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イスマイル・カダレ 『大いなる孤独の冬』


訳者後記

 ここで翻訳した長編小説の題は、2006年夏の翻訳開始時には『大いなる冬』( Dimri i madh )でしたが、「第3部 冬に入る国」で折り返し地点を回ったのを機に『大いなる孤独の冬』( Dimri i vetmisë së madhe )に変えています。というか実はこれが本来のタイトルなので元に戻しただけですが、これにはちょっとした事情があります。
 元々カダレにはアルバニアの戦後外交を題材とした「対決の時代(Koha e grindjes)」と呼ばれる3部作の構想があり、1作目でユーゴスラヴィア、2作目でソ連、そして3作目で中国との関係悪化&断絶を描くつもりだったそうです。このうち2作目が『大いなる孤独の冬』と題して1970年代に、3作目は『季節の終わりのコンサート( Koncert në fund të stinës )』と題して1980年代に世に出ています。1作目は今も書かれていません。
 カダレが1971年に執筆し、1973年に単行本として刊行した時点で、この「2作目」の書名は Dimri i vetmisë së madhe でした。“vetmia e madhe(大いなる孤独)”の属格形で名詞“dimri(冬)”を修飾しているので、「大いなる孤独」の中の「冬」という意味です。
 しかし初版刊行後「我が党と指導者のマルクス・レーニン主義の原則に則った栄光ある決断を『孤独』とは何だ『孤独』とは!」と言われた......かどうかはともかく、当局から批判を受けて1978年の第2版では書き換えが行われ、書名も Dimri i madh に短縮されました。形容詞“i madh(大いなる)”が“dimri(冬)”を直接修飾しているので、「大いなる」存在は「冬」そのものだということになります。
 更に1981年の第3版では、書名こそ変わらないものの、初版より分量が増えています。そして興味深いことに、現在出ている「最新決定版」では、この第3版で加筆された箇所が殆ど全て削除されています。よほど意に沿わなかったのでしょうか。

 このカダレ最大の長編の翻訳は仏語、独語、西語、スウェーデン語などごく僅かです(英訳? ありませんそんなもの)が、多くは上述の第2版や第3版を底本としています。そのせいか書名も「大いなる冬」に相当する訳語が用いられています。
 本訳の底本はFayard社のアルバニア語版全集第7巻に掲載された「最新決定版」( Dimri i madh. Vepra, vëllimi i shtatë, Fayard, Paris 1999)です。その後2012年にアルバニア本国で出版された単行本もありますが、内容は事実上同一です。翻訳時には「全集」仏訳版( L'hiver de la grande solitude. [traduction del'albanais de Jusuf Vrioni] Œuvres, tome septième, Fayard, Paris 1999)と独訳( Der große Winter. Ungekürzte Ausgabe [übersetzt aus dem Albanischen von Johannes Faensen & Bodo Gudjons], dtv, München 1989)も参考としました。スウェーデン語訳(Den hårda vintern. [översättning fran franskan av Marianne Eyre], Modernista, Stockholm 2014)は現時点で最も新しい翻訳ですが、旧版仏訳からの重訳です。西語版(El gran invierno. [traducido por Jesús Hernández], Ediciones Vosa. Madrid 1991)は入手できていませんが、訳名から見て旧版に拠るものと思われます。現在入手可能な「最新決定版」にもとづく外国語訳は、「全集」の仏訳版を除けば、この日本語訳のみです。
 なお第2部までは旧版との比較をしながら山ほど註をつけていましたが、そんな調子でいちいちテクストクリティークをやっていたら永遠に終わらないので、第3部以降は「最新決定版」にのみ沿って訳しています(なお著者手稿を用いた本格的なテクストクリティークはパレルモ大学のMatteo Mandalàが着手しており、その一部は既に出版されています )。「訳註」で「旧版」とあるのは特に断らない限り、労働党時代に大幅加筆された「第3版」のことです。

(2021年1月 5月一部増補)