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イスマイル・カダレ 『石の町の記録』




第4章

「あんた痩せてるねえ」祖母が言った。「何日か爺様のところに行っておいで」
 私は、爺様のところに泊まりに行くのがお気に入りだった(うちでは母方の祖父をそう呼んでいたのだ)[訳註;ここで「爺様」と訳したbabazotには、一般に「祖父」を表すgjyshと異なり「家長」の意味もある]。気に入っていたのは、その土地がずっと快活で柔和だったからだが、最も大きいのは、私の家にあるような飢えがそこにはなかったことだ。私たちの大きな家では、物置も、とりわけ倉庫も空っぽなせいだろうか、飢えをより一層感じるようになっていた。それに、私たちの地区は灰色で、建物は殆どくっつかんばかりにひしめき合っている。そうやって何もかもが昔からずっと、何百年も前から定められ、固定されていた。通りも、曲がり角も、家々の敷居の隅々も、電柱も、その他ありとあらゆるものが石で鋳込まれたようになっていた、昔からずっと。一方、爺様のところでは全てが違っていた。そこでは何もかもが柔軟で、変化に富んでいた。そこでは通りも路地も、一週間前に通ってきた場所を忘れてしまったかのように、密やかに、騒ぎ立てることなく左へ、或いは右へと向きを変えていた。それというのも、そこには石の板が一枚も敷かれていなかったからだ。地面はそのまま、望むがままに、平地のままにしておかれ、或いは例えば切り開かれ、切株置き場は騾馬が荷を下ろすように小川へと流れ込んでいた。しかも地面は滑りやすかった。こうなるとまるで人間のようだ:季節の移り変わりによって太ったり、痩せたり、美しくなったり、不機嫌になったり、醜くなったりする。一方私たちの住む地区はといえば、こうした変化とはまるで無縁だった。
 何より不思議なのは、その地区には家が二軒しかないことで、爺様の家ともう一軒とは二百歩ほども離れていた。その二軒の間に広がる荒地も異質なものに見えた。朝暗いうちはそこをイタチらしきもの[訳註;原語shqarthは中欧に生息するムナジロテン(学名Martes foina)を指す]が駆け回ることもあったが、日中は何ひとつ起こらなかった。蛇は地中で眠る仕度に入っていた。ずっと昔にどこかから転がってきて、灌木や雑草の間のあちらこちらに留まっている大小の岩石が、その荒涼ぶりに拍車をかけていた。その地区はこの町の、誰の目からしても死せる部位の一つだった。そこの通りや路地が、まるでその地を見捨てたくてたまらないかのように不安定かつ長続きしないのも、偶然ではなかった。そうした雑草がありふれたものになり、ますます怖いもの知らずになり、思いもよらぬ場所で顔を出すようになっていたのもまた、偶然ではなかった:通りの真ん中に、泉の傍らに、家の中庭に、更には門の敷居の只中にさえ出てこようとするものもあった。当然ながらそれは常軌を逸したつかの間の、命を賭した努力だった。
 雑草は死を呼び寄せる。イリルと坂の上の地区を歩いていて、山と町との境を通った時、ずっと昔に放棄された最後の家並みの廃墟の、その背後に草が生い茂っているのを見つけた。それは物陰に隠れた小動物のように聞き耳を立てていた。町全体がその草むらに囲まれているのだった。夜になるとそれらが呻っているのが聞こえた。それは押し殺した、辛うじて耳に入るか入らないかぐらいの、殆どすすり泣きのような吠え声だった。
 地区の北側には城へ通じる道が通っていて、町の上方の地区と中心部を結んでいた。その通りは地区に二軒だけある建物と比べてもかなり高いところにあり、前にトラックが突っ込んで爺様の家の中庭を大破したことがあった。また前には屋根の上に酔っ払いが一人落下し、一週間雨漏りがしていたこともある。だがそれは稀な事だった。通りには通行人も僅かで、時折、誰だか知らないが暑い最中に一人、市場からの帰りに唄っているぐらいだった:

   夜七時
   君んちの門の前。
   君の声を聞いたのさ、メリ
   『頭が痛いのよ』ってね。

   [訳註;英訳では「頭痛さえなければ」と意訳されている]

自分をメリと呼ばれたいメリェメとやらが、夜七時にはいつも頭が痛くなり、そのことを嘆いているらしい。ありふれた話だが、それでも私はこの歌が気に入っていた。こういう歌を唄う勇気のある者は、うちの地区に一人もいなかった。そんなことをした日には、何十という窓が一斉に開いて、女たち老婆たちが頬をつねり、悪態をつき、しまいには誰かがその勇気ある者に水をぶっかけるだろう。一方ここは全てが広々として人けもないから、空高くまで声を張り上げたところで、この広い空間を満たすほどではない。その見知らぬ人が道の真ん中に出るなりこんな風に唄い出したのも偶然ではない。その人はきっと、市場でもカフェでも、町の中心部でもそのことで頭が一杯で、だからもう待ちきれず、その忘れ去られた場に出るや否や、頭の中に溜まっていた呻吟を吐き出したのだろう。
 この地区でとりわけ、他の何ものにも代えがたく美しかったのが夕暮れ時だった。人々が「こんばんは!」と言葉を交わすのを聞くたび、すぐさま私の頭に蘇るのが爺様の家の庭で、そこでは家の離れ[訳註;原語odajashtëは直訳すれば「外部屋」]に寝泊まりするジプシーたちがヴァイオリンを弾き、我が爺様はと言えば長椅子[訳註;原語shezlongは仏語chaise longue]に腰掛け、黒い長ギセルをくゆらせているのだった。このジプシーたちは、昔から離れの賃料を支払うあてもなかったが、どうやら、こういう夏の夜のコンサートによって、爺様に対する彼らなりの勤めを幾分かでも果たしているらしかった。
「爺様、僕にも吸わせてよタバコ」と私がねだると、爺様は無言のままで、細長い紙巻きタバコを一本、それに火をつけ、私に手渡してくれた。私はその横に座り、気分が悪くなるよという叔母連中の脅しめいた仄めかしにも惑わされることなく、大いなる満足感と共にタバコを吸ったものだ。
 たらふく食ったその後で、タバコを吸い、ジプシーたちの奏でるヴァイオリンに、我が爺様よろしくうっすらと目を閉じ聞き入る[訳註;原文の動詞は2人称単数]、世にこれほどの幸福はあるまいと私は思っていた。
 そうだいつか大きくなったら、と私は思った、黒い長ギセルを買おう、それでゆるやかな煙をたなびかせるのだ、爺様のように髭を生やし、日がな一日、長椅子に横たわり、分厚い本を読んで過ごすのだと。
「爺様」夢心地の中、私は間延びした声で言った。「僕にトルコ語も教えてくれない?」
「教えてやるさ」爺様は答えた。「もうちょっと大きくなったらな、教えてやるさ」
 爺様の声は野太く子守歌のようで、私は長椅子に背をもたせかけたまま、タバコの魔法で夢見ごこちの中、どうにか頭を働かせ答えを出そうとしていた、いつか自分が死ぬ時まで、その何年もの間に、タバコを何本吸わなければならないのだろう、そしてトルコ語の本を何冊読まなければならないのだろうと。
 そこは分厚い本が箱の中に積み重ねてあって、どこまでも続くアラビア文字の大群が、私を謎と秘密の中へ連れ去り引き込もうと待ち構えている、というのもその秘密へと通じる道を知るのは、地面の穴や裂け目をよく知る蟻のような、そのアラビア文字に他ならなかったからだ。
[訳註;「蟻」の原語mizat e dheutの逐語訳は「地バエ」。なおアリ科の昆虫(Formicidae)を指す語としてはギリシア語に由来するmilingonëが一般的]
「爺様、蟻のことが読めるの?」
 爺様はひとしきり鷹揚に笑い、私のくしゃくしゃになった髪を撫でてくれた。
「いやいや、あれらは読めはせんよ」
「何で?でも集まってるところはトルコの字そっくりだよ」
「そう見えるな、でもそうじゃないのさ」
「でも見たことあるよ僕」私は食い下がった。
 私はタバコを吸いながら、もし蟻を本のように読めるとしたら一体どんな意味があるのだろうと考え込むのだった。
 とそんなことを全てとりとめもなく思い起こしている間に私は老砲兵アヴド・ババラモの、城の直下に立つただ一軒の家を通り過ぎ、岩がちの坂を下り、再びうねうねと動き出す狭い小道へと入っていた。切れ切れの記憶が、半切れの文や言葉が、些細な出来事の切れ端[訳註;原語は「尻尾」]が、互いに入り乱れ、押し合い、耳といわず鼻といわずまとわりつき、その激しさにつられて、私の足取りも速さを増していくのだった。
 そう、それとスザナの家だ。私がやって来たのを知ったなら、彼女は急いで出てきて、断崖とジプシーたちのいる庭先の間を跳び回るだろう、別の時にはそこで一緒に縄跳びをして遊んだものだ。そして刈り株畑のところで立ち止まる、そこには邪影[訳註;中国語訳に拠る。原語hijekeqは「悪しき影」]と呼ばれる一本の木があって、そこから遠くで起こっていることを見渡せるのだった。きっと彼女はその先の、爺様の家の門のところまで近寄れたことだろう、もっとも彼女がトルコ語の本を嫌がってさえいなければの話だったが。ひらひらと跳び回るスザナの姿には、蝶のような、また同時にコウノトリのような何かがあった。彼女は私より背が高く、ほっそりとして髪は長く、それをいつも違った形に整えていて、みんなに美人だと言われていた。爺様の住むその地区には他に女の子も男の子もいなかった。だからスザナはいつも私の来るのを待ちわびていた。大人ばかりで退屈だと彼女は言っていた。家で刺繡をしている時も退屈で、水汲み場でも退屈で、食事をしている時も退屈だった。彼女は昼間も退屈で、夜も退屈で、おまけに朝も退屈していた。要するに尋常でなく[訳註;原語jashtëzakonishtはshumëやtepërといった強調の副詞に比べ、こういう文脈で用いるには堅苦しく大仰な語感]退屈していた。この単語が彼女は大のお気に入りで、それを特に念入りに、まるで思いもかけず歯か舌を傷つけはしないかと用心するかのように、口から発するのだった。
 私はスザナに、自分の地区で起こったことをあれやこれや語って聞かせた。スザナはそれを全て、眉をひそめ、大いに集中して聞いてくれた。前にチェチョ・カイリの娘に生えた髭のことを話した時、スザナは目を丸くし、幾度か唇を噛み、私に何かを言いかけて、しかし言いよどみ、それからまた言いかけたが、また思い直していた。そして真っ青な顔で私の耳元に唇を近づけ、こう訊ねた。
「ねえ、恥ずかしい話ってわかってる?」
「何だよ、この阿呆」私は言った。 [訳註;原語marroke e dreqitは「悪魔の狂人」]
「阿呆はあんたよ」彼女は叫びに近い声を張り上げ、走り去ってしまった。立ち去り際にもう一度振り向くと、遠くから叫んだ:「ばあか」
[訳註;原語budallaはトルコ語budalaに由来する卑罵語で、他のバルカン諸語でも用いられる]
 夜になると彼女は中庭に駆け込んできて、細長い腕を私の肩に回し、小声で耳元に囁いた:
「昼間は酷いこと言ってごめんね。私、あんたに秘密を教えたかったの。でもあんたが男の子だってこと忘れてたわ」
「君の秘密なんかいいよ」私は言った。「自分ちのことで手一杯なんだから」
 スザナは笑いをこらえたまま、多少は仲直りできたことに喜びつつ、再び走り去った。
 爺様のところへ来たこの時、私は恐ろしいニュースを山ほど抱えていたので、自分がとにもかくにも呪いの王国の中を潜り抜けてきたばかりの英雄になったような気分だった。自分が話すことでみんなを驚かせてやろうと思っていたのだが、祖父の古びた家で自分を待ち構えていた予期せぬ驚愕については知る由もなかった:マルガリタだ。
 大きな中庭のある家の門をくぐり、何気なく顔を上げると、二階の窓際に座る姿が見えた。叔母連中と叔父連中とアラビア文字と食料の溢れる場所という以外の印象がなかった爺様の家では、ついぞ見たことのない美しい女性の顔だった。
 その女性は鉢植えの花の傍らに座っていて、全く異質な、奇跡的なまでに異質だった;まるで棘だらけの枝の上に或る朝突然咲いた薔薇の花のように、異質で息を呑むようなものだった。
「あの人は誰?」少しどぎまぎしながら、祖母に訊ねた。
「間借り人さんだよ」と祖母は言った。「一週間前からうちの角部屋を借りててね」
 マルガリタは鉢植えの間から微笑み、問いかけてきた。
「こちらがお孫さん?」
「そうよ」祖母は答えた。
 耳がかあっとなるのを感じて、私は庭から駆け出した。門の外に座り込み、窓扉の鳴る音を聞いていた。スザナか、私は思った。
「来てたの?」スザナが言った。
 彼女は真っ白なスカート姿で、それが彼女を更にほっそりと儚げに見せていた。髪型も新しいものに整えていた。
「ねえ」彼女は言った。「お話聞かせてよ」
 彼女に話して聞かせたいと思っていた気持ちが、突如すっかり消え失せた。
「話すって何を?話すことなんか何もないよ」
「何も?」まるでこの世で最も信じ難いことを聞いた時のように、彼女は驚いた声を上げた。
「いろいろ呪いがね」私は言った。
「呪いって?何それ?教えてよ」
「呪いもいろいろあってね」
「あんた、話してくれないの?」
 沈黙。
「どうして話してくれないの?呪いの話してよ、イタリア人の話でもいいから」
 沈黙。
「あんた本当に馬鹿」彼女は言った。「尋常でなく
「へえ、じんじょうでなく?」
 私は急に上着から眼鏡の丸レンズを取り出し、頬と眉をしかめ、目にはめてみせた。そのままを保つには、顔全体をぎゅっとしかめ、硬直したように首をまっすぐにしておかなければならなかった。
「あら、何よそれ怖い」スザナは言った。「何でそんな顔するの?」
「これでいいんだ」
 首をまっすぐにし、全ての筋肉を引き締めて、レンズが落ちないようにしたまま、私はゆっくり動いた。だが私はその刹那、スザナに対する無意味な反感を忘れ、自分がしていることに引きずられ、レンズを目にはめたままジプシーたちの離れに入り込み、驚愕と感嘆と恐怖の声を上げさせたが、普段ならそれは彼らによって引き起されるようなものだった。そこから出ていく時には私の頬は引きつっていて、レンズをはめ続けていられなくなり、取り外すとポケットに突っ込んだ。
 スザナは私が前と同じ姿に戻ったのを見ると、近付いてきて、柔らかな声でこう言った: 「どうしてあっちの、あんたのうちの方から来る時っていつもそうイライラしてるの?」
 私が彼女に目をやると、その無垢な表情は苛立ちというより微笑みに近いものに思われた。彼女はもう一歩、私に近付いた。
「私、ここでは一人ぼっちで、退屈してるのよ」
 彼女は私が何か話してくれると思っていて、私の言葉よりも微笑みで先走ろうとしたが、私が何かしらなだめるようなことを言うのを彼女が待ち構えていたまさにその時、私は自分にこれといった考えもないまま、何かしら得体の知れない、しかし抗いがたい何ものかに突き動かされて、あのイタリア兵たちのような声を、自分自身にも馴染みがないような声を張り上げていた。
「ケ・プッターナ!」[訳註;前出同様イタリア語Che puttana!(売女め)]
 彼女は掌で口元を押さえ、一歩、そして二歩と下がった:そして不意にくるりと背を向けると、その長い脚で茂みの中を走り去ってしまった。
 私はしばらく痺れたようにその場に立ち尽くした。額は汗びっしょりだった。我に返ったのは、私を食事に呼ぶ祖母の声のおかげだった。
 爺様の家で過ごしたあの四日間、私はスザナを二度と見なかった。何処か向こう、方角ははっきりしないものの、ガサガサという物音を聞いたような気がしたこともあったが、しかし彼女の姿は何処にもなかった。
 祖父の古びた家は今や明るさを増していたが、他方、秋が近付き、庭の薔薇は色褪せようとしていた。そこは日を追うごとに荒涼となりつつあった。ジプシーたちが薄暗い中庭でヴァイオリンを奏でる夕べも終わりに近く、爺様は午後ずっと分厚い本を読んで過ごし、そして今は長椅子に半分寝そべりキセルをくゆらせていた。[訳註;「半分」に当たるgjysmëは英語版で“in the half-light”、中国語版でも“半明半暗”など、庭の明るさに意訳されているものが多いが、原文ではi shtrirë(寝そべる)の直前に置かれている]私は前と同様、その傍らの椅子に腰掛けていたが、今度はそれほどタバコやトルコ語の本のことは考えなかった、何故なら私のすぐそばにはマルガリタが座り、私の首筋の辺りに手をやっていたからだ。空はすっかり暗くなり、時折その深淵の中を星か何かがかすめていった。
「流れ星ね」マルガリタが小声で言った。「見た?」[訳註;原文u këput një yllは「星が(力尽きて)砕ける、落ちる」といった意味]
 私は首を振った。[訳註;肯定のしぐさ]
 実のところ、流れ星も今の私には、ボタンが落ちるほどの印象を与えなかった、というのもマルガリタの豊かな髪が私の首筋に垂れかかり、そこから、そして彼女の全身からも、微かな、心を搔き乱すような、母にも祖母にもましてや叔母連中にもないような芳香が漂っていたからだ。それは私が好きな匂い、大好物の料理も含めたどんな匂いとも似ていなかった。
 気温が下がってくると、今は爺様も夏の夜より早めに長椅子から起き上がった。他のみんなもそれに続いて立ち上がった:ジプシーたちはヴァイオリンをケースにしまい、ひとしきり静寂が続いた。それから、何処かで地平線の方で雷が鳴ると爺様は言った:
「明日は雨になるな」
「おやすみ」ジプシーたちはそう言うと、自分たちの離れへと向かった。
「おやすみ!」マルガリタの物静かな夫が言った。
「おやすみ!」マルガリタがその暖かな声で繰り返した。
「おやすみ」みんなが次々返事をした。
 最後の最後に、すっかり眠くなった私もまた『おやすみ』と言い、そして古びた階段がひとしきりギシギシ鳴ると、やがて全てが静まり返り、眠りに落ちていった。
 すると今度は家の屋根裏が活気を帯び始めた。鼠たちの動きは、初めは遠慮がちでまばらなものだったが、徐々に速度と勢いを増し、やがて押し留めようのない、隅から隅までけたたましい大群へと変貌した。程無くそれらは、私が映画で見たチンギス・ハンの軍勢に似たものとなるのだった。そら、それはもうアジアの何処か奥地に集結しつつある(アジアとはマルガリタの屋根裏だ)。準備が出来ていることは明白だ。短い静寂。チンギス・ハンが演説をしているらしい。彼が欧州との境界を指差す(廊下の屋根裏だ)。軍勢が出発する。騒乱が広がる。天井板が音を立てる。そら、欧州との境界を越える。大挙して頂点へと駆け上がる。既に我々の頭上にいる。恐怖。血みどろの殺戮。それから軍勢は進路を変える。遠くアジアから、或る部族が蜂起したとの知らせを携えて伝令がやってくる。軍勢は元来た方へと引き返す。再び境界を越える。もうそこはアジアだ。そこで為されるのは凶事だ。そして戦場の下ではマルガリタが眠っている。チンギス・ハンもここは騒乱を休止するはずだ。マルガリタの眠りを妨げるということを、彼が知らぬ筈はあるまい?ところがチンギス・ハンは聞き入れない。戦争になれば、眠りなどない、と彼は叫ぶ。そして戦闘は続く。
 翌朝、祖母は私の額に手をやって
「ゆうべ寝言を言ってたよ」と言った。「熱でもあるんじゃない?」
「ないよ」
 それが四日目で、私がそこで過ごす最後の日だった。朝食をとってから、私は帰った。
 祖母が丁寧に包んでくれたビュレクの大きなひときれと、マルガリタの名前を抱えて(ビュレクは手に持っていたが、マルガリタの名前は何処にあったのか自分でもわからない)家に戻る途中、同級生らが数人、ヴァロシ通りを上っていくのが見えた。彼らはすっかり取り乱し、顔も青ざめていた。どうやら彼らの教師、あのチャニ・ケケズィが、また授業中に猫を切り刻んだらしい。





 家でも近所でも変わったことはなかったが、川向こうの平地では何かが起こっていた。最初に目に飛び込んできたのは、いつもならそこで草を食んでいる牛たちの消失だった。更に、干し草の山が取り去られていた。トラックが平地を上下に行き来していた。ようやく、徐々にだがわかってきた。新しい、全く未知の、「空」と「港」から成る言葉が、あちらこちらで聞かれるようになった。そして全てが明らかになった:川向こうの平地、この町の足元に、空港が出来つつあったのだ。

[訳註;「空」はajër、「港」はportë、「空港」はaeroport]
 通行人は通りや小道で度々立ち止まると、川の方を向き、考え深げにしばらく眺めていた。
 新しい客人が姿を現した。時を越える客人、平地に紛れ込み、殆ど目に見えない客人だった。もし牛や干し草の山が取り除かれていなかったら、恐らくその来訪には全く気付かなかっただろう。私は牛のいないことが辛かった。
「どうして空港って言うの?」
 ヤヴェルの灰色の瞳は思慮深げだった。
「どうしてって、あれは飛行機にとって港みたいなものだからね、あれを通って町に入るのさ」
 来訪者だ。だが好運のか、それとも不運のか?それはうつ伏せで、苦もなく到来していた。驚きに満ちた幾千もの眼が、まるでわけもわからぬままその出現を目の当たりにしていた。平地に横たわるその長々とした全身は、わけもわからず危うげで、既に人々を悩ませ始めていた。
「戦争の準備だな」
「たぶんな。だが町の防衛のためでもあり得る」
「そうは思わん。これは戦争の前兆だ」
「たぶんな。もっとも、あれで大勢が仕事にありついて金を貰ってるんだし」
「その金だって命と引き換えだ
[訳註;原文は「死の貸借」]
 これは見知らぬ二人がしていた会話だ。
 そうした中で、空港を巡る話は更に続き、進展していた。初めて「空港用地」という言葉が用いられた時、ようやく人々はこの平地に今まで名前がなかったことを思い出したのだ。まるでずっと前から空港を待っていたかのように。






第5章

 祖父宅から戻ってみると、うちの地区で呪いの勢いは下火になっていた。水貯めの清掃も済んでいた。水貯めはようやく闇の力から解放され、そこを満たす真新しい水は、屋根の下で嬉しげな音を立てていた。私は水貯めの縁に身を屈め、「おうい」と呼びかけた。水貯めは、見知らぬ真新しい水をたたえていたせいだろうか、すぐに返事してきた。その声は少しだけ、か細かった。ということはつまり、この世の水は全て、空のどの部分から落ちてきたものであれ同じ言葉を話している、ということなのだろう。
 川向こうの平地から牛が消えて以降、新たに不穏な出来事はなかった、ただしカコ・ピノの猫が突然姿を消したことを除いては。
 カコ・ピノは自宅の窓際からその心配事を、これまた窓際に小麦粉だらけの手のまま出てきたビド・シェリフィの妻に語って聞かせていた。
「あんたそりゃね、あの人が猫をかっさらったんだよ、猫を置いときたくなかったんだよ、あの忌々しい先生ったらね」
「あの人以外に誰がいるかね?ひどいもんだ」
チャニ・ケケズィのことを話しているのだとすぐわかった。
「そういうところさ学校ってのはね、カコ・ピノ、いいところも多いけど、それより悪いことも多いのさ。ひきつけを起こして猫をかっさらうなんて」
[訳註;原語hidhet burri i botës(世の男が跳ねる)は癲癇症状の(多分に偏見を含む)別名だが、ここでは「癇癪を起こす」ぐらいの意味か]
「ひきつけね」カコ・ピノは言った。「猫を門から外に出したくはないね。ひどいもんだ」
「でもそれは大したことじゃないよ」とビド・シェリフィの妻は言った。
「まあ見てなよ、いつかそのうちナイフで人を襲うだろうからさ。あんた、あの人の目を見たことあるかい?血走って真っ赤でさ」
 ビド・シェリフィの妻が両手を振ると、小麦粉の雲がもうもうと湧き上がり、それが陽光の下で赤みを帯びていた。
「ひどいもんだ」カコ・ピノが言った。「あの人には気を付けておくことさ」  両方の窓扉が閉まった、つまり会話はおしまいということだ。私は何をするでもなく通りを眺めていた。牡猫が一匹、屋根から飛び降り、向かい側へと駆け抜けた。ナゾの息子マクストが市場から帰ってきた。小脇にまたしても切断した頭を抱えていた。何の頭だ?私は我慢しきれず目を逸らした。
 私はマルガリタのことを思い浮かべようとしたが、不思議なことに、彼女の顔がもう思い出せなくなっていた。前の日までは全てがはっきり思い出せていたのに。二度、三度と頭の中をよぎっていたのに。彼女は気付いていたのだろうか、私が彼女の名を、髪を、両手を携え家の中を歩き、石に封じ込め、釘付けにしたことを?[訳註;逐語訳は「彼女の名を、髪を、両手を、家の中へ、石の中へ、釘の中へ持ち歩いた」だが、各言語訳で大幅に意訳されている。またトルコ語以外での訳では「髪」「両手」が省略されている]彼女はそれで痛みを感じなかっただろうか?
 前の日、私はイリルに彼女のことを話そうとしていた。
「今、爺様のところにすごく綺麗なお嫁さんが来ててさ」私は言った。
 イリルは特に興味を持たず、何も言ってこなかった。その後すぐ、私は再びマルガリタの話をした。イリルはまたしても、これっぽっちの興味も示さなかった。ただこう訊いてきただけだ:
「頬っぺたは赤かったかい?」
「ああ」私は戸惑いつつ言った。「赤かったよ」
 本当は、マルガリタの頬が何色だったかなんて憶えていなかった。イリルが彼女の頬について訊いてきたその時、あの女性の顔はますますぼんやりとなっていたのだ。それから一日経って、彼女はますますはっきりしなくなっていた。私は彼女を忘れかけていた。
 三度目に思い出した時、私は再びイリルに彼女の話をした。イリルはじっと私を見つめた。今度は何か言ってくるぞ、と私は或る種の歓喜を覚えた。
「あのさ」イリルは言った。「ゆうべこっそり母さんのストッキングのゴム紐抜いたんだ、鳥撃ちのパチンコ用に。母さんが家じゅう探し回ってる。見つかるとまずいから、何日か持っててくれよ」
 私はそのゴム紐をポケットに入れた。
 通りにはもう誰も歩いていなかった。ヤヴェルが本をくれると約束してくれていたのを思い出した。私は立ち上がり、外へ出た。
 ヤヴェルは家に一人だった。タバコを吸いつつ一人口笛を吹いていた。
「本をくれるって言ってたよね」私は言った。
「スィ、スィニョール」[訳註;原語もイタリア語]ヤヴェルが言った。「ここにある本だ。選びなよ」
 壁に書棚があった。私は近付き、目を見張った。こんなたくさんの本を見たことはなかった。
「ここのこれが作家、要するに、本を書いた人の名前で、こっちのこれが書名、まあ言ってみれば洗礼を受けた時の名前だね」ヤヴェルが説明してくれた。「ここの本でお前さんに合うものは一つもないんじゃないかな」
 私はしばらくそれらをパラパラやっていた。ほとんどの書名が私には意味不明だった。
「ユングって名前の人が作った本をおくれよ」私は言った。
 ヤヴェルは大笑いした。
「お前さんユングを読むのかい?」
「何がおかしいのさ?その人、呪いのこと書いてるんだよね?」
 ヤヴェルは再び大笑いした。私は傷ついた気分になり、立ち去ろうとしたが、ヤヴェルに止められた。
「取り敢えず、どれか他の本を持っていきなよ」彼は言った。「ユングは俺も全然わからないんだ。それにユングはアルバニア語じゃないし」
 私はまたページをめくり始めた。今度は長くかかった。ヤヴェルはタバコを吸い、口笛を吹いていた。ようやく私は一冊の本を見つけたが、その最初のページにあった言葉は「幽霊」「魔女」「殺し屋その一」、更には「殺し屋その二」だった。
「じゃこの本もらうよ」書名も見ないまま、私はヤヴェルに言った。
「『マクベス』だって?お前さんには難しいぞ」
「これがいいんだ」
「持っていきなよ」ヤヴェルが言った。「だけど失くすんじゃないぞ」
 私は駆け出さんばかりにヤヴェルのもとを立ち去ると、家の門を押し開けた。自分の手に本があることが不思議に思われた。私の大きな家にはありとあらゆるものがあった:銅製の大鍋、ミルクを泡立てる攪乳器、大小様々の皿類、木材庫、穀物庫、鉄球(それらの一部については砲弾だろうと言われていた)、柄に刺繍の入った短剣、樽、古い日付の入った衣装箱、小麦の碾き臼、[訳註;暖炉の上から鍋を吊るすための]様々な鉤と鎖、石灰を混ぜる穴、[訳註;焼けた石炭や炭を入れる]火桶、火打石銃、鞭、名前さえわからぬ様々ながらくた・・・我が家になかったものはただ一つ:本だ。古ぼけて色褪せた夢占い書を除けば、印刷された紙類は他に何一つなかった。
 私は門を閉め、階段を駆け上がった。大広間には誰もいなかった。私は窓際に座り、本を開いた。ゆっくりと読んでいったが、殆どまるで理解できなかった。或るところまで進むと、また最初に戻った。何かがわかり始めた。頭の中は大荒れだった。暗くなりかけていた。文字が動き出し、行の間から抜け出そうとしていた。私は目が痛くなってきた。
 夕食後、私は石油ランプの近くへ行き、再び本を開いた。ランプの黄色い光の下で、文字は不安げに見えた。
「もう充分読んだでしょ」母が言った。「ほら寝なさい」
「そっちこそ寝なよ、僕は本読むんだから」
「だめよ」母が言った。「うちは石油がないの」
 眠気はやってこなかった。本はすぐそこにある。押し黙って。マットレスの上。何かしら繊細に。余りにも繊細に。驚くほど奇妙に。紙でできた二枚の覆いの間に、物音が、門が、唸り声が、馬が、人々があった。ひしめき合って。互いに押し合いへし合いして。黒く小さな記号に分解されて。髪も、眼も、悲鳴も、ノックの音も、声も、爪も、足も、手も、壁も、血も、髭も、馬の蹄も、号令も。従順に。黒い記号の完全な虜となって。文字たちは狂気じみた速さで駆け回る、或る時はあちら、また或る時はこちら。駆け回るaたち、fたち、xhたち、yたち、kたち[訳註;仏訳はa, f, g, y, kで他言語版もこれに準じているが、英訳だけはh, r, o, t]。集合し、馬を、或いは雹を生み出す。またも駆け回る。ナイフが、夜が、殺人が生み出されるに違いない。それから通りに、ノックに、沈黙。駆けろ、駆けろ。ずっとずっと。終わりなく。
 私はすっかりどんよりとしたまま眠ってしまった。どうやら熱があったらしい。眠っている間、私には外からの絶え間なく喘ぐような声も、通りの、近所の苦痛に満ちた移動も何ひとつ聞こえていなかった。町がゆっくりと自らを掻きむしっているようだった。それは変身の痛みだった。路面は腫れ上がり、これまでの形は捨て去られる。家々の壁は肥え太りながら、スコットランドの城壁に姿を変えていく。あちらこちらで恐怖の塔が顔を出す。
 朝の町は苦痛で疲れ切っているように見えた。町は変わっていた。もっともそれほど大したものではなかったが。
 私は殆ど一日中、本を読んでいた。
 夜になっていた。私は外を眺めて唖然とした。居並ぶ家々の壁も窓も、これまでにないほど解き放たれていた。もはやその中から何が出てきてもおかしくなかった。
 ヴァロシ通りから、のそのそと下りてきたのは、アチフ・カシャフとその息子二人だった。彼はうちの通りへと入ってきた。カコ・ピノが窓から顔をのぞかせ、また引っ込めた。ビド・シェリフィ宅の巨大な門は、左右の門扉を開け放っていた。アチフ・カシャフはそこへ向かっていた。何もかもが静まり返っていた。今夜は彼の晩だった。ビド・シェリフィ自ら、高貴な客人を出迎えようと門のところに出てきた。ビド・シェリフィの妻が窓から顔をのぞかせ、また引っ込めた。カコ・ピノもまた同様だった。それは確かな予兆だった。アチフ・カシャフと後継者たちは中へ入った。巨大な門が、鉄の響きと共に閉ざされた。鳴り渡るトランペット。[訳註;英訳では「ファンファーレ」]
「何だって一日中閉じこもってたんだい。友達と遊びに出ておいでよ」
「しっ、お祖母ちゃん」
 私は、アチフ・カシャフの断末魔の叫びを聞こうと待ち構えていた。今や確実に、万事は為された。そらノックが一つ。そらまた一つ。窓際にビド・シェリフィの妻が出てきた。彼女は両手の血を洗い流そうとしていた。彼女が手を振った。小麦粉の雲が降ってきた。小麦粉は血まみれだ。
 祖母が私の額に手をやった。
 階下からまた聞こえてきたのは、鳴り響くトランペット。
「地下室から持っていく大鍋を見ておいで」祖母が言った。「あたしは見る気がしないよ」
 ここ数日、銅の大鍋を売るという話で持ちきりだった。どうやらその買い手が来ていたらしい。家を出る時、大鍋は祝福の音を響かせていた。トランペットを鳴らしていたのだ。
 夜が更けていた。町は思いもかけず、塔と、外国人の名前と、梟で埋め尽くされ、暗闇に沈んでいた。
「あんた、その本にやられたんだね」祖母が言った。「明日は爺様のところに行って、しゃきっとなっておいで[訳註;逐語訳は「目を開けなさい」]
「わかったよ、行ってくる」
 マルガリタ。
 私はひどく疲れていた。頭が痛かった。
 翌日、私は祖父宅へ出かけていった。決闘橋を渡り、城への道に出ると、町はたちまち塔と梟から解放された。通りの終わるところでは殆ど駆け足になっていた。
「マルガリタは何処?」私はパン[訳註;原語simiteは大きな丸いパン]を作っている祖母に訊いた。
「マルガリタに何だい?」祖母は言った。「爺様はどうとか他の人はどうとか訊かないで、いきなり『マルガリタは何処』なのかい?」
「いなくなってないよね?」
「いなくなってやしないよ」と祖母はからかうように言うと、ぶつぶつ呟きながら生地をこね続けた。
 私はしばらく家の中をうろうろし、それから、何をしたらいいかわからず屋根に上がったのは、そこの傾いだ屋根板の、天窓の傍に腰掛け、何時間もじっとしているのが好きだったからだ。屋根から見えるのは別世界だった。朽ちかけた電柱に目をやった時、不意に、爺様の吸い殻を集めて作ったタバコを入れた箱を、トルコ語の本とマッチ箱と一緒に天窓のところに隠していることを思い出した。私は屋根のてっぺんで、膝の上にトルコ語の本の、病人のように青ざめたページを開いたまま、タバコを吸いたいという、強い欲求に襲われた。
 タバコに火をつけようと思って天窓のところへ行くと、ひび割れて埃まみれの窓ガラスの隙間に手を突っ込み、まず本を、それからタバコの入った箱を、そして最後にマッチを取り出した。本の表紙はカビだらけで、ページは湿って、べったりとくっついていた。私は終わりの方のページの端を破ると、タバコの葉もカビているように思えたものの、自分が知っている巻き方でタバコを巻き、口に咥えて火をつけようとしたが、マッチは濡れていた。
 もう一度、全てを天窓の内側の黒ずんだ梁の端に突っ込み、埃だらけになった手を振っていた時、別の考えを思いついた。
 天窓はマルガリタの部屋の真上だった。前はそこから大廊下を照らしていたが、後に廊下の一部を部屋にしたことで、もはや天窓の用を為さなくなった、照らすものがなくなったからだ。
 今マルガリタが何をしているか見られるかも知れないという思いつきは、私の気だるさを吹き飛ばした。割れたガラスの破片を取り除き、片足を天窓に、もう一方の足を梁の上に置き、そして屋根の下に滑り込んだ。縦横に伸びた黒い横木にしがみつき、おそるおそる降りていった。もうすぐ彼女の部屋の真上だ。ゆっくりと、音を立てないように進み、裂け目のところで腹這いになり、そこに目をあてた。
 部屋には誰もいなかった。
 マルガリタは一体何処だ?大きなベッドにはミルク色のベッドカバーがかけられ、その上に薄手の下着類がたたんで置かれていた。それから水のピチャピチャ跳ねる音がして、彼女が行水をしているのだと分かった。
 私は、彼女が浴室から出てくるまで長い時間待った。彼女は大きなバスタオルを巻き、髪は濡れていた。ほどけたその髪はとても美しく見えた。彼女は鏡に近付き、櫛を取り、髪を梳かし始めた。髪を梳かしながら、小声で唄っていた:

   彼方オランダ、
   水車の国で・・・

歌を唄いながら、彼女はテーブルから粉末を取り、それで何かし始めた[訳註;旧版では「バスタオルがほどけた」]。小さな霧が胸元に、腋下に湧き上がって、まるでこの世の女でないかのようだった。
 最後に彼女がバスタオルを脱ぎ捨て、下着をつけようと身を屈めたその時、私は目を閉じた。目を開けると、彼女の身にまとったレースはまるで真っ白な蝶たちが足元に、腰の下に、乳房の上に並んでいるように見えた、まるで春の野に出てきた蝶たちだった、そして私はそれを何度も追いかけるのだが、その一匹たりとも捕らえることができないでいるのだ。
 すっかりぐったりして寝そべったままでいると、家の中で私を探し回る祖母の声が聞こえてきた。
 私はそろそろと起き上がり、そしてよじ登り、再び屋根の上に出た。そこから家の裏手の壁を伝って下へ降りた。
「どこにいたの?」祖母が言った。「何だってそんな真っ黒けなんだい?」
「屋根の上だよ」私は答えた。
「屋根で何してたんだい、お前や、雨が入ってきたら家の中が濡れちまうだろう」
[訳註;旧版ではここに次の会話がある。
「そんなことないよお祖母ちゃん、気を付けてたから」
「どうだかね」祖母は言った。「おいで、食事だよ」]

 祖母はいつもパンの好い匂いがしていた、空腹を覚えるたび思い出す、それと、どっしりと白っぽい身体だ、それはいつも家の古い床板を軋ませていた、まるでこう言っているように:
『ひい、ひい、ひい、潰れちゃうよう、お祖母ちゃん、息ができないよう』
 爺様が祈りを捧げる、まるで魔法の呪文のようだ、それから私たちは食事にとりかかった。見ると祖母はご機嫌斜めだった。食器とスプーンがカチャカチャ音を立てている、苛立ちを内心で噛み殺している時はいつもそうだ。とうとう我慢しきれなくなった:
「あばずれが」祖母は憎々しげに言った。
 見ると他のみんなはその言葉に何の感慨も受けておらず、静かに食事を続けていた。どうやら、祖母が誰に腹を立ててているのか、わかっているらしかった。
「お祖母ちゃん、あばずれって誰?」私は訊ねた。
 祖父が祖母を見つめて、『ああ、わかってる、わかってるともさ』とでも言いたげに首を振ってみせた。
「お前にゃ関係ないよ」[訳註;祖母が]私にぴしゃりと言った。
「私が同じ立場だったら、あの手からもぎ取ってやるけどね」年上の方の叔母が言った。
「まだ私にそれができるんだったら、尻軽連中とやり合ってるところさ」
[訳註;逐語訳「それさえ私に残っていたら、尻軽どもと乱闘するだろう」だが、各国語版では「何だろうね、私はクズどもとやり合う気はないよ」(英訳)、「それが私にはまだ足りないのよ、ああいう尻軽どもとやり合うにはね」(独訳)、「それから何だい、私がガキどもとやり合わなきゃならないのかい」(仏訳及び中国語訳)、「あの連中とやり合わなかったのがいけないのかい」(トルコ語訳)等、様々に意訳されている]
 祖母が誰かとやり合うなど、私にはまるで想像すらできなかった、私は料理を用意しパンを作る祖母の生活しか見たことがなかったのだ。
「もうその話はよしなさい」爺様が言った。
 みんなは納得したが、ただ祖母だけはどうやら憤懣やるかたない様子だった、というのも食器の鳴る音がますますうるさくなっていたからだ。祖父はテーブルを立った。
「尻軽の中の尻軽が」また祖母が言い始めた。
「あの女の手からもぎ取ってやればよかったのよ」年上の方の叔母がまた言った。
 年下の方の叔母が新聞を広げて読み始めた。
「新聞なんかおよし」祖母が言った。「新聞ってのは男の読むもんだ」
 叔母は甲高い笑い声を上げた。
「何を歯なんか見せてんだい!こっちが途方に暮れてるってのに、お前は新聞をゴソゴソさせて[訳註;逐語訳は「新聞を唄う」]、ケラケラ笑って」
 その叔母も立ち上がり、新聞を手にして出ていった。
「今日はナプキンで、明日はスプーンで、明後日はカーペットで」祖母の話は続いていた。
 今度はみんな自由に、何が起きたのかについて話していたから、私にも何の話をしているのかが分かった。マルガリタが盗みを働いたのだ。
「何でまだ皿に残してるんだい?」別の叔母が私に言った。
「お腹いっぱいだよ」私は言った。
「お前全然食べてないじゃないか、具合でも悪いんじゃないの?」
「違うよ」
「決まってるさ」祖母が言った。「風邪をひいたのさ。一日中屋根の上で、まるで家も宿もないみたいにさ」
 私は何も言わず立ち上がり、居間へ歩いて行った。年下の方の叔母が隅に座って[訳註;新聞を]読んでいるところだった。
「あんたも追い出されたね」叔母は目を上げないままで言った。
 私は何も言わなかった。大いなる静寂があった。遠く、城砦通りの方、見知らぬ通行人の歌声が急斜面を下りつつあった。

   夜七時
   君んちの門の前。

 私はすっかり聴き入っていた・・・いつもこの人は、夜七時に同じ家の門の前を通るんだ、その家の中ではメリという名のいつもの娘が、頭が痛い痛いというわけだ。
 歌声はずっと遠ざかっていたが、消え去るその前に、風が歌の続きを運んできてくれた:

   医者を呼んでやろうかね
   世間にゃとんだ恥さらし

 どうして恥なんだろう?私には理由の見当がつかなかった。あれこれと考えて、歌で唄われていることはいろいろ話が違うのだ、といつぞや大広間で聞いたことのある話で自らを納得させた。
 外に秋の動きが感じられた。
 見下ろすと、葉も枯れ落ちた木々の間を何かが横切った。スザナだ。きっと私が来たのを知っているのだ。
 大時計のチクタクという音が尋常でなく鳴り響いた。痛みは至る所にあった。それは波紋を描きながら、どこまでも続く空間を広がっていった。もうあと少しで、世界中を覆い尽くしてしまうのだろう。





 昼食は憂鬱なものだった。私たちは黙ったまま食事をしていたが、たぶん誰もがじりじりと待ちかねていたのだ、祖母が雄鶏の肩骨に目をやるその瞬間を。
 最近、この地区で何処かの雄鶏がさばかれるたび、人々はほぼ全員それを知るのだった、というのも雄鶏の肩骨で出来事が予見できるからで、最近も事件の予感があったのだ。
「カコ・ピノが今日雄鶏をさばいたよ。まあ、母のことだからね、ちょっと見てやろうじゃないの、肩骨がどう出るか」と一週間前にイリルの母親が言ってきた。
 今日、長い時間の末に、うちでも雄鶏を一羽さばいた。午後には人々が門を叩き、肩骨のことを訊きにくるだろう。そして祖母には葬式の場で、母には玄関を出たところで、またカフェ辺りでは男たちが父に問いかけるのだ。何故ならこの町で鳥の解体は極めて稀なことだと分かっていたからだ
 昼食が終わった。ようやく祖母が雄鶏の肩骨を手にすると、眉をひそめ、一つの面を、そしてまた別の面を光にかざしつつ、ひとしきり眺め回していた。私たちは皆、黙って待っていた。
「戦争だよ」不意にくぐもった声で言った。「肩の両側が真っ赤になってるね。戦争と血だよ」そして戦争を予言するその肩骨の箇所を指差してみせた。
 誰も何も言わなかった。
 祖母はなおしばらく骨を見続けた。
「戦争だよ」と再び、私の頭に左手を置いたままそう言った、まるで私を悪しきものから守ろうとでもするように。
 昼食が終わってから、私は洗っていない皿を集めたところに戻って、そこで雄鶏の肩骨を見つけ出すと、それを手にして上階、家の三階、そこの大広間へと上がっていった。私は高窓の傍らに座って注意深く、その薄い、悲劇的な骨をじっくりと眺め出した。十月の午後だった。外では乾いた風が吹いていた。私は冷たい骨を掌に握ったまま、決してそこから目を離さなかった。骨は青みがかった赤色で、小さな血の滴を散らしたようにも見え、また激しい炎に照らされて輝いているようにも見えた。
 徐々にだが、それは完全な赤色に変わり、今やその表面にはもはや一滴の血の点すらなく、奔流は斜面全体を駆け下り始め、全てを朱に染めつつあった。
 雄鶏の肩骨を手にしたまま眠気に襲われながら、もう一度、骨の両面にあかあかと燃え上がる炎を見た私は、やがて、煙の中に、戦争の前のラッパを聞いたような気がした。






 中庭に足を踏み入れてすぐに気が付いた。マルガリタはいなくなっていた。何が起きたのか、どうしてそうなったのか、私は一切訊ねなかった。通路には人けがなく、庭の木々の葉は落ち始めていた。その葉はジプシーたちが住まう離れの上をゆっくりと舞っていた。私は少し悲しくなった。
 もう間もなく、まさに秋の雨が降り出すだろう。木々はすっかり裸にしておかれ、風は谷間で唸り声を上げるだろう。屋根は、私が夏の間座っていたまさにその場所から雨漏りし、天窓ではタバコの小箱が、マッチが、トルコ語の本が腐っていくだろう。
 スザナはあちらへこちらへ、ひらり、きらきらと跳び回っているだろう、遥かスコットランドのマクベスという名の人物に起きたことなどこれっぽっちも聞くことのないまま。もしまた私が来るようなことがあれば、彼女はコウノトリたちと共に去ったと聞かされるだろうが、私は全然驚かないだろう。
 そして冬の夜には、鼠の群れが至る所で騒ぎを起こすだろう。戦え、チンギス・ハン、騒乱を起こせ。アジアではもう誰も寝られない。砂漠だ。砂漠。






記録断片
する彼の声明。ポーランド進軍中は一切の夜襲を行わなかった、とアドルフ・ヒトラーは語る。爆撃は日中だった。ノルウェー、ベルギー、フランスも同様だった。突然、チャーチル氏がドイツを夜間に爆撃した。おわかりか、同志諸君、我が忍耐が。私は八日間待った。彼が再度爆撃し、私は思った:こいつは狂っている。私は二週間待った。多くの人々がやってきて私にこう言った:フューラー、私たちはあとどれだけ待たされるのですか?そこで私は命じた:英国に夜間爆撃を。裁判。実行。財産。裁判所第127法廷。ハンコナタ家とカルラシ家。ハンコナタ家の古い記録を発見した記録者ヂヴォ・ガヴォは、それが古証文問題の解明に利用されることを容れず。我が町の発明家ディノ・チチョはハンブルク行の準備。この場を借りて、『世界大戦を目前に己が町を守る発明に明け暮れる頭のおかしい男』と題する某ティラナ紙の論説を、軽蔑を以て棄却する。昨日、我が市民T・Vはコーヒーを30杯飲んだ。市内の消灯を義務付ける命令を下す。当市、ブルーノ・アルジヴォカーレ司令官。出生。結婚。死去。Dh・カ





第6章

 爺様のところから戻ってきた。今回はいつもより長く泊まっていた、というのもこれで最後だったからだ。冬の間、向こうには殆ど誰もやって来なかった。向こうは冬が厳しく、風が四方から吹き荒れるのだ。冬あの荒地へなど、うちの父が金を無心に行くぐらいのものだ。
 家に入った途端、何かが変わっているのを感じた。母が祖母と一緒に古毛布を何枚も縫い合わせている。ナゾの嫁さんが手伝っていた。
「何してるのこれ?」私は訊ねた。
「夜、窓を隠すんだよ」祖母が言った。「政府からお達しがあってね」
「何で?」
「空襲があるかも知れないんだよ。向こうで何も知らされてないの?」
 私は肩をすくめた。
「さあね」
「家から家に知らせが回って来てるんだよ」祖母が言った。
 門を激しく叩く音。
「ヂェヂョだわ」母が言った。
 ヂェヂョが階段を上がってきた。
「奥さんたち何してる?」と言いながらぜいぜい息をしていた。
「あらカーテン縫ってるの?あらまあ、何てことでしょう!あらまあ、何て不運!あたしたち何てものを見せられてるの、ねえ奥さんたち、何てものを見せられてるの!人を生きたままお墓に入れるようなもんよ。朝からあの人がさ、ハリラ・ルカが出ていって、ドアをガンガン叩いて回って。暗くしろって言うのよ、暗くしろって」
「暗くしなきゃいけないのよ」とナゾの嫁さんが毛布から目を離さないまま言った。「そういう話なのよ」
「盲になればいいんだよ」とヂェヂョが言った。「みんなヴェヒプ・チョリみたいになればいいんだよ、ああもう」
 ヂェヂョが悪態をついているのがどういう人たちなのかも、そう言われる理由も、私にはわからなかった。
 また門を叩く音がした。カコ・ピノとナゾだった。
「ねえ聞いた?」カコ・ピノが言った。「煙突にも蓋をしろってさ。ひどいもんだ!」
「みんな閉めちまえばいいさ」ヂェヂョが声を上げた。「煙突も閉めればいい、玄関も閉めればいい、そうしろっていうなら便所だって閉めればいいさ。こりゃ世も末だよ、ねえピノや、世も末だよ。おしまいだよ[訳註;逐語訳は「川に奪われる」]
「世も末だね」カコ・ピノが言った。「もうじき婚礼の週なのに。ひどいもんだ」
「牛たちは平地から追い出して、平地に砂利を敷き詰めるのさ、こんなの我慢できるかい、ねえセルフィヂェや?なんでもイスフとかいうのがさ、赤髭の、イスフ・スタリンとかいう男が出ていってさ、何もかも追い出されちまう[訳註;逐語訳「箒をかけられる」]って話さ」
「ムスリムなのかいそいつは?」ナゾが訊ねた。
 ヂェヂョは一瞬戸惑った。
「ムスリムだよ」とそして自信ありげに言った。
「やれやれ」とナゾが言った。
 会話の場は広がりつつあった。ナゾが祖母と話している間、ヂェヂョは何やら小声で、マクストの嫁の耳元にささやいていた。彼女は毛布の方を全く見ないまま、「いや」と首を振っていた。ヂェヂョは頬をつねった。
 会話はすっかり広がっていた。今ではめいめい二人一組で単調な声で話していたが、カコ・ピノとナゾの嫁さんは例外だった。それはやけに長引いていた。
「ひどいもんだ」と一言、カコ・ピノが虚しく、誰に言うともなく言った。それから立ち上がり、出ていった。それに続いて、ナゾも嫁と共に出ていった。
 地区が不安の中にあるのだと気付くのは難しいことではなかった。窓の開け閉めにも、あちこちでドアを叩く音にも、乾いた風が絶え間なく唸るのにも、挙げ句、女たちが洗濯物を中庭に干すその様子にさえも、何かしら全面的な不安のようなものがあらわれていた。
 人々は光を隠すことにまるで慣れていなかった。一部の連中にとってそれはお笑いぐさで、大多数にとっては無意味なことで、また別の者たちにとっては凶兆だった。三日目の晩、ビド・シェリフィが黒いカーテンを取り外した;だがさほど時間が経たない内に、路上から荒々しい、切りつけるような声が響いてきたのだ:
「スペーニ・ラ・ルーチェ!」
[訳註;原文はイタリア語Spegni la luce!(明かりを消せ)]
 その二日後、巡視兵の機関銃が年代史家ヂヴォ・ガヴォの家の上で火を吹き、町に灯っていた最後の石油ランプが消えたその時、「オスクラメント」[訳註;原語はイタリア語oscuramento(灯火管制)]が冗談でも何でもないことを全員が理解した。誰かがその荒々しい目で、全ての夜を、全ての箇所を、全ての方角を盗み見ていたのだ。そこからはいかなる光も決して逃れられなかった。町は納得し暗闇を受け入れた。今はもう、夜になるや町はゆっくりとその中に身を沈めるのだった。消え失せる通り、明かり、風に身を任せるように呆然と揺れる電柱とミナレット、ありとあらゆるものが失われる。オスクラメント。
 空港建設もまた毎日の話題だった。「空港」[訳註;原語aeroport]という言葉が、町の老婆たち全員の歯や歯茎で情け容赦なく押しひしがれ、そこからずたずたにされて殆ど見分けもつかない姿で飛び出した;だがそれでも、そのrやpやt(唾液で濡れた砂粒)は、おかしなやり方で互いに練り合わされ、恐るべき力を見せるのだった。
 今や誰もが「空港平地」と呼ぶその平地では、昼も夜も作業が続いていた。何千もの兵士と何百ものトラックが一日中そこかしこを行き来し、何ごとかをしていたが、遠目には何も見えなかった。砂利を用意し、道路を舗装するための砕石機の音が時折、町まで届いていた。
 まさにこの時期、町に数件の押し込み強盗があった。強いられた暗闇を利用して、強盗犯らは家々の屋根板をこじ開けていた(この町では押し込み強盗の大部分がいつも上方から行われるのだった)。
 最初の強盗の直後、町の上空を見知らぬ最初の飛行機が通過した。それは極めて高空を飛んでおり、もし雲間から耳慣れず重々しい、まるで雷の軍勢から生み出されたように次々と押し寄せるあの音が漏れ聞こえてこなかったなら、誰もそれに気付かなかっただろう。それが後に残していった困惑は、白い雲と共にゆらゆらと、その場に留まっていた。
 別の日にはまた別の飛行機が通過したが、大抵はいつも単独飛行で、余りにも高空にあって、まるで私たちの町とは全く何の関わりもないのだと言わんばかりだった。あれらは誰の飛行機なのか?何処から来たのか?何処へ向かうのか?何故?空は余りにも不可解かつ無関心だった
 どうやら屋根伝いの押し込み強盗はますます増加しそうだった、もし新たな怪物が突如姿を現わさなかったなら;サーチライトのことだ。それは完全な沈黙の中、町へと近付いていたが、誰一人として何一つ知らなかった、いやそれが町の近くにあったということだけでなく、サーチライトの存在そのものさえもだ;その一つしかない眼、まるでキュクロープスのようなその眼が、十月の或る晩にザルの丘を照らした、あの瞬間までは。流れる一本の光は突然に前方へ、まるで一匹の透明な爬虫動物のように、町を求めて長く伸びた。深い暗闇の中、その姿は青白く見えたが、最初の建物に触れた瞬間、光の流れは突如として収束し、そして残忍な明瞭さでもって、恐怖に青ざめた壁の上を這い廻り始めたのだ。
 そんなことが他の晩も繰り返された。毎晩、サーチライトの光は、町を探し求め、見つけるや否やその上に張り付いた。それは、地区の上を這い廻り、下にある家々や通りの形に合わせて絶えず姿形を変える粘液質の海獣だった。
 この時期、予想されたことではあったが、カタンヂカ[訳註;原語katënxhikëは本来、嫁が義母を呼ぶ際の語。カダレの初期作に見られ、ジロカスタル周辺の語彙とされる]なる老婆たちの往来が頻繁になった。普通の老女たち[訳註;原語plaka e jetësは「生活の老女」]とは違い、カタンヂカ婆たちはいつも家を空けていた、とりわけ動乱の時期はそうだった。カタンヂカ婆たちは多くの点で普通の老女たちと異なっていた。カタンヂカ婆たちの年齢は大体わかっていたが、それは普通の老女たちよりずっと若かった。普通の老女の嫁たちがとっくの昔に死んでいても、カタンヂカ婆たちは嫁の不平を言うのだった。カタンヂカ婆はまた、痛風やら、その他の厄介な病にも不平を言っていたが、他方、普通の老女たちが患う大病といえば失明だけで、それにさえ一切不平を言わないのだった。何一つとして、カタンヂカ婆たちと普通の老女たちとでは比べようもなかった。
 そんな出来事の後はいつもそうなのだが、今回もカタンヂカ婆たちは通りを埋め尽くした。教会通りに市場通りを、高地パロルトに低地パロルトを、決闘橋の上を、貴婦人広場を、パシャ・カウリ門の下を、監獄の下を、カッコウの巣穴の上を、首飾り広場を、名前もない小路を、彼女らは絶えず歩き回り、たまに雨の滴る中を、黒いヴェールに身を包み、ヴァロシを下り、ドゥナヴァトへと上っていった、身を屈め、嗚咽し、噂話を山と抱えたままで。
 冷たく乾いた風が、北の峡谷から絶えず吹いていた。その押しつぶされたような唸り声を聞いていると、これといった理由もなく、「言葉は風と共に去りぬ」という、朝耳にした言葉が頭の中を駆け巡った。最近、私の身には奇妙なことが起こっていた。何百回と聞いたことのある言葉や表現が突如として、新たな意味をもって私に響き始めたのだ。言葉は、その日常的な意味から解き放たれ始めた。二つ三つの言葉から作られた表現は、痛々しく砕け散り始めた。もしも誰かが「頭が煮えたぎる」[訳註;原文më zien kokaは本来「ひどく忙しい」「気が急いて落ち着かない」という意味の慣用句]と言うのを耳にしたなら、私の頭は私自身の意思に反して、豆を入れた鍋のように煮えたぎる頭をすぐさま思い浮かべるのだ。言葉には、それが立ち上がる状況に相応しいエネルギーがあった。そして今やそれらが解凍され、砕け散り始める時、震え上がるようなエネルギーを放出するのだった。私はその破裂が怖かった。それで何とかしてその破裂を止めようと努力したのだが、それは不可能だった。私の頭の中には、まさしくカオスが生み出されつつあり、そこで言葉は、あらゆる理性の埒外で、恐怖のダンスに身を投じるのだった。特に私を苦しめたのは、「頭でも喰ってろ」というような表現だった。自分の頭を手で摑みそれを喰らうという、人間の想像力に対する拷問のせいで、歯があれば何だって喰えるが歯はその罪深い頭にこそあると知りながら、どうしたら人間が自分の頭を喰えるのか理解しようとする苦痛はいや増すのだった。[訳註;「頭でも喰ってろ」の原文hëngërsh kokënは「頭を悩ます」の意味で用いられる慣用句ha kokënの希求法2人称単数形。日本語で「こののうなしめ」と言われて「脳無し」と連想するようなものか。なお次の段落も同様で、アルバニア語の身体部位を用いた慣用句を文字通り解釈した結果として甚だ奇怪な文章になっているのだが、もう面倒臭いからいちいち説明しません]
 今までおとなしく安らかだった日常の言葉が突如として、地震か何かにでも見舞われたように揺らいでいた。何もかもが転倒し、打ち砕かれ、粉々になった。私は言葉の王国に足を踏み入れていた。そこは無慈悲な暴政だった。世界は突如として頭の代わりにカボチャを生やした連中で埋め尽くされ、或る者たちは頭をぐるぐる回転させ、両眼は薬莢のように弾け飛び、また或る者たちの血はアイスクリームのように凍りつき、また別の者たちは干からびた舌を出して歩き回り、更に別の者たちの腕は金属製(金または銀)で、あちらこちらに二つの眼を持った肉片が姿を現わし、町は高熱にうなされ(私は窓ががたがたと震えるのを、しかもそれらが灰色の汗を流すのを見た)、誰かが根を生やして歩き回り、また別の者たちは狂ったようになり仲間同士で『お前の耳は何処についてる、お前の眼は何処についてる』とわけのわからないことを訊ね合い、誰かが誰かを歯の方ではなく眼の方で喰らおうと悪戦苦闘し、見知らぬペンキ屋たちがいきなり何処かの家の扉を、或いは何処かの娘の運命を黒く塗りつぶし(この寂しい連中は何処から来たのだろう、何故こんなことをしているのだろう、そして何故人々は、運命を染める色が黒か白かということをこんなに重要視するのだろう?)、そして遂にそんな日々の中の或る日、誰かの頭に不意に愛が、石の屋根板のように落ちてきたのだ。世界は私の目の前で崩壊していった。間違いない、この崩壊こそ、カコ・ピノが「ひどいもんだ」と繰り返すたび予見していたものだ。
 それは、言葉の権勢がその頂点に達していた日々のことだった。私は石造りの斜面を見ながら、どうしてその頭に愛が落ちてくるようなことがあるのか理解しようと努めていた。何処にあったのだそいつは?[訳註;言葉の王国の]崩壊の前は何処にいて、どうして不意に人の頭上に転がり出てきたのだ?何でそいつは血も滲んでおらず、こぶもなく、ごくありふれた石からたやすく出来ていながら、とりわけ娘たちに落ちてきた時に人々はそいつに対してああも文句をつけるのだ?
 門を叩く救いのごとき音が家じゅうに鳴り渡った。ヂェヂョのよく知っているノックの音だった。そうやって叩いてから、音の合間にごく僅かに休止を挟む、それで何か尋常でないことが起きたとわかるのだ。母が緊張した面持ちで足早に玄関へ向かい、祖母は階段の上で、何か待つように立ち尽くしていた。だが程なくして祖母は下りていった。家の上階の方は押し黙ったままだった。階下では何ごとかが起きつつあった。門が再び開かれた。誰かが入ってきた。誰かが出ていった。それからまた誰かが入ってきた。女たちの声は沈んでいた。私は階段を用心深く、気付かれないように下りていった。階下では確かに何かが起きていた。門がまた音を立てた。下から聞こえてくる声は互いに溶け合い、一つの喧騒になっていた。それは霧のように立ち上っていた。私は下へ行った。誰も私に気付かなかった。女たちは、階段を下りた先、水貯めの傍らに立っていた。来ていたのはヂェヂョの他にナゾとその嫁さん、カコ・ピノ、ビド・シェリフィ、他に近所の人が一人だった。落ち着きのない目つきで、頭のスカーフもずり落ち、色の抜けた髪の房もそのままで、自身の頬を手でつねるその仕草から、何かとんでもないことが起こったのだとわかった。女たちは殆ど同時に喋っていた。何か恐ろしいことが起こったのだ、だがそれが何なのかはどうしてもわからなかった。誰かが死んだのでもない、狂ったのでもない。もっと悪いことだ。ヂェヂョは女たちの中心にいて、その重く荒い息遣いは、まるで鍛冶場のふいごのように、周囲に新たに恐怖を吹き込んでいた。
 私はずっと聞き耳を立てていたが、それでも何一つ理解できなかった。女たちは何かしら家に関することを話していた。イタリア人たちが何か家を開いた。その家には簡単な名前がついていた。何だか町の公共図書館に似た名前だった。それなのに女たちは恐怖に見舞われていた。女たちはその家に悪態をついていた。私は、美しい花嫁が住む砂糖で出来た家の話を聞いたことがある。だがこちらの家は毒で出来ていて、町じゅうに被害を及ぼすほどの力があるに違いない。
[訳註;『死者の軍隊の将軍』にも登場する外国軍管理の娼館の話をしている。アルバニア語の“shtëpi publike”(公共の家)が主人公に“biblioteka publike(公立図書館)”を連想させたのである。なお英訳ではこれを敢えて“boarding house”(下宿屋)とし、英語圏の読者が“brothel”や“bordello”を連想できるよう工夫している]
「各家から男一人」ヂェヂョがしわがれ声で言った。「そういう話だよ。すすんで来ないんなら力づくで連れていくってさ。各家から男性が一人」
 女たちはまた頬をつねった。ただナゾの嫁さんだけが、どうでもいいといった態度だった。困惑し上方をさまよっていたヂェヂョの視線が、私を捕らえた。
「何だい、あっちへ行かないか」ヂェヂョは声を上げた。
「よしなさいって」[訳註;原文pika të rëntëは「(卒中で)くたばっちまえ」だがここでは「おばかさん」程度の語感]祖母が言った。「この子が何だっていうの」
「ひどいもんだ」とカコ・ピノが言った、きっとこれで百回目だ。
「ここの連中だって思い知るだろうさ、えいセルフィヂェ、そうじゃないか」とヂェヂョは祖母に向かって声を上げた、まるで祖母が町の代表ででもあるかのように。
 その時、また門を叩く音がした。それはヂェモ叔母さんだった。
「これは何ごとかしら、あんたたち、まあ気の毒に、何かあったの?」彼女は入ってくるなりそう言った。
 ヂェモ叔母さんがうちに招かれることは滅多にない:年に二、三回というところだった。長身で、背筋がぴんと伸び、骨ばった身体をしていた。うちの親族中、彼女の潔癖症は有名だった。ヂェモ叔母さんは他人の手が触れたものは一切食べなかった。パンも、料理も、コーヒーも、お茶も、全て自分の手でこしらえるのだった。スプーンも、皿も、コーヒーカップも、家に自分用のものを備えていた。客に呼ばれた時も、彼女は清潔なナプキンにパンを、別の一枚にコーヒーカップやスプーンやコップを包んで持参するのだった。みんなヂェモ叔母さんの悪癖を知っていたから、食卓を共にしている時に彼女が自分の食物を引っ張り出しても、誰一人気分を害することはなかった。
 ヂェモ叔母さんはずっと押し黙ったまま、女たちが不思議な家の話をするのを聞いていた。
「困ったもんだよあんたたち」ようやく彼女は言った。「こうなるよって私が言ったでしょ。開くって言ったでしょ、その、その・・・ほら何て言ってたっけ、共同の食堂だよ」[訳註;「食堂」の原語はイタリア語mensa。ドイツ語でも「学生食堂」を指す]
 ずっと前からヂェモ叔母さんには共同食堂の開設が気懸かりだった。これ以上の不幸など彼女には考えられなかった。
「で、どうするのよあんたたち?」彼女は声を上げた。「困ったことになるよこれは、若い男に関わることだからね」ヂェモ叔母さんはナゾの嫁さんの方を見た。「さあどうするね。あんたたちどうするね?困ったもんだよあんたたち!」
 ナゾの嫁さんは始めのうち微笑むだけだったが、やがて一同が驚いたことには、口に手を当て声を上げて笑い出した。ナゾは嫁の脇腹を小突いた。
 女たちは解散した。祖母とヂェモ叔母さんはゆっくりと木造りの階段を三階へ上っていった。
「私たち今度は何を聞かされるんだろうね、ねえセルフィヂェ」ヂェモ叔母さんが言った。
「さあてね、他所者がね、踏み込んできた日にはそういうことになるだろうね」祖母は言った。「わからないけどね、娘も嫁も窓から顔を出す気はなくなるだろうね、イタリア人どもが鏡を引っ張り出して日の光をピカピカさせて誘ってくるんだから」
「連中がやってきたら初日に行くのは娼館だろうね」ヂェモ叔母さんが言った。「軍隊ってのはそういうもんさ、私が見たのは、兵隊どもがラヴェンダーの匂いをさせててね、自分の見たものが信じられなかったよ」
「それだけならね、まあどうかね、だけど向こうのあれがね」祖母は空港平野に目をやった。「あたしは気に入らないよ」
 ヂェモ叔母さんは溜め息をついた。
「戦争が近いのさ、ねえセルフィヂェ」
 一方、窓際では女たちが、「公共の家」という尋常ならざる名前を持つ新しい家の話題に明け暮れていた。その家の屋根には天空の稲妻が全て落ち、炎で焼かれ、一日に何百回も燃え上がり、何百回も廃墟と化すが、そのたびに灰の中から立ち上がるらしく、そんな中でも呪詛の声は止むことがなかった。カタンヂカ婆たちの更なる人波がまたしても通りや小路を埋め尽くした。北の渓谷からの風は止むことがなかった。その風がカタンヂカ婆たちの黒衣をはためかせると、玉のような涙が湧き上がり、それはガラスの首飾りのように目元をゆらゆらと伝わり落ちた。彼女らは休むことなく歩き回った。
 町は熱にうなされていた。もはや町の流す汗を目にするのは難しくなかった。窓は絶えずブルブルと震えていた。煙突は呻き声を上げていた。夜は夜で、サーチライトが一つしかない目を光らせていた。それはキュクロープスたるポリュペーモスだった[訳註;ポリュペーモスはホメーロスの『オデュッセイアー』に登場するキュクロープスたちの一人。主人公オデュッセウスらを捕らえるも、酔い潰されて目を潰される]。私は真っ赤に焼けた杭を手にそこへ向かっていく様を夢見ていた。その恐るべき目を抉り出そうとするのだ。眩しいサーチライトの唸る声は夜を埋め尽くすだろう。
 天気は荒れ模様で、何もかもが不確かだった。爺様の家の周囲の変わりゆく大地を思い出していた。間もなく大地は、私たちのところでも動き始めるように思われた。みんなが多かれ少なかれそうなることを予期していた。
 イリルが愚者の小路を駆け下りてきた。
「知ってるか?」彼は入ってくるなり私に言った。
「地球って丸いんだぜ、メロンみたいに。家で見たんだ、イサが持ってきてくれたんだ。丸くて、まん丸でさ、しかも動いてるんだ、ずっと動いてるんだぜ」[訳註;ここでは「地球」と訳したが、原語botëは主に「世界、世の中」で、「地球」と訳されるのは通常tokë(土地、地面)。イリルが言っているのが「地球儀」のことだというのは前後の会話でわかる]
 彼が自分の見たものを説明してくれるのには随分長い時間を要した。
「じゃ何でみんな落っこちないのさ?」自分たちの下に家々や人々で溢れた他の町があるのだと彼に聞かされた時、私はそう訊ねた。
「さあね」とイリルは言った。「イサに訊いたんだけど忘れちゃったな。ヤヴェルと二人して家にいて、丸い地球を眺めててさ。ヤヴェルがぴたっと指を当てて、こう言ったのさ:『もうじきここは屠場になるだろう』」
「屠場に?」
「ああ。そう言ったよ。地球は血に沈むだろうって。そう言ったんだ」
「じゃ何処から血が出るのさ?」私は言った。「畑にも山にも血なんかないぞ」
「あるかも知れないぜ」イリルが言った。「二人があるって言うからには、つまり何かがあるってことさ。ヤヴェルが世界は血だらけになるって言った時に、俺も、屠場に行ってて牛が血まみれになるのを見たって言ったんだけどね。あいつ、笑ってこう言ったのさ、屠場に引き出されるのは国家なんだぞって」
「国家?郵便切手にある、あれかい?」
「違いない。あれが国家さ」
「誰が国家をバラすっていうのさ?」
 イリルは肩をすくめた。
「そこまでは訊かなかったな」
 私は屠場に思いを巡らせていた。ヂェヂョが或る日、空港のことを話していて、畑も草地もセメントで覆われるだろうと言ったことがある。濡れて、つるつる滑るセメントでだ。町々や国々の上には一本のゴムホース。血を洗い流すための。恐らくそれが殺戮の始まりだ。それ以上に想像し難かったのは、国々が屠場に引き出され、泣き叫ぶ様だ。黒い胴着の農夫たち。白衣の屠畜人たち。牡羊、牝羊、仔羊。人々が見つめている。待っている人々。その時が来た。フランスが。ノルウェーが。血に濡れる広場。オランダが悲鳴を上げる。ルクセンブルクはまるで仔羊だ。ロシアは大きな鈴をつけられている。イタリアは(どういうわけだがわからないが)まるで山羊だ。孤独な鳴き声がする。誰だ?
「で、あの家のことはお前何か聞いてないか?」イリルが訊いてきた。
「すごく悪い家だって聞いたよ。すごく、すごく悪い家なんだって」
「なあ知ってるか?あそこには綺麗なお嫁さんがいっぱいいるらしいぜ」
「本当かい?ヂェヂョは、あそこには性悪な女が何人もいるんだって言ってたけど」 [訳註;ここで「性悪」と訳した形容詞i ligëは、一般的に「悪い」の意味で用いられるi keqに比べて「道徳的に逸脱した」「邪悪な」「病んだ」「脆弱な」といった意味を含んでいる]
「でもみんな綺麗なんだぜ」
「綺麗だって?ああ、阿呆だな全く!」
「お前こそ阿呆だろ」
 沈黙。
 一方その公共の家は、至るところ混乱を巻き起こし続けていた。ヂェヂョは我が家を出たり入ったりしては、いつだって極めて信じがたいニュースを運んできた。風は止むことがなかった。ここ数十年来、これほどの風が吹いたことは記憶になかった。老ヂヴォ・ガヴォはこの風のことを彼の記録に書き込んだそうだ。
 この時期、最初の空襲警報の試験が行われた。昼食時に、それは身も震え上がるほどの金切声を鳴り響かせた。
「ビド・シェリフィとこの義母さんだね」祖母が言った。「あれはこんな風に悲鳴を上げるのよ」
 父と母は窓から身を乗り出した。悲鳴は続いていたが、それは人のものとは思えぬ悲鳴だった。それは波打つように広がり、消えていくかに思われたが、まさにその時、新たな力を得て空を侵食していった。ビド・シェリフィの義母が百人いたって、実際こんな叫びを発することなどできはしないだろう。
「これは警報だな」父が沈んだ声で言った。「エジプトで聞いたことがあるよ」
 祖母は口をぽかんとさせていた。
 こうして、町に警報がやってきた。
「とうとう、あたしたち全員を呼び出す声まで揃ったとはね」午後やってきたヂェヂョが言った。
「そしてこれこそ、あたしたちに足りなかったものさ、ねえセルフィヂェ。さあ準備は整った。ガブリエルが来るよ」[訳註;「ガブリエル」の原語Xhebrailは語源的には恐らくトルコ語Cebrâilからであり、むしろイスラーム教における天使「ジブリール」に由来する。要するにヂェヂョは「最後の審判」のことを言っている]
 これら全てではまだ足りないかのように、まさにこの最中にもう一つ別の事件が起こり、動揺を受けずにいたところまでも揺さぶった、それこそがアルジル・アルジリの婚礼だった。
 婚約だか結婚だかの知らせというのは往々にしてある人々に不満或いは不安を惹き起こし、他の人々に喜び或いは微笑みをもたらすものだということは、私も気付いていた;だが一つの婚礼の知らせが全ての人々の頭上に例外なくどす黒い災難のように降りかかってこようとは、一度として考えたことがなかった。アルジル・アルジリが結婚するんだって、聞いたかい?冗談はよせ。本当に結婚するんだよ。ふざけたことを言うなよ[訳註;逐語訳「お前の口が干上がりますように」]。アルジル・アルジリが結婚するとさ。何だって?結婚するんだよ。は?何だって?結婚するんだよ。あり得ない。カコ・ピノが花嫁の着付けに呼ばれたんだと。いいや。そんなはずがない。そんなはずがない。いや。いや。俺も聞いたぞ。本当なのか?本当だ。おお、前代未聞の恥さらしだ。恥だ。恥だ。恥さらしだ。[訳註;話者の性別が判断できないので便宜上、男言葉で訳しています]
 アルジル・アルジリは色黒な男で、声はまるで女のようにか細く、みんな彼を知っていて、彼はどの地区も歩き回っていた。彼のことはふたなり[訳註;原語deledashは雌雄同体の羊を指す]とか半分男とか半分女とか言われていた。そんな風だから彼はどの家にも、夫たちがいない時でさえ自由に出入りすることができる、唯一人の男性だった。アルジリは女たちの様々な仕事を手伝い、子供らの面倒を見、女たちが服を選択する時は、一緒になって水を汲み、世間話に花を咲かせるのだった。彼にも自分の家があって、女たちの手伝いをしているという話だったが、それは必要なことだったからではなく、彼自身そうしているのが好きで、女たちがするようなやりとりや、女たちのする仕事が好きだからということだったらしい。それは理解しがたいことだが、むしろなるほどと思えることでもあった、アルジルが男でも女でもない、狭間にある限りは。何年も何年も前から、人々のからかいと嘲笑の対価として、そして彼自身の中にある欠損への慰めとして、彼は他の男が決して得ることのできない権利を勝ち取ってきたのだ:女性たちと一緒にいられるという権利を。
 それがどうだ、突然に、アルジル・アルジリは結婚するなどと宣言した。恐るべき反逆だった。か細い声の持ち主が突然に、自分は男だと言い出したのだ。何年にも亘って、彼は重大な侮辱を受け入れつつ、復讐の時を待っていたのだ。町は憤怒した[訳註;原義は「黒くなった」]。その一撃は耐え難いものだった。アルジル・アルジリが立ち入れない家はなく、彼を知らぬ女もいなかった。どす黒い疑念が至るところに漂っていた。
 こんなことが真実ではあるまいという希望も、一つまた一つと潰えていった。カコ・ピノが呼び出された。楽団の予約が入った。そればかりか、婚礼の日取りまで発表された。アルジル・アルジリが思い直すのではないかという希望もまた、一つまた一つと潰えていった。何度か立て続けに脅迫があったというが、彼は揺るがなかった。脅迫は繰り返された。彼はそれでも揺るがなかった。それらは全て騒ぎ立てることなく、歯ぎしりしながらの言葉で、署名のない手紙で行われた。誰もアルジルに対して反旗を起こしたいとは思っていなかった、というのもそんなことをしたら、言い出しっぺには他の者たち以上に気を病むような深い理由がある、ということになるからだ。
 何がこの声のか細い人物を突然の反乱に駆り立てたのか、誰一人として、全く何一つ見当がつかなかった。アルジルに何があったのか。何故アルジルはこんなことをしたのか?何故?何故?何故?遂に婚礼の夜が来た。それは、最も陰鬱さを強いられる夜の一つでもあった。二週間吹いていた風が不意に止んだ。絶えずごうごう吹きすさんだその後には、それ以上の深い静寂が待っていた。サーチライトの眼が光り、そしてまた消えた。婚礼のドラム[訳註;原語lodërtiは太鼓(daullë)の中でも大きめの、肩から下げるものを指す]は休みなく打ち鳴らされた、まるでこの町の栄誉の終焉を告げ知らせるように。
 盃は満たされた、とヂェヂョが言っていた。今度は、彼女曰く、真っ黒い水が流れ出すのを待つだけだ。
「だからこうなったわけだ、この半陰陽者の結婚にさ」とヤヴェルに向かって、イサが暗闇の中でタバコを吸いながら言った。
「よせよ、よせって」がヤヴェルの返事だった。「この町が、まるでソドムとゴモラみたいになっちまった」





 攻撃は突如として、残忍に為された。警報は鳴らなかった。町は癲癇に襲われたように震え上がり、痙攣し、倒れんばかりだった。日曜日の、朝九時だった。その生涯の中で初めて、幾千回も投石機に、石礫に、砲弾に、鉄製の破城槌に狙われてきたこの恐ろしく古くからの町が、今世紀の真ん中の、この十月の日曜日に、空からの攻撃を受けたのだ。地盤は、揺り動かされる盲人のように呻き声を上げた。何千もの窓が恐怖に怯え、窓ガラスは悲鳴を上げ砕け散った。
 身の毛もよだつ轟音に、世界は耳をやられたようになってしまった。町は混乱したまま、まるで自身の公平さを弁明しようとでもするように、広がる空を眺めていた。今、空の彼方へと遠ざかりつつあるあの銀色の小さな三つの十字架、あれがこの石塊を頭のてっぺんからつま先まで引っ掻き回していったのだ。
 この爆撃によって62人が死んだ。老女ネスリハンは瓦礫の中の、下半分は石や梁や漆喰に覆われた中から発見された。彼女は何が起きていたかわかっていなかった。長い腕を虚空に振り回し、こう叫んでいた:『あたしを殺すのは誰だい?』彼女は142歳だった。盲目だった。






記録断片
対空砲火を準備せよ。自分と家族を英国の爆弾から守れるように防空壕を造れ。自宅に水を入れた桶と砂を詰めた袋を用意せよ。防火用に鉄製の斧とシャベルとつるはしを用意せよ。市当局。裁判所。執行。財産。次回通知まで裁判手続きを暫時中止。我が市民アルジル・アルジリ、不吉なる婚礼から一夜明けた朝、新郎の間にて死体となって発見。市は彼の不品行を容認せず。S・チュベリ医師。性病科。毎日16-20時。最新の空襲死者名簿。P・シュタコ、R・メズィニ、V・バロマ。



(つづく)


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