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ヴィクトル・ツァノスィナイ 『メリユル』

1
 母は青白い顔で横たわったまま、部屋の窓をじっと見つめていた。半開きになった窓からベランダ越しに、スモモの枝に花が満開になっているのが見える。母の顔、とりわけその唇の両端には、聖母マリアにも似た微笑みのかけらが貼り付いている。メリはその傍らで両掌をぐっと握り締め、手の震えを抑えていた。
「ママ、呼んだ?」メリがささやいた。
 母はほんのちょっとだけ頭を動かして、メリを枕元へと座らせた。
「メリ、あなたも大きくなったわね」母はか細い声で言った。「もう7年生[訳註:日本の中1に相当]も終わって、いろんなことがよくわかるようになったでしょう。お母さんは・・・あとほんの幾日もしたら・・・たぶん・・・お母さんの病気はね、もう治らないのよ。病院でも治せないの。わかる?」
 その時メリは確信した。病院や家でみんなが小声でささやいていた言葉のかけら、あれは彼女自身もずっと前から疑っていた、胸の詰まるような真実なのだということを。誰も、死という言葉を口にしようとはしなかったけれど、メリには、それがもうそこまで来ていることはわかっていた。もう隠すことはできないのだ。
「あなたがしっかりしなくては駄目なのよ、家のことを頼むわね」母は言葉を続けた。「小さい弟や妹のこと、お父さんのことをお願いね。わかっているでしょう?あの人はやけになってお酒を飲み出したのよ」
 メリはうなずいた。涙がこぼれ落ちないよう、必死に我慢していた。
「パパは大好きなのよ、お母さんのことが」
「わかっているわ。お母さんもお父さんが大好きよ。ずっと前からお互いのことが好きだったんだもの。お父さんにとっては、お母さんは世界で一番きれいな人だったのよ。あなたが生まれた時だって、きっと星のようにきれいになるってお父さんは信じていたわ。『娘はお前に似るだろう』ってそう言ってくれたのよ。その通りになったわね。お父さんは、あなたの名前もユルカにするつもりだったのよ[訳註:Yllka<yll(星)]。でもお母さんはメリの方がよかったの。それで二人して考えたの。私たちのメリは星のようにきれいになる、だからメリユルにしようって。それは間違っていなかった。あなたは本当にきれいになったわ。それにいい子に・・・」
 そこで母は深く、苦しげに息をついだ。衰弱しきった身体のどこからそんなに次々と言葉が出てくるのか、メリにはわからなかった。
「メリ・・・もう一つ・・・とても大事なことよ。これから先、お父さんが他の女の人と結婚することがあるかも知れないわ。あなたはそのことで腹を立てたりしてはだめよ。大事なのは、その女の人があなたたちに良くしてくれて、あなたたちのことを好きになってくれるかどうかよ。わかった?」
「いやよ、お父さんがそんなこと、いや!」メリは叫び出さんばかりだった。
「お母さんだってそう思うわ。でもね、人生は長く続くものなの。メリ、お母さんはメリのことを信じているわ。あなたはママの大切な子よ。だからしっかりして。今までずっと大変だったと思うけど。これからはあなたが家のことをやっていくのよ、約束してくれるわね?」
 メリはもう、どうしようもない気持ちだった。
「約束するわ」メリは涙声でそう答えると、母の肩に顔を寄せた。しばらくそうしていたが、顔を上げると、母は眠ったようだった。メリは音を立てないように、そっと部屋を出た。
 廊下に出ると父がいた。すっかりうちひしがれた表情で、タバコをくゆらせている。メリは、父が今までにないほど歳をとってしまったような気がした。肩幅の広い身体を折り曲げ、髪は灰色で、髭ののびた頬はこけ、瞳の奥には深い失望が読み取れた。父は娘に目をやると、訊ねた。
「お母さんと話したかい?」
 メリはうなずいた。
「ならアルビとノラの面倒を見てやってくれ」
 ここ数日、父に同じことを言われていた。母が入院し、それから床についたきり起き上がれなくなってからずっと、家のことが自分に任されているというのは、メリにもわかっていた。父が仲間と一緒にギリシアに出かけたあの冬の日のことを、メリはよく憶えていた。あの日、父はメリをテーブルの自分の傍らに座らせ、そこで初めて、母が病気だと告げたのだ。
「メリ、うちは貧乏だ。それに俺は失業中ときてる。だからギリシアに行かなきゃならん。そこで何とかやってみるつもりだ。金が貯まったらお母さんを迎えに来るから、外国の病院に入院させよう」
「どうして?このアルバニアじゃ治せないの?」メリは訊ねた。
「病院の先生はそう言ってる」
 メリは暗い表情で父を見つめた。
「だったら私たち、ここでどうやって暮らしていくの?」
「お前たちのことかい?そりゃ、今まで通りさ。お前がみんなの面倒を見るんだよ。金のことでは大変だろうけど、無駄遣いはできないよ。お母さんのために使わなきゃならないからね」
 母は、そんな危険がいっぱいの知らないところへ行くのはよしてくれと頼んだが、父は肩掛けカバンひとつで出ていった。そしてギリシアで3ヶ月近く過ごしたが、或る日、無許可で就労していた他のアルバニア人たちと一緒に警察に連れ戻されてきた。家に戻ってきた父はすっかり打ちひしがれていた。子供たちを順に抱き締め、それから母の前で、まるで悪いことでもしたように立ったまま、ぶつぶつつぶやいていた。
『俺じゃないんだ、俺が悪いんじゃないんだ』
 母はどうにか父を慰めようとしたが、ギリシアから戻ってからというもの、父は酒を飲むようになり、何かに怯えたしぐさを見せるようになってしまった・・・
 自分がそばにいて、そして、母に何が起きているかを知ってしまった今ならば、どうして父があんな風になってしまったか、メリにもわかるような気がした。メリがちらりと目をやると、父が母の寝ている部屋へ音を立てないようして入っていくのが見えた。父がそこから出てきたのは夜遅くなってからだった。メリはその気配を感じて、ずっと寝つけなかった。
 そんなことが三晩も続いた。家には親戚の人たちがやってきて、そのまま夜を明かしていった。母方の祖母に、母方の叔母、父方の叔母二人に、イタリアに移住している母方の叔父。みんな肩を寄せ合い、不安げな表情で、母の部屋に目をやっていた。或る朝、祖母がメリに、今日は学校に行かないようにと言った。その日の午後、母は死んだ。
 みんなは一所懸命に慰めの言葉をかけてくれたが、メリはひどい不安を感じていた。人の死を目にするのは初めてだった。メリだけが、母の最期を看取ることを許された。母の額にキスをして、お別れを言うようにと教えられた。メリは自分の大切な母に顔を近付けた。あとほんの少ししたら、もう生きている姿を見られなくなるということが信じられなかった。
「ああ、ママ、お願いだから、まだ行かないで!あとほんの少しだけでも」メリは声をあげた。
 だが母からの返事はなかった。それでメリは声を押し殺したまま泣き出した。叔母たちがメリの手を取り、部屋の外へ連れ出した。それからメリが憶えているのは、葬儀の後に担任教師とクラスメートたちが来てくれた時のことだけだった。クラスメートはみんな涙ぐんでいた。担任の女性教師はメリをずっと抱き締めていた。
「メリ、元気を出して!あなたは一人じゃないのよ。私たちみんながついてるわ」
 メリと担任は涙を流しながら見つめ合っていた。それからシドリトがやって来た。同じクラスの男子だが、彼は他のみんなとは違っていた。シドは身をかがめてメリを抱き締めた。彼の手は、メリの手をしっかり握り締めていた。これからはもっともっと友達でいよう、とでも言おうとしているかのように。
 その夜、メリはすっかり打ちひしがれていた。それで早めに眠ったが、翌日、目を覚ました時、最初に頭に浮かんだ言葉は「お母さん」だった。メリは起きて庭へ出た。そしてユリの花壇の前に立った。母が毎年春になると特に丹精込めて世話をしていたユリだった。それからバラに、ブドウの木に目をやった。それはイチジクの木を越え、古くなった壁面を越えて生い茂っていた。いつもの朝のように、そこに母がいて、水をやったり掃除をしているような気がした。でも違う。母はもう、どこにもいない。1995年の4月の初めの日、その朝、メリは初めて、母を失ったことに不安を覚えた。
 そして二日が過ぎ、三日、四日・・・
 親戚たちはほとんどメリの家からいなくなっていた。ようやく家族だけの夜が来た。祖母も、二日後にまた来るからと言い残して帰っていった。父とアルビとノラはテーブルについて、皿を手に待っていた。メリは卵の入った簡単なスープを作り、レモンを絞った。母が教えてくれたスープだった。スープを配ると、メリも腰を下ろした。
[訳註:アルバニアではスープにレモンを絞る人が多い]
「ねえ、ママが帰ってきたらメリはママと交代するの?」ノラが不意に問いかけてきた。まだ6歳のノラには、事態がよくのみ込めていなかった。
「僕だってもう大きいから」アルビが顔を上げずに答えた。「僕ひとりで何でもできるさ」
「メリの言うことには、みんな文句を言ってはいけないよ」父が言った。
 アルビは、その言葉が自分に向けられている気配を察して、スープ皿の上でうんうんとうなずいた。
 それからしばらくして電話が鳴った。アルビはメリの方を見た。
「きっとシドだよ」
 メリは立ち上がった。それは確かにシドだった。彼は、メリが明日は学校へ来るかどうか訊いてきた。
「でもシド、昨日、行くって言ったでしょ」
「うん知ってるよ。でも・・・どうでもいいことなんだけど・・・君がいやな気持ちになると思ったんだけど、学校のことでちょっと話がしたくて」
「大丈夫よ。言いたいことがあるなら言って」メリは応じた。
 シドはしばらくの間、何でもない話題を続けていたが、そのうち、暗い声でこう訊ねてきた。
「メリ、うちの学校の椅子ってさ、何に似てると思う?」
「え、何?」
「ラクダの背中みたいだろ」
「どうして?」
「君の席が空いてて、僕がこぶさ。かがまないとラクダみたいでカッコ悪いだろ」
 メリは笑い出しそうで、口元がほんの少し緩むのを感じていた。
「シド、悪いけど笑ったりなんかしないわよ。ラクダのこぶなんてちっとも想像できないもの」
「じゃあさ、砂漠のサボテンならどう?」
 メリはとうとう吹き出した。そして、シドに会いたくてたまらなくなった。
「電話ありがとう。また明日ね」

***
 次の日、鏡の前に立ったメリは、自分自身の変わりようにすぐさま気がついた。青白い顔と、寝不足で疲れ果て、数日泣き明かした目がそこにあった。メリは櫛で髪をといた。肩までかかる、細かくカールのかかった彼女の黒く豊かな髪は、櫛を使うといつも長引くので、順番を待つ弟のアルビはそのたび文句を言うのだった。
『わあ、ブラックミュージシャンみたいになってるよ』
 この数ヶ月というもの、メリは自分自身の身体の成長を見るたび、しばしば不安な気持ちになるのだった。クラスでは一番のっぽだし、道を歩いていても自分が必ず目立ってしまうこともわかっていた。
 メリは黒のブラウスの上にダークブラウンのセーターを着て、カバンを手にすると
「アルビ、一緒に行く?」と弟に声をかけた。
「先に行っててよ」カバンの中身をせわしげに詰めながら、アルビが答えた。だが何か見当たらないものがあったのか、音を立てて中身を床にぶちまけてしまった。
「あのねえ、いらいらしないの。それは本なんだから、そんな風に放っちゃだめよ」メリは弟を咎めるように言った。「早くしまって!」
 アルビは、メリの言うことを聞く素振りを見せた。もう5年生だが、姉のメリには頭が上がらなかった。とはいえ、姉弟仲は良かったので、家の中にいても喧嘩のようなことになった憶えはなかった。メリはアルビに友達のように接しており、そのことについてはアルビもまんざらではなかった。
 メリは古びた門を開いた。木造りの門扉が不安げな音を立て、メリは外へ出た。シドリトが道端で待っていた。カバンを右肩にかけ、バスケットボールの入ったネットを左手に下げていた。180センチ近くある彼は、学校でも生徒や教師たちの中で特に目立つ存在だった。足のサイズが44号[訳註:日本の29センチに相当]もあって、履いているスニーカーが大きいせいか、歩いていると、まるで素潜り選手が足に水かきをつけたまま海から上がってきたようだった。短髪で、ほっそりした顔つきに、セルロイドフレームのメガネが、遠くからでもはっきりわかった。彼は遊んでいる時もメガネを外さなかった。
 バスケットボールは、シドリト・アルバナにとって大きな夢だった。毎日2時間か3時間はバスケに費やしていた。いつも着るのはスポーツウェアで、テレビで見るのはバスケの試合ばかり、引き出しにはアメリカNBAの大きな試合のビデオがぎっしり詰まっていた。部屋の壁はバスケットボールの国際的スター選手のポスターや、それに本やノートの表紙で埋め尽くされていた。おまけにカバンには、ボールペンで有名なバスケ選手の名前が書いてあった。
 メリは、遠慮がちにシドの前に立った。
「お母さんのことは、本当に残念に思うよ」シドが言った。「とても良いお母さんだったからね。君のうちに行くたび、家で育てた花をくれてさ」
 メリは微笑んだ。
「ありがとう、シド」
 二人が仲良くなったのは、5年生の時だった。その時のシドは、ずっとひ弱な感じだった。見るからにひょろひょろで、身につけたシャツが、船の帆のように揺れていた。
 ぎこちない動きとメガネ、それが、この少年に対するメリの母の第一印象だった。また街にも不案内で、口ぎたなく罵り合うような連中にも馴染めない頃だった。よそから転校してきた時、まだシドのことをよく知らなかった男子たちは、彼のことを「サトウキビ」と呼んでからかい出した。彼はそのあだ名にひどく傷ついた。自分が世の中で一番ダメな奴に思えたのと、恥ずかしいのとで、学校を変わりたいとさえ思った。メリと出合ったのは、シドがそんな気の毒な状況に置かれていた、まさにそんな時期だった。或る日の体育の授業の後、シドは校舎の裏で立ったまま、悔しいやら腹が立つやら気持ちがごちゃごちゃになって泣いていた。そこへメリがやってきて、シドの肩に手をやり、問いかけた。
「シド、こんなところで何してるの?」
「もういやだ」シドは言った。
「どうして?」
「だってみんな、僕を馬鹿にするんだ」
「それは違うわ。私にとって、あなたはクラスで一番素敵な男子よ」
 シドは、信じられないといった顔でメリを見つめた。
「嘘じゃないわよ、シド」
「僕のこと、ダメな奴とか思ってない?」
「ちっとも!あなたと一緒の席になれたらなって思ってたのよ。ねえシド、私、バスケ部に入ってるの。あなたも入らない?あなたのその身長、いなくなってもらっちゃ困るわ」
 その出会いは、シドにとって決定的なものだった。メリがいたからこそ、シドは学校を変わることもなかった。シドはメリのアドヴァイスに自信を抱き、また父親のすすめもあって、少年バスケチームに入れてもらえることになった。
 6年生の新学期、シドは見違えるほどに変わっていた。肉付きがよくなり、顔に血色が増し、隙が見つからないほど敏捷になっていた。休憩時間や放課後になるといつも、バスケのコートや平行棒で力強く運動する姿が見られた。他の男子たちはシドに追いつくのがやっとという有様で、もう誰も彼のことを「サトウキビ」とは呼ぼうとしなくなった。シドは、クラスだけでなく、学校じゅうの人気者になっていた。
 メリとシドとの友達としての関係は、更に親密になっていった。二人は互いの家に行き来し、一緒に勉強するようになった。と言っても、それはメリにとってそれほど簡単なことではなかった。シドの一家は、とても大きな新築マンションに住んでいて、高そうな家具がしつらえられていた。シドの父親は有名な整形外科医で、母親は外国の文化財団に勤めていた。メリはそのマンションの立派さに圧倒された。シドがメリを自宅に初めて呼んだのは、一緒にバスケをした或る日の帰りのことで、二人とも汗だくだった。
『うちで涼んでいってよ、レモネードか何か出すから』
シドがそう言ってくれたので、メリは遠慮がちにうなずいた。
 居間の革張りの長いソファに腰掛けてレモネードを飲みながら、メリは、自分ももうすぐ彼を自宅に呼ばなければいけないのだろうかと考えて、すっかり真っ赤になっていた。もう何年も修繕してない、古ぼけた自分の家を見てシドは一体どう思うだろう?屋根は苔だらけだし、あっちこっち歪んでいるし、家の中は壁紙が剥がれていて穴も開いているし。今にも倒壊しそうな有様だし。木製の門は片方に傾いていて、門扉の一方はまるで開かなくなっていた。室内の家具のことは言うまでもないし、いつ買ったかも憶えていない。1992年に建設用車輌の修理工場が閉鎖されて以来、メリの両親は二人ともずっと失業中だった。失業手当で暮らし始めて数ヶ月経った頃、病院で母の病気が見つかって、それで・・・
 それでもメリは、そんな辛い真実に臆したりはしなかった。彼女はその数日後にシドを家に呼んだのだが、意外なことに、シドはたいそう満足してくれた。5月の、花々の咲く頃だった。彼は庭にいるのが楽しそうだった。家で飼っている犬にも馴染んでいた。弟のアルビがスパーキーと名付けたが、これはアメリカの映画に登場する有名な犬のキャラクターにちなんだものだった。二人は芝生の上でバレーボールを楽しんだ後、木製のスツールに腰掛けてココアを飲んだ。
[訳註:「スパーキー」は、ティム・バートンの「フランケンウィニー(Fran- kenweenie 1984)」に登場する、死体から蘇生した犬の名]
「すごい犬だねえ。ビルの間から出てくるんだもの。どこから顔を出すかわからないね」シドが言った。
 こんなことがあってからメリは、自分の家がシドの家より経済水準がずっと低いことからくる息苦しさを、いくらか抜け出すことができた。それでも、シドの母親に初めて会った時の印象は忘れることができなかった。シドの母エロナ・アルバナは40代にさしかかった位の、優しそうな、とても控え目な感じの女性だった。ひと目見て、満ち足りた生活を送っていることがわかった。
「まあ、あなたがメリユルね、うちの息子があなたのことをすごく自慢してるのよ!」そう言って彼女はメリの手を握り締めた。「それで、ご両親のお仕事は?」
 両親は二人とも労働者だったが、今は失業手当を受けています、とメリが答えると
「あらそうなの?」と彼女は露骨にがっかりした様子を見せた。「ともかく、お知り合いになれて嬉しいわ・・・それに、シドにあなたみたいなお友達ができてよかったわ」
 メリは遠慮がちに微笑んだが、母エロナの顔に浮かんだ失望の表情は、彼女の心の中にずっと残っていた・・・

***
 シドと二人して校舎に入った時、メリが感じたのは、自分に向けられる気の毒そうな視線だった。クラスメートの男子や女子が数人、彼女に話しかけてきた。1時間目に担任教師が出席を取り始めたが、メリに気付かず「メリユル・ジョカ」と読み上げながら「欠席」と書き込もうとした。
「先生、来てますけど」メリが言った。
 担任は名簿から顔を上げると、にっこり微笑んでみせた。
「まあ、来ていたのね。てっきり・・・」
 担任は、まるで自分の記憶の中で何年も眠っていてすっかり縁遠くなった女子の姿を探し求めるように、じっともの思いげにメリを見つめていた。すると不意にその両目のふちに涙の粒が浮かんできたが、彼女はどうにかうまくそれを隠した。生徒たちは押し黙ったまま、その様子を目で追っていた。
「よろしい。では始めましょう」担任は言った。
 その日の授業が終わると、メリはシドのところへ行って声をかけた。
「練習が終わったら、勉強を手伝ってあげるよ」シドは言った。「ずいぶん休んでたからね」
「いいのよ、そんなこと」
「メリ、君・・・練習は?」
 メリは首を振った。
「シド、バスケのことはもういいのよ。練習にはもう行かないわ。わかるでしょ。家でしなくちゃならないことがたくさんあるのよ。家族の面倒も見なければいけないし、妹だって、まだ一人でトイレにも行けないのよ」
「スパーキーのこともかい」
「そうよ、ミスター・スパーキーのこともよ。身体を洗って餌もあげなきゃいけないし」
 シドは不満な様子を隠せなかった。7年生になってすぐ、メリを「バスケの友」クラブへ誘ったのはシドだったからだ。メリもオーケーしてくれたし、両親も反対しなかった。クラブには他にも男子や女子がいて、メリはその子たちともすぐに仲良しになっていたのに。
「みんなによろしくね」メリは申し訳なさそうにそう言った。
 シドは、メリが帰っていくのを見送った。暗色のセーターで、少しうつむいて帰るその姿は、以前とは違う、まるで違うように見えた。

2
 メリの母が死んでからひと月以上経ったある晩のこと。父の帰りはいつもよりずっと遅かった。子供たちはテレビで映画を見ていた。メリは何度も不安げに壁の時計に目をやっていたが、アルビはすっかり映画に夢中になっているようだった。
「アルビ、パパの帰りが遅いんだけど、何か知ってる?」映画が終わった時、メリは訊ねた。
「ちょっと外を見てくる」シドはメリの方を見ずに答えた。
 だが家の外には誰もいなかった。メリとシドは玄関のところに立ったまま、同じことを考えていたが、お互いそれを口にしようとはしなかった。11時過ぎになって、ゆらゆらと道を歩いてくる父の姿が見えた。
「あれあれ、酔っ払ってるじゃないか」アルビがつぶやいた。
 アルビがそばへ行って手を貸そうとしたが、父の太った身体は、まるでアルビに覆いかぶさるようになり、そのまま一緒に舗道に倒れそうになった。メリは慌てて駆け寄り、父に肩を貸した。そうして家の中へ入ると、不意にスパーキーが吠え出した。父はスパーキーの方をいまいましそうに見た。
「何だって吠えてるんだこいつは?わけがわからん・・・何だって・・・」
「おい、こら、おとなしくしろよ!」アルビはスパーキーに声をかけた。
 スパーキーはちょっと尻尾を振ると、おすわりの姿勢になったが、不安そうにちょっとだけ唸った。
「俺はお前のことをよく知ってるんだぞ、なあ」父は言った。「俺とお前の仲じゃないか。俺たちは・・・仲良しじゃないか」
 メリとアルビは父の着替えを手伝い、ベッドに寝かせた。
「おい、こいつめ、何だって吠えるんだ」父は途切れ途切れに、まだ何か言い続けていた。「わけがわからん。俺は人間だぞ、犬のくせに・・・」
 アルビはとうとう我慢できなくなって、しくしく泣き出した。メリはアルビの手を取って、部屋の外へ出た。
「今夜のことは気にしないで。こんなのは、もう二度とないことだから」メリはアルビに言った。
「でもパパ、何であんなに飲んでるの?」
「あなただってわかるでしょ・・・だってお母さんが・・・今日はもう寝なさい、疲れたでしょ」
 メリは家の中が静かになるのを待った。それから少しだけヴェランダに出ると、両腕に顔を埋めて一人で泣いていた。泣いているところを弟に見られたくなかった。自分が涙を見せたら、弟はもっと不安になってしまう。その晩に感じた不安や悲しさが幾らかやわらいでから、メリは家の中へ戻った。そして思い乱れながら眠りについた。
 翌朝早く、部屋を掃除して花に水をやるつもりでメリが起き出してみると、父が外でタバコを吸っていた。メリは朝の挨拶をしながら、何ごともなかったようににっこり微笑んでみせた。
「おはよう」父はメリと目を合わさないまま返事をした。
「パパ、コーヒーをいれてあげるから、朝ごはんの前のタバコはやめてちょうだい」
 父はタバコをポイと捨てた。それからヴェランダから庭に下りる階段のところに腰掛けてコーヒーを飲んでいた時、突然、家賃のことで困っていると話し始めた。
「あと何日待ってもらえるの?」メリが訊ねると
「もうほとんど無理だよ」と父は答えた。そして途方に暮れた様子でため息をついた。
「友達のところで幾らか金が入ることになっているんだ」父は言った。「この何日か、車の修理を少しだけさせてもらってね。メリ、わかってるだろうが、パパには仕事がないんだ。仕事がしたくないわけじゃない。パパの友達が修理店をやっていているが、人手は間に合ってるんらしいだ。パパが呼ばれるのは、人手が足りない時だけさ」
「わかってるわよ、パパ。私の貯金してる分を出すから」
「メリ・・・すまん。昨日のことは・・・よく憶えてなくて・・・その・・・」
「昨日は何にもなかったわ」
「そんな無理にパパをかばってくれなくてもいいんだよ」
 メリは家事に熱中していて、父の言葉が聞こえないふりをした。父は感謝を込めた表情で微笑んで、もの思いげに、隣家との間を隔てる壁の足元に咲いているユリの花壇に目をやった。
『もうそんな時期なんだな』父は思った。ユリの咲く時期だった。『よしてくれ、何だってそんな風に俺のことを責める?』
 その日、父は早々と家を出ていったが、その日父に仕事が見つかるかどうかは、メリにもわからなかった。メリは、寝ているアルビとノラの肩をゆさぶって起こさなければならなかった。アルビはテーブルについて目をこすり、首筋を掻いていた。
「ふわあ、早く夏休みにならないかなあ。メリ、朝ごはん何?」
 メリは冷蔵庫を開けて中を見渡したが、その中にあったのは、チーズがひときれと、塩の入ったガラス瓶だけだった。メリはチーズを出して二つに分けた。それからパンをひときれ切ると、ポリ容器に入ったオリーヴ油の残ったしずくをパンの上に塗り、アルビの前に出した。
「どうぞ。一つはあなたの分、もう一つはノラの分よ」
「またパンとチーズだけ?」アルビは不満そうな声をあげた。
「見ての通りよ」
「どうなってるのこの家は、パンとチーズしか食べるものがないなんて!」
「うちはそういう家よ!」メリも声をあげた。「あなたの欲しいものばかりあるわけがないでしょう。わかった?」
「じゃ、校長先生がやめたらさ、メリが代わりにやってよ」アルビはくすくす笑いながら言った。
「静かにさせるの、得意でしょ」
 メリは、言い方を変えようと思った。
「アルビ、私はあなたのことをもう小さい子供だとは思ってないの。これから私たち、少しのお金で暮らしていかなければいけないのよ」
「つまり、うちは貧乏ってこと?」アルビががっかりした口調で訊ねた。
「私がわかってるのは、パパに仕事がないってことよ。誰だって、仕事がなければお金をもらえないわ」
「でも何で仕事がないの?」
「工場が閉まっちゃったからよ」
「何で閉まっちゃったの?」
「アルビ、お願いだからもうやめて!」
 アルビはしばらくもったいぶったしぐさを見せていたが、やがて仕方なさそうにパンとチーズに手をやった。それから妹の手を取り、幼稚園まで連れて行った。それは、アルビにとってまるで気の進まない日課だった。メリは食事抜きで出かけるしかなかった。ところが近所の家のバルコニーの下を通り過ぎようとした時、ビュレク屋の、アルバニア風のバルコニーから、女性の呼ぶ声が聞こえた。メリが足を止め、声のする方に近づいてみると、湯気の立つビュレクが二つ、白い紙に包まれたのを差し出された。[訳註:ビュレク(byrek)は肉やチーズの入ったパイ]
「ありがとうバルザおばさん。でも、今日は食べたくないの」
「遠慮することないのよメリ、後で食べたらいいじゃない」
「でも、私・・・お金ないし」
「これはおばさんからのおごり。お金なんかいいから」
 メリは恥ずかしそうにビュレクを受け取った。その香ばしい匂いに、メリは胃がキリキリ痛むのを感じた。
「気をつけて学校行くのよ」とバルザおばさんが声をかけてくれた。
 メリは、バルザおばさんの言葉をよくわかったという風ににっこりしてみせた。バルザおばさんはメリの母と仲良しで、一緒に働いていた時期もあった。数年前に夫を亡くしていて、まだ若いのに8歳の女の子がいる。今は自分の母親と一緒に暮らしているが、とても元気なおばあちゃんで、娘にビュレク店を始めるように言ったのもこの人だった。彼女らはその商売で家を支えている。ビュレクを買っていくのはほとんどが近くの学校の生徒たちで、あとは通りすがりの人だ。
 メリはビュレクを1つだけ食べて、残りの1つは弟のためにとっておいた。
 その日、校内はやけににぎやかだった。もうすぐ学期末で、暑い夏の季節が始まっていた。呉素メートの男女は、ドゥラス[訳註:アルバニアの港町。首都からバスで1時間弱]への遠足の計画に余念がない。話題に上るのは海と水着とサンオイルとパラソルと、そしてバスのことばかりだった。メリはその話題を避けたくて途方に暮れていた。バス代を納めなければいけないのに、まだ払っていないのはたぶん自分だけだったからだ。ところが、クラスの優等生で集金係のボラがメリに肩を寄せて、こう言ったのだ。
「大丈夫よメリ、担任の先生が払っておいてくれたから」
 メリはその言葉に困惑していた。それに、シドとは遠足先ですることも約束していなかった。
「たぶん、行くわ。その時にね」
メリがそう言うと、シドは少しもの思いげな目で彼女を見つめた。

***
 メリが家に帰ってくると、門のところに祖母が待っていた。全身黒の服装で、まだ60代になったばかりだというのに、ずいぶん老けて見えた。祖父が3年前に亡くなり、息子もイタリアに渡ってから、祖母はほとんど一人で暮らしていた。優しくて気配り屋な性格だったが、その身に背負った孤独と不幸が、彼女をさらに繊細な性質にしてしまっていた。
 祖母は、不審げな表情で家の方に目をやった。「お父さんはいないのかい?」
「朝から仕事に行ってる」
「仕事もないのにかい!」そう言いながら祖母は訊ねた。「それで、お昼はどうするんだい?」 [訳註:アルバニアは昼食がメイン。午後2~3時頃には仕事を終え、帰宅して昼食をとる]
「いつもの通りよ」メリは、顔を赤らめながら答えた。
 祖母は台所の戸棚を開け、それから冷蔵庫の中をのぞいてみて、メリの家の状況をすぐさま察した。そして何も言わずに外へ出て行き、15分ほどすると、両手にビニール袋を提げて戻ってきた。ありとあらゆるものが揃っていた。それから大急ぎで昼食の支度をしながら、孫と目を合わせないままで、祖母はこう訊ねた。
「ゆうべ、お父さんは飲んできたかい?」
「ううん」メリは嘘をついた。そうする方がいいと思ったからだ。
 だがその翌々日、夜遅く帰宅した父はまたしても泥酔していた。メリとアルビは前にも増して不安な気持ちになり、メリは遅くまで寝つくことができなかった。明日、学校の前で、ドゥラスへ出かけるみんなが自分のことを待っているところを想像すると、自分にとって海がずっと遠く、この世で最も意味のないものに思えてきた。
 目を覚ましたのは、スパーキーの鳴き声のせいだった。誰かが家の門を叩いている。8時を過ぎていた。メリがベッドを出て、腫れぼったい目をこすりながら外へ出てみると、そこにシドがいた。シドはメリの様子を見ると、ひどくがっかりした顔をしてつぶやいた。
「メリ、どうしたの・・・行か・・・ないの?」
「ごめんね、ちょっと無理なの」メリは答えた。
 シドはその場を離れないままで、少しだけ身をかがめて、門の上の部分に頭をぶつけないようにしていた。
「その・・・本当に行かないの?」
 シドのメガネの奥に、懇願するような目が見えた。
「メリ、僕、今日はバスケの練習も休んだのに」
「シド、お願いだから私の言うこと聞いて!」
 シドはもうそれ以上何も言わなかった。そしてジーンズのポケットに両手を突っ込んで、うつむいたまま立ち去った。小刻みに揺れるその背中はちょうどバスケ選手がボールを追っているようだった。それでもシドの足取りにはいつもの元気がなかった。些細なことだが、メリにだけはそれがはっきりとわかった。もやもやした気分で家の中へ戻ったメリは、こうして憂鬱な一日を過ごすことになった。家の中を隅から隅までせわしなく動き回っていても、遠足先の海で楽しそうに遊んでいるクラスメートたちのことが、頭から離れなかった。
 父親も、娘に声をかけようとはしなかった。起きたらさっさと着替えて、娘に気付かれないうちに出かけるつもりだった。酔いがさめて頭がはっきりしてくると、もう何もかもが、自分が酔っ払っている間に起きたことで、それもまた自分のせいであるような気がしたのだ。すると娘が
「パパ、コーヒー飲んでいかないの?」と訊ねてきた。
「いいよ、外で飲むから」父は答えた。
 今日は、お父さんは昼食にしか戻ってこないだろう。メリはそう確信した。まるでこの家を怖がっていて、なるべくなら家にいたくないみたいだもの。昨日は少しお金を持ってきてくれたから、今週は多少貯金に回せそうだけれど。
 その日の夕方になって、メリは電話の前に立つと、シドの家の番号を押した。彼はすぐに電話に出た。
「ハイ、どうだった?」メリは訊ねた。
「みんなは楽しそうだったよ。でも、僕だけいらいらして、つまんない一日だったよ」シドは言った。
「どうして?」
「さあね。ずっと、君が来なかったことばかり考えてからね」
「どうしてそんなこと言うの。私が喜んで家の中にいたとでも思ってるわけ?」メリは不満げにそう言った。
 少しだけ、沈黙が続いた。
「ねえシド、私が来られなかったこと、許してくれてる?」
「許すに決まってるさ。僕が怒ってるとか思ってたの?」
「ううん」
「カニにね」
「どうしたの?」
「1時間ぐらい特訓したら、海藻で毛玉が編めるようになっちゃってさ」
 メリは思わず吹き出した。その翌日、学校へ行く時の彼女は、すっかり気分が楽になっていた。

***
 学期末が近づいた頃、メリは、長く憂鬱な夏が自分を待っていることを知らされた。今までとはまるで違う夏だった。祖母は幾度も、沈痛な表情でメリに言って聞かせていた。
「もういろんなことはあきらめてもらわなきゃいけないよ。音楽とかダンスとか、散歩とかスポーツとか。おばあちゃんなんて、今のお前より一歳上の時に結婚して、おじいちゃんのところへ嫁いだもんだよ。今はすっかり変わってしまったね。女の子は大きくなったら結婚するものなのに、今は学校も出ないうちからいちゃついてるんだからねえ、仕事もないのにだよ。わかるわね?」 [訳註:アルバニア人は昼食後に休憩を取り、夕方から夜にかけて町中を散歩する習慣がある。この時、買い物や知人宅への訪問、カフェでの雑談などを楽しむ。]
「ねえ、おばあちゃん、シドとも会っちゃダメなの?」メリは不安な面持ちで訊ねた。
「シドってのは、ボール遊びばかりしているあの電柱みたいなのっぽの子かい?」祖母は不満そうに言った。「そりゃダメさ。まあ・・・学校の勉強のことだっていうんなら・・・会ってもいいけどね」 メリは祖母に抱きついた。そして、決して道を誤ったりしませんと約束したのだが、
「道を誤るといえば、あんたのお父さんのことも心配だよ、あたしはねえ」と祖母はまだぶつぶつこぼしていた・・・
 学期末、校門を出ていくメリの心は重苦しかった。その時、担任の教師が自分を呼ぶ声がした。
「メリ、夏休みの間に私に何か用があったら、連絡するのよ。私の電話番号は知ってるわね。会いたくなったら、会いに来てもいいのよ。悩みごとがあれば、うちに来てくれてもいいからね」担任はそう言ってくれた。
 メリは担任に手を伸ばし、感謝のキスをした。
「リンダ先生、ありがとう!」
「今まで先生、あなたの役に立ってあげられなかったわね」
「先生・・・先生は別です。他の先生たちより、ずっといい先生ですよ」
「そんなことないわよ」
「そんなことありますよ」
 リンダ先生はにっこり笑って、メリの手をぎゅっと握った。
 家に帰ったメリはカバンを棚に置き、それからカレンダーに目をやった。6月、7月、8月だけで一年の他の月を合わせたのと同じくらい長いような気がした。『こうして始まってしまうと、夏もなかなか終わりそうにないわね』メリは思った。そして袖をまくり上げると、家事にとりかかった。夕方になって祖母がやってきた。そしてあちこち見回していたが、満足はしていないようだった。
「ほら、こういう風にするんだよ。女の子はしっかり家事をしなくちゃね。卵から生まれた途端に化粧のことばかり気にするなんて、嘆かわしいねえ。どういう時代になったんだろうねえ。それともあたしがそういう連中やら要領のうまいやり口やらに慣れてないのかしらね。でもそういう連中には、あたしみたいな歳のものはどう見えているのかねえ。つくづく世も末さ。あたしが若い娘だったら、世間に顔向けできないだろうねえ」
 メリはそんな祖母の言葉に吹き出した。
「それで、お父さんはまだ帰ってこないのかい?」しばらくして祖母が訊ねた。
「うん」
「どこにいるんだい?」
「さあ」
「どこかの飲み屋に決まってるよ」祖母は軽く腹を立てていた。「おお神様!あんたのお父さんも、酒さえ飲まなければねえ」
 祖母は、夕食後もメリの家に残っていた。どうやら、メリの父が帰ってくるまで待っている心積もりのようだった。そして父が帰宅すると、祖母は不満げな視線を彼に向けた。父はおどおどした風で、祖母に挨拶した。
「メリ、アルビ、ちょっとお父さんと二人にしておくれ」祖母は言った。
 メリたちは背をちぢこめて部屋から出た。
「そりゃお母さんの言うことももっともですよ」メリの耳に父の声が聞こえてきた。
「バシュキム、あたしはあんたと腹を割って話したいのさ」祖母の声だ。「あたしの言うことを悪くとってもらっちゃあ困るよ。あんたの奥さんが死んでそりゃ大変だってのは、よくわかってるさ。でもね、子供たちのことを思えば、あんたがしっかりしなきゃダメじゃないか。もう酒はおやめ。そういう悪い癖はいずれあんたどころか、あんたの家族までボロボロにしちまうよ」
「わかってますよ」父は答えた。「やめるように努力します」
「もうあたしが心配しなくてもいいんだね。そうなんだね?」
「そう思ってくれていいですよ」
「じゃあ、そういうことにしとこうかねえ」
 祖母は、まだ信用しきれないといった面持ちで帰っていった。
 祖母の懸念は外れていなかった。父はそれまでと変わらず酒を飲み続けたのだ。それは隣近所の目にもとまるようになった。父が酔って家を出入りするところもたびたび目撃された。メリは家の外へ出るのが恥ずかしかった。みんなが、とりわけ近所に住むクラスメートの女子たちが、自分のことを胡散臭そうな目で見ているような気がした。
 そのクラスメートたちが夏休みにティラナの外へ出かけるつもりがなくても、家に遊びに行くつもりにはなれなかった。彼女たちが午前中に互いの家に行き来する中、メリだけはわざと姿を見せなかった。家の門から外へ出ることも滅多になかった。外出したのは、祖母に連れられて母の埋葬されている墓地に行った時と、アルビを連れてシドの出ているバスケの試合を見に行った時だけだった。
 生活状況は、日が進むに連れて不安定の度を増していった。いろいろな代金の支払いにもこと欠くようになった。お金は、ある時はあったが、ない時は全くなかった。祖母以外の親戚が家にやってくることも、滅多になくなっていた。母方の叔母はアルバニアを出ようとしていて、地元に残るのは祖母と、あとは医学部に進む予定の娘だけだった。母方の叔父も、移住先のイタリアで家族の面倒に明け暮れていたし、父の妹に当たる叔母の家はエルバサン[訳註:アルバニア中部の都市]だ。その叔母も或る日帰ってしまった。帰り際、自分の弟であるメリの父と顔を合わせることはなかったが、メリを抱き締めて涙を流しながらこう語ったのだ。
「かわいそうなメリ、わかってちょうだいね。叔母さんはしょっちゅう来てあげることができないのよ。叔母さんの家も暮らしていくのがやっとなのよ。距離も距離だしね。ごめんなさいね、もうあなたを助けてあげられないわ」
「わかっているわ」メリは返事をした。
「弟のバシュキムがあんなひどい有様になってしまうなんて、想像もしていなかったよ。あの子はしっかりした、働き者だったのに。工場でも、この近所でも、みんなから尊敬されていていたのに。神様はひどいことをするよ。こんな運命はやりきれないわ」叔母は言った。
 そして彼女は、スカーフで涙を拭いながら帰っていった。
 唯一、お金のことで頼れるのは、父方の叔母のドニカだった。彼女の家はティラナにあって、夫は商売をやっていた。高価な車を持っていて、メリの家にやって来るたび、隣近所に見せびらかすように門の前にその車を停めるのだった。お金も以前から有り余るほど持っていて、息子をアメリカに留学させていた。自分の弟であるメリの父には、会うたびその手にたっぷりお金を握らせるのだが、不思議なことに、メリの父が好きなのは、エルバサンに住んでいる貧乏な叔母の方だった。ティラナの叔母はどうもまるで違うらしい。とにかくドニカは、自分の夫の話をしないではいられないのだ。
「あそこの旦那は、どうも好きになれないね」或る晩、父はメリにそんなことを言った。「誠実さがないんだな。少しぐらいお金が入ったからって、付き合いきれないよ」
「でも、叔母さんがお金をくれるってのは、大きいわよ」メリは言った。
「おまけにこの頃、旦那に似てきたよ」
「でもパパ、叔母さんは私たちに援助してくれてるのよ!」
「うちに必要なのは人道支援だよ。お情けなんか受けることはないんだ」
 メリはどうにか気持ちを鎮めようとした。
「でも今はそれを受けているのよ」
「メリ、わかってくれないか。お父さんは何も、叔父さんがお金持ちだからって腹を立てているわけじゃないんだ。そりゃ今のお父さんは苦しい状況だけど。お父さんの姉さんと結婚していても、ああいうタイプはどうも好きになれないんだよ」
 メリはどうにかして話題を変えたくて、仕方がなかった・・・

3
 8月中旬の、うだるように暑い或る日のこと。家の電話が鳴ったのでメリが出てみると、シドからだった。
「メリ、今日の夕方も忙しい?」
「いつもと同じよ」
「アイスでも食べに行かない?明日からオフリド[訳註:アルバニアとマケドニアの国境の湖]に行かなきゃならないんだ。家のみんなと夏休みを過ごすから、それで・・・もし・・・よかったら・・・」
「いいわよ、行きましょう」
「僕が君の家に行くよ。ねえメリ、スパーキーも連れて出かけないか?」
「そうしましょう」
 電話を切って最初にメリが考えたのは、着ていく服と履いていくサンダルのことだった。彼女は気が気でなかった。流行りの服なんか持っていなかったのだ。特に問題なのは足元だった。サンダルは去年から履いているものだった。それも小さめのサイズで、要するに、今のメリにはきつ過ぎた。一つだけまともに着られそうなのが、イタリアの叔父が買ってきてくれた短めの袖のあるシルクのブラウスだった。メリはそのブラウスとジーンズで出かけることにした。足元はというと、ドニカ叔母さんの娘に貰った履き古しの運動靴を履いていくしかなかった。自分の履くものさえ買えなくなるなんて、思ってもみなかった。クラスの女子たちにこの格好を見られたらと思うと、自分がひどく惨めな気がした。
 メリは鏡の前に立って、今度はそのカールのかかった髪に、思案げに櫛をかけ始めた。
「何でヘアジェル使わないの?」傍らでアルビが本を手にしたまま訊ねた。
「つまんないこと言わないで」メリは憂鬱そうに答えた。
 その時、シドがメリの家にやってきて、スパーキーに親しげに声をかけた。今回はスパーキーもわかっていたのか、吠えたりしなかった。メリとシドは玄関に出た。
「やあシド、もしかして背伸びた?」アルビが話しかけた。
「そんなことないさ」
「ねえねえ、ちょっと取り引きしない?」
「何だい」
「シャック・オニールの写真をあげたら、幾ら払ってくれる?」
 シドはびっくりして口笛を鳴らした。
「本当にシャックの写真なんか持ってるのかい?だったら『デュラン・デュラン』のテープと交換しようか?それとも『883』の方がいい?」
「『デュラン』とか『883』なんて、別にどうでもいいよ」
「カセットはいらないってこと?」
「うん」 [訳註:シャックことシャキール・オニール(Shaquille O’Neal)はNBAボストン・セルティックスの選手。この作品当時はおそらくオーランド・マジック所属。883(オット・オット・トレ)はイタリアの男性デュオ。デュラン・デュランは、訳者と同世代の方には説明不要でしょう]
「じゃあ、僕が使ってたサッカーボールをあげようか?」
 そう言われてアルビはちょっと考え込んだが、
「オッケー。写真、今あげようか?」
「いや、僕らが戻ってきてからでいいよ。そうだアルビ、君も一緒にアイス食べに行かない?」
「あいにくだけど、自分より背の高い人と一緒に歩くのって、好きじゃないんだよね」
 メリは笑って弟の頭をなでた。アルビは利発な子だった。シドにもすぐ懐いたが、或る時、姉のメリに向かって真剣な表情でこう言ったことがあった。
『姉さん、あのシドと仲良くなって、本当に正解だったよ・・・』
「アルビ、スパーキーを外に出してあげて。一緒に連れて行くから」メリはアルビに言った。
 スパーキーは嬉しそうに吠えた。まるで、この散歩が楽しいものになるとわかっているようだった。垂れ耳の茶色の毛むくじゃらで、足は短く、尾も短く、うしろから見るとアジサイそっくりだった。メリがリードを手にしておすわりを命じると、スパーキーは足をごしごしさせ、さらに従順ぶりを示した。
「ところでバシュキムおじさんは?」不意にシドが訊ねた。
 メリとアルビはほんの一瞬、互いを横目で見やったが
「叔母さんのところに行ってるんだ」とアルビがとっさに答えた。
「もう長いこと会ってないなあ」
「それは・・・それは、工場で一日中、仕事してるからだよ」
「後で戻ってきたら会えるわよ」
 メリとシドはティラナの中心部に出た。一緒に出歩くのは初めてではなかったが、メリはひどく気後れがした。自分がまるで変わってしまったようだったが、シドが自分の変化に気付いていないことも驚きだった。シドは、他人の身なりや見た目を気にするような性格の人ではなかったのだ。何も変わっていないのかも知れない、メリはそう思った。自分の父が酒に溺れ始めたことを、シドは知らない。でも、知ってしまったら一体どうなるんだろう?
「今度のオフリドも、急に行くことになってね」シドは言った。「本当は行きたくなかったんだけどさ、でも一緒に来るようにって言われてね。アナの家族も一緒なんだよ。仕方なしの休暇旅行さ」
 アナは芸術高校の音楽科に通う、メリやシドと同い年の女の子だった。ピアノ専攻で、シドと同じマンションに住んでいて、互いに家族ぐるみの付き合いだった。
「それじゃあ、バスケのコートもあるんでしょうね」メリが言った。
「うん、それが・・・どうしてかわからないけど、使っちゃダメっていうんだ。3週間もあるのに」
 メリはそんなシドの言葉に軽い胸騒ぎを覚えた。しばらく二人は黙ったまま歩いた。大通りに近づくと、シドが「どこかお店にでも入ろうか」と訊ねてきた。メリは顔を赤らめた。
「シド、お店なんて恥ずかしいよ。まだ大人でもないのに」
 シドは笑った。
「でもさ、アイスって子供が食べるものだよ」
「お店で買って、ピラミッドの前の石段で食べる方がいいわ」
「別に構わないよ」
[訳註:「ピラミッド」はティラナ中心部にある「エンヴェル・ホヂャ博物館」の通称。現・国際文化センター]
 二人は一軒の売店の前に立った。冷凍ケースの中にアイスクリームがぎっしり並んでいる。
「どれにする?」シドが訊いてきた。
「あなたからどうぞ」とメリは言った。「私もお金払うから」
「おいおいメリったら!誘ったのは僕だよ」
「でも・・・私・・・お金も払わないで受け取るなんて考えられないよ」
「へえそう?じゃあ、僕がオフリドから帰ってきたらアイス3つは食べなきゃね」
 メリは思わずジーンズのポケットから手を出していた。そこには、家賃として払うための、幾らかのお金が入っていたのだ。彼女はチェリージャムのアイスを注文し、シドも同じものを買った。それから二人は大理石の石段に腰を下ろした。日暮れ間際のその時刻、その場所だけは売店もレストランやカフェもないせいか、特に人通りでごった返している。スパーキーは二人のそばに座っていたが、しばらくして白い毛の雌犬が通りかかると、その方へ走っていった。
 不意にダイティ[訳註:ティラナ東部にそびえるアルバニアの最高峰]の方から雷の音が聞こえてきた。空は薄暗くなってきたが、人々はその場を離れようとはしなかった。
「雨になりそうね」メリが言った。
「それがどうしたの?ずっと暑くて死にそうだったんだから、少しぐらい濡れてもいいじゃない」そう言ってシドは笑った。
 メリは、ふとため息をついた。
「どうしたの?」シドが訊ねた。
「何でもない、ちょっと思い出しただけ」
「やっぱり、まだお母さんのこと考えてるの?」
 メリは、自分の瞳がじわじわと潤んでくるのを感じた。ママさえいてくれたら、と思った。
「ごめん、そんなつもりじゃなかったんだ」シドが済まなそうに言った。
「大丈夫。もうそのうち乗り切れるわ。ねえ、最近の試合のこと話してよ」
「ドゥラスで『ドルフィン』と試合した話かい?うーん、この『負け知らず』とやり合えるようなドルフィンもブルーシャークも、まだ生まれてはいなかったようだね」
 シドが入っているチームは「負け知らず」と呼ばれていて、数ある8年生の少年チームの中でもとりわけ強豪だった。シドはドゥラスでの試合のことを楽しそうに話し出した。そうして二人して石段のところに座っているうち夜になった。雷の音が大きくなった。空は一面雲に覆われ、人々はその場を立ち去り始めた。白い雌の犬もいなくなり、その場に取り残されたスパーキーが不満げにうなり出した。
 シドがスパーキーを連れてきて、二人は家路についた。ところが歩き出して5分も経たないうちに、大きな雨粒がばらばらと落ちてきた。外に出ているカフェやレストランのテーブルからは人の姿が消えていた。路上も同じだった。スパーキーがクンクンと鼻を鳴らし始めたが、雨宿りできそうな場所は見つからなかった。メリは全身ずぶ濡れだったが、シドは両手を広げて笑っていた。雨でメガネが濡れて、まるでショーウインドウ越しにものを見ているような感じだった。メリが近くにあった売店の、低いひさしのところへ駆け込んだ。スパーキーも彼女の足元に座り込んだ。そこへシドがピョンピョン大股で跳び込んできた。
 雨は勢いを増していた。叩きつけるような土砂降りが、ものの数分もしない内に路面に溢れ返った。メリとシドが雨宿りしていた売店のひさしは狭く、二人して雨をよけるのが精一杯だった。シドは少し背をかがめていた。メリは髪を振って雨をはらうと、震える両手を組んだ。雨に濡れたブラウスが、身体にぴったり張りついていた。ひさしの上から流れ落ちた雨粒が、肩や首筋に垂れてくる。雨をよけたくてもどうしようもなく、メリはシドの方に近づいた。
 すると不意に、自分の肩に彼の腕がかかるのを感じた。彼の腕に包まれていると、メリは自分がこの世で最も安全な盾に守られているような気持ちになった。甘い胸騒ぎがして、自分がどこにいるのかも忘れてしまいそうだった。シドは何も言わなかった。その手は温かくて、メリの肩の上で不安げに震えていた。メリとシドが二人きりになるのは、別にこれが初めてというわけではなかった。練習からの帰りに、彼の自転車の後ろに乗せてもらったことも一回や二回ではない。それなのにメリは今、これまで感じことのないような胸騒ぎを感じていた。
 どれぐらい時間が経ったのだろう。雨はやんでいた。二人は、スパーキーの不満げな鳴き声で我に返った。そして、互いの顔を見ようともせず、足早に、水たまりの大きいのや小さいのを避けるように、ぴょんぴょん駆け出した。メリの家にたどりつくまで、互いにひとことも口をきかなかった。けれど、門の前で別れる時、二人は互いの目を見つめ合った。すると、ほんの数分の間に、いろんなことが今までとは違ってしまっていることに気がついた。
「じゃあ、またね」しばらくしてシドが言った。
「あの・・・シャックの写真は?」メリは思い出して訊ねた。
「あ、そうだったね」シドは、戸惑った口調で言った。
 シドが玄関に入った時、急にメリは不安感に襲われた。『もし父が、例のごとく酔って帰ってきていたらどうしよう?』
 だが家の中は静かだった。アルビはテレビで映画を見ていた。メリはアルビに声をかけてから、スパーキーのリードをつなぎに行った。アルビは写真を新聞紙に包んで持ってくると、
「二人ともびしょ濡れじゃないか。それじゃ冬まで乾かないよ」と笑いながら言った。
「アルビ、ボールはオフリドから戻ってきたら持ってきてあげるからね」シドが言った。
「オッケー。向こうでも元気でね」
「アルビもね」
「そうじゃなきゃ、残り少ない夏がもったいないもんね」
 そう言うと、アルビはテレビを見逃したくないらしく、奥へ引っ込んだ。
 シドはメリに手を差し出した。メリは手を握ろうかどうかためらっていた。手先がまだ震えている。結局、シドの指先だけぎゅっと握り締めて、聞こえるか聞こえないか程の声で「またね」と口にするのがやっとだった。彼女はその晩ずっと落ち着かなかった。ノラが「お腹すいた」と文句を言い出さなければ、夕食もほったらかしていただろう。待ちくたびれたアルビは、もう先に食べていた。10時を過ぎると、メリたちは門の方にちらちらと目をやり始めた。
「今日はどのくらいかかるのかな?」アルビが不安そうに訊いてきたが、メリは何も答えなかった。ひたすら待った。そして遅くに父は帰宅した。
 メリと顔を合わせた父は、ばつが悪そうにうつむいた。
「ごめんよメリ、遅くなってしまって。パパは行きたくなかったんだ・・・でも、パパの友達が・・・それで・・・」
 メリは父に食事をするかどうか訊ねたが、父は水を一杯頼んだだけだった。そしてヴェランダの古いソファで綿の毛布をかぶって寝てしまった。母が死んでからというもの、父はかつての夫婦の寝室で一度も眠ろうとしなかった。どんなに眠くても、その部屋で寝るのだけは嫌だという。メリには、父のそんな振る舞いがどうしても理解できなかった。
 その夜、メリはなかなか眠れなかった。あの売店のひさしに降る雨の音が、まだ耳に残って離れなかった。それは甘く、すぐそばで聞こえるようだった。肩のぬくもりさえ、まだ残っているような気がした。おかげで翌日、メリは寝坊した。暑かったが、いつものように朝の仕度にとりかかろうと、ぎこちない動きで身を起こした。今日が憂鬱な、永遠に続くほどに長い日になりそうに思えてきて、メリは顔を洗うのも忘れたまま、ため息をついた。
 そんな朝が一日また一日と続くようになると、メリはその日々をつまらなそうに数えながら過ごした。その間ずっと門の外には出ようとしなかった。クラスの女子が外へ行こうと誘いに来ても、家を空けることができないからと、どうにか言い訳をするのだった。みんなは遊びに来てくれてもよかったが、メリ自身は家にいなければならなかった。
 そんな或る日の午後、メリは家の裏庭に座っていた。その目は、ずっと前に壁に取り付けられた古いバスケットゴールに向けられていた。ゴールはひん曲がり、ネットは破れている。もうずっと誰も使っていないのだ。メリの瞳に、そのゴールにボールを投げ込む、よく見慣れた二本の腕が浮かんだ。 「シド、今どうしてるの?」メリはたまらなくなってつぶやいた。

***
 ホテルの窓から、バスケットゴールのプラスティック板がきらめいて見える。西日の光がそこへ注がれていた。シドはしばらくそれを、もの思いげに眺めていたが、やがてボールを手にすると、部屋を出た。そして両親のいる部屋のドアをノックすると、両親が立ち上がって出迎えてくれた。シドの母がイタリア製のエスプレッソマシーンのスイッチを入れると、コーヒーのいい香りが部屋中に漂った。シドは両親に挨拶した。
「やあシド、気分はどうだい?」シドの父がにこにこしながら訊ねた。
 シドはボールを床にポンと投げた。
「どうって、ホテル暮らしじゃないか」
「もうバスケはいいでしょう。あなたそれじゃまるで練習に来たみたいよ」シドの母エロナが言った。
「じゃあ何をしろっていうの?」
「何か不満なの?」
「まあね」
「ティラナよりはましだと思うがねえ」父はなおも微笑みながら言った。
 シドは両親をバスケットボールに誘ってみた。
「そりゃいいけど、ママがあなたとそれをするの?」母が訊ねた。
「お母さんもおいでよ」
「ねえシド、それはアナと一緒にする方がいいんじゃないかしら」
「アナはバスケのことなんか知らないよ」
「教えてあげたらいいじゃないの!あなただってピアノのことは知らないでしょ。ちゃんとアナの相手をしてあげなきゃダメじゃないの」
「何で僕がそんなことしなきゃいけないの!?」
シドは呆れて叫んだ。
「だって、アナだって退屈がってるじゃないの」
「アナってちょっと気どってるし、付き合いきれないよ」
 だが母エロナはコーヒーをカップに注ぎながら
「アナは理想的な女の子よ」と言うだけで、息子の抗議を受け付けなかった。
「さあコーヒーを召し上がれ」
 するとシドは、ボールを小脇に抱えて部屋を出て行ってしまった。
「まあ呆れたわねえ、あの子ったら!」エロナは夫アリアンに向かってそう言ったが、アリアンは笑っているだけだった。
「そう驚くようなことじゃないよ。あの年頃にはよくあることさ。私たちの頃だって、親と話すのは気まずかったからね。私たち自身も通ってきた道だよ。シドはティラナの、あのクラスメートの女の子のことで頭がいっぱいなのさ。何ていったっけね、あの素敵な子は?」
「メリユルよ」
「私がシドと同じぐらいの歳の頃にも、クラスにメリユルっていう名前の女の子がいてね。一緒にいても全然飽きなくて、一日中でも話していたかったんだけど、あの頃はうちに電話がなくてさ」
 エロナはそれを聞いて笑った。
「あなた、シドが電話で喋ってるの聞いたことある?たぶんあの子、あのメリユルに気があるわ。でも不思議ねえ。アナのことは全然気に入らないのに」
「アナはエゴイストなところがあるね。いつも自分が注目されていたいと思っているようだ。お前気付いたかい?このホテルにハンガリーからヴァイオリニストの男の子が来た時なんて、あの子はシドのことなんかすっかり忘れていたじゃないか。それで、そのヴァイオリニストが帰ってしまうと途端にシドのことを思い出して、しょっちゅうべたべたしていた。あれはさすがにシドも我慢できないさ」
「あなたは、あのメリの方が大人だと思うの?」
「きっとそうだと思うよ。それに、とても真面目な子に違いないね」
「でもシドはデリケートな子よ」
「そうだね。でも、あの年頃の男子はみんなデリケートなものさ」
「信じられないわ、あの子がドアぐらいに背が伸びるなんて。大きくなったものねえ!」
「まあ、かわいい時期はもう過ぎ去ってしまったのさ」そう言うと、アリアンはカップを脇に置いた。「私ももう一度だけ、シドぐらいの頃に戻りたいよ」
 アリアンがバスケットボールのコートバスケットへ目をやると、息子がゴールに向かってフリースローを繰り返していた。
 ボールは細長い弧を描き、ゴールの枠にガンと当たった。シドは口元を真一文字に結び、気を散らせまいと懸命になっていた。ボールを手に取ると、足元で数回ドリブルさせ、そして間髪入れずにゴールめがけて投げ放つ。しかし当たったのはまたも鉄枠の方だった。シドはメガネを外し、それをシャツの端で拭った。十回ほどシュートを繰り返す頃には、ゴールから少し離れる格好になっていた。
 シドはメガネをかけ直した。と言ってメガネのせいというわけではない。ボールがゴールに入るのは4、5回投げて1回というところだった。シドはボールを手から放すと、今度はコートの周りをランニングし始めた。
「ねえシド、何やってるの?」そこへアナの声がした。
「ほら、トレーニングだよ」
「ねえ、ちょっと訊きたいことがあるんだけど」
 シドはランニングをやめて、アナの方へ歩いていった。
「ハリネズミヘアーって私に似合うと思う?あのピンピン立った髪型なんだけど、見たくない?」
「何だってそんなことしたいのさ?」
 有名なロック歌手がやってるから、というのが彼女の答えだった。シドは首を振った。
「アナ、君はロック歌手じゃなくてピアニストだろう。僕が見たことのあるピアニストは、みんなちゃんとした髪型だよ」
 するとアナはこう言った。
「それもそうね。私もそんな髪型なんかしたくないし。ねえそんなことより、一緒に出かけない?」
「行かないよ」
「何で?」
「出歩く気にならないんだ。もうすぐ夕食だし・・・そうだ、君も少し走らないか?」
「いやよ走るなんて。私がバスケ嫌いなの、あなただって知ってるくせに!」
 アナは自分のいらだちをこれ見よがしに見せつけて立ち去ったが、シドは彼女のことなどすぐさまどうでもよくなった。汗びっしょりになって、再びゴールへのシュートを繰り返した。だがその日どれだけ頑張っても、ボールはプレートや鉄枠に当たるばかりだった。シドは、自分がちっとも集中できていないことに気付いていた。それでボールをポンと蹴って、それを手にすると部屋へ戻った。それからシャワーを浴びて、ホテルの隣にある電話ボックスへ行った。前の日にカードを買っていたが、それは使わなかった。
「誰に電話するの?」シドの母が財布からお金を出しながら訊ねると、シドは顔を赤くした。
「エロナ、いいからお金を渡してあげなさい」
父が声をかけた。
「でも、自分の息子の電話の相手ぐらい聞いたっていいじゃないの?」
「そりゃ確かにそうさ、でも本人が言いたくないならそれでいいじゃないか」
「はいはい、わかりましたよ!」そう言って母はシドにお金を渡した・・・
 シドは電話ボックスに入ると、あたふたとメリの電話番号を押した。
「私よ、シド」すぐに彼女の声が聴こえてきた。
「どうして僕だってわかったの?」
「待ってたの。何だか予感がして」
「メリ、僕・・・自分でもわからないけど・・・話したくて、たまらなくて・・・」
「私もよ。ねえそっちはどう?」
「まあまあかな。君は?」
「こっちもまあまあね」
「君の話、聞きたいな」
「あなたの話の方が聞きたいわ」
「君にプレゼントを用意したんだ」
「なあに」
「いや、また会ってからの方がいいや。あ、でもこれじゃ話すことがなくなっちゃうなあ」
「試合はしてないの?」
「あ、そうそう!こっちの、オフリドの男子チームと試合をしたんだった」
「うまくできた?」
「いや、それほどでもないよ。14点しか取れなかったし」
 それからシドは試合の話をしていたが、そうするうちに電話の度数が切れそうになった。
「メリ、カードがなくなりそうだ。また電話するよ。じゃあね!」
「シド、電話してくれてありがとう」
「大したことないよ。メリ、君こそありがとう。アルビによろしくね。それとスパーキーにも。あと6・・・」
 そこまで喋ったところで、回線が切れた信号音が聞こえた。カードが終わってしまったらしい。
「あと6日」とメリはつぶやいた。それはわかっていた。彼女も指折り数えていたからだ。

4
 ところが、帰ってきたシドとの再会が、あんなに辛いものになるなんて、メリは思ってもみなかった。あの再会の日から何日もの間、メリはそれを忘れることができなかった。
 日が暮れる頃、家の門の、古びた青銅のノッカーを鳴らす音がした。メリはそのノックの仕方をよく知っていた。胸がドキドキと鳴って、たちまち顔が真っ赤になるのが、アルビの目にもわかった。
「来たよ、あのおちびさんが」アルビはにやにやしながら言った。「どうするの、メリ?」
「べ、別に」メリは顔を伏せたまま言った。
「シド、頭をぶつけないように注意しなよ!」アルビが声をかけた。
 入ってきたシドも、顔を赤らめていた。丈の短い青いズボンの上に、長めのスポーツシャツ、それに、桶を二個並べたような青いスニーカーを履いていた。バスケのコートではいつも外している金メッキのメタルフレームのメガネをかけていて、それがシドを一段と素敵に見せていた。
「やあ、会えて嬉しいよ!」シドは両手を広げて言った。
「よく来てくれたわね!」メリはそう言って手を差し出した。そしてシドの方をちらりと見た。彼を見ていると、ますます顔が赤くなってしまいそうで、怖かったのだ。
「いいなあ、湖かあ!楽しかっただろうね」アルビが言った。
 メリたちはヴェランダの、ひさしとパーゴラのあるところに座った。パーゴラにからまったツタが、屋根まで届いている。シドはオフリドや、その他に行った場所の話を始めたが、しばらくすると、家の外で話し声がした。メリははっとして口をつぐんだ。父だった。門から入ってきた父は、男を一人連れていた。その人はひどく腹を立てている様子だった。メリはその顔に見覚えがあった。2時間ほど前にここに来て、父のことを訊いていった人だ。頭には「ユヴェントス」と書かれた綿製の帽子を被っている。
「こっちは金がいるんだ、バシュキム。」その男は言った。「お前がもの入りだと言うから、金を貸してやったんだ。さあ金を返してくれよ」
 父は申し訳なさそうに両手を広げてみせた。
「わかってるさ。金はちゃんと返すよ。心配するなって」
「こっちはな、お前の言い訳を聞いてる時間はないんだ。さあ、金をよこせって!」
 「ユヴェントス」帽の男は、父バシュキムの隣近所に顔向けできないようにしようとでもするかのように、声を張り上げた。
「あと1週間だけ」父は懇願するような口調で言った。
「あと1週間だけって言って、もう2週間じゃないか。お前が酒場でブドウだかスモモみたいに金を使おうが、そんなのこっちの知ったことか!」[訳註:「お金を湯水のように使う」意味の慣用表現]
 父はとうとう我慢しきれなくなって
「出て行ってくれ!」と門の方を指さし叫んだ。
「ああそうかい?じゃあ、あと2日だけ待ってやる。金を返さなければ、またこうやってここに来るからな!」
 シドが立ち上がった。父に金を貸した男はその時初めて、ヴェランダにいるメリたち3人に気がついた。
「すまんな。俺が悪いんじゃないんだぜ。あんたたちにだってわかるだろう」
「だろうね、わかるよ」アルビが言った。
「お前は黙っていなさい!これはお前たちには関係ないことだ。お父さんのことは、お父さんが自分で何とかするよ」
 父はそう言ったが、ぶるぶる震え出し、うなだれてしまった。アルビが慌てて父の手を取り、家の中へ連れて行った。シドは腕組みしたまま立ち尽くしていた。父に声をかけつつ無理矢理微笑んでみせたが、父バシュキムの方は全く気付いていなかった。きっとシドがヴェランダの柱の一つにでも見えていたのだろう。金を貸した方の男は、冷たい声でいとまを告げ、立ち去った。
 メリはどこをどう見たらいいかわからなくなっていた。それであたふたして話題を変えようとした。危うく涙がこぼれてきそうだった。
「僕、もう行くよ。うん・・・」シドが言った。
「行くってどこに?」メリは訊いた。
「うちに帰るのさ」
「そう・・・私・・・後で電話するから・・・ちょっと待って、送るわ」
 メリはシドを連れて門の方へ歩いていった。
「そうだ、プレゼント忘れるところだった」シドはそう言うとシャツのポケットに手を突っ込み、プラスティック製の小箱を取り出した。
「私に?」メリは声を上げた。
「君にプレゼントを用意するって、言ったような気がするんだけど」
「ええ、そうね。ありがとうシド!私・・・」
「いいかいメリ、気をしっかり持つんだよ。じゃまたね」
 メリは中に入り、門にもたれかかると、喉が痛くなるほど声を押し殺したまま、しくしく泣き出した。初めて父のことを憎いと思った。父をばらばらに引き裂いてやりたいほど憎かった。だがそんなことは到底できることではなかった。
 アルビが、ヴェランダから庭へ降りる階段のところにぼんやり腰掛けていた。
「何なんだよ、あの男!」アルビは姉メリの方に目をやり、つぶやいた。「借金返す余裕なんかどこにもないじゃないか。お金なんてどこにあるんだよ?ねえメリ、メリに訊いてるんだよ!」
「さあね」
「あの男にテレビ持ってかれたらどうするの!」
「好きにさせればいいでしょう!」メリは腹立たしげに声をあげると、自分の部屋に閉じこもってしまい、そのまま翌朝まで出てこなかった。
 部屋着にしている夏物のスカートを履こうとした時、ポケットにシドからのプレゼントが入っているのを思い出した。メリはそれを取り出して、プラスティック製の箱をゆっくりと、その時間を少しでも長く伸ばそうとでもするように、ゆっくりと開けてみた。小さな貝殻が幾つか入っていた。形は揃っていたが、色は様々で、それが銀のネックレスに散りばめてある。こんなきれいな貝殻は、今まで見たことがなかった。メリはそのネックレスを取り出し、震える指先で首にかけてみた。貝殻が並んでいる中の、ハシバミの実のような7枚の貝殻が、彼女の胸元に小さな虹を放っている。メリは鏡に近づくと、そのままうっとりと立っていた。
 それから電話の前に立ったが、昨日の出来事を思い出して、微笑みがこわばった。あんなことを見られた上に聞かれてしまって、シドにどう思われただろうか。一晩中彼女を苦しめたそんな不安がわきあがってくるのを必死で押しとどめながらメリは受話器を取り、あやふやなままシドの家の番号を押した。
「はい、アルバナです」シドの母の声だった。
「エロナおばさん、おはようございます。メリですけど」
「あらメリ、お元気?」
「はい」
「おうちからかけてるの?」
「はい、そうです」
「あなた、大丈夫なの?」
 メリは気を失いそうになった。
「ええ、はい」
「よくわからないんだけど、昨日シドがあなたのところから帰ってきてから、ちょっと変なのよ」
「・・・」
「まあいいわ。ちょっと待ってね。シドったら、まだ起きてこないのよ」
 メリの額は汗のしずくでびっしょりだった。
『もう何ひとつ隠しておけない』彼女はそう思った。『ああパパ、どうしてあんなことを、どうしてなの?』
「やあおはよう」シドの声が聴こえた。
 メリは必死でこらえた。
「シド、私ね・・・あなたに謝りたいことがあるの・・・昨日のことで。パパが・・・」
「よしてよメリ!君が謝ることなんかないよ。君はそんなことでちっとも悩まなくていいんだ」
「あなたに、悪く思われたくなかったの」
「全然気にしてないよ!起こったことは仕方ないじゃないか」
「シド、本当にありがとう・・・プレゼント。素敵だったわ」
「気に入ってくれた?」
「ええとっても。あなたが思ってるよりずっと。でもシド、お金かかったんじゃ・・・」
「いや、全然そんなことないよ。バスケの試合相手のお父さんが銀細工の店をやっててさ、そのネックレスをタダでくれたんだ。まあ僕は貝殻を探しただけ。2日間かけて、湖のほとりを探しまわったんだ、まるで猟犬みたいにね。特に緑色の貝殻を見つけるのには苦労したよ」
「シド、本当にありがとう!」
「じゃ、またね」
 今度シドに会ったら何と言えばいいのか、メリにはわからなかった。
 そこへ、トイレの方から妹ノラの泣き声がしたので、メリは急いでそっちへ行った。
「お腹が痛いの」とノラが訴えた。
 メリは腹に手をやって訊ねた。
「どんな風に痛いの?どこが痛むの?」
「だから、お腹、お腹!」ノラはさらに泣き声をあげた。
 メリはノラの手を取った。とりあえず、温かいお茶を飲ませることぐらいしか思いつかなかった。そんな時、玄関のところでバルザおばさんの声がした。メリには、バルザおばさんの来たことが何か唐突なことに感じられた。両手に包みを抱えている。きっと温かいビュレクが入っているのだろう。メリはバルザおばさんを招き入れると、ノラの世話を手伝って欲しいと頼んだ。
「心配ないわ。ちゃんと洗わないで何か食べたからよ。この暑さではね。じゃあ、服の前を開けさせて、何かお腹の上に何か温まるものを載せるのよ。ちょっと待っててね」
 バルザおばさんはメリに包みを手渡すと、また外へ出て行った。メリはアイロンのスイッチを入れ、タオルを温め始めた。その間に、カップにお茶を用意しておいた。バルザおばさんはすぐ戻ってくるとノラをしばらく休ませていたが、不意に
「ところで、お父さんは?」と訊ねてきた。
 メリはただ、ため息をついた。
「あのね、メリ、もしあなたが、つまり、その、あなたのお父さんがお金が必要なら・・・おばさんが何とかしてあげてもいいのよ」
 メリの顔は真っ赤になった。
「昨日のこと、聞いてたの?」
「聞く気はなかったんだけどね。あの二人、道端でも話してたもんだから」
「ええと、じゃあ、この近所の人たちも、みんな知ってるの?」
「まあ、人の目や耳はごまかせないからね」
「ああ、恥ずかしい!」
「そんなの、あなたたちが心配することないわ。そういうことを心配するのは大人の仕事よ。じゃあ、おばさんもう仕事に行くからね」
 メリはバルザにお金を渡そうとした。
「はい、ビュレク代よ」
「メリ、わからないの?おばさんはね、ビュレクを売りにここに来たわけじゃないのよ」
「わかってます、バルザおばさん。おばあちゃんにも相談してみます」
「そう。でもね、もう一度言うけど、困った時はいつでも相談に来るのよ」
 メリは頭を下げた。それから、アルビンに朝食の仕度をするように言うと、祖母のところへ出かけた。祖母はディブラ通りの小さなアパートに住んでいた。祖母は玄関でメリの顔を見るなり、孫に何かあったと察したらしく
「うちは大丈夫かい?」とかすかに不安げに問いかけてきた。
 メリは借金のことを祖母に話した。
「ああ、そんなことだろうと思ったよ!」祖母はつぶやいた。「酒の次は、借金に災難に喧嘩かい。ああ、かわいそうな娘だよ、とんだ疫病神にとりつかれたもんだねえ!」
 祖母は着替えると、メリの手を借りながら階段を降り、外へ出た。彼女は片足にリューマチを患っていた。それもまた厄介な問題だった。家に着いた時、メリはもめごとになりそうな気がした。父はそっけない挨拶をし、祖母もそっけなくそれに応えた。
「借金ってのは、どういうことだい?」
 祖母がそう問いかけると、バシュキミは娘のメリをにらみつけた。
「メリ、お前か。パパの借金のことに口を出すなんて、お前に何がわかるんだ?」
「自分の頭で考えればわかることだろ!」突然、アルビが割って入った。「だって、あのイヤな感じの男が明日テレビを持って行っちゃうんだろ。そしたら、これからどうやって映画を見るのさ!」
 みんながはっと固まった。アルビが父親に向かってそんな口のきき方をするのは初めてだった。父はアルビの腕を摑んで、大声で怒鳴りつけた。
「何だ、その口のきき方は!誰に向かってそんな口を」
「あんたに言ってるんだよ!何もかもあんたのせいじゃないか!」アルビも怒鳴り返した。
 父はアルビを殴りつけようとしたが、間髪入れず、祖母がその間に入った。
「子供たちに手を出すんじゃないよ!」
「こいつらはうちの子だ!」父は叫んだ。
「殴らせてやればいいんだよ、おばあちゃん。もうこんな家、出て行ってやる」アルビが言った。
 メリはその言葉にびくっとして
「アルビ、黙りなさい!」と弟に言った。「あなたには関係ないでしょう。あなたが借金とか、お金のことなんか心配しなくてもいいのよ」
「何言ってるのさ!僕にだって関係あるよ!」
「もうやめなさいアルビ!」祖母が口を挟んだ。「バシュキムや、借金は幾らあるの?」
 すると父はうつむいて
「それはどうでもいいでしょう」と言った。
「私が手伝って、肩代わりしてあげるよ」
「借金の肩代わりなんて、お義母さんにそんなことできるわけないでしょう」
「あんな男より、あたしから借りておく方がマシじゃないか」
 これには父バシュキムも、折れないわけにはいかなかった。
「昔の借金だから、それほどは・・・」
「幾らだい?」
「旧レクで20万」 [訳註:1995年当時のレートで約2万円。ただし、現地の当時の所得や物価の水準で考えると相当の大金]
「じゃあ、その件はこっちで何とかするからね」
「あと、お願いなんですが・・・その・・・お義母さんのことは尊重しますけど・・・こういう話は子供の見ている前ではしない方がいいんじゃないかと」
 すると祖母はやれやれといった風に首を振った。
「あんたは間違ってる!この子たちは、もう子供なんかじゃないし、何もかもわかってるんだよ。メリだって家事をやってるし、もう8年生じゃないか。いいかいバシュキム、私もあんたのことは尊重したいし、自分の本当の息子のように思っている。でもね、もしこれからも酒を飲み続けるんだったら、私は子供たちをうちに連れて行くからね。わかったかい?もう酒とは縁を切りなさい!あとタバコもだよ!」
 父はうなずくと、部屋を出て行った。
「じゃあ出かけるよ。仕事なんだ」
 メリは父のところへ行き、腕を摑んだ。
「お願いだから行かないでパパ!ここで仕事すればいいじゃない。ブドウだって実ってるし、収穫しなきゃ」
 父はヴェランダのパーゴラの方をちらりと見た。
「ブドウは明日にしよう。心配するな、酒は飲まないから。約束する」
「じゃあ、着替えていってよ。シャツを洗ってあるから。ちょっと待ってて、靴も磨くから」
 メリは、出かける父にもう一度キスをし、頬髭をひねった。
「メリ、パパはお前のことが大好きだよ。お前のこともさ、アルビ」
「僕らだって大好きさ、パパ」
 メリは部屋に戻ってくると、弟に非難がましい視線を投げかけた。
「僕、おばあちゃんのところへ行ってくる」アルビはその視線を避けるようにして言った。
 祖母はしばらくノラと一緒に過ごしていたが、そのうち立ち上がってメリに声をかけた。
「家事にかかりなさい」
「あらおばあちゃん、掃除と洗濯なら昨日やったわよ」
「家事は毎日するもんだよ。昨日は昨日さ」
 家事のこととなると、祖母はまるで衛生管理者のようだった。メリは仕方なく箒を手にすると、玄関のところに落ちた葉を集め始めた。祖母はその様子を目で追っていたが、やがてアルビの手を引いて外へ出て行った。メリはかき集めた葉をスモモの幹の穴に捨てると、ヴェランダの階段のところに腰を下ろした。思わずあくびが出た。外はまだ涼しく、じきに彼女はまどろみ始めた。

***
 門が開く音で、メリは初めて我に返った。近所のアパートに住んでいるクララだった。6月に、メリと同じ学校の8年生を終えたばかりだった[訳註:日本の中学卒業に相当]が、ずっと年上に見えた。いつでも周りの注目の的で、そして周りの噂の的になる、そんなタイプの女子だった。彼女は8年生の時に、3歳年上のゲンツ・カラという男子と付き合い始め、そのことで家族ともめていたそうだ。教科書を放り出して3週間ぐらい授業にも出てこなかったことがあって、その時は「クララはゲンツと一緒にギリシアへ行ってしまった」と噂されたものだ。学校から連絡を受けたクララの両親は心当たりを探し回り、警察まで動き出す羽目になった。ところがクララが隠れていたのは、ティラナ市内のと或る家だったのだ。詳しいことは明らかにされなかったが、みんな大抵そのことは知っていた。クララは卒業試験が終わるなりゲンツと婚約してしまったのだ。両親は何とか二人を別れさせようとしたが。それなら家を出て行くとクララが脅したので、結局折れざるを得なかったという・・・
「チャオ!メリ、元気にしてた?」クララは悪戯っぽく声をかけると、敬礼してみせた。「家の前のあの白イチジクだけど、もう熟してるんじゃないかしら?」
「もう熟してるはずだけど」
「少し食べたいなあ。ああもうつまんない日だわ今日は!ゲンツも来てくれないのよ。車が故障したんですって。今日は海に行くはずだったのに」
 メリはクララと一緒に外へ出た。クララはタイトなミニスカートを履いていたが、それを太ももの上までたくし上げると、イチジクの木によじ登った。他の人に何と言われようがどう思われようが、そんなことは気にも留めないのがクララの性格だった。学校でも、びっくりするような格好の服ばかり身につけていた。或る朝など、校長先生が着替えてくるようにと言って帰宅させたことがあった。その日のクララは、臍が見えるほど丈の短いブラウスを着て、さらにアイシャドウを塗り、どの男子よりも短く髪をカットしていた。一方の耳に金のイヤリングが3つ、もう一方の耳には星が1つぶらさがり、ジーンズは膝からお尻の下の辺りまで切ってあった。そんな格好を見た校長は、呆気に取られてしまったが
「すぐに着替えてきなさい!」とクララに言いつけた。
「どうしてですか?」クララは訊ねた。
「なぜって、学校でそういう格好をしてはいけないからです」
「こういう格好をしてはいけないなんて、校則のどこに書いてあるんですか?校長先生、私たち、もう子供[訳註:原語は「玉葱の時期」]じゃないんですよ。アメリカの生徒がどんな格好してるか、見たことないんですか?」
 校長先生はしばらく憮然としていたが、
「クララ、教育省の指示に従わないのなら、あなたを学校には入れさせませんよ!」と声を上げた。教師の一人がクララの手を取って、着替えてくるよう説き伏せていた・・・
 イチジクをたらふく食べたクララは、木からぴょいと飛び降りて、お腹をさすっていたが、日陰になっている草の上に腰を降ろすと、ふうとため息をついた。
「もうこれだからアルバニアは!暑いし、埃っぽいし、ゴミだらけだし、車は壊れてるし。ひどいところだわ、本当に!メリ、あなたも大変よねえ」
「まあ、そういうものよ」
「そうだ、あなたのママって若くてきれいだったわよねえ!なのにアルバニアで働きづめのまま、気の毒な死に方しちゃうんなんて。生きてる間も気の毒なら、死んじゃう時も気の毒だったわよ。アメリカやヨーロッパだったらもっとまともな生き方できるんだから。神様が奇跡でも起こしてくれて、生まれ変われたらいいのに!メリは生まれ変わるならどこがいい?私はニューヨークだな」
 メリはそんなクララに思わず笑ってしまった。ご近所だということを除けば、クララとは特別親しいわけでもなかった。彼女がメリの家に来ることもごく稀で、今回も2週間ぶりの来訪だった。その2週間前の時は、花束と一緒に、ヤプラク[訳註:ブドウの葉に米を詰めた料理]用のブドウの葉や、ミントやパセリを持ってきてくれたのだ。
「そういえばメリ、あの・・・マジック・アルバナだっけ、どうなのよ?」不意にクララが、にやにやしながらそんなことを訊いてきたので、メリはすぐさま真っ赤になり、うつむいてしまった。
[訳註:バスケ好きなシド・アルバナとマジック・ジョンソンをかけている]
「何よ、何で赤くなってるの?」クララは笑いながら言った。「ねえねえ、もうキスとか、そこまで行ってるの?」
「やめてよクララ!そんなこと知らないわよ私」
「まあ別にいいけけど。ねえ、シドって素敵な男の子だけど、すぐにあなたから離れて行っちゃうような気がして心配よ。彼ってマザコンでしょ。あそこのお母さんはしっかりしてるし、おうちはインテリだし。なのに、あなたの方は・・・」
 メリはぎょっとして顔を上げた。
「私そんなこと、考えたくないわ」
「でも、そう思ってる人たちだっているのよ」
「私とシドはただの友達よ」
 するとクララはなだめるようなしぐさをした。
「まあ、あなたがイヤだっていうんなら、もう言わないわよ。ねえねえ、私ね、着なくなったブラウスがあるの。あなただったら似合うと思うんだけど、どう?新学期に着ていくといいわよ」
「そんなの買えないわ」メリは答えた。
「あげるわよ、タダで。古着売ってるんじゃないんだから」
 メリは返事をためらっていた。
「そうか、遠慮してるのね」クララが言った。
「つまんない遠慮しないの。それじゃ、私が食べた分のイチジク代だってことにしましょうよ。ブラウスと交換ってことよ。そのうち持ってくるわね。じゃ私、帰るわね」
 門が閉まると、メリはまた一人になった。こうして今日も、長い夏の日が過ぎていくのを待つだけなのだ。
『そうよ、もうじき学校が始まるのよ』メリは思った。学校が始まればまた変化もあるだろう。大切なのは、父が酒を飲まず、当面の仕事を見つけてくれることだった。

(5につづく)


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