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イスマイル・カダレ 『大いなる孤独の冬』

第3部 冬に入る国

1
 冬が訪れていた。全ての国という国を風と雪で覆い尽くした後、いにしえの氷河の境界線へ辿り着かんと、常に下へと舞い降りる、それはまるで新たな支配者の誰もが、古い支配者たちの帝国の境界線へ辿り着かんと苦闘するかのようだった。いつもそうなのだが、大いなる冬を目の当たりにして、ほぼ全ての国々で、地軸がずれたと語る者たちが現れる。それは、尋常ならざる気候が襲い来る度に、或いは世紀毎の、半世紀毎の、更には千年紀毎の終わりと始まりに、諸国民の間に蔓延すると言われる、古くから伝わる噂だった。何百回と欺かれてきたにもかかわらず、あらゆる太古からの言い伝えと同様、これもまた、自分たちの中で何かが揺れ動く度に世界の均衡も揺れ動くのだと信じがちな人々には納得し得る類の噂だった。実際のところ、人々の間に動揺があっても、それを嵐と呼ぶことはないだろう。
 それは全て、大洋の広がりから死に別れて流れ込み、際限のない荒涼とした何ものかを、雷鳴の息遣いの一つさえないまま、周囲数千マイルにわたって絶えず引き起こし、終わりなく咆哮を上げる、そんな12月の空の下での出来事だった。

 12月の後半、商店のショウウィンドウに店員たちが新年の雪を模した綿を飾り始める頃、ディブラ通りには普段とは異なる活気が生まれる。毎年、ショウウィンドウの綿を目にする度に、見知らぬ通行人が歩道や交差点の何処かで挙げる第一声は「新年はどちらでお過ごしに?」という問いかけだ。そして、それがたまたま出会った友人に対するありふれた問いかけではなく、勝ちどきの声のように繰り返され始めると、霜の噴き出した路上に昼となく夜となく溢れ出す何百、何千という人々によって、幾度も繰り返されていくのだ。
 一方、通行人の足によって、残り少なくなり泥にまみれた木の葉は秋の終わりの残りかすとして引きずり回されながらも、多くの若き文学者たちによって韻文の中で思い起こされ、次に批評家たちによって、出版される文芸論議によって、激しい論争の中で、繰り返し呼びさまされ、更に呼びさまされ、社会主義リアリズムの詩論の分野における若干の問題と関連付けられつつ、理論的一般化の中で押し広げられ、更に遠く、対立の不在という理論へと(例えば『我らのもとに秋は無し』という讃歌をめぐって生じた議論のように)、のみならずイデオロギー全般の問題へと及んでいくのだった。
 時刻は間もなく三時になるところだった。ベニはサラと何時もの場所にいて、通行人たちを目で追っていた。人混みの中に「資本主義の全般的危機」[訳註;第1部にそういうあだ名の女性が登場している]の姿が見えた。
「あらベニじゃないの、新年はどちらでお過ごしに?」彼女は立ち止まらずにそう言った。そびやかした彼女の肩が人混みの中に消えた。
「全くだよな、俺たちゃ新年はどこで過ごすんだ?」サラは言った。「それとも、お前・・・」
 ベニは何も言わなかった。彼は一人の背の高い男を見ていた。その男は肩を奇妙に揺らし、自分の連れに何かを示していたが、連れの方は路上の風景を写真に収めていた。
「馬鹿な連中だ」サラが言った。「何でもかんでもおかしなことを、こんな道端で見つける奴がいるんだな」
 トーリもそこにいた。こちらへ歩いてくると、その細長い足が折れてしまいそうに見える。彼は一人で口笛を吹いていた。
 トーリはベニに会っても至って素っ気なかったが、サラには耳元で何かを囁きかけた。トーリとサラは二人して笑ったが、それだけでは物足りなかったと見えて、その後もずっと小声で喋り続けていた。
 ベニは口の中に苦いものがこみ上げるのを感じていた。あらゆる人間の不作法の中でも、こういう耳から耳へのコソコソばなしを、それも男同士でされるというのが、彼には最も耐え難かった。しばらくの間、ベニは何も気付いていないふりをしていた。もう長いこと、誰とも喧嘩をしていなかったが、それでも己の拳をぐっと握り締めていた。
 ベニは相手を見つめたまま、嘲るような笑みを浮かべ、歯噛みしながら言った。
「おい、お前ら何を隠してる?」
「何をって?」トーリは如何にも驚いたという風でそう言った。そうして、まるでベニがそこにいないかのように、隣の相手にまた何かしら囁き始めた。
 ベニは唾が渇いて口の中がからからだった。
「おい、いいか」とうとう彼はトーリに向かって言った。「もしお前が俺をイラつかせるつもりでそんなことをしているのなら、思い知らせてやる・・・」
 その時、骨董品店の店先に、そこの主人が顔を出した。
 ベニは立ち去ろうとして歩きかけたが、しかし数歩進んだところでまた立ち止まり、振り向いた。
「おい」ベニはトーリに言った。「いいか、もしお前が・・・」

 ロク・スィモニャクは、相次ぐ国有化の波に飲まれることなく残っている、今どき珍しい個人商店となった骨董品屋の主人だったが、平穏を求める商人には当然のこととして、たとえ外で盛大な馬鹿騒ぎが起きていても、店先に顔を出すような習慣はこれまで全くなかった。そこにいた若い男たちの顔に以前から見覚えがあったからといって、彼が外へ出てくることは殆どありそうもなかった。それでもその時の彼が顔を出したのは、今にも入ってきて店内を物色するように思われる客の姿が見えたからだ。痩せてすべすべの肌の、その身体にぴったり合った黒いスーツをこざっぱりと着込み、これまた黒のカバンを持っているその姿が省庁の職員を思わせるようなその男は、ショウウィンドウの内側に置かれてある品々に目をやり、それから、何かしらそこにないものを求めようとするかのように二度口を開きかけたが、二度とも何も言わぬまま口を閉じてしまった。どうも何かに邪魔されたようだ。外から怒声が聞こえてきた。いいかもう一度言ってやる、もしお前が俺をイラつかせるつもりでそんなことをしてるだったなら、思い知らせてやる、お前の頭をかち割ってやるぞ、と。ロクは思い出した、あの苛立った調子の声はまさしくあのたむろする連中(彼はその連中のことをそう呼んでいた)[訳註;ここで「たむろする連中」と訳したparadyqanësはpara「~の前」+dyqan「店」から成る造語]で、そのせいであの客は何も言えなくなってしまったのだ。ロクは店先に出ると、連中を、決して咎める風ではなく、むしろ半ば哀れむような目で見つめた。それからまた店内に入って、いつも自分の居場所である椅子に腰を下ろすと、どういうわけだか、彼自身でも驚くべきほどに意気消沈したようになって、その未知の人物へと目をやった。ロク・スィモニャクの貧相にぬらぬらと光る、まるでピンセットで両端を引っ張られたような、細い裂け目のようになった両眼から放たれるその視線は、荒んだ印象で人々の誤解を与え、のみならず嫌悪感さえ催すようなものだったが、その視線の止まった先では、未知の人物がすっかり決意を固めていた。
「何をお求めで?」と声に出してこそ言わなかったが、ロクの全身がそう問いかけていた。見知らぬ客は、ロクのちらちらと注がれる苛烈な視線に身を縮め、立ち尽くしていたが、唇をほんの少しだけ開き、消え入りそうな、まるで地を這って伝わってくるような声で、こう言った。
「司祭用のパリウムはありますか?」
[訳註;原語petrahilはカトリックの大司教が身に着ける祭服の一部で、十字をあしらった帯状の肩被い。ラテン語pallium。仏語訳ではchasuble]
 ロク・スィモニャクは、口の内側[訳註;原語qiellzëは「口蓋」]で唾が急速に乾いていくのを感じた。誰一人として、彼の視線を逃れる者はいない、それは銃口のようなものだった。遂にロク・スィモニャクは、今にも口笛を吹きそうになりながら、こう訊ねた。
「お探しのものは・・・」
「司祭用のパリウムを」見知らぬ客はそう繰り返した。
 確かにそう聞こえた。ロクは椅子の上で視線を落とし、掌を広げたままの両手を見つめ、そして、もはや客の方を見ようともせず、独り言のようにこう言った。
「そういうものならあるはずなんですがね、届くのはまた後日ですよ、明後日か、さもなきゃ来週にでも」
「それはどうも!」そう言って、見知らぬ客は激しく首を振り挨拶した。「ではまた!」
「またどうぞ!」ロク・スィモニャクも挨拶を返した。
 しばらくの間、彼はその客の幅細な背中が人混みの中を素早くかき分けていくのを目で追っていた。
 またどうぞ・・・お客様、か。ロク・スィモニャクは一人つぶやいた。さあまたこれだ、とうとうこうなったな、と彼はしばらく考え込んだ。司祭用のパリウムか。言ってみれば、義理の兄弟の見立てが本当になったのだ。俺は何も知らないんだ、そう彼はロクに念押ししていた。正確なことは何も知らないんだ、ただ小耳に挟んだだけなんだ、通りすがりで、そう通りすがりで聞いただけさ、たぶんこれっぽっちの真実もないんだろうさ、と。ロクは黙ってそれを聞きながら、内心こう思っていた:これっぽっちの真実があるかないか、それもここで、俺の店でなら確かめられるだろうさ。
 1944年10月、大きな混乱を目前にしていた忘れようもないあの月、その頃までは王制下の中等学校で幾何学の教科書を書く仕事に携わっていたロク・スィモニャク自身にとってもまた宮仕えを捨て、骨董屋を開くにぴったりな頃合いだと思えたあの月から、もう15年以上だ;そうだ、あの1944年からこっち、彼の店はこの国で起きたあらゆる政治的変化に対する、狂いのない地震計であり続けた。この俺の店でなら確かめられる、彼はそう言っていたし、それが誤っていたこともなかった。三日待って、四日待って、ほうら、ようやくだ、あの黒のスーツに省庁勤めのようなカバンを手にした男が、とうとう店先に姿を現したのだ。司祭用のパリウムはありますか?とな。
 店にはそのパリウムがあった。仕切り壁の三番目の区分けされたところに、他の聖職者用のガウン[訳註;原語zhgunは修道士が身に着ける厚手のガウン]やダルウィーシュ[訳註;原語dervishはスーフィーの修道僧]のターバンや、テッケのババたち[訳註;原語babaの原義は「父」だが、ここではベクタシ派の指導者を指す。テッケ(teqe)はベクタシ派の修道院]がベルトに付けていた緑色石、フランシスコ派修道士のベルト、高価な装丁の福音書やコーラン、寺院の蠟燭立てと一緒にされていた;そしてそれら全ての上には、指二本分ほどの埃が積もっていた。その下の仕切りにある大きな箱の中には、正装用、或いは準正装用の衣類が無造作に突っ込まれていて、その中には外交官用の衣装や、王国時代の、或いはパシャの紋章の付いた外套や、摂政の身に着けた衣類があり、また上着類には旧議会の紋章や、或いはドイツ人君主による、短命に終わった第一王制の宮殿の紋章や、二番目の王国のものや、そして最後にして第三の、しばしば皇帝と呼ばれた王の紋章があしらわれていた。[訳註;近代アルバニアには三つの王制時代が存在した。ドイツ出身のヴィート公による「アルバニア公国」の時代(1914~1925)、アハメド・ゾグ元大統領による「アルバニア王国」の時代(1928~1939)、そしてイタリア王ヴィットーリオ・エマヌエーレによるイタリアとの同君連合の時代(1939~1943)である]
 それら全てを人々は、崩壊の瀬戸際で不安に満ちたあの10月になって売り払い始めた。大量に、急速に、迫り来る時代にあってこれらはもはや必要とはされまいという、何かしら熱にうかされたような思いに駆られ、それこそ舞踏会用の衣装から、名家の頭文字が彫り込まれた高価な装飾品に至るまで、人々はそれらを売り払っていったのだ。
 それを自分たちでまた買い戻そう、そう彼らの目は語っているようだった。何時の日か買い戻す日が来るだろう、と。その後は、自分たちの持ち物と離れ離れになったことによる耐え難いひと時が訪れ、白目は恐怖の余り眼球の中で張り付いたままになり、両手は震え、声も出なくなった。古物商め、ああ、古物商め・・・彼らの目はまるで、怒りに満ち呪いを口走っているようだった。
 混乱の後、革命による圧迫の下で、商売は大っぴらにできず、半ば秘密裡に行われていたのだが、目に映るのは、連中の狂気じみた悔恨の念ばかりだった:また買い戻すんだ。いつか我々に必要になる時が来る・・・
 そして確かに、権力に舞い戻れるという希望が生まれる度、彼らはかつて売り払ったものを買い戻しにやってきていた。それは1947年、ユーゴスラヴィアとの断絶の時期に始まり、そして1953年、スターリンの死の直後にもあった。だがその両方とも、偽りは長く続かなかった。ふた月と経たない内に、彼らは自分たちが買い取ったものを再び売りにやってきては、半値にまで下がった新しい価格に納得していた。しかも彼らは衣服や小物や舞台じみた調度品まで売り払い始めたが、その様子はまるで、出来たばかりの映画スタジオ「新アルバニア」のようだった[訳註;原語kinostudioja “Shqipëria e Re”はソヴィエト連邦の支援も受けて1952年に建築された国営の映画製作施設。現在は文化省の庁舎として使用されている]。1956年10月、ハンガリーで反革命が起きた直後には、店先に再び昔ながらの顔馴染みが何人も姿を現した。しかしそれが最後だった。あれ以外、平穏が続いてきた。
 ロク・スィモニャクは賑わうショウウィンドウ越しに、模造品の雪の上に軽くかがみ込んでいる路上の人々の肩を見ていた。
 司祭用のパリウムを買い求めているのか、と彼はつぶやいた。だが彼らはわかっていない。これは1947年、1953年、1956年の時と同じようなことではない、そんな予感が彼に語りかけていた。これは大ごとになるに違いないと。その兆候は既にある。明日か明後日、彼らはかつてないほど続々と、列を成して、自身の古着を求めにやって来ることだろう。俺の名前入りのガウンを寄こせ・・・私の儀式用の杖を出せ・・・そしてその後は恫喝じみたつぶやきだ:こんなのは俺の服じゃない、サイズがまるで合わないじゃないか、さてはお前がすり替えたんだな、と。いやよくお考えくださいよ、と当時ロク・スィモニャクは言ったものだ。それはあなた方の服だ、しかしあなた方がすっかりすり減ってしまわれたんですよ、革命であなた方は骨と皮だけになってしまった、そんな人達の・・・その面影の、昔着ていたような服がどうしてぴったり合うものですか、と。
 ロク・スィモニャクはずっと通りの方を見つめていた。あの若造どもはまだそこにいて、もめている最中だった、どうやら、原因は女のことらしい。ロクは一人、どうでもいいことを思い出しでもしたようにふんと笑ったが、そこであの奇妙な客が去ってから後もずっと立ったまま、人待ち顔でいる自分に気付くのだった。[訳註;ちなみに、この濡れた瞳の骨董店主は第1部にも登場している]

 いいかよく聞けお前の脳天をかち割ってやる、ベニは二度もそう呟いたが、もしもトーリがもうひとこと何か口にしようものなら自分がもはや我慢できなくなりそうな不安に駆られて、気が動転し、慌てふためいたようにその場を立ち去った。
 国立図書館の前を歩いていた時、誰かに名前を呼ばれた。振り返ってみると、マクスの姉妹のディアナ・ベルメマだった[訳註;第1部に登場した、主人公ベスニク・ストルガの婚約者ザナの親友。夫は神経科医で、本人は妊娠中。党エリートの家系に属しており、親戚に高名な作家スカンデル・ベルメマがいる]。彼女はいつも何かものおじしているように見えた、といっても普通の意味ではない。歩き方がゆっくりで、まるで何かにとり憑かれているようで、その表情には幸福感と、ほんの少し前まですぐ近くの交差点で微笑んでいた、その笑顔の切れ端とがないまぜになり、粉をまぶしたように散りばめられていた。
「ベニ、元気にしてる?」ディアナが言った。「マクスは何処かしら?」
 だが彼女が心ここにあらずで、自身の発した問いに対するこちらの返事を注意して聞く気などまるでないことはすぐに見てとれた。ベニは彼女が妊娠しているような気がしたが、彼女が結婚していたかどうかについては思い出せなかった。
 何かあったのかしら、そうディアナは思ったが、ベニが通り過ぎるとそれもすぐに忘れてしまった。十分前、ショウウィンドウを眺めていたその時、彼女は、初めて腹の中の子が動くのを感じたのだった。それはごく弱々しく、そっとノックをするようなものだったが、それでも通行人が行きかう真っ只中で彼女を立ち止まらせたのだ。ディアナは息が詰まるような感じだった。それからしばらく待ったが、ノックが繰り返されることは無かった。ショウウィンドウにはちぎった綿が貼り付けられていて、雪だらけの空が謎めいて広がっていたが、彼女にはその一刹那、自分の身体の中心とその世界の中心が一つになり、そこから放たれた信号が、その混沌[訳註;綿でできた雪空を指す]の中を悪戦苦闘しつつ通り抜けていくような気がした。このニュースを世界中に伝えたい、そんな願望はすぐさま正反対のものに変わり、彼女はそれを世界中から隠し通すことにした。町の大時計が四度鳴った。驚きですっかり我を忘れたまま、ディアナは何処へ向かうともなく歩き出した。国立図書館の前を歩いていたベニと別れてから、彼女はそこに自分の友人が勤めていることを思い出し、引き返して少しだけ休ませてもらうことにした。何も言わないでおこう、階段を上りながら、ディアナはそう思った。友人の女性は、研究員用の予約閲覧室で働いていた。
 外から、一日の終わりを迎えようとしている最後の陽の光、冬の日にしては不思議と暖かな陽の光が射し込んでいた。午前中ずっと町をびしょびしょに濡らしていた雨とみぞれが止み、雲は天高くに退いていた。
 ディアナは外の路上の流れを見つめていた。そこかしこに光る文字がまたたいていたが、まだ陽の光が残るこの時間では、何かしら白い血の流れる身体の如く、それもはっきりしたものではなかった。何をするというでもなく、彼女は胡桃の木でできた、本がぎっしりと詰まっている大きな書棚へと近付いた。重厚な、大判の、茶褐色の革表紙で綴じられた本が大半を占めていた。彼女の視線はその古風な、多くがゴシック風の字体で書かれた題字の上を滑っていったが、それらは本の題名というよりはむしろ中世の盾に刻まれた紋章か、古代の城壁の装飾物にも似ていた。彼女はそこへ近付くにつれ、不安めいたものを感じた。書名の多くは昔のアルバニア語だった。彼女はそれらを読んでいった:マリン・バルレティ[訳註;15世紀後半~16世紀前半の北部アルバニア出身の歴史家。オスマン帝国に抗したアルバニア民族の英雄を描き、当時の西欧で広く読まれた『スカンデルベウの生涯と功績』は、ラテン語で書かれたものながら、アルバニア文学の嚆矢とされる]。シュコダル包囲。それからまだある。1701-1705年における疫病の記録。外交年鑑:北部国境線。ローマ執政官ガイウス・フルウィウスによる懲罰遠征。戦における女たちの哀歌。死の種類による哀歌の分類:戦端、攻撃中、撤兵中、戦後。これって一体何なのかしら、ディアナはそう思った。彼女は読むのを止めたくなり、背後を振り返ろうとしかけたが、それは出来なかった。書棚はまるで彼女の視線を捉えてしまった罠のようだった。彼女は読み続けた。外交年報。我らの紀年法での第一世紀におけるローマとの関係断絶。外交年報。最後通告。マナスティルの虐殺:処刑者らと犠牲者らより収集されたる証言並びに事実。戦傷に対する民間療法。第一部:冷えた武器による負傷。第二部:火器による負傷。1304年の疫病を引き起こしたる者たち。仮説。アルブレナの戦い[訳註;アルブレナの戦い(Lufta e Albulenës)は1457年にアルバニア北部でアルバニア人勢力とオスマン帝国軍との間で行われた戦闘。スカンデルベウ率いるアルバニア人の軍隊の勝利に終わった]。飢餓の四十年。1831-1871年の飢餓による死亡、精神錯乱、カニバリズムの事例に関する証言並びに事実。第五巻。もうたくさんだわ、ディアナはひとりごちた。書棚から死臭が漂ってきて、彼女は思わず両手を腹にやった、そこを守ろうとするように。目の前に、威圧するように聳え立つそれは書棚ではなく、並び立つ盾、龍の体表の鱗だった。彼女はもう一度だけ向こうを振り返ろうとしたが、出来なかった。それどころか、手を伸ばし、ゆっくりと、不安に満ちたまま、鱗の一枚を取り出したのだった。外交年鑑。最後通告。彼女は最初のページを開き、そして読み始めた。イリュリア・アルバニア人の国家に対して為された最後通告、注釈付き集成、最初期より現代まで。ローマ元老院による第一の最後通告、ローマによる第二の最後通告。ノルマン人の王ロベール・ギスカルドによる(最後通告の形式による)上陸要請[訳註;ロベール・ギスカルド(Robert Guiscard)は11 世紀末、ビザンツ帝政下のアルバニアを二度にわたり攻略した。ちなみに第2部で主人公ベスニクの独白にも登場している]。トルコによる第一の最後通告。スルタン・ムラト一世による最後通告。スルタン・メフメト二世による最後通告[訳註;それぞれ第3代と第7代のオスマン帝国皇帝]。宮廷[訳註;原語Porta e lartëは直訳すると「高い門」で、オスマン帝国を指す]よりアリ・テペレナ[訳註;アリ・パシャ・テペレナ(Ali Pasha Tepelenë)は18世紀末から19世紀前半にかけてオスマン帝政下のギリシア北部からアルバニア南部を統治。オスマン帝政末期にはアルバニア人地域の自治獲得に尽力し、現在もアルバニア独立の英雄の一人と見做されている]に送られた最後通告。1913年、モンテネグロによる最後通告。1913年、ギリシアによる最後通告。オーストリア軍による、アドリア海へ抜けるための(最後通告の形式による)通過要請。コルチャにおけるフランス軍の(最後通告の形式による)駐留要請[訳註;コルチャ(Korçë)はアルバニア南東、ギリシア国境付近の古都。20世紀初頭にギリシア軍、次いでフランス軍の支配を受けた。なお、前述のアリ・パシャ・テペレナがかつて統治した地域にはコルチャも含まれる]。1915年、セルビアの王による最後通告。ギリシアによる第二の最後通告。
 ディアナは本を棚に戻した。書棚に背を向けようとしたが、それはまたしても無理なようだった。彼女の眼はまだ読み続けていた。セルト・アクシャム・ドゥルグート・パシャによる懲罰遠征[訳註;原文ではSert Aksham Durgut Pashaとあるが、1911年のアルバニア人による反乱を鎮圧したトルグート・パシャ(Şevket Turgut Paşa)のことを指していると思われる]。戦時における情報伝搬の速度について。外交年鑑:パシャリマン海軍基地とサザン島の問題、最初期から現代まで[訳註;パシャリマン(Pashaliman)はアルバニア南西部ヴロラの港湾部。海軍基地があり、作中の時代には潜水艦の帰属を巡ってソ連と対立状態にあった。第2部のフルシチョフとエンヴェル・ホヂャの会見でも名前が出ており、第4部では物語の主要な舞台の一つとなる。サザン島(Ishulli i Sazanit)はヴロラ湾の入口に浮かぶ、アルバニア領内最大の島]。1944年、ドイツ軍による冬季作戦。戦時における諸儀式。戦争期間中における諸儀式の簡素化を巡る考察:誕生時、婚姻時、死亡時の儀式、国家儀式に関する補遺。第五版。1943年、ボロヴァにおける殺戮。証言と事実[訳註;Borovaはアルバニア南東部の村。1943年7月9日、パルティザンに対する報復として、住民数百人がドイツ軍に殺害された]。外交文書[訳註;ここだけ“actae diplomatica”とラテン語で書かれている]。パシャリマン(古代オリクム[訳註;Orikumはヴロラ近郊の地名。古代都市の遺跡で知られる])。二十世紀間に及ぶ誤解。
 ディアナは頭がぼんやりしてきた。書棚は霧に包まれ、生き物のように蠢いた。ディアナは再び両手を腹にやっていた。彼[訳註;ディアナの胎内の子を指す]もまたこの民族の一員になるのだという思いが、彼女の奥底で霧のようにぼんやりと、その輪郭を作りつつあった。 その時、友人が入ってきた。
「ディアナ、どうしたの?」彼女はディアナの姿を見るとそう言った。「気分でも悪いの?」
「ううん」ディアナは言った。「ちょっとぼんやりしてただけ」
 友人が椅子を持ってきてくれたので、ディアナはそこに腰を下ろした。初めての動きを見せたきり、彼女の子の気配はもはや感じられなくなっていた。あの壁という壁が、この子にのしかかっているんだわ、彼女は書棚から目をそらさないまま、そう思った。
 外に出た時には、既に日が暮れ始めていた。家へ向かって歩きながら彼女は、ザナに電話して新年はどうするか訊かなければと考えていた。べスニクとは、モスクワから戻って以来一度も会っていなかった。たぶん新年は一緒に過ごすのだろう、そう考えてみると、彼女はその考え自体に嬉しくなってくるのだった。

 ドゥラス通りを1時間ばかり廻って、ベニは再び中心部へと戻って来た。遠目に、サラが薬局の辺りにいるのが見えた。ベニは通りを横切り、サラの肩を叩いた。
「ちょっと顔貸せよ」
「まあ慌てるなよ、ビビってるんだろお前」サラが言った。
 路地裏に入るとベニはサラの上着を摑んだ。
「トーリと何をコソコソやってやがった?」
「その手を離せって」サラが言った。「俺が仲間を裏切るかよ」
「だったら俺を、何で俺を裏切った?」ベニは言った。
 サラは定まらない目線でベニを見つめた。
「俺はお前を裏切りやしないよ」サラはそう答えた。
「お前は俺を裏切った、あんな奴と一緒になってだ」ベニは言った。
 二人は煙草に火をつけると、古びた玄関の前へと場所を移した。
「ああして二人して何をコソコソ話してた?」ベニが訊ねた。
「何でもない。誓って何でもないんだ。くだらないことさ、お前にちょっかいを出してやるふりをしただけさ」
 ベニは地面に唾を吐いた。
 「糞野郎め!」[訳註;原語ndryrësiは「不潔」]
 それから同じ言葉を二、三度繰り返すと、それ以上は何も言わずにベニは立ち去ろうとした。サラがその後を追った。ディブラ通りはひしめく通行人たちでたわむように見えた。ベニはその群衆の中にリリとザナの姿をみとめた[訳註;第1部にも登場しているが、リリはザナの母]。二人は一軒の店から出て来たところだった。
 リリは大きなバッグを手にしていたが、ザナは何やら不機嫌そうだった。ろくでもない道路だなここは、とベニはひとりごちた。一度歩くだけでティラナの半分と顔を合わせるのだ。ショウウィンドウのきらめきの下で、人々の顔は青白く、まるで謎めいた粉末のせいでそうなっているように見えた。ベニは何度もそれを目にしていた。新年が近付く度、その謎は増していくように思われた。人々が繰り返し繰り返し、それこそひっきりなしに「新年はどちらでお過ごしに?」と問いかけているのは偶然ではない。人々は互いに歓喜の謎を明るみに出そうとしている。誰もがこう問うているのだ:どちらで、どちらで、何故って誰もが自分の秘密を初めに明かしたくはないのだから。

 ショウウィンドウの綿切れを見ながら、ザナはほんのしばらくぼんやりしていた。リリがその後ろに立った。
「あらまあ、すごい人ねえ」リリは言った。
 大通りでは、人の流れがやや弱まっていた。「スカンデルベイ」広場に並ぶモミの木の枝にはカラフルな照明が取り付けられていた。
「結婚式の話はしてくれないの?」リリが訊ねた。[訳註;上の文の主語は3人称単数なので、恐らく娘の婚約者べスニクのことを指している]
「ないわ」ザナが言った。
「あなたも何も言ってないんじゃないの」
「ねえママ、ママだって私の性格少しは分かるでしょ。私から先にそんなことを言うなんて、何でそういうことが思いつくのかしら?」ザナはそう言った。
「そんなにイライラしないでちょうだいよザナ、こんな話をしてあなたに嫌な思いをさせたいわけじゃないのよ」
 ザナは何も言わなかった。
「青い方の電球だ」モミの木のてっぺんから、電気技師の声がした。「緑じゃないぞ、青だ」
「それにしたって、私は母親なんだから心配する権利があるわよ。何なのかしらね、この急な冷えこみは?」[訳註;原語ftohtësiは「冬の寒さ」とも「人(婚約者ベスニク)の冷たさ」ともとれる]
「青はもうないよ。黄色ならどうだ?」
「何なのかしらね、この冷えこみ、って?冷え込みは」ザナは言った。
「あなたはそれが普通だと思ってるの?」
「全然」
「だったら?」
「ママ、私にもわからないのよ。ママったら、そんなこと言うなんて、まるで私が・・・」
「わかってるのよ、あなたのせいじゃないってことは。それにしたって、あなたが冷静なのは理解できないわ」
「だったら、ママは私にどうしたらいいって言うのよ?泣きわめけばいいの?」
「もういっぺん見ろよ、青がないかどうか」電気技師が声を上げた。
「何とかして理由を見つけないと」
「それはもうやったわよ」ザナは言った。
「だから言っただろ、青はもうないんだって」
「あなたとは話にならないわ」リリは言った。「だから言ったでしょ、あの人がお土産を持って来なかったのは普通じゃないって、あの人がモスクワから帰ってきた、あの晩のことよ、憶えてるでしょう、あの人があなたのことを気にしていなかったのには何か深い意味があるんだって、私が行ったでしょ、なのにあの時あなたは私に口ごたえして、何も聞こうとしないで、そんな態度であの人をかばって、あなたの母親のこの私が、まるであなたたちの仲を悪くしようとしてるみたいな言い方で。でも今になってみたら、私が疑っていた通りじゃないの。あなたたちは一週間したら結婚しなければならないのに、あの人はそのことさえ忘れてしまったみたいだわ。昨日あの人はお土産を忘れ、今日は結婚式の日取りを忘れ、明日はあなたと婚約したことを忘れるでしょうよ。これをけちと言わないでどうするの?あなたは『けち』と『小ブルジョア』って二つの言葉は憶えたけれど、それをまずどう使うかは分かってないわね」[訳註;ここで「けち」と訳した原語meskinitetはフランス語の形容詞mesquin「狭量な、しみったれの」に由来する]
「もうやめてよママ、お願いだから」
 リリは奇妙にも黙り込んでしまった。二人はそうして歩き出した。足元で、乾いた落ち葉がカサカサと音を立てた。
「ちょっと貯蓄銀行に寄りましょう」リリが言った。「少しお金を下ろしたいわ」
 リリはザナと幾つか買い物の相談を始めた。クリスタチ[訳註;ザナの父で、リリの夫]はこういうことになるとまるで頭を悩ませることがないので、リリが一人で何もかも決めなければならなかった。今考えているのは二つ:新しい絨毯を応接間用に買って色褪せた古い方は売りに出すか、それとも今のところはキッチン周りの模様替えで満足しておくか。この頃は出費がかさんでいて、それに加えて新年も間近だった。お金はなくなる、気付かない内に、リリはそう言った。ザナはそれを興味なさげに聞いていた。
 家に帰るとザナは来客用の大きなソファに座り、タバコに火をつけた。リリはキッチンを往復していた。
「ザナ」リリがキッチンから呼びかけた。「したいならシャワーを使ってもいいわよ、お湯は温かいから」
「わかった、ママ」
 ザナは、よじれた糸のように上がる煙を見つめていたが、その影は電灯で増幅され、まるで焼け落ちた廃墟のように壁に映し出されていた。よその人か、ザナはベスニクのことを考えていた。よそよそしい人。
 電話が鳴った。ディアナ・ベルメマからだった。新年はどちらでお過ごし?そう彼女は訊いてきた。自分が破局を避けるためのことを何もせず、腕組みしたまま何もかも見過ごしていたら、どうなるのだろう?もしもしザナ。あらごめんなさい、それで新年は?何と言ったらいいだろう。こっちはまだ何も決めていないのだが。本当はそのことで彼に腹を立てていたのではないのに。自分にあるのは単なる無感覚だけで、それがここ数週間で彼にも伝わってしまった。一緒に家でお祝いしましょうよ、アンドレアが病院の夜勤でなければだけど、と電話の声はまだ喋り続けていた。マクスが新しい録音をしたのよ。そう、それはよかった。そうして何もかもが、大騒ぎされることもなく起こっている、まるで目に見えない地滑りのように。外から見れば何も今までと変わらないのに。一緒に出かけて、友達と会って、翌々日には芝居を見に行って、それでも自分は地面が秘かにずれ落ちていくのを感じるのだろう。じゃあね、おやすみなさいザナ、電話の声が告げた。それじゃまた!
[訳註;上の段落ではディアナの発話とザナ(主語は「彼女」)の独言が引用符を付さず続けて書かれており、敢えて混線したやりとりを表現していると思われるが、日本語訳では分かり易さのため、それぞれの文体を変えている]
 ザナはまたソファに戻った。遠くから消防車のサイレンが聴こえた。彼女はそのけたたましい音が好きだったが、彼はそうではなかった。彼女は消防車の狂気じみたスピードが、赤く反射する光全体が好きだった、それは消防士のヘルメットにくっついたような、彼らのこわばった表情とはまるで正反対だった。その彼らが震えている誰かを救いに向かうところを思い浮かべる。誰だか知らないが急いで欲しい、この困難な瞬間に、空をつんざくような大きな悲鳴を上げている彼方へと。
 部屋のドアが不安気なきしみをたて、その傍にリリが姿を見せた。
「ねえ」リリは言った。「こんなこと言いたくなかったんだけど、でも私はね、こうじゃないかって思ってることがあるのよ」
 ザナの頭は、ソファの背もたれに寄りかかったま動かなかった。
「あの人のおかしな態度も、注意散漫なところも、みんな理由はこれしかないと思うのよ」リリは続けた。「私はね、誰かロシアの女との間に何かあったんじゃないかって思うの」
リリはしばらく、ザナがこう言ってくるのを待っていた:ママ、くだらないこと言わないで。ところがザナは何も言わなかった。
「モスクワの女の子たちはとても美人で、親しみやすくて、それに今は外国人と結婚するのが流行ってるそうよ。どう思う?」
 ザナはタバコを灰皿に押し付けた。
「さあ」彼女は言った。「そうは思わないけど」
 リリはまだ何か言いたげだったが、どうやらぐっとこらえたらしい。リリは本棚の方へ向かい、引き出しを開けると、また閉めた。
「あなたたち・・・あんなに仲良くしてたのに・・・あなた何も気付かなかったの?・・・」最後に彼女は言った。
「ママ、お願いだから、私そのことは何も話せないのよ」
 ザナはすっと立ち上がった。部屋を出て、何処へ行くとも考えず歩いていったが、目の前にまるで救いのように浴室のドアがあった。水道の蛇口が光り輝いていた。そこへ手を伸ばした時、不意に嗚咽がこぼれ出た。

 これじゃ落ち葉じゃなくて木靴だな、真夜中2時半にそうひとりごちたのは清掃人のレマだった[訳註;第1部にも登場した清掃人レマ・フタと同一人物]。いまいましくて重たい木の葉が、彼の箒の前に塊となって運ばれていく。そうそう、この葉っぱのことで、うちの孫がしょっちゅう詩を学校の方で習っているんだ。もしそれが彼の、つまり清掃人レマの気に入れば、その詩を彼はゴミ収集車の上で楽しげに口ずさむのだった。秋の木の葉は清掃人全体にとっての敵だった。10月と11月、落ち葉の時期には、それらはまだ我慢できるものだったが、しかし今や、年末ともなると、そうではなかった。10月と11月の落ち葉は作業上の困難と呼ばれ、それを理由として日当も上がっていく。この、秋レマは旧レクで4320も余計に稼いだ。しかし今やそこまで払ってくれる者はなかった、というのも落ち葉の時期は過ぎていたからだ。行き遅れどもが[訳註;原語lëneshëは「結婚を意識しなくなった女」だが、ここでは時期外れの落葉を指す]、そうレマは声に出して愚痴を吐きながら、落ち葉の中の二、三枚を掃き出した。彼は追加手当まるでなしで雪を掃く覚悟はできていたが、この行き遅れどもにはおよそ我慢がならなかった。雪のことを考えると、レマの苛立ちも少しはやわらぐ。彼は雪が好きだったが、どうしたわけだか、雪が降ることは稀だった。雪は路上を化粧し、そして雪は、己の部分が消え去り始めるその前の、ほんのしばらくの間だけ、その不思議な輝きのままに、目を惑わせてくれるのだ。ところがこの後家ども[訳註;原文でもvejushëは「未亡人」]と来たら・・・
 その時、レマは物音を耳にして振り向いた。二十歩ほど先の、バス停の表示板の下に人がいた。その人物は硬直したように動かなかった。空耳だったか、そうレマはつぶやいて、再び箒を動かし出した。また物音がした。その人物は表示板を動かそうとしていたが、それはもっとよく見ようとしてのことのように思えた。
「おいおい」レマは声を上げた。「こんな時間にバスなんかないよ。待ってても無駄だよ」
 するとその人物は両腕を下ろし、そのまま立ち尽くした。レマは夜中のおかしな連中にはすっかり慣れっこになっていたので、特に何とも思わなかった。彼は箒を動かし続けていた。それでも、好奇心に押される形で、もう一度振り向いてみた。すると今度は、驚きで固まってしまった。その見知らぬ人物は、表示板に全身でのしかかっていて、とにかくそれを引き剥がそうとしていたのだ。レマは初め早足に、そして駆け足でその人物のところへ駆け寄った。見知らぬ人物は表示板を剥がしかけていた。彼はかすかな呻き声を上げていた。レマは背後からその両肩を摑んだ。見知らぬ人物は激しく両肩を揺らしたが、それでも表示板から両腕を放さなかった。彼はレマに肘打ちをかけようとしてきた。両者の間に奇妙な、影同士のような格闘が始まった。それはずっと、ずっと長く続いた。全てが沈黙の中で行われていた。レマは自分が眠りの中にいるような気がした。
「おい、そこで何してる?」自転車で通りかかった誰かが声をかけてきた。「喧嘩するにはいい頃合だな」
「ちょっと聞いてくれ」レマはぜいぜい息をしながら、それでも相手から手を放さないままで言った。「サボタージュ犯[訳註;原語sabotatorはフランス語saboteurと同義で、「サボタージュ(破壊活動、怠業)を行う者」]を捕まえたんだ。二つ向こうの角に警官がいる。呼んできてくれ!」
 自転車の男は急いで姿を消した。それからすぐに戻って来た。光景はそのままだった。レマと見知らぬ人物は、今やぜいぜい息をしたまま一つの物体と化していた。
「警官はもう来るよ」自転車の男は言った。
 警官が駆け足でやって来た。足音がアスファルトの上に鳴り響いた。表示板剥がしの男は身を引き離そうと絶望的な努力をしていたが、レマはしっかりと摑まえたままだった。警官は、息を荒げてもつれ合う二つの頭と四本の腕をした物体に飛びかかった。
「違う俺じゃない、捕まえるのは俺じゃない」レマが叫んだ。
「わかるかそんなこと」警官が言った。
 やっとのことで警官は見知らぬ人物をレマから引き離し、肘を摑んで前へと歩かせた。表示板剥がしの男はしっかりした足取りで数歩進んだが、不意にその場に立ち止まると、痛々しい叫び声を上げた:
「表示板だ。表示板を外せ。奴らが来る」
 その声は異常なもので、これまでずっと発されたことがないようなものだった。
「表示板が何だっていうんだ[原語e sat ëmeは「お前のおふくろの」]」レマは嘲った。
 自転車の男を筆頭に、三人連れは、どうやら彼の家へ行くわけではないらしく、警察署へと向かっていた。路上の灯りの下で、レマはびりびりに破れた自分のシャツを見渡し、首を振った:お前だってこうなっちゃ危険手当が欲しいよな、レマはそう思った。今度からは婆さんの言うことを聞くとしよう。
「ようレマ、一体何事だい?」と、「パリ・コミューン」通りにいた清掃人仲間が訊いてきた。
[訳註;第1部でレマ・フタが作業に従事していたのはディブラ通りだが、「パリ・コミューン」通りからは数キロ離れている。ちなみに1973年版では「『フリードリヒ・エンゲルス』通りとなっている」]
「この友人を警察へ連れて行くところさ」レマが言った。
「ショウウィンドウでも割ったかい?」
「いいや」レマは言った。「もっと深刻だ」
「何だよ?」相手は声を落として訊ねた。
「表示板だ」レマも声を落として言った。「表示板を外そうとしたのさ」
 相手の清掃人は口笛を吹いた。
「そりゃまた政治的だな」
「何だと思ってたのさ?」レマは言った。
 警官は見知らぬ男の腕をしっかり摑んだままだった。男は首うなだれて歩いていた。その肩は弱々しく、短く刈った髪が、病んだ顔色を際立たせていた。
 警察署で、勤務に当たっていた警官はその見知らぬ男に二、三質問をすると、すぐさま精神科医院に電話をかけた。
「もしもし、夜勤の先生ですか?こちらは第三分署警察です。もしもし、誰か患者が抜け出してはいませんか?はい?ええ待ちますよ」
 受話器を当て、頭を傾けたまま、警官はレマのびりびりに破れたシャツを見つめた。隣接する部屋から、酔っぱらいのよく知った声が聞こえてきた:

 赤毛娘なんかにゃ手を出すな
 なぜってそいつらは面倒だ
[訳註;「面倒だ」の原語huqは「妙だ」「変な癖がある」]

「もしもし」警官は電話口で声を上げた。「ええ聴こえますよ。はい、はい」警官は見知らぬ男の方を見た。「全くその通り。まさしくその人ですよ。そちらの車を回していただけますか?ええ構いませんよ。はい?危険はないって?」警官は再び、レマの破れたシャツに目をやった。「了解。了解しました」
 警官は電話を切った。レマはその病院のうつろな瞳を見て、相手のことを気の毒に思った。
 精神科医院の救急車は20分後にやってきた。病人は看護士を見るとすぐ、きちんとその後に着いて車に乗り込んだ。赤十字の輝く救急車は速度を上げ、人気のない道路を走り去った。時刻は4時25分。
 精神科医院の夜勤の医師はアンドレア・ヤヌラといい、体格は太め、大学を出たのは1958年、叙事的演劇の素人団員をやっており、1959年にディアナ・ベルメマと結婚、住居課にアパートの申請を出していたが、その彼は時計に目をやった。そろそろ着く頃だな、彼はそうひとりごちた。それから一分後には、救急車のライトが病院の玄関でくるくる光り、木々と、鉄製のベンチと、湿ったコンクリート面を照らし出した。医師は軽くため息をついた。彼の肘の下には、院内日誌の374ページが開いたままになっていた。そこには看護婦の注意深い書体で書き込みがされていた:ファン・コロニャ。反応性幻覚症。危害の恐れなし。その下に、彼の症例に関するメモがあった。1943年、ドイツ軍進駐の初日、国境の村ボロヴァで・・・医師は、細かい字でびっしり書き込まれたそのメモを二度読んだ。それから電灯を消し、少しだけ横になって休んだ。窓を通して、冬の光のくすんだ四角形が張り付いていた。夜が明けようとしていた。彼は目を閉じ、1943年の夏の終わりに、南の国境を越え、アルバニアへと入ってきた最初のドイツ軍の車列を思い浮かべようとしてみた。車列はボロヴァ村に近付きつつあった。その列は長く、そして埃まみれだった。村へと入ったところで、車列はパルティザンの攻撃を受けた。ドイツ兵たちはトラックや武装車輌から地面に飛び降りたが、短時間の戦闘の後、アルバニアの更に内陸部へと向かう旅程を続行すべく、再び車に乗り込み始めた。最後に、ドイツ兵の一人が手早く、黒字で一枚の板切れにドイツ語の単語を幾つか書いていった:『ここで我々は攻撃を受けた。皆殺しにしろ!』それから板を棒にくくりつけると、その棒を道の脇に立てた。一人の農夫がそれを見ていたが、銃撃が収まった後でその板切れに気付き、近寄って、見知らぬ言葉にしばらく見入っていたが、どうも気分を害したらしい、というのも彼はいきなりその板切れを引き剥がすや草むらへ放り投げ、走り去ってしまったからだ。ところが、十分もするとそこへファン・コロニャが通りかかった。彼はその木板が草むらに落ちているのを目にすると、近寄って、見知らぬ黒い文字にじっと見入ったまま、そこに架かれた書体の達筆なことに驚いていた。ファン。コロニャはごく普通の農夫だった。彼は書かれたもの、ポスターや、時刻表や、公示書の類に敬意を払っていた。彼は板切れを草むらから引っ張り出すと、元の場所に、いやむしろ前よりもずっと見え易い場所に立てておいた。それから別のドイツ軍の車列の一団が、半時間後に姿を現した。先頭の車が、板の立っている場所の前で停まった。ドイツ兵たちはその板を読み、それから素早く村を包囲した。殺戮は恐るべきものだった。女も、年寄りも、子供も殺されて、道や広場や戸口の至るところに転がっていた。大半は火を放たれ焼かれていた。懲罰を終え、ドイツ軍は旅程を続行した。それがドイツ軍進駐の初日だった。武装車輌は休むことなくコルチャへ向かっていた。ファン・コロニャはガラス玉のような瞳で、切り刻まれた人々と、死を招いた板切れとを交互に見つめていたが、彼の唇はずっと、声のない声で「俺が」「俺が」「俺が」とつぶやき続けていた。その二年後の或る夏の夜、ファン・コロニャが最初に剥がしたのはエルセカの市場の看板だった。彼は初めヴロラの精神科院に連れて行かれたが、その後ティラナへ移された。治癒の見込みはなかったが、危害を及ぼすおそれはなかった。
 医師は毛布に一層しっかりと身をくるんだ。もしまた電話がなければ、もう少しだけ眠れるのにな、そう思った。ぼんやりと光る四角形がずっと遠ざかっていた。一本の道路と、そしてドイツ語で:『ここで我々は攻撃を受けた。皆殺しにしろ!』[訳註;原文ではドイツ語Hier hat man uns überfallen! Massakriert!]と書かれた表示板が、医師の意識の中でゆっくりと揺れていた。新しい表示板だ、新しい運命だ。大国の報復だ。何かが聞こえていた・・・何かが、ぼんやりと。外は夜が明けようとしていた。外は大きな、灰色の町で、そこは標識と表示板だらけだった。無数の表示板、バスターミナル、鉄道の駅、タクシー乗り場、矢印、時刻表、空港の、海水浴場の、軍事基地の案内板。要請、予告、指示。左を通れ。右だ。前進。後退。停まれ。世界中が、背後から表示板で串刺しにされている。理解不能だ。まさしくスフィンクスの嘲笑だ。医師は一睡もできないまま、ベッドの上で寝返りをうった。明日、義母であるディアナの母親を訪ねなければならなかった。ベルメマ家で、あらかじめ聞かされていないような政治的事件は何も起こっていなかった。『ここで我々は攻撃を受けた』[訳註;ここも原文はドイツ語]彼はもう一度つぶやいた。当然、訪ねなければならなかった。

2
 編集部の長い廊下を歩くベドリは、両手にフルシチョフの肖像画を抱えていた。事務室のドアの前にいたイリルが、それに目をとめた。
「ベドリ、そんな肖像画、何処から持ってきたんだい?」彼は訊ねた。
「会議室からよ」ベドリは振り返りもせず言った。[訳註;ベドリは主人公ベスニクが勤務する党機関紙編集部の清掃係。イリルはベスニクの同僚]
 イリルは駆け足で、会議室がある四階へ上がっていった。並んだ椅子、赤いクロスの掛かった長いテーブル、窓のカーテン、全てが茶褐色の沈黙の中に溶け込んでいた。イリルが向かいの壁に目をやると、エンヴェル・ホヂャの肖像画の隣の、たった今肖像画を剥がしたばかりの場所に色褪せた四角形があった。慎ましやかな光が、窓からその上に注がれていた。イリルの小さくてよく動く眼は好奇心に満ち溢れていた。彼は三階、四階と下りていき、北風のように一つの部屋に入っていった。
「ベドリが会議室からフルシチョフの肖像画を外していったぞ」イリルはひと息でそう言った。「俺はこの目で見たんだ」
皆が顔を上げた。
「そりゃ本気で言ってるのかい?」記者の一人が訊ねた。
 静寂の中で、イリルの荒い息遣いだけが聞こえた。
「俺はこの目で見たんだ」彼は言った。
「そりゃ妙だな」相手の記者が言った。
 ちょっとした沈黙の後で、記者たちは一斉に喋り出した。
「外務課へ行くべきだな」誰かが言った。
「あそこなら黄表紙も読んでるだろう[訳註;「黄表紙」は原語buletini i verdhë(黄色い本)で、仏語版全集の註によれば「ATSH(国営通信社)の報告書で、外国に関する重要事項が全て区別なく収められている」]
「そうだな、あそこなら黄表紙百冊分よりいろいろ知ってるだろうしな」と記者の一人が話している間に、ベスニクは部屋を出て行った。
「何も教えてくれやしないさ」別の記者が言った。「俺も何度かそれとなく探りを入れてみたんだが、無理だったぜ」
「外国から戻って以来、どうもすっかり変わってしまったみたいだ」[訳註;外務課の担当者を指している。決定版では削除されているが、他の版ではNikollëという名前もある]
「それは俺も気付いてたよ。顔色も悪くなってるしな」
「何だか家庭の事情があるらしいぜ」
「モスクワ行きのこともちっとも話してくれない。ひとことも、印象さえもだ。まるで行ってもいなかったみたいに」
「もし本当に向こうで何かあったのなら、すぐにわかりそうなもんだがな」
「俺もそう思うよ」
そこへ編集会議の秘書が入ってきたので、彼らの会話は中断した。
 秘書は週間予定表を探していた。ドアのところに、赤毛の事務官が姿を見せた。
「国家監査局で、編集長を探しているんだが」
事務官は編集会議の秘書に向かって言った。
「編集長なら中央委員会ですよ」
 秘書は週間予定表を一部受け取ると、部屋を出ていった。
 ドアがひっきりなしに開いたり閉まったりしていた。そろそろコーヒーを飲む時間だった。コピー室のドアの前では、記者たちが互いにぶつからんばかりに出入りしていた。タイピストの女性たちの指先が驚くべき速さで動いていた。それは彼女たちにとって最も骨の折れる時間だった、というのもコーヒーを飲みに行く前に、誰もがタイプして欲しいものを持ってくるか、或いは事前に預けておいた原稿を取りに来るからだ。
 編集会議秘書の部屋のドアの前で、コピー室の女性が泣いていた。部屋の中から、秘書が電話で話す声が聞こえてきた:編集長なら中央委員会ですよ、それはもう言ったでしょう?いつ戻るかですって?知りませんよ同志、こっちは何も知りません。
 赤毛の事務官が北風のように廊下を駆け抜けていった。誰かが訊いていた:新年はどちらでお過ごしに?

 モスクワの81か国共産党会議で起こったことについて報告するための中央委員会臨時会議は、まだ続いていた。それは前の晩遅くから始まり、ほぼ夜を徹して続けられ、今朝にまで至っていた。
 曇り空の日だった。僅かな陽の光が、辛うじて会議室の一方の柱までは届いていたが、その向こう側はシャンデリアの光に照らされていた。
 柱は白い色で塗られていた。今頃になってエンヴェル・ホヂャは、自分たちがいない間に会議室がすっかり塗り直されていることに気付いた。
「同志諸君、我々は来る日も来る時も、諸君と共にあった、何となれば諸君はシベリアの氷に難儀したことを知っているからだ。そして我々は知っている、それにもかかわらず諸君が我々に語ったことは、我々の考え得る印象を遥かに超えていたことを」
 報告を聞いた後に今喋っているのは、中央委員会の11番目の委員だった。これまで全員が一切の疑義を差し挟むことなく、代表団の姿勢を承認していた。発言を求める委員の名簿は長々と続いていた。
 ここモスクワでの君たちの言動を知ったら、君たちの党の中央委員会は失望するだろうな。そう自分に言ったのが誰だったのか、エンヴェル・ホヂャはよく思い出せなくなっていた。彼がそれらを不意に思い出したのは、自分の乗った飛行機がアルバニアの国境を越え、雪に覆われた山々が見えてきた時のことだった。ところどころ粉雪で白く染まった黒い絶壁と斜面と台地とが、並んで広がっていた。凍りついた村々が、山のくぼ地の中に造り込まれたもののように見えた。その斜面の、それらの大半を彼は戦時中に見知っていた。そして飛行機が速度を落とし、更に高度を下げ、更に山のすぐ上へと近付いていく中で、エンヴェル・ホヂャはほんの僅かながら、その下に、中央委員会のメンバーの多くの姿が見えるような気がしたのだった、ここに一人、そこにまた一人、まるであの頃のように、雪の中で散り散りになり、風で引き裂かれたパルティザンの丈長なコートをまとい、傷を負って青ざめ、飢えであちこちへこんだ顔をして。
 会議室では発言が続いていた。 三列目で、反対する番を待っていた政治局の女性局員がうなずいてみせた。その隣には、統制委員会から来た総会メンバーの一人が座っていた。昼には総会の会議の合間をぬって政治局会議が開かれ、そこでその女性局員には態度を改めるようにと要求が為されることになっている。それから夜には中央委員会の会議が続けられ、そこで全てが決定されることだろう。

 朝の活気が過ぎて、新聞社の建物には幾分かの静寂が訪れていた。取材班長のラチが、部屋のドアから顔をのぞかせた。廊下は人もまばらになっていた。コピー室からは、タイプライターを叩く、流れるような音が聞こえている。ベドリは雑巾で応接室の扉を拭いているところだった。
「ベドリ」ラチは言った。「ちょっと来てくれないか?」
ベドリは雑巾を手に入ってきた。ラチはドアを閉めた。
「ベドリ」ラチは柔らかな口調で訊ねた。「誰か君に、会議室からフルシチョフの肖像を外すように言ったのかい?」
「おやまあ、何だってそんな、私が自分のおつむで外したとでも?」ベドリは言った。「編集長に言われたんですよ」
「ああ、そうか、そうか・・・」ラチはぶつぶつとつぶやいた。「それじゃあね、誰かが何か言ってきたかい?例えば職員でだ、君が肖像画を抱えて社内を歩いている時にだよ」
「何も聞きませんでしたが」ベドリは言った。
「いやもう一度、思い出してみてくれ」
「そんなこと言って、私を困らせないでくださいな」ベドリは言った。「そんなもの私には関係ありませんよ。うちには子供たちだっているんですからね」
「まあまあベドリ、ちょっと待ってくれよ」
「待つも待たないも私の知ったことじゃありませんよ。ねえ班長さん、そりゃあんたの問題でしょうが。私をクルチョフなんかに巻き込まないでくださいな。うちには子供たちだっているんですからね」[訳註;原文でベドリはフルシチョフ(Hrushov)をクルチョフ(Kruçof)と発音している]
「ああもういいよ、わかったよ」ラチ班長は言った。「冗談なんだよ」
「偉い人達のことで冗談なんかおやめなさいな、ねえ班長さん。偉い人達には偉い人達の問題が、庶民には庶民の問題があるんですよ。このベドリにね、写真を外せと言われりゃあ、ベドリは外しますよ。掛けろと言われりゃあ、また掛けますよ。雑巾をかけろと言われりゃあ、かけるのがこのベドリですよ。だのにあんたが考えることなんて、このベドリが知るもんですかい、おわかりで?」
 やれやれ、とベドリが部屋を出て行ってからラチ班長は思った。どうなってるんだ?彼は窓際に歩み寄り、外を眺めた。大通りでは、長いコートに身を包み、十二月の酷寒から耳を守るため襟を立てた通行人たちが足早に行き来していた。何か耳に残るものがあった。何かの匂いがした。だが何なのかははっきりしない。苦々しい感覚が、彼の全身にわき上がっていた。何だ?何なんだ?ああ、そうだ。自分よりもベスニクの方がよくわかっている、そう考えることはラチにとって耐え難いものだった。ベスニクはちっとも大した存在ではなかった。それなのに、彼は旅団宮殿の政府の晩餐会にまで呼ばれているのに、そこにはラチ自身はいなかった、何年も、もう何年も、あれはいつからだ・・・ラチはベスニクに訊いてみたことがある:向こうでは、モスクワではどうだった?と。ところがベスニクの返事は至って冷淡なものだった:いつも通りさ、いつもの代表団さ、と。冷たいものだ。きっとあいつは今頃、自身を信任厚い男だと思っていることだろう。あいつにしてやられたな。ラチは溜め息をついた。鉄道の駅から中心部まで、人がひしめき合っていた。昼の汽車だな、とラチは思った。
 アラニトも何か聞いていた[訳註;アラニトとは、第1部でラチの回想に登場している、内務省職員だったが酒の席での不規則発言がもとで解雇され、党からも除名されたアラニト・チョライのこと]。彼とは前の晩に会ったばかりだ。表情は暗かった。あのモスクワで・・・何かがあったんだ、そう彼は言っていた。ベリヤは健在だったが、彼の頭を悩ませる作家たちもいると言われていた。もしベリヤが健在であれば、とラチは思ったものだ。その時は・・・だがそのことを考える気にはなれなかった。彼はアラニトのことが心配だった。一度だけ、コチ・ヅォヅェの話題になった、1956年の、その時はまだ名誉回復の見込みもあったティラナ会議の話だったが、アラニトの瞳は不安でどんよりとしたままだったので、ラチも早々に会話を切り替えてしまったのだ。それはあの忘れもしない1947年を思い起こさせるものだった、あれはまだ閣僚委員会が機能していた頃のことだ[訳註;コチ・ヅォヅェについては第1部の訳註でも述べた通り。戦後アルバニアで内相を務め、閣僚委員会(Komiteti i Dikastereve)で反対派を大量粛清したが、ホヂャらとの権力闘争に敗れ失脚した]。それは恐らく、彼の人生の中で最も素晴らしい数か月だったことだろう。決して終わることのないように思える音楽の如く、いつまでも燃え続けているような状態だった。気候は冷え込んでいった。ティラナじゅうの公園やバーで、楽団の演奏は深夜まで止むことがなかった。ラチは仲間たちと共にテーブルにつき、ビールのグラスを手に、その夜遅くには逮捕されることになるであろう人物を横目で眺めていた。自分たちが、顔見知りでもなければ会ったこともない赤の他人の人生にのしかかっているのだ、という思いを起こさせるような、この激しい歓喜の感情は何だ?相手は彼らと同じようにビールを飲み、妻や婚約者に微笑みかけ、ご機嫌になっている、それなのに既に彼は打倒されているのだ。自分たちは彼の頭上においては天空からの一閃であり、彼の足元においては地震のようなものだった。夜の歓喜の中で逮捕されることになろうとは、何と惨めで愚か者[訳註;原語はnaiv]だろう、畢竟、自分たちも万能感を覚えるわけだ。権力が他人の運命に及ぼす陶酔感というやつだ。それは何がしかの形でラチたちの人生の隙間を、その外側で絶えず鳴らされるその音楽を、そして遠く、他人の人生の中でちかちかとまたたく灯りとを埋め合わせる。それは、妻たちや娘たちの髪や声や膝から流れ出た、疲弊したような感情とないまぜになっていて、その彼女らと共にテーブルについているのは、逮捕されることになっている者たちだ。深夜に彼らの家の玄関がノックされる:開けなさい、国家保安部の者だ[訳註;国家保安部(Sigurimi i Shtetit)は労働党時代の内務省管轄の治安維持機関、要するに秘密警察。第2部にも登場している]、そしてあの女たち、今は屋外のバーで、我関せずとばかりに高嶺の花気取りでいるあの女たちは、乱れた髪で、まだ愛の営みの温もりが残る寝着のまま、怯えて叫ぶのだ:違うわ、違うわ、これは酔いがまわってるだけなのよ。学校で習ったことがある、いにしえの神々はこんな風にして、雨や雷鳴の姿になって人間のもとへ降りてくるのだと。しかしラチとその同僚たちは、深夜のノックの姿で不意に現れたのだ。ドン、ドン、ドン。
 そんな時期もたちまち過ぎ去った。破局は不意にやって来た。最初の揺さぶりは閣僚委員会の解散だった、それから地震のような揺さぶりが続き、それらのすぐ後に転落がやってきた。それはまさにめくるめく恐怖[訳註;「めくるめく」の原語maramendthは英語deliriumにほぼ相当]、何処までも際限なく続く落下だった、内務相が政治局からも中央委員会からも排除され、長々と続く会議の日々、批判と自己批判の連続、党の委員会の廊下には不安と期待の日々、党員が党員候補に格下げされ、そして新たな破局だ、元内務相が逮捕され、何もかもが逆戻りし、そして遂にラチは或る種の倒錯した感情と共に、深夜の自宅の玄関がノックされるのを待ち望む側に廻った(彼に対して暴行を加えているような感覚をおぼえる者もいるだろう)、そこから再び深淵に嵌まり、自己批判、自己批判、自己批判の後に爪と歯とでがっちりと捕らえられ、最後の最後の或る時、渦が静まった頃になって、彼にとってはまるで馴染みのない仕事である新聞社へと放り込まれたのだ。
[訳註;要するに、ラチはかつてコチ・ズォズェ派に属し閣僚委員会で反対派を摘発する側にいたのだが、ヅォヅェの失脚に伴って権力の中枢を追われ、除名こそ免れたものの、党紙編集部の閑職に追いやられたのである]
 どうなってるんだ?ラチ班長は再びつぶやいた。彼は、記者たちの一団が「リヴィエラ」かその近所のバーでコーヒーを飲み、ラチにとってみればまるで無意味としか思えないような会話を交わし、冗談を言い合っている様を思い浮かべた。きっと彼らは互いに会話を交わし、黄表紙で読んだ内容について語り、見込みを立てているのだ。だが彼には、誰も何ひとつ教えてくれない。彼は自分が孤立していると感じていた。きっと、もし本当に何かあれば、党の諸組織からすぐさま情報を得られただろう。そしてあの頃の彼なら、他の連中と一緒にいれば、何だって聞くことができただろう・・・他の連中と一緒に・・・それは辛いことだった。もしベスニクがその中にいなかったとしたら、これほど辛くはなかっただろう。だがベスニクは何でも知っているのに、ラチは何も知らないのだ。取材班長の彼ならば、他の連中から情報を得られただろうに。彼はもう内部の人間ではなかった。彼のことをベドリさえも気にかけてはくれないのだ。
 ラチは、人が何処に責めを負わせたらいいのかわからなくなる時のような、或る種の悲しさを感じた。こうした感情は何か月も前から続いていた、それは或る九月の晩、ティラナ郊外の屋外バーからのことだった。あの頃と同じように音楽が聞こえ、至る所にカップルがいて、それに加えて月の黄色い光が煌々と、広がる平野に絶え間なく注がれていて、まるでそのせいで何処までも流れる沼地が作られるのではないかと思いたくなるほどだった。彼は、ティラナの丘陵地の何処かで元内務相が銃殺され、埋葬されているに違いないという思いにかられ、そして突然、溢れる月の光を見ている内に、激しく狂おしい感情にとらわれた・・・私の内務相、私の内務相が・・・それは耐え難い月であり、終わりのない喪失感であり、尖った頭を天に向け遠吠えする野犬の群れへと身を投じたくなるような欲求であった(きっとこの犬どもの壮大なドラマは古代の何処かしらで、或る月夜の晩に生じたものに違いない)。
 外が騒がしくなった。記者たちが帰ってきたところだった。彼らのユーモアのみならず、その喋り方や、笑い方や、それどころか服の着こなしまでもが、彼には馴染みのないものだった。アラニトの言った通りだ。
「編集長会議だよ」誰かがドアの向こうで叫んでいた。「どの部署の部長も、経済編集部も、みんな会議だよ」
 彼らは列を成して編集長の広い部屋へ入ると、T字に並んだテーブルを囲んで座った。三台ある電話の一つがずっと鳴っていた。編集長はようやく立ち上がった。今会議中だ、そう言って編集長はまた腰を下ろした。
「同志諸君、みんな来たかね?それじゃあ始めよう」彼は言った。その前にはメモ帳が置かれていた。「たった今、中央委員会から戻って来たところなんだが、向こうでは他でもない、ちょっとした記者会見も開かれていてね」彼はメモ帳をぱらぱらとめくった。深い沈黙が下りていた。「この日だ、つまり明後日だが、我が国全土で大規模な節約運動の呼びかけが行われることになっている」
 始まったな、とベスニクは思った。三、四人の視線が彼の目とがっちり交差しそうになったが、彼はその交差を回避した。
「私が諸君に呼びかけていたように、この運動を我々の紙面にどう反映させるべきか、一丸となって検討していこうと思う」
 始めないわけにはいかない、ベスニクはそう考えた。当然だ、いつか始まることになっていたのだ。この三週間、彼には、もしかしたら何も起こらないかのような、まるで何もかもが悪い夢だったかのような気が何度かしていた。一週目が過ぎた、とベスニクは思った。そして二週目も過ぎた。平日が去り、土曜日が、それどころか日曜日までがやって来た(彼は自問せずにはいられなかった:まだ日曜日があるのか?と。それはあたかも秋の終わり、仲間たちが枯れてしまったのに[訳註;まだ咲いている]一輪の花を目にして驚く人のようだった)。確かにそれは日曜日だった、ピクニック、ダイティ山、高校の最終学年の生徒らは銀行-映画館の路線バスの車掌と幾度ももめていた、理由はスキー道具だ、車掌にバスへの持ち込みを認められなかったから、そしてその他、週末の何もかもだ、それも新年を間近に控えての。
 モスクワからひと月、この日々の間にベスニクは、悪い事態は回避されたのだと半ば信じかけていた。何かが、恐らく共産主義世界の上層部に起こったのだ。やっと耳を傾けて貰えたのだ、恐らく・・・それがどうだ、いきなりこの会議だ。それも身震いするような言葉だな:節約運動とは!嵐の後のこの長い静寂が、このありふれた時間の流れが、欺瞞以外の何ものでもなかったように思えた。それは病が発症するまでの数日間でしかなかったのだ。
 編集長は時折メモ帳に視線を落としながらまだ喋り続けていたが、ベスニクはもはや聞いていなかった。何とか彼と目を合わせようと虚しい努力を続ける鬱陶しい視線の数々も、彼にはもはや苦ではなかった。
 戦争が始まったのだ。経済封鎖だ。すぐさま最初の兆候として悪天候の予報が流れ、壁面にバス停にタクシー乗り場に、至る所、至る所に最初のポスターが貼られるだろう、こんな言葉だ:『節約運動』。最初のうちは、これらのありふれた言葉の背後に何が隠されているのか、誰にも理解できないだろう:『石油の一滴でも節約しよう!』、『パンを節約しよう!』
 編集長はまだ喋っていた。皆は紙切れやノートにメモを取っていた。異様な静けさの中、ペンを走らせる音がする・・・小麦を齧るネズミ・・・奴らの報復だ、とベスニクは思った。それ以外にあり得ない。それ以外に考えようがない。辛いことだ、兄弟よ、辛いことだ・・・俺たちを打倒するつもりなのか?辛いことだ、兄弟よ、だが・・・俺たちを打倒・・・辛いことだ・・・ベスニクの頭の中で、港の大型昇降クレーン[訳註;原語vinçは恐らく英語winch]が無慈悲な動きで鉄製のフックを上げ下げしている、そこは機関車のうなり声と水に濡れたポスターがある、さびれた港だった。

 家に戻るまでの間、できるだけ回り道をしようとあちこち足を伸ばしながら、ベニは、ティラナの何処にも、大通りとラジオ・テレビ局の建物とを結ぶこの道以上に人通りのない場所は見つからないなと考えていた。その人けの無さを、毎年冬には閉鎖される児童遊具広場の存在がいや増していた。切符売り場の前や、柵の内側や、金属製のブランコの上や、至る所に枯れ葉が落ちていた。
 向かい側の歩道の、一軒の建物の壁に、誰かが演劇オリンピックのポスターを貼っているところだった。ベニは上演される芝居の題目を読もうとしたが、それは無理だった。
 不意にイリスが目に入った。何語を習っているんだろう一体全体、あんなカバンで?とベニはつぶやいた。外国語学校に通っているとイリスから聞いたことがある。まさか中国語を習ってるわけじゃあるまい、そう思った。イリスは向こうで微笑んでいる。あの娘は九月から何も変わっていない、ただ前より色が白くなった。
「こんにちは」互いに顔を合わせた時、そう言ったイリスの呼吸は少しだけ乱れていた。
「アルベン、お元気?」
 ベニは手を差し出しながら、よくわからないことをぶつぶつつぶやいた。えっ何?とイリスが訊いてきた。ベニはすっかり舞い上がっていた。イリスは、悪いけれど急いでいたので、もしベニさえよければ少しだけ一緒に歩かないかと言ってきた。
 勿論さ、とベニは返事をした。勿論さ、そう思ったのだ。ただしあの忌まわしい人混みの方へ行かない限りはな。あの頃なら、あの九月なら、もっと自然に話せていたような気がした。
 道すがらベニは、彼女との会話に何ひとつ惹きつけられるものがないことに、苦痛を覚えていた。学校で習った文学さまさまだな、そう彼は思った。ホメーロスが書いたものだの、アンナ・カレーニナだの、三十年代のリアリズムだの、何ひとつ憶えていなかった。
 公園の前を通りかかった時、彼の頭がひねり出した唯一つのことは、彼女にしばらくここにいようと誘うことだった。彼女も承知してくれた。二人は池のそばの木製のベンチに座った。寒かった。ダンス場の近くに瓶ビールの箱が幾つか、恐らく夏からずっとなのだろうが、上下に積み重ねられていた。
「ほら、時間が経つって早いものねえ」そう彼女が、ほんの少し親しげな口調で言った。「九月のあの日、ここに来た時のこと憶えてる?」
 ベニはタバコの箱を取り出した。やっと単数形で呼んでもらえたな。[訳註;先程イリスが口にした「アルベン、お元気?(Si jeni, Arben?)」ではベニに対する呼びかけが2人称複数形だったが、その後の「憶えてる?(Të kujtohet…)」では2人称単数形になっている。他の印欧語同様、アルバニア語でも動詞・代名詞の2人称複数は敬称、2人称単数は親称を表し、例えば初対面で親しくない相手には複数形で呼びかけ、心理的距離が近付くと単数形に切り替える。なお、ベニとイリスは第1部の回想でも顔を合わせているが、直接の会話は書かれていない]
 冷たい風が吹いていた。彼女はコートの襟を立てた。二人の背後の、何処かずっと奥の方から、「薪はいかが」という単調な叫びが聞こえていた。市内の大時計が二回鳴った。
「そろそろ行きましょう」彼女が言った。
 ベニは表情を曇らせた。
「前に道で会ったのも、偶然じゃなかったんじゃないかしら」彼女は言った。「あなたの友達のあの人が・・・」
ベニはみぞおちに一発喰らったような気分になった。
 その時、大きな黒塗りの乗用車が道に停まると、中から女性が一人降りてきた。女性は公園の中に入り、二人の前を横切ったが、二人には見向きもせず、ベンチの一つに腰を下ろした。
「何だか見覚えのある顔だ」ベニが言った。何処かでこの顔は見たことがある、新聞か、肖像画か。
「あれは指導者よ」イリスが言った。「政治局のメンバーだわ、名前は確か・・・」
「しっ、こっちを見てるぞ」
 イリスは唇をぐっと噛みしめると、彼の肩に頭を近付け、小声でささやいた。
「去年のメーデーのパレードで、私あの人の肖像画を持ってたのよ。雨が降り出したの憶えてる?もう、あの日はびしょ濡れだったわよ!」
 ベニは何と言っていいか分からなかった、というのも何も憶えていなかったからだ、だから笑ってみせた。
「私もう帰るわね」彼女はそう言うと手を差し伸べてきた。
「もう少し、一緒に歩いてもいいかな」とベニは言った。ベニは黙ったまま、彼女と並んで歩いた。公園の向こう側、遠くの方から薪売りの「薪はいかが」という声が聞こえていた。
 何だって俺はこうちゃんとしたことが言えなかったんだろうな、ベニはそう思った。ずっとそんな思いにふけっていた時、大理石の板が目に止まった。
「ほら、アルバニア・ソヴィエト友好の木だよ、フルシチョフが植えたんだ」ようやく話題に出来そうなものを見つけて、彼は嬉しそうに言った。「これ聞いたことあるかい?」
「それについて書いた詩を、新聞で読んだことがあるわ。これがそうなの?」
「そうさ」ベニは言った。
 イリスは幾らかの言葉が刻まれた大理石の板を読もうと、ほんの少し屈んだ。
「友好の木」彼女は言った。「不思議ねえ!でももしも・・・」そして彼女は微笑んだ。
「もしもって何?」ベニは言った。
「もしも二人の人間の友情のために植えられた木があるとしたら」そして彼女はまた笑った。「私の考えることって変だと思う?」
 俺なら君のために森ごと植えてやるさ、そうベニは思った。そんな言葉を声に出して言うのは似合わないな、とも彼は感じた。
 その少し先の、公園を出たところでイリスはベニに別れを告げ、手を差し出した。
 公園を出て帰る途中、ベニは、黒塗りの車から出て来た女性が落ち着かない視線で自分の方を見つめているのに気付いた。

 彼女が一人で公園のベンチに座るのは、これが初めてだった。政治局の会議が二時半に終わり、運転手が速度を出して車を家へと走らせていた時、彼女は、運転手に向かって喋った自分自身の声に、殆ど驚かんばかりだった:家じゃなくて、公園にやってちょうだい。
 自分が政治局から排除されるであろうことは明らかだった。それは極めて早急に、恐らく今日、今夜の中央委員会の会議で行われるだろう:或いは遅くとも数日後、党が例の亀裂について長々と発表を行うに先立って為されることだろう。彼女はひとしきり、数万人の共産主義者が他でもない彼女自身の態度について聞き耳を立てるであろう様を思い浮かべた。彼女がモスクワでの党代表団の行動の全てを必死で断罪しようとしていたのだと聞かされた時の、その数万の惚けたような顔を想像する時、彼女は或る種の陶酔したような誇らしさを感じた。たとえ自分が全てを語ったとしても、自分に土砂降りの大雨が降りかかるであろうことは分かっていた。
 公園の木々は丸裸だった。池のふちに苔が層状にこびりついていた。何処か遠くで「薪はいかが」と叫ぶ声が聞こえていた。自分と彼らとどちらが正しかったかはもう間もなく明らかになるだろう、そう彼女は思った。もう間もなくだ・・・信用貸付が抑えられ、経済封鎖が始まる。封鎖という言葉が脳裏をよぎる時、彼女は冷たい喜びを感じた。それこそ彼女が期待を寄せることのできる言葉だった。ブロック・アーダ。それはコンクリートか、戦車で出来ている何かだった。彼らはソヴィエトに対して赦しを請わざるを得なくなるだろう。そして、つまりそれは、彼女に対しても同じことになるだろう。
[訳註:「封鎖」の原語bllokadëは「ブロック」に由来するが、原文では“bllok-adë”と分けて発音されている]
 「薪はいかが」の単調な叫びがさっきより近くに聞こえた。これから次々と何もかも失っていくであろうことが、彼女には分かっていた:守衛に、運転手に、自動車に。国じゅうで彼女の肖像画が取り払われるだろう。彼女の夫もまた、閣僚の座から追放されるだろう。これから数か月で、彼女の人生は坂道を転げ落ち破滅に向かう他ない。それから・・・それから・・・それからいつまで?と彼女は不安に駆られ自問した。
 ベンチの背もたれは氷のように冷たかった。彼女は立ち上がり、足早に車へと向かった。
「取り敢えず町を回ってちょうだい」彼女は運転手にそう言った。
 車の窓越しに彼女は、交差点を渡ろうとする人々を、歩道を通る人々を、新年の飾り付けが施されたショウウィンドウを眺めていた。何もかもが、まるで別世界の様に遠くにあった。文化宮殿の前の庭を囲んでいる木製の塀に、誰かが際限なくポスターを貼り続けていた。演劇オリンピック。演劇オリンピック。演劇オリンピック。彼女はどうにか芝居の題名を読むことができた。それが「クレムリンの時計塔」だったので、ほんの一瞬だけだが、彼女は深い悲しみに沈んだ。
 誰かがさかさまに提げた七面鳥の頭部が、交差点で停まっている車の窓ガラスにコツンと当たった。こんなにもたくさんの人が、ここから何処へ急いでいるのだろう、と彼女は思った。新年のための金を引き出そうと並ぶ貯蓄銀行の前でも、商店街でも、診断の結果を受け取る為に待つ病院でも、きっと誰もそのことは知らないのだ。
 路上は霧でじっとりと湿っていた。その傍らに化粧品店の細長いショウウインドウが見えた。
「ここで停めて」彼女が不意に言った。
 二、三人が、車から彼女が降りてくるのを好奇心に満ちた目で見つめた。彼らは顔を見合わせたが、彼女が化粧品店に入っていくと、その目には更に一層の驚きが浮かんだ。
 彼女が化粧品の店に入るのは初めてか、もう何年も何年も前以来のことだった。店内には芳香と、人々が殊更に必要としないものを売っている場所特有の静けさがあった。女性店員は、恐らく彼女のことを知っているのか、動揺していた。客の一人が連れの女性に何かしら耳打ちしていた。
「いらっしゃいませ」と女性店員が小声で言った。
 彼女は、香水の小瓶やクリームのチューブや頭髪用シャンプーやマニキュアや口紅がずらりと並んだショウウインドウの内側を眺めていった;それは彼女が殆ど知らない、ずっと刺激的で、それ以上に何処かしら煽情的な、ガラスのせつなさのようなものをまとった、こだわりに満ちた世界だった。役職を失ったら、きらびやかなこのガラスを手に入れることが出来るかも知れないという、そんな考えが彼女を冷たく貫いた。
 誰とも目を合わせないまま化粧品店を出ると、彼女は車に乗り込んだ。
 家では、車の音らしきものを耳にして夫がドアの向こうで彼女を出迎えていた。
「で?」彼は問いかけた。
 彼女は、全て終わったと言いたげなしぐさをしてみせた。彼の顔は色が抜けたように真っ青になった。
「俺は、もう少し先のことになるかと思っていたんだが」
「それならいいけどね」
 彼は彼女とドアとの間をうろうろしていた。
「いつ?」彼は訊いた。
「たぶん今夜。居間に誰かいるの?」
 彼は『そうだ』とうなづいてみせた。
 彼女はどうでもいいといった表情で、部屋へ入った。統制委員会の委員がソファからさっと立ち上がり、頬のこけたその顔はほとんど彼女の顔とくっつかんばかりになった。その目には先程の問いがあった。どうだった?と。しかし彼女はそれを理解できないかのように振る舞った。彼女は他の者たちに手を伸ばした。一人はずっと落ち着かない様子の軍人で、もう一人は夫の友人、そしていとこ夫婦だった。もうじきあなた達も私を疫病のようにして離れていくのよ、彼女はいとこ達にそうつぶやいた。皆おし黙ったままで、どうやら既に何か聞かされているらしかった。
 統制委員会から来た男の視線は、彼女の視線を捉えて離さなかった。数日前、ソ連側は彼に対して、何もかも元のさやに納まるだろうというお墨付きを与えていた。結局のところ、アルバニアはワルシャワ条約機構に加盟する。そしてアルバニアには、他の全ての加盟国と同様、任務が与えられる。私は公然とフルシチョフ支持に回る、そう彼は彼女に言っていた。君たちも好きにしろ、と。それが今日になって、彼の視線はこう訴えていた;どうなってしまうんだ、どうしてこんな厄介な事になってしまうんだ?と。そんなおいぼれじみた目で見るのをやめなさいよ、と彼女は思った。どうなってしまうかなんて私にどうしてわかるもんですか?私が貧乏くじを引かされてしまったのかしら?
 暖房管が耐え難いほどの熱気を放っていた。
「本当にごめんなさい、今忙しくて」彼女は来客たちにそう言った。
 統制委員会の男は彼女から目を離さないままだった。
「今夜の支度はもう済むよ」夫が男に小声で言った。
「わかった」
 外は暗くなりかけていた。
 それからしばらくして、閣僚[訳註;である夫]は立ち上がり、手で音を立てないようにしながら、彼女がどうしているか見に行った。書斎のドアは指二本分ほど開いていて、彼はそこから顔をのぞかせた。彼が見たものは些か驚くべきものだった。今まで何十回となく見たように仕事机に向かい、背中を丸めてメモや書類や次の会議の演説原稿に向かっているのではなく、彼女は鏡の前に立っていたのだ。
 夫は自分の目が信じられなかった。鏡の面に顔を近付け、ぎこちない手つきで、彼女は口紅を塗ろうとしていたのだ。

 イリスと別れてから、ベニはしばらく通りをぶらついていた。葉の落ちた木々の背後に立つ七階建ての灰色のアパート群は、いつもよりも大きく見えた。そこへとうとうあいつだ、「薪はいかが」屋が、斧を肩に担いでやって来た。あいつは日がな一日「薪はいかが」と叫び続けているが、本当は薪を切っているのではなく、人々の神経をずたずたにしたくて来ているのだ、ベニは殆どそう思いかけていた。
 ベニは、連中がいつもの場所で自分を待っていることを知っていたので、ずっとそうだったのだが、その足取りは更に遅くなった。しかしそれだけ歩みを遅めても、ディブラ通りに出てしまうのだった。頭が軽くずきずきと痛んだ。あの想像の中のボクシングの決闘で彼、すなわちアルベン・ストルガは、外国のリングの上でテレビカメラに囲まれて、黒人の男と絶え間なく殴りに殴り合っていた;もっともその決闘は度々中断され、その翌日、とりわけ一人で路上を歩いている時に、彼自身の想像の中で再開され、継続されるのだった。それは第四、或いは第五ラウンドだった。ベニの片目は腫れ上がり、相手は唇を切っていた。轟音が響くホールの暗闇の中で、二人は激しく殴り合った。ベニは膝から崩れ落ち、ロープにもたれかかった。ノックダウンだ。ワン、トゥー、スリー、フォー・・・腫れ上がった彼の目が、観衆の中にイリスの視線をとらえた。彼女は指を噛みしめていた。再びボクシングが始まった。黒人は狂ったように襲いかかってきた。しかしどうだ、ベニも殴りつける・・・立ったまま死んでいたとはこのことだ、後になって新聞やラジオやテレビが報じていた通りだ。黒人の男(その顔は今やほとんどトーリのそれになっていた)は意識を失くし伸びていた。リングに医師たちが駆け上がってきた。
 道路をけたたましい音を上げて救急車が走り過ぎていった。ディブラ通りだな、とベニは思った。思ったよりも早く着いていた。ああ、あそこにいる、みんな揃って、ショウウインドウに背中を預け寄りかかっている。
 彼らの方へ行く前に、ベニは演劇オリンピックのポスターの前で立ち止まり、殊更何を思うでもないまま、芝居の題目を読んでいた。上演場面の写真の中の一枚に彼はトーリの姿をみとめたが、どうやらエキストラで出演しているようだった。「輝ける幸福」、彼は眠気を覚えながらそれを読んだ。芝居は、四・・・ラウンドか。[訳註;原語raundは芝居を数える「幕」というより、英語のroundと同様、ボクシングの「ラウンド」を意味している]
 彼らは素っ気ない挨拶を交わした。トーリはベニが来たことなどすぐさま忘れてしまったようだった。サラはあっちを見たり、こっちを見たりで、まるで鳩のようだった。[訳註;旧版ではこの段落でベニとトーリのギスギスしたやりとりが細かく描写されているのだが、決定版では何故か殆ど削除され、簡略化されている]
 ベニはそれをそっと盗み見ながら、人間同士の怒りはこうも急速に生まれるものなのかと思った。疑うべくもない、あの晩、彼らは死ぬほどの怒りを覚えたのだ。その翌日だか翌々日だったか、ベニがいない時に、トーリは更にベニに怒りを覚えたことだろう。それはベニとても同様だった。自分がいなかったことこそがトーリの怒りを駆り立てたことに、ベニは気付いていた。それは洗っていないシャツのようなものだ、身体から脱いで何処かの隅に数日放置しておけば、すえた臭いが漂ってくるものだ。
 ショウウインドウの照明がつき始めた。「全般的危機」が女子二人と共に通り過ぎた。微笑みながら互いに耳打ちしていた。
「知ってるか?」サラが小声でベニの耳元にささやいた。
「我々はまた資本主義国に戻るらしいぞ」
「馬鹿な」ベニは言った。「何処でそんな馬鹿馬鹿しいことを聞いた?」
「うちのおやじ[訳註;原語plakは「老人」だが口語で父親を示すこともある]に知り合いがそう言っていたよ」
「おおかた反動屋だろう、決まってるさ」
「お前、俺が喜んでるとか思ってないよな?」サラは言った。
「もうよしてくれ」ベニは言った。「お前がそこまで馬鹿だとは思わなかった」
 それから半時間後、家へ帰る道すがら、ベニはサラの言ったことを思い出していた。彼は自分の人生で初めて、国が資本主義に戻るようなことが果たしてあり得るのだろうかと、考えることを試みようとしていたが、それは彼にとって想像の限界に触れかねない、神経にも障りかねないほどのことだった。考えにふける中でベニは、今しがたサラが立ち去ったはずの道へ舞い戻り、サラに追いつくと、その首根っこを摑み、相手の顔を拳で一回、二回、三回と殴りつけ、ひっきりなしに「馬鹿野郎、馬鹿野郎、馬鹿野郎」と叫び続ける、とそんなことを想像していたら幾らか気分が楽になった。だがそれなのに、家に近付くにつれて、自分には今はまだ中に入る気がしないのだという感覚が増してきた。ベニはマクスのところへ行くことを思いついた。
 マクスはベニの姿を見て喜んでくれた。彼はベニを、陶製の暖炉が熱気の残りを放つ居間へ案内すると、マグネトフォンを取りに行った。ベニはソファの上に置いてあった二冊のアルバムのうち、一冊を手に取った。それは家族の写真を収めた、革表紙のアルバムだった。それをパラパラとめくっているうち、ベニは、マクスと知り合った時の印象として感じた、磨き上げられた銅が放つような、はじけるようなその輝きが、まるで手ずから蒔かれたようにその辺一面に、彼ら偉大なる血族全員の頭上に散りばめられていることに気付いたのだ。[訳註;要するにブロンドの髪色を指している]
 マクスは自分の家族について、とりわけその父親についてベニに話してくれたことがあるが、今になってもベニには、何と偉大な共産主義者の家系だろうかということしか目に入っていなかった。獄中死した古参の反ファシスト活動家に、新生国家の政府高官に、副大臣二人に、外交官に、そしてマクスにそっくりな若き飛行機乗りだ、しかし彼は半年前に自分のジェット機の墜落で命を落としていた。
 写真の中の一枚に、ベニは作家スカンデル・ベルメマの顔も見つけた。グループで撮った写真を見ていると、ベニは、あちこちに黒く塗りつぶされた小さな丸があるのに気付いた。よく注意して見ると、それは写真に写っている人の頭だけが消されているのだということが分かった。
「何だいこれは?」マクスが戻ってくると、ベニはそう訊いた。
「ああ」マクスは言った。「それは・・・過ちを犯した人たちさ」マクスはもっとよく見えるように顔を伸ばしてきた。「ほら、例えばここにいるこの人は、うちの二番目のいとこだよ。中央委員候補だったんだけどね、ハンガリー事件の後で党から除名されたんだ」
「もう会ってないのかい?」
「もちろんさ」とマクスは言った。「中央委員会から除名されてるんだぜ、わかるだろう?話すことなんかあるもんか・・・」
「そう、そうだね・・・」
 彼はまだアルバムのページをめくっていた。
「それと、ここにいるもう一人は」とマクスは言った。「第十一回総会で失脚している。再婚して、今はくだらない芝居なんか書いてるよ、時たま地方の小劇場でやってるね」
 今マクスが説明したばかりの身体は、その手に吸いさしのタバコを持っている。頭を消されても、火のついた吸いさしは、塗りつぶされずにそのままだった。ベニは笑いとも恐怖ともつかない感情を覚えた。
「マクス」ベニはアルバムから顔を上げて言った。「知ってるかな、今夜あの半端者が言ってたんだけどね、君知ってるかな、あのサラだよ?およそ耳にしたこともないようなくだらない話なんだけどね。あいつ何処で聞いたのやら、ここが資本主義国に戻るだろうなんていうのさ」
 ベニはマクスが笑い出すだろうと期待していたのだが、マクスの顔は落ち着いているどころか、むしろ暗く沈んでいた。
「もちろん、そいつが言ったことはくだらない話だ」マクスは答えた。「だが、そうとばかりも言い切れない点はある。俺は何も知らないが、うちの一族の中でも最近、気になることがあるんだ」
「そうなのかい?」ベニは言った。
「君、誰にも話さないでくれよ」マクスは言った。「まだ誰にも喋るようなことじゃないんだ」
「わかってるさ」ベニはそう言って、アルバムをソファに戻した。
 マクスはしばらくの間、口をぽかんと開けて立ったまま、絨毯の一点を凝視していた。
「だが、そんなことは起こらない」とマクスは言った。
「そんなことって何さ?」
「そんなことって、まあその、資本主義に戻るってことさ」
 ドアの外の呼び鈴が鳴った。
 一族だな、とベニは思った。磨き上げた銅のように輝く髪の、力強い一族だ。
 それは確かにその一族だった。大きなコートに、濡れて湿ったボルサリーノをかぶった男が数名。その額と頬に、ベニは陰鬱なものを見たような気がしたが、しかしベニに見えたように思えたそれは、普通の人々の陰鬱ではなく、そこには激しい輝きがあった。
 やって来たばかりの客人たちがコートを脱いでいる間に、マクスはベニを連れ、脇をすり抜けるように居間から出た。ベニは帰ろうとしたが、マクスはそれを引き留めてキッチンへ向かった。
 そこは暖かかった。ソファにはマクスの姉妹のディアナが、パジャマ姿で何か編み物をしていた。
「あら今晩は!」ディアナは編み物から目を離さぬまま、そう言った。「ベニ、元気だったかしら?」
 キッチンをマクスの母親が出たり入ったりしては、そのたび飲み物のグラスを持って行ったり、コーヒーを運んだりしていた。いつも通りの活発さで、グラスのなる音の中で、暇を見てはディアナとひとことふたこと言葉を交わしていた。彼女はベニとマクスの二人にもコーヒーを作ってくれたが、二人は邪魔にならないようにと、カップを手に窓際へ移った。
 それから半時間が経ち、いとまを告げようとしたベニは、玄関のところでまたもやってきた客たちとぶつかりそうになった。
「なあ知ってるかい?」見送りに出たマクスが階段のところでベニに言った。「あれはうちの従兄弟のスカンデル・ベルメマとその奥さん、つまりザナの叔母さ。君だって会ってるはずじゃないかな?」
「会ってるよ」ベニは言った。「だけど向こうはきっとこっちのことなんか憶えてないさ」
 家へと向かう道すがら、ベニの頭にぼんやりと行き来していたのは、あのアルバムのページのあちこちにあった、小さな丸のことだった。かつて読んだことのある幾冊かの本や、かつて西側についての映画を見た時、ベニの中には、ああいう大家族を呼ぶ時のような、ブルジョア的秩序の支柱ともいうべきあれを何と言えばいいのだろう、という思いのようなものが生まれていた。そして今や初めて、まさしくそのような家族、ただしその立ち位置においてはまるで正反対の家族が、共産主義世界にもあるということを見出したのだ。彼が見たブルジョア家庭をめぐる映画の中では常に、資産の分配や、相続をめぐる終わりの見えない裁判沙汰や、押し寄せる破局に絡んだドラマが展開されていた。一方、マクスの一家では万事にわたって党大会や、中央委員会総会や、大きな政治的転換が絡んでいた。1948年、あの「暗黒」の第八回中央委員会総会、その直前の政治局員の自殺、ユーゴスラヴィアの背信に関する情報局の発表、スターリンの死、ティラナ会議・・・そして、それら全ての末に芽を出したのが、アルバムの写真の中の小さな丸だったわけだ。
[訳註;この政治局員とは、「親ユーゴ派」とされたコチ・ヅォヅェに批判され、その翌日に拳銃自殺したナコ・スピル(Nako Spiru)のこと。後にエンヴェル・ホヂャとの権力闘争によりヅォヅェが失脚したことを受け、ナコ・スピルは「名誉回復」される]
 そして今、吹雪は一体どちらの方向からやってくるのだろう?
 どういうわけか、ベニは、自分の父に死刑を宣告した王室の布告が載っていた新聞を思い出した。それは古い新聞で、布告の文面も昔のアルバニア語で書かれていたが、たぶんそれが理由だろう、ベニはずっと、もし父が政治亡命の咎で処刑されていたとしたら、それは博物館を廻って集めてきたような、昔の武器によって行われていたに他ならないだろうという気がしていた。
 商店のショウウインドウの、白い綿で出来た雪が、無関心の海の中で白々と光っていた。古物商の前を通った時、再び彼の脳裏に、機銃掃射のような速さでサラの言葉が繰り返された:我々はまた資本主義国に戻るらしいぞ。
 馬鹿馬鹿しい、ベニはそう思った。そんなことが起きようはずもない。ベニはその件を思考の中からすっかり振り払ってしまおうとしたが、それでも、家に戻った時にはまだ憂鬱そうにしていたに違いない、というのも玄関のドアを開けたミラが彼にこう言ったからだ:あらおかえりなさい、憂い顔のナイトさん!
[訳註;旧版ではこの後、中央委員会でのエンヴェル・ホヂャを含むやりとりが詳しく描写されているが、決定版では完全に削除されている]

3
 冬の日。ヌリハン婆さんは窓際の長椅子に腰掛け、数珠[訳註;原語tespiheはイスラーム圏で見られる、礼拝時に用いる道具。タスビーフ]をいじっていた。外には霧が垂れ込めていた。空は低く沈んでいた。雨が降り出すか、もしかしたら雪になるかも知れなかった。地面はさっきよりもじっとりと湿っていて、関心なさげに人を、また別の誰かを待ち受けているかのように見えた。数日前から交差点に貼られているポスターは、その一部が家の中からも見えていたが、風で二、三箇所がぼろぼろになっていた。
 ドアをノックする音がした。はいはい行きますよ、行きますよ、とつぶやきながらヌリハンはのろのろと立ち上がった。それは昔馴染みのハヴァだった。まあハヴァどうしてたの、よく来てくれたわねえ。一人で退屈してたのよ。
[訳註;このハヴァは、第1章に登場したヌリハンの旧友ハヴァ・フォルトゥズィとは別人]
 以前からヌリハン婆さんは、思っていることと口に出した言葉のはっきりした区別がつかなくなっていた。他人はそのことを知っていたので、彼女の会話で抜けたところは各自でどうにか埋め合わせようと努力するのだった。
 二人はひとしきり互いの健康を訊ね合った。
「エミリアとマルクは何処に?」
「みんな出かけたわよ」ヌリハンは言った。「ちょっとワインを買いに行ってるわ」
「今年も終わりだわねえ」ハヴァが言った。
「終わりだわねえ」
 ハヴァは辺りをきょろきょろ見回して、それからヌリハンの肩に顔を近付けた。両眼が細まり、注意深げになった。
「あなた何か聞いてる?」彼女は小声で訊ねてきた。
「おやまあ、それってつまり本当ってことね」ヌリハンは言った。
 「それってつまり、あの遠い遠い、荒野の彼方で本当に何か起きてるってことなのね」
「例の占い師のハンチェ・ハイディエ・ペザ・エ・マヅェがね、政府の車に乗ってるのを見た人たちがいるらしいのよ」ハヴァは更に声を低めた。
[訳註:ハンチェ・ハイディエ・ペザ(Hançe Hajdije Pezë e Madhe)は、第1部での会話にも登場したムスリムの占い師]
「そんなの信じられないわねえ」ヌリハンは言った。
「私だってそう言ったわよ、ヌリハン、だけどねえ、その奇妙なことが今起こってるのよ」
 ここ数日ヌリハンは、旧友にして、信頼できる情報を持ってきてくれる唯一の人物であるムサベリウが来るのを待っていた。ヌリハンは女達にありがちな噂話が気に喰わなかった。だがムサベリウは、一週間も前から鼻風邪で家に閉じこもっているのだ。
[訳註;ムサベリウは第1章にも登場している]
「今年も無事に来そうだわねえ」ハヴァは言った。「向こうは、何だかどうも、対立してるらしいわね。収まりようのない取っ組み合いが、あの連中の間で起こってしまったのよ」
「早いところかたがついてくれればねえ」とヌリハンは声に出して言った。
「何てことかしらねえ、こんな日が来るなんてねえ。祝福された対決ね、こうなっては希望も何もありゃしないわ」
「もうあたしたちはくたくたよ」ヌリハンは言った。「そして死んでいくんだわ」
 外で車のブレーキ音がした。ハヴァがもの問いたげな目をした。
「これはあっちの方よ」とヌリハンは言った。「最近、あの人の娘のことでいろいろあってね、うんざりしてるのよ」
「ほう、ほう、そりゃあうんざりもするわねえ」ハヴァが言った。
「その娘の婚約者がね、向こうに・・・モスクワに行ってたのよ」
「そうなの?」
「向こうでその対立の中に行ったわけよ。それで彼女ったら今じゃ苦虫噛み潰したみたいな顔で[訳註;原文は「滴と毒」]階段を上がったり下りたりよ」
「おやまあヌリハンったら、連中があたしたちの人生に毒を盛ったようなものねえ、あたしたちに毒を盛ったみたいにさ!」
[訳註;「~に毒を盛る」は「~を台無しにする」の比喩]
「毒ね」ヌリハンは言った。「夜と毒だわ」
「あの気の毒なハムディも言ってたわ、安らかに眠って欲しいけど、あの人が初めて臨時税を取られた時のことよ」
「ああ、税金ね」とヌリハンは口にした・・・二人の皺が、白髪が、目の下のたるみが、何もかもがあの長い数字、埋葬の行列のように長い長い数字の列と結び付いていた。臨時税200,000フラン。税55,000フラン。税120,000フラン。臨時税90,000フラン。次々と。次々と。後から、また後から。いつになったらこの悪夢は終わるのだろう?まるで数字の最後に並ぶゼロのような、丸い、とろんとした瞳で彼らは互いに見つめ合った。金よりまだしも命だ。だから彼らは自殺に向かった、みんなして、次々と。鋭く吹き抜ける風の中(あれは本当に風だったのか、それとも耳元を流れる時のざわめきだったのか?)、或る者はトランクの紐で縊れ、或る者は石炭の煙やガスで息が詰まり、また或る者は川に、別の者は自らが備蓄していた油に[訳註;身を投げ]、更に別の者は猫いらずや薬をあおったり、屋根から身を投げたり、血管を切ったりした。とそこで不意にヌリハンは自問した:何だって誰も銃じゃなかったのかしら?何だってみんなして、まるで影のように静かに[訳註;自殺した]だったのかしら?
「はあ」ハヴァが放心したように溜め息をついた。
 ドアをノックする音がした。
「はいはい行きますよ、行きますよ」ヌリハンが言った。「おやおや、まあまあ」とドアのところで彼女は声を上げた。「どなたが来たのかと思ったら!いらっしゃいなエクレムさん、いらっしゃいなハヴァ!」
「ボンジュール、シェリー!」と言いながらハヴァ・フォルトゥズィはヌリハンと抱擁を交わした。[訳註;このハヴァは、第1章に登場したヌリハンの旧友ハヴァ・フォルトゥズィ。エクレムはその夫。ちなみに上の挨拶は原文でもフランス語“Bonjour, chéri!”だが、相手は女性なので正しくは“chérie”]
「中にもう一人ハヴァがいるわよ」ヌリハンは言った。「でもまあよく来てくれたわねえ!さあさあ、入って入って!」
 ハヴァ・フォルトゥズィにはまるで隙がなかった。彼女はしっかり着飾っていて、更に髪を染め、大きなイヤリングをぶら下げていた。足は長く、四十年にわたって海辺で日焼けしていたが、そのことを彼女はむしろ自慢していた。あなたが来るとあたしたちみんなの精神状態が上向くわね、とヌリハンは常々言っていた。そして実際、ハヴァ・フォルトゥズィの瞳には取り乱すようなところが一度たりともなかったのだが、対してその夫のヌリハンはと言うと、恐るべき数字の並ぶ税金を一つまた一つ片付けているのだった。ハヴァ・フォルトゥズィの瞳はずっと長い間、艶めかしい二つの楕円形のままで、その内側にあるのはいつまでも続く日没で、それはまるで彼女の四十回分の海辺[訳註;海水浴のこと]の日没のようだった。
 彼女らはひとしきりこの冬と新年について、ただし、あちこちから流れ込んでくる一連の昔の思い出については避けながら語り合っていた。すると不意にハヴァ・フォルトゥズィがこう言った。
「あなたたち何か聞いてる?」
 ヌリハンとハヴァは互いに顔を見合わせた。エクレム氏はそこにいない風で座っていた。
「耳が悪くてねえ」ヌリハンは言った。「ラジオもちっとも聴いてないのよ」
「対立よ」ハヴァ・フォルトゥズィが言った。「ロンドンでも、パリでも、もう幾晩もその件でもちきりだわ。AFPの記者がそこにいたの。その・・・モスクワで起きている対立のことで、長いルポルタージュを書いているわ。大通りのことも書いてあってね、名前は忘れたけど、中央通りよ、要するに、向こうにとってのシャンゼリゼみたいなものね。まあ見事な書きっぷりだったわねえ!新聞も売っているけれど、新聞には何も書いてないし、誰も何も知らないってのに、百歩ほど行った先のクレムリンの、中世からあるお城の壁の向こう側じゃ、陰謀と宴会と人殺しが行われていたわけよ。まあ何て素晴らしいことかしらねえ!」
「人殺しまであったの?」ハヴァが訊ねた。
「ないわけないでしょう?」ハヴァ・フォルトゥズィが言った。「それだけ大きな衝突なのよ」
「で、これからどうなるのかしら?」ハヴァが言った。「私たちはどうなるのかしら?」
「何かしらの事は起こるだろうね」エクレムが言った。
「私たち、西側に戻るのかしら?」
 ヌリハンは額に皺を寄せた。
「たぶん、そうなるだろう」とエクレム・フォルトゥズィが言った。
「まあそんなことを言って、あなたったら!」
 妻ハヴァ・フォルトゥズィは言った。それから「ああ」と声を出した。「余りに素晴らし過ぎて信じられないわ」
 長きにわたる酷使と、視線のやりとりと、内面の輝きと、消失と、溢れ出す悲しみと、不意に燃え上がる思いと、そして閉じる、閉じる、閉じる、そのために病み果てた彼女の両眼は、天井の何処かしら一点を見つめたまま、じっと動かなかった。四十年分の海辺だわ、と彼女は思った。一度の空きもなく続いた四十回分の夏。それから、1945年の夏。海辺の国有化された別荘の、閉まったままの両開きの扉と、扉に貼りつけられた、傷口のように真っ赤な封蠟。
「本当に、何事かが起こり得るのかしら?」もう一人のハヴァが言った。
 ヌリハンは窓に顔を近付け、何かしら外を眺めていた。ハヴァも同じように顔を上げた。玄関口に誰かが、コートの襟を立てて入ってくるところだった。
「その婚約者って、あそこにいるあの人?」ハヴァが訊ねた。
 ヌリハンは『そうよ』とうなづいてみせた。
「何?」ハヴァ・フォルトゥズィが訊ねた。
「あそこにいるその婚約者が向こうの、モスクワに行ってたのよ」ハヴァが言った。「ご覧なさいな、体じゅう陰気そうで」
 彼女らは近付いて見ようとしたが、相手はその間に通り過ぎてしまっていた。
「あの人が向こうで通訳だったのよ」ヌリハンが言った。
「本当なの?すごいわねえ」ハヴァ・フォルトゥズィが言った。
「すごいってのは、他の言語からの通訳を頼まなきゃならなくなった時になってわかるだろうさ、ハハハ」とエクレム・フォルトゥズィが言った。
「西側との対談とか?」
「じゃなきゃ何だっていうのさ?政府だって人間と同じさ、口をつぐんだままじゃいられないからね。誰かと会話することになるのさ」
「まあ、そんな日が来るといいんだけど!」ハヴァ・フォルトゥズィが溜め息をついた。
 彼女らは皆、活気を取り戻した。
「フランス語は知ってるよね、ボンジュールなんて、君から私に言ったことないけど」と言ってエクレム・フォルトゥズィは笑った
 外でドアを叩く音がして、彼女らは振り返った。
「マルクだわ」ヌリハンが言った。
 マルクは彼女らと顔を合わせなかった。彼はそのままキッチンへ向かった。
「疲れてるのよ」ヌリハンが言った。「殆ど毎晩コンサートだし」
「あら、それじゃ誰がコンサートに行ってるか見ておかないとね」とハヴァ・フォルトゥズィが言った。「誰も彼も俗物[訳註;原語はzorzopët]ばかりで、泣きたくもなるわね」
 マルクは彼女たちの声を聞いていた。そんな風にして何年も前から聞いてきたのだ:ささやきや、半分だけ声に出した呪いの言葉や、フランス語やイタリア語の単語や、物価に対する不平や、奉仕活動のことや、住居会議のことや、他の男や女を「同志」と呼びつつ嘲笑することや、侮蔑や、それから不安、不安、不安だ。勘弁してくれ、もう何も言わないでくれ。ブレルの監獄が忘れられない。第73条[訳註;「人民権力に対する煽動及びプロパガンダ」に対する罰則を定めた「アルバニア人民共和国刑法」73条を指す。平時で3~10年の自由刑、戦時には10年以下の自由刑または死刑。なお1976年に国名を「アルバニア社会主義人民共和国」に改めて以降の刑法では55条に当たる]。わかってる、わかってるさ、俺はかつてその監獄にいた、それからジロカスタルの監獄に送られたんだ。お前も憶えているだろう、ルシュニャのことだ、俺たちは数珠つなぎに並ばされた、とかの哀れなチェラムディンは語ったものだ。勘弁してくれ、もう何も言わないでくれ。神よどうかお慈悲を、俺たちをここから救い出してくれ。もう何も言わないでくれ、こんな悲惨な目に耐えられるものか?お前の言う通りだ[訳註;原文ke hakは直訳すると「お前が報復する」だが、ここでは「見返りを求める」「言い分が正しい」という意味の慣用表現]、耐えられやしない。ラジオで何か聞いてるのか?ああ。だが声が大きい。まだ大きいぞ。それから後は何もかも元の黙阿弥になって[訳註;原語thërrmohejは「砕け散る」、転じて「ダメになる」]、ほこりくずのように散って、溜め息に姿を変えてしまい、やがてまた何かしら別のことを会話し始めるのだ。思い出すのは隠し絨毯に、宝石に、羊毛製品に、燭台に、水晶に、銀のスプーンに、指輪に、シャンデリア。誰かが泣いている:自分は隠し絨毯を誰それに託したのに、今になって返してくれない、という。あの嘘つきの恥知らずめ、にやにや笑いながら、こうも言ったのだ:もう何年も経ちましたし、私だって危ない思いをしてきたんですからね、こいつはもう私のですよ、だと。何処に訴えればいい、どうやって訴えれば、どうやって証明すればいい?おお、おお、おお!我々はこれでおしまいだ。するとまた別の誰かがこう言った:アルバニアがアルバニア人に仇なすことになるだろう、と。シッ!声が大きいぞ。いやもう無理だ、もう黙っていられない、もうおしまいだ、死にそうだ、気が狂いそうだ。なら喚いてろよ、負け犬め、喚いてろよ、73条を忘れたか:人民権力に対する煽動及びプロパガンダだぞ。畜生め!そして会話は元に戻るのだ、絨毯、仲買商、ロク・スィモニャクの骨董屋、ハンチェ・ハイディエ・ペザの御託宣、スペードのクイーンにクラブのエース[訳註;原文では「黒のエース」だが、ここでは独訳に拠った]、待ち受けるのは二つの凶報と、そして一つの吉事、パーセンテージ、金の暴落。時には互いの妬み嫉みが溢れ出すこともあった:誰それは娘を共産主義者と婚約させた、とか誰それはいい職にありついた、とか。嫉妬の後には根も葉もない中傷や、噂話、そしてまた溜め息、仄かな希望、それも弱まり、消え去る、暗闇と、真っ黒な絶望。
 落ちぶれた階級か、とマルクは思った。彼もそこに属していた。突如として落ちぶれた、宴会用の長いテーブルだ。料理の皿も、燭台も、ワイングラスもひっくり返されて[訳註;この段落の冒頭で「落ちぶれた」と訳している原語përmbysetは本来「転覆する、引っくり返される」の意]、足元の絨毯には血と灰が流れ、頭に傷を負い倒れたその両手は、分厚い紫のヴェルヴェットカヴァーを摑もうとしていた。
 今日、隣の部屋から聞こえる声は、いつにも増して活気に溢れていた。あれはきっと何か聞いたに違いない。ゆうべ遅くまで、ヌリハンはラジオの前を離れなかった。向こうで・・・モスクワで、何事かが起こっている。マルクは彼女たちの会話に加わりたくなかった。随分前から、あの際限ないおしゃべりには愛想が尽きていた[訳註;原語qe zvjerdhurは「乳離れしていた」]。飽き飽きだった。うんざりしていた。それでも、起こった事は余りにも特別なことに違いなかった。
 マルクは立ち上がった。いつも頭の中から危ういものを追い払おうとするたび、彼はチェロを手に取り、家の中の奥まったところへと引きこもる。チェロは、マルクとその人生とをしっかりと繋ぎ留める拠りどころ[訳註;原語grremçは「かぎ、フック」]のようなものだった。それはオペラ[訳註;1960年にティラナ市中心部に出来た国立オペラ・バレエ劇場(Teatri Kombëtar i Operas dhe Baletit)のこと]における彼の安定した仕事であり、収入であり、社会保障であり、将来の年金であり、一言で言えば全てだった。チェロは或る程度までマルクと、マルクの周囲にいる、ありとあらゆる勤め先[訳註;原語zyrëは「事務所、勤務先」だが、独訳や仏訳では「中古品店」]をうろつき回って顔馴染みになった挙げ句、今となっては翻訳事務所やタイプ室で臨時の仕事を見つけるか、或いは外国語の家庭教師を求める客を見つけようと右往左往するような人々とを隔てていた。マルクは運がいい、国の仕事にあるつけるなんてねえ、と訊ねて来てはそう語る人々の誰もが自分達の嫉妬を隠そうともしなかった。あんたたちは運がいい、あんたたちはずっとうまくやり抜けてきた、と。そして誰もが、クリュエクルト家[訳註;本文中では明示されていないが、ヌリハンやマルクの姓がクリュエクルト(Kryekurt)]に幸運をもたらした、かの遠方からの客人が、あの11月の夜に自分たちの家のドアをノックしなかったことを残念に思うのだった[訳註;アルバニア共産党系の反ファシズム民族解放軍がドイツ軍を駆逐し首都ティラナ市内に入ったのは1944年11月28日。ちなみにエンヴェル・ホヂャと対立していたコチ・ヅォヅェ内相(当時)が「親ユーゴ派」として逮捕されたのは1948年11月28日]。だが確かに、あの客人はノックしなかった。マルクはよく憶えていた。確かに、あの見知らぬ男はドアの前で倒れて、それから必死で足を引きずって数歩進み、地下室の窓のところまで辿り着いたのだ。外では戦闘が続いていた。パルティザンはゆっくりと、ティラナ中心部へ前進していた。もうおしまいだ。一家は皆、数日前から地下室の中で、全財産を詰め込んだ袋と、祈りと、ため息と、そしてエミリアの夫のように国外へ出なかったことへの悔恨の中、息をひそめていた。午後になっていた。と不意に、地下室に一つしかない窓がぱっと薄暗くなった。彼らは頭を上げ、恐怖した。そこには人の背中があった。あれはきっと戻って来たのだ、鉄格子の間から銃筒を突っ込んできて、自分たちの上に銃弾を浴びせるのだ。恐怖は長く続いた。それから彼らの目、恐怖で見開かれた彼らの目が気付いたのは、その人影が全く動かないことだった。きっと死んでいるのだ。でも何だって、うちの窓までやって来て死んでいるの?エミリアがそう言った。自分たちが殺したと言われるだろう。しかし彼らにはまだ、この人物が誰なのかが分からなかった:ドイツ兵か、パルティザンか、バリ派[訳註;第1部でも書いた通り、「バリ」は反ファシズム民族解放戦線と対立していた民族主義系の解放組織「バリ・コンバタール(Balli Kombëtar国民戦線)」をさす]か、それとも何処かのいかれた[訳註;原語kokëkrisurは直訳すると「頭が割れた」、転じて「愚かな、無謀な」の意]通りすがりなのか。すると突然、その人影がうめき声を上げた。彼らが耳にしたのは、彼が水を求める声だった。彼は「同志、水を」と言っていた。パルティザンだ、と誰かが言った。彼らはしばらく考えていた、彼にどうしてやったらいいのかと。もしこの人を中に入れてやらなければ、後で後悔することになるわ、とエミリアが言った。もしあの人達が戦争に勝ったら、この人はいつかの朝にここへ来て、うちを指さしてこう言うわ:ここの連中は俺が死にかけていたのに水もくれなかった、って。そして水の代わりに血を求めてくるわ[訳註;つまり戦後に復讐されるだろう、ということ]。でも、私たちがちょっとだけでも助けてあげれば・・・その夜、エミリアはマルクと一緒に、その怪我人を中へ引っ張ってきた。それは若いパルティザン兵で、顔は血の気が失せ、髪の毛は血と砂埃でごわごわに固まっていた。四日間、怪我人は地下室に留め置かれた。そのパルティザン兵はずっと意識を取り戻さないままだった。五日目の11月17日、ティラナは静寂に包まれていた。戦闘は終わっていた。エミリアとマルクは町じゅうを駆け回り、パルティザンの本部は何処かと訊いて回った。至る所に死体が転がっていた。マルクはひっきりなしに吐き気に襲われた。そのパルティザン兵は仲間たちによって担架で運ばれていった。マルクとエミリアと、隣人の一人がその一団と一緒に病院まで付き添った。道すがら、彼らはことの次第を何度も語って聞かせた。それは病院でも同様だった。そして本部でもまた同じであった。彼らが戻ってきた時、ヌリハンは胸の張り裂けそうな思いで帰りを待ちわびていた。エミリアの目は輝いていた。お前、何かもらってきたのかい?うん、うん、うん、ほらここにあるわ。それは小さな紙切れで、そこにペン書きで、間違いだらけのひどい字体で、こう書かれていた:『ファシズムに死を、人民に自由を[訳註;反ファシズム民族解放戦線における兵士間の挨拶。戦後も一般人の間で用いられていた]。証明書。ブルジョア家庭であるクリュエクルト家はティラナにおける戦闘中、負傷した我が兵士、第三大隊、第一中隊のルルズィム・シェロを介抱したことをここに証明する。留意されたい。国際ブルジョアジー打倒!第一旅団、第三大隊、第一中隊司令部』ヌリハンは、自分が今までこれほど重要な証明書を手にしたことはないことを理解した。それから数日間ずっと彼らは連れ立って、食べ物や花を持って病院を訪れていた。そのパルティザン兵はずっと、まだずっと意識を取り戻していなかった。何だか私たちあの人につきっきりねえ、とエミリアは病院の入口で言った。あの人がまるで家族の一員か、息子みたいだわ。どれぐらいでよくなるかしら、ああ、あとどれぐらいでよくなるかしら。いつになったら意識が戻るのかしら。またあの人の声が聞けるのかしら。私たちが聞いたのはあの夜の、うわごとのように言ったことだけだったし。とそんなことをエミリアは喋っていた。だがそのパルティザン兵は死んでしまった。エミリアは泣いた。彼らは本気で彼が回復するのを、そして自分たちの家に来て、皆に会って欲しいと望んでいたのだ、彼が来てくれれば、それこそが暗黒の夜空に輝くただ一つの星、彼らにとって最後の希望になったことだろうから。ところが死んでしまったことで、彼は生きていた時よりも強力な存在となった。今やそのパルティザン兵の生の終わりと、ペン書きの証明書によってその死は独特の重みを持つようになっていた。それは計り知れない価値を持つ書類であり、委任状であり、遺言状であり、小切手であり、為替手形だったのだ。それのおかげで彼らは家の一階[訳註;第1部で描写されている通り、ヌリハンらが住んでいるのはベスニクの家族が住む集合住宅の1階]に住み続けることができ、税金の支払いも三分の一になり、マルクを音楽学校に通わせ、そしてオペラという良い職に就かせられたのだ。まさしくそれのおかげで、履歴書や申請用紙や経歴に関する陳述の末尾にこう書き添えることができたのだ: 『我が家は大ブルジョア階級に属し、人民大衆を搾取していたにもかかわらず、民族解放戦争を支援しており・・・』
 マルクは窓際に立ち、チェロの糸倉のところに顎を載せていた。血と砂埃でごわごわに固まった髪の毛を、彼ははっきりと思い起こしていた。しばしば疲れた時には、コンサートホールがゆっくりとうねるように、少しずつ形を変えていき、そして彼の眼前の、ボックス席のヴェルヴェットの赤色が彼に、あの見知らぬ男の血まみれの髪の毛を思い起こさせるのだ、言ってみれば彼がボックス席の何処かに額をもたせかけて、彼の髪が下まで垂れ下がっているかのように。あれが彼の運命であり、彼の音楽だったのだ。彼についての記憶は、絶えず続く苦痛だった。まるでいつか、いつの時か彼がその顔を上げ、こう言ってくるような気がしたからだ:なあ、役に立っただろう、おい?
 マルクはチェロを壁際に立て掛けた。外は薄暗くなっていた。雪模様だった。家の外の階段を、ザナが婚約者の男と降りていくところだった。しばらくの間、マルクは薄暗い二人の背中を目で追っていた。きっと劇場か、さもなければカフェへ行くところだろう。そんな風にしてマルクはいつも、年末に彼らが階段を降りていくのを眺めていた。彼の広い背中と、その彼に寄り添うように、特別なしぐさで傾けられた彼女の背中との間には、二人の覆い隠された秘密と情欲とが一つに編み込まれて[訳註;旧版では「誠実さと性が額縁で切り取られて」と絵画の比喩になっており、仏訳や独訳もそれに倣っているが、決定版では刺繍を思わせる表現に書き改められている]いて、それは彼を苦しめる四角形となり、絶えず遠ざかっていく。それこそが、マルクにとって最も重苦しい孤独の瞬間だった。彼は28歳だったが、その女性関係は今に至るまで貧弱そのものだった。彼は内気で臆病な男だった。パルティザン兵の血まみれの毛髪は彼のよりどころとなり、仕事へと向かわせるには充分なものだったが、それ以上のこととなると力尽きてしまうのだ。彼は自分が世間に対する臆病さを乗り越えることなどこれっぽっちもできそうにないと感じていた。それはゆっくりと形づくられてきたものだ、何年にもわたって隣の部屋でついてきた溜め息と、小声でつぶやいた愚痴と、時として呪詛の言葉と、それら全ての帰結なのだ、そして呪いの言葉の後には不安が、曲がり角でブレーキをかける車の全てと、ありとあらゆるものに対する不安がやってくるのだ。
 いつもうやうやしく、彼はザナに会釈して挨拶していたが、それは正面玄関で偶然出会った時であったり、或いは彼女が時々、いやたまに、ごくたまに、年に二、三度、春になると階下へ降りて来てエミリアに海水浴シーズン用の水着を頼みに来る時であったりした。彼女は上品な女性だった。それだけで彼が彼女を恐れるには充分だった。夏になって、彼女が夏物の薄手のスカート姿でヴェランダに座り、何を気にする風でもなく、陽に肌を焼いている時、彼は罪悪感に苛まれていた。まるで自分が彼女のことなど決して、決して思っていないかのように振る舞わなければならないという気持ちになっていた。それでも内心ではザナに惹かれていた。最近ではそれが憂鬱になっていた。その憂鬱さは彼女へと向けられた。憂鬱だと感じながら、彼は彼女に一層惹かれていた。その憂鬱さの中で彼は、彼女が婚約する少し前、両眼の下に青黒い輪が出来ているのを初めて見た時のことを思い出した。まさにあの時、彼は彼女に対して初めて強く惹かれるものを感じたのだ。それは春のことだった。ザナは何度か階下に降りて来ては、エミリアのところで水着を試着していた。その試着に来ることが、まさに彼の想像力に対する刺激となった。或る時、二人が出かけたのを見すまして、マルクはミシンの置いてある部屋へ入った。水着はその場所に、無造作に置いてあって、殆ど出来上がっており、最後の試着を終えた直後だった。近寄って、その水着を手に取ると、まだ彼女の温もりが残っているような気がして、思わず、何も考えぬまま、それを自身に強く押し当てた。自分のしていることが低劣な行為だと分かっていたが、マルクはもうずっと以前からそんな自分の低劣ぶりに慣れ切っていて、そればかりか、いつの間にかその低劣さにこそ満足を感じるようになっていたのだ。
 あの婚約者がモスクワから帰ってきてもう数週間になるが、彼女は憂鬱そうに見える。恐らく、彼は彼女に向こうでの出来事を話したのだろう。恐らくそれは、二人にとって重大なことだったのだろう、とマルクは思った。
 隣の部屋では客たちの会話が続いてまだずっと続いていた。あの連中の考えることはいつも同じだ。彼はこの種の会話におけるありがちな段階を心得ていた。きっと今頃、彼らは拳で胸を叩き、没落の到来を夢見ている段階だろう。マルク自身、この国の没落を夢想することは何度もあったが、そこには特にこれといった熱狂もなければ、更に不思議なことに、喜びさえもなかった。自分が武装してティラナの路上に飛び出し、扉を押し開け、党の書記たちを、閣僚を、地区委員会のメンバーを、軍人らを探し求め、捕らえ、その場で殺すなど、想像したことすら全くなかった。だめだ、自分にはきっとそんなことをする能力はないのだ。騒乱の際には彼は地下室の隅にうずくまり、惨めな運命が扉を叩くのを待っていることだろう。どうやら精神的にも彼は落ちぶれた男のようだった。全般的な混乱の中で恐らく彼に出来るであろう唯一のことは、階段を上がってザナを探しにいくことぐらいだろう。自分は落ちぶれた男だ、彼はそう思った。それも完全に。

 劇場のホールも、ボックス席もギャラリーも満席だった。二人[訳註;読んでいる内に分かりますが、ザナとベスニクです]は平土間の席を取っていた。赤いヴェルヴェットで覆われた座席の間の通路を通りながら、ザナの目にとまったのは、ホールで美しく着飾った大勢の娘や女たちだった。彼女らは座ったまま、劇場に来る人々に特有の無関心さでもって、中立的な、些か疲れたような視線を、後から入ってきた者たちに投げかけていた。
 そんな風に自分の席を見つけようとうろうろして、唯一の自己防衛策が何度も何度も無駄にチケットを見るだけだということを除けば、ザナは全国演劇オリンピックの中で生み出される雰囲気が好きだった。町のあちこちに貼られたポスターも、劇場前の広場に集まる人々も、道を一歩進むたびに『チケットまだあるかい?』と訊いて廻る人々も好きだった。特に好きだったのは、ロビーやホールの中で、審査員たちの存在と、全ての演目を無料で観に来た高等芸術学校の学生たちの、些か控えめな無遠慮さから感じる雰囲気だった。
 自分たちの席に座ると、ザナはようやく落ち着いて周囲を見回した。
 幕はずっと前から上がっていた。ザナはぼんやりと、舞台で語られることを聞いていた。何処かしら退屈な印象を感じていたが、それは彼女にとってそう感じられるものだった。演じられている芝居は無味乾燥なものだったが、それがザナの頭の中で自由自在に生み出される終わりのない極彩色の物語を妨げることはなかった、その中で彼女は、死や、再生や、裏切りや、愛や、埋葬や、不滅を、途切れることなく、筋道なく、全くの混沌の中で繰り返すという、そんな演目がもう二、三時間も前から続けられていた。だがそれがあるからこそ、ザナは劇場に来るのが好きなのだ。
 幕間に入ると、二人はビュッフェへ行くために席を立った。座席の間の通路を、人々がゆっくりと、出口に向かって動いている。その先頭を、気難しげな表情で歩く二人の男がいた。
「君はイデオロギー上の誤りだと思うかね?」一人がそう言って相手に目を向けた。
 相手はほんの少しだけうなづいて
「まあね」と言った。「最後まで観てみようじゃないか。でないと何とも言えないよ。ほら私も審査委員会のメンバーだからね」
「理念の誤りですって!見てよあれ」とザナはベスニクに囁いた。「何でもかんでも面倒くさくするのね」
 ベスニクは微笑んだ。
「あの二人は文芸批評家だよ」と彼もザナ同様小声で言った。「あっちの金髪の方は、よくうちの編集部にも来ているよ」
 ロビーでは、二人の共通の知り合い数名とも顔を合わせた。
 芝居の第二幕は、ザナにとって更に退屈なものに思われた。
 ザナは横目で、ベスニクの薄暗い横顔を何度もちらちらと見た。視線の先がベスニクの頬で止まると、そこには深い溝があるようにザナには思われた。ベスニクがさっきからずっと何も聴いていないような気がした。よそよそしいわね、と思いながら彼女は痛みを感じていた。だが不思議なことに、その痛みに苦しみはなかった。
 ようやく芝居が終わった。人々はぞろぞろと出口へ向かい始めた。その先頭にこれまた先程の批評家二人が憂鬱な顔で立っていた。
「何とも言えないね」と一人が口にした。「ほら私は審査委員だからね」
 人々は外へ出ながら意見を交わしていた。劇的な緊張感だ、という人もいた。ブレヒトの芝居に言及している人もいた。
 おやまあ、見なよ、劇的な緊張感って何だろうね、とベスニクは思った・・・ロビーの至る所にポスターや過去の舞台写真が貼られていた。三幕芝居。失われた戯曲・・・この会議のやりとりを翻訳するのは、いにしえの戯曲を翻訳するよりも難しい・・・
 ベスニクはザナの腕を強く摑んだ。
「あれは今、劇的な緊張感がどうしたと言ってるよ、聞いたかい?」とベスニクはザナの耳元で囁いた。
「本当に面倒くさいわね」ザナが言った。
「偉大な戯曲というものがあるんだ、君には気がつかない程のね」ベスニクは小声でそう続けた。「ずっと君に話したいと思っていたことがあるんだ・・・ずっと思っていた・・・何もかもがその前ではちっぽけなもの[訳註;原語shpirtvogëlsiは直訳すると「小さな魂」]になってしまうような、そんな戯曲のことを・・・」
 ザナもベスニクの腕をしっかりと摑んでいた。ベスニクは何か言おうとしていた。彼が途方もなく広大な場所で近付いてくるようだった。貝殻が開きつつあった。ザナは彼の指先が自分の腕の周りを強く締め付けるのを感じた。二人は人混みの中を出口へと向かっていた。ザナは待っていた。出口のところで何かが起こっているのを感じた。何かが起きたばかりか、或いは起こりつつあった。スキャンダルではないような気がした。人々が顔を上に向けている。むしろ人によることではない感じだった。誰かが『雪だ、雪だ』と叫んでいた。ベスニクも顔を上げた。そこはもう出口だった。
「わあ」ザナが声を上げた。外では本当に雪が降っていた。
 戸惑いつつ、軽く、大地の黒々とした光景に恐れおののきながら、それは、柔らかにそして彼方から、この世界の最果てで夜を迎える中、地上へと舞い降り、脇へ追いやられながら、嫌だ、嫌だ、嫌だ、と上方へ、大空の彼方へ戻ろうとしているようにも見えたが、しかし無理なものは無理だった。人々は顔を上げ、歓喜の小さな叫びを上げていた。
「わあ見て、綺麗ねえ!」とザナが言った。彼女もまた皆と同様、全てを忘れていた。雪片はそこかしこに真っ白く、きらきらと輝きながら、天空から迷い込んだ通りすがりの来訪者のように、劇場のポスターや照明の間に降り注いでいた。
 二人はしばらく独立大通りを散歩したが、自分たちの髪がぐっしょり濡れているのに気付いて、ようやくザナの家へと向かうことにした。
 二人が玄関へ近付いていくと、ちょうどその方向から人の一団が出てくるところだった。彼らは二人を見ると黙り込んだが、その時ベスニクの耳をとらえたのは「セ・リュイ」[訳註;原文はフランス語C’est lui(あれが彼だ)]という言葉だった。ベスニクは自分が呼びかけられでもしたように勢いよく振り向いた。ザナが彼の腕を引っ張った。
「どうしたの?」とザナが訊いた。
「あそこにいる連中は、俺のことを何と言ったんだ?」ベスニクは神経質そうにそう言った。
 ザナは唖然とした。彼がそんなことを言ったことは今まで一度も無かった。
「あれは元ブルジョアの人たちよ、うちの下の階に訊ねてきたんだわ」ザナは途切れ途切れにそう説明しながら階段を上がった。ベスニクは何も言わなかった。

 彼は何度もそのトーチカに襲撃を仕掛け、そしてまたそこから撤退していた。今はもうそこから何歩か遠ざかり、焼けつくような光線に照らされ燃え上がる大地に寝そべっていた。
 他の者たちはカフェや劇場に行っているというのに、自分ときたらこうして、このトーチカの傍らで、戦いに釘づけにされたままだ。腹部に、腰に、身体の他の部分を光線から守るためにあてがわれた鉛板の重みを感じていた。彼は鉄[訳註;の鎧]を身にまとった騎士であり、身体中を頑強な鎧で覆い、自らを守るべく這いずり回るワニだった。トーチカは照射を続けていた。彼は自分の鉛[訳註;の板]の下で身をよじらせた。
[訳註;第1部5章でも書かれているが、ベスニク・ストルガの父ヂェマル・ストルガは放射線照射による癌の治療を定期的に受けており、その度にコバルト照射装置をトーチカになぞらえて表現している。なお上段落の最後の2文で「照射」と訳した動詞shtrij、「鉛」と訳した名詞plumbはぞれぞれ「射撃」「銃弾」と訳すこともでき、戦争とのアナロジーになっている]
 それにしてもあの老パルティザンたちは一体何処へ行ってしまったのだろう?病院に包囲され、見慣れない道具の下に置かれ、自分たちの身体を医師や看護婦[訳註;原文では女性形]の手の下にさらしたまま、注射針と、光線と、外科用メスを待ち構えていたあの連中は。弱音を吐くんじゃない、とストルガは自身に言い聞かせた。弱音なんか吐くもんか、と彼は自分で自分に返事した、いやそれでも、ちょっとだけ気にしていることはある。彼が気にしているのはベスニクのことだ。最近何かあったらしい。人々も、外国のラジオでもそう言っている。だが彼は何も知らなかった。彼は、自分の息子がモスクワに行って、そこで何か厄介なことが起きたのに、それについて何も知らなかった。ベスニクは自分に何も話してくれない。息子は父に話す必要などないと考えているのだ、この年老いた共産主義者には、今起きていることなど話す必要はないのだと。ストルガは、胸が締め付けられるような気分になった。
「ストルガ同志、本日はこれで終わりです」
 医師は彼が起き上がるのを手伝ってくれた。看護婦は、まるで向日葵のように、ほんの少しだけ首を傾げて、時計を見た。ストルガが最後の患者だった。彼が上着を着ている間、看護婦はバッグから手鏡を取り出し、それに見入り始めた。ストルガは思い出した、何処も新年の夜なのだと。ミラ[訳註;第1部にも登場したヂェマルの娘で、ベスニクの妹]からも、今夜出かけていいかと訊かれていた。
 病院から出た時、彼は外の空気が何かしら新しいものを帯びているように感じた。嗚呼、と彼は外に出た時思わず口にした。外では粉雪が舞っていた。彼はしばらく病院の入口に立って舞い降りる雪片を眺めていた。雪片はまっすぐに、まるでそれが義務ででもあるかのように、気付かれるまま、名もなく、薄暗い地面へと降り注いでいる。彼はバス停へと歩いていった。

 最後のダンスが終わると、その晩のお開きの喧騒はあっさりと過ぎ去った。誰もが冬用コートへ殺到した。腕を袖へと通すその動きは、そこに集った人々に、一群の狂乱じみた光景を投じていた。一方、外からは歓喜に興じる声が聞こえてきた。先に外へ出た人達はまた玄関口に戻ってきて、外で起きていることを仲間たちに伝えるのだった。それは歓喜すべき出来事だった:雪が降っていたのだ。道路を、歩道を、電話ボックスを、地上のありとあらゆる場所を試して回った後に、それ[訳註;雪]はより落ち着ける土台として、屋根や、花壇や、車の上を選んだ。なおも震えたまま、紫色にまたたく光の中で、うっすらと、そして静かに、それはあちこちで、自分自身が人々にどう迎えられるかも知らぬ風で、白く輝いていた。
 最初にそこへ向かったのは若い男子だった。彼らの手がぐっと、車のウインドウや果物店の屋根の上へ伸ばされると、幾千もの雪の結晶が勢いよく押し固められ、そして女子に向かって投げつけられ、彼女らの髪や首を覆い尽くすのだった。女子は飛び上がり、悲鳴を上げたがそれでもその場を離れることはなかった。彼女らは「いや、いや」と叫んでいたが、その「いや」は独特のもので、むしろ愛し合う時の「いや」にそっくりだった。
 ミラはコートの襟を立てて、同級生の女子の中へ駆け込んだ。誰かが「ミラ・ストルガよ。おうい、ミラ・ストルガは何処だ」と声を上げていた。寄り集まっている男子の中に、ミラはB組の男子の一人[訳註;このクラスメートについて旧版ではマルティン(Martin)と名前が明示されている。第1部4章でも登場しているが、第1部の言及箇所が決定版で全面削除されているのに伴い、ここでも名前が書かれなくなったと思われる]が車の窓ガラスに手を伸ばしているのを見つけた。
「あれは自分が一番美人だと思ってる」と誰かが言った。
「ミラ・ストルガだ、社会主義陣営で一番の美人だ」 と鋭い口調で叫ぶ者もいた。
 誰かが熱狂したように口笛を鳴らした。
 B組の男子[訳註;これも旧版では「マルティン」]は車から戻ってくると、両手いっぱいに雪を握りしめたまま、女子たちの方へ向かってきた。大急ぎで走りながら、ミラは背後に彼の長い歩幅を感じていた。彼女は戸口のところで立ち止まると、顔を毛皮のコートで覆い隠し、薄目を開け、待っていた。彼の細い、驚くほど不安げで、氷のように冷たい腕先が、彼女の髪と首に雪を押し付けてきた。
「いや、いや」ミラは泣きそうな声で叫んだ。彼女は、彼の腕先が今にも自分の命を奪ってしまうような気がした。実際、ミラは凍えそうだった。彼女は顔を上げたが、髪はぐしょぐしょだった。彼は蒼ざめているように見えた。その背後の、家のドアのところの表札をミラは思わず知らず、これといった考えもなく読んだ。
『病理学博士 フィリプ・トレスカ』
 彼はミラの髪に手をやり、ミラは恐らくその手を髪から引き離そうとしたのだろう、彼の凍えた指先に触れた。すると彼は顔を近付け、彼女の唇にキスをした。ミラは抵抗しなかった。彼は続けて何度も彼女にキスをしたが、ほんの一分ほどで彼女はごく簡単に、静かな口調でこう言った。「慌てないで、息ができなくなる」
 遠くの方で、女子の一人が呼んでいた。
「ミラ・ストルガ。みんなが探してるわよ」
「ベニだわ」ミラはそう言って、生徒の集まっているところへ走っていった。ベニは生徒らの傍らで、くわえタバコのまま、陰鬱な、苦虫をかみつぶしたような[訳註;旧版では更に「チャイルド・ハロルドのような」と続く]顔で立っていた。ミラはベニの腕をとると、何も言わずに、家へ向かって歩き出した。雪は降り続いていた。スカンデルベイ広場は、色とりどりの照明に埋め尽くされて、何処までも終わりなく続いているように見えた。
 キスされちゃった。ミラは思った。目の前の何もかもゆらゆらと波打って見えた。キスされた女子。言葉はあっさりしていて、死滅した世代の残した、乾いた石灰石のようだった。ただ「th」の発音に、何かしら活き活きしたものが脈打っていた[訳註;「キス」はアルバニア語でputh]
 そこかしこがきらきらとゆらめいていた。世界の均衡は崩壊していた。ガリレオ・ガリレイ。ミラは物理のその箇所で3点をとっていた[訳註;ここでの成績評価が10段階か5段階かは不明だが、独訳や仏訳では「中」と見做されている]。世界が回っているのを発見するなんて難しいことじゃない。一回キスすれば充分よ。きっとガリレオ・ガリレイだって、世界の回転の法則を見つけたのは初めてキスした時だったに違いない。きっとその頃は、あのB組の彼のように若い男の子で、でも少しだけ背が高かったに違いないわ、本で見たのは髭のおじいさんだったけど。
 家に入るなり、ミラはすぐバスルームに行くと、しばらく鏡の前に立っていた。歩いている間はずっと、自分の唇が変化してしまったか、それとも変化しつつあるような気がしていた。ミラは自分の下唇をちょっとだけ引っ張ってみた。何の兆候も、痕跡もなかった。その上の方の小さな、ほんのりと、バラ色になったところにその、「キス」をされたのだ。世界中がそのせいでぐるぐる回り出したというのに、唇そのものには何も残っていなかった。
 ミラは食事をする気になれなかった。彼女は寝室へ向かった。社会主義陣営で一番の美人。寝着に着替えている時、その言葉が頭に浮かんできた。ミラは戸惑いながらも微笑んだ。一番の美人だなんて、そんなわけないでしょ!そんなことあるはずがない。社会主義陣営は広い、とても広いのだから。ポーランドに、ドイツの一部[訳註;ドイツ民主共和国、つまり「東ドイツ」を指す]に、ソヴィエト連邦に、シベリアに、中国に、バルト海に、チェコスロヴァキアに、その他の国々に、それにモンゴルだって。たぶん美人は幾らでもいるだろう。ミラは寝着をたくし上げ、自分の足を見つめた。不思議ね、と彼女は思った。頭の中を様々な思いが駆け巡っていたが、それは焼けるような熱さを帯びていた。彼女はたった一度抱き締められただけでここまで混乱していた。今、ぼんやりとではあるが、彼女は理解した、女の子であること自体が幸運へと至る果てしなく広い空間なのだと。道路の方から、外を歩く人々の声が聞こえてくる、恐らく今夜のダンスパーティからの帰りだろう。ミラは目を閉じ、ベッドに横たわった。そしてすぐさま眠りに落ちた。今や彼女が果てしない空間そのものだった。陣営で一番の美人。チェコスロヴァキア、ハンガリー、その辺が彼女の両腕で、その向こうがポーランド、そのまた先がウクライナ、そこから実り豊かな草原が広がり、それから両足、そして分岐する流れ[訳註;原語rrembの原義は「枝」で、転じて「(川の)支流」や「血管」の意も]、ドナウ川、ドリニ川[訳註;モンテネグロからアルバニアを縦断して南東へ流れる]、ヴォルガ川、それから平たくへこんだ腹部、そして全ての中心には、中世からの、世界と同じくらい古く、薄暗いクレムリン城。嗚呼、とミラは眠りの中、ほとんどうめき声に近い声を上げた。

 道路の方から、外出する人々の声が聞こえてくる、笑いながら、その合間には眠そうな歌声も。ヌリハン婆さんはカモミール茶をカップに注ぐと、ポットをその場に置いた。
 楽しそうだわね、彼女はそうつぶやいた、たぶん今夜のダンスパーティから帰ってきて、路上で雪玉遊びに興じていたのだろう。
 外では雪片が静かに、まるで幽霊のように舞っている。カモミール茶は冷え切っていた。
 楽しそうだわね、彼女は再びつぶやいた。いつもこんな感じできたのだ。テーバイの壁の下にスフィンクスが姿を現した[訳註;ギリシア神話のスフィンクスは通りかかるテーバイの住民に謎を出していた]その時、人々は踊り、劇場に通い、ゲームと音楽に興じていた。人生、全てこんなもの。危機が近付けば近付くだけ、なお一層あの連中は享楽にふける。連中は幾つもの新年を、神聖なる日々を、王国や或いは共和国の建国記念日を祝っているが、まさにその時、見知らぬ修道士たちが彼らのもとへ、疫病の、宣戦布告の、包囲の、飢饉の、そしてスフィンクス出現の知らせを携えやって来る。神よ、私を今日この日まで生き永らえさせてきた神よ、この冬もまた私を地上へ行かせてくださいな、私があの連中の最後を見ることができるように。私を行かせてくださいな。廃墟のようになっていた家は息を吹き返し、人々の血が沸き立ち、言葉を、神経を取り戻す。祝福されたる対立が始まったその時から、私たち全てに生を与えるこの風。遠く。遠く。シベリアの荒野、ゴビ砂漠、ヌリハンのオアシス。

 終わりつつあった年末の数日間の、その晩も深夜もずっと、そして新年の最初の数日間の昼も夜も、彼らは互いに足しげく訪問を繰り返した。その歓喜はやがてドアがノックされるに至って不安に変わり、互いに顔を合わせ、そして問題はその次だ、互いに向かい合い腰掛けて、そしてそこで初めて、こう問いかけるのだ:何か聞いてるか?
 彼らは無益な対立も嫉妬も忘れつつあり、そして今まで以上に、互いに向き合ったまま、まるで芝居の総稽古の前のように、はるか昔に忘却の中に置き去られた称号を用いているのだ:閣下、ベイ[訳注;ベイbejはオスマン帝政期の封建領主]、猊下、大使殿、摂政殿下。彼らの或る者たちはいにしえの遺言や、金貨や、土地台帳[訳註;原語tapiはトルコ語tapuに由来]や、証券や、遺産を再び想い起こし、また或る者たちは一族の血脈の系譜を、時代の雷光に焼き払われたその枝葉の全体をめぐって語り、また別の、わけても命知らずな者たちは、夜っぴて証文の切れ端の上に屈み込み、驚くほどの正確さで以て、かつての農地[訳註;原語çifligはトルコ語çiftlik(農耕地)に由来し、オスマン帝政後期の地主領有地を指す]の境界線や、協同農場用地の下でずっと昔にかき消された標石や畦道を描き出してみせるのだった。
 凍えるほどに冷たい幾晩かの間、1月の空には不誠実で変わることのない月があった。霜は朝になるたび全てを覆い尽くし、上階の窓や、バスの窓ガラスや、人々の眼鏡もそのせいで曇っている[訳註;原語i vëngërの原義は「斜視の」或いは転じて「疑り深い」]ように見えた。

4
 1月3日、その日の午前9時から午後4時半まで殆ど休みなく、政治局会議が続いていた。ぱらぱらと、冷たい雨が降っていた。その二日後、再び中央委員会が開かれた。同じ日の晩、政府の会議が行われ、それは深夜まで途切れることなく続いた。明けて午前5時頃、濃霧のためティラナの空港への着陸に難儀していた特別機で、ワルシャワのKNER臨時会議に出席していたアルバニアの代表二名が到着した[訳注;第2部でも言及されているが、KNERは経済相互援助会議(Këshilli i Ndihmës Ekonomike Reciproke)のアルバニア語の略称。いわゆるコメコン]。二人は空港から直ちに中央委員会に出向くよう求められていて、何かしら重要なことを報告することになっていた。その翌日、中央委員会書記局、政府、国家計画委員会、軍総司令部、人民議会幹部会の会議が立て続けに行われた。国家機関は活動し続けていた。その部品の全てが、運動のメカニズムが、固定部が、平衡装置が、大小様々の、しばしば目には見えない器械が、絶えざる活動の中にあった。それでも、国家機関の重々しい揺れが、その基盤にまで達することはなかった。
 幹部会の会議が終わってすぐの22時、ラジオが人民議会の臨時声明を報じた。あちこちから各国の共和国駐在大使が集まり始めた。1月9日、身を切るような冷たい雨の中、ティラナの工場の党組織を皮切りに、モスクワでの会議とイデオロギー上の分裂が知らされることとなった。1月11日、全ての新聞が共和国の祝日[訳註; 1946年1月11日に王制の廃止とアルバニア人民共和国の成立が宣言された]に各国の大統領、首相、国王、皇帝、議会、政府、摂政から寄せられた祝電を掲載した。厳しい冷え込みの中、人々は足早に歩きつつ新聞を広げ、祝電の文面を注意深く読み、行間から何がしかの意味を汲み取ろうと努めていた。首都の上には真冬の茫漠たる空が垂れ込めていた。政府は再び断続的に会議に入り、夜遅く、22時5分頃まで続いたが、その頃ティラナの酒場では見知らぬ男が一人、バーテンダーにフェルネットをもう一杯頼みながら、かすれ声でこう言っていた:「社会主義陣営が俺たちへの信用取引をやめるってさ」

 吹く風が、柔らかい音を立て雨を窓に打ちつける、その瞬間に全ての景色が:交差点が、隣家の柿の木[訳註;原語hurmëはナツメヤシ(Phoenix dactylifera)、カキノキ(Diospyros kaki)或いはマメガキ(Diospyros lotus)のいずれをも指すが、ここでは独訳と仏訳に従う]が、電気部品の店のショウウインドウの灯りが互いに混ざり合い、やがて再び鮮明さと落ち着きを取り戻すと、各々の持ち場に戻っていった。ソファには前日の新聞が無造作に放り出されている。ザナの目は繰り返し、共和国祭日の祝電の文字と行間を読んでいた。シャルル・ド・ゴール。ウルブリヒト。ヴワディスワフ・ゴムウカ。国王グスタフ・アドルフ。フルシチョフ[訳註;ウルブリヒトとゴムウカについては第2部参照。「グスタフ・アドルフ」はおそらく当時のスウェーデン国王グスタフ6世(在位1950~1973)。他2名は説明不要でしょう]
 ザナは再び外を眺めた。今頃は二人が結婚してもう二週間経っていたはずなのに。彼女はあちこちから寄せられた祝電を読んでいたはずなのに。最初に送ってくるのはきっとフィエルのサンドリ叔父さんとウラニア叔母さんだったに違いない。ザナはベスニクと二人でコーヒーを飲みながら、冬の日の昼下がり、結婚式の後の軽い疲れを感じつつ、電報を読んでいたはずなのに。ほら、サンドリ叔父さんよ、とザナは声を上げていただろう、サンドリ叔父さんが一番に電報を送ってくるって言ったでしょう?と。その次がウラニア叔母さん。それから他からの電報。それから・・・ところが二人はと言えば、単に二週間前に結婚しなかったというだけではない、今やベスニクからの電話すら稀になっていて、ザナがずっと好きだった電話機さえ、今の彼女にとっては、半ばいまいましい、黒いネズミ[訳註;「厄介な存在」の比喩]と化していた。  外からまた、もの寂しげな「薪はいかが」という呼び声が聞こえてきた。毎年この時期になると「薪はいかが」屋が姿を現すのだが、今回のように、彼らの一人がこれほど長い期間、そしてこれほど執拗に歩き回ることは今まで一度もなかった。
 あの劇場で、彼は何か言いたがっていた、間違いなく何かを言おうとしていた、少なくとも説明か、弁解か、と言ってもそれはほんの僅かの、上っ面だけのものだったろう、もしかしたら嘘をつかれたかも知れない。でも彼はすぐ口を閉ざしてしまった。ただプライドだけが邪魔をして、彼女は彼に直接言えなかったのだ:ベスニク、あなた何かあるんでしょう、何か私に言いたいことがあるんでしょう、どうしたって結局、あなた私にそれを言う義務があるのよ、私にはっきり説明する義務があるのよ、真剣に、あなたが思っていることを、あなたにとって苦しいことを、たぶんあなたにとっては・・・辛いことを。それでもザナは待っていた。どうすればよかったのか、ただ彼女は自尊心を保って待ち続けていた。ザナは苦笑した。二人が恋人として付き合っている間、リリ[訳註;ザナの母。1部と2部でも登場している]が絶えずいろいろ言ってくるのも気にしなかったし、ほんの僅かであれ婚約を迫るようなことなど一度もなかったし、それどころか、そんなことを口にするつもりもなかった。二人が初めて肉体関係を結んだ時でさえそんなことを口にしなかった(ベスニクはザナの人生で最初の男性だった)し、その後もずっとそうだったが、やがて或る日の午後、或る寒い、鬱陶しい[訳註;原語hutaqの原義は「うっかりした」「注意散漫な」]雲が空を覆い耳障りな雨が降りしきる日の午後、ベスニクはザナにこう言ったのだ:ザナ、僕は君と結婚したいんだ、君はどう思ってる?と。だからザナもすぐにうなずき、少しだけ目を輝かせ、短く小声で(声というよりむしろ、温かなひと呼吸だったが)、「ええ」と言った。
 キッチンから皿を洗う音がしていた。外の玄関の方から、ガレージの扉がきしんで開く音が聞こえた。父がまた出かけるのだろう。きっと会議だ。昼も夜も会議ね、とザナは思った[訳註;第1部でも暗示されているが、ザナの父クリスタチは政府要人の一人。それも閣僚級の]。隣家の落葉しきった樹の上の方に、柿の実が二個、燃え上がる太陽のような色で、まだぶらさがっていた。まるで絵の具で塗ったように見える。ソファには新聞が無造作に放り出されている。本当なら、満足げに祝電を読んでいられたであろう昼下がりのひとときだったのに。結婚おめでとう。お幸せに。北部実習所時代の大学同窓生一同より。アルバニア人民の繁栄と、あなたたち自身の幸運を。ウラニア叔母さんとシャルル・ド・ゴール。幸多きご結婚に祝福を、お幸せに。皇帝セラシエ一世[訳註;当時のエチオピア皇帝ハイレ・セラシエ一世のこと。1974年のクーデタで廃位]。薪はいかが。
 どうしてこんなことに、と言いながらザナはソファから立ち上がり、肩をすくめた。寒気がした。ゆうべ余り眠れなかったので、今頃になって眠くなってきた。キッチンまで行ってリリの手伝いでもしようと思ったが、また結婚のことでうんざりするような会話の口火を切られるかも知れないと思った。
 居間の小さなテーブルの上に、家族写真のアルバムがあった。もう長いことこのアルバムも開いていなかった。まるで見る気がしなかったのだ、ちょうど古い映画など見る気にもならないのと同じように。それなのに、どうしてそんなことをする気になったのか、ザナはそれをパラパラめくり出した。写真の貼り方には、何処か流行遅れで田舎臭さがあった。祖父が珍妙なボルサリーノ姿の男二人と一緒にいる。父はパルティザンの服装をしている。結婚式の日のクリスタチとリリ[訳註;両親二人の遅い婚礼か、他人の式への列席かは原文から判断できない]、ザナは幼く、華奢で、驚いたように目を見開いたまま、優しそうなブロンド[訳註;旧版では「叔母」と明示されている]の手を握っている。小学一年生のザナ、クリスタチとリリは見慣れない顔数名とピクニック、正面にはビール瓶。祖母は、すっかり歳を取っている。バスケチームの試合に出場しているザナ。その中の一人、その選手が、生まれて初めてキスした相手だった。ホテルの長い廊下、壁は湿気を帯びてしみだらけで、トイレのドアはひっきりなしにバタバタ音を立てていた。ザナは顔をしかめた。デ・ラダ[訳註;イェロニム・デ・ラダ(Jeronim de Rada)はアルバレシュ(イタリアのアルバニア系住民)の作家・教育家。19世紀のアルバニア民族復興運動(リリンディア)を担った知識人の一人]の銅像の前のクリスタチ、リリ、叔母そしてスカンデル・ベルメマ。休暇をキャンプ先で過ごすクリスタチとリリ。大学一年で同級生たちと一緒のザナ。幹部会会議のクリスタチ。祖父母の姿はもうない。二人とも1956年に相次いで死んでしまった。浜辺で水着姿のザナ。ベスニクが一人だけ。その次はザナと一緒。二人で一緒。何処でも一緒。
 ドアのベルが鳴った。ディアナ・ベルメマだった。ザナはアルバムを閉じ、ディアナと抱擁を交わした。前に、ベスニクと路上で一緒にいた時に出くわして以来、姿を見ていなかった。ディアナは腰回りこそふっくらとしていたが、ザナには以前よりも綺麗になっているように見えた。二人はしばらくお腹の中の子について会話した。
「まあ勝手よね私ったら!」急にディアナは声を上げた。「ベスニクはどうしてるの?モスクワから戻ってきてからずっと見かけないのよ。会いたいわねえ」
「元気よ」ザナは言った。
「ずっと来られなくてごめんねザナ、ベスニクにも申し訳ないって言っておいてね、ねえそれにしても彼どうしてるの?アンドレアも連れて来たかったんだけどね、それなのにあの人、昼も夜も病院に残ってるのよ」
 ザナは見えるか見えないかの[訳註;原文は「水中の」]微笑みで聞いていた。
「ここのところもう何日も、頭胃の痛いことばかりよ」ディアナはそう言って、声を落とした。「外国の技術者の一部がね、それもソヴィエトの人たちだけど、帰国しちゃったらしいのよ」
「本当に?」とザナが言った。
「そうよ、何かとっても大変なことが起こったのよ」
「アンドレアがそう言ってたの?」
「あ、ううん」ディアナは言った。「あの人、病院の仕事のことについては殆ど何も話してくれないのよ」
 ザナは何か考え込むように首を振った。
「あの人たちは簡単に教えてはくれないわ」彼女は小声でつぶやいた。
「まあ」と言ってディアナは笑い声を上げた。「それはとっても厄介ねえ」
「ベスニクも同じことがあったのよ」ザナは続けた。「あちらこちらで、モスクワで何かあったらしいって囁かれているわ、でも私だって、ずっと一緒にいる婚約者の私にだって、まるで何もわからないのよ。もうみんな知っているわ、ソヴィエト連邦との仲が冷え切っているんだって、それなのにあの人は私に何ひとつ教えてくれないのよ」ザナの口調には刺すような不満があった。「もう二度も三度も周りから訊かれたわ、それで何も知らないって言う度に、自分がのけ者にされてる感じよ」
「そういらいらしないで」ディアナが言った。「あの人たちはそんな風なのよ、おかしなことだけどね」
「だけどあの人たちに言わせれば、私たちこそおかしいのよ」
 ディアナは話題を変えたくなった。
「で、そっちはいつ結婚するの?」と彼女は楽しそうな口調で訊いた。
 ザナは肩をそびやかした。それは嘆き悲しみのグラフを描くかのような独特な肩の動かし方で、どれだけ隠そうとしても彼女にはまるで隠しきれなかった。今や話題を変えたいのはザナの方だったので、お腹の中の子について訊ねてみた。それはディアナにとっても決して飽きのこない話題だった。
「ザナ」そう言ってディアナはそっとザナの手を握った。「もし、ベスニクとの間に・・・何か誤解があるのなら、私はいつだって・・・あの時みたいに・・・わかるでしょ、私なら、彼とうまくやりとりできるし」
「駄目よディアナ、それは駄目」ザナはそう言いながらディアナを抱き締めた。「ありがとう、でもその必要はないわ」
 一年前、ザナとベスニクが交際していた頃、ディアナは二人の間のまるで意味のない喧嘩を仲裁したことがあったのだ。
「好きにすればいいわ」ディアナは言った。「私はいつだって、手を貸してあげるからね」
 二人はまたお腹の中の子に話を戻した。
 ディアナが帰ってから、ザナは窓際に近付いた。何故だか或る日の浜辺でのことを思い出した。誰かが砂浜にクラゲを引き上げてきた。クラゲは太陽の光を浴びてきらきら輝きながら、やがて死んでいった。人々がその周りを取り囲んでいた。この頃、ザナはいろいろなことを脈絡もなく思い出すのだった。雨は止んでいた。玄関に男女の一団が入ってくるところだった。またお客さんね、ザナは思った。この二週間、あの一階のお隣さんのところにはひっきりなしに人が来ていた。今どき狐の毛皮のコートと帽子を身に着けた女たちや、三十年代風の、アルバムの写真で見たものと驚くほどそっくりなボルサリーノ帽をかぶった男たちもいる。たぶん結婚式[訳註;原語krushqiは「(結婚による)縁戚関係」]の段取りだわ、とザナは思った。たぶん、あの人たちはマルクを結婚させようとしている。ザナは毎日、彼が入口の門を押し開けて、注意深く、大きなチェロを担いでいくのを見たが、それは冬の薄暗がりの中、まるで彼の背に乗って家へと運ばれていく、黒く、おとなしい獣のように見えた。彼は控えめだったが、その瞳の中に、敬意や或る種の気弱さとは別に、ザナは秘められた欲望を見て取ることがしばしばだった、もっともそれは抑制されていて、徐々に弱まり消え失せてしまうのだったが。一週間前ザナは彼に、金を払うから時間が空いた時にフランス語を教えてくれないかと頼んでいた。マルクは引き受けてくれた。なるべく早く始めたいわ、とザナは思った。何とかしてこの憂鬱を取り払いたかった。
 ザナはリリがキッチンから出て行く物音を耳にした。それで急いでキッチンへ行き、冷蔵庫を開けると、コニャックの瓶を取り出し、それを小さなグラスに半分だけ注いだ。コニャックは美味で、ザナはもう一杯注ごうとしたが、その時キッチンの入口にリリが姿を見せた。
「あなた、飲んでるの?」リリは言った。
 ザナは口元にしまりなく笑みを浮かべた。
「別に」そう言って彼女は一方の肩をそびやかした。
 リリは溜め息をついた。
「いいこと、ザナ」彼女は言った。「話を聞きなさい、そんなしかめっ面はやめて。どうあったって、私はあなたの母親で、あなたは私の言うことを聞く義務があるのよ」
「ええ確かにママは私のママだわ、マクシム・ゴーリキーの母親ではないわね」
「ザナ、あなた恥ずかしくないの?何だってそんなわけのわからないことを?」
 それはザナ自身にもわかっていた、自分の言葉が何ひとつ論理的ではないのだと。
「ごめんなさい、ママ」ザナは言った。
 リリはテーブルクロスで手を拭いた。
「この件にはケリをつけなきゃね」とリリは言った。「あなたが悩んでるのをこれ以上見てはいられないわ」
「私は悩んでなんかいないわ」ザナが言った。
「ママを見損なわないでちょうだい」リリは言った。「ねえザナ、あなたにはもっとママを信用して欲しいのよ。いつもあなたは自分の頭の中だけで抱え込んで。せめて今度だけはママの言うことを聞きなさい」
「何をよ?」ザナはそう言って目を上げた。
 リリは再び深呼吸した。
「問題の中心によ」リリは脅しつけるような口調で言った。「あそこに行くべきだわ、党の組織に、そこで話してやるのよ、あの人があなたに何をしたかって」[訳註;ベスニクが勤める新聞社の中にある「党細胞」を指している]
「だめ」ザナは声を上げた。
「聞きなさい、ザナ」
「だめ、だめ、だめ」ザナは何度も叫んだ。瞳に涙が溢れていた。「そんなこと、絶対許さないんだから」
「ザナ」
「わかってるわよ、私たち結婚なんかしないんだって」
「いい加減にしなさい」リリも声を上げた。「いいから、私の話を聞きなさい」
「聞きたくない。そんなの、ママが言うことなんて最低よ」
「ブラヴォ」リリは言った。「それが母親に対する口の利き方なの」
リリの声が咽喉でつかえてかすれた。
 ザナは乱暴に冷蔵庫を開けると、グラスにコニャックを注ぎ、それをひと息にあおった。
「ごめんなさい、ママ」ザナは小声で言った。
 リリは両手で頭を抱えた。
「あなたみたいな娘はもう知りません」彼女は言った。
 ザナは飲み過ぎて頭がぐるぐる回るように感じた。
「ねえママ、どうしてそんなに悲劇みたいに考えるのよ?」彼女は笑い声で言った。「要するに結局、我慢するしかないのよ、そういうものだって納得するしかないのよ。たぶん彼だって、お父さんの病気でそれどころじゃないかも知れないし。ママだって知ってるでしょ、癌の疑いがあるって」
「あなたったら、またそんな甘いことを[訳註;原語zemërgjerëは直訳すると「心の広い」]」リリは口調をやわらげてそう言った。
 ザナは母を抱き締めた。
「おやまあコニャック臭い、まるで飲んだくれじゃないの」そう言ってリリは顔をそむけた。
 しばらく二人は黙り込んだ。
「ママ、ちょっと出かけてくるわ」ザナが言った。「洋装店に行くの。コート用のいい布地が出たそうだから」
「一緒に行ってあげようか?」リリは言った。
「いいわ、ママ、一人で行くから」
「なら好きにしなさい」
 ザナはバスルームに行って顔を洗った。彼女の憂鬱が晴れるのは早かったが、リリはそれでも疑うような目で、階段を降りていく姿を見送った。
 外は既に雨が止んでいた。空気は独特の匂いがした。空はうっすらと灰色で、その只中から雪が降ってきそうだった。その[訳註;雪の]柔らかな爪の先は、ためらいがちにそこに留まっているように感じられた:姿を見せるべきか、それとも否か。
 歩いていると、向こうからマルクが歩いてくるのに出会った。彼の身体は大きなチェロと一つになり、その姿を形作っていた。
「こんにちは!」とマルクは言った。
「こんにちは、マルク」
 彼の瞳の中に秘められた例の欲望の一部が、気弱さを打ち消し、僅かながら増しているようにザナには思われた。何にせよ、なるべく早くフランス語を始めなければ、とザナは思った。
 ザナは、これといった考えもなく、中心部へと向かった。徐々に彼女は人混みの奔流[訳註;逐語訳は「道路による支配」]の中へと身を投じていった。間もなく街路灯が、続いて商店街の照明が灯り、そしてその全てが、人やものの上に独特の陰影を投じ、それらを遠く離れた、何処かしたよそよそしく、二重の意味を持つものへと変えてしまうことだろう。だが今のところは、心地よさげに舞う雪の下、あらゆるものが自然で、開かれていた。
「いい娘だな[訳註;原語shpirtは原義「魂」「精神」]」誰かが傍で呟いたが、ザナは振り向かなかった。彼女は、ずっと通りとうまく付き合ってきた見目麗しき女性ならではの満足感を覚えつつ、中心部の通りから通りへと抜けていった。彼女は通りを愛し、通りを挑発し、そして通りもまた有り難いことに彼女を無視することはなかった。うっすらと、ごくうっすらとザナは、自分と通りとの良い関係が終わろうとしていることを予感していた。その日こそは、彼女にとって喪に服す日[訳註;原語ditë zieは逐語訳「黒い日」]となるだろう。
 君は通りが好きなんだね、とベスニクに言われたことがある;何でそんなに好きなのか、それは僕にだってわかるよ、もっとも、そんなことで妬いていたらきっとどうかしてる[訳註;原語trushkulurは「頭が引っこ抜けたヤツ」]けどね。
 この頃、ザナは今までにもましてベスニクと交わした会話や言葉や、ありふれた出来事を思い出している自分自身に気付いていた。それは別れの予感のようなものなのだと聞いたことがある。別れは二人の間にゆっくりと、だがしっかりと、まるでウイルスのように分け入ってくるのだ。二人はそのウイルスをもう何週間も前から抱えていた。流感、梅毒・・・(彼女の意識の片隅をそっと、まるで鼠のように梅毒という言葉が駆け抜けた)、癌を患っている人もいる一方で、彼女は、ザナはこの何週間というもの、別れを患っていた[訳註;蛇足だが梅毒の原因はウイルスではなく細菌]。彼女の女性としてのあらゆる存在が、目で、腕で、胸で、肉体の最も秘められた部分で、彼女自身の変化の影響を感じていた。奇妙なことに、家ではそのことが彼女の精神的な崩壊を引き起こしていたのに、ここ路上ではそれが静かに、心地よく、甘悲しく、ほとんど豊かさとも言える重圧感へと姿を変えていた、それは実際ほんの少しもの悲しくはあったが、むしろ豊かさであった。もはや彼女は以前のような、明朗快活で、健全で、誰からも愛されるザナではなく、それどころか質素で、すっかり自分の幸せですべすべに磨き上げられていた。そんな彼女という存在の上に、今度は謎めいた光と影が投げかけられている。彼女は戯曲の中の女だった。
 ザナは足取りを速めた。彼女は洋装店へ行くことをすっかり忘れていた。彼女は通りに魅せられていた。また一台、三輪オートバイがけたたましい音を立てて通り過ぎた[訳註;旧版では上記「君は通りが好きなんだね」の前にもう一段落あり、「サイドカーがけたたましい音をたてて通り過ぎた。中心部の近くで、新年の屋台を片付ける」とある。なおここで「三輪オートバイ」と訳したtrirrotëshは「三つの車輪」という意味で、仏訳や独訳では「サイドカー付きバイク」と訳されている]。彼女の目の前で、大工が板を打ちつけていた。組み立てている、それはまるで戯曲かサーカスの看板作りのように見えた。通りはまさに魔法に溢れている。家に比べたら、そこは半ば夢のようだ、そこでは冷静に、ワニやヤマネコといった恐るべき野獣や、別れとさえも戯れることができるのだ。

[訳註;旧版ではこの間に、1月14日に中央委員会が招集され情勢報告会が開かれたこと、各地で労働者の集会が行われ、ソ連大使の着任が報じられ、人々が朝の新聞を慌ただしく読んで「スポーツ欄や科学欄や天気予報の欄を目にすると、まだそんな欄があることに驚いたような仕草をした」ことが書かれている]

 政府は再び会議に入っていた。休憩の途中、首相秘書の一人が、ごく短い指示を大急ぎで印刷し、配布していた。『至急。極秘。全ての中央部局局長へ。全ての大規模公社へ。新たに発生した状況に関しては、可能な限りの冷静さを保つこと。特に外国人技術者に対しては、その出身国を問わず、如何なる騒擾も挑発も引き起こすことのないよう注意されたし。新たに発生した状況にかかわらず、我々の国家間の関係はこれまでと変わるところはない。首相より。』
 閣僚評議会からの急使たちは三輪オートバイに乗り、けたたましい音を立てて、ティラナと周辺地域を結ぶ道路を走り抜けた。

 ベニは四時にイリスと公園の「例のベンチ」で落ち合うことになっていた。交差点を渡ろうとしていた時、彼はすさまじい勢いで走ってくる三輪オートバイとぶつかりそうになった。運転手は脇に逸れた。ベニも同様だった。誰かが「何処に目をつけてんだ?」と叫んだ。
 何処からこんなにバイクが出てくるんだ、とベニは思った。その日はもう三台目だった。
 [訳註;旧版ではここに、ベニがマクスに電話をかけた時のやりとりがあるが、決定版では削除されている]何かが起きているような気がするが、ベニは何も聞かされていなかった。サラに訊く気にはなれない、あの男の阿呆ぶりにムカムカさせられるだろうから。この間も、トルコとの友好関係が強化されるらしいとか何とかペチャクチャ喋っていた。もうたくさんだ馬鹿野郎、とサラに向かってベニは言った。サラの親父さんが、ムスリムの年寄り連中が溜まり場にしている何処かのカフェで聞いてきた噂に決まっている。
 三時半になっていた。ゆっくりと公園に向かって歩き出した。タバコがない。「例のベンチ」は冷え切っていた。池の水は枯れていて、その淵は沼に姿を変えていた。ベニは襟を立てた。と不意に彼は思った:来ない方がいいかもな。四時五分前になっていた。自分でもはっきりしなかったが、彼女に来ないで欲しいと思った。サラが言っていたが、あのディブラ通りでトーリが自分の陰口を叩いていて、他の連中にこうほのめかしていたらしい、ベニは俺が捨てた女に惚れているんだと。ベニは、トーリの言うことなど嘘だとわかっていたが、それでも自分とイリスの間に差し込むトーリの影に苛立ちを覚えた。まずはトーリとの間で決着をつけるべきだ、それでこそ彼女と心おきなく付き合える、ベニはそんな気がしていた。
 池のほとりを老夫婦が一組、腕を組んで散歩している。
 ベニは思い出した、愛について話される時、それはいつも、胸のど真ん中を貫く矢や針の話になり、愛はイェニチェリ[訳註;オスマン帝国で徴用されたキリスト教徒の歩兵部隊。火器で武装していたことで知られるが、ここでは「弓を射る者」の比喩]か指物師の話題のように語られるということを。それどころか、公園にやって来るバスにさえ人々は、指先で埃の上にそんな射貫かれた心臓を描いているのだった。その日ベニがやろうとしていたことは、まるで鋭くもなければ刺し貫くようなものでもなく、それどころか全てが寛大であり、そして奇妙なまでに温和なものだった。矢も刃もないのであれば、それはつまり愛ではないのだ、そうベニはずっと思っていた。ところが最近、トーリが自分のことを陰で笑っていたとサラに言われて以来、ベニの胸の中の柔らかいスポンジは引き裂かれてしまった。そうだお前には針がある、お前の思考もそこに頼っているのだからな、とベニは自らに言い聞かせていた。
 時刻は四時を過ぎていた。来てくれなければいいのに、とベニは思いながら、最後の煙草に火をつけた。だが四、五分経った時、彼は遠くの樹々の間にイリスのセーターを認めた。彼女は足早に、時折片手で髪に触れながら歩いてきた。
「こんにちは」イリスは言った。「遅かったかしら?」
 彼女はベンチの、ベニの隣に座った。
「どうしてそんな?」と彼女は訊ねた。きっとこう言いたかったのだろう:どうしてそんな怖い顔してるの?
「何でもないよ」ベニは言った。他人と約束して会うのに『そんな顔してどうしたの?』と言われるなんて、こんな最悪の始まりがあるものか、と彼は思った。これでは何もなかったとしても、本当は何かあったように思われる。ベニは何と言えばいいかわからなかった。
「あなた、何かあったのね」とイリスは冷ややかに、あの忌々しい複数形でそう言った。
[訳註;ここだけ、イリスはベニのことを“Ju diçka keni”と心理的距離の遠い2人称複数で呼んでいる。]
「いいや」とベニは答えた。彼は、この沈黙があともう少しでも続いたら、イリスが帰ってしまうような気がした。
「親父が病気なんだ」彼は言った。「癌の疑いがあってね」
「そうなの?お気の毒に」彼女が言った。「ごめんね、悪かったわ」
「構わないよ」
「治療は?」
「うん。コバルト線をやってるよ」
 イリスはベニの手をさすり、ベニも自分の顔をイリスの顔に近付けた。親父のおかげで恋ができるな、とベニは思った。
 イリスの髪から心地よく、控えめな匂いが漂ってきた。首筋には我慢しきれないほどの純粋さがあった。彼女が何かについて訊ね、彼はそれに対して、なるべく注意深く話そうと努めながら答えた。徐々に会話は広がりを見せつつあった。イリスはベニに何かしら、彼女の同級生二人のことやコンクールのことを話した。それから、ベニに妹がいるという話を聞くと、妹は可愛らしいのかとか、どんな髪型なのかと細かく訊いてきた。ベニが知っている女子の誰一人として、今までにこれほどミラのことを訊いてはこなかった。ベニは口の中の唾液が渇くのを感じた。トーリのことを思い出し、とりわけトーリが自分のことを嗤っているところを想像すると、何もかもが毒にやられたようになっていくのだった。こんな場所には来なかった方がよかった。
「どうしたの?」イリスが言った。「そんな怖い目をして・・・」
 ああ、そうなるに決まっているさ。ベニは勢いよく立ち上がった。
「帰るよ」彼は言った。
「え?!」
 イリスも同じように立ち上がった。彼女の両瞳がバチバチまたたいて、身を震わせ、破局的な亀裂をもたらすような冷たい光を放った。彼女の全身が侮辱に貫かれていた。女性に恥をかかせると恐ろしいとベニも聞いてはいたが、これほどとは思っていなかった。(後になって何もかもが悪しきライラック色で覆われたように思い出されるのだ)彼女の唇が何かを言おうと動いたが、結局のところ、まるで何かを奪い取っていきなり走り出す人のように、彼女はくるりと背を向け、すすり泣きながら走り去った。
 ベニはそれをどんよりした目で追った。そして、イリスが池の向こうに姿を消すと、彼も元来た道を歩いていった。彼の目の前、枯葉に覆われた道路を、口笛を吹きながら、帽子をかぶった男が歩いてきた。
「タバコ一本くれよ」ベニは言った。
 相手は立ち止まると、箱を取り出し、ベニに差し出した。
「ようどうした兄弟?」ベニの沈んだ表情を見て相手はそう言った。ベニは手を動かすしぐさをすると、例も言わずに立ち去った。マッチは自分で持っていた。
 暗くなっていた。雨の日が数日続いて、今はあの連中がいつもの場所に集まり出していて、最後に来た奴がこう訊ねるのだ:何か面白いことあったかい?そしてトーリも、きっとそれを待っている。もう二度とあそこには行かないぞ、とベニは自分に繰り返したが、それなのに足はそちらへ向かっていた。自分の足が言うことを聞かないのはこれが初めてではなかった。行きたくない場所へ行ってしまうのだ。ベニにできることはただ、できるだけ長く、色とりどりの照明の看板の前を通って時間を遅らせることだけだった:カフェ・リヴィエラ。タバコ。電気製品修理。レコード。タクシー。ホテル・レプブリカ。バー。ムール貝。ロブスター。タースブロ[訳註;「ロブスター」と訳した箇所はKARAVIDHEで、その次はEHDIVARAK]。ベニは看板を反対側から読み始めたが、それはちょっとした時間稼ぎでしかなかった。ルアバ。エフカ[訳註;KAFE. BAR. をRAB. EFAK. と読んでいる]。あなたの収入を貯蓄銀行へ。
 そら、あそこにいるぞ。サラはサングラスをかけている。他の連中はタバコを吸っている。
「やあベン、こんばんは」
「・・・んば・・・」
 トーリは目を合わせなかった。
「タバコ一本くれよ」ベニはサラに言った。彼はタバコに火をつけると、壁にもたれかかった。
「何かあったか?」サラが小声で訊ねた。
 ベニは答えなかった。口の中に苦いものがこみ上げてきた。
「みんなご機嫌だな」トーリが言った。
 ベニはトーリから目を離さなかった。
「何で俺をそんなに見るんだ?」
「別に」ベニは言った。「俺の勝手だろ」
 サラはサングラスを外し、呆けたような目でベニとトーリを交互に見た。ここ数日の閑散ぶりの後で、路上は再び混み合っていた。銀行-映画館の路線バスは、光の中に沈んだまま、ゆっくりとカーヴを曲がっていた。ベニの頭の中に、まるで雨のように、あの遠くからのオーケストラのリズムが響いてきた、あの時彼は彼女と待ち合わせしていたが、彼女は来なかった、来なかったのだ。
 トーリはチュリリムと何やら話し込んでいた。そして二人して笑い声を上げた、いつも通りの、吠えるような例の笑い声で、後ろにのけぞりながら。
[訳註;旧版ではここに、トーリがベニに向かって「お前が恋してて、それが本気なら、俺たちは力になるぜ」等と話しかけるくだりがあるのだが、決定版では削除されており、ベニがトーリとチュリリムのやりとりの内容を聞いていたか否かは曖昧にされている]
 ベニは目の前が真っ暗になった。何か言おうとしたが、言葉の代わりに出て来たのはただ、引き裂くような、尋常でない、何か別人ののどから発されたような「やめろ」という声だけだった。そして次の瞬間にはトーリに向かっていった。トーリはベニの拳をかわしきれなかったものの、それでもどうにか殴り返した。ほんの僅かの間に、二人は素早い拳を数発お見舞し合った。脇腹を目がけた一発がショウウインドウに当たった。ガラスの砕け散る音、急いで集まってくる人々の声、そして警官が鳴らす警笛のピリピリという音が聞こえた。ベニの耳に、あの遠く離れたホールで激しく奏でられるオーケストラが鳴り響いていた。力強い腕の一本、更に別の一本に両肩を摑まれた。路線バスがゆっくりと、赤い標識灯に満たされてカーヴを曲がっていた。乱闘の中、ありとあらゆる言葉が、とりとめもない、うんざりするような、嘲笑うような、微かな問いかけが、羽根のように舞い飛び泳いでいた。何だ?何だ?おやまあ!ナイフかい?そりゃそうさ。そうならないわけがない、その方が連中にはもってこいだ。スキャンダルだ。おい!警察だぞ。やがてそうしたやりとりの全てが、水をはじくようなピチャピチャした音へと戻っていった。二人は警察の車に押し込められた。
[訳註;旧版ではここに、警察署に着いたベニが巡査部長に氏名を訊かれ、続いて目撃者らが取調室へと通されるくだりがあるが、何故か決定版では削られている]
 調書の作成は長引いた。サラに続いて太った女が一人、それから見知らぬ人物が二人、証言に立った。三番目は、眼鏡をかけボルサリーノをかぶった男で、名前をエクレム・フォルトゥズィといったが、彼曰く、二人のうちどちらが先に手を出したかはっきり区別がつけかねるため、自分は正確な証言を出来る状況ではありません、それというのも近頃視力が落ちているからで、いやもっとも国からの配慮のおかげで然るべき診断は全て受けていて、もう何度もメガネを交換しているのですが、いまだ視力の改善に至っていないと、そんなわけで・・・
「わかりました」巡査部長[訳註;原語nënoficerは軍隊用語なら「下士官」だが、ここでは警部補に次ぐ階級としてこう訳す]は言った。「お帰りになって結構です」
 証人たちは一人一人順番に署名すると、帰っていった。ベニとトーリがそこから放免されたのは九時半で、家の住所が確認された後のことだった。
 路上の気温はかなり下がっていた。通行人はまばらになっていた。ベニは、顔見知りに会わないよう首うなだれたまま、急ぎ足で歩いた。顔が変形しているような気がした。唇が痛かった。
 アパートのドアを開けたのはミラだった。
「うわ」彼女は怯えたような声を上げた。
「シッ」ベニはミラの腕を摑んだ。「喋るな」
「どうしたのよ?」
「うるさいな。転んだんだよ」
 居間の方から話し声がする。
「誰が来てるんだ?」
「ゼルカとご主人よ、ヴロラから」
 ベニはバスルームに入り、鏡を覗き込んだ。右眼の辺りにあざが出来ている。唇も切れていた。
「兄さん、殴られたのね」ミラが背後から声をかけた。
 ベニは妹に左眼を向けた。右眼はあざに囲まれてまるで自分のものでないようだった。女のことで殴られたのね、とミラは思った。彼女は憐みの念に襲われた。
「かわいそうに」ミラは言った。ベニはぎょっとしてミラを見つめた。二人が互いをいたわることなどついぞなかった。
「そこで何してるんだ?」居間の方からストルガの声がした。
「今行くわ、パパ」
 ミラは急いで戻っていった。
「どうしてベニは来ないんだ?」ストルガが言った。「だいたい、夕飯にも帰ってこなかったじゃないか」
 ベスニクはゼルカの夫と長々会話に没頭していた。ストルガはタバコを吸っていた。ラボとゼルカは夕食のテーブルを片付けているところだった。
「ジェレズノフ将軍ですか?」とベスニクが言った。「面長の典型的なロシア人じゃありませんでしたっけ?」
「そうかい?君、どこで彼と知り合いに?」
「クレムリンの晩餐会で知り合いましたよ」
[訳註;ベスニクは第2部でジェレズノフ将軍に紹介され握手している]
 ストルガはベスニクを横目でちらりと見た。それなら自分だって知り合いだったさ、とストルガは思った。そしてまるで近所で顔を合わせる人の話でもしているかのように、悪いことは何も言わないのだ。ベスニクが政府の大きな仕事に関わっていることへの満足感が、あのモスクワで起こったことについては自分にこれっぽっちも話してくれないことへの不満感とないまぜになっていた。仲間と集まった時、最近の出来事についての会話になるたび、彼は少しだけ居心地の悪さを感じていた。仲間たちは皆、ストルガの息子がそれに関わっていることを知っていたが、それなのに当の父親はと言えば、そのボンヤリした霧を晴らすようなことは何も話せない状態にあるのだった。
 全く、こんなに山ほど秘密を抱え込んだことはなかったな、とストルガは思った。彼がしばしば思い起こすのは、自分が戦争から戻って来た1944年の暮れのことだ、その時ベスニクは九歳で、自分に何でもかんでも訊いてきた。それでストルガも何でも教えてやったのだ、それこそユーゴスラヴィアとの国境問題のようなデリケートな事柄に及んだ時でさえそうだった。そうだ。自分たちに秘密なことなどなかったのにな、とストルガは心の中で繰り返した。あいつが、あの小さな、ひょろ長く骨ばった足のベスニクが父親に隠し事をするなんて、思ってもみなかった。ふう、と彼は溜め息をついた。
 戦争に関するありとあらゆる話の中で、ベスニクと、後にベニにも何故だか記憶に残ったのが、国王ゾグの母親の墓地を爆破した件だった。二人は立て続けに、どうやってダイナマイトを仕掛けたのか、どうやって火をつけたのか、それは王妃のための花飾りやダイヤモンドに見せかけていて、それら全てを吹き飛ばしたのか、と何度も何度も訊いてくるのだった。
 それから後になってストルガは気付いた、自分の幼い息子だけがこの事件にそんな印象を受けているわけではなく、誰もがそうなのだということに。誰かがストルガの話をすれば、相手はこう言うのだ:ああヂェマル・ストルガか、老いぼれ女王を吹き飛ばしたあの男だな。
 一度ならずストルガは一人で腹を立てたものだ:このことだけなのか、俺の人生の中で、これほど大勢から話題にされるのは、これだけなのか?と。彼にとっては、あの廟墓を爆破したことなど、自分にとっては戦争の苦難の日々に比べれば余興に過ぎないと思ってきたのだ。だがしかし、時代には別の理屈があるらしい。
[訳註;旧版では次の文が続く;
「つまり君はジェレズノフと知り合いなんだね」とゼルカの夫が言った。
「どういう人なんですか?」ベスニクは訊ねた。
ゼルカの夫は肩をそびやかした。
「何と言ったらいいか。些細な小競り合いや挑発が蒸し返されてるのさ、彼が現れてからね、だが全体としては・・・」]

「ということはつまり、それほど深刻な状況なのですか?」ベスニクが訊ねた。 将校は『そうだ』とうなづいてみせた。
[訳註;第1部で書かれているが、ゼルカの夫はヴロラの基地に勤務する海軍将校。この基地が第4部の舞台となる]
「まあ、向こうはどうなのかしら、向こうはどうなのかしら」そう言ってゼルカは溜め息をついた。「一分毎に厄介なことになりそうよ」
 ストルガはすっかりふさぎ込んで座っていた。誰にだって知る権利があるじゃないか、たとえゼルカでもそうだ、だが俺にはそんな権利もない、と彼は思っていた。俺には何ひとつ知らせてもらえない、この国で何が起きているのか。不愉快さと昂奮と、煙草の煙で息が詰まりそうだった。
「おい、うちのベニは向こうで何をやってるんだ?」彼は大声を上げた。「何だってお客さんに挨拶にも来ないんだ?」
 ベスニクとゼルカの夫は、会話を止めて振り返った。ラボが立ち上がった。それに続いてミラが出て行ったが、誰も、誰一人として戻って来なかった。部屋の中に沈黙が生じた。ドアの向こうから、ぼそぼそと囁く声が延々と聞こえていた。
「何かあったのかな」そう言ってベスニクが立ち上がった。
 ベスニクは一分で戻って来た。陰鬱な顔になっていた。
「ベニが誰かと殴り合ったんだってさ」ベスニクは言った。「警察に連れて行かれたらしい」
[訳註;旧版ではここに、ゼルカと夫が驚きの声を上げ、ヂェマル・ストルガが溜め息をつく描写がある]
 ベスニクはもう一度出て行くと、ベニの肩を摑んだまま自分の部屋まで引っ張っていった。ベニがこの部屋に入ることは滅多になかった、特に兄ベスニクが婚約してからはそうだった。こういうやりとりが二人は苦手だった。ベスニクには、自分の弟に説教をするような習慣がまるでなかったし、この数か月来、二人はすっかり疎遠になってしまっていたのだ。ベスニクはしばらくの間、ベニの黒ずんで腫れ上がった眼を眺めていたが、静かにこう訊ねた。
「誰か女の子のことで、喧嘩でもしたんじゃないのか?」
「だったら何だよ?」ベニは顔を上げずにそう言った。
「別にいい」ベスニクは言った。「そりゃあ、女の子のことで喧嘩することだってあるだろうさ。それは普通のことさ。いや、ごくごく普通のことだよ。だがいいかい、ベニ、お前に言っておきたいことがある」
 そこで一瞬、彼は躊躇しその場に立ち尽くした。一旦は何も言うまいとするように思われたが、そこでベニの切れた唇に目をやると、また続けた:
「人間、いろんなことを諦めなきゃいけない時もあるさ」
「言ってる意味が分からないよ」ベニが言った。
ベスニクはぐっと言葉に詰まった。何と言えばいいんだ?そう思った。
「犠牲ってのがどういう意味か、わかるよな」ベスニクは言った。
「困難な時、多少は自分のことを後回しにしなきゃならないことだってある。こう言えば分かるか?」
 ベニは首をすくめ、否定のしぐさをしてみせた。ベスニクは激しく反応した。
「分からないだって?」彼は叫んだ。「俺が言いたいのはだな、一つの国で生きていると、そういう時があるんだ、こんな自堕落だの、音楽だの、女のことで喧嘩するだの・・・」とそこでベスニクは言うべき言葉を見つけようとでもするように言葉を切った。「その、要するにだ、そういう生き方は・・・空っぽなんだよ、お前のそういう生き方はだな、そんなのはちっとも羨ましがられないだよ、一つの国で生きていると、そういう時があるんだ、まるで・・・タイミングが合わないってことが」
 ベニはぷいと横を向いたまま聞いていた。
「ええとつまり・・・今の俺たちはみんな、困難な試練の時に直面しているんだ・・・こう言ってもわからないかな、えい畜生め!」
「ああやっと分かったよ」ベニが言った。「兄貴はソヴィエト連邦のことを言ってるんだろう?知ってるよ」
「知ってるって、お前が何を?」
「ソヴィエト連邦から離れるって言われてるじゃないか。でもさ、正直言うけど、俺には大して困ることなんかなさそうだぜ」
「はあ?」ベスニクは驚いて問い返した。
「正直言うけどさ、俺はもうずっと前から物理だの化学だのの教科書にうんざりしてるんだ、だって発明家がみんなロシア人じゃないか」
 ベスニクは好奇に駆られた目でベニを見つめていた。
「俺だってクラスメートだって前からそのことでふざけてるし、わかってたんだよ、いつかはあいつら全員のせいでうんざりさせられるんだろうなって」
 ベニの話は大して長いものでは決してなかったが、ベスニクはベニがそんな話をすることでベニ自身の話を遠のけようとしているのだと気付いた。
「それにさ、ソヴィエトの技師の給料ってすごく高いだろ」ベニはまだ話していた。「みんなそう話してるよ。あとあれだよ、ロシア語のあのディエイェプリチャスェ[訳註;アルバニア語の原文でベニはdjejepriçasjetと言っているが、恐らくロシア語のдеепричастие(副動詞)のこと]ってやつだよ、あれはぞっとするね」
 別の場合だったらベスニクも大笑いしていたかも知れない。
「いいかベニ」ベスニクはベニの話を遮った。「そんなことはどうでもいい。ロシアの発明家や技師の給料についてはお前の言う通りだが、そんなことは大したことじゃない、それに比べたら・・・」
「何だよ?」ベニが言った。
「問題は見解の相違に関することだ」ベスニクは『破局』という言葉を使いたくなかった。
 二人は互いに見つめ合っていた、というよりベスニクの視線はベニの片眼にしか当たっていなかった、というのももう一方の眼はゆっくりと閉じられつつあって、何ら関与していなかったからだ。
「この国は今、その肩に重荷を背負おうとしているんだ」ベスニクはゆっくりした口調でそう言った。「犠牲を払うことが全員に求められるようになるだろう」
 犠牲か、とベニは思った。数時間前、彼はイリスを失った。これ以上、何を犠牲にすればいいのだろう?既に備えは出来ていて、勇んで向かうその先は、終わらない会議か、採石場の開通か、求められれば何処へでも・・・
「全員にだ」ベスニクは繰り返した。「何故ならこれは一人一人にとっての試練だからだ」彼は深く息を吸い込んだ。「お前だってたぶん、政治局のメンバーについて噂されてることを、知ってるだろう」
「ああ」ベニは言った。「公社から肖像画が取り払われてるよ」
 ベスニクは『お前、俺が思っていたほど無知でもなかったのか』とでも言いたげに、少々驚いた風でベニを見た。しばらくベスニクは、絡まった思考の糸を見出そうとでもするように、自分の両掌を見つめていた。
「そうだ、例えば、お前もたぶん知ってるだろうが」ベスニクは言葉をたぐり寄せながら言った。「一月の初めに、俺とザナは結婚するはずだった。だが・・・そうだ、日々が経つに連れて、俺には、何というか、どうも・・・どう説明したらいいか分からないんだが」
 ベニは落ち着いた様子でベスニクを凝視していた。
「ザナが俺に冷たいんだ」ベスニクは続けた。
「ザナの家族もそうだ。だが悪いことに、俺にも今のところは何も説明できないんだ。まあ、俺とザナの間には危機があるんだ(ベニは『資本主義の全般的危機』のことを思い出した)」
ベスニクは弁解するように両手を動かすしぐさをした。
「分かってるさ、彼女のせいじゃない、たぶん俺が何とか方法を見つけて、何かしら説明しなきゃならなかったんだ、だがそれでも、こんな時期の結婚は・・・俺にはどうも・・・」
 ベニは何も言わなかった。或る朝、彼は父とラボがベスニクの結婚を延期することについてボソボソ話しているのを聞いていたが、それは彼にとってどうでもいいことに思えたので、すぐさま忘れてしまっていたのだ。
「嵐の前の時代なんだ」ベスニクは言った。「何も知らない者なら、そんなことも許されるだろうが-俺は違うんだ」ベスニクは殆ど小声になっていた。「俺は全部知ってるんだ」
「兄貴は何を知ってるの?」ベニは口調を和らげて訊ねた。ベニの片方の眼は尋常でなく見開かれていた。
 ベスニクは口をつぐんだ。誰かに心の中を打ち明けたいという継続的な欲求が、今となっては苦痛と化していた。
「お前は俺の弟だ」ベスニクは歯噛みするように言った。「俺はお前に、モスクワでの悲劇について話そうと思う。だがお前・・・」
「約束するさ」ベニが言った。「決して、絶対」

 141番の家の前で、レマはいつものようにひと息つくことにして、箒を肩にもたせかけるとタバコに火をつけた。既に作業の大部分は片付いていた。あとは大通りの交差点が二つ残っていたが、そのうち一つが厄介で、特に夏には、若い娘たちがアイスクリームの包み紙を放り捨てていくのだ。一方で、右側の歩道はあちこち白く光っていて、まだ人の足にも、冬の映画が上映されたホールの入場券にも殆ど踏み荒らされていなかった。レマはタバコを吸い終えると、吸い殻を箒の向こうに放り投げ、誰のものともわからぬ何百本もの吸い殻が山と積まれている場所へと押しやった。ひどく寒かった。右側の歩道の上でレマは屈み込んで、地面から一枚の入場券を拾い上げ、ショウウインドウの照明の下でためつすがめつ眺めてみると、開演時間が何とか読み取れた。券面には21.15と書かれていたので、レマはそれを声に出して読んでみた:にせんひゃくじゅうご、と。
「ふん」[訳註;原語ptuは唾を吐く擬音、或いは軽蔑の念を込めて鼻を鳴らす音]彼は鼻を鳴らした。「こういう目新しい時間は、さっぱり理解できんな」ゆうべ自分の娘に家に帰るのが遅いと叱りつけたばかりだった。娘は映画館に行っていたと言っていたが、レマは信じていなかった。映画館や劇場の時間なら俺だって全部知ってるんだぞ、俺の[訳註;清掃を担当している]通りに劇場がなくたってな、と彼は怒鳴りつけた。本当はレマは昼の部も夜の部も、どちらの時間も知らなかった。昼間はレマにとって、色褪せて、遠く、何の魅力もなかった。それは彼にとって、月の見えない裏側と同じくらい、未知のものだった。昔、たまに、ごくたまにだが、昼間の通りへ出ようとしたことがあったが、自分がまるっきり馴染めないように感じられて、まるで亡命でもしたかのようだった。身体がひどく痺れたようになって、その時はそのまま家へと戻ってしまった。この町の本当の顔は、夜でなければ分からない、自分自身の通りや広場で目にした幾つもの事柄から、そうレマは確信していた。
 レマは箒を動かした。左側の歩道に近付いていた。遠く、きらきら光るガラス窓に目をやった。おや薬局のガラスが割れてるぞ、そう言いながらレマは近付いていった。彼は箒でガラスの破片を片付け始めた。薬局の扉に描かれた蛇は、レマにとって以前からずっと、単に昼間の人間たちの狂気だけでなく、その路面の全てに対する悪しき徴候であるようにも思われた。
 もしハヂリャとリュミが自分たちの通りで蛇を見つけたら、たぶん会議の場で怒鳴り散らすだろうな[訳註;HaxhirjaとLymiはレマの同僚の清掃人。ちなみに前者が女性で後者が男性と思われる]、レマはそう考えた。あの二人は何にでも苦情を言うのだ:若い奴らのサーカスまがいとか、バーの閉店時間が遅過ぎるとか、女と揉めた後で四階の窓から放尿するいかれた奴がいるとか[訳註;旧版では「演劇オリンピック」への文句になっている]。一方でレマは協同組合の会議でも、上司の前でも一度として苦情を申し立てたことがなかった。レマはその種の些事に関わることがなかった。レマにとっての事柄は大きかった:各国の首相や大統領の来訪や、政府使節団のことだ。会談の後で群衆が放り投げた花束や、使用済みのプラカード、それらを片付けたのがレマだった。例えばホー・チ・ミンが来た時だ、或いはあの黒人だ、数か月前に権力の座を追われた黒人だ[訳註;ちなみに、1966年のクーデタで失脚したガーナのンクルマ大統領は1961年7月から9月にかけて中ソ含む「東側」を歴訪しており、アルバニアにも立ち寄っている]、或いはフルシチョフその人の時だ、いつもレマは深夜の、雨に濡れた冷え切った路上に出ていたものだ、それでいて一度の苦情も口にしたことがないのだ。
 町の大時計が五時を告げた。夜が明けるな、レマはそうつぶやき、そして箒を動かした。

 ラボは、町の大時計の鳴る音を数えていた。五時ね、と彼女は思った。もう夜が明けるわ。眠りからは既に脱していた。音を立てないように起き出して[訳註;旧版では、隣にミラが寝ている]キッチンへコーヒーを淹れに行った。[訳註;旧版ではここで、ラボはコーヒーを沸かしたままキッチンを出て、ベニやベスニクの部屋を見て廻っている]窓越しに白々と夜が明けつつあった。濡れた屋根の上に槍のように何百本というテレビアンテナが突き立てられていた。戦いになりそうな予感がするわ[訳註;逐語訳は「私の心が戦争を引き寄せる」]、ラボはそう思った。最近は、屋根の上のアンテナの針金も、まるで熱を帯びているかのようにひっきりなしに伸び続けている。ゆうべ一晩中、ベスニクはゼルカの夫と小声で不吉なことばかり喋っていた。そしてその後、それだけではまだ足りないかのように、まるで悪しき徴候のように出て来たのが、ベニの黒ずんだ眼だった。あの腫れ上がった眼に自分がどれほど震え上がったことか。しばらく前から、いろいろなことがよく理解できなくなってきていた。あの屋根の上の針金が、世界をややこしくしている。そしてそれから・・・ベニの片方の眼だ。ラボには見憶えがあった、何かに似ている、昔の、時の流れの中で糸のように薄く、ぼんやりとした何かに。ラボの婚礼の時の、あの眼だ。片目を閉じてクラリネットを吹いていたジプシー[訳註;原語jevgは定住したロマの呼称]の眼だ。ラボは真っ白く着飾り、肉体もなく、手足もなく、重さもなく、騒々しい親戚縁者たちの集まる中、汗とピンヒールとの間に戸惑う微かな風のような花嫁で、そんな彼女の目の前の、数歩先には、その片目を閉じたクラリネット吹きが立っていた。もう一方の眼は見開かれ、湿気を帯びて、凝固したようになり、まばたきもしない、まるで大地に溶けていく太陽のように、まるで遠方からの災い[訳註;逐語訳は「死に至る遠さ」]のように、あらゆるものをじっと見つめていた。その眼がずっと長い間ラボを恐れおののかせていた。まるで世界から見つめられているかのようだった[訳註;逐語訳は「まるで世界の眼だった」]
 ラボはコーヒーをカップに注いだ。窓の向こうでは、もつれて絡まる雲の中から光と闇とが透けて見えた。夜が明けようとしている。薄汚れた屋根の上に並ぶ槍の先端が、前よりもずっと恐ろしげなものになっていた。ラボは不意に、自分がこの世からわかもわからぬまま去ってしまうような気がした。戦い敗れた狼どもの遠吠えの中で、雲の渦と、天空の果てに冷たい太陽を残して。

5
 その冬の最中の日々の間に、かつての同志たち、元パルティザンで、今や党や国家の重要な或いは重要でない地位にある者たちは、足しげく互いを訪問し合っていた。互いに電話をかければ、歳月や頭痛のタネや、勤務先の部署が異なることによってお互いの間にはからずも生じた冷え込みをめぐって、郷愁の念を、熱い思いを、或る種の良心の呵責を声に出し合い、語り合った。
 更に互いのアパートで顔を合わせ、最近の出来事(それはまだ、その冬の霧のようにぼんやりとしていたが)について語り合った時、彼らは戦争を、監獄を、殺された同志たちを、自分たちが代議員として、或いは警備兵としてその場に居合わせた党の総会を、再び思い起こしていた。そして、まるで初演の前の総稽古のように、終始絶えず互いのことを戦時中の偽名で呼び合うのだった:人民副委員、電光石火、部隊補給係、中央委員会代理。
 その冬は、あらゆる出来事と同様、途上に陣取っていて、残り半分がどうなるのか、更に厳しさを増すのか、それとも前半よりもやわらぐのか、誰にも全く見通せないままだった。
 冬の真只中にはとりわけ、気付けばあらゆる銅像の足元に、記念碑の前に、戦死した者たちの墓の上に、幾つもの花輪や花束が積み重ねられているのだった。
 だがそんな冬の最中、奇妙なことに、名のあるブルジョアジーや聖職者らの、もう長いこと誰も訪ねて来なかった墓の上にも、花が見られるようになった。まるで偶然のようにそこに置かれた一本の花輪が見つかったのはティラナの近郊で、かつては王妃の母の墓があった、まさしくその場所だった。
 まるで衝突の前はいつもそうであるように、双方が、他の誰でもなく、自分たちの死者にさえ助けを求めているかのようだった。
[訳註;旧版ではこの段落後半が「一方は自由の戦士を、他方は自分たちの死者を」とある。前者は共産党やパルティザン、後者は王党派やブルジョアジーを暗示している]

 何かこう、労働者の声に関する力強いヤツが欲しいな、わかるね、そう編集長はベスニクに言っていた。たとえ何が起きようと、如何なる状況であろうと、労働者階級はあらゆることに立ち向かう備えが出来ている。あらゆることにだ、わかるね?今日の午後、我が党組織は分裂[訳註;アルバニアとソ連の]について初めて通達を出すことになっているが、君はあの場[訳註;ベスニクが出席したモスクワの会議のこと]にいたし、君なら全部わかっているよな、だからこの記事のことで君を選んだんだ。報道には一切何も出ないだろうがね。少なくとも、今のところはだ。さもなきゃずっと何も出ないだろう。それでも君の記事は力強い文脈[訳註;原語nëntekstは「テクストの下に隠れているテクスト」或いは「言外の意味」]になるはずだ、と。
[訳註;上記段落は旧版では分量が多く、ベスニクの訪問先が二度目となる「フリードリヒ・エンゲルス工場」であることや、工場で応対した相手の素性や、調度品の材質や工場内のスピーカーから流れる歌まで書かれているのだが、決定版ではご覧の通りバッサリ]
 工場前の広場は一面、今朝降った雨で出来た水たまりだらけだった。ベスニクは急ぎ足で鋳造所へ向かった、誰かが自分の名前を読んでいるのが聞こえたからだ。顔をやるとそこには旧友のヴィクトル・ヒラがいた。背の高い若い男で、髪は茶色、履いている大きめのブーツは泥だらけだった。
「いつからここに?」ベスニクは訊ねた。
「もう一か月になるな」と相手は言った。「急に呼ばれたんだよ。新しい機械の設置を指導していたソヴィエトの技師が休暇から戻って来なくてね、それで俺がその代わりを務めてるってわけさ」
 二人は互いに目くばせした。
「コニャックでも一杯やりに行くかい?」ヴィクトルが言った。
[訳註;旧版のベスニクは、まだ他の労働者への取材があるので・・・と一旦誘いを断りつつ、ヴィクトルに押し切られて取材を後回しにするのだが、決定版ではご覧の通り]
 二人は食堂へと向かった。その道すがらベスニクはふと思い出して、自分の弟のベニは工場の仕事に馴染めるものだろうかと訊いてみた。ヴィクトルは、それは至って簡単なことだと答えた。明日来させるといい、と。
「そら、ソヴィエトの連中だ」部屋の外へ出たヴィクトルがそう言った。彼が顎をしゃくって見せた先には、ちょうど工場長の部屋から出て行く一団があった。
「もう帰国したのもいるよ。ここでの仕事はうまくいったかい?」ヴィクトルが言った。
[訳註;旧版ではヴィクトルが「もう帰国したのもいるよ」と言ったのに対してベスニクが「それは本当か?」と訊き返し、それに対してヴィクトルが「昨日あいつらのミスでうちの作業員が一人事故死したんだ」と語り、ベスニクが水たまりをじっと見つめる描写があるのだが、決定版ではご覧の通り、ヴィクトルは事故の件に触れず、単に「ここでの仕事はうまくいったかい?」と訊いている]
 ベスニクは何も言わなかった。
[訳註;旧版ではここでヴィクトルが「そっちには誰か知らせてないのか?」と問いかけ、ベスニクが「たぶん今日になるだろう」と答えるのだが、上記のやりとりが削られている以上、当然ながらこの箇所も削除されている。それを踏まえてこの先を読むと、ヴィクトルの「もうたくさんだよ」の意味が旧版と決定版で微妙に違うことがわかる]
 ヴィクトルは深く息をつくと
「もうたくさんだよ」と言った。
ベスニクは、やはり何と言ったらいいかわからないままだった。
「ひどい話さ」ヴィクトルは大きな声で話し続けた。どうやら彼は、ベスニクがモスクワに行っていたことを知らないらしかった。
「だがもう今日までさ。俺たちもよくよく考えなきゃな」
「別に俺たちのせいじゃないだろう」ベスニクは言った。
「そりゃそうさ、だがこうなると、俺たちだってよくよく考えなきゃな。あいつらは俺たちに不誠実な態度をとった、ビザンツ風のやり方でだ。だったら俺たちがもっとましなやり方でいかない理由はあるまい。薄汚い世の中さ」
 ベスニクは肩をそびやかし
「俺にはわからんよ」と言った。
「この頃ひどくがっかりさせられてばかりさ」ヴィクトルが言った。
「これから俺たちには『偉大なる友』が化け物以外の何ものでもなくなるんだ。俺たちはあいつらのことを、それこそ自分自身と同じくらい信用していたのに、それが今となっては・・・」
 ヴィクトルはずっとこんな風だった、毒舌で喧嘩っ早くて。二人は同じ高校に通っていて、今では会うことこそ稀になっていたが、それでも多少なりとも親しく付き合っていた。
「だがもしも、あいつらが共産主義を手放すというんなら、俺たちにしても原則にこだわる理由はあるまい。見ているがいいさ、いずれ俺たちのタイミングでだ、でなけりゃ意味がない。そんな目で俺を見るなよ。こんな小さな、みすぼらしく[訳註;原文の逐語訳は「肋骨が二本しかない」]て、貧しくて、ずっと打ち負かされて騙されてきて、それでも、不誠実なことだらけの中でも馬鹿正直なまでに誠実でやってきた民族じゃないか。だがもうたくさんだ。俺たちだって他の連中と同じくらい、姑息に、狡猾になるべきなんだ。世界革命のいけにえにされるなんてまっぴらだね・・・俺はもう、そんなもの信じないぞ。もううんざりだ」
 ベスニクは荒涼とした空を鏡のように映している幾つもの小さな水たまりを見つめていた。いつかこんな日が来るだろうな、そう彼は思っていた。誰かが自分に対してそんな言葉を口にするんだろうな、と。それは当然だ。ヴィクトルは今、強いられているということについて語っているのだ。ヴィクトルは今こう言った:それは必要なことなのか、それは必要なことなのか、と。そしてベスニクはザナに思いをめぐらせていた。言葉のやりとりもない、こんな冷え込みが必要なことなのか、と。もっとはっきりと話すべきではなかったのか、と。ベスニクがモスクワについて彼女に話したことはあるが、それは徹頭徹尾もやの中だった。どうして結婚式を延期しようと思ったのか、ベスニクは彼女に説明していなかった。[訳註;旧版ではここに次の文が入る。「ザナには真実を全て知り、今が結婚すべき時期ではないことを理解する必要があった。彼女もまたベスニクと同じくらいには多くのことを知る必要があった。そうでなければザナに対するベスニクの態度はまるで、ロマンティックを気取っているようにしか見えなかっただろう」]にもかかわらず、しばらくすると彼は思ったのだ、何故そんなことを事細かに説明しなければならないのだろう?と。ザナだって何かしら理解できたはずだ。そう例えばベニにしたって、彼自身の性格からすれば鈍感な方とは言え、何かしら気がつくことはある、もっともザナはと言えば何も気付いていなかったのだが。彼女にとっては、そんな風に何も聞かされないままでいることが許せなかったのだ。[訳註;旧版ではここに「それは自分勝手というものだ」という一文があった]ベスニクはザナが神経質になっていると感じていた。出来事に対する一方の無関心が、二人の共通の話題に対する無関心そのものなのだと思われかねない中で、例の問題と、そして運命の導きによってその問題に誰よりも深く関わっているベスニク自身に対するザナの無関心もまた倍増しているように思われるのだ。しかし、そんな状況も変わりそうだ、と不意に柔和な感覚に覆われてベスニクは思った。今やゆっくりと、そうした事情が理解できるようになってきた。今なら彼女にはっきりと話せそうだった。そうだ、そうしよう、今日彼女に話そう、今夜だ、会えたらすぐに、党の会議が終わったらすぐに。
「見ろよ」そう言ってヴィクトルが食堂から出て来る作業員たちを指差した。「あの肩にみんな重荷を背負うことになる。こりゃ悲劇だね」
「何であれ、悲劇には重荷がつきものさ」とベスニクは言った。さてどう話そうか、と考えながら。
「おい」ヴィクトルが声を上げ立ち止まった。
「そりゃどういう意味だい?」
 モスクワでエンヴェル・ホヂャが言っていたことがある、今は共産主義を悼むような時ではないと。共産主義はもっと偉大なものだ、そう夕食の席で彼は言っていたし、それこそ彼が受けた傷にしても、彼が与えた傷にしても、どちらも偉大なものであることは当然だった。しかしヴィクトルには、今のところ何も説明するわけにはいかなかった。
「まあ聞けよ」ベスニクは言った。「お前の抗議は理解できるよ、それでも言っておきたいんだが、お前の考えは間違ってるぞ」
「だったら何だっていうんだ?」ヴィクトルは吠えつかんばかりだった。広場を通り抜けようとしていた作業員数名がこちらを振り向いた。
「俺は全てが起こった時、その場にいたんだ、ヴィクトル」ベスニクは小声で言った。
 ヴィクトルはベスニクの肘を摑み、そのまま黙り込んだ。
「お前、モスクワに行ったのか?」
「ああ」
「エンヴェル・ホヂャと一緒に?」
「ああ」
「それで、向こうで何があったんだ?向こうはどうだった?教えてくれよ、頼むから、何でもいいからさ」
 ベスニクは唇をぎゅっと噛みしめた。
「悪いがヴィクトル、党組織で君らに喋った以上のことは教えられないんだ。俺たちは友だちだ、だけどわかってくれないか、これは・・・」
「ああわかってる、わかってるよ」ヴィクトルは慌てて言った。
「それはよくわかってるよ、でもさ、ちょっとだけでもいいから、聞かせてくれないかな:我が国は彼らに正しい道を説いてやった、その、いわゆるビザンツ風だったかな?それで・・・それで・・・何て言うんだっけ・・・高邁な?」
「高邁どころじゃないよ」ベスニクは答えた。
「てことはつまり、無駄足ではなかったわけだな」ヴィクトルはまるで彼自身に言い聞かせるように呟いた。
「なあ知ってるか?」しばらくすると彼はベスニクの肘を摑んだままこう言った。「一昨日、党の会議が終わった時、俺は気が狂いそうだったよ。さっきお前に言ったことなんて大したことじゃないんだ。俺がシュプレサにどれだけ馬鹿なことを言ったと思う?畜生これだから政治ってヤツは・・・スイスみたいに中立であるべきなんだってね。そうしたら彼女にオウム返しされてね、恥ずかしいったらなかったよ」
[訳註;シュプレサは女性名。作中で明言されていないがヴィクトルの妻]
 相変わらずだなこいつは、とベスニクは思った。一年前ヴィクトルは、会議での恣意的な発言が原因で、党からの除名勧告という重大な警告を受けたことがあったのだ。
[訳註;旧版ではこの後も党に関する話が続き、鋳造所の労働者たちに取材する場面が延々と続くのだが、決定版では影も形もない]
 ベスニクが帰るまでの間、ヴィクトルは工場の建物の中をずっと着いて回っていた。先程とは打って変わって、彼は今や称賛の眼差しをベスニクへと向けていた。まるで閣僚か誰かに随行するように絶えずベスニクの右手に回っていたが、ベスニクに対する敬意の示し方は分からなかったらしい。何度も溜め息をつき、爪を噛み、一人で何かしらぶつぶつ呟いていた。
 バスに乗っているのが自分一人しかいないことに気付いた時、ベスニクは疲れと同時に身軽さを感じた。彼はザナのことを思っていた。今夜、党の会議の後ですぐに電話をかけよう。二人でカフェにでも行こう。ねえザナ、君にしたい大事な話があるんだ・・・道の両側の、ところどころを霜に覆われた地面は、冬の冷え込みの中で、脇に追いやられているように見えた。ねえザナ・・・ベスニクは自分の頭の中で、中途半端なままで何十回も繰り返してきた会話の展開にかかるのだった。

 大通りを歩きながら、リリは編集長に喋ることを頭の中で繰り返していた。その内容に自信を感じるに連れて、足取りも速まっていくのだった。二時間前、家族の問題について面会を求めた時、相手の声は少しだけ驚いているようだった。それでもリリの決意はいささかもたじろがなかった。今はもう、編集長の部屋へ入る前にベスニクかその同僚の誰かと出くわしやしないかということだけが彼女の不安事だった。
 階段を昇っていると、彼女の方へ駆け下りて来る、痩せ顔の若い記者があった。
「製麺工場の所長さんですね?」彼はそう訊ねてきた。
「さあさあ、どうぞこちらへ」
 リリはむっとして相手を見た。
「製麺工場長じゃありませんわ」
[訳註;旧版でこの若い記者はすぐ謝罪しているが、決定版ではこれだけ]
そう言って鼻を鳴らし、リリはまた階段を昇っていった。まさか製麺工場の工場長に似ているのかしら?彼女はそう思って憂鬱な気分になった。本当にね、とザナに何度か半笑い気味で言われたことがある、ダイエットした方がいいんじゃないのって。
 あらそうかしら、とその時のようにむかむかした気分のまま、リリは「編集長」と書かれたドアをノックした。三台の電話機に囚われの身となっている人物が、座るようにと手招きしてきた。[訳註;旧版によれば「うち二台はその人物の前のテーブルに、もう一台は背後にあった」]
 リリは道々考えてきた言葉をすっかり忘れてしまった。今はもう、ベスニクが入ってきて、ここにいる自分が見つかるのではないかと、それだけが心配だった。甘んじて製麺工場の工場長と名乗ろうか、いやいっそのことパン工場の工場長だと名乗ろうか。全てを受け入れる覚悟は出来ていた。ここでベスニクにさえ見つかりさえしなければ。
 編集長は十分して[訳註;電話から]解放された。リリは少々びくびくしていた。編集長はリリを親しく出迎えると、自分がクリスタチと知り合いであり、そればかりか北部の部隊で一緒だったと話してくれた。そのことでリリも幾らか気が楽になった。リリは話し始めるや長々と、ありとあらゆる挿入句を展開し、ありとあらゆる補足語を容赦なく浪費し(当然のことながら、我ながら自明のことですが、とどのつまり要するに、にもかかわらずしかし、等々)、その挿入句のせいで問題の核心へと向かうどころかむしろ遠のいていることにようやく気付くや、今度は勢いよく話を引き戻すと、ずばりとこう言ってのけた。
「おたくの記者のベスニクは、うちの娘を捨てるつもりなんですのよ」
 編集長の顔にあらわれた驚きは大きかった。
「そんな馬鹿なことが?」彼はまるでこの世で一番信じられないものを見たような口ぶりだった。実際、彼はベスニク・ストルガが婚約していたことも今初めて知ったのだ。その驚きぶりがリリを歓喜させた。これはつまり、編集長がそんなことにはとても耐えられないだろうということだ。彼なら何とかしてくれるだろう。
「そんな馬鹿なことが?」と編集長は繰り返した。
「ええ、なら誰のことだって言うんですの?」そう言ってリリは説明し始めたが、それは無数のカッコが何度も口を開けていて[訳註;要するに「余談が多い」という意味]、まるで何処にも通じていない扉のようだった。
「我々の方から組織に話を上げることもできますよ」ようやく編集長が話を遮った。「党の組織は共産主義者の道徳的態度についてことのほか審査していますからね。それは当然のことですとも」
 リリは彼に感謝の眼差しを向けた。編集長は目の前にあるカレンダーに目を遣った。
「それにしても、あなたはよい時にいらっしゃった」編集長はカレンダーから目を離さぬままけだるそうにそう言った。「ちょうど今日の午後、党の会議がありましてね。もっとも・・・」
「あら」リリは驚きの声を上げた。彼女は「もっとも」という言葉の重要さには気付いていなかった。
 それからすぐ、リリが階段を降りていく間に編集長は党の部局員を呼んだ。編集部に党の部局員は一人しかいない、取材班長のラチだ。
「ベスニク・ストルガの道徳的態度に関する苦情が来ています」編集長はラチの方を全く見ないままで話した。話している間、彼はずっと書類入れの中の何かを探していた。
 編集長が話を終えると、ラチ取材班長は眉間に皺を寄せた。
「それは大いに深刻だよ」彼は言った。
「そういうことですので、その、部局で話し合いましょう」
「それは深刻だよ」ラチは繰り返した。「私はこれを党の会議にかけるべきだと思う」
「今日の党の会議でしたら、審査すべきもっと重要な問題があると思いますが」編集長は言った。「ですので、こういった事柄についてはまず部局で話し合うのが普通では」
「君の言うこともわかる」ラチは言った。「だが今日はまさにいい機会だと思うね、何故なら、私の知るところでは、まさに今日の会議の後半で、手つかずのままだったストルガの党員候補から党員への昇格申請の件を審査することになっているからなんだよ」
「そうなんですか?彼からの申請は今まで一度も審査していませんでしたっけ?」
「してないよ」ラチ取材班長は言った。「彼は前モスクワに行っていたから、申請が後回しになったんだ」
「なるほど、そう言えば思い出しましたよ」と編集長が言った。彼はどうやら探していた物を見つけたらしく、それを書類入れから引っ張り出した。
「では、そういうことでしたら」と彼は頭を上げずに言った。「部局の他の同志らともご相談なさるんですな」
「ああ」ラチ取材班長はそう言うと、素早い足取りで部屋を出て行った。彼がこれほど活気に溢れた様子で編集長室を出て行くことは滅多になかった。それは静かな、しかし確かな喜びだった。ようやくだ、と彼は思った。理由など知るまでもない。それはまさしく解放そのものだった。もやの中の無慈悲な光景だ:ベスニクと婚約者が、落ち葉だらけの路上で、ドラマのように抱き合ったまま、今みるみる薄れていく。リンゴの中は虫食いだらけじゃないか、と彼は思った。それは朝焼けの光によってかき消される、ただの幻影でしかなかった。彼はもう何か月もそれに悩まされていた。かつては遠く、理解の及ばぬものとして抱いていた存在が、今は急速に自分に身近なものとなり、謎めいたものは引き剥がされ、みすぼらしい、哀れな、ほとんど骨だけの亡骸のようになっている、そしてまさしくその残骸に向かって、彼はこう問いかけようとしていたのだ:ベスニク・ストルガ同志よ、婚約者との件はどうなっているのかね?と。これこそがとどめのセリフだ。これで魔法もおしまいだ。
 ラチは時計を見た。2時25分だった。会議の開始までもう余り時間が残っていない。家に帰るつもりは全くなかった[訳註;アルバニアの終業時刻はおおむね午後3時で、それから帰宅してゆっくり昼食をとり、休息する]。アラニトに電話して、ディブラ通りの何処か小さな店でビールでも飲むことを思いついた。
 二人が入った場所は安っぽく、騒々しくて、料理の良い匂いが立ち込めていた。いつもそこではタクシー運転手から、何処かの中央紙で初めての稿料を貰った青年文士まで、ありとあらゆる通行人が、立ったまま慌ただしく食事を済ませていくのだった。
「乾杯!」とアラニトが言った。
「乾杯!」
アラニトの実際の顔色はわかりにくかった。それは赤と青銅色の間の何かだった。それを見てラチはいつも思うのだった。これは、季節や気候によってのみならず、厄介事や憤怒や病気によってさえも一切変わることのない色だ。それが変わり得るのは唯一、死だけだろうな、と昔ラチは考えたことがあった。
「何かニュースはあるかい?」アラニトが訊いてきた。
「破局さ」ラチは言った。「至るところで破局が起きている」
「至るところで破局ってのは、そりゃどういうことだい?」
 ラチ取材班長はにやりとした。
「そうだな、国家間の破局に、家族間の破局だな。うちの職場じゃ一人、彼女を振ろうとしているしな」
「あんたの職場で何がどうしたなんて俺の知ったことかよ」アラニトが言った。「俺が訊いてるのはもっと大きな破局の方さ」
「今日、党の会議があるんだが」ラチ取材班長は言った。「どうもそこで知らせがあるような気がするんだ」
「ふむ」と言って、アラニトは顔を曇らせた。「そいつはおだやかじゃなさそうだな」彼の、頬の中に落ちくぼんだ瞳は、蒸気で曇ったガラス越しに道路の方を見つめていた。「だが連中はそれを知ろうともしない」と彼は口の中でもごもご呟いた。
「連中って誰だい?」ラチは訊ねた。
 アラニトは道路の方に顔をやった。
「あれが見えないか?あの道端のちんぴらども[訳註:原語birboは「収入もなく無軌道な生活を送る頭の軽い人」を指す侮蔑語]さ、あいつら色恋のことしか頭にないんだからな」
「だからどうしようっていうんだ?」ラチは言った。「若者だぞ」
「若者ね」アラニトはぼそりと言った。「みんなあいつらを甘やかし過ぎる。いずれは苦労することになるんだぞ、俺たちみたいにな」
[訳註;旧版ではここに次のようなやりとりがあるが、この箇所があるのとないのとでは、次の「そうなりたがってる連中」の指すものが微妙に異なっている;
 ラチは肩をすくめた。「若い世代だぞ」
「若い世代、若い世代か」アラニトは声を上げるとビールジョッキをテーブルにドンと置いた。「だったら俺たちは何だ?半ズボン世代か?[訳註の訳註;原語brekusheは裾丈の短いトルコ風のズボン]」
 ラチは笑った。「そう思いたがってる連中もいるさ」]

 アラニトは歯をむき出してみせた。
「そうなりたがってる連中もいるのはわかってるさ、だが何たることか、俺は何も手に入れちゃいない」
 アラニトはビールを空けると、二杯目を注文した。それからしばらく二人は静かに話した。アラニトはタバコに火をつけた。
「作家たちも動いている」彼は思案気にそう言った。「俺たちも目を開かなきゃならん」
 ラチもタバコに火をつけた。
「俺たちも目を開かなきゃならん」とアラニトは繰り返した。「国家にとって危機的な時代が到来しているんだ。この時代に務めを果たすべきなんだ[訳註;原文の逐語訳は「この時代が胸元を求めている」。要するに「心臓を捧げよ」]。確かに俺たちは党から追い出されはしたが、俺たちは俺たちのやるべきことをやろうじゃないか、党を守っていこうじゃないか」
 ラチ取材班長は、アラニトが党から除名された一団に自分のことまで含めているのが気に喰わなかったが、何も言わなかった。
「いつかは党にもわかるだろうさ、本当に忠実なのは誰か、裏表のある奴らは誰なのかってことがな」アラニトは重々しく、奇妙なまでに感極まって上ずった声で喋り続けていた。「もう手遅れだろうがな、だが構うもんか。俺たちは俺たちのやるべきことをやろうじゃないか。さあどうした、一気に飲み干せよ」
 ラチはアラニトをじっと見つめていた。こうして見ているといつも思い出すのは例の、仕立て屋が散々手を入れたにもかかわらず軍用コートの名残りが抜け切れていない丈の長いコートと、そしてずっと心に引っかかっていることだった。アラニトと知り合ったのは1953年、仕事でテペレナへ行った時のことだった。今までにあれほど憂鬱な仕事は一度も経験したことがなかった。一日中雨が降って、じめじめしていて、カフェの冷えきったテーブルの上にはコニャックのグラスがあった。夕方の六時頃になると、冬に包まれたその小さな町を、ティラナとジロカスタルを結ぶバスが通過する。バスは郵便物を引き渡すために数分間停車する。数もまばらな通行人たちがバスの前の歩道の上で立ち止まり、沈黙したまま、ガラス窓で仕切られた中の、見知らぬ顔の一団を見つめている。その歩道にたたずむ人々の中に、ほぼいつも姿を見せていたのがアラニトだった。彼は陰鬱な顔つきで、その不思議な水族館を探るように見ていた。水蒸気の向こうには、まるで夢の中のように、美しく整えた髪の女が数人、長い道のりに少しだけ青ざめた顔で、めいめいがレモンを一つずつ、何度も何度も鼻先に近付けている、それに流行りのジャケットを身に着けた男たち、省庁だか映画撮影所だかの連中、その他の誰もが何の必然性もないのに襟を立て、マフラーを巻き、或いは鼻をすすっていた、それによって彼らは自分たちが魅力的に見えることを知っていたのだ。それら全てがアラニトにとっては馴染みのない、疑わしい世界だったが、馴染みがなく疑わしいのはバスの中の連中だけではなく、バスのヘッドライトも、更に赤や黄色のブレーキランプもまた、アラニトにとってはただ過剰というだけでなく、邪悪な目的のために作り出されたものであるように思われていた。
 こんなに大勢がバスで行き来しているなんて、とアラニトは声に出してぼそぼそ呟いていた。こんなにも大勢の人達を、あのティラナが甘やかしているんだ。嗚呼、俺にはわかってるぞ、あの連中をどうすべきなのか。
 それは貧弱な憤怒の感情であって、意味もなければ確たる目標もないが、それ故にずっと変わらないままのものだった。
 まさにそのアラニトのぼそぼそと喋る声を、或る日の夕方に耳にしたのがラチで、彼はバスがジロカスタルへと通じる薄暗い道路を遠ざかっていく間ずっと、歩道の上で、アラニトの前に立っていた。それが二人の知り合った夕方のことだった。
 アラニトは二杯目のビールを飲み干した。ラチは時計を見た。
「この時代に務めを果たすべきなんだ」アラニトは首を振りながら先程の言葉を繰り返した。「連中のベルトを締め直さなきゃならないんだ。今でなきゃダメなんだ。俺は気付いてることがあるんだ、考えてることもあるんだ」彼は自分の額を掌でぴしゃりと叩いた。
「もう何日も考えてるんだ、自分のやるべきことを」
「何だって?」ラチは言った。
 アラニトは、深く落ちくぼんだ眼を上げた。会話の間じゅう、二人が目を合わせることは殆どなかった。
「エンヴェル・ホヂャに手紙を書くつもりだ」とアラニトは言った。「あんたどう思うね?」
 ラチ取材班長は肩をそびやかした。俺に何を言わせやがる、と彼は思った。
「いよう民間人よ、民間人様よ」そう言ってアラニトは苦笑した。
「どういう意味だ?」ラチ取材班長は言った。
「手ごわいぞ、俺は[訳註;原文の逐語訳は「俺は固い骨だ」]」と言ってアラニトはにやにやしながら食べかけのパンを見つめた。「アラニトはそう簡単にハメられやしないぞ、そうとも」
 ラチ取材班長はアラニトとのやりとりがうまく終わろうとしていることが不愉快だった。更に不愉快なのは、それを取り戻す時間もないことだった。
 二人は路上の真ん中で別れた。数歩進んでからラチが振り返って見ると、アラニトが、殆ど滑稽なほどに長いコート姿で、もうずっと昔から(その年数も理由も忘れてしまったが)彼が信頼していないところの通行人たちの雑踏の中を遠ざかっていくところだった。
 新聞社の建物に着くまでの間、ラチは何度かベスニクのことを思い浮かべた。会議が始まる二、三分前、立ち話で局の他のメンバーとベスニクの問題を話し合ったのだが、聞いている彼らは何の関心も示さず、何の見解も示してこなかった。会議室で二人の視線は何度かぶつかり合い、しかも互いに視線を逸らそうとし、互いの方を見まいと顔を動かした時に限って、再び視線が合ってしまうのだった。
 総会用の赤いクロスで覆われたテーブルには党書記の隣にもう一人、一同が初めて見る人物が座っていた。顔色は白く、髪の薄い、背の低い男だった。党の会議がこれほどの沈黙と共に始まったことはこれまで一度もなかった。その沈黙はますます深くなっていた。ベスニクは思い出した、モスクワへ出発した日を、離陸前の飛行機のエンジンの音を、飛行機が滑走路から飛び上がるその瞬間に、元々のエンジンのうなる音の中から立ち上がってくる轟音のことを。それと同じことが、この会議の沈黙の中でも起ころうとしていた。それは徐々に、徐々に、深くなっていた。だがその静寂がすっかり満たされたかに思えたその時、その静寂の中にまるで穴が開くように新たな静寂が生まれるのを皆が感じていた。
 党の書記は会議参加者に向かって消え入りそうな声で、中央委員会から派遣されてきた人物が、非常に重要な事項について、共産主義者諸氏(ここで彼の唇が震えた)に周知させることになっていると伝えた。
 顔の白い男が立ち上がった。その声はゆっくりとしていて、抑揚が効いていた。ベスニクはそれを何とはなしに聴いていた。彼は考えていた、どれほど世界を揺るがす事件でも、それが切り裂かれたばかりの肉のように血を流し、傷を負っていても、時の流れと共に、歴史の死体置き場で硬直し、縮こまり、徐々に徐々に、書物や回想や記録文書のページの中で干からびていき、そして最後には真っ白い化石のようなものに姿を変えてしまうのだと。そうだ、まだひと月半も経っていない、モスクワ会議の遺体はまだ温かいが、それでも歴史はその上へと爪を伸ばしている。その遺体はもう冷たくなりつつあるのだ。
 他の者たちは万全の集中力で聴き入っていた。その代議員はちょうどアルバニアに対する社会主義陣営の最初の敵対行為について語っているところだった。ほんの数週間しか経っていないが、しかし報復は既に始まっていた。長期の信用貸付が打ち切られ、ソヴィエトとチェコの技術者たちが去り(または正確に言えば、冬の休暇から戻ってこなかった)、ヴロラの基地における摩擦が再燃し、ワルシャワ条約機構からのアルバニア追放という脅しめいたほのめかしが行われている;一方で、公式の報道には何もない、何も、何一つ。今やソヴィエト連邦と社会主義陣営の態度における可能性は二つだ。一つは;敵対行為の更なるエスカレート、そこからの完全な破局。もう一つは;状況の膠着化、国家間の冷え切った、しかし正常な関係の維持。アルバニアの側から、破局へ向けた一歩を進めることは決してないだろう。
「それでも、我々にはあらゆることに対する備えが既にできている」代議員は静かな声で言った。「何がどうなろうと、今年の冬が巻き起こすいかなる暴風が我々の上に訪れようと、我々は立ち向かうだろう。その責任と恥を負うのは彼らの方だ」
 そこまで話すと、彼は腰を下ろした。長い沈黙が続いた。それから党書記が、常人ならざる努力の果て、静かに、こう口にした:
「誰か、発言のある人は?」
 五時になっていた。外は、何処までも続く広がりの中、霧に包まれた街の灯りで、ぼんやりと赤みを帯びていた。
「誰か、発言のある人は?」党書記が繰り返した。
 大半の視線がベスニクに向けられた。自分が言わなければならない、そう思ってベスニクは手を挙げた。
「同志諸君」ベスニクは言った。「諸君もご存知の通り、私は・・・」そこでベスニクは『幸運にも』と言うつもりでいたのだが、その場で考えを変えた。
「諸君もご存知の通り、私は、代議員が今しがた伝えたところの、かの大いなる対立が起こったその時、現地にいた」
 話しながらベスニクは、自分が視線の火花の中で、まるで冷たい星々のひとつかみの中で泳ぎ回っているように感じていた。それは、彼にとってまさに尋常ならざる日だった。
 ベスニクに続いて、他の者たちが[訳註:旧版では「イリルが、それから他の者たちが」となっている]発言した。この重大な事態にあって、彼らは党の一兵卒として第一声を上げる備えはできている、いかなる犠牲を払っても、それは・・・
 ザナよ、とベスニクは思った。君は今夜これよりもっと多くのことを知るだろう。ベスニクは彼女を思い焦がれた。君には他の連中より多くを知る権利がある、ベスニクはそう思っていた。彼は恐らく必要以上のことは何も話さないだろうが、しかし彼が彼女に話すであろうことは深く、特別で、書面や手順書の類には決して見当たらないような事柄だろう。彼が彼女に語るのは恐らく、黒いジムの夜や、犯罪の可能性を秘めた城塞の夜だ、そこでは夜明けまで電話が鳴り響き、彼は自らがよそ者であると感じていたのだ。君にはわかるだろうか、僕がどれほど君のことを必要としていたか、あの夜に、あの中世で。
「代議員同志」誰かが言った。「あなたから中央委員会に伝えて欲しい、我々は中央委員会の姿勢を全面的に支持するということを、そして我々は、時代が我々の両肩に課すであろういかなる重荷も負うつもりだということを」
「他には」書記が言った。
 また誰かが手を挙げた。
 ベスニクは恐らく彼女に話すだろう、演説前夜に雪の中を歩き回るエンヴェル・ホヂャのことを、モスクワを出発する朝のベロルスキー駅のことを、フルシチョフの言い回しや『その通訳はちゃんとロシア語ができるのか?』と声を上げたことを、そして再び黒いジムの窓のことを、それが脅すように消えたり輝いたり、近付いたり離れたりしていた、あの草原の大地のことを。

 二時間後、長い休憩に入った。会議室は分厚いタバコの煙に包まれていた。こんなことは今まで一度もなかった。シャンデリアも、赤いテーブルクロスも、壁の肖像画も、まるで停電したように全てが遠ざかり、冷たく、ぼんやりと薄れていた。そして誰一人として、窓を開けることを考えもしなかった。
 会議の後半が始まったが、それは全員にとって不必要かつ無意味に思われるようなものだった。白い顔の男は姿を消していた。電灯は赤く輝いて、透明な線まで殆どはっきりと見えそうだった。言葉はずっと遠くからのように、幾らか反響して、まるで影を帯びているように聞こえてくるのだった。ベスニクの党員候補から党員への昇格に関する申請が審議されていた。履歴書の読み上げ。保証人らによる説明。私と同志ベスニク・ストルガが知り合ったのは・・・パルティザンの一家で・・・私はストルガ同志を知っている・・・その後は、会議参加者から二、三人による議論。私は同志ベスニクを二年前から知っている・・・私は彼を知っている・・・
 何もかもが普段通りに行われ、誰一人として何一つ反対しなかった。そしてそれは当然なことだった、ましてやその場にいて、その審査から、戦場から、溶岩から、噴火口の中から今しがた戻ってきたばかりのベスニク・ストルガにとっては尚更だった・・・ほんの少し前に本人が思っていた通りに。まあそうだ、なるべく早めにかたをつけるべきなのは理解できる、さもなければお笑いぐさだ、馬鹿々々しい・・・それが、そのまどろみの中で不意に、誰かがこう言ったのだ:
「同志ベスニク・ストルガ、君と婚約者との件はどうなっているのかね?」
 その問いはナイフの切っ先のように閃いた。さっきからずっと会議はまるで麻酔をかけられた肉体のようになっていたが、そこにその問いが突き刺さるのを感じた。まどろみはかき消された。
「何ですって?」ベスニクは言った。
「婚約者との件はどうなっているのかね?」
 質問をしたのも、それを繰り返したのもあの取材班長だった。
「それはどういう意味ですか?」ベスニクは言った。
「それはどういう意味ですかって?」別の誰かが言った。
「そりゃ私が言った通りの意味だよ」取材班長が言った。
「意味がわかりませんが」ベスニクは言った。
 参加者らが一人、また一人と完全に目を覚ますまでには、少々時間がかかりそうだった。
「意味がわかりませんが」ベスニクはもう一度言った。
 ラチは質問を繰り返した。ベスニクは相手をじっと見つめていた、まるで、何処かでこの顔を見たことがあるのだがそれは何処だったろうと思い出そうと苦労する人のように。
「それは事実ではない」ベスニクは言った。
「事実でないとはどういうことだね?」ラチ取材班長は言った。「質問は事実だよ、私は三回も言ったのだからね」
「それは事実ではない」ベスニクは引き下がらなかった。
「彼の質問は事実だよ」と編集長が言った。
「みんながそれを聞いている」
 ベスニクは顔を曇らせた。こんな審査の場の質問で、よりにもよって今日、こんな重大な侮辱を受けるとは。
「私が婚約者に不義を働いているなど、事実ではありません」ベスニクは消え入りそうな声で言った。
「私は、そんなことは言ってないよ」ラチは言った。「私は質問しているだけだ」
「誰かが何の理由もなく、そんな質問を誰かに向ける権利があるとは思えませんな、それも党の会議でですよ」と誰かが言った。
「それもそうだ」別の者が同意した。
[訳註;旧版ではこの誰かはイリルIlir、別の者はニコルNikollëと名が明記されている]
「静粛に」党書記が言った。
「あなたの何処にそんな権利があるというんですか?」ベスニクは、声を震わせながらそう言った。
 ラチ取材班長は再び質問を繰り返した。
「私は何の理由もなく、質問をしているわけではないよ」彼はそう言った。「私は知っているんだ」
「嘘だ」ベスニクは言った。
「ストルガ同志!」書記が割って入った。
 ラチの顔色が変わった。彼の向けた視線が素早く編集長とかち合った。
「彼は嘘などついていない」編集長は言った。「彼には証拠があるのだ」
 しばらく沈黙が続いた。
「誰がそんなものを」ベスニクは顔を上げずに言った。
「私だよ」編集長が言った。
 また沈黙。
「あなたが一体どうしてそんなものを?」そう言ってベスニクは顔を上げた。目から火花が走った。
「君の婚約者の側からさ」編集長は言った。彼は一瞬、『君の婚約者の家族の側からさ』と言い直そうかと思ったが、別に長くする必要もないと思い直した。
 ベスニクは首をうなだれた。ザナ。そんな馬鹿な、と彼は思った。顎が動き、口を開こうとしたが、口は開かなかった。
「同志ベスニク、君は、組織に対してこの問題で釈明をすることができないのかね」と党書記が言った。
 ベスニクは首を振った。
「何も」そう言った。
 彼は、あちらこちらで押し殺したようなつぶやきが起こるのを聞き、誰かが傍らで自分の肘をずっと揺さぶって、何かしら囁いているのに気付いていたが、そちらに集中することはできなかった。この攻撃は全くの不意打ちだった。彼の耳に聞こえてきたのは、あちらこちらから上がる言葉や文の切れ端だった:何だいあの態度は・・・共産主義者が組織に対して隠し事などあり得ない・・・だが限度というものがある・・・限度などない・・・個人的な問題だ・・・共産主義者に個人的だの個人的でないなどあるものか・・・そうは言っても・・・レーニンもそう言っているぞ。信じられない・・・よりにもよってこんな時期に、これまで以上に・・・団結が必要なのに・・・
「同志諸君、静粛に」党書記が言った。彼はペン先でテーブルをコツコツ叩いた。「ということはつまり、ストルガ同志、君は組織に対して、婚約者との関係について釈明をすることができないということだね」
「できません」その言葉をベスニクは、喋るというよりむしろ囁くように言った。ザナ、君にこんなことをされるなんて、と彼は思った。
 再び周囲に押し殺したようなつぶやき。ベスニクの頭はまるで先に動かなかった。こんなのどうかしてる、と彼は思った。逆でなければおかしいだろう。組織は然るべき手順で、モスクワから戻った彼の精神状態を理解すべきだろう。そして婚約の延期を了承すべきだろう。逆でなければおかしいだろう、彼は叫び声を上げそうだった。それなのにこの連中ときたら結婚式を要求してくる。近付く暴風のことを語り、『流れに抗しよう』などと言いつつ、それなのに結婚式を要求してくるのだ。窓を閉めろ、嵐が来るぞ、と彼らは言う。殻に閉じこもれと。そんなことがあっていいわけがない。
「窓を開けてくれ」と誰かが三度目に繰り返した。「煙がこもり過ぎだ」
 誰かがその言葉を求めていた。この件は終わりだ、ベスニクは思った。実際、そうなりかけていた。何人かの党員がベスニクの申請に関する審査を継続扱いとし、然るべき時期まで延期すべきだと要求した。それこそベスニクにとって最も望ましい提案だった。二人が、といってもうち一人はラチだったが、ベスニクを党から追放すべきだと求めた。ベスニクは真剣に自己批判すべきだと言う者たちもいた。が大半はベスニクの擁護にまわった。結局、この件は別途会議を開いて審議することに決まった。
 会議は閉会した。ベスニクは階段を真っ先に降りて路上へ出た。彼の頭は先程と同様、痺れ切っていた。ただ時折その頭の中で何かが動いていた。電話だ、彼はそう思った。彼には電話が必要だった。身体中ぶるぶる震えていた。左の方、五階建ての建物の上にPTT[訳註;PTTはPostë-Telegraf-Telefon(郵便・電報・電話)の略。要するに中央郵便局]の大きな文字がこうこうと輝いていた。ベスニクはそこへ向かった。電話室がずらりと並んでいた。兵士が一人、受話器を頬に押し当てて喋っていた。その向こうに健康そうな身体つきの少女が二人いた。兵士は靴先を動かし、それを目で追っていた。女子のうち一人が相手に「あなたがかけなさいよ」と言っていた。ベスニクは三番目の電話を取った。何も音がしなかった。
「それ壊れてますよ」少女の一人が遠慮がちな声で言った。その子は形のいい、ぱっちりした目をしていた。
 タイルを敷き詰めた床は一面びしょびしょに濡れていた。
「どうぞ電話を使ってください」少女の一人が伏し目がちに言った。
 ベスニクは硬貨を入れ、ダイヤルを回した。何も思い浮かばなかった。硬貨が乾いた音を立てた。リリの声が聞こえた。
「もしもし」
「ザナを」ベスニクは素っ気なく言った。
 一瞬の沈黙。そしてリリの声がした。
「あなた、ベスニクなの?」
「ザナを」ベスニクは声を上げた。
 少女二人が不安そうに見つめている。
 受話器をテーブルに置く音がして、家の中を歩くリリの「ザナ!」と呼ぶ声が遠くから聞こえた。
「もしもし」ザナが言った。「ベスニク、あなたなの?」彼女の声は不思議なほど温かかった。「電話してくれるような気がしてたのよ」
「あのさ」ベスニクは言った。「君は僕を陥れることができると思ってるんだな・・・」彼にはぴったりくる言葉が全く見つからなかった。
[訳註;原文の動詞detyrojは通常「義務付ける、強いる」だが、ここでは独訳と仏訳に倣って「騙す、罠にハメる」という風に訳している]
「え、何?」遠くから声が聞こえた。
「君はその手のやり口で、僕を陥れることができると思ってるんだな・・・」[訳註;ここで「やり口」と訳した名詞dredhiは「策略、騙しの手口」]
「どうして私があなたを陥れるの?」彼女の声が言った。
「かまととぶるなよ[訳註;原文の直訳は「ナイーヴな態度をとるな」]」ベスニクは言った。「いいから聞けよ、そりゃ君は苦情を言ってもいいんだ、当然さ。君は俺のことで苦情を言ってもいいんだ・・・結婚式の時期のこともだ・・・何処へでも行ってわめけばいいんだ、住居委員会へでも何処へでも行ってさ」ベスニクの声には憤りと、皮肉と、笑いがないまぜになっていて、そんな自分自身に彼は腹が立った。
「だけどいいか、それでうまくいくと思ったら大間違いだ」
 電話を切る乾いた音が響いた。ベスニクの顔に浮かんでいた、その怒りのような類の笑いが、ゆっくりと消えていった。その時になって初めて彼は、二人の少女が、少しだけ伏し目がちに、落ち着かない視線をこちらに向けているのに気付いた。ベスニクは電話を叩きつけ、大股で歩いていった。濡れた床面が、人々の色や輪郭をぼんやりと映していた。少女たちの目は、その見知らぬ人物が夜の中へと飛び出していったガラス扉に釘付けになったままだった。ほんの数歩で、何だか魔法のようなことが起こったのだ。その出来事は、本や雑誌や、二人が毎週土曜日に自分たちの小さな町に一軒しかない映画館で見る映画と結びついている事柄だった、二人はその町から二週間前に首都行きの旅行で出てきていたのだが。あり得ないこととの境界線は崩壊し、「かまととぶるなよ」などという聞き慣れない言葉が目の前に現れたのだ。その見知らぬ人物の細長い指先は、電話のダイヤルと一緒に、人生の地平線そのものまでぐるぐる回していた。少女二人は一緒に路上に出て、カフェの窓ガラスの傍らを歩いた、その向こう側には首都の人と呼ばれる、今しがた電話をかけていたような種族の人々がコーヒーを飲んでいたり、或いは座ったまま、テーブルの上に肘をついてもの思いに耽っていたりするのだ。濡れた路上は、ところどころがぼんやりと光っていてまだら模様になっていて(それはまるで、青や赤や菫色の蹄をした生き物たちが残した足跡のようで)、どこまでも果てがないように思えた。少女の一人がもう一人に寄り添い、しくしく泣き始めた。相手は少しも驚かず、その髪をそっと撫でた。何て綺麗なのかしら、その子は思った。涙が出る、私だって泣きそうよ。

 一方その頃、ベスニクの身体を軽々と運んでいく両足は激しい熱情を呈していて、それはまるで、不幸に見舞われた家庭にはよくあることとして、昨日まで打ちひしがれていた人々が、不意に活気を見せ、力を取り戻した時のようだった。ベスニクは信じがたいほどの速さで狭いバイロン卿通りを通り抜け、『クリミア・バー』[訳註;第1部でベスニクの弟ベニと、ザナの親友ディアナの兄弟にあたるマクスが飲んでいた店]に入ってコニャックを一杯飲み、連盟広場を横切ってディブラ通りへと出た。彼はエスプレッソを立ち飲みできる小さなカフェに入った。カウンターには異様に腕の長い男がもたれていた。ベスニクはコニャックとコーヒーを注文した。その男は面長の顔を向け、ぶつぶつとつぶやいた:「さあ飲めよ相棒、飲めよ」それは見知った顔だったのだが、ベスニクは返事もしなかった。
 ベスニクはコニャックのグラスを空け、コーヒーを二口か三口で飲むと、店を出て行った。
「あんたを相手にする気はなさそうだ」そう言ったのは都市設計士だった。
 給仕の男は申し訳なさそうな目を向けた。
「今日は何日だい?」都市設計士が訊ねた。
「一月十四日だよ」給仕が言った。
「今日は俺にとっちゃ命日だ」と都市設計士は言った。「憶えときな、今日はな、一月十四日はな、この通りが・・・うう・・・うう・・・無残にも爆撃された日なんだよ」
 給仕は笑い声を上げた。隅の方でコーヒーを飲んでいた別の客も一緒に笑った。
「笑うがいいさ」都市設計士は言った。「あの瓦礫の山が見えないかい?俺には見えるね」
 二人はずっと笑っていた。都市設計士は金をカウンターに放り出すと、外へ出た。彼はもの思いにふけっていた。その日、ディブラ通りの整備に関する計画を破棄するとの通達があったのだ。信用貸付が中断されたからだ。俺には廃墟が見える、彼はそう思った。彼はずっと前から自分の想像の中で、孤独の中で建物を建てていた、そして今は、その孤独の中で嘆いているのだ。[訳註;旧版では「俺には見える。まるでヴェトナムの廃墟だ。だがそれよりひどい」と続く]
 彼はまるで幻想を見るように、上を向いたまま歩いていた。
 もう二時間以上も彼は酔っぱらってディブラ通りを歩き回っていた。夜の湿った空気の中を凝視しながら彼は、来たるべき九階建てだか十二階建ての住宅がどれほどの高さになるだろうかと思い浮かべていたのだ、それももう死んでしまったが。ずっと前からいつも、彼は想像の中で、その建物から部屋の壁を、階段を、全ての間仕切りを取り払い、中にいる人達の動きや輪郭を思い浮かべるのが好きだった。それは超現実的な光景だった:空中を歩く人々が、昇ったり、降りたり、ソファや椅子やトイレに腰掛けている;眠り、寝返りを打ち、ランプの下で見つめ合っている。
 設計士は自分の頭の中で、長い時間をかけて空っぽの空間を人で埋め尽くしていくのだった。だが今、その人々はみな逃げまどい、パニックに陥っている、まるで亡霊のように。
「気の毒にな、あんた達には見えないんだ」と彼は大声で言った。通行人が二人振り返った。設計士は脅してでもいるように指を振り回した。だがほんのしばらくすると、その怒りも忘れてしまった。「幸せだよあんた達は」と彼は声を上げた。やがて彼は自らを慰めようと、七階から転落する少女(彼はいつも、どんな建物でも、誰か一人は七階から転落するような気がしていたのだ)が辛うじて転落を免れる様を思い浮かべた、とはいえそれはささやかな慰めに過ぎなかった。
 酔っ払いの都市設計士め、とその時通りを渡っていた作家スカンデル・ベルメマは思った、彼はその設計士を知っていた。何か悲しいことがあったに違いない。彼は「フリードリヒ・エンゲルス」通り141番にあるアパート[訳註;ちなみに、道路清掃人のレマがこの番号の家の前を掃除している]での誕生パーティーからの帰りだった。その夜は本当に楽しいものになるはずだったのだ、流れるソヴィエトの歌やモスクワ郊外への憧れや、単語や話し方や、そればかりか溜め息さえもロシア語で満ち溢れるようなことさえなければ。実際、それが原因でスカンデル・ベルメマは早めに切り上げてきたのだ。あり得ないだろう、と彼は思った。ソヴィエト連邦との冷え込みが表沙汰になり、そのことで皆が溜め息をついている時に、あれはあり得ないだろう。彼は他のことで考えを紛らそうと努めた。酔っ払いの都市設計士め、彼は再びそう思った。それはきっと例を見ないような災厄だったに違いない、建築家たちの錯乱だ、ぐんぐん伸びていく建物や道路たち、交差点たちのパニック、アーケードと広場たちの乱痴気騒ぎ。
 彼はコートの襟を立てた。冷え込んできた。一月の中旬だな、と彼は思った。それはアルバニア-ソヴィエト友好月間の終わりだった。その言葉を彼が思ったのはさっきの、不愉快な誕生パーティーで、信用貸付の中断という会話の断片を耳にした時のことだった。それはありふれた言葉の一つに過ぎなかったが、小説の出だしとしては充分なものだった。彼がここ数日見聞きしたことは、何もかも二つに分けられていた:自分の小説に役立ちそうなものと、役立ちそうもないものとに。本当のところ彼には小説のネタ[訳註;原語tharmは「パンだね、酵母」]を思い浮かべる暇などなかった。あったのはただ、ところどころがチカチカ光る薄もやばかりで、他には何もなかった。小説の枠組はあったし、そこから先の輪郭さえもできていたが、中核になるものはまるでなかった。
[訳註;旧版ではこの後、誕生会でロシア民謡を唄う客たちの横で、ソ連が人民を抑圧しており、いずれソ連が被抑圧人民にとっての悪夢となろうと思い描くスカンデル・ベルメマの回想が書かれているが、最新版ではバッサリ]
 作品のとりかかりがこれほど難しいと思ったことは、かつて一度もなかった。[訳註;旧版ではここに「初めは、その出来事が身近過ぎて、眼前で起きたことに距離を置いて見られないからだろうと考えていた」と続く]だが今やっと原因がわかった気がした:その出来事についてみんなが喋っているからだ。誰一人として何が起きたのか正確にわかっておらず、おそらくそのことが、その知らないということこそが、全てを薄く伸ばしてありふれた噂話[訳註;原文の逐語訳は「ぶつかり合う騒音」だが、ここは仏語訳に従った]に変えてしまう。物語は空気中に、花粉のように、季節の木の葉のように飛び散り、そして彼はそれを地の果てまでも拾い集めていかねばならないのだ。
 すべてがそこにある、そう思った、ただし出来事そのものを除いてだ。それが起こったのは何処か遠く、もやの中で、そしてそれが欠けていることこそが、皆をおかしくさせているのだ。
[訳註;旧版では、上の段落は音楽に喩えてもっといろいろ書かれているが、今はご覧の通り]
 スカンデル・ベルメマは、考えが煮詰まった時にいつもそうするように、その歩みを速めた。彼の前を若いカップルが抱き合って歩いていた。女性の方は髪が長かった。彼の頭の中をアナ・クラスニチ[訳註;第1部でスカンデル・ベルメマとの交際を噂された女性]の髪がかすめたが、その時思い出したのは貸付中断のことだった。彼はタバコの箱を探し、そこから一本取り出すと、マッチを何本か折ってからようやく火をつけた。

6
 1月14日の夜は更けていった。時刻はあと少しで11時。温度は零度近くになっていた。ティラナの通りにも広場にも人通りは殆どなかった。ATSHの五階では、写真技師のヅァン[訳註;第1部にも登場している元パルティザンの写真技師ヅァン・トスカ]が残りの写真を現像していた。工場入口の労働者たちの憂鬱そうな表情、集会場の演壇、交差点を歩く人々、それら全てが、半ば濁った溶液の中で死んだ魚のようにゆらゆら揺れていた。
 ついにあの人の憂鬱が現れたな、とヅァンは思った。彼は片手で陶製の容器のふちを支え、もう一方の手で溶液をかき回していた。しばらくの間、彼の目は、自分の手が溶液の表面に起こした渦へと向けられたままだった。彼の視線はまるでこう言っているようだった;お前が引き出そうとするものをお前は引き出すんだ、この濁った液体よ。
 あの十月の夜、自ら「エンヴェル・ホヂャの憂鬱」と名付けたところのものを初めて見出したあの時[訳註;第1部2章参照]から、ヅァンは自分の予感を一度たりとも疑ったことはなかった。
 溶液が何かしら躍動していて、今は落ち着きを取り戻しつつあるかのような、その柔らかな動きの中で、ヅァンの手はその表面を進んでいった。彼の目はそこに釘付けになっていた。また何を引き出そうというんだ?彼は思った。
 そこで引き上げた秘密を、ヅァンはこの数か月ずっと自身の内に留めてきた。他の連中は笑い合い、結婚式へ、愉快な集まりへと急いでいた。朝も昼も、彼らはそうだった。ヅァン自身、あの十月の夜を忘れたような気になることが幾度かあったが、それでも何処かに憂鬱はあった。それは雪に似ていた、それが遥か空の高みで固まりつつある時には誰もそれと気付かないが、やがて或る朝、地上を埋め尽くすのだ。
 三時間前、党組織の会議で中央委員会から派遣されてきた人物が社会主義陣営内の亀裂について第一声を発した時、ヅァンはすんでのところでこう叫びそうだった:彼の憂鬱が現れたぞ。

 「節約さえなければねえ」とその時アナ・クラスニチは、午後に夫と連れ立って訪れた「三人の英雄」通りの第215棟の4階の62号室で友人たちに語っていた。「本当なんだから、この世の何よりもずっと大嫌いなのよ、節約が」
 その家の主人であるヴィクトル・ヒラは、にこにこ笑っていた。アナは正直だな、彼は思った。彼はちらちらと彼女の髪を、瞳を、大理石のような首筋を、物腰柔らかで、華奢で、繊細で、愛によって殆ど透けて見えそうだと皆が言う、その全身を見つめて、そしてまた思った:アナは正直だな、と。ヴィクトルは、アナに関する噂話を信じていない稀有な者たちの一人だった。
 アナの夫フレデリクは、「リースリング」の白ワインが半分残ったグラスをもの想い気に見つめていた。彼はがっしりした顔つきで、髪を短く刈りこんでいるので、誰もが彼のことを歴史学部の教授というより、むしろスポーツ選手だろうと勘違いしそうだった。フレデリクとアナの間には幾度も諍いが勃発しており、その原因はフレデリクの嫉妬よりも、むしろアナの思慮の無さにあった。最近の喧嘩があったのは新年の数日前で、その時フレデリクは全く偶然にも、アナの下着類の中に作家スカンデル・ベルメマの、甚だ怪しげな[訳註:原語mjegullorは「霧に包まれた」]献辞と共にアナに贈呈された最新作を見つけたのだ。その喧嘩には、他の場合と大した違いは見られなかった。これまでと同じく、二人はさんざん言い合った:もう我慢の限界だ、好きにしろ、フレデリクったら、あなたの嫉妬にこっちは寿命が縮むわ、もうたくさんだアナ、もう何もかもおしまいだ、とは言いながらも二人にはよくわかっていた、何も終わってはいないし、何ひとつ終わることもないのだと。その喧嘩の間に、アナはその透明さを少しだけ失っていた。まるで脂肪や、余分な贅肉や、たまたまその場にあった筋繊維或いは腱までもが、アナに襲いかかろうと、他でもないこの時を待ち構えていたかのようであった。彼女の全身は濁りを帯び[訳註;原語opakはラテン語opacus「暗い、陰のある」に由来する形容詞]、まるでアナがエーテルの世界から急速に引き戻され、血と肉から成るありふれた身体に戻っていくかのようだった。まさにこうした変化にこそ、彼女は死よりも遥かに恐れおののくのだった。ところが、それから二週間も経たないうちに諍いは鎮まり、彼女は再び元のアナに戻っていた、それはガラスの煙幕であり、スカンデル・ベルメマが彼女と出会った最初の時にそう名付けた通りのものだった。
 実際、アナが夫を裏切った妻だというような意見の殆ど全ては、彼女がスカンデル・ベルメマと付き合っていることからごく最近になって生まれた話であり、実際の関係については、誰ひとり正確なことを何ひとつ知らないのだった。
「節約なんて、ふん、何て嫌な言葉かしら」アナはそう言って肩をそびやかした。
「もし封鎖が始まったら、節約ということにもなるだろうね」ヴィクトルが言った。「それは避けられないよ」
[訳註;旧版ではここに、国家予算について討議するため人民議会が臨時に招集されるというやりとりが入っていた]
「農相は解任されるそうじゃないの」ヴィクトルの妻がそう言った。
 夫の方は肩をすくめた。
「さあね」
「君のところに外国の技師たちはいるのかい?」フレデリクはヴィクトルに訊ねた。 「いるよ、チェコとソヴィエトがね。ロシア人の何人かは冬の休暇から戻って来ないんだ」
「そうなの?」アナが言った。[訳註;旧版では続けて「つまり外国の技師たちは逃げ出したってことなのね」と言っている]
「いまいましいな全く」とヴィクトルが言った。「とっとといなくなってもらいたいよ、サボタージュを始められるよりはましさ」
 アナの夫は声を上げて笑った。
「何てことを考えるんだ君は」彼は言った。
「何も驚くようなことじゃないだろう」ヴィクトルが言った。「あの連中だったら、何だってやらかしかねないぜ。モスクワに行っていた俺の知り合いにひどい話を聞かされたもんさ」
「その人、今頃モスクワに行っていたの?」アナ・クラスニチが訊ねた。
「ああ」ヴィクトルは答えた。「ベスニク・ストルガっていうんだけどね」
「まあ、お近づきになりたいわね」とアナが言った。
 アナの夫はオレンジの皮を剥きながら、下を向いていた。彼の両手は、神経質そうにひくひくと震え出していた。
「だが俺は、高給取りが賃下げになるらしいって聞いたぜ」そう言いながら彼は自分の妻を横目でじっと見つめた。
 アナはまるで何も聞いていないようだった。フレデリクの両目に、復讐の光が宿った。
「それは本当かも知れないな」ヴィクトルが言った。
「俺のところはきっと下がるだろうな」フレデリクは、妻と目を合わせないままそう言った。彼の視線はこう言っているようだった:俺は給料が減ればいいと大いに思ってるさ、困るのはお前の方だ、と。だがアナは、敢えてそうしているかのように、再び会話に加わろうとはしなかった。
「いろいろと新しいことがありそうだな」ヴィクトルが言った。「これは誰にとっても試練だよ」
 彼は時計を見ると、立ち上がり、テレビをつけた。
[訳註;旧版ではここで「もうすぐニュースの時間だ」と言っている。これが夜の定時ニュース“Revista Televizive”だとすると20時頃ということになる]
 画面にホールに集まる群衆が映り、そしてロープが数本と、その中にいる人々が見えた。
「何だボクシングじゃないか」ヴィクトルが言った。「ニュースは遅れそうだな」
 リングの上はカメラマンだらけだった。ボクサーたちは、ガウンを羽織ったまま両腕を伸ばし、グローブをはめてもらうところだった。
「ふん」ヴィクトルの妻が声を上げた。「スポーツなんて!」
「僕も好きじゃないな」とフレデリクも言った。
「この試合は世界選手権なんだぜ」ヴィクトルは言った。
 そうこうするうちリング上の人数はまばらになっていった。ボクサーたちは、それまでカメラのフラッシュとトレーナーたちの間にいたが、ぽつんと二人きりでその場に残された。ゴングが鳴ると、両者は互いに攻撃に入った。
「皆さんコーヒーはいかが?」ヴィクトルの妻が訊ねた。
「私いただくわ」アナが言った。
[訳註;旧版ではこの後、会話の邪魔だからテレビを消した方がいいと妻に言われてヴィクトルがテレビを消し、その後ワインを振る舞うのだが、最新版では削除されている。そのためテレビがつけっ放しで話が続いているように読める。ちなみにこの削除された箇所でしか言及されていないが、ヴィクトルの妻の名はシュプレサで、旧版ではコーヒーだけでなくオレンジも薦めている]
 フレデリクはじっと考え込んでいた。
「本当に封鎖があるんだろうか?」少しして彼はそう問いかけた。
 ヴィクトルは首を振った。
「僕はあると思うよ」[訳註;バルカンで首を横に振るのは肯定のしぐさ]
「何てこった」フレデリクは言った。
「この友好関係で何とかやっていく方法はもうないものかな。ユーゴスラヴィアの時もそうだった・・・ひょっとしたら俺たちだって、もう少しだけ辛坊すべきなのかも知れない。何にせよソヴィエトだって・・・」
「フレディ、恥ずかしいと思わないの?」アナが途中でさえぎった。「まあ何だってあなたはそうつまらない人[訳註;原語pa karakterは英語で言うとcharacterless]なのかしら?」
 フレデリクは彼女をきっとにらんだが、アナはまるで意に介していなかった。
「あなた昨日まではずっとソヴィエトの文句ばかり言っていたくせに」アナは言った。「ソヴェトは俺たちを搾取してるだの、ソヴィエトの技師どもは高給を貰ってるだの、ソヴィエト文学はうんざりだの;それが今になって、お互いに亀裂が起こったと聞いた途端にまるで反対の不平をぶつぶつと」
「いやそれは違う」夫は言った。「俺は不平なんか言ったことはない」[訳註;旧版では「俺がロシアの側に立っているなんて誰が言ってるんだ」]
 アナは皮肉っぽく微笑んだ。
「私には話すでしょ、そういうこと?」と彼女は言った。
 フレデリクは不満げに鼻を鳴らした。
「本当に君には困ったものだ」彼は言った。
「私は正直なのよ」アナは言った。「私は自分の考えを隠しておけないだけ。私はソヴィエトに対して腹を立てたことなんか一度だってないわ、でもね、今起こっていることを聞けば、とっとといなくなってくれって、私だって思うわよ。太陽の裏側まで」
「君そこまで腹を立てているのかい」フレデリクは言った。
「だからあなたも、しゃんとしてなきゃだめよ」アナは言った。
「本当に君には困ったものだ」
「少なくとも、私は不平屋じゃありませんからね」アナは言った。「だからね、あなたも男だったらせめて・・・」
「もうその辺にしときなよ」とヴィクトルが愉快そうな声で言いながら、冷蔵庫から新しい白ワインの瓶を取り出した。「これでどうかな?」だが彼は思っていた:たぶんこれだろうな、彼女が夫を裏切る原因は。

 その日の夜。時刻は23時5分。既にティラナの人口の三分の一が眠りに就いていた。気温は2度まで下がっていた。文芸批評家ズィヤ・シュクルティ[訳註;この名は初版でも最新版でも同様だが、途中の版ではイニシャルのみで「C.V.」と書き換えられている]、31歳、既婚、慢性の胃潰瘍持ちで、読者からも文壇からも完全なる無関心をもって迎えられた詩集二冊の作者は、再び電気ヒーターに火をつけた。この数週間というもの、彼は大いに仕事に励んでいた、それももっぱら夜に。彼は、最近の文学に見られる若干の潮流に関する論集を出そうと考えていた。机の上にはアンダーラインだらけの本が山と積まれていた。
 最初の文学的創作での失敗の後、ズィヤ・シュクルティはずっと長いこと批評の只中に放り込まれていた。だがその中でも彼はうまくいかなかった。彼の論考については、それは退屈なソヴィエト式論考を社会主義リアリズムに置き換えただけだと言われていた。長々と続いた懶惰の末、ズィヤ・シュクルティは再び息を吹き返した。モスクワ会議をめぐる噂の直後、国際修正主義に反対する最初の論文が発表された時、彼はまさしく自分にふさわしい時が来たと感じた。自分こそが誤れる諸潮流について声を上げることができる、忍耐強く散文韻文の数百ページをめくり、イデオロギー的にそうであると認められる種々様々な誤謬を撃ち、そうして、まさに望ましい瞬間に、現状に対して警鐘を鳴らすことができるのだと。ズィヤ・シュクルティはありとあらゆることを考えていた。他の作家たちへの疑念が増すほどに、彼自身が誤謬に対する警告者であり、理念における純粋さの旗手であることが際立ってくるのだ。[訳註;旧版ではここに「そのためには事例を集める必要があったが、それは更に困難なことだった」との一文がある]一般に文学には激しく戦闘的な面があり、そして様々な作家の本の中に彼が探し求めるそうした誤謬が見つかるのは、かなり難しいことだった。それでも彼は見つけ出そうとした。彼が見つけたのは文学論考を含む中国の[訳註;初版でも「中国の」だが、その後の版では「外国の」となっている]二冊の出版物で、彼はそれらを注意深く研究した。「我らのもとに秋は無し」という詩を書いた作家のような文学者を攻撃するのは難しくない、それはソヴィエトの猿まねとして知られていたからだ。
[訳註;この作品名は初版でも最新版でも「我らのもとに秋は無し(Tek ne s’ka vjeshtë)」だが、初版ではイニシャルのみとはいえ“R.C.”という作者名も書かれている。実際そういう題名の詩をめぐって論争があったらしい。しかし途中の版では「輝ける幸運(Lumturia e ndritur)」と作品名が書き換えられている]全ての問題はその他の作家たちにもあって、彼らの存在がずっと前から人生の喜びをぶち壊しにしていた。ズィヤ・シュクルティは溜め息をついた。生い茂る嫉妬の棘が彼の全身を容赦なく貫くのを感じた。それらは生きているように脈打っていた。時折まどろんでいたが、しかしそれは蛇の眠りに過ぎなかった。荘厳の間も、総会用の赤いクロスも、作家クラブに漂うタバコの煙も、劇場の幕も、拍手も、女たちの美しく整えた髪も、この世を甘く覆い尽くす小さな滝も、それらの全てが眠りから嫉妬を呼び覚ますのだ。
 彼はタバコに火をつけた。そのないまぜになった中で、今までにないほど、時間は彼のために働いていた。彼の思考の中で、夢想の切れ端が宙を舞い降りた:彼の名前が報道で、創作上の討論で何度も何度も取り上げられて、外国旅行に、それにきっと・・・そうだそうに決まってる、たぶん・・・いずれは議会に、そして中央委員候補に・・・

 その下の階では、別の人物が、この時間になってもまだ仕事机に向かっていた。その人物は頬杖をついたまま、煙に包まれていた。机の上には、ひどく不規則に書き殴った文字だらけの紙が散らばっていて、そこに読み取れるのは最初の一行目だけで、どのページにも同じことが繰り返され、アンダーラインが引かれていた:「コバルトの記録」、「コバルトの記録」
 その医者は滅入っていた。やっと初めの部分を終えたばかりだというのに、小説はすっかり五里霧中のように思われた。おまけに、そこに埋め尽くされていたのは多くの数字やデータや名前や、[訳註;癌治療用のコバルトの]照射直前の、照射中の、そして照射後の患者の言葉の再生産、親族らの言葉、電話口での不安に満ちた問いかけ、頻々として起きる装置の故障、治療の終結、死亡。この最後のものこそ、他の何にもまして医者を悩ませるのだった。関係者の65パーセントが死ぬような仕事というものがあり得るだろうか、と彼は自問した。あなたがやってるのは頽廃的な仕事よ、と妻が言っていた。それならそれで結構だ。実際はどうなのか、彼にはそんなことはよくわからなかったし、とはいえ自分の仕事が不幸を呼ぶものだなどとは、ましてや退廃的だなどとは、思いたくもなかった。小説の初めの部分を発表することには決めていたが、しかし雑誌「11月」[訳註;原語“Nentori”は作家芸術家同盟が発行していた月刊文芸誌の名]の編集部に持って行く前に、上の階に住んでいるご近所さんで、文芸批評家のズィヤ・シュクルティに一度見せてみようと考えていた。あの批評家なら何にせよ文化人だし、寛大な人物だ、だから文学の初心者である自分がイデオロギー的な誤りのある小説を書いていたとしても、悪くとるようなことはあるまい、医者はそう考えていた。

「何ラウンド目だいこれは?」と訊ねながら客の一人が隅の方に寄っていくと、そこでは五、六人ほどがテレビのボクシングを目で追っていた。
「第四ラウンドさ」
「フリードリヒ・エンゲルス」通り第1棟141番のアパートの三つある部屋と廊下とキッチンには、集まった人々の声と、マグネトフォンの鳴る音、そして踊る人々の足音が溢れていた。部屋の隅に並べて置かれた椅子には数人の客が座って小声で何か話しており、妻たちは震えるような声で、うっすらと目を閉じたまま「モスクワ郊外の夜」[訳註;恐らく“Подмосковные вечера”(1955年)のこと。日本でも倍賞千恵子や加藤登紀子がカヴァーしている]を口ずさんでいた。まだテーブルで飲んでいる者たちもいて、そういう場合にロシア人がするように首を振りながら、おそらくペトリトという名であろう誰かに向かってこう言っていた:ダヴァイ、ペーチャ。[訳註;ペトリトPetritはアルバニア人の男性名で、ロシア語のピョートルПётрに相当する。ピョートルの愛称はペーチャПетя。その後の言葉もそのままロシア語で“Давай, Петя!”(さあ乾杯だ、ペーチャ)]
 彼らの一部はソヴィエト連邦に留学していて、ロシア人女性と結婚した者たちもいたし、ソヴィエトの生活習慣にも馴染んでいたから、夕べに集まった時には、彼らの間で「ソユーズ」と呼ぶロシアの思い出を語るのを楽しみにしていた。
「結局、完全な破局ということなんだろうか?」客の一人が傍らにいた相手に訊ねた。相手は自分の爪を長いこと見つめていた。
 ここのところ毎晩、彼らは理由をつけては、或いは理由がなくても互いのもとに赴き、そして何処ででも、午後や夕べに、おおむねこういう問いを発していた:完全な破局になるだろうか?私はそうならないと思う、と誰かの返事。自分もそう思う。我々はソヴィエト連邦なくして一日たりとも生きていけない、一時間たりとも。それからモスクワの、レニングラートの、キエフの際限ない思い出話が続いた。溜め息、哲学じみた語り。ロシアの精神。アンナ・カレーニナ。他の言語でもナターシャ・ロストヴァやエヴゲニー・オネーギンを味わうことができるのかという問い。[訳註;前者はトルストイ『戦争と平和』の登場人物、後者はプーシキンの同名小説の主人公]それからロシア或いはソヴィエトの歌、うつろう視線、そして不意に、酔いから醒めたような問いかけ:だがもし我々が抵抗し続けたら?もしそうだとしたら?あり得ない。彼らは我々を封鎖で追い込んでくるだろう。封鎖だって?ロシア人がそんなことをするわけがないだろう。たぶんイギリス人と間違えているんじゃないか。フルシチョフはチャーチルじゃないぞ。信用貸付はどうだ?ああ、信用貸付だの、小麦だのと、それもこれも経済問題じゃないか、何とかなるさ。小麦の何袋かで破局なんてあるものか。まあ俺は君と同意見だがね、問題は小麦の件じゃないと思うね。そこにはもっと深い原因があるんだ。小麦は亀裂を促したが、それは小麦の件がなくてもそうなっただろうさ。まあ何にせよ、ロシアの精神は・・・そしてまた広大なロシアの精神をめぐる終わりのない言葉、草原や、ヴォルガや、更にバイカルの歌。そして再びの希望。たぶん何も起こらないだろう。きっと理解されるだろう。ほら、新聞にもまだ何も出ていない。一般的な理論面での記事が何本かあるだけだ。だが理論面での論考をめぐって対立するってことはないだろうか?それはあるだろうがね君、どうにかなる、どうにかなることさ。ところが突然、一人が、モスクワやプラハから学生が大勢帰国したと耳にしたことを思い出すのだ。学生たちが帰国?いや何を驚いてるんだ?もう二百人は戻って来てるぞ。まだ帰ってくるはずだ。そんなことがあるものか。いや俺はこの目で見たんだ。冬休みで帰ってきたんだろう。何だいその冬休みってのは?冬休みなんて今まで一度も聞いたことがないぞ。だったら、ロシアの冬から逃げてきたってことか?おいおいロシアの冬なんか思い出させるなよ。雪のトロイカに・・・馬の鈴に、ええと・・・すると誰かがまた言うのだ、自分達は中国人と付き合うことになるだろうと聞いたことを。中国人とだって?ハハハ、何をおかしなことを言うかと思ったら!何がおかしなことだ?あいつらは世界の果ての連中じゃないか。いいかね、小さき民というのはなるべく国境から離れたところに友人を選ぶものなんだよ。何だその理屈は?初めて聞いたぞ、まあいいや、頼むよ、続けてくれ、面白いから。そこは俺ならこう言うな:よき友は遠方にあり。茶番だ、何もかも茶番だ。[訳註:「茶番」と訳した原語profkeの原義は水鉄砲だが、ここでは「無意味な嘘、くだらない嘘」の比喩]俺たちがソヴィエト連邦と別れるわけがない、あり得ない。ソヴィエト連邦なしじゃ俺たちは何もできないぞ、おい聞いてるか?一日だって、一時間だってな。こういう格言を知ってるかい:泉と喧嘩しておいて水なしでいられるかってな?まあ聞いたことあるよな、ハハハ。そしてまた再びの希望、うなづき:そうとも、そうとも、何も変わりはしないともさ。そうさ、戻ってきた学生たちだって、分厚い冬用コートを着てきたわけじゃない。そりゃつまり、彼らはまた行くだろうってことさ。勿論だとも、勿論だとも・・・そしてまた、悪循環のように、冬と、プーシキンと、寒波をめぐる溜め息と、そこから郷愁と、むなしい問いかけと、憶測と、不安と、悲哀と、そしてそれらはやがて、地を這うような歌声の流れへと帰結していくのだった。
「そら、こういう緊張にはドラマがつきものだよ」とテレビでボクシングを見ていたうちの一人が、その一団の中に居合わせて、生まれて初めてボクシングを目にしている、かの『我らのもとに秋は無し』という詩の作者に向かってそう言った。
 ブラウン管の画像はたびたび映りが悪くなり、ボクサー二人は粉雪の中、大いなる孤独[訳註:ここで、作品名にもある「大いなる孤独(vetmi e madhe)」が出てくる]の中にいるように見えた。二人は互いに、ゆっくりと、荒々しく殴り合っていた。世界チャンピオンは左の眉に傷があったが、それでも全ラウンド中、休みなく攻撃し続けていた。
「あばらをやられたな」誰かが言った。「ひと息つきたいだろうよ」
 確かに、相手の方は息をするのも苦しそうだった。こういう緊張か、と、かの詩『我らのもとに秋は無し』の作者は悲しい気分で思った。彼の痩せた頬は近頃ますます痩せこけていた。二週間前、作家クラブでの激しい対立の間も、彼は、紛争の不在という理論を擁護し続けた。彼は数年前の二度に及ぶソヴィエト連邦訪問でそのことを知り、それをアルバニアで広めようと、持てる限りを尽くした。今、もしもその破局が避けられないものであるなら、こうした理論[訳註;要するに「アルバニアとソ連の間に対立など起きていない」という理屈]は、彼の作品もろとも吹き飛んでしまうだろう。
「もうダウンする、ダウンするわよ、あっ」 試合を見ようと近付いてきた、ただ一人の若い娘が、ひときわ大きな声で叫んだ。
 挑戦者は今やロープ際だった。彼はあばらを守ろうと身をかがめていたが、チャンピオンの拳は、下方から異常なまでの飛躍と共に、再び挑戦者の顎に命中した。挑戦者は膝から崩れ落ちたが、やっとのことでロープにしがみついた。審判が間に入って、腕を上げカウントし出した。
「何てひどい」娘は泣きそうになっていた。
 審判はカウントしている、ワン、ツー、スリー、フォー・・・

「ノックダウンの時か」と作家スカンデル・ベルメマは、ボクシングの試合を独り見ながらそう思った。それは、「ノックダウン」という言葉が読者大衆にとって実に馴染みのあるものであるが故に、素晴らしい題名になりそうだった、
 審判はカウントしている、ファイブ、シックス、セブン。
 挑戦者は、片腕でロープにもたれたままだった。その視線はうつろで、まるで彼が全くの偶然でその場に居合わせてでもいるかのようだった。
 ノックダウンの時代か、とスカンデル・ベルメマはまたも思った。世界のありとあらゆるものは攻撃と反撃だ、攻撃と反撃と、そしてその間には僅かな時間、ごく僅かな休息の時間、「ノックダウンの時」があるのだ。
 その時も終わった。審判は試合再開のサインを出し、チャンピオンは跳び上がり、そして再び挑戦者の前に立ち、挑戦者はグローブを顔のところまで上げた。チャンピオンの顔にはっきりと、皮肉に歪んだ笑みが浮かんだ。チャンピオンは打った、一回、二回、まるで何気ない風で、グローブの上へと、それから不意に打撃の頻度が増し、雨あられと降り注いだ。もうダウンするだろうな、作家は思った。挑戦者は全身を縮こまらせ、もはや何の反撃も行わず、ただいくらかの攻撃だけでもよけようと、左へ右へと身体を動かすだけだった。チャンピオンは、まるで相手に最後の一撃を与えようとでもするかのように、先ほどにもまして腕を伸ばし出したが、しかしまさにそんな展開の最中に、挑戦者がはっと我に返ると、チャンピオンの左眉の、傷のあるまさにその場所に打ち込んだ。チャンピオンの顔は苦痛に歪んだ。挑戦者はロープ際から離れて、二度三度と攻撃した。信じられません、とアナウンサーが叫んで、そしてしばらく沈黙が続いた。今や両者は再びリングの中央で打ち合っていた。画面の映りがまた悪くなったが、今度は一緒に声も小さくなり、広間の喧騒のせいもあって、ボクサーの身体も遠ざかり、まるで音のない平原で、誰からも忘れられ、孤独に戦っているかのようだった。
 その間ずっとスカンデル・ベルメマは小説について考えていた、いや正確にはその骨組みについて考えていた:あちこちの出だし、筋の運び、そしてとりわけ終わりのないつぶやき、それが海鳴りのように、出来事と共に回っていた。彼は作品の冒頭について何度も、また何度も思いを巡らせたが、不思議なことにそれを気に入れば入るほど、彼は不安にかられるのだった。汝、ロザファの城壁を築く職人よ、しばし工具を置き手を休めよ、墓場から起き上がったコンスタンディンよ、馬を止め、ひとしきり休まれよ、婚礼の行列よ、隊商よ、民衆が声高に語る噂話よ、俺が歌うのを手伝ってくれ。[訳註;ロザファについてはカダレ『三本アーチの橋』を、コンスタンディンについては同じく『誰がドルンチナを連れ戻したか』を参照。ただし前者は邦訳なし]
 彼は書斎の中を歩き回っていたが、不意に立ち止まった。彼が呼び出した者たちも皆それに従ったような気がした:石工たちよ、死者よ、婚礼の行列よ、舞踊よ、そして彼はまた身を震わせた。それらは全てまとまってひとかたまりになり、待ち受けていた:我々は待っているぞ、何が起こったのかを聞くためにな!
 確かに彼には何が起こっているのかわかっていなかった・・・事態は秘密裡に、神秘的なままで進行し、一つ一つが彼の思考によって解きほぐされていくのだった。そこにはただ、人々の噂話という身体があって、コーラスのように包み込んでいるのだが、いつも魂が欠けていた。灰皿は冷たくなったタバコの吸い殻で一杯になっていた。
 彼はその場に立ち止まり、薄く目を閉じた。ベスニク・ストルガか、と彼は思った。自分の小説の魂は、あいつにこそある。
 スカンデル・ベルメマは書斎の扉を開けた。あいつだけが、と彼は思った。音を立てないようにしながら、衣装ダンスからコートを取り出し、それを着て外へ出た。
 外はひどく寒かった。いつもの足取りで、ストルガ家のアパートへ続く通りを、彼は信じがたいほどの速さで歩いた。
 ドアを開けたベスニクの頭に浮かんだのは、スカンデル・ベルメマが、ザナとの例の喧嘩の後で、仲裁に入ろうとやってきたのではないかということだったので、ひどく唐突な感覚になった。この人とだけは、こういう話はしたくないものだと彼は思っていた。
 スカンデル・ベルメマの表情は、夜露に濡れて重くなった髪と相俟って凄みのあるようで、それでいて奇妙な風にも見えた。何だってこの人に家庭の問題に入り込んで来る必要があるのだろう、とベスニクは思った。
「何のご用ですか?」ベスニクは訊ねた。
 相手はこんな遅い時間に来たことを詫びようともしなかった。スカンデル・ベルメマはベスニクの部屋に入ると、その場に立ったまま腕組みをした。ベスニクは今まで一度だってこんな態度に出くわしたことがなかった。こいつら誰もかれもがどうかしてるな、とベスニクはザナの親族について思ったが、加えて何となく、スカンデル・ベルメマもその一人だなと思った
 スカンデル・ベルメマのがっしりした顎が、やっと動いた。
「ベスニク・ストルガ」彼は言った。「聞けよ」
ベスニクはこめかみに憤りの波が立ち上がるのを感じた。自分と婚約者との関係についてこの人がこんな口調で話す権利が何処にあるのだ、それもこんな時間に。
「その前にまず・・・」ベスニクが言った。
「うるさい邪魔しないでくれ」スカンデル・ベルメマが言った。その両眼は熱をおびたように燃え上がっていた。
「ベスニク、君は、もう昔の君じゃないんだ」
 うんざりするような語り出しをするものだ、とベスニクは思った。
「いいか、たとえ君が望んだって、もう昔の君ではいられない、何故なら、君にはそうなる資格がないんだからな」突然の来訪者はそう言った。
 ベスニクは相手から視線を外さなかった。
「君はあの時モスクワにいた、つまり君が望もうと望むまいと、君は君自身の中に蓄積される不安と、光と、大いなる亀裂と直面せざるを得なくなったのだ。それが君の手に余るというなら、自分を変えることだな!自分が望む自分に戻ることだよ、だが時代が君に委ねたものを無に帰してしまうようなことはするなよ。君に対して我々は皆望んでいるんだ、我々がいない場所で起きたことについて君が語ってくれることを。運命は君を史官たらんと、証人たらんと、使者たらんと選んだのだ、そして中世から災厄の知らせを、しかし救いの知らせをも伝えてくれることをな」
 ベスニクは聞きながら呆気に取られていた。スカンデル・ベルメマにとっては、それが切羽詰まった[訳註;原語は「自分の喉に手をかけようとしている」]ことに思えているらしい。だがそれなら、こう訊きさえすればいい:何があったんだ、向こうで、モスクワで?それが災いだと言う者もいるし、運命だと言う者もいる。君は迷宮の中心にいたんだろう:教えてくれよ![訳註:この発話は決定版のみ]
 だがすぐに、そういう質問をするにはまだ早いんだなとベスニクは思った。
「その出来事はアルバニアの全てを変えてしまうだろう」スカンデル・ベルメマはまだ喋っていた。「我々全員をだ、歴史全体をだ、いやそれどころか、死者までもだ。君はその前まで何だった?私は君に言ってやるぞ、君が何者だったのかを:ただの娘婿だ」[訳註;ここで「娘婿」と訳した原語dhendërには「婚約した若い男」「結婚した若い男」の他、「若造、お坊ちゃん」という意味もある]
 彼は右手で、理解不可能なしぐさをしてみせた。
「なのに今は・・・いやそれはともかく、いずれまた詳しく話そうじゃないか。おやすみ!」
 そしてさっき入ってきた時と同じ勢いで彼は再び出て行った。
「おやすみなさい!」ベスニクは言った。
相手が階段を降りる足音と、ドアがきしんで閉まる音が聞こえた。
 娘婿か、とベスニクは思いつつ、皮肉な笑みを浮かべた。ただの娘婿にはなるまいとあらゆることをやってきたのに、ザナはわかってくれなかった。俺にじゃなくて、彼女に、あんたの女房の姪にだ、彼女に会って行ってくれよ、残ったのはただ花嫁ばかりだとな、ベスニクはそう思った。
 彼は灯りを消してベッドに横になったが、これっぽっちも眠れなかった。昼も夜も婚礼を夢見る花嫁か、と彼は思った。そして周りには何も見えず、何も聞こえない。
 そこから二百歩ばかり離れたところで、スカンデル・ベルメマは思った:彼は本当に知らなかったのではないか?確かに彼は向こうに、謎の只中にいた、しかしどうやら彼の耳はふさがれ、目は曇らされていたらしい。[訳註:この段落も決定版のみ]

 スカンデル・ベルメマが早足かつ大股で深夜の路上を駆け抜け[訳註:原語は「道路をひと呑みにし」]ていた頃、或る社会主義国の大使館のテラスからラジオ受信機のアンテナが暗号化された無線通信を放っていた。全ての暗号が文字に置き換えられるのと同様、それは荒れ狂った馬鹿がどもりながら喋っているようだった、ヅェー0028ブルズ クラー919ウフー1031クルムウフー33チョル シラムン ヅェーヘヘヘ[訳註:原語はx0028 blz krah 919 uhh 1031 krm uuh 33 qor shilamun X he he he]大陸全土が暴風と豪雨の悪天候に見舞われていたが、暗号はその混沌の中に、確かな道を見出していた。
 スカンデル・ベルメマが自宅の近くまでやって来た時、町の大時計は真夜中を告げていた。首都の人口の三分の二以上が眠っていた。独立広場4番の建物の1階では、その眠っている中の一人が、夢の中で、映画館のようなコンサート会場のような、舞台上に誰もいないホールを見ていた。ホール内は満席だった。彼はそこで一人の娘と共に、互いの手を、満足というよりは、苦痛に満ちて握り合っていた。不意に娘が叫んだ:あなた私の服破ったでしょ!二人は立ち上がると、外へ飛び出した。町の広場は薄暗く、まるでひと気がなかった。娘はその場に、服を引き裂かれ、殆ど裸に近い格好のままで立っていた。その叫び声は、広場の隅から隅まで聞こえたらしかった。何かが動いた。誰かが目を覚ました。いや、あれは作家同盟[訳註;旧版では「音楽家同盟」]の議長で、レイトショーから馬車で帰るところだった、それも旧式の。広場の中を通り過ぎながら、彼は灯りをつけていった。さあ帰ろう、彼[訳註;夢を見ている男]は娘にそう言った、ここから出よう。そして声を上げた:おい広場の灯りを消していけよ!
「灯りをつけたのはB同志だ」誰だか見知らぬ人物がそう言った。
 彼は身を起こした。広場は活気を取り戻しつつあった。人々があちらこちらで、到るところから姿を現していた。彼は眠たげな、まだまばらな人々の中に放り込まれた。人々は彼が、その服の破れた娘に叫び声を上げさせた張本人だと、果たしてわかっていたのだろうか?
 広場に直接面していて、彼が数年来働いている庁舎の建物の、上階の窓の二、三箇所に灯りがついている。
「B同志、それでは直ちにこの案件を調査してくれたまえ」何人かの声がした。
 彼は顔を上げた。窓には確かに灯りがついていた。自分だということをわかってもらえるだろうか?広場の人々はかすかに、互いに揺れ動いていた。何処にそんな時間があるんだ、人々はそう言って、不満げに首を振った。何処にそんな時間があるんだ、今この封鎖の中で。

 二人はずっと殴り合っていた。画面には分厚く垂れ込める霧、雪、薄暗い場内から雷鳴のような響きをもたらす酷寒。混沌の中に、時にゆっくりと、時に荒々しく、戦いに疲れきった腕が動いていた。ボクサー二人の顔は腫れ上がり、目はふさがり、唇もまぶたも傷だらけだった。
「何と激しい試合だろう」
「フリードリヒ・エンゲルス」通り141番のアパートで、客の一人はつぶやいた。
 広間では女たちと、数人の男たちが互いに寄り添い、もう十回目ぐらいかの「モスクワ郊外の夜」を唄っていた。熱唱は絶頂に達していた。彼らは己を忘れていた。もはや個々の声もなく、衣服も、骨も、肉もなかった;全てが一つになり、一本の川の奔流となり、その表面をぎらぎらとした油のように、失われしものへの想い、追憶、恋愛の顚末、泥のように堆積した文や言葉、痛みの残根が流れていく。それら全ての中から、繰り返される無用な歴史の全体が形作られるのだ。
 歌から始まるそんな歴史が、果たして歌で終わるなどということがあるのだろうか?窓際に立っていた客の一人は自問した。いやあり得ない、彼はそう思った。彼の視線は幾度か、唄っている男たちに注がれた。
 お前は自分が何者かわかっているのか、彼はそう思いつつ、独り語りを始めた、それはずっと前から頭の中でこしらえていたのだが、つい今の今まではっきりと口にするに至らなかったものだった。お前たちは自分らが何者なのか、わかっているのか?と。
 歌を唄っているのは、目をとろんとさせた浅黒い男で、彼とは人文学部の学科の同僚だった。三か月前、自分の最近の研究について話していた時、今唄っているその男はこう言ったものだ:いい研究だよ、だがどうだろうね君、うちではこういうのは発表できないんだよ。わかってくれたまえ、うちでは・・・何故だ、そう彼は相手に言った。何故うちじゃ出来ないんだ?何なんだ俺たちは?と。しかし、まあまあ貴殿はと相手に返されて、それで会話はおしまいになった。
 今唄っているその相手を見ながら、彼は深い軽蔑の念を覚えた。
 わかっているのか、何なんだお前たちは?彼はずっと思っていた。お前たちは魂で隷従しているのだ。自分たちの鎖が見えないのか?俺には見えるぞ、お前たちの耳も、唇も、全身の至るところ繋がれているじゃないか。それは悲しげにガチャガチャと音を立て、ジャラジャラと響き、ゴロゴロと鳴っているのだ、俺たちの耳をつんざく、俺たちの耳をつんざくほどに。俺たちは大いなる自由のために戦い、殺され、引き裂かれ、そうしてそれを勝ち取った、それなのにお前たちにはそれが見えていないんだな。何処にあるんだと、そうお前たちは言うんだ、何処にあるんだ?と。この盲目どもめ。それは何処にだってあるのに、お前たちときたら盲目のままだ。お前たちは幾らかの特権を手に入れて、今はそれらを失うのではないかとびくびくしている。それらの特権と引き換えにお前たちは、自分たちの自由を明け渡してしまった。だがそのことはまだ些細な不幸だ、それらの特権と引き換えにお前たちはみんなの自由まで明け渡す支度をしてしまった・・・おお、広大なる大地よ、ロシアの草原よ、俺はお前の・・・疾走するトロイカの物語と・・・チモフェーエフ[訳註;Леонид Иванович Тимофеевはソ連の文芸評論家]の美学の教科書の受け売りと・・・社会主義リアリズムの五項目と・・・「ノーヴィ・プーチ」[訳註;原文はロシア語“Новый Путь”(新しい道、新路線)]のコルホーズと・・・ノーヴィ・ム[訳註;原文も“m”で途切れている。“Новый Мир”(新世界)か?]・・・そしていにしえの鐘と[訳註:旧版ではこの間にプーシキンやマヤコフスキーの話や、ロシア文学とソヴェト人民に愛着はあるがロシアかぶれの連中にはヘドが出るだとか、ロシア語の綴りの話や、リヒテンシュタインと超大国など、もう少しいろいろ書かれている]:俺たちにこんなものはない、俺たちにはあり得ない、向こうにならば、ある、だが俺たちのところには・・・ああ、俺たちのところにはない。だが何故ないんだ?何故ないんだ、お前たちに言ってやろう。何なんだ我々は?俺たちにあいつらより少しでも優れているところは本当にないのか?と。だがお前たちにはそういう風に見えているんだろう、何故ならお前たちは、何処にでも自由があるのだということを信じていないのだから。お前たちが信じているのはお前たちの隷従だけだ。この盲目どもめ。革命の自由に目をつぶりながら、お前たちにはそれを摑み取る力すらない。それはお前たちからすれば計り知れない規模のものであり、第六感であり、無限のごとく摑みどころのない、徹頭徹尾厄介なもので、そしてそれ故に、意識の根底でお前たちはそれに憎しみを抱いている。奴隷どもめ。今や状況は深刻だ、さあお前たちよ、一体どうするんだ?お前たちは唄っている。何も話さないように唄っている。お前たちは怖いんだな。お前たちは、いつか雷鳴のごとき声で訊ねられる日が来ると思っているんだ:世界に激震が走った時[訳註;アルバニアとソ連の対立が表面化したことを指す]、お前たちは何をしていた?お前たちは何処にいた?するとお前たちはこう答えるだろう:私たちは何も知らなかったんです、私たちは唄っていたんです。

 その夜。松の木通り57番。郵便局通りとバイロン卿通りと、そして連盟広場との交差点を思い浮かべる人物がいた。それらの通りの何処にも、こんな真夜中では人通りも途絶えていた。一日中そこでは何百回とおはよう、こんにちは、おやすみ、こんばんは、また明日と言っているのだ、とその人物はベッドに横たわり、うなじに手を回したまま、57番の住宅の1階の、冷え切った部屋の中で考えていた。カールして赤みがかった髪の毛と、血の気の薄いざらざらの頬が、顔つきの鋭さを更に強調していた。人々はひっきりなしにおはよう、おやすみ、等と言っている、まるで夜も朝も晩も昼も良いものにはならないと知っていて、過酷な運命をやわらげる救いにでもしているかのようだ、と彼は思った。
[訳註;ここで「おはよう」「こんにちは」「おやすみ」「こんばんは」と訳したアルバニア語“mirëmëngjes”“mirëdita”“natën e mir딓mirëmbrëma”はそれぞれ英語の“good morning”“good day”“good night”“good evening”に相当し、「良い」という意味の形容詞が含まれている。「また明日」と訳した挨拶は“ditën e mirë”で、これも英語の“good day”に相当するが、形容詞と名詞の順番が異なり(前者は「形容詞+名詞」、後者は「名詞+形容詞」)、主に別れの挨拶として用いられる。なお、“ditën e mirë”はコソヴァで使われることの多い表現だが、アルバニアでも言うことはある。最も一般的な「さようなら」は“mirupafshim”で、直訳すると「また会えますように」]
 長いこと塗り直されていないままの屋根は、石灰がひびだらけになっていた。
 連盟広場こそ流血沙汰を始めるのに最もふさわしい、彼はそう思った。歩道の両側ではうろうろと歩く人々の頭がぶつかり、商店の、そのガラス窓が粉々に砕け散って最初の弾丸の雨あられとなる、そこにある全てが、まさしく流血沙汰のために作られているようなものだ。きっとあの広場を作った建築家は、このことを予見していたに違いない。きっとそうだ、自分のように落ちぶれた階級の人間だったに違いない、とその人物はベッドに横たわったまま考えていた。
 彼は何年も前から、自分の頭の中で、復讐を練っていた。しかしその想像はずっと今まで余りにもぼんやりとしていて、広がりもなければ、名前も数字もなかった。それはむしろ一つの夢想であり、彼にとっての性的妄想にも似ていた。ところが、ふた月前、社会主義陣営の亀裂について彼が初めて耳にしたあの時から、秩序転覆という考えが突如としてにじり寄ってきた。あの日から、彼の夢想に向かって急速に、数字や名前が駆け寄ってきたのだ、まるで地上の蠅どもが野を越えて、一匹の死にかけた昆虫へと向かっていくように。
 彼は手始めに、連盟広場から半死半生の連中を引きずり出すことについて考えた。あらゆる虐殺のメインテーマとして市中引き回しはつきものだ。それはたぶん、彼が首都殺戮に最初に着手した数週間前から頭の中に思い浮かべていたのだろう。ティラナで最も大きな商家の一人息子として生まれ、パルティザンに財産を没収され父親を処刑された彼は、ありとあらゆる職種で重要な仕事を求めて回った末、二年前から食肉運搬車の運転士に落ち着いている。昼も夜も、プレートナンバーTR 17-55の赤いトラックで肉を運び、それを背中に担ぎ、持ち上げ、下に降ろし、地面に放り投げ、引きずり回し、その肉のせいで血だらけになっているうち、どうやら彼の中に、人間の身体を引きずり回すという発想が生まれたらしい。毎晩、最後のニュースを聴いてから、彼は虐殺の草案に手を加え、完全なものへと仕上げていった。
 休みなくノックされる、何百回、何百回と、党の委員会のメンバーの、閣僚たちの、党中央委員の、新聞記者たちの、内務省や警察署の職員の、社会主義労働女性英雄たちの、更にその他の、その他の人々の部屋のドアがノックされる、それから、処刑され、切り刻まれ、ばらばらにされ、死にかけの、或いはまだ生きている身体の引き回しが始まることになる。引き回しは綿密な計算にもとづき、手順を定めた上で、党や国家や社会生活での序列に沿って行われることになる。いかなる混乱も許さない、例えば女性同盟[訳註;社会主義時代のアルバニア女性同盟(BGSH)]の平会員が広い大通りで引きずり回されたり、或いは逆に、国家の重要人物がバイロン卿通りのような二流の路上で引きずり回されたりすることは許さない。あらゆることが正確に決定され、虐殺は規則正しくなければならない、過剰な情熱もあってはならないが、情熱の欠如もあってはならない、個人的な感情の発露があってはならないが、同時にまた、慈悲もあってはならない。勿論、引き回しにかける時間の長さには例外もあり得る。人によっては様々な理由で、時間が長引いたり、短縮されたり、或いは変更されることもあり得る。そう例えば、警察署や内務省や高等裁判所の職員、要するに、プロレタリアート独裁と名のつくものを作り出した連中には皆、おまけが付いてくるだろう、それこそ彼がこの世の何よりも憎むものだったからだ。自分の父の処刑のことで野蛮な小説を書いた作家スカンデル・ベルメマにも、同様に追加の手順が行われるだろう。髪の毛をつかんでバイロン卿通りを、あいつのランクにはお似合いの通りの上を引きずり回すのだ、そこでは作家や芸術家がまとめて血祭りにあげられるだろう、連中の間でごたごたがあるかも知れないがそれはどうでもいい、それで、バイロン卿通りを出たところであいつの遺体に、あいつの小説のページをびりびりに引き裂いたのを胸に釘づけにして、それをずるずる大通りまで引きずっていくのだ。
 大通りでヴァイオリンを弾くのはマルク・クリュエクルトだ(どの通りでも、流血の後にはヴァイオリンを弾く者たちが決められているだろう。弾かない者は銃殺されることになる)。マルクはヴァイオリンを二回にわたって連続で演奏することになる。マルクとその家族は、毎年5月5日の殉国者の日、と或るパルティザンの墓の前に立ち、花輪を捧げていた。マルクはその花にずっと高額の対価を支払っているのかも知れない。そのパルティザンこそ、自分の父を銃殺した連中の一人なのかも知れない。きっとそうだ、殉国者たちの墓地には、父を処刑した連中の二人や三人がいるはずだ。彼にはそれが誰なのかはわからない。だから、機会さえあれば彼は全ての墓をひっかき回し、遺骨を引っ張り出し、それらをワイヤーで繋ぎ合わせ、一列にして、思うまま路上に並べてやるのだ。いやもう一つ別の案もあるな:殺したばかりの死体と遺骨をまぜこぜにしてくっつけてやるのだ。
 あいつらはいつも言っていたものだ、国に殉じた者たちは我らの中にあると。俺は、連中にそうした真の満足を与えてやろうというのだ。いやいやまだ最後に一つある:三つまとめてまぜこぜにしてやろう、骨と死体と、そして引き倒された銅像も一緒にだ。そうすれば、連中が常々口にしていた伝統との結びつきとやらが現実のものとなることだろう。こうした案は、一方では死体や骨について、また他方では銅像についても、その重量がまったく不均一であるということ故の、技術上の若干の問題を引き起こす。おそらく引きずり回している間にバラバラにちぎれてしまうだろう。結びつけるための紐として使っている女たちの毛髪どころか、手足までバラバラになってしまうかも知れない。
 彼はうなじの下からこわばった腕を抜くと、時計を見た。ちょうど深夜を回ったところだ。朝の三時には起きて肉の配達に取りかかることになっているが、最後のニュースを見ないで眠ることはできなかった。部屋にはテレビが一台きり、他には何もない。テレビをつけ、座って肘をつき、ブラウン管が明るくなるのを待った。まだボクシングの試合が続いていた。
 彼は再び横になり、うなじに腕を回して待った。

[訳註;旧版ではここに次のような文字列が並んでおり、仏語版全集でも同様だが、アルバニア語版全集及び決定版では削除されている;
Null 0137 frex eh 1752 qor bytin shenez, shenez 31 x 8 zi përsërit tekstin[テクスト繰り返し] qor bytin shnez shnez 31 x 8 zi all har ah all nul.]

 深夜を回っていた。首都の人口のほぼ全てが眠りについていたその頃、貨物列車743 AZ 09番は駅に近付きつつあった。機関車が、家禽類の鳴き叫ぶ声にも似た音を立てた。叫んでいるな、と機関士は思った。まるでその警笛を鳴らしたのが自分でないかのように。
 列車はドゥラスから引き返してくるところだった。ドゥラスから手ぶらで引き返してくる最初の列車だった。ドゥラスから引き返す空っぽの列車か、車輪の鳴り響くリズムの中で機関士はそう思った。空っぽで引き返す列車。引き返す列車。死せる列車。空っぽの列車。死せる列車。
 引き返せ。お前が運ぶものなどない。もの思いにふける機関士の表情は険しく、こうこうと輝く照明の下、それは語っていた:引き返せ、と。一方、駅員の一人はランタンを手に、風で掃き清められたプラットフォーム[訳注;逐語訳は「焦げついたプラットフォーム」。ここは仏訳・独訳に従った]を歩きながらこう言っていた:あばよ兄弟、社会主義国の船もみんな引き返したらしいぜ。
 列車はティラナ駅に入るところだった。と或る建物の六階の窓から一人、ずっと貨物駅の広大な敷地を見つめていた。何処までも続く車輌の列、まるで不眠で充血した目[訳註;逐語訳は「死んだ目」]のような赤い照明灯、前進したり後退したりを繰り返す冬の機関車、途切れ途切れに軋む叫び声;その何もかもに、病による苦痛があった。
 どうして何も喜びを感じないのだろう?彼は思った。国立図書館の研究員で、元は学校勤めの知識人で、晩婚の相手は職場の同僚で、子供はなし、そんな彼はずっと思っていた、権力の転覆の可能性を期待して、燃え上がるものがないなど、いや少なくとも歓喜もなしでいることなどあり得ないのにと。彼はもう何年も不満だった、まるでもやの中にいるようにではあるが、政権に対して。不満というよりもそれはむしろ、周囲で起こっるありとあらゆることに対する冷淡さだった。この冷淡さの、そのきっかけは彼の若い頃に知識人界隈で流行っていた反共プロパガンダに関わるものだったが、人民権力の下での年月の間に、日々の些細な不満(奉仕労働や会議等)や、外国の雑誌を読んだりラジオを聴いたりする中で培われ、年月の経過とともに色落ちして、彼の性格の一部と化していた。彼にとって、その冷淡さを失うことは尊厳の一部を失うことになるような気がずっとしていた。体制へのごく鈍重な反対者である彼にとって、共産主義の崩壊[訳註;一つ前の版では「体制の崩壊」]という可能性は、少なくとも彼の人生において一つの爽快な出来事となるような気がしていたのだ。ところがここ毎晩というもの、経済的な締め付けが喉元にまで迫っていると言われ、真っ黒な鋼鉄の重苦しい不安を窓越しに感じながら、彼はこれっぽっちも喜びを感じないばかりか、逆に奇妙なことに、悲しみがいや増してくるのを覚えるのだった。
 尼僧院が再開される、鐘が鳴り渡る、彼はそう思った。司教や商人たちが戻ってくる。彼らを待ち望む一抹の思いを抱きながら、そんな思いとは反対に、彼らが戻ってくる可能性に手が届くものとなる日が来るや、彼自身その、かつては身近にいたが今となっては何年も昔に死に絶えた人々のことを思って不安になるであろうことが、彼にはわかっているのだった。
 彼は機関車の、黒く、苦しそうな動きを見ながら、どんなやり方で時が、自分の心の中にその湿った空気を点々と振り落とすのだろうとあれこれ考えてみた。今この時まではずっと、時代が自分に門を閉ざしているとばかり思っていたのだが、その時代がまさに転機[訳註;原語piskは「結び目、つまみ」、転じて「中間、ピーク」]を迎えた今になって、彼は自分がその時代を望んでもいないし、少なくとも評価してすらいないことに気付いたのだ。駅から機関車の警笛が、鳥の鳴き声のように響いてきた。尼僧院が、商人たちが戻ってくる、硬直したようにそう繰り返し、彼は冷たいガラス窓に額を押し当てた。

「うう、寒いわね」アナ・クラスニチが、あくびを噛み殺しながら言った。「おやすみなさい、ヴィクトル、おやすみ、シュプレサ!」
「おやすみ!」相手の家族が答えた。
 アナは夫の手を取り、二人して早足で人通りのない通りを歩いていった。
「こんなに遅くなるはずじゃなかったんだが」と夫が言った。
 アナは何も言わなかった。通りの両側の大きな建物が黒々とそびえている。アナは顔を上げ、月も、星もない空を見た。何て真っ暗なのかしら、彼女は思った。なんにもない・・・夜中のこういう時刻には、アナは夜空の空っぽさについて、或いはそれに似た何かしらについて、誰かに満足げに話すのだった。
 だが夜空はそうでもなかった。大使館のテラスのラジオ受信機のアンテナは、その空へ向けて最後の暗号を送り続けていた:フル77クラ H 2 アー 2767 HX ズィ クラ クラ 15 ストップ。[訳註;原文は“hur 777 kra h 2 ah 2767 hx zi kra kra 15 stop”]

 1月15日。早朝。夜は明けそうにない。それでも、夜の体内には、妊婦の重い身体の中のように、灰色を帯びて転がるものを、くぐもった音を上げ、すすり泣かんばかりの苦痛を感じることができた。まだ数時間の新しい一日は、弱々しい赤ん坊であり、形もなく、ぼんやりとして、論理もない塊のままだった。霧と薄暗がりの中、あちこちから人々の、それもどういうわけだかひどく遅くなって帰宅したか、或いはもう家を出る足音が聞こえてくるのだった。それは夢遊病者にも似ていた。
 ヴラナ・コンティ通りの[訳註;旧版では「ヴラナ・コンティ通りとパリ・コミューン通りの」]交差点で誰かが誰かに話しかけていた:とうとう俺たちだけが残された、と。知ってるさ、と相手が答えた。今夜お前が俺にそれを言うのはもう四度目だぞ。
 四百メートル向こうの、旅団通りの左側歩道の38番住宅前の、薄暗がりの中で玄関先の輪郭がぼんやり見えている場所では、また別の声が相手にこう言っていた:見えるかブルジョアどもが?
[訳註;決定版では一方が一言しか喋っていないが、1973年の初版では次の通り;
別の声がこう言った。
「封鎖など大したことじゃない。俺たちがワルシャワ条約に入っていることを忘れるな」
「それくらいにしておけよ」と相手が、自分たちの声が誰かを起こさないかと気にするかのように言った。
「構うもんか。あのワルシャワだぞ」最初の声が言った。「あの二重のVだぞ、まるで船の碇みたいな」
「それくらいにしておけよ」相手が繰り返した。

一方、第二版は不明だが、1981年の第三版では次の通り;
別の声がこう言った。
「そら世界に夜が降りて来たぞ」
相手がメロディーに合わせて首を振りながら小声で唄った。
「霧を照らすランタンは何処だ」
「最後の最後に俺たちは再びパルティザンとして出るだろう」と最初の声が言った。
「俺たちは老共産主義者だ、そうだろう?今夜ストルガは何と言っていた?俺たちの根っ子を辿れば戦争だ、さらば我が母よ、俺はパルティザンに起つ、とな」相手が唄った。
「そらあいつらだ、見えるかブルジョアどもが?」と最初の声が言った。]

連盟広場から彼らの方に向かって、流行遅れのボルサリーノ帽と狐の襟巻を身に着けた楽しげな男女の一団がやって来るところだった。彼らは軽やかな笑い声と、これまた久しく忘れ去られていた香水の匂いを振りまいていった。
「あいつら活き活きしているな」最初の声がまた言った。それから少しして
「あいつらみんな集まってるな」と続けた。
「俺たちだってみんな集まってる」相手が言った。
「俺たちみんなして待っているんだ」
 左へ1キロ先、北西の方では、誰かが一人、今まさに共和国広場を渡ろうとしていた。彼は殆ど寝呆けていて、或る時は、広場は巨大なアメーバのようで、自分がその上を踏みつけようとしているような気がしたし、また或る時は、そこは十五世紀のようで、それがわけもわからないまま自分の前に広がっているような気がした。
 何処かの交差点では、覆いをかけたトラックが数台、続けて通り過ぎた。その中で一台の赤いトラックが走っていたが、ナンバープレートは薄暗がりのせいもあり、また泥はねのせいで、読み取ることができなかった。

7
 四日連続で雨が降っていた。それは均等な一本調子の雨で、閉ざされた空から流れ落ちていたが、空は地上すれすれまで垂れ込めていて、その空のせいで、高く伸びた煙突やアンテナの先端がねじれて押し潰されるかと思われるほどだった。
 百時間にわたって雨は、自然の全般的無関心さの中で降り続いた。何の電気的負荷も、何の雷の痕跡も、何処にも見当たらなかった。ただ四日目になって、その雨の大海に溺れるネズの木[訳註;原語dëllinjeはヒノキ科ビャクシン属の針葉樹を指す]の赤い枝のような、一本の稲妻が見えただけだった。

[訳註;この章は初版以降の旧版の内容の大部分が削除され、残った箇所も大幅に描き直されている。以下、決定版に拠る]
 新聞の印刷所は編集部の建物の隣にあって、内部の扉を通じて繋がっていた。家に帰る前にベスニクは、自分の書いたものが翌日の号に載っているかどうか確かめようと引き返してきた。
 組版工は不機嫌だった。一面の四十行分を空けておくようにとの指示があったばかりだという。
 四十行か、とベスニクは思った。一体何だろうか?ニュースか、重大な布告か?最初は少ない気もしたが、やがて充分だと思い、いやむしろ多いなという気になった。四十行あれば戦線布告だってできる。
 ベスニクは校正室へ向かったが、そこでも誰も何ひとつ知らなかった。
 ベスニクは「おやすみ!」と全員に言って部屋を出た。
 家へ向かう途中、習慣に反して、ベスニクの足はバー「クリミア」へ向けられた。そこはティラナ中でもこの時間に開いている唯一のバーだった。大抵の連中は立ったままコーヒーかコニャックを飲んでいた、互いに背を向け合っていた。ガラスで仕切られたカウンターの向こうの女性店員は、裁判官のように冷たく見えた。ベスニクは彼女のもの問いたげな視線を真向かいに感じて、右眉を上げると、申し訳なさそうな感じのする声でコニャックを注文した。彼女の視線は完全に氷のような冷たさのままだったので、多少弁解したい気分になり、こう言った:駄目か!
 ベスニクはコニャックをすすりながら、彼女と視線を合わせまいとした。この連中の何処に、針のような視線を向ける権利があるのだろう、たかが一つ欠点を見つけたぐらいで、とベスニクは思った。こんな深夜のバーで過ごしているのは、きっと誰も彼も皆、人生に翻弄された者ばかりに決まっている。例えば女と別れたか、それとも党から除名されたか、みんなそんなことを潜り抜けてきたに違いない。もう満足かよ、ベスニクはそうつぶやいたが、その言葉が見知らぬ店員に向けてのものか、それともザナに向けてのものなのか、自分でもよく分からなかった。あいつと別れただけで足りないのなら、あとは党から除名されるばかりだろう。ただ運だけで、土壇場で彼は踏みとどまることができていた。
 ベスニクはグラスを空けると通りへ出た。満足かよ、と彼は再び吐き捨て始めた、それも今や誰彼構わずに。まるで自分が国家の秘密を抱え込んででもいるような、まるで自分が信義に篤い、忠義ものである、とかそんなふりをしているような罪悪感にとらわれ、ずっと心をすり減らしてきた。誰もが彼に腹を立て、また羨望の念をも抱いていたが、そこには、数か月にわたってこの時代で最大級の好奇心が押し込められていて、そしてとうとう、自分はその代償を支払わされたのだ。彼は二つのものを失った:婚約者も、そして党も。
 家では殆ど押し黙って夕食をとった。それからベスニクは部屋に閉じこもった。これ以上に憂鬱な夜は想像しようもなかった。立ったまま、足元には蠟燭を置き、窓のそばで、眠りに就く時を、まるでそれが救いででもあるかのように待ち焦がれた。
 そっと肩に触られてベスニクは目覚めた。
「ベスニク」と言いながらミラが、彼の上に屈み込んでいた。眠気の中に、歯磨き粉の芳香が漂っていたが、それ以外はさっぱり分からなかった。
「ベスニク」ミラが繰り返した。
「新聞社から電話がかかってるんだけど」
「俺は今日休みだ」ベスニクは答えた。「放っといてくれ」
 ミラは再び受話器を取り上げた。
「兄は今日休みです」と言うミラの声は不安そうだった。
 しかし受話器の向こう側から聞こえる声は、どうも何か厳しいことを言っているらしく、ミラは眉をひそめた。急いでベスニクのところへ行き、強く揺さぶり出した。「起きて、ねえ起きなさいって」と苛立った調子で言われてようやくベスニクは毛布をはねのけ視線を上げたが、その目には生気がなかった。
「おいどういうつもりだよ」ベスニクは言った。
「でも車を寄こすからって」ミラが言った。
「車を?どうして?誰が?」
「何だかよくない話みたい、洪水がどうとか」
 ベスニクはもう何も言わなかった。起き上がり、受話器を取った。思考がはっきりしてきた。仕事に向かわなければならない。洪水の地域へ。カメラマン[訳註;旧版では「イリル」と名前で呼ばれている]と一緒に。
 なるほどそれで一面の四十行分空けておけということか、と彼は思った。
 キッチンではラボとストルガが朝の二杯目のコーヒーを飲んでいるところだった。ベニは工場へ出かけたのだろう。勤め始めてからというもの、ベニは前より顔色が悪くなっていた。
「コーヒー淹れようか?」ラボが言った。
ベスニクは『うん』と言うようにうなづいてみせた。
 ベスニクは、この数週間ザナが一度も来ず、電話もかけて来ない理由を両親が訊いてくるだろうと思っていた。しかし二人はそれについて一切訊いてこなかった。それはつまり、二人が訊きあぐねているということだろう。ただミラが或る日何の悪気もなく口にしたことはあった;ザナは何処にいるの?と。ミラは最近、綺麗になってきていた。恋をしているに違いない、ベスニクはそう思い、時折それについて考えを巡らせるのだった。

 身じろぎもせずどんよりとした空には、何かしら四十歳代のようなところがあった。遠くに見える六角形の大型石油タンクと、黒い輸送車輌と、そして時折鉄道の路線が、石炭の粉塵をかぶっている。その上に二本の信号灯がざらざらとした赤い光を放っていた。
 ラジオはずっと政府発表を繰り返していた。北部の大きい支流の一本が決壊したという。国中がこの不幸に立ち向かうべく立ち上がっていた。アナウンサーの声は重々しく苦痛に満ちていた。
[訳註;上の段落は旧版になく、洪水現場へ向かうベスニクとカメラマンのイリルが洪水の原因と外国人技師の一斉帰国との関係について会話したり、ベスニクがモスクワでのコスイギンとの会談を思い出したりしている]
 洪水地帯に近付くにつれて、移動はいよいよ困難なものとなった。すっかり泥だらけになった路上にトラックが立ち往生していた。あちこちで地面が水没していた。
[訳註;旧版ではここでイリルが「まるで戦争みたいだ」とつぶやいている]
 交通警察が何とかバイクで車列の間に割って入った。細長い足をした鳥たち[訳註;シギ等の渉禽類を指す]が、電柱や、或いは穴の空いた木の幹から、じっと見つめていた。
 数度の足止めの後、ようやく彼ら[訳註;ベスニクたちのこと]は小さな町に入ったが、そこは完全に泥だらけで、実際に洪水が起きたのもその町の背後だった。タバコを買おうと一軒のカフェに入った彼らは、そこでヴィクトル・ヒラと出くわした[訳註;ヴィクトル・ヒラは、ベスニクが取材先の工場で再会した旧友。なお旧版では「お前らも来ていたのか、このハイエナどもめ」と軽口を叩いている]。二時間前に工場の労働者二百人と一緒に着いたばかりだという。
[訳註;旧版ではここから洪水の状況について詳細な描写が続くが、決定版では殆ど削られている]
 途中まで一緒だからと言って、ヴィクトルは彼らの車に飛び乗った。
 すぐさま沈黙が訪れた。三人は黙り込んだままコーヒー色の大地を見つめていた。そら溺れ死んだ羊がいるぞ、とヴィクトルが時折ベスニクに話しかけた。ほら穀物庫だ。
 車は橋に近付いていた。
 異様に傾いたままの電柱は、電線が垂れ下がり、或いはちぎれていて、まるで命が消えたように見えた。
 水面には、四十度の熱にうかされたように、至る所に生き物や物体の姿が見えた:水死した家畜、家の梁、子供の教科書、墓の十字架、「アルバニア労働党万歳」と書かれた赤い布、トウモロコシ、電線、七面鳥、「協同組合本部、受付時間12-2、水曜日を除く」とある看板、子供靴、小麦、(胸が痛いぞ、兄弟、胸が痛い)。
「この川が、アルバニア社会主義の前提条件をみんな持って行きやがるんだ」とヴィクトル・ヒラが言った。
 他の二人はそれを聞いていないような素振りをしていた。
 ベスニクには、どうして新聞ラジオが劇的さを伴って、この出来事に、国の服喪日か祭日であるかのような色付けをしているのか、それがやっと理解できたような気がした
 「洪水対策第四本部」、荒地に急遽建てられたばかりの小屋には、人の話し声とつけっ放しのラジオからの音が終始響き渡っていた。電気工学科の学生が数名で、電話線を設置しているところだった。
 ベスニクたちが本部に入ってきた時、しわがれた声が叫んだ。
「信じられない奴らだなお前たちは、頭にくるぜ。くたばりやがれ![訳註;直訳すると「お前たちを去勢してやる」]
「第四本部の本部長だよ」ヴィクトルが小声で言った。「午後の会議をやってるところだ」
 一人の大柄な男が、燃えさかりバチバチとはぜるかまどと化していた。ヴィクトルはどうにか背後に回り込み、その本部長に何か言った。すると彼はぴたりと黙り込んだ。
「信じられない奴らだなお前たち、今回も命拾いしやがって」と彼は小声で罵った。「出ていけ!」
 隊員たちは一人また一人と小屋を出て行き、今やベスニクとカメラマンだけが本部長と相対していた。その男は背が高く、しまりのない体つきで、ぼんやりとした顔は赤みを帯びて細長く、そこに二つの柔和な瞳が、まるでたまたまその造作の中に入ってきたかのようで、ひどく純朴そうに見えた。
「掛けたまえ、記者同志の諸君」隊長がくたびれた声で言った。「申し訳ない。たまに怒鳴ってしまうんだ、頭に来てね、気にしないでくれ」彼は微笑んだ。顔に垂れた髪の毛とまつ毛が、急に赤みを帯びて輝き始めた。その顔全体が、今や寝室用のランプシェードを思い起こさせた。

 みんな行ってしまった、とザナは思った。この時間は家に何人かがいるのが普通で、それだけに一層、人けの無さが感じられるのだった。リリは党の会議だし、クリスタチは洪水の場所へ出かけている。みんなして洪水現場へ出発してから、もう二日になる。きっと「彼」もそこにいる。しばらく前からザナの意識の中で、ベスニクの名は「彼」に置き換えられていた。影がその人物に取って代わりつつあった。
 もうすぐマルクがフランス語の授業にやってくる[訳註;ザナは以前、マルクにフランス語の個人教授を頼んだことがある]。ラジオからは軽音楽が流れていた。ザナは冷蔵庫の前まで行くと、そこを開き、そして、こわばったしぐさでコニャックの瓶を取り出した。
 室内は暖かかった。窓の向こうでは冬の日差しが、世界をどこまでも続く灰色で覆い尽くしている。荒地のような空、そこには遥か遠くまで続く大きな欠落があった。遠ざかるほどにそれは、世界の一部を奪い取っていくのだった。
 ザナは小さなコップにコニャックを注いだ。しばらくコップを手にしたまま、彼女の眼は窓の方に注がれていた。それから、まるでガラスの欠片が自分の指の間からこぼれ落ちていくのに驚いたかのように、視線をグラスの方に落とした。
 何してるの?何処にいるの一体?彼が自分を傷つけ、自分が電話を切ったあの夜から、二人は一度も会っておらず、一度も口をきいていなかった。その話はもう終わりにしなさい、とリリにも言われたのだ。彼があなたを愛していない以上、あなたも彼を愛することなんかないのよ、と。愛することなんかない・・・ザナは何度もリリに、彼の職場で何か馬鹿げたことをしてきたのではないかと訊ねたが、リリはあらゆる点でそれを打ち消した。だったら彼があんなにひどく自分を侮辱した原因は何なの?原因なんて何もないわ、とリリは言った。リリに言わせれば、彼は別れるための口実を探していたのだ。ひょっとして誰か別の人を好きになったのかも、とザナは何度か考えた。彼は女の子が好きだから。ザナ自身、同じところを何度も何度も掘り返していく内に自身の理性が霧に包まれていくのを感じていて、そして彼女は、絶えず思考を明快にさせようとしてきたが故に、今や、およそ馬鹿げた思いつきをたやすく信じるようになっていた。
 ザナはコップを口元へ近付けた。コニャックが苦いような気がした。
 二日前の夜、夢の中で彼に会った。違う、夢の中でも彼は一度だって姿を現さなかった。電話でただ声を聞いただけ。そこには以上に頑丈な脚のついたビリヤード台があり、その周りでは背の低い連中が戯れていて、そして彼女は何度も、何度も繰り返し彼に訊ねていた:ベスニク、どうして私にあの時あんなひどいことを言ったの?彼は回線の向こう側から何か説明をしようとしていたが、彼はただ、自分が或る木曜日の、別の木曜日の、とりわけずっと前の週の別の木曜日のことが原因で腹を立てていることにこだわっているのだということしか話さなかった;だから、あなたの言ってることは理屈が合わないわ、そう彼女が口を挟んだ時、彼は冷静にこう答えたのだ:確かに、俺に理屈なんかない、俺はもういないんだから。あなたがいないですって?そうだ、と彼は答えた。俺はこっち側から電話をかけているんだ、何処にもないところから。その時初めて彼女は、彼の声がひどく遠くにあることに気付き、そして彼女には、これがただの声ではなく、彼の声の埃かすで、それが地上の面にゆっくりと降り注いでいるように思われた。彼女が目を覚ましたのは、激しいすすり泣きの最中で、それはまるで水が流れてきて深夜気付かない内に、未完成の家の前に放置していた建材を押し流してしまったかのようだった。彼女は、部屋の薄暗がりの中にぼんやりと輪郭が見えている家具類の方に視線を注いでいた。涙で濡れたまま、窓の四角形の向こうの、暗がりを見つめている内、少なくとも自分と彼の二人とも同じ惑星に生きているのだという、ささやかな慰めのような思いが湧き上がってきた。
 ドアのベルが鳴った。ザナは急いで残り半分のコニャックを空けると、コップを隠した。
「こんにちは」とマルクが言いながら入ってきた。
「こんにちは、マルク」
 マルクはおどおどした足取りで居間へと入った。彼がソファに座った時、ザナは彼の妙に真っ白な上着と首にはネクタイという、その半ば祝祭のような、半分ば婚礼のような姿が気になった。それは彼の顔によく似合っていた。そうよ、誰か好きな人ができたんじゃないかしらこの人?ザナはぼんやりとそんなことを考えた。
 ザナはマルクと並んでソファに座ったが、マルクが本を開いている時、気付けば二人の肩が随分近付いていることを彼女は不思議だと思った。二人の人間がソファに座って、同じ教科書を読んでいると、二人の肩も必要以上に近付くものなのだろうか、彼女はそう思った。
「始めましょうか?」ザナはすっかり楽しくなって言った。
 マルクは、コニャックの匂いを嗅ぎ取ったらしく、微笑みながら足元を見つめた。
「コニャック飲む?」とザナは少しだけ罪の意識を感じているような声でそう言うと、返事も待たずに立ち上がった。彼女の指先と瓶と、小さなコップとの接触は不確かなものだった。ザナはコップを二つ持ってきて、二人は一緒にそれを飲んだ。何をしているの私は?とザナは思った。自分の身体の奥底からは何の返事も出て来なかった。
「始めようか」マルクが言った。「イル・フェ・フロワ」[訳註;原文もフランス語“Il fait froid.”(寒い)]
 どうやってこの人は、誰とも付き合わずに生きてきたのだろう、ザナはふとそんなことを考えた。何か月も、誰とも。自分はたったの数週間で、彼がいないことがこんなにも長く感じられるなんて。イル・フェ・フロワ、彼女はうわの空で繰り返した。寒いに決まってるでしょう。冬なのよ。リヴェール[訳註;原文もフランス語“H’hiver”(冬)]
 向こうの冬はどうだったの、モスクワで彼は身体の芯まで冷えきったの?今はもう遠く、よそよそしく、近付きにくい人になってしまった。彼の町は見知らぬところにあって、歩く通りも、ノックする家も、それの何もかもが別な建築様式になっていた。
「ここを」マルクが言った。「もう一度読んでみてください」
 ザナはもう一度読んだ。何なのかしら、この言語は?どうして自分はこんなものを習っているの?イル・フェ・フロア。彼は今向こうにいる、洪水の現場に、災害の場に。災害はここで起きているのよ、私のいる場所に、とザナは心の中で呻き声を上げた。
 ラジオはずっと音楽を流していた。マルクは本から顔を上げた。え、何?・・・
「ザナ、どうしたの?」彼が言った。
 彼女の瞳には涙が溢れて、目じりに光るものがあった。彼女はそこにいなかった。そこにあるのはただの瞳、家人が立ち去ったばかりで、その温もりがまだ辛うじて残っている家のガラス窓だけ。みんな行ってしまった。
 どうしたらいいかわからず、マルクは教科書を読み始めた。エトルリア語の碑文だった[訳註;まるで意味がわからないものの比喩]。それでも、彼は半ば恐れおののきながら、その行数の中に救いを求めようとでもするように、どうにか踏みとどまって読み続けた。それは長いこと続いた。ザナがその間じゅうずっと続けていたすすり泣きは、彼女自身の地中の奥底の震動のように伝わっていたが、ついにその最も脆弱な部分を見つけ出し、外へと吹き出した;両肩だった。そこがぶるぶると震え出した。
 マルクは読むのを止めた。ゆっくりとその手を、ザナの気を落ち着かせようとするように彼女の、その頭上に重々しい夜のように流れる髪へと伸ばしたが、すると彼の身体も得体のしれないもののせいでぶるぶると震えた。
 二人の身体の間に起きたことは、洞穴の中にいるように音も聞こえず、目にも見えなかった。やがて生のざわめきが戻ってきた。もはやただの音ではなく、聴き分けられるような言葉になっていて、初めこそ脈絡も無かったが、そのうちずっとはっきりと理解できるものになっていた。ラジオがニュースを伝えている。ザナはラジオを、まるで目で聴いてでもいるようなそぶりで見つめていた。洪水。
 マルクは、少しばかり青ざめ、白い上着とよじれたネクタイ姿のまま、どうしてザナは急いで一切の痕跡も記憶も隠そうともしなければ、消し去ろうともしないのかわけがわからず、彼女のあらわになった膝を見つめていた。
「あなたは、何もかもが引っくり返されてしまうことってあると思う?」と不意にザナが落ち着いた口調で言った。そして少しして「私みたいに」と付け加えた。
 マルクは否定するように首を振った。
「いいや」彼は言った。
 ザナは視線を逸らさなかった。
「いいや」マルクは繰り返した。「誓ってもいいよ、ザナ、絶対にない」
 彼は額を冷たい汗をびっしりとかいていた。ザナはそれをじっと見つめていた。
「きっとあなたたちは、あの下の方で喋っているのよ、希望を捨てずにね」と言いながらザナは、そんなことが言える自分自身に驚いていた。
 マルクは視線を上げた。彼の顔に、額と、瞼と瞳の中に、短く、苦痛に満ちた闘争が現れていた、もし他の状況であれば彼女がそんな質問をする気にはならなかったろうに。
「そうさ」彼は言った。「みんな夢見ていることがあるんだ、馬鹿げた希望をさ」
「馬鹿げた希望」ザナは心ここにあらずといった風で繰り返した。
「僕は違う、決して」そう言ってマルクはまた顔を上げた。
「何が違うの?」
「違うんだ」
 沈黙。彼女はようやく膝を隠した。立ち上がり冷蔵庫を開けた。
「ザナ」マルクが弱々しい声で言った。そして、まるで不自然な脈絡の言葉を口にした:「君は、たぶん、僕は、それでも・・・」
 ザナは冷蔵庫を閉めた。
「聞きたくないわ。帰って」彼女は冷たく言った。
 言われた通り、マルクは立ち上がり、そしてドアの方へ歩いていった。ザナの頭の中で、言葉がぐるぐると回っていた:それでも・・・利点、要するに、あのマルクは・・・これだけの決裂があっても・・・ブルジョアジーは・・・この利点・・・たった一つの利点は・・・だが彼女には、それらを一つの文に束ねることが躊躇われたし、それに、何となくその文は、彼に対して言うには皮肉があり過ぎるような気がした。
 ドアが閉まった。ザナは浴室へ行き急いで服を脱ぎ、湯の蛇口を開きながら見たが、幸いにも、身体に先程の出来事の名残りはなかった。
 その頃マルクが自分の部屋に戻ってくると、ヌリハンの部屋の方から人の話し声が聞こえてきた。きっとあんたたちはそうして話しているんだな、希望を抱えて。マルクはベッドのシートの上で身体を伸ばし、全ての出来事を思い出そうとした。彼にとっては信じられない出来事だった。時間はひどくずっしりと重苦しかった。一日一日が、人と人の接触で当然踏むべき段階が、甘い視線が、微笑みが、手と手の触れ合いが、口づけが、とんでもない速さで飛翔していって、儀礼を完全に台無しにしてしまった。何もかもがそんな焼けつくような、先の見えない、爆発しそうな一点に濃縮されてしまって、そこからは、その瓦礫の中からは、死屍累々たる有様にも似た光景の半分より他には、記憶の片隅に呼び戻すことすら不可能なほどだった。
 何もかもが崩れ落ちていて、その崩落のせいでザナは、今や近くに感じられるどころか、これまでにないほど遠くに行ってしまっていた。マルクには、そんな急速な変化に立ち向かえるような準備が出来ていなかった。彼は頭痛を覚えた。
 部屋のドアが開いて、エミリアが入ってきた。
「マルク、お客さん来てるけど、顔出さない?」
「いいよ」マルクは言った。「頭が痛いんだ」
今、隣の部屋で何を話しているか、彼には分かっていた。この数週間ずっと、夕方や夜遅く[訳註;原語pasdrekeとpasdarkaはそれぞれ「昼食後」と「夕食後」で要するに「午後」と「夜」だが、アルバニアの昼食や夕食は日本より遅いので、実際は15~18時と21~24時ぐらいに当たる]に互いを訪問し合っては、視線や口元でこう問いかけるのだった:どうして何も起こらないのか?どうして何の動きもないのか?ひょっとして、喜ぶのを早まったのか?単なる教義上の対立で、理論面に留まった危機に過ぎなかったのではないか?と。彼らは待ち続けた、毎週のように、毎日のように、何が起こり得るのかはっきりとは分からないまま。彼ら自身などではなく、誰かが何かに着手してくれるのを待っていた。決して、彼ら自身ではなかった。
 マルクは立ち上がり、ゆっくりとドアを開けると外へ出た。ラジオが終わると[訳註;旧版では「ラジオのアナウンサーがニュースを読み終えて静かになると」]、室内に彼らの声が戻ってきた。
「これから、何か起こるか言ってあげようか」とハヴァ・フォルトゥズィが言った。
「イシャラ」というヌリハンの声が聞こえた。
[訳註;原語ishallahはアラビア語の「インシャアッラー」に由来するが、非ムスリムのアルバニア人にも用いられる]
「もし一つだけ神様に願いをかなえてもらえるんだったら、春まであたしを生かしといて欲しいもんだね。このおつとめは春までもたないような予感がするよ。生きてさえいられればねえ。でないと土の中で落ち着いてられやしないよ」
「母さん、そんなこと言わないでよ」エミリアが言った。
「協同組合もみんな水に漬かってしまった。今や望もうと望むまいと西側に手を伸ばすことになるよ、東からのパンは打ち切られてしまったのだからね」エクレム・フォルトゥズィが言った。
「まあ、西側への道がもう一度開かれるのね」とハヴァがつぶやいた。
 マルクは気付いていた、期待が高まれば高まるほど不安も増してくるものだということに。時折彼には、窓ガラスや天井や階段や、世界中の全てがその不安のせいで絶え間なく震えているように思われた。自分が半時間前にしたことを、もし彼らが知ったとしたら、マルクはそう思った。それを思って彼は身震いに襲われた。彼は彼らのむ娘に手を出したのだ。タブーに。それもよりによって今、彼らが激情に駆られているこの時に。もし隣の部屋にいるあの連中がそのことを知ったら、きっと自分の喉に跳びかかり、爪を立ててくるだろう:何てことをしてくれたんだお前は、この女たらしめ、俺たちを破滅させる気か、俺たちを殺す気か、と。[訳註;後半の逐語訳「お前は俺たちの首を絞めたな、俺たちの墓を掘ったな」]
 マルクは再び聞き耳を立てた。
「ヴロラの基地でも厄介なことになっているぞ」エクレム・フォルトゥズィが言った。
「軍の基地で?」
「その通り、パシャリマンだ」
「パシャリマンね」ハヴァが言った。「ここ何年かはその名前を聞くだけで身体が震えてくるわ。イギリスかアメリカが上陸するのを夢見るたびに、思い出すのがそのぞっとする言葉なのよ」
「あれは番犬さ」エクレム・フォルトゥズィが言った。「だが今はもう、老いぼれて歯も抜けちまった。あの基地は解体中だって話だ。ばらばらにしているところらしい」
 マルクは聞き耳を立てていたかった。少しだけ部屋の中を行ったり来たりしていたが、意に反してその場に立ったまま話を聞き続けていた。話題はヴロラの基地から、再び洪水へと戻っていた。
「何もかも沈んでしまった」ヌリハンが言った。「この二日間、ずっとニュースを聴き通しだよ。ユメル・ベイの土地も、ヤヒャ・ベウの土地も、カトロシュ一族の土地も、トゥルハナ一族の土地も、ロカ一族の土地も、ミトロポリア・エ・マヅェのベウのテッケも沈んでしまった[訳註;以上の固有名詞は全て(恐らく実在した)封建領主の名。テッケはベクタシ派の修道院]。女も子供も溺れ死んでしまった。[訳註;土地を]没収された連中の呪いにやられたんだよ」
「墓場から死人が出てきたそうね」ハヴァ・フォルトゥズィが言った。「ユメル・ベイと、テッケのババ[訳註;ベクタシ派の指導者。原義は「父」]がいて、あともう一人木の枝に引っかかっていて、水没した土地を見て笑ってた、笑ってたんですって」
「おおくわばらくわばら[訳註;逐語訳「神よ、我らをお護りください」]」エミリアが言った。
「縁起でもない連中だねえ」ヌリハンが言った。「二度と土の下には戻れやしないよ」
[訳註;ヌリハン婆さんの言葉を逐語訳すると「そいつらは黒い連中だ」「大地はそいつらを溶かさない」]
 彼らはそれからしばらく、自分たちの知り合いのことを、とうの昔に死んだ連中のことを話していた。言葉遣いや、習慣や、癖しぐさ、それから病気や、更にはガウンや被り物[訳註;「ガウン」の原語zhgunは修道士が身に着ける厚手のガウン、「被り物」の原語kësullëは頭にかぶるフード様のもの]や、その他何かしら雨と関わりのありそうなことを思い起こしていた。

「洪水対策第四本部」ではブリキ缶がストーブと化してごうごう音を立て震えていた。 「わめくなこの犬っころめ、トロツキストめ、洪水の最中だぞ、何処に結婚などする暇があるんだ」本部長が一人の若いぼさぼさ髪の男を怒鳴りつけていた。男はすっかり呆気に取られていて、まるで洪水も氾濫もない別の世界からつい今しがた舞い降りて来たばかりのようだったが、その手を取っているうら若い娘は、髪を長く伸ばし、うつむきがちに立ったまま、恥じらいとストーブの熱とで真っ赤に染まっていた。
「本部長同志」男は消え入りそうな声で、三度そう言った。
「何だまだ何か言う気か、お前の顔なんか見たくもない、人が溺れて、死んで、それでも勇敢に立ち向かっている時に、お前ときたらどさくさ紛れに何処ぞの娘をたぶらかしてきやがって。このトロツキストめ、ああ頭に来る。この退廃主義者の、女たらしの、運命論者が」[訳註;ピンと来ないかも知れませんが、当時のアルバニアで「退廃主義者(デカダン)」や「トロツキスト」や「運命論者」は相当な悪口です]
 男は目をぱちぱちさせながら、それでも持ちこたえていた。その前日、先に述べたどさくさの中で彼はその娘を、自分に嫁にやろうとしたがらない両親のところから連れ去ってきたのだ。本部長が話し終わるや、男はぐいと背を伸ばしたが、娘の手を離さないままだったものだから、彼女はその動きにつられてあわやというところで姿勢を立て直した。
 ベスニクはもの思い気に、その農家の娘の不自然な足取りを目で追っていた。彼はカメラマンと二人で隅の方に座ったまま、ひっきりなしに出入りする人々を眺めていた。
「お前たち何処にいたんだ?俺のことは放ったらかしで」急ぎ足で入ってきた隊員二人に本部長が声を上げた。「お前たちにはうんざりだな。何でもかんでも俺にやらせやがって。これから俺一人で出かけて、自分で丸太を持ってこようか」そう言って彼は自分の弱々しい掌を、奇妙なまでに細い指先を見せたが、そこで彼の大きな顔は急に苦痛に歪んだ。「この嘘つきどもめ」
[訳註;旧版ではここで本部長がテーブルを叩いて、とっととセメントやらレンガやら丸太を持ってこいと隊員をどやしつけるくだりがあるが、決定版では削除されている]
 眠そうな目の運転士が一人、送り状を片手に入ってきた。
[訳註;旧版では、送り状に署名を求める運転士に本部長が「ひと休みしていくかい?」と訊ねるなど、自分の部下とは対照的な態度で接している]
 その後から入ってきたもう一人は立ったまま暖を取っていた。ナンバープレートにTR17-55と書かれた赤いトラックが窓の向こうに見えた。
「よう兄弟、何を持ってきたね?」本部長が訊ねた。
「肉だよ」そう言って運転士は笑顔を見せた。
「ティラナからさ」
 彼の顔はそばかすだらけで、笑うたびにそれが顔の上でキビの粒のように舞っていた。カールして赤みがかった髪の毛が、顔つきに鋭さを増している。
「おい赤いの、暖まってるかい?」一緒に入ってきた背の高い運転手が、送り状を手にしたままそう言った。
 そばかすの方は、首をかしげて微笑んだ。出入りする者全員が彼を「赤いの」と呼び、その全員に彼は微笑み、痩せた顔の上でそばかすが散らばり、また散らばった。
「ちょっとひと休みしろよ」本部長が柔和な、殆ど痛々しいばかりの声で言った。「そら、向こうのベッドで横になるといい」
「どうも」赤毛の男は控えめに言った。彼は最初ベッドに腰掛け、それから足を伸ばし、しまいには全身をそこに横たえたが、不意にしびれたような不自然な動きで、うなじの下に手を回した。するとその瞬間、彼の顔からあの絶えざる微笑みが消え失せ、黄色いそばかすが、まるで石の上ででもあるかのように固まった。
[訳註;この後、その様子を見たベスニクが「何て顔だい」とつぶやいたり、本部長が別の部下を「トロツキストめ」(更に前の版では「ティトー派め」)と罵ったり、その部下から「外に『プラヴダ』の特派員が来ている」と言われて慌てたり、別の部下が水面で幽霊を見たと報告してきたり、また別の部下から被災者に会って話してきて欲しいと進言された本部長が外へ出ようとして、ベスニクたちが同行を申し出るくだり等があるが、決定版では全て削除されて、以下の通り、単にベスニクたちが対策本部の外へ出るところから始まっている]

 彼らが外へ出ると、イグサに覆われた沼地の間に60時間以内に建てられた仮設住居は活気に溢れていた。拡声器から音楽が聞こえてくる。対策本部の向かいの小屋に、誰かがチョークで「洪水バー」と書いている。電気工学科と医学部の学生たちが行ったり来たりしている。
「あの中には外国から来た人もいるんだ」カメラマンが言った。
 ベスニクは学生たちから目を逸らした。
「君たち、モスクワから来たの?」彼は厚手のスカーフを巻いた男子二人に訊ねた。
 二人は『ええ』とうなづいてみせた。一瞬ベスニクは彼らに、君たちは我々アルバニアの使節団がモスクワを出発したあの朝「ベラルースキー」駅[訳註;ベラルーシ及び西ヨーロッパ方面行きの列車が発着するモスクワの駅名]にいたんじゃないのかい?と訊ねたい気持ちに駆られたが、すぐさま、そういう問いはこの場に相応しくないという気がした。あのモスクワでの最後の朝は、忘れられないものだった。あの11月の空、真の暗黒、その大陸風の薄暗さが、あらゆるものの上に何処までも果てしなく広がっていた。たぶん9時ごろだったが、まるでまだ夜が明けていないかのようだった。ミコヤンが見送りに来ていた。その視線には「何だってこんな列車で帰るのか?」という問いの後に、もう一つの重要な、しかし口に出すことのなかった問いの痕跡が残っていた:まさか我々が君たちの乗った飛行機を撃墜するなんて思っているんじゃないだろうね?
 ようやく皆が立ち上がり、列車に向かって歩き出すと、駅に動きが感じられた。双方の護衛担当者たちは緊張した。それから、「アルバニア人留学生だ」という声を背に、並んで歩く一団。警官隊がその学生たちにぴったり張り付いていた。「誰にも知らせなかったんだがね」とアルバニアの大使が説明した。「自分たちで来てくれたんだ」
[訳註;ここで「双方」とあるのはアルバニア使節団側とソヴィエト連邦側を指す。実は旧版ではこの前後にエンヴェル・ホヂャが現れて、使節団の見送りに来たアルバニア人留学生たちから喝采と拍手が起こるシーンが長々と書かれているのだが、決定版では跡形もない]
 ようやく列車が動き出した。周囲の全てが静かに右側へ、駅の支柱の向こうへと移動していく。列車は学生たちのいるホームの方へ近付いてきた。車輌が学生たちの前まで来ると、彼らは警官隊を押しのけ、車輌の方へ向かって歩き出した。列車の動きはまだゆっくりとしたもので、学生達は車輌の窓に殆ど顔を押し付けんばかりにして、動く列車を追いかけていた。彼らの目は大きく見開かれていた。それはまるで、こう問いかけているかのようだった:何が起こったんですか?どうしてあなた方は、僕らにさえ何も教えてくれないんですか?と。列車は徐々に速度を増し、学生たちは一人また一人と窓ガラスから離れ、駅のそこかしこに取り残されていった。
[訳註;旧版ではここでベスニクが回想から現実に戻って。目の前のソ連からの留学生を見ながら「彼らもすぐに帰らなければならなくなるんだろうな」とつぶやいており、それを受けてカメラマンが次の発言をしている]
「国に帰ることになると思っているから、冬用のマントも持ってきてないんだな」カメラマンが言った。
 ベスニクは留学生たちの中の最後の一人、他の誰よりも長く列車を追いかけていた背の高い青年のことが記憶に残っていた。その腕は、動きに合わせて奇妙なしぐさで振り回されていた。やがて彼もまた取り残された。列車は再び速度を上げてモスクワ郊外を後にし、ロシアの中を駆け抜けていった。車輌の凍りついた窓越しに、雪に覆われた平原が、憂鬱になるほど果てしなく何処までも広がっていた。ベスニクは何度もうなだれ、眠ろうと試みたが、結局できなかった。眠りは、まるで傷んだ布地のように、そこかしこに破れて散らばっていた。似たような駅を幾つか通過したが、それらの駅名は「オヴォ」或いは「オフスキー」で終わっていた。夕暮れが近付いていた。一体何なんだこれは?ロシアなのか、それともベロルシア[訳註;現ベラルーシ]なのか?すすけて黒ずんだ小屋が時に右側へ、時に左側へと流れ去り、そして再び列車は狂気じみたほどに単調な平原の上を駆け抜けていった。機関車の小刻みにきしる音が、夕暮れを速めているように思えた。
[訳註;旧版ではここにも車窓から見えるロシアの風景に思いを巡らせる描写が続くが、決定版では全て削除されている]
 遠くから叫ぶ声が聞こえた:被災者だ、被災者たちが来た。
[訳註;ここで「被災者」と訳したshkularakの原義は「取り残された者、見知らぬ土地に移ってきた者」]
 被災者たちは毛布を身にまとい、手に赤ん坊の籠を抱えて、仮住まいの小屋にひしめいていた。何処かで電話が鳴っている。どうやら今しがた回線が通じたらしい。ザナ、とベスニクはぼんやり思った。
「土地は水浸しだ」ベスニクと目が合った老農夫の一人がそう言った。どうやらこの農夫は、誰かと目が合うたびにその言葉を繰り返しているらしい。頭から顔から野草と藁がべったり張り付いている。「土地は水浸しだ」農夫は繰り返した。「だが通りすがりのあんた方に、どれだけのことが出来る」
 彼らはぎょっとして農夫を見つめた。農夫の目はらんらんと輝き、涙に濡れていた。
「車だと、救急車だと、医者[訳註;旧版では「医者」でなく「電線」]だと」農夫は言った。「土地が死にかけているんだぞ。そんなものが欲しくて困ってるんじゃないんだ。土地を見てくれる病院も、注射針もないくせに」
 カメラマンは肩をそびやかした。彼は他の人たちと話し始めたが、老農夫の言葉は止まらなかった。
「土地なんだ、俺たち人間はその後でいいんだ」そう言った。
 ベスニクは老農夫にならって、浸水した土地の方に目をやった。
 向こうの方を救急車が一台だけ通り過ぎた。紫色の十字が、浸水した土地と空の狭間で燃えるように際立っていた。
 ベスニクたちは、今度は「洪水バー」の前にやって来た。
[訳註;旧版ではここに、放送局から初めての取材にやってきたがテープレコーダが故障して困っている若い女性を手伝うくだりがあるのだが、決定版では存在すら消えている]
 入口に停まっている車列の中で、上から下まで泥まみれになった一台のマイクロバスが目についた。
「考古学の先生が来ていますよ」若い男が一人、聞いてもいないのにそう言ってきた。「すごい発見があったんです」
[訳註;旧版ではこれに続いて、洪水で古い石碑が流れてきたとの説明があるが、決定版では何故か削除されている。]
 ベスニクたちはバーの中に入った。室内にはタバコの煙、そして笑いさざめく声。
「考古学の先生というのはそちらですか?」カメラマンは、二つのテーブルを占めている中の、背の低い一人の男に声をかけた。
「いやいや、私は産科の医者ですよ」
「考古学者は私ですが」一人の女性と並んでコーヒーを飲んでいた背の高い男が答えた。黄疸を患ったかのように顔色が悪く、その目は火が消えたように生気が乏しかった。
「私たち記者なんです」カメラマンが言った。「何を発見されたのか興味がありまして」
 背の高い男は女の方を見た。流行りの束ねた髪型[訳註;仏訳独訳では「ポニーテール」]と、妙にほっそりした首筋が、その沈黙ぶりに相応しかった。
「非常に古い、碑文の刻まれた墓石です」まるで自分の言うことに傍らの彼女の承諾を求めるがごとく、そちらに視線を向けたまま、考古学者が言った。「かれこれ二か月ばかりヴロラのパシャリマンで調査をしていたんですが、その墓石のことで急にここまで呼び出されまして」
「一体それは何の墓石なんです?」カメラマンが訊ねた。
 考古学者は微笑んだが、傍らの彼女はといえば黙ったままコーヒーを啜っていた。
「あなた方には奇妙に思われるかも知れませんがね、実を言うとそれは、と或るトルコの将軍の墓と、その馬の墓なんですよ」
「馬の墓だって?」産科医が驚きの声を上げた。
「ええ」考古学者は言った。「その碑文によれば、両者とも中世の城の包囲の最中に戦死したらしいですね。碑文によれば、将軍は包囲を命じたが馬は城の水路を見出したとあります。そうだね、スィルヴァ?」
 彼は同僚の彼女にそう訊ねた。
「おやおや」と産科医が憐れむような口調で言った。「そんな古い碑文が出て来ては、いよいよ運の尽きですな[訳注;逐語訳「彼らが終わりになる時」]
「何ですと?」考古学者が唸るように声をあげた。
「その古い碑文ですよ」医師は言った。「私の印象ですがね、そんなもののせいで、我々もとんだ災難だと思いますよ」
「災難の話なんかしてましたっけ?」考古学者は声をあげた。
 ベスニクは写真を持ったまま、やっとの思いで場所を見つけ、そこに肘をついた。
[訳註;初版ではこの前後に「あんたのことが好きになっちゃったあたし~」と唄う「頭のおかしい女」や、新聞売りや、謎の若いカップルについての描写があるが、後の版では削られており、決定版でも復活していない]
 テーブルの一つを見ると、そこに「プラヴダ」の特派員がいた。二人[訳註;ベスニクとカメラマン]ともその特派員を知っており、敢えてそちらの方には目を向けないようにした。
 バーに声が響き渡った:聞いたかい?軍が階級を廃止するそうだ。アルバニアは世界で唯一、将軍のいない国になる。気の毒に、と訊き憶えのある声がした。土地は水浸しだ、だがあんた方は・・・誰だそこで歌ってるのは?・・・川ならそのまま放っておけ、ダムも堤防も置くんじゃない、耐えるだけ耐えて、いつかは押しやられて・・・考古学者は何処にいる?あんたたち考古学者は見なかったかい・・・もういい、あんたの話は聞き飽きた、石器時代だの骨器時代だの・・・何故なんだ、何だってあんたはそうなんだ、エンゲルスよ、俺たちのことは何でも知ってるみたいに・・・落ち着いて、落ち着いて・・・俺はそう言ったじゃないか、もう一度言うぞ:アルバニアはユダヤ人を嫌わなかった唯一の国で・・・ああ、いいか、将軍のいない唯一の国なんだ、あんたはユダヤ人のことを考えているな[訳註;旧版ではここに「戦争中は一人のユダヤ人もドイツに引き渡さなかった」との一文が入る]・・・今度は工作機関も引き払うのですか、同志フルシチョフ、とデジはブカレストを訪問したフルシチョフに言ったのさ[訳註;「デジ」は当時のルーマニア共産党書記長ゲオルギウ・デジ(Gheorghe Gheorghiu-Dej)]。工作機関を引き払うとあなたはおっしゃる、だがそれでは、あなたがルーマニアに何をしようとしているか、私にどうやってわかるというのですか?・・・一人のユダヤ人も[訳註;「ユダヤ人」について、この直前まで原文ではhebreを用いているが、ここではçifutという別の語が用いられている。前者は「へブル人」に直接由来し、後者もヘブライ語の「ユダヤ」がアラビア語、ペルシア語、トルコ語を経てアルバニア語に借用されたものだが、後者には「強欲者、怯懦者」といった否定的な意味がある]・・・あんたの話は聞き飽きた。土地は水浸しだ。土地は没・・・した・・・
[訳註;最後の一文では「水没する」を意味する動詞humbonが“humb…on…”と途切れて書かれているが、動詞humbには「敗北する、消え失せる」の意味がある]
 二人[訳註;ベスニクとカメラマンのイリル]はバーを出た。外には薄い雪片が舞い始めていた。暗くなりかけていた。電話線があちこちで上方に白い筋を引いている。周囲にはあの、変わり映えのしない洪水の光景が広がっている。間もなく車のヘッドライトが、天地創造の前のように、水面に混沌としたきらめきを投じていくことだろう。ベスニクは家庭の温かさが欲しいと感じた。生活が根底から変えられ、目に見えない力でぐらぐらと揺さぶられるのを見ていたら急に、ザナとの仲たがいの原因がまるで無意味なもののように思えてきた。たぶん何か誤解があったのだ。たぶん彼女のせいじゃないし、あの晩気が急いて電話で彼女を侮辱した自分が間違っていたのだ。ベスニクは電話線を眺めた。昨日その設置作業中に怪我人が一人出た。お前のために怪我したんだぞ、とベスニクは自分に言った。
 バーからはくぐもった音が聞こえてくる。対策本部に灯りがともっている。遠くから、本部長の怒鳴り声が聞こえていた:何処だ貴様ら!ええい忌々しい[訳註;直訳すると「お前たちは俺を泥だらけにしやがった」]
「電話したいんだけど」ベスニクは消え入りそうな声で言った。
 相手[訳註;カメラマンのイリル]は何も言わず、ただ、何処で電話が出来るか探しでもするように辺りをきょろきょろ見回した。
[訳註;旧版では誰に電話するのか訊きもせず、ただ「もちろん」と答えた]
 二人は、雪で白くなり出した仮設住居の間を抜けていった。
 電話はどれもふさがっていた。そこに響き渡り、罵り合い、口にし合う言葉は、甘く、激しく、称賛に溢れ、誓い、囁き合い、憤り、予告され、脅しすかし、情報の提供であり、ニュースであり、命令であった。それらが互いに出たり入ったりしている。地面のあちこちが白くなっていて、まるで遠くにあるようで、まるで日本の仮面のようによそよそしく、神秘に満ちていた。二人は長いこと探し求め、そしてようやくのことで探していたものを見出した。それは真新しい、沈黙した一台の電話機で、どうやら今しがた設置されたものらしく、まだ誰も気付いていなかった。その電話に近付きながら、ベスニクは自分の心臓の鼓動が緩慢になり、自分の存在すべてが消え失せてしまうような感覚を覚えた。電話番号はトランプの数字と奇妙なまでに似ていた。ベスニクはティラナを呼び出した。外はすっかり真っ暗だった。ザナの電話番号を回して、待った。長い時間が経ったような気がした頃、一度目の呼び出し音が聞こえてきた。そして二度目。電話線が冬の平野の上を、死の上を駆け抜けていく。三度目が聞こえた。どうしてこんなに遅いんだ?電話線は車のヘッドライトにざわめく水面の上にぶら下がっている。これはどうしたことだ?四度目、そして五度目が鳴り響く。ベスニクが受話器を置こうとしたまさにその時、境界の向こう、別世界の側から返事が聞こえた。
「もしもし」
彼女だった。
「もしもし」もう一度、彼女の声がした。
「僕だ」ベスニクは低い声で言った。
 沈黙。
「ザナ、僕だ、ベスニクだ」
 また沈黙。
「もしもし」と言ってベスニクは、何か危険なものを打ち消すかのように受話器のフックを二度三度と押した。
「もしもし、聞いてるかい?」
「ええ」彼女の声は至って落ち着いていた。
「今、洪水の現場からかけてるんだけど」ようやく呪縛から解き放たれてベスニクは喋り出した。
[訳注;ここで「呪縛」と訳したアルバニア語murosjeには「壁に塗り込める」、転じて「人柱にする」の意味がある]
「ザナ、僕は君に・・・」
 電話越しにため息が聞こえ、それから、沈黙を破ってザナの声がした。
「もう遅いのよ、ベスニク」
「え、何?」
 彼は何も考えられなかった。他の場面だったら、その言葉はひどく芝居がかった、映画のセリフじみたものに思われただろうが、今はそうではなかった。
「え、何?」ベスニクはもう一度聞き返した。
 再びザナのため息、そしてまた同じ言葉:
「もう遅いのよ、ベスニク」
 もう遅いのよ、ベスニク、と彼は一人でつぶやいた。その言葉は実際芝居じみたものだったが、そこには何かしら不吉なものがあった。或る舞台俳優が婚約者を殺害したことが二年前にあった。豊富な語彙と躍動感に溢れ、女性っぽい歩き方をする役者だった。誰一人、彼が人殺しなどするとは信じられなかった。もう遅いのよ、ベスニク。あの役者は、それでも・・・もう遅いのよ、ベスニク、と彼は十回繰り返した。ほんの一瞬、警告の理由がわかったような気がした。「ベスニク」という、あの特別な、芝居じみていない、歯の間から発せられるような言い方だ。お前はザナを失ったんだ、と彼は聞こえない声で自分自身の中に語りかけた。気の毒に、土地は水浸しだ・・・彼はあの見知らぬ農夫の言葉を、無意識のうちに繰り返しつぶやいていた。そして何もかも失ったまま、雪の中へと歩いていった。

8
 10時[訳註;初版では何故か「9時30分」]、エンヴェル・ホヂャは中央委員会の建物の三階にある、自身の広い執務室にいた。執務机の上の、山と積まれたその日の新聞の傍らには、洪水に関する報告書[訳註;旧版では「ファイルに挟まれた報告書」]が一通あった。しばらくの間、彼はその数字に目を落としていた。犠牲者の数。堤防での死者と、負傷者の数。その下に、倒壊した家屋、鉄道の損壊、崩落した農耕地のヘクタール数が並んでいる。彼は報告の末尾に何かメモすると、ページをめくった。
 次のファイルの内容は、社会主義陣営諸国との信用取引の破棄と全ての条約の解消に関する完全な通知、そして国庫の状況に関する国営銀行の報告だった。上方の窓からは、冬の日差しが入り込んでいる。空は、深淵から注ぐ均質な光をまとっている。まるで時代の終わりから出て来た何かが、その灰色を広げながら、冬に入る山々へと向かっているようだった。
 エンヴェル・ホヂャはゆっくりと読み始めた:ソヴィエト連邦。チェコスロヴァキア。ポーランド。ルーブリ。フォリント。コルナ。ズウォティ[訳註;ルーブリ(₽)、フォリント(Ft)、コルナ(Kčs)、ズウォティ(zł)はそれぞれソ連、ハンガリー、チェコスロヴァキア、ポーランドの通貨。現在の継承国でも同様だが、スロヴァキアは2009年からユーロ]。数字。後ろにゼロのたくさんついた数字。ゼロ。ゼロ。ゼロ。
 封鎖は二週間前から始まっていた。ドゥラス港での物品の積み下ろしは壊滅的なまでに減少していた。112の工場と作業場で生産が低下した。全ての工場で減産が見込まれている。数十の現場で作業がもはや行われていない。更に三箇所の堤防で水害による崩壊の恐れがある。国庫の状況もおだやかではなかった。ブルガリアとハンガリーが過去の負債の返済を求めてきていた。
 エンヴェル・ホヂャは両掌で目をこすると、机に肘をついたまま、じっとしていた。ルーブリ、ズウォティ。それらのイメージが、今度はクレムリンの金ぴかの塔と重なった・・・あの出来事が、あの広間が、今では別の時代のことのように遠くにある。だがそれでも、彼はそこへ思いを巡らせた。ここ数日、何度もあの広間に立ち返っているのだった。彼らはあの場所にいた、あちらこちらのテーブルで、二か月前のように、激昂して拳を振り回していた、書類を、カバンを、レーニンの引用を、マルクスの引用を;いや、本当は、彼らの拳が振り回しているのは今や債権であり、紙幣なのだ。
[訳註;旧版ではここに「どんな犯罪にも現れる、昔から見慣れた光景だ」と続く]
 お前たちの結託した犯罪だ、とエンヴェル・ホヂャは思った、まるで演説を始めようとする時のように。年月が経ち、彼らも白髪が増えると、更にその言葉も時の流れと共に穏やかになり、一層響き渡り、更に永久に、哲学的に、むしろ聖書じみたものになる;それはますます頻繁に、総会の場で、毎年の祝典で、映像の記録に、スクリーンの中に、回想の中で、日記の中で、著作集の序文で、ピオニールの花束の傍らで、感動に、称賛に囲まれた中で、彼らの白髪について、賢明さについて、文化について、人道主義について、寛容さについて語るのだ;彼らの弱々しい、向こうが透けて見えそうな掌、まるで蠅一匹さえも殺したことがない聖人のような掌、かつて高く挙げられ、横に伸ばされ、不正を、労働者階級の弾圧を、暴力を、野蛮を糾弾したその掌、それが今では震えながら花束を受け取っている;だがそれでも、それでも、それらあらゆることにもかかわらず、彼らの掌の痣は、二十世紀の真っ只中に、一つの小さな国民を、パンも与えず放置したという痣は、決して消えないだろう。
 彼は自分がまたしても、またしても心の中であの報復の広間へ戻っていくのがわかった。
[訳註;旧版ではこの後にこう続く;ここもあそこも、自分が話そうとする広間のどれも、ゲオルギーとかいう名のついたあの広間と繋がっているのだろう。午後にはレーニンの命日の追悼集会が行われれる。演説はエンヴェル・ホヂャがすることになっていた。至るところ、演説の全てに緊張感があった。それは、決裂を公にしてはならないという配慮ゆえの緊張感だった。だがそれでも、幾らかはしずくのように漏れ出すだろう。敵一滴と漏れ続け、やがて川のように溢れ出すだろう]
 この冬は、と彼は思った。この孤独の季節は、彼にとって、国家にとって、更に困難な冬になる[訳註;「彼にとって」は決定版で付け加えられた]
 三つ目のファイルの内容は、ヴロラのパシャリマン軍事基地の状況についての報告だった。再度緊迫。彼は「武力衝突の可能性」という文言に目を止めた。その脇に、赤でこう付記されている。「任務に就いていない双方の軍隊を撤収させるべし」
[訳註;次の書簡を読むくだりでは、列挙されている送り主が旧版と決定版とで微妙に異なる。以下、決定版に拠る]
 エンヴェル・ホヂャはせかせかと手紙に目を通していったが、それは秘書らによっていつものように三つに分けられていた:国内、国外、そして匿名のもの。三つめは、ほんの二か月前から、彼自身の要望で持って来させていた。フルシチョフがこれを知ったら何と言うだろうな、そう思って彼は一人微笑んだ:エンヴェル同志ときたら、とうとう匿名の手紙を読まされる羽目になったぞ、と。不機嫌でなければ、彼は大声を上げて笑っていただろう。彼には確信があった、みんな[訳註;エンヴェル・ホヂャの秘書ら]内緒にはしているが、これを全部読んでいるのだと。いずれにせよ、今は一人きりなのだから、普段のやり方を破ったって構うまい。それは匿名の手紙についてだけではない、何もかもだ。
 国内からの手紙は、いつも通り、工場労働者、学生、著名な知識人、鉱山労働者に選り抜かれていた。もっとも、何が書いてあるかは分かっていた:何処にいようと、何があろうと、我らは常に党と共にある、最後まで、等、等。彼はそれらの何通かを最後まで読んだ。同じことは、チェコの老共産主義者二人や、ニュージーランドの若き哲学者や、アフリカからの手紙にも、フランス、ベルギー、ブラジルの共産主義者からの手紙にも言えた。
 エンヴェル・ホヂャは少し驚いた、匿名の手紙の中で、特に長いものが一通、それも名前どころか、職場の場所まで書いてあったからだ:アラニト・チョライ、中央木工品店、元内務省職員[訳註;第1部でラチの回想に、第3部の序盤でも登場している、内務省職員だったが酒の席での不規則発言がもとで解雇され、党からも除名されたアラニト・チョライのこと]。文字は大きく、度外れて大きく、そしてそのせいで、それら文字の中でも特にaとoの字が見えなくなっていて、まるで彫像の眼のようだった。エンヴェル・ホヂャは手紙から少しだけ目を離して、それを読み進めた。指先が机の上をトントン叩き始めた。トントン。トントン。そんな風に彼の、ワルシャワかソフィアの何処かの部屋のドアも真夜中にノックされたのだ。彼は使節団を率いていた。日中は交渉を続け、夜はオペラや劇場に足を運んだ。そしてあの、真夜中に、ドアがノックされたのだ[訳註;旧版では続けて「まるで中世のバラッドのようだ」と繰り返している]。彼は起き出して、ドアを開けた。ドアの前に、使節団の副団長だった背の低いコチ・ヅォヅェが、顔を紅潮させて立っていた。昼間は話す時間がなくて、と彼は言った。ちょっと用がありまして。彼は部屋に入ってきた。会話はとりとめがなく、まさに異国の地の夜中の会話そのものだった。二人はティトーについて話し、それから知識人について話した。内相の好きそうな話題だった[訳註;後述の通り、コチ・ヅォヅェは1948年に失脚するまで内相だった]。その晩、彼はひどく熱が入っていた。資本主義が自らの墓堀人、すなわりプロレタリアートを生み出すように、社会主義も自らの蛇、すなわち知識人を創り出すのだ、そう彼は言った。二人は取っ組み合いになる寸前まで長々と話し込んだ。アルバニアの苦悩[訳注;原語vrerの原義は「胆汁」]の、残滓、世紀に及ぶ害毒の全てが、どす黒い渦の奥底から立ち上っていて、交差するナイフを想起させるような名前の、この小男のもとに結集していた;コチ・ジォズェ。社会主義国家の初代内相だ。今はティラナの何処かの界隈に横たわっている、墓もなく、目印もなく、ひと握りの泥も、銃殺部隊の放った硝煙の混ざった骨のひとかけらさえもないままで[訳注;ヅォヅェは本作品執筆より四半世紀前の1949年に「親ユーゴ派」として失脚し、処刑されている。ただし実際は絞首刑とも]。もう何年も経っているというのに、ヅォヅェの影がたびたび姿を現してくるのだ。手紙を書いた人物も、彼の支持者であることを隠そうともしなかった。中央委員会の総会で、その前内相の名誉回復を求める声が出たことがある。ベオグラードには彼の名を冠した通りがある。彼の名誉回復を求める声は上がり続けた。いやありえない、ホヂャは指先でテーブルをこつこつ叩きながら思った。絶対に。
 何千回となく彼の記憶に浮かぶのは1947年のことだった、その時刻も、日付も、週も、まるでブツ切りにされた蛇のようにのたうち回り、再び一つになろうとするのだった。それは暗黒の一日だった。あの小男が国を捻じ曲げ屈服させようとしていた。閣僚委員会には朝まで明かりが灯っていた。内務省のジープの車列が人けの無い道へと飲み込まれていった。それはいつまでも続く不安だった。あの小男が昂揚し、舞い上がっていた。彼は強気だった、というのも背後にユーゴスラヴィアが控えていたからだ。更にその後ろにはロシアがいた。政治局の会議は陰鬱なものだった。政府の諸会議では電灯だけが煌々と輝いていた。手紙には、蒸気をあててそれらを開封した痕跡が見えた。またあれだ、あの小男の息づかいだ、何でもかんでも開封して、中まで見通してしまおうとする。冬になっていた。日が短くなっていた。まるであの男の身体だ、エンヴェル・ホヂャは思った。あの暗黒の季節はどういう風に過ぎ去ったのだろう?第一回党大会の初日、あの、まるで長患いの後のようにひ弱で血色の悪い男が演壇に立つと、議場内に押し殺した囁きが駆け抜けた。一体どうしたことだ?あの中央委員会で、政治局で、国の頂点で何が起こっているんだ?どうして誰も何も言わないんだ?
 その後、内務省の粛清が続く間、エンヴェル・ホヂャは幾度も自問したものだ、これはみな本当に、巷間言われているような、確たる政治路線と結び付いたものなのだろうか、それとも彼に狙いを定めた単なる闘争でしかないのだろうか、と。彼自身は後者だと思っていた。この闘争にはこれっぽっちの原則もなく、そこにいたのはただ、マクベスにでも出て来るような古ぼけた裁判官だけだった:幸いなるかな、ヅォヅェよ、内務相よ、幸いなるかな、コチよ、政治局員よ、幸いなるかなコチよ、明日は第一書記となる者よ。
 ただそれだけ、それ以外には何もなかった。トップに立つであろう人物を正当化しようとする傾向の他に、政治路線などありはしなかった。エンヴェル・ホヂャ自身は反対派から二つの点で非難されていた:その厳しさと、その温厚さとで。1947年、彼が温厚だと言われ、トップの座にヅォヅェを据えるべく、彼を失墜させるに等しい動きがあったその時に、突如として風向きが変わった。すると一体どうしたわけなのか、そんな彼が「温厚」だということで賞賛されるようになったのだ。だが今度、彼が厳し過ぎると逆のことを言い出す連中があれば、また風向きが変わるであろうことを彼は確信していた。そんな中で彼はフランス留学の時のことを、良いことも悪いことも含めて思い起こしていた。いや、モスクワでもそうだった、同じ夜にそういうことがあった・・・
 手紙を書いた人物は、恐らく本人も気付かぬうちにだろうが、最終的に選ばれるのは厳格な路線、それも一層極端なものでなければならないのだということをわかっていた。1947年への憧れを隠しもしていなかった。どうやら相当長いことその年を背中にぶら下げてきたらしく、まるで重い棺桶のようにそれを1960年へと荷負わせようとしていた。そうすることでしかこの困難な時期は乗り越えられない、と手紙は書いていた。
 誰も皆、どうやってこの冬を抜け出すかについて思ったことを述べている、エンヴェル・ホヂャはそう思った。彼は書類から目を上げ、コーヒーを頼んだ。誰も皆、囚われた政治犯でさえもが、近頃は手紙を頻繁に寄こしてくる。そんな彼らの賞賛の中には、何にもまして彼に不安を抱かせるものがあった:遂にあなたは我らがアルバニアのためにやってくれた、アルバニアを共産主義の東側から切り離してくれた・・・
 窓には、眩暈がしそうなほど遠く、高く離れた空から、画一的な光が注がれていた。コーヒーは冷めているように見えた。それをゆっくり飲みながら、彼の思いは再び、自分が受け取った何百通という手紙へ、そしてこれから、間違いなく明日以降に受け取るであろう何千通という手紙へと向かうのだった。時に彼は苛立ちを覚えた:何故人々は、他のことならともかく、こうすればこの状況から抜け出せるなどという思いつきを、当然のことだと言わんばかりに述べているのだ?まるで脱出のための出口が際限なく存在するかのように・・・手紙には、特に匿名のものには、二通りの意味に取れる表現が度々見られた。或る手紙には、かつて北部にあった監禁用の塔のことが詳細に書かれていて、そこには復讐の脅迫を受けた男たちが長年にわたり閉じ込められていたという。夕闇の中、孤独に、彼らは命を長らえているが、やがてその全身に夜と、不安と、野蛮と、冬の寒さが入り込んでくる。そこから出て来た時、彼らは目もよく見えず、他の人々のように話すこともできず、笑い方さえもわからなくなっているのだ。人民を包囲から引き上げよ、と匿名氏は書いている・・・野蛮な運命によって野蛮に打ち棄てられた者たちの群れではない、人民総体を。一つの国家を。革命を。[訳註;旧版ではこの後に「それは困難なことだった」と続く。なおコチ・ヅォヅェの話題になってからのくだりは旧版と決定版とで著しく異なり、仏語版全集ともごく僅かに異なっているが、本訳は全て決定版に拠る]
 君たちは何になりたいのだ、「革命のドン・キホーテ」諸君?そんなことを、モスクワでの演説の前の或る夜、「中立派」の一人から言われたことが或る。だがもしも彼らが革命を放棄したなら、それを守っていくことが我々の、この小さな党の義務となるのではないだろうか?我々の意見は違う、とエンヴェル・ホヂャは答えた。おやそうかね、と相手は言った。知っているさ。もう話は聞いている。君たちは今まで互いに、大昔の法に従って殺し合っていたくせに、それが今ではまるで、マルクス主義の原則に従って揃って死ぬ用意ができているようだ。まあそういうことかね、と相手は言った。
 エンヴェル・ホヂャは書類に目を落とした。
 別の項目は、軍の階級廃止と、高級官僚の給与引き下げに関する計画書だった。前の日に頼んでおいたものだった。だがそれを読み終えないまま彼は立ち上がり、執務机と窓の間を数回行ったり来たりした。
 記憶の中で、クレムリンの尖塔が、モスクワの凍りついた空の下に揺れていた。共産主義は若さそのものよりも若いが、しかし国家は年老いたままで、その息の根を止めようとし、まるで古の鎖帷子の如く、その肉体に傷を負わせようとするのだ、そう言われていた。或る程度までは、それも当然のことだ。数千年かけて人間はその祖先から分かたれてきた、ヒトに似た猿から。にもかかわらず、たびたびその身体には、怪物じみた先祖返りが姿を見せてきた。他方、社会主義国家はほんの数年足らずで自らの祖先から分かたれた。その野蛮さ、見境のない粗暴さ、四肢を覆うおぞましい剛毛は、恐るべき形で、長きにわたって姿を現すことだろう。そして、長い時間をかけて労働者階級はそれらとも、国家官僚制とも生死をかけて戦っていかなければならないのだろう。
 高級官僚たちの肩に姿を現すかも知れない支配者のガウン[訳註;原語zhgunは修道士が身に着ける厚手のものを指す]を引きずり落とし、そして、必要ならば、ガウンの次にはその持ち主たちをも引きずり倒さなければならないだろう。あのモスクワで、最後に目にしたありし日の革命の闘士たちをが冷酷な官僚主義者と化すのを、彼は認めることが出来なかった。その変貌ぶりは恐るべきものだった。だがそれは、ひと晩だけで済むことではなかった。醜悪そのものの裁判は冗長で、うんざりするようなものだった。良心による闘い、譲歩、特権やノメンクラトゥーラや供述調書という罠、女子供の酷薄さと、嫉妬と、地位や報酬や車をめぐる噂話だった、あいつは「ジム」を持っているとか、お前は「ヴォルガ」だろう[訳註;ジム(Зим)もヴォルガ(Волга)も共に旧ソ連時代の高級車]とか、新しい車が出るぞとか、誰の車だとか、車種は何だとか、よくは知らんが鳥の名前だったはずだ、カモメか、ハトか、カラスか[訳註;正解は「カモメ」で、原文でもここだけロシア語「チャイカ(чайка)」がアルバニア語(çajkë)で書かれている。前出の二つと同様、ソ連時代の党幹部専用高級車]。何でもっとうまい言い方ができないのか:吸血鬼だ、吸血車だ。
 疫病は悪臭のように社会主義陣営の全域に広がった。革命に贅肉が付き始めていた。四十歳になったソヴィエト連邦の身体に、帝国の白髪が生えつつあった。
 新たなカースト[訳註;原文でもkastë]の誕生は、数年前から人々にとって共通の懸念となっていた。最初は労働者階級への軽視、それから蔑視、そして公然たる憎悪をもって行為は完了し、その後に待ち受けていたのは殺戮以外の何ものでもなかった。[訳註;旧版ではこの後に、支配者は労働者階級から再び「剰余価値」を奪おうとしていたという文が続く]
 エンヴェル・ホヂャは執務室の中をずっと行ったり来たりしていた。窓の外に大通りが見える。ミモザは既に枯れていた。道行く人々はコートの襟を立てていた。どうやら運命は、労働者階級に最後の、恐るべき決闘を残しておいたらしい。
 エンヴェル。ホヂャが立っている目の前のガラス窓は、彼自身の息でうっすらと曇っていた。いかなるカーストの兆候も無慈悲に叩き潰さねばならない。[訳註;旧版ではここに「党幹部の輪番制導入」「全ての権力機関に対する公然たる批判の保障」「レーニン主義的労働者管理」など具体的な施策が続く]そしてもし必要ならば、更にやるべきことがある:労働者階級と全人民に対してはっきりさせるべきなのだ、党に無制限の権利があるわけではないことを。しばらくの間、彼はその考えに没頭していた。
 叩き潰さねばならない、そうだ、もっとだ。あらゆる変化が続けば、それは避けられない。彼の思索は続き、賃金の辺りで膠着状態となってしまった。人々にとってそれは、何年も続く悩みの種だった。恥辱で、憤怒で打ちのめされ、真っ赤になり、黄色くなった顔、古い銃弾や、砲弾や、飛行機の爆撃で傷ついた顔。まさにそのために俺は戦ってきた、ケルキューラの戦いで片腕を失い、ザルヘルで、モクラで、ペロ・イ・チェンヴェで首を差し出しかけたのだ。ナウム・カネタスィがもっと称えられるべきだと、私の代理に過ぎないあの男がだと?[訳註;ケルキラ或いはコルフはペロポネソス戦争で海戦が行われた「ケルキューラ」として有名な島だが、ここは恐らく1940年代の対伊・対独戦を指す。ザルヘルZall-Herrはティラナ北部の村。モクラMokërはアルバニア南東部の地名。ペロ・イ・チェンヴェPërroi i Qenveは直訳すると「犬の急流」だが恐らく固有名詞。ナウム・カネタスィNaum Kënetasiは元パルティザンで、後に閣僚の一人]いや、待ってくれ、ちょっと待ってくれ;それは事実だ、それは当然ながら事実だ、だが今のナウム・カネタスィは閣僚で、それで彼の給与は・・・閣僚だって?ははあ、今はそういうことか。何であいつが閣僚なんだ?あの閣僚たちは我々が地上から一掃した。いや待ってくれ、確かに、我々はあいつらを、連中の閣僚たちを地上から一掃したが、今の我々には我々自身の閣僚がいる、今は我々の国がある。だが彼はそういう考えに浸れなかった。ははあ、閣僚か。そういうことか。だが機関銃が鳴り響いていた昨日まで、我々に閣僚はいなかった。そして奇跡が起こった。それに今は我々にも閣僚がいる。
 それは予想されていた。終戦直後の数日間の、最初の苦悩だった。[訳註;1944年の]11月の寒い日だった。あちこちの瓦礫からは、まだ戦死者の遺体が引っ張り出されていた。旧市庁舎の上階の窓からエンヴェル・ホヂャは「スカンデルベイ」広場と、その真ん中に残るドイツ軍の塹壕と、ねじ曲がった砲台を見ていた。広場はパルティザン兵で埋め尽くされていた。彼らは動き回り、互いに大声をあげ、うろうろ歩きまわったり、足を止め集まったりしていたが、一方でその広場の端から端まで不穏な空気が流れていて、肩を、背中を、腕を揺らしていた。彼らの手には金が握られていた。国営銀行が初めてパルティザンに給与を配布したのだ。彼らは呆気にとられた様子で、緑の、茶色の紙幣を見つめていた、それは彼らが長らく忘れていた存在だった。彼らの多くは、他の全ての王制の時と同様、通貨は死滅したと思い込んでいたのだ。だがそれは生きていた。国庫の穴蔵の奥深く、分厚い金庫の中で守られていたそれは、爆撃にも、攻撃にも、それに対する反撃にも全く影響を受けず、再び空気中に出された今は、パルティザン兵のぎこちなく、日に焼け、痩せこけて骨と皮だけになり、時に包帯を巻いた掌の中で、まるで酔ってでもいるように、かさかさと音をたてていた。彼らは紙幣に向けて身を屈め、必死の思いで、そこにある文字と数字を読もうとしていた(彼らの多くは読み書きと計算を山中で教わっていた)、XC 031579、SR 040028、そして互いに紙幣を見せ合い、まるで比べ合いでもするように指差してみせると、それからまた別の集団の方へ、不可解な謎と、子供じみた歓喜と、不安とがないまぜになった、普段は見ないような輝きとをおびた表情で歩いていくのだった。
 道路という道路を抜け、パルティザンたちは広場へと流れ込んでいた。エンヴェル・ホヂャは長いこと窓際に立っていたが、その時初めて、すぐ下に広がる広場で、彼の目の前で、この新たな自由[訳註;旧版では「革命」]の中の何かが死につつあるのだという思いにかられた。それは悲しむべきことだった。そこには金がある、彼らの中にある。何とかしなければならない、さもなければ、いつか全てが終わる日が来る。武器ではできなかったことが、あの小さな、草色の、茶色の紙切れによって静かに行われていくだろう。
[訳註;旧版ではここに、開設当初のラジオ局とパルティザンのエピソードが長々と挟まっているが、決定版には無い。]
 国営銀行を警護する武装パルティザンたちは銀行の、まるでスフィンクスの脚のような円柱の前で、身じろぎもせず立っていた。忘れかけていた昔ながらの高揚感が、広場じゅうに充満していた。そうだ、すると突然、[訳註;スカンデルベイ広場から]ディブラ通りに続く入口に、初めての買い物帰りのパルティザン兵の姿が見えた。男はこそこそした足取りでスカンデルベイ広場までやってきたが、その両腕にぎこちなく抱えられていたのは、半分チェアのような半分ソファのような、或る種の腰掛けの混ざり合ったようなシロモノで、暗桜色のビロード地で覆われていて、脚にはカーヴがかかり、まるっきり必要もないのに金色に塗られていて、何処の古物店にも出回っているフランスのルイ何とかという形式のまがい物だった。そのパルティザン兵は首も、両腕も、身体中ひどくねじ曲がっていた。見たところ、その家具は持ち運ぶのにひどく難儀そうだった。パルティザン兵の姿は滑稽で、醜悪でさえあった。
 武器と紙幣を手にした者たち、国営銀行の円柱の傍でヘルメットをかぶって立つ警護兵、小旗とパルティザンの部隊で溢れかえるスカンデルベイ広場、そしてロココ調の椅子とが相俟って、それらの全てが理由ありげに、また理由なさげに、記憶の中を駆け抜けるのだった。 [訳註;ここから「エンヴェル・ホヂャは時計を見た」の前までの記述は初版にもなく、決定版で初めて書き足されている]
 机の上の左側に、もう一度落ち着いて読むつもりで置いてあったのは、ティラナの党委員会での、首都の精神状態に関する発表原稿だった。あらゆる階層の住民が、高熱に浮かされたようになっていた。ありし日のブルジョアジーや聖職者や商人や旧地主どもは、手もなく一掃されたにもかかわらず、依然として火のついたような状態にあった。一方で、老共産主義者や元パルティザンや、内務、国防両省の高官たちは、相変わらず夕べになると互いに顔を合わせていた。共産主義体制下の十五年が経って、幾分かは色褪せた憎しみが息を吹き返そうとしていたが、妙なことに、それはもはや昔のままではなかった。痛みよりもむしろ、そこには好奇心があった。もう何年も、彼らは互いに何の関係もなくなっているようで、それぞれの務めに生きていた:共産主義者はその営為の中で憤激の炎を燃やし、ブルジョアジーはうなだれ沈黙した。それから不意に再び思い出したのだ、自分たちが同じ世界で、互いに隣り合って、ほとんど混じり合わんばかりになって生きていることを。そして両者の側から出された問いかけも同じものだった:今から陣営[訳註;東側陣営]を抜けるというのか、西側につくというのか?その問いかけは不安と、恐怖と、愉悦と、希望と、混乱とを呼び覚ました。だがこれまで通りに平穏なものなど何もなかった。恐怖の中にも甘美なるものが秘められ、愉悦にもまた不安の影がよぎるのだ。
 エンヴェル・ホヂャはまた更に、今読んでいるものへと引き込まれていった。彼は赤のペンを持ち、いつものようにアンダーラインを引き始めた。人々の中で二つの大きなグループが再び姿を現しつつあるらしい:体制に忠実な者たちと、その他、或る時は反対派だと、或る時はブルジョア的だと、また或る時は単に国家に対して冷淡なだけだと称される者たち。その両者の境目にたむろしているのが傍観者たちや、何も気にしていない連中や、何でもかんでも怖がる連中や、好奇心が強いだけの連中や、ゴシップ好きな連中、そして向こう見ずな奴ら[訳註;原語はkurrafshamosuvrafshと超長く、辞書にも載っていない。ここでは仏語版の“casse-cou”に拠った]だ。
 書類の中には、各方面からの発言や報告や書簡が含まれていたが、そのほとんどが主に二つのグループに分かれていた。右側[訳註;原文では「右翼、右派」の意味にもとれる]にあるのは極端な思想だ:我々の時代が来た、今や連中が望もうと望むまいと、何もかもが姿を見せるだろう、我々の土地が戻ってくる、刑務所も解放されて、ほとんど誰もいなくなる。更に和解の空気も生まれる。過ぎ去ったことも、忘れ去られたことも。神に誉あれ、何と素晴らしいことだ。今度こそは、たとえそれが我々を刑務所に送った者だとしても、我々は共にある、とその誰かは書いていた。アルバニアから共産主義という疫病を取り除かない限り、我々の苦悩は報われない[訳註;;原文ではhallallという語が使われているが、これはアラビア語のハラール「許されたもの、正しいもの」に由来する外来語]
 エンヴェル・ホヂャは保存された一連の書類を再読し、一人つぶやいた:そら見たことか、そら見たことか・・・
 共産主義者の側では、正反対の空気がまた一段と、激しさと濃密さを増していた。一部の者たちは、ソヴィエト連邦との間に破局があり得ることさえ信じようとせず、フルシチョフの失脚を待望し、共産主義にその身を捧げる覚悟はできているぞと声をあげ誓いの言葉[訳註;原文は「誓いと雷」]を叫んでいた。そして言葉の奔流の中、あたかもそこに放り込まれた一本の木のように、ことわざを繰り返すのだ:水源地で争わば水なしのまま。[訳註;双方が争っているばかりではいずれも利益を得られない、という意味]
 エンヴェル・ホヂャは目をこすった。こうした状況も、こうした誤解も、長くは続くまい。あと少し経てば、両者[訳註;アルバニアとソ連]の間は硬化するだろう。打倒された者たち[訳註;アルバニアの旧支配層]は、ソヴィエト連邦との破局を共産主義との訣別と見なすだろうが、すぐに失望させられるだろう。彼はあの連中の苦々しい言葉をよく知っていた:あれでなんにもならなかったなんて、期待しただけ無駄だったなんて。狼どもの習慣を改めるようなものだ、共産主義者どもの習慣を改めるなんて[訳註;つまり、ひどく困難だということ]。別のやり方をとった場合、熱心な活動家たちの失望は小さなものではなかっただろう。フルシチョフと別れたつもりでいたのに、生きたままソヴィエト連邦と、水源地と、城砦と別れる羽目になるなんて・・・
[訳註;要するに、ソ連から離れて資本主義に戻りたいと思っている人たちと、ソ連からは離れるが社会主義は堅持したいと思っている人たちのことを言っていると思われる]
 それらの書類をめくるたび、エンヴェル・ホヂャの頭の中に、同じような疑念が生じてくるのだった:両者のうちどちらが、今この時期にとってより有意義なのだろう?それは二方向に作動する機械だが、あくまで一時的なものでしかない。やがて春になり、そしてたぶん夏の初めになれば、最初に受けた失望を経て彼らが苛立ち始め、彼はその打倒を余儀なくされるだろう。たぶん、今この時から、その兆候は出ているはずだ。
 いつものことながら、ことこういう点になった時、思考の流れは、最初の激流が収まれば、ややゆっくりとしたものになってくる。打倒するのだ、だが誰をだ?片方の腕か、もう一方か、両方か、どちらでもないのか?
 今のところはどちらでもない、エンヴェル・ホヂャはそう思った。今のところ、この両者は霧の中で迷ったままで、まだ危険なものではない。いずれ、どうするか見てやろう。
 エンヴェル・ホヂャは時計を見た。三時頃にはドイツの[訳註;航空]会社の飛行機が到着する、ワルシャワ条約の会議に出ていたアルバニア代表団がそれで帰ってくるのだ。もう24時間前もからずっと、彼らの戻るのを今か今かと待っていた。その会議で取り扱われていたのはヴロラの基地問題、とりわけ共有の潜水艦と巡洋艦に関する件だった。向こうは基地の取得を望んでいる。武装せる者が誰しも、最後の最後に投降しようと声をあげるその前に武器を出せと要求されるのと同様、彼らはまず初めに、アルバニアからその昔ながらの恐るべき武器を取り上げようとするだろう:それがパシャリマンだ。
 エンヴェル・ホヂャは、午後に話す予定の演説原稿をめくり始めた。アルバニアの人民よ、我々のかつての友が我々に背を向けた。我々は自力で耐えてきた。1460年の時のように、1860年の時のように[訳註;1460年はスカンデルベウのイタリア遠征を指すと思われる。1860年については不詳だが、オスマン帝国支配下のコソヴァにおけるアルバニア人の反乱が概ね鎮圧された時期に当たる]。彼は原稿をめくっていった。そんな言葉はその原稿の何処にもなかった。あるはずがなかった。今もそれらは彼自身の中で昼も夜も、昼も夜も、絶えずぐるぐる浮かび上がってきて、それが抗いがたい欲求と共に、口元にまでせり上がってきたのだ。彼は分かっていた、午後には自分の演説を聞きながら、数十万人がこう自問するであろうことを:本当に封鎖があるのだろうか?と。
 そうだ、と彼は自答した。封鎖になるだろう。その封鎖は情け容赦なく、中世じみたものになるだろう(あらゆる新聞が、洪水地域での発掘について、中世に包囲されていた城で水路を開いたが故に神聖視された馬の墓所について書いていた)。封鎖については全く疑う余地がない。二週間前から、国は封鎖状態にある。彼の脳裏にふと別のことが浮かんだ。それは一つの行進のイメージだった:陽の光が槍の上に、旗の上に、社会主義諸国の国章の上に、ワルシャワ条約のエンブレムの上に燦々と降り注ぐ。それらは不吉な輝きと共に、解放のための十字軍へと進んでいた、だがしかし何の墓へ?マルクスの墓は北の方に、ロンドンにある[訳註;カール・マルクスは亡命先の英国で没し、ロンドンのハイゲート墓地に埋葬されている]。だが彼らが進むのはまるで逆の方向だ、欧州の中心部へ、南東部[訳註;バルカン半島のこと]へ向かっている。そこには墓があるのだ・・・馬の墓が。
 数日間というもの、そのイメージの部分部分が頭の中をよぎっていたが、1月21日の正午というこの時刻になって初めて、中央委員会の建物の三階の、広い執務室で、次のような問いが不意に、陰鬱なほどにはっきりと形をとって現われたのだ:本当に占領[訳註;旧版では「攻撃」]があるのだろうか?と。
[訳註;ここから「午後三時頃、彼らがティラナ近郊へ入ったのは」の前までは決定版のみに存在する]
 それはまだ誰も発したことのない問いだった。だがしかし、彼が受け取った手紙の中に、報告の中に、公開、非公開の発表の中に、その問いは果てしなく存在していたのだ。親愛なるエンヴェル同志よ、私たち一介の共産主義者には、かのモスクワの地で起こったことについて知る権利などないのでしょうか?幾千もの人々が、真実を知りたい気持ちを抑えきれず、燃え上がっています。その対立は予期しないものだったのですか、避けることもできたのではないですか?噂されていること以外に、何かもっと深い理由があるのではないですか?
 確かに、あのモスクワじゅうを覆っていた霧は一つの謎めいていて、人々はその謎を探し求めていた、或る者は懇願しつつ、また或る者は神経質に、そして大多数は恐れを抱いて。
 君たちはずっと探し求めるだろう、とエンヴェル・ホヂャは思った。人生の全てをかけて、だが無駄なことだ。
 それ[訳註;謎]は意識の何処か片隅に、余りにも深く身を潜めていたので、彼自身、その存在に対する疑念をようやく抱き始めたほどだった。人が他人の前で全てをさらけ出せるように思える、緊張が解けた、そんな瞬間に、自分の演説をこういう言葉で始めるのはもうほとんど当然のことのように思われた:アルバニアの人民諸君、モスクワで起こったことを最後まで説明するのは難しい、何故なら私自身にも分からないからだ・・・完全には。

 午後三時頃、彼らがティラナ近郊へ入ったのは南方面の道路からだった。路上はすっかり泥だらけになっていた。
 耕された農場の土地の上に冷たく広がる電線を見ながら、ベスニクは不思議に思わずにはいられなかった、この大地の上を走る電線のように、人間の労苦によって人間同士の会話の品格を増すようなことはできない、しかしそれを正確に伝えることはできるのだ、ちょうど電話口ではっきりと話すように。あの電線を通して、ザナのあの「もう遅いのよ」がやって来た。彼は幾度も思いを巡らせた、ザナに何か取り返しのつかないことが起きたのだ、どうやら誰か第三の人物が関わっていて、彼女の人生に入り込んでくるようなことが起きたのだ、と。だがそんな疑念もすぐさま消えていった。
[訳註;旧版では、午後3時15分頃に帰宅すると家族全員が待っていて、母ラボや妹ミラとの会話(しかもラボは息子と婚約者ザナとの破局に勘づいている)の途中に電話が鳴るのだが、決定版には家族とのやりとりがほとんどない]
 家に戻るとすぐに電話が鳴った。編集部からだった。レーニン追悼記念の会議に行かなければならないらしい[訳註;レーニンは1924年1月21日に没した]。エンヴェル・ホヂャも演説するという。
 ベスニクはミラに言って、暗色のスーツと白のシャツを出して貰った。
 また電話が鳴った。ベニにだった。ベニは驚いた様子で長々と口笛を鳴らすと、会話を止め、誰に向けてでもなくこう言った。
「ソヴィエト連邦から戻ってきた学生のコートを分けてもらえるんだって。どうなってるんだろうな」
 ベニは急いで着替えると出て行った。
[訳註;旧版ではここに、仕事に就いて初任給を得たベニの「更生」ぶりを父ラボが誇らしげに語るくだりがあるが、決定版では跡形もなくなり、ベニとベスニクがほとんど同時に出かけたような描写になっている]
 それからすぐ、ベスニクも家を出た。絶えず流動し、まるで落ち着きのない洪水の光景を目にした後だけに、この町の舗道や堅牢たる建物が彼に安定感を与えた。同盟広場を抜けて、11月28日通りに出た。右手の舗道で、何かがベスニクの目に止まった。通行人が大勢立ち止まり、何やら上の方を見ている。ベスニクが顔を上げて見ると、「ソヴィエト書籍市」と書かれた大きな看板が外されていて、今度は「国際書籍市」と書かれた別のものを、ちょうどロープで引き上げているところだった。気をつけろよ、と作業員が一人、上の方から叫んでいた。その少し向こうに目をやると、「クリミア」バーの看板も同様に外されていたが、そちらはまだ何も付け替えられていなかった。
[訳註;決定版では看板の描写はここまでだが、初版以降の旧版では次にもう一段落ある。ベスニクが大通りに出るとそこには数日前から、労働者、農民、兵士、学生が手を携え並ぶ姿を描いた巨大なプラカードがあり、「何ものも我らを分断することはできない」というスローガンが書かれている]
 記念会議が行われる建物の入口の前には、車の列が何処までも続いていた。ベスニクは入口で記者証を見せ、中へと入った。誰もがドアからドアへと通り抜け、足早に行ったり来たりしていた。誰かが小声で呼んでいた:早く、早く。ベスニクはホールに入った。席はすっかり埋まっていた。黒の背広に、白のシャツ、そして議場用の長いテーブルに敷かれた赤い布の向こうに、まだ空席のままの椅子の背もたれが見え、その背後には、よく見知った二つの眼が、何処かしら深いところからホールの全体を凝視していて、光をまとったように微かなきらめきを帯びて、誰かの視線とかち合うのだ。レーニンだった。
 照明の灯りが人々の頭上で静かに、ちらちらと輝いていた。すると突然、その静けさが拍手に包まれた。議場にエンヴェル・ホヂャが、その後に続いて政治局員たちが入ってきたのだ。エンヴェル・ホヂャの顔色は沈んでいた。両頬と下唇は鉛のようだった。彼は手を上げて拍手を鎮めると、席に着いた。政治局員たちも、それに続いて席に着いた。ただ一人、政治局員の姿が欠けていた。女性の政治局員だ。拍手が終わると、ホールには深い静寂が下りてきた。今まで祝典の場でこんなことは一度もなかった。エンヴェル・ホヂャが話し始めた。よく知られた彼の声だった、ただ静寂だけが違っていた。ベスニクは自らの意志に反して、自分が急速に[訳註;クレムリン宮殿の]ゲオルギーの間へと引き戻されていくような気がした。彼は今まで何度もあのホールへと引き戻されていた、とりわけ夜、夢の中で。皆その場にいた、あの時のように、だが形は歪み、人間の時間や次元の外側にあった。何をそんな風に、まるで墓石のように固まったまま、何を待っているんだ?勿論、待っているのだ、何かを。瞳孔が開ききったような眼で演壇の方を凝視しているその様子からも、それは明らかだった。そこには先程からずっと、人影がなかった。それでも彼らは待っていた。ずっと長い時間そうしていた。たぶん四十年か、たぶん百四十年か。演壇には草が生い茂り、それでも彼らはまだ待ち続けた、エンヴェル・ホヂャが戻ってくるのを、そこへやって来て、低い声でこう語るのを:兄弟よ、戦友たちよ、私は戻ってきた、ご容赦を願う。
 ホール内に拍手が響いた。ベスニクは次々と飛び出す語や文を機械的に訳し始めた。すると急に、自分が絶えず党から除名される危機にあることを思い出した。しかも理由は・・・何の意味もないことのせいで。あの最も困難な時期に、党第一書記の通訳まで務めた自分が・・・確かにあの仕事中、自分は古ロシア語を間違えた、だがあれは、それほどまでに訳すのが難しかったのだ・・・古典劇を訳すより難しかった・・・もしそれが、まだ[訳註;アルバニアとソ連の]関係が正常だった一年前に起きていたなら、何もかも違っていただろう。ベスニクは、会話を間違えて訳し、これっぽっちも誤解などありようもない所で誤解を生みだしたと咎められ、本当に党から追放されるかもしれない。だが今回、かのモスクワでは、何もかもが根こそぎ破断されていた。全てが崩れ落ちた。残っているのは幾らかの外との繋がり、幾らかの言葉や表現ばかりだった、そう、あの瓦礫の上でぶらぶら揺れている電話線のように。だがそれでも、彼には追放の危険があった。別のことで。信じられないことだ、彼はそう思った。そう思えてくるほどに、同時にまた、いよいよ取り返しのつかないことにもなりそうに思われた。何処か根底のところで、何かが壊れている、それも彼には修復のしようもないものが。土地は水浸しだ・・・奥底深くで何かが起こっている。
 議場は再び拍手に包まれた。エンヴェル・ホヂャの眼には今、憤怒の瞬きがあった。ベスニクは再び無意識のうちに全ての語と文とを訳し始めた。彼の頭脳は熱を帯びたように働いていた・・・四角に並べられたテーブル。冷ややかな視線が、二つと二つ、二つと二つ、ウルブリヒトのW字型の髭、いや髭だけではない、その顔全部だ。ホー・チ・ミンのまばらな、殆ど天界の如き髭・・・幾千もの房飾りのついたスペイン女の黒いショール・・・声に出して通訳したいという思いは耐え難いものになりつつあった[訳註;第2部のモスクワ会議に登場したドイツ民主共和国(東ドイツ)のヴァルター・ウルブリヒト、ヴェトナムのホー・チ・ミン、スペインのドロレス・イバルリを指している]。俺は病気だ、とベスニクは思った。どうやら熱があるらしい。たぶん風邪をひいたんだな、そう思った。あの洪水でだ。洪水は、新聞の第一面に突然ぽっかり開いたあの穴から始まっていたのだ。では自分とザナとの亀裂は、何処から始まっていたのか?嗚呼そうだ、二人の亀裂だ。ベスニクもう遅いのよ。彼は皮肉混じりに苦笑しそうになった。畜生めこれは何てことだ、もしザナがそこで起こっていたことを何も知らないのだとしたら。畜生め何てことだ、もし彼女が、もう遅いのよと言って譲らないのだとしたら。再び拍手だ。もう遅いのだ、あの時エンヴェル・ホヂャはそう言った。あの黒いジムの夜に。もう誰も受け入れたくない。もう遅いのだ。雪の上を滑る、最後のジムのライト。それが去った後に閉ざされた[訳註;アルバニア訪ソ代表団が滞在していた]邸宅の鉄門のきしみ。そんな些細な出来事について繰り返し言うことなど出来やしないんだってことが、どうして彼女にはわからないんだろう・・・まさか、何もわかっていないとでも?村は燃える・・・彼女は・・・髪をとかす[訳註;という諺があるらしい]。いや、違う、そうじゃない。そういう言い方をすべきじゃない。たぶん自分のせいでもあるのだ。彼女がその戯曲の規模を理解できるように、自分が手助けすべきだったのだ。聞いてくれザナ、僕がいたのは・・・地獄だったんだ。悪く思わないでくれ。僕は気が動転していたんだ。僕はあの場所にいた、あの破局の只中に。わかってくれないか?あの震源地にだ。予想もしていなかった場所で大地が揺れていた。突如大穴が開き、陥没し、沈下した。硫黄のガスが噴き出した。息が詰まった。目が眩んだ。地球全体が揺れるのを感じた。そこでは実際、もう遅かった。なのに君ときたら、ほんのくだらないことで、電話で喧嘩したぐらいのことで『もう遅いのよ』なんて言うんだな。とんだお笑いぐさだ。

同じ頃、電気工学科の各講義室では、ソヴィエト連邦から帰国した学生のコートの配布が続いていた。ベニとマクスとサラは今来たばかりだった。教室内には喧騒と笑い声が溢れていた。二、三箇所にひびが入った大きな木箱が、隅の方に並べられていた。それらの中身はというと、空っぽになっていた。四つ目の箱も空っぽになりかけていた。アルブインポルト[訳注;Albimportは社会主義時代の対外貿易公社。たぶん現存しない]の担当者が一人、憔悴した顔つきで、立ったまま煙草をふかしていた。他に二人、おそらくその手伝いで来たのだろう、コートを次々取り出して、集まった学生たちに見せていた。コートには名前も住所も、縫い付けられてもいなければ、貼り付けられてもいなかった。それらが七つの大きな木箱に詰め込まれ、合計1257キロと重さだけが書かれた書類と一緒に、ドゥラス港に到着したのだ。アルブインポルト担当者の助手二名は、コートを箱から引っ張り出すと、持ち主がすぐに自分のものとわかるようにそれを広げてみせた。ところが、大きな講義室に押し寄せた大勢の若者たちの中には、帰国した学生らの他に、ただ友達に付いてきただけの者や、単なる冷やかしで来た者もいたのだ。その一団の中で、ほかならぬ帰国した学生たちはひっきりなしにざわめき、箱からコートが引っ張り出されるたびに手を叩き、笑いながら、半分アルバニア語、半分ロシア語で、歓喜の声をあげるのだった。拍手はまた、同じコートに二、三人の挑戦者が名乗りを上げ、やがてそれが誰のものか判明した時にも沸き起こったし、また逆に、コートの持ち主がなかなかそれに気付かず、アルブインポルトの担当者が、そのコートの襟やボタンの型についてわかるように説明を繰り返さざるを得ないような時にも沸き起こった。そんな時は、ひとしきりの沈黙と困惑の後に、突然、不自然に「自分のだ、自分のだ」という声が聞こえてきて、ただその声だけを待ち望んでいた学生たちは、安堵の声を漏らすのだった。コートを手にした学生たちはというと、或る者は少し前屈みで、また或る者は空疎な微笑をたたえ、更にまた別の者たちは道すがら野次や冷やかしの声に応じつつ、集まった者たちの間を通り抜けていった、受け取ったコートを無造作に抱えている者もいれば、すぐさまそれを身に着ける者もいたが、一方で、まるで見慣れた顔の上に不意に皺を見つけたように、コートに寄った皺の上にぼんやりした視線を落としている者もいた。
「ほら言っただろう?大した見ものになるってさ」サラは嬉しそうに掌をこすり合わせながら言った。
「誰のですか、このコート!」コート配布係の一人がもう一度声を上げた。喧騒は次第に薄れていった、まるで猫ができるだけ高く跳び上がろうと力を蓄えているように。
「このコート、誰のですか?」また配布係が声を上げた。三度目に声を上げてもコートの持ち主が出て来ないのは初めてだった。講義室全体が身構えていた。配布係はコートを全方位へ広げてみせた。全員の眼が熱に浮かされたように輝いていた。配布係は首を振って、アルブインポルトの担当者の方に目をやった。
「ちょっと待った」そう言うと、担当者はタバコを投げ捨て、近寄ってきた。彼はポケットに手を突っ込むと、何かを取り出した。一枚のありふれたハンカチだった。それからまた何かを探していた。講義室内に、押し殺したようなひそひそ声が広がった。担当者は一枚の紙切れを読むつもりで目の前に掲げた。完全な沈黙が訪れた。
「Dの1。22の29」彼は不確かな声でそれを読み上げた。
「ああ、リダだ」すぐさま誰かが、どちらかといえば押し殺した悲鳴にも似たような声で叫んだ。赤いスカーフを巻いた学生が一人、まるで夢から醒めようとでもするかのように掌で額を叩くと、箱目がけて駆け寄った。
「リダだ、中央郵便局の」と呟きながらその学生は目をかっと見開き、まるでそこに彼女自身がいると思い詰めてでもいるように、アルブインポルトの担当者を凝視していた。
[訳註;電話番号D 1-22-29番のロシア人女性リダについては第2部を参照されたし]
「おおおおわあ」その学生が人だかりをかき分けていくと、その中から声が上がった。
「自分のコートはわからなくても、彼女の電話番号は憶えてるんだな」誰かが声を上げた。
「おう、リュボーフ、アムール」
「リドチュカよ」別の誰かが声を上げた。
「もういないリダよ」
「リダぞ恋しきか、兄弟よ」と誰かがすぐ耳元で声を上げると、その学生は、真っ青になった額に小さな汗の粒をびっしりかきながら退散した。
[訳註;リュボーフ(Любовь)とアムール(amour)はそれぞれロシア語とフランス語で「恋愛、恋人」の意。また女性名リドチュカ(Лидочка)の愛称がリダ(Лида)]
 アルブインポルトの担当者たちは五つ目の箱を開け始めた。
 そうしてそれは夜遅くまで続いた。11月28日通りまで戻ってきた時、いつも煙草を買っているバー・クリミアの看板が新しいものに付け替えられているのが目に入った:
「バー・ヴォルガ」
 ベニたちは笑いころげた。何て間の抜けた話だとベニが言った。何か他に名前はなかったのか、と。
[訳註;旧版ではここに、ベニの初任給、勤務先の工場でソ連との断絶に関する集会が催される件、工場の屋根に対空砲が設置されるといった会話が展開されているが、決定版では全て削除されている]
 同盟広場で鋭い風が吹きつけてきた。
「何て冬だ」ベニが言った。
「地軸が動いてるらしいぜ」サラが言った。
 ベニたちはジャケットの襟を立てた。
「がしかしだね、二度目の大規模な反乱、ブシャト家の人々とアリ・パシャの反乱は、失敗したんだよ」と一人の背の高い男性が、連れの人物と話していた。
[訳註;「ブシャト家」の原語Bushatllinjはオスマン帝政期のシュコダルを拠点としアルバニア人の独立運動に加わった封建領主の一族。「アリ・パシャ」は第3部序盤で話題になっていたアリ・パシャ・テペレナ(Ali Pasha Tepelenë)のこと]
 サラは笑いを抑えようとでもするように口元に手をやった。
「聞いたか、あの阿呆どもを?」とサラは、その男性二人のしわがれた声が背後に残っている中で言った。「俺は昨日何を食ったかも憶えてないのに、あいつらが思い出してるのはアリ・パシャなんだ」
「わかってるさ、人間ってのは夜になると殊の外歴史を思い起こすもんだって」マクスが言った。
 ベニが家に帰った時、最初に彼の目に止まったのはラボの眼の異様な輝きだった。ラボはベニに気付いていないかのようだったが、やがてゆっくりと話しかけてきた。
「ベニ、あんたに軍からの招集が来たわよ」
 ベニは黄色の書面に書かれた『命じる』という言葉と、二つの印章と、そしてその上に書かれた細長い、異様に細長い署名を見た。ベニは口をぽかんと開けたまま立ち尽くしていたが、やがて、誰を見るともなく、消え入りそうな声でこう問いかけた:どうして?
[訳註;初版では上記までだが、第二版以降ではこの後、署名を見つめるベニの傍らで、父ストルガがラボに『時ぞ来たれりだ。息子たちも大人になった。一人はモスクワでフルシチョフと一戦交え、もう一人はこれからパシャリマンで一戦交えるんだ。さあもう一杯やろう』と勇ましく語っている。しかし決定版では削除され、初版の内容に戻っている]

 外では身を切るような風が吹いていて、劇場のポスターの端の部分を細かく引きちぎると、更に別の部分の、演目の開始時間やその他に、出演者の名前や、恐らくは演目そのものまで引きはがそうとでもするように、ポスターの表面をバサバサと鳴らした。
「というわけで、アルバニアの二度目の反乱は失敗したんだよ」背の高い男は、ずっと連れに話し続けていた。
「どうしてそうなったか、今までに考えてみたことがあるかね?」
 連れの方は男をじっと見つめていたが、その視線は目の前にいる人物ではなく、その傍らの方に向けられているようだった。
「スカンデルベウの時代のアルバニアは、35年にもわたってオスマン帝国に立ち向かっていたんだ、帝国が当時その栄光の頂点にあったのにもかかわらず」背の高い方は喋り続けていた。
「三百何十年も経って帝国が没落の淵に立たされた時、アリ・パシャ・テペレナに率いられた二度目の反乱がかくも悲劇的に敗れ去ったことをどう説明したらいいのだろう?」
 風が叩きつけてきて、遂にポスターの半分を引きはがし、勢いよく裏返しにした。
「どうだい?」背の高い方の男が声を上げた。
 連れの男はそれをぼんやりと見つめていたが
「君わかってるんだろう、そんな質問には自分で答えればいいじゃないか」と言った。
「僕は聞いてるからさ」
「それもそうだな」背の高い方が言った。
「僕はずっとこの件に関わってきて、もう結論に達しているんだ、アルバニアにおける二度目の大規模な反乱が失敗したのはだね、アリ・パシャが[訳註;旧版では「カラ・マフムート・パシャ・ブシャトリもアリ・パシャもそしてアルバニアのパシャたちも」]アルバニアを領導するのに相応しくなかったからであって、それでアルバニアは彼その人を見放したんだ、と」
「それはその通りだよ」連れの相手が言った。
「アリ・パシャは何にせよ、大いなる孤独の者だったんだな」[訳註;ここで「大いなる孤独の者」と訳したvetmitar i madhは、奇しくも本作品名にある「大いなる孤独」の原語vetmi e madheとよく似た表現になっている。名詞vetmitarには「孤独な人、隠遁者」等の意味がある]
 アリ・パシャの斬られた首は、二月の中旬に、皇帝の使者の馬車に載せられたのだ、と背の高い方は思った。彼は、歴史文書館の光溢れる寒々とした部屋を思い出していたが、そこには数か月前からアルバニア人民の反乱の哲学に関する本のための材料が集められていた。無数の文書の中には、民族意識の中から反乱の理念だけを根こそぎにするためにトルコが用いた、ありとあらゆる手段が記されていた。それは冷酷な、身の毛もよだつような技術であり、テロルから、民謡の衰退、果ては言語の使用を麻痺させることにまで及んでいた:ニャ、デュ、トレ、カトル・ラク、おっと、ペセ、アー、ベー、セー、何だ、何だっけ、くそっ・・・[訳註;アルバニア語の「1」から「5」までの数詞はnjë, dy, tre, katër, pesëだが、ここでは「4」にあたるkatërにトルコ語の接尾辞lıkと思しき-llëkがついている]
 それら全てを彼は静かに思い出していたが、やがて声を落としてこう言った:
「今もそうだ、どうやらアルバニアは、三度目の挑戦を始めたところらしい」
 連れの男はそれをじっと見ていた。
 二人はしばらく無言で歩いていたが、やがてどちらかが言った:
「何という冬だ!さっきのあの若造どもの話を聞いたかい?何でも地軸が動いてるらしいぞ」
「動いてるのは、もっと何か大きなことだ」もう一人の方が言った:共産主義の軸が動いている、だがそれを大きな声で口にするには、もっと言葉を選ぶ必要があるように思われたので、だからこう繰り返した:動いてるのは、もっと何か大きなことだ。
 バリケード通りを風が吹き抜けた。

(第4部につづく)


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