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イスマイル・カダレ 『石の町の記録』




第7章

 一週間にわたり、町は毎日爆撃を受けた。それ以外の全ては忘れ去られた。爆撃と飛行機のこと以外は話題にも上らなかった。婚礼の終わりから間もない夜明けに死体で見つかったアルジル・アルジリの死もまた、殆ど沈黙の中で過ぎ去っていった。殺人者らも、脅迫者らと同様、不明なままだった。
 空襲七日目に起こったのは、些細なこととはいえない出来事だった:我が家のある通りに、商店にあるような文字の書かれた看板が一枚掲げられた。朝早くに、見知らぬ数人が、我が家の門の右側の壁にそれを掛けていったのだ。看板には黒字でこう書かれていた:『防空壕90人用』
 我が家のある通りにこういう掲示の類は、当局の布告の類を除けば全くなかったし、それも二、三日もすれば雨に濡れ、風に破かれるのだった。思い起こせば何度か、家々の壁にチョークか木炭で恥ずかしい言葉が落書きされていたこともある。だがそういうのは稀な話だった。正真正銘の看板となると、我が家の門の右手に掲げられた、それが初めてのものだった。
 その日は通行人たちも皆その前で足を止め、字が読める者たちは他の者たちにも、それがどういうものか説明して聞かせていた。
「売り家?」
「違うよ、あんた。別のお知らせだよ」
「知らせって何の?」
「ここんちの地下に避難しに来いってことさ、飛行機が爆弾落としに来た時にはさ」
「勘弁してよ、そんなの!」
 私は門の前に立ち、通行人に微笑みかけていた、こう言いたげに:さあ御覧なさい、こういうのを家って言うんですよ。私はとても誇らしい気分だった。この地区に大きくてきれいな家はたくさんあったが、他のどんな家にも、チェチョ・カリの家にも、ビド・シェリフィの家にも、それどころかマク・カルラシの大屋敷にも、こんな看板は掛かっていなかった。これ即ち、我が家は全ての家々に勝るものなり、ということなのだ。
 私は通行人らに微笑み続けていたが、奇妙なことに、彼らは私にまるで注意を向けようとしなかた。ただ一人、ハリラ・ルカだけが、私に目を止めるや、ボルサリーノを取り敬意を込め、私に向かって二度、三度と会釈してきた。こいつはこの地区で一番の小心者だった。
 私からすれば、大人たちの素っ気ない態度は大して印象にも残らなかった。私は門の敷居に留まり、イリルが通りかかるのを今か今かと待っていた、彼とは最近も、一番の家は誰のところかと言い合っていたからだ。イリルとはそういう賭けをいつもやっていた。少し前にも、王がどこまで石を投げられるかについて長々と時間を潰したが同意に至らなかった。私は、王なら聖三位一体の丘まで投げられるだろうと言ったが、イリルはというと、王はザリの丘より向こうには全く投げられないだろうと言って譲らなかった。まあせいぜい川にかかる橋までで、そこから先はまるで出来っこないさ、と彼は言うのだった。
 もしも家をめぐる問題がなかったなら、そんな言い合いがあとどれだけ続いたことだろう。家々をめぐる問題[訳註;「一番強い家はどこか」問題のこと]で私たちは更に多くの時間を費やし、それがどういう風に決着するかもわからないでいた。もしもあの人たちが、うちの門の傍らの、『防空壕90人用』なる魅惑の言葉が書かれた看板に足を止めるようなことがなかったなら、私たちは罵り合い、やがて取っ組み合い、石で殴り合っていたことだろう。
[訳註;要するに主人公は、自宅の地下室が防空壕に指定されたという特別扱いぶりをイリルに見せつければ、「最強の家」論争に決着がつくと期待していたのである]
 ところがイリルはというと、わざとそうしているかのように、姿を見せなかった。あいつは看板のことを聞いていて、路地を下り、うちまでこっそりやって来ていたに違いない。
 私はずっと門のところで待っていたが、飽きてきたので家の中へ入った。そしてすぐに階下へ、地下室へと降り、尊敬の念を込めて地下室の分厚い、長い年月で色褪せた壁を眺め出すのだった。
 今までこの地下室はずっと、我が家では重要でない場所だった。そこには石炭と消石灰が置かれていた[訳註;原文では「石灰を消す」、つまり生石灰が水分を帯びて「消和する」となっている]。この地下室は、言うなれば、三階の大広間に比べると、召使いのようなものだった。大広間には綺麗な、父と同じぐらいの高さの窓が六つあった。そこの天井[訳註;原語rrokafundは直訳すると「摑んだ終端」で「摩天楼」のような造語法になっている。ただ「摩天楼」に相当するアルバニア語は通常rrokaqiell(天を摑む)]は黄色で、木彫りが施されている。その部屋では、家の中で最も重大な勤めが為されていた。母は天井板を掃除し、蠟のようにピカピカになるまで拭き上げた。窓のカーテンは白く、レース模様がいっぱいで、一方マットレスには老女らが座り、互いを訪ね合い、コーヒーを啜り、ありとあらゆる金言を交わし合うのだった。他の部屋たちの大広間に対する嫉妬は、それこそ廊下からさえも難なく感じ取れた。そんな嫉妬は他の小窓たちにも、歪んだ窓枠にも、狭い戸口にも見られた。
 ところがだ、突如、あらゆることがあの最初の空襲の日に一変してしまった。大広間では全ての窓ガラスが砕け散り、醜く変り果て、慌てふためく一方で、もの静かな昔馴染みの地下室はというと、外で起こったことに我関せずという体だったのだ。
 私は大広間のことが本当に気の毒でならなかった、そこは誰からも見捨てられていた。空襲が続いている間、地下室の分厚い壁はびくともしなかったが、私は、上の方で、独りぼっちで全身を震わせおののく大広間を思い、声を上げて泣いた。私には大広間が美しい、しかし怖がりで神経質な女性のように思われたが、他方、地下室は耳の聞こえない骨ばった老人のようだった。大広間がその重要さを失うや否や、たちまち地下室は我が家で最も栄光ある場所となってしまったのだ。まるで家が上下さかさまになったような感じだった。
 今や完全に見捨てられた大広間の窓から、私はよその家々の、細かい秋雨の下に広がるその屋根を眺めていた。最初の空襲の後、どの家でも我が家と同じような転倒事が起こったのに違いないと私は考えていた。たぶんずっと前から、この町の、湿気を帯びた地下室たちも倉庫たちは、この日を待っていたのだ。たぶん彼らは、自分たちが天下を取る時が来ると知っていたのだ。
 この町の三階たちにとって困難な時代がやって来た。町の建築中、木材は実に狡猾にも、石には土台や穴倉や水貯めを任せておいて、自らは三階へと成り上がっていた。あの薄暗闇の中で石が湿気や地下水と闘っていたに違いないその時、木材は三階を美しく飾り、彫刻を施され、念入りに綺麗にしてもらっていたのだ。三階は軽く、この世のものでない[訳註;原語mosqenëは「存在しない」だが、英訳“ethereal”、中国語訳“空灵”等に拠った]かのようだった。そこはこの町の夢想、町の気まぐれ、町の空想の飛翔だった。それでも、この空想には限界があった。三階に自由を与えておきながら、町はまるでそれを後悔し、急いで誤りを正そうとしているかのように見えた。町は三階を石の屋根で覆い、いま一度、ここが石の王国であることを示そうとした。
 いずれにしても私はこの、穴倉と地下室の新しい時代が気に入っていた。今や町の至るところにうちと同じ看板が掛けられていて、そこには『防空壕15人用』或いは『22人用』或いは『35人用』と書かれていた。『防空壕90人用』は珍しい方だった。私は、自分の家が突如として地域の中心になったことが嬉しかった。そこは大いに活気づいていた[訳註;「そこ」にあたる指示代名詞は原文では女性形で、「家」も「地区」も女性名詞]。私たちは左右の門を開けっ放しにし、空襲警報が鳴ったらすぐに人々が中へ駈け込めるようにしておいた。中には早めにやって来て、最初の入口の広いところにずっと座っている連中もいた。そこで食事をしたり、タバコを吸ったり、あれこれ相談したりしていた。
 地下室は地の底にあった。水貯めとは分厚い壁で隔てられていたが、水貯めの一部は地下へと通じていた。大きな地下室には狭い裂け目が一つ、家の土台の辺りにあるだけだった。そのため、地下室の空気は重くよどんでいた。
 今や我が家は市場のようになっていて、毎日、何かが起きていた:狭い階段で慌てて足の骨を折る人がいれば、場所をめぐって喧嘩になる人もいたし、タバコを吸おうとしたが他の人たちに気分が悪くなるからと吸わせてもらえない人もいた。特に多かったのは場所取りの喧嘩だった。敷布や毛布どころかマットレスまで持参したから、絶えずぎゅうぎゅう詰めだった。
「何だってこんな地面に寝そべる羽目になったのやら」とビド・シェリフィが言った。
「それもこれも、あのイタリアの犬どものせいだろうさ」とマネ・ヴォツォが言った。
「シッ、声を落とせ、スパイがいるかも知れん」
「あの英国人だって、爆弾をさ、イタリア人どもの兵舎とか空港にじゃなくて、町に落としやがるんだよな」
「おい、そりゃ俺が前に言っただろうが、あの忌々しい空港が俺たちのところにだな、この空襲をお見舞いしてるんだって」
「シッ、声を落とせって」
「おい、そううるさく言うなよ、俺はずっと声を小さくして生きてきたんだからな」とビド・シェリフィが言った。
 いつもの隣人らの他にも、地下室にはいろいろな人が入ってきていた。その中には初対面の人たちもいたし、近頃とんとご無沙汰だった人たちもいた。チャニ・ケケズィは小柄で、赤ら顔で、不安そうな目であちらこちらを見回していて、まるで猫でも探しているようだった[訳註;この人物は学校で猫の解剖をやらかし苦情を受けた教師として、第3章の「記録断片」に名前のみ登場している]。女たちは彼のせいで怯えていた、特にカコ・ピノがそうだった。金持ちのカヴォ家のマイヌル夫人は、地下室の階段を降りてくる時、手で鼻を覆っていた。ふた月前、彼女の家の門のところで私は、一人の農夫が騾馬から荷を下ろしているのを目にした。その農夫は全身泥まみれで(どうやら騾馬もろとも、ぬかるみか何かに嵌まってきたらしい)、顔と言わず手と言わずまるで土で出来ているようだった。マイヌル夫人は窓から顔を出し、誰かにこんな文句を言っていた:『こういうのしかいないのかしら、今まで通り小麦を持ってきてくれるのは、あらごめんあそばせ。まったく、他の連中は連中でこっちを騙しにかかってくるし』
[訳註;「連中」は原文では男性名Kiçoの複数形だが、或る種の蔑称として用いられているらしく、英訳では「田舎者のキリスト教徒たち(Christian yokels)となっている。実際、この名はキリスト教徒(正教徒)に多い]
 ヂェヂョは、どうしたことか姿を消していた。そういうことは何度かあった。誰も彼女の姿が見えないことを気にしておらず、また彼女が再び姿を現わしても驚きもしなかった。
 時には思わぬ人々が地下室にやって来ることもあった:路上で空襲に見舞われた通りすがりや、近所の家に泊まりに来ていた人々だった。そんな具合で或る日、妻を伴った砲兵アヴド・ババラモがやって来た。彼が座ったのは、世界の出来事についてずっと喋り続けている老人たちの隣だった。それは、ありとあらゆる国家や王や為政者の名が出てくる、終わりのない会話であった。しばしば老人たちの話題はアルバニアにも及んだ。それを好奇心を持って聞きながら、私はこのアルバニアが実際のところどうなっているのか、理解しようと頭をひねっていた。アルバニアとは自分の周りで見えているもの全てなのだろうか:中庭、パン、雲、言葉、ヂェヂョの声、眼差し、退屈、或いはその中の一部だけがそうなのだろうか?
「前に、イズミルで或るデルヴィシュに訊かれたんだ:家族とアルバニアと、どちらが大事なのかって」[訳註;イズミルはトルコの都市名。デルヴィシュはスーフィズム(イスラーム神秘主義)の修行僧]砲兵アヴド・ババラモが言った。「アルバニアだ、答えるまでもない[訳註;逐語訳は「ドアを閉めるように」]と言ってやったさ。アルバニアが大事かなんて考えるまでもない。家族なんてすぐ作れる。そうさ、ひと晩、カフェを出て、道の角に女が一人いて、ホテルに連れ込めば、ほら子供も家族も一丁上がりだ。だがアルバニアはどうだ、アルバニアがひと晩のうちにだね、カフェを出たらすぐに出来るのかね?なあ、どう思うかねあんた、出来やしないだろ?アルバニアは作れやしない、ひと晩ではな、千と一夜でなけりゃな、出来やしないんだ」
「よしなさいな」彼の妻が言った。「すっかり老いぼれちゃって[訳註;原語matufepsemはmatuf(呆け老人)からの派生動詞。matufは恐らくトルコ語matuf(傾く)からの借用語]。歳をとるほど口がゆるくなるんだから」
「もう、あっちに座ってろよ、お前は」アヴド・ババラモは妻に言った。「お前ら女どもときたらアルバニアのことをよくご存知ときた」
「アルバニアよ、おお達者でな、厄介事が山積みだわい」別の老人が言った。
「厄介事か。うまいことを言うね」
 通常、こういうやりとりは空襲警報で中断されるのだった。人々は急いで下へと降りていった。先に降りるのはいつも祖母だった。階段が祖母の足取りで悲鳴を上げた。急いで、お祖母ちゃん、急いで。だが彼女はちっとも急いで降りてこなかった。いつだって何かしら遅くなるような原因があった。一度など、最初の爆弾が炸裂していた時もまだ階段のところにいた。爆弾が不意に爆発した時、祖母はまるで鬱陶しい蠅を追い払うように腕を振り回し、耳を掌で塞ぎ、こう言った:
「くたばっちまえ!」
 私は、階段のところでひしめき合う人々を見ながら、最後にはチェチョ・カイリとその娘がやって来るのを待っていた。だが赤髪のチェチョ・カイリは、やって来なかった。彼はどうやら爆弾の下に留まる方がましだ、人々に自分の娘の髭を見られさえしなければ充分だと思ったらしい[訳註;第1章で、このチェチョ・カイリの娘に髭が生えたと女たちが噂し合っている]。昼も夜も自分の記録を書いている老ヂヴォ・ガヴォもやって来なかった[訳註;第5章の「記録断片」及び第6章に登場した年代史家]。普通の老女たちも来なかった。一方、アチフ・カシャフは二人の息子と妻と一人娘を連れてやって来た。アチフ・カチャフが太った大男なのに対し、娘の方は華奢だった。彼女は口数が少なく、避難場所でも、ただただもの思いに耽るように座っているだけだった。ビド・マクベス・シェリフィがアチフ・カチャフを、まるで幽霊を見るような目で凝視していた。彼の妻が地下室への階段を足早に降りるたび、両手から小麦粉が舞った。小麦粉は、例によって血まみれだった[訳註;第5章に同様の表現がある]。アチフ・カチャフの幽霊は辺りをぐるりと見渡した。地下室は満員だった。
「また警報だ!」
 警報は、初めはゆっくりと、眠りを覚ますように鳴り始め、やがてどんどん荒々しくなり、悲鳴を上げるのだった。二つの鳴る音の間には静寂の谷間があった。深い谷。そしてまた悲鳴の山々。かん高く、波打つような。ぽっかりと静寂の穴。再び悲鳴。悲鳴。悲鳴。殻のように悲鳴は、風を切る音を包み込むが、音はそれを突き破ろうとする。轟音。激しい轟音。周囲が包まれる。爆撃。すぐ近くだ。と突然、見えざる手が人々をなぎ倒し、二つあった石油ランプが消える。真っ暗闇になる。闇の中に叫び声。誰も身動き一つしない。どうやら私たちは死んでしまったらしい。
 静寂。やがて何かが動く。物音。マッチの音に似ている。私たちは死んではいない。マッチ。弱々しい火が、幾つかの小さな灯りをもたらす。そして石油ランプがそれらを一つに溶け合わす。みんなが動いている。私たちは生きている。もう一つのランプに火が灯される。いや、違う。誰かが死んでいる。アチフ・カシャフの娘の、細い両腕が生気なく伸びている。それに頭も。栗色の髪が垂れたまま、ぴくりとも動かない。
 アチフ・カシャフがとうとう、私がずっと前から待ち望んでいた叫び声を上げた。だがその叫び声には痛みが無かった。それは荒々しいものだった。娘の頭が震えている。彼女はゆっくりと、呆然としたまま、まるで眠りから目覚めたように身を動かした。伸びていた両腕が縮こまる。爆撃の間じゅう彼女が抱き締めてキスしていた男子も、身を動かした。
「こら、何てことを[訳註;原語bushtërは「雌犬」]」アチフ・カシャフが声を上げた。その大きな手が娘の髪を摑み、娘をずるずると引きずった。娘は立ち上がろうとしたが、また倒れてしまった。アチフ・カシャフは娘を地下室の只中で引きずり回し、ようやく階段のところで、手足をばたばたさせながらどうにか娘は立ち上がることができた。アチフ・カシャフは娘の髪を摑んで放さないままだった。
 外で再び激しい轟音が聞こえたが、アチフ・カシャフは振り返りもしなかった。娘の髪を摑んで引きずりながら、彼は耳をつんざく爆音の中、路上へと出た。そして爆撃の中を去っていった。
 アチフ・カシャフの娘にキスしていた男子は、隅の方まで後ずさりすると、一同を怯えた獣のような目で見つめていた。見慣れない顔で、髪も目も明るい色をしていた。顎がガクガクと震えていた。今にも誰かに背後から飛びかかられるのではと待ち受けるように用心しながら、その男子は沈黙とも言えない沈黙の中を通り過ぎ、そのまま出ていった。
 彼が立ち去るや、すぐさま喧騒が始まった。
「何なのよあれは、ねえあんたたち、どこから出てきたのよ、ねえちょっと?」
「一度も見たことないわよあたしたちだって」
「何てまあ、いまいましい!」
「くわばらくわばら」[訳註;原文では「災難、災厄」を意味するgjëmëを二回繰り返している]
「くわばらくわばら、ああ恐ろしい」
「カシャフ家のあの娘が、あんなあばずれ[訳註;原語nepërkëは「毒蛇」]だったとはねえ」
「魔物みたいに首に絡みついちゃってさ」[訳註;「魔物」と訳したsprijëは神話上の怪物。七つの頭を持つとも言われ、「貪欲」を象徴する。英訳では「売春婦みたいにいちゃついてる」とよりあけすけに意訳されている]
「まるでイタリア女だよ」[訳註;「イタリア人」の女性名詞はitalianeだが、ここではスラヴ語的なitaliankaが用いられている]
 女たちは頬をつねり、頭のスカーフを巻き直し、「フン、フン」と口を鳴らしていた[訳註;原文は“pu-pu”。アルバニア人が不満を示す時に口を鳴らす仕草]。男たちは固まったように動かなかった。
「恋か」ヤヴェルが歯ぎしりしながら呟いた。
 イサは悲しげな目をしていた。
 地下室は沸き立っていた。
 この事件は長く語り継がれた。生気を失ったまま、殆ど誰も知らない男の肩に回されていたあの二本の腕が、多くの人々を苦しめるようになった。娘の二本の細腕が、徐々に残忍な二本の肢部へと変貌しつつあった。それが皆の喉を摑んでいた。それが皆の呼吸を止めようとしていた。窒息させようとしていたのだ。
 だが、いつもそうだが或る出来事の体内には全く新たな出来事が芽を出すもので、アチフ・カシャフの娘と、その娘にキスしていた男子の話をしていたまさにその最中、発明家ディノ・チチョが描いていた不思議な図面の話が、これまで以上に話題に上るようになっていたのである[訳註;ディノ・チチョは第3章で、呪いのせいで計算を間違えっ放しの発明家として、人々の話題の中に登場している]
 もうかなり以前から市民ディノ・チチョは、この土地で今まで誰も見たことがないような計算や描画によって本人の睡眠を全くふいにし、他の人々の睡眠をも蝕んでいた。何でも、これらの数式は既にオーストリアだか日本だか(正確なところは不明だが)の科学者らの注目を集めていて、それらの国で働いて欲しいとディノ・チチョに招待があったが、しかし彼はそれを受け入れなかったらしい。その次はオーストリアだかポルトガルだか(これまた正確なところは不明だが)の科学者らが、その発明を譲ってもらおうとありとあらゆる手を尽くしたが、彼はそれらもはねのけた:嫌だといったら嫌だ。
 長いこと、この不思議なる男ディノ・チチョは完全に秘密裡に、自身の発明に取り組んでいた。それは大変な苦行で、それこそ顔は青ざめ、目は真っ赤に血走るほどだった。それ以前の町の記憶にもそういう、計算式と図面に人生を捧げた人物はいた。だがその人々がしていたのは、また別の事柄だった。教師チャニ・ケケズィは、猫の解剖からは解剖学の書物を読む以上に得られるものが多い、としばしば語っていた。
 ディノ・チチョは、無駄なことには関わらなかった。町の足元で空港の建設が始まった時、彼は自分の仕事を一旦放棄し、新たな発明に没頭した。彼は飛行機を造ろうとしていたのだ。それは尋常でない飛行機になるはずだった。それはガソリンでなく、「永久機関」[訳註;原語はラテン語perpetuum mobile]で動く飛行機だった。この言葉を誰もが他人とは違う風に発音し、時にその発音の問題は諍いの原因となり、あまつさえ顔面を殴り合い歯をへし折り、そのせいで更に発音が激しく変わってしまうのだった。
 空襲が始まると、ディノ・チチョの発明、町を守るのみならず町の名声を高めるであろう発明に関する話題が、前にも増して頻繁になった、とりわけ老人たちや子供たちの間ではそうだった。ガソリンのいらない飛行機こそ、あらゆる飛行機の中で最強の存在だ。ガソリンのいらない飛行機、それは恐るべきものだ。それは一日中、全く降りることなく、舞い上がることができるのだ。イリルの叔母の一人は、もっと長く飛んでいられるだろうと言っていた。なら五日間飛んでいられる?いや五日は無理ね。でも何だってあの人、すぐにその飛行機を発明しないの?何でそんなにかかるの?辛抱だよ、坊や、いい仕事ってのは、じっくりやるもんさ。
 私たちは待った。
 そんな中でも町の上には絶えずいろいろな飛行機が飛んでいたが、大半は正体不明だった。それらの、爆弾で膨れ上がったぴかぴか光る腹部を頭上に目にするたび、私たちは薄暗い家と、その崩れかけの軒先に目をやる、そこの主は全く顔を出さないままだった。彼は作業中だ、昼も夜も。飛ぶがいい、幾らでも飛ぶがいいさ、ガソリンで飛ぶ哀れな飛行機どもよ。
 私たちはあれこれ想像してみた、ディノ・チチョによる「永久機関」付き飛行機が初めて飛び上がったその時、あの空にどんな混乱が巻き起こるのだろうと。真っ黒く、恐ろしく、異様な形状のそれは、天空の真っ只中を切り裂くだろう。するとその時たまたま空に居合わせた全ての飛行機たちは、尻尾を巻いて逃げ出すだろう[訳註;逐語訳は「視界と足元から逃げる」]。南へ消え去るものあり、北へ消え去るものあり、また恐怖と混乱の余り、真っ逆さまに墜落するものもあるだろう。
 そんな中でも町は定期的に爆撃を受けていた。飛行機群は町の上を、まるで自分の家のように飛び回っていた。町の防衛のためにと先週送り出された対空砲も、まだ到着していなかった。最初の空襲後、誰もが、町というのは道路や煙突や真っ黒な運河だけでなく、対空砲も持っていなければならないのだということを理解した。王政時代から城の東塔に置かれていた旧式の対空砲には欠陥があって、当局の技師たちにも手の施しようがなかった。
 町は全くの無防備のまま、秋空の下に横たわっていて、いつも以上に広がっているように皆には思われた。人々が、この秋ほどに何度も空を見上げたことは、かつてなかった。まるで驚いてこう問いかけているかのように:急にどうしてしまったんだ、この空は?この年かさの空にあって、飛行機は目新しいものだった。空が休みなく町の上に降らせていて、いちいちそれを数えようとする者すらいないほどの雷も、雲も、雹雨も、雪も、年老いた空のこの新たな気まぐれの前では、何ほどのものでもなかった。何かしらよそよそしく、不実なものが今、ぶ厚く垂れこめた雲の中にあって、その中に突如開いた青い部分はまるで巨大な眼のようだった。その不実なものは、単調な雨降りの中でも、吹きつける風の中でさえも感じることができた。そのことを理解するのに、大した苦労は必要なかった。私はいつにも増して、この世界には空なんてない方がいいのではないかと考えるようになっていた。
 そんな秋の日々の中の或る日、私がずっと待ち続けていたことが起こった。日曜日のことだった。祖母が黒衣をまとうその仕草と、黒い紐を結ぶその半ば秘密めいた動作で、私はそれに気付いた。その動作は慎ましく、半ば魔法じみていた。私はすぐに、その訪問が尋常なものではないのだろうと理解した。口を半開きのまま私は、沈黙の中、祖母の動作を目で追っていた、自分が何を言ってもこの衣服と手が擦れ合う静寂の調和を破ってしまいかねないと思ったからだ。
「何処に行くの?」ずっとびくびくしたまま私はか細い声で訊ねた。祖母が私を見た。その瞳は落ち着いていて、少しだけ遠くに感じられた。祖母はゆっくりと口を開くと、その人の名を声に出した:ディノ・チチョだよ。私にもそれはほぼわかっていた。
「僕も連れてって」私は呻くように言った。祖母は私の髪を撫でた。
「着替えておいで」祖母は言った。
 路上の石は濡れていた。僅かに雨が降っていた。頭の中に昔の歌が響いた:雨降りしとしと、何処へいくのさ、カタンヂカ婆や。私はカタンヂカ婆になっていた。私は雨の中、黒服で歩いていた。私はコーヒーを飲みに行った。私は見る。私は聞く。私は楽しかった。
[訳註;「雨降りしとしと(Bie shiu pika-pika)」で始まる歌は実際に幾つかあるが、本文中の歌が実在するかは不明]
「じゃあ飛行機が見られるの?」私は訊ねた。
「見られるよ」祖母が言った。「大広間の真ん中に置いてあるよ」
「じゃあすぐ近くで見られるの?」
「近くでも見られるけど、馬鹿なことはするんじゃないよ。手で触っちゃいけないからね」
 私は自分の手を見た。こいつらは怯えていた、私以上だ。私は両手をポケットに突っ込んだ。
 私と祖母はそこに着いた。祖母は大きな門の鉄製のノッカーを打ち鳴らした。その鳴る音が波のように家中に響き渡った。そこは風変わりな家で、幾つも切妻屋根があり、軒先は途方もなく出っ張っていた。その軒先から眠気が流れ出すように思われた。
 祖母はもう一度ノックをした。階段を降りてくる足音ひとつ聞こえなかったが、門がひとりでに開いた。誰かが三階からロープで掛け金を引っ張ったのだ。たぶんディノ・チチョ本人だろう。我が家にもそういうロープがあった。私と祖母は木製の螺旋階段を上がっていった。黄色い板が軋んだ。その軋む音は、我が家の階段のそれとは違っていた。何だか知らない言語のようだった。
 大広間に入った時、最初は何も目に入らなかった、というのも私は祖母の服の後ろに身を隠していたからだ。それから片目を覗かせると、老女が数名、祖母と同じ黒服に身を包み、マットレスに座っているのが見えた。飛行機は、部屋の中央にあった。ひと一人ぐらいの大きさで、翼を広げたそれは白色をしていた。真っ白だった。両翼も、尾翼も、そして全ての部品が木製だった。丁寧にやすりがけされた木材の上に、ネジの頭が輝いているのが見えた。
 私は、長いことそれを見つめていた。老女たちの声が、まるで風の吹く中のように遠くに聞こえた。それから視線を上げると、青白い顔に、血走ってぼんやりした目の男がずっと足元に視線を落としていた。
「これがそう?」私は祖母にささやいた。祖母は『そうだよ』とうなづいてみせた。
 老女たちは二人一組になり、コーヒーを啜りながら喋っていた。たびたびその会話は入り混じった。彼女らは絶えず首を振り、驚いてみせ、飛行機の方を指差し、そしてまた戦争や空襲のことを話していた。青白い顔の男は黙ったまま、ずっと立っていた。その視線は木製の飛行機から離れることがなかった。
「勉強しなよ、ねえあんたもさ、ディノみたいになってさ、あたしたちの自慢になっておくれよ」[訳註;ここで「あんたもさ」と訳したtë keqenは「すみませんが」等の意味でも用いられるが、ここは軽い呼びかけ]と老女の一人が私に言った。私は、祖母の背後でぎゅっと身を縮めた。何故だか少しも嬉しいと思わなかった。喜びは突然、何百という小さな穴から流れ出てしまった。だがそれも長くは続かなかった。私の身体から喜びが去ったその空白の場所を突如、その見えない穴を通って流れ込んできた一本の濁流が埋め尽くした。それは悲しみだった。部屋の中央の白い飛行機が、急に、この世で最も弱々しく、最も惨めなものに思われたのだ。どうやってこれが、毎日のように私たちの頭上を飛んでいるあの巨大な金属製の飛行機どもに、あの灰色の、爆弾を抱えた、耳をつんざくような轟音を響かせるあの恐るべき飛行機どもに、立ち向かうというのだ?あいつらは、こんな白いヤツなど一瞬で、それこそ鷹が小鳥を引き裂くように、バラバラにしてしまうことだろう。
 老女たちはまだあれこれと喋っていて、夫人が再びコーヒーを持ってきた。青白い顔の亭主は、その場を微動だにしなかった。私は、ぼんやりと立ち尽くしていた。悲しみのあった場所を徐々に大いなる無関心が占めつつあった。私は老女たちの皺を眺め出したが、あっという間にそれに釘付けになってしまった。これほど人間の皺に注意を払ったことは今までなかった。それはくらくらするような眺めだった。何処までも、何処までも続く曲がりくねった道が、顔中に、首筋に、顎の下に、うなじに伸びていた。それはあらゆるものを絡めとる糸にも似ていた。細いものあり、太いものあり、まるでそれは祖母が冬の始まりに編む毛糸のようだった。たぶんそれでスカーフも、たぶんセーターだって編めるだろう。私は眠気に襲われた。
 私と祖母がディノ・チチョの家を出ると、雨は止んでいた。濡れた舗石が、嘲笑うように光っていた。感づいているのだ。女が二人、互いの家の窓越しに話していた。その向こうに別の三人が顔を出している。互いの窓は離れているので、女たちは声を張り上げていた。家にたどり着くまでに私はニュースを耳にすることができた:対空砲が到着したらしい。
 その日曜日の午後、二つの教会の鐘は普段よりも長く鳴っていた。路上にはたくさんの人がいた。ハリラ・ルカが門から門へとノックして、こう叫んで回っていた:
「来たよ!ほら、来たよ!」
「ねえお願いだから」[訳註;逐語訳は「神のご加護を」だが勿論ここでは皮肉]老女の一人が叫んだ。「来たのはもう知ってるよ」
「さあ、これであの飛行機どももご愁傷様だね」とビド・シェリフィはカフェで語っていた。彼はアヴド・ババラモと一杯やっていたが、アヴド・ババラモの方はというと、砲術の問題を語って聞かせていた。カフェにいた男たちの半数が口をぽかんとさせたまま、それを聞いていた。
「いや砲術がね」アヴド・ババラモは嘆息した。「お前さんたちにゃ砲術向けのおつむはないときた、なあビドよ、かわいそうな俺は誰と話しゃいいんだろうな」
 午後中ずっと人々は、対空砲が見えはしないかと窓やバルコニーを出入りしていた。多くは城砦の方に顔を向けていたが、それは旧式の対空砲の時と同様、砲が置かれるとしたらそこに違いないと思っていたからだ。ところが夕刻になっても、砲身は何処にも姿を見せなかった。砲台は市街地に置かれた、ブナ林の間に隠されているのだと言う人たちもいた。このことは人々を失望させた。人々は旧式の対空砲のような、砲身の長い大砲が町のど真ん中に屹立する様を見られることを、それが町の自衛を信じて任せられるような対空砲となることを期待していたのだ。それなのにどうだ、やって来たのは丘や茂みの向こうに隠れている砲台ときた。
「やれやれ、砲兵というのが私の頃はいてね」と最後の一杯をカフェで掲げながら。アヴド・ババラはが言っていたものだ。
 だが最初の失望に比べると、砲台が隠されていることが、それに対する信頼を一段引き上げた。
 今や誰もが、対空砲と飛行機との初対決を待ちかねていた。どうやら人々は夜が明け空襲の時間になるのが待ちきれないように見えた。
 月曜日の朝になった。不思議なことにその日、英軍は空襲に来なかった。
「犬どもめ、あの砲台のことを聞いたんだな」ハリラ・ルカは路上で声を上げた。「聞いたんだな、あの腰抜けの、臆病者どもの・・・」
「頼むからその、キチョの驢馬みたいな声でわめくのはやめとくれ」
「・・・もの知らずどもが」
 だが火曜日、連中はやってきた。サイレンはいつものように、天高くまでその鳴き声を響かせた。人々は、つい前の日まで飛行機どもの到来を待ちかねていたのも忘れたかのように、地下室の階段を駆け下りた。ハリラ・ルカは蝋のように顔面蒼白だった。単調に鳴り響くエンジン音には、押し殺したような脅威があった。彼には、飛行機どもが他でもない自分を、つい前の日にさんざん呪詛の言葉を浴びせていた自分のことを探しているように思われた。音が近付いてくる。人々は口をぽかんと開けたまま、聴き入っていた。
「始まった、始まった、聞こえるか?」誰かが声を上げた。
「黙って」
「そら聞けよ、こっちに向かってる」
「本当だ、こっちに向かってる」
 遠くで立て続けにゴロゴロ鳴り響く音がした。
「対空砲だ」
「何でこんなに音が小さい?」
「止んだぞ」
「いや、また始まった」
「何でこんなに音が小さい?」
「知るかよ。近代兵器って奴だろう」
「うちらの対空砲[訳註;新しく搬入されたものではない、町に昔からある旧式の対空砲のこと]を打った時は、地面が震えたもんだ」
「いつの話だ?」
「あの頃はな」
「お前ら黙れ!」
 砲弾の炸裂する音がエンジン音を一瞬だけ遮ったが、その轟音は再び、そして一層、威嚇するように聞こえてきた。それは荒々しくなっていた。地下室は完全な沈黙に覆われた。弾の音は聞こえてこなかった。エンジンはありったけの荒々しさで唸り声を上げた。風を切る音が、巨大な楔のように容赦なく地面に突き立てられた。地面が揺れた。一回。二回。三回。いつもの通りだ。
「帰っていくぞ」
 ひとときも止まないでいた砲撃音が、また聞こえるようになった。そして、砲台が対決に敗れ、何も変わりそうにないと悲しんでいる中で突然、外から、通りの方から激しい叫び声が聞こえてきた。
「燃えてる、燃えてる!」
 警報も止んでいないのに人々が外を駆け回るのは初めてだった。どの通りも、窓も、庭も、外を見よう、見よう、見ようと狂ったように動き回る人の頭で埋め尽くされていた。
「あれだ」
 白いものが、そしてそこから不吉に長く伸びる煙が一筋、流れる風で広がる中、下へ落ちていくところだった。空の只中を、あと少ししたら死ぬであろう人間を載せた飛行機が、徐々に、徐々に高度を下げていき、やがて地平線に姿を消した。爆発音が聞こえてきた。
 町の上には、不吉めいた煙の筋がそのまま残っていた。人々は叫び声を上げ、咆哮し、呪いの言葉を吐く中で、穏やかな南風がその煙を二、三箇所へと押し広げた。そこに南風よりも激しい北風が、煙を乱暴に切り裂き、ついにはばらばらの欠片にしてしまった。煙の残骸はしばらくの間、町の上に留まっていた。
 そんな中、道路も路地も埋め尽くした人々の集まりは、それ自体で動き出していた。群衆は殆ど駆け出さんばかりの勢いで町の北部へと向かっていた、そこに飛行機が墜落しているはずだった。その場に残る人たちも、窓から顔を覗かせて、群衆の先頭がヴァロシ通りを越え、今やザリの荒地に押し寄せる様を、目で追っていた。更にしばらくすると、群衆の先頭はもはや見えなくなった。だがその最後尾が尽きることはなかった。
 昼食時[訳註;「昼」と言っても正午よりずっと遅い]になっても、誰一人として窓から離れようとしなかったが、そのうち「戻ってきた、戻ってきたぞ」という叫びが響いた。確かに、彼らが戻ってきたところだった。初めはザリ通りの入口に、そして未開墾地に、最後にはヴァロシ通りに。群衆は今や、酒に酔ったような一大軍勢[訳註;原語hordhiはトルコ語ordu(軍隊)に由来する軍事用語で、転じて「群衆」。英訳でも“horde”だが、中国語訳では“乌合之众”]と化していた。その前方と両側を駆け回る子供たちから第一報がもたらされた。
「持ってきた、持ってきた」と子供たちは叫んでいた。
「何を持ってきたんだろう?」窓際から問いかける者があった。
「腕だよ。腕を持ってきたんだ」
「はあ?もっと大きな声で!」
「腕を持ってきたんだよ」
「何の腕さ?」
「聞いたか?何か持ってきたんだとさ。何だかは聞こえなかったが」
「腕さ」
「飛行機のかい?」[訳註;アルバニア語のkrah(腕)には鳥や飛行機の「翼」という意味もある。そのため各国語版では「腕じゃなくて翼のことか」といった独自の文が追加されている]
 窓やバルコニーや壁際や屋根には、もっとよく見ようと詰めかけた人々が張り付いていた。今や群衆の息遣いが聞こえてきた。それは近付いていた。鳴り響き、全てを包み込もうとしていた。
 遂に大軍勢が近付いてきた。恐るべき光景だった。群衆の先頭を、汗まみれで、髪を振り乱し、かっと目を見開いたアチフ・カシャフが歩いていた。その高く掲げた手に、彼は何かしら青ざめた、白っぽく、冷え切ったものを持っていた。
 通りは至るところ喧騒に包まれた。
「人間の腕だ」
「操縦士の腕だ」
「英国人の腕だ。腕だけ残ってたんだ」
「爆弾を落とした腕だ」
「ああ、犬畜生が!」
「哀れな英国野郎!」
「何てこった、目を閉じておいで!」
 アチフ・カシャフは切断された腕をみんなに見せようと、ひっきりなしに振り回した。その腕の先の掌は開かれたままだった。
「指輪があるじゃないか」
「見ろ、指輪してるぞ」
「おい、指輪だぞ!指輪なんかしてるぞ」
 アチフ・カシャフは何度も何度も、恐ろしげな悲鳴を上げた。数人が彼の傍に行き、操縦士の腕を取り上げようとしたが、彼はそれを手離そうとしなかった。
 アチフ・カシャフの妻が窓際で髪を掻きむしり、叫び始めた。
「アチフ、お願いだから、そんな腕なんか離してちょうだい!ねえ離して、お願いよ!悪魔の腕よそれは。離してよ!」
 誰かが気を失って倒れた。
「子供を連れていけ」誰かが叫んだ。
「助けて!」
「哀れな英国野郎め」
 群衆は中心部へと離れていった。操縦士の切断された腕が、町を攻撃したその腕が、全ての頭上で不気味に揺れていた。





記録断片
こと。資産。ハンコナタ家とカルラシ家の古くからの裁判は、空襲により一時中断していたが、昨日再開。我が町で初めて飛行機が墜落。操縦士の腕発見さる。我が町にかくのごとき黙示録じみた光景は一度もなかった。群衆は英国人操縦士のちぎれた腕を高く掲げた。群衆が摑んでいたのは、捕えがたきもの、悪の化身、何日も我々を無慈悲に襲撃する悲惨な運命の腕そのものであった。詳細なルポは次号。言語学コラム。言語破壊屋諸氏の増長も度を超えつつある!美しきアルバニア語「潜航艇」を恥知らずにも「潜水艦」と置き換えておいて、今度は美しきアルバニア語「航空機」の代わりに「飛行機」なる外国語を使っている。恥ずかしい。最近の空襲による死者一覧:L・タシ、L・カダレヤ、M・ヂク、K・ヅラミ、E・
[訳註;「潜航艇」の原語kredharakは和名カンムリカイツブリ(学名Podiceps cristatus)を指し、かつては潜水艦を指す語でもあった。また「潜水艦」の原語nëndetëseは「海の下(nën det)」からの造語。「航空機」の原語ajrorは「空、空気(ajër)」からの派生語であり、「飛行機」の原語avionはフランス語からの借用語]





第8章

 空襲警報は鳴らなかった。砲台はいつものように鳴り響かず、旧式の対空砲も続くことはなかった。それでも空にはエンジン音が、[訳註;空が]崩れ落ちんばかりに鳴り渡っていた。人々は急いで避難場所へと駆け込み、これから起こる事を待ち構えた。飛行機どもの音が、だんだん大きく聞こえてきた。
「どうなってるんだこれは?」
「どうして爆撃してこないんだ?」
 そんな不安がどれほど続いたろうか、そのうち階段の上の方から声が、それも半ば嬉しそうな声が聞こえてきた。
「出ておいで、見に出ておいで!」
 私たちは外に出た。外で起こっていたことは、驚くべきものだった。空が一面、飛行機に覆われていたのだ。それは町の上空をまるでコウノトリのように飛び回り、そして一機また一機とそこから離れて、新しい空港平野[訳註;この言葉は第6章で用いられている]へと降りていった。
 私はもっとよく見ようと、慌てて三階へ駆け上がった。眼鏡のレンズを片目にあて、窓際に腰掛けた。奇跡のような光景だった。空港平野が飛行機で埋め尽くされていた。その白く輝く翼は、一機また一機と着陸のためにゆっくり動くたび、きらきらと光を放っていた。こんな心奪われる光景は、今まで生きてきて見たことがなかった。夢よりも美しい光景だった。
 その日、空港平野で起こったこと全てを、午前中ずっと私は注意深く追い続けた:飛行機の降下を、それらが並ぶ様を、そして滑走路へと移動する様を。
 午後、イリルがやって来た。
「いやあすごいな」彼は言った。「俺たちの町は飛行機だらけだ」
「本当にすごいよ」私も言った。
「これからは俺たちがとんでもないことになるんだ。これからは俺たちがよその町を爆撃してやるんだ、今まであいつらが俺たちを爆撃してたようにな」
「ああ、すごいな!」
「本当にとんでもないぜ、俺たちはさ」イリルが言った。二日前、彼は初めてこの言葉[訳註;ここで「とんでもない」と訳した形容詞i tmerrshëm(恐るべき)を指す]を憶えて、またそれがひどく気に入っていた。
尋常でなく とんでもないな」[訳註;前にスザナが好んで口にしていたjashtëzakonisht(尋常でなく)を主人公自身が使っている]
「でもお前言ってたじゃん、こんな空なんかない方がいいって」イリルが言った。「でももうわかっただろ、そんなことないって?」
「わかってるよ」
[訳註;第7章に主人公のそういう独白がある]
 私たちはしばらくの間、空港と飛行機について話し込んだ。私たちのはしゃぎっぷりは、世間一般の無関心のせいで少しばかり水を差された。不思議なことだが、人々は混雑する空港に歓喜しないばかりか、絶望しているようにすら見えた。それでも、今となっては以前よりイタリアやイタリア人のことを悪しざまに罵る人々もいた。
 夜はいつも真っ暗闇だった。夕食後に私たちは皆、大広間の窓際に座り、暗闇に目を凝らしていた。ザリの丘の方から、サーチライトの光がカタツムリのように伸び、暗闇の中で町を探し求めていた。私たちは頭を落とし、沈黙の中で、その光が我が家の正面を捉えるのを待ち構えた。だが夜の大部分は完全な暗闇で、私たちには何一つ、それどころか自分たち自身さえも見えなかった。
 別の或る晩、自動車道を軍用トラックが北から南へと通過したことがある、たぶん戦闘の前線へだろう。父がトラックのライトの数を数え、私はと言えばその単調な数字の中で眠りにつくのだった、百二十二、百二十三、四百と四・・・
[訳註;原文では最後の数字がkatërqind e katër(404)だが、各言語訳では「124」と訳されている]
 ここまでの数日間、私はひどく退屈していた、それというのも空襲のせいで、路上で遊ぶのを許してもらえなかったからだ。毎朝のように私は大窓の傍に座り、家々の屋根の上の出来事全てに、細かく注意を払っていた。しかし屋根の上で何か起こるなど稀だということはわかっていた。飛び回るカラスたちが、景色の退屈さを更に増していた。何かしら面白みを人に与えるものがあったとすれば、煙突から流れ出る煙の色合いだったろう、風のある日は特にそうだった。何処かの煙突が火を吹くとなると夢も同然だったし、気温が下がるこの時期は尚更で、火がつくに充分なほどの煤を溜め込んでいる煙突など一本もなかった。
 川沿いを走る道は、日中殆ど往来がなかった。それでもそこは私の気を引くものだった。そこに足りない往来は私自身が[訳註;頭の中で]生み出すのだった、そして道というものは往来さえあれば、それこそが道にとっての全てなのだということもわかっていた。
 千年前、この道を「第一次十字軍」が通ったのだと聞いたことがある。老ヂヴォ・ガヴォがそのことを年代史に書いているそうだ。十字軍は、果てしなく続く隊列で行進し、武器と十字架を振り回し、「キリストの墓は何処にある」と訊ね続けていた。墓を探して彼らは南へと向かい、我が町に戻ることはなかった。彼らが向かったその方向に、今は軍用トラックが移動していた。
 それからずっと後になって、この道を旅人が一人通りかかった。それはあの操縦士、一週間前にその片腕を町の博物館に収められたあの操縦士と同じ、英国人だった。この人物は詩を作りつつ、足を引きずり歩いていた。彼は自分の国を捨て、ずっと歩き続けていた。足を引きずり、黒い外套を着込んで、道行く道へと噛り付いていた[訳註;逐語訳は「道々を呑み込む」]。彼もまた振り返り、町の方を見たが、立ち止まることはなかった。彼は、十字軍が向かった方へと歩き去った。彼が探していたのはキリストの墓でなく、彼自身の墓なのだと言う人もいた。 [訳註;この「旅人」の素性は明示されていないが、詩人ジョージ・バイロンと思われる。『高地アルバニア』のイーディス・ダーラムと並んでアルバニアと縁の深い英国人の一人]
 十字軍、そして足を引きずる男のおかげで私は幾つもの出来事や活動を生み出せた。十字軍を引き返させ、剣と十字架を入り乱れさせ、キリストの墓を見つけたと称する者をおもむろに送り込むと、彼らは慌てて駆け寄り、墓を開こうとする。そして、十字軍が立ち去った後の路上には、たった一人の姿が残されていた。彼は行く、行く、行く。足を引きずりながら。休みなく。
 自動車道と、十字軍と、足を引きずる英国人とを責め苛んで、私は何時間も過ごした。
 だが今となってはそれも全ておしまいだ。今の私には空港がある。空港は生き生きとして、躍動し、飛翔し、死をもたらす。私は最初からそれに惚れこんでしまい、牛たちがいなくなり残念がっていた時のことを恥ずかしいと思ったほどだ。
 夜が明けた。空港はそこにあり、この世の何物よりも光り輝いていた。まるで幾千人ものカコ・ピノが化粧直しをしてくれたかのようだった。空港は、何百頭もの獅子たちのように深々と息をつく、そしてしばしばその息遣いは天空にまで届くのだった。ひとかけらの靄がその上に、ぴたりと張り付いたようになっていた。
「イタリアが爪を伸ばしてる」と年下の方の叔母が父に言っていた。叔母は平野の方を見ていたが、その美しい瞳は物憂げに曇っていた。
 どうして人々はこの空港のような、これほど美しいものが気に入らないのやら、私にはさっぱり理解できなかった。だが近頃になって私は、人々は要するにうんざりしているのだと結論づけるようになっていた。彼らが好きなのは、一日中経済の緊縮や債務の返済や物価やその他の厄介事を巡って会話することだったが、その一方で面白おかしい事々が話題に上るや、ふっと押し黙ってしまうのだった。
 私は空港に対する呪詛の言葉をこれ以上聞かないよう、その場を離れた。ここ数日というもの、私は空港に魅了され切っていた。既に私は、何かがあそこで起こっているとわかっていた。重爆撃機と軽爆撃機、軽爆撃機と戦闘機の区別はついた。毎朝飛行機を数え、それらが飛び上がり、降りてくる様を目で追っていた。爆撃機が決して単独では飛ばず、いつも戦闘機たちを引き連れているのだと理解するのは難しくなかった。特に他より抜きん出ている幾つかの飛行機に、私は頭の中で名前を付けた。それらの中には、特に気に入っているものもあれば、大してそうでないものもあった。と或る爆撃機が飛び上がり、戦闘機たちを引き連れて南の方角に、戦闘が行われている渓谷の方に消えていくと、私はその爆撃機の名を思い浮かべ、いつ戻ってくるかと待ち続けた。自分が好きな飛行機の時は、遅くなればひどく不安にかられ、谷間の上空に帰還する音が聞こえてくれば大いに喜んだ。爆撃機たちの何機かが、二度と戻ってこなかったこともある。私はしばらくふさぎ込むが、やがて忘れてしまうのだった。
 こうして日々は過ぎていった。空港に心奪われて、それ以外のことはすっかり忘れていた。
 或る朝、広間の窓際に行った私の目の前にいきなり、真新しい光景が飛び込んできた。よく見知った飛行機たちの中に、新顔が訪れていたのだ。そんな爆撃機は今まで全然見たことがなかった。明灰色の翼を広げた巨大なそれは、恐らく夜の間に着いたのであろう、他の輸送機たちの間に留まっていた。それに私は釘付けになった。他の飛行機たちのことは忘れてしまった、その前ではちっぽけで平凡に見えたからだ。そして私は歓迎の言葉を送っていた。天と地から私へと送られたものの中で、この巨大な飛行機よりも美しいものなど、あり得なかった。それは我が大いなる同志であった。それは我が飛翔であり、我が爆音であり、我が指令によってもたらされる死であった。
 私はしょっちゅう新しい爆撃機のことを考えていた。それが、その機体にしか出せないであろう轟音を響かせて飛び上がり、南の方角へ、戦争が行われていると言われる方へゆっくりと向かう時、私は誇らしさを感じた。他の飛行機の戻るのが遅くなっても、私はこの巨大機に対して抱くほどの不安を感じはしなかった。いつも私は、その南の方では帰りがひどく遅れているような気がした。そんな時は深く、深く息をつき、そして疲れを、ひどい疲れを覚えた。そんな時私は、戦争が行われている南へなど行かなければいいのに、空港に留まっていればいいのに、と思うのだった。他の、もっと小さい飛行機たちに行かせればいいじゃないか。あれだって少しは骨休めするべきだと。
 だが大型機には骨休めなど無縁だった。これほどの重厚かつ巨大さで、殆ど毎日のように戦争へと飛び立っていた。それで私には、自分たちが南にいないことが申し訳なく思われた。だからそんな大きな翼で私たちの頭上を飛んでいくしかないのだと。 「忌々しいのが上ってくよ」と或る日、窓越しに三機の飛行機が離陸するのを眺めて祖母が言った。その中にはあの大型機もいた。
「何で飛行機のことを悪く言うの?」私は訊ねた。
「そりゃ言うさ、だってあれのせいで焼かれて殺されるんだから」祖母が言った。
「でもあれって、僕らの町の上じゃ空襲ちっともしないよ」私は言った。
「空襲するのは他の町さ。同じことさ」
「どの町を」私は訊ねた。「何処を?」
「ずっとあっちだよ、雲の向こうのね」祖母が言った。
 私は祖母が指さす方に目をやったが、もう何も言わなかった。ずっとあっち、雲の向こうに、戦争をしているよその町がある、私はそう思った。それってどんな町だろう?そこでは戦争ってどんなものなんだろう?
 北風が吹いていた。大きな窓ガラスががたがた震えた。空は曇っていた。空港から単調な、這うような音が聞こえてきた。ズズズ。渓谷はその音に包まれた。波だ、波打つように、終わりなく。ズズズ。シュシュシュ。どんどん広がっていた。スザナ!スザナのささやかな秘密[訳註;第4章参照]って一体何だったんだ?コウノトリで蝶で[訳註;原語はlejleko-flutur 第4章で主人公がスザナをそう形容している]。君は空港のことなんか何も知らない。君たちがいるあの場所も、今頃は荒地だ。風が吹いている。風が。風が。空飛ぶコウノトリで蝶だ[訳註;原語はavio-lejlekoflutur]。そこから何処へ飛んでいくんだスザナ?空には飛行機が。
 祖母の手が肩に置かれて、我に返った。
「風邪ひくよ」祖母が言った。
 私は窓際に頭をもたせかけ、眠っていたのだ。
「飛行機に夢中なんだね」祖母が言った。
 確かに夢中だった。身体も冷えていた。
「忌々しいのが上ってくよ」  祖母にはそれ以上何も言わなかった。飛行機の悪口を言うであろうことは前からわかっていたし、私には、他はともかくあの大型機のことだけは、言われて良い気がしなかった。たぶん他のことでは祖母の言う通りなのだろう。ずっと向こう、あの雲の向こうで飛行機たちが何をしていようが知りようもない、それを見た者は誰もいないのだから。それに私たちだって、町の外の畑に行けば、トウモロコシを盗み、町の中では決してしようと思わないような愚行に走るのだから。
 説明のつかないことが一つあった。空港の開設が空襲の妨げにならなかったことだ。むしろ逆に空襲の度は増した。英軍機が空襲にやってくると、小型戦闘機はすぐさま飛び立つが、大型機は静かに、平野の中に留まっていた。私は大型機が飛ばないことを正当化する理由をあれこれと考え、大型機が怖がっているという考えを追いやった。怖いなんて、あの飛行機がそんなこと思うわけがない。私たちが空襲の間じゅうずっと地下室にいた時も、あの大型機は外の、開かれた平野の中に留まっていて、私はそれがいつか、せめて一度だけでも飛び上がる様を夢見た。そうなったら英国の爆撃機どもは泡を食って逃げ出すだろう。
[訳註;原文ia mbathの動詞mbathは「(靴などを)履く」だが、ここでは与格の代名詞を伴って「逃げ出す」の意味]
 だが大型機は英軍機が来ても一向に飛び立たなかった。どうやら、この町の上を飛びたいとはこれっぽっちも思っていないらしい。それが目指すのはただ一方向、戦争が行われていると噂の、あの南の方だけだった。
 或る日、私はイリルのところにいた。地球儀で遊んでいて、指で押してあちらへ、またこちらへとやっているところに、ヤヴェルとイサがやって来た。二人は憤懣やる方ない風で、手当たり次第悪態をついていた:イタリア人に、空港に、近くこの町に来ると噂のムッソリーニに。それはよくあることだった。イタリア人のことは誰もが悪く言っていた。私たちが前から知っていることだった、イタリア人は悪い奴らだ、どんなに着ている服が上等で、羽飾りやボタンが光り輝いていてもだ。だがよくわからなかったのは、彼らの空港に関する件はどんなものかということだった。
「なら飛行機はどう?」と私は訊ねた。
「最低さ、奴ら自身と同じぐらいにな」ヤヴェルが言った。
「なら英国の空港は?」
「お前たちにこういうことはよくわからないんだな、まだ小さいから」イサが言った。
「訊かない方がいい」
 二人は互いに何か異国の言葉で話しているようだった。ずっとそうだったから、私たちには彼らの言っていることがさっぱりわからなかった。
 ヤヴェルは私の方をちらりと見たが、今にもくすくす笑い出しそうになっていた。
「お前んちの祖母ちゃんが言ってたけど、えらく空港がお気に入りらしいね」彼は言った。
 私は赤面した。
「お前、飛行機好きなのかい?」少しして彼はそう訊いてきた。
「好きさ」それがどうしたという顔[訳註;原語kryeneçësiは「頑固」「傲岸」「不遜」といった意味]で私は言った。 「俺も好きさ」イリルが言った。
 二人は再び異国の言葉で何か話し出した。今度はさっきほど不機嫌そうではなかった。ヤヴェルが深く息をついた。
「哀れなもんだ、子供たちは」彼は歯噛みして言った。「恋に落ちる相手が戦争とは。恐ろしいものだな」
「時代だな」イサが言った。「飛行機の季節ということだな」
 二人は何かを手に出ていった。
「聞いたか?」イリルが言った。「俺たちは恐ろしいんだとさ」
「尋常でなく恐ろしいのさ」そう言って私は光学レンズを取り出し、片目に当てた。
「俺にもそういうガラス見つけてきてくれよ」とイリルが言った。
 午後ずっと、私はヤヴェルの言葉が頭に残っていた。私もイリルも、二人だけになった時は、彼らが空港について言ったその言葉を「尋常でなく恐るべき中傷」だと呼びはしたものの、疑いの影は再び飛行機へと落ちてきた。だが大きな空港にだけは、そんな影は落ちてこなかった。他の飛行機が悪くても、私の飛行機にはそんなことはない。私はこれまでと同じように好きだった。そう確かに、殆どこれまでと同じように好きであり続けた。それが重々しく飛び上がり、その巨大な轟音で谷間を埋め尽くす時、私の心は誇らしさで満ち溢れた。それが疲れてへとへとになって、あの南の方から、戦争が行われていると言われる方から戻ってきた時は特に愛おしいと思ったものだ。
 夜はまたも恐ろしい暗闇に包まれていた。私たちは三階の広間に戻っていて、父は単調な声で、今度は南から北へ逆方向に移動する軍用車の照明灯を数えていた。私はこれまでと同じように、遠く虚空を見つめていたが、夜に覆われたあの平野の何処かに、雨の中、羽を伸ばして大きな飛行機が眠っているのだということは、既にわかっていた。何とか空港のある方を見つけ出そうと苦心したが、闇は余りにも大きく、余りにも深く、何一つ、自分自身さえも見えないほどだった。
 軍用トラックはいつも北へ向かっていた。砲撃の音が毎晩、ごく近くで聞こえるようになっていた。通りや家々の窓は噂でもちきりだった。
 或る朝、私たちが目にしたのはイタリア兵の長く伸びた隊列だった。イタリア兵たちはゆっくりと北へ、十字軍も、足を引きずる男も決して向かったことがない方向へ進んでいた。彼らは銃と首輪状に丸めた毛布[訳註;各言語版では単に「荷物」]を背負っていた。時折その兵士たちの中に、装備品を積んだ騾馬の長い列が見えた。
 北に向かって。全てが北に向かって動いていた。まるで世界がその向きを変えてしまったように思われた(私がイサの地球儀を指先で押した時、イリルが邪魔をして反対向きに押した)。多かれ少なかれそんなようなことが起こったのだ。イタリア兵たちは敗走し、撤退しようとしていた。ギリシア軍の到着が近付いていた。
 窓ガラスに鼻を押し付けたまま、私は自動車道で起こっていることに一心不乱に見入っていた。細かな雨粒、時折窓に当たる風が、その光景を更に悲壮なものにしていた。それは午前中ずっと続いた。昼になっても軍の移動はなお続いた。午後になり、最後の隊列がザリの丘の向こうに姿を消すと、路上は捨て置かれ(それと同時に足を引きずる男が姿を現しそうだったが)、辺り一帯が突如耳をつんざくようなエンジン音に包まれた。私は夢から覚めたように身を震わせた。これは一体何だ?何故だ?まどろみは、たちまちかき消えた。何かしら耐え難いことが起こっている:あれが飛び上がろうとしている。二機ずつ、三機ずつ、戦闘機を伴って、飛行機たちが空港を後にして、忌まわしの方角、北へと発っている。三機一組で飛び立つと、また同じように一組ずつ、順々に、順々に。雲がそれらを、一機、また一機と呑み込んでいく。空港は空っぽになりつつあった。そのうち大型機の力強い轟音が聞こえて、私の胸はゆっくりと高鳴った。もう遅い。何もかも取り返しがつかない。それは重々しく飛び上がり、その翼を北へ向け、去っていった。永遠に去ってしまった。重苦しい霧に包まれた地平線の彼方、そこに呑み込まれると、あのよく知っていた轟音も、もはや遠く、馴染みのないものになり、そして何もかもが終わった。世界は不意に音を失った。
 私が再び川の方に目をやると、そこにはもう何一つ残っていなかった。秋の雨の中、ありふれた平野があった。空港はもうない。夢は終わってしまった。
「何か苦しいの、あんた」マットレスに突っ伏している私を見て祖母が言った。私は何も言わなかった。
 父と母が隣の部屋から不安げにやって来て、私に同じ質問をした。私は何か言いたかったが、口も唇も喉も自分の言うことを聞かず、話す代わりに、そこから人のものとは思えない、かすれた叫び声が出た。親たちは恐怖に近い感情で顔をこわばらせた。
「あの、くうこ・・・ああ忌々しい、あれの名前なんか言いたくはないけどね」そう言って祖母は平野の方を、今は傷口のような水たまりだらけになっているに違いない、その平野の方を指差した。
「空港のことで泣いてるのか?」父が強い口調で言った。
 私は『うん』という風にうなづいた。父は顔をしかめた。
「やれやれ」母が言った。「てっきり具合でも悪いのかと」
 両親たちはしばらく広間にいたが、その沈黙は私を苦しめた。私はどうにか咽ぶ声を抑えようとしたが無駄な努力だった。父は不機嫌に立ったままで、母はすっかり呆れ返っていた。祖母だけが私の背後の辺りに来て、ずっと呟いていた:
「ああ神様、何て酷い時代になったのやら!子供が飛行機のことで泣くなんて!ああ神様、何と縁でもない!」





 雨に包まれた空間の向こうに散在する、これは一体何だろう?荒涼とした平野はそこかしこ水溜まりだらけだ。私には時折、そこからの音が聞こえてくるような気がした。私は窓に駆け寄るが、地平線上には不必要な雲の他に何も無かった。
 それ
[訳註;飛行機]は打ち倒されて、今では何処か小高い丘に、両翼の骨を自身の下にかき集めたまま、横たわっているのだろうか?私には一時だけ、平野に息絶えた一羽の鳥の、長く伸びた肢が見えた。その骨は細く、雨に濡れていた。一部は土に埋もれていた。
 何処なんだ、一体?
 かつて空と繋がるかに思われた平野には、今徐々に霧の欠片が立ち上っていた。
 或る日、そこに再び牡牛が姿を現わした。牡牛たちはゆっくりと動いて、落ち着いた茶色の斑模様で、コンクリートの滑走路の傍らに残った草の葉を探し求めていた。初めて私は牡牛たちに憎しみを覚えた。
 暗く疲れ果てた町は、イタリア軍からギリシア軍の手に渡り、そしてその逆も幾度か経験した。全般的な無関心の中で、旗と通貨が変更されていった。それ以外、何もなかった。






記録断片
通貨変更。アルバニアのレクとイタリアの通貨リラは無効となる。法定通貨は、今より当地ではギリシアのドラクマとなる。交換期限は一週間のみ。昨日、監獄開放。囚人はギリシア当局に感謝し、各々の職場に分散。本日より灯火管制の解除を命じる。午後六時より午前六時までの外出禁止[訳註;原語shtetrrethimは直訳すると「都市包囲」]を命じる。市司令官:カタンヅァキス[訳註;この名は明らかにギリシア人である]。出生。婚姻。死亡。D・カソルホ、I・グラプシに男の子が生まれる。Th・





記録断片
じる[訳註;原語では冒頭が途切れて“roj”で始まっているが、恐らくurdhëroj(命じる)]:市全体の灯火管制再開。外出禁止措置の解除を命じる。監獄再開と囚人の再収用と服役継続を命じる。市司令官ブルーノ・アルヂヴォカーレ。早急に通貨交換を行うこと。ギリシア通貨ドラクマは無効となる。法定通貨はアルバニア・レクとイタリア・リラのみである。空襲による死者一覧:B・ドビ、L・マクスティ、S・カリヴォプリ、E・フィツォ、Z・ザザニ、L・





第9章

 空港が放棄されてから4日経った11月の第1週に、最後のイタリア軍が撤収した。町は権力のない状態に置かれた。それが40時間続いた。深夜2時にギリシア軍が入ってきた。彼らは70時間余り留まったが、それを目にした者はほぼ皆無だった。全ての窓扉は閉ざされていた。誰も通りに出てこなかった。ギリシア軍だけが移動しているらしかった、それも夜中に。木曜日の午前10時、冷たい雨の中、町に再びイタリア軍が入ってきた。彼らが留まっていたのは僅か31時間だった。イタリア軍の撤退から8時間後、再びギリシア軍が入ってきた。11月の2週目に、殆ど同じことが繰り返された。イタリア軍がまた入ってきた。今度は60時間余り留まった。ギリシア軍がイタリア軍の撤収後、直ちに入ってきた。金曜日彼らは昼も夜も町にいたが、土曜日の朝、町は完全に放棄されて夜明けを迎えた。ギリシア軍は去ってしまったのだ。イタリア軍はどういうわけなのか、二度と入ってこなかった。ギリシア軍も同様に戻ってこなかった。こうして土曜日と日曜日が過ぎた。日曜日の朝、数日前から誰も足を踏み入れなかった通りに、誰かの足音が聞こえた。両側の窓を、女たちが用心深く開いた。路上を歩いていたのは前科持ちのルカンだった。右肩には古びた茶色い毛布、手には布巾に包んだパンとチーズがあった。見たところ家に戻るところらしい。
「あら、ルカン?」窓からビド・シェリフィの妻が訊ねた。
「あっちにいたんだ」そう言ってルカンは城の方を指差した。「ちょっくら出頭しようかと行ってみたんだが、あにはからんや[訳註;逐語訳「何を欲する?」]。牢屋はやってなかった」
 彼の声は半ば悲しげだった。頻繁な権力の交代が、ルカンから最後の入獄を奪ってしまい、そのことが彼を苛立たせているらしかった。
「それってつまり、ギリシア人もイタリア人もいないってこと?」
「イタリア人とかギリシア人とか、俺の知ったことか」ルカンの声には怒りがこもっていた。
「俺にわかるのは、牢屋がやってないってことさ。人っ子ひとりいやしない。扉は開かれたまま。泣けてくるよ」
 誰かに別のことを訊かれたが、ルカンは返事をしなかった。彼は罵り続けていた。
「ひどい時代だ、ひどい国だ。牢屋を回す人間さえいやしない。暇さえありゃあ俺があてどもなく毎日毎日、城のてっぺんまで行って、また手ぶらで戻ってくるんだぞ?日が過ぎていくのに、刑期も終わりゃしない。計画が何もかも台無しだ。大したもんだよ、薄汚い、物知らずのイタリア人どもめ。嗚呼、仲間の一人がスカンディナヴィアの牢屋の話をしてくれたっけなあ!あれこそ俺に言わせりゃ牢屋だよ。人が規則通りに入って、規則通りに出る。刑期通り、予定通り。時間にならなきゃ扉は開かない、売春宿と同じさ」
 女たちは次々と窓を閉めていった、前科持ちのルカンの話が長くなり始めたためだ。ただ、アチフ・カシャフの母親だけは耳が聞こえなかったので、その場に留まりルカンに返事をしていた。
「おやまあそうかい、そうかい。そりゃ苛々するのももっともだねえ、お若いの。可哀相に、幸運な日[訳註;逐語訳「白い日」]も見られずに。ひねもす牢屋で腐ってくんだねえ。政府が変わっても、あんたはずっと牢の中だ」
 前科持ちのルカンの足音が遠ざかり、通りからは再び人けが途絶えた。ナゾの猫が勢いよく十字路を駆け抜けた。カコ・ピノの新しい猫が屋根の上に出てきて、それを眺めていた。昼頃にはそこを見慣れない犬が通り過ぎた。午後は、物乞い一人を除いて全く何の動きもなかった。
 翌朝、前科持ちのルカンがまたも罵声混じりで、毛布を肩に、パンを手に牢屋から戻ってきた時、誰もが権力なき日々の始まったことを理解した。
 まず門が次々開かれていった。通りは徐々に活気を取り戻し始めた。町の中心部へ向かう人々の姿が見えた。そこでは居酒屋「アディスアベバ」が開いていた。町の広場のあちこちで、ちぎれた新聞紙が風に舞っていた。そこかしこに空き缶が転がっていた。市庁舎の建物は扉も窓も閉ざされて薄暗く見えた。幾人かが、その脇に放置された箱を眺めていたが、その板面には黒字でラテン文字やギリシア文字が書かれていた。町で唯一の銅像[訳註;1934年に設置された英雄チェルチズ・トプリ(Çerçiz Topulli)の像を指していると思われる。この銅像は現存しており、その場所は「チェルチズ・トプリ広場」となっている]の足下には、イタリア軍司令官とギリシア軍司令官から町への命令が書かれたポスターが、何枚も重ねて貼られていた。ポスターは破れかかっていた。誰かがその切れ端を注意深く寄せ集めていて:「XAQIS」、「KAT」、「Q」、「NX」とあり、その人物は襟元がめくれ上がったまま、絶えず首を振っている、どうやら完全に言葉を揃えきれないらしい。冷たい風が、その手元からポスターの切れ端を奪い去った。
 雨風に敗れたこれらのポスターは、ここ数日の騒乱によって残された唯一のものだった。町は主なきままに残されていた。ここはごく短い間だけ、空港も、対空砲も、警報も、娼館も、サーチライト、修道女たちも不在だった。
 冒険にしばし魅了され、空と国際的危機の味わいを知り尽くしていたこの町は、それら全てに翻弄された揚げ句、今は再び古からの石たちに引き戻されていた。空との繋がりは遂に断ち切られてしまった。雨と風とが、町のひりついた神経を眠りにつかせようとしていた。町は茫然自失の如き体であった。町の上空を通過する見知らぬ飛行機たちは、もはや町のことなどあずかり知らず、或いはあずかり知らぬかのように振る舞っていた。飛行機たちは遥か高空を飛び、その後に軽蔑じみた轟音を残して去った。
 そんな朝が続いた或る日、カコ・ピノが用心深く門を閉め、通りへと出てきた。
「あらカコ・ピノ、どちらへ?」窓からビド・シェリフィの妻が問いかけた。
「婚礼だよ」
「婚礼?誰が結婚するのよ、こんな時期に?」
「結婚するさ」カコ・ピノは答えた。「どんな時だって結婚する人たちはいるさ」
 カコ・ピノが婚礼へと向かう、ということはつまり、町が権力なきままでも生きていけるということだった。とは言え、あらゆる過渡期と同様、それは不安定な時期であった。生活秩序は崩壊していた。裁判所は機能していなかった。新聞も出なかった。当局からの告知も、ポスターも、指示命令も、もはや無かった。内外の様々な情報は、口から口へと伝えられた。主たる情報源は、今の今まで誰も知らなかった一人の老婆で、その名は突如として、顔を持たぬこの日々の中に広まっていった。彼女はソセという名だったが、多くの人はニュース婆さん[訳註;「ニュース」の原語habereはhaberの複数形で、これはトルコ語haberからの借用語]と呼んでいた。
 町の中を、監獄から出てきた連中、胡散臭いラベリア人たち[訳註;原語lebërはlab(ラベリア人)の複数形。ラベリア(Labëri)はアルバニア南西部の地理的名称で、ジロカスタルも含まれる。中国語訳では“可疑的山民”]、これまで見たこともない顔の連中がうろついていた。全てが様変わりして、不確実なままだった。広場も、路地も、電柱も、そこには謎が秘められていた。家々の門は猜疑心を隠していなかった[訳註;逐語訳は「門の不信は開かれているように見えた」]。空襲時から毛布で覆われていた窓からは生気が取り除けられていた。日々は顔を持たず、寒々としていた。活き活きしているのは煙突ばかりだった。
 そんな中、ヂェヂョが再び姿を現わした。門を叩く音が私には、金槌で頭を叩くように響いた。私は身を隠し、姿を消したいと思ったが、それは無理なことだった。ヂェヂョはぜえぜえ息を吐きながら階段を上ってきた。不安や、ニュースや、事件が、彼女の前を小さな黒い猫のように駆けていた。本当に無理なことだった。
「おや、ヂェヂョかい」祖母が言った。
「あら、ヂェヂョよ」母が言った。
「やあ、元気だったかいヂェヂョ」父が言った。「ここんところ何処にいたんだい?」
 ヂェヂョはさっぱり返事をしなかった。いつもの如く、彼女は真っ先に祖母のいる方へと向かった。
「まあどうだろうこれは、ねえセルフィヂェや、さだめしこれも、神のお導きってことかしらねえ[訳註;ちなみにこのヂェヂョの発話を逐語訳すると「見よ、おおセルフィヂェ、我が言葉が現れるのを。見よ、主が我らを遣わした、さもなくば見まい」と甚だ「預言」じみたものになるが幾ら何でもそれはおかしいので大幅に意訳しています]。あのねえセルフィヂェ、黒い水が地面から出てくるのよ。そうよ、黒い水が出たのよ。ハズムラトの爆弾でできた穴を見た?じゃメチテのは?だったら高地パロルトのは?何処もかしこも黒い水なのよ」
「黒い水って何?」私は小声で母に訊ねた。
「黒い水はね、爆弾が落ちた地面から出てくるのよ」母が言った。
「だがここの連中ときたら、てんでわかっちゃあいない[訳註;逐語訳は「諦めないことは諦めない」]」とヂェヂョはしわがれた、脅しめいた声を上げた。「あんたたち知ってるかい?盗まれたんだよ英国人の腕が、あの、あれよ・・・はく・・・はく・・・何と言ったかねえ・・・」
「博物館」父が言った。
「それが盗まれたんだよ、セルフィヂェや。盗まれたのさ」
「誰に?何で?」母が訊ねた。
「何でかって言うのかい、そりゃ」ヂェヂョは呻いた。「そうしろって悪魔に言われたからだよ、奥さん。それこそ悪魔の時代だからね。何もかもこんな時代には道ならぬ方へ行くもんだよ。神は私たちに、英国人の腕を放って寄こしなされた、まあ見てな、今度はドイツ人の髭に、ユダヤ人の爪に、黒んぼの鼻が降ってくるよ」
[訳註;英語版では「ドイツ人の髭」の後に「中国人の髪」もあり、最後に挙げられているhundë arapëshを「アラブ人の鼻」と訳しているが、arapは肌の黒い人間や動物を指す。ちなみにこれも「アラブ人」を指すトルコ語からの借用語]
 ヂェヂョは長いこと喋りに喋った。喋っている間、私は、爪や髪や髭や鼻が雪のように降ってくる様をどうにか思い浮かべようとしていた。また「悪魔」についても考えていた。ヂェヂョが立ち去ったら、祖母にそのことを訊いてみたかった。[訳註;このくだりでは「悪魔」を指す語として一般的な名詞djallでなく、「道なき者」を原義とするi paudhiが用いられている。そのせいか、語源に絡む次の主人公の独言は英訳では省略されており、他の言語版でもかなり意訳されている]どうしてそいつには道がないの?そいつは何処を歩いていて、誰が道を歩くのを邪魔してるの?ひょっとして、そいつがそんな悪い奴になったのって、通りを歩かせてもらえなかったからじゃないの?誰だって、通りを歩くのを邪魔されたら機嫌だって悪くもなる。私は「悪魔」が気の毒になってきた。
 道を歩いているのはマクストだ。脇に抱えているのは、見憶えのあるような頭部だった。マクストの美人の妻を長いこと見ていなかった。春が来て、彼女が門のところに姿を現わすまでにはずっと時間がかかるだろう。今頃、家の中には切り落とした首がピラミッドのように積み上げられているに違いない、それこそチンギス・ハンがしたように。今頃は何をしているのだろう・・・ルガリタは?(彼女の姿、顔、名前が、眠りに落ちかけた私の頭の中に浮かんだが、それは鼠に齧られたパンのようになっていた)
 ヂェヂョが帰っていった。英国人の腕を盗んだ疑いは、初めチャニ・ケケズィに、後に年代史家のヂヴォ・ガヴォにかけられた。他には、ヴァロシから酢を売りにきた商人に疑いの目を向ける人々もいた。その商人はその腕を、山向こうのと或る修道院に売りつけたかも知れないという話だった。
 町は些細な、さして重要でない出来事に取り組んでいた。女たらしのラメ・カレツォ・スピリが酔っ払って通りをうろつき、娼館のことを嘆息していたのだ。
「閉まっちまった、閉まっちまったよ」そう言って泣き出さんばかりだった。「我がぬくもりの巣よ、我が憩いの間よ。ささやかなる我が羽毛の小屋よ。俺を締め出しやがった、連中め、俺を締め出しやがった。これからどうすればいいんだ可哀相な俺は!この冬の夜に、何処に顔をうずめればいいんだ」
 そんな彼に度々付き合っているのが前科持ちのルカンだった。
「我がぬくもりの巣よ、我が羽毛の間よ」と鸚鵡のようにルカンは繰り返すのだった。
「おやめ、馬鹿、恥ってものがないのかい!」老女たちが声を上げた。「あっちに失せな!」
「おお、我が巣は我が元を去ってしまった、オ・ソーレ・ミオ[訳註;原文もイタリア語“o sole mio”]」とうなされるように、ラメ・カレツォ・スピリは呟きながら、老女たちに投げキスを送った。
「おやめったら」
「おやめ、ろくでなし!お前なんか雷が落っこちて地面から消え失せてくれればいいのに」
「星が炎じゃないだの、太陽が燃え尽きただの」
「太陽が燃え尽きただの」ルカンが繰り返した。
「失せな二人とも、何てことを!」
 まさに引き上げ時だった。あらゆることが地を這っていた。空港平野では牡牛たちが草を食み続けていた。ディノ・チチョは探査を中断していた。空想力は地に堕ちていた。
 まさにそんなまどろみの時に、町はいま一度、広大な世界との接点を繋ぎ直そうとしていた。仲介役として見出されたのが、城にある旧式の対空砲だった。
 王制時代から西塔に置かれていたその対空砲は、町のどの端からも見えた。その長い砲身は少しだけくたびれたように、ずっと空の方を向いたまま鎮座していた。それはちょうど隣接する別の塔に据え付けられている古時計と同様、誰にとっても幾らかは馴染みであり、かつ愛されていた。年月が経つにつれ人々は、その長い砲身が、そしてその端にある持ち手や車輪[訳註;原語rrotëzには「歯車」の意もある]や鉄具が何の役に立っているのか、殆ど忘れてしまっていた。それが設置された時(老人たちはその時に当局が行った祝祭、愛国的な演説、音楽、ビール瓶、それにジプシーのラムチェが酔っ払って塔の壁から落ちて路上でバラバラになったことをよく憶えていた)から、対空砲は一度たりとも火を吹いたことがなかった。
 最初の空襲の日、人々が最初の衝撃の後、洞穴[訳註;防空壕、地下室のこと]の中にうずくまっていた時に、その意識の中で弱々しく煌めいていたのは、武器への記憶だった。人々は、あの鉄製の長い筒、あの「対空砲」という名の機械と車輪は、まさしくこういう時のために作られたのだということを思い出した。それは殆ど啓示のように鳴り響き、そして誰もが互いに問いかけ合った、若干の驚き、若干の怒りと共に。
「俺たちの対空砲はどうした?何で俺たちの対空砲は撃たなかったんだ?」
「確かにな、この町には対空砲があるんだ。どうして対空砲が出てこなかったんだ?」
 対空砲に対する初めての失望は、苦々しいものだった。人々が路上に再び出てきた時、揃って西塔の方を向くと、そこにはその長い砲身が、天空の只中に向け、くたびれ、重々しく、その輪郭を映し出し続けていた。
 恥辱!そんな言葉が最初にはっきりと出てきたのは居酒屋「アディスアベバ」で、私の記憶する限りもっぱら女たちに対して使われはしても、対空砲にはついぞ使われたことのないその言葉が、万人の口に上るようになっていた。
 あの砲そのものが役に立たなかった[訳註;逐語訳は「生きていなかった」]という恥辱。銃だとか、或いは普通の、軍隊が戦場で使うような武器だったなら、飛行機への躊躇や恐怖のせいだと弁明もできただろうが、あの、ここぞという時のために作られた背高のっぽには、許される余地などなかった。
 とりわけ人々が容赦しなかったのが長く伸びた砲身であることは、よく理解できた。祖母の双眼鏡で対空砲を眺めると、時折、その苦悩が感じられるような気がした。何かで責められた人物にはありがちな話だが:何処か隠れ場に引っ込んで、握り拳のように縮こまっている[訳註;要するに「穴があったら入りたい」]。だがあの気の毒な砲は、隠れることもなく、縮こまることすら全くなく、万人の裁定の下にあった。
 どうやら人によっては、私もそうだが、対空砲を気の毒に思い、どうにかその責を免じようとする者もいるらしかった。あれを設置した当時の市長にこそ責任があるのだ、とも言われていた。主たる装備、特に照準器は、どうやらスコピエの盛り場でマケドニアの商売女と飲んでどんちゃん騒ぎするために売ってしまったらしい、とも言われていた。照準器もなしで気の毒な砲を、不実な天空に向けたままにしておいたのだ、それは人間を眼のないまま放置しておくに等しかった。
 恥辱はこうして、ゆっくりと町に行き渡った。一方で、町の名誉が問題になった際には何であれ容赦しなかった人々(アルジル・アルジリの場合がそうだが)は落ち着きを取り戻した。砲に不具合があるのは確かだ、しかし窃盗だとかマケドニアの商売女だとかは関係ない、それはありふれた、世界のどの軍隊の武器にもあるような不具合なのだ。それに、交戦している双方の指揮官たちは旧式の対空砲を見たことがなかったのではないか、或いは対空砲の性能に不信を抱くも、殊更に酷な嘲笑が思いつかず苦笑するといったことすらできなかったのではないか?[訳註;つまり、対空砲の不備を誰かのせいにするかと思われた人々が、誰のせいでもなく軍隊や兵器にはありがちなことだと一般化することで、論争の激化を抑えにかかっているということ]
 それこそ連中の問題だ、と言い返す人々もいた。軍隊にはそういう習性がある:自分たちを称賛したくて相手の武器をこきおろす。だが軍隊には軍隊の問題があり、町には町の問題がある。連中は連中の道具で頭を喰われるがいい[訳註;互いに潰し合えばいい、といった意味]。だが町は、町にあるあの砲で、あれで撃たねばならない。たとえ槍で成し遂げるのだとしても、それが中世の槍だとしても撃ってやるのだ。結局のところそれこそが、何ものにも勝る名誉ある務めなのだから。
 こうして、波乱の一日が過ぎた後には、対空砲を修理すべきだという意見が優勢になっていた。西塔へ当局の機械工らと共に赴いたのは、町一番と評判の時計修理人が二人、年代史家ヂヴォ・ガヴォ、老砲兵アヴド・ババラモ、二週間前に資格を剝奪された司祭、これは先の戦争の時には砲兵で何とトルコ軍機を撃墜したらしい、そしてチャニ・ケケズィだったが、何でこの人がいるのかというと、かの高名なディノ・チチョが土壇場で気が変わって行かないと言い出したせいだった。
[訳註;チャニ・ケケズィは第3章以降で猫殺しの疑いをかけられている教師。ディノ・チチョは第3章で呪いのせいで計算を間違えっ放しだと噂され、第7章では飛べそうにもない自作の飛行機を披露していた発明家。]
 町じゅう、かたずを呑んで待ち構えていた。窓越しに女たちが頻繁に訊ね合っていた:
「直った?」
「まだよ」
「おやまあ」
 そんな言葉が至るところで聞こえていた。朝と言わず、昼と言わず、そして晩はなおのことだった。不具合はあり、しかも深刻なものらしい。同じ頃、最初の英軍機を撃墜することになる[訳註;新型の]対空砲台が到着した。二日後、[訳註;旧式の]対空砲が初めて火を吹いた。皆の、中でも子供たちの喜びは途方もないものだった。[訳註;新型の]砲台の砲撃音とは違って、旧式対空砲の轟音は独特で力強いものだった。そこには確かに何かしら王様めいたものがあった。
 だがそれは、その日も、他の日も、一機の飛行機も撃ち落とせなかった。地下室の底で、イリルは毎日こう言っていた:「あれはとんでもない、あれは今日こそきっと何か撃ち落としてくれる」だがそんなことは一度も起らなかった。毎日、地下室から出てくるたび、私たちは悲しみに襲われた。私たちが大人たちの傍らに寄ると、彼らが対空砲について話すのが聞こえた。聞こえてきたのはひどい話だった。彼らには信頼というものがなかった。空襲の後にはそんなことが、絶えず繰り返された。
「古過ぎて今どきの飛行機は落とせないんだ」
 町がイタリア軍の手からギリシア軍の手に渡り、そして逆戻りしたこの数週間というもの、対空砲に触れた者は一人もいなかった。町にイタリア軍がいた期間、対空砲はいつも通り英軍機を狙っていた。町にギリシア軍が入ってきた時、対空砲はイタリア軍機に対して発砲した。撤退の期間中、交戦当事者のどちらも対空砲には触らなかった。撤退は慌ただしく、混乱の中で行われた、そのためどうやら、双方にとって、重い砲を城のてっぺんから取り外すのは難しいことらしかった。恐らく結果として、極度の混乱の中ですっかり忘れてしまったか、或いは忘れたことにしてしまったのだ、それでも町を再度統治することになれば、あの老いぼれは最後に見た時と同じままでそこにあるに違いないと確信して。
 そんな統治なき日々の或る日、空に再び見慣れない飛行機が一機ぽつりと姿を現わした[訳註;逐語訳「芽を出した」]が、それがやって来たのは、今まで飛行機など全く飛んでこなかった方角からだった。どうやらあの迷子の操縦士らしい、そいつは一週間前にも町の上空からビラを撒いていったのだが、そこに書かれた内容は、ドイツ語のこんな呼びかけで始まっていた:「ハンブルクの市民諸君!」
 迷子の飛行機は、最近では町の空にありふれたものとなっていた。それらは上空を虚しく飛び回っているようにしか見えない飛行機だった。それらは何かしらの戦闘の後で道を見失ったか、或いは戦闘に向かう飛行中に迷ってしまったに違いなかった。明らかにそれらは決まった場所に行こうとしているわけではなく、つまりは折を見て、とりわけ天候の悪い時に、僚機たちから離れて、空をふらふらとあてもなく[訳註;原語vara-vingaは擬態語と思われるが、ここは仏語訳に拠る]飛び始め、そのまま作戦期間をやり過ごしているのだった。彼らがしていることは、私たちが朝学校へ行く代わりに遠く離れた野原に駆け込み、昼食時に家に帰るのと、多かれ少なかれ同じようなものだった。
 見慣れぬ飛行機はゆっくりと、くたびれて、退屈そうに飛んでいた。それは確かに何処かの戦闘にいたのだ、とはいえ飛んできた方向となるとまるではっきりしなかった。後日、元はハンブルクにビラを撒いていたらしきこの迷子の操縦士は、不意に思いもかけず町に爆弾を一つ落としてきたのだが、その理由に説明をつけようと苦心して人々が思いついたのは、飛行している間に操縦士は爆弾が一つ余っていることに気付き、そういうわけでそれを何処に落とそうか考えていたのではないか、というものだった(普通、迷い込んだ操縦士たちが爆弾を落とすのは森の奥か山の中なのだが)。その時、彼は眼下の我が町を見て、『この町に爆弾を落とすとはなあ、名も知らぬこの町に』と思ったのだ。そして爆弾を落としたのだ。
 だが今回、町は、軍隊がないとはいえ、爆弾を耐え忍ばなかった。対空砲の長い砲身は久しく、このまどろみの日々の中で空想をかきたてていた。再び空に関わることに混じり合いたい欲求は、まどろみつつも、半ば目覚めかけていた。空を撃ちたいという誘惑が、とりわけ見知らぬ飛行機どもの飛び回る中で、強まっていた。
 それは私たちが珍しく外へ遊びに出た或る日のことだった。遠出して、城のふもとまで行くと、そこには砲兵アヴド・ババラモの家がぽつんと建っていた。何度も地下室やカフェでアヴド爺さんは戦争の話を聞かせてくれたし、私たちが彼の手の上で目にするのはカボチャやキュウリばかりで、砲弾など一度も見たことがなかったが、それでも彼はみんなから尊敬を集めていた。
 エンジン音が聞こえたその時、私たちはちょうどアヴド爺さんの家の前で遊んでいた。通行人らが足を止め、光を遮るように額に手をやりながら、飛行機を目で追っていた。
「ほらあそこにいるぞ、ほら」誰かが言った。
「イタリアのらしいな」
 アヴド爺さんが老妻と一緒に、窓のところに出てきた。他の通行人らも路上で足を止め、やはり額に手をやった。
 飛行機はゆっくりと飛んでいた。その音は波打つように、重く、孤独に響いていた。集まった通行人たちを沈黙が包んだ。それから不意に、誰かがアヴド・ババラモのいる窓の方を見上げると、彼に呼びかけた:
「アヴド爺さんよ、何だってもう一回、あの上にある対空砲をぶっ放さないんだ?あのぐるぐるやってる忌々しいのを落としてくれよ」
 人々はぶつぶつ言っていた。私たち子供はというと、胸が高鳴っていた。
「落としてくれよ、アヴド爺さん」と声を上げたのが二、三人。
「何だって悪魔を焚きつけるんだ」アヴド爺さんはためらいがちに、窓越しにそう言った。「あいつのことなんか、放っておけよ」
「落としてよ、アヴド爺さん」私たちは声を合わせて言った。
「黙ってろ、餓鬼ども!」誰かが言った。「静かにしてるんだ」
「何で黙らなきゃならん?子供らの言う通りじゃないか。落としてくれよ、なあアヴド、あそこに対空砲があるじゃないか。ただ置いてあるだけのさ」
「何だって揉め事を起こしたがるんだ?」と言ったのは、集まった人々の中にいたハリラ・ルカだった[訳註;第7章に登場した、礼儀正しい小心者]。「あれの好きなようにさせておけばいいじゃないか、あれを怒らせてみろ、戻ってきて、俺たちはぼろ切れみたいにされちまうぞ」
 アヴド・ババラモの表情は始めのうち暗かったが、やがて輝き始めた。細く、青い血管が額に浮き出た。彼はタバコに火をつけた。
「落としてよ、アヴド爺さん」イリルが半ば泣きそうな声で叫んだ。
 突然、飛行機が何やら黒いものを尾翼から放ち、一瞬の後、爆弾の破裂音が聞こえた。
 すると、私たちにとって奇跡であり、不可能と思われるようなことが起こった。集まった通行人のほぼ全員が激しく叫び声を上げたのだ:
「落としてくれ、アヴド爺さん、あの犬野郎を!」
 アヴド爺さんは門の外に出てきていた。その両瞳に火花が散っていた。ずっと喉をごくりごくり鳴らしていた。妻はその背後でひたすら不安げだった。飛行機はゆっくりと町の上空を飛んでいた。いつの間にどうやったのか、アヴド爺さんは集まった人々の中にいて、そこには城門へと続く坂道が続いていた。
「落とせ、あの犬野郎を落とせ」という声があらゆる方向から聞こえていた。
 対空砲のある塔は、その道のすぐ上だった。アヴド爺さんは人々の先頭に立ち、城門へと入っていった。
「早く、アヴド爺さん。早く、行っちまう!」私たち子供が叫んだ。私たちは城の中に入ることを許されず、そのため外に残っていたが、我慢できず掌を打ち鳴らしていた、というのも飛行機が山の方へ飛び去ろうとしていたからだ。
「おい、おい、行ってしまうぞ」皆が叫び声を上げた。ところが突如、飛行機は向きを変えると再び近付いてきたのだ。まさしく、気まぐれに飛んでいる飛行機だった。
 不意に遠くの方から声が聞こえてきた。
「眼鏡だ!」
「眼鏡を早く!」
「アヴド爺さんの眼鏡を!」
 誰かが狂ったように駆け下りて、そのままの勢いでまた駆け上がってくると、その手にはアヴド爺さんの古ぼけた眼鏡が握られていた。
「今から撃つところだ」誰かが叫んだ。
「飛行機がこっちに戻ってくるぞ」
「まるで肉屋に来た山羊だ」[訳註;「飛んで火に入る夏の虫」に相当する慣用表現]
「撃て、アヴド爺さん、ぶっ放せ」
 対空砲が火を吹いた。私たちの叫びはその砲撃音にもひけをとらないほど力強かった。私たちの胸は喜びで張り裂けんばかりだった。今や全員が叫び声を上げていた:男たちも、女たちも、老婆たちも。
 対空砲が再び発砲した。私たちは飛行機が最初の砲撃で落ちてくるのを期待していたが、飛行機は落ちなかった。ゆっくりと町の上を飛んでいて、操縦士は眠ってでもいるかのようだった。まるで慌てている様子がなかった。
 対空砲が三たび発砲したのは、飛行機が町の中心部上空にいる時だったはずだ。
「今度こそ落ちるぞ」と激しい口調で叫ぶ声。「もう鼻先まで来てるぞ」
「犬野郎を落とせ」
「あの畜生[訳註;原語は「売女の息子」、というわけで英訳はそのままson of a bitch]を落とせ!」
 しかし飛行機は落ちなかった。飛行機は北の方へと遠ざかり始めた。対空砲は更に数回砲撃したが、そのうち飛行機は射程の外に出てしまった。
「ああ、仕留め損ねたなアヴド爺さん、駄目だ」と誰かが言った。
「しょうがないさ。古い砲しか馴染みがないんじゃあな」
「トルコの砲台ならってこと?」イリルが訊ねた。
「多分な」
 私たちは溜め息をついた。喉がからからだった。
 対空砲が再び発砲したが、既に飛行機はずっと離れてしまっていた。その飛び方には、憎たらしいほどの無関心があった。
「犬野郎が行っちまう」誰かが言った。
 イリルの眼は涙で濡れていた。私も同様だった。対空砲が最後の砲弾を放ち、人々が散り散りになり始めた時、女の子が一人、火のついたように大声で泣き出した。
 塔に上っていた人々の集団が下りてきた。先頭を歩くのはアヴド・ババラモだった。顔色は真っ青だった。ハンカチで額を拭うその手がぶるぶる震えていた。視線はぼんやりと、あちこちを彷徨っていて、何処にも定まらなかった。妻が人混みをかき分け、その前に進み出た。
「さあさ、可哀そうに」妻は声を上げた。「さあさ、休みなさいな、疲れたでしょ。こんなの、あんたにゃ向いてないよ[訳註;逐語訳「これらはあなたのためではない」]。あんたの心臓じゃあねえ[訳註;原文は「あなたには心がある」とも訳せるが、既存の訳では心臓が悪いといった意味に解されている]。さあさ」
 彼は何か言いかけたが、口にはできなかった。唾液がからからになっていたのだ。家の敷居をまたぐ時、ようやく振り向いて、口元に苦痛とも微笑とも何とも言いがたい表情を浮かべ、やっとのことでこう言った:
「こんなはずじゃなかった」[訳註;逐語訳「言われていたものではなかった」]
 人々は立ち去りかけていた。
「こんなはずじゃなかったんだ」老砲兵はそう繰り返して、一同を見渡した、自分を敗残のままに放置し立ち去ろうとする彼らに、まるで承諾を求めようとでもするかのように。
「気にしないでよ、アヴド爺さん」一人の少年が言った。「僕らがいつか撃ってやるよ。ぴったり当ててやるよ」
 アヴド爺さんは門を閉めた。
 人々は解散した。





ソセ婆さんの発言から
(記録欠落につき)
関節が痛いよ。この冬は湿気が多そうだね。あっちこっちで戦争が起こったよ、黄色人たちがいるチニマチンにもね[訳註;トルコ北東部のバイブルト(Bayburt)に残る城跡は、オスマン帝政期にチニマチン城(Çinimaçin Kalesi)と呼ばれていた]。エゲレス[訳註;「イギリス」のことだが、現代アルバニア語のanglezではなく、トルコ語İngilizに由来するInglizが用いられている]があっちこっちに手紙を送って、黄金を送ったんだ。赤髭のスターリンはパイプをふかしながら考えに考えたさ。あんたも知ってるだろエゲレス人ってのは、とあの人は言うのさ、俺だって知ってるがね、とさ。ねえハンチェ奥さんたら、と一昨日カヴォ家のマイヌル夫人[訳註;第7章参照]がプレシュタ家のハンチェに言ったのさ、何でこのギリシアとの戦争は終わらないかしらね、あたしたちヨアニナの鰻が恋しくてたまらないのよ[訳註;ヨアニナの鰻の話は第2章で既出]ってね。お黙りこの性悪女、とハンチェは言い返したよ。うちじゃ子供がパンがなくて死にそうだってのに、あんたときたらヨアニナの鰻の話かい。それで二人は罵り合いになってね、やれ薄汚い女だ、やれイタリア女だ、やれああだ、やれこうだ、とね[訳註;「薄汚い女」と訳した語はxarxabuleだが、xarbaxule(身なりの汚い人)の誤りか]。アヴド・ババラモは役所が開いたら罰金刑だろうね、お上の許可なしで砲を撃ってしまってはね。山に最初の雪が降る頃にはギリシアとの戦争も終わるだろうって話さ。カイラ家の嫁さんはまたご懐妊だとさ。プセのところの嫁さん二人も九か月だよ、まるで示し合わせたようにね。ハヴァ婆さんは寝たきりだよ。この冬は拝めないとさ、もう駄目だって、そう言ってるよ。遺言の用意をしてるところだとさ。哀れなチャズィメもとうとうくたばっちまったねえ。どうか安らかに[訳註;逐語訳「大地に蜜を」]



(つづく)


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