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イスマイル・カダレ 『大いなる孤独の冬』

第4部 パシャリマン

1
 2月7日、午前10時、古代オリクム[訳註;オリクム(Orikum)はヴロラの海岸近くに残る古代ローマの港湾都市・・・の跡地]の発掘作業をしていた考古学者の一団は、作業を放棄して直ちに撤収するようにとの指示を受けた。指示はアルバニア語とロシア語の二言語でタイプ打ちされ、パシャリマン海軍基地のアルバニア人司令官と、ワルシャワ条約機構の代表でソ連のジェレズノフ将軍の署名が付されていた。
 考古学者たちは道具や装備品を片付けていた。古代の碑文が刻まれた石板数枚が、トラックに積み込まれるところだった。石板の泥はまだ洗い落とされていなかったが、ローマ、ビザンティン、トルコの碑文が辛うじて読み取れた。撤収の通知は突然のものだったし、古代円形劇場の発掘が始まったこの時期にあっては尚更だった。
「何たる不運!」と発掘団長は一人ぼやきながら車の周りを右往左往していた。その濡れた頭部には髪の毛がなく、あたかもそれが耐え難い絶望をむき出しにしているかのようだった。
 時折、団長は、まるで何か新しい手立てとなりそうな考えが浮かんできたかのようにその場に立ち止まったが、再度歩き出したところをみると、その考えも思いつくなり放り捨ててしまったらしかった。実際のところ、彼は既に基地司令部に連絡をつけるべく、あらゆる手を打っていたし、それは最後の段階に至っていた。彼はティラナに二通の至急便を送り、中央が軍司令部の余りにも奇妙な決定を無効にしてくれるよう要望していたのだ。ところが決定は覆されるどころか、司令部からは前日に別の、断固たる指示が来ていた:四時間以内に発掘団は退去すべし、と。運の悪いことに、その発掘現場は海軍基地の敷地内にあり、もはやいかなる抵抗も無駄だと彼らは悟った。
 細かい雨が降っていた。軽トラックのうちの一台は積み込みが終わり、運転手がエンジンをふかしていた。
「第二回廊の碑文も持って行きましょうか?」誰かが訊ねた。
 誰も答えなかった。
 考古学者チーム唯一の女性であるスィルヴァ・クラスニチは、落胆している団長と、重い大理石のかけらを担ぐ作業員たちとを交互に見やった。全員泥まみれだった。
 車輌の周りには大勢の子どもたちが群がっていた。みんなアルバニア語とロシア語を喋っているので、基地の兵士の子どもたちに違いない。スィルヴァは二言語でタイプ打ちされた指示を思い出した。彼女もソヴィエト連邦との冷え込みについては聞いていた。そういう話をしていたのは妹のアナで、最近ティラナに来た時のことだったが、その冷え込みが考古学の発掘と何の関係があるのか、彼女には全く理解できなかった。
 冷え込みか、と思いながら、スィルヴァの視線は幾度も幾度も、顔面蒼白で、作業員たちの間を行ったり来たりしながら誰かに怒鳴っている、背の高い考古学者の方に向けられていた。苛立っている、スィルヴァはそう思った。あの女が・・・あの美貌のロシア女が来るのを待っているのね。
 洪水の現場にいた時から、彼がここに戻りたくてたまらないのだということは彼女にも分かっていた。今や彼の苛立ちは膝の屈み具合にも、声に、灰色の瞳に、更に、今まで以上に泥はねのひどいコーデュロイ地のズボンにまで現れていた。
 トラックの傍に小太りの女が二、三人、カバンを手に立っていたが、あの女、イレーナ・グラチョヴァは姿が見えなかった。きっと最後の最後にやって来る。お別れの前に・・・
 スィルヴァは、四方の眺めを荒々しく断ち切っている陰鬱な岩場を見つめた。古の地質学的な分断によって生まれた海の入り江は、途方もなく深く切れ込んでいる。まるで海の水が絶望と共に押し寄せ、大地深くまで傷跡を残していったかのようだった。その亀裂は情け容赦のないものだった。大地は引き裂かれ、傷跡はふさがろうとしていたが、それはかなわぬことだった。今は水面の両側に切り立った崖が広がり、ところどころに窪みが出来ているが、その陰を覆っているのは秋の野花だけで、その辺りではどういうわけか老婆の薬草と呼ばれていた。そしてその入り江の最奥部にこそ海軍基地が置かれているのだ。サザン島がその基地と海への出口との間に、まるで門番のように控えており[訳註;サザン島(ishulli i Sazanit)はアルバニア南部のヴロラ湾入口とオトラント海峡との間に位置する無人島]、古代の円形劇場のすぐ後ろに広がる沼地が、基地のある場所と本土とを隔てている。
 スィルヴァには時々、自分が世界の果てにいるような気がしていた。この場所が二千三百年も前から軍の基地だったことは無駄ではなかった。パシャリマン、と彼女は呟いた。それはどこからどう見ても奇妙な名前だった。いわばパシャ港と言っているようなものだ[訳註;原語のPashalimanはpasha(オスマン帝国の軍高官や大臣を指すトルコ語。パシャ)とliman(港)から成る地名]。発掘団長は、そこが今も使用され続けている世界最古の海軍基地だと主張していた。同時代の基地はずっと昔に破壊されてしまったが、ローマ人が言うところのオリクムだけが残っていた。団長曰く、ローマ人によって軍高官のための円形劇場が建設されており、そのことこそ、ローマ人がこの駐屯地を如何に重要視していたかということを示しているという。ビザンツの皇帝たちもこの近辺に私用のビーチを持っていたし、中世にはパシャリマンこそがオスマン帝国の最前線だった。そこからトルコ人たちは欧州への侵攻を準備していたのだ。冷たい海辺の雨の下に、青銅色の不整地が広がっている。 「割れた碑文も持って行きましょうか?」円形劇場の石段の上で、作業員が一人声を上げた。誰かが答えた:いいよ、それはいいから、別のを持って行ってくれ。
 二時間後にはこの歴史も終わりを迎える。スィルヴァは、泥に嵌まらないよう注意しながら歩き回り、軽トラックに半かけの円柱を運び込む作業員たちを目で追っていた。
 二時間後には、と彼女は繰り返したが、気分はまるで軽くならなかった。二時間後に自分たちは立ち去る、あのロシア女がここへやって来る、有刺鉄線の向こうで、沼地のぬかるみと、警備兵の向こうで・・・でも、だからそれが何だっていうの?スィルヴァは思った。あの人はたぶん今まで以上にあの女のことを思い出す。
 何だってあなたは何でもかんでもそう深刻にとらえるのかしらね、とアナがよく言っていたものだ。恋愛で大切なこと、それはドラマを避けることを知るべしよ。何だってみんなああもドラマ性を好むのかしらね、わけがわからないわ。私はね、私個人は、そういうの大嫌いよ、節約が大嫌いなのと一緒。とどのつまり、ドラマ性なんか求めたって、残るのは貧乏だけなのよ。
 スィルヴァは苦々しく微笑んだ。ドラマなんかない。言うのは簡単。だがしかし、ドラマのない円形劇場などあるだろうか?そこにはドラマがあった、彼女の足元に。それは第二回廊の埋没と共に始まった。見物に集まった人々の中には、あの女が、美貌のロシア女がいた。それを見つめるスィルヴァは苛立っていた。何もかもが粉々に砕け散ったガラスのようだった。それは辺りに広がる剥き出しの岩場や、周りを囲まれた孤独とは対照的だった。
 誰が最初にあの女と会話したのか、スィルヴァは憶えていなかった。ただ第三回廊の発掘が続く長い間に、かの考古学者はまるで幻惑されたようになってしまった。第四回廊で彼は酔いしれ、ふらふらになり、眼の中はきらきらと輝きっ放しになっていた。一方で、第五回廊はスィルヴァにとって不吉な場所だった。
 スィルヴァはまた苦々しく微笑んだ。ドラマなんかない。言うのは簡単。アナと作家スカンデル・ベルメマの関係を巡って言われていることが本当なのかと彼女が訊ねた時、アナは手で不可解なしぐさをしてみせたが、それ以上の説明は何もなかった。
[訳註;このアナは、第1部でスカンデル・ベルメマとの交際を噂されたアナ・クラスニチのこと。「クラスニチ」という姓から、スィルヴァとは姉妹であることが示唆されている]
 スィルヴァは深く息をついた。灰色の湾の上に垂れ込める薄もやが、周囲の寂寥感をいっそう増していた。沼地のへりには老パシャの墓が立っていて、誰もがそれを古のトルコの墓と呼んでいたのだが、墓石の先端部はターバンの形状に彫られていた[訳註;ここで「ターバン」と訳した原語çallmëはトルコ語çalmaに由来する]。スィルヴァは今までにこれほど悲しげな墓を見たことがなかった。墓場の光景それ自体以上に悲しみの感情を惹き起こしているのが塩分を帯びた周囲の荒れ地であり、とりわけ石の上に刻まれた古オスマン語の碑文だった;『この失われし不吉なる地、イスラームの領土果てるこの地に;取り残されし天の下に、不信仰者ども[訳註;キリスト教徒を指す]の呪われし海と大地に囲まれつつ、アッラーとパーディシャー[訳註:原語padishahはトルコ語padişahに由来し、「君主」の意]のしもべ、提督ミラホル・ヂェヴデト・オグル・パシャ、この永遠の戦いの港の司令官、ここに眠る。彼の魂に安らぎあれ』
 この老将軍が残した遺言に従い、彼の墓の上で、後世の駐留部隊が三百年余りにわたって灯を燃やし続けたと言われている。人々は、その灯の神聖なる炎が遠くからも、欧州大陸の非ムスリムの地の呪われた海岸からも見分けることができたと信じていた。その灯りが消えたのは1913年1月、最後のトルコ軍駐留部隊がヴロラから退却する数週間前のことだった[訳註;アルバニアがオスマン帝国から独立したのは1912年11月]
 スィルヴァはそれら全てをティラナの友人たちに話そうとメモしていた。ところが今彼女はその話を思い出したいとも思わなくなっていた。
 草色に塗ったトラックが一台、兵舎の前に停まった。一日中ずっと、若年兵たちを乗せたトラック隊が到着していた。基地に何かが起きていた。
 スィルヴァは時計を見た。二言語で書かれた指示書の最終期限まで、あと五十分しかない。

 同じ頃、ティラナの新参兵たちを乗せたトラックは、曲がりくねった自動車道をゆっくりと蛇行していた。カーヴの一つにさしかかった時、灰色のコートと、フードに身を包んだ人物が目の前に現れた。[訳註;ここで「コート」と訳したgunëは羊飼いが羽織る羊毛の「ケープ」のようなもの。「フード」と訳したkokoreは耳当てのついた頭巾のようなものを指す]
「パシャまでかい?」コートの人物が訊ねた。
「そう、パシャまでさ」運転手が答えた。「これは軍のトラックだよ、おやじさん」
 するとその通りすがりの人物はよく聞こうとして耳に手をやった。
「軍人かい?」その人物は言った。「だが今は俺たちみんな軍人だろう」
 運転手は笑いながら、乗れよと首を振ってみせた。コートの男は後部車輪に片足をかけ、荷台へと乗り込んだ。
「調子はどうだい、若いの?」乗ってきた通りすがりの男は言った。
 もごもごとした呟きが返ってきた。
「クー・クラックス・クランみたいだ」ベニの傍にいた誰かが言った。二、三人の兵士が笑った。すると通りすがりの男はぐっしょりと濡れたフードを脱いだ。痩せこけた年配の農夫で、髪は色褪せ、きらきらと澄み切った瞳が皺と皺の間にあって、くたびれきった、皺だらけの顔の表面で渦のようにぐるぐると蠢いていて、赤銅色の顔はまるで陽に焼けた土地のようだった。
「若いの、お前さんたち何処へ行くんだね?」農夫は訊ねた。
「パシャまでさ」という返事が聞こえた。「軍の基地までさ」
 農夫は兵士を順に見て、溜め息をついた。
「俺たちにご不満かね?」一人の兵士が言った。
 農夫は肩をすくめて微笑んだ。
「お前さんたち、ティラナからかね?」農夫は訊ねた。
「そうだよ」
 すると農夫はまた溜め息をついた。
「どうも俺たちにご不満らしい」兵士が言った。
「なあおやじさん」別の声がした。「ちょっと訊きたいんだけどさ。ハリネズミと蛇が結婚したらどうなるだろうね?」
 ベニが片隅で顔を上げた。どこかでそんな話を聞いたような気がする。訊かれた相手は何も聞いていない素振りをしていた。
「わかんないかな」兵士が言った。「じゃ教えてやるよ:有刺鉄線が二メートルさ」
 他の兵士たちが笑った。
[訳註;第1部で、ベニが参加したパーティーでトーリが全く同じ『なぞなぞ』を披露している]
「まあ聞くがいいさ、お若いの」農夫は言った。
「お前さんはどうやら学があるようだし、蛇がハリネズミとどうやって結婚するかもあちらで教わってるんだろうさ。わしはそういうことは知らんがね、こと有刺鉄線となれば、お前さんよりはよく知ってるぞ。何しろわしはこの脚とこの腕でそいつを跳び越えたんだからな、このコートを上にしてな、なあわかるか?イタリアどもを海まで追い込んだ時にな、なあわかるか?今のあの有刺鉄線はな、その頃からずうっとそこにあるんだ、あのパシャリマンにな、お前さんたちの基地の周りにな、なあわかるかい?」
[訳註;旧版では、この対イタリア戦が1920年であったことや、老農夫が「セラム・ムサ」なる人物と一緒だったことも語られているが、決定版でその名が出て来るのはもう少し後]
「悪かったよ、おやじさん、そんなつもりで言ったんじゃないんだ」兵士が言った。
「いやいや、わかればいいがね」男が言った。彼は興奮して、首筋が燃えるように赤らんでいた。
「あんただって俺たちのことを随分言ってくれたけどな」面長の兵士が割り込んできた。
「俺たちのことなんぞ、あからさまにあてにしてないぞって顔だったぜ」
 老農夫は探るような目で相手を見つめた。
[訳註;旧版ではここで老農夫が兵士たちから名を訊かれ、タバコを吸いながら「ベルル・ジョノマヅィ(Belul Gjonomadhi)」と名乗っているが、決定版では名乗るのが少しだけ後になっている]
「まあ聞いてくれよ、おやじさん」と面長が言った。「きっとあんたは今こう思ってるんだろう:こんな鼻たれどもが軍の基地を守るってのか?ってさ」
 老農夫は少しだけ首を振って
「ああ、とんだ悪たれだお前さんたち」と言った。
 新米兵士たちは哄笑を上げた。
 じきに一同はすっかり打ち解けた。農夫は、自分が現代の防衛装備を全く信じていないことをあけすけに語った。彼はとりわけ、ドキュメンタリー映画で見たレーダーに我慢がならないらしかった。彼にとってそれは、宙に舞う子どものおもちゃのように思えるのだった。
「ラジオだの電話だので戦争が出来るもんかい」彼は言った。
「電話でするのは恋の語らいだ、戦争じゃない」
 兵士たちからどっと笑いが起こった。
「お前さんたち、大砲の弾を受け止めたセラム・ムサのことは知ってるかね?」と農夫が言った。
「知ってますよ、授業で習いましたから」二、三人の声があった。
「そう、このわし、ベルル・ジョノマヅィはな、あいつをこの目で見たんだ。セラム・ムサは誰かに電話なんかかけやしなかった:大砲から出た弾を止めるんですか、それとも止めないんですか、なんてな。あいつは、本に書いてあることを求めて本を開くようなこともなかった:大砲から出た弾は止められるのだろうか、それとも止められないのだろうか、なんてな。違うとも、ああ、違うとも。あいつは大砲の前に躍り出て、弾を地面に押さえ込もうとして、その場で、弾によって死んだんだ」
 兵士たちは互いを見やった。
[訳註;旧版ではここに、「本当にそうだったんだ」と農夫が誇らしげに強調するくだりがある。なおセラム・ムサ(Selam Musa)は実在のアルバニア軍指揮官で、1920年6~9月の駐留イタリア軍との戦闘(通称「ヴロラの戦い」)で部隊を守るため大砲の前に身を投げ出し死亡。社会主義政権下で「人民英雄」の称号が与えられた]
 外は雨が止んでいた。空は倦み疲れ、酷使され尽くしているように見えた。
「その、電話のことが随分気に入らないんだね」と面長の兵士が、話を元に戻そうと話しかけた。
「気に入らないさ」農夫は言った。
「電話なんて男のもんじゃないよ。前にティラナの婆さんと話したんだがね、いや甥っ子に会いに行こうと思ってね。ベルル、あんたどうしちゃったんだい、って婆さんに言われたんだ。その声は何だい、まるで蠅が喋ってるみたいだよ、って。ベルルったらかわいそうに、もう電話なんかかけてこないでよ、あたしゃ泣けてくるよ、ってさ」
 新兵たちは大声を上げて笑った。 「男の言葉は電話だと重みがなくなるよ」農夫は話し続けた。 「そうさな、誰かがわしに電話でこう言ったとしよう:ベルル・ジョノマヅィよ、出撃せよ、と。わしはたとえ出撃するつもりだったとしても、反対のことをするだろうね。失せろ、お喋り野郎め[訳註;原語は「屁でもこいてろ」。転じて「多言を弄するばかりで中身が伴っていない」の意]、そんなものでわしに命令してきやがって。そんな声でわしに戦争をしろっていうのか?」
「だけど、恋愛だったら構わないんでしょ?」と誰かが言った。
「そりゃ、そういうことのために作られたんだからな、お若いの、恋のためだよ」
「そら、ヴロラだ」誰かが言った。
 確かに、遠くにヴロラの町と海が見えてきた。農夫はしばらくそちらの方を見ていたが、その目は細くなっていき、まるで額の中に収まってしまいそうだった。表情はすっかり変わっていた。最初の見た目とは違って、残っているのは湿った微笑だけだったが、今はそれも遠のいて、石に刻まれたもののようになっていた。兵士たちに問いかけることもなくなり、急に距離を置き始めたかと思うと、歌を唄い出した。

おお麗しきヴロラよ、洞穴の中の、
欧州の最初の波止場よ。

 兵士たちは笑いたかったが、どうにか踏みとどまった。それでも一人がこう口にした:
「ご機嫌らしいな、ベルルのおやじさん」
 農夫は返事もせず、唄い続けた。道は海岸へとさしかかるところだった。寒々とした灰色の大地が四方に広がっている。老農夫の頭もその大地のように白髪混じりだった。彼はようやく歌を唄い終えると、しばらくじっとしていた、まるで重労働を終えた後のように疲れ切って。遠くにサザン島が見えている。
「運転手さん」不意に農夫が言った。
「停めてくれ、運転手さんよ、ここで降りるから」
 トラックが停車した。農夫は車を降りると手を振って
「じゃあな、若いの、達者でな」と声を上げた。
[訳註;決定版では簡潔にされているが、通りすがりの農夫はヴロラに近付くにつれて喜びをあらわにしており、尚且つ降りた後も、走り去るトラックを見送りながら「しっかりしろよ、ヴロラはわしらのものだ」とつぶやいている]
 道は海岸から入り江の奥へと延びていた。トラックの荷台に静寂が訪れた。新兵たちは、草木も生えていない丘陵地帯を見つめていた。寒かった。
「ああ、基地だ」誰かが言った。
「何処だ?」
「あの向こうだ。まだよく見えないな」
 右手に海があった。左手には死せる沼地。道は今や長く続く荒地の中を進んでいた。あちらこちらの、よどんだ水の中にイグサが生い茂っている。トラックが穴ぼこの上でガタガタ揺れた。 [訳註;首都ティラナからヴロラへ南下しているので、右手すなわち西側に海が、左手すなわち東側に内陸部が見える]
「止まれ!」と厳しく叫ぶ声のすぐ後に別の声がした。「ストイ!」[訳註;同じ意味のロシア語стой]
 トラックはブレーキをかけた。
「ソヴィエトの警備兵もいるのかな?」誰かが小声で訊ねた。
「それはそうだろう。共同基地だからな」
 運転手は車を降りた。警備兵たちが近付いてきた。ヘルメットをかぶった二人連れだった。運転手が書類を見せた。警備兵は近寄って険しい目つきでそれを眺めた。
「行ってよろしい」
「プラハヂーチェ」[訳註;同じくロシア語проходите] トラックは長く続く荒地を更に走り続けた。向こうに赤茶けた建造物が幾つか見えてきた。
「ああ巡洋艦だ」誰かが言った。
「いいや、あれは補給艦だよ」
[訳註;旧版ではこの後に「潜水艦は何処かな」「もっと基地の奥だろう」という会話があるが、決定版には無く、潜水艦をめぐるやりとりはこの後一回きりになっている]
 また警備兵がいた。ヘルメットをかぶっている。トラックが停まった。兵士たちは順番に車を降りた。傍に、ほろのついた軽トラックが二台ある。その周りを民間人や兵士が何人も歩き回っていた。みな興味深そうに見つめている。
「首都の連中だ」誰かがそう言った。
 将校の鋭い声が聞こえてきた。新参兵たちは辺りを見回した。うろうろし始める者たちもいた。近付いて尋ねかけてくる声の一つを、ベニはよく知っているような気がした。
「ティラナの新兵どもが来たか?」
ベニは振り返った。
「ベニ」呼びかけてきたのはゼルカの夫だった。彼はベニを抱擁すると、肩に回した腕を離さず、ぐいと引き寄せた。
「元気かい?お父さんはどうしてる?」
[訳註;ゼルカは第1部で登場した、ベニの従姉妹。海軍将校と結婚してヴロラに住んでいる]
「その」ベニは言った。「あんまり良くなくて」
「まだレーザー治療かい?」
 ベニは肩をそびやかした。
「数日前に入院してね」
「そうなのかい?」相手は自分のブーツを見ながら言った。それから顔を上げて、他の家族のことを訊ねてきた。
 気付かぬうちに、二人は集団から離れていた。
「そら、これが基地だ」ゼルカの夫が言った。ベニは首を回してみたが、特別なものは何も見えなかった。灰色の荒野が広がっているだけだった。彼が心に思っていたのは、もっと別なものだった。
「潜水艦は何処?」ベニは訊ねた。
「もうすぐ見えるよ」ゼルカの夫は言った。「これから全部見えてくる」
ベニの肩から手を離さないまま、ゼルカの夫の将校はベニに基地を案内していった。
「あそこにある建物が司令部だ。その向こうにあるのが修理工場。向こうのあれは『用無し』通りだ。そうみんなが呼んでるんだよ、何故って、誰も通って来ないからさ。で、俺たちが今歩いてるここが、この港の1番通り。それと向こうの方に並んでる、いかにも北方風[訳註:旧版では「スカンディナヴィア風」]の小さな家が見えるかい?ソヴィエトの連中の住居だよ。それで、みんなこう呼んでる:フィンランド風住居だと。そのずっと先に、俺たち将校の家がある。そこから先は荒地で、それで基地の南側を他の土地から隔ててるんだ。それと、あの左手にある赤茶色の建物はクラブでね。あそこじゃ毎週土曜日になると、夜中までダンスをやってるよ。
「ダンス?」ベニは仰天した。
「ああ」ゼルカの夫は考え込むように言った。
「一晩中ダンスさ、まるで何事も起きていないかのように」
 つい先ほどまでベニには死んでしまったようにしか見えていなかった風景が、今は突如として一つの謎を伴って活き活きとし始めた。ダンスをしている。
「君もたぶん何か聞いているだろう、もう二、三日したら話があるだろうが・・・ここの状況はかなり深刻だ」
「もう聞いてるよ」ベニは言った。「ベスニクが話してくれたんだ」
「ここの状況はかなり深刻だ」ゼルカの夫は繰り返した。
「挑発行為には用心することだ。そら、潜水艦もあるぞ。見えるかい?あそこに並んでるのが潜水艦だ、共同運用のね。で、それらと別の、もっと向こうにあるのが、目下のところ、ロシア軍専用だよ。あの大きな二隻の汽船が移動式基地だ。その向こうが司令艦。見分けがつくかね?他にもずらりと並んでるぞ。潜航艇。移動式ドック。魚雷艇。あとその他の水上艦。見当たらない分もあるな。そいつらは島の方にある」
「他に潜水艦は?」ベニが訊ねた。
 ゼルカの夫はにやりとした。
「もうないのかって?」彼は言った。「これだけ現代型の潜水艦があるじゃないか。ここは地中海最強の海軍基地だぞ」
 ベニは驚いたというしぐさをしてみせた。
「イタリアだって、パシャリマンの軍事力の半分も持ってやしない」ゼルカの夫は言った。ベニは呆気にとられたまま聞いていた。
[訳註;旧版ではここで、ベニが農夫ベルルジョノ・マヅィのイタリア軍追撃譚を少しだけ思い出している]
「だが、どうもね」とゼルカの夫はがっかりした風に首を振って続けた。「林檎の中に虫が入り込んでしまった」
 今まで、その聞き慣れた言い回しが、ベニにこれほど予期せぬ絶望的な衝撃を再び与えたことはなかった。林檎の中に虫が入り込んでしまった。ベニは訊ねたかった:もうそんなことは起こりゃしないんじゃないか、と。だが、こういう会話にはつきものの沈黙[訳註;旧版では「深夜のベスニクとの会話」]を思い出し、何も質問しなかった。
 二人は、新兵たちがいる場所へ再び戻ってきた。考古学者たちの車の周りは、相変わらずのてんわわんやだった。大理石の浅彫り[訳註;原語barelievはフランス語bas-reliefに由来する。バリリフ]が一枚、セロファンに包まれて、地面にじかに放り出されている。
「そら、考古学者連中も今お帰りだ」ゼルカの夫が言った。「基地は非常事態だよ」
 考古学団長はずぶ濡れで、絶え間なく指を鳴らしていた。すっかり我を忘れているらしかった。
「剣闘士[訳註:原語でもgladiator]の浅彫りなんかどうしようっていうんだ?」と誰かが、セロファンに包んだ大理石を指差して訊ねた。
「とにかくどれかのトラックに積んでくれ」団長が言った。「いちいち私に頼るんじゃない」
 作業員らは苦労して浅浮き彫りを担ぎ上げた。
「古代の劇場を発掘したらしい」ゼルカの夫が言った。「沼地の端の方でね」
 軽トラックの一台が動き出した。荷物を積み込んでいる間じゅう群がっていた一団が、脇に下がって少しだけ車に道を空けた。
[訳註;旧版ではここで、作業員の一人が窓ガラスを叩いて「嗅ぎ回る豚どもめ」と毒づき、団長が「持って行きたいなら勝手にしろ」と言い返し、ベニが「どういう意味?」と訊ね、ゼルカの夫が「剣闘場の跡で豚の鼻の化石でも見つけたんだろう」と語っている]
 二台目の軽トラックも動き出した。手を振る者があった。溜め息をつく者もあった。
「民間人はみんな行ってしまった」一人の女が言った。
「君らが来て、あいつらが帰ったか」ゼルカの夫が言った。
「何?」と、赤ら顔でぼんやりした目つきの男がロシア語で言った。
「別に」ゼルカの夫は言った。そしてベニの肩に顔を寄せ
「潜水艦の技師だよ」と囁いた。「太り過ぎだし、どうもね、大酒飲みらしい。そして今日もすっかり出来上がってるようだ」
 その酒飲みは何かを探すように両眼をきょろきょろさせて辺りを見回していたが、人々は立ち去るところだった。
「ああ、イレーナ・ミハイロヴナ」と彼は、近付いてくる一人の女性をようやく見つけて、満面の笑みで言った。その女性は、酔いしれるほどに美しかった。「イレーナ・ミハイロヴナよ、ご機嫌は如何かね?相変わらず魅力的で、上から目線で、しかも遅れてくるとは」
 彼女はちらりと彼を見たが、鼻歌のメロディーを止めることはなかった。
「帰っちゃったの?」彼女は時計を見て訊ねた。
「こんなに急いで?」
「帰ったよ」彼は言った。「残ったのは穴が少しと、碑文が少し」
 イレーナは開いた穴と、半分だけ掘り出された石段を見つめた。
「舞台は済んだ」彼が言った。
「あと俺たちに必要なのは悲劇を演じることさ」
「悲劇って何の?」彼女は興味なさげに訊いた。
「悲劇ならあんたの足元にあるじゃないか、目に入らないのかい?」彼は厳かな、不吉めいた大袈裟な口調で言った。
 イレーナは、彼の方には耳を傾けず、再び鼻歌でメロディーを唄い始めた。
「こんな僻地じゃ誰もあんたの言うことなんかわかりゃしないさ」彼は言った。
「セルゲイ・ガラクチオノヴィチ、本気で言ってるの?」やっと彼女が口を開いた。
 セルゲイはどんよりとした目を向けたが、そこにはまだ悪戯っぽくキラキラと光るものがあって、荒涼たる地面でそれはひどく浮いて見えた。
「何でそんな風に私のことを見るわけ?」イリーナが言った。
 セルゲイはけたたましい声を上げて笑い出した。
「イレーナ・ミハイロヴナ」彼は彼女のことなど気にとめていないように、不意に声を上げた。
「愛しのイレーナ・ミハイロヴナ、君は、君は、ここで君は何をしている?答えてくれ、君はこんな地獄で一体何をやっている?君の居場所は別にある、ここからずっと遠くに。遠くに」彼がイレーナに近寄ると、そのアルコール臭に不快感を覚えた彼女は後ずさりした。
「ここから立ち去れ、手遅れにならないうちに。今すぐここで俺たちはお互いバラバラだ、まるでタコのようにな」
 セルゲイは顎を動かして、何か食べるしぐさをしてみせた。イレーナはそれを不安げに見つめて
「本気なの」と問いかけた。
 彼女のその言葉が彼の笑いを爆発させた。
「イレーナ・ミハイロヴナ、愛しのイレーナ・ミハイロヴナ」と彼は不安定な足取りで立ち去りつつそう言った。
「君は・・・ここで・・・君は・・・誤解だ。誤解だ」遠くから彼は叫んだ。「誤解なんだ」

 ベニはベッドの上でしきりに寝返りをうっていた。
「眠れないのか?」右側のベッドから声がした。
「ああ」ベニは答えた。
「俺もだ。君はティラナからか?」
「そうだ」
「俺は南からさ。今日来たのかい?」
 兵舎は広く、寒かった。ベニは頭の半分まで毛布にくるまっていた。
「状況について説明はあったかい?」と少しして声がした。
「いいや」ベニは言った。
「明日きっとあるだろうな」
「何の話?状況って何さ?」
 隣がベッドから起き上がった。
「深刻だぞ」少しして相手が言った。
「タバコあるかい?」ベニは言った。
「いや」相手が言った。「ラキの小さいやつが一本。やってみるかい?」
 相手はまたベッドの上で動いた。それから、暗闇の中で相手の手が伸びてくる気配がした。
「うちの親父が背嚢に入れてくれてね。取れよ」
 ベニが手を伸ばすと相手の肘に、次に瓶に触れた。瓶を手に取り、コルクを抜き、ひと口含んだ。[訳註;旧版ではここで瓶を返し、相手もひと口飲んでいる]
「寝つきが悪くてね」相手が言った。
 ベニは返す言葉がなかった。しばらくベッドの軋む音が聞こえた。兵舎の何処か向こうで、誰かが寝言を呟いていた。海鳴りの音が聞こえる・・・
「このパシャリマン基地を見てると、うちの村で起こったことを思い出すよ」と声が聞こえた。
「話してやろうか?」
 シェヘラザードかよ、とベニは思いながら、何も返事をしなかった。
「聞きたいなら」と声がした。「もし聞きたくなければ・・・」
「話してくれよ」ベニは言った。
 相手がまたベッドの中でごそごそ身動きした。どうやら寝返りをうったらしく、声がまるで違って聞こえた。
「ちょっと妙な話なんだ」相手は言った。
「ほとんど信じがたい話でね。或る機雷の話なんだ」それから相手は、地雷の話だと聞いたこちらの反応を待つかのように、しばし沈黙した。だがベニは何も言わなかった。
「もし、機雷の話が気に入らないなら・・・」
「あのさ」ベニが言った。「もし本当にその話をしたいと思ってるんなら、話してくれよ」
「何だい、せっかちだな」と相手は言い、またごそごそ身動きした。瓶からごくりとやる音が聞こえた。「君ももう一杯やるかい?」
「後でいいよ」ベニは言った。
「まあ、それで、機雷の話なんだが」と声が聞こえた。「その機雷はうちの村の農夫が或る晩、海岸で見つけたんだ。大型の海中機雷だった。農夫はそれを油の樽だと思った」そう喋る声は、まるで聞き手の忍耐がなくなるのを恐れているかのように、どんどん早口になった。
「その年はオリーヴの出来が悪くて、何処にも油が見当たらなかったんだ、一滴もね。油が一樽あれば、一年間のパンはまかなえる。だけど、それは機雷だった。それでもその農夫は油の樽だと思っていたんだ。退屈かね?」
「何だくだらない」初めのうちは何やら面白い話が聞けそうだと思っていたベニはそう呟いた。
「そんな話で俺の気を引こうと思ってるんなら、もう放っといてくれ」彼は言った。「本気で言ってるんだ、放っておいてくれ。聞きたくもない」
 相手は何の反応もなかった。しばらくしてベニは、相手が話したいという熱意を失い、何か他のことに思いを巡らしているのでないかと思った。ところがそう思ったまさに時、また隣の相手の声が聞こえてきた、今度はずっと小声で、何やら真実を語ろうとしているかのようだった。ベニは自分が聞いているような素振りは一切見せなかったが、見知らぬ隣人は話し終わるまではそんなことを知ろうともしなかった。その口調は今やお伽噺じみていた。ベニは話を聞きながら、海面をゆっくりと漂う機雷を想像していた。中身は半分だけ、農夫はそう思った。あとは海に沈んだろう、と。だが有り難い、半分もあれば充分だ。
 農夫は水中に潜ると、機雷を浜辺まで運んできた。それは確かに動いていた。しかし浜辺にそのまま置き去りにされた。見かけより重かったのだ。それで農夫は家まで走って、妻や子供たちに知らせた。夜になると、みんなして浜辺へ向かった。機雷は、少しだけ傾いていたがその場にあった。家族総出で機雷を動かしていったが、アンテナのように尖った、出っ張りの部分が邪魔になった。
 一晩中、その家族は機雷に悩まされた。徐々に機雷は家へと近付いていった。さんざん苦労して、やっとのことでそれを家の中に運び込んだ。さてどうやって開けようか?と農夫は言いながら、ドライバーを手に機雷の周りをうろうろしていた。ネジを緩める前に、何度か調べてみた。それから鉄製の覆いをナイフでこじ開けた。その奥の方にじっと目を凝らすと、たくさん針のついた時計盤のような、色とりどりの小さなものが回転しているのが目に入った。それらはチク、タク、チク、タクと動いていた。機雷だ!と農夫は叫んで娘の腕を摑んだ。そして家の外へ飛び出すと狂ったようにわめいた:機雷だ、みんな逃げろ。その後の出来事は忘れられない。叫び声と、狂ったようにドアを叩く音、激しい足音。朝になると、村はもぬけの殻になっていた。とても小さな村だったので、無人になるのも速かった。午前中、ほぼ全員が水車のところにいた。そこで対策が講じられた[訳註;直訳は「問題を長老会にかけた」、転じて、「協議する」の意]。どうすべきか?危険と隣り合わせで村へ戻るか、それとも機雷を撤去できる目途が立つまで、取り敢えず何処か別の場所へ移しておくか。意見百出だった。その中でも、どうせ死ぬんだったら自分の家で死にたい、という声が大勢だった。農夫はそれら全ての話を聞きながら、考え込むようにうなだれていた。その眼はこう言っているようだった:俺がそれをやったんだ、兄弟よ、俺が海から悪魔を引き揚げて、村の中に持ち込んだんだ。その日の昼になると、村人は一人また一人と帰っていった。[訳註;旧版ではここに「最初に勇敢な男たちが、それから家が離れた者たちが、最後に女子供が」と続く]陰鬱な帰還だった。家のドアをそろりそろりと軋ませた。窓を用心深く閉めた。村人たちはまるで何か獣に気付かれるのを恐れるかのように、小声で話した。夜には村人全員が自分の家にいた。家に機雷がある例の農夫だけが、妻や子供たちと一緒に他の家に泊まった。彼の家には誰もいなかった。それからずっとその家には機雷が居座っていた。それはその村での暮らしの中で一番静かな夜だった。女たちの喧騒も、村の井戸で水を汲む音も聞こえなかった。井戸は機雷のある家の隣にあったのだ。その晩、その村での生活が始まって以来初めて、男たちが水汲みに出た。彼らは遠くの川まで出向いて、真夜中近くになって、死にそうなほど疲れ切って戻ってきた。女たちを彼らは怯えた目で見つめた。何かあったの?いや、ずっと考えていたんだ。今にもあれが爆発するような気がして。ああ、何度か地響きが耳に入ってきたんだ。水場は遠い、本当に遠い。どうやって井戸なしでやっていけるのか?それは村が機雷と共に過ごした最初の晩だった。これほど恐るべき泊まり客がこの村に来たことは今までなかった。この村を夜通るといえば追い剥ぎか、人殺しか、パシャリマンへ向かうトルコの急使か、牢破りか、占い師だったが、この新たな来訪者の前では何ほどでもなかった。村の生活は陰鬱なものになった。機雷のある家とその隣の井戸は、打ち棄てられた風景を生んでいた。夜になると年寄りたちは、村の水を奪いに来る化け物[訳註;原語kuçedërは7つの頭を持つ竜のような怪物。ギリシア神話のヒュドラに相当]と、額に星のある若者がその怪物を殺しに来るお伽噺を話して聞かせた。額に星のあるその若者は、何時になったら機雷を退治してくれるのか?と子供たちは訊いてきた。村人たちは疲労と不安と悪夢とに悩まされていた。女たちは井戸端で壺をかち合わせたくてたまらず、男たちは酔っぱらって村中をうろつき回りたいと切望した。再び対策が講じられ、機雷の首を刎ねるということに決まった。で、どうやって?
 一人の青年が進み出て、機雷を引っ張って海へ戻すつもりだと言ったが、他の者たちはそれを許さなかった。無益な犠牲を出すことに何の意味がある?その勇気ある青年は死ぬかも知れないし、村全体が吹っ飛んでしまうかも知れないのだ。聞いた話だが、世の中には魔法使いたちがいて、機雷をどう扱ったらいいか知っているらしい。その魔法使いたちの名を工兵[訳註;原語xhenierはイタリア語geniereに相当。ちなみに「エンジニア」を意味するinxhinierと語源的に関係あり]という。村人たちは、そういう人物を見つけて村に連れてくることに決めた。勿論、報酬を払ってだ。家ごとに金を集め、三人の村人が騾馬に乗って旅路に出た。その村はひどく僻地にあった。村の周りには小さな町一つとてなく、工兵が見つかるような大都市となると尚更だった。彼らはまる二週間を浪費した。二週間経った時、彼らはようやく工兵を一人連れて村へ戻ってきた。その工兵は騾馬の上で揺られながら、興味なさげに万事を眺めていた。頭にはやけに大きめのボルサリーノを載せ、手には工具がぎっしり詰まった鞄を提げていた。年寄り連中は彼に畏敬の眼差しを向けていた。娘たちや若い人妻たちは熱狂していた。彼女らはひと目で恋に落ちてしまったのだ。子供だった我々[訳註;この前後のくだりは全てベニの隣の兵士の独言である]にとってその工兵こそが、化け物を退治してくれる、額に星のある若者だった。男たちはみな村のカフェに集まっていた。これは命懸けの[訳註;逐語訳は「頭を袋に突っ込む」]作業だ、と工兵は言った。だが私はやる、そして諸君の村を救ってみせよう、と。明日、朝になったら全員立ち去るようにと彼は言った。彼は一人で作業するつもりだった。その語る声は野太く、美しかった。それは異様な夜だった。誰一人として眠らなかった。それは機雷にとっての最後の夜となるはずだった。その夜は、獲物とそれを狩る猟師の両者が隣り合って眠ったことだろう、死闘を繰り広げる翌朝に備えて。
 翌朝は寒かった。工兵は朝食をとり、そして脇腹に手をやったまま、立ち去る村人たちを見つめていた。彼が家の扉を押し開け、無人の玄関を通り抜け、それから中で何をしていたのか、目にした者は一人もいなかった。村人たちはただ虚しく、機雷が解除されたことを知らせる煙が煙突から上るのを待っていた。その日の昼になって、工兵は家から出て来ると、彼を待つ村人たちがいる水車のところへ向かった。その顔は死人のようで、血の気も失せて真っ青だった。駄目だ、と彼は叫んだ。無理だ。どうにもならなかった。知らない型の機雷なんだ。
 村人たちはその場で固まっていた。手は尽くしたんだ、と工兵は言った。だが私も知らない、新しい型の機雷だったんだ。君たちには面目ない。金は返すよ、といっても家族が使い切っていなければいいんだがな。うちは金持ちじゃないし・・・金はいらんよ、と村人たちは言った。あんたは自分の仕事をしたんだ、だから、そんなことは言うもんじゃないよ。
 工兵は、貸してもらった騾馬に乗り、沈黙の中村をあとにした。彼の大きなボルサリーノが通りの真ん中でしばらく揺れていたが、やがてそれも消え失せ、もう姿も見えなくなった。
 それから後の日々は、まさしく冬の日々だった。村人たちは、機雷がある家の方の向かい側に防壁を建て始めた。避難壕を掘る者たちもいた。村を出る前、あの工兵は、機雷はかなりの威力があるはずだと言っていた。工兵からは防護壁と避難壕について指南されていた。また彼によれば、通路として使えるよう、村の中に何本か溝を掘っておいた方がいいとのことだった。実際、しばらくすると村は溝だらけになっていた。それらは道路の代わりになっていた。村人たちは塹壕の中の兵士のように、腰を屈め、その中を通り抜けた。今や到るところが要塞化された前線地帯のようになっていた。或る朝、機雷を持ち込んだ農夫の次男坊が村を出て行った。遠くの町で機雷の解除法を教わって、そして村を救いに戻ってきてくれるとのことだった[訳註;旧版では、「この時期、村の男三人がパルティザンに加わった。その中には機雷を持ち込んだ農夫の次男坊もいた。一方で長男坊は、或る朝突然、遠くの町で機雷の解除法を教わって村を救いに戻ってくると言って村を出て行った」とあり、遠くの村へ行った「彼」が決定版と異なっている]。彼は出発した。それからしばらく経って、実際に遠くの町で彼を見たという話が聞こえてきたのだが、彼は半分酔い潰れ、カフェや居酒屋で、尻軽女や芸術屋連中と戯れ合っていたという[訳註;「居酒屋」の原語tavernëは酒を提供する料理店。「レストラン」に相当するものもあるが、多くは小規模な大衆食堂の類を指す。「尻軽女」と訳したlavireの原義は「ぶら下がり」「ぼろ布」で、「売春婦」の比喩としても用いられる]。その後、彼については何の知らせも入ってこなかった。どうやら誰も、自分たちのためにこの怪物を退治してはくれないようだ、村人たちはそう語った。どうやら自分たちは、あいつと一緒に年老いていけと言われているようだ、と。
 村人たちは戦争を恐れたことなど一度もなかった。彼らは戦争のことを、何か職人仕事か、ありふれた季節労働のように語っていた。だがそれでも、この機雷ほどに不信心な敵と対峙したことはかつてなかった。それは攻撃しようにもその術がない、卑劣な敵だった。[訳註;旧版では「だがそれでも」の前に、村人が「戦争した」とは滅多に言わず、「撃ち合った」「ギリシアにやられた」「セルビア人にやられた」といった具体的な表現を好んでいたことや、1920年にイタリアの石油備蓄艦を焼き払って「石油のチェチョ(Çeço Vajguri)」と呼ばれるようになった男のエピソードが挿入されている]
 不安は、その年[訳註;旧版では「1944年」]の寒い秋、パルティザンの一部隊が初めて村にやって来るまで続いた。パルティザンたちにはその村が尋常でない風に見えた。煙突から煙を出ているところを見ると、そこに人はいるらしいが、広場にも通りにも誰一人見えない。それから彼らが目にしたのは、深く掘られた溝と防壁だった。彼らは自分たちが敵陣のトーチカの面前にいると信じて疑わなかった。パルティザンは家々に向かって機銃を構え、何が起こるか待ち構えた。誤解は一時間と続かなかった。誰か[訳註;旧版では「水車で作業していた村人」]が姿を現して、事情を説明した。機雷はどこだね?と壮年のパルティザン兵が訊ねた。村人は彼を案内した。みんな村から出てくれと彼は言った。私が機雷を解除する、と。彼の戦闘帽には確かに赤い星があったが、村人たちは信用していないらしかった。それでも全員が、工兵の時と同じように立ち去った。
 パルティザン兵は三時間で機雷を解除した。屋根の上にようやく一本の青白い煙が立ち上った。人々は村へと駆けつけた。見るとそのパルティザン兵は井戸端の石に腰掛け、煙草を吸っていた。人々は彼を抱擁し、肩を抱いて接吻し、何か欲しいものはないかと質問攻めにした:ビュレク、焼肉、ラキ、ワイン、蜂蜜[訳註;ビュレクは肉やチーズを入れて焼いたパイ。なお旧版では「蜂蜜」の前に「ジャム」もある]。老婆たちはその間に大急ぎでビュレクの生地を手でこねていた。だがパルティザン兵は、自分はひどく疲れていると言った。彼が求めたのはただ、強いコーヒーを一杯淹れてくれということだけだった。彼はうっすらと目を閉じたまま、コーヒーをゆっくり飲んだ。まるでもう何年もコーヒーを飲んでいないようだった。一方、男たちは機雷があった家に入っていった。そこには死人の家のような沈黙が支配していた。それはその場所に、信管を抜かれ、冷え切って、遺体のようにあった。赤や青やオレンジ色の部品に線に、ねじに電球、その全てが足元に、一つ、また一つと置かれていた。男たちは目を見開き、怪物の爪と、ばらばらになった爪の先と、芯を抜かれた顎と、部品から流れ出た黒い、濃い血を見つめていた。その機雷を持ってきた農夫は、遺体に頭を近付け、しばらく耳を当てていた。死んでる、と彼は言った。もう心臓も、チク、タク、チク、タク鳴っていない。
 数年後、写真記者たちがその村を訪ねる機会があった時、その機雷の話を聞いて、そのことを書いたのだが、そのパルティザン兵が誰なのか見つけ出そうにも、結局わからずじまいだった。分かっているのは、四十代ぐらいのパルティザン兵で、コーヒーが好きだということだけだ。だがコーヒーが好きな人間なんてこの世にいくらでもいるだろう?君、寝てるのか?
「いいや」ベニが言った。
「寝てると思ったよ」
 しばらくの間、相手は何の反応も示さなかった。ベニは自信がなかった:自分が聞いた話は全部本当のことだったのか、それともその中には、寝ぼけ半分で付け足したことも混ざっているのだろうか。
「で、君がしてくれた話と基地の状況と、何が似てるっていうんだ?」ベニは訊いた。
「実はさ、似てるところなんか何もないんだ」と相手の声が言った。「ただ最初の頃は別だった、あの時はこの基地もまともなんじゃないかって俺たちは思っていた」
「まともじゃなかったってことか?」
「まともだったさ、でも今はもう違う。あ、そうか忘れてた、君たちはまだ何も聞かされてないんだったな」
「だがここじゃ、君のところの機雷の時みたいにみんな出て行くどころか、逆のことが起こってるぞ」ベニは言った。「俺たちは集められてる」
「その通りだ」相手の声が言った。「集められている。それも大急ぎでだ。そして俺たちはみんな、額に星がある」
「わけがわからないな」ベニは言った。
「俺もわけがわからないよ」相手の声が言った。
「君、俺が嫌味で機雷の話をしたとでも思ってるかい?」
「そういうタイプじゃないよ、俺は」ベニは言った。
「思い出した話があるから話しただけなのにさ、こん畜生め」
「俺は何も言ってないぜ」ベニは言った。「何で怒ってるんだ?酔ってるみたいだな」
「酔ってるのはそっちだ、俺は酔ってない」
「おい、そこのお前たち、魔女みたいに夜中に何をぺちゃくちゃ喋ってる?」
と眠そうな声がした。
 一瞬、沈黙が支配した。
「あのさ」少ししてベニが言った。「誤解しないでくれよ。悪気があって言ったんじゃないんだ」
 相手が深く息をつくのが聞こえた。
「もう一口飲ませてくれ」ベニが言った。「そうすれば眠れそうだ」
 ベニは、相手が身動きするのを感じた。互いの手が闇の中で触れた。
「それで、この基地で何があるんだ?」少ししてベニが訊ねた。
「さあね」と声がした。「たぶん半分に分かれるんじゃないかな」
「おいそこのお前たち、もう寝ろ」またさっきの眠そうな声がそう言った。
「おやすみ」とベニの話し相手は言った。
「おやすみ」
 そして俺たちはみんな額に星がある、か。ベニは思った。それから不意に雨のディブラ通りを思い出した。女の子たち。光る文字。そしてベニは、兵舎近くの沼地で発掘されたばかりの円形劇場の、大理石の碑文のことを考えた。ベヌス・ストルグスか、と彼は思った[訳註;Beni Strugaをラテン語風にBenus Strugusと言っている]。ローマ兵、ベヌス・ストルグス。ノルマン兵、アルバーン・ストログ。トルコ兵、ベン・アシュケル[訳註;同様にノルマン語(?)風にArbaan Strôg、トルコ語風にBen Ashqerとしている]。彼は疲れ果て、パシャリマンからディブラ通りの、小さなバーへと戻ってくる。彼は抱擁され、息つぐ間もなく質問攻めだ:何にする?何にする?さあ何にする?俺は疲れてるんだ、そう彼は言う。濃いコーヒーでいいんだ。基地の周りじゃ今ハリネズミとヘビの婚礼の真っ最中だ。音楽が鳴っている。有刺鉄線は雨の中、冷たく横たわっている。農夫ベルル・ジョノマヅィが用心深く、その新婚夫婦の上でコートを脱ぐ。老パシャの墓の上には、死んだカモメが落ちている。俺は疲れてるんだ、ベニは繰り返す。パシャリマンから帰るんだ。ほらこれが俺の仲間だ、右から一番目のベッド、二番目のベッド、三番目のベッド、左側にベッドの列。並んでいる。みんな額に星がある。これは俺の墓碑銘だ:「アルベン・ストルガ-1961年、祖国のためパシャリマンに没す」音楽。イリスの追憶。いつまでもいつまでも。

2
 土曜日。基地内の通路を、兵士たちが固まって歩いている。あちらこちら、アルバニア語やロシア語を話す女性や子供、将校らが通り抜ける。
「俺はさあ、ここに土曜日があるなんて思ってもみなかったよ」
と兵士の一人が「用無し」通りを歩きながら、連れに話しかけた。
 相手は愉快そうな視線を向けた。
「何処だって、人がいるところには土曜日もあるのさ」相手はそう言った。
 沼地[訳註;へ続く]広場の方では、クラブのある建物に向かう別の兵士たちがいた。その中の二人は、手に大きなドラム[訳註;原語xhazには「ジャズ」の意味もあるが、ここではそれに用いる打楽器類を指す]を抱えていた。
「オーケストラだ」兵士はまるで幻影を見たように口をぽかんと開けていた。

 ロシア人指揮官ジェレズノフは苛立った素振りを見せていた。遠くから、クラブのオーケストラの音色が聞こえてくる。彼は立ち上がり、部屋の中を歩き始めた。何という規則だ、と彼は呟いた。何という体制だ。誰がこんな規則を作ったんだ?音楽だと、女たちだと・・・これは軍の基地ではない。これは・・・キャバレーだ[訳註:原語kabareはフランス語cabaretに由来し、音楽や芝居を見せるレストランやナイトクラブを指す]
 彼は二、三度この件について司令部の会議で取り上げたが、側近たちは彼の前任者を目の前で公然と侮辱したがらず、聞こえないふりをしていた[訳註:つまり、ジェレズノフの前任者がこうした状態を放置したのだ、とジェレズノフに言うのは気がひけたということ]。彼がここに来てからまだ三週間しか経っていないのに、気に食わないことが多過ぎたが、何かにつけて注文が多い[訳註;逐語訳は「唇が薄い」で、「薄情」というよりむしろ「自己中心的」の比喩になっている]と思われるのは好ましくないような気がした。
 ジェレズノフはテーブルに着くと、午後の無線電報の文面を手に取った。二通ともモスクワからの直信で、早急の返事を求められていた。彼の視線はしばらく、壁に掛けられた、基地の大判の地図に釘付けになっていた。浜辺のトーチカ。対空砲。燃料貯蔵庫。魚雷貯蔵庫。島にある対空砲。
 机の上、彼の掌の下には、ソヴィエト兵の到着に関する短い報告書があった。アルバニアも部隊の一部を移動させている。彼は今、基地の現状について手早く報告を作成しなければならなかった。それは急を要するものだった。無線電信にはワルシャワ条約軍のグレチコ総司令官[訳註;グレチコ(А. А. Гречко)は第2部にも登場している]の署名があった。基地の現状か、彼は思った。口で言うならひとことで済む。
 本当は、何が起こっているのか彼自身はっきりしていないのだ。ティラナではアルバニアとの間でヴロラ基地に関する会談が始まっていたが、どうしてそんな会談が行われているのか、彼もよく知らなかった。指示や命令の内容は正反対だった。基地は維持されるのか、放棄されるのか、彼も知らなかった。自国が本当に望んでいるのは何なのか、彼には理解できなかった。彼は軍人として、断固たる命令があることを望んだだろう:いかなる状況でも基地は維持すべし、或いは、基地は完全に制圧すべし、撤去すべし、または引き渡すべし。しかし命令書や無線電報に、確かなことは何もなかった。最新の無線電報でも、あらゆる可能性についての意見が求められていた。実際のところ、彼が支持していたのは、最も困難かつ最も危険な選択だった:基地は完全に制圧すべし。そこは社会主義陣営最強の基地の一つであり、地中海唯一の基地だった。アルバニアの裏切りのせいでそれを失うことは、社会主義陣営の軍事力を弱めることになる、それなら基地の力は維持されるべきだ。ティラナの会談の場にいる、あの狡猾な官僚連中に一体どんな哲学があるのか、彼には理解できなかった。あるのは完全な破局だった。何をなすべきか、何故はっきりと言わないのか?このジェレズノフ、必要とあれば、基地を制圧する用意は出来ている。彼は地獄のようなゼーロウ高地を攻略したことはあっても、共同基地となるとそうではなかった。[訳註;1945年、ソ連軍がドイツ軍に勝利した「ゼーロウ高地の戦い」については第2部でも話題にされている。それもジェレズノフ本人の前で]
 不安。彼の視線は再び基地の地図の上で止まった。これほどの軍事力があれば、臆病者の将軍だって勇気が出るだろう。あの潜水艦なら、イタリアを真っ二つにすることだって出来る。そして南側からフランスに噛みつくのだ(そんな風にして下の方の、柔らかい部分から、狼は鳥に噛みつくのだと聞いたことがある)、それでヨーロッパじゅうが震え上がることだろう。
 ヨーロッパじゅうだ、と彼は繰り返した。だがどうだ、あの国防省の愚鈍な官僚連中がティラナの会談で一体何を引っくり返せるというのだ。奴らは逃げ出すことしか考えていない。奴らは一生ずっと戦場から逃げ出すことばかり考えているのだから、そう彼は思った。基地は放棄。潜水艦とその他の艦船を手に入れて、そして退散。勿論それが最も容易な選択だ。だがそれは悲しむべきことだ。それどころか恥ずべきことだ。それで、とどのつまり、何処が弱くてこうなってしまうのだ?一年前、アメリカがヴロラ基地の撤去を求めてきたことがある、会談の条件としてだ。アルバニアへ出発する時、マリノフスキー[訳註;恐らく当時のソ連軍元帥マリノフスキー(Р. Я. Малиновский)]がヨーロッパの地図を指してこう言っていた:我々にとってこのヴロラの基地がどういう意味を持つか、君にはわかるかね?以前はスペインやジブラルタルを攻撃するためのミサイルをドイツに置くしかなかったが、今それはここにある。ここならスエズに向けたミサイルだって設置できる。ジブラルタルとスエズか、とその時ジェレズノフは考えていた。自分がヨーロッパの鍵を握ることになるのだ、と。
 それが今や、我々はヴロラを去る用意が出来ている、彼は思った。できるわけがない、少ししてそう付け加えた。それは自殺行為だ。
 彼のテーブルの上には、アルバニア兵とソヴィエト兵とのいざこざや、時には乱闘騒ぎの後に出されたあれこれの記録文書や調書類、議事録があった。
 くだらん紙屑[訳註;旧版では「お役所仕事」]だ、とジェレズノフは思った。
 彼はイライラしながら短い報告書をまとめ、三つの案に関する彼の意見を表した。彼は基地の制圧に賛成だった。迅速かつ最小限の損失でそれを行うことができると彼は誓言した。だがもし基地を放棄せよと指示された場合は、それは・・・それはたやすいことだ。彼はふっと考え込んだ。たやすいことだ・・・ロシア軍のみの潜水艦と船舶もあれば、両軍共用の艦船もある:つまりアルバニア軍とロシア軍だ。前者には何の問題もないが、後者は・・・だがそれでも、大した障害ではない。彼は急ぎ足で書いていった:『全ての水中及び水上艦船の基地からの撤退には何の困難もない』この文言を読んだ官僚どもはどんなにか歓喜することだろう、と彼は想像した。そうだ、これこそ最良の選択なのだ、と彼らは叫ぶだろう。ジェレズノフは激しい怒りを覚えた。彼はこう書きたかったのだ:基地からの退去は不可能だと、しかし嘘は書けない。だがそれでも、彼は『何の困難もない』を消し、その上に『深刻な問題はない』と書いた。実際のところ、困難はあるだろう。それも大きな困難だ。彼はそう思っていた。彼は窓際に近寄った。遠くからダンスの音楽が聞こえる。それは、彼がずっと前から遠ざけられている世界だった。
 アルバニア軍司令部の部屋の窓には明かりが灯っていた。ジェレズノフが目をやると、七年前から基地の指揮を執っているアルバニア人将校の、痩せた細長い顔が見えた。向こうも今夜は地図と首っ引きで仕事中だ。たぶん彼もあの音楽にご立腹だろう。たぶん彼もジェレズノフと同じように例の問題を考えているだろう、ただし全く逆方向に。ジェレズノフにとっての歓喜は彼にとっての憂鬱であり、彼の勝利はジェレズノフの敗北となるだろう。一方の頭が上がれば、相手の頭が下がる、賭け札の点数と同じだ。両者は共通の運命と結び付いていた。二人は互いに重複し合っていた。最近、基地では何もかもが重複していた。どのアルバニア人の傍らにもロシア人がいた。潜水艦も、警備兵も、その詰所も、貯蔵庫も、本部も、何もかもが双頭の生物の中にあった。そして殆ど神話じみたこの骨組み全ての頂点に留まっているのが、ジェレズノフ=アルバニア人指揮官という、ふたつ首なのだ。
 困難となろうことは当然だ。死に至る瞬間には、この双頭の生物は電光石火の如く、互いに噛みつこうとするだろう。死に至る瞬間には、とジェレズノフは繰り返した。切り離される瞬間には。
 アルバニア人は思慮が足りない。国防省に呼ばれた時、最初に言われた言葉がそれだった。だがこのジェレズノフもまた、思慮の足りないところが全くないというわけではない。まさにその理由によって、彼は選ばれたのだ。
 彼は選ばれた・・・彼はクレムリンでの、共産主義者の首脳たちが一堂に会した[訳註;旧版では「81か国党会議の」]盛大な晩餐会を決して忘れないだろう。彼が政府の晩餐会に呼ばれなくなって久しい。英雄たちは忘れられつつある、そう彼は一人ごちた。英雄たちはもはや必要とされていない。彼のキャリアは下り坂だった。精神状態の落ち込みと、また時として悲しみとに絶えずさいなまれたが、それは彼自身の死と死亡記事と埋葬を想像していたせいであり、もしもそうなった時には皆、彼を長らく顧みなかったことを後悔するだろうが、その時にはもう手遅れなのだ。嗚呼、と彼はつぶやいた。お前たちの時代は終わったのだ、ジェレズノフよ。ゼーロウ高地はもはやなく、お前の運ももはやこれまで・・・ところがそこに突然、クレムリンへのご招待だ。彼はその時まだ何も聞かされていなかった。彼は上機嫌だった。退屈を抜け出した彼の頭上で、シャンデリアが金色の埃を舞い上げた。そこで初めて彼は或ることを知った。社会主義陣営で最も小さな国が反乱を起こし、分裂しようとしている。ハハハ、とジェレズノフの同僚たちは笑いながら、招待されたアルバニア人たちの小集団を横目にちらちら眺めていた。本当に奴らが分裂するかどうか、見てやろうじゃないか・・・ハハハ。その三日後に国防省に呼び出された時、彼には予感のようなものがあった。ジェレズノフ、君にはアルバニアに行ってもらう。かの地の状況は深刻だ。かの地で君には、我々の手から奪われつつある基地を救い出して欲しい。基地は私の首を賭けて責任を取る、とジェレズノフは声を上げた。彼はまるで酩酊したようだった。彼の人生の中でゼーロウは既に日没を迎えていたが、運命は彼にパシャリマンを残しておいてくれたのだ。彼の人生で二度も、運命は丘陵地の形をとって姿を現した。巨大な、背中を丸めた生物、それが彼の前に広がっていて、ジェレズノフによって名誉と死で覆われるか、さもなければ彼の背に一生の恥辱を負わせるのを待ち構えていた。
 窓から薄暗い水平線が見えていた。パシャリマンか、と彼は思った。この高地に、まるで脱皮した蛇のように、その名を残してここを去ったトルコの将軍とは一体何者なのだろう?
 テーブルの上、大量の書類の傍には、二言語で書かれた『パシャリマン海軍基地年代記』もあった。ジェレズノフは何度かその年代記をパラパラめくっていたが、気付かぬうち、どんどんそれにのめり込んでいった。何か彼には引っかかるものがあった。そこにあるのは復元された、数千年近く前の古文書。当方支配の足掛かりとして占領したばかりのオリクム基地改修に関する、ローマ元老院の決定。暴風雨の夜のカエサル上陸。そのカエサルが操舵手に語った有名な言葉:案ずるな、汝が載せているのはカエサルである[訳註;この言葉は作家Jules Lacroixの戯曲Le Testament de César(1849年)中に見られるが、ラテン語の典拠は不明。ちなみにフランス語では“ne crains rien, tu conduis César et sa fortune”)]。この地を原因とする、アルバニア人諸侯とビザンツの衝突。ヴロラのパシャリマン軍港、すなわち欧州支配のための主たる港を開くことに関して、栄光あるスルタン・スレイマンの印章を付した高位なる門[訳註;オスマン朝政府を指す]からの勅状[訳註;原語fermanは本来トルコ語だが、ペルシア語ファルマーン(farmān)に由来し、イスラーム王朝における命令書の類を指す]。その他様々な書状:指揮官の任命または解任に関する皇帝の勅令;中央から派遣された監督官らの費用計算[訳註;旧版では「糧食の受け取り、紛争時の対処手続き」]、気温や風に関するメモ。二十世紀初頭の基地の記録。ムッソリーニの訪問。ドイツ軍の到着、機雷設置、機雷撤去。パシャリマン基地を、世界のこの部分における社会主義陣営の最前哨地に引き戻すというワルシャワ条約機構司令部の決定。年代記はそこで途切れていた。
 ジェレズノフは年代記から目を上げた。一瞬、自分がこの記録を読む気がしなかった理由がわかったような気がした。彼をひどく苛立たせたのは、この基地の古さだった。ここはクレムリンより千年余りも古い。単に苛立ちだけではなかった。その中には不安定さもあった。ジェレズノフは年代記をテーブルから取り上げ、そして元の場所に戻した、もうそのページをめくることはないと確信しながら。
 外は、海岸線と沼地の境界との仕事を終わらせるかのように、黄昏が急速に周囲のあらゆるものを消し去りつつあった。音楽は鳴りやまない。クレムリンより、ロシア建国の礎よりも古いのか。おいおい、と彼の内側で何か声がした。彼には、自分がこの世で許される範囲の埒外にいるような気がした。歴史を超えた領域、影の大地、ロシア人のことをまだ誰も知らない場所にいるのだ。クレムリンなき、すなわち均衡なき世界に、自分ただ一人。あともう数歩で、神話混じりの暗闇に突っ込んでしまいかねなかった。
 ジェレズノフは首を振った。生から取り除けられたこの数年間で、彼の魂は衰弱しきっていた。そればかりか、退屈に追い立てられて、かなりの量の本を読んでいた。彼は基地の地図の前に立って、それら全てから気を逸らそうと努めた。徐々に彼は自分を取り戻した。基地で起こり得る衝突、その諸段階に関する想像、時期や損害や、世界に響くであろう騒擾の予測、それら全てを彼はすっかり飲み下しつつあった。
 パシャリマン、と彼は二度、三度繰り返し呟いた。彼の口はその名前にまるで馴染んでいなかった。パシャリマン、と彼は再び、まるで難しい単語を憶えようと努力する人のように言ったが、その時、この丘陵地帯をそう呼ぶ冬は恐らくこれで最後だろうという思いがよぎった。新たな草木が芽吹く春には、恐らく、草木もろともその名が変わっていることだろう。ジェレズノフ=リマンか、或いは単にジェレズノヴォか、それがここの来たるべき名だ、すんでのところで彼は声に出すところだった。そう、何世紀もだ。

 何も気にしないまま沼地[訳註;旧版ではbërrëkëだが、決定版ではbarrakë。ちなみに「バラック」ならbarakë]を横切って、ベニは、オーケストラが鳴り響く方へと向かった。クラブの窓は全て光り輝いていた。黄色くきらめく欠片がぬかるみの上に散らばって、まるで無造作に放り出された金装飾品のようだった。その中には押し殺された羨望があった。ベニの頭の中をすっと横切ったのは、ありとあらゆる種類の女子寮の鉄の門だった、その門の向こうの、年老いた守衛を越えた先は、こういうぬかるみに事欠かず、そのぬかるみの中に宝石屋[訳註;ぬかるみに映ったクラブの照明を指している]があり、その奥底にオーケストラがあるのだ。
 ベニは近付いて中を覗いた。そこではダンスをしていた。窓ガラスの水滴が、中でひしめき合っている人々の形を様々に変えていて、あちらこちらで目や髪の毛や手足が点々と散らばり、ぐにゃぐにゃとうねっている。あらゆるものがワックスに封じられているようだった。仲の良いことだ、と彼はつぶやいた。音楽には何処かしら浸食してくるようなものがあった。ベニはティラナを懐かしく思った。沼地からは湿りきった風が吹いてくる。ベニはやっと窓から離れると、建物の周りをぐるりと歩いて入口を見つけた。
 中は暖かかった。廊下も二階に続く階段も将校に兵士に、そしてそこかしこ女たちで溢れ返っていた。ダンスホールの扉は開いていて、外から踊っている連中の姿が見えた。ベニの足はダンスホールに隣接した、もう一つ小さな部屋へと向かった。そこはバーになっていた。並んだ小さなテーブルでみな立ったままコーヒーとコニャックを飲んでいる。その中に女たちもいる。ベニはカウンターへ近付き、自分の番が来るのを待った。何を頼んだらいいかわからなかった。とりあえずタバコでいい。彼は注意力がすっかり散漫になっていた。恐らく音楽のせいだろうか、それともこの喧噪のせいか。
「コニャックを頼むのか?」ベニの傍にいた誰かがぎこちないアルバニア語で言った。ベニは振り向いた。くりくりした瞳で、鼻と目の間にそばかすを散らしたロシア兵が一人。軍帽を斜にかぶっている。
「タバコを」ベニは言った。
「ああ、タバコ」相手が言った。「コニャックを頼むと思った」
「いいや」ベニは言った。
「僕も飲まない」その兵士が言った。「でも今夜は酔っ払うことに決めた。どうしてか、と君は言うかい?」彼は軍帽を右手で摑み、額にぎゅっと押し付けた。「つまらないことだ」
「ふむ」とベニは言った。彼は、挑発者から身を守るよう指南されたことを思い出した。
「実は僕に原因がある」相手は言った。「ほら、今日、手紙を貰った」彼は上着[訳註;旧版では「ズボンのポケット」]に手をやり、くちゃくちゃになった一枚の紙を取り出した。
「モスクワからの手紙、恋人からの。手紙はまるでいつも通り。愛するユーロチカ[訳註;ユーロチカ(Юрочка)は男性名ユーリー(Юрий)の愛称]、私は寂しくてたまらない、ああだこうだ、あなたが帰ったら、また一緒のネスクチュニー庭園へ行きましょう[訳註;ネスクチュニー庭園(Нескучный сад)はモスクワで最も古い緑地公園]、あなたを抱き締めたい、あなたにキスしたい、ああだこうだ、全部いつも通りだ、兄弟よ、でもそれなのに、ああ、それなのに、何か気になるんだ。読み終わってすぐ僕はこう思った:タニョーチカ[訳註;タニョーチカ(Танёчка)はタチアナ(Татьяна)の愛称]は僕を裏切った。僕はすぐに立ち上がって、酔っ払うためにここへ来た。どうだい?」
 ベニは肩をそびやかした。相手はグラスをぐいとあおった。「あいつら[訳註;ここの代名詞は女性複数形]は裏切った、兄弟よ、あいつらは裏切ったんだ。プレハーノフの言う通りだ:裏切りよ、汝の名は女なり」
[訳註;恐らくロシアの哲学者プレハーノフ(Г. В. Плеханов)を指しているが、上記の台詞はハムレットの「弱き者よ、汝の名は女なり(Frailty, thy name is woman)」のもじり]
 ベニはくすりと笑った。
「どうして君たちは政治局員を追放した?」と相手が全くだしぬけに訊いてきた。「それも女だったんじゃないか。僕のタニョーチカのように」
 ベニは口をぽかんとさせていた。そんな無遠慮な言葉[訳註;旧版では「挑発」]が公然と表に出てこようとは予期していなかった。
「さあね」とベニは言った。
「さあねとは何だ?君は知っている、でも君は言いたくない」
「かもな」ベニは言った。「言いたくないね」
「どうしてだ?」相手が言った。「ほら、君こそ僕のところの政治局のことを訊いてみろよ、そうしたら僕は知っていることを、何もかも言うよ。どうだい?」
「嫌だね」ベニは言った。
「訊いてみろよ、そうすれば僕が答えないかどうかわかる」
 「君たちの政治局と俺と何の関係がある?」
「勿論ない。でも、例えば政治局の話だよ。そうだ、例えばブルガーニンのことを訊いてみろよ、そうすれば僕が知ってることを言わないかどうかわかる。僕はああだこうだ言わない。僕ははっきり言う」
「ブルガーニンと俺と、何の関係が?」ベニは言った。
「ない、でも例えばの話だ。ブルガーニンは気に入らないか?じゃあマレンコフのことを訊けよ、それとも・・・キリチェンコのことを」
「ああ、そうだな」とベニは言った。「キリチェンコのことは俺も心配だ」
「結構、それじゃあモロトフだ」相手が言った。「大したことじゃないなんて言わせないぞ」
[訳註;恐らくフルシチョフ政権下で共産党第二書記だったアレクセイ・キリチェンコ(А. И. Кириченко)を指している。ブルガーニン、マレンコフ、モロトフについては第2部参照。なお4人とも1960年代に入るまでに失脚している]
「嫌だね」ベニは言った。
「どうして?」
「嫌だね、以上」
「おやおや」と相手は言って、軍帽をかぶり直した。「嫌だ、嫌だ、それは君の問題。僕が何か悪い目的があって訊いていると、君は思っている?つまらないよ、なあ兄弟、つまらないよ。うんざりするよ。人間は心を開く必要がある。ああ!何の話をしたらいいか。僕たちはもうすぐいなくなるらしい。君は何か聞いているか?」
 ベニは肩をそびやかした。もうたくさんだ、と思った。もううんざりだ。彼は相手から離れる口実を探そうとでもするように斜め横を見やった。するとその時、カウンターに近付いてきたのっぽの男が鼻歌を歌い出した:
    モスクワ、ティラナ、ロス・アンジェルス
    一つになりしはコルホーズ。
「ええ、一つになるだって?」カウンターで飲んでいた一人が言った。「どういう意味だよ、一つになるってのは?」その男が振り向いたのでベニが目をやると、あの赤ら顔の技師だった。完全に酔っ払っているらしい。
「細かいことは気にしない」のっぽが言った。
 ベニはタバコを買わずにその場を離れた。彼はタバコの吸い殻でいっぱいの灰皿が置かれたテーブルの傍らに立った。バーは人声で溢れ返っていた。隣のホールのオーケストラが終わったところで、バーの入口に新しい客たちがどっと流れ込んでいた。その中にベニはあの、自分が到着した初日に、酔っ払いの技師と一緒にいた美しいロシア女を見つけた。まるで興味なさげに彼女は周りを見ていたが、やがてテーブルの上に視線を落とした。ウェーブのかかったハシバミ色の髪がテーブルの上に垂れさがっている。隣のホールではオーケストラが再び演奏を始めた。ベニはタバコの必要を感じ、再びカウンターへ移動した。そばかす顔の兵士はまだそこにいた。ベニは半ば背を向け自分の順番が来るのを待った。だがすぐに、気にするだけ無駄だと気がついた。その兵士は今、技師に張りついていたのだ。技師はその相手に憤懣やるかたない様子だった。
「だから言っただろう、嫌だ、以上」技師は激しく頭を振り回し、大声を上げた。両目はらんらんと輝いていた。
「俺だったらそんな大それたことは訊かないぞ、その、何だ、キリ、キリ、キリチェンコのことなんか訊かないぞ。ふん、お笑いぐさだ」
「ああ、何て薄情な[訳註;直訳すると「つるはしの心」]人だ」兵士は溜め息をついた。
 ベニはようやくカウンターの真ん中に近付いた。彼がいたのは技師の横だった。技師の両瞳はすっかりどんより曇っていた。
「お笑いぐさだ」技師は軽蔑したように唇を歪め一人でぶつぶつ言っていた。
「タバコひと箱」とベニは給仕に向かって三度も言った。
「どうなってるんだろうなこれは?」技師はまだつぶやいていた。「アルバニア語を喋ってる奴もいれば、ロシア語を喋ってる奴もいる。バベルの塔だな、まさしく」
「塔なんか知るもんか[訳註;直訳は「お前のお袋の塔」]」そばかす顔の兵士はそう言うと、もつれ足で出て行った。
 技師は低い声で唄い始めた。
    偉大なるソヴィエトの作家
    レフ・ニコライチ・トルストイ
    [訳註;正しくは「ニコラエヴィチ」]
    魚も食わず、肉も食わず、
    素足で庭を散歩する。
 給仕はやっとベニに気付いて、金を受け取った。技師はずっと一人で喋り続けていた:
「迷宮の中に本当に怪物がいるとお前は思っているのか?ハッハッハ!お笑いぐさだ!俺は技師だぞ。この俺をミノタウロスの無駄話なんぞで騙せるものか。ミノタウロスなんてそこにはいなかったんだ。迷宮なんてただの建造物だ、中にあったのは銅の製錬炉だ[訳註;クレタ王ミノスは妻が牡牛と交わって産んだ牛頭の巨人ミノタウロスを迷宮に封じた、という伝説を指している]。炉は隠されていたんだ、何故といって銅の製錬はその時代、今で言えば原子に関わる秘めごとだったからさ。そして、それを動かそうと入っていった者は、二度と出て来なかった。ミノタウロスに食われたんだ、と言われてな。そうだ、そういうわけだ。抜け目のないギリシア人がそう言っていた。信じないかい?なら好きにするがいいさ。駄目だ、駄目だ、駄目だ。勘弁してくれよ本当に。どんなことにも限界があるんだ。イレーナ・グラチョヴァだってそうだ。素晴らしきかなイレーナ・ミハイロヴナよ。イレーナ・メネライェヴナ・アガメムノヴナ[訳註;イレーナに、ギリシア神話の英雄メネラーオスと、その兄アガメムノーンの名を組み合わせ、なおかつロシア語風に読んでいる]よ。戦争の恐怖の元凶よ。英雄なるトロイアの愛すべき女たちよ、ソヴィエト女性同盟[訳註;ソヴィエト女性委員会(комитет советских женщин)のことか]の名の下に、燃える炎のごとき挨拶を送ろう・・・その闘い・・・感動的な例とか、その他、その他。嗚呼、全部わかってるんだ俺たちは。何もかも、俺たちがこの罠からどうやって抜け出すかにかかっているんだ。だってもし、あんたの家から妻が出て行ったからって、何で全面戦争にならなきゃならないんだ?どうしてだ、教えてくれ。そうだ、こう考えてみたらどうだ、我らがニキータ・フルシチョフがアメリカ合衆国大統領の妻を奪ったとしら、或いはその逆で、アメリカ大統領がニキータの妻を奪ったとしたら、ワルシャワ条約機構の全ての国が戦争に突入する羽目になるのか?英雄なるトロイアの愛すべき女たちよ・・・こりゃお笑いぐさだ。千倍もお笑いぐさだ。嗚呼、俺たちは破滅しようとしているのに、誰も俺たちのことに気付かない。会談。会談。会談だ。潜水艦を分け合う、だと。何故だ、基地は半分に分けられるケーキだというのか?どうやって?潜水艦は誰のものだ?誰のものでもない。海に潜ったら、二度と上がってきやしない。そりゃジュール・ヴェルヌのものだ。何遍説明すりゃいいんだ?何遍説明すりゃいいんだ、アンタイオスは低血圧に悩まされていたから、力を得るために何度も地面に寝そべる必要があったんだって。[訳註;アンタイオスはギリシア神話の海神ポセイドーンの息子。地面に足をつけていないと力を発揮できない弱点をヘーラクレースに見抜かれ、倒された]そんなこと田舎の藪医者だって知ってるぞ。馬鹿どもめ。嗚呼、俺たちはこの罠で死んでいくのか」[訳註;泥酔技師の頭の中では、神話上のトロイア戦争と「米ソ冷戦」が混同されている。なおロシア名イレーナ(Елена)はトロイア戦争の原因とされるヘレネー(‘Ελένη)に由来する]

 空はこの一週間ずっと曇り模様だったが、まるでそれが日曜日の習わしでもあるかのように二、三か所だけ雲が晴れていた。海はと言えば、空で起こっていることを繰り返しているかのように、あちこちに白く泡立った波が立っていて、それが人々を気安く、かつ近寄り易くしていた。だがそれも長くは続かなかった。空は急速に雲で閉ざされた。海面の泡立った波も褐色に汚れ、九時頃にはすっかり消えていた。今はもう、空と海の両方とも、どちらともつかないものと化して、すっかりよそよそしいものになっていた。
 その日、来たばかりの新兵たちはアルバニア人もロシア人も、午前中初めての自由時間だった。海岸通り1番も、沼地大通りも、劇場通り(円形劇場の遺跡裏の小路はそう呼ばれていた)も、警備兵詰所と沼地の間の荒れ地も、どこもかしこも人の声とそぞろ歩きに満ちていた。ベニは仲間数人と「ロシア村」を散歩していた。木造りの家々のヴェランダで小さな子供たちが遊んでいた。
「ほら、イレーナ・グラチョヴァだよ」と誰かが言った。
 彼女は窓際に座って通りを眺めていた。その体内、胸の谷間かその下の辺りで静かに炎が燃えていて、その光の輝きが間接的に瞳の表面に反射しているように思われた。だがその時、彼女が兵士たちに気付くと、瞳の輝きはたちまち消えてしまった。彼女は半ば不安げに兵士たちを見つめた。
「あ、いなくなった」彼女が窓の奥に姿を消すと二、三名の声が上がった。
 彼らはまた彼女が出て来るのではないかと待っていたが、その期待も無くなると、円形劇場の方へ行くことにした。
[訳註;旧版では、窓の下でベニと地方出身の兵士たちが男女関係について長々話しているのだが、決定版では全て削除]
 円形劇場の石段のところで、ベニは自分が俳優学校の入試に落ちた話をした。一同は笑い転げた。彼らはしばらく石段と、水に浸かった舞台の間をぶらついた。湿った石造りのアーチの下をくぐる者もいたが、そこは見世物で負傷した剣闘士の応急手当てをする場所だと言われていた。
 円形劇場を出ると、ベニたちはしばらく沼地のほとりを歩き、老パシャの墓まで足を運び、それからクラブに戻ってタバコを買った。誰かがグラマフォン[訳註;要するに蓄音機。グラモフォン]をかけた。まだ土曜日のタバコの匂いが残っていた。兵舎へ向かって歩いていた時、ベニは自分の名が呼ばれているのを耳にした。痩せぎすでブロンドの兵士が一人、全員に呼びかけていた。
「アルベン・ストルガ、誰かアルベン・ストルガを知らないか?」
「僕だ」ベニが言った。
「君に電報だ」兵士は目も合わせずそう言った。
 ベニは一瞬、自分の中の何処かに痺れを引き起こすような衝撃を覚えた。足が自然と兵舎の扉へ向かった。彼の両手が、今しがた郵便係が持ってきたばかりの手紙や葉書の束をかき回した。パシャリマン。パシャリマン。それがここにあった。死のような黄色。ベニは殆ど気付いていた。文字が小さく、薄い行の上に並んでいる:チチ シス ソウギ ゴゴ ベスニク。
 ベニは電報を持ったまま、その小さな文字が紙の上で動き出すのを待つかのように、しばらく目の前にかざしていた。だが文字は石の上のように固まったままだった。永遠に。死んだ。もう何も変わらない。

 反対車線を駆け抜ける、泥だらけのトラック、荷車、列車、騾馬。冷たい風が吹いていた。ベニはコートを身にまとい、そして何も考えていなかった。死の通知を受けた一時間前にもみくちゃにされ、バラバラに砕かれた彼の身体は今、この寒風の下で凍りついたようになっていた。何処かしら遠い、彼の外側、何かしら虚空の淵から、頭を押さえつけられているようだった。彼がその名も知らぬ小さな町々が、続々と後方へ取り残されていった。
 彼がティラナに着いたのは三時だった。町はよそよそしかった。みな早足で映画館やカフェへ向かっていた。ベニは人々の間を急ぎ足で通り抜けたが、何度も何度も転びそうになった。ブーツの底が舗装した路面でつるつる滑った。
 ベニの家があるアパートの建物の前には、バスが二台、それに乗用車、たくさんの乗用車と、そこから少し向こうに黒い霊柩車が見えた。階段のところに人が集まっている。ベニはその人たちの視線とささやきを感じ、そちらに顔を向けないまま、階段を上がっていった。二、三、四・・・荒い息遣いでこわばりを解き放った。膝がどうにか持ち上がった。ドアのところには大勢の人がいた。それが彼を見るや様子が変わるのがわかった、人々は顔を上げ、互いにささやき交わし、彼に道を開いたが、彼はその人々の中に、頭に黒い布を巻いたミラの姿をみとめた。
「ベニ」と声を上げてミラはベニの首に手を回した。その顔が涙で濡れているのがわかった。顔色は青白かった。ベスニクも同じだった。ベスニクは彼を抱擁すると、男たちのいる部屋に通した。そこではベニはもはや何がどうなっているのかわからなくなった。部屋はベニに挨拶しようと伸ばされた手でいっぱいだった。それからベスニクはラボに挨拶するように告げ、彼[訳註;この3人称代名詞がベスニクとベニのどちらを指すか微妙だが、独訳ではベニと明示されている]は再び立ち上がった。死者の棺は別室に、まるで障害物のように幅広く、細長く広がっていた。
 ラボはベニの手を取り、泣き出した。女たち数人も声を上げて泣いていた。その中にゼルカもいた。ドアのところにベスニクの姿が見えた。彼は何か言ったが、ベニには聞き取れなかった。それからベスニクはベニの手を取り、再び男たちのいる部屋へ連れて行った。ベニはそこに大いなる静寂があるように思われた。タバコとコーヒーの匂いと低い話し声が、秘密めいた、そしてくつろいだ感じを生み出していた。誰かがタバコを差し出してきて、ベニはそれを受け取った。客の殆どはベニの見知らぬ顔だった。そこでやっと彼は、自分が座の中心にいるのはベスニクと一緒だからだと言うことに気付いた。みなしごだ。ドアの向こう、ミラの黒い頭布が再び目に入って、思わず叫び声を上げそうになった。ベニ自身の中でそんな黒い色の蝶が何百匹と飛び回っていた。と不意に、部屋の中で続いている会話に気がついた。それは奇妙なものに思われた。実際、信じがたいものだった。受け入れがたかった。
「今の雨は小麦に悪い。少なくとも二週間は天気がよくないと困る」
 ベニは自分の耳が信じられなかった。彼は相手の方を見た。それからベスニクの方にも。誰もその会話を止めようとはしなかった。
 どうかしてる、とベニは思った。信じられない。こいつらはわざわざ天気の話なんかしている、こんな・・・こんな時に・・・ベニは立ち上がろうとしたが、余りにも疲れていた。
 その小麦についての会話の途中で、別の一団がぞろぞろ入ってきた。人々は別の場所に詰めた。椅子を持ってくる者たちがいた。誰かが言った;こちらにお掛け下さい、閣僚同志。
「だが何故こんなことに?」今来たばかりの一人がベスニクの方を向いてそう訊ねた。
「わかってはいました」ベスニクが言った。「にしても早過ぎました」
 俺はわかってなかったぞ、とベニは思った。
「君たちが彼の治療をしていたんだろう?」と誰かが、目をきょろきょろさせている男の一人に訊いていた。
「ええ」その男は答えた。「レーザーで」
「私の知る限り、君たちの病院には新しい照射装置が入っているはずだが」閣僚が言った。
「ええ」医師が言った。「もう三か月になります」
「結果はどうだったのかね?」
 医師は両手を広げてみせた。
 結果って何だ?と思ったベニの脳裏に稲妻のようにちらりと、別室の棺の黒い線が走った。
 誰かがベスニクに何かを囁いていた。ベスニクは時計を見た。人々は今度は病院の設備について喋っていた。ミラがゼルカと一緒にコーヒーを運んできた。ベスニクがまた時計を見た。ドアの向こうに立っていた中の一人が、入ってきてベスニクに何か言い、ベスニクはずっと耳を傾けていた。ベスニクは『そうだ』という風にうなづいた。他の者たちも時計を見た。数人が立ち上がった。そんなに早く?とベニは思った。周囲の全てが動き出した。誰かがベニの腕を摑んだ:
「君もおいで」
 ベニは集まった男たちと共に、死者の部屋にいた。やっとわかった・・・自分は死者の棺を担がなければならないのだ。女たちも立っていた。ベスニクが最初に身をかがめ、鉄製の持ち手の一つを摑んだ。
「向こう側を持って」とベニに言う声がした。ベニは前に出て、取っ手の一つを摑んだ。他の者たちも同じようにした。棺桶が床から持ち上がった。誰かが言った:こっちだ、こっち側に回してくれ。女たちがわっと泣き叫び始めた。ベニの両足は、靴底が罠にでも嵌ったように動かなかった。それは逃れ出ようと必死でもがき回っていた。狭い廊下で苦痛はいや増し、耐え難いものになった。それは絶えず擦れ合う黒い喪服たちだった。棺桶の四隅が壁とぶつかった。誰かが電話にぶつかって、電話機が短く、半ば人間じみたため息を発した。やっとのことで死者の棺は、ぎこちない動きと共にドアから出た。
 ドアのところでは女たちの嗚咽が壁のように立ちふさがっている。彼女らは階段を降り始めた。斜面を下る。すると急に、死者は重くなり、人々は足をとられ、その一瞬、死者が全員を地面の下へ、地の奥深くへ連れていこうとしているように思われた。
 階段を降りたところで全てが静寂に包まれた。アパートのあちこちの窓から数十人[訳註;旧版では「数百人」]が顔を覗かせていた。[訳註;旧版ではここに「並んだ車のエンジンが点火した」の一文がある]棺桶は役場の黒い霊柩車に載せられた。並んだ車のドアが乾いた音を立てて開閉を始めた。誰かがずっと呼んでいた。ベニはしばらくの間、ぼんやりとその場に立っていた。彼はもう一度階段を上がってラボを探そうと思ったが、誰かに腕を引っ張られ、半ば強引に、車の中に押し込まれた。そこはベニの見知らぬ顔だらけだった。傍らで動き出した別の一台の窓際に、ベニは黒い頭布をつけたミラの頭を見つけた。死の隊列[訳註;葬列のこと]が出発した。
 外に見える町は水槽の中のようだった。無数の通行人が歩道沿いを、バス停車場の間を、カフェや薬局や貯蓄銀行の看板の下を、日曜日の映画のポスターの下を、様々な時計の文字盤の下を歩いていて、それらが、静かに終わりつつある一日の、陽の光に照らされて浮かび上がっていた。葬列は、ストルガからすれば永遠に閉ざされたこれら全ての営みの中を通り抜けていった。そして[訳註;旧版ではここに「『フリードリヒ・エンゲルス』通りを後にして」とある]松の並木通りを抜け、首都の西にある墓地[訳註;旧版では「第二墓地」]へ続く道を走り続けた。
 墓地は広大だった。乗用車とバスは長い時間その中を走っていた。そして再び車のドアのばたんと鳴る音がして、ベニは外に出た。まさに町のこの片隅、向かい側の丘陵に、かつては女王の母親の墓があり、自分の父がそれを爆破したのだということを思い出した[訳註;第1部でそういう話題が出ている]。もしそうしていなかったら、父はどこかその辺で老女王とお隣さんになっていたことだろう、とそんな思いがベニをよぎった。
 一方、皆は同じ方向に、見えない何かに向かって進んでいった。そして人々の大きな塊は立ち止まった。ベニの前に背中でできた一枚の壁があった。前の方では何かが行われていた。途切れ途切れの言葉が、まるで幹から削り取られた木屑のように、その周りを飛び交っていた・・・ストルガ同志・・・我々のもとを離れ・・・戦争で・・・共産主義者の・・・何故ならば・・・絶えず闘いの中で・・・忘れがたき・・・
 言葉は終わったが、背中たちは微動だにしなかった。前の方でまだ何かが行われていた。ベニは人々が動き出すのを感じた。話し声が聞こえた:息子がもう一人だ、二人目の息子だ。彼らが自分のことを探していたので、ベニは一歩前に出た。ようやくベニに気付いた彼らは道を開け、前方へと押しやった。うつむくベスニクの、蝋のように黄色い顔が見えた。墓だ。誰かがその上にかがみ込み、休みなく動いていて、二、三人がそれを手伝っている。ベニは理解した:あれは死者を降ろしているのだと。それからベニは、ベスニクが身をかがめ、掘り出されたばかりの土の塊に手を伸ばすのを見た。父のシャツの袖が・・・
「土をひと握り入れて」と誰かが耳元で言った。
 ベニは身をかがめた。土は冷たかった。彼は塊を摑み、それを投じた。土の塊は音を立てて棺桶の板に落ちた。さてどうする、という思いがベニの心をよぎった。ひとしきり彼は、自分が下に降りて、不注意に父の上に投げかけた土の塊をもう一度取ってこなければならないような気がしていた。だがその間にも、何十本という手がその上に土の塊を放っていくのだった。しかもそれではまだ足りないかのように、人々の手の間から何かしら平らな、目に見えない、金属製のものが素早く、待ちきれないように、山のような泥土を、今しがた埋葬されたばかりの人の上に投げかけていった。それは一本のシャベルだった。

 半時間もすると誰もいなくなった。ま新しい土の山の上に、一時しのぎの板が据えられていた:『墓碑番号34 592 ヂェマル・ストルガ、享年54』。陽の光がずっと高地を照らしている。岩地を降りていく羊の群れが、まるでそこかしこに真っ白な毛の筋を残しているように見える。
 その下、丘の麓に町が見える。灯りがついている今、それは一層遠くにあるように見えた。自分の眼が自分のものでないかのように感じながら、ベニは父の墓碑銘を右へ左へと読んでいった。痛みの中で、彼の頭の中をずっと占めて離れなかったのは、町の人々にはこれまで通りの隣人たちがい続けているのに、父は今夜からずっと、別の隣人たちが一緒なのだろう、という思いだった。
 それはたまたま居合わせただけだが、しかし変わることのない隣人たちだった。その隣人たちの傍に、ストルガは二、三世紀も横たわり続けるだろう。だがもし、この町がこちらの方向に拡張してこなければ、更に長くここに留まるのかも知れない。恐らく五、六世紀。恐らく何千年。

3
 葬儀に参加した人々の一部は、再びストルガ家のアパートに戻ってきた。到るところに絶えず人の出入りがあった。ベニはというと、男性客たちが控える居間で、ベスニクの傍らに座っていた。ベニはまだ、トラックでの移動の間にあちこちが泥だらけになった丈の長い軍用コートを着たままでいた。葬儀から戻ったら普段着に着替えるつもりだったのだが、アパートの中は至るところが変わっていて、何も見つけられなかった。男性客たちは再びタバコとコーヒーを飲みながら、あれこれ喋っていた。その中にベニはクリスタチを見つけた。彼は足元を見つめたまま何か考えている風だった。みんな何処かしら馴染んでいるな、とベニは思ったがその時、ザナの姿が何処にも見当たらないことに気付いた。リリもいなかった。
「いつ戻る?」ベスニクが小声で訊ねてきた。彼がベニに訊いてきたのはそれが初めてだった。
「明日」とベニは言った。
「向こうは、その・・・非常事態なのか?」
「うん」ベニは言った。
「ゼルカが言っていたことだが」
「ひどく苦しんだのかい?」ベニが不意にその会話を遮って訊ねた。
「ああ」ベスニクは言った。「何度かお前のことを訊かれたよ」
 ベニは言うべき言葉が見つからなかった。
[訳註;旧版ではここでベスニクとベニが「父は心配していた。基地の事情を聞いていたからだ]「父の友達には将校もいたから、何か聞いていたのだろう」「そうかも知れない」と語り合っている」
 居間にまた別の一団が入ってきた。彼らはベスニクの方へ進むと、抱擁を交わした。他の客たちが挨拶をしている間、ベニの方を見て目くばせする者がいた。
「あれが次男だ」と小声で説明している。
 彼らもストルガの臨終の様子を訊ねていて、ベスニクもそれに答えながら、レーザー治療にあたった医師を目で探していた。医師はずっと部屋の隅にいた。
[訳註;旧版ではここで、ベスニクの同僚や編集長も入室して、葬儀前にしていた会話の続きを始めるくだりがある]
 スカンデル・ベルメマが、妻であるザナの叔母と共にやって来た。彼らの後に入ってきた老将校が拳を挙げた[訳註;右肘を曲げ、拳を肩の位置まで上げるパルティザン式の挨拶のこと。なお旧版では、ベルメマ夫妻の後になお数名の男たちが入室していること、それはベニがベルメマ宅で見かけた顔ぶれであること、老将校はその中の一人であり、パルティザン式の挨拶は軍の階級廃止に伴い再導入されたこと等が書かれている]
 ベニの目に、部屋に入るのを躊躇っているらしいマクスの姿が映った。とその時ベニが思い出したのは、そのマクスが墓地でサラや「全般的危機」[訳註;第1部と第3部に登場した「資本主義の全般的機」と呼ばれる長身痩躯の女子]と三人して離れた場所にいたことだった。ふと、棺桶の蓋に当たる土塊の音が思い出されて、ベニはぐっと唇を噛みしめた。
[訳註;旧版ではここで「ヴロラの兵か」とベニが訊かれ、周囲から好奇の視線を浴びていたたまれなくなる描写がある]
 ベニの横では政治談議の真っ最中だった。
「どうだね諸君、ソヴィエト連邦との例の件はどうなるだろうね?」血管が青く浮き出るほどに頬が薄白く痩せこけた老人が訊ねた。
 彼らは互いに顔を見合わせていた。例の閣僚は編集長とずっと小声で会話している。誰かが咳をした。
「なあどうだね、ここじゃ全てが我々のものだ、党のものだ」老人は言った。「何を顔見合わせてるんだい?俺たち年寄りに隠しごとでもあるのかい?」
「いえいえご老体」誰かが答えた。「そんなことはありませんよ」
「そうかい」と老人は言った。痩せこけた頬が紅潮した。「そりゃ俺たちに隠してることがあるんだな。だがまあいい、いつかは俺たちもいなくなるんだ、ここのこいつのように・・・その時は諸君だって後悔するだろうさ、だがそれが何だ・・・」
 ベスニクは視線を逸らすことが出来なかった。[訳註;旧版ではこれに続けて、ベスニクが死の床にある父に対ソ関係の実情を「国家機密」と知りつつ語って聞かせるくだりがある。]
 居間にまた別の一団が入ってきた。彼らはベスニクの方へ進むと、抱擁を交わした。他の客たちが挨拶をしている間、ベニの方を見て目くばせする者がいた。
「あれが次男だ」と小声で説明している。
 彼らもストルガの臨終の様子を訊ねていて、ベスニクもそれに答えながら、レーザー治療にあたった医師を目で探していた。医師はずっと部屋の隅にいた。
[訳註;旧版ではここで、ベスニクの同僚や編集長も入室して、葬儀前にしていた会話の続きを始めるくだりがある]
 スカンデル・ベルメマが、妻であるザナの叔母と共にやって来た。彼らの後に入ってきた老将校が拳を挙げた[訳註;右肘を曲げ、拳を肩の位置まで上げるパルティザン式の挨拶のこと。なお旧版では、ベルメマ夫妻の後になお数名の男たちが入室していること、それはベニがベルメマ宅で見かけた顔ぶれであること、老将校はその中の一人であり、パルティザン式の挨拶は軍の階級廃止に伴い再導入されたこと等が書かれている]
 ベニの目に、部屋に入るのを躊躇っているらしいマクスの姿が映った。とその時ベニが思い出したのは、そのマクスが墓地でサラや「全般的危機」[訳註;第1部と第3部に登場した「資本主義の全般的機」と呼ばれる長身痩躯の女子]と三人して離れた場所にいたことだった。ふと、棺桶の蓋に当たる土塊の音が思い出されて、ベニはぐっと唇を噛みしめた。
[訳註;旧版ではここで「ヴロラの兵か」とベニが訊かれ、周囲から好奇の視線を浴びていたたまれなくなる描写がある]
 ベニの横では政治談議の真っ最中だった。
「どうだね諸君、ソヴィエト連邦との例の件はどうなるだろうね?」血管が青く浮き出るほどに頬が薄白く痩せこけた老人が訊ねた。
 彼らは互いに顔を見合わせていた。例の閣僚は編集長とずっと小声で会話している。誰かが咳をした。
「なあどうだね、ここじゃ全てが我々のものだ、党のものだ」老人は言った。「何を顔見合わせてるんだい?俺たち年寄りに隠しごとでもあるのかい?」
「いえいえご老体」誰かが答えた。「そんなことはありませんよ」
「そうかい」と老人は言った。痩せこけた頬が紅潮した。「そりゃ俺たちに隠してることがあるんだな。だがまあいい、いつかは俺たちもいなくなるんだ、ここのこいつのように・・・その時は諸君だって後悔するだろうさ、だがそれが何だ・・・」
 ベスニクは視線を逸らすことが出来なかった。[訳註;旧版ではこれに続けて、ベスニクが死の床にある父に対ソ関係の実情を「国家機密」と知りつつ語って聞かせるくだりがある。]
「いえいえご老体」また誰かが言った。「そんなことはありません。別にご年配の皆さんに話したくないというわけじゃないんですよ、ただ僕たちも大したことは何も知らないんです。僕たちも皆さんと同じだってことです」
「俺たちはソヴィエト連邦とも陣営全体とも冷え切っている、そんなことは梟だって知っている」[訳註;アルバニア語でフクロウ(buf)は「愚鈍、愚昧な者」の比喩として用いられる]老人は言った。「だが俺が訊いてるのは、これからどうなるのかってことだ」
 彼らはまた顔を見合せた。これからどうなるかだって?そんなの誰にだってわからない。あの閣僚と編集長なら・・・あの二人なら何かわかっているかも知れないが、その二人はまだ小声で話し込んでいる。新聞にはまだ何も載っていない。まるで何もかもが落着しつつあるかのように。
「あのホテル『ダイティ』で俺は大勢のロシア人を見たことがある」老人は言った。「だから訊いたんだ」
「確かに」と誰かが言った。「最近はソヴィエトから大勢ティラナに来ていますね。まさか・・・」
「さあね・・・たぶん・・・」
「私も、連中の軍人を大勢見たことがあるぞ」別の誰かが声を上げた。「何人かは海軍提督のようだったな」
「でも、他の連中[訳註;ソ連の技師団を指す]は帰国しているぞ」また誰かが言った。
「その件はよくわからないな」別の声が続いた。
 客たちはしばらくその件について喋っていたが、いずれにせよ何らかの形で、何かしら沈静化の地平が見えてくるだろうという点では、彼らも多かれ少なかれ同意見だった。決裂を宣言するぞと期待されている新聞にしたって何も言っていないのだから、それに・・・
「何でも、その提督連中が来たのは会談のためらしいですよ、基地のことで・・・」 そんな言葉を口にした人物は、自分でもどうやら言うべきでないことを言っていると感じたのか、まるで何の痕跡も残さずごくありふれた世間話の中に紛れ込ませるかのように、言葉を濁してしまった。
 こんな連中に何がわかる、とベニは思った。彼らは省庁の中で、中央の役所の中で働いている、だがそれでも鍋が噴きこぼれていることは知らないのだ。うわべは平静そのものかも知れないが、内部はぐらぐら煮えたぎっている。ベニは思い出していた、別の世界のように遠い、あの土曜日の夜を、そばかす顔のロシア兵を、酔っ払った技師を。嗚呼、何で俺たちはここで死んでいくんだ、その技師は何度もそう言っていた。それなのに、ここの連中が待っているのは調停だ、とベニは思った。今はまた小麦の話をしている。全ては小麦が・・・そして鼠がもとで、明るみになったのだ。
 窓際で微かなざわめきがして、それから誰かが言った:雨だ。ベニは自分の全身が叫び声に貫かれたように感じた。雨だ。今頃あの人は雨の中、あの場所にいる、無防備なままで。雨水はもろくなった土の中へと急速に浸み通り、棺桶の蓋の上へと集まり、そしてその中へとしたたり落ちる、そこにあの人はいる。
 雨だ。それでも彼らの会話は続いている。ベニは急に疲れを覚え、何も考えられなくなった。

 夜も明けきらない内に、ベニは通りへ出た。寒くて、湿っていた。あちこちの家屋に明かりが灯っていたが、それらは通りの輪郭を強調するどころか、それを殆ど完全に消し去っていた。もやが立ち込めていた。ベニがひと気のない同盟広場を通り抜ける時、響き渡る彼自身の靴音が、まるで別の次元の宇宙から流れてくるように聞こえていた。自分がけさ父を失ったのだという思いが、冷たく押し寄せてきて、それはまるで別の世界、時間が昼や夜や午後や季節で区切られることなくひとまとまりになっている別の世界のものであるかのように感じられた。そこにあるのは恐らく死の時間、大きくて黒い、手の加えられていない生地のようなものだ。遠くにバー「クリミア」の、夜明け時のせいで弱々しくなった明かりが見えた。ベニはこれと思うところもなくバーへと入った。小さなテーブルで数名、寒さに肩をそびやかしながらコーヒーを飲んでいる。パイプをくゆらせながら、こんな早い時間に何処で買えたのか知らないが、新聞を読んでいる人もいた。
「何か載ってるかい?」小柄な男が一人、テーブル越しに問いかけた。
「いいや」相手は顔を上げずに答えた。
 ベニはコーヒーを頼んだ。バーに警官が一人入ってくると、同じくコーヒーを頼んだ。
「いいや」問いかけた方の男は鼻の下でごにょごにょとつぶやいた。「ってもう小一時間も読んでるくせに」
 男はベニの方を見ると、残念そうに首を振った。ベニはコーヒーを飲み始めた。
「この時間の新聞だぞ」小男は横目で新聞を眺めながら、実に信じがたいものを見たといったような顔をした。「信じられないな」
 新聞を読んでいる方は、静かにずっとパイプをくゆらせていた。
「朝から頭に来るよな」と小柄な男が言った。
 ベニは相手にすまいと顔を背けた。外の早朝の暗がりの中、始発のバスが眠たげなライトをちかちかさせながら、大通りへと走り去った。
[訳註;旧版ではこの後、ベスニクが亡父の党員証を返却するために党委員会を訪れるが、決定版では削除されている。]
 ベニは一日中いろいろな車に乗り通した。パシャリマンに着いた時、基地は警戒態勢に入っていた。
「何があった?」ベニは兵舎で訊ねた。
「僕らにもわからない。警報だ。君こそ何処にいたんだ?」
「ティラナだ」
「何の冗談だよ?」
ベニは『違う』と首を振った。
「父が死んだんだ」
「本当かい?そりゃ悪かった」
 ベニの周りに、押し黙った小さな人だかりが、ほんのしばらくだけ出来た。
「で、ここはどうなんだ?」ベニが言った。
「何が?僕らにもわからない。警戒態勢だ」
「君は今のうちに寝ておいた方がいいぞ」誰かがそう言った。「12時から警備当番だ」

 官僚どもの・・・勝利・・・、そうジェレズノフは何度となくつぶやいていた。二時間前、一通の無線電報で、彼はパシャリマン基地放棄を準備し、自国の水中及び水上艦船を全て撤収せよとの命令を受けた。撤退の最終命令はもっと後になると思っていたのに。無線電報では、この撤退は力づくでも、予告なしの秘密裡にでも構わないと明記されていた。ジェレズノフは両方の可能性に備えなければならなかった。
 秘密裡にか、とジェレズノフは思った。しかも自分がそれを求められているのだ、秘密裡に撤退せよと、まるで泥棒のようにだ。ジェレズノフは苦笑した。官僚どもの考えそうなことだ。
 ジェレズノフは再び基地の地図を手にした。準備はしなければならない。撤退に向けて。
 我らはヴロラを探し求める、彼はそう思った。我らはヴロラを探し求める、地中海の水をかき分けて、だがそこの岸辺に安住の寝はない。砂漠のつがいのごとく、地中海をさまようことだろう。
 だがそれでも、準備は必要だ。死に至る決裂の瞬間に起こり得る、あらゆる事態を見越しておかなければならない。共同軍による潜水艦と船舶を制圧するための襲撃は、電光石火でなければならない。だがそれでも、アルバニア側がそこからあっさりと撤退することだってあり得る。結局のところ、彼らは、今や敵呼ばわりしているソヴィエト連邦の潜水艦が彼らの土地から離れてくれることを喜ぶに決まっているのだ。俺は断じて逃げないぞ、とジェレズノフはひとりごちた。
 電話が鳴った。受話器を取り、しばらくそれに耳を傾けた。
「何だって?西側の将軍が?そんなばかな」
「実際に見た者たちがいます」受話器越しの声がそう言った。「今朝、実際に見た者たちがいます」
「シュクーリン大佐、それは非常に重大な情報だぞ」ジェレズノフは言った。「君は事の真偽を確認次第、直ちに私に報告するように」
「ご命令のままに!」という相手の声がした。
[訳註;シュクーリン(Шкурин)姓のソ連軍人は何人かいるが、この「シュクーリン大佐(kapiten Shkurin)」が実在の人物か否かは不明]
 ジェレズノフは立ち上がった。アルバニアに西側の将軍。それは状況を一変させるものだった。ワルシャワ条約加盟国が、西側の将軍を招いている、他の加盟国にことわりもなく・・・信じられないことだ。もしそうなら、アルバニア側は自ら墓穴を掘った[訳註;逐語訳は「アルバニア人たちは自分で中に落ちた」]。もしそうなら、それなら撤退などありはしない、彼はそう思った。
 外は日が暮れかけていた。ジェレズノフは、ずっと前から夢見ている無線電報の文面を想像することに熱中していた:ソヴィエト連邦の英雄А・А・ジェレズノフへ。ヴロラ基地を何としても制圧せよ。そして彼の返事はこうだ:基地のため我が首を賭けます。ジェレズノフ。
 これが本当であってくれさえすればな、と彼は思った。
 ジェレズノフはテーブルに腰を下ろし、基地における精神疾患についての報告書をぱらぱらとめくり始めた。それは会話やささやき声の、また時には、双方の人々の間を上へ下へと駆け巡った噂話の、その細かい屑片だった。彼は何を思うともなくそれを読んでいた:俺は共産主義者だ、お前は違う、だが俺たちには一緒の潜水艦がある。ヴロラよ、アルバニア-ロシア友好の最後の島よ。キリチェンコのことを話してやればいいのか?俺たちはまるで罠に嵌ったようにこの基地に釘付けだ、そこから抜け出すことさえできない。どうして巻き込まれてしまったのだろう?雄々しきトロイアの愛しき女たちよ・・・ああまたあいつだ、あのいかれた男、あの技師の奴め、とジェレズノフはつぶやいた。あの男の長々と続く狂騒からは、何ひとつ理解することができなかった。おお、俺たちがここで死んだらどうなると・・・
 ドアがノックされた。
「うん?」入口に立つ副官を見るなりジェレズノフは声を上げた。
「何でもなかったんです」相手は言った。
「何だって?西側の将軍じゃなかったのか?」
「いや、西側の将軍だったんです、ただ・・・思っていたのとは違って・・・」
「シュクーリン」と言うジェレズノフの口調が荒っぽくなった。「まさか冗談を言っている場合ではないということがわかっていないのか?」
大佐は直立不動のままだった。
「いえ、司令官同志」
「じゃあ何だね?」
「西側の将軍が来たのは軍務などではありませんでした・・・本当です。その将軍はただ、第二次世界大戦の時にアルバニアで戦死した兵士の骨を集めていただけなんです」
「そりゃ何故だ?」
 大佐は肩をすくめた。「将軍本人と、あと司祭が一人で」
「司祭なんてうちの知ったことかい」そう言ってジェレズノフは背を向けた。
 要するに、撤退があるということか。副官が立ち去った後でジェレズノフは思った。撤退には二通りある:公然と、力づくで、或いはごく限られた場合には、秘かに、夜盗のごとく。少なくとも彼らは二つ目の、秘かにやる方には執着していない。そもそも、撤退するという考え自体が彼からすれば恥ずべきものに思えていた。だが撤退はあり、そして撤退だ。少なくとも、名誉ある撤退だ。少なくとも秘かにではない。少なくとも・・・彼は頭からテーブルに突っ伏した。眠気が襲ってきた。ここ数日、ごく僅かしか寝ていない。少なくとも秘密裡にではない、彼は繰り返した。ゼーロウ高地の英雄が・・・少なくとも・・・放棄する用意はできつつある・・・最初の案によれば、最初の案によれば、案によれば・・・地中海最強の基地を・・・放棄する・・・少なくとも秘密裡にではない・・・基地を・・・少なくとも・・・潜水艦が海を切り裂いて・・・潜水艦が切り裂いて・・・海の泡を切り裂いて・・・潜水艦の後から、ジェレズノフその人の後から、奴らが海面を駆けてくる、滑ってくる・・・第二の案によれば・・・滑ってくる・・・すすすすべるクラゲ[訳註;原文では「海のランプ」]に、蛸に、青い鯨、そいつを捕まえてくれ・・・そいつが潜水艦を盗んだんだ。

3
 沼地大通りと劇場通りの明かりはまばらだった。明かりは、本部の建物の二つの階にも灯っていた。基地の他の場所は暗闇に沈んでいた。まさにその基地の暗い場所に、ベルル・ジョノマヅィは眼を凝らしていた。彼は山の斜面から基地との境界線まで降りてきて、聞き耳を立てていた。赤や青や緑の照明が、遠くの方でひっそりと揺れている。彼は、それらの光が自分の方を見つめ、そして嘲笑っているような気がした。そんな蛍たち[訳註;原語buburezëには「蛍」などの夜光昆虫の他、「テントウムシ」の意味もある]の中の何処かに、あの・・・レーダーもあるはずだ。ふん、とベルル・ジョノマヅィは声に出した。
 二日前、村のカフェでは公然と再び基地をめぐる話題が繰り広げられていた。語られていたのは信じがたいことだった。不穏な言葉が聞こえてきた。彼は初めのうち会話に加わりたいと思わなかった。たまたま柵のところに近付いて警備兵に乱暴に追い出された前の週の金曜日以来、彼は軍の基地のせいで傷ついていた。死ぬまで傷ついていそうだった。打ちのめされたベルルが村に戻った時には胸がつかえて、しかもそれが丸く広がって、息もできなくなりそうだった。二度とパシャリマンの名なんか聞きたくもない、そう彼は思ったものだ。だがそれなのに、おととい、村のカフェには極めて不穏な言葉が飛び交っていた。夜になると不意に眠りを覚まされた。耳元でいにしえの女たちの嘆く声がした。彼はもっとよく聴こえるように首を振ったが、その声は遠のき消え去った。それで彼は自分が夢を見ていたことに気づくのだった。
 ベルルは不安に駆られて立ち上がった。もう一度行ってみよう、そう彼は思った。どうなっているか見てやろう。黙って服を着替えると、コートを羽織って外へ出た。寒く、真っ暗な夜だった。彼は二時間余りもアヤメ[訳註;原語shpatoreはIris germanica或いはIridaceae科の植物]の茂みに身を潜め、鉄条網まで近付いていった。耳元にいにしえの嘆き声が響いてきた。
    いざや嘆けよ娘たち
    パシャが世を去りしゆえ
二度、三度と、ベルルは引き返したい気持ちになった。俺はここで何をやっているんだ?そう自問した。俺は警備兵に追い返されたんだぞ。あいつらに、あのティラナからの若造たちに基地を守らせておけばいいんだ。そして道々こう思った:俺たちの基地が奪われようとしている。それは毒のように苦い思いだった。
 青みがった黄色い小さな光が、遠くの方でちらちら揺れていた。若造どもをあの明かりでたぶらかして、俺たちの基地を奪うつもりだな、と彼はまた思った。彼は1920年のヴロラの戦いにおけるイタリア軍の投光器を思い出した。戦争で投光器を見たのはあれが初めてだった。最初にそれが設置されたのはチシュバルヅァ[訳註;Qishbardhëはヴロラ郊外東部の地名]の平野だった。うわあ化け物だ、と叫んだのはカナン・アリメルコだった。化け物に目をやられた、と彼は両目を手で覆ってうずくまった。攻撃を続行しようと立ち上がった時にはすっかり身がすくんでしまい、すぐさま銃弾に貫かれた。その時セラム・ムサが叫んだ;みんな目をつぶれ、電気がつくぞ。そして彼らは目をつぶったまま有刺鉄線に突っ込んでいった。[訳註;旧版ではここでベルル・ジョノマヅィがセラム・ムサ戦死の経緯を再び思い起こしている]
 シャチョ・ヴラニシュティは上半身が有刺鉄線に絡まって、そこから全く抜け出せなくなってしまった。下がれ、とズィグル・レロが叫んだ。コートで針を覆って、その上を飛び越えるんだ、と。だがシャチョは銃弾で蜂の巣にされてしまった。ベルルの従兄弟ベルル・ジョノマヅィも、ハサミ一挺だけで戦場へ乗り込んだナセ・アルジリも、タンカーを焼き払ったことにちなんでその呼び名がついた石油のチェチョも、そしてズィグル・ルロ、他の者たちに死ぬなと説いたこの司令官自身も、そこで命を落としたのだ。
 有刺鉄線はまだそこにある、基地との境界線上に。数日前に警備兵からその場を離れるように言われた時、ベルルはこう言い放った;鼻たれ小僧め、この有刺鉄線を、俺はコートをかぶせて飛び越えたことだってあるんだぞ、お前がお前の母親から生まれてもいない頃にな。だがその警備兵はベルルに銃を向け、冷たくこう言った:離れろ、さもなきゃ一発喰らわせてやる。これまでに経験したことのない侮辱を、ベルル・ジョノマヅィは感じた。目の前が真っ暗になった。撃ってみろよ鼻たれ小僧が、撃ってみろよ、彼はそう叫んで胸を突き出した。警備兵はそれを嘲笑うような目で見ていた。ベルル・ジョノマヅィは打ちのめされその場を立ち去った。彼はもう決してパシャリマンには顔を向けるまいと誓ったのだ、なのに今夜彼は起き出して、道中二時間もかけて、何が起きているのか探り出そうとしている。今は夜だ。今なら誰にも見つからない。この土地を、彼は人生全てをかけて愛していた。そこからは何ものも、どんな侮辱さえも、彼を引き離すことはできなかった。
 聖なる戦いの地、何度となく彼はそうつぶやいていた。この大地のかけらは、戦いのためだけに生まれてきたのだ。海岸はどこまでも長く伸び、のみならずここから戦いが巣立っていった。ベルルは戦いを欲していた。海があり、海の向こうに他の国々、他の王国がある限り、戦いもまた常にある。ここにはそれがあった、そしてこれからもここにある。そして戦いがある限りは、戦いを欲せざるを得ない。
 ベルルは、人生の殆ど全てをこのパシャリマンの傍の平野で過ごしてきた自分のことを幸運だと言っていた。丘の上に小さな教会と、あちらこちらに薄黒い修道院が立ち、その丘陵地は海に向かってなだらかに広がり、至るところで干し草が黄金色に輝いている。大地は実りに溢れ、果実や家禽類が育っている;だが突如、戦いの巣穴に近付くや、そこは薄暗く荒れ果てたものとなる。そこからは鬱蒼とした、まるで怪談に出て来る沼のような湿地が始まっている。老人たちは言っていた、十月[訳註;原語は「第二の秋」]の月夜に決して沼地の方を振り向いてはならない、さもなければ葦の繁る間をべちゃべちゃと這い回る双頭の怪物を目にするであろうと。日中はというと、沼のほとりでアオサギ[訳註:原語çafkëは学名Ardea cinereaが、老パシャの墓の周りで嘆き悲しむような鳴き声を上げているのだ。
 ベルルは、戦後間もなく機雷が撤去され放置されていたパシャリマンの土地にドゥカト[訳註;Dukatはパシャリマン基地の南側、オリクム近くの村名]の協同組合がやって来た年のことを思い出していた。組合指導部はその岩だらけの大地を開墾すると決定した。老人たちはそれを望まなかった。この土地はパンのためでなく戦いのために生まれてきたのだ、と老人たちは言った。この土地を侮辱しないでくれ、と。だが指導部は譲らず、パシャリマンにトラクターを持ち込んだ。トラクターは二日間作業した。三日目に鋤先が何か固いものにぶつかった。周囲の土を掘ってみると、地中から青銅の兵士の頭が出て来た。村中がその凶兆を見ようと殺到した。土塊の中、兜の両側に翼のようなものがついたその頭部は大きなキャベツに似ていて、そのせいでその部分はキャベツ頭と呼ばれていた。それはまるでこう言っているかのようだった:ここから立ち去れ、ここは死の土地だ。だがそんなことの後でも組合指導部は譲らず、土地は開墾された。しかし老人たちの言った通りになった。その土地は小麦をもたらさなかった。そこは不毛の地だった[訳註;逐語訳は「彼女の腹は不妊だった」]。穂先は早くから黄色く膨らんでいるのに麦はなく、ただ麦の痕跡だけがそこかしこに残っていた。何て酷い有様だ、何て酷い有様だ、そう老人たちは言っていた。そしていつしか小麦の件は失敗に終わった。この土地が自らの運命を逃れるかと思われたのは、それが最初で最後だった。そこは再び荒地として残った、二千年間もずっとそうであったように。周囲の他の土地は祝福され実りに溢れ、開墾によって実りをもたらし[訳註;原文の逐語訳は「鋤の下で腹を開き」。ちなみにtokë「土地」は女性名詞]、早熟の実[訳註;原語e lashtëの基本義は「古い」だが、「成長が早い」の意味もある]で満たされているのに、ここは灰色の湿地のまま、運命を受け入れていた。そして元の姿に戻ったのだ。或る朝軍隊が、今までに見たこともない道具と望遠鏡を携えて到着した。村じゅうに告知が行き渡った:パシャリマンは再び軍事基地となるであろう、と。その晩ベルル・ジョノマヅィは喜びの余り飲み明かしたものだ。俺たちの銃弾と巡洋艦が手に入るんだ、彼はそう言った。イタリアを沈めてやるんだ。
 週に二回ベルルは山を下りてパシャリマンの様子を見に行った。遠くから彼は、海岸から山の麓にかけて一日中動き回っている機械と人々を目で追っていた。基地内の古い通路が再整備され、数百年ものの城塞が更に掘り下げられ、あちこちに警告の表記が設置されていた。それらは二つの言語で書かれていた:アルバニア語とロシア語だった。基地がロシアとの共用になると知った時、ベルルは渋い[訳註;逐語訳は「酸っぱい」]顔になった。全部俺たち自身のものにできないのか?と彼は或る晩、村のカフェで言ったものだ。[訳註;旧版ではこの後に続けて「それから数年経って基地がアルバニアに引き渡されると知った時、彼は幾分ほっとした」とある。]
 青い小さなライトが、湾内の暗闇の中で時にはついたり、また消えたりしている。有刺鉄線はその近くにある。俺たちの基地が奪われようとしている、ともう何百回もベルルは繰り返し思った。何とかしてロシア人たちをここから追い出さなければならない。あの時のように、あの時のように・・・ベルルは今夜、基地で起こっていることを探ろうとやって来たのだ。彼は心に決めていた:もし基地がソヴィエトの連中に奪われそうな何らかの徴候に気づいたら、当局の了解などなしで自分が村に警報を鳴らしてやるんだ。自分が仲間を集めるんだ、あの時のように、あの時のように・・・そして、そうだみんな、コートは有刺鉄線の上に、そして基地を襲撃だ。セラム・ムサは弾を銃身に込めていた。ベルルはずっと前からすることを決めていた:自分がレーダーと闘うのだ。恐るべきはレーダーだ、何しろ何もわからないのだから、だがたとえそうであってもベルルは飛びかかってやるつもりでいた。ベルルは考えていた、戦闘中にレーダーから光か、何か他のものが出たり消えたりするかもしれないと。しかしベニは叫ぶのだ:ふらふらするな尻軽女じゃあるまいし、くたばりたいか[訳註;逐語訳は「(臨終の)日が近付く」]。そして戦闘再開だ。血みどろの死闘、それは混ざり合う閃光と、赤や紫色の線と、火花と、人ならざる物音と、時計の針を刻む音と、音もなく飛び交う光線。やがては歌も湧き上がることだろう:
    おおベルルよ、豪傑よ
    レーダーに怒りし男
ベルルには分かっていた、レーダーとの闘いで自分は死ぬだろうと。レーダーは息絶える前に、襲撃者の命を奪ってしまうだろう。どんな風にレーダーが自分を攻撃してくるのか、ベルルにはまるで見当がつかなかった。それは謎のままだった。自分の死んだ後の身体がどんな風になるのかも分かっていなかった。同時に彼は想像した、レーダーによって引き起こされる傷のことを、身体の表面にまるで光線のように、燐光のように、明滅する小さな発疹のように、奇妙な美しさでもって、そして何処か遠くにあるように、まだら模様に散っている点や線のことを。あんた何てことをしてくれたんだいベルル、と妻や仲間たちは言うだろうな。自分たちはみんな銃弾で死んでいたのに、あんたはなんでそんな死に方をしたんだ?と。早くもベルル・ジョノマヅィは申し訳ない気分になっていた、もう彼らに言ってやることができないからだ:聞け同志たちよ、聞け妻よ、俺がしたことは、見せびらしたいとか自慢したいとか思ってしたわけじゃないんだ。俺だって銃弾にやられて死にたかった、みんなずっとそうして死んできたんだからな、だがこれが俺に差し出される死だ、そして俺はそれを受け入れるのだ。

3
 真夜中を過ぎていた。コンクリートの波止場は二つの裸電球で照らされ、ベニは不寝番で瞼が重くなるのを感じていた。四つの靴音は時計の針のように単調だった。もう一人の警備兵(ベニは心の中でイヴァンと名づけていた)もそんな動きをしていた。二人は歩きながら互いに近付き、互いを見もせずすれ違い、反対方向へ遠ざかり、そして再び、ほぼ同時に、まるで決闘の時のように向かい合った。
 両者の場所、黒い水に半分だけ沈んだ状態で、四隻の潜水艦が黒々と横たわっていた。それらからは何の物音も、何の光も漏れていなかった。しかしベニは、それぞれの潜水艦の中に警備兵が四人ずつ載っていることを知っていた、:アルバニア兵が二人、ソヴィエト兵が二人。彼らは片時も互いから目を離さなかった。四対の眼が、腕が、武器が。問題は、潜水艦には五人目が乗り込んでこないということだった。五人目がいれば、事態を転換できたかも知れない。ベニとイヴァン、彼ら二人は、五人目が現れないよう見張っていたのだ。ベニは知っていた、右側の辺り、波しぶきと暗闇の中には別の波止場があり、更にその先にも別の波止場があり、そして更に海の向こうには水上艦があって、いずこも似たような状況になっているということを。こんな風に何もかもが二重になっているのだ:整備兵も、操舵兵も、砲兵も、通信兵も、工兵も、艦長も[訳註;旧版ではもう一つ「警備兵も」]。彼らの頭は鉛のような眠気に襲われてずっしりと垂れ下がる。一方が眠れば、相手も眠らなければならない;一方が目を覚ませば、相手も目を覚まさなければならない;一方が動き出して、トイレへ行き、食事をし、武器を洗浄し、手足を伸ばせば、相手もそれを全部しなければならないのだ。
 ベニの視線が一瞬、ロシア人兵の視線とかち合った。このロシア人は自分の影だ。足が二本、腕が二本、弾丸十発入りの銃が一挺と取り外し式の銃剣が一本。十発の銃弾そして銃剣を、向こうは俺のために持っているし、俺もこれをあいつのために持っている、ベニはそう思った。そしてベニはまた思った、自分たちは目に見えない鎖で繋がれたようになっている:もし一方が走り出せば、相手もその後を追って走らなければならない、止まれ、何処へ行くんだ、お前は俺のものだ、そしてもし、向こうが引き返し、立ち止まり、膝を屈め、銃剣を向けてきたら、ベニも同じことをしなければならない、それも同じ速さで、正確さで、野蛮さで、それから・・・それから・・・相手に襲いかかるのだ。
 襲いかかるのだ。ベニはそうすることができると思っていた。これは命令だ、そして自分はたやすくそうするだろう。自分は考えるまでもなくそうするだろう。自分は相手に、自分の影法師に、瓜二つ[訳註;原語は「繰り返し」。ちなみに独訳ではDoppelgänger(ドッペルゲンガー)]に襲いかかる・・・そしてほんの一瞬、こんな思いがよぎるのだ:あれは自分の影じゃなかったのか?
 ベニは首を振った。湿ったコンクリートの上で二人の影は互いの動きに従って大きさを変えたが、その変化は余りにも急で、途方もなく背の高い巨人がたちまち姿を消し、次の瞬間には小さな、忘れ去られた染みに姿を変えるのだった。

4
大型のタグボートが一艘、朝になって突然、第一潜水艦部隊が係留されている埠頭に姿を現した。他にも一艘、そこから少し離れたところの海面に、身じろぎもせず停泊していた。二艘とも古びて細長く、両側には錆が筋のように浮いていて、その全てが、幾通りもの修繕を繰り返し、今はひと息ついている古い廃屋を連想させた。ところがこの日の朝、それが再び姿を現したのだ。
 今までこれらタグボートの出現がこれほど注目されたことはなかった。二艘ともこれまでは湾内の荷運び役であり、おざなりな修繕でまだら模様になり、おかしなあだ名ばかりつけられ、夕暮れ時の雄牛の鳴き声にも似たしわがれた汽笛のせいで、近代的な船舶や潜水艦の中にあって、最も単純な、最もとるにたらないものだった。ところが今日は何もかもが違っていた。二艘は湾の真ん中で、作業もせず、周囲も気にせず、ゆっくりと揺れていて、誰一人としてそれを笑いものにする気にも、昔のあだ名を思い出す気にもならなかった。それどころか全員の目は、なぜ昨日まで基地の作業仲間だったタグボートが、海の底からやってきた、見慣れない不気味な怪物になってしまったのか、と問いかけていた。脇腹[訳註;原語tëmthには「こめかみ」と「胆嚢」の意味があるが、ここは後者から転じて船体の側面を指していると思われる]の錆の筋も、まるで咬み傷から流れ出した血が固まったようだった、それはいにしえの不安の名残り、海蛇、時代に取り残されたタグボートザウルス[訳註;原語rimorkiatozaurは「タグボート(rimorkiator)」と「恐竜(dinozaur)」から成る造語]だった。
「あれは、潜水艦の出港を妨害するつもりなんじゃないかな?」と誰かが海辺で訊ねた。
「あいつらの目的は妨害じゃないと思う、出港を遅らせようとしているんだ、そうしておいて・・・」
「そうしておいて・・・何だ?・・・」
 そんなやりとりが、貝殻のように海辺を広がっていった。

3
 9時半、基地のアルバニア人司令官がジェレズノフに面会を求めてきた。両者の会談はその半時間後に行われた。両者とも士官たちを連れていたが席に着こうとはせず、アルバニア人司令官はジェレズノフをじっと見つめた。
「ジェレズノフ」と彼は言った。「君は去るつもりなのか?」
「何だって?」ジェレズノフは目を逸らさぬままそう言った。
 向こうは微笑んだように見えた。同行の士官たちはその場に立ち尽くしていた。
「長年の友情を」アルバニア人司令官が言葉を続けた。「我々はそうたやすく断ち切れはしない」
 その顔の微笑みは、まるで眼窩をすり抜けたようにすぐさま消え去って、代わりにその面長の、寝不足で青白い顔に、氷のような冷たさが張りついていた。
「わからないな」ジェレズノフは言った。「おぼえがないよ」
 誰一人、席をすすめようとしなかった。
「ジェレズノフ」アルバニア人司令官が言った。「もし君が去るつもりなら、それが力づくのものであれ秘密裡にであれ、私は君を脱走兵と見做し、狙撃するだろう」
「ジェレズノフ」アルバニア人司令官が言った。「もし君が去るつもりなら、それが力づくのものであれ秘密裡にであれ、私は君を脱走兵と見做し、狙撃するだろう」
「私にそんな口のきき方をして、何が面白い?」ジェレズノフは怒りをあらわにし、歯の間から声を漏らした。
「思っていることを言ったまでだ」と相手は答えた。[訳註;決定版でのアルバニア人司令官の返事はこれだけだが、旧版では「もう一度言ってやろう。君が逃げようとするなら、君を脱走兵の裏切り者と見做し、殲滅するまで攻撃を行うぞ」と更に物騒なことを喋っている。]
「そんな口のきき方での話し合いなど、私は認めんぞ」ジェレズノフは声を上げ、くるりと背を向けた。同行の将校たちも同じようにした。彼らは並んで階段を下りていった。
 もうたくさんだ、ジェレズノフは何度もひとりごちた。もう我慢の限界だ[訳註;逐語訳は「カップはいっぱいだ」]。彼は自分の執務室に戻ると、海上で眠っているように動かないタグボートを横目で見ながら、無線電報の文面を書いた。彼はモスクワに向けて直接、自分に対して行われた公然たる脅迫のことを知らせようとしていた。ついに運命が回ってきたのだ、自分の望んでいた通りの事態に。今ジェレズノフは、包囲を突破せよとの命令を待っていた。最後の言葉を書いている間、彼の脳裏には、まるで聖堂の屋根の下にでもいるように、戦闘を告げる音楽の鐘が鳴り始めていた。

 10時15分、カラブルン沿岸部隊、そしてサザン島部隊が、パシャリマン基地から出ようとする全ての水上または水中艦船を警告なしで攻撃、破壊せよとの命令を受けた。基地は閉鎖を宣言した。
[訳註;カラブルン(Karaburun)はヴロラ湾の南側からアドリア海に向かって15キロほど伸びた半島で、この半島の根元の部分、即ちヴロラ湾の奥にパシャリマン海軍基地がある]

マンモスの時代までずっと続いているかのような古くからの、殆ど先史時代からの空の下で数時間が経過した。ささやき声は昼食時に始まり、午後の間じゅう続いていた。曰く、幾つかの命令が発された、別の若干の命令が撤回された、ティラナでの会談は終結が近い、それから・・・それから・・・これから何が起こるのか、誰も確かなことを知らなかった。もしも潜水艦同士がこんな狭い場所で交戦したら、それは破滅だ。誰かが同僚にそう言いながら、円形劇場の遺跡を指差した、まるでそこに潜水艦があるかのように。俺はそんなことにまではならないと思う、と相手は言った。もっとも・・・もっとも・・・俺たちはこれまでの出来事を何ひとつ予測できなかったんだがな。
 午後の終わり頃になって話題に上ったのは、双方の全滅だった:こんな閉鎖された範囲で互いに沈め合ったら、誰も悲劇に気づかないだろうな、と。夜になった。双方の司令部には遅くまで明かりが灯っていた。夜中には、黄色い月がごく短い間だけ兵舎の上を、そして沼の傍の湿地帯を照らし、湖沼は太古に消滅した古代国家の貨幣へと姿を変えた。[訳註;点々と散らばる沼地に月光が反射して無数のコインのように輝いていることの比喩]
 遂に夜が明けた。ソヴィエト兵の多くはその朝髭を剃らなかった。その日は、予感や迷信があり得るものとなるように思われた。精神状態は様々に変化した:感傷の中での絶望。この包囲状況を脱したら髭を剃ろうと言う者もいれば、自失茫然となっている者、興奮状態にある者もいた。彼らは感じていた、自分たちの骨肉に大量の空気と音楽が満ちているのを。彼らはぼんやりと思い浮かべていた、詩人たちが彼らのために詩を書いてくれるのを・・・遥か遠いヴロラ、アドリア海の星の下、彼は永遠の眠りにつきつつあり、と。彼らには聞こえていた、自分たちの英雄ぶりが作文の課題の題材となるのを。ノートの上に落ちる女子の毛髪を想像する者もいた・・・多くは頭の中にずっと圧迫感を覚えていた。
 土曜日だった。午後になると乾いた風が吹き始めた。夕暮れの中、すっかりひと気のなくなったクラブでオーケストラの演奏が始まった。そして日が暮れた。双方の警備兵が交代した。アルバニア人新参兵の一団が、警備兵詰所へ行進しながら昔の歌を唄っていた:
    ヴロラを我らのものとせん
    さもなくば瓦礫と灰に帰せん・・・
「死ぬのは嫌よ」同じ頃、イレーナ・グラチョヴァは夫にそう語っていた。彼は潜水艦の中で数日間を過ごした後、妻に会うために帰ってきたのだが、その潜水艦の中で、妻の肉体を求める彼の耐え難い思いは、エンジン機関の息詰まるような熱気の中で増幅され、危機ゆえに、そして募る嫉妬に絶えず追い立てられる状態であるがゆえに、滅多にないほど研ぎ澄まされ、妻のもとを離れるほどに炎のように燃えさかっていたのだ。それが解消された今、彼は機械的に妻の身体の箇所を撫でながら、こう繰り返していた:
「そんなことはない、そんなことはないよ、レーノチカ」[訳註;レーノチカ(Леночка)はイレーナ(Елена)の愛称]
「あの歌を聴いたでしょ?」イレーナは言った。「聴いたでしょ、あの人たちの歌を?」
 歌声は何処か遠くへと離れていった。
「わかってるよ」彼は言った。「その歌のことなら昨日警告が出てるけど、あいつらも証明しているじゃないか、あれは今世紀初め[訳註;旧版では「1920年」と明記されている]の話だって」
「瓦礫と灰だなんて」イレーナは消え入りそうな声で言った。「怖いわ。ゆうべの月を見たでしょ?」
 窓ガラスは徐々に薄暗くなっていた。
「私はそろそろ行かないと」そう言って彼は起き上がった。数分後、イレーナは窓際に近づいて彼がひと気のない荒地を通り、海の方へと立ち去るのを目で追っていた。灰色の軍用コートには、彼女がずっと前から結びついている、よく見知った手足と声と呼吸が包み込まれている。しばらくの間、彼女には、黄昏の中に溶け込んでいくその歩く姿がまるで形を持たないもののように思われていたが、まさにその時彼女は、自分の身体の中心に、彼の何かを感じたのだった。彼女はガラスに頬を押しつけながら、もしかしたら妊娠したかもしれないと考えた。そんなことを考えているとだんだん視野が狭まり、彼女は眠気に襲われた。そして不意に、何の脈絡もなく、基地の子供たち全員から自分がトロイアのヘレネーと呼ばれていることを思い出したが、この黄昏時にはそれがごく当然のことであるように彼女には思われた。彼女は美人だし、今いるのは軍事基地だ。それから思い浮かべたのは、どんな些細なものであれ諍いを引き起こしたがらない女などこの世に存在しないのだという、潜水艦技師の言葉だった。どんな女にもトロイアのヘレネーの欠片がある、そう彼は言った。二人の男の小競り合いから二つの軍の陣営での衝突まで、全ての段階において女がその位置を占めているのだ、とも。
 イレーナは寒さを感じて、肩にストールを羽織った。景色から目を離さないまま、この対立も何もかも自分が原因で始まったのだという気になり出していた。今や潜水艦も海の底で交戦準備に入っていて、砲弾は怪物のように長く伸びた砲身に込められ、魚雷はその寝床から飛び出す用意ができていて、それら全ての準備行動の中には、彼女の肉体に狙いを定めているような、何かしら男性的で肉欲に満ちたものがあった。すると再び、自分が半時間前に妊娠したかもしれないという考えが彼女の脳裏をよぎったが、今度の妊娠への思いは夫とは全く切り離されたもので、彼女はあらゆる現実から解き放たれて空気中を漂っていて、そして人間たちよりももっと重々しく、盲目の、全能なる存在と彼女は結びついていた、恐らくそれは戦争そのものの手足だったのだろう。

 ベニはまた警備に立っていた。そしてまた、数歩向こうにはもう一人、あのロシア人がいる。それはまるで悪夢だった。交代時刻をとっくに過ぎていたが、それにもかかわらず、誰もやって来なかった。遠く、クラブの方からオーケストラが聴こえてくる。こんな日の夜に何なんだこのオーケストラは?ベニは普段の境界線から二歩進んだ。相手も同様にした。ベニは右の方を向いた。相手も同じことを繰り返した。それからロシア兵は銃の紐がかかった肩を揺らし、ベニも何となく同じことをした。向こうは前にもましてこちらの完全な鏡映しになっているな、と彼は思った。相手の両掌が両肩に、両足に、両脇腹と癒合しようとしていた。彼は、相手の頭が喉の辺りで落ち着こうとしている気がした。もう結構だ、とベニは思った。いつになったらお前と縁が切れるんだ?彼が歩調を変えると、相手も同じようにする。この罠を抜け出すことは不可能だ。寝ないで48時間。相手の存在が、沈黙の中、まとわりつくようなぎこちなさで、秘かに、粘着性の物質のように、彼にへばりつこうと伸びてくるのだった。ベニは両掌をぶんぶん振り回した。無駄なことだ。あいつが近づいてくる、膨張してくる。一旦下がろう、ベニは言った。先に攻撃してやるんだ。彼は一歩下がった。相手も同じようにした。ベニは我に返った。これは疲労のせいだと気づいたのだ。ロシア兵の額は汗でびっしょりになっているらしかった。両眼も同様だった。それでも彼はそろそろと接近するのをやめなかった。その刹那、ベニは二人が一体になっているような気がした。まるで双頭の怪物だ、みんながあの沼地にいると信じている怪物のような、その名もアルベニヴァンだ。いやアリヴァンベンか。イヴベナランか。イヴァランベンか[訳註;ベニことアルベン(Arben)とイヴァン(Ivan)を組み合わせてArbenivanとかArivanbenとかIvbenaranとかIvaranbenといったアナグラムを作っている]。ベニは吐き気を催した。どうしたらあいつから離れられる?彼は病院の手術室を思い浮かべた、そこには外科医がいて、鋭くピカピカ光るメスがあって、自分の身体をロシア兵から引き離してくれるのだ。看護師たちが自分に麻酔をかける。そして楽団となって「ヴロラを我らのものとせん、さもなくば瓦礫と灰に帰せん」を演奏するのだ。ベニは自分がうとうとしているのに気づいた。ロシア兵の方もうとうとしている。そしてベニは移動した。相手も同じようにした。あらゆることが反復された。

 それは全てが二重になる夜だった。今夜こそ勃発するかもしれない、と誰かが午後四時に言った。誰かが楽団に深夜まで演奏するよう命じていたが、それは全く注目されなかった。オーケストラだけが、二重になっていない唯一のものだった。忘れられない夜だった。四本腕と四本足の人間どもが、黙示録の被造物のように基地内を徘徊していた。彼らは尋常ならざる交雑種であり、このひと晩のためだけに、数百万の人々に代わって求められ、生み出されたのだ[訳註;旧版では「インドのクリシュナ神のように、ひと晩のうちに無数の手足を生やして」とある]
 どうしてここまで一緒でいられたんだろう、と言う者たちもいた。この全き友好もここでおしまいということなのか?今となっては離れたくとも離れられない。互いの背中がくっつき合ったシャム双生児だ。双方が[訳註;旧版では「ロシア人たちが」]自分たちの司令部の建物の方に振り向くと、建物の明かりが旧約聖書の彫刻のように周囲を浮かび上がらせていた。あそこでは何を考えている?何を待ち受けている?

 ジェレズノフは戦争に備えていた。彼は包囲を突破せよとの命令を分刻みで待ちかねていた。命令は出る、彼はそう確信していた。運命の瞬間はもう間もなくだ。共用潜水艦を制圧するのは時間の問題だ。総員が待機している。最悪の場合(もしもアルバニア軍が潜水艦隊の一部でも制圧した場合)、その時には彼が別の部隊と共に、電光石火のようなジグザグで砲弾の中を突破する。脱出の途上で、報復としてヴロラを焼き払うことだってできるのだ。ジェレズノフはあらゆる場合を想定していた。彼はあらゆる事態を予期していた。そして最後の瞬間、運命が彼に背を向け、そう例えば、砲弾の中を抜け出すことがかなわない場合には、彼は野獣の勢いで引き返し、そして狭い湾の中で、潜水艦を爆発させてやるつもりだったのだ、その爆発に比べたらどんな海戦も子供の喧嘩程度にしか見えまい。
 額を両拳に押し当てたまま、ジェレズノフは無線電報を待った。時刻は深夜の三時半。二時間もすれば夜が明ける。これが自分にとって最後の朝になるかも知れない、そんな思いにジェレズノフはほんのひとしきりを費やした。彼の思考の全てが向かう先はかの湾口部の狭小さだった、そこでは砲身の先が数時間前から彼を待ち構えている。
 無線電信が届いたのは明け方だった。ジェレズノフはしばらくの間、両手が冷たくなっていくのを感じた。彼の眼が並んだ文字の列を見つめている間に、その写し取られた文字列は、頭の中の遠い、遥か遠い場所へと送られ、それらの意味が解読されていた。最初に彼自身の頭に浮かんだ言葉は「恥辱」だった。彼はその言葉を自然と文面の中の二、三箇所に、そして「ピリオド」とある場所にさえも当てはめた。 「恥辱だ」と彼は大声を上げ、血の気の失せた顔で、電報を持ってきた側近の方を振り向いた。
 彼が待っていたのは栄光だったのに、代わりに送られてきたのは恥辱だった。午前中に、艦隊を分配するための共同委員会が到着するという。恥辱。[訳註;旧版ではここに「アルバニア人の頑迷さが勝利した。」の一文が入る]官僚どもが引き下がったのだ。恥辱。制圧しないどころか、撤退でもない。撤退でもない、彼は苦々しく繰り返した。今までは撤退を命じられることに不平を言っていたのだ。それが今は撤退ですらない。それどころか・・・どころか・・・秘密裡の撤退ですらない、ジェレズノフは怒りに呻った。徐々に彼の頭の中に、今回の決定のおぞましさの全体像が姿を現していった。脳裏を稲妻のように駆け抜けたのは:[訳註;命令の]無視、拳銃、自殺。すると突如として彼は、全身がくなくなとなって力が抜け、軽くなるのを感じた。世界は巨大な海綿で満たされている、それはパシャリマンの丘陵地の形をしていて、ぎこちなく坂道を転げ落ちてくる、そしてジェレズノフは60時間の緊張の後に初めてテーブルに突っ伏し眠り込んでしまった。

 共同委員会がパシャリマンに到着したのは11時だった。手続きは手短に済んだ。万事ティラナで細部まで決められていたのだ。ソヴィエト側の短い報告では、アルバニア人民共和国によってソヴィエトの船舶及び潜水艦の一部が押収されることは暴力行為であり、両国間の友好を著しく損なうものであると強調されていた。アルバニア側の声明文では、ソヴィエト連邦によってアルバニアの船舶及び潜水艦の一部が奪取されることは暴力行為であり、社会主義陣営の防衛力を弱め、両国間の友好を損なうものであると明記されていた。双方の声明が静粛に読まれた後、分配に関する手順書への署名が行われた。ジェレズノフはずっと眠気を感じていた。手順書には双方に割り当てられる船舶と潜水艦の数が記載されていた。
 文書への署名が終わるとすぐに、それぞれの側の艦船から相手側の部隊の撤退が始まった。数時間に及ぶ撤退の間には、双方による嫌がらせや中傷、最後の脅迫が行われたり、船内備品が破壊されたり、機器類が海に投棄されたり、調理係によって旗がナイフで切り裂かれたりした。そうした行為の全てに絶えず警告が発せられていたのだが、万事は冷徹に運び、反発も抵抗もなかった、まるで無声映画のようだった。
 潜水艦から出て来る時、ソヴィエトの将校たちは機器類に、魚雷に、鉄製の梯子に口づけし、最後の瞬間には辛うじて嗚咽をこらえていた。
 昼になると、年金生活者のように古ぼけたタグボートが最後の任務に駆り出され、傍らに控えていた。1時からソヴィエト兵の艦船への乗船が始まった。彼らはヘルメットをかぶり、全身武装していた。3時には民間人、女性や子供の乗船が行われたが、それは巡礼の一団のように見えた。港には地元将校の妻や子供たちが集まって、撤退の様子を眺めていた。
「トロイアのヘレネーだよ、ほらトロイアのヘレネーだよ」と男児の一人が言いながら、去っていく一団の中にいるイレーナ・グラチョヴァを指差した。彼女はおそるおそる振り返ったが、すぐに船内へ乗り込んだ。海はこの世界と同じぐらい昔からの泡に満ちて、彼女は自分が本当に、遂にトロイアを去りつつあるような気がした。
 彼女のすぐ後に、もつれる足取りで潜水艦技師が続いた。彼はすっかり酔っぱらって、何やらひっきりなしにぶつぶつ言っていた。船に乗り込む前に、彼は沼のほとりで立ち止まり、耳当てつきの帽子を取ると、老パシャの墓碑に向かって三度頭を下げた。
 4時、潜水艦と船舶は戦陣を組み、外海へ向けて動き出した。冷たい太陽が、巨大な一つ目のように水平線に座している。一隻目の潜水艦が通過する横で、[訳註;湾岸部隊の]砲身が硬直し、驚嘆したような素振りでその撤退を見つめていた。最後の潜水艦の艦橋に立つジェレズノフは、背後に営々と続く丘陵地を凝視していた。彼は壁のように全くみじろぎもしなかったが、しかし最後の潜水艦がサザン島のトーチカ群の横を通過した時、彼は急に、自分の奥底で何かが崩壊したかのように、両肩が、胸元がぶるぶる震えるのを感じ、涙が溢れ出した。
 湾内では、太陽の赤い光線が、去りゆく潜水艦と船舶が起こした泡をひとしきり照らしていた。まるで海が絶えず血を流し続けているように見えた。今や基地は、臼歯の半分を抜かれてぐったりした顎のようになっていた。

(第5部につづく)


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