜け出した。バスがゆっくりと、商店街のショーウインドウの灯りを反射させながら通り過ぎた。旅団通りで、幾度か通行人とぶつかりながらも、彼は首を伸ばして看板の文字を読んでいた。家具。台所用品。カフェ。居酒屋。そしてようやく写真屋に来た。
 店内に入ると、客たちが順番を待っていた。
 ベスニクは、金髪の活発そうな青年のうしろに立った。その向こうに兵士が一人立っていた。それから、おそらく高校生であろう、女の子が二人並んでいた。二人は小声で何かささやきながら、笑い出しそうになるのをこらえていた。兵士は少々憂鬱そうにそれを眺めていた。
 どうしてこんなに大勢、写真屋に来ているのだろう。ベスニクはつぶやいた。そしてまたザナのことを考えた。彼は写真を撮られるのが好きではなかった。
『それってイスラム教のなごりなの?』
そう彼女に問い詰められたことがたびたびある。
「どうぞ、同志」
店の女性がうつむいたまま、活発そうな青年に呼びかけた。
「入党書類用の写真を」
金髪の青年は、はきはきした口調でそう言った。
 ベスニクの番になると、店の女性が彼の名を呼んだ。
『いい名字ね』
海でザナにそう言われたことがある。
『私もザナ・ストルガになれたら嬉しいわ。だめかしら?』
 今頃は、どこの浜辺も雨だろうな。彼はそんなことを考えていた。
 店員が請求書を切って差し出した。
「2レク50です。金曜日には出来上がります」
 ベスニクは請求書を受け取って店を出た。外では再び雨がぽつりぽつりと降り始めていた。こまごました店が立ち並んでいる場所を歩きながら、反対側の通りの看板を何とはなしに読んでいた。クリーニング。バー・ビュフェ。薬局。と、父にヴァリウムを何錠か買ってくるよう頼まれていたのを思い出した。近頃いろいろと気に障ることがあるらしい。
[訳注;valiumは精神安定剤の一種であるジアゼパムdiazepamの商標名]
 ベスニクは白い横断歩道を通って道路を渡り、薬局に入った。カウンターでは美人の薬剤師が仕事をしていた。彼女は一人の年老いた農夫に薬の使用法を説明しているところだった。農夫はいらいらした様子で説明を聞いていた。薬剤師は最初から説明をやり直して、軽く首をかしげながら何度も「わかりますか?」と繰り返していた。時折視線を上げて、順番を待っている客たちに助けを求めるような目つきをしてみせた。ベスニクと軽く目が合うと、かすかに肩をそびやかして微笑んでみせた。
「ああ、蛇もいるな」
ベスニクはつぶやいた。彼の視線はふと窓ガラスに描かれた薬局のシンボルに向けられた。誰がこんな恐ろしいシンボルを考え出したのだろうか。
『私も蛇は嫌いよ、でもね、いつものことだけどあなたが蛇嫌いとはびっくりね』
海へ行く途中の道路で車のタイヤに轢き潰された蛇を見た時、ザナはそう言っていた。あの時ベスニクはブトリントの蛇の話をしていたのだった。するとザナの顔から血の気が引いて、とうとう
『もういい、もういいわ!』
と言い出した。彼にしてもそんなことを思い出すつもりはいつだってないのだが、切手や絵葉書で古代の劇場跡の石段を見るたび、つい記憶が甦ってくるのだった。それは、彼がかつて新聞記者として働いていたこととも結びついていた。彼はこれまでの人生の中で蛇を見たことが一度もなかった。仕事でジャングルへ行った記者の中でも、そういう機会にお目にかかることはおそらくないのだろう。
 前に午後遅くにあわただしく出かけたことがあった。車道を交通警察のオートバイがひっきりなしに行き来していた。道路わきの町や村には、ソヴィエト首相の来訪を歓迎する横断幕が赤く輝いていた。数日前からアルバニアに来ているのだ。
 ベスニクは夜中までにブトリントに着いていなければならなかった。フルシチョフの最初の訪問予定地の一つがブトリントである可能性があったからだ。ベスニクはこの有名な古代都市の遺跡を一度も見たことがなかった。翌日、移動で疲れきっていた彼は、朝早くから眠りを破られた。起きて車から降りると、そこは尋常でない静けさだった。古代都市の廃墟、円柱に、彫像に、ギリシア悲劇が上演されていた劇場、それらがみな自分の足元に広がっていた。オイディプース王。エーレクトラー。すべてが澄みきっていて、そして死に絶えていた。どこかから、何かを叩く音だけが聞こえてきた。フルシチョフの演説の中の一節『アルバニアはヨーロッパの花咲く園となるだろう』がアルバニア語とロシア語で書かれた赤い布地を、誰かが打ち付けている。
 ベスニクは下に降りて、半分水没しかけた劇場跡の彫像や円柱を近くで見ようとした。どこかで大水があったに違いない、水が濁っていた。流れ込んだ水が静かにかきまわされるのが感じられた。ねじ曲がった彫像が、悪意に満ちた無関心な目つきで、辺りを睥睨していた。その時不意に、ベスニクは何匹もの蛇がいることに気付いた。蛇は茶色に濁った水の面をゆっくりと、ぞっとするほど物憂げな様子で這いずりまわっていた。ベスニクは一歩退いたが、その時笑う声が聞こえてきた。
『怖がることはないさ。そいつらはもうくたばってるよ』
それはATSHのゼフだった。
[訳注;ATSH=Agjencia Telegrafike Shqiptare アルバニアの国営通信社]
『もうくたばってる』ゼフはもう一度言った。
『ほらもう一匹、あっちの、円柱のところにも』
『わかってるよ』ベスニクは答えた。
『二、三日前に毒を盛ってやったのさ』ゼフが言った。
『そこいら中の沼に蛇がいっぱいいてね、放っておいたら危ないだろ。なあ?フルシチョフはよく自分で歩き回るから、何が起こるかわかったもんじゃあるまい。そういうわけで、万事に備えてそこいら中の沼という沼に毒を撒いておいたのさ』
『また一匹いる。ひどいありさまだな』ベスニクは言った。
「どうぞ、何をお求めですか?」薬剤師がたずねてきた。
 ベスニクは注文を告げた。
「ヴァリウム錠を貰えますか?」
「処方箋はお持ちですか?」
[訳注;上の2行は全集版では欠けている]
『今日は大したことないんだ』ゼフが言った。
『しかし昨日は、いやとりわけ一昨日は、ひどい光景だったよ。蛇が次から次へとそこいら中に飛び出して、あっちこっちでのびちまった。』 そう言ってゼフは指差した。
『雄弁家に、哲学者に、もう一人雄弁家。ほら、あそこにいる女たちが見えるかい?あの腕の折れた連中さ。そう、それだよ。あれは古代のコーラスをやってるのさ。一昨日は蛇があの肩にへばりついていた』
『もうよしてくれ!聞きたくない』ベスニクが言った。
『しかしだな、ずっと見ていたが、長いこと蛇どもはのたうち回っていたよ。時折、何かを恐れてでもいるように見えることがあった。さらに何匹かはいつのまにか円形劇場の石段の上まで這い登っていた。劇の見物でもしているようにな。アイスキューロスとか、オイディプース王のさ』
「レジでお支払いをどうぞ」
薬剤師が言った。
 通りに出ると、30分前ほどの混雑はもうなくなっていた。雨は再び降り止んでいた。通行人の何人かが映画館の看板を眺めていた。ベスニクは夜になればなるほど、道路や交差点上では、見に行くつもりもないのに映画の看板の前で足を止める暇な連中が増えてくるということに気付いた。というのも上映はとっくに始まっているのだし、彼らがそれだけ時間を費やして眺めている目の前の上映時刻表も、彼らには必要ないものに決まっているからだ。
 ベスニク自身も、まさに必要もないのに広告の前で時間つぶしを楽しむところだったが、ザナのところに行かなければならないのを思い出した。それで急ぎ足になると、再びスカンデルベイ広場へと出た。彼は静まり返った省庁の建物の前を通った。一時間前まではたくさんの窓に灯りがこうこうとついていたのが、今は真っ暗だった。どこかの二階か三階の辺りで電話の鳴る音がしていた。ベスニクはこれといって理由もなく微笑んだ。
 彼は右に曲がると、公園の暗がりの間を通り抜け、中央郵便局のある通りに出た。二、三箇所からダンスミュージックが聞こえてきた。水蒸気で曇ったガラス窓越しに、ねばっこくぼんやりとした人影が幾つか見えた。まるで水中の王国のようだった。どの職場でも、どの学校でも、アルバニア-ソヴィエト友好月間の開始にあたってダンスパーティが催されていた。その音色を聞いていると、胸がしめつけられるような感じになった。あの写真屋の女性店員にフィルムの光感度を教えておいた方がよかったかな、と彼は思った。もっともそれは大して気になることでもなかった。本当は、あのフィルムの感度がどれくらいだったのか彼自身にもわかっていなかったのだ。あの時、ブトリントでゼフはフィルムを四本以上も使って蛇の写真を撮っていた。おぞましい話だ!ベスニクはあの蛇のことを忘れようと躍起になっていた。
 あの兵士は今頃、写真を撮り終えた頃だろう、照明の電灯と、写真屋にあれこれと指図されて汗だくになっているんだろうな。あの女子高校生らもそうだろう。今から二年前、ベスニクが入党書類用の写真を撮ってもらった時、その時の店員の女性は彼にこう言った。
『おめでとうございます、同志』
 そうこうするうちザナの家に着いた。二階建ての大きな一軒家だった。その通りに並ぶ他の邸宅と同様、一階には家の主たちが、すなわち戦後に没落した一家が住んでいた。
 ベスニクは玄関前の階段を昇り、呼び鈴を鳴らした。扉が開いてザナの母が顔を出した。
「おやベスニク!よく来てくれたわねえ!」
彼女は言った。
 去年の冬に比べるとまた髪を短くしていた。ザナと婚約を交わした時以来だ。彼女が相変わらず元気なのはベスニクにとっても嬉しいことだが、少々おしゃべりが過ぎるのが玉にキズだった。
『ママは嬉しいのよ』
ザナはいつもそう言っていた。
『私もお母さんに性格が似てくるのかしらね、わからないけど。いやだわ、おしゃべりおばさんになっちゃうのかしら。あなたどう思う?』
[訳注;原語thartiçkëの原義は「酸っぱくなった果実」]
とザナはそんなことを、彼に寄り添いながら終始楽しそうな口調で語るのだった。確かに彼女は自分の欠点を自己批判していたのだが、それが彼には心地よかった。ベスニクの家族はおしなべて口数が少なかった。父親もおばも(もちろんベスニク自身も)そうだった。それどころかベニまでもが、近頃では滅多に口をきくことがなくなっていた。たぶんあのディブラ通りで、膝を軽く曲げたままくわえタバコで仲間らとたむろしている時は大いにしゃべっているのだろう。家に帰ってきたらほとんど口を開くことなどないのだが。ただ一人、うちでぺちゃくちゃさえずっているのはミラぐらいなものだった。もっとも、娘たちというのは高校生時分にはいつだっておしゃべりなものなのだ。
「雨は降ってた?濡れなかった?」
ザナの母がたずねた。
「いいえ、ついさっき降り始めたところですよ」
ベスニクは答えた。
「誰か来てるんですか?」
「妹がね、夫のスカンデルと来てるのよ」
ベスニクはもの問いたげな目つきをした。
「スカンデルっていうのはね」
リリは声を落とした。
「あなたも知ってるんじゃないの?」
「スカンデル・ベルメマですか?作家の?」
するとリリは微笑んだ。
「決まってるわ。でも随分びっくりしてるわね。うちの妹とと結婚してたってこと、あなた知らなかったかしら?」
「知ってますよ」ベスニクは答えた。
「でも・・・もう長いこと会ってないですねえ。あれはたしか・・・」
 実際、ベスニクはその作家とは、ザナとの婚約式の席で初めて対面して以来、一度も会っていなかった。彼はザナの親族方面とはことごとく疎遠になっていた。
『うちの妹がね、夫のスカンデルと来てるのよ』
とリリが言った時、その言葉はベスニクにとってほとんど予期せざることとして聞こえた。
「ははあ、そういうことか」
とつぶやきながらベスニクは髪に手をやった。要するに俺もまた、命短き人間の常として親族一同の訪問というわけか。
「まあまあ、近頃の若い夫婦はねえ」
リリはさっきからずっと、何やらひそひそ喋っていた。一方ベスニクは、もし誰かにいきなり
「有名な作家のスカンデル・ベルメマはザナのおばの亭主だ」と言われたら、自分ならぽかんとなってしまうだろうなと考えていた。
「こんばんは」
とベスニクは挨拶しながら居間に入った。
 前に文芸誌の紙面やテレビの画面で見たことのある顔の人物が、微笑んでいた。それは、周りで起こっていることとはどこかしら無関係に見える微笑みだった。その夫の隣には、背の高い、どこから見ても姉のリリに似ていない女が、ソファに座っていた。それが彼の妻で、会話には加わっていなかったが、自分の周りで話されていることに熱心に耳を傾けていた。
「やあベスニク、この頃はどうだい?」
ザナの父が言った。
 ベスニクは『元気です』とでも言いたげにうなずいてみせてから、家人らの間に腰を下ろした。彼が彼女の父と話す時、以前から厄介に思っていることが一つだけあった。それは、自分から彼に話しかける上で、自然な態度がとれないことだった。初めて知り合った頃、彼はこの父親に接する時も、他の人たちがそうするのと同様「クリスタチ同志」と呼んでいた。がしかし、二週間もするとどうも具合が悪く感じられてきた。ザナだけが会話の中で二、三度、笑いながらも唇を噛みしめていた。とはいえ単に「クリスタチ」と呼ぶのは尚更のこと難しかった。それは、その人が副大臣だからというだけでなく、その年齢や・・・他にも、その人に関すること、つまり身体つきや、話す声や、立ち居振る舞いや、その服の着こなしや、そういったことのせいだった。
「元気ですよ、そちらは?」
ベスニクは訊ねた。彼はようやくのことで、複数形を用いて呼びかけるという「中庸の道」を見出した。そうすれば、直接に名前を呼ばずに済んだからだ。
[訳注;原語でベスニクは恋人の父に“ju”と呼びかけている。これは2人称複数の人称代名詞だが、一人の相手に対しても尊称として用いられる。大半の欧州言語も同様]
 もちろん、それは楽なことではなかった。例えば電話でこの父親を呼び出す時だ。さすがにベスニクも「クリスタチ同志」と呼ばないわけにはいかない。しかしながら、電話の場合だと話はずっと単純で、「同志」という言葉が、電話番号や、ベルの鳴る音や、受話器の形にやすやすと馴染んでしまうのだった。
[訳注;「同志」は原語shok(ショク)]
「結局のところ、社会主義が俺たちの生活の隅々にまでゆきわたっていないことが問題なんだよ」
といつだったか職場でそんな話題になった時に、同僚の一人が言っていた。我々が重要な役職にある年配の人物を「同志なにがし」と呼ぶのには、困難が伴う。なぜなら、我々の潜在意識のどこか奥底には、「~様」という言葉が今も影を落としているからだ。
[訳注;「様」は原語zotniで、当時は外国人などを呼ぶ時にしか用いられなかった。現在は敬称の一つとして復活]
「それに、ザナの一家の住む邸宅の一階にいる、往年の主たちのこともあるしな」
とベスニクは思った。
「もう秋に入ったか」
クリスタチは娘のいいなづけから視線を外さないまま、何かしらそこに秋の兆しを見出そうとでもするように、考え深げに言った。ベスニクは髪に手をやり、雨のしずくを振り払った。
「そうですね、天気も崩れてきましたし」
ベスニクが言った。
「一昨日、最後に残っていた大使も帰っていったよ、休暇で来ていた連中だったがね」
クリスタチは、まるで逃げた鳥の話でもしているかのような口ぶりで、そう言った。
「もうすっかり秋だな」
「そりゃそういう時期よ、10月なんですから」
リリが言った。
「第二の秋ですね。もう、そうは言いませんが」
とスカンデル・ベルメマが、口にタバコをくわえたまま言った。
[訳注;アルバニア語の月名には時代差や地域差が大きく9月、10月、11月はそれぞれ「第一の秋(vjeshtë e parë)」「第二の秋(vjeshtë e dytë)」「第三の秋(vjeshtë e tretë)」とも呼ばれていた。現在の月名(shtator、tetor、nëntor)はラテン語からの訳語に由来する]
「今どきそういう言い方はもうしないよ、小説の中ならともかく」
クリスタチが言った。 「もう使われないなんて、実に残念ですよ」
スカンデル・ベルメマが言った。
「十月だの九月だなんて言い方、私にはまるで実りのないもののように聞こえますよ。第一の秋、第二の秋、第三の秋の方がずっといきいきとしている」
「おやおや、そりゃあ私には思いもつかなかったがね」
クリスタチが言った。
「これはですね、ひと幕またひと幕と厚みを増してゆく、寒さのドラマなのですよ」
とスカンデル・ベルメマは答えた。そのしっかりした唇の動きにつれて、口にくわえたままのタバコの灰が右の膝にぱらぱら落ちたが、本人は気付いていなかった。或いは気付いていないふりをしていたのか。妻の方はというと、さりげない手つきでそれをはらい落としていた。
 秋をめぐる会話は、一分程もすると立ち消えになった。時候に関する話題というのはいつもそんなものだ。
「この頃はどうしていたんだい?長いこと君を見かけなかったが」
クリスタチがベスニクに問いかけた。
「大きな記事に取り組んでいて、忙しかったんですよ」
ベスニクは答えた。
「記事というと、中東危機のかい?今日出ていたあれか。君が書いたの?」
クリスタチが訊ねた。
「ええ、他の同志と一緒にですが」
「あれはよく書けていたよ」
クリスタチは言った。
「ただし、一昨日の輸入問題に関する記事はどうも気に入らなかったがね」
 ベスニクは部屋のカーテンに目をやった。それは、部屋の中にある茶色の家具や、レーニンの全集がぎっしり詰まった本棚と、何となく調和していた。それからテレビの方を見ると、それはバラバラに分解されていた。配線の束が外に引っ張り出されていて、まるでテレビがハラキリでもしたようだった。
「壊れたわけじゃないんだ」
ベスニクの視線に気付いてクリスタチが言った。
「真空管の調子が悪いんで、取り替えようと思ってね。だがね、自分の関わっている部署が批判されてるからどうだっていうんじゃないんだよ」
彼は話を戻した。
「そうじゃなくて、あの記事は上っ面だけで、書き方に責任感が感じられないんだ。輸入問題にはいろいろと予想外の困難がつきものなのに」
 ベスニクは何と返事したものかわからなかった。実は彼はその記事を全然読んでいなかったのだ。彼はスカンデル・ベルメマと目が合った。その深い灰色の瞳の下には、先程と変わらぬ微笑みが光り輝いていた。
「予期せぬ出来事というのは」
クリスタチの話は続いていた。
「そうそう、例えばだ、ソヴィエト連邦から我が国への小麦の積荷が遅れたことだよ、あれで我々はフランスの企業へ連絡を取らなければならなくなったんだが、さてどう思うね君は?見積もりをしようにも見積もりが立たないんだ」 そこで彼は声をひそめた。
「もっとも、君もわかっているだろうが、こういうことは外で話すようなことじゃない。要するに我々はそういう事態に直面しているわけだ。で、君のところの記者に言わせれば、どうしろというのかね?小麦が遅れていると騒ぎ立てるのか?それで人民の中に誤解を生じさせるのか?だが事実は単純なことだ;ソヴィエト連邦にもいろいろ大変なことがあるんだよ。天候のせいさ、まったくこん畜生め!いろんなことが起こり得るんだよ」
そう喋りながら、クリスタチはもうほとんど腹を立てていた。彼の視線は部屋の四方をあちこち飛び回ったが、ベスニクとだけは目を合わせようとしなかった。
「天候か」
ベスニクは考えた。
「だが、何を怒っているのだろう?」
 そこへザナが部屋に入ってきたので、会話は何とはなしに立ち消えになった。
「いらっしゃい。どうしてた?」
と言って彼女はソファの端に腰掛け、ベスニクに微笑んだ。彼はいつでも彼女の薄い夏服が好きだったし、彼女もそのことを知っていた。とりわけ彼のお気に入りは、二人が何日も過ごした海水浴シーズンの終わる頃、彼女が来ていたリンネル製の夏服だった。彼は彼女のふさふさとした、茶色に少しオリーヴ色の混じった髪や、太陽の光を目一杯にとっておこうとでもするかのように伸ばされる腕や膝を、ちらちらと見つめるのだった。そうして何千回かそうした頃、ふと自分の意識の内に、「俺にこんなきれいな妻がいたら」という思いがよぎったのだった。
 ザナはまた微笑むと、ごく自然なそぶりでその手をベスニクの手の上に重ねてきた。
「くたびれた?」
ザナが甘い声で訊ねた。
「少しね」
 どこからか、たぶんダイニングの方だろうが、絶えず小さな音が聞こえていた。リリが元気よく居間に入ってきた。
「ごはんの前にラキを少し、どうかしら?」
リリが訊ねた。
「いいとも」
クリスタチが答えた。
「ザナ、ちょっとテレビをつけてくれ。ニュースの時間だ」
 テレビは配線が外に出たままだったが、驚いたことに、ちゃんと映っていた。
「天候の問題に決まってますよ。誤解の余地などあるもんですか」
ベスニクが言った。
「決まっているさ」
クリスタチが同じことを繰り返した。
「昨日、大臣と一緒の発表でも、そこはしっかり強調しておいたからね、『天候の問題』だと」
 ニュースが始まった。
「あら、あなたの中東よ」
ザナが言った。
 ベスニクは彼女と二人して笑った。画面には、ヘルメットと重装備で砂漠を行く兵士たちが映っていた。ベスニクはふと、一時間前に写真を撮っていた兵士のことを思い出した。今頃はきっと雨の中を兵舎に向かっているだろう。
「写真がもうすぐ仕上がるからね」
彼はザナに言った。
「あら、よかったわ」
ザナはテレビを見ながら答えた。画面では、ちょうど空港の滑走路に大型旅客機が着陸したところだった。タラップを伝って、ボルサリーノ帽を風に飛ばされぬよう抑えながら、背の高い男たちが下りてきた。カメラマンたちが写真を取ろうと四方から群がってきた。
「空港っていいわね」
ザナが小声でつぶやいた。
 リリがグラスを手に居間に入ってきた。
「また、パリ会議なの?」
彼女は画面をちらりと見て、グラスをテーブルの上に置きながら訊ねた。
「オリーヴもいかが?」
「いいや」
クリスタチが答えた。そして少しして
「外務大臣たちがブリュッセルに着いたんだ」
と付け加えた。
「毎日毎日会議で、よく飽きないわね」
リリが言った。
 カメラが、大股で空港の建物へ向かう国家の重要人物たちを追いかけている時、ザナはため息をついた。そしてベスニクに肩を寄せると、自分の腕を彼の腕へ回してきた。彼女の豊かな髪の毛からは、いつもの良い香りがした。
 グラスを運びながらリリが
「農業省で何か変わったことがあったらしいけど、誰か聞いてないかしら?」
と訊ねかけたが、誰も返事をしなかった。
「知らないかしら、一昨日の夜ね、大臣が雨の中ずぶ濡れで通りを歩いていたのを見た人がいるんですって。何かあったのかしら?」
するとクリスタチが妻の言葉をさえぎった。
「リリや、そういう政治がらみの噂ばなしをふれ回っているのはうちの下に住んでいるあの連中だとばかり思っていたが」
と言いながら彼は床の絨毯を指差した。
「お前だったのか?」
「あらまあ」
とリリが言った。
「あらまあ、じゃない。ああいうポストにある同志についてそんな噂を流すのは好ましいことじゃないぞ」
とクリスタチは言った。
「でもねえ、ああいうポストにある同志だからこそ、威厳ってものが必要なんじゃあないかしら、だって・・・」
「いいかい、誰だって雨の中、通りを歩くことだってあるさ。まったくお前ときたら。雨が降れば濡れるだろう、違うかい?」 クリスタチはそう言って客たちの方を見た。
[訳注;日本なら充分異様な光景だが、人口20万(当時)の首都ティラナで、閣僚や議員が普通に道端を歩いていても実際それほど珍しくない]
「確かに」
スカンデル・ベルメマが答えた。
「ついさっき、天候のことを話しませんでしたっけね?」
 クリスタチは声を上げて笑いながら、首を振ってうなずいた。
「そう天候だ、それに第二の秋のこともな」
 皆が笑った。グラスを手にしたまま、笑われている当のリリさえも、ずっと楽しげだった。
 リリが居間を出ると、スカンデル・ベルメマの妻が夫の耳に何やらささやいた。
「まだ帰らなくてもいいじゃないか。食事をしていきなさい」
クリスタチが言った。
「できればそうしたいんですがね」
とスカンデル・ベルメマは、ベスニクの方を見ながら言った。
「でも他の所にも呼ばれているんですよ、しかも少し遅くなってしまっていて」
 ベルメマ夫妻が立ち上がった時、シャンデリアの下のスカンデル・ベルメマの頭を見たベスニクは、その栗色の髪の中に赤みがかった色がちらちらと光っているのに気付いて驚いた。ザナの親友ディアナ・ベルメマの髪のことを思い出したからだ。
「ああ、親戚だったのか」
と彼はすんでのところで声に出しそうになったが、それも無理からぬことだった。
「作家というのはああいうものなのかしらねえ、アイデアが浮かんだ時というのは・・・」
ベルメマ夫妻が去ってから、リリが言った。
 ザナの目が、ベスニクの視線と合った。
「ママったら、すごくわかりきったことをしょっちゅう言うのよ、でも気にしないでね」
ザナは言った。ベスニクも悪い気はしなかった。
 電話が鳴り、リリがそそくさと立ち上がって出た。リリは敏捷なたちだったが、亭主と一緒だと特に元気そうだった。昔の写真を見た時、パルティザンの服を身に着けたクリスタチの、その痩せた面長の顔を見ていたベスニクは、何年もたつというのに、その顔つきがほとんど変わっていないことに驚いたことがある。
「オリーヴをやりたまえ、これはいけるよ」
 廊下では、リリがまだ電話で話していた。
「クーデタよ」
とザナが、テレビの画面を指差して言った。
 一同は、大して興味なさげにちょっとだけテレビの方を向いた。画面にはどこかの国の、砂漠にあるとおぼしき都市が見えた。中心に大きな像が立っている。
「今どき、よくあることさ」
とクリスタチは言ってテレビから視線を外した。彼とベスニクの会話は、オリーヴやタバコの輸出の件に移っていた。実際、経済の話題となるとベスニクも対外問題に関わっていたし、話が欧州統一市場や石油のことに及ぶとなれば尚更だった。
「クーデタって、どこのだい?」
と少ししてクリスタチが訊ねた。
 ザナは肩をすくめて言った。
「私が名前なんか憶えてるとでも?」
「無関心な奴だな」
と言ってクリスタチは叱責するように指先を立てた。
 ベスニクは笑った。
「じゃまたね」
とリリが言ってようやく電話を終えた。少しして彼女はドアから顔をのぞかせた。
「ごはんにします?」
 ダイニングルームはキッチンとつながっていた。明るい色で塗られた、感じのいい部屋だった。窓際には大きなサボテンがあり、壁には静物画が掛けられていた。
「タリアテッレにしてみたの、あなた、お好きでしょう」
リリがベスニクに皿を出しながら言った。
 クリスタチが、何か笑い話をした。ほとんどが天候の問題だったと思う。でなければ、あれほどユーモラスで上機嫌だったはずがない。蛇の件にしたって、天候の問題と同様だ。降水量の問題なのだから。もっとも、ATSHのゼフが蛇の写真を見せた時には、撮影クルーのチーフはじっとそれらに見入ったたまま、こう言ったものだ。
「何だってまたこんな、死にかけた蛇ばかり撮るような趣味があるのかね?」
 クリスタチはグラスにワインを注いだ。ベスニクは食欲がなかったが、それでも急いでタリアテッレを口に運んだ。リリが『食べている内に食欲がわいてくるのよ』と言い出しはしないかと冷や冷やして、半ば気が気ではなかったからだ。特に理由はなかったが、彼はそういうことを言われるのが嫌だった。そうして食べながらベスニクの視線は、ミネラルウォータの瓶のラベルを読んでいた。
『腎結石の患者におすすめです』
 タリアテッレが片付くと、リリは皿にビフテキとフライドポテト、それにロシア風サラダを盛ってきた。
 食卓での会話はうちくつろいだもので、話題は自由自在に外れたり戻ったり、ほんのちょっと前に済んだ話題がまた見出されたりと、楽しく、他愛もない感じのものだった。
「それからこれは、ザナの作ったカスタードプリンよ」
と言ってリリが冷蔵庫から四つの小皿を取り出した。
「ザナのカスタードプリンか」
ベスニクはふと思った。
「ザナと関係のあるものか」
眠くなった彼の脳裏に、二人して幾晩も幾日も寝るという想像が浮かんだ。
「そりゃめでたい。もっとも、始めたのがおしまいの方からとはね」
クリスタチが言った。
「時間はあるし、全部教えるわよ」
リリが答えた。
「だめよ、時間なんかないわ」
ザナが言った。
「どうして?いつ結婚する気だい?」
ザナはベスニクの方を見て言った。
「私たちは、1月の初めがいいと思うの」
 リリはその場にいる人たちの顔に次々と、すばやく視線を送った。どうしてそんなに急ぐのか、何か理由があるのではないか、それを知ろうとしていた。海辺のホテルで二十日間も一緒に過ごしているだけに、そうした疑念が起こるのも無理のないことだった。しかしリリの視線を受けても、一同の表情は至って落ち着いていた。
「ちょっと早過ぎないかしらね?」
リリが訊ねた。
「どうしてそう思うの?」
ザナが言った。
「彼女も、同じことを考えている」
ベスニクは、彼女の指先がその頬に影を落としているのを盗み見ながら、そう思った。
「幾晩も、幾日もだ。あの海辺のホテルの時のように」
とベスニクは思いながら、目をうっすらと閉じてみた。するとそこでは砂が雨に固まっていて、夏は彼の中では別の時代であるかのように遠くに思われた。
 クリスタチはタバコに火をつけると
「どうしてお前が口を挟むんだい?二人の好きなようにさせてやればいいじゃないか」
と陽気な口ぶりでリリに訊いた。
「コーヒーは、隣の部屋で飲もう」
そう言ってクリスタチは先に席を立った。ベスニクがそれに続き。ザナと母親のリリは少し遅れて着いてきた。ザナはベスニクと並んでソファに腰かけた。彼女は青のリボンで髪をたばねていた。
「どうして12月に結婚しちゃいけないのかな?」
ベスニクは思った。
「テレビは何をやってるかしら?」
とリリが言って、テレビの電源スイッチを入れた。画面には最初の内、ぼんやりとした二つの物体が動いているのが見えていたが、やがて映像がはっきりしてくると、二つの物体は、殴り合う二人の人間に姿を変えた。
「ボクシングだ」
ベスニクが言った。
「まあいやね、嫌いよ私は」
とリリは言った。
 どうやら最終ラウンドのようだった。というのも、ボクサー二人はすっかり疲れきっているようだったからだ。二人とも、防衛する力もほとんど残っていなかった。そのふらふらした戦いの様子は、どこかしら化け物のようであった。
「あっ」
不意にザナが声を上げた。一方のボクサーが倒れたのだ。レフェリーがやや両足を開き気味で、倒れたボクサーの前に立つと、カウントを始めた。ボクサーは膝立ちして、片方の肩でリングロープにもたれかかったまま、どんよりした目つきで、上がったり下がったりするレフェリーの手の動きを追っていた。そして何とか立ち上がろうとしていたが、それもかなわず、完全にリング上にのびてしまった。
「まあひどい」
とザナが言った。
「嫌だわ、本当に」
 もう一方のボクサーは、歓声を上げる観客らに応えるべく、リングの周囲を回り始めた。
「野蛮なスポーツだ」
クリスタチが言った。
 リリがコーヒーを持ってきた。しばらくするとテレビでは今日最後のニュースが始まった。ヘルメットと重装備で砂漠を行く兵士たちが再び映し出された。
『あら、あなたの中東よ』
ベスニクは時計に目をやった。もう零時を過ぎていた。
「もう遅くなりましたから、これで」
そう言いながらベスニクは立ち上がった。
「みなさん、おやすみなさい」
「おやすみ」
クリスタチが、あくびを噛み殺したような声で答えた。
「ベスニク、おやすみなさい。また来てちょうだいね」
リリが玄関のところで言った。
 ベスニクの肩にもたれかかっていたザナは、彼を見送るために、階段を下りてきた。いろんな階段を上り下りするだけで、ひとの幸運の形がわかるとしたら、随分楽なことだな。ベスニクはふとそんなことを考えた。建物の一階には、まだ何枚かの窓から薄明かりが漏れていた。
「ねえ、あの逆光で撮った写真も現像できてるかしらね?」
ザナが、すっかり眠そうな声で訊いてきた。
 ベスニクがザナの頬にキスをすると、ザナはベスニクの肩をやさしく抱き寄せた。海辺での、三週間にわたる激しく親密な関係を結んで以来、先月は二人ともそれほど頻繁には会っていなかったので、ベスニクは再び、彼女を激しく欲しいと思うようになっていた。二人は階段のところでしばらくキスを交わしていたが、それは満足というよりむしろ苦痛であった。先に身を離したのはザナだった。
「どうして12月に結婚しちゃいけないんだ?」
ベスニクは、少し不平そうにつぶやいた。
 ザナは髪をかき上げた。
「それじゃあ、おやすみなさい」
「おやすみ」
 雨粒をまばらに感じながら、ベスニクは、雨でずぶ濡れになった大臣の話を思い出して、声をたてて笑った。

「一緒に階段を下りて、キスをして、おやすみを言っていた」
ヌリハン婆さんはコップにカモミール茶を注ぎながら、つぶやいた。
「暗い夜を!」
[訳注;原語では「おやすみ」Natën e mirëと韻を踏む形で「暗い夜を」Natën e nxirëと言っている]
 彼女はしばらくの間、耳を澄まして、遠ざかっていく足音を聴いていた。どうしてこう、ちっとも寝つけないんだろう。彼女は考えていた。がやがやいう音が耳につくのか、それとも外の雨音なのか、さっぱりわからなかった。
「この雨のせいで、死んでしまったら」
と彼女は思った。
「あたしの墓には、黄色いカモミールを上に敷き詰めて欲しいものだわね」
 小さなスプーンがガラスコップにあたって嫌な音を立てた。
「あの二人は、逆光がどうとか言っていた」
そんなことをヌリハンは考えていた。
「どうしていつもいつもあの人たちは、あんな恐ろしいことを話しているのかしらねえ」
 20年というもの、そういう恐ろしいことの他には何ひとつ、彼女は耳にすることがなかった。
「打ち倒された階級は」彼女は思った。
「それだからこうして下の階にいて、縁起でもないことばかり聞かされるのだわ」
 コップのガラスが彼女の掌の中でカチカチと鳴った。
「そうよ、そうなのよ」彼女はまたつぶやいた。
「あたしたちは下で、あの人たちは上なのよ。あたしたちは一階の、地下室の、地獄のように落ち窪んだところで、あの人たちはその上の、あたしたちの頭の上にいて、別の人生を送って、別のニュースを聞いている。一緒に階段を下りて、食後のキスをするのだわね」
 ヌリハンはそうしていつものようにぶつぶつ言っていた。すると息子のマルクがいつも言うのだった。
「ママ、どうしてそんなにイライラしてるのさ?もうすんだことじゃないか」
それは、彼女が認めようと認めまいと、息子の言う通りだった。それは確かにもうすんでしまったことだ。だから彼女はイライラを抑えなければならないのだが、それでも、ほんのささいな、ほんのちょっとしたことがしばしば彼女の傷口には障るのだった。
 そうしてずっとコップの中をかきまわしながら、彼女は再び、編み出したばかりの空色のセーターに目をやった。エミリアが、古ぼけたソファの上に置き忘れたものだった。そう、そのセーター、それは、今年の冬を目前にして受けた最初の注文だった、毎年そうであるように。そして彼女は思い出していた。あのハンチェ・ハイディエ・ペザ・エ・マヅェによる、恐るべき最後の予言のことを。それは1944年の11月、大変動の数日前のことだった。
[訳注;1944年11月末、反ファシズム民族解放戦線はアルバニア全土を解放、アルバニア共産党の指揮下で戦後復興が始まった。なおハンチェ・ハイディエ・ペザ・エ・マヅェ(Hançe Hajdije Pezë e Madhe)は、カダレの他作品にも登場するムスリムの占い師で、政府幹部との繋がりが示唆されている]
『おお、そこな奥様方よ、運命を心して聞くがよい、あなた方は巣をつくろう蜘蛛のように、押し黙り、日々のパンを得るためにセーターを編むことになりましょう、お気の毒に、ああ、まるで蜘蛛のように』
「あの魔女め」
ヌリハンはぶつぶつとつぶやいた。
「ありとあらゆる不幸の中で、どうしてよりにもよってこんな、ことさら長く続くようなものを言い当ててくれたのかしらねえ、あの魔女め」
 冬の間じゅう、あの人たちは次から次へとセーターの注文を持ち込んでくる、いつもあざ笑うような目つきで。それはまるで、こんな風に言っているかのようだった。
『バスローブにセーターのおかげでうまくやっていけるのよ、あなたたちブルジョアジーは』 内気なエミリアの姿は、あの人たちの目には、こびへつらっているように映っていた。
「みんな、どこまでおべっかを使えば気が済むのかしら」ヌリハンは思った。
「おまけにマルクまで。あの子はまだずっと若いのに」
 彼女はゆっくりと、カモミール茶を飲み下し始めた。
「この家に押しかけてきてあの人たちのことを悪く言う人も、もう長いこといないわね」
彼女は思った。
「本当に、蜘蛛そのものだわ。もう神経も磨り減ってしまった。ものも言わず、影のように動き回って、セーターを編んでいる、編んでいるのよ、蜘蛛のエミリアは」
 ヌリハンはコップの中身を半分ほど飲み下すと、残りを再びかき混ぜ始めた。苦味が出てきたように思えたからだった。
「一体この、あたしたちを吹き飛ばしそうな狂ったような風は、どこから吹いてくるのかしらねえ」
と彼女はもう少しで、叫びそうになった。
「シベリアかしら、ゴビ砂漠かしら。そこにはどんな大きな毒蜘蛛がいるのかしら。この冬で自分が、おかしくなってしまえればいいのにねえ。もう右腕の感覚はなくなっているのよ。早いところおかしくなってしまいたいわ。もうこんな、知らない世界で捨てられた朽ち木みたいに、一人ぼっちでいるのはたくさん。新しい世界で・・・あら急に眠くなってきたわ。もう階段の足音を聴かされるのは、勘弁して欲しいわね。あの人たちの、逆光がどうとかいうわけのわからない話もね」
 打ち倒された者たち。それは一階の、洞穴のようなところにいる。彼女は思った。
「でも、もっと深いところがあるわ」
としばらくして彼女は口にした。
「地面の底よ」
 いつものことだが、彼女は死んだ知人たちのことを思い出していた。そうすると、彼女のくたびれきった頭の中に、死者全般に対する思いがずっと長いこと、駆け巡るのだった。何億という人、そう何億という人々が、地面の中に様々な格好で横たわっている。或る者は仰向けで、或る者は横向きで、また或る者は腹這いで、そしてまた或る者は両腕を広げたままで。それらはいずれも、民衆の慣習やしきたりにのっとっていた。死体は目に見えない網のように、この地球にからみついていた。まるで骨でできた編み物のように、それは厚みを増していくのだった。そうして世界のそこかしこで固まっていくそれらは、どうかすると、この惑星の頭蓋骨のようでもあった。
 死者こそが実はこの世界を支配している、生者たちほどにはひどく分断されていないようだから。彼女はそんな風に考えた。そして彼女は長いことコップを手にしたままぶつぶつとつぶやいていた。それからお茶を飲み干すと、床に就いた。遠くからダンスの音楽が聞こえていた。彼女はどうにかして、カモミール茶の湯気が自分の頭の中にのぼっていく様を想像しようとした。
「黄色いカモミール、のぼれ、のぼれ」
だがしばらくして思った。
「何ものぼらないわ」
 至るところ雨が降っている。そして自分たちは雨の中で弱っていく。雨と、そして独裁の中で。
「あたしたちをみんな吹き飛ばす、狂った風」 彼女は毛布の中で震えながらつぶやいた。シベリア、ゴビ砂漠、ヌリハン砂漠。

2
 編集部の廊下の、半開きになった部屋のドア、そこからひっきりなしに聞こえてくる会話のやりとり、時折の笑い声、タイプライターから流れるリズミカルなキーの音、電話口でのいささか普通でない大きな声、それらが多かれ少なかれ、新聞に生命を与えていた。それはまるで、来週の映画の内容を伝えるテレビの速報のようだった。
 国内ニュース、文化、及び人民からの投書を扱う部屋のドアは閉まっていた。それは、編集長がそれらの仕事に不満な時で、みんながずっと黙ったままで、仕事を順序良く片付けようとしているということだった。編集部に関わる人たちは、二階の廊下に面したドアのこうした状態が、ずっとこのままであるわけではないことをよくわかっていた。今たまたま閉まっているドアが、すぐさま開くこともあれば、その他のドアは-例えば農村生活や外交担当の部屋だが-今日は活気に溢れていても、何日もずっと閉まったままということもあった。
 それは、記者たちが最終稿を出した後の、普段と変わらぬ時間であった。彼らは立ったまま、タバコをくゆらせながら、机や窓際にもたれて、外へ出て最寄りの店でエスプレッソを飲みに行くまでの時間をつぶしていた。
 一階には、いつも通りの平日の活気が満ちていた。ホールには女性の一団が座っていた。そこを通る人は誰もが、あの女性たちは何かと訊ね、そのたびに居合わせた誰かが「あれは勤労青年の全国会議の出席者で、今からみんなでインタヴューを受けるのさ」と説明するのだった。
 職員の一人が、果物を盛った皿とコニャックの瓶を手に通りかかった。
「こりゃどうしたことだ、勤務時間中に一杯ひっかける気かい?」
「アルバニア学者のシュナイダーにインタヴューなんですよ」
職員は振り向きもせず、そう答えた。
「ゼウスって名前は、アルバニア語の『声』から来てるらしいな」
とイリルが言った。
[訳注;「声」はアルバニア語でzë ]
「おい、車が来たぞ」
窓際にいた記者の一人が言った。それを見ようと二、三人が寄ってきた。
「おやおや、あれは農業省の車みたいだぞ」
別の記者が言った。
「イリル、君に用があってきたんじゃないか」
 イリルの額は、明るい金髪の下でどんよりと暗い色をしていた。二日前に農業省からかかってきた電話は、彼が書いた記事のことですっかり腹を立てていた。
 ドアが開いて、誰かが顔をのぞかせた。
「ベスニクを見なかった?フィアンセの彼女から電話なんだけど」
「ベスニクなら、『フリードリヒ・エンゲルス』工場に出かけたよ。あの車で来たのは誰だい?」
「さあね、農業省からみたいだけど」
記者たちは声を立てて笑った。
「さあ今度は、『雷』の語源の話でもするか」
一人が言った。
 記者たちはそれからしばらくイリルをからかって遊んでいたが、そこへドアが開いて撮影クルーのチーフが姿を見せた。
「イリル、編集長が探してたぞ」彼は言った。
 ホールには、何ごともなかったように先ほどからの同じ活気が満ちていた。女性グループはわいわい騒ぎながら上階に上がっていった。どこかの部屋から電話口で話す声が聞こえた。
「もしもし、ああ、そうなんですか」
 編集会議の秘書が、党生活担当の記者を連れて通り過ぎた。記者は不満気な表情をしていた。
「正直な話、わけがわかりませんよ。去年だってトップ記事で『アルバニア-ソヴィエト友好』について書いたのは私ですよ。今度だってそうだ。それがどうして外交の記事にしちゃダメなんですか?これって結局、あっちの部門ですよ」
 すると秘書は微笑んだ。
「『アルバニア-ソヴィエト友好』は、外交とは関係ありませんよ。あなただってそれはよくわかってるでしょ」
 記者は会計課の部屋に入った。二、三人が、編集長の部屋がある廊下側の方を向いていた。そこからは激したような、酔っ払ったような話し声が聞こえていた。そしてドアが開くと、中からまず顔を真っ赤にした農業相が、それに続いて、背が低く筋肉質のイリルが、怒りで顔面蒼白になって出てきた。
「とにかく、あなたは間違っているんですよ農業相同志」
イリルは歯がみして言った。
 編集長は、農業相から半歩ほど離れて着いてきていたが、『もういいだろう』と言わんばかりに、イリルの肩に手を置いた。
「その件は、こちらも考えておくよ」
農業相が目も合わせずに言った。廊下の突き当たりで彼は編集長と握手を交わすと、憤然と階段を下りかけたが、ちょうどそこへ、先ほどの女性グループが下の階から上がってきた。
「おうい、給料を受け取っていってくださいよ」
と会計課の職員が出てきて言った。
 職員の一人が応接室から、おぼつかない足取りで出てきた。
「『へべれけ』の語源は話してなかったっけ?」
記者の一人が言った。
 コピー室のドアはひっきりなしに開いたり閉まったりしていた。
「写真室の責任者は?写真室の責任者を見なかったかい?編集長が探してるんだけど」
と廊下の突き当たりで呼ぶ声がした。
「まったく、どうしたのかしらねえ今日は。うちも耳が遠くなったわよ」
清掃員のベドリ婆さんが、もう一度金を勘定しながら階段を下りていった。
 そうして時間が来ると、記者たちはコーヒーを飲みに外へ出て行った。急いでいる者や、仕事がはかどっていない者たちは、近所の店で立ったまま慌しくコーヒーを飲み、他の者たちは、町の中心部にあるカフェ『リヴィエラ』へと向かった。そこは、編集長もよく通ってくる店だった。

 だが編集長はいつものようにカフェへは出かけなかった。彼は広い編集長室の机につき、写真の束に注意深く目を通していたのだが、明日の新聞にどれを載せるか決めかねていた。写真はどれも勤労青年の全国会議で撮ったもので、その会議にはエンヴェル・ホヂャも出席していた。
 編集長はそれらの写真が気に入らなかった。カメラマンのせいなのかカメラのせいなのか、彼にはわからなかったが、どちらにしても映り具合が気に入らなかったのだ。彼の知る限り、ATSHのカメラマンが持っているのは西ドイツ製の最新型のカメラだったはずだが、そんなことは言ってもしようのないことだった。
「結局は人の問題だ」
会議や演説で遠慮会釈なしに使われるそんな格言を、彼はぼんやりと思い出していた。
 それからしばらく彼は、あちこちの編集部門から提出された原稿を、ぱらぱらとめくっていた。どれというあてもなく、彼は記事の見出し文に素早く目を通していった。
『人民経済の新たな成果』、『ミュゼチェ村の新しい生活』、『人民のうたごえ』それに全国民謡際の短い記事、『十月;伝統のアルバニア-ソヴィエト友好月間』
[訳注;旧版では『「カール・マルクス」水力発電所落成式典』も]
 いろいろ大きな祭典が近付いているな。編集長はそう思った。報道は、大いに祝賀ムードでこれに応えねばなるまい。さらに高揚するような、楽観主義的なトーンで、だ。そこで目にとまったのは、四つの工場の落成式典と、地方での二つの祭典に彼を招待する電報の束だった。
 招待状の一通は、ドイツ民主共和国大使館からだった。大使が共和国建国記念日のレセプションを催すという。編集長は、社会主義国家の大使館のレセプションが好きだった。それこそは、彼がグラスを重ねたいと思うような場所だった。そこではグラスをおかわりしながら、誰にも話して聞かせたことがないような、昔からの夢想に身をゆだねていられるからだ。それは、共産主義の我が陣営の大使らが集まっていることによって沸き起こる熱情のようなものだった。彼はその会場の片隅にたたずみ、タバコを吸いながら、陣営拡大の可能性をあれこれと値踏みするのだ。それは心地よい喧騒だった。そしてその中で、フランス議会で共産主義者が新たな勝利を得ることに希望を膨らませたり、インドについてぼんやりと夢想したり、スペインが1937年に共産主義とならなかったことを悔やんだりするのだった。そしてその一方では、ユーゴスラヴィアの大使の姿を目にするたびいつも、辛らつで、毒々しい、憤怒の感情が沸き起こるのだった。
 編集長は招待状を脇に置いて、再び写真に目をやった。彼は思った。そうだ、更に熱烈な、高揚するトーンがなければならないのだ。だがこれは・・・その時、彼はちょっとした不安をおぼえた。自分が何か誤解していて、自分でも気付かずに必要以上に些細なことを気にしているだけではないかと思ったのだ。
「いや、そんなことはない」
彼は先ほどにも増して、写真の出来が悪いのだと確信するに至った。誰の責任か、そんなことは大した問題ではない。それはあの、専門家の連中に任せておこう。まず肝腎なのは、ATSHに頼んで他の写真を取り寄せることだ。そして彼は受話器を手に取った。

 ベスニクは『フリードリヒ・エンゲルス』工場の技術担当の事務室の、窓のそばに立っていた。そこからは、雨に濡れた工場の中庭や、本館の建物や、煙突や、鋳造所の一部が見えた。一台のトラックが入口のところでクラクションを鳴らした。守衛が、雨に濡れないようにと頭に新聞紙をかぶせた格好で詰め所の小屋から出てきて、門を開けた。彼は手を振りながら運転手に何やら話しかけていたが、門を押し開けると、それからやや急いで詰め所に戻った。どうやら中で電話が鳴っているようだった。
 女性が二人して、大きな掲示板の前へ駆け寄っていった。模範労働者の写真とポスターらしきものが貼ってあった。両方の柱に赤い布がかけてある。白字で『アルバニア-ソヴィエト友好月間万歳!』と書かれている。鉄製の門の前で、別のトラックがクラクションを鳴らした。守衛が再び、頭に新聞紙をかぶせて小屋から出てきた。寒そうだな。ベスニクはその動きを目で追いながら思った。
 そうしているとようやく、エコノミストが彼の求めていたデータを手に現れた。ベスニクは礼を言うと、バスに乗るためやや足早に外へ出た。
[訳注;アルバニア語のekonomistは、大学や研究機関に所属する経済学者だけでなく、工場や企業の経営企画に携わる専門家や責任者を指すこともある]
 平野はもやに包まれていた。秋特有の曇り模様とはいえ、ティラナの丘陵地帯は、冬の冷たさを目前にした10月の美しさそのものであった。電柱と、葡萄畑と、点在する国営農場の建物と、地平線上で滞空しているらしいヘリコプターと、それら全てが思いもよらず互いにしっかりと結び付いて、そこに人の姿が見えないにもかかわらず、何かしら身近で人間的なものがあるように見えた。
[訳注;「そうしていると」から「あるように見えた」までは、旧版では次の通り;
 そうしているとようやく、エコノミストが彼の求めていた国際指標と、併せて「フリードリヒ・エンゲルス」工場の先駆的な労働者による指標が入念にタイプ打ちされた書類を手に現れた。ベスニクは礼を言うと、「ごきげんよう」と一同に挨拶して階段を下りていった。ポスターや告知がたくさん貼ってある場所に女性二人が(それは、ついさっき雨の中を駆けていった二人だった)『合唱のテスト 午後5時から』と乱雑に書きつけた紙を貼っていた。
 バスの停留所は、工場の門を出てほんの五十歩ばかり先にあった。ベスニクは15分ほど待たされた。「フリードリヒ・エンゲルス」工場はかなり郊外にあった。バスは広大な平野を駆け抜けていった。低い丘陵地は秋特有の曇り模様であった。あちらこちらにもやがたちこめていて、それらはゆっくりと移動し、寄り集まって、ぼんやりしたものをかたちづくろうとしていた。その曖昧な世界には確固として攻撃的なものは何一つなく、もやがかたちづくる一時だけの起伏は、大地の起伏にしっとりと調和していた。ティラナの丘陵地帯は、冬の冷たさを目前にした10月の美しさそのものであった。電柱と、葡萄畑と、点在する国営農場の建物と、地平線上で滞空しているらしいヘリコプターと、それら全てが思いもよらず互いにしっかりと結び付いて、そこに人の姿が見えないにもかかわらず、何かしら身近で人間的なものがあるように見えた。]

 バスが中心部に近付くにつれ、バスの停留所は混雑の度を増していった。人々は押し合いへし合いし、車掌は「前にお進みください!」と叫び続けた。
 ベスニクは中心部でバスを降りた。その日は朝からコーヒーを飲んでいなかったので、セルフ式の小さなバーへ入った。ガラス窓のあちこちが曇っていて、通りをゆく人々の姿がまるで修正を施されたように見えた。彼はコーヒーを口に含みながら、工場で貰ってきた数字の全てにもう一度目を通しておかなければなるまい、そして、後で誤解を招くことのないようにしなければ、と考えていた。
 この二日というもの、ベスニクの一番親しい記者仲間であるイリルと農業省との間にごたごたが続いていた。あらゆる省庁の中でも、記者たちが特にもめごとを避けていたのが農業大臣だった。理由は単純で、大臣の妻が宣伝部門の部局長であり、記者たち全員と関わりがあったからだ。
[訳注;旧版では次の文が続く;
 ところがベスニクは彼女に何の問い合わせもしなかった。批判記事を印刷に回す前日、彼はベスニクに向かって、もし農業相が夫人ともめるようなことがあったら問題を党の下部組織に持っていくか、中央委員会に手紙を書くつもりだと話していた。]

「もう一度、データをすっかり見ておかないと」
とベスニクは思いながら、それにしてもこいつは素晴らしい仕事だ、という考えにしばしふけるのだった。
 ベスニクは自分の仕事を愛していた。あの9月の日、任命書を手に、新聞社の建物の活気の中をくぐり抜けスタッフルームに向かった、忘れることのできないあの日から、彼はこの場所こそが自分の世界だと、ずっと全身で感じてきた。たとえ何であれ、編集部で仕事に取りかかる日の朝と引き換えにするつもりはなかった。あの激しい喧騒の中から、よくわからないが何か神秘的な方法で、人はこの国の生命の鼓動を感じることができるのだ。さらには、朝から電話口で激昂する編集長のかん高い声さえも、ベスニクにはつねづね何かしら愉快なものに思えるのだ。
 それに遠方での仕事も・・・彼は初めての仕事で階級闘争について、学生時代よりもずっと多くのことを学んだと語るのが好きだった。あれは実に忘れられない行程だった。二週間かけて、かつてベイたちの所有地だった場所にできた農村の協同組合を廻ったのだ。
[訳注;ベイbejはオスマン帝政期の封建領主]
 そこで彼は思いもよらず、階級による属性や憎悪や分断とも呼べるようなものが、途方もない規模で足元に広がっているのを感じた。
 それは時間や空間で限定されるような出来事ではなく、センセーショナルな犯罪や復讐の記録でもなかった。それは何かしら途方もなく、重苦しく、広大なもので、田畑の上を覆い尽くし、ポプラの樹に再びその姿を現し、水路の溝を流れていくその有り様は、時に血を洗い流してでもいるように見えた。
 ベスニクは自分が幼い頃に見た、旧地主の土地が国営化される様や、金箔を貼った家具調度品や、両凹面の鏡や、時に家庭の婦人たちがぼんやりとして溜め息をつくのを思い出していた。私有地の没収に先立っておこなわれた家具調度品の国有化は、まるで遊びか何かのようだった。
 列車で帰った時、ベスニクは今までに経験したことのない感覚をおぼえた。ザナに会うなり、いてもたってもいられずこう訊いたものだ。
『ねえザナ、最初に会った頃だけど、あの下の階に住んでる人たちの名前、何て言ってたっけ?』
『クリュエクルトさんよ』
ザナは答えた。ベスニクははたと手を打った。
『そうだ、そういう名前だったよ。実はね、あの人たちの昔の土地に行ってきたんだよ。あの割ときちんとした感じの人たちのね。何というか、そりゃひどいもんだったよ』
それから彼は話を始めた。彼のノートは老農夫たちから聞いた話で埋まっていた。ザナはその間じゅうずっと、呆気にとられた顔で聞いていた。
『君には、何でもないことに見えているんだろうな』
ベスニクはそう言って笑った。
『下に降りていって、あの人たちにブラウスやバスローブを注文すれば、あの人たちはいつだってあんな、まるで羊みたいに振る舞ってくれるわけだ』
『それはそうだけど』
ザナは言った。
『あなたったら、また私にその話をするのね、私には信じられないんだけど。あのチェロ弾きのマルクのおどおどした感じといったら、そのせいで笑われてるぐらいだし、ヌリハンのお婆さんなんて、あの人ったらもうすっかり縮んじゃって、あれはきっと、自分が昔ベイだったことなんか綺麗さっぱり忘れてるに違いないわね』
『そんな単純な話じゃないんだ』
とベスニクは言った。
『君が手に入れたペルシア絨毯のことは忘れたっていいが、あのまるごとの土地の方は、そうはいかないよ』
 彼の記憶の中には先ほどからずっと、農村とポプラの樹と積み上げた干し草が散らばる広大な土地が、その姿を現していた。
『でも、ずっと前に過ぎ去ったことよ』
ザナがやんわりと異議を唱えた。
『もうあの人たちだって忘れてしまっていることだわ』
ベスニクは、ザナを見つめて微笑んでいた。
『でも、あなたがそんな風に考えるのも無理ないわ。あなただって、私と一緒にその場にいて、あの人たちがどんな風で、私たちがどんな風に付き合っているか、自分の目で見れば考えも変わるでしょうね。それにね』
と言ってザナは、ベスニクを抱きしめると、けだるい口調でこう言った。
『ねえベスニク、どうしてこんな話する必要あるのかしら?ほら見てよ、綺麗でしょ』
 その時、二人は大通りに戻ってきたところだった。まばらになったポプラの葉が、月の光を浴びて、まるでニッケルでメッキされているようだった。ザナはベスニクの肩に頭をもたれさせて、彼女の右頬に彼がふと視線をやると、それは月光の下で遠くの方にあるように見えたのだった。
 ベスニクはコーヒーの最後のひとくちを飲み干すと、店を出た。そして編集部へと続く道を足早に歩いていった。
「どこに行ってたの?」
階段を掃除していながらベドリが訊いてきた。
「彼女から電話があったわよ」
「中で何かあったの?」
「そりゃあ大騒ぎだったのよ」
ベドリは答えた。
「あの娘さんたちが帰ったばかりでねえ」
そして掃除の手を止めると、声を落とし、いささか秘密めかしたような感じを含ませた口調でこう言った。
「またあの人が来てるのよ、あのドイツ人が」 ベスニクはベドリにタバコの箱を差し出した。
「アルバニア語がわかるドイツ人なんてねえ、まったく、あたしにはどうにも信じられないよ」
 ベスニクは階段を上がっていった。いつもと変わらぬ、彼の耳には心地よい喧騒の中に、速記係の声が聞こえてきた。どうやら地方から何かしらの報告を電話で受けているようだった。
 階段のところでベスニクは写真室の主任とぶつかりそうになった。
「そんなに急いでどこへ?」
ベスニクは訊いた。
「ああ君ね」
と写真室の主任が言った。
「ちょっと、頼むから手伝ってくれよ。君、写真の方も担当することがあるだろう。今日になって編集長に呼ばれてね」
 ベスニクはわけがわからなかった。写真室の主任は手にしていたカバンを開くと、写真の束を取り出した。
「ほら見てくれよ、なあ、この写真のどこが悪いんだ?」
主任は声を張り上げた。
「露出も角度も、すべて申し分ないだろう?中身は、自分で確かめてくれ」
そして彼はその一枚一枚について説明し始めた。エンヴェル・ホヂャ同志が、勤労青年の全国会議の参加者に囲まれている写真。会議の幹部会の様子。休憩する青年たち。そしてまた、若者に囲まれるエンヴェル同志。
「どうだい、どこかまずいところがあるかね?」
 ベスニクはしれらを注意深く見ていった。
そして見終わると、肩をすくめてみせた。
「編集長は、何がダメだって言ってるんです?」
「いやはっきりしたことは何も。ただ、写真が気に入らないからATSHに頼んで別の写真を取り寄せてこいと言うだけなんだ」
「たぶん、エンヴェル同志がもう少しにっこりしてるような写真が必要なんじゃないですか?」
とベスニクは言った。
 写真室の主任は、何かを見出したような勢いで顔を上げた。
「いいことに気付いてくれた」
と彼は言った。
「それが一番簡単な解決策だよ。確かに、あれは全然別ものだからなあ。来てくれ、写真を選ぶのを手伝ってくれよ」
 ベスニクは彼についてもと来た道を戻っていった。ATSHまではそれほど遠くなかった。写真室の主任は背のすらりと伸びた男で、歩く道すがらずっと喋っていた。
「特にこうということはないだがね、ただ写真が気に食わないだけなんだ。ほら、何と言ったかな、エニグマ(謎)だよ。あと、エジプトのスフィンクスだ、あれはもう少しだけはっきりしていたんじゃないかな。いやあ君に会えてよかった。君、最近は写真をやってるのかね?何か現像するものがあるかい?」
「海の写真を撮ったんですけど、もう写真屋に出しましたよ」
「なぜ私のところに持ってこなかったんだ?あの連中が、現像の何を知ってる?あれはな、写真屋じゃなくて洗濯屋だぞ」
 ATSHの写真室は一階にあった。
「それは、ヅァンの現像したものですよ」
若い女性が、写真を見るなりそう言った。
 ヅァンは老年の写真技師だった。しわだらけの顔で、時の流れから切り離されたように、薄暗い部屋の中に立っていた。彼は黙ったままで写真室主任の話を聞いていたが、何も言わずに現像室の一つ前の小部屋に入っていった。二人もあとについて入った。細長い机の上の、乾燥機の上に何百枚という写真が置いてあった。
「そら、そこにある」
とヅァンは言って、乾燥機の一つを指した。
「自分で選びな」
 ベスニクと写真室の主任はもっとよく見ようと身をかがめた。ヅァンは傍に立って、その様子を見つめていた。
「ああ、これだ」
と何度かつぶやきながら、写真室主任は指で写真を示した。
「これもいいな。こっちの方が露出がいい。それとも、こっちのこれか」
 ベスニクは、声をかけあぐねていた。ATSHの老写真技師はそんな二人を、もの思わしげに見ていた。一度は何かしら言いかけたが、若い記者の方の顔は、ヅァンにはほとんど馴染みのないものだった。
 ヅァンは16年間にわたってATSHの写真のほとんどを現像してきた。ありとあらゆる写真機、ありとあらゆるカメラマンたちが撮った、何千本ものフィルムが、彼の手の中を通り抜けていったのだ。その写真の中にはしばしば、エンヴェル・ホヂャもいた。大衆集会、記念会議の幹部会、式典でのテープカット、労働者たちと共に、子供たちと共に、マイクを前にして、飛行機のタラップを昇ったり降りたり、手を振ったり、或いはボルサリーノ帽を振って挨拶を送っている。ヅァンはその表情の中に、あらゆる感情の表出を見てとることができた。それは喜び、満足、不満、また時には苛立ちの生じる瞬間であった。16年の間に彼は、ゆっくりと変化する容貌や、眼の中の光、唇の両端や額に寄ったしわの、強い意志を感じさせる動きを、読み取ることができるようになっていた。どこにどんな微修正をかけたらいいか、すべてわかっていた。もっとも、彼の写真にレタッチをおこなうことは禁じられていたのだが。ヅァンはエンヴェル・ホヂャを間近で見たことが一度もなかったが、他の人ならば、その顔つきについてそこまで詳しく知ることさえ難しいだろう。
 そうだ、前の日の晩だ、現像液の中で、始めはぼんやりと、それからだんだん鮮明になっていくよく知られたその風貌が現れるのを見た時、ヅァンは少しだけぎょっとしたのだ。もう少しよく見ようと、彼は身をかがめた。印画紙は、化学成分の激しい作用によって、よく知られたその顔を映し出しつつあった。熟練したヅァンの眼は、その中に起こっている変化を即座に見抜いた。それは普段見られるような、生産量の数値が低下したことや、指示が正しく伝わらなかったことや、まして法律違反や誰かの不実に対する不満の類ではなかった。もっと重大な何かだった。もっと重大でもっと広範囲にわたることだった。
 ヅァンは身じろぎもせず、その写真を見つめていた。彼は手を伸ばし、液で濡れた写真の一枚を取り上げた。顔を離したり、眼を細めたりしてみた。
「何だこれは?」
そして写真を再び現像液に浸すと、最後の希望を託して少しだけ待ってみた。自分の目の前に置かれた陶製の容器が、今までにないほど見慣れないものに見えた。そこでは再び化学成分が、容器の底で激しく揺れてからみあっていた。ヅァンはじっとしたまま、その時そのすべすべした容器の中で本物の海のような波が巻き起こっているのにも驚いていない風だった。
 そして彼はもう一度写真を取り出し、ゆっくりと、まるで冷や汗を拭うかのように、指先で印画紙の全面からしたたる現像液を拭き取った。間違いではなかった。現像液の化学成分は、今度は一層はっきりと、また一層断固たる意志をもって、よく知られたその顔の中に別な何かを、ひとことでは言い表し難い、驚くような何かを、描き出していたのである。
 おそらく、人並みの眼の持ち主であったら何も見出すことができなかっただろうが、特にこの写真では、皺にしても顔つきにしても全く同じような有り様で溶け込んでいて見分けがつかないので、充分深く浸しておく必要があった。熟考と苦慮の狭間の孤独な何かが、その額の真ん中に見えるか見えないかというほどに刻み込まれていた。それは眉間を横切って両頬へ、下唇へと伝わり、そこで鉛のように固まっていた。だがあの若い女性労働者たちはといえば、楽しそうに喋ったり笑ったりしているばかりで、彼のすぐ傍らにいながら、何も気付いていなかったのだ。
 ヅァンは12枚の異なる写真を容器から取り出すと、その12枚の中に同じものを見出した。そして陶器の容れものが空になった時、不意に、驚くほどの明白さで、彼の中にはっきりした考えが像を結んだのである。
 エンヴェル・ホヂャは何か大きな悩みを抱えている。
 もう夜も遅くなっていた。そして次の日になって、編集長の一人が電話で新しい写真を頼んできたという話を耳にした時、ヅァンはその理由が即座にわかった。実際、彼はそんな電話が来ることを予期していたのだ。別の新聞の編集長も、同じような不満を訴えていた。彼は二度も写真を戻して、その修整の件で相談を持ちかけてきた。
 しかしヅァンには、修正では取り繕うことのできない点があることがわかっていた。するとその編集長はとうとう、別の写真を選ばせるために自分の部下二人を寄こしてきたのだ。ヅァンは、その二人がさっきからずっと、何も気付かぬまま乾燥機の上に身をかがめているのを眺めていた。彼には、二人がありもしないものを見つけ出そうと無駄な努力を続けているように見えたのだ。彼の瞳の中には先ほどからずっと現像液が映っていた。それは激しく、そして神秘的な海のようで、その海の底には、彼自身の不安な意識を示すように警告の標識が立っていた。ヅァンはまた何か言おうとしたが、二人の顔はすっかり遠くにあるように見えた。若い方の新聞記者は、彼にはほとんど馴染みのない顔だった。
 だが結局のところ、何と話しかけたらいいのだろうか。これはなかなか厄介な話題だぞ。この世には、ありとあらゆる種類の人間がいるのだ。自分の言ったことを変えられてしまったらどうするのか。自分は一介の写真技師に過ぎない、もはや年金生活を待つだけの身ではないか。それにしてはこの話はまったく、危なっかし過ぎるぞ。
 二人の記者が小声でずっと何か話し合っている間、この写真技師は、どういうわけか1944年の12月を思い出していた。当時、彼ことヅァン・トスカは第一旅団の老練なパルティザンだった。彼はその日、初めて陶製の白い容器の前に来て立っていたのだ。あの頃は彼もまだ若く、血気盛んだった。
「君にはここで働いてもらう」と彼は言われた。
「写真現像の担当だ」
彼はしばらくの間、周りに居合わせた人々、打ち倒された体制の下で働いていた人々の、どんよりと曇った顔をしげしげと眺めていた。それから陶製の容器を軽蔑のまなざしで見つめた。何故かはわからないが、それが何か堕落した、道を外れたものと関わりのあることのように思われて、彼は眉をひそめた。
「この液体は何だ?このうさんくさい、さっぱりわけのわからない仕事は何だ?」
 すっかり気分を害して、ヅァンは首都の司令部に駆け込んだ。ところがそこで彼は、返り討ちに遭ってしまったのだ。
「では誰が、あの仕事をすればいいのかね?」
と彼は言われた。
「革命の写真の現像を、ブルジョアジーどもに任せておいていいとでも言うのかね?そんなつもりなのか君は?奴らは我々の生活を破壊し、ずたずたにした。そして今度は我々の写真まで、奴らのするままにさせておいて、君はそれでいいのか?だがそれでも君が嫌だというのなら、こっちには他の者を連れてきて、君には別の仕事を探すとしよう」
そう言って、司令部の人間は数枚の書類を取り出した。彼はヅァンに二つの仕事を提示した。銀行の副総裁。裏切者を銃殺する部隊の司令官。
「しかしだね同志、今、最も人手が必要なのはATSHなんだよ」
と彼は言った。
「わかるかい?つまりプロパガンダさ」
 ヅァンは勢いよく写真室へと舞い戻った。前からの職員たちがそこにいた。容器は現像液で満たされていた。
「仕事にかかれ」ヅァンは命令を下した。
「いいか、これは女のヌード写真ではない、革命の写真である。わかったか?」
彼らには冗談が通じなかった。ヅァンは彼らの手が震えているのに気付いた。
 ヅァンは気ぜわしげに容器の周りを行ったり来たりした。白い印画紙の表面に何かが姿を見せ始めた。ヅァンは、山に生える草のつぼみを思い出した。技師がもう一枚を取り出した。ヅァンは顔を近付けた。そこにはパルティザンのグループが写っていたが、全体の露出がひどく弱くて、皆の顔がまったく命を失ったもののようになっていた。ヅァンは不満気に鼻を鳴らした。
「ちゃんとやってくれ」
ヅァンは声を上げた。
「あなたね、現像が済んでないんだよ」
別の一人が言い、印画紙を浸し直した。
[訳注;ここで写真技師はヅァンに“zotni”と呼びかけている。前述の訳注参照]
 ヅァンは疑わしげにそれを見ていた。技師が紙をまた取り出そうとした時、ヅァンはその肘を摑んだ。
「なぜそう急ぐ?現像液がもったいないとは思わんのか?」
ヅァンは言った。相手が何か弁明しようとしたがヅァンはそれをさえぎった。
「もう言うな」
 やっとのことで写真を取り出してみると、パルティザンたちの顔はすすけたように真っ黒になっていた。ヅァンは鋭く目を光らせた。
「言われたよりもずっと長く、現像液に漬けていたんですよ」
技師は声を震わせていた。素早い動きで、ヅァンは拳銃を取り出した。
「犬、この犬め!薄汚いブルジョアめ!」
ヅァンはわめき立てた。
「こんなもの、パルティザンじゃなくて、黒んぼじゃないか!」
別の技師が、ロウのように蒼ざめた顔で何かとりなそうとしたが、まるで無駄なことだった。ヅァンは叫んだ。
「お前たちは、俺たちの生活を滅茶苦茶にしておいて、今度は写真まで滅茶苦茶にするつもりか。お前の頭をそこの中にぶち込んでやる!」
 ヅァンは、ひとり微笑んだ。あの頃はこんな調子で、仕事を始めて最初の数週間が過ぎたのだった。しかしいつの間にか、彼は自分でも写真を現像するようになっていた。拳銃を抜く機会はだんだん減っていき、ついに、まったく本来の仕事をしなくなった。ヅァンは新しい仕事に惚れ込んでいた。驚くべきことに、彼は賢くなっていったのだ。その気性の荒さは、写真の世界の秘密を知りたいという願望へと、姿を変えていった。そしてヅァンは、写真技術の最高の名人となった。
 幾度となく責任ある筋に呼び出され、もっと別な、重要な職務に就くよう求められたが、ヅァンはそれらを引き受けようとはしなかった。彼は、現像液に満たされた容器にすっかり魅了されていたのだ。おとぎ話には、海から出てきた巨人や、湖の底から現れた不思議な妖精(ザナ)たちのことが語られている。この陶製の容器こそ、ヅァンにとってはおとぎ話の王国だった。その奥底からこの国の歓喜と不運が浮かび上がってくるのだ。その中で彼が初めて見たものは、共和国が宣言された日の祝賀行事の群集、農地改革の大集会、南部国境で戦死した兵士たちの棺の列(彼らは死の腕に抱かれたように、現像液の中でゆらめいていた)、その他、何百という大小様々の事件だった。
 それら全てに対して、ヅァンは或る時は喜び、また或る時は悲しんだ。それでも、前の日の晩のように、一晩中眠れなくなるような写真はそれらの中には一枚もなかったのだ。二、三度ほど妻のサニイェが、寝ぼけてぶつぶつ言っていた。
「どうしたの?ヅァンったら、どうしてそんなにしょっちゅう寝返りばかり打ってるのよ?」 だがヅァンは何も言わなかった。ヅァンは自分の妻である彼女にも何も言わなかったし、乾燥機に身をかがめて面白そうな写真が見つかることを期待している、あの二輪のなでしこたちにさえも、何も言おうとはしなかった。
[訳注;原語“karafil”はカーネーションなどのナデシコ科の花だが、日本語における「撫子」の比喩とは異なり、若い壮健な男子をさす]
 そうだ、ヅァンは誰にもそのことを言おうとはしなかった。もっとも、今夜こそはと、寝る前に妻に小声で言ってしまおうとすることが何度もあった。
「あのなあ、サニイェ、エンヴェルが(彼はその名前に『同志』をつけず、同年代に対してするように、その名前だけを呼んでいた)、エンヴェルが何かとても悩んでいるようなんだ」
そうしたら妻はきっと、ひどく驚いて彼の方を向き、そしてこう言っただろう。
「まあ、あなたったら、そんな厄介ごとを起こさないでちょうだいよ」
それからたぶん
「そんなことどうしてわかったのよ?」
と訊いてきたり、或いは
「あなたに何ができるの?ねえあなた、そんなことは偉い人たちの悩みごとでしょ。もうおやすみなさいよ」
とか言ったかもしれない。だが暗闇の中で黙っていれば、やがて彼の意識はゆっくりと、見通しのはっきりしない、真っ黒な、何とも言えないような波が渦巻く薄暗い眠りの水路の中へと引き込まれていくのだった。

3
 鏡に向かって櫛で髪をとかしながら、ザナは口ずさんでいたメロディをやめて言った。
「ママ、外の天気はどう?」
「雨になりそうよ。傘を持っていきなさい」 キッチンからリリが答えた。
 ザナはヘアピンを頭からはずしたが、外は風が吹いているかもしれないと思い直して、もう一度そのピンをつけた。
「ベスニクから電話がかかってきたら、私はディアナのところにいるって言っておいてね。ママ、聞こえてる?向こうに呼ばれてるのよ」
「あの人、向こうの電話番号を知ってるの?」 リリがキッチンから問いかけた。
「ん」
と言いながらザナは、何とはなしに、今しがた髪にさしたばかりのヘアピンを見つめていた。
 ベルメマさんちの電話番号を知らない人なんているかしら、とザナは思った。いつだってあの家に行くと、ザナは特別に心地よい気分がするのだった。
 外はまだ暗くなっていなかった。階段の手すりも、一階にある、長年の間に塗装のはげた正面扉も、雨に膨張し、湿り気をおびていた。
 通りはにぎわっていた。バス停では、終了したばかりのサッカー選手権について大声で話し合っていた。ザナはくすりと笑った。
「どうしてみんなこう忙しいのかしら」
 ベルメマ家の住まいが入っている建物は、とある路地にあった。その建物の外見は薄暗く、どの家も古い型のものだった。そのアパートの、黒っぽい木製の重い扉にはほとんど全てにブロンズの小さなプレートがついており、住んでいる人の名が記されてあった。
『ベルメマ家』とあるところで、ザナは呼び鈴を鳴らした。扉を開けたのは、ディアナの兄弟のマクスだったが、いつもよりずっと深刻そうな表情をしていた。他のベルメマ家の人たちと同じく、彼も栗色の髪をしていて、その中にちらちらと光るものがあった。
 上着を脱ぎながら、ザナは、何か今までとは違うものを感じていた。彼女はベルメマ家のアパートの方が自分の家よりも気に入っていたが、それは、ただそこが広いという理由からだけでなく、その奥の方から、マクスのテープレコーダーから流れる音色と共に、おいしそうな料理の匂いが漂ってくるのが常だったからだ。
 今日は、音楽はなかった。おいしそうな香りの代わりに、何か食べ物が焦げるような臭いがしていた。電話でディアナと話した時も、微妙に苛立っているような感じがしたことをザナは思い出した。
「何かあったの?」
ディアナが出てくると彼女は訊いてみた。普段通りに振る舞おうとしたつもりだったが、いつもの愉快そうな感じではなかった。
 ディアナは「うん」とも「いいえ」とも答えなかった。居間に入って、ザナは同じことをもう一度訊ねた。
「わからないの?」
ディアナが言った。
「そうよ、ちょっとあったのよ」
「何が?」
とザナは訊ねた。
 廊下では電話が鳴りっぱなしだった。
「叔父さんのところの娘がね」
ディアナは語った。
「あなたは知らなかったわね、その彼女がね、医学部を卒業するんだけど、婚約したいっていうのよ」
「ああ、婚約の問題なの」
ザナはほっとした。
「そんな簡単な問題じゃないのよ」
ディアナが言った。
「その子ったらね、党を除名された人の息子と付き合ってるのよ」
「そうなの?」
ザナは言った。
「そうよ、その人の父親は、ティラナ会議に出席していたのよ。たしか、ハンガリー事件のあとになって除名が決まったんだったわね」
 ザナはうなづいた。実際のところ、彼女はそのことについてあまりはっきりとは憶えていなかった。しかも、それを実際に事件として憶えていたのか、それとも大学のマルクス主義の講義で聞いたのが初めてだったのか、それさえも確かではなかった。
「うちの親戚はみんな大騒ぎよ」
とディアナは言って、電話が鳴り続けている扉の方へ、顎をしゃくってみせた。
 ザナは、何と言ったらいいかわからなかった。彼女には、その娘の選択が適切でないことは別としても、それほど大げさに騒ぐこともないように思われたからだ。
「でも、その娘がそうしたいと言ったら?」
ザナは訊ねた。
 ディアナは、驚いたようにザナを見た。
「どうしてそんなことが言えるのよ?党から除名されたっていうのがどういう意味か、わからないの?うちの親族の中では、そういうことをたくさん見てきたわよ。あなたのところだって、そうでしょう?」
「そうね」
ザナは答えた。
「父は、特にね」
それから少しおいて訊ねた。
「で、きれいな人?」
 ディアナが微笑んだので、ザナは、他の娘たちも美人なのだろうなと思った。ベルメマ家全体が華麗なる一族だったのだ。その髪の中に混じる、稀少な銅のような輝きにしても、顔の中の、頬骨から眼の辺りにかけてのどこか眠たげなところにしてもそうだった。ザナは、ディアナの横顔をちらりと見た。現在、彼女は妊娠しており、さらに柔和な感じになっていた。眠そうな眼も、その柔らかい声の響きや、手先の動きに合っていた。
「まあそういうわけでね、ただごとじゃない騒ぎなのよ」
ディアナは言った。
 部屋の扉のところにいたマクスが顎をしゃくってみせて、ディアナに電話に出るよう促した。
 一人になってから、ザナは辺りを見回した。彼女はこの広々とした部屋が気に入っていた。特に気候が寒くなり、部屋の隅に置かれた大きな陶磁のストーヴを燃やす時が好きだった。部屋にはコーヒー色の絨毯が敷かれていて、樫材を張った床や、革張りのソファや、ブロンズ製の置時計が放つ控えめな光や、そこに刻まれた銘文とよく合っていた。ディアナによれば、この時計は、彼女の母親が女性代表団の一員としてイタリアに行った時に、イタリアのアルバニア人たちから贈られたものだということだった。時計の表面には、馬に乗ったスカンデルベウの姿が彫られていた。馬の蹄の一つが9の数字のところにあり、1444年11月28日のその時刻に、スカンデルベウはクルヤの城塞の門を叩いたのだと言われている。
『アルベリアの時は来た』
ザナは刻まれた銘文を読んだ。それは古代アルバニア語のアルファベットの字体で書かれていた。
[訳注;スカンデルベウGjergj Kastrioti Skënderbeuはオスマン帝国からの独立戦争を指揮したアルバニアの民族英雄。アルベリアArbëriaはアルバニアの古名]
 ディアナの戻ってくるのが遅くなりそうだったので、彼女は、壁にかかった有名な写真を見ることにした。金属製の額縁の中には、ディアナの父が、エンヴェル・ホヂャと一緒に広い階段の上にいる写真が入っていた。その隣に、他のベルメマ家の偉大な一族の写真が並んでいた。みんな笑顔で、そして重要な職務についていた。それから再びディアナの父が、今度は冷たくなった姿で、砲台の上に置かれた棺の中で、溢れる花の中に埋もれていた。初めて共産主義政権ができた時からの閣僚で、6年前に心臓発作で死んだのだった。今このアパートの一部屋にはディアナの母がマクスと一緒に住んでおり、二部屋にはディアナが、神経科医である夫と住んでいた。
 ザナがその時思い出したのは、自分が少しも両親と一緒に住みたいとは思っていないことだった。うらやましい気持ちで彼女は、ベスニクのアパートを思い出していた。結婚したら、最初の頃をそこで過ごすのは狭いだろうから、自分でアパートを見つけなければならないだろう。驚いたことには、彼女にとってそのことは少しも面倒には感じられなかったのだ。
 国が大量に建設している普通のアパートのどこかなら、古い家よりは室内の調度品も安くあがるだろう。あとは、少しの我慢と、趣味の問題だ。それともちろん、お金もだが。国家計画局で実習生として仕事を始めて以来、ザナも他の婚約中の女性の多くと同じように給料を自分のことだけに使っていた。
『お金を、葡萄とかすももみたいに、服に使うんじゃないよ』
[訳注;「無駄遣いする」という意味の慣用表現]
とクリスタチは彼女によく言っていた。
『預金通帳を作っておきなさい、後々、必要になるんだから』
 一方、本人も浪費癖のあるリリの方はというと将来のアパートの購入のことなどベスニクに任せておいた方がいいのだと主張してゆずらなかった。
『ママの可愛い子が、何も遠慮なんかすることないのよ。婚約時代は人生に一度きりなんですからね』
そこへディアナが入ってきた。
「ほったらかしちゃってごめんなさいね、ザナ」
彼女は言った。
「わかってるでしょうけど、でもね・・・」
「いいのよ、いいのよ」
ザナは答えた。
「お母さんもね、挨拶に出られなくてごめんなさいって言ってるわ。でもねえ、どうしてだかわかる?これだけ大騒動なのにそれでもまだ足りないらしくって、東ドイツ大使館のレセプションの招待状まで来たのよ。今そっちの用意もしてるところでね」
「いいのよ」
ザナは再び言った。
「気にしないでちょうだい。私ももうおいとまするわ。あなたたち今日は随分、てんてこ舞いみたいだから」
「あら、帰ることなんかないのよ」
ディアナが言った。
「向こうに叔父さんたちが集まっているのよ、家族の利害を守ろうってことでね。私はいなくてもいいから、あなたとここに残ってるわ」
 廊下でまた電話のベルが鳴るのが聞こえた。
「そうだけど、でも私もう帰るわ」
ザナは言った。
「骨董店通りに、素敵な夜用ランプが出てるって聞いたのよ。一緒に見に行こうかって思ったんだけれど、あなた忙しいみたいだから」
「私なら忙しくなんかないわよ」
ディアナは言った。
「それにね、毎日、新鮮な空気の中を散歩しなさいって医者にも言われてるのよ。だから行くわ」
 通りに出ようとしたところで、二人はスカンデル・ベルメマに出くわした。
「どうしたの?今そっちに行くよ」
と彼が言った。
 その時ザナはこう言ってやろうかと考えていた。
『あなた、向こうに行ったら戯曲のテーマが見つかるわよ。でもね、叔母様に亭主がいても、叔母様の方は、こんな冗談を言うほど亭主と親密ではまったくないわよ。それに、顔つきは深刻そうだし、小ばかにしたような感じだったわ』
 スカンデルは会釈して挨拶を済ますと、二人の方を見ずに、玄関の方へ歩いていった。ザナは、いつか前に、彼とアナ・クラスニチが付き合っているという話が広まった時のことを思い出した。
「あれは大変だったわね」
彼女は言った。
「ええ」
ディアナが答えた。
「あなたには言ったわね、うちの親族ではその件をとても重く見ていたって」
 たぶんそれはもっともなことだったろう。ザナはそう思った。
 骨董市通りへ向かう道を、二人はあれこれと話しながら歩いていた。
「ベスニクをびっくりさせようと思ってるの」
ショウウィンドウの前まで来たところで、ザナが言った。
「ああ、ここよ。まあきれいねえ!」
「ほんと、とってもきれいね」
ディアナが言った。
「3500レクなら、そんなに高くないわね」
ディアナは肩をすくめた。
「さあどうかしら。お金のことはあんまり気にしないのよ」
 ザナは、ショウウィンドウを凝視していた。
「私がこの店で気になるものといえば、あの主人の眼だけよ」
ディアナは言った。
「あんな潤んだ眼は見たことないわ」
二人は店内に入った。

「やれやれ、気付かれずにすんだ」
ザナが女友達と骨董市通りのライトアップされたショウウィンドウにひとしきり見入った後でようやく店内に入っていくのを盗み見ながら、ベニはそうつぶやいた。
 ベニは、かれこれ1時間以上も、サラと一緒に時間外薬局と商店の間の、彼らにとってはいつもの場所に居座っていた。ベニは遠くにザナがいるのを見つけると、彼女に気付かれないようにと壁にぴったり張り付いた。サラはずっと喋っていたが、ベニはうわのそらだった。軽蔑した目で店の扉を見ながら、あんながらくた置き場に、みんなどうして喜んで入っていくのだろうかと驚いていたのだ。
 ザナが出てくる時は気をつけないといけない。見つかったらベスニクに言いつけられるに決まっている。また小言が始まるぞ。ベニは、他の誰よりも自分の兄と話すのを嫌がっていた。といってもきつく説教されるのが嫌だったからではない。むしろ逆だった。ベスニクの説教は理性的なもので、それがベニの気に障るのだった。
 ベニは薬局の冷たい大理石によりかかっていた。道が折れ曲がっているためか、彼らが落ち合ってもう1時間以上も居座っている骨董市通りと薬局の間の場所は、道行く人の波を避けることができた。道行く人の波を避けられるだけではない。ここはベニがいつも、あらゆるものから自分の身を守れると感じることのできる場所だったのだ。ここにいれば、落ち着けるし、仲間たちとタバコをくゆらせていられるし、他のことに頭を悩ますこともない。ここにいれば、労働大衆が社会主義建設に動員されるべきその時に、戦友の息子の、あのアルベン・ストルガが、ずっと前からのらくらと日々を送りながら、来年の9月には俳優学校の入学試験でもう一度だけ運を試してみようと待ちあぐねていることについて、とやかく言うものもいない。馬鹿な女のアドヴァイスを真に受けて狂えるオフィーリアのモノローグの朗読などやらなければ、彼は今年の試験に合格していたはずだったのだ。
[訳注;オフィーリアOpheliaは『ハムレット』の登場人物。恋人ハムレットに捨てられ、さらに父ポローニアスに死なれて気が狂い、川に身を投げて水死した。]
 他の連中は合格していた。ミジェニの「主よ汝は石炭を求めるか」で合格した者もいたし、ナイム・フラシャリの「牧畜と農耕」で合格した女子、それに、泥棒たちに立ち向かうドン・キホーテの一節で合格した者もいた。だがあいつは落っこちた。
[訳注;ミジェニMigjenihは20世紀初頭、ナイム・フラシャリNaim Frashëriは19世紀後半に活躍した、いずれもアルバニアの国民的詩人。ドン・キホーテは説明不要]
『うまくいったろう』
外で待っていたサラはそう言った。
『でも何だって頭のおかしい女のひとり芝居なんかやらなきゃいけなかったのさ?』
 ベニはちらちらと横目で、なおも店の入口の方を見ていた。
「えーと、それで?」
と彼はサラに言った。
「あのさあ、もう二十回は言ったぞ」
そう言ってサラは小さな手を振った。
「それでさ、トーリがその子を玄関まで送ってさ、そこで二時間も三時間もチュッチュッチュッ、なのさ」
「で、その子は?」
「首をかしげて話を聞きながら、時々、靴の端っこで何かしてたよ。嫌な顔するなって。俺さあ、あの娘は好きなんじゃないかって思うんだ」
 ベニは、くちゃくちゃ噛んでいたタバコのかけらを放り出した。
「あの野郎め」
ベニは言った。
「俺だったら仲間にそんなことはしないな」
「トーリはそういう男なんだよ」
サラは言った。
「初めてじゃないんだから。俺は寮の頃から知ってるんだぜ・・・」
「いつか奴に一発くらわせてやるんだがなあ」
ベニはぶつくさ言いながら、いらいらしたしぐさでタバコの残りを口から吐き出した。
「でも、イリスみたいな娘には割が合わないよ」
「俺もさあ、そう思うんだよ」
とサラは言った。
 ベニは、薬局の厚いショウウィンドウの中の、蛇が巻きついたコップを眺めていた。
「まあ、俺もイリスと特になじみはないんだが」
ベニは言った。
「いつかの土曜の午後に公園で。それっきりさ」
「ヴァンツェフラフが来たぞ」
サラが言った。
 皆からヴァンツェフラフと呼ばれているその男は、遠くから微笑みをたたえながらやってきた。プラハで一年間にわたって地質学を学んだ男だったが、落第したのでほうほうのていで戻ってきたらしい。そして実際、気が向くと、毎日のようにディブラ通りにやってきて、何時間もそこにいるのだった。そうして、自分はこんな風にプラハの『ヴァンツェスラフ』広場で仲間たちとたむろしていたのだとか、社会主義陣営に属するどの国の首都にもそれぞれの『ブロードウェイ』みたいなものがあるのが普通なのだ、例えばモスクワなら『ゴーリキー』通りだし、ワルシャワもそうだ、モンゴルのウラン・バートルならさしずめユルタ通りとか、或いはチンギス・ハン通りとかそんな名前に違いないとか、そういうことを皆に語ってきかせるのだった。
[訳注;ユルタはロシア語のюртаで、モンゴル語でゲルгэрと呼ばれる円形の移動式住居のこと]
「危機もやってきたぞ」 サラが、背の高い女子高校生の方に顎をしゃくってみせた。それは、この前のスパルタキアードで有名になったが、その骨と皮ばかりの身体つきから皆の間では『資本主義の全般的危機』と呼ばれている女性だった。彼女は三人に向かって微笑みかけたが、その狭い肩幅は通行人たちの中で時折見えたり隠れたりしていた。
 最後にトーリがやってきた。彼は挨拶したが、ベニは目を合わせなかった。トーリは、何があったのか訊きたそうな風で、暗い顔つきでそこに集まっている全員を見渡した。
[訳注;原語では「自分たちの船が沈みでもするように」]
「おい」不意にベニが振り向いて言った。
「お前、昨日イリスと一緒だったな?」
 トーリは歯噛みした。
「それがどうした?」
「いや別に」ベニは言った。
「ただ、俺がお前の立場だったら、あんなことは絶対しないだろうな。それに・・・」
 その時、彼の視線は、店から女友達と一緒に出てきたばかりのザナの横顔に向けられた。彼女は片手に大きな包みを抱えていた。ベニは、ザナが通り過ぎるまでの間、壁にじっと張り付いていた。二人は買ったばかりのガラクタにすっかり夢中で、周りのことにはまるで頓着していなかった。
 ベニは壁に張り付いたまま、燃えるような視線で歩道に釘付けになっていた。トーリは、ベニが何を考えているのかを推し量ろうとでもするかのようにサラの方を見た。
「機嫌悪いのかい?」
彼はソフトな口調で訊いた。
「真面目な話、俺が何か・・・」
「いや」とベニがそれをさえぎった。
「彼女とは何でもないよ」
 トーリの申し訳なさそうな口調に、彼の憤怒の半分は消え去ってしまった。
「お前、機嫌が悪そうに見えたんだけどなあ」
「何でもない。何もないって言っただろう」
 ベニはタバコに火をつけた。
「俺にも一本くれよ」
トーリが話しかけた。
「悪かったな。お前が、先に言ってくれなかったから」
少し間をおいて、ベニがそう言った。
「言いづらかったんだ。本当だよ」
ベニは手で軽蔑するようなしぐさをしてみせた。
「かまわないさ。何が大したもんかい」
ベニは言った。
 実際、それでどうにかことはおさまった。だが今のベニには、トーリが彼女と会っていたことについて、そういう場合には当たり前のことだと言わんばかりに細かなところまで喋り出すのではないかという不安だけが残った。そうなったら持ちこたえられなかっただろう。他の連中にとって、それは別に大したことではなかった。そういうことが起こったという、それだけのことだ。
 結局のところ、彼は本当にイリスとは何でもなかったのだ。或る日の午後にティラナをぶらぶらした、ただそれだけだった。一日きりのことだ。いや、一日ですらない。あれは『土曜』という名の、彼の記憶の中を飛び回るくたびれた鳥だったのだ。ひっきりなしに羽根が抜け落ちながら、それでも死んでいない鳥だ。いつか猟師に見つかって・・・その時、町の時計が6時を告げた。

 この時、インターフルークの旅客機は通常のベルリン~ブダペシュト~ティラナのコースをとりながら、大陸の南東部へ向けて飛行すべく、まさにハンガリーを出発したところだった。
[訳注;インターフルークInterflugはドイツ民主共和国(東ドイツ)の国営航空会社。1991年2月に解体]
 AFPの特派員は飛行機の窓にもたれかかって、ゆっくりと流れていく大地が夕闇に包まれていくのを眼下に眺めていた。
「社会主義陣営か」
と彼は一人思い、どういうわけか、ため息をついた。それは一種独特な、徒労を覚えるほど果てしなく続く平原を目の前にして感じる喪失感から来るため息だった。それは、彼自身の存在に単調に作用して、その身体から体重や思考の一部を奪い去り、あとにはほんの数キログラムの骨と肉と、そして数十個の言葉と、貧相な言い回しだけしか残さないような徒労感だった。
 遠くで弱々しく点滅するものがあった。それはたった今、地球の冷気の中で生まれ出たもののように、かすかにまたたく幾つかの光だった。彼は窓から顔を離すと、再び現実の感覚を取り戻そうと、ステュワーデスにコーヒーを注文した。それでも、窓の外の、その下にあるものは、彼の心をとらえて放さなかった。彼はコーヒーを飲むと、再び窓に寄りかかり、底知れぬ深みを見つめていた。
「そうだな、社会主義陣営か」
と彼はまた同じことを思った。世界で最も重要な領域。この平原は、その陣営の周縁部分まで続いている。そのかなたには第一級の首都が数々存在し、さらにその向こうの、謎めいた深遠部には、この陣営の中心があるのだ。
 彼はもう一度、遠くに見える光のまたたきを目で追いながら、こう思った。
『あの下で一体何が起こっているのだろう?人々は、美しい女性たちは、芸術家は、支配者たちは、どう動き、どんな風に生活しているのだろう?』
 彼は、責めるような気持ちにも近い不安をおぼえながら、そう自問した。あそこには、同じ地球の人間たちが生活している、だが地球の他の世界の住人たちと違うのは、私有財産がないことだ。そんな考えが、彼の全身を捉え込んだ。
「財産を持たない人間たちのドラマ、か」
彼はふと思った。自分のレポルタージュのサブタイトルの一つとしては、上出来かもしれない。彼にとっては今回が初めての共産主義世界への旅であり、疑う余地なく、彼にとっては重要な仕事だった。おそらく、彼の将来の地位も万事、今回の仕事にかかっているのだ。彼は深呼吸した。眼下には低地が広がり、その中にまばらにチカチカとまたたく光があった。
『何をお望みですか?』
それらがそう問いかけているように見えた。
『外国からのお客様よ、何をお望みですか?』
 彼はため息をついたようだった。喪失感が、彼を再びとらえようとしていた。
「これが、共産主義の世界か」
彼は思った。そこは馴染みのない、他のどこにも似ていない、肉体が触れ合うほどに団結して、今彼の下に広がっていた。そして大陸の夜の部分では、その奥底に、大きな謎とドラマを秘めているのだ。ただ一つのものになって。
 特派員は、自分の前の客席に座っている『シャン・ド・フランス』社の代表の微動だにしない頭に目を向けた。[訳注;原語Champs de France ]
「ただ一つのものになって」
彼は再び思った。同じことだった。何年もの間、『団結』の言葉が悪夢のように、彼ら全ての上にのしかかっていた。共産主義ブロックの団結。そうだ、そして今、ついにその中に一つの亀裂が起こったとささやかれているのだ。どこかで。だがどこで?彼は固まっていた視線をゆっくりと、秋模様の平原の方に向けた。彼は今この時、その目に見えない亀裂を探り出そうとしていたのだ。この果てしなく広がる、一枚岩の土地の中の、どこかの地域、どこか未知の領域に、彼は見つけ出さねばならなかった。それは亀裂であり、小さな裂け目であり、感染した傷口だった。彼らはそこに全ての希望をかけていたのである。おそらく今、他の者たちも彼のように、同じものを求めて様々な方向へと飛んでいるのだろう。彼らは昼も夜も耳を澄ましている、コロンブスの船乗りたちなのだ。大地が現れるのを待ちながら、彼らの中の誰が一番に『亀裂だ!亀裂だ!』と声をあげる幸運に恵まれるかと考えながら。
「ああ!」
彼は一人うめき声をあげた。かつてそれは不可能なことに思われていた。そんな亀裂を見いだすことができるなどと、どうして信じることができただろう。仮にそれが真実だとしても、あの広大な領域の中で、あの夜闇、あの混沌の中でどうしてそんなことが信じられただろう。
 彼の視線は、自分の靴裏に広がる、はるか彼方の大地に釘付けになっていた。いわば亀裂はそのすぐ下で、ジグザグにうねる蛇のような素早さでいきなり姿をあらわすかもしれない。彼はそれを一瞬で捕えなければならないのだ。

「ハンガリーの飛行機だ」
サラは顔を上げて空の方を向くと、旅客機の赤と青のマークを見ながら言った。
「いいや」
トーリが言った。
「あれはインターフルークに決まってる」
 彼らは相変わらずディブラ通りのいつもの場所にたむろして、飛行機のスケジュールをめぐってひとしきりああでもないこうでもないと言い合っていた。ただベニだけが、ひとことも口をきかなかった。
 航空会社も飛行機もフライトスケジュールも何もかも、いや空さえも、糞食らえだ。彼は今、自分がイリスと知り合った、あの土曜日の午後のことを考えていた。それはごくごくありふれた出会いの一つに過ぎなかった。去年から貼り残されたままになっている壁新聞の前だった。彼がたまたま通りかかった、大学の建物のところだった。周りで話し声が聞こえていた。
『君はどの学部に受かったの?』
『そういう君は?』
『専攻変えようかと思って』
『変えるって、どこに?』
『もちろん、官庁にさ』
彼らが揃って立ち去ると、あとには言葉のゴミが散らばっていた。そして彼女だけが立っていた。首をかしげて、少しだけ悲しそうな表情で、静かに立っていたのだ。
 彼女のうしろの壁新聞の一面記事の見出しが、半分だけ読めた。
『・・・の実・・・現に向けて』
ベニは、何となくだが、そんな風に首をかしげている女の子なら簡単に仲良くなれるだろうと思った。そして事実、二人はごく自然に、互いに話をするようになったのだ。それから二人は連れ立って、エルバサン通りと中央通りの間の、大使館の建物が並ぶ静かな路地の一つを通り、公園へやってきた。ベンチには、誰かが忘れたその日の新聞があった。ベニは彼女に電話番号を教え、彼女は彼に電話することを約束した。その間じゅう、彼はタバコを次から次へと吸っていた。そして彼が彼女を郵便局通りまで送っていた時、目の前にトーリとサラが現れた。その時ベニは、いくらかの誇らしい気分抜きに彼女を紹介することはできなかった。それから彼は、彼女からの電話をむなしく待ち続けたのだ。
「なあ、ベニ」
トーリが言った。
「もしお前が本当に嫌なんだったら、俺は手を引いたっていいんだぜ」
「よしてくれ」
ベニはどうでもよさそうな風で言った。思い出すのは、あの日、彼女が髪に結んでいたあの青いリボンのことだった。
「それに、お前ときたら彼女に別に興味を示さなかったし」
トーリは言った。
「お前が彼女のことを好きだなんて思わなかったんだ。あの日、道で偶然見かけて、それで・・・」
「そんな話はやめだ」
ベニが言った。
「何だってそんなにイラついてるんだい、あっちのヴァンツェスラフ組だったら、俺も仲間たちもそんなこと大した話じゃないぜ」
[訳注;これはヴァンツェスラフと呼ばれている男本人の台詞だが、全集版にはそれを明示する記述がない。ちなみに旧版ではチュリリムÇlirimという本名が示されているが、なぜか全集版では完全に削除されている]
 ベニは苛立ったようなしぐさで
「そのお前たちのヴァンツェスラフ何とかってのが俺にはうんざりなんだ」
と言った。
「他に話すことはないのか?」
言われた相手は唇を歪めただけで、何の返事もしなかった。
 雨がぱらぱら降り始めた。通行人は散り散りに去っていった。ティラナのどの通りもそうだが、おそらくこのディブラ通りでは、特に季節の変化を感じることができるのだった。気温が低くなると、すぐさま最初の雷鳴が響いてきた。通行人たちは歩調を速め、季節の果物を売る店はテントを広げ、警官がピリピリと吹き鳴らす警笛の音は更にひっきりなしに聞こえてきた。そして大粒の雨が、急ぎ足の女性たちに追いついた。人々は商店の中に、或いは軒下に入ると、まるで予期しないことが起こったとでもいう風で首を振っていた。
「また危機が通ったぞ」
と言ってサラがベニを肘でつついた。
[訳注;「資本主義の全般的危機」或いは単に「危機」と呼ばれるこの女性にも、旧版ではマリアナMarianaという本名があったのだが、これまた全集版には出てこない]
 『資本主義の全般的危機』は女友達一人と一緒だった。トーリが手招きしてみたが、二人は立ち止まらなかった。
 道行く人はすっかりまばらになっていた。骨董品店の主人が店先に出てきて、おどおどしたような目つきで左右をちらちら見渡した。それからベニに向かって、どういうわけか憐れむような視線を送ると、毎晩そうするように、のろのろとした動きで鉄製のシャッターを下ろした。
「映画館がひけるまで待って、それから行こうか」
サラが言った。

 ベニはアパートの階段をゆっくりと上っていった。二階のところにまた誰かの落書きがあった。
『Mは美人』
きっとミラのことだろう。そうだ今も、その本人の声が、閉じたドアの向こうから聞こえてくる。電話で喋っているらしい。代数学の宿題をやっているに違いない。
 ベニはベルを鳴らした。ドアを開けたのは彼女だった。
[訳注;旧版では、次の文がこの後に続く;
 彼女は受話器を片手に持ったままで、電話の会話に夢中だった。「あのね、まだ一つあるのよ。『セルバンテスの進歩思想について』。えっ?『ナイム・フラシャリの芸術』はもうみんなもらってるって?違う、違う。それは別のでしょ」]

 ベニは妹の鼻をつついてから、居間に入っていった。父親が叔母と二人してコーヒーを飲んでいた。どうやら、ベスニクはまだ戻っていないらしかった。ベニは挨拶らしきことをぶつぶつと口にした。叔母はベニの方を見ると、食器棚の方に視線を送ってみせた。それはつまり、みんな食事を済ませていて、ベニの分の皿は向こうの食器棚の中にあるという意味だった。その料理をストーヴで温め直すのは、ベニが自分でやることだった。
 食器棚から料理の皿を取り出す時、ベニは冷蔵庫の上の本に気がついた。父親が一週間前から読んでいる戦争の回想録だった。ベニの父はかつて第六旅団のパルティザンで、戦争に関する回想録は何でも好んで読むのだが、読みながら怒り出すことがしばしばだった。時には叔母のラボまで呼びつけたが、その時は、彼女は老眼鏡をかけて話を聞くのだった。
「発作が起きるわよ」
彼女は言った。
「でもどうしてアラマンのことは何も言ってないのかしらね?」
「まあ待ちなさい」
と彼は彼女に言った。
「アラマンは、ザブズンの部隊にはいなかったんだよ」
「でも、でもねえ」
叔母は食い下がった。
「私は憶えてるけれど、あの人ったら首筋がこわばってて、まるで長いチョフテみたいだったじゃないの」
[訳注;チョフテqoftëはトルコ及びバルカン共通の挽肉料理。アルバニア語で「長いチョフテ」とは「悪魔」の婉曲な表現]
 戦争の間じゅう、叔母はパルティザンらと結びついていた。夫に死なれて寡婦となった彼女は、もしも義理の姉妹にあたるベスニクやベニの母親がミラを産んだ時に死んでいなければ、みずからパルティザンになっていたに違いない。子供たちが片親で残されてしまったので、彼女が戦争の間じゅうその世話をしていたのである。
 ミラがようやくのことで電話の会話を終えた。ベニは無理に食べていた。食べながら彼は時折、父親の痩せこけた顔を盗み見た。二ヶ月前に療養休暇に入ってからというもの、父は万事につけ神経過敏になっていた。ベニは父と同じ部屋で寝ていたので、一晩中ベッドの上で寝返りをうっている気配を感じることがしばしばだった。よっぽど
「どうしたの父さん」
と訊きたかったのだが、躊躇してしまった。夏になって学校に行かなくなってから、ベニと父親の仲は冷え冷えしたものになっていた。
 もっとも、以前はこんなことはなかったのだ。口に出してこそ言わなかったが、ベニは父親のことを誇りに思っていた。学校で両親の経歴を訊ねられることがあった時、他の生徒が顔をほのかに赤らめながら『会社員で・・・』とか『小商人で・・・』とか口元でごにょごにょ言っている時に、ベニは
『第六旅団のパルティザンでした』
という言葉を、ことのほか満足げに、口に出して言うのだった。父ストルガは、戦争に参加したというだけでなく、1944年の11月には、他の二人のパルティザンと共に、ティラナの丘に眠る、国母たる女王の霊廟地を吹き飛ばしたのだ。それはベニにとって、まさに一つの奇跡のようなことだった。彼はその頃まだとても小さくて、まったく何も憶えていないのだが、他の家族たちはそのセンセーショナルな出来事を、ことあるごとに思い出すのだった。
「いやあ、俺たちが若かった頃はな」
父の同志たちはそう言って、しょっちゅう父をからかうのだった。
「王や女王の墓を吹っ飛ばすなんてことは思いもよらなかったぞ」
実際、その事件は至るところで注目を集めた。そして亡命中の国王の新聞はその一面に大見出しの記事を書き立てたが、小見出しに父の名を載せることも忘れてはいなかったのだ;
『国母の神聖なる霊廟を爆破した野蛮人、ヂェマル・ストルガ、死刑を宣告さる、亡命国王の特別布告』
 誰かがストルガのために、その新聞を探し出してきてくれた。それは、この父親が戦時中の本や写真を保管していた衣装棚の中に、まだ残っていたものだった。ベニはその、すっかり古臭くなったアルバニア語で書かれている、自分の父に死刑を宣告する国王の布告を、何回も読み返した。時の経過によって黄ばんだ新聞を目にするたび、ひどく笑みがこぼれそうな気持ちになっていたが、最近では、その笑いを妨げるようなものを何かしら感じるのだった。
「一体何だって、こんなに老け込んでしまったんだろうか?」
とベニは思った。
 雨粒が、窓の外で勢いを増していた。父のストルガがそちらを振り向いた。
「冬も近いな」
父は言った。
「そうね」
ラボが答えた。
「薪を買っておかないとね」
 ラボの視線は壁際のストーヴから伸びている、紙でくるまれた煙突の管へと向けられた。
 風が軽い音をたてて、さらに雨粒をガラスに叩き付けた。
 時刻は十時になっていた。

 同じ頃、ティラナのドイツ民主共和国大使館のレセプションでは、二時間前にティラナの空港に着いたフランスAFPの特派員記者が、つい数分前に知り合ったばかりのルーマニア人の通商代表らと、相変わらずフランス料理というのはどこでも名を馳せているが、第二次世界大戦後の質の低下はいかんともしがたいとか、それは彼の見るところ、とりわけその没落を覆い隠すために用いられる塩がふんだんに使われていることからも明らかだとか、そういう話に興じていた。
 ルーマニア人の通商代表は微笑みながら、上品な言い回しでその意見をやんわり否定したが、記者の方はそれを前以てさえぎるかのように首を振りながらこう言ってきた。
「私が思うに、この現代において唯一、品の良い料理は、スカンディナヴィアですよ」
 二人はグラスを鳴らし、それからそのルーマニア人は、バルカンにおけるトルコ料理の影響について記者と語り始めた。彼に言わせれば、貧しさは料理に劇的な性格付けを与えてきたという。そして、或る料理の劇的な性格についてどう思うかと相手から訊ねられて、このフランス人記者は待ってましたとばかりに、相手の目を見据えてこう言ったのだ。
「アルバニアが二週間前にフランスから大量の小麦を買い付けたことについて、どう思われます?アルバニアはソヴィエト連邦と食糧供給に関する協定を結んでいるはずなのですがね」
 相手のルーマニア人の眉毛が、今にも額から引きちぎれるのではないかというほどの勢いでぴくぴくと動いた。彼はしばらく言葉を選びあぐねていたが、記者は目をそらさないままだった。
「何と言いますか・・・いつだって、予期せぬことというのが起こるものですから・・・あなたも御存知の通り、ノアの時代からこちら農業というのは天候次第なもので・・・いつだって、気まぐれなものなのですよ」
「天候の問題だと?」
と記者が訊いた。
 ルーマニア人は少しだけ微笑んだ。
「そう、そうですね、あなたの言った通り。天候の問題ですよ。他でもない、天候の問題です」 そう言いながら彼は勢いよく首を振ってみせた。
「天候の問題か」
フランス人記者はつぶやいた。
「その言葉を耳にするのは、今夜で三度目だな」
 その時、彼らのいる中を首の短い男が、何やら鼻唄混じりに通り過ぎた。
    モスクワがティラナがロサンジェルスが
    何とひとつのコルホーズになったとさ~
「またおかしな歌だな」
ルーマニア人が言った。
その歌を聞くのは二度目だった。
「どこの社会主義陣営にもある、酔っ払いの流行り歌か」
と彼は思いながら、あの首の短い男を見たのはどの大使館でだったか思い出そうとしていた。きっと『ティラナ』のところはポーランド人なら『ワルシャワ』だとか、チェコ人なら『プラハ』だとか、そんな具合なのだろう。
「つまらない歌だ」
彼はつぶやいた。ところが驚いたことに、フランス人記者の方はその歌に対して何の好奇心も示さなかった。
「要するに、天候の問題か」
フランス人記者は自分に言い聞かせるように繰り返した。彼の目はあちこちへと向けられたが、決して一箇所で留まることはなかった。レセプションには、アルバニアの閣僚二人と、その他大勢の官僚も来ていた。彼らはあちこちに散らばっていた。記者はアルバニア学者のシュナイダーを見つけたが、驚いたことに彼は朝鮮の大使と会話していた。記者にはもうこれ以上、ルーマニア人と話している理由が見当たらなかった。
 天候の問題。記者がその言葉を最初に聞いたのはアルブインポルトの局長からだった。
[訳注;アルブインポルトAlbimportは社会主義時代の対外貿易公社。ちなみに現在も存在する]
 彼は初めのうち、アルバニアが他国から小麦を買い付けたことを認めようとしなかったのだが、記者が飛行機の中で大会社「シャン・ド・フランス」の代表と一緒だったことを口にすると、苛立ちを隠そうともせず、小麦の買い付けは単なる偶然で・・・とか、ソヴィエト連邦が今年は農業不振で・・・とか、要するに、天候の問題なのだと結論付けてみせ、もうその話はしたくないのだということを記者にわからせようとした。
 それから記者はチェコの通商代表にも訊いてみたが、この人物ときたら、自分はフランス語がよくわからないからと言ってはしょっちゅう会話を中断させるのだった。
「家庭の秘めごとは外に出したくないものか」
フランス人記者はそう思った。アルバニア学者のシュナイダーの方を見ると、今度はアルバニアの外相、ソヴィエトの大使、それからポーランド大使館のご婦人二人の方へ移っていた。彼らは声を立てて笑っていた。
 フランス人記者は顔を上げて料理の話に戻ろうとしたが、ルーマニア人はもういなかった。見ると、隅の方でアラブ諸国の大使らと話しているところだった。
 特派員記者はしばらく大広間の方へ場所を移すことにした。レセプションが続く限り、そして自分がここにいる限り、できるだけのことはやっておこう。彼はそう考えた。そしてつぶやいた。
「ゆけ、ゆけ、アルゴナウタイよ」
[訳注;アルゴナウタイはギリシア神話中で巨船アルゴ号に乗り込んだイアソンら冒険者らの総称。アルゴノーツ]
彼の視線は三度目に、隅の方に座っている女性のところで止まった。いささか健康そうな、美しい明るい色の髪をした女性だった。その女性は感動したような目つきで、初めて公式晩餐会の場に呼ばれたと思われる、まだ若いアルバニア人の外交官たちの一団を見つめていた。一時間前、向こうでレセプションの出席者と挨拶して聞いたところでは、その女性は共産主義政権のさる要人の未亡人で、長いこと閣僚の副職にあり、今はさる大衆組織の高級幹部で、フランス語が堪能だという。
 女性というのは、いつだってそうだが、ずっと真面目なものだ。記者はそう考えた。あんな感激したような女性ならなおさらだ。そして五分後、彼はその女性と顔を合わせていた。彼女は名字をベルメマといい、楽しそうで、いささか集中力を欠いていた。西側には、いろいろな仕事で何度か行ったことがあるという。ローマにも、ロンドンにも。記者の方も、当然のことだが、それらの国に行っていた。それも何度も。二人は有名な通りの名をあげ、あちこちの広場や、さらにはお互いがコーヒーを飲んだカフェについて、話を交わし合った。
 フランス人記者は、興味を示した風でいろいろなことを、特に、戦後すぐの彼女の最初の旅行のことや、その印象、かつてのアルバニア人女性パルティザンが初めてローマの街頭に立った時に抱いたという印象について訊ねた。彼女は物腰柔らかな口調で、思慮深そうに、その言葉にはこれまた思慮深げな微笑みを添えて答えるのだった。
「私はね、もしあなたに訊かれなかったとしても自分の始めての西側旅行のことを思い出していたでしょうね」
と彼女はつぶやきながら、目の前にいる外国人を静かに見つめていた。公式の場に呼ばれた時にはいつでも、彼女はあの通りのことを思い出すのだった。
「このご婦人こそ、俺に幸運をもたらしてくれる人だ」
フランス人記者はそう思った。とにかく、注意深くすることだ。彼女を逃さないことに全力を傾けるのだ。
「ローマですか?」
と彼女は言った。
「私にとってローマは、敗戦都市でしたわね」
 だが二人のどちらも、お互いの言うことをきちんと聞いてはいなかった。彼女は反ファシズム女性会議について何か話していたのだが、実際はまるで別のことを考えていた。彼女はカフェ『ローマ』のことを思い出していた。彼女は、使節団に加わっていた同志の女性と二人して、会議の休憩時間にそこに入りコーヒーを飲んでいた。するとそのことを聞きつけて、アルバニアを逃げ出してきたベイたちや、令嬢たちや芸術家やありとあらゆる連中がやってくるようになったのだ。
[訳注;ベイbejは戦前の封建領主。前述の訳注参照]
「あんたたちがあたしたちの土地を奪い、あたしたちの親戚を牢屋に入れたんじゃないの!償いなさいよ、償いなさいってば!」
女たちはマニキュアを塗った指をちらつかせ、金の腕輪やイヤリングを見せびらかしながら、そう言ってきた。
「ああそうだとも、どうやって償うつもりだ!」
他の連中もそう言った。しかし二人は、力の限りこれに応酬した。
「あなたたちこそ、祖国を捨てたんじゃないの!そのイヤリングのために、その腕輪のために」
 それは毎日続いた。会議の休憩時間のたびに、発表や討論や報告が終わるたびに、二人はそれが務めででもあるかのように、カフェ『ローマ』へ通っては、亡命者たちとのたたかいを繰り広げるのだった。そんな時、テーブルのそばにはいつもスロが座っていた。
「スロのことは、私からは何も話してあげられないわ」
彼女は思った。
「たぶん、まったく理解してもらえないでしょうからね」
 スロは彼女らの護衛役だった。かつてパルティザンであったスロ・ジョニは、頭に砲弾の破片を受けていて、時に癲癇の症状にも似た痙攣を起こすのだった。そんな彼は二歩ばかり離れたところでテーブルに座っていた。
 彼はジャケットの右側に手榴弾をしのばせていた。もしも何かあった時には、もしも、この女たちのイヤリングの威圧するようなじゃらじゃらが去った後で、カフェにバリ派やゾグ派の連中が飛び込んできた時には、スロはその爆弾を放つつもりでいたのだ。
[訳注;「バリ」は民族主義系の解放組織「バリ・コンバタール(Balli Kombëtar国民戦線)」をさす。アフメド・ゾグ(Ahmed Zogu)は戦前のアルバニア首相で、後に王制を敷きみずから国王に即位。イタリア進駐と共に外国へ脱出。戦中、バリ派やゾグ派の各勢力はアルバニア共産党(後に労働党)を中心とする反ファシズム民族解放戦線と対独解放闘争の主導権をめぐって対立した]
 何百回となく彼女は、スロがその爆弾を取り出そうとする動作を、想像してみようとした。それは何かこわばったような動作で(彼の動作はいつも、痙攣の症状のためにそう見えるのだった)その腕は、まるで木でできた腕のように折れ曲がっていて、彼は手のひらで爆弾をつかんで取り出すと、それを半開きの口のところまで持っていき、歯で口金を引き抜き、そしてその腕の機械的な動きと共に、爆弾を投げつける。彼女は二度か三度それを夢に見た。夢の中で、スロの顔はところどころ焦げていて、死を告げる時計のようだった。まるでその顔が、チクタクいっているように見えた。
「スペイン広場は・・・?」
フランス人記者が訊ねた。
「ああ、スペイン広場ですね。はいはい、憶えていますわよ。そこなら通ったことがあります」
彼女は答えた。
 スペイン広場で彼女たちはバリ派の連中に襲撃されたことがあった。
「共産主義のメス犬どもをとっつかまえろ!」
と誰かがしわがれた声で叫んだ。彼女たちは、記者会見のためのパンフレットと、臨時政府のメンバーの写真を手にしていた。連中はそれらを彼女たちの手からひったくると、辺りにぶちまけた。誰かがそれを足で踏みつけると、また別の者がこう言った。
「はっはっは!見ろよ、この共産主義の閣僚どもを!どうだいこりゃ、まったく、おかくして死にそうじゃないか!」
 するとその時、誰か女の叫び声が聞こえた。
「逃げて!そいつ、爆弾を出す気よ!」
彼女がすばやく振り向くと、スロが目に入った。彼は本当に手榴弾を引っ張り出すところだった。しかもそのこわばった動作のうち、二つまでを済ませていた。手榴弾を、半開きの口のところまで持っていくところだったのだ。その歯も、ところどころ焦げたようになった顔も、何もかもがチクタクいっているのだった。バリ派の連中は慌てて逃げ出した。スロはそれを固まったままの視線で追っていた。
 その時になって彼女たちは叫んだ。
「スロ!爆弾を出しちゃダメよ!みんな逃げていくわ」
 スロは蒼ざめていて、玉のような汗が額の上に浮かんでいた。そして、その時になって彼女は恐怖と共にこう思ったのだ。
「まるで今この時、かつての第一旅団のパルティザンであるスロが危機に見舞われて、敵国イタリアの、スペイン広場のど真ん中で、手榴弾を口に持っていったようだわ」
 だが彼は踏みとどまった。やっとのことで、まるで目に見えないバネを押さえつけたかのように、手を口から離し、そして肩を落とすと、手榴弾をジャケットにしまった。
「何とおっしゃいました?」
彼女は目の前の外国人に訊ねた。
 その外国人は質問を繰り返した。彼は、フランスに穀物を注文したことについて何か訊ねていたのだった。彼女は苦々しげに微笑んだ。誰も彼も皆、あの時からずっと穀物のことばかり訊いてくるのだ。
「どこから穀物を手に入れるつもりだ?」 カフェ『ローマ』にいたバリ派の連中はそう訊いてきた。
「穀物の注文は、どこの国になさるおつもりですか?」
会議の休憩時間中に、外国の新聞記者たちはそう訊いてきた。
「あの頃からずっと」
彼女は思った。
「あの頃からずっとそうよ」
すると彼女は急に辛くなってきた。
「あの人はこちらを見向きもせず、何も理解していなかった。一体どこを見ていたの?」
彼女は思った。
「もう何年にもなるのね」
と彼女は考えるのだった。
「でも、何も変わっていない。みんな微笑を浮かべて、言葉巧みだけれど、本当のところは、芯の部分はそのままなのよ。その目の中には、あの冷酷な質問があるのだから;
『独立はみずから勝ち取られましたが、では穀物はどこで手に入れるおつもりでしょう?』」
 このご婦人は何かを知っている。フランス人記者はそう思った。そして同時にこうも考えた。
「この質問は、時期が早過ぎやしなかっただろうか?」
「あなたはそれを理解できないわ、スロのことも理解できないのと同じようにね」
彼女はそう思った。
[訳注;旧版では、次の文がこの後に続く;
 数時間前、彼女の家では親戚一同が、小さな孫娘のことで大騒ぎだった。その一風変わったしぐさは、彼を思い出させるものだった。それは、手榴弾を口にしたスロだった。かつての彼女たちの護衛役だった。]

 彼女は彼のことを思い出してせつなくなった。彼が死んで随分経っていた。45年以来だった。あの破片のせいだった。外国の街で、光のきらめきの中で、彼女は彼のことを頻繁に思い出すのだった。
[訳注;旧版では、次の文がこの後に続く;
 彼女はしばしば彼を思ってせつなくなった。それはぼんやりとして遠く、かき消されるような、まるで星々が死を嘆き悲しむような、そんな思いだった。]

 ヴィッラ・ボルゲーゼで危機に陥ったあの日のことは、記憶から消し去ることができなかった。道路の真ん中だった。人々は立ち止まったまま、こちらを見つめていた。羽毛入りのフードをかぶった女性たちに、貴族のような顔立ちが見えた。彼女たち二人はスロのそばにひざまずいて、彼の頭が歩道にぶつからないよう支えていた。元パルティザンのスロは、ヴィッラ・ボルゲーゼの真ん中で、例の破片のせいで口から泡を吹きながら、ブルジョアジーの好奇心に満ちた視線を浴びていたのだ・・・彼女はそれらの出来事を全て書きとめておくべきだった。簡単な、非常によく使われる表題で:『イタリア旅行』
「失礼しますわね」
彼女はフランス人記者に、柔らかな微笑を浮かべながらそう言うと、外相と会うためにその場を離れた。
 記者はゆっくりとした足取りで、大広間を横切った。するとあやうく、さっきから歌い続けていた例の酔っ払いとぶつかりそうになった。
『モスクワがティラナがロサンジェルスが~』
二人の目が合った。酔っ払いが笑いかけた。
「歌がお上手ですね」
と記者は言った。
「フランス語は話せますか?」
「アー、フランセー・・・マダーム・ポンパドゥール ・・・ウィ、ウィ」
「この阿呆め」
記者はそう思った。それでロシア語で話しかけてみた。今度はどうやら理解できるようだった。
[訳注;「阿呆」は原語karafilで、クローヴ(丁子)類を指すが、「頭が空っぽな奴」という意味もある]
「団結の方はいかがですか?」
記者はあけすけに質問をぶつけてみた。
「相変わらず完璧、かつ確固たるもので?」
酔っ払いは首を振って、何やら軽蔑でもしたように唇をひん曲げた。
「相変わらず」
と彼は言った。
「完璧な団結さ、うんざりするほどにね」
 ついに何かをつかんだと感じたAFPの記者は中国大使館の文官をつかまえて訊いてみた。だがその中国人は『法国人民好』と一般的な見解を述べただけで、それ以上のことは何ひとつ語ろうとせず、ただその間じゅう、ずっと微笑を浮かべているのだった。
 ありえない、そんなことはありえないぞ。記者はもう少しで声を上げるところだった。家庭の秘めごとは外に出ない。彼はそう繰り返した。そして隅の方に立つと、窓際に寄りかかって、群れる人々を眺めていた。人々は、その肺からもうもうと吐き出した青い煙の中で、歩き回り、歓談し、笑ったり、コーヒーを飲んだりしていた。
「だが今頃『シャン・ド・フランス』の代表は、あそこにいる」
彼は考えた。
「あの『ダイティ』ホテルで、一人きりで、この不思議な世界の中、不条理な客人となっている」
 だがおそらく天候の問題というのは本当なのだろうな、と彼は思った。おそらく、また御神託が間違ったのだろう。結局のところ、そういう疑いが生じたのはこれが初めてではなかった。彼は二時間前の、まどろむような飛行機の行程と、冬の空の中で感じた孤独とを思い浮かべた。あの時彼はまるで、自分がこの果てしなく広がる中に裂け目を見つけ出そうとしているかのようだった。あたかもそれは、サハラ砂漠の中で一匹のトカゲを見つけ出すのにも似ていた。救いとなる裂け目を見つけ出す・・・おとぎ話の中の、小さな黄金のトカゲを・・・だが果たしてそんなものが、存在するのだろうか?彼はそう思った。単なる子供をあやしつけるための夢、むなしい希望、疲れの余りあらわれた蜃気楼、それこそが、救いの黄金のトカゲだということではないのか?

 真夜中の二時から三時まで、ディブラ通りは、今もなお輝いているショウウィンドウの冷たい視線の下で、ほとんど死んでしまったように横たわっていた。看板も広告も上演表も、深夜を過ぎてこの時間になるとすっかり意味のないものに姿を変えていて、それはまるで、古代の石に刻まれた解読不能な碑文のようだった。その押し黙った視線の中で、今ただ一つだけ、何か生きているものが動いていた。それは人の形をしていて、手には槍を持っているようだった。
 清掃人のレマ・フタだった。ゆっくりと、辺りの眠りを覚まさぬよう恐る恐るといった風で、彼は疲れきった道路の背の上で、まるでそこを撫でさするように、箒を動かしていた。ヘリウムランプの明かりの下で、ちりほこりに包まれ、手に長い箒を持った彼の姿は、何かの亡霊にも見えた。箒は道路に触れるたび、柔らかくかすかな音を立てた。それは呼吸しているようでもあり、眠りの床でのささやきのようでもあった。
 お前を掃いてやる、お前を掃いてやる。
 俺を掃いてくれ、俺を掃いてくれ、箒よ。
 道路の両側で、ホテルや不動産屋やバーの看板が困惑したように、道路の不思議な姿を見つめていた。薬局のガラス窓の蛇はおとなしくしていた。箒の間でパニックに陥ったように、破れた新聞の切れ端が、ミカンの皮が、紙切れが、バスの乗車券が、それら見知らぬ老若男女の手から放り捨てられたもの共が、激しく舞い踊っていた。
「ほうら、また歩道のこの場所にタバコの吸殻がある。いつもいつも誰がこんな場所で、こんなにたくさんタバコを吸うんだ?驚いたものだよ」
清掃人レマはそう思いながら、今度は道路の西側の、骨董市と薬局が並ぶ辺りを掃いていた。こんなに大量のタバコが、毎日毎日、それも同じ場所でだ。だがひとしきり箒を動かして、彼はそれらをちりの山に集めると、すぐさまそのことは忘れてしまった。
 箒を動かしていると、背後に誰かの視線を感じた。レマが振り返ると、歩道に一人の人物が立ったまま、こちらを見ているのだった。レマは箒が重く感じられた。彼はそんな風にうしろから見つめられるのが苦手だった。
「お前、箒というものを見たことがないのか、その目を突いてやろうか」
彼はそう思いながら、腕を動かしてちりの山を盛り上げていった。それからしばらくして振り返ってみると、その見知らぬ男は彼のうしろの街灯のすぐ下にいて、視線を離そうとはしなかった。レマは胸がムカムカしてきた。
「おいこの間抜け、そんなところで見てるんじゃない。そら、お前さんの仕事に戻った戻った!」
それでもその男は相変わらず動かなかった。男はただ、微笑んでいるだけだった。
「おかしな奴だな貴様」
とレマは言ってその男の方をじっと見つめた。すると見知らぬ男が何か言ったが、その時ようやくレマは、その男が外国人だと気付いた。レマは、ひとりごとでも悪態をついてしまったことを後悔し、今度は柔和な目を向けた。見知らぬ男が「ケス、ケス、ケス」とか何とか、そういう言葉を口走ったので、レマは思わず笑い出した。声を上げて笑ったのだ。
[訳注;おそらくフランス語の“Qu’est-ce…(何?)”]
 相手も一緒になって笑い出した。そして二人はしばらく大声で、互いの顔を見合わせて笑っていた。が、レマの笑いは急にやんだ。
「笑え、笑え、だがどうも何かひっかかるぞ」 と彼は言いながら、その外国人を疑いの目で見つめた。彼は、前の晩に協同組合の集会で、夜眠れないからなどと言ってティラナの路傍を徘徊する外国人に注意するよう言われたことを思い出していた。
 清掃人の顔が不意に曇ったのを見て、その外国人は笑うのをやめ、また「ケス、ケス、ケス」と言った。しかし相手は首を振った。 「お前のそんな道化じゃ、このレマには通用しないぞ」
 レマはその外国人に背を向けると、あわただしい動きで道路を掃き続けた。しばらくして振り向いてみると、相手は既にその場を離れ、ゆっくりとした足取りでスカンデルベウ広場の方へ歩いていた。レマは急に、相手に対して申し訳ない気持ちになった。ひょっとして、あの気の毒な人は何か悩みがあったのではないか。彼はそんなことを考えた。
 その時、そのAFPの特派員記者は、アルバニア・ソヴィエト友好月間の大きなポスターの前で足を止めていた。なぜかはわからなかったが、レマはひとつ深いため息をついた。
 そうこうするうちにレマもその外国人のことは忘れてしまい、徐々に広場の方へ仕事を進めていった。あと百歩ばかりで、彼の担当箇所は終わりだった。ひと休みして、タバコに火をつけた。
 道路は一日中、傷つけられ、削られ、唾を吐かれ、石油が点々と滴り落ち、騒音のために朦朧として疲れきっていたが、今は、看板たちの冷え冷えとした視線の下で、ぴかぴかになって横たわっていた。そしてまたゆっくりと、辺りの眠りを覚まさぬよう恐る恐るといった風で(レマは自分の女房だってそれほど大事に扱ったことはないのだが)、彼はその背の上で、箒を動かしていた。

4
[訳注;旧版では、次の文がこの後に続く;
 それは絶えず流れ込んでいた。窓ガラスで真っ白く光り輝いて、全てを包み込んでいた。それから隠れられる場所はどこにもなかった。シーツの下であれ、まぶたの裏側であれ、それは見つけ出してしまっただろう。ミラはもう一度、枕の下に顔を隠そうとしたが、しかし無理なことだった。朝の光が途切れることなく部屋に流れ込んでいた。
 眠りの最後の影は、ぼんやりとした形をしていたが、その輝きの中で弱まっていき、声を失い、押し黙るのだ。まるで、古くなったテープに吹き込んだ音の上に、新しい声や音をかぶせた時のように。
『哀れな娘よ、お前はいずれ悔いることになる。私はお前を愛している』
『何?何なの?』ミラは飛び起きた。
 学校の演劇グループで自分と一緒に演じていた12-B組のマルティンが言ったことを、ミラは全然理解できなかった。マルティンが何か言ったので、ミラは習った劇の台本の中にそんな台詞がないことを伝えようとしたが、その時すべてを消し去るような光が彼の肩に差し込んだので彼の姿は溶け去り、透けて見えるようになり、やがて彼女の目の前でかき消えてしまった。
「どうなってるの」ミラはまばたきしながら思った。雨の日が続いた後で、外には光り輝く朝が訪れていた。キッチンからは、かすかな物音がしていた。叔母のベッドは空になっていた。ミラはベッドの中で二、三度ばかり身体を伸ばして、それから天井に目をやると、身動きもせず、そのままでいた。
『哀れな娘よ、お前はいずれ悔いることになる。私はお前を・・・』
自分の見た夢が、遠く何世紀も前のように思われた。実際のところマルティンは何度も、劇の台本には載っていない二通りの意味にとれるような言葉を口にした。しかしミラは聞こえないふりをするか、そうでなければ混乱して本当に聞こえないのだった。そんな言葉は、マルティンだったら言いそうにもないことだったからだ。]

 ミラは横を向くと、右手のひらを頬にあて、それから窓の方を見ていた。ガラス窓は光に満ちていた。誰かに『愛している』と言われたら、女の子は何て答えたらいいのかしら。彼女は考えた。
 ミラの夢の中でも似たようなことが起こった。誰かが彼女にそんな言葉を投げかけてきて、それは、言葉そのままではなかったかもしれないが、その秘められた部分そのものだった。眠りの中で感じた喜びや甘い感覚が、今も続いていた。
[訳注;ちなみに上の一段落は全集版のみで旧版にない]
 家の他の場所からは、聞き慣れたいつもの朝の音が続いていた。食器が軽く触れ合う音。父の足音。ベスニクが使う電気かみそりの音。
 ミラは起きて立ち上がると、いつも通り寝巻きのままでバスルームのドアへと急いだ。
「もう終わるよ」
ベスニクが言った。その顔には、髭を剃っている男性特有の、普段と違った緊張感があった。
 その後、ミラはベスニクが電話で話しているのを聞いた。
「もしもし、ガン治療科ですか?第二棟をお願いします」
[訳注;上記、ミラが起きてからのくだりは旧版ではもう少し長く、次のようになっている;
 ミラはひどく嬉しくなって飛び起きると、廊下を駆けていってバスルームのドアを開けた。
「ちょっと待ってくれよ、ミラ」
ベスニクが鏡に向かったまま、振り向きもせず言った。
「どうして自分の部屋で髭を剃らないのよ?」
ミラは不満気に言った。
「もう終わるよ」
ミラはその柔らかな栗色の瞳をちらりと向けた。その瞳が彼女の目つきにいたずらっぽい雰囲気を添えていた。とりわけ鏡に映ったベスニクの顔を見つめる時はそうだった。その顔には、髭を剃っている男性特有の、普段と違った緊張感があった。ミラは兄に舌を出すと、今度はこぶしで兄の背中を小突き出した。
「もう終わるよ」
とベスニクは繰り返して、電気かみそりのコードを引き抜いた。
 それから彼は廊下に出ると、電話帳を開いた。そして受話器を手に取り、番号を回した。
「もしもし、ガン治療科ですか?第二棟をお願いします」]

 ミラがキッチンに入ると、父ストルガと叔母のラボがクッション付きの椅子に、何も言わずに座っていた。父は青白い顔をしていた。また苦しくなっているのは間違いなかった。ベスニクはまだ電話で医師と話していた。どうやら父はまた診察を受けることになるらしい。
 テーブルの上には、ベスニクの卵が手をつけないままで残されていた。
「あなたも卵にする?」
叔母が言った。
 ミラは『ええ』とうなづいてみせた。朝の楽しい気分は徐々にしぼんでいった。何も食べる気にならなかった。
「では一時間後にそちらにうかがいます」
ベスニクはそう言ってから、キッチンに戻ってきた。ストルガはそれをじっと見つめていた。ベスニクは食事のテーブルにつくと、食べ始めた。何か他のことを考えているらしかった。テーブルの反対側で、ミラは時折、横目で父の方をちらちらと見ていた。かなり具合が悪そうだ。
[訳注;旧版では、次の文がこの後に続く;
 ミラは何も考えずに食事をしようとしたが、そうするとフォークが陶器の皿に当たってひどい音をたてるように思われた。ようやくのことで食事を済ませると、食事の皿とミルクを飲んだコップを流しに出し、それから本棚の方へ行って、カバンにノートを詰め込み始めた。]

 廊下でベニの足音がした。バスルームのドアが開くと、洗面台に水を流す音がした。ベニはいつものように腫れぼったい目をしていた。9時を過ぎれば、それもようやく正常な状態に戻るのだった。
「行ってきます」
ミラはそう言ってカバンを手に取った。ベニはキッチンの沈黙について何か訊きたそうな視線を向けたが、彼女は何も答えなかった。ベニは再び、父と寝室が一緒の部屋に引っ込んだ。
「面倒な状況だな」
彼は思った。
 20分後、父はベスニクに連れられて出て行った。ベニがキッチンに戻ってきた。
「どうして二人の行き先を訊かなかったの?」
叔母が怒ったような口調で言った。
 ベニは何と答えたらよいかわからなかった。そこに電話が鳴った。トーリからだった。
「もしもし、ベニかい?あのさあ、日曜日に家が空くんだよ。年寄り連中は結婚式でフィエルに行っちゃうんでね。マリアナと、他の女友達にも来てもらおうと思ってさ。『危機』だけど、あの娘もオーケーだって。もしもし、お前はどうする?」
「いいよ」
ベニは答えた。俺に気を遣ったな、彼は思った。マリアナに、『危機』か。イリスについては何も言ってなかったが、彼女はあいつが別にとっておくんだな。二人だけの時に楽しむのだろう。
「騎士は楽しみ、そして沈黙するものだ」
ベニはたまたま劇場で聞いたことのあるフレーズを繰り返してつぶやいた。そして
「犬もそうだが」
と付け加えた。
「もしもし、マクスかい」
別の声が続けて聞こえてきた。
「テープレコーダーがいるんだよ。お前、テープレコーダー持ってる友達がいたよな。確かマクスとかいう奴さ、マクスだよ」
「マクス・ベルメマかい」
ベニが言った。
「そうそう、できればそいつも連れてきてくれないか」
 ベニは卵を急いでかき込むと、これまた大急ぎでコップのミルクを飲み干した。
[訳注;上記、旧版ではもう少し長く、次のようになっている;
「もしもし、マクスかい」
受話器の黒い穴から小さな声が続いていた。
「それでさ、とにかく金を集めなきゃならないんだ。一人10レクで何とかなると思うんだけど、どうだい?」
「ふむ」
とベニは言った。
「あと、テープレコーダーがいるんだよ。お前、テープレコーダー持ってる友達がいたよな。確かマクスとかいう奴さ、マクスだよ」
「わかった、話してみるよ」
と答えてベニは電話を切った。
「ねえ叔母さん」
ベニは台所に戻ると叔母のラボに言った。
「今の友達からの電話なんだけど、聞こえてた?今度の日曜日が友達の誕生日なんだ。何かプレゼントを買っていかなくちゃ。どうかな?10レクずつ集めるってことになったんだ。友達のためなんだよ。いいだろ?」
「本当に誕生日だっていうんなら、出してあげるわよ」
ラボは言った。
「ああそうさ、そのためだから・・・」
とベニはぶつぶつ答えた。
「ほら、朝ごはんを食べなさい」
ラボが言った。
「あなたの卵よ」
 叔母に見られていることを意識しながらも、ベニは食事の皿から目を離さなかった。ベニは卵を手早くかたづけると、これまた大急ぎでコップのミルクを飲み干した。]

「どうして二人の行き先を訊かなかったの?」
ラボはさっきと同じことを言った。
「お父さんのことが心配じゃないの?」
 ついてないな、とベニは思った。自分が父親の健康のことで心を痛めてなどいないと言えば言うほど、その父親の心配が自分に向けられているのだということをはっきりと口に出して言えなくなっていくのだ。実際ここ数日というもの、特に最近の夜は、自分の父親の病気のことを考えるたび胸の中に毛玉のようにもつれてゆく何かを感じるのだった。
「どうなってるんだ俺は」
ベニは思った。
 そして彼はしばらく家の中をうろうろしていたが、コートを着ると外へ出て行った。

「行ったわね」
ラボは一人つぶやくと、再びクッション付き椅子の、いつもストルガが座る所に腰を下ろした。冷蔵庫は単調な音を響かせていた。戦争の回想録がその上に載っていた。近頃、一人きりになれる朝の時間には、老眼鏡をかけ、その本を開いては、あちこちページを繰って読むのだった。しかし彼女にとってこの読書は大変だった。眼も痛むし、わからない単語も多かったからだ。一冊の本の各行の中に、過ぎ去った日々や、死んだ者たちや、戦争のかけらや、雨に濡れた道や、人々の声が横たわっているのだという考えと折り合いをつけるのに、彼女にはかなりの時間が必要だった。均等に並んだそれらの行や文字の中に、どれほど多種多様なことがらが含まれているか、彼女にはこれっぽっちも理解できなかったのだ。
[訳注;旧版では、次の文がこの後に続く;
 そして彼女は読み始めたのだが、時にはその並んだ文字に驚かされないこともあった。もっともそれは極めて稀なことだったのだが。]

 彼女には、その本の中に並ぶ文字の列が、まるで自分が生涯かけてつむいできた毛糸であるように思われた。毛糸もつむがれるその前は、ほどけていて、まるで霧のようだが、指でその糸をより合わせると、その霧は徐々に寄り集まってゆき、厚みを増して、一本の細い糸へと姿を変えていく。
 ほどけた毛糸はまるで生きているようだ。その霧の中には、糸をつむぐ者たちのつぶやきや、考えや、言葉や、苦悩や、人間らしい息遣いが詰まっている。だが細くなった糸はもう死んでいる。本の中に並んだ文字もそれと同じようなものに違いない。死んで干からびた糸からは、出来事や、村々や、冬は搾り取られてしまっているのだ。
 彼女はこの終わりなく続く文字の列にうんざりしていたが、それでもそれを読み通したいと彼女を突き動かす、たった一つの思いがあった。それは、そこに出てくる人々の中に誰か見知った名前が出てくるのではないかという希望だった。そしてそれは時々、不意に目の前に現れた。それらは本の中で二、三行先に出てきたが、しかし何も呼びかけてはくれなかったし、先に何の兆候も見せてはくれなかったので、彼女をいつもいつも驚かせるのだった。それらの中には死んだ者もいればまだ生きている者もいたが、ただの文字になってしまえば、生きていようが死んでいようがみな同じだった。
 ストルガがこの本を家に持ってきてからの二週間というもの、ラボは毎朝のように過去に戻っていくのだった。そこに出てくる見知った者たちは大抵の場合、彼女を落胆させた。文字に姿を変えてしまうと、彼らは冷たく、よそよそしく、まるでどこか異国の地から舞い戻ってきたかのように思われた。
「あなたは違うわね、ムチョ・アバズィ」
彼女は、幽霊に話しかけてでもいるようにつぶやいた。
「どこでそんな言い方を覚えたのよ、暗い墓の下で?」
 ラボは本を冷蔵庫の上に置くと、軽く目を閉じた。
「あなたは違うわね、違うわね」
彼女は繰り返した。岩だらけの山の急な斜面、とてつもなく激しく照りつける太陽の暑さの下で放たれる二発の砲弾、銃剣にやられ、命を絶たれるムチョ・アバズィ、それらの全てが、まるで昨日起こったことのように彼女の記憶に残っていた。
 ストーヴの上で、調理鍋が眠りを誘うような音をたてていた。ラボの記憶の中の岩だらけの急斜面は、突然の雲と、雨と、激しく吹きつける風に覆われた。時として彼女には、そのごつごつした岩に覆われた山の斜面でこそ、彼女の人生の重要なこと全てが起きていたようにも思われてくるのだった。
 ラボはその斜面を進んでいた。まだ小さかったミラを入れた揺りかごが背中をひどく痛めつけた。彼女はベニの手を握り、ベスニクはズボンをだぶつかせながら今にも転びそうだった。雪がどんどん降りつけてくる。ドイツ軍の冬期作戦が始まっていた。皆ドイツ軍に追われて山岳斜面を上へと登っていた。ラバを連れた農民も、ドイツ軍の包囲網を強行突破した残存パルティザン部隊も、手に揺りかごを抱えた婦人たちも、黒い灰にまみれた老人たちも、誰もが上へ、そしてまた上へと登り続けていた。ただ、行く手を見失った冬の水だけが、彼らとは反対の方向へ、ドイツ軍の方へと流れていた。
 どうして今日はこんなことばかり思い出すのかしら?ラボはひとり考えた。あの人が病院へ出かけている今日に限って。彼女はずっとストルガのことを心配し通しだった。あの時もそうだった。
 あの時もそうだった。ストルガが山へ向かうと知らせてきた時、ラボは「どこへ行くつもり?」と言ったものだ。
「あなたには子供が三人いるのよ。奥さんもいないのよ。男やもめのパルティザンの話なんて、今の今まで聞いたことがないわ」
「じゃあ今から聞くことになるさ」
とストルガは答えた。
[訳注;旧版では、次の文がこの後に続く;
「爺さんたちや、やもめのパルティザンの話だって聞くことになるさ」
 そして事実、ラボはあとになって、祖父たちのパルティザンや未亡人たちのパルティザンについての話を聞くことになるが、その第一歩を切り開いたのは他でもないストルガだったのだと、今も確信している。]

 彼は子供たちを形見がわりに残していった。そしてラボは、戦闘が続いている間じゅうずっと、ミラの揺りかごを背負い、だぶだぶのズボンを引っかけたベニとベスニクを連れて歩いた時のことをよく思い出すのだった。
 冬期作戦の間じゅう、雨は降りやまなかった。足元でぬかるむ泥が、或る時は靴裏に、また或る時は靴全体にまとわりついた。それを抜け出しても、そこに何かを探すように再びのめり込んでしまうのだった。泥がそれ自体を探し求めているようだった。さらに、それでは足りぬとでもいうように、空のあちこちには数機の孤独な戦闘機が姿を見せていた。
 その中の一機のことを、彼女は決して忘れないだろう。それは上から機関銃を撃ってきたのだ。歩いてきた者たちはみな手近な場所に逃げ込んで、穴の中に、茂みのかげに、或いは開けた斜面上に伏せた。銃弾が、まるで犬のうなり声のような音を立てて人々に襲いかかり、彼らは散り散りになってもやの中へと消え去った。
 ラボが三度目に起き上がってみると、自分一人だけしかその場に残っていなかった。どこか前方で何人かの背中が揺れていたが、うしろには誰もいなかった。そこの斜面は急で、小さな茂みがあり、草もまばらで、そこに何かしらおぞましいものか何かが隠れていそうに見えた。ラボは足を速めると、その貧相な、一本の樹木も生えることができないような斜面を、ありったけの勢いで飛び越えた。ただそこにある病みついた茂みだけが、雨の中で弱りきっていた。
 ところが不意に、その茂みの間で、ラボは自分が赤ん坊の様子を見なければならないことを思い出した。姪のミラは、声を上げなくなっていた。ラボはがくがく震えて膝をつくと、妹を見るよう甥子たちに言った。
[訳注;上の箇所は旧版では、次の通り;
 ラボはがくがく震えて膝をつくと、手を伸ばし、ゆりかごを覆っていた布を取り去って、妹を見るようベスニクに言った]

 甥二人は赤ん坊の上にかがみ込んだ。
「眠ってるよ」
ベスニクが言った。
「眠ってるね」
ベニも言った。
 ラボは立ち上がると、いまいましいその茂みの中から前に進み出た。戦闘機が撃った銃弾がこの娘にあたったのかもしれない、しかも自分がそうとは気付かずに死んだ赤ん坊を背負っていたのかもしれないという思いが、彼女を悲痛な思いにさせていたのだ。二十数年前にも、その土地の女たちはそんな風にゆりかごを肩に逃げ、丘陵地帯で待ち構えていたギリシア兵たちは、長銃で何度となく彼女らを狙い撃ちにした。
[訳注;全集版ではなぜか明示されていないが、旧版では「二十数年前、第一次世界大戦のギリシアによる支配の時代」と書かれている]
 連中が撃とうとしたのは女たちではなく、その女たちが背負っていたゆりかごの方であり、銃弾が女たちの肩を傷つけることなくゆりかごだけを貫くようにしていたのだ。それはたぶん、奴らにとってはただの暇つぶしだったのだろう。そして何時間もかけて歩いてきた女たちは、自分が担いでいるものがもはやゆりかごではなく、小さな棺おけになっていることにも気付かず、やがてそれに気付いた時には半狂乱になってしまうのだった。歌にも、こんな言葉で始まるものがある:
    どこへ行くのか夜を抜けて
    その棺おけを肩にして
 その続きはどうだったか、ラボには思い出せなかった。
「それでどうしたかしら、ああそうそう、ゆりかごを担いで歩いていったんだわ」
ラボは口の中でつぶやいた。
「人生なんていつだってそんなものね。逃げて、また逃げて。何の罪があたしにあるっていうのかしらね」
 彼女の肩は痛み、目は疲労のためにかすんだ。
「叔母さん、一人でぶつぶつ言わないでよ、怖いから」
ベスニクが言った。それでラボは唇を閉じ、言葉を呑み込んだ。村の家々の壁が目に飛び込んできたが、それらは火炎放射器によって焼け焦げ、黒ずんでいた。この村が外国の軍隊に焼かれるのはこれで四度目だった。村の老人らが、普段の言い回しの中で『家』と言わずに『廃墟』という言葉を使っていたのも、故なきことではない。
「おやすみ、もう遅いから、廃墟に帰るよ」
[訳注;旧版では「サリ」と男性名に呼びかけている]
「何てことかしら」
ラボはつぶやいた。
「家だっていつかは壊れるのよ、この世の全てがそうであるように。でも何だって、それよりも前に家のことを『廃墟』なんて呼んだのかしらね?他人を呼ぶ時にこんな風に言うようなものだわ。『調子はどうだい、死人さんよ』」
 ラボは用を足すために立ち上がった。それだけで悲しい記憶は散り散りになった。彼女は村の家に郷愁を抱いていた。アパート(この名前にしたところで、年寄りにはちゃんと発音できないような魂胆になっているのだ)と呼ばれる低い天井の家、天井裏もなく、暖炉もなく、階段もなく、まるで小人のようなこの家に、ラボはどうにも馴染めなかった。
 外から、消防車のうなるようなサイレンが聞こえてきた。ラボはコーヒーを置くと、耳を澄ました。サイレンは鉄道の駅のある方へと、まるで遠く冬山の斜面の母狼の遠吠えのように離れていった。あの狼のことは、忘れようにも忘れられなかった。恐怖にかすれた声で「もう行ったの」と最初に言ったのはベニだった。ラボは、ベスニク、あるいはベニが十六年後の今も、幾度か消防車か救急車のサイレンの音を耳にするたび立ちすくんでしまうことを思った。
[訳注;上記二段落は全集版のものだが、旧版に比べると大幅に削除・短縮されている。旧版では次の通り;
 ラボは立ち上がると、圧力鍋をストーブのもう少しだけ熱い場所に移した。ジャガイモの皮をむいて、それから洗濯機に洗濯物を入れなければならなかった。こういう機械を買うことができたのは僥倖だった。さもなければラボは家事をこなすことが到底できなかっただろう。一年前、最近まで貯めた貯金で何を買うか、テレビにするか、それとも洗濯機にするか、家中で相談したものだ。ストルガにベニ、それにもちろんミラはテレビがいいと言ったが、ベスニクは洗濯機だと言って譲らなかった。つまりラボに味方したわけだ。
「叔母さんは嬉しいよ」
ラボは何度となく言ったものだった。
「本当にお前は賢いね」
 ジャガイモをむきながら、ラボは樹脂製のサイドボードの戸棚を開けたり閉めたりして、そこから塩や油や、食事に香りづけをするためのローリエの葉を取り出した。そのサイドボードは小さくて、本当に小さくて、まるで子供のおもちゃのようだった。それらの容器はカラフルなプラスティック製だった。それに電動のコーヒーミル。それら全てがおもちゃのようだった。どうしても馴染めないものは馴染めなかった。火で黒ずんだ古い鍋がずっと目に入っていた。それでずっと料理してきたものだ。そして銅製の鍋に、主にバクラヴァ[訳注;バルカンに共通の甘い焼菓子]を焼くための大鍋に、婚礼の時を除けば滅多に使うことのなかったパン焼き用の平鍋に、そして上の方にトルコ語が書かれてあるコーヒーミル。それらの全てが、もはや存在しない時代からのものだった。
「何だって火がなくなって、錆も消えたのかしらね」
ラボはため息をついた。彼女は今でもアパートに全然馴染んでいなかった。しばしば彼女の足は、眠っている間に階段を伝って上階に行こうとしたり、家畜部屋に下りていこうとするのだった。あるいは井戸のところへも行こうとするのだが、今そこには井戸の代わりに洗面台のついた小さな蛇口があるだけで、そこからはまるで気違いじみた勢いで水が吹き出るのだった。
「静かにして。ぞっとするわ」
とラボはそのたび口にするのだった。
 一方ザナはというと、遊びにくるたびそのアパートの中を歩くのを楽しんでいた。ザナの視線は注意深く真剣で、壁やその他の場所に向けられていた。
「大きいMAPO[訳注;magazina popullore(人民商店)社会主義時代の公営商店]にカラフルなカーテンが出回ってるのよ」
と彼女はベスニクに言った。
「明るい、オレンジ色よ。今は何だってその色が流行なのよ。あと、この壁の表面には素敵な絵も一枚欲しいわね」
ベスニクはそれを黙って聞いていた。二、三ヵ月たって結婚したら、きっとアパートを改装することになるだろう。だがラボはどうだろうか。好きなように塗ったり描いたりするだろうか。アパート(この名前にしたところで、年寄りにはちゃんと発音できないような魂胆になっているのだ)と呼ばれる天井裏もなく、暖炉もなく、階段もない家、まるで小人にそっくりなこの低い天井の家と、ラボを結びつけるような大切なものは何もなかった。
 ジャガイモの皮むきを終えると、ラボは暖炉のふたを開けて、コーヒーを淹れるのに充分な火が残っているか覗いてみた。外から、消防車のうなるようなサイレンが聞こえてきた。ラボはコーヒーを置くと、耳を澄ました。サイレンは鉄道の駅のある方へと、まるで遠く冬山の斜面の母狼の遠吠えのように離れていった。あの狼のことは、忘れようにも忘れられなかった。恐怖にかすれた声で「もう行ったの」と最初に言ったのはベニだった。ラボは、ベスニク、あるいはベニが十六年後の今も、幾度か消防車か救急車のサイレンの音を耳にするたび立ちすくんでしまうことを思った。ただミラだけは、全く憶えていなかった。彼女はあの当時生後六ヶ月の赤ん坊だったのだ。]

 世界のありとあらゆる音の中で、あの母狼の遠吠えの声ほどに、ラボを震え上がらせるものはなかった。その声を聞くと彼女は自分の生涯で最も奇妙な、夢とうつつがないまぜにされたような、あの日へと連れ去られるのだった。そこには小石だらけの山の斜面が、村から逃れる道のりの全てに広がっていた。まどろみの中にも、母狼の吠える声が全てを圧するかのように響き渡り-夜になると消防車のサイレンはさらに多く聞こえてくるのだ-そして彼女は自分が冷たい洞穴でなくアパートの一室で目覚めたことに気付いて、唖然とするのだった。
「好きなところに行けばいいんだわ」
彼女はたびたび自分に言い聞かせた。
「どこにいたってあの狼は、町の真ん中にいても四階であろうと七回であろうと、あんたを見つけ出してしまうのだから」
 コーヒーを飲みながら、ラボ自身は何百回となくあの十二月に引き戻されるのだった。あの中腹の斜面の脇には、ひびだらけの灰色の岩がごろごろしていた。
「さあ行くのよ、なるべく急いで行くのよ」
ラボは思った。少なくともこんな山腹で死ぬわけにはいかない。その茂みの中に待ち構えているものは自分の破滅以外の何ものでもないように、彼女には思われた。ミラのゆりかごが背中を痛めつけた。
 みぞれ混じりの雨が降り始めた。山小屋もなければ、生命の気配さえどこにも見当たらなかった。雲間で何かびゅうびゅううなる音がしていた。ラボは顔を上げて上空を飛ぶ飛行機を見ようとしたが、不意に、そのびゅうびゅういう音が途切れると、前方で砲弾の炸裂音が轟き渡った。ドイツ軍が今度は臼砲による射撃を始めたのだ。それが終わったら犬どもを放してくるに違いない。ラボはどうにか足どりを速めようとした。
 みぞれはいつしか粉雪に変わっていた。そしてそこから断崖のあるところまでに来た時に、彼女は洞穴が口を開けているのを見つけた。ベスニクとベニが先にその中へ入った。ラボは身をかがめたが、そのままでは洞穴にゆりかごを収めきることができなかった。彼女は腰を下ろすと、ゆりかごを結わえていた紐をほどいた。
 洞穴の中は暖かかった。ベスニクとベニは黙り込んだままだった。ミラは眠っていた。ラボは火打ち石と、それから火口を探した。それらは彼女が、逃げ出す際のあわただしさの中でも決して忘れずふところに忍ばせておいたのだった。あとは火を移すための乾いた木をその辺りで見つけなければならなかった。
 ところが、その洞穴の奥の方で何か動くものがあった。
「蛇だ」
ベスニクが言った。
「怖がらなくていいのよ。冬に蛇なんかいないんだから」
 が、また何かが動く音を耳にしたので、ラボはミラのゆりかごに手を置いた。その動く音に続いて、かすかにくんくんと鳴くのが聞こえた。
「犬だ」
ベスニクが嬉しそうな声を上げた。
「かわいい子犬だよ」
ベスニクは洞穴の奥を指差した。そして穴の中の薄暗さに目が慣れてくると、二匹の小さな生き物が、目をきらきらうるませ、おびえきってこちらを見つめているのがわかった。
「子犬だよ」
ベニもすっかり喜んでいた。
 しかしラボの表情は固まったままだった。その二匹の、灰色の小さな生き物は、狼の子だったのだ。彼女は洞穴の入口をみて、それからゆりかごに目をやった。またここを出なければ、そして、できるだけ早くここから立ち去らなければ。だが外の世界は雨と雪に覆われて、今や暗闇に包まれようとしていた。
[訳注;旧版ではここに次の文が入る;
 また別の臼砲の砲撃音が、孤独な神のように高地に響き渡っていた。]

 どこにも行くあてはなかった。ラボは入口の方へ行くと、耳を澄ませた。今のところは、何も聞こえてはこなかった。だが母狼はいつか戻ってくるだろう。辺りには、山から転がり落ちてきた石ころや岩がごろごろしていた。ラボはその中の一つに近づき、手で触れ、目算で大きさを測ると、もうそれ以上は何も考えず、その岩を洞穴のところまで押し始めた。ベスニクとベニが外に出てきて、その様子を眺めていた。ラボがその大きな岩を洞穴の入口のところまで持っていくのには、相当の時間がかかった。岩は洞穴の入口にほぼぴったりだった。彼女はまた周囲を見回すと、たき木を取りに出かけたが、何度も顔を上げては辺りをうかがった。何も聞こえてはこなかった。ラボはたき木を集めて腕に抱えると、洞穴の中に入り、岩を引っ張り寄せた。
「ねえ叔母さん、どうして洞穴を閉めちゃうの?ドイツに見つからないように?」
ラボは、何かぶつぶつとつぶやいた。それから火を起こそうとしたが、うまくいかなかった。外はもう夜になっているだろう。彼女はずっと耳を澄ませていた。何も聞こえてはこなかった。たぶん母狼は朝にならないと戻ってこないのだろう。それとも殺されてしまったのかも知れない。
 洞穴は暖かかった。二人の甥たちは、順番にラボの膝に頭を載せると、眠りについた。ラボもこっくりこっくりしていた。たぶん母狼は戻ってこないだろう。外では雪と、そして無数の柔らかな前脚が、しんしんと大地に降り積もっている。母狼の灰色の前脚が、はるか遠く、おとぎ話の世界に降り積もっていくのだ。幼い子連れの山羊が小屋の中にいる。狼が、その扉を叩く。開けておくれや、山羊おばさんよ。すると彼女は、山羊おばさんのラボは扉の方に角を向けるのだ。駄目だったら駄目だよう。
 と不意に、彼女のうなだれていた頭がとびはねた。角はすぐさま抜け落ちて、まどろみは破られた。ラボは聞き耳を立てた。初めは大地から湧き出るようにかすかな音だったのが、だんだんよりはっきりとしてきた。ラボは母狼のうなり声を耳にした。小さな生き物たちは動き出し、鳴き声を上げながら洞穴の入口へと駆け出した。子供二人も目を覚ました。
「何?何?」
ラボは口を開いて何か言いかけたが、その時ひときわ長く、猛々しく吠える声が、驚くほどすぐそばに聞こえてきた。子供たちはラボの背中にしがみついた。
「叔母さん、叔母さん」
「怖がらなくていいのよ。この子たちのお母さんが来たのよ。何も怖いことないのよ」
彼女の頭の中に、情け容赦のない冷静さで一つの考えがひらめいていた。この狼の子たちを、一刻も早く外に放り出すべきだったのだ。だがもう手遅れだ。
 うなり声はもうそこに、数歩先に、震えるように、みさかいもなく、左へ右へと移動しながら、洞穴の前で尻尾を振りながらぐるぐると歩き回っているようだった。子供たちは震えていた。狼の子たちは岩の前を動き回りながらくんくん鳴いていた。母狼がその大きな岩に身体をこすりつけているのが感じられた。それから母狼のうなり声は果てしなく続く悲痛な鳴き声に変わった。それは長いこと続いた。ラボは完全に思考が停止した状態になっていた。考えても考えてもそれらがまとまらなくなっていたのだ。まるで山羊の身体に短く生えた、編み物にはまるで使いものにならない毛のように。それでもラボは、母狼の勢いが先程ほどではないことに気付いていた。猛々しく飛びかかるような吠え方だったのが、徐々にすすり泣くような鳴き声に取って代わられていった。やがてその鳴き声は地平線で悲痛な嘆きの虹となり、湿った雪のかけらの上に、そして岩だらけの高地の上に漂っていた。その心に突き刺さるような鳴き声を聞くのは、何にもまして辛かった。
 ラボは何も考えられないでいた。ただずっと、自分たちにとっては生命を持たぬ守衛であるところの、大きな岩の方を見つめていた。またしても考えがまとまらなくなってきた。それらはただ、濁った水面の上を漂っているばかりだった。
『この洞穴で・・・運命が・・・守りの岩・・・母狼・・・洞穴の中の子狼たち・・・外ではあの・・・母狼が・・・どんな母親だって・・・でも・・・でも・・・でも・・・もう朝が来る』
 それから難儀の末にいくらか考えがまとまってきた。
『母狼は外にいる。母狼は自分の子たちを捜している。岩が親子を隔てている。けれど岩は動かない。岩を動かせば、母狼は中に入ってくる。けれど狼はけだものだ』
 ラボは頭をはたらかせて、こわばった状態から抜け出そうと努めた。そしてようやくのことで、自分のなすべきことを理解した。母狼の子たちを連れ出してやればよかったのだ、と。
 特に考えもないまま、彼女は岩の方へと近付いた。そしてそこで立ち止まると、ゆりかごを持ち上げて、それを洞穴の奥へと運んだ。子供たちも一緒に奥へ連れて行った。
「叔母さん、行っちゃ駄目だよ」
ベスニクが言った。
「ゆっくりと、外にいるけだものが気付かないように」
ラボは岩を少しだけ引っ張った。
「でもあいつはすぐに気付いたわ」
それは活気付いていた。その動きと、激しい息遣いと、そしてうなり声が感じられた。うなり声が頂点に達したその時、ラボはさらに岩を動かして狭い隙間を作り、そこから狼の子を外へ押し出した。外からは吠える声と、子狼のかん高い鳴き声と、そして何かがこすれ合うような、静かに動く物音が聞こえてきた。ラボはそれを聴いていた。
「もう行った?」
ベスニクが言った。
「いいえ」
 あのけだものは、子供たちをどこかへ、謎に満ちた岩山を遠く、どこかへ連れて行ったらしい。そこに飲み込まれ、その冷たい腹の中から再び産み落とされるのだ。この時、母狼の嘆きの声がひときわ高く、哀願する以上のものとなった。彼女はもう一人の子を求めていたのだ。ラボはさらに岩をずらすと、二匹目の子狼を外に出した。再びかすかにこすり合う静かな音がしたが、後はそれきりだった。母狼はようやく立ち去った。終わりゆく夜の中を、子供たちを口にくわえて、雪の中を、また雨の中を。それはつい数時間前、ラボが兄の子たちを連れてドイツ軍に追われていた時と同じだった。
 地平線を終わりなき嘆きの歌の中に沈めながら声もなく、母狼のラボは今、憂鬱な高地を進んで行くのだが、洞穴の中ではその髪と手足を、人間には不自然な形に折り曲げているのだった。彼女の身体は眠り込んでいた。

 ガン病棟の待合室の一つで、ベスニクは、何もすることがなかったので、ガラス戸付き展示棚に貼られた壁新聞『人民の健康』の記事を三度も読んでいた。壁紙の赤は色褪せていた。
『健康に関する中央委員会総会の決定を実現しよう』、『我らがガン研究のイデオロギー的・専門的な向上』、そして『世界のガン』という見出し。
 父の診察は長くかかっていた。
[訳注;初版では、次の文がこの後に続く;
 壁新聞のある展示棚のそばの壁にはもう一つの展示棚があって、病棟で特に優れた医師や職員らの写真が貼ってあった。棚の中央には大きな文字で『協同組合の栄誉』と書かれていた。
 父の診察は、本当に長くかかっていた。]

 ベスニクは、再び壁新聞のところで立ち止まった。見出しは-世界のガン。ガン患者は年間600万人。ああ、人類にとって何と素晴らしいニュースだろうか。もう一つ興味深いことがある。この病を我が人民は『黒いハリネズミ』と呼んできたそうだ。ベスニクはいらいらした風でタバコに火をつけた。
[訳注;初版では、次の文がこの後に続く;
 こんな文化的な知識がなくても、俺たちは生きていけるだろうな。彼はそう思った。だがとどのつまり、それがあいつらの仕事なのだ。興味本位なことを好きなだけ書いている。父に対する真剣な疑念など、まるで抱きはしない。ただ、診察が長くかかっているというだけのことなのだ。]

 ようやく待合室の奥の扉が開いて、父と、それに続いて医師が姿を現した。医師は疲れた様子で首をかしげたまま歩いていたので、その目つきに思慮深そうな感じを与えていた。その睫は、ベスニクの疑わしげな視線の前に来ると固まったように動きを止めた。
「大したことはありません」
医師は言った。
「一応、もう三、四回ほど放射線治療室を使いましょう。それ以上の必要はないと思いますがね」
 ストルガは黙って聞いていた。
「明後日には、新しいコバルト照射装置が入ります。パワーもある、最新型の機器ですよ。日曜日には最初の治療に来ていただいてかまいません。日曜日はどうですか?」
「私は、いつでもかまいませんよ」
ストルガは答えた。
「それでは、明後日の4時に予約を入れておきましょう」
 ストルガは『ええ』とうなづいた。親子が出て行くと、医師は待合室の大きな窓の方にちらりと目をやった。日曜日か。彼はふと思った。新しい照射装置は明後日から動き出す。鉛で隔てられた部屋で、ついさっきまで技師たちが最後のテストをしていた。
 医師はひとり微笑んだ。彼は、その装置が届いたばかりの朝のことを思い出していた。それは、二ヶ月前のことだった。箱が届いたのは夜中のことだったので、朝になってもまだ誰一人そのことに気付かないままだった。ただありふれた大きさの箱が数個、どこまでも伸びた病院の建物の隅に置かれているだけだった。それは夜の間に降った雨でしっとりと濡れていた。そして昼食の頃から徐々に、最初は医師たち、それから看護士たち、最後に患者たちが、装置のやってきたことを知ったのだった。
 それはあの場所に、おそろしく注意深く梱包されたままだった。しかし誰もが、そこから絶えず放射線が出され続けているということを知っていた。そしてその日からというもの、その一隅を避けるようになり出した。箱の上には、病院の庭に生えた木々から枯葉が降り始めた。その間にも、技師たちは急いで鉛で覆われた部屋を準備していた。それは、長らく待ちかねた、しかし危険な客人を閉じ込め、決して外へ出さぬための住まいであった。
「それはあの場所で、まだ箱も開けられてはいなかった」
医師は思った。誰もその姿かたちを知らなかったが、しかしあの時から、それは命を吹き込まれたのだ。希望や、人類の思考や、疑念や、驚くほどの憶測が、その装置へと伸びていった。今では、照射治療を開始しようとする人々の名簿も長くなっていた。
 医師は額に手をやった。彼は、誰にも話していなかったが、小説を書くつもりでいた。そしてこれからも、話すことはなさそうだった。同僚たちは笑うかもしれないし、妻に至っては怒り出すだろう。小説の題は簡潔なものだった。
『コバルト照射装置の年代記』
その種のことを書くのは、彼にとって難しいことだらけだった。病んだ臓器のことを書くのなら簡単だが、誰かの目が語ることや、指先の動きについて語るのは無理なように思われた。だが主要なアイデアに関して言えば、彼は多かれ少なかれ的を射ているらしかった。
『我が新しい人類への重い試練』
 明後日には、最初の人間が装置の下に横たわるだろう。重さ9トンもある鉛の球体がその上に垂れ下がり、放射線で爆撃する準備を整えている。その球体の中心部には、莫大な量の鉛に包まれた小さなコバルトのかけらが入っているのだ。灰色の球体は原子爆弾の中にあるのと同じものだが、ただ違うのは、その下に横たわるのがヒロシマではなく、たった一人の人間だということだ。
 さあ、皆がその隔壁の部屋から外に出ると、患者はそこで一人になる。装置と差し向かいでだ。球体の中から、何かが動くような音が聞こえてくる。ぶ厚い鉛の板が、何千枚もの扉のようにゆっくりと移動してくると、球体の中心から、徐々にその表面に、放射性の小さなかけらの部分が顔をのぞかせる。その先端まで突き出たところで、放射線が照射され、それから放射時間が終わると、その部分は再び、鉛の巣の奥底へと戻っていく。そして無数の扉も、一枚また一枚と閉じ込まれていくのだ。
 何度も何度も、コバルトのかけらはその行程を繰り返す。最初の数年間は、その放射線は強く、まるで、檻の中から出たくてたまらずにいる若々しい子狼の荒々しい息遣いのようだ。だが、時がたつにつれ、その息遣いは弱々しくなっていく。この世のありとあらゆるものと同様、それもまた年老いていくのだ。装置は長生きする。死ぬのはただ、その小さな放射性のかけらの部分、その装置の魂ともいうべき部分だけなのだ。魂が死ねば機械は分解され、再び大きな箱の中へと納められる。『コバルト照射装置の年代記』のプロローグは箱の到着のところから書き始めて、エピローグはその運び出しにしよう。装置のなきがらを納めた箱は、遠く、その産み落とされた異国の地へと運び出されるのだ。その灰色の球体の内部に、新たな魂を吹き込まれるために。そしてそこから全てが繰り返される。
[訳注;原語arkëは「棺」だが、これは単なる「箱」の他、日常的に「レジ」の意味でも用いられる]

 編集部に入るなり、ベスニクは、編集会議の秘書から緊急に呼び出しが来ていると言われた。
「いいかね」
秘書は手で額をぬぐいながら、そう言った。
[訳注;この一行は初版では、次の通り;
 秘書はハンカチで額をぬぐいながら、そう言った。彼は体格が良く、室内ではいつもワイシャツ姿だったが、人一倍暑がりなくせに、誰よりも先に電気ストーブをつけるのだった。]

「運がいいよ、君は。本当を言うと、君を手放したくはないんだ。でも是非にと言われたから、私も折れたんだよ。じゃあ元気で行ってきたまえ」
[訳注;初版では次の通り;
「運がいいよ、君は。本当を言うと、君を手放したくはないんだ。君はこの編集部では仕事もできるし、私よりずっと仕事をわかっているからね。でも仕方がない。是非にと言われたから、私も折れたんだよ。じゃあ元気で行ってきたまえ」]

 ベスニクは口を開いた。
「よくわからないんですが」 と彼は訊ねた。
「何の話でしょう?」
「何の話だって?外国へ行けるんだよ。私はいっこうに構わないさ。おや、何も知らないのかい?みんなに言われなかったのかね?」
「いいえ」
「そりゃ失敬、てっきり知っているとばかり思っていたよ。ではいいかね、すぐに中央委員会の外務部局に連絡を取りたまえ。数日後には団体が出発する。何の使節団かは私も知らないんだがね。まあいずれわかるさ。いいかい?」
「はい」
ベスニクは混乱しながらも答えた。
「おういラチ、ベスニクの証明書をすぐに持ってきてくれ」
 その時になってベスニクは、部屋の中にもう一人いるのに気が付いた。取材班長のラチだった。彼の視線はさっきからずっとこちらに注意深く注がれていたが、ベスニクが振り向くと微笑んでみせた。しかしベスニクは、その微笑の背後にある嫉妬を感じたのだった。
 彼らは連れ立って部屋を出た。部屋を出る時、その取材班長の顔をちらりと見ながら、ベスニクは不意に、その顎や頬や浅黒い額や、とりわけ眉毛のある場所に、Zの文字が見えるような気がした。
[訳注;ドイツ語版ではなぜか「Nの文字」と訳している]
 立ち去ろうとしていたちょうどその時、ラチの耳に再び、外交担当の部屋から笑い声と、大声で交わされている会話が飛び込んできた。どうやら、外国旅行での楽しかった出来事をずっと話しているらしい。今までに何度、編集部の仲間の誰かが外国へ旅立つたびに、こうしたことが繰り返されてきただろう。
[訳注;上の段落は、初版では次の通り;
 廊下を歩いていたちょうどその時、ラチの耳に再び、外交担当の部屋から笑い声と、大声で交わされている会話が飛び込んできた。どうやら、外国旅行での楽しかった出来事をずっと話しているらしい。今までに何度、編集部の仲間の誰かが外国へ旅立つたびに、他の者たちが以前の旅行での特に興味深かったことを回想し楽しんできただろう。そうだ、つい10分前、ベスニクが外国へ行くことがわかった時にも、イリルが、自分自身の中国旅行の時にATSHのゼフと一緒にラキをボトルで注文したことを同僚連中に語っていたのだった。]

 ラチは話を聞こうと歩みを遅めた。彼らの中の二人はラキのボトルのことを話していた。それはごくありふれたお喋りのようだったので、彼は立ち去ろうとしたが、その時、サウディアラビアという国名が聞こえてきた。彼はその場に立ち止まり、聞き耳を立てた。彼らは確かにラキのボトルについての話をしていた。それを自分たちで持ってきていて、順番にまわし飲みし始めたのである。ところがそこで彼らが気付いたのは、そのラキからはすっかりアルコール分が抜けていたばかりか、ボトルが驚くほどの速さで空っぽになってしまうということだった。その時になってようやく彼らは事情を理解した。高空ではラキが蒸発してしまうのだ。だから飲み物も濃くなってしまうわけだ。
[訳注;上の段落は、初版では次の通り;
 ラチは廊下を歩きながらイリルの声を聞いていた。イリルは、夜中にサウディアラビア上空を飛行中、ゼフがラキのボトルのことを思い出し、カバンの中から取り出した時のことを話していた。彼らはそれを順番にまわし飲みし始めた。ところが驚いたことに、そのラキからはすっかりアルコール分が抜けていたばかりか、ボトルが驚くほどの速さで空っぽになってしまうのだった。その時になってようやく彼らは事情を理解した。高空ではラキが蒸発してしまうのだ。だから飲み物も濃くなってしまうわけだ。]

 同僚たちはその話を聞きながら、しきりに笑っていた。
「夜中にサウディアラビアの上空でラキを飲むのかい。それこそ人生ってもんだな」 誰かがそう言った。
 みんなが笑った。取材班長のラチは自分の部屋に戻ると、金庫を開けてベスニクの証明書類を探し始めた。そして書類を見つけると、それを机の上に置き、肘をついたまま、これから外国に行こうという人物の写真を眺めていた。ラチ自身は、一度もそんな使節団に加わったことがなかった。嫉妬の波が、彼の身体じゅうに広がった。
 そうだ、自分は、国の信任を受けた人間で、この取材班のあらゆる秘密が納められた金庫の鍵だって持っているというのに、人生を謳歌し、飛行機に乗り、空港に降り立ち、サウディアラビアの上空でラキが蒸発する話題に興じているのは別の者たちなのだ。その一方で、自分にとってはこの鍵付き金庫が人生だなんて。書類だ、書類だ。
[訳注;この箇所の「書類」は、初版ではイタリア語系のkartelë(<cartella)だが、全集版ではなぜかフランス語系のdosje(<dossier)になっている]
 以前まで彼は、それらの書類に手を触れることに喜びを感じていた。鍵をかけた部屋の中で書類をぱらぱらめくりながら、彼は自分の手が周囲の人々の人生に、誰にも見られぬまま、その人生の最も秘められた時期に触れているような、そんな気がしていた。そうして密かに書類に触れることには、何かしら運命というか、万能の権力があるのだった。あっちの連中は笑いながら部屋の中で大声で喋っているが、その彼らに関する書類はといえば、この鉄の金庫の中にあるのだ。
 それでもラチは、しばしば悲壮な気持ちにとらわれるのだった。本当のところ、この書類の中には大したことは含まれていない。本物の、災いをもたらしかねない書類はどこか別のところにある。そして彼の班の書類の中にあるのは、言ってみれば、社内の指導者らや大学によって為された評価、それ以外の何ものでもないのだった。
[訳注;上の段落は、初版では次の通り;
 それでもラチは、しばしば悲壮な気持ちにとらわれるのだった。本当のところ、この書類の中には大した秘密は含まれていない。そこにあるのは、公社の指導者らや大学の学科長らによって為された特徴づけだった。]

 その記録には『カッとなりやすい』『社会的活動にあまり関わらない』『上司を尊敬しない』『規律正しさに欠ける』といった文言がしばしば見られた。ほら例えば、このベスニクの書類にはこう書いてある。
『人と余り関わらない。批判をなかなか受け入れない。集会での発言が少ない』
 ラチは、それらの文言の写しを注意深くとって党の委員会に送り付けることも一度ならず考えたが、だとしても、べスニクが外国へ行くことを妨げることはできなかっただろう。彼がこの仕事についてからというもの、そんなことをしてもほとんど誰のことも妨げることはできなかった。履歴書について言うならば、それらが履歴書である限りにおいて、そこには何らの秘密も含まれていなかったからだ。
 そうでなければラチはその書類を、彼自身の記録用ノートに書いてあるメモによって、更に豊かなものにすることもできただろう。それは、黒い表紙の小さなノートで、彼はそれを金庫の一番下の棚にしまっていた。だが、自分がしばしば行った記録が一貫して沈黙で迎えられ、それどころかあらぬ誤解を受ける危険性があるとわかってからというものは、メモをつけることも稀になってしまった。
[訳注;上記一部は、旧版では次の通り;
 だが、彼がしばしば口頭で行っていた(メモを書き残す勇気がなかったからだが)その記録が一貫して]

 そして遂に、或る友人の誕生日のパーティを機に、ラチはそのメモを中止することにした。その友人、アラニト・チョライはその時、内務省に勤めていた。彼は四十五歳の誕生日を祝う食事の席を設けていた。その食事の席に集う招待客らの中には、彼の勤務先の上司もいた。
 すると不意に、半ば酔っ払ったアラニトがテーブルの前で叫びだした。
『ああ、党をどうすればいいんだろうな!それでどうやってこの作家どもをとっちめられるかも、わかるだろうにな!』
彼は医者も技師も教師も、あげくに学生までも、誰彼かまわず「作家」と呼んでまわった。二、三人の招待客がなだめにかかったが、アラニトはますます荒れ出した。胸を打ち鳴らし、殉死した者たちの血に誓って、許されさえすれば自分は何でもするつもりだと叫び始めた。
 アラニトがそんなことを口走るのは他の機会にもあったことだが、それでもこのパーティの時ほどあからさまなものではなかった。初めのうち彼の話を聞いているだけだった連中も、大抵の場合は反論しようとしたのだが、その反論は弱々しいものだった。彼らはアラニトに
『そうじゃないだろうアラニトよ、そうじゃないだろうアラニトよ』 と繰り返すのだが、そう言いながらもにやついているのだった。彼らは、アラニトのそんな悪癖を許容し得る範囲の、むしろ微笑ましいと言ってもいいぐらいのあやまちとしてとらえていた
 ところがその夜、上司のくたびれた顔つきが、アラニトのそんな発言を耳にした途端、不意に険しくなったのだ。彼は何も言わず、ただ陰鬱な目つきで見つめていたが、ついに、おそろしく低い声でこう言った。
『アラニト!君は黒い勢力だ!』
アラニトは青ざめた。
『私は黒い勢力じゃありません、部長同志!私は革命勢力です』
そう言って彼は拳で胸を叩いた。辺りは、墓場のような沈黙に包まれた。その沈黙の中で、アラニトの上司は、氷のように冷たい言葉でもって彼に返答した。
 アラニトの上司は、おおむね次のような意見を述べた。 「確かに、巨大な人民勢力と共に進められる革命においては、黒い闇の勢力がその中に湧き上がってくることもある。ちょうどそれは、嵐の海であらゆるものが揺り動かされるのと同じことだ。だがしかし、革命にはそうした勢力を即座に切り捨てる能力が備わっている。そして必要とあらば、それらを情け容赦なく押し潰してしまうのだ」
 その上司の言葉はとても尋常なものには聞こえなかった。それはほとんど会議のようで、誕生日祝いの席とは到底思えないものと化していたのだが、それがアラニトにとっては致命的なことだったのだ。
 それから二日間にわたって、彼が勤める職場での党会議が行われた。そして彼は「偏向分子」「左翼冒険主義者」「コチ・ヅォヅェ派」「ティトーのまわし者」と名指しされ、党から除名され、内務省からも解雇されてしまった。今、アラニトはと或る小さな公社の中で商店を営んでいる。
[訳注;コチ・ヅォヅェKoçi Xoxeは戦後アルバニアの内相(1946~1948)。親ティトー派でエンヴェル・ホヂャの最大の政敵の一人だったが、アルバニアとユーゴスラヴィアの関係断絶に伴い、1948年に要職を解かれた。ついで労働党からも除名され、翌年死亡した(処刑説が有力)]
 あの陰鬱な宴席の一件以来、自分自身もかつてコチ・ヅォヅェ派として非難を受けたことがあるラチは、アラニトの身に起きた出来事に死の恐怖を感じ、しばらくの間はメモをとることから一切手を引いた。
 だが彼は落ち着いていることができなかった。それで黒い表紙の小さなノートを買い求め、そこにあらゆることを書き留めていった。そのノートを彼は、国の金庫の中にしまっておいたのだ。それは、彼だけのノートだった。しかし、おそらくいつの日か、それが党のために必要となる時が来るだろう。国家や人々が再評価されるような、困難な時代がやってくるだろう。今では商店主のアラニトも、よくこんなことを言っていたものだ。
「ああ、戦争にでもならないかなあ。そうすれば俺があの作家どもに、目にもの見せてやれるのになあ」 ここで彼が口にする『作家』という言葉には、文化に関わる人ばかりでなく、文民全般が含まれていた。
 ラチはゆっくりとページをめくった。そこには疑わしい-と彼が思う-言葉や、冗談や、会話の切れ端が書き留められていた。その傍のカッコの中には日付と人名が書いてあった。それはフルネームだったりイニシャルのみだったりした。
 さらにその下を見ると、カッコ内にラチ自身の評価が短く書き留めてあった。
[訳注;上記段落は旧版では次の通り;  日付と人名、そして会話や、冗談や、話し合いの切れ端が書き留められていた。さらにその下を見ると、カッコ内にラチ自身のコメントが短く書き留められていた。]
「反ソ主義、奉仕労働への反対、協同組合に対する軽蔑、ふた通りの意味にとれる言い回し、エンゲルスの著作『反デューリング論』に対する敬意の欠如、社会主義リアリズムへの嘲笑」
 ラチは別のページにも目をやった。反ソ主義。ショーロホフと(アメリカの)ヘミングウェイとどちらが偉大な作家かという、職場での論争。その後にはこう書いてあった。
「N・Fとニコル・H」
 ベスニクについても書いてある。
「9月3日。ストルガが、ソヴィエト代表団の訪問時、ブトリントで野垂れ死んでいた蛇の件について語る。何かの象徴ではないのか?(正確にはゼフ・Tが写真に撮った蛇)」
 一週間前に書いたメモもある。国連でのソ連首相の発言。ニューヨークより帰還後のXh・Çによる話。
1.Hr同志は演説の最中、ボルジョム(ミネラルウォータ)を飲んでいた。そして締めくくりにこう言った:『では、ボルジョムも終わったことですから、私の話も終わりにしましょう』
[訳注;この「Hr同志」はおそらくフルシチョフ。「ボルジョム」は原語ではborzhoとあるが、おそらくロシア語боржомか。グルジア産の鉱泉水]
2.ソヴィエトのメディアの記事より:『国連におけるフルシチョフ同志の靴の脱ぎっぷりは見事なものだった。西側代表団のご婦人たちを魅了したことだろう』どちらの話についても、聞いていたベスニク・Sとイリル・Iの反応は、ただ笑っているだけだった。
[訳注;旧版では「ベスニク・Sと上司のRとL・Kと、それにイリル・I」となっている]
 ノートをめくっている間、ラチは喜びを感じていた。それは、自らは陰に隠れたままで、他人の人生を覗き見できたことによる、人間ならではの愉悦感だった。しかも誰の目も、自分の生活には入り込んでこないのだ。
 自分の生活か。その中から特に値打ちのある宝物を取り出すように、ラチは、自分がひどいインフルエンザにかかった時のことを思い出していた。その時、妻は彼につきっきりで、あふれんばかりの献身ぶりを示してくれたのだ。人間の生が持ち得る、詩的で、ぼんやりとして、輝かしく、幻想に満ちたものの全てが、その日々の中に凝縮されていた。
[訳注;旧版では「ぼんやりとして」のかわりに「非現実的で」となっている]
 それは彼が、心の奥底で憎悪してやまない芸術や文学や映画や書物に関わった唯一の時期だった。なぜなら彼自身は、その病に臥していた日々の中にあった幻想の備蓄が、文字や音で表されるものに比べれば、はるかにちっぽけなものだと思っていたからだ。彼は、恋人や婚約者たちが、全く病気にもならず、死におびえることもなく、腕を組み、うっとりと互いを見つめ合ったまま、通りを歩きまわっているのが、これっぽっちも理解できなかった。
[訳注;旧版では「うっとりと」のかわりに「夢中になって」となっている]
 だからラチは、ベスニクが数日前に、婚約者とそんな風にして夕暮れの「殉国者大通り」を歩いていたのが、到底許せなかった。落ち葉が絶え間なく降っていて、ラチは自分がその樹のように丸裸でいる気分だった。

 そんなつもりもなかったのに、ベスニクはいつの間にか、ザナが数ヶ月前から実習生として勤めている国家計画局の建物の前まで来ていた。守衛は胡散臭そうな目でこちらを見ていたが、大儀そうに受話器を取った。
「ザナという人だよ。もしもし、ザナとかいう人を頼むよ。入口にお客が来てるんだが。ええ?だからここにお客が来てるんだよ」
 ベスニクは、もう一本のタバコに火をつけた。中央委員会からここまでの道を歩く間に、ひと箱の半分近くを吸い終えていた。守衛詰め所のガラス窓の向こうからは、守衛の眠たげな目が、不信そうにこちらをずっと見ていた。
[訳注;旧版では「不信そうに」のかわりに「怒ったように」となっている]
 ザナが姿を現した。
[訳注;旧版ではここに次の文が入る;
「ベスニクじゃないの」
 彼女はズボンにセーターという格好だった。その時ベスニクは、女性が訪ねてきた相手を戸口まで出迎えるのに、ズボンとセーター以上にぴったりな服装はないような気がした。]

「どうかしたの?」
とザナは訊ねた。実習期間中にベスニクが計画局まで訪ねてくるなんて、前例のないことだったからだ。
「いや」
ベスニクは言った。
「あのさ、火曜日、今度の火曜日なんだけど」
とそこまで言って彼はひと息つくと、前方の辺りを、まるでそちらの方向に火曜日があるかのように指差した。
「外国に行くんだ」
「外国?」
ザナは手を叩いた。
「本当に?」
「今しがた、中央委員会から通知を受けたばかりでね」
ザナの瞳は、喜びにきらきら輝いていた。
「すごいじゃない!で、どこなの?」
「モスクワさ。使節団だよ。実を言うと、何の使節団なんだかよくわからないんだ。僕がちゃんと聞いてなかったのか、外務部局の人がきちんと話してくれなかったのかも知れないけど」
[訳注;旧版ではここに次の文が入る。なお「11月7日」とはロシアの「十月革命」の、新暦による日付;
「何の使節かなんて、どうでもいいじゃないの。そんなの11月7日の式典の使節団に決まってるんだから」
「あそうか」
とベスニクは言った。
「どうして気がつかなかったのかな」]

「素敵ねえ」
ザナが言った。
「でね、もうすぐ一時だからさ。休憩とって一緒に出られないか?天気もいいし、僕も散歩したい気分なんだ」
「ちょっと待ってて」
そう言ってザナは再び扉の向こうに姿を消した。
[訳注;旧版では「ホールのガラス扉」となっている]
 ザナが降りてくると、守衛は首を振りながら、口の中で何かぶつぶつつぶやいていた。彼がさっきからずっと長いこと独り言を言っていることにザナは気付いていた。
「やれやれ、まったく、俺たちはこんな娘たちにビルや家を頼まなきゃならんとは!大臣までもが頼まなきゃならんとは!」
 ザナはベスニクの腕をつかみ、その肩に軽くもたれた。彼女はそうして歩くのが好きだった。数日間の雨が去って、道路は実に美しかった。
 昨日まで水滴で曇っていた窓ガラスも、今は、ゆっくりと動き回る人々の頭や足を映していた。二人は家具店のショウウィンドウ越しに調度品やダブルベッドを見てまわった。
[訳注;上記段落は、旧版では次の通り;
 昨日まで水滴で曇っていた窓ガラスも、今は、人々の頭や足や、ゆっくりと動き回るバスの窓ガラスを映していた。二人は家具店の大きなショウウィンドウ越しに、寝椅子やダブルベッドやタンスを見てまわった。]

 その場に見える何もかもが結婚生活を思い起こさせるもので、それらの光景は、どんな独身者にとってもさぞかし辛いものに違いなかった。家具の木目には至るところで、蝶の羽根に始まって、河馬の頭に至るまで様々な模様が浮き出ていた。だがこんな場合にあって、それらは少しも恐ろしいものではなかった。
「家具屋さんに入らない?」
ザナが言った。
 ベスニクは微笑した。家具店はザナにとって、立ち止まらずに通り過ぎるわけにはいかない場所なのだ。とりわけ近頃は。
 二人は、売り出されたばかりのソファを見ていた。ザナは幾度か、骨董市で買ったランプのことをベスニクに話そうかと思ったが、そのうち気が変わった。最初に考えていた通り、彼を驚かせてあげる方がいいだろうと思ったのだ。
「このソファがいいわ」
ザナは言った。
「あなたどう思う?」
ベスニクは『僕もいいと思うよ』とでも言うようにうなづいてみせた。
「あそこで夕方の五時にコーヒーでも飲もうよ。ね?」
 不意にザナが彼の方を向いた。
「何だか、外国に行けるのに喜んでないみたい」
 ベスニクは微笑むと、右手でザナの指先を握り締めた。
「モスクワには、どのくらいいるの?」
再び通りに出たところで、ザナが訊いてきた。
 ベスニクは肩をすくめた。
「今日、親父が診察を受けに行ってね」
と彼は言った。
「どうも腫瘍の疑いがあるようなんだ」
「腫瘍ですって?」
ザナは言った。
「嘘でしょう」
ザナはふと、何となく申し訳ないような気がしてショウウィンドウに目をやった。
「どうして嘘なんだい?日曜の午後にレーザー治療を受ける予定なんだ。新しいコバルト照射装置が入ったんでね」
「どうして今まで教えてくれなかったの?」
ザナは訊ねた。
「でも、たぶん危険な腫瘍じゃないと思うよ」
ベスニクは言った。
「今は何だって放射線治療で何とかなるのさ」
「そうね」
ザナは何となく安心した。
「去年、同級生の女の人で、ずっと胸腺に疑わしいところがあったのよ、結局何でもなかったんだけど」
 ザナは沈んだ声になった。喋っている間も彼女は、どんなことがあっても、そんなはずはないと思っていた。死がそんなに間近に迫っているなんてあり得ない。何の兆しもなかったのだから。それから数度に渡ってザナは級友の胸腺のことについて、もうたくさんだという気になるまで思い及ぶのだった。
 二人が国営銀行のところまでやってきた時、誰かが背後から優しい声で呼びかけてきた。
「ザナ」
振り向いてみると、ディアナ・ベルメマだった。ザナとディアナが抱き合っている時、ベスニクの脳裏にこんな考えがよぎった。
 たとえ人間の生命が三百年、四百年続いたとしても、会うことが少しも億劫にならないような人というのが幾人かはいるものだ。ザナと付き合い始めたばかりの頃、彼女に紹介してもらった通りの、この愛らしく上品なディアナこそが、まさにそんな人だった。
「ディアナ・ベルメマよ。私の一番素敵な友達なの」
ところが、ディアナには驚くべき変化が生じていたのだ・・・服の形に・・・いや、まるで、見えない手が彼女の身体のラインにゆるやかなねじれを与えているように見えた。そしてそのねじれのために彼女の身体中に、全体的にぼんやりとしたものが生じていた。ベスニクは、ディアナのぽってりとした唇と頬の間に、赤みがかった小さな砂粒のようなものがあるのを見て思った。彼女の妊娠していることが即座にわからないなんて、自分は何とぼんくらだったものかと。
 ザナがディアナの耳元に唇を寄せて何かささやくと、ディアナの目にきらりと、子供っぽいと言ってもよいほどの光がちらついた。二人は二つのグラスに似ていた。そのグラスの中に満たされたものは、まるで海の水が新しい季節に変わるように、姿を変えていくのだった。
「ご結婚はいつ?」
ディアナは楽しげに訊ねた。
「一月よ」
ザナの答える声は柔らかく、それはまるでベスニクにこう言っているようだった。
『一月が過ぎれば、私もあなたも同じことになるのよ』
 ザナはディアナはとりとめないことを二、三分ばかり喋っていた。ベスニクは、まるで偶然にも遥かかなたから自分の顔に舞い降りてきたような微笑みをたたえたまま、そのやりとりを聞いていた。ザナがディアナの夫のことを訊ねているのが聞こえた。その夫は精神科医で、今は山岳地帯に医療チームとして派遣されているのだった。そしてディアナが「会いたくてたまらないわ」と言っているのが聞こえてきた。ベスニクは、彼女が他には何も感じられないのではないだろうかという気がした。彼女が誰かさんへの思いに駆られている限りは、だが。ザナも同じように、会いたくてたまらない気持ちになるのだろうな。彼はそう思った。
「ねえ知ってる?」
とディアナがベスニクの方を向いて訊ねた。
「うちの弟のマクスが最近、おたくの弟さんと仲良くしているのよ。何と言ったかしら?」
「ベニかい」
ベスニクが答えた。
「そう、そのベニよ。この頃はね、二人とも壊れたテープレコーダーに夢中なのよ」
「へえ」
とベスニクは言った。
「すごく幸せそうだったわね」
ディアナが二人と別れて立ち去った後で、ザナがささやくようにそう言った。彼女はもう一度、ベスニクの腕にもたれかかった。その時ベスニクは何となく、おそらくほんの一刹那、その寄り添う力が何かしら返事を求めてきているような気がしたので、ザナにこう言った。
「僕らもあんな風に、幸せになろう」
 二人の足音が歩道の上で絡み合った。二人は、さっき通り過ぎたカフェに入った。
[訳注;上の段落は、旧版では次の通り;
 二人の足音が歩道の上でリズミカルに絡み合った。ベスニクは、さっき通り過ぎたカフェに入ろうと誘った。]

「ここは入ったことないわね」
ザナが言った。
 カフェには人がまばらだった。ラジオから、軽快な音楽が聴こえていた。二人してクッション入り椅子に腰を下ろすと、ザナが再びベスニクの父親のことに触れてきた。
[訳注;上の段落は、旧版では次の通り;
 カフェには人がまばらだった。カウンターの端に置かれたラジオから、軽快な音楽が聴こえていた。二人して明るい色のテーブルの前にある、クッション入り椅子に腰を下ろすと、ザナが再びベスニクの父親のことに触れてきた。]

「たぶん何でもないよ」
ベスニクは言った。
「たぶん、単なる疑いがあるっていうだけなんだから」
 ザナは、ベスニクの手に自分の手を重ねて微笑んだ。彼女はベスニクの周りの人がみんな好きだったが、ストルガについては格別だった。ベスニクは、自分と話しているザナが『お父さん』という言葉を口にする時、それは満足そうにしているということに気がついた。ええお父さん。もちろんよお父さん。おやすみお父さん。
[訳注;旧版では、次の文がこの後に続く;
 ストルガの方はどうかと言えば、当然ながら馴れ馴れしいものではなかったが、それでも変わらぬ温かみを込めて『娘よ』と呼ぶことがしばしばだった。
「ご注文は?」
ウェイターが訊いてきた。
「ジュースフロートあるかしら?」
「僕はエスプレッソにしよう」
ベスニクは言った。]

 ガラス越しに、二本の道路が交差しているのが見えた。通行人は足早に通り過ぎた。近くに映画館の入口があって、それはまるで蟻の巣のように見えた。一本上映が終わったばかりで、次の上映が始まるところだった。
[訳注;旧版では、次の文がこの後に続く;
 映画館に入るのに、これ以上適当な頃合があるようには思えなかった。]

 それからしばらくモスクワ行きの話になった。二人が店を出ると二時半で、もう終業時刻だった。映画館の入口には誰もいなかった。死が映画館の看板の上にあった。
『或る自転車乗りの死』
[訳注;「或る自転車乗りの死(Muerte de un ciclista)」は1955年、フランコ政権下で製作されたスペイン映画。邦題「恐怖の逢いびき」。ちなみにアルバニアの勤務時間は地中海式の8時~14時半ないし15時が一般的で、これは当時も今もさほど変わらない]
 ザナはその看板に目を上げると、再び婚約者の腕にもたれた。二人はザナの家へ向かっていた。玄関のところに灰色の車が停まっていた。
「父さんも帰ってきてるわ」
ザナは言った。
「食事していく?」
「いいや」
ベスニクは答えた。
「もう帰るよ」
階段の下に腰の曲がった老婆が、まるで最後の陽の光を浴びようとでもするかのように座っていた。
「あの婆さんは何だい?ガラスみたいな眼でこっちをずっと見てるけど」
と、立ち去り際にベスニクが小声で訊ねた。
 ザナは彼の肩に顔を寄せた。
「ヌリハン婆さんよ」
とザナは、さらに小声で答えた。
「うちの下に住んでるの」
ベスニクが帰りながらもう一度振り向くと、老婆は彼から目を離していなかった。
「ヌリハンか」
ベスニクは言った。
「妙な名前だな」
「前に彼女のことは話したことがあるわよ」
ザナが答えた。
「あなた、昔の地主の土地に行ったことがあるでしょう。憶えてない?」
 ベスニクは『うん』とうなずいた。立ち去りながら彼は、その老婆のガラスのような眼がずっと背中にまとわりついているような感じがして、足どりを早めた。
 公園沿いの道を歩いていた。ザナとの初めてのデートから帰り、夜にこの道を歩いたのだ。あの時は冬だった。ポプラの樹はすっかり葉が落ちていた。一台の車のライトが、不意に道とポプラの一部をプラチナのように真っ白く照らし出した。ザナはすっかり取り乱していた。
『父の車のような気がしたの』
 ベスニクはひとり微笑んだ。
「トポリャー、トポリャー」
と彼は、ずっと昔の時代に流行ったソヴィエトの歌の出だしを頭の中で繰り返した。
[訳注;ロシア語“Тополя, тополя(ポプラよポプラ)”]
「この樹は何と言うのですか」 汗をかいてしまったので、とあの時、ブトリントでフルシチョフに同行していた通訳の一人が訊ねてきたのだ。
「ポプラです。トポリャー」ベスニクは答えた。
「でも何故、それがどうかしましたか?」
「ふうむ」
相手はつぶやいた。ベスニクはそれらの木、要するにポプラが伐採されることになっていること、その替わりに果樹が植えられることを話した。
 自分は、『ポプラ』を『菩提樹』に入れ替えていた。ああ、頭がガンガンする。翻訳するのに厄介なものが二つある。樹木の名前と、ことわざだ。あの人はことわざをよく使っていた。今度は木の話まで始めるとは。
 公園のベンチの上に、黄色くなった葉が落ちていた。ベスニクは残っていたタバコに火をつけ、空箱を放り捨てた。
 葉のガサガサという音が、あの時と同じように聞こえていた。彼は、どういうわけか医師のコバルト照射装置の話を思い出して、足を速めた。

5

 彼は身動きもせず横たわっていた。背中と掌に汗が流れるのを感じた。鉄とセメントの混じったその重い物体は、むやみに非人間的な大きさで、表面には外国の文字が書かれていて、彼の前で威嚇するように立ち上がっていた。
[訳注;旧版では「その丸く重い物体」]
 それでも彼はぴくりともしなかったので、誰が見ても死んでいると思っただろう。仲間たちも、彼のことを死んだものと考えていた。そのうち、誰かが引っ張り出しにやってくるかも知れなかった。彼はうっすらとまぶたを開き、霧の中を眺めるように、コンクリートの表面に書かれた外国の文字を見つめた。“Gott mit uns”
[訳注;ドイツ語「主は我らと共に」]
 トーチカは静まり返っていた。その、一つしかない眼がこちらを見つめていた。
「どうして、撃ってこないんだ?」
暑かった。暑かったし、空は蒸し暑さで色褪せていた。斜面の大地は、太陽の下で砂埃にまみれ、トーチカの眼はその上に注がれていた。
[訳注;トーチカの「眼」syri i bunkeritとはこれ↓]

 彼はまぶたを開いたが、その時、トーチカの中で何かが動いた。彼は眼を閉じて待ち構えた。その物音は機械的なものだった。奴らがきっと、機関銃の銃身を銃眼のところまで持ってきたのに違いない。そしてこれから撃ってくるのだ。彼は息を止めた。そうだあれだ、まるで古くからの知り合いのような、あの「シャルス」式機関銃だ。
[訳注;この機関銃の名はおそらくロシア語のШарсかフランス語のCharce。ただしフランス語版では“Maxim”となっている]
 銃撃は雨あられのように長く、単調だった。弾丸はものも言わず、彼の周囲を、おそらくは彼の頭上を、終わりのない流れのように飛び抜けた。なぜ全く中断しないのか?いつもなら奴らの銃撃は短い掃射になるのだが。
「『シャルス』式機関銃め、お前に俺の命を奪うことはできないぞ」彼は思った。
 ようやく銃撃がやんだ。再びあの、銃身を銃眼から取り外す時の金属音が聞こえてきた。そして静かになった。その静けさを破って、誰かの足音がするのを感じた。仲間たちが自分を連れ出しに来たのだろうか。そうだ、初めてやってきたのだ。誰だろう?ムチョ・アバズィか・・・彼はうっすらと目を開けた。
 いつからムチョ・アバズィは医者の白衣を着るようになったのだろう?どうしてトーチカの方を見張っていなかったのだろう?灰色の球体がすぐそばにあって、彼のほぼ真上に、重く、威嚇するようにぶらさがっていた。その表面には外国の文字でこう書いてあった;
“Jupiter Cobalt. IR II W.H.O.”
「ストルガ同志、どうぞ起きてください」
医師が低い声で言った。
「照射治療は終わりました」
 彼が先に、長い廊下へ出た。医師と看護婦がそれに続いた。医師は驚いたような目つきをしていたが、その視線は、どこか一箇所に定まるのに先立って許可を得ようとでもするかのように、あらゆるものに柔らかく注がれていた。
[訳注;旧版では、次の一文がこの後に続く;
 彼は患者から目を離さなかった。]

 その目つきの中には秘められた警戒心は全くなく、むしろ楽しそうな好奇心があった。
「それでは、木曜日のこの時間に来てください」
医師は言った。
「二週間後には結果が出るでしょう。おそらく、それ以上の治療は必要ないと思います」
[訳注;上記二行は、旧版では次の通り;
「二週間後には結果が出るでしょう。おそらく、それ以上の治療は必要ないと思います。君、予約の記録を頼むよ」
医師は看護婦に言った。
 看護婦は予約の台帳を開くと、退屈そうな目つきで書き始めた。その丸く、少しばかり親しみやすそうな、えくぼのある顔は、ひまわりの花に似ていた。 「木曜日の四時ですね」 看護婦は目を上げずにかん高い声で言った。彼女はしょっちゅう時計の方を見ていた。この日曜出勤の時間が終わるのを、今か今かと待ちかねているようだった。]

 ヂェマル・ストルガは通りに出た。少し疲れを感じていた。時刻は五時になるところだった。往来の交通は盛んだった。
[訳注;旧版では、次の一文がこの後に続く;
 バス停には、大勢の人が待っていた。]

 中心部から来るバスは空っぽだったが、中心部へ向かうバスは、乗客の重みでバスの後部がアスファルトにこすりつかんばかりになっていた
 彼は通りを歩いていくことにした。雨になりそうな空模様で、いつものことだが、雨が近づいているかも知れないということで通りの動きは活発になっていた。彼は歩道の群集の中へ入っていったが、不意に、コバルト照射装置による照射治療を受けた今、自分のあちこちからは弱い放射線が放たれているのではないかという気がした。そういう話をひと月前に、雑誌の科学欄で読んだことがある。自分は放射線を出しているのだ。それがちょっとだけおかしかった。キリストと式典の大きなプラカードの間に何かがあるようなものだ。医師の表情で全ての疑念が払拭されたので、今やさらに楽しいことを考えられるようになっていた。明日ベスニクが外国へ行くのでなければ、ストルガは今からカフェに入って、友人らに照射治療のいきさつを、微に入り細をうがち語って聞かせることだったろう。だがベスニクが明日の朝早く出発するのだ。
 中心部の交差点のところで、彼はベニを見た。足早に、男仲間一人を連れて通り過ぎるところだった。手には瓶を数本と、テープレコーダーを提げていた。ベニは、誕生日がどうとか言っていたが、どうもそれに行くところらしい。

 日曜の午後中かけて夕食の準備にかかりながら彼らは、女の子たちが来ないのではないかという疑念を抱えていた。
 外は細かい雨が降っていた。彼らは、その予感を互いに口にすることはなかったが、何度となくアパートの部屋の窓際に、偶然を装って近寄っては、通りに目をやるのだった。何よりも彼らの想像をかき立てていたのは、まだ見ぬマリアナの女友達のことだった。マリアナが言うには、びっくりするほどのブロンドらしい。
[訳注;旧版では「びっくりするほど感じのいいブロンド」]
 テーブルには飲み物や食べ物の用意ができていた。トーリは、雰囲気を出すためにランプに赤い紙をかぶせていた。彼らが最近親しくなったマクス・ベルメマはというと、隅の方でテープレコーダーにかかりきりになっていた。ベニは、何故だかわからないものの、女の子たちが来ないと自分が思ってしまうのは、あのテープレコーダーの古くなったテープのせいではないだろうかという気がした。それはしょっちゅう切れるので、いつもマクスが、アセトンで指を焼きながらつなぎあわせていたのだった。
「で、もし来なかったら?」
最初に問いを発したのはサラだった。
 誰も返事をしなかった。
 ダンスパーティの夜以来、ベニの記憶の中には或る嫌な感じがずっと引っかかっていた。彼がたびたび思い出すのは、テクニクム[訳注;teknikumは工業高校にあたる]の時に折に触れて開催した夜のパーティのことだった。
 あの頃は土曜日が待ちきれなくて、そして土曜日が来ると、彼らは用意の整ったホールに集まったものだった。しかし彼らの期待した通りの夜がやってきたことは、ただの一度もなかった。いつだって何かが起こるからだった。或る時は彼らの好きな女の子たちが食事の席に来なかったり、或いはお気に入りの女の子の母親が病気になったり、或いはオーケストラの連中が青年委員会の連中と、呼んでもいない奴を連れてきたとかいう理由で喧嘩になったりするのだった。要するに、当然のごとく何かしら厄介事が持ち上がるのだった。そして、たくさん女の子がやってきて、ようやく今夜はうまくいきそうだと思えた時も、不意に女の子たちの間でぺちゃくちゃと絶え間ないおしゃべりが始まり、薄暗い廊下を行ったり来たりで、何かしら不満な顔つきで、馬鹿げた憤懣が渦巻いていて、それも、女子の誰それがやって来ないで学生寮に残っているからとか、それって自分たちがその誰それより駄目っていうことじゃないのとか、そういう理由だったのだ。結局こうなることはわかっていたのだ:まず女子らの三、四人が帰り出し、そして半数がいなくなる。パーティをぶち壊しにするにはそれで充分だ。
 マクスが時計を見た。
 ベニは、次第に強くなってくる雨を見つめた。外の階段に足音が聞こえたので、彼ら全員が息を呑んだ。だがその声と足音は上階へと去っていった。6時半に、ドアをノックする音がした。
[訳注;上の段落は、旧版では次の通り;
 ベニは、ガラス越しに雨を見つめた。彼はマクスに、あの子たちは時間に正確だと話していたが、実はその正確さについてはこれっぽっちも信用していなかった。とはいえ必ず来るのだとマクスを納得させないわけにはいかなかったのだ。
「何が正確だい!」マクスは三度そう言った。
ベニは返す言葉が見つからなかった。外の階段に足音が聞こえたので、彼ら全員が息を呑んだ。だがその声と足音は上階へと去っていった。6時半に、ドアをノックする音がした。]

「マリアナだ」
サラがつぶやいた。
 実際それはマリアナで、女友達と一緒だった。喜びの波がほんの一瞬高まったが、それもたちまち消え失せた。その女友達というのが、まるでマリアナをマンガにしたようだったからだ。色褪せたブロンドの髪に小さな目で、おまけに顔はそばかすだらけだった。
 一同は自己紹介した。
「仕事は何?」
「看護婦よ。ガン病棟の」
「何だい、そのガン病棟って?」
サラが訊ねた。
「癌のことだよ」
トーリが瓶を開けながら言った。
[訳注;訳では区別がつかないが看護婦は“onkologji(英oncology)”と答え、トーリは“kancer(英cancer)”と言い換えている。前者はラテン語由来の専門用語]
 マリアナが、選りすぐりのかわいくない女友達を連れてきて自分の引き立たせ役にしようとしていることは明らかだった。それでもまだ足りないかのように、マリアナはベン・ストルガの名を耳にするなりこう問いかけた。
「ヂェマル・ストルガって知ってる?うちの病院に放射線治療を受けに来てたのよ。診療科は・・・」
「そいつの親父だよ」マクスがさえぎった。
 沈黙の中、マリアナは何も理解していない風で一同を順番に見やっていた。そのそばかすだらけの顔にあらわれた表情を見る限り、それが純朴さのあらわれなのか皮肉なのか、見分けるのは難しかった。
[訳注;原語qashtëri(純朴、清純、純真、つつしみ深さ)は旧版ではnaivitet(仏naïveté)]
 トーリは一同をテーブルに呼んだ。
「他の連中はどこだい?」
マクスが訊ねた。
 『全般的危機』は少し遅れてやってきた。階数を間違えて、別の部屋をノックしてきたのだ。
[訳注;旧版では「15分ほど遅れて」]
 彼女は部屋に入ってくるなり、女性二人に話しかけた。
「マリアナって、あなたたちの内のどちら?」
「私だけど」
「下で、男の人が待ってるわよ」
一同は顔を見合わせた。
「一緒に行こうか?」トーリとサラが同時に声をかけた。
[訳注;「サラ」は旧版では「チュリリム」。なおこのチュリリムとは旧版では、3章中盤で「ヴァンツェスラフ」と呼ばれている男性と同一]
「ううん」マリアナは言った。
「一人で行くわ」
 マリアナが出ていくと、その場の空気はさらに冷えびえとしたものになった。ベニは再び窓際に寄って通りを見た。見知らぬ男が雨の中に立っていた。
 トーリは、コニャックをグラスに注いでいた。他の者たちは[訳注;旧版では「二人とチュリリムは」]どうにか場の雰囲気をなごませようとした。それで「ヴァンツェスラフ」通りについて何か話していた。
[訳注;上の一文は、全集版では主語が明示されていないが、旧版では「チュリリム」となっている]
 マクスも窓の方へ近寄った。
「まだあそこにいる」
とベニが言った。
 薄ぼんやり光る道路の上に、マリアナと、その見知らぬ男の影が見えた。トーリは引き続き客たちを楽しませようとした。
「ハリネズミと蛇が結婚するとどうなる?」
と彼は問い、そして答えた。
「有刺鉄線が二メートル」
 マリアナは戻ってこなかった。彼女が連れてきた女友達は、丸い顔をかしげたまま、じっと座っていた。その姿はまるで、ひまわりにそっくりだった。
「外はどうなってるか、見に行ってみようか?」
とベニが言った。
「マクス、君も来るかい?」
 二人は上着を着て出て行った。小雨が降り続いていた。警官が一人、青いレインコートに身を包み歩道に立っていた。マリアナと見知らぬ男は、どこにも見当たらなかった。通りを行く人はまばらだった。酔っ払いが一人、電柱の前に立ち止まり、通りがかる人たちに「おやすみ」と声をかけていた。
[訳注;旧版では「飲食店の前に」]
 二人はその酔っ払いに、空色のオーバーを着た女性と、男性を見なかったかと訊ねた。酔っ払いはしばらくの間じっと耳を傾けていたが、結局、やっぱり「おやすみ!」と答えた。
「戻ろう」
とマクスが言った。
「ずぶ濡れになってしまった」
「こうしてる間に、他の女の子たちが来てるかも知れないな」
とベニも言った。
 アパートの部屋に戻ってみると、そこはすっかり静まり返っていた。他の女の子がやって来るどころか、マリアナの女友達まで帰ってしまっていたのだ。
「みんな帰っちまった」
と言うサラは意気消沈していた。
 実は『危機』がその場に残っていたのだが、彼らは彼女のことを女性とは見なしていなかったから、まるで彼女がそこにいないかのように喋っていた。彼らの仲間内では、彼女はいつも予備役の交代要員に過ぎなかった。それは女子が足りない時のためだけでなく、男子が足りない時のためでもあった。そして今は、ひょろりと長い脚の骨組みを寂しげに伸ばしていたのだが、彼らはそれにさえ注意を払っていなかった。
 マクスは、何やらテープレコーダーをいじっていた。
[訳注;旧版では、次の文がこの後に続く;
「何を修理なんかしてるんだ、やめろよ」ベニが言った。
「何イラついてるのさ?」チュリリムが言った。
「ヴァンツェスラフ通りじゃ俺たち、夜は何度も失敗したもんだぜ」
 トーリは手ずからコニャックを飲むよう勧めたが、ベニは飲まなかった。]

 ベニが立ち上がった。
「どこに行くのさ?居ろよ」
「いや、もう帰るよ」
とベニは答えた。
「明日、兄貴が外国に出発するんだ」
「じゃあ俺も行こう」
マクスはそう言うと、テープレコーダーを片付けた。
「じゃおやすみ」
 二人は上着を着ると外に出た。通りの雨は降りやんでいなかった。タクシーが一台、歩道脇に止まっていた。誰かが車を降りた。声が聞こえた。笑い声だった。そしてタクシーはすぐさま走り去った。ベニはしばらくの間、遠くでまたたくその赤い光を見つめていた。とぎれがちの声が、通りの反対側で歌っていた。
    ブルネットなんかにゃ手を出すな
    なぜってそいつらは恩知らず
 レストランの入口から音楽が聞こえていた。水蒸気で曇ったガラス窓越しに、踊る人影が見えた。アルバニア-ソヴィエト友好月間をしめくくる、最後の夜のダンスパーティが開かれているのだなとベニは思った。
 ベニとマクスはカフェの入口に近付いて、中をのぞいてみた。
[訳注;旧版では「カフェのガラス扉」]
 水蒸気とタバコの煙の間に、踊っている者や座っている者、『アルバニア-ソヴィエト友好は世紀を越えて永続する』のスローガンが見えた。それはまるで、青みがかった脂肪の中を泳いでいるようだった。
 二人は歩みを進めた。別の一軒のレストランの前に一人の通行人がぽつんと立ったまま、彼らと同じように、踊っている人たちを眺めていた。
[訳注;旧版では「ガラス越しに眺めていた」]
 二人がその前を通りかかると、見知らぬ男は振り返って視線を向けた。服装から見て、外国人のようだった。その男が何かしら言いたげな素振りを見せたので、ベニとマクスは足を止めた。見知らぬ男は、ダンスが行われているレストランの方を指差して何かの言葉を口にしたが、それはベニにはフランス語のように思われた。二人は肩をすくめて「わからない」というしぐさをしてみせると、また歩き出した。
「『フランス人記者です』って、言っていたような気がするな」
と少し離れたところでマクスが言った。
「それがどうした」
ベニが言った。
「スパイはどいつもこいつもそう言うに決まってるじゃないか」
[訳注;旧版では、次の文がこの後に続く;
 マクスは、テープレコーダーを反対側の手に持ち替えた。
「こう言っちゃ悪いんだけどさ」
と、市中心部に近付いた頃に彼が口を開いた。
「あの連中は、どうも好きになれない」
 ベニはしばらく無言だったが、やがて
「だと思ったよ」と言った。
「何というか」
マクスは言った。
「ブルジョア風なんだよ。特にあいつが・・・何といったっけな・・・ヴァンツェフラフだ」
「俺も好きじゃないな」
とベニが言った。彼はちょっとの間、疑うように考え込んでいたが、再び口を開いた。
「実際、他の奴らはともかく、あのトーリだけは、俺の女を取りやがった」
マクスが一つ、口笛を吹いた。
「で、あいつに一発くらわせてやらなかったのか?」
するとベニはうなずいて
「いつかやってやるつもりさ」
とつぶやくと
「俺とあいつらの付き合いも、たぶん、もう終わりなのかもな」
と、しばらくしてから言った。]

「コーヒーでも飲むか?」
マクスが言った。時間も遅くなっていたが、ベニは断らなかった。マクスと仲が良いこともあったが、それだけでなく、今夜は誰かに自分の胸の内をさらけ出してしまう必要があるような気がしたからだ。
 『クリミア・バー』には、客とタバコの煙が充満していた。隅に置かれたラジオから音楽が聞こえていた。二人はコニャックとコーヒーを注文した。
[訳注;旧版では「カウンターに置かれたラジオ」]
「さっき話したあの娘だけど、俺は9月に会ったことがあるんだ」
ベニは、テーブルの樹脂の上の傷を指先でなぞりながら言った。
「ああ、あの外国人と一緒にいた娘か」
とマクスは言葉をつぐと、外に向けて首を振ってみせた。店の外には確かに、あの見知らぬ男の顔があって、突っ立ったまま外からこちらを見つめているように思われた。
[訳注;旧版では「ガラス越しにこちらを見つめて」]
「資本主義が崩壊したらさ、いっぺん西側に行ってみたいってすごく思ってるんだ」
マクスが言った。
「母さんが二度、向こうに行ってたことがあってね」
 ベニは何と答えたらいいかわからなかった。飲み慣れなかったので、コニャックが頭にまわってきた。マクスも目をぱちぱちやり始めていた。
「すごいとは思わないかい?」
とマクスは言った。
「労働者が、ロンドンやパリを支配するんだぜ、ラジオからはマーチが鳴り響くんだ」
「でも今は何だか違うらしいぜ」
ベニが言った。
「投票で社会主義を獲得できるっていうじゃないか」
 マクスは唇をひん曲げて、うんざりだという風にしてみせた。
「それは聞いたことがあるよ」
彼は答えた。
「実に味気ない仕事だな。挙手だ、表の集計だ、誰それが賛成だ、同志諸君、誰それが反対だ、棄権なし、社会主義の勝利だ」
「まったく味気ないな」
ベニが言った。
「いやいや、何だって資本主義が好きこのんで立ち上がって自己批判をするなんて思えるんだろうな:親愛なる社会主義よ、私はいくつかのささやかな誤りを犯しました、例えば労働者階級の搾取、等、等です。だからあなたにこの場はお任せします」
「よせやい」
ベニが言った。
 二人はここで、その夜になって初めて声を上げて笑った。それから後は、とりとめのない話題に興じた。二、三度ほどベニは9月の、土曜日の出来事について話そうとしたのだが、結局マクスをその話に集中させることはできなかった。マクスの柔らかそうな髪の、その中には銅のような輝きが混じっていたが、雨で重くなって額にはりついていた
「ふうむ」
とマクスはにやにやしていた。
「ハリネズミと蛇が結婚か-お前のあのお仲間は、どういうくだらないことを言ったっけ」
「よせよ、思い出してどうする」
ベニが言った。
[訳注;旧版では、次の文がこの後に続く;
 ラジオからは、アナウンサーの声が聞こえていた。
「こちらはティラナです。本日最後のニュースをお伝えします」
「もう帰らないと」
ベニが言った。
「もう遅いな」
 マクスは『何でそう急ぐのさ』とでも言いたげな目で見つめた。アナウンサーは、ある工場の労働者協同組合が期限より早く計画達成を成し遂げたことについて伝え始めていた。]

彼は顔を上げて壁の時計を見ると
「もう遅いな」
と言った。[訳注;旧版では「とベニは繰り返した」]
「明日、兄貴がモスクワに出発なんだ」
「まだいいだろう」
マクスは言った。

 期限より早く計画達成・・・ウウウ・・・ブル・・・クラウ・・・ア、モナムール、モナムール、モナムール・・・クル・・・『フリードリヒ・エンゲルス』工場・・・コー・・・老共産主義労働者・・・製鉄工が・・・フィウウ・・・ヴ・・・
「私も耳が遠くなったわね」
ヌリハン婆さんはひとりぼやきながら、ラジオから頭を離した。ひどい耳鳴りがしていた。一時間かそこら、そのすさまじい大音声と、がらくた騒ぎと、何十という放送局の地獄の喧騒に耳をそばだてていたのだが、結局は何ひとつ聴き取れなかった。
 ラジオも聴かなくなっていたからかしらねえ。彼女はつぶやいた。もう長いことラジオのスイッチを入れなくなっていた。ラジオの四角形がその名を伝えてくる世界の諸都市も、彼女にとっては既に死に絶えたものになっていた。彼女の古い友人たちの多くがそうであるように。パリ、ウィーン、ルクセンブルク、マドリード、それらの全てが灰の中に埋もれていた。彼女にしても、既にこの世にいない恋人についてそうであるように、それらの名を口にしようともしなかった。
 ところが二日前、昔から家族ぐるみの友人であるムサベリウが彼女のところにやってきて、尋常ならざることを告げていったのだ。かすかに震える声で彼が話してくれたところによると、前の晩に外国の放送局を探していた時、人声と雑音が入り混じる中で、偶然にもダイアモンド[訳注;全集版ではdiamant 旧版ではxhevahir(トルコ語cevahirに由来)]を拾い上げたというのだ。それはありふれた[訳注;旧版では「小さな」]、見たところ大したことのないニュースの話だった:「共産主義陣営で最小の国アルバニアが、フランスから大量の小麦を購入しました」
 ダイアモンドねえ。ヌリハンはムサベリウの細長い顔の、こめかみの皮膚の下に青い筋[訳注;旧版では「静脈」]が浮き上がるところから目を離さないでいた。ムサベリウは自分が見知らぬアナウンサーの話すのを聴き取ろうと一所懸命だったことをずっと喋っていた。ダイアモンド掘りの鉱山工でもこれほど熱狂はしないだろう。となると問題は、その宝石が本物か贋物か、どちらなのかということだった。ムサベリウが聞いた限りでは(彼はニュースの言葉を聴き取ろうと、混沌たる雑音を手で払いのけるしぐさをしてみせた)、つまり、彼に理解できた限りでは、その一見するとありふれた一件は、極めて重大な事態の前触れであるかも知れないし、或いは単に、共産主義某国の職員らによる非公式の声明の通り、天候の問題かも知れないのだ。
「そうだ、『天候の問題』だ。そう言っていたのはよく憶えている」
[訳注;原文はフランス語“question de climat”]
ムサベリウは言った。
 ヌリハンは石のように押し黙って聞いていた。一度も口を挟まなかったし、一度も質問をしなかった。ただ最後になって、不意に、不自然なほどに大きなため息をついた。
 それからふた晩というもの、彼女はラジオにかじりついて何かを聴き取ろうとしたのだが、全く無駄なことだった。アナウンサーたちは、まるでサッカーか映画俳優か、その他の恥ずかしいものに夢中で我を忘れてしまい、そのニュースを忘れてしまったかのようだった。その声の中に混じって、ラジオ・ティラナの放送が聞こえてきたが、それは特殊な言葉遣いに満ち溢れたものだった。労組同盟の会議での競争の旗、社会主義財産、熱狂、中央委員会総会、協同組合の全国青年大会。
 そんな言葉を聞くたびに、ヌリハンの思い出の中によみがえるのは、忘れもしないあの1944年の11月の「ムッソリーニ」大通りのことだった。旧権力は打倒されたばかりだった。共産主義者に制圧された直後の首都では、驚くような出来事が起こっていた。ハヴァ・フォルトゥズィが大慌てで家にやってきた。
「ヌリハン」
彼女は泡を食った様子で、つっかえひっかえしながら喋っていた。
「ちょっと見にいらっしゃいよ、『ムッソリーニ』大通りで・・・」
「血でも流れたの?」
そんなことだろう、といった風でヌリハンが口を挟んだ。
「まあ、とんでもない」
ハヴァ・フォルトゥズィは不満げに言った。
「違うわよ、もっととんでもないことよ」
それで、二人して見に出て行ったのだ。すると、「ムッソリーニ」大通りは、赤くなるどころか、上からばら撒かれた紙切れで真っ白くなっていた。国営ラジオ局の建物の、ガラスのなくなった窓から、パルティザンたちがニュース文書の入った箱の中身を放り出していた。何千、何万という昔のニュースが、風に舞い、葉の落ちた樹木に、歩道に落ちていった。通行人らは立ち止まってそれを見ていた。中には笑っている者さえいた。
「捨てちまえ、ブルジョアのニュースなんか捨てちまえ」
何度もそう言っていた。
 二人は目を見開いたまま、その様子を見つめていた。あそこにあるあの紙きれの、上流社会の記録の中に、きっとそのあちこちに、自分たちの名前も載っているのだ。ハヴァ・フォルトゥズィは紙切れを一枚手に取ると、燃えるような目でそれを見つめ、読みもしないで放り捨てた。「ムッソリーニ」大通りは真っ白になっていた。
「まるで死人の布だわ」
[訳注;原語qefinは、ムスリムの葬儀で遺体を覆う白布]
ヌリハンはつぶやいた。
「捨てちまえ、兄弟よ、もっとやれ」
向こうの歩道から人が叫んでいた。
「死人の布だわ、過ぎ去った、死人の布だわ」
[訳注;旧版では「死人の布だわ」のみ]
ヌリハンはまたつぶやいた。
 それは、あの11月に死に絶えた言葉だった。その代わりに共産主義者たちは自分たちの言葉を持ってきたのだ。協同組合とか、社会主義的競争とか、おお・・・ヌリハンはもう一度ラジオ[訳注;旧版では「ラジオのスイッチ」]をひねった。
「天候の問題」
彼女はつぶやいた。けれどそれはまさしく天候の変動だったのだ。流れてきたニュースはちょうど雪のようだった。
「過ぎ去りし時のご婦人たちがいるところには、過ぎ去りし年の雪が降る」
彼女は詩の二行ばかりを繰り返してみたが、その作者が誰かは思い出せなかった。
 天候の問題。
[訳注;原文はフランス語“question de climat”]
 地上で何かが変わっていく。そして冬が来て雪が降り、地上を覆い尽す。そして、うんざりするような[訳注;旧版では「国営ラジオ局の窓から」]言葉の詰まった箱が放り出される。労働者の協同組合、革命、「フリードリヒ・エンゲルス」工場・・・ああでもそんなことはありそうに思えない。彼女は嘆息した。こんなことを夢見るには、自分は余りにも年をとり過ぎた。そして彼女はラジオを切った。

「もう帰るよ」
ベニが言った。
「最後のニュースも終わったし」
「ああ」
マクスが答えた。
「お前にとっちゃ、もう本当に遅くなっちまったな」
 二人は支払いを済ませて外へ出た。
 ベニが家の近くまで来ると、アパートの自分の家の窓に全て明かりがついていた。薄暗い階段を上がった時、住人の名前が[訳注;旧版では「アパートのドアに貼ってある、住人の名前が書かれた小さな銅板が」]ふと記憶に浮かんだ。
 彼はしばらくの間[訳注;旧版では「数分間」]ドアの前に立ち、それからベルを鳴らした。一番厄介なのは最初の二分間だ。
『ベニったらどこでこんなに濡れてきたの』
『ベニったらどこに行ってたの』
『お兄さんが遠くへ行くっていうのに、お前は外をぶらついてるんなんて』
 ドアを開けたのはミラだった。
[訳注;旧版では、次の文がこの後に続く;
片手にはいつものように、受話器を握っていた。
「もしもし。で、最後の質問って?社会主義リアリズムの特徴?」
 ベニは妹の腕をつかんだ。
「おい、誰が来てるんだよ?」
「大勢よ。でもどこでこんなに濡れてきたのよ」
「いいから、タオル持ってきてくれよ、拭くからさ」
「あらやだ、何て格好!」
「だからタオル持ってきてくれって言ってるだろ!」
「ちょっと待って」
 居間から声が聞こえてきた。誰かがドアを開けたのだ。ベニは叔母とミラの寝室へ入った。ミラはタンスを開けて乾いたタオルを探した。
 ベニが身体を拭いている間、ミラは半ばうらやましそうに見つめていた。]

「どこ行ってたのよ?」
ミラは優しい声で訊ねた。
「どこかの女の子と?」
彼女の目尻には親愛の情と好奇心が入り混じっていた。
 ベニははっきりしない声で何かもごもご言っていたが、やがて濡れた髪を拭くためバスルームに入った。
[訳注;上の段落後半部は、旧版では「タオルをベッドの上に放ると、廊下へ出た」]
 早くみんなの前に出る方がいいだろう。彼は深く息を吸い込み、そしてドアを押し開けた。そこには大人数の喧騒があった。めいめいがソファや肘掛け椅子や普通の椅子に散らばって座り、ラキのグラスや、チョコレートやボンボンを前にしてタバコのもうもうたる煙に包まれていた。
[訳注;旧版では「ラキやリキュールのグラスや、チョコレートやロクメやボンボン」 ロクメllokumeはトルコ語lokumに由来する小粒の飴]
 誰も彼も、他でもないベニを待ちかねていたらしく、次々手を伸ばしてきた。
『ベニったらどこでこんなに濡れてきたの?』
『え?誕生日だって?』
『お兄さんが長旅に出るというのに、誕生日とはどういうことだ?』
『さあさあ、ここに座りなさい』
『ほら、こっちに席があるよ』
 最初の衝撃が通り過ぎて、ベニは少しだけ体勢を立て直した。ソファの隅に隠れ場所を見つけたので、決して人目につかないようにそこに潜り込んだ。
「ベニ、元気だった?」
すぐ耳元で、温かく話しかける声があった。その時初めて彼は、自分がザナの隣に座っていることに気が付いた。ベニは顔を向けると、『まあ、元気だよ』とでも言いたそうな半笑いの表情をしてみせた。それから客の全員に目を向けた。ザナやクリスタチやリリの他に、ヴロラから従姉妹のゼルカが、幼い息子を連れて来ていた。ゼルカはヴロラで海軍将校と結婚していて、ストルガの一家に何か重大なことがあると、決まってやってくるのだった。部屋中に、その小さな息子が[訳注;旧版では「さっきから大人たちの足元をひっきりなしに走り回っている彼女の小さな息子が」]持ち込んできた貝殻が配られていた。
[訳注;ヴロラVlorëはアルバニア南部の港湾都市。当時はソ連海軍の潜水艦が寄航していた]
 ストルガとクリスタチは、小さなテーブルの上でラキを飲んでいた。ベスニクは居間と自分の部屋との間を行ったり来たりしていた。きっとまだ荷物をまとめ終えていないのだろう。
[訳注;「荷物」は、全集版では単数形valixhjaだが旧版では複数形valixhet ]
 ラボとミラは、居間とキッチンを仕切るカーテンの向こうで皿の鳴る音をひっきりなしにさせていた。
[訳注;旧版では、次の文がこの後に続く;
 その音が、ラジオから流れる音楽や、ゼルカの幼い息子のお喋りとないまぜになって、単調な雑音をいや増していた。]

 ベニは軽くため息をついた。みんなが自分のところに集まってきたって[訳注;旧版では「自分が会話の的にされたって」]何の危険もありゃしない。
 電話はずっと鳴りっ放しだった。みんなベスニクに、道中の無事を願う電話をかけてきていた。もっとも、二度だけミラの友達が、マクベス夫人の人物像における特徴の要点について説明してきたのだが。
 夕食の宴は遅れていた。ゼルカとザナはラボがテーブルの仕度をするのを手伝った。
[訳注;旧版では「テーブルに皿や、ワインやビールの瓶や、スプーンや、フォークや、ナプキンを並べるのを手伝った」]
「乾杯、みんなよく来てくれた!」
と言ってストルガがグラスを上げた。
「みんなに会えて嬉しいよ!ベスニクが健康に過ごして、健康に帰ってくるように!」
「どうも、ありがとう!」
 グラスを鳴らす音がテーブルの両側を埋め尽くした。
「乾杯、リリ」
「乾杯、クリスタチ同志」
「パパ、乾杯よ」
「乾杯だ、ザナ」
「ベニよ、お前もグラスをお取り」
「ゼルカは?飲まないのかい?うちの息子の無事を祈っておくれ」
「ラボや、こっちにおいで、乾杯しよう、息子が健康で戻ってこれるように」
「ありがとう、そちらも元気で」
「乾杯、ベスニク、良い旅を」
「次は二人の結婚式だな」
「乾杯、ザナ、次は結婚式でね」
「どうもありがとう!」
 あちこちでグラスが響き合う[訳注;旧版では「ガラスの反響する」]軽やかな[訳注;旧版ではここに「そして詩的な」]音に続いて、フォークを鳴らす上品で、重々しく、しっかりした音が聞こえてきた。夕食では、血気盛んな馬が風にたてがみを逆立てるように、くつろぎ、また居住まいを正したかと思えば、不意に再び祝福を口にし、笑い合い、またグラスを鳴らすのだった。
 一同はベスニクとザナのために二度三度と乾杯の辞を述べた。二人の結婚に、二人の将来に、幸福に、二人にできるであろう子供たちのために。それからラキで酔って[訳注;旧版ではここに「軽く」]どんよりとなった目つきでテーブルの上をさまよい、誰か他の者たちのためにグラスを上げられるかと[訳注;旧版では「祝福の対象を」]探し回った。
 クリスタチ同志には国益のための仕事での成功を、ストルガには健康と、最近の厄介事の去らんことを、ミラには学業成就を、ゼルカには健康を、ヴロラの基地で国境防衛にあたるゼルカの夫にも同様に[訳注;旧版ではここに「健康を」]、それぞれ願って乾杯した。そして一同の視線は[訳注;旧版ではここに「ついに」]ベニのところで止まった。
「このグラスはベニのために飲もうじゃないか」
クリスタチが言った。
「若い世代のため、隊列を成す者たちのために、だ。さあさあ、一気にいこう」
「さあやろう、一気にいけよ、ベニ」
「そりゃそうだ、彼らには隊列を任せるとも」
とストルガが言った。
「しかし・・・」
「この際『しかし』は、なしだ」
クリスタチがさえぎった。
「こいつらが隊列を作るんだ、そうだろう、なあベニ?」
「違うとは言ってないさ」
ストルガが言った。
「こいつらがやらなきゃ、誰がやるっていうんだい、なあラボや?だが俺にはなあ、どうもそいつらが隊列のためにしっかり頭を悩ませてないような気がするんだよ。誕生日やら夜のパーティやらの方が大事なんだよこいつらは」
 そら始まった。ベニは思った。さっき飲み干したラキのグラスが頭に回ってきた。始まったぞ。彼はまた思った。思い出すのはあの夜のことだ
・・・ああ、あの日過ごした素晴らしい夜・・・
「まあ、あたしたちの時代はねえ、その子たちの年頃には、あたしたちはもうパルティザンだったものよ」
とリリがため息混じりに言った。
「ねえクリスタチ、あなたが人民副委員になったのはいくつの時だったかしらねえ?そうよ、ベニぐらいの頃に・・・」
 ベニは不意に頭に血が上ってきた。こんな風にして比べられるのは初めてのことではなかった。どうして自分のことをそっとしておいてくれないんだ?どうして20歳であって40歳じゃないことに自分が罪の意識を感じなきゃならないんだ?
「もうあの時代は戻ってこないのよ、そうよ」
リリが言った。
「隊列が・・・」
 ベニは、喉にかたまりがつかえているような感じだった。リリが好んでしたがる隊列の話は、ひたすら彼を苛立たせるのだった。
「隊列だって?」
とベニは不意に低い声で言った。
「それが何だっていうんだ?」
彼はまわりをぐるりと見回したが、その視線はリリの目の前で止まった。リリがその件でベニをいらつかせるのは、今回が初めてではなかった。
「誰があんたなんか隊列に呼んだんだよ?」
とベニは、リリと目を合わせずに叫んだ。
「そんなに気になってるのなら、自分の中だけで思ってればいいじゃないか」
「ベニ、何をおかしなことを言ってるんだ」
ベスニクがさえぎった。
[訳注;旧版では「馬鹿なことを」]
「落ち着け!」
ストルガが鋭い声で言った。
「何だよ?」
ベニはかすれそうな声で叫んだ。彼は一瞬だけ、リリにそんな言葉を口走ったことを後悔しかけたが、今はもうそれを撤回したいとは思わなくなっていた。[訳注;旧版ではここに「自分を全くコントロールできなくなりそうな気がして」]彼は席を立とうとしたが、隣に座っていたザナがその手首をつかんだ。
「イライラしないの」
とザナは甘い声でささやいた。
「お母さんって、時々言ってることがわからなくなるのよ」
彼女の存在そのものが、気持ちの休まるような芳香を放っていた。
 沈黙の中でクリスタチは、話を変えたいがどうしたらよいかさっぱりわからない人が誰しもそうするように、二、三度ほど咳払いをした。
「お前さんの入る使節団は、式典の終わった後もモスクワに残るんだろうね」 と彼はやっとのことで、ベスニクに向かって話しかけた。
[訳注;以上11行は、旧版では次の通り;
「何だってあなたたちは、子供たちの機嫌を損ねるようなことばかり言うのかしらねえ」
とラボが割って入った。
「この子たちがパルティザンになったらどんなことになるか、あなたたちにわかるかしら?きっとあなたたち以上になるわよ」
「ラボの言う通りだ」
とクリスタチが言った。
「もし戦争が始まったら、誰が立ち向かうのかしら?」
ラボはたたみかけた。
「ほら、この子たちの肩が戦争を背負わなくちゃならないのよ」
「ラボの言う通りだ」
とクリスタチは繰り返し、すぐさま、このぎすぎすした話を変えようと、ベスニクに向かって話しかけた。
「お前さんの入る使節団は、式典の終わった後もモスクワに残るんだろうね」]

「そうみたいですね」
ベスニクは答えた。
「国際会議があるみたいですね。でも、僕もよくは知らないんですよ」
「私も話は聞いてるよ」
クリスタチは言った。
 ラボが、ゼルカやミラと一緒に、新しい皿を持ってきた。テーブルでの会話は、二人ずつでのやりとりになりつつあった。
[訳注;上の段落は旧版では次の通り;
 ラボが、ゼルカやミラと一緒に、新しい料理に、ポテトを盛ったフライパンを持ってきた。今やテーブルでは再び、二人ずつでの会話の段階に移行しつつあった。スプーンの鳴る音と、ゼルカの息子が皿を二度ひっくり返してごにょごにょ言う声だけが、一同の耳に届いていた。]

 ストルガは、しこたまに飲んでいた。今日は彼にとって尋常ならざる一日だった。
[訳注;旧版では「エキサイティングな一日」]
 彼は自分の頭の中であらゆるものが動き回っているような感じがしていた。それは或る種、歓喜と、たちまち入り混じる苦痛と、不安と激情とであった。
[訳注;旧版では「それは或る種、不安と、歓喜と、悲痛と激情とがない交ぜになったものだった」]
 ヂェマル・ストルガは、クリスタチと重大な政治問題を語り合うベスニクを、尊敬のまなざしで
[訳注;旧版では「驚嘆のまなざしで」]見つめていた。
[訳注;旧版では、次の文がこの後に続く;
 ベスニクは、今まさに真のストルガの人間になろうとしていたのだ。]

 ストルガはそのことを誇らしく思っていた。目をうっすらと閉じて、二人の会話のはしばしに耳を傾けていた。そして三度目に聞こえてきた言葉は『国際会議』、それから『インターナショナル』だった。彼は、自分の息子が副大臣と顔を突き合わせ、真剣な話し合いを繰り広げることができていることを、誇らしく思っていた。
 「国際会議の声明」「インターナショナル」「君はインターナショナルを裏切った」そんな言葉が勢いよく、彼の記憶のざわめく水面から姿を現した。そしてそれと共に、まるでそこを土台として立ち止まり、轟音を上げ、鳴り響くかのように、荒涼として、昼間の太陽に焼かれた、石ころだらけの斜面がかたちづくられた。そこでは一人の人間の影が、まるで人生の時を刻むようにだんだんと短くなっていくのだった。
『アナスタス・ルロよ、君はインターナショナルを裏切った』
そう言われた男は、彼らの目の前に立ったまま、顔面蒼白で、ずっと空虚な目つきで、一人、また一人と、周囲を見回していた。そこはパルティザンの裁判だった・・・
『こちらへ、さあさあ諸君、ちょっと待ってくれ』
『慌てるなよ』
『お前たち、インターナショナルが何だかわかってるのか?』
『まだまだ若いな君たちは』
『そうあせりなさんな、誰かここに、もの知りな同志を連れてきてくれよ』
[訳注;旧版では「有能な同志を」]
『原則的な面から話そうじゃないか』
[訳注;旧版では「討論しよう」]
『誰か中央から同志を、理論がわかっている同志を』
 彼らは長い時間をかけて、その男の懇願する声を聞いていたが、それは言葉を重ねるほどにますますよそよそしく、高らかに鳴り響くように、そして、その焼けつくような斜面の上でますます無意味の上にも無意味な[訳注;旧版では「不条理極まりない」]ものになっていくのだった。
『そうら、ここにいるこの同志なら理論がわかっているぞ』
とついに中隊の指揮官が割って入ると、ブラタイ村から来たパルティザンの一人を指差して言った。若い青年で、麦わら色の髪に、少し上向きに反った鼻をしていた。そのパルティザンは視線を落とした。
『さあチョチョル、この男に理論的な面から説明をしてやってくれ』
中隊の指揮官が言った。
『さあ君もだ、ミュチェレムよ、チョチョルを手伝ってやってくれ』
 裏切りのかどで罪を問われた[訳注;旧版では「告発された」]その男は、目を見開き口元をゆがめたが、よそよそしい、高らかに鳴り響く言葉を口にする代わりに、ただ『違う』『違う』と言うのみだった。彼らはその男を五十歩ほど離れたところに連れて行くと、その場で銃殺した。
 ストルガは再びグラスを満たした。誰かが彼の健康を祝して杯を上げてくれた。彼はまた飲んだ。
[訳注;原文は「再びグラス(gotë)を満たした」 旧版では「口(gojë)」になっているが、誤植か?]
 テーブルの上の皿の間に、ゼルカの息子が持ってきてあちこちに並べた貝殻が見えた。その辺りの何もかもが程よく心地よい音を立てていた。そら、ゼルカが小声で何か言っているぞ。ザナとリリが興味深そうにそれに聞き入っている。その言葉はストルガのところまでも、ところどころ聞こえてきた。ゼルカはどうやら、ヴロラの基地のことを喋っているらしい。
「・・・何日も家に帰ってこない・・・毎晩のように警報が出てるらしいの・・・第二種待機・・・砲弾を見ておくようにって・・・あちこちに黒い影が・・・毎晩・・・長筒よ、怖いわね・・・軍の基地で、うん、何があったかしら、何があったかしら・・・常時警戒中なのよ」
 ストルガはひとり微笑んだ。
「人間から戦争を取り除くことはできないのだ、いやいや」
彼は、悲劇的とも言えるような喜びを感じつつ、そんなことを思った。
 クリスタチとベスニクはというと、向かい合ったまま国際会議の話を続けていた。女性グループの方では、ゼルカがようやく話を終え、リリが何やら、義理の母にはよくわからないことを話していた。その後にゼルカが、ベルメマ家の婚約の件はどうなったのか訊ねていた。
「解消よ」
とリリは答えると、その言葉に合わせて手のひらで切るようなしぐさをしてみせた。ザナがそれに何やら付け加えていた。
「そりゃそうだろうな」
理由はわからなかったが、ストルガはひとりそう思った。彼はほんの一瞬[訳注;旧版では「一秒」]ミラと目が合った。彼女はこちらをじっと見つめていて、まるで何かとても大きな心配事があるように見えた。
「父の娘よ」
彼は思わずつぶやいた。
「お前は何を考えている?」
ストルガは微笑んでみせようとしたが、ミラは向こうを向いてしまったので、その心配が一層深くその頬に刻まれていたことは知る由もなかった。
 夜も更けてきた。誰かが『夜中』とか『飛行機の出発』といった言葉を口にした途端、ナイフや皿やグラスや瓶や大皿から成るその土台の全体は-その損失は既に、食事をしている間からゆっくりと始まっていたのだが-二分間で、耳をつんざくような椅子の音の中で崩壊してしまった。
[訳注;上の段落は旧版では次の通り;
 夜も更けてきた。誰かが『夜中』とか『飛行機の出発』といった言葉を口にした途端、ナイフや皿やグラスや瓶やナプキンや大皿から成るその複合体の全体は-その降格は既に、食事をしている間からゆっくりと始まっていたのだが-二分間で、耳をつんざくような椅子の音の中で崩壊してしまった。]

 一同はコートを身につけた。
[訳注;旧版では「廊下でコートやオーバーを」]
 そして階段のところでは別れ際に互いに抱擁を交わし、また『道中気をつけて』とベスニクに告げていた。
「それじゃ、七時には車を持ってくるよ」
クリスタチはボルサリーノ帽をかぶりながらそう言った。
[訳注;旧版では、次の文がこの後に続く;
「おやすみ、ベスニク」
「おやすみなさい、みなさん」]

「明朝また会いましょうね」
とザナが言って、首筋に軽くキスをした。
 客たちの足音が遠ざかると、ベスニクはうしろを向き、ドアを閉めた。
 それから何となく食堂に入り、テーブルの上の皿の山を見ると、自分が何をしようとしていたのか忘れてしまった。充分に揉み消されていない煙草が煙を出していた。
[訳注;上の段落は旧版では次の通り;
「片付けは明日にしよう。もう寝ようじゃないか」
ストルガが廊下で話していた。
 ミラとラボは、ゼルカと彼女の小さい息子のために、自分たちの部屋に床の用意をしていた。ベスニクは食堂に入り、テーブルの上の皿の山を見ると、自分が何をしようとしていたのか忘れてしまった。充分に揉み消されていない煙草が、灰皿の中で煙を出していた。]

 アパートは静まり返っていた。ベスニクは自分の部屋のドアを閉めて、窓のそばへ近付いた。外はまだ雨だった。通りの街灯が遠く、ぼんやりとして見えた。真夜中を過ぎていた。寝る仕度をしていると、通りの方から一人ぼっちの声が聞こえてきた。誰かが歌っていた。ベスニクは耳を澄ませた。その言葉は、辛うじて聞き取れるようなものだった。
    ブロンドなんかにゃ手を出すな
    なぜってそいつらは根無し草
 一人ぼっちの男は、郵便局の方角へ遠ざかっていった。ベスニクは、ザナの濃い栗色の髪を思い出して、ひとり微笑んだ。

(第2部につづく)


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