見出し

イスマイル・カダレ 『石の町の記録』




第10章

 翌日は一日中、雨だった。前日に受けた恥辱の後で、町は茫然と横たわり、煙突も屋根の斜面もびしょ濡れに[訳註;原語は「粥状に」]なっていた。憂鬱が、休みなく石板の上を流れていた。自らの灰色を維持しつつも、憂鬱は慌てて斜面を開放し、天空の大いなる悲しみの穀物庫から溢れ出る、新たな憂鬱のために場所を空けてやるのだった。
 次の日、夜が明けてみると町は再び占領されていた。入ってきたのはギリシア人だった。今回は騾馬と、砲弾と、そのための砲台が至るところに見られた。監獄塔の上の、以前はイタリアの三色旗が掛けられていた金属製の棒の先に、今度はギリシアの旗が付いていた。始めのうちは、それが何の旗なのか、なかなか分からなかった。風が絶えず吹いていて、その布きれは一時たりとも落ち着くことがなかった。昼になり、風が収まり、そして雨が降り出すと、そのくたびれた布切れにはようやく、キリスト教の象徴である、大きな白い十字が描かれている[訳註;のが見えた]のだった。
[訳註;当時のギリシア国旗は現在と異なり、青地に白十字のみ。現在の青白の縞模様は軍政崩壊の1978年以降]
「とうとう来たねこんな日が、ギリシア人の下で暮らすとは」祖母が言った。「何で去年の冬に死んどかなかったかねえ」
 広間には二人だけだった。私はこんな絶望を祖母の両瞳と肌一面に見たことがなかった。何と言ったらいいかわからなかった。私は丸レンズを取り出して片目に当てた。向こうに見える監獄棟の上の大きな十字が逆立っていた。それは明瞭で、確固たるものに見えた。布切れの上に描かれたもの。考えてみれば、二本の直線が一枚の布切れの上に交互に描かれているだけで、何で人間にこれほどの絶望を引き起こせるのだろう。風にはためくただの布切れに、町全体を絶望させることができるとは。奇妙な話だった。
 その晩は、どの家もギリシア人の話でもちきりだった。予想されていたのは、恐ろしいことばかりだった。何年も昔、王制の時代より前、それどころか共和制よりも前[訳註;この体制の変遷については第3章の註参照]、この町が数週間にわたってギリシアに支配されたことがある。その時は大規模な虐殺が起こった。その時も今と同じように、監獄には、十字のついたこんな旗が掲げられていた。再び十字が姿を現わしたからには、これはつまり、それに続く事どもがあるということだ。
 ヂヴォ・ガヴォの家の窓には夜遅くまで明かりが灯っていた。この老年代史家の隣人たちは、彼がギリシア人たちが入ってきた件を詳細に記載しているのだと思っていた。ところが後になって分かったのだが、ヂヴォ・ガヴォの記録では、ギリシア人が入ってきた件は『11月18日g入城』と、たったの一文しか費やされていなかった。この絶望的な出来事にこれほど文をけちる、そればかりかギリシアの大軍勢にたったの一文字(g)しか充てていない理由を、誰も説明できなかった。
 朝になると、十字はまだそこに、町の頭上にあった。凶事の前兆が立っている。今や凶事そのものを待つばかりだった。
 ギリシア兵たちはカーキ色の上衣姿で路上を闊歩し始めた。中央広場には再びカタンヅァキス名義のポスターや命令書が張り出された。居酒屋にはギリシア文字が溢れ返った。それらは細く鋭く、「s」や「th」[訳註;つまり“Σ”や“Θ”]だらけで、それはまるで剃刀のようだった[訳註;原文のprisninは動詞pres(切る)の3人称複数半過去形とも、pres(待つ)の3人称複数半過去形ともとれる。即ち「剃刀のように切れる」とも「剃刀のように待ち受ける」ともとれるが、既存の訳に拠り前者を採る]。兵士たちは皆ナイフを携えていた。何もかもが信用ならなかった。待ち受けているのは屠畜場だった。ゴムホースが町の上を跳ね回るだろう。だが雨が降っている。恐らくゴムホースなど必要あるまい。
 ギリシア兵たちは、初日には殺しを行わなかった。二日目もだった。中央広場で彼らは「北エピロス」[訳註;ギリシア系住民が多いアルバニア南部の、ギリシア側からの呼称]と書かれた大きなポスターを張り出した。カタンヅァキス司令官は、裕福なキリスト教徒の家に昼食や夕食をとりに出かけた。
 ギリシア人の軍曹が一人、銃を発砲したが、死者は出なかった。町で唯一の銅像の太腿に、穴が一個開いただけだった。それは王制時代から中央広場に立つブロンズ像だった[訳註;第9章参照]。それより前、この町に銅像は一つもなかった。人の形をしたものといえば案山子ぐらいだった。銅像を建てようという話になった時(それは対空砲が設置されたのとほぼ同時期のことだった)、対空砲に狂喜乱舞した熱情的な市民の多くが、銅像には疑念を示した。金属でできた人間だと!そんな造り物が必要なのか?厄介なことになりゃしないだろうね?主の命によって人間がみんな寝てしまうと同時に、像が立ち上がるんだろう。そいつは昼も夜も、冬も夏も立ってるんだろうな。人間は泣いたり笑ったり、命令したり死んだりするが、そいつはそんなこと何もしないんだろうな。そいつはずっと黙ったままなんだろう。そしてその黙ってるのが危ういことなんだ。
 銅像が建てられる場所を見にティラナからやってきた彫刻家は、幸いにも殴られずに済んだ。町の新聞では激しい論争が起きていた。最後には市民の多数も強く推す中で、銅像がやってきた。それを運んできたのは大型トラックで、蠟引き布に覆われていた。冬のことだった。銅像は夜の間に中央広場に据えられた。騒動を起こさないよう建立式は行われなかった。人々は驚きと共にブロンズの闘士を見ていたが、片手に銃を構えたその像は、『どうして俺を嫌うんだ?』と問うてでもいるかのように、広場を睨みつけていた。
 夜間、そのブロンズの人間の肩に誰かが毛布をかけていった。それ以来、町はこの銅像に愛着を抱くようになった。
 この銅像を撃ったのがギリシア人の軍曹だった。人々は、弾丸が空けた穴を見てやろうと中央広場に駆け付けた。足を引きずっているように見える者たちもいた。その瞳は暗く濁っていた。実際、太腿を撃たれたかのように足を引きずっている者たちもいた。広場は不安に満ちていた。その中を、カタンヅァキスが護衛を従えて通り抜けた。彼は、ギリシア軍の司令部が置かれている市庁舎の中へと入っていった。
 一時間後、ポスターの掲示場に、大きな紙にアルバニア語とギリシア語で書いたカタンヅァキスの命令書が張り出されたが、そこには、銅像を撃った軍曹を投獄せよとあった。
 午後になってヂェヂョがやって来た。
「あんたたち、とんだ話だよ、何だと思うね」彼女は入ってくるなりそう言った。[訳註;上の発話の逐語訳は「雌烏よ、女たちよ、あたしたちに何を見出した」。なおヂェヂョによる「雌烏(korbë)」の比喩は第3章で既出]「ヴァスィリキが戻って来たってさ」
「ヴァスィリキだって?」と言いながら祖母が顔をしかめた。
「ヴァスィリキですって?」と言った母も怯えていた。
 父が隣の部屋から来た。
「おい何だって、ヂェヂョ、ヴァスィリキが戻って来たんだって?」
「ああ、来たともさ」ヂェヂョはふんと鼻を鳴らした。
「もうおしまいだわ」母が言った。
[訳註;逐語訳「今や川が私たちを捉えた」。第6章でヂェヂョが似たような表現を口にしている]
 沈黙が訪れた。ヂェヂョの重々しい息遣いが聞こえてきた。
「何で去年の冬に死んどかなかったかねえ」祖母が言った。「今頃は地面の下だったろうにね」
「そうなってりゃよかったけどね[訳註;逐語訳「どこで私に幸運が見つかるか」]」ヂェヂョが言った。
「ここまで生きてきていろいろあったがね、またヴァスィリキを目にしようとは、これはまるで思ってもなかったよ」祖母が言った。その声には今や悲壮なまでの疲れが感じられた。
 父は長い指を神経質に鳴らした。
「これからもっとひどいことになるんだってさ」ヂェヂョが言った。「恐ろしいことになるよ」[訳註;「恐ろしいこと」の原語hataは「錯誤」を意味するトルコ語に由来するが、アルバニア語ではむしろ「惨事、災厄」]
「何て悲惨なの私たち!」母が言った。
「で、何処にいるんだいそいつは?いつになったら出て来るんだい?」祖母が訊ねた。
「パシャ・カウリの家に閉じこもってて、あとは連れ出される日を待つばかりさ」
 門を叩く音がして、ビド・シェリフィの妻、カコ・ピノ、ナゾの嫁さん(この恐怖の中で殊更に美しかった)、そしてマネ・ヴォツォの妻がイリルの手を取り、ぞろぞろと入ってきた。
「ヴァスィリキだって?」
「本当にヴァスィリキが?」
「ひどいもんだ」
 彼女らの表情はこれまでにないほど痛々しかった。顔の皺が小刻みに震えていて、崩れ落ちそうに見えた。今にも私の足がその中でもつれそうなほどに。
「そういうわけなのよ、セルフィヂェや」ヂェヂョはそう言って、胸の前で腕を組んだ。
「まあ何て知らせを持ってきてくれたもんかね」[訳註;原語mandatëには「委任」の意味もあるが、第一義としては「死の知らせ」]
「ひどいもんだ」
 ヴァスィリキのことは幾らか知っていた。その女の名前は二十数年前からこの町を震え上がらせていて、私からすればそれは「疫病」、「疫癘」、「厄災」といった、人々が互いに投げかけ合う呪詛の言葉の多くに存在しる言葉と同じようなものだった。何年もの間、ヴァスィリキという名は私たちの隣にいて、何処か未知の領域に身を潜め、至るところで絶えず脅威となっていた。そして今や、それは一歩踏み出して、私たちの前にやって来ようとしているのだ、言葉の世界を抜け出し、一人の女の体、眼、髪、口を引き連れて。
 二十数年前、その女はギリシアの占領軍と共にこの町へやって来た。彼女は、銃剣を携えたギリシアの憲兵団の後に着いて、路上を歩き回っていた。あそこにいるあの男は悪い目をしてるよ、あいつを捕まえな、とヴァスィリキが言った。憲兵らはすぐさま飛びかかった。ここにいるこの若造は気に入らないね。あいつはキリスト教徒を嫌ってるんだ。殺しちまいな。あそこで目を逸らしたあいつだ、何か企んでる。あいつを捕まえて、バラバラに切り刻んでやりな。川に放り捨ててやりな。
 彼女は路上を歩き回り、カフェに入り、中央広場に居座った。ギリシア人は彼女を聖なる花嫁と呼んでいた。路上とカフェから人影が消えた。二度もヴァスィリキを殺そうと狙撃した者たちがいたが、銃弾は当たらなかった。百人を超える男たち若者たちが、彼女の指示によって切り刻まれた。それから彼女は軍の部隊と共に向こうへ、元来た南の方へと去っていった。
 町はその女を忘れはしなかった。「ヴァスィリキ」なる言葉は、生命を失い、言葉の王国に封じ込められた。「ヴァスィリキの眼が切り裂かれますように」と老女たちは呪った。ヴァスィリキは徐々に遠く、遠くへと離れていった。彼女と共に疫病は遠ざかり(疫病にしても、かつてはごく近くにあった)、そして恐らくは死も遠ざかっていた。だがそれが突然、また戻ってきたのだ。鎖を破壊する野獣のように、言葉の織布を引き裂いて息を吹き返し、[訳註;生命を]切り離されたことに怒り狂って。
 夜になった。ヴァスィリキは町にいた。パシャ・カウリの家の窓は毛布で覆われていた。いつ出てくるのだろう?何故出てこないのだろう?何を待っているのだろう?
 町はヴァスィリキと共に夜明けを迎えた。
 昼になって再びヂェヂョがやって来た。
「道には誰もいないよ、人っ子ひとりね」彼女は言った。「ジェルジ・プーラだけが上がっていくのを見たけどね。あんたたち聞いたかい?あれはまた名前を変えたんだよ」
「何て変えたんだい?」祖母が訊ねた。
「ヨルゴス・プロス」
「馬鹿々々しい」
 ジェルジ・プーラはご近所さんだった。初めてイタリア軍が入ってきた時、彼はジェルジ・プーラからジョルジョ・プーロに名を改めていた。
 門がノックされた。入ってきたのはビド・シェリフィの妻だった。続いて、ナゾの嫁さんも。
「ヂェヂョが入っていくのを見たんだけど。何かニュースでも?」と二人が訊いてきた。
「ニュースが何だって?なければどれだけいいか[訳註;英語版では「ニュースを聞くぐらいなら死んで埋められる方がましさ」]。ブフェ・ハサンのことは聞いてるかい?」
 祖母は私の方を向いた。私は気付いていないふりをした。いつもブフェ・ハサンの名を口にするたび、祖母は私が聞いてやしないかと気にするのだった。
「あの人・・・ギリシア兵を引っかけてるとか」
「ふん、恥さらしが!」
「奥さんの方も気が気じゃなくてね。イタリア軍がいなくなって助かったと思ってたのに、って言うのよ。ちょっと先からでもポマードの臭いをプンプンさせていたあのいまいましいペペ[訳註:イタリア人に対する蔑称]がいなくなって助かったと思ってたのに、今度はエレフセリオスとかなんとか連れてきてさ。ギリシア人よ、ねえあんたたち、ギリシア人なのよ」 [訳註;とブフェ・ハサンの妻が言ったことを伝えている。なおここでは明示されていないが、カダレ作品の登場人物紹介でブフェ・ハサンは「男色家」であると書かれている]
 ナゾの嫁さんはずっと目を細めていた。ビド・シェリフィの妻は頬をつねったが、そこには小麦粉の跡が残ったままだった。
「俺は決めたよ、ってこれはブフェ・ハサンが言ってたんだけどね、ここにどんな軍隊が来たって俺は好みの軍人を引っかけてやるんだ、って。ドイツ軍が来ればドイツ人を引っかけるし、日本軍が来れば日本人を引っかけてやるんだ、って」
「ところでヴァスィリキは?」
 ヂェヂョは鼻を鳴らした。
「まだ閉じこもってるよ。何のつもりか知らないがね」
 午後になるとイリルがやって来た。
「イサとヤヴェルが拳銃を持ってたよ」イリルが言った。「この目で見たんだ」
「拳銃だって?」
「そうとも。だがお前、人には言うなよ」
「そんなもので何をするつもり?」
「人殺しだろう。俺はドアの穴から聞いたんだけど、最初に誰を殺すかでもめていたんだ。名簿を作っててさ。まだそこにいるよ、イサの部屋で言い合ってる」
「どいつを殺すんだって?」
「名簿の冒頭にあったのはヴァスィリキだ、もし外に出てきたらだが。それからヤヴェルによればジェルジ・プーラだ、もっともイサは反対なんだけどね」
「そりゃ妙だな!」
「ドア穴越しに聞きに行ってみようか?」
「何処に行くの?」母が言った。「あんまり遠くに行っちゃだめよ。ヴァスィリキが出てくるかも知れないし」
 イサとヤヴェルはドアを半開きにしていたので、そこから私たちは室内に入った。二人はもう言い合っていなかった。ヤヴェルは口笛を吹いていた。どうやら互いの意見が一致したらしい。イサの目が普段より大きく見えた。二人が私たちの方を向いた。[訳註;イサの眼鏡の]レンズに光が反射してちらちらと揺れた。二人は死者の名簿を持っていた。それが名簿だとすぐにわかった。
「外に散歩に行かない?」イリルが訊ねた。「ヴァスィリキが出てくるかも知れないよ」
 イサは身じろきもせずじっと見つめていた。ヤヴェルが眉間に皺を寄せて
「あいつは出してもらえないだろうな」と言った。「あれの時代は終わっていたのさ」
 長い沈黙があった。窓から空港平野の一部が見えていた。牛たちがそこにいた。大型飛行機の記憶が突如ぼんやりと切れ切れに思い起こされた、何度もそうだったように。ヴァスィリキについての、そしてブフェ・ハサンの恥ずべき行いについてのうんざりするようなやりとりの中で突如、痛々しいほどに遠くに、ぴかぴかのアルミニウムが輝きを放った。だが実際、それは何処にある?両翼の骨を自身の下にかき集めた鳥の死骸のイメージが、今やスザナの細長い、殆ど透明の手足とないまぜになり、飛行機と鳥とスザナの三つが一緒になって、その娘の肉を、ジュラルミンを、羽毛を、生と死を、奪い合い、与え合いながら、まったくもって奇妙な、尋常でない、単一の生物を生み出していた。
「あれの時代は終わっていたのさ」ヤヴェルが繰り返した。「心配しないで通りに出てみろよ」
 私たちは外へ出た。通りはヂェヂョが言うほど閑散とはしていなかった。チェチョ・カリとアチフ・カシャフが石畳の上を重い足取りで歩いていた。チェチョ・カリの赤髪は、風に搔き乱された炎のように見えた。この二人は近頃しょちゅう一緒にいた。どうやら女運の悪さが二人を結び付けていたらしい。或る日イリルが女子たちから聞いたことだが、男の子とキスする娘がいるのも、髭の生えた娘がいるのも、[訳註;英語版では「父親にとっては」と補われている]殆ど同じことだという
 男二人は浮かない顔だった。マイヌル夫人が、マジョラムの枝を手にして窓際に現れた。居並ぶ他の奥さん連中の家の窓は閉ざされていた。カルラシ家は、鉄製の大きな門(そのドアノッカーは人間の腕の形をしていて、それが私に英国人の切断された腕を思い出させた)共々、静まり返っていた。
「中央広場の銅像に空いた穴でも見に行ってみようか?」イリルが言った。
「行こう」
「見ろよ、ギリシア兵だぜ」
 兵士たちが、映画館のポスター掲示板の前に立っていた。彼らは色黒だった。
「ユダヤ人ってジプシーなのか?」イリルが小声で訊いてきた。
「さあね。ジプシーじゃないと思うよ、だってあいつら、誰もヴァイオリンもクラリネットも持ってないだろ。そら、あそこにヴァスィリキがいるんだ」イリルがパシャ・カウリの黄色い[訳註;英語版では「褐色の」]家を指差したが、そこの門には憲兵が数名立っていた。
「指をさすなよ」と私は言った。
「構わないだろ」イリルが言った。「あれの時代は終わっていたのさ」
 居酒屋「アディスアベバ」は閉まっていた。床屋もだった。あとほんの少しで、広場を通り抜けるところだった。銅像の足元の、風で破れたポスターが遠くに見えた。バサバサバサ。ザワザワザワ[訳註;原語では“S.S.S. Z.Z.Z.”]。私は足を止めた。
「おい聞けよ」私は言った。
 イリルは口をぽかんとさせた。
 遠くの方からくぐもったような、ゴロゴロという音が聞こえてきた。歩道で誰かが空を見上げた。ギリシア兵が一人、額に手を日よけのようにかざし、じっと見上げていた。
「飛行機だ」イリルが言った。
 私たちは広場の真ん中にいた。ゴロゴロという音は力強さを増していた。広場が不意に広がり始めた。ギリシア兵は叫び声を上げ、そしてダッと駆け出した。空はブルブルと、砕け散らんばかりに震えていた。
 あれだ。あの音だ。あの響きだ。
「早く」とイリルが叫んで私の袖を引っ張った。「早く」
 だが私はその場に立ったままでいた。
「大型機だ」私は消え入りそうな声で呟いた。
「伏せるんだ」誰かが激しい声で怒鳴っていた。
 咆哮が大きくなった。それは突然、旧式対空砲の爆音と共に空全体を呑み込み、砲弾は混沌の中に消え失せた。
「伏せろ・・・お・・・おお」
 咆哮の切れ端がばらばらに砕けて遠くからやってくる、そして私の目に突如飛び込んできたのだ、大空の、私たちの頭の真上、三機の爆撃機がとんでもない速度で屋根の上に姿を現わすのを。その中にあれもいた。まさにあれだ。灰色の両翼を伸ばし、戦争のせいで血に飢え、盲目になったそれが今、爆弾を放っていた。一つ、二つ、三つ・・・大地と空が互いにぶつかり合った。私は見えない力で地面に叩きつけられた。何をしてるんだ、あれは!ここで何をしてるんだあれは!耳がズキズキと痛かった。もうたくさんだ!何も見えない。どうやっても耳がちっとも聞こえない。目もだめだ。きっと自分は死んでしまったんだ。もういいたくさんだ!どうなってるんだこれは!
 静寂が戻ってきた時、私が耳にしたのはかすれた泣き声だった。それは自分の泣き声だった。私は立ち上がった。不思議なことに広場は元通りのままだった、ついさっきまでは何もかもがひっくり返り、永遠にねじ曲がったままのように見えたのに。イリルが数歩先でうつ伏せに倒れていた。私は彼の肩を摑んだ。彼も泣いていた。うつむいたまま立ち上がった。額と掌を擦りむいていた。私も同じように血を流していた。一言も口をきかず、声を上げて泣き続けながら、私たちは足早に家へと向かった。市場通りでイサとヤヴェルに出くわしたが、彼らも真っ青な顔で私たちに駆け寄ってきた。彼らは私たちを見るや叫び声を上げ、私たちの腕を摑んだまま、狂ったような勢いで家へと駆け出した。





 町に再びイタリア軍がやって来た。大通りが或る朝、騾馬と隊列と銃砲で溢れかえった。監獄の上の砦から十字の入ったギリシア旗が取り除かれ、再び、三色に斧の入ったイタリアの旗[訳註;厳密にはファシスト党旗]が掲げられた。
 一時的な入城でないことはすぐに察せられた。軍隊に続いてすぐ、警報のサイレンが、サーチライトが、対空砲台が、修道女たちが、売春宿の女たちがやって来た。ただ空港平野だけは、もはや満たされることがなかった。軍用機の代わりにやって来たのはオレンジ色の奇妙な飛行機が一機だけで、鼻先は平たく、翼は短くてひどく器量の悪いそれを人々は「ブルドッグ」と名付けた。今やその一機だけが空港平野をうろついているのだった、まるでみなしごのように。






第11章

 ギリシアは敗北した。雪が降っていた。窓ガラスは凍りついていた。私はぼんやりと、去り行く人々で溢れかえった道を眺めていた。ぼろ布にぼろ布。雪の欠片にぼろ布。世界中がそれらで埋め尽くされているように見えた。そうだ、何処かでギリシアの国家が敗北して、そのぼろ布と羽毛が冬の風に舞っていた。それらが今や至る所で亡霊のようにさまよっていた。
 敗残者たちが、ひっきりなしに町の道々を歩き回っていた。腹を空かせた者たち、寒さに震える者たち、兵士たち、乳児を手に抱えた女たち、老人、階級を失った士官たち、正気を失った者たち、彼らは扉を叩き、パンを求めて回っていた。
「プソミ、プソミ」[訳註;ギリシア語で「パン」]
 威容を誇る[訳註;原語hijerëndëは「重い影」転じて「堂々たる」「立派な」]町は、苦しむ人々を見下ろしていた。門扉は高かった。窓には手が届きそうにもなかった。彼らの低い声は下の方から、風のうなり[訳註;英訳では「いまわの際」]のように響いてくるのだった。
「プソミ」
 ああそうか、一つの国家の敗北とはこういうことなのだ。地下室の会話で私が聞いたところでは、私たちが郵便切手によって知っている国々の中では、今までにフランスとポーランドが敗北していた。それらの国もきっと、世界をぼろ布と「プソミ」の言葉で埋め尽くしたに違いない(イリルはフランス人やポーランド人がパンを「プソミ」と言うことはないと言ったが、私は私で、それらの国がギリシア同様に敗北した国である以上、他の言い方などない、と譲らなかった。)
 雪は全てを覆い尽くした。冷え込んでいた。煙突は絶えず煙を吐いていた。重い石板の下では、最近の出来事に悩まされていた生活が、再び平穏に流れ出していた。カルラシ家とハンコナタ家の裁判も審理を再開した。前科持ちのルカンは、毛布と、パンの包んだ布巾を手に、右に左に「ご機嫌うるわしう奥様方!」と呼ばわりつつ住宅地の中を通り過ぎ、或る朝、牢屋へと向かった。ラメ・カレツォ・スピリもまた、落ち着きを取り戻していた。カコ・ピノは上方のドゥナヴァトの婚礼に呼ばれて行った。ナゾの猫が姿を消した。
 生活に綻びが生じることは、もうなさそうだった。修道女たちは雪の中で更に黒々として見えた。サーチライトの明かりには別種の輝きがあった。空港平野だけが打ち捨てられたままだった。もうそこには何もなかった。牛すらいなかった。ただ雪ばかりだった。私はそこへ(チャメリアとギリシアの孤児を交えた)十字軍を、そしてそのすぐ後には足萎えた人物を放つつもりでいた。そんな生活が再びその溝に嵌まったように見えたまさにその時、再び空襲が始まった。
 一時は放置されていた地下室が、再び満杯になった。冬はそこが暖かかった。
「また鶏どもみたように集まったもんだ」女たちは互いに挨拶をかわしつつそう言った。彼女らはわいわいと、殆ど楽しそうに毛布やマットレスを整えた。そこにはみんながいた:カコ・ピノに、ビド・シェリフィの妻に、イリルの母に、マイヌル夫人(いつも手で鼻を覆っていた)に、ナゾとその美人の嫁さん。ただヂェヂョだけがおらず、またしても姿を消していた。またいつものことだがチェチョ・カイリも来ていなかった。アチフ・カシャフの一家からは、今は息子たちだけが来ていた(ビド・シェリフィがそれを恐ろしい目つきで眺めていた)が、アチフ本人と、耳の聞こえない母親、そして妻と娘は来ていなかった。
 雪が降る今、飛行機の轟音と、砲弾の砲撃音は一層くぐもって聞こえた。旧式の対空砲はいつもその中で聞き分けられた。だがそれに対してはもう何も、誰も期待していなかった。それは、挑発されるたび決まってあらぬ方向目がけて石を投げる、盲目の老人のようなものだった。
 英軍機は毎日規則正しくやって来た。それらはほぼ決まった時刻に姿を現わし、今や人々はまるで悪しき日程のように、爆撃に慣れてしまったかのようだった。明日はカフェで落ち合おう、爆撃の後でね。明日は夜明け前に起きようか;たぶん爆撃の頃には顔を洗って家を掃除してるだろう。さあ起きて地下室に降りよう、そろそろ時間だから。
 誰一人として、地下室での日々が残り僅かだとは思っていなかった。あれの時代は終わっていたのだ。
[訳註:既に四度繰り返されている原文“Koha e saj kishte kaluar.”だが、所有代名詞 e sajが女性形なので、「ヴァスィリキ(Vasiliqi)」とも「地下室(kube)」ともとれる]
 審判を下すその人物が、黒の外套を両肩に羽織った姿で階段を降りてきた。
「何だいこいつは?」
「こいつ何をするつもりだ?」
「道を開けて、通してください。こちらは外国の技師だ、地下室を調べに来たんだ」
「技師だって?」
 通訳が先に立って、病院や妊婦が寝ていた毛布やマットレスを脇へやった。彼は椅子を一脚求めてきた。
「おやおや、こいつ何処から湧いて出てきたのか、ねえあんた!」
「そんなじろじろ見るもんじゃないよ」
「何だいありゃ、手にナイフなんか持って。ひどいもんだ!」
 黒の外套をまとった人物は、運ばれてきた椅子の上に立った。カバンからもう一本、手にしているものより刃先の薄いナイフと、ハンマーの形をした出来の良い工具を取り出した。彼はカバンを通訳に渡し、そして工具を握った右手を高く上げると、それで少しずついろいろな場所を叩いていた。それから工具を通訳に渡すと、二本のナイフのうち一本を手に取り、いきなり素早く怪しげな動きで腕を振り上げるや、ナイフを地下室の壁面に突き立てた。誰もがはっと息を呑んだ。外套の人物はナイフをゆっくりと引き抜いた。二つ三つ石灰の破片が、パラパラと音をさせ床に落ちた。ナイフの刃先がうっすら白くなっていた。彼は椅子から下りると、その椅子を少しだけ向こうへ動かし、そして同じことを、今度はナイフ二本でやっていた。その外国人技師は椅子から下りると、何やら通訳に話しかけた。
「この地下室は避難に不適切です」通訳が大きく、半ばぞんざいな口調で言った。「この家の主人はどなたですか?」
 父がやって来た。
「おたくの地下室は避難の役に立ちません」と通訳は父にこれまたぞんざいな口調で繰り返したが、それは父の頭越しに壁の方を見つめたままで、まるでそちらに向けて言葉を発してでもいるかのようだった。
 父は肩をすくめた。
 外国人の技師がまた何か言った。
「技師殿は、この地下室から直ちに退去すべきだ、何故なら危険だからだ、と言っています」
 誰も何も言わなかった。地下室に突き刺さった技師のナイフは同時に全員の肉体にも突き刺さり、そのため人々の皺が伸びたり縮んだりする様を、苦痛と共に即座に感じ取ることができるのだった。
 黒の外套の人物は大股で、出口に向かって歩いていった。階段を上る時、背中の外套がふわりと膨れ上がった。それがほんの一瞬、外から入ってくる弱々しい光を遮り、そしてまた解き放った。
「おい、おい」痛風持ちの老人が声を上げた。「だったらわしらは何処に隠れたらいいんだ?」
 女たちが数人泣き出した。
「何処に隠れればいいの?」
「もうよせ」ビド・シェリフィが言った。「何処か見つかるだろうさ。泣くのはそこまでだ」
「この世の終わりじゃあるまいし、ねえ」
[訳註;他の箇所では「ひどいもんだ」と訳しているkiamet(審判、黙示録)が、ここでは否定文で用いられている]
「何処か見つかるだろうさ。別の場所が見つからないなんて、あり得ない」
「何でも、城が一般に開放されるらしい」
「城が?」
「そりゃそうだろ?あり得る話さ。さあ行こう、おいお前、マットレスを持っていくんだ」と先ずビド・シェリフィが自分の妻に言った。
 一人また一人と、人々は外へと向かい始めた。地下室は空っぽになりつつあった。その日の午後には、最後まで残っていた病人や妊婦も出ていった。門はひっきりなしにギシギシと鳴り、そして私たちだけが残された。
 それは大いなる静寂だった。私は階段を上がった。毛虫が木をかじる音が聞こえた。毛虫の音さえ聞こえる静けさ。しばらくの間ずっと、私は、その音のする方を正確には判別できないような、単調な響きに耳を傾けていた。毛虫聞きだ。私はこの言葉が気に入った。
[訳註;「毛虫の音さえ聞こえる」「毛虫聞き」の原語はそれぞれkrimbdëgjuesとkrimbdëgjimで、krimb(芋虫、毛虫)とdëgjoj(聞く)から成る造語]
 毛虫たちの日の到来だ[訳註;逐語訳は「毛虫たちにもこの日がやってきた」]、私はいまいましげに呟いた。
 私は気付いた、この世のありとあらゆる生き物は、たとえどんなに卑屈そうに見えても、自分の声を聞いてもらえるその時を、今か今かと待ちわびているものなのだ、ということに。
 私は階下に降りた。廊下には誰もいなかった。ランプと蝋燭がそこにあった。黒い芯が悲しげにうなだれていた。私はそれに火をつけ、注意深く手に持つと、地下室の階段を下りていった。降りる途中で、地下室から漂う人の匂いを感じた。蝋燭のちらつく光が白い壁に投じられた。上の方に、あの外套の殺し屋のナイフが残した小さな傷跡が、二つ三つ見えた。
 それから数日は、黒衣の技師の話でもちきりだった。彼は至るところに姿を現わし、至るところで避難に不向きな地下室を明らかにしていった。私たちの時と同様、彼はまず椅子を所望し、それから素早く怪しげな腕の動きで、年老いた地下室に死の打撃を与えるのだった。大小、百七十三個[訳註;英訳では「163個」とあるが語訳か?]の地下室が、四日間の内に放棄された。五日目、技師が元いたティラナに戻る前、彼は[訳註;旧版ではここに「酒場でラキに酔い」とある]背中を丸め、車に乗り込みながらこう言った、消え去ると言われている町を後に残していくのは残念だ、だが自分にはどうしようもない、自分にできる手は全て尽くしたし、この数日間は自分にとっても実に劇的なものだったが、結局のところ運命に逆らって立ち上がることなど誰にもできない、そしていつかは終わりの時が来るのだ、町どころではない、王国にも、いや帝国にもだ。
 その技師の言葉を裏付けるかのように、英軍の爆撃が突如、激しさを増した。四日間で四十九人が死んだ。当局では、城を一般に開放するか否かを巡る会議が続いていた。会議の三日目、下部ドゥナヴァト地区の住人が当局の決定を待たずして西門を破壊し、城へと入り込んだ。その同じ日には、東門が旧市場の住人によって力尽くで開放された。
 その日は遅くまでずっと、城内への流入が続いた。
 我が家のある通りでは、門という門がひと晩中ノックされていた。
「あんたも行くのかい?」
「ああ。そっちは?」
「今夜決めるつもりだ」
「場所が全部埋まってしまいやしないかな」
「それはないだろう。城は大きいからね」
 カコ・ピノがやって来た。
「どうすりゃいいんだい?ひどいもんだ!」
「明日な」父が言った。
 ビド・シェリフィがやって来た。
「明日な」父は繰り返した。「マネ・ヴォツォのところへ行っておいで」父は私に言った。「どうするつもりか訊いてきてくれ」
 そのマネ・ヴォツォには途中で出くわした。
 ナゾとその嫁さんがすぐ後にノックしてきた。
「明日かい?」
 明日だ、夜明け前がいい。
 それは私の人生の中でも幸福な夜だった。門はひっきりなしにノックされた。誰も眠ることなど思いもよらなかった。私たちは荷造りをし、地下室に降ろして、火事の際に燃えてしまわないようにした。ビド・シェリフィ、ナゾ、カコ・ピノ、マネ・ヴォツォも同じように荷物をまとめた。地下室に再び用向きが巡ってきた[訳註;逐語訳は「地下室は再び何かしらの仕事に入った」]
「もう寝なさい」と祖母は私に二、三度言った。それは無理な話だった。明日は城に入ってしまうのだ。階段とも、門とも、窓とも、普段の言葉ともお別れして、見知らぬところに入り込もうというのだ。そこでは何もかもが奇跡のようで、恐ろしく、そして尋常でないものだった。そこにはマクベスがいた。[訳註;城砦はマクベスがいてもおかしくないような場所だ、という意味]
 やってきた朝は、冷たくどんよりと曇っていた。小雨が降っていた。門がノックされた。
「用意できたかい」ビド・シェリフィが通りの方から声をかけてきた。
「できてるよ」父が答えた。
「ほらおいで、キスしてあげよう」と祖母が言った。私は口をぽかんと開いたままでいた。
「おや何で来ないんだい?」
 祖母は私の頭を撫でた。
「僕、ここに残るよ」
「あら、あら、駄目よ」
「よさないか」父が言った。
「よさないか馬鹿なことは、何のつもりだ[訳註;逐語訳は「私には何も見つからない」]
「嫌だ、嫌だ」
 門が再びノックされた。
「さあ早く」父が言った。「みんな待ってる」
「何でお祖母ちゃんを置いていくの?」私は不安に駆られて叫んだ。
「お祖母ちゃんは行きたくないんだよ」父は言った。「ひと晩中言って聞かせたけど、行きたくないっていうから。言うのはこれで最後だけど」父は祖母に向かって言った。「行こうよ」
「私は家を残していきたかないね」祖母はひどく冷静な口調で言った。「ここで生きてきたんだ、ここで死にたいよ」
 門がまたノックされた。
「達者でおいで」そう言って、祖母は私たちに順繰りにキスをした。
 門が閉まった。私たちは路上に出ていた。小雨が絶え間なく降っていた。私たちは出発した。道すがら、私たちに他の人たちも加わっていった。城壁がようやく、霧の向こうに見えてきた。西門の前に並ぶ人々の列には果てしがなかった。荷箱や、毛布や、籠や、ミルクの桶や、水差しや、赤ん坊の揺り籠や、石臼や、犬や、猫や、道具類やありとあらゆる家財一式[訳註;旧版では他にも「本」や「椅子」など項目が多い]を抱えた人々が、ゆっくりと前に進んでは、しばらくその場に立ち止まり、そしてまた動いているのだった。門は遠くにあった。小雨があらゆるものを濡らしていた。人々は咳込みながら、つま先立ちで行列の先頭がどうなっているか見ようとし、『どうして止まってるんだ?』と問いかけ、そしてどうしたらいいのかわからぬまま、また咳込むのだった。
 ようやく昼近くになって、私たちは門のすぐ近くに辿り着いた。両側には古い城壁が、雨に濡れてそびえ立っていた。門は高かったが、幅は狭かった。そこを通り抜けると(私は何一つ喜びを感じなかったが)、私たちは真っ暗闇の中にいた。人々の足音がゴロゴロと恐ろしげに鳴り響いた。子供らが怖がって叫び始めた。何も見えなかった。私たちは盲人のように互いにひしめき合って進んだ。誰かが悲鳴を上げた。突然、容赦ないほど突然に、前方の何処かに空の裂け目が広がった。私たちはそこへ向かって移動した。裂け目は進むにつれ広がり、遂には再び雨粒を感じるまでになった。
「こっちだ。こっちを通って!」誰かが強い口調で呼んでいた。
 私たちは階段を上った。広間を通り抜けた。アーチに覆われた通路[訳註;以下、便宜上「通路」と訳しているアルバニア語galeriは城壁内の丸天井の空間を指し、厳密には「砲郭」(イタリア語casamatta)と訳すべきものと思われる]に入った。小さめの広間に出た。
「こっちだ!」
 私たちはまた真っ暗な場所へと入っていった。その場所は傾斜があるらしい、というのも立っているのがやっとだったからだ。再び空の裂け目だ。今度はもっと大きな広間に出た。両側に壁のギザギザが見えた。正面に、高々と、まるで空を呑み込もうとするように、監獄がそびえ立っていた。
「こっちだ!」
 私たちは広間を通り抜けた。別のアーチに覆われた通路(監獄の下に違いない)を抜けた。前方の何処かから、くぐもった喧騒が聞こえてきた。私たちはその方に向かった。
 ようやく私たちの目の前に広がったのは、驚くべき光景だった:巨大なアーチで覆われたドーム[訳註;原語kubeは「地下室」とも訳せるが、ここは半球形の高い天井を指している]から水が滴り落ちるその遥か下、荷箱や、毛布や、揺り籠や、家財一式の中で、動き回り、佇み、音を立て、泣き叫び、鼻を鳴らし、咳込む、何千もの人々がそこにいた。
 しばらくの間、私たちは人々や家財道具の中を歩き回りながら、自分たちが落ち着く場所を探していた。耳に響く喧騒は、上方のアーチによって二倍にも三倍にも増幅されていた。どの場所も満員だった。誰かが私たちに、二つ目の通路に場所を探すように言い、どう行ったらいいかを教えてくれた。私たちはそこへ行った。二つ目の通路は先ほどの通路と同じくらいの賑やかさだった。やっとのことで、先頭を歩いていたマネ・ヴォツォが、傍に壁の裂け目があるせいで誰も陣取っていないらしい隙間を見つけた。冷たい風がそこから吹き込んでいた。私たちは家財品を地面に置き、絨毯とマットレスを広げることにした。壁の裂け目からは町が一部分だけ見えた。町は下の方、ずっと下の方で、その片側は薄暗く沈み、灰色の中、尊大で、恬然としていた。
「ピーナツだよ、ピーナツ!」
 誰かが本当にピーナツを売っていた。見ると他にも物売りがいて、人々の中を歩き回りながら、『アシュレだよ!』『あったかいサレプだよ!』或いは『タバコだよ』と声を上げていた。新聞売りまでやって来ていた。
[訳註;アシュレ(hashureまたはashure)は果物や根菜を甘く煮た菓子。サレプ(salep)はラン科の球根の粉末から作る飲料。いずれもトルコを含む広い地域で飲食されている]
 城での最初の晩は、寒かったし気が休まらなかった。幾千もの咳払いが、石造りのアーチの下でガンガン反響した。毛布がゴソゴソ動き、揺り籠がガサガサと音を立て、あらゆるものが呻き声を上げこすれ合った。加えて見知らぬ人々の足音がひっきりなしに聞こえていた。私たちは互いに身を寄せ合っていた。水滴がポタポタ落ちてきた。
 そんな真夜中に私は目が覚めた。何かぶつぶつ言うしわがれた声が・・・
「出ていけ・・・ここはまるで罠の中・・・そのうち夜中に門を閉められて、俺たち家畜みたいに殺される。ここから出ないと・・・何としても出ないと、手遅れにならないうちに・・・どうしたってここはお城だし・・・中世だし・・・中世だし。おい聞いてるか?・・・一千年の頃の暗黒だよ。何も変わっちゃいないんだ。そう、まるで・・・でも根っこのところじゃ何も楽になっちゃいない」
「ねえ、それって何の話?」ビド・シェリフィの妻が眠そうな声で言った。
「あっちに行っちまいな、この反キリストが」とカコ・ピノがつぶやいた。
 声はやんだ。
 夜明け前に激しい爆撃があった。
 陰鬱に日が明けた。朝の日差しは狭い銃眼の間からは殆ど入ってこなかった。七時を過ぎるとこの城も活気づいてきた。再び絶え間ない移動が、通路で、狭道で、入口で、そして出口で始まった。人々は更に多くの知人と出くわした。皆まだ気が動転していることはすぐに見てとれた。町全体がひとかたまりとなり、一つ屋根の下で夜明けを迎えるなど、その長い人生の中で初めてのことだった。家族は他の家族と、互いの傍らに何の規則性もなく、場所を取り合っていた。互いの地区や家々の規模も距離も、きわめて野蛮な手法で、要するに空間の広さによって引っ掻き回された。共通の屋根が、団結し得ないものをその下で団結させていた:カルラシ家とハンコナタ家、ムスリムとキリスト教徒、修道女たち、公共の家の女たち、大家族、道路清掃人たち、ジプシーたち。
 城に来ていない家族も多かった。それらは大抵、家に何かしらの不幸が起こったか、家の壁に何かしら秘密を封じ込めているような家族だった。[訳註;高齢で不平屋で外出好きなカタンヂカ婆たちではない]普通の老女たちもまた誰一人来ていなかった。
 最初の通路での二日目、私たちは爺様のところの、ジプシーたちも含めた一同に出会った。爺様は自分用の長椅子に腰掛け、周囲を行き来する大勢の人々のことなどまったく気にせず、トルコ語の本を読んでいた。スザナの姿はどこにも見えなかった。
「『ちゅうせい』って何のこと?」とイリルが私に訊ねた。
「さあね。そっちこそ、夜中にあのいかれた奴が言うのを聞いたんだろ?」
「うん」
「ヤヴェルに訊いてみよう」
 イサとヤヴェルは時々姿が見えないことがあった。
「中世?」ヤヴェルは言った。「そりゃ人類にとって一番の暗黒時代だよ。お前さんが読んでたマクベスの物語だって、中世に起こったことだぜ」
 人が何人か集まると、その会話では更に一層、城や中世に話が及ぶのだった。城は大昔からある。城がこの町を産み落としたのだ。町の家々は多かれ少なかれ城と隣り合わせだった、そう、多かれ少なかれ母親に子が似るようなものだ。数世紀を経て、町は大いに成長した。城はまだそこに留まっていたが、その城が、己が産まれし子たるこの町を再び庇護しようとする日が来ようとは、誰一人、思ってもいなかった。それはおぞましき後退であった。まるで人間が、自分が出てきた母親の腹の中に戻ろうとするようなものだった。あらゆることが為された今、待ち構えているのは終局だった。もし城の施しを受け入れたなら、その結果もまた受け入れねばならない。中世の病が降りかかるかも知れない。いにしえの罪悪が目覚めるかも知れない。ヂヴォ・ガヴォの記録は、殺戮と疫病の拡大で埋め尽くされていた。
 或る日(それは城での五日目のことだった)、私とイリルはあてもなく、人々の混み合う中を歩き回っていた。幾度か通路の外へ出て別の穴蔵を見てやろうと思ったのだが、怖さもあった。城には謎めいた場所や地下牢や迷宮がたくさんあって、入ったら最後、二度と出られそうになかったのだ。幾つかある真っ暗な入り口の前で私たちは、遠くの方にいる数名の人たちを目にしたが、向こうは見ている側のことに気づいていないように見えても、もし[訳註;次の文の主語は2人称単数]近付いてみれば、彼らがそれら入口の門衛であるとすぐにわかったことだろう。
 最初の通路を歩き回っていた時、私たちは突然、騒がしい中でもずっと待ち望んでいた言葉をとらえた。それはさほど高齢ではない男二人で、首にスカーフを巻き、長身で青白い顔をしていた。彼らの声は疲れていた。私たちは何もかも打ちやって、彼らにぴったりついて歩いた。私たちは囚われの身となったのだ。言葉の手錠が、私たちの手と足でギシギシと音を立てた。
「死の勅状が来たのは月曜日かい?」
[訳註;「死の勅状」の原語はkatil fermanで、トルコ語(元はペルシア語)のfermanは通常の「命令」の他、オスマン帝国の時代には「スルタンの勅令」という特別な意味を持っていた。要するに死刑執行の命令書]
「いいや。勅状は土曜日から来ていた。殺されたのは月曜日だ。首は宮廷警護官が袋に入れて、胴体は東の塔から投げ捨てた。警護官はその晩、首都[訳註;イスタンブール]に向けて出発したよ」
「首を切られた時に毒を盛られたのか?」
「いいや。ただ飲んでいただけだ。首は習わしに従って、イスタンブールの石の壁龕に安置された」
[訳註;「壁龕」と訳したkamareは、室内の壁面に作られたくぼみ。英訳等では“niche”が充てられている。中国語版では“笼子(かご)”とあるが恐らく誤訳。要するに叛逆者の首を晒す場所のことだが、帝国に叛乱を起こして1822年に暗殺されたアルバニア領主アリ・パシャ・テペレナもこの処置を受けた。ちなみにカダレは後にこの史実を題材とする小説『恥辱の壁龕(Kamarja e turpit )』を書いている]
「その壁龕は見たことがある」
「そこに首は11日間置かれて、その後にカラ・ラズィウの首が運ばれてきた。君も知っての通り、規則では、あの場所に首は一つしか置けない」
 二人は話し続けていた。私たちは後について歩いた。通路を後にし、次は広場を渡っていた。雨が降っていた。全ては濡れ、荒れ果てていた。二人は幾つもの狭い通路に入り、石段を下り、更に別の石段を上り、放置されたままの通路を通り抜けた。私たちは寒さで犬のように震えていた。
 私たちが広い通路に入ると、今度は足音が足元でなく頭上から聞こえてきた。二人の話し声が急にパン生地のように粘り気を帯び、膨らみ始めた。もはや一言も聞き取れなくなっていた。それは通路を通る間じゅうずっと続いた。
 私たちが出たのは、アーチ状になった大きな穴蔵の中だった。そこで二人は私たちに気付いた。二人は振り向くと、しばらくじっと私たちを灰色の瞳で見つめていた。私たちはまだ震えていた。すると二人のうち一人が壁面に張られている錆びついた鉄格子を手で示し、すぐさま私たちは忘れ去られた。
「ここにはグル・チェルチェズが投獄されていた。右から三番目だ。死んだ後もずいぶん長いことここに繋がれていたよ。遺体を引き出した時、半分は鼠たちに食われていた」
「カラフィルはどうした?あれも一緒に捕まってたんだろう?」
「カラフィルが繋がれていたのは五番目の牢だ。あれは恩赦の勅令[訳註;原語はトルコ語hair-ferman(hayır fermanか?)]が来るまでは生きていたよ。上にある城の広場へ連れて行った時も、歩く様子はまるでぼんやりした風で、歓喜の余り我を忘れているようだったのを皆憶えている。あれが壁の方へ向かって歩き出した時、誰かが言ったんだ:あいつ、もう目が見えてないんじゃないか、って。でも他の連中の耳にその言葉は届かなかった。カラフィルは壁に近付き、崖の淵に辿り着いた、そしてそこで立ち止まり、眼下に広がる絶景を愛でようとするのか、何か手短に演説でもするのか、それともただ、自分を恩赦にしたスルタンを称賛でもするのか、とみんなが期待したまさにその瞬間だ、崖から一歩踏み出して、転落した。そこで初めてみんな気付いたんだ、あれが盲目になっていたことにね。
 私たちは今度は石段を幾らか上っていた。石はぴかぴかだった。
「この石段をフルシド・パシャの首が転がっていったんだ。落ちる途中で右眼が破裂して、それで首を首都まで運んだ警備兵に対して、法廷で裁判が開かれた。警備兵は、塩を取り除かなければならないという規則を飛ばし、運ぶ途中の首をしっかり抱えていなかったことの責任を問われた」
[訳註;フルシド・パシャはアリ・パシャ・テペレナの叛乱を鎮圧し、アリ・パシャを暗殺したオスマン帝国の大宰相(首相)。その後失脚し、服毒自殺した。この当時、斬られた首は防腐のため塩と氷で覆われ運ばれたという。カダレの『恥辱の壁龕』にも同様の記述がある]
「斬った首から塩を取り除くという規則なら、前から決まっていただろう、たしか、主治医のブーラハン[訳註;原綴りはBugrahanだがトルコ語なら恐らくBuğrahan]がさ、ティムルタシュの首に関して取り扱いがまずかったとかでさ。そうじゃなかったっけ?」
「扱いがまずかったのはムク・カドリウ[訳註;旧版ではユルドゥルム]の首の方だ。斬られた後の変わりようがひどくて、本人の首なのかそうじゃないのか疑惑が生じたのさ。それでそういう規則が布告されたんだ」
 二人はずっと首の話ばかりしていた。その後にしっかりくっついて、私たちは歩いた。二人の首にはスカーフがしっかりと巻きつけられていた。ふと一瞬、私にはその黒いスカーフが二人の(とっくの昔に切断されている)首を地面に落とさないために巻いてあるだけのような気がした。
 私は吐き気を催した。今度は、二人は上へ向かうところだった。空気が涼しくなってきた。私たちは外に出た。
「ピーナツだよ、ピーナツ!」
 ようやく救われた。広い通路を埋め尽くす群衆の中で自分たちの家族を、狂ったようになって私たちは探し回った。
「何処に行ってたの?何でそんな真っ青なの?」口を開くなり私の母もイリルの母も、そう問いかけてきた。
「何を震えてるんだい?」カコ・ピノが言った。
「寒いんだよ」
「すごく寒いんだよ」
 母が私たちに毛布をかけてくれた。イリルの母がパンにジャムを塗ったのを渡してくれた。こうやって人々の中にいると温かかった。女たちが何人か訪ねてきていた。父はビド・シェリフィと何やら話し込んでいた。ナゾの嫁さんは顎に手をやり、悲し気な視線を送っていた。カコ・ピノは、自分の道具が入った赤い鞄を何やらゴソゴソやっていた。婚礼は何処ででも行われるのさ、どんな時にでも、どんな場所ででも、審判の日まではね、と城に移ってきた最初の日、どうしてその鞄を持ってきたのかと誰かに問われた時も彼女はそんなことを言っていた。ナゾの嫁さんが溜め息をついた。人々の中、人生は美しかった。
 その日の午後も、その翌日もずっと、私とイリルはその場を一切動かなかった。私たちは座ったまま、訪ねてくる女たちの会話を聞いていた。あの黒いスカーフを首に巻いた見知らぬ男二人と出くわしやしないかと恐れていたのだ。私たちは決めていた、もしたまたま群衆の中にあの二人を見たとしても、すぐに耳をふさいで何も聞かないようにしようと。でなければだ、もしあの二人の言葉がここまで届いたとしたら、それらは私たちをあの時のように縛り上げ、否応なくその後ろをついていかされることだろう。
 夜中に激しい爆撃があった。絶えず祖母のことを思い浮かべた。祖母の足音が今頃、あの大きな家の中で孤独に聞こえているのだ。そら階段を上り下りするぞ[訳註;ここの動詞は2人称単数で祖母に呼び掛けている]。木と老いとのつぶやきと、そして祖母が国家や政府や、そこからの飛行機どもに言うあの「こん畜生め」だ。
 私はイリルと二人で隅の方に、毛布にくるまり座っていた。城に広がるざわめきが、私たちを眠りに誘いかけていたが、そんな中に突然、短く俊敏な-蛇が誰かの[訳註;ここは2人称]足元を這い廻っているのに気づかれないような-動きで、「逮捕」という言葉が聞こえた。首をぴんと伸ばし、目を細め、何かが列を成し、ブーツを履いて、カツ、コツ、カツ、コツ[訳註;原文では「お前のところに」とある]やって来る。逮捕。カツ、コツ、た、い、ほ[訳註;原文では靴音の“trak-truk”に続いて、「逮捕」を意味するarrestimが“a-rres-tim”と分かち書きされている]。憲兵[訳註;原語はkarabinierë、つまりカラビニエリなので恐らくイタリア軍の憲兵隊]の一人がポケットから手錠を取り出した。背の高い人物が、自身に手錠がかけられる様を見つめていた。
「見ろよ、両手に鍵をかけられてら」イリルが大きな声で言った。
「わかってるよ」
 逮捕された人物の妻らしき女が一人、小さく悲鳴を上げた。
「心配するな」と逮捕された男が言った。
 憲兵の一人が男の肘を摑み、その小さな一団は立ち去った。
「薄汚いファシストめ」と誰かが言った。
 逮捕劇の間に集まっていた人々は黙ったまま散っていった。昼頃、再び激しい爆撃があった。
 別の日には、私たちの前をひっきりなしに通っていた人々の中で、見憶えのあるような顔が私の目に止まった。その男は私をじっと見つめていた。何処かで私は、その明るい色の髪と薄暗い目を見たことがあった。そうしてやっと思い出した。それは、空襲の最中にうちの地下室でアチフ・カシャフの娘にキスしていた男子だった。
 彼はしばらくその辺りをうろうろしていたが、私に手招きしてきた。私は肩をそびやかした。彼は私について来いと手招きしていた。どうやらこちらには近付きたくないらしかった。私は立ち上がり、後について行った。私と彼は外の大きな広場に出た。寒かった。
「君、名前は?」アチフ・カシャフの娘にキスした男子がやっと口を開いた。
 私は名を言った。私と彼は風が吹きつける壁の傍に立っていた。崖の下に町が見えた。
「僕のこと知ってる?」彼が訊ねてきた。
「うん」私は言った。
「そりゃよかった」彼が言った。「あれはまさに君んちの地下室で起こったことだからね。君、何があったか知ってるね」彼は私の肩をがっしり摑んだ。「なあ、知ってるの、知らないの?」
「知ってるよ」私は言った。
 アチフ・カシャフの娘にキスした男子は深く息をついた。
「見たのか、あれ?」彼が訊いてきた。
「いいや」
 彼は口元をぐっと引き締めた。
「この町じゃ恋愛は禁止なんだ」と彼は低い声で言った。「君も大きくなったら、いつかわかる日がくるさ」
(・・・ルガリタ)
 靴のつま先で、彼は壁をずっと蹴りつけていた。
「あのさ」彼が言った。「あの子、消されちゃった気がするんだ、君どう思う?」
 私は肩をそびやかした。
「この町で妊娠した女の子がいなくなるとしたら二通りだ:ユクで息を止められるか、井戸で息を止められるかだ。君どう思う?」
[訳註;原語jukについて多くの言語訳では「キルトやクッションで窒息死させる」と意訳している]
 私は再び肩をそびやかした。ひどく寒くなってきた。
「要するに、あんた、地区の何処でもあの子を見てないってこと?」
「何処にも」
「誰もあの子を見てないの?」
「誰も」
「あんたの地区に井戸はたくさんあるの?」
「何か所かは」
 彼は指先を歯で嚙み始めた。
「せめてあの子の身体だけでも見つかれば」彼が力のない声で言った
 風が吹いてきた。私は凍えていた。
「そこらじゅう探してやる」彼が言った。
 彼の指は不自然に細長かった。しばらく彼は灰色の崖を見つめていた。町にある無数の屋根は、霧のせいで殆ど見えなかった。
「もし見つからなかったら、その時は地獄に下りてでも探してやる」彼が低い声で言った。
 私はその言葉がどういう意味なのか訊きたかったが、怖くなった。
 それ以上は何も言わないまま、彼は足早に広場の真ん中を突っ切っていった。

(つづく)


ページトップへ戻る/Ktheu