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イスマイル・カダレ 『石の町の記録』




第13章

 毎年のことだが、祖父宅の周りの土地には再び動きがあった。初見では何の変化もないように思われる、が、注意して見ると、もはやなくなった小路もあれば、息を吹き返した小路もあり、また一方で土埃と茂みの中には新たな、まだ弱々しくも充分に持続的な行き来が生まれていることに気付くことだろう。
 いつも通り、爺様は長椅子に座り本を読んでいた。祖母は洗濯物をロープに掛けていた。白い薄布が涼風に絶えず波打っていた。その風はスザナの家がある方から吹いていた。あちらこちらに草が生い茂っていた。春の爆撃に利を得て、それらは家に対する決死の攻勢をしかけていた。
 風に対して幾千のささやかな抵抗をしていた白布を掛けた紐は、かなり落ち着いていた。風による攻撃は柔らかなものだった。それは猫の玩具を思い起こさせるもので、さながら引っかきこそすれ、爪はしまったままであるようなものだった。
 そよ風は絶えず同じ方向から吹いていた。スザナのことも連れてきてくれるだろうか。
 祖母は干し終えつつあった。
「どうしてるんだね、お母さん、お父さんは。セルフィヂェはどうだね」祖母は残りの洗濯挟みを紐に掛けながら訊いてきた。
「元気だよ」
 ざわめく風に、私は何かを感じた。
「何だか、ぼうっとしてるねえ」祖母が言った。「まあ無理もないね、あれだけ飛行機から爆弾をやられちゃあね」
 微かなサイレンと警報。あれが飛んでいる。その白い両翼が陽光に輝いた。一瞬だけ白布の間に、まるで雲間のように姿を見せ、また消えた。
 私は家の外に出た。そこにいた。首を傾げている。薄い灰色の、アルミ色のスカートを履いている。
「スザナ」
 彼女が振り向いた。
「帰ってきたの?」
「そうよ」
 随分と背が高くなっていた。
「いつ?」
「今日よ」
 彼女の足は更に細く、更に長く伸びていた。
「空襲の間は何処にいたの?」私は訊いた。
「ほら、あっちの、あの洞窟よ」
「僕たち城にいたんだ。君のこと一日中探してたんだよ」
「本当に?私、あんたは私のことなんか憶えてないと思ってた」
「憶えてるさ」私は言った。
 スザナは顔を背け、手でヘアクリップをいじっていたが、
「すごいのね、私のこと憶えてるなんて」と不意に言い、歩き去った。
 木々の間の、彼女の家へと続く小路のところにまたアルミ色のスカートが姿を現した。それから彼女は斜面の淵、崖のところでくるりと向きを変え、影の木のところで羽ばたきの速度を落とし、やがて元の道を通り、再び近付いてきた。
[訳註;「影の木」と訳したDruri i Hijesは、主人公の祖父宅とスザナの家を結ぶ路上にある高い樹木のことで、第4章で「邪影」と訳したhijekeqと同じものを指している。なお仏訳ではmalombe(悪+影)という造語が当てられており、他の重訳もこれに沿っている]
「私に話したいことあるの?」と彼女は、半ば問い詰めるように訊いてきた。
「話したいよ」
 彼女の瞳に影が差した。
「いっぱい話あるの?」
「いっぱいある」
「話しなさいよ、さっさと話しなさいったら」と彼女は言った。
 私たちは道端の草の上に腰を下ろし、そして私が話し始めた。それは容易なことではなかった。余りにも話が長くて、頭の中では実にてんやわんやが生じつつあった。スザナはじっと聞いていたが、尋常でなく目を見開き、額に汗をかき、まるで私が出来事や、その順序や重要性を取り違える度に痛みを感じているかのようだった。何度か、自分でも話すことに追い立てられた私は、敢えて話の内容を変えていた。そう、例えば、英国人の腕について話した時は、アチフ・カシャフが喧騒の中、その切断された腕に何度も噛みついて、噛みつく度に人々が歓声を上げたのだと言った。スザナはどの話も大層注意深く聴いてくれていたが、ただ一つ、マクベスという名の人物が、私も名を憶えていない他の人物を晩餐に招いたこと、そのマクベスが客人の首を切り落としたことについて話し始め、彼がその斬った首に塩をまく規則を知らなかったということに言及したその時だけは、彼女は私の口元に手をやり、懇願するような声でこう言ったのだ:
「もっと優しい話にして、お願いだから」
 それで私は、市庁舎が焼けた日に路上で叫んでいたマイヌル夫人のこと、ヴァスィリチのこと、そのヴァスィリチが来たと知るや、何であたしは去年の冬に死んでおかなかったのかと言っていた祖母のことを話した。そして最近ヂェモ叔母が訪ねてきた話や、ギリシアの敗北の話をしていた時、年上の方の叔母が食事だと呼ぶ声が聞こえた。  みんな食卓についていた。諍いの名残がそこら中に見られた。若い方の叔母は憤懣やるかたない風だった[訳註;逐語訳は「唇を垂らしていた」]
「もう二度とあの女たらしにゃ会うんじゃないよ、わかったかい?」と祖母が料理の皿を並べながら言った。
「あれは友達よ、本を貰ったの」と答える若い方の叔母も譲らなかった。[訳註;ここで「本」は複数形]
「本だとさ。恥ずかしいったらないね。恋の本なんて頭をやられちまうよ」
「恋の本じゃないわよ、政治の本よ」
「もっと悪いよ。いつか憲兵がうちに来ることになるよ」
「もういいだろ」爺様が言った。
 沈黙は大して長続きしなかった。
「あんたは一人前の娘なんだよ」また祖母が口を開いた。「あんたの女の友達は編み物が嫌になったりなんかしないよ。明日にゃあんたも夫のところに行くんだから[訳註;ちゃんと家事労働に勤しんでいずれ結婚しなさい、ぐらいの意味]」
 若い方の叔母は舌を突き出した。それは夫の話になった時に彼女がいつもする仕草だった。
 翌日、スザナはもの思いげな風だった。
「その、英国兵士の指輪って、どんな感じだったの?」と彼女は私に訊いてきた。
「とても綺麗だったよ。太陽でぴかぴか光ってて」
「あんた、誰がその人に指輪をあげたんだろうとか思う?」
 私は肩をすくめた。
「僕に何でわかるってのさ?」
 スザナは私を、まるで私の目の下に別の両眼を探しでもするような風で凝視していた。
「たぶん、婚約者がくれたのよ」彼女は言った。
「たぶんね」
 スザナは私の腕を摑んだ。
「ねえ」と言いながら彼女は私の耳元に口を近付けた。「あんたがいろいろ話してくれた中で、特に気になったのはアチフ・カシャフの娘のことよ。もう一回話してくれる?」
 私は『うん』とうなづいた。
「ただしお願いだから、何が起こったかちゃんと思い出して、そして話を変えないで」
 私はしばらく考え込んだ。
「焦らないで」スザナは言った。「ちゃんと思い出して」
 私は自分が細かいことの全てについて考えているのだと彼女にわかって貰おうと顔をしかめてみせたが、実際のところ、思うでもなく頭に浮かぶのは切れ切れの、何の関係もない別のことばかりだった。
「そろそろ話してよ」彼女が言った。
 彼女はじっと聞き入っていた。両瞳も、髪も、ほっそりした腕も、彼女の何もかもが身じろぎもせず、聞き入っていた。
 私が話し終えると、彼女は深く息をついた。
「不思議なことがあるものなのね、この世界って」彼女は言った。
「僕の友達に、紙で小さな世界を作ったのがいたよ」私が言った。「指でつぶせるぐらいのね」
 彼女は私のことを聞いていなかった。心ここにあらずだった。
「洞窟に行ってみない?」私は言った。
 洞窟へ行きたいという気持ちは別になかった、洞穴だの湿地だのにはうんざりしていたが、それでも彼女の気分を損ねることはしなかった。
 洞窟の中はひんやりしていた。私たちは岩の上に腰を下ろし、黙ったまま座っていた。
「ねえあんた、こういうのはどうかな?」と不意にスザナが言った。「飛行機が来て爆弾を落とした、としましょうか。あんたはあの男の子みたいにして、私はアチフ・カシャフのところの娘みたいにするのよ」
 私は何と言ったらいいかわからなかった。
「ほら、飛行機が来たわよ」彼女は小声で言った。「聞こえる?たくさん来てるわよ。警報が鳴ってるわ。もう降りてきてるのよ。爆弾が私たちの近くに落ちてるわ。いつランプが消える?」
「今だ」
 彼女が腕を伸ばし、私の首に巻きつけてきた。彼女のすべすべした頬が、私の頬に密着した。
「これでいい?」彼女が言った。
「うん」
 彼女の両腕はアルミニウムのように冷たかった。首筋から石鹸の良い匂いがした。
「誰かがランプをつけるの」少しして彼女が言った。「ほら、私たちのことを見るわ」
 私は首をこわばらせたままだった。スザナが荒々しく腕をほどいた。
「さあ私は髪を摑まれて引きずられていくわ。であんたはどうする?」
「地獄に落ちる」私は大声で言った。
 彼女は大声で笑った。
 その日も、その翌日も私とスザナは何度もそんなことを繰り返した。もはや私は、彼女の長い腕が私の首元に巻き付いてくる間、じっと座っていることが楽しくなっていた。彼女の首筋からはいつも石鹸の良い匂いがしていた。その時のけだるさたるや、それまでは知らなかった類のもので、私に或る時は絡みつくような疲労感を、また或る時は舞い上がるような感覚を味わわせてくるのだった。
 私は、もう一度あれを言われるのを待ち望んでいたのだ:恥ずかしい話ってわかってる?[訳註;第4章で、チェチョ・カイリの娘に髭が生えた話題の時、スザナが主人公の耳元で囁いた言葉]だが彼女は言ってくれなかった。彼女の両眼は半分閉じられていて、まるで、そうすることによってのみ、アチフ・カシャフの娘の身に起こったことをじっくりと考えているかのようだった。
 私はこう言いたかった:あんな娘のことなんか考えるなよ、たぶんあの娘は死んじゃったんだ。だがそんな言葉をかけたらスザナも怖がるだろうと不安があった。家の離れのジプシー[訳註;第4章で言及されている]の一人が話してくれたことがある、どの女の子にも、私がマルガリタに見たような黒いしみ[訳註;英訳では「黒い三角形」]があるのだと。私にとってそれは、彼女ら全員が転落していくであろうことの確かなしるしだった。
 或る日(そこに私たちの地区のような木曜日とか火曜日はなく、ただ午前とか昼とか午後があるだけだったが)、私とスザナが自分たちなりのやり方で抱き合って座ったまま、いつにもまして激しく落ちてくる爆弾を声に出して数えていた時、洞窟の入口のところに人影が立っていた。先に気付いたのは私だったが、どうすることもできなかった。
「スザナ」叫んだのは彼女の母親だった。
 スザナは急いで私の首から腕を引っ込めた。その場に固まった。その女性の顔は、外から光が差し込んでいるためによく見えなかったが、近付いてきた。
「こんなところで私たちに隠れて一日中も」女性は小さい、しかし厳しい声を上げた(アチフ・カシャフは、私もよく憶えているが、一言も発しなかった)。今度は髪を摑みに来るのだろうな。「立ちなさい」殆ど叫ぶように声を上げると、女性はスザナの片腕を摑んだ。そうやって摑まれたスザナの腕は、ちぎれそうな程に伸びきっていた。
 彼女はスザナを力任せに引っ張った。引っ張られたスザナの体がばらばらになってしまうように思われた。背中から上半身にかけての全体が前に引っ張られるも、頭はとっさに踏み止まり、両足は倒れてしまわぬようにと慌てて重心を保っていた。
「もうこんなことを始めてたなんて」女性は歯の奥から声を絞り出した。そして、洞窟から出てしまう前に。私の方を振り向いた。
「このはな垂れ小僧が[訳註;原語mistrecは「痩せた小柄な人、発育不良な動植物」]、自分の顔の拭き方も知らないくせに・・・」
 女性は更に二言、三言、何かを言って、最後は『行くわよ』で終わっていたが、私にはそれがずっと棘だらけの言葉のように思われた。
 二人が立ち去った。これからどうなるだろう?私は井戸に降りなければならなくなるのか?
 外は静かで、光に溢れていた。一羽の鳥が空を飛んでいる。『行くわよ』で終わったあの醜悪な言葉と荒々しさが、洞窟の薄暗闇の中に残っていた。
(僕も髪を摑まれていくのか。さあこれからどうする[訳註;ここの主語は2人称単数]?)
 私はゆっくりと歩き出した。頭がこわばったようになっていた。考えの中に絶えず、或る日の朝水貯めのへりで見つけた、あの濡れたロープが浮かんでいた[訳註;第12章にそういうやりとりがある]。何なんだいこのロープは、おお神様、と母と祖母がぶつぶつ言っていた。何なんだいこの、先っぽに結わえつけたバケツは?その桶のふちについた黒い灰からは、まだ石油の燃えた匂いが残っていた。そら、ここには色恋沙汰の名残りがあるねえ、そう言っていたのはヂェヂョだ。ああ、セルフィヂェや、こういうのも今の時代、あたしたちに足りないものさね。色恋だとさ、いやはや、よしとくれよ、墓場の方がまだましだよ。
(・・・髪を摑まれていくのか。それから・・・)
 屋根の上に登った。そこからスザナの家が見えた。庭に白い布が干されていた。ユクだ。 [訳註;第11章及び12章にある通り、jukは寝具の布類を指すが、それで窒息死させられることの比喩にもなっている]
 私は温かい石の屋根の上に寝そべり、空を眺めていた。小さな雲が一つ、北へと進んでいる。それは絶えず形を変えていた。みんな我慢したんだ、セルフィヂェや、なのに色恋が広がってしまうような日が来るなんて。死の方がまだましだよ。
 町ではずっと噂になっていたが、井戸から井戸へ、ロープとバケツと燃えた灰を残し、アチフ・カシャフの娘を探して回る人物のことは新聞にまで書かれていた。
 祖母は注意深く桶を持ち上げ、中身を空けた。祖母は長いこと、黒く湿ったその灰を見つめていた。そして首を振ったので、私はどうして首を振ったのか訊こうとしたのだが、祖母と、そのひと摑みの黒い灰に、話したい気持ちもすっかり失せてしまった。
 上空の小さな雲は酔っぱらったように前方へ進んでいた。今度は細長く、薄くなっていた。雲の一生というのは、夏はうんざりするようなものだったに違いない。今、空で起きる事件は稀になっていた。その空の真ん中を、昼間の暑さで人通りのまばらな広場を歩く人間のように進んでいた小さな雲は、北へ辿り着かぬまま消え去った。 私は気付いていた、雲の死が余りにも急に訪れることに。その亡骸は長い間かけて空の中を漂っていた。生きた雲と死んだ雲を見分けるのは難しいことではなかった。
 不思議なことだが、私はスザナをその翌日も見かけた。彼女は父親と一緒にこちらの家の門の前を、まるでご令嬢のように通り過ぎ、振り向いて私の方を見ようとは一切しなかった。私には彼女が全く見知らぬ人のように思われた。そんなことが夕方にも繰り返された。門のところで私を目にすると、彼女は顔をすっと上げ、父親に一層寄り添った。父親の方は、私を横目でちらりと見た。美男だった。
 また別の日になると、彼女は母親と一緒に出歩いていた。またしてもご令嬢のような仕草だった。母親の方が私に投げかける視線は、まるで狂犬を見るようだった。よくもまあ、あんな有刺鉄線のような言葉ばかり思いつくものだ。魔女め。
 ほぼ夏の間じゅう、そして秋の初め頃まで私は爺様のところで過ごした。それは私の人生で最も長い長い夏だった。私は絶えずうとうととまどろんだようになっていた。過ぎ去っていく一日一日に事件はなく、名前もなかった。来る水曜日も、日曜日も、金曜日も、昼間の時間も夜の時間も空っぽなまま、ひとかたまりにされていたが、それも今では不要な空き箱のように打ち捨てられているのだった。
 そんなことが長く続いた。天候は寒くなりつつあった。最初の雷鳴が、地平線の何処か向こうで鳴り響いた。爺様の家は薄暗くなっていた。祖母はいつにもまして頻繁に、若い方の叔母と言い争っていた。叔母は喜色満面で家の中を歩き回り、聞く耳もあらばこそ、最近出たとおぼしき歌を口ずさんでいた。

   腹ぺこで素寒貧
   田舎のもんも都会のもんも・・・

 それを聞いて祖母は首を振った、物憂げに、まるでこう言っているように:まいったよこの娘には[訳註:逐語訳「私の魂をこの娘が破壊した」]
 [訳註;秋の]最初の雨が降ってきた。家に帰る日がやってきた。北の渓谷の方から風が吹いてきた。私は再び城への道をあとにし、決闘橋を渡り、中心部の地区の中へ入っていった。奇妙なことだが、私はまたしても、両側に高くそびえる灰色の石壁の間に立っていた。路上には不思議なほどに人けがなかった。ただ一箇所、市場の近くの小さな広場に小さな人だかりができていて、誰かが演説しているのを聞いていた。私は近付いてそれを聞こうとした。話している人物に見覚えはなかった。白髪混じりの中年の男で、演説中は何度も両腕を広げていた。
「今この嵐の時代、私たちは互いの愛を保っていきましょう。愛こそか私たちを守ってくれるのです。同族殺しから何が得られるというのでしょう?息子が父親に、兄が弟に対して立ち上がる。血の川が流れる。そんな同族殺しを私たちの町から取り除くのです。死につけ入る隙を与えてはなりません。打ち棄てられしアルバニア人は一生にわたって、五キロもの鉄[訳註;武器の暗喩]を背負わされてきた。他の民はパンなのに、アルバニア人には鉄。鉄を手放すのです、兄弟たちよ、鉄は争いを欲するのです。私たちに必要なのは和解なのです。同族殺しは・・・」
 近所の通りという通りは、まるで人けがなかった。そして門という門が不実そのものだった。私は歩みを速めた。みんな何処にいるのだろう?私は殆ど駆け足になっていた。足音が恐ろしく思えるほどに響いた。またしても閉ざされた門また門。人間の掌の形をした、金属製の取っ手。ご予約で一杯です、か。我が家の門は開かれていた。待ってくれている。私はそれを押し開けた。
「何で今日帰ってきたの?」[訳註;逐語訳は「何処で今日来る日を見つけたのか」]と母が言った。
「どうして?」
 母はそれを言いたくなさそうだった。祖母と父が私を抱擁してくれた。
「何で母さんは、今日帰ってきたのかなんて言うの?」私は祖母に訊ねた。
「怪我を負わされた人がいてね」祖母が言った。
「誰?」
「ジェルジ・プーラさ」
「ええ?誰にやられたの?」
「さあねえ。憲兵が探してるところだよ」
「アチフ・カシャフのところの女の子はいる?」私は訊ねた。
「何でまたアチフ・カシャフの娘のことなんか聞くんだい」祖母の口調は叱責に近かった。「あの娘は招かれて行ったよ。遠い親戚のところへね」少ししてそう付け加えた。





 パルティザンが一人。中心部の地区から出てきたパルティザンが一人。一週間前まで、そいつはありふれた人物だった;家がある、門をノックする、寝る前にあくびをする、ビド・シェリフィの二番目の孫。それがどうだ、思いもよらず、パルティザンに姿を変えた。今は山にいる。歩いている。山々をすっぽりと覆う冬の霧は、人事不省となったがごとく崖を転がり落ちていく。そのパルティザンはそこにいる。みんなそこにいる。そいつだけはそこにいる。
「何で『出てきたパルティザン』なの?」
「何でって・・・町から出てきたからさ」
「何でもう一度戻ってこないの?」
「やれやれ、一日中そういう質問でこっちはうんざりだ」
 電気を帯びて、目もくらむような霧が、町を二つに切り分けた。上の方の地区は霧の上に、あたかも神々の領地のごとく、そして下の方の地区は霧の下に、あたかも地獄のごとく。町がこのように霧で分かたれる、そんな日は、下から上へ登るのも、上から下へ降りるのも危険なのだ。二人のカタンヂカ婆が昔、落雷で命を落としたこともある。






 冬は、これまでにないほどに、町の上に雨と風を落としていた。雲はあらゆる方向から押し寄せて、自らがもたらした大量の雷と水と雹とを、空っぽにしてしまおうとしていた。地平線は霧の中に沈んでしまっていた。
 母がそれを見つけたのは、或る寒い朝のことだった。母は水貯めから水を汲もうと一階に下りていった。私たちは火の傍で暖をとっていたが、その時、母の穏やかならざる足音が階段の方から聞こえてきた。
「井戸にバケツでも落としたかね」と祖母が言った。
 入ってきた母は取り乱していた。手にしていたのは小さな、無造作に丸めたかたまりだったが、紙なのか布なのかはよくわからなかった。
「呪いかね?また始まったか、あれが・・・」
「さっさと捨てちまいなよ」祖母が言った。
 母はそれを放り出した。父は素早く立ち上がるとそのかたまりを取り、神経質に指を動かして広げ始めた。私は目をこらし、その恐るべきかたまりの中から爪や毛髪や灰や古いトルコ硬貨がこぼれ落ちるのを、今か今かと待ち構えていた。
 ところが、そのかたまりからは何も落ちてこなかった。広げてみたそのかたまりは、一枚のくしゃくしゃの紙に変わっていた。父は何度かその向きを変え、やがて読み出した。
「何なの?」母が訊ねた。
「何かの証文だね」祖母が言った。
 父は答えなかった。私は父の肩に顔を寄せ、それを見た。それはタイプ打ちされた手紙だった。私はその中の手書きの二行に目をとめた。まるで雨風の中を走り抜けるように前のめりな、その字には見憶えがあった。それはヤヴェルの書いたものだった。
「何なの?」母がまた訊ねた。
 父はそのくしゃくしゃの紙を再び丸めた。
「何でもない」父は言った。「このことは誰にも言うんじゃない」
 午後になり、女たちが次々とやって来た。
「あんたのところにはパンフ入ってたかい?」
「入ってたよ。そっちは?」
「マイヌル夫人は憲兵に通報したよ」
「ひどいもんだ」
「つまり共産党ってことかい?」
「たぶんね」
「とんでもないことだよ」祖母が言った。「今まで一度だってなかったことだよ」
 夜になると、また逮捕があった。
「物騒な世の中になってきたよ」祖母が言った。
 町は確かに物騒になっていた。煙突は風を受けて狂ったようにヒュウヒュウ唸っていた。
 白髪混じりの男は至る所で演説し、人々を不安がらせていた。彼は五キロの鉄の件に触れることを決して忘れなかった。
 冬の手前だった。私は世界を覆いつつある初霜を目にし、そして思った、この冬の風は一体何処の町のぼろ布を彼方から運んでくるのだろう?と。






第14章

 囚人を乗せた二台のトラックは、午後になって出発した。中央広場は人々で溢れ返っていた。憲兵隊が群衆の間を歩き回っていた。囚人たちは古びたコートの襟を立てていた。彼らは殆ど無言だった。周囲で群衆がざわめいていた。女たちの多くは泣いていた。より年かさの女たちは指示を出していた。男たちは小声で会話していた。
「あれは何をしたんだ?どうして捕まってるんだ?」一人の通りすがりが訊ねた。
「反対運動だ」[訳註;逐語訳「反対発言する」]
「何だって?」
「反対運動だ」
「どういうことだそれは?何の反対運動だ?」
「だから言ってるだろう、反対運動だよ」
 相手は背を向けた。
「何で捕まってるんだ?あれは何をしたんだ?」通りすがりは再び訊ねた。
「反対運動だ」
 市司令官ブルーノ・アルヂヴォカーレが、士官の一団を引き連れ広場の真ん中を通っていった。市庁舎で短い会議が行われるのだろう。
 トラックのエンジンがかかるのに時間がかかった。それから、広場に広がっていたざわめきが急に勢いを増した。最初のトラックが動き出した。ざわめきの海の中から、叫びが、悲鳴が、甲高い声が飛び出した。二台目のトラックも動き出した。囚人たちは手を降っていた。
「何処へ連れて行かれるんだろう」
「さあね。遠くさ」
「イタリアかな?」
「たぶん」
「俺はアビシニアだと聞いたが」
「かも知れない。帝国は広いからな」
[訳註;アビシニアはエチオピアの旧称。エチオピアは1936年からイタリアの併合下にあった]
 その時、囚人たちが唄い出した。歌う声が広く響き渡った。呼びかける声と、トラックの騒音と、憲兵たちの短い叫びの中で、言葉はよく聞き取れなかった。
 囚人の一人が叫んだ:
「アルバニア万歳!」
 広場は沸き立った。トラックは周りを囲む群衆をようやくかき分けると、速度を増して走り去った。
 広場は空っぽになっていた。市庁舎では、どうやら会議が始まっているらしい。多数の守衛が歩道の前をゆっくりと歩いている。路上も閑散としていた。
 反対運動をする者たちはいない町は暗闇に包まれた。だが不思議なことに、夜の間にまたしてもパンフレットが撒かれていた。マイヌル夫人が夜も明けぬうちから門を開け、憲兵隊へと向かった。
 イリルが午後やってきた。
「反対運動をするんだな?」彼は言った。
「するさ」
「スパイ連中に聞かれないようにな」彼は少しして言った。
「何処にする?」私は訊ねた。
「屋根だ」
 私たちはイリルの家へ行くと、音を立てずに屋根へと上がった。ぞっとする景色だった。この町の何千という灰色の、急斜面の屋根は果てしなく広がっていて、まるで眠れぬ夜には、一方の側から反対側へ、裏返り、元へ戻りを何度も繰り返しているようだった。ひどく寒かった。
「お前から始めろよ」イリルが言った。
 私はレンズを取り出し、目にあてた。
「ヂュンドラ・ブルンドラ」私が言った。
「シュトラフトラ・カラマストラフトラ」イリルも言った。[訳註;この呪文は各言語訳でそれっぽいものに書き換えられているが、ここでは敢えて原文通りのカナ表記とした]
 しばし二人は考え込んだ。
「アルバニア万歳!」イリルが言った。
「イタリアを倒せ!」
「アルバニア人民万歳!」
「イタリア人民を倒せ!」
 静寂。今度はイリルが考え込んだ。
「違うな」そう言った。「イサが言っていた、イタリア人民が悪いわけじゃないと」
「おい、何の話だ!」
「そういうわけさ」
「いいや」私も譲らなかった。「飛行機は悪辣でも人民は善良だなんてことがあるのか?飛行機よりも善良な人間がいるというのか?」
 イリルは唖然とした。考えが変わりつつあるようにも見えた。だが、考えが変わりつつあったその只中でも、彼の言葉はかたくなだった:
「いいや」
「お前は裏切り者だ」私は言った。「裏切り者を倒せ!」
「同族殺しを倒せ!」そう言うイリルは、殴りかからんばかりだった。
 思わず知らず、二人して辺りを見回した。下に転げ落ちかねなかった。
 それ以上は何も言わず、私とイリルは順番に下に降りると、腹を立てたまま別れた。
 その頃は毎日、パルティザンへ流れる者の話題で持ちきりだった。低地パロルトから、ジョベクから、ヴァロシから、スファカから、そして中心部の地区からも、町の外の地区からもパルティザンへ流れる者たちがいた。ハズムラト地区からは娘が一人参加していた。
 誰かが町に、パルティザンの中で最初の死者が出たことを知らせてきた。それはアヴド・ババラモの次男だった。何処でどのように命を落としたかは、知る由もなかった。遺体も見つからなかった。
 アヴド・ババラモとその妻は、何日も閉じこもったままだった。その後、騾馬を三か月間の契約で借りてくると、息子を探し求めて、山々や遠方の地を回り始めた。それはもはや巡礼であった。
 戦時の冬、訪ねてきた女たちは皆、この年の冬をそう言っていた。
 或る日、門を開いた私は、呆気に取られた。敷居のところに祖母が座り込んでいたのだ。尋常なことではなかった。祖母が我が家に来るのは年に一回だった、というのも祖母は長い道のりを歩くのが苦で、全く外出することがなかったからだ。それに、祖母が我が家に来るのは、寒さや暑さに悩まされることのない春だけだったのだ。それが今、祖母が敷居のところにいて、大きなその顔は真っ白で、ひどく悲しげだった。
[訳註:ここで登場した「祖母(nënëmadhe)」は、主人公とは別の場所に住む「爺様」こと母方の祖父(babazot)の妻。つまり母方の祖母であり、これまで「祖母」と訳してきたが、主人公と同居している父方の祖母(gjyshe)と区別がつかなくなるため、以下「爺様」に合わせて「婆様」とします]
「婆様が来てるよ」私は階下から声を上げた。
 母が慌てて階段を下りてきた。顔がこわばっていた。
「何かあったの?」母は叫んだ。
 婆様がゆっくりと首を振った。
「死んだの何だのって話じゃないよ」そう言った。
 祖母が階段の上に姿を現したが、まるで彫像のように身じろぎもしなかった。
「ようこそ!」祖母は落ち着いた声で言った。
「会えて嬉しいよ、セルフィヂェや!あんたに会えて嬉しいよ!」
 婆様はそんな言葉を言うのもやっとだった。階段を上がるのにも息切れしていた。
 私たちは皆して待った。
 彼女ら二人は広間のマットレスに、互いに向かい合って座った。
 不意に、婆様の白くて太った顔に、何やら落ち着きのない動きが現れた;両瞳が、顎が、両頬が笑い出すかのように震えたが、婆様はしくしくと泣いていた。
「娘が」彼女は泣きながら言った。「下の娘が・・・行ってしまった・・・パルティザンに」
 母は溜め息をつくと、マットレスに身を投げた。祖母の灰色の目はじっと動かなかった。
「そんなこととは思ってもみなかった」と母が小声で言った。
 婆様はしくしく泣き続けていた。
「嫁入り前の娘がだよ。持参金[訳註;原語prikëは新婦の親が用意した金品]だって準備していたのに。行ってしまった、何もかも残して。こんな冬に、山の中に、一人で。十七歳だよ。刺繡だって半分残して。家の中に散らかして。嗚呼!」
「まあ落ち着きなさい」祖母が言った。「さてどうなるものかね。[訳註;旧版ではここに「彼女は仲間たちと共にいる」の一文がある]もう彼女は行ってしまった、泣いたって戻ってきやしない。元気で戻ってくるといいね、神のご加護を」
 涙で濡れた婆様の顔は、むしろ笑っているように見えた。
「名誉なことさね」そう言った。「世間じゃそう言うのかねえ、セルフィヂェや」
「他の人たちの名誉あってこその、彼女の名誉でもあるんだろうさ」祖母が言った「娘や、コーヒーを淹れておくれ」
 母がヂェズヴェを火にかけた。私はすっかり歓喜を抑えきれなくなっていた。周りがすっかり動揺しているのをさいわい、私は階段を降り、イリルのもとへ駆けていった。自分たちが喧嘩していることなどすっかり忘れていた。イリルがぬっと顔を出した。
「なあ聞けよイリル、うちの叔母さんがさ、パルティザンに行ったんだ」
 イリルは口をあんぐりさせていた。
「本当か?」
 私は知っていることをすべて話した。イリルはじっと考え込んでいた。
「だったら、うちのイサは、どうして行こうとしないんだ?」やっとそう言った声は、怒りを伴っていた。
 私は何と言ったらいいかわからなかった。
「上の部屋にいるよ」イリルが言った。「ヤヴェルも一緒だ。一日中、地球儀を指で回してる」
 私たちは上に行った。イサの部屋の扉は半開きになっていた。私たちは中に入った。イリルが先に入り、私がそれに続いた。彼らは私たちに気付いていないように振る舞っていた。イサは椅子に座り、顎を掌で支えていた。苛立っているらしかった。
「彼らはよくわかっている」ヤヴェルが言った。「俺たちがここに留まるよう命じられている限りは、ここに留まらなければならない、ということだ」
 イサは何も言わなかった。
「何処だって戦線だ」少しして、ヤヴェルが言った。
 またしても沈黙。私とイリルの二人は立ったままだった。イサたちはなおも、私たちに気付いていないように振る舞っていた。と不意にイリルがこう言った。
「何で二人はパルティザンに行かないのさ?」
 ヤヴェルが振り向いた。イサは固まったようになったが、それもほんの一瞬だった。いきなりイサはばっと飛び上がり、振り向くや、イリルに平手打ちを喰らわせた。
 イリルは頬を手で押さえた。目がきらっと光ったが、泣くことはなかった。私とイリルは激しく動揺して、次々部屋を出た。ものも言わずに階段を降り、庭へ出た。頭上にイサたちのいる部屋の窓があった。私とイリルは怒りに満ちた視線を上げた。そして大声で叫んだ。
「裏切り者を倒せ!」
「同族殺しを倒せ!」
 上でドアが音を立てた。私とイリルは慌てて門を抜け、通りへ出た。
 家に戻って見ると、婆様はいなくなっていた。
 それから数日間は、パルティザン行きの話でもちきりだった。毎朝、女たちは窓扉を開けると互いの新しい知らせを伝え合うのだった。
「ビド・シェリフィの別の甥っ子も行ってしまったよ」
「そうなの?ココボボの娘の話は聞いた?」
「行ってしまったらしいね、あの娘も」
「イサ・トスカのところの連中に殺されたって話だけど」
「さあね。アヴド・ババラモも戻ってこないけど。哀れな息子さんの身を探して、探し求めて、でもさっぱり見つからないんだものね」
「気の毒な爺さんだよ。こんな冬の中、歩き回ってさ」
 祖母とカコ・ピノと、それにビド・シェリフィの妻がコーヒーを飲んでいると、門を叩く音がした。一同の驚いたことに、やって来たのはマイヌル夫人だった。
「ご機嫌いかがかしら、奥様方、いかがお過ごしで。ちょっと寄らせてもらおうと思って。空襲の時以来、お久しぶりですわね」
「お座りなさいな、マイヌルさん、ようこそいらっしゃって」母が言った。
 マイヌル夫人はマットレスの、祖母の隣に腰を下ろした。
「聞きましたわよ、彼女に何があったのか」そう言いながらマイヌル夫人は首を振った。
「これはまた何てひどい話かしらねえ、セルフィヂェや、何てひどい話なのかしらね」
「まあ、人間なんてね、ひどいことに耐えて大きくなるもんだよ」
「そうよねえ、セルフィヂェや。そうだわねえ」
 母がコーヒーを淹れに行く時、マイヌル夫人のガラスのような目はドアのところまでそれを追いかけた。
「雌犬どもを山に出してしまった、出してしまったのよ」彼女は歯の間から声を絞り出した。
 誰も返事をしなかった。
 母がコーヒーを持ってきた。
「あの山の中じゃ、男女で恋愛なんかしてるんですってよ」マイヌル夫人は言った。「今に赤ちゃんを抱えて私たちのところに戻ってきますわよ」
 母が顔をしかめた。マイヌル夫人の顔が険しくなった。口の右側にある金歯のせいで、まるで周りに微笑んでいるようだった。
「でももうみんな、順番に捕まるでしょうよ」マイヌル夫人は話し続けた。「行くあてなんかないんですから。食べるものだって着るものだって残ってないでしょ。この冬と、狼たちの中ではね。それに、ろくに動けない子だって多いらしいですわよ、だって間違いなく・・・妊娠してるし」
[訳註;ここで「間違いなく」と訳したhelbeteはトルコ語elbetteからの借用語で、ルーマニア語等でも用いられる]
「もうよしなさい、マイヌル」祖母が言った。「恥知らずなことを言うんじゃないよ」
 重い沈黙が支配した。
「ひどい言い方だよ」祖母が言った。
 マイヌル夫人のガラスのような瞳が微笑みかけたその時、ビド・シェリフの妻が荒々しく立ち上がった。
「この魔女が」そう言うと、彼女は母がいる部屋へと立ち去った。
「ひどいもんだ」カコ・ピノが、相手の方を見ないままそう言った。
 マイヌル夫人は憤然と立ち尽くしていた。祖母はその場を動かなかった。祖母は外の冬の荒地を見つめていた。





 若い男女が集まっていた。地下室の中で、禁止された歌を唄っていた。古い世界を壊そう、新しい世界を作ろう、そう言っていた。
「新しい世界だって?その新しい世界ってのはどんなものなの?」
「あの子たちにはわかっているのよ、ヂコ
[訳註;原語xhikëは年長のムスリム女性に対する呼び方でもあるが、ここでは固有名詞として訳した]、あの子たちにはね。そらこっちで聞いてごらん、耳を近付けて。ほらこう言っている、この新しい世界を作るには、血が流されるだろうって」
「でしょうねえ。新しい橋だって、建てる時には生贄が必要よ、でも世界全部じゃないけどね」
「生贄にするには大きいけど」
「その通り、その通り」






記録断片
官報1187号による。無数のロシア兵と車輛がドイツの死の炎によって無に帰した。黙示録的に大規模な戦闘。ドイツ軍とイタリア軍だけが、140年来前例のないこの冬を乗り越えることができた、とムッソリーニは宣言した。ロシアの草原を屠場へと変えた、まさに血塗られたチモシェンコ[訳註;ソ連軍の司令官だったセミョン・コンスタンチノヴィチ・チモシェンコと思われる]だ。裁判。執行。財産。カルラシ家の新事実。「ジレット」の剃刀。登録商標[訳註;逐語訳は「保証商標」]。出血皆無。路上、広場、または家屋で人が集まることの禁止を命じる。結婚式、及び葬式の一時禁止を命じる。市司令官ブルーノ・アルヂヴォカーレ。助産婦の住所は





第15章

 廃墟の壁の一部が残ったところに、一枚の通知が貼られていた。その廃墟で私たちはいつも遊んでいた。自らの不運に身を横たえつつ、そこは私たちには優しかった。私たちはそこから欲しいと思うものを手に入れ、壁の欠片を砕き、石をあちこち入れ替えたが、それでも廃墟の見た目は変わらなかった。数時間で家が廃墟と化すほどの炎を耐え抜いたその場所も、今は我関せずといった風で、全てを甘受していた。残った壁の中から出てきた鉄製の部分は、硬直した手の指先のようだった。まさにその鉄に通知が貼られていた。老人が二人、立ち止まってそれを読んでいた。私とイリルは近付いてみた。通知はアルバニア語とイタリア語の二言語で書かれていた:『危険な共産主義者エンヴェル・ホヂャを捜索中。30歳前後の男。長身。サングラス着用。通報者には15000レクを支給。捕えた場合は30000レク。市司令官ブルーノ・アルヂヴォカーレ』
 イリルが私の上着の裾を引っ張った。
「この焼け跡に、あいつの家があったんだ」私の耳元で、イリルが小声で言った。
「エンヴェル・ホヂャの?」
「そうさ」
「何処で知ったのさ?」
「うちの親父がいつかイサに言ってたんだ」
「で、今エンヴェル・ホヂャは何処に?」
「遠くさ、ティラナの方だよ」
 私は驚き口笛を吹いた。
「ティラナまで行ったってのかい?」
「ああ、そうさ」
「ティラナってかなり遠いだろ?」私は訊ねた。
「ずっと遠くさ。いつか歳を取ったら、俺たちも行くだろうな」
 通知の前にまた一人、足を止る者があった。私たちはその場を離れた。
 家にはヂェヂョとカコ・ピノが来ていた。祖母とコーヒーを飲んでいた。ヂェヂョはカップをそっとひっくり返した。
「もう始まったよ、新しい戦争がね」彼女が言った。「何て呼んだらいいかわからないけどね、階級との戦争だか、階級の戦争だか[訳註;「階級」は標準アルバニア語ではklasëだが、ここではkllasëと表記されている]。この戦争は戦争そのものだよ、ねえセルフィヂェ。これは他のとは違うけどね。この戦争じゃ、兄弟が兄妹を、息子が父親を殺すんだよ。家の中で、食事の最中に殺されるのよ。ちらっと眼をやって、それから、お前はもう父親じゃない、そう言って額の真ん中[訳註;逐語訳は「額の花」]にバン、さ」
「ひどいもんだ」とカコ・ピノが言った。
「ジョベクのゴレ・バロマとかいうのが路上に出てわめいていてね。マク・カルラシの皮を剥いでやる、って言ってたよ。工場でなめして乾かして、そうしてそれで靴を作って、そいつをで外に出て踊ってやるんだとさ」
「そんなことがあったのねえ」母が言った。
[訳註;逐語訳は「生きている限り我々は聞く」で、「生きている内には驚くようなことを耳にするものだ」といった意味の慣用表現]
「そうともさ、セルフィヂェ。要するに、てんやわんやをやり過ごしてきたけど、またもそれが目の前に来てるってことさ」とヂェヂョが言った。「で、ホヂャ家の息子の、エンヴェルのことは憶えてるかい?」
「フランス人のところに勉強しに行ってた子だろ?そりゃ憶えてるさ」[訳註;エンヴェル・ホヂャは1930年から1936年までフランスに留学している]
「私も憶えてるよ」カコ・ピノが言った。
「その子が戦争の頭目なんだそうだね。その子も私が言ってる新しい戦争を起こしたんだよ」
「どうにも信じられないね」祖母が言った。「あれはお行儀の良い子だったよ」
「お行儀は良かったよ、セルフィヂェ、だけど今は黒眼鏡なんかしてさ、人様に知られないようにして戦争に関わってるそうじゃないか」
「また戦争かい」カコ・ピノが言った。
「どうしようもないね」祖母が言った。「この世に戦争はつきものだよ。ずっとそうだったし、平和なんて一度だってなかった」
 母が溜め息をついた。
「イタリアからカルラシ家の娘が戻ってきてるんだけど」ヂェヂョが沈黙を破った。「これがまあ、恥ずかしい話でね[訳註;逐語訳「中に入るための大地よ開け」だが、「穴があったら入りたい」が己の不品行を指すのに対し、これは他者の不始末に対しても使える表現]。スカートは膝上だし、その薄い、薄いのときたらまるで蛇の皮で、中身が見えちゃいそうなのよ。それで出歩いて、一日中おめかしして、口紅なんか塗って、髪も染めて、タバコ吸ってイタリア語喋ってるのよ。何なのこの汚い国、ねえ母さん、ってこぼしてるのよあの娘。何でこんな世界の果てに帰ってきちゃったのかしら父さん、ってね。嗚呼、だの、うう、だの一日中よ。まあそういうわけよ、セルフィヂェや」
「何ができるっていうのさ?」祖母が言った。「娘たちが外に出れば、そういうことになるもんさ」
「そういうもんかねえ」カコ・ピノが言った。「ひどいもんだ」
 翌日、まるでヂェヂョの話を聞いてでもいたかのように、イリルが私に声をかけてきた:
「カルラシんとこのさ、イタリア帰りの女の子を見に行こうぜ」
「綺麗な人かい?」
「すごく。髪なんて、お日様が載っかってるみたいだぜ。窓のところに退屈そうに座ってさ、前髪を風に揺らしてるんだ」
 私は外へ飛び出した。愚者の小路を駆け抜け、カルラシ家の邸宅の前で立ち止まった。彼女は確かに窓際にいて、髪は本当に太陽が載っているようだった。そんな色の髪は、この町の女性たちには一度も見たことがなかった、例外は娼館にいた女たちの中の一人だけだが、実はその女も去年ラミズ・クルティに殺されて、それがもとでその売春宿も[訳註;旧版では「6か月後に」とある]閉鎖されていた。
 私とイリルは長いことカルラシ家の前に立っていた。路上をカタンヂカ婆が二人通り過ぎた。うち一人は背中が曲がっていた。それからジェルジ・プーラが通り過ぎた[訳註;イタリア軍進駐時にイタリア風のジョルジョ・プーロに改名し、ギリシア軍進駐時にはギリシア風にヨルゴス・プロスと再改名したジェルジ・プーラのこと。原文では何故かGjergj Puloになっている]。顔が真っ青だった。まるで病院から出て来たばかりのようだった。私とイリルは互いに顔を見合わせた。マクストが通り過ぎた。小脇に切り落とした首を抱えていた。カルラシ家の娘が窓際から姿を消した。私とイリルは再び出てくるのを待ったが、彼女は姿を現わさなかった。何処に行ったのかはわからなかった。路上には人けがなかった。ビド・シェリフィの妻が窓から顔を出すと、両手を振り、また引っ込んだ。ナゾの家にはマクストが入っていたが、門は閉ざされたまま、物音ひとつしなかった。
 突然、遠くから銃声が聞こえてきた。短い銃声が一発。そしてもう一発。何人かが、市場に続く道を駆けていった。その中にハリラ・ルカ[訳註;第7章に登場した、礼儀正しい小心者]もいた。
「逃げろ、隠れるんだ、人殺しだ」と彼は叫んだ。
 イリルの母が門のところに顔を出した。
「イリルや、中にお入り」と声を上げた。
 私も自分が呼ばれているのを耳にした。門という門が音を立て閉じられていった。再び銃声が響いた。
 ニュースは尋常でない速さで広がった:殺されたのは市司令官のブルーノ・アルヂヴォカーレだった。夜遅くに、門を叩く音がした。
「マネ・ヴォツォのところだわ」と祖母が言い、通りに面した窓を開けに行った。
 路上に響く重々しい足音と、イタリア語の会話、「息子や」「息子や」と叫ぶ声、そして静寂。誰かが逮捕されたのだ。
 祖母が窓を閉めた。
「イサが捕まった」と言った。
 アルヂヴォカーレの葬儀は壮大なものだった。演説が町の中心部で行われた後、黒づくめの葬列が墓地へ向けて歩き出した。楽団が演奏した。きらきらと輝く楽器の、百合のように開いた先端から呻き声が漏れていた。ゆっくりと進むファシストの将校たちは、長身で、陰気で、全身黒づくめだった。司祭たちが進んだ。修道女たちが進んだ。アルヂヴォカーレが安置された棺は、ゆっくりと揺れていた。幾千の窓という窓から、女たちが、老女たちが、子供たちが顔を出していた。町は、その元司令官の去り行く様を見つめていた。壁際の、風でちぎれた布告や命令の切れ端には、なおしばらくの間、その名前の切れ端が、ルヂヴ、アルヂ、ォカ、レとかすかに音を立てていることだろう;そして雨がそれらを最終的に引き剥がし、そうした広告に代わって、新たな司令官の名で新たな布告や命令が貼られることだろう。
 それから四日間、雨は途切れることなく振り続いた。平坦な、いにしえから続く雨だった(この世界には、かつて三万年続く雨が降ったものだ、とヂヴォ・ガヴォの記録の序文で語られている)。その雨の中、イサは絞首刑にされた。刑は夜明け前、市の中心部で行われた。人々はそれを見ようと押しかけた。イサと共に、二人の少女も吊るされた。髪から雨が滴り落ちていた。イサの足は片方しかなかった。それは怖気をもたらす円錐形だった。イサのこわばった顔の中で、ただ一つ生気を帯びているように見えるのは、どういうわけかかけ直された彼の眼鏡だけだった。吊るされた三人の胸元には白い布切れが貼り付けられていて、それぞれの名が書かれていた。バリ派[訳註;アルバニアの抵抗運動の一つだったバリ・コンバタール(国民戦線)。民族解放戦線の主導権を巡って、共産党と対立した]の司令官アゼム・クルティはヤヴェルの叔父で、イサへの拷問にも加わっていたが、マク・カルラシの息子と一緒に、吊るされた娘たちのスカートを杖の先で持ち上げた。細い白い足がかすかに揺れ、そしてまた動きを止めた。マネ・ヴォツォの妻が、引き留めようとした者たちの間をすり抜け、狂ったようになって町の真ん中へと駆け込んで来た。息子や、息子や、と叫んでいた。彼女は三本足[訳註;絞首台を指す]に駆け寄り、腕[訳註;英訳では「頬」]と髪で、息子の一本だけになった足をかき抱いた。息子や、息子や、何だってこんなことに!円錐形が震えた。眼鏡が落ちた。マネ・ヴォツォの妻は割れたレンズを手に取り、胸に押し当てた。息子や、息子や!
 その夜、同様に追われる身のヤヴェルが、長いこと寄り付くこともなかった自分の叔父宅に姿を現わした。俺はお尋ね者だ、叔父さん、と彼はアゼム・クルティに言った。でも後悔してるよ。後悔だと? 甥っ子よ、お前はよくやった。さあこっちに来てキスさせておくれ。こういう日が来ることはわかっていた。わしたちがお前の同志に何をしたか、お前も見たんだな? ああ見たさ、とヤヴェルは言った。わしたちにラキを持ってきてくれ、とアゼムは言った。肉も焼いてくれ。甥っ子との和解を祝うんだ。
 二人が食卓に付くと、ヤヴェルが言った:さあイサのことを聞かせてよ。それでアゼムは語って聞かせた。ラキを飲み、肉を食いながら、拷問の様を語った。ヤヴェルはそれを聞いていた。甥っ子よ、顔色が悪いぞ、真っ青じゃないか、とアゼムが言った。顔色だって悪くなるさ、叔父さん。お前の血は書物のせいで薄くなってしまった。指だって細くなってしまった。ヤヴェルは指先を見つめていたが、静かに拳銃を取り出した。アゼムは両目をかっと見開いた。ヤヴェルは、食物を頬張ったその口に銃身を突っ込んだ。アゼムの歯が鉄製の銃身とかち合う音がした。弾丸が一発、また一発、頬と、頭蓋骨の一部を吹き飛ばした。テーブルに、嚙み切れなかった肉とアゼムの頭部の破片とが混じり合って落ちた。
 ヤヴェルは親戚らの泣き叫ぶ中、立ち去った。その翌日、「ブルドッグ」[訳註;第10章で登場した飛行機の愛称]が町の上空を飛びながら、色とりどりの紙きれをばら撒いたが、そこにはこう書かれていた:『共産主義者ヤヴェル・クルティは食事の席で自らの叔父を殺害した。両親たちよ、父たちよ、母たちよ、これが共産主義者だ』
 その晩、中央広場には、城の牢屋で銃殺された六名の遺体が運ばれてきた。遺体は順番に、民衆に見えるように積み上げられた。白い布切れに大きな字でこう書かれていた。『これが共産主義者どもの赤色テロに対する、我々の返答だ』
 雨はやんでいた。夜はひどく寒かった。朝になると、積み上げられた遺体の上には霜が下りていた。それは埋葬されることもなく、一日中その場に放置された。その翌朝、広場の別の場所で、役場の荷車の上に積まれた他殺体が見つかった。布切れにはこう書かれていた:『これが白色テロに対する、我々の返答だ』
 遺体の収容に駆け付けた憲兵隊には、しかしながらテロリストの足取りを探せとの命令も与えられていた。深夜、その広場に役場の荷車[訳註;他言語訳では「清掃用の」と添えられている]が、町じゅうの誰もが知る老馬バラシに引かれてやってきた時には、警備兵の誰一人として疑いを持たなかったのである。荷車には普段と同じように、黒い防水布[訳註;原語mushamaはトルコ語由来で、原義は油を引いた防水布。現在はレインコートを指すこともある]が掛けられていた。夜明け前、何者かが近付き、さも偶然のように覆いを取り去り、それによって無造作に折り重なって積まれた遺体が見つかることになったのだ。
 人々が狼狽した表情で、中央広場から戻ってきた。
「行って見てみろよ」
「中心広場を見に行けよ。本物の屠場だぞ」
「子供を行かせないで。子供を連れ戻してきてちょうだい」
 祖母は思案げに首を振った。
「何てえ時代が来たもんかねえ」
 町は血に濡れていた。死体はまだ広場にあった。今はどちらの死体の山にも防水布で覆われていた。午後になると、ずっと家の敷居を越えたことのない老女[訳註;原語plaka e jetësは「生活の老女」。第6章で既出]ハンコが二十九年ぶりに外に出て、町の中心部へと向かった。人々は驚いて道を開けた。その瞳は全てを見通しているようでもあり、同時に何も見ていない[訳註;英語訳では「何も見ずして全てを見通している」]ようでもあった。
「あの石の上にいる、あの人は誰だい?」そう言って祖母は指差した。
「あれは像だよ、ハンコ婆さん。鉄だよ」
「あたしにゃ、オメルんとこの息子に見えるんだけどねえ」
「そうだよ、ハンコ婆さん。何年も前に死んじまってるよ」
 それから、ハンコは遺体を見せて欲しいと言った。二つの遺体の山を順番に見て回りながら、凍りついた防水布を取り除け、長いこと死者を見つめていた。
「この連中は何処から来たんだい?」とイタリア人らを指差しつつ、ハンコは訊いた。
「イタリアの国からだよ」
「外国人かい」彼女が言った。
「そう、外国人だよ」
 彼女は一人一人に手を触れていった。
「こっちの連中は?」
「これはこの町の連中だよ。こっちはトロイ家の孫だ、こっちはヂュライ家の、こっちはハンコナタ家の、こっちはメライ家の、こっちはココボボ家のだ」
 老ハンコはそのしなびた掌で全員を触れて回り、そして立ち去ろうとしたが:
「何だってこんな血が流れるの!何とか言ってちょうだいよ、ハンコ婆さん」女性が一人、すすり泣きながらそう言った。
 老女は振り向いたものの、どうも声のする方を見失ったようだった。
「この世の血は入れ替わる」彼女は相手の方を見ずに言った。「人の血も入れ替わるよ、四、五年もすればね、この世だってそうさ、四、五百年もすれば。今は血にとっての冬なのさ」
[訳註;逐語訳は「世界において血は入れ替えられる」「人において血は入れ替えられる」「これらは血の冬(複数形)だ」]
 そんな言葉を口にして、ハンコは家の方へと歩き出した。
 彼女は百三十二歳になっていた。





 冬。白色テロ。そんな言葉が至るところに広まっていた。まるで霜のように。早朝だった。私は眠りから目覚めた。起きて、大広間へ向かった。汚泥で濡れたスポンジのような幾つかのぶ厚い雲が、町の上に広がっていた。空は井戸[訳註;の底のように真っ黒]だった。その中のたった一つの裂け目から、不自然に悲劇じみた光が一本、差し込んでいた。その光は灰色の屋根板の上を滑って、一軒の白い建物の上で止まっていた。それはこの地区に一つしかない白い建物だった。私は今までそのことに全く気付いていなかった。その朝の時間、他の家々に囲まれたその家が、私には恐ろしく見えた。
 あの家は何だろう。何処から来たのだろう。そしてどうして、ここ数日間に起こった事件は白いテロと呼ばれているのだろう。どうして緑のテロとか青いテロと言わないのだろう。
 私は白という色が怖くなり始めていた。連想したのは白いバラ、大広間のマットレスのレース、それに祖母の白い寝間着で、その全ての表面に、こう書かれているのだ:テロ。






記録断片
令する[訳註;原語では冒頭が途切れて“rdhëroj”で始まっているが、恐らくurdhëroj(命令する)]。テロリストに関与の嫌疑ある者は全員、死刑に処す。十六時より六時までの外出禁止の布告を命じる。市司令官エミル・デ・フィオーリ。助産婦に対し出された夜間移動の許可を全て無効とするよう命じる。市内全住民の登録を命じる、十一日より十八日まで

(つづく)


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