第10章
翌日は一日中、雨だった。前日に受けた恥辱の後で、町は茫然と横たわり、煙突も屋根の斜面もびしょ濡れに
[訳註;原語は「粥状に」]なっていた。憂鬱が、休みなく石板の上を流れていた。自らの灰色を維持しつつも、憂鬱は慌てて斜面を開放し、天空の大いなる悲しみの穀物庫から溢れ出る、新たな憂鬱のために場所を空けてやるのだった。
次の日、夜が明けてみると町は再び占領されていた。入ってきたのはギリシア人だった。今回は騾馬と、砲弾と、そのための砲台が至るところに見られた。監獄塔の上の、以前はイタリアの三色旗が掛けられていた金属製の棒の先に、今度はギリシアの旗が付いていた。始めのうちは、それが何の旗なのか、なかなか分からなかった。風が絶えず吹いていて、その布きれは一時たりとも落ち着くことがなかった。昼になり、風が収まり、そして雨が降り出すと、そのくたびれた布切れにはようやく、キリスト教の象徴である、大きな白い十字が描かれている
[訳註;のが見えた]のだった。
[訳註;当時のギリシア国旗は現在と異なり、青地に白十字のみ。現在の青白の縞模様は軍政崩壊の1978年以降]
「とうとう来たねこんな日が、ギリシア人の下で暮らすとは」祖母が言った。「何で去年の冬に死んどかなかったかねえ」
広間には二人だけだった。私はこんな絶望を祖母の両瞳と肌一面に見たことがなかった。何と言ったらいいかわからなかった。私は丸レンズを取り出して片目に当てた。向こうに見える監獄棟の上の大きな十字が逆立っていた。それは明瞭で、確固たるものに見えた。布切れの上に描かれたもの。考えてみれば、二本の直線が一枚の布切れの上に交互に描かれているだけで、何で人間にこれほどの絶望を引き起こせるのだろう。風にはためくただの布切れに、町全体を絶望させることができるとは。奇妙な話だった。
その晩は、どの家もギリシア人の話でもちきりだった。予想されていたのは、恐ろしいことばかりだった。何年も昔、王制の時代より前、それどころか共和制よりも前
[訳註;この体制の変遷については第3章の註参照]、この町が数週間にわたってギリシアに支配されたことがある。その時は大規模な虐殺が起こった。その時も今と同じように、監獄には、十字のついたこんな旗が掲げられていた。再び十字が姿を現わしたからには、これはつまり、それに続く事どもがあるということだ。
ヂヴォ・ガヴォの家の窓には夜遅くまで明かりが灯っていた。この老年代史家の隣人たちは、彼がギリシア人たちが入ってきた件を詳細に記載しているのだと思っていた。ところが後になって分かったのだが、ヂヴォ・ガヴォの記録では、ギリシア人が入ってきた件は『11月18日g入城』と、たったの一文しか費やされていなかった。この絶望的な出来事にこれほど文をけちる、そればかりかギリシアの大軍勢にたったの一文字(g)しか充てていない理由を、誰も説明できなかった。
朝になると、十字はまだそこに、町の頭上にあった。凶事の前兆が立っている。今や凶事そのものを待つばかりだった。
ギリシア兵たちはカーキ色の上衣姿で路上を闊歩し始めた。中央広場には再びカタンヅァキス名義のポスターや命令書が張り出された。居酒屋にはギリシア文字が溢れ返った。それらは細く鋭く、「s」や「th」
[訳註;つまり“Σ”や“Θ”]だらけで、それはまるで剃刀のようだった
[訳註;原文のprisninは動詞pres(切る)の3人称複数半過去形とも、pres(待つ)の3人称複数半過去形ともとれる。即ち「剃刀のように切れる」とも「剃刀のように待ち受ける」ともとれるが、既存の訳に拠り前者を採る]。兵士たちは皆ナイフを携えていた。何もかもが信用ならなかった。待ち受けているのは屠畜場だった。ゴムホースが町の上を跳ね回るだろう。だが雨が降っている。恐らくゴムホースなど必要あるまい。
ギリシア兵たちは、初日には殺しを行わなかった。二日目もだった。中央広場で彼らは「北エピロス」
[訳註;ギリシア系住民が多いアルバニア南部の、ギリシア側からの呼称]と書かれた大きなポスターを張り出した。カタンヅァキス司令官は、裕福なキリスト教徒の家に昼食や夕食をとりに出かけた。
ギリシア人の軍曹が一人、銃を発砲したが、死者は出なかった。町で唯一の銅像の太腿に、穴が一個開いただけだった。それは王制時代から中央広場に立つブロンズ像だった
[訳註;第9章参照]。それより前、この町に銅像は一つもなかった。人の形をしたものといえば案山子ぐらいだった。銅像を建てようという話になった時(それは対空砲が設置されたのとほぼ同時期のことだった)、対空砲に狂喜乱舞した熱情的な市民の多くが、銅像には疑念を示した。金属でできた人間だと!そんな造り物が必要なのか?厄介なことになりゃしないだろうね?主の命によって人間がみんな寝てしまうと同時に、像が立ち上がるんだろう。そいつは昼も夜も、冬も夏も立ってるんだろうな。人間は泣いたり笑ったり、命令したり死んだりするが、そいつはそんなこと何もしないんだろうな。そいつはずっと黙ったままなんだろう。そしてその黙ってるのが危ういことなんだ。
銅像が建てられる場所を見にティラナからやってきた彫刻家は、幸いにも殴られずに済んだ。町の新聞では激しい論争が起きていた。最後には市民の多数も強く推す中で、銅像がやってきた。それを運んできたのは大型トラックで、蠟引き布に覆われていた。冬のことだった。銅像は夜の間に中央広場に据えられた。騒動を起こさないよう建立式は行われなかった。人々は驚きと共にブロンズの闘士を見ていたが、片手に銃を構えたその像は、『どうして俺を嫌うんだ?』と問うてでもいるかのように、広場を睨みつけていた。
夜間、そのブロンズの人間の肩に誰かが毛布をかけていった。それ以来、町はこの銅像に愛着を抱くようになった。
この銅像を撃ったのがギリシア人の軍曹だった。人々は、弾丸が空けた穴を見てやろうと中央広場に駆け付けた。足を引きずっているように見える者たちもいた。その瞳は暗く濁っていた。実際、太腿を撃たれたかのように足を引きずっている者たちもいた。広場は不安に満ちていた。その中を、カタンヅァキスが護衛を従えて通り抜けた。彼は、ギリシア軍の司令部が置かれている市庁舎の中へと入っていった。
一時間後、ポスターの掲示場に、大きな紙にアルバニア語とギリシア語で書いたカタンヅァキスの命令書が張り出されたが、そこには、銅像を撃った軍曹を投獄せよとあった。
午後になってヂェヂョがやって来た。
「あんたたち、とんだ話だよ、何だと思うね」彼女は入ってくるなりそう言った。
[訳註;上の発話の逐語訳は「雌烏よ、女たちよ、あたしたちに何を見出した」。なおヂェヂョによる「雌烏(korbë)」の比喩は第3章で既出]「ヴァスィリキが戻って来たってさ」
「ヴァスィリキだって?」と言いながら祖母が顔をしかめた。
「ヴァスィリキですって?」と言った母も怯えていた。
父が隣の部屋から来た。
「おい何だって、ヂェヂョ、ヴァスィリキが戻って来たんだって?」
「ああ、来たともさ」ヂェヂョはふんと鼻を鳴らした。
「もうおしまいだわ」母が言った。
[訳註;逐語訳「今や川が私たちを捉えた」。第6章でヂェヂョが似たような表現を口にしている]
沈黙が訪れた。ヂェヂョの重々しい息遣いが聞こえてきた。
「何で去年の冬に死んどかなかったかねえ」祖母が言った。「今頃は地面の下だったろうにね」
「そうなってりゃよかったけどね
[訳註;逐語訳「どこで私に幸運が見つかるか」]」ヂェヂョが言った。
「ここまで生きてきていろいろあったがね、またヴァスィリキを目にしようとは、これはまるで思ってもなかったよ」祖母が言った。その声には今や悲壮なまでの疲れが感じられた。
父は長い指を神経質に鳴らした。
「これからもっとひどいことになるんだってさ」ヂェヂョが言った。「恐ろしいことになるよ」
[訳註;「恐ろしいこと」の原語hataは「錯誤」を意味するトルコ語に由来するが、アルバニア語ではむしろ「惨事、災厄」]
「何て悲惨なの私たち!」母が言った。
「で、何処にいるんだいそいつは?いつになったら出て来るんだい?」祖母が訊ねた。
「パシャ・カウリの家に閉じこもってて、あとは連れ出される日を待つばかりさ」
門を叩く音がして、ビド・シェリフィの妻、カコ・ピノ、ナゾの嫁さん(この恐怖の中で殊更に美しかった)、そしてマネ・ヴォツォの妻がイリルの手を取り、ぞろぞろと入ってきた。
「ヴァスィリキだって?」
「本当にヴァスィリキが?」
「ひどいもんだ」
彼女らの表情はこれまでにないほど痛々しかった。顔の皺が小刻みに震えていて、崩れ落ちそうに見えた。今にも私の足がその中でもつれそうなほどに。
「そういうわけなのよ、セルフィヂェや」ヂェヂョはそう言って、胸の前で腕を組んだ。
「まあ何て知らせを持ってきてくれたもんかね」
[訳註;原語mandatëには「委任」の意味もあるが、第一義としては「死の知らせ」]
「ひどいもんだ」
ヴァスィリキのことは幾らか知っていた。その女の名前は二十数年前からこの町を震え上がらせていて、私からすればそれは「疫病」、「疫癘」、「厄災」といった、人々が互いに投げかけ合う呪詛の言葉の多くに存在しる言葉と同じようなものだった。何年もの間、ヴァスィリキという名は私たちの隣にいて、何処か未知の領域に身を潜め、至るところで絶えず脅威となっていた。そして今や、それは一歩踏み出して、私たちの前にやって来ようとしているのだ、言葉の世界を抜け出し、一人の女の体、眼、髪、口を引き連れて。
二十数年前、その女はギリシアの占領軍と共にこの町へやって来た。彼女は、銃剣を携えたギリシアの憲兵団の後に着いて、路上を歩き回っていた。あそこにいるあの男は悪い目をしてるよ、あいつを捕まえな、とヴァスィリキが言った。憲兵らはすぐさま飛びかかった。ここにいるこの若造は気に入らないね。あいつはキリスト教徒を嫌ってるんだ。殺しちまいな。あそこで目を逸らしたあいつだ、何か企んでる。あいつを捕まえて、バラバラに切り刻んでやりな。川に放り捨ててやりな。
彼女は路上を歩き回り、カフェに入り、中央広場に居座った。ギリシア人は彼女を聖なる花嫁と呼んでいた。路上とカフェから人影が消えた。二度もヴァスィリキを殺そうと狙撃した者たちがいたが、銃弾は当たらなかった。百人を超える男たち若者たちが、彼女の指示によって切り刻まれた。それから彼女は軍の部隊と共に向こうへ、元来た南の方へと去っていった。
町はその女を忘れはしなかった。「ヴァスィリキ」なる言葉は、生命を失い、言葉の王国に封じ込められた。「ヴァスィリキの眼が切り裂かれますように」と老女たちは呪った。ヴァスィリキは徐々に遠く、遠くへと離れていった。彼女と共に疫病は遠ざかり(疫病にしても、かつてはごく近くにあった)、そして恐らくは死も遠ざかっていた。だがそれが突然、また戻ってきたのだ。鎖を破壊する野獣のように、言葉の織布を引き裂いて息を吹き返し、
[訳註;生命を]切り離されたことに怒り狂って。
夜になった。ヴァスィリキは町にいた。パシャ・カウリの家の窓は毛布で覆われていた。いつ出てくるのだろう?何故出てこないのだろう?何を待っているのだろう?
町はヴァスィリキと共に夜明けを迎えた。
昼になって再びヂェヂョがやって来た。
「道には誰もいないよ、人っ子ひとりね」彼女は言った。「ジェルジ・プーラだけが上がっていくのを見たけどね。あんたたち聞いたかい?あれはまた名前を変えたんだよ」
「何て変えたんだい?」祖母が訊ねた。
「ヨルゴス・プロス」
「馬鹿々々しい」
ジェルジ・プーラはご近所さんだった。初めてイタリア軍が入ってきた時、彼はジェルジ・プーラからジョルジョ・プーロに名を改めていた。
門がノックされた。入ってきたのはビド・シェリフィの妻だった。続いて、ナゾの嫁さんも。
「ヂェヂョが入っていくのを見たんだけど。何かニュースでも?」と二人が訊いてきた。
「ニュースが何だって?なければどれだけいいか
[訳註;英語版では「ニュースを聞くぐらいなら死んで埋められる方がましさ」]。ブフェ・ハサンのことは聞いてるかい?」
祖母は私の方を向いた。私は気付いていないふりをした。いつもブフェ・ハサンの名を口にするたび、祖母は私が聞いてやしないかと気にするのだった。
「あの人・・・ギリシア兵を引っかけてるとか」
「ふん、恥さらしが!」
「奥さんの方も気が気じゃなくてね。イタリア軍がいなくなって助かったと思ってたのに、って言うのよ。ちょっと先からでもポマードの臭いをプンプンさせていたあのいまいましいペペ
[訳註:イタリア人に対する蔑称]がいなくなって助かったと思ってたのに、今度はエレフセリオスとかなんとか連れてきてさ。ギリシア人よ、ねえあんたたち、ギリシア人なのよ」
[訳註;とブフェ・ハサンの妻が言ったことを伝えている。なおここでは明示されていないが、カダレ作品の登場人物紹介でブフェ・ハサンは「男色家」であると書かれている]
ナゾの嫁さんはずっと目を細めていた。ビド・シェリフィの妻は頬をつねったが、そこには小麦粉の跡が残ったままだった。
「俺は決めたよ、ってこれはブフェ・ハサンが言ってたんだけどね、ここにどんな軍隊が来たって俺は好みの軍人を引っかけてやるんだ、って。ドイツ軍が来ればドイツ人を引っかけるし、日本軍が来れば日本人を引っかけてやるんだ、って」
「ところでヴァスィリキは?」
ヂェヂョは鼻を鳴らした。
「まだ閉じこもってるよ。何のつもりか知らないがね」
午後になるとイリルがやって来た。
「イサとヤヴェルが拳銃を持ってたよ」イリルが言った。「この目で見たんだ」
「拳銃だって?」
「そうとも。だがお前、人には言うなよ」
「そんなもので何をするつもり?」
「人殺しだろう。俺はドアの穴から聞いたんだけど、最初に誰を殺すかでもめていたんだ。名簿を作っててさ。まだそこにいるよ、イサの部屋で言い合ってる」
「どいつを殺すんだって?」
「名簿の冒頭にあったのはヴァスィリキだ、もし外に出てきたらだが。それからヤヴェルによればジェルジ・プーラだ、もっともイサは反対なんだけどね」
「そりゃ妙だな!」
「ドア穴越しに聞きに行ってみようか?」
「何処に行くの?」母が言った。「あんまり遠くに行っちゃだめよ。ヴァスィリキが出てくるかも知れないし」
イサとヤヴェルはドアを半開きにしていたので、そこから私たちは室内に入った。二人はもう言い合っていなかった。ヤヴェルは口笛を吹いていた。どうやら互いの意見が一致したらしい。イサの目が普段より大きく見えた。二人が私たちの方を向いた。
[訳註;イサの眼鏡の]レンズに光が反射してちらちらと揺れた。二人は死者の名簿を持っていた。それが名簿だとすぐにわかった。
「外に散歩に行かない?」イリルが訊ねた。「ヴァスィリキが出てくるかも知れないよ」
イサは身じろきもせずじっと見つめていた。ヤヴェルが眉間に皺を寄せて
「あいつは出してもらえないだろうな」と言った。「あれの時代は終わっていたのさ」
長い沈黙があった。窓から空港平野の一部が見えていた。牛たちがそこにいた。大型飛行機の記憶が突如ぼんやりと切れ切れに思い起こされた、何度もそうだったように。ヴァスィリキについての、そしてブフェ・ハサンの恥ずべき行いについてのうんざりするようなやりとりの中で突如、痛々しいほどに遠くに、ぴかぴかのアルミニウムが輝きを放った。だが実際、それは何処にある?両翼の骨を自身の下にかき集めた鳥の死骸のイメージが、今やスザナの細長い、殆ど透明の手足とないまぜになり、飛行機と鳥とスザナの三つが一緒になって、その娘の肉を、ジュラルミンを、羽毛を、生と死を、奪い合い、与え合いながら、まったくもって奇妙な、尋常でない、単一の生物を生み出していた。
「あれの時代は終わっていたのさ」ヤヴェルが繰り返した。「心配しないで通りに出てみろよ」
私たちは外へ出た。通りはヂェヂョが言うほど閑散とはしていなかった。チェチョ・カリとアチフ・カシャフが石畳の上を重い足取りで歩いていた。チェチョ・カリの赤髪は、風に搔き乱された炎のように見えた。この二人は近頃しょちゅう一緒にいた。どうやら女運の悪さが二人を結び付けていたらしい。或る日イリルが女子たちから聞いたことだが、男の子とキスする娘がいるのも、髭の生えた娘がいるのも、
[訳註;英語版では「父親にとっては」と補われている]殆ど同じことだという
男二人は浮かない顔だった。マイヌル夫人が、マジョラムの枝を手にして窓際に現れた。居並ぶ他の奥さん連中の家の窓は閉ざされていた。カルラシ家は、鉄製の大きな門(そのドアノッカーは人間の腕の形をしていて、それが私に英国人の切断された腕を思い出させた)共々、静まり返っていた。
「中央広場の銅像に空いた穴でも見に行ってみようか?」イリルが言った。
「行こう」
「見ろよ、ギリシア兵だぜ」
兵士たちが、映画館のポスター掲示板の前に立っていた。彼らは色黒だった。
「ユダヤ人ってジプシーなのか?」イリルが小声で訊いてきた。
「さあね。ジプシーじゃないと思うよ、だってあいつら、誰もヴァイオリンもクラリネットも持ってないだろ。そら、あそこにヴァスィリキがいるんだ」イリルがパシャ・カウリの黄色い
[訳註;英語版では「褐色の」]家を指差したが、そこの門には憲兵が数名立っていた。
「指をさすなよ」と私は言った。
「構わないだろ」イリルが言った。「あれの時代は終わっていたのさ」
居酒屋「アディスアベバ」は閉まっていた。床屋もだった。あとほんの少しで、広場を通り抜けるところだった。銅像の足元の、風で破れたポスターが遠くに見えた。バサバサバサ。ザワザワザワ
[訳註;原語では“S.S.S. Z.Z.Z.”]。私は足を止めた。
「おい聞けよ」私は言った。
イリルは口をぽかんとさせた。
遠くの方からくぐもったような、ゴロゴロという音が聞こえてきた。歩道で誰かが空を見上げた。ギリシア兵が一人、額に手を日よけのようにかざし、じっと見上げていた。
「飛行機だ」イリルが言った。
私たちは広場の真ん中にいた。ゴロゴロという音は力強さを増していた。広場が不意に広がり始めた。ギリシア兵は叫び声を上げ、そしてダッと駆け出した。空はブルブルと、砕け散らんばかりに震えていた。
あれだ。あの音だ。あの響きだ。
「早く」とイリルが叫んで私の袖を引っ張った。「早く」
だが私はその場に立ったままでいた。
「大型機だ」私は消え入りそうな声で呟いた。
「伏せるんだ」誰かが激しい声で怒鳴っていた。
咆哮が大きくなった。それは突然、旧式対空砲の爆音と共に空全体を呑み込み、砲弾は混沌の中に消え失せた。
「伏せろ・・・お・・・おお」
咆哮の切れ端がばらばらに砕けて遠くからやってくる、そして私の目に突如飛び込んできたのだ、大空の、私たちの頭の真上、三機の爆撃機がとんでもない速度で屋根の上に姿を現わすのを。その中にあれもいた。まさにあれだ。灰色の両翼を伸ばし、戦争のせいで血に飢え、盲目になったそれが今、爆弾を放っていた。一つ、二つ、三つ・・・大地と空が互いにぶつかり合った。私は見えない力で地面に叩きつけられた。何をしてるんだ、あれは!ここで何をしてるんだあれは!耳がズキズキと痛かった。もうたくさんだ!何も見えない。どうやっても耳がちっとも聞こえない。目もだめだ。きっと自分は死んでしまったんだ。もういいたくさんだ!どうなってるんだこれは!
静寂が戻ってきた時、私が耳にしたのはかすれた泣き声だった。それは自分の泣き声だった。私は立ち上がった。不思議なことに広場は元通りのままだった、ついさっきまでは何もかもがひっくり返り、永遠にねじ曲がったままのように見えたのに。イリルが数歩先でうつ伏せに倒れていた。私は彼の肩を摑んだ。彼も泣いていた。うつむいたまま立ち上がった。額と掌を擦りむいていた。私も同じように血を流していた。一言も口をきかず、声を上げて泣き続けながら、私たちは足早に家へと向かった。市場通りでイサとヤヴェルに出くわしたが、彼らも真っ青な顔で私たちに駆け寄ってきた。彼らは私たちを見るや叫び声を上げ、私たちの腕を摑んだまま、狂ったような勢いで家へと駆け出した。
町に再びイタリア軍がやって来た。大通りが或る朝、騾馬と隊列と銃砲で溢れかえった。監獄の上の砦から十字の入ったギリシア旗が取り除かれ、再び、三色に斧の入ったイタリアの旗[訳註;厳密にはファシスト党旗]が掲げられた。
一時的な入城でないことはすぐに察せられた。軍隊に続いてすぐ、警報のサイレンが、サーチライトが、対空砲台が、修道女たちが、売春宿の女たちがやって来た。ただ空港平野だけは、もはや満たされることがなかった。軍用機の代わりにやって来たのはオレンジ色の奇妙な飛行機が一機だけで、鼻先は平たく、翼は短くてひどく器量の悪いそれを人々は「ブルドッグ」と名付けた。今やその一機だけが空港平野をうろついているのだった、まるでみなしごのように。
(つづく)