見出し

ヴィクトル・ツァノスィナイ 『メリユル』

9
 その夜、メリはポケットに紙幣の束をしのばせてバルザおばさんの店から戻ってきた。彼女はそれを掌で握りしめていた。
『それはあなたの汗よ』バルザおばさんはメリにそう言った。『新年は何かとものいりでしょ』
 メリは礼を言うと、枚数をろくに数えもしないまま受け取った。バルザおばさんの前で、そんな振る舞いをするのが恥ずかしかったのだ。家にたどり着いてから、メリはベッドの上に紙幣を出すと、もの思いげにそれを眺めた。
『さあ、このお金があれば何だってできる』メリはそう思った。これで生きていける。これで食事をして、きれいな服を着て、車を買って、家を引っ越せる。でもお金がなければ破滅してしまう。本当に、何だって世の中はこんな風に出来ているのかしら?
 紙幣を数え終わって最初に頭に浮かんだのは、先端が四角くてヒールの高い靴だった。その冬はまさにそういうのが流行りだったのだ。値段は本当に高いけれど、綺麗だし丈夫な靴だった。あれを買おう、メリはそう決めた。今持っている靴は水に濡れてもう履けなくなっていた。
 ところがそこまで考えたところで、近所の食料品店にかなりの額のつけがたまっているのを思い出した。家の蓄えがゼロだったことが何度もあって、そのたびに、お金を払わないまま食料品を受け取るしかなかったのだ。金額は店の人がノートにつけていた。店に足を踏み入れるたび、それはメリにとってまさしく苦渋の選択だった。それでも、そうする他どうしようもなかった。
 メリは身震いし始めた。もう靴を買うどころの話じゃない、そう思った。父があの自動車2台の整備で受け取る分があっても、全然お金が足りなかった。メリは家を出ると、ぶつぶつつぶやきながら食料品へと歩いていった。
 ところがその翌日、メリは靴やジーンズ、それも新品に関わることになった。何もかもクララのせいだった。クララはバルザおばさんの店へやってきて大きなビュレクを注文したのだが、そこで生地をこねているメリに気がついた。
「あらあなた、メリじゃないの?!」そう言ってクララは笑った。
「うん・・・そうよ」メリは真っ赤になって答えた。「ちょっとだけ、働いてるの」
「働いてるですって?そんなにして働いて、お給料が出るわけ?」
「バルザおばさんのおかげでね、お世話になってるのよ。だって、ほら・・・ご近所さんだから」
「冗談はよしてよ!そんなこととは知らなかったわ。まあ本当にねえ!まったく、ウソみたいな話だわねえ!」
 そう言ってクララは呆れたように、メリをじろじろと見つめるのだった、
「そんなところでよく我慢できるものね!」
 メリは、別に何てことないわとでも言いたげに肩をそびやかしてみせた。
「で、このバルザさん、あなたに良くしてくれてるの?」
「ええ、とっても」
「ああメリ、メリユル、あなたって本当に!じゃまた後で会いましょうね」
 クララはビュレクの代金を支払うと、一口だけちょっぴりかじって、それから英語の曲を口ずさみながら歩いていった。ここ何週間かヒットしている曲だった。
「あの女の子、どうも好きになれないわね」ドアの向こうを見やりながら、バルザおばさんがそう言った。
「どうして?」メリが顔を出して訊ねた。
「あの子は甘やかされてるのよ。なのに自分を大事にしてくれてる両親を敬いもしない。でもね、もっといけないのは、まだ大人になりきれていないのに、いろんなことに首を突っ込んでることよ。本当にまだ子供なのに。あれが私の娘だったら、あの年齢でそんなことは絶対許さないわよ」
「でも、親切だし、やさしいし、いい子よ」メリは言った。
「確かにね。でも私は、ああいう女の子はいずれよくない目に遭うような気がするわ。私の思い違いならいいのだけれどね。別な運にめぐり合えるといいんだけど」
 メリはもう何も言わなかった。バルザおばさんがクララに対して、もともと何かしら憤懣やるかたないものを抱えているような気がしたからだ。『どうしてよりによって私の前で、クララについてあんなことを喋らなきゃいけないんだろう?』メリは自問した。
『それに、どうしてクララはまた後で私に会うなんて言ったんだろう?』
 その夜、クララが家にやってきた。右手に、モードショップの品物が入った袋を提げていた。メリは中へ入るよう勧めた。
「お父さんは?」クララは心配そうに訊ねた。
 家にはアルビとノラしかいないと告げると、クララは袋を提げたまま家の中に入ってきた。
「あの噂のオレンジの砂糖漬けはないかしら?」彼女は物欲しげに問いかけた。「何年か前に食べたけど、今でも思い出すとよだれが出そうよ」
 メリはため息をついた。
「あの砂糖漬けは、もう誰にも作れないわ」
「オレンジが二つぐらいあればね」とアルビが口を挟んだ。
「すごいじゃない。ならレモンの方がいいわね」クララは言った。「ねえアルビ、あの学校の可愛い女子とはどうなのよ?」
「ふん、女子なんてくだらない!」そう言ってアルビは部屋を出て行った。
 クララはくすくす笑っていたが、持っていた袋から靴を一足、それからジーンズを一本取り出した。
「あなたのために持ってきたのよ」と彼女はメリに言った。
「きっと必要でしょ。私はもういらないし。こんな場所じゃきれいなものを、といってもちょっとねえ。だってみんなチーズ入りのビュレクを食べて、手を洗う水もないような場所なんだもん」
メリはしばらく呆気に取られていた。そして
「これ、いくらしたの?」と訊ねた。
「あ、そうだ、レモンも持ってくるわね」クララはそんなことにはお構いなしといった風で言った。
「だめよ、こんなのだめ」メリは言った。
「今回はお金を払うわ。いくらなの?」
「払うって、本気なの?じゃあ1000レクちょうだい」
「たったそれだけ?」
「メリったら、世間じゃイタリアだのアメリカだのに行ってるって時に、私たちときたら何だってこんなくだらないジーンズの話ばっかりしてるわけ?いいからとりあえず履いてみてよ、サイズが合ってるかどうか見てあげるから」
 メリは着替えるために部屋を出たが、間もなく戻ってくるとまるで別人のようになっていた。
「いいじゃないの!」クララは声をあげた。
「素敵だわ!あなたみたいな子がビュレクこねてるなんて、これはもう罪じゃないかしら?何だってあのバカ騒ぎばかりのイタリア人やアメリカ人が、あなたよりも、私よりも、ずっと恵まれてるんだろうね?」
 メリは靴を履いた足元を見つめたまま、固まっていた。
「今年の夏はもうこんなところにじっとしていられないわ」クララが言った。「私ね、ギリシアに行くの」
「誰と?」メリは不安を感じて訊ねた。
「ゲンツとよ。彼いま向こうにいるんだけど、春になったら私を迎えに来てくれるのよ。もう洋服とか宝石とかどうでもいいの。おわかり?」
 メリは首を振っていたが、引き出しのところへ行くと、そこから紙幣を数枚取り出した。クララはそれを無造作にポケットへねじ込んだ。しばらくするとアルビがレモンを持ってきて、ノラが3人分のレモネードを作った。
「クララ、新年はどうするの?」アルビが声をかけた。
 するとクララは口をヘの字にひん曲げた。
「今年の新年が何だっていうの?!ここじゃ毎年同じじゃないの。みんな貧乏からは抜け出せないし、頭の中ときたら食べることと飲むことばっかり。もうどうとでもなればいいんだわ!じゃ、私もう行くわね。ねえメリ、いつか、あなたにその気があるんなら、一緒にこの国から出ようよ」
 それはメリにとって思いもよらない誘いだった。
「私・・・私はそんな暇ないし・・・クララだって・・・わかるでしょ。とにかく、またね」
 クララが帰ってから、メリはしばらく鏡の前に立ったままでいた。
『またこんな厄介なものを』メリは思った。
 翌日、メリはそのジーンズと靴で外出し、ちょっとした買い物をしたが、不意に、もしかしたらシドがこの年の瀬でもまだ練習をしているかも知れないと思った。それでバスケのグラウンドへ行ってみると、シドは他の男子たちとそこにいた。メリはグラウンドのラインのそばへ近付いた。
 少しして、シドはメリがいることに気付くと
「あれ、誰かと思ったら!」と嬉しそうな声をあげた。
 メリは、シドがジーンズと靴のことを訊いてくるのではないかと気が気ではなかったのに、シドの方はそれらに目もくれなかった。メリの服装にはまるで何の注意も払っていなかった。きっと自分の服装にもそうなのだろう。たまにバスケ用具の袋を提げて登校することがあったが、月に何度かは足元も見えていたはずなのに、履いている革靴のことは一言も触れなかったからだ。
「終わるまで待っててくれる?家まで送っていくよ」シドが言った。
 メリは待つことにした。それでベンチに腰かけると、ボーイフレンドの動きを逐一目で追っていた。するとシドはにわかに活発になり、何度も何度もシュートを決めた。バックボードの下で相手チームとせめぎ合いながら、一歩たりとも隙を与えなかった。そしてチャンスを見つけてはメリの方を向き、にっこり微笑んでみせた。メリも応援しているところを見てもらいたくて、シドの方に手を振っていた。
 二人して家に帰る途中、新年を迎える夜の話になると、シドが言った。
「今夜12時前、君のために花火をしてあげる。ちょっとだけ外に出てみてよ。見に出られる?」
 メリは外に出ると約束した。別れ際、二人は互いの掌をぎゅっと握った。
「ところで、アルビはまだ怒ってる?」不意にシドが訊ねた。
「ええ、そうなの」メリは答えた。「でもそのうち機嫌も直るでしょう。じゃあシド、気をつけてね」
「君もね」
 メリが家に戻ってみると、祖母と、母方の叔母の娘で大学生のアルダがいた。みんな一緒に新年を迎えるために来てくれたのだ。メリは、彼女らがいてくれることが嬉しかった。
「で、アルビはどこだい?」祖母が訊ねた。
「その辺にいるはずだけど」そう答えたが、自分の弟がその時どこにいるのか、メリには見当もつかないでいた。

***
 歩道は人で溢れ返っていた。皆、買い物袋や籠を手にしている。商店の多くも店をずっと開けている。アルビは人混みの中を進むのにうんざりしていた。時折、急ぎ足の人とぶつかったりした。うんざりだった。ポケットには、この新年のお祝いのためにエルリンダに買ったささやかなプレーゼントが入っていた。それなのに、彼女に電話して5分だけでも出てこられないかと頼んだのに、それは無理だというのが彼女の返事だった。家族と一緒に新年を迎えるためドゥラスへ行くということで、もう出かけようとしているというのだ。
 すっかり空回りでうんざりしてしまったアルビは、「ゼロの三乗」の連中の家へ行ってみることにした。ところがそこにも誰もいなかった。同級生によると、3人とも大通りに花火を買いに行ったのだろうという。それで大通りの方へ行ってみると、ラナ川に面した、人でごったがえす歩道に、花火の入った袋を手にしたサイミルがいた。
「よう、アルビじゃないか!」サイミルは嬉しそうな声をあげた。「今夜は最高だな。ケコにも会いに行ってやれよ」
 アルビがその向こうに目をやると、肩からカバンを提げたケコがいた。ケコはビデオテープと花火を売っているところだったが、
「おい、何だい、アルビじゃないか!」と声をかけてきた。「お前を迎えに行こうと思ったんだけど時間がなくてさ。ここだよ、カバンの中に、録音してないビデオテープがあるんだ。お前も試しに売ってみたらどうだ?」
「こんなものどこで見つけたのさ?」とアルビは訊ねた。
「ああ、またお前の質問が始まったか!うちの叔母さんの旦那がさ、こういう電気製品をいろいろ売ってて、全部その人のなんだ。ほら、何きょろきょろしてるのさ?」
 アルビは少しだけ辺りを見渡してから
「じゃあ、やってみるよ」と答えた。
 ケコがカバンの中からビデオテープを数本取り出して、値段を教えてくれたので、アルビはそれを受け取ると、少し離れたところへ行った。こんな夜は、誰かがパーティをやるだろうから、録画してないビデオテープも必要だろう、そんな考えが脳裏をよぎった。しかし、1時間は経ったというのに、誰もアルビのそんな考えには乗ってきてくれなかった。
『やれやれ、今夜はどいつもこいつも考えていることといえば、食うことと、花火を飛ばすことばかりじゃないか』アルビはそんなことを思った。
 それでケコのところへ行って、花火をくれと頼んだ。
「どうもこのビデオテープときたら、さっぱり売れやしないんだから」ケコはいまいましげにそう言った。「カバンに手を入れてさ、あるだけ持っていけよ」
 アルビは両手に花火を抱え、その花火を僅かな間で売り切ってしまった。ケコのカバンにもう何も残っていなかったので、アルビは歩道の端に腰かけると、金を数え出した。そこへ鋭くけたたましい音が立て続けにした。「ゼロの三乗」の連中の使っている合図だった。思わず顔を上げると、連中が歩道脇に停めた車の中にいる。レディが早く来いと手招きするので、アルビは立ち上がり、車に乗り込んだ。
 運転席に30代ぐらいの男の人がいた。禿頭で、右の耳に金のピアスをして、顎の周りにOの字型のヒゲがうっすらと生えている。
「アルビ、こちらがうちの叔母のだんなのサンドリ」ケコが紹介した。「叔父さん、こいつが前に話した、例の友達さ」
「チャオ!アルビ、調子はどうだい」サンドリが少しだけ後ろを向き、挨拶してきた。
「ええまあ」アルビはどぎまぎしながら答えた。
 サンドリは助手席に座っているケコの方をちらりと見た。
「ふん、で、今夜はどうだった?」
「上々さ」ケコが答えた。
「じゃあ、新年のディナーの前に、少しドライヴでもしようか?」
「うわあ、やったあ!」と、蒸気で曇った窓の外を見ながら「ゼロの三乗」たちが喝采を上げた。
 車は中央大通りを端から端へと走り抜け、環状線に入ると、ケコやレディやサイミルたちの家のある方へ向かった。壊れかけた歩道の上に車が停まると、男子たちはケコに金を渡した。そしてケコがそれを数えている間に車を降りた。
「いいんだぜ、別に勘定なんかしなくたって」サンドリが声をかけた。「お前のことは信用してるんだからさ。売り上げの一部は取っとけよ。あとは俺のウィンドブレーカーのポケットに入れといてくれ」
 ケコは素早く硬貨の山を数えた。
「で、あの新入りはどうなんだ?信用してもいいのかい?」サンドリは訊ねた。
「大丈夫だと思うよ」ケコが答えた。
「金が好きな奴なのか?」
「金が嫌いな奴がどこにいるのさ」
「うちの仲間に入れたものかな?」
「様子を見るさ。まだどうなるかわからないし」
「おいおい、こっちは警察沙汰になるのはまっぴらだぜ」
「それは心配ないよ。試しにやってみよう」
 サンドリは財布を取り出すと、そこから500レク紙幣を引っ張り出し、ケコに親しげな様子で差し出した。
「新年用に取っとけよ。お前だけの分さ」
 ケコが礼を言って、車の外に出ようとすると、
「それと、俺が頼んどいた例の家だが、まだ見張ってくれてるか?」とサンドリが訊ねた。
「うん」
「忍び込むとしたら、いつの時間が一番ラクだと思う?」
「午前中だね」
「じゃあ、連絡を待ってる。さあもう降りた!」
 ケコは満足げな表情で車から降りた。
「俺ときたら、今夜はついてるぞ」ケコはそう言った。「家のことで買い物していくけど、誰か俺と一緒に来ないか?」
「俺も行くよ」レディが答えた。
「サイミルはどうする?アルビは?」
 だがサイミルもアルビも、もう家に帰ることにした。
「じゃあ、いい新年をな!」ケコは言った。
 アルビは一同に別れを告げ、自分の家へ向かった。片方のポケットで、硬貨がチャラチャラ音をたてた。それで急に祖母のことを思い出したのでまだ開いている店の一軒に入った。そして黒の靴下を一足買った。
 アルビが姿を見せると、祖母は安堵のため息をついて
「おやおやアルビ、どこ行ってたんだい?」と、アルビの両頬にキスしながら訊ねた。
「うん、ちょっとぶらぶらしてて」アルビは答えた。「遅くなってごめん。でもおばあちゃん、この家って新年の匂いがちっともしないよ。何かおいしいものを作ってくれない?」
「じゃあおばあちゃんが、お前の食べたいものを何でも作ってあげるよ。さあ、娘たちも手伝っておくれ」
 足の調子はかなり悪かったが、それでも祖母は料理に取りかかった。出来上がった料理が食卓に並んでみると、母がいないということをなおさら実感させられた。
「もう今年みたいな新年は願い下げにして欲しいもんだよ」と祖母が言った。
「ひどい一年だった」父が言葉をついで言った。
 父は、食事にほとんど口をつけなかった。幾らか食べて、それからタバコを吸いにヴェランダへ出ていたが、やがて寝室へ引っ込んでしまった。祖母は部屋の隅に行くと、しくしく泣き出した。アルダは子供たちのため、何とか食卓になごやかな雰囲気を作ろうと必死になっていた。そして、インドや中国での新年の祝い方を語って聞かせるのだった。
「私、花火を見てくるわ」12時まであと5分になった頃、メリがそう言った。
 メリはセーターを肩に羽織ってヴェランダの手すりのところへまで行き、シドのマンションの方に顔を向けた。夜の空気は澄み切っていた。アルダとアルビも少しして外へ出てきた。すると不意に、どこか遠くの方で何かがはじける音がして、それに続いて無数の色とりどりの火花がマッシュルームのような形に広がった。その輝きは数秒間続いた。メリはその花火を、幸せな思いで、最後のきらめきが消えるその時まで、しっかりと目に焼き付けた。
「こんな馬鹿みたいなことを、何時間も前から?何てこった」アルビが言った
 メリはうなづき、そしてくすくす笑い出した。

***
 1996年の始まりは、メリの家にこれまでにない穏やかな時期をもたらした。実を言えば父はまだ酒を飲んでいたのだが、酒場に行くことはほとんどなくなっていた。夜になるとキッチンの隅に独り腰かけて、グラスを幾杯かあおり、その日の疲れで眠りに落ちるのだった。決まった仕事も見つかり、朝早く家を出て、帰ってくるのは暗くなってからだった。アルビも父の目を逃れるわけに行かず、夜遅く帰宅することもできなくなった。放課後も、メリはアルビが「ゼロの三乗」たちとつるんで出歩くことを許さなかった。校舎の入口で弟を待ち構えて、家まで一緒に帰り、そして夕食を終えると、食卓で一緒に宿題を済ませ、勉強をするのだった。
 だがそんな平穏も長くは続かなかった。きっかけは或る夜、ドニカ叔母さんの夫婦[訳註;金持ちだがメリの父とそりが合わない妹夫婦]が父といさかいを起こしたことだった。それはメリにとっておよそ理解しがたい話だった。問題になっているのはメリの家のことだったが、どうやら叔父さんはこの家を売って更地にして、そこに大きな家を建てようと考えているらしい。
 メリは、ドニカ叔母さんが夫婦揃って、しかも建築技師まで連れて家に来た日のことが頭から離れなかった。父はその時いなかったが、その技師は何やら測量をしながら叔父と建設作業の相談をしていたのだ・・・
 そのいさかいが起きた日、二人が何百万という金額を口にしたことにメリは不安を覚えた。
「お前さんは運無しだな、バシュキム」叔父は父に向かってそう言った。「そんな人生を送ってきたんじゃ金が入り用だろう。うちで良いアパートを用意してやるよ。部屋が二つにキッチンもある。それに1000万レク、お前さんの欲しい時に手に入るんだ」
 父はふんと鼻で笑った。
「で、俺にどうしろというんだ?」
「この家さ。お前さんの妹だって、この家で大きくなったんじゃないか」
 そのドニカ叔母さんは目をそらしたままだった。
「そんな胡散臭い、いかさまじみた話で俺を騙せるなんて、あんた本気で思ってるのか」父は声を荒げた。「あんたも、それに俺の妹もだ、ここに何か建てようだなんて、何だってそんな考えが出て来るんだ。それで俺を追い出そうって魂胆か?ここの土地を家や店にしようなんて。俺だっているし、他に姉妹だっているのに[訳註:エルバサンに住んでいるもう一人の叔母のこと]。それとも、あんたにとっちゃ、うちみたいな一文無しは用無しか?金さえあれば何でもぶんどって自分のものにできるとでも思ってるのか?あんたの計画にも反吐が出そうだが、それを進めるあんたのやり方にも反吐が出そうだぜ」
 すると叔父の方も声を荒げた。
「何もお前さんを追い出そうなんてつもりはないよ。こっちは真っ当な計画なんだからな。金だって、こっちが出してやろうと言ってるんだ。借金で首が回らないんじゃなかったのか?1000万もあれば、商売だって始められるだろうに」
 父はうんざりしたように首を振った。
「俺は誰にも借りなんか作らない。わかったか?もし借金があるとしたって、それはこっちの問題だ。俺が貧乏なのはな、あんたみたいに薄汚い商売なんかしてないからさ」
「俺にそういう言葉づかいをするのはやめろ、バシュキム!」
「あんたにはこれぐらい言ってやるのがお似合いさ。さあ、もうこの話はおしまいだ。俺はこの家を売る気なんかない。この屋根がなくなるその時まで、ここにいてやるからな」
 叔父は、ドニカ叔母さんの方をちらりと見て、こう言った。
「お前さんの妹に、裁判に訴えさせることだってできるんだぞ。この家はお前さんだけのものじゃないんだからな。いいか、どんな方法を使っても、こっちのものにしてやるからな。そうなったらお前さんもおしまいだ。金もなければ弁護士だって雇えないぞ」
 すると父は立ち上がり、自分の妹であるドニカ叔母さんに近寄った。
「今、お前の亭主が言ったのは本当のことか?」
「あたし・・・あたしたちは、それがいいと思っているのよ」ドニカ叔母さんは口ごもった。
「この家が欲しくて、それで裁判沙汰まで起こすつもりだというのは本当なのか?」
「あたしは、主人の言う通りにするわ」
「ああ、この愛しい妹ときたら!お前だって知ってるだろう、この家は書類の上でもこの俺のものだ。それをお前は裁判沙汰にするつもりなのか。その裁判だって、金が欲しいからやるんだろう。さあ二人ともとっとと帰ってくれ!お前たちの顔なんかもう二度と見たくない!」
 叔母は何か言おうとしかけたが、父はドアの方を指差した。
「出て行け!もう何も聞きたくない。裁判所でも警察でも、好きなところへ行くがいい!」
 ずっと息を殺していたメリは、父のところへ行くとその肩をつかんだ。
「お願いパパ、落ち着いて!」
 するとドアの方へ向かっていた叔父が、呆れたといった風で
「飲んだくれには手の施しようがないな」
と軽蔑した口調で言った。
「お前みたいな、いんちきのいかさま商売なんかより、飲んだくれの方がまだましだ」父が言い返した。
 メリは、打ちひしがれた思いで叔父の方を見ていた。叔父がこんなに悪人に思えたことは今までなかった。
「私のお父さんを飲んだくれなんて言うのはやめて!」メリは言った。
 叔父は軽蔑したような素振りで、そのまま大股で外へ出たが
「じゃあまたな、バシュキム・ジョカよ!」と叫んだ。
「お前さんもいずれ俺に泣きついて土下座することになるだろうさ」
「馬鹿馬鹿しい!」父も言い返した。
 叔母は叔父のあとについて押し黙ったまま出て行ったが、門を出るところで
「兄さんは間違ってるわよ。あたしたちは兄さんが困ってるから助けたいだけなのに」と言った。
「兄を金で買うような妹に用はないよ」父は冷たく言い放った。
 それから父はヴェランダに腰をかけ、タバコに火をつけた。そしてしきりに煙をふかしていたがメリはそんな父の両手が震えているのを見逃さなかった。父の顔にははっきりと、深い失望の表情が刻まれていた。
「こんなことだと思ったよ」父は呻くようにそう言った。「あいつらが俺にあんなことを持ちかけてくるような気はしていたんだ。俺を裁判でもこてんぱんにしようってことさ。なあ、メリ、お前もそろそろ世間のことをわかっていい頃だ。ああいうひどい連中もいるんだよ。頭の中はカネのことばかりで、他人を騙して自分が儲けることばかり考えている。自分の親族にさえあの始末だ。本当にいまいましいよ。もう我慢の限界だ」
 メリは父のやつれた横顔を、胸の痛む思いで見つめていた。
「ねえパパ、そんなに気にしないで。いい人だっているわよ」
「何だって?いい人もいるだって?どこにそんないい人がいるんだい?」そう問いかける父はほとんど自暴自棄の寸前だった。「なあ頼むよ、どこにそんな奴がいるのか教えてくれよ!」
「私たちのすぐそばよ」
「へえそうかい?まったく!だったら俺もこんな目にあわなくて済みそうなもんだよ」
 その日から父はまた家に帰るのが遅くなり、しかも毎晩のように酔っ払っていた。ろくに口もきかず、ただ「おやすみ」とだけ言って寝室に引っ込んだ。そして朝になると早々と出かけていて、仕事に行ったのかどうかもわからない有様だった。あっという間にメリは、必要なものを買うお金にもこと欠くようになった。食料品のつけを払わないわけにはいかず、具合が悪い祖母のところへ行くのが申し訳なかった。
 アルビも程無く父の監視の目から逃れてしまい、またしてもたびたび「ゼロの三乗」の男子たちと一緒に行動するようになっていた。そして学校を出ると夜遅くまで帰ってこなかった。どうしたら弟を家に留めておけるのかメリにはわからなかった。いつもこっそりいなくなってしまうからだ。或る日の午後、メリがアルビの肩をつかんでテーブルにつかせようとすると、アルビは激しく抵抗し、大声を上げた。
「警察みたいなことしないでよ!お説教なんか聞きたくもない!」
 アルビは外へ出ていこうとしたが、メリはその前に立ちふさがった。
「行っちゃダメ!」
 するとアルビはメリを突き飛ばした。メリはびくっとして脇へ退いた。
「アルビ・・・ダメよ・・・戻りなさい・・・パパに言うわよ」
「好きにしろよ!」
 アルビが外へ出て行くのを見ながら、メリは自分がまるで無力であることを実感した。いつもこんな時は少しの間だけ泣いて、それから気を取り直し、いつものように家事を続けるのだった。とはいえ、バルザおばさんのところで働いている間だけは、アルビにノラの面倒を見てもらうしかない。だからアルビには自分より早く帰ってきて欲しいとメリは思うのだった。
 ところが家に戻ってみると、ノラは算数の教科書に突っ伏し、そのまま眠ってしまっていた。メリはノラを抱きかかえてベッドまで運んでやった。アルビが戻ってきたのは、いつもよりずっと遅くなってからだった。首に巻いたマフラーを揺らして、足でリズムをとりながらエロス・ラマゾッティの歌を口ずさんでいた。ウインドブレーカーのボタンは互い違いに留めたままで、とろんとした目をして、時折ふらついている。メリは弟のそんな姿に狼狽した。
「アルビ・・・あなた、飲んでるの?」
「ん、飲んだよ。ビールをね」アルビは言った。
「お店で飲んだの?!」
「本当は店の外だけどね。何だよ、何そんなに驚いてんの?エロス・ラマゾッティだって言ってるよ『人生で大切なこと、それは僕らのこと』ってね。ビールだってそうさ、ドラッグじゃないんだからさ、ねえメリ」
[訳註;エロス・ラマゾッティ(Eros Ramazzotti)はイタリアの歌手。ちなみにアルビが言っているのは、おそらく“Cose della vita”の歌詞からの引用“[…] sono cose della vita […] sto pensando a noi […]”のアルバニア語訳。ちなみに日本ではティナ・ターナーとのデュエット版が「キャント・ストップ・シンキング・オブ・ユー」というタイトルでリリースされている]
「そんな、ビールなんか飲んだらどういうことになるか、あなたわからないの?」
「おしっこしたくなる」アルビはにやにやしながら答えた。
「ねえメリ、歴史の先生のすごい話なんだけど、今日ブレンディがその先生につかまってさ。あいつ、うちのクラスで授業中にスプライト飲んでたんだよ。そしたら先生『あらまあブレンディあなたの息ったらスプライトだかコカコーラだかの匂いがするわねえ』だって。それで『こんな炭酸系なんか飲んで眠くならないだの、身体にいいだの思ってるいるのかしら?私たちの時代なんて、水だけ飲んでても立派に成長したものですよ』とか言ってたらブレンディの奴、『先生、うちのアパートはもう2年も水が出ないことの方が問題ですが』だってさ。すごいよなあ、ねえ?」
 メリはものを言うのも馬鹿馬鹿しいと思ったが
「アルビ、もう寝たらどうなの」と言った。
「寝る?それは上官殿のご命令ですか?」
「まず服を着替えるの!パジャマを着なさい!」
「ああ!そうか、パジャマね。パ、ジャ、マ、パジャマ君どこにいるの?」
「ふざけるのもいい加減にして」メリはぷいと背を向けた。こんな時にもし父が帰ってきて、こんなアルビを見たらどうしようと不安でいっぱいだった。だが幸いなことに、父が帰宅した時には、アルビはすっかり眠りに落ちた後だった。メリはまだ温かさが残るストーブのそばに座って、膝の上に物理の教科書を広げていたが、立ち上がってテーブルのそばに行った。父は小声でただいまと言って、それから急に
「で、アルビはどこだい?」と訊ねた。
「もう寝たわ」とメリが答えると
「今日は何か忙しかったのかい」
メリは『アルビまで飲み出して』と喉まで出かかったのをこらえて
「勉強で疲れたのよ」と伏し目がちに言った。
「よくわかるね」と父がなおも訊いてきた。
「そうよ、ずっと一緒にいたから」
 それで父は座って食事を始めたが、もう何も言わなかった。

10
 息子と父の間がほとんど決定的に冷え切ってしまったのは、と或る日の午後のことだった。父はアルビが校舎の陰で「ゼロの三乗」の連中とカード遊びに興じているのを見てしまったのだ。父は家でずっとアルビの帰りを待っていたが、昼食時を過ぎてもアルビは一向に戻ってくる気配がない。それで息子を探しに出かけたのだが、その日の父はすっかり苛立っていた。
「あいつを外に出すべきじゃなかった」父はメリに言った。
「でもあの子、もう私の言うことなんか聞こうとしないのよ」とメリは答えた。もうこれ以上、本当の気持ちを抑えておくことができなかった・・・
 父の姿を目にして、アルビはカードを手にしたまま動けなくなった。広げた新聞紙の上に、何百レクかの硬貨が散らばっていた。他の男子は我関せずといった視線を投げかけた。
「おや、カード遊びかい」父は薄笑いを浮かべて言った。「こりゃまいった!君たちも、もうそんなことをする年になったんだな!」
 誰も返事をしなかった。
「アルビ、お父さんと一緒に来るんだ!それから君たち、もううちの息子とは会わないでくれ!」
「このおじさん何言ってるのさ?!」レディが声を上げた。「俺たちはあんたの息子を無理矢理連れてきたんじゃないぜ。自分から勝手について来たんだからな」
 アルビは父の目の前にしてうろたえていた。父はアルビの腕をつかむと、自分の後に引っ張ったまま連れ帰った。
「もう街をうろつくんじゃないと父さんはお前に言ったはずだぞ」家に入るなり父はアルビに言った。「姉さんの許しも得ないで外出したばかりか、カード遊びにまで手を出すとは!」
「カードで遊ぶことまでダメだなんて言わなかったじゃないか」アルビが言った。「ティラナなんてどこもビンゴにビリヤードだらけじゃないか」
「お前はダメだ!」父は声を荒げた。「お前はここにいて勉強しなきゃダメだろう」
「ふん!勉強、勉強って!」アルビは軽蔑するようなしぐさをして見せた。「何だよ!勉強ばっかりが人生だっていうの?」
 そう言い終わるや、父の平手打ちが飛んできてアルビの頭がぐらりと揺れた。
「人生ってのはな、勉強と仕事なんだ!」
 メリはその光景に身を凍らせていた。父が自分たちに手を上げるなんて、ついぞなかったのに。ただ一度、アルビの乗る自転車が老婦人を引っかけて転倒させた時に、父がアルビの耳たぶを真っ赤になるまでひねり上げたことはあったけれど。
 殴られたアルビは、もはや自制心も利かなくなっていた。まるで昔からの敵に合ったように、ぎらぎらした目で父を睨みつけると
「父さんなんかに、僕のことを偉そうに言える資格があるの?」と叫んだ。
「何だよあのラキは!それにあの借金は!」
「アルビ!父親に向かってそんな口の利き方は何だ?!この馬鹿野郎!」
 父はアルビの腕をつかむと、二度目の平手打ちを食らわせた。だが三度目の手を振り上げたその時、メリは二人の間に割って入って叫んだ。
「もうやめてよパパ!」
 父の腕が宙をさまよった。アルビは父の腕をふりほどくと、外へ飛び出して行った。メリはその後を追いかけた。
「アルビ、戻ってきて!」メリは叫んだ。「お願い戻ってきて!」
「いやだ!もうこんな家いたくない!絶対に戻るもんか!」
 メリは門にもたれかかったまま、アルビが通りの角を曲がって見えなくなるのをただ見つめているだけだった。そして家の中に戻ってみると、父が廊下で落ち着きなくタバコをふかしていた。
「アルビはどうした?」父が訊ねた。
「たぶん、お祖母ちゃんのところよ。ねえパパ、何も殴らなくてもよかったでしょ」
「俺だって、殴りたくなんかなかったさ」そう言って父はため息をついた。「でもお前も見ただろう、あんなことを言われてはなあ」
 二人はそこで黙り込んでしまった。考えていることは二人とも一緒だった。
 その日の夜遅く、家に祖母がやってきた。ひどく腹を立て、息を殺したままで、いつもついている杖を右手にぎゅっと握り締めていた。そして挨拶もなしで父の前に立つと、怒りをあらわにした目で睨みつけ、こう言った。
「ああ、あんたもとうとう手をあげるようになったのかねえ?」
 父はどうにか気を落ち着けようとしていた。
「お祖母ちゃんったら、そんなの手で一回叩いただけよ」メリが口を挟んだ。「アルビが悪かったんだから」
「アルビが悪かっただって?悪かったらお前のお父さんに引っぱたかれて家から追い出されなきゃならないのかい?あの子ったら、ぼろぼろ泣いてたんだよ」
「わかってるよ。その通りさ」父が言った。
「もうごめんだねそんなのは!頼むから子供たちをぶつのはよしておくれ、子供たちは何にも悪くないんだからね。何もかも悪いのはあんたじゃないか。あんたがちゃんとしていれば何もかもうまくいっていたのに。一体これからどうなるんだい!」
 途端に父は声を荒げた。
「もう責めないでくれよ!何とかするからさ」
「ああそうかい!そりゃ有難うよ」祖母は身を震わせながら言った。「何とかして欲しいと思ってるのはあんたじゃなくてこの子たちだろうけどね」
「義母さん頼むから、うちの子のことに口を出さないでくれよ!」
「あたしが口を出すのは、あんたに子供たちを育てる資格がないからだよ。そういう悪い癖があるから、あんたは子供の面倒だって見られやしないじゃないか」
「俺のどこが悪い癖だっていうんだ!」父はさらにいきり立って大声を上げた。
 メリは不安げに両手の拳を握りしめていた。どうやってこの二人をなだめたらいいか分からなかった。
「あんたはその悪い癖と手を切りなさい!」祖母はなおも言った。
「義母さんだって、他人をいらいらさせるその悪い癖はやめたらどうだ!」
「いつあんたをいらいらさせたのさ?」
「もうずっといらいらさせられてるよ!」
 すると祖母はぎこちない動きで父に背を向け
「バシュキム、あたしの言ったことが本当にあんたのためにならないのかどうか、自分の胸に手をあててよく考えるんだね」
と言い捨てると、身を震わせながら部屋を出て行った。
 メリは少しだけ祖母を送って行った。家に戻ってからも、父とはひとことも口をきかなかった。ところがその翌日、メリが朝食の用意をしていると不意に父が、伏し目がちにこう言ってきた。
「許してくれメリ、昨日はお祖母ちゃんにあんなことを言ってしまって。お祖母ちゃんはあんなにいい人なのに」
 メリは父のそばへ行き、その肩に手を置くと
「パパ、お祖母ちゃんだってもう怒っていないわよ」と言って慰めた。
「いいや」父はため息をついた。「そんな簡単な話じゃないよ。アルビのことだって、とても不安なんだ。あいつとどうやって接していけばいいのかわからないんだ」
「あの時みたいにすればいいのよ、一緒に車を修理した時みたいに」
「あいつはもう俺のことを信用してくれないような気がする」
「パパ、私たちは二人ともパパを信じてるわ。馬鹿なこと考えないで!」
 父は食事の間も何か考え込んでいた、
 アルビの父に対する嫌悪がそれから数日続いたため、とうとうメリは家に戻るよう弟を説得する羽目になった。
「姉さんの顔を立ててやるだけだからね」アルビはためらいがちにそう言った。
 メリはアルビの肩を抱き、自分に引き寄せた。しかしアルビは父とは目を合わせず、ただ冷たく
「ただいま」と言っただけだった。父は何事もなかったように振る舞っていて、ひとことも口をきかず、息子がこの何日も家に戻らなかったことについて文句も言おうとしなかった。父と息子の間に出来てしまった溝の深さに、メリは心が痛んだ。気持ちが少しも落ち着かず、勉強にも身が入らなかった。アルビが何かとんでもないことをしでかすのではないかという不安もさながら、父がまた夜の街で飲んだくれるか、不機嫌になるかするのではないかという、以前からの不安もまたぶり返してくるのだった。
 そんな不安や疲労感は着実に学校生活にも影響した。成績の落ち込みようは誰もが知るところとなっていた。それでも、シドと担任教師は何とかしてメリを9点や10点に引き戻そうとした。メリが成績に対して無関心になっていることにシドはしばしば気が気でなかったが、二人が一緒にいることはだんだん少なくなり、顔を合わせるのも教室だけで、休憩時間にも互いのことに気が回らなくなっていた。
 或る土曜日、クラスの男女でサイクリングに行くことになっていたが、メリは参加できなくなってしまった。ちょうど父の知り合いが、まるで世界中のありとあらゆる悪路をひたすら走り続けてきたようなおんぼろ自動車で、門のところに乗り付けていた。
「アルビはどこだい?」父はきょろきょろしながら訊ねてきた。しかしアルビは出かけてしまっていた。メリが近所から学校まで探し回ったが徒労に終わった。
「誰かに手伝ってもらわないと困るんだがなあ」と父が言った。
 メリは時計を見た。あと十分以内に集合場所へ行ってみんなと落ち合わなければならなかった。けれどもメリは静かに答えた。
「パパ、私がやるわ」
 そして急いで電話に向かうとシドの番号にかけた。しかしシドは出かけてしまったらしく、電話に出たのは彼の母親だった。
「あらメリ」と彼女は驚いた口調で言った。しかしその後に続く言葉はなかった。以前のような挨拶も、問いかけの言葉もなかった。
「シドをお願いします」メリは遠慮に言った。
「シドは出かけたわよ」
「あの・・・わかりました。し・・・失礼します」
 メリはその日の午後じゅうずっと落ち着かなかった。父の仕事の手伝いをしている間も、手元が震えていた。父も、娘が集中できていないことに気付いた。
「メリ、ここにいてもらってはいけなかったんじゃないか?」父は自分のせいででもあるように言った。「何か予定があったんじゃないか?」
 メリは無理に微笑んでみせた。
「そんなことないわよ、パパ。こんな車があるんじゃ他の予定なんてどうだっていいわ」
「そう言ってもらえると有難いよ」
 メリがしばらく待っていると、シドから電話がかかってきた。
「メリ、どうして来ないの?」彼は苛立っているようだった。「みんなで何かやろうとするたびに君は来ないじゃないか、一体どうなってるのさ」
「あなたが私のことでそんなに気を遣わなくてもいいのに」
「ねえメリ、いつまでこんなことを続けるつもりなの?」
 その言葉にメリはびくっとした。
「シド、私がどんな状況か、あなただってわかってるでしょ。あなたがそんなにいらいらしなくたって・・・」
「僕はいらいらしてなんかいないよ、ただ、君には僕と一緒にいる時間もないみたいだから」
「それは何とかするから!」
 ところがそんな約束を守るのはますます難しくなっていった。その翌週、シドが日曜日に自分のチームの決勝戦があることを伝えてきた。それはささやかながら、アルバニアの或る有名なバスケ選手の名を冠した大会のことだった。シドの「負け知らず」チームと「新ティラナ・タイガーズ」の試合だった。対戦相手はユースチームの中でも技術と遠距離からのシュート力で知られていた。シドはその試合に向けて真剣に取り組んでいた。チームメイトの一人が病気になったため、コーチからはこの試合ではシドを主戦力に据えるつもりだと言われていたのだ。
 その3月の日曜日、メリはアルビに一緒に試合を見に行こうと誘ったが、アルビは行きたがらなかった。それでメリは一人で行くことにしたが、家を出ようとしていたまさにその時、電話が鳴った。従姉妹のアルダからだった。
「メリ、早く来て」彼女の声は取り乱していた。「お祖母ちゃんが大変なのよ。倒れて、意識がないの」
 メリは父とアルビに電話の内容を伝えて、3人で急いで出かけた。祖母の家に来てみると、玄関の鍵がかかっていた。祖母は病院へ運ばれたらしい。3人がやむなく病院へ向かうと、医師に蘇生術の行われる部屋へと案内された。アルダがドアのそばで待っていた。彼女は安堵した様子でにっこりした。
「もう大丈夫よ。さっき先生と話したから」
 30分ほどすると、蘇生術が行われていた一つの部屋から祖母が運び出されてきた。看護師が二人、移動式の担架に祖母を乗せたまま、一時的な入院患者用とおぼしき部屋へ入って行った。
「お昼頃には帰宅されてかまいませんよ」看護師の一人が言った。
 アルビがまっさきに祖母のそばに行って、キスをした。
「今回は運が良かったよ」そう言って祖母はため息をついた。「でもまた同じことがあったら、その時はもう天にも見放されるかもねえ」
 メリは椅子に腰かけて、祖母の青白い掌を自分の掌に重ねた。そこで初めてメリは時計に目をやった。気付くと、既に「負け知らず」対「新ティラナ・タイガーズ」の試合の後半が始まっている頃だった。
『ごめんねシド』メリは心の中でつぶやいた。『私行きたかったの。本当に行きたかったのよ』

***
『来ないのかな』
 観客席を見ながらシドは思った。クラスメートの男女が少しだけ集まって、試合を最初から見てくれていたが、そこに来る姿はなかった。メリがいない。
「集中しろ、アルバナ!」コーチが叫んだ。「ボールを追え!そら行け!ゴール下に回るんだ!」
 シドは、相手チームの選手の間に割り込むと、チームメイトが鉄枠投げたボールを取ろうと手を伸ばした。そしてようやくボールをつかんだが、それが地面にバウンドした瞬間、「タイガーズ」のディフェンスが割って入ってそのボールを両手でもぎ取った。シドは審判の方を見て、ファウルだと言おうとしたが、向こうが出してきたのは試合続行の指示だった。「タイガーズ」の応援団はさらに気勢をあげた。既に両チームの点差は8点になっていたが、シドがボールを取られて点差は10点になった。
 「負け知らず」のコーチが休憩を申し出た。シドはおぼつかない足取りでコーチのところへ歩み寄った。
「どうしたんだアルバナ、今日はおかしいぞ」コーチはわけがわからないという風で両手を広げたまま、シドに声をかけた。「一体何をぼんやりしてるんだ?!こんな試合、いつもなら何とかなるだろう。とにかく正確にやれ。集中しろ。10点なんて大したことはない。まだ挽回するチャンスはあるぞ。お前たちを信じているからな。アルバナはさっきの調子で3点取り戻すんだ。さあ行け!」
 チームメイトはハイタッチで互いを励まし合いながらコートへ戻った。相手チームのミスでボールがこちらの手に渡ると、ポイントガードはすぐさまそれをシドのいる方へ投げた。シドは相手の選手たちの間をすり抜け、身体を起こすと、離れた場所からシュートした。しかし最後の最後で手先が震えてしまった。手応えは感じられず、ボールはバスケットの下に当たった。応援団から一斉に失望の声が上がった。
 すぐコーチはシドをベンチに呼び戻さざるを得なかった。そんなことは滅多にないことだった。
「いいか、落ち着くんだ。こんなの、よくあることさ」コーチは言った。
 シドはジャージを着ると、首からかけていたタオルで顔をぬぐった。すると誰かの手が肩に触れた。
「君を呼んでるぜ」ベンチ待ちのチームメイトがそう言って、観客席の方を指差した。シドがそちらに目をやると父アリアンがいた。シドに向かって微笑んでいる。
「試合はこれからだぞシド」アリアンは何ごともなかったように声をかけてきた。「もう一度コーチに頼んで、コートに戻してもらうんだ」
 シドは父からの励ましに手をあげ、感謝のしぐさをしてみせた。そして少しの間、試合の行方を追うことはせず、どうにかしてメリのことを忘れようとした。彼女の態度に対する苛立ちを抑えようとしたが、この決勝戦に彼女がいないことは何か理由があるように思えてならなかった。
『どうしてメリは僕に関心がないみたいな態度をとるんだろう?』シドにはメリのそんな態度の意味が全くわからなかった。もうメリのことはシドの手に負えなくなっていた。
 休憩に入るとすぐ、シドはコーチに、もう一度試合に戻して欲しいと頼んだ。コーチは半信半疑ながらもそれを許可した。
「アルバナ、必要なのは得点だ」コーチは焦り気味に言った。「とにかく点を取るんだ」
 点を取り戻すため、シドは相手チームの陣地に入り込む作戦をとることにした。その方法で取れたのはたったの2点だが、遠距離から投げ込むよりはまだ確実だった。ディフェンス陣をどうにかかいくぐり、シドはようやく点を取った。応援席が幾らか活気付いた。もう一度シュートを決めるには厄介なポジションだったが、応援席は声援を上げ始めた。
「シド!勝ってくれシド!」
 だが攻勢に転じたとは言っても、勝利を手にすることはできなかった。「タイガーズ」は4点差で試合を制した。シドは、敗北の責任がほとんど自分にあるような気分でコートを去った。コーチは慰めてくれたし、アリアンも同じだった。家に帰るために車に乗った時も、アリアンはまた笑いながら、やさしくシドの肩を抱き、こう言った。
「パパには、お前のプレーがうまくいかなかった理由がわかるよ」
シドは不審そうな目で父の方を見た
「メリがいなかったからだろう」
シドは顔を赤らめた。
「何だよパパ、試合がうまくいかないことなんていくらでもあるさ・・・」
「わかってるさ。医者が手術する時だってそうだからね。もう今日の試合のことは忘れなさい。スポーツに負けはつきものさ。当たり前のことじゃないか。人生だって、失敗すれば人間はそこから学べるんだから」
 二人は何も言わずに帰宅した。母エロナがキッチンから不安そうな顔をのぞかせた。
「負けちゃったよ」アリアンが言った。「タイガーズもあなどれないね」
「わかってたわ、シドのチームは負けるんじゃないかって」エロナが不意にそんなことを言ったので、シドとアリアンは目を丸くした。
「何でそんなことがわかるんだい?」アリアンは不思議そうに尋ねた。
「シドがちゃんとプレーできないような気がしたからよ」
「何で僕がちゃんとプレーできないってわかるの?」シドが訊くと
「だって、あなたここ何日か落ち着きがないじゃない。それにしょっちゅういらいらしてるし」
「そんなことないよ!」シドは必死に否定しようとしたが
「そんなことあるわよ。あなたは自分で気付いてないでしょうけど、お母さんはそんなことだろうと思っていたのよ」
「ママったら、僕が落ち着いてるとかいらいらしてるとか、そんなことと試合と何の関係があるっていうのさ?」
「大ありよ。思い切り試合したいのなら、精神的に落ち着いていなければダメなのよ。そうでしょあなた?」
「そういう考え方もあるね」アリアンはエロナに同意した。
「僕は精神的に落ち着いてるよママ」シドはなおも食い下がった。「でもボールはボールなんだからシュートしたって入らない時は入らないさ」
「それはそうね。でもねシド、あなた、パパとママに何か言ってないことがあるんじゃないの?」
「そんなことないよ!」
「ごまかさないでちょうだい、シド!」
「ねえママ、僕はね、試合に負けて帰ってきたんだよ。何でそんなこと言うの?」
「ママはね、あなたがどうしてこの頃そんなに悩んでいるのか、それを知りたいの。あなたには本当のことを言って欲しいのよ。ママはシドのことが大好きなんだから」
 それでもシドは母親と目を合わせようとはしなかった。
「別に聞かなくたっていいじゃないか」アリアンが言った。
「理由はね、メリとのことなのよ。シドはメリの家庭の問題に影響を受けているの。何もかもそのせいよ」
「すごいなあ」アリアンは声を上げた。「君たち女性ってのは、他人様の問題となると、まるでコンロで料理が煮えてる時みたいに鼻がきくんだからねえ」
「別に鼻がきくってだけじゃないわよ」エロナは不満そうに言った。「私は何にでも興味があるし、何だって知ってるのよ」
「例えば何?」シドが訊ねた。
「メリの成績が落ちていて、あの子のお父さんがお酒のことでもめていて、あの家に将来の見込みがないことも知ってるわ」
 アリアンは納得いかないといった風で
「人生なんてねえ、先のことはわからないんだよエロナ。とりわけこのアルバニアではね!」
「あなた、それもこれも、シドが私に本当のことを言ってくれないのが悲しいからよ」
「シドは、自分の好きな彼女を親よりも優先するような連中とは違うよ。ただメリはシドにとってとても大事で素敵な女の子なのさ」
「私はそうは思いませんけどね!」エロナは苛立った口調で言葉を返した。
「大事なのは、シドがどう思っているかだよ。とりあえず、このトラの被害者[訳註;もちろんシドのこと]にはシャワーを浴びてもらって、疲れをとってもらおうじゃないか。そうしたら何か美味しいものを出してもらえないかな」
 エロナはやれやれといった風で両手を広げてみせた。
「だったら、この話はここまでにするわ。でも、この話はまた後でしますからね。それもなるべくすぐにね!」
 シドはその場をおさめてくれた父に感謝したかった。もううんざりだと感じていたからだ。
『ママにはもう隠しごとができないな』
 夕食の間もずっと、シドは母親と目を合わせようとしなかった。父アリアンはさっきまで話していたことなど忘れてしまったようで、自分が出席することになりそうなデンマークでの医学セミナーの話を始めた。エロナはセミナーの日時を訊ねて、アリアンの返事に
「あらよかったわ」と言った。
「それじゃ私が出発する二日前にはあなた帰ってくるのね。私も、月末にハンガリーに行かないといけないのよ」
 そんな外国行きの話が終わると、二人は新車を購入する話を始めた。何年後かに別送を建てる予定の土地があって、そこに手頃な値段で買える車を探していたのだ。けれどシドはそんな話どころではなかった。とにかくどうしてメリがあの散々な決勝戦に来てくれなかったのか、その理由をあれこれ考えていた。今にも電話が鳴るかと思い、そのたび怒りがぶり返してきて、電話になんか出てやるものかと思っていた。だが結局その晩遅くまで、メリからの電話はなかった。
 翌日の学校で、シドはメリにつれない態度をとった。目の前を通る時、声をかけることもなかった。メリはスポーツ紙「ティラナ・エクスプレース」で、「負け知らず」対「新ティラナ・タイガーズ」の試合について書かれた記事を読んでいた。新聞記者は大学のジャーナリズム科の学生だったが、「負け知らず」チームの敗北要因の一つが、リーダー格のシドリト・アルバナの集中力を欠いたプレーにあるということまで、忘れることなくしっかり書いていた。メリは紙面をじっと見つめ、それからシドに何か言おうとしかけたが、シドはぷいと顔をそむけてしまった。
 教室の席についた時、メリは、シドが自分と口をきく気がないことに気付いた。二人は授業時間中ずっと隣同士だったが、お互い目を合わせることもなく、隣の席には誰もおらず、まるでそこには自分の肘か、或いは教科書とノートしかないように振る舞っていた。本当に厄介な状態になっていた。そんなことは今まで一度もなかった。メリは何度か話しかけようとしたが、結局できなかった。シドは椅子のへりに左手を載せたまま、前のめりで、すっかり授業に集中しているようだった。
 二時間目もそんな状態が続いた。メリはだんだんいらいらしてきた。シドにそんな態度をとられるなんて思ってもいなかった。三時間目もその調子だった。それでとうとうメリはカバンを取り、肩にかけると、どこへ行くとも誰にも言わずに家に帰ろうとした。ところが校門を出ようとしたところで、担任と出くわした。
「どうしたのメリ?どうして帰るの?」
メリはすかさずその場を切り抜ける方法を思いついた。
「祖母の具合が悪いんです。昨日も病院に行ったもので」
 担任は少しだけ考えているようだったが
「どうしても授業を抜けないとダメなの?」と訊ねた。
 メリは、もう自分は教室に戻るわけにはいかないのだと担任を説き伏せた。
「わかりました、いいでしょう」担任はまだ納得がいかないながらもうなづいた。
「ねえメリ・・・本当に、お祖母ちゃんの具合が悪いだけなの?」
 メリは、そうだという風にうなづいた。
「それじゃ、さようなら先生」

11
 メリが家の前まで来た時、誰か呼ぶ声がした。クララだった。足首のところまで届きそうなほど長い、黒サクランボのような色のコートを着て、襟の上から羽織った黒いマフラーが膝下まで伸びていた。コートの下にはミニスカートと、胸元がU字型に開いたシャツが見えた。ぬかるんだ道では、金属製の飾りのついたハイヒールも泥汚れとは無縁でなく、クララはそれをしきりと気にしているようだった。
 こっちへ来いと手招きしていたので、メリは彼女の方へ近付いていった。高そうなバラの香水の匂いが鼻をくすぐった。メリは戸惑いながらも何とか笑ってみせたが、ごてごてと着飾ったクララは30歳ぐらいに見えた。髪の毛はジェルでてかてかになっている。唇はコートと同じ色で、黒く縁取られている。見た目はずっと年上で、15歳とはとても思えなかった。
「ハイ、メリ元気?」声をかけてきた彼女は、自分の姿にすっかり満足しきっていた。
「一緒に出かけない?」
「どこに?」
「この近くのバーよ。カプチーノでも飲みながらお喋りしましょうよ」
「私・・・実はね・・・」
「もう、ごちゃごちゃ言ってないで」
 メリは迷った。家には帰りたくない。待っているのは山ほどの家事ばかり。とはいえ、バーに行くというのも容易にできることではなかった。クララと一緒ともなれば尚更だ。しかしクララはそんなメリのためらいを嗅ぎ取って、
「用事でもあるのメリ?」とそっけなく言った。
「一緒に行かないの?」
「ううん・・・私・・・家にカバンだけ置いていくから」
「そう、じゃ早く来てね」
 それから二人は歩道へ出た。歩道の上は泥だらけで、あちこち水たまりができていて、電話線がむき出しになっていた。
「これじゃ出歩く気になんかなりゃしない!」クララは不満げに鼻を鳴らした「いやんなっちゃうわよ」
 そこへ車が一台、二人の横を走り抜けた。タイヤが水たまりに突っ込んで、歩道の方に汚れた水しぶきを巻き上げ、それが少しだけクララのコートにかかった。するとクララは苛立った声を上げ車の走り去った方を向くと罵声を浴びせた。
「もう何てことするのよ!ああもう本当に、こん畜生、畜生め!」
 クララはその後もしばらく悪態をついていたがその内二人は「サンマリノ」という名のバーまでやってきた。中には近所の高校生とおぼしき若い男女がたむろしている。店内に流れているのは今風な曲ばかりだった。換気は十分でなく、テーブルの上にタバコの煙がもうもうとたちこめていた。ピカピカ光る照明で、店内はディスコのような雰囲気をかもし出している。
 メリは自分がそんな場所にきたことに不安めいたものを感じて
「他の店に行った方がいいんじゃないかな」と言いながらクララの腕を摑んだ。
「あらダメよ、ここでゲンツと待ち合わせなんだから」クララは答えた。「何をそんなに赤い顔してるの?今までバーに入ったことないの?」
「ええ」
 クララは笑ってメリの腕を引っ張った。二人はドアの近くのテーブルについた。クララが何人かの女子に声をかけているところを見ると、どうやらこの店は彼女にとってお馴染みの場所らしい。クララは手を上げてウェイターを呼び、カプチーノを二つ頼むと、軽く微笑んでみせた。メリは身をこわばらせ、両掌を膝に乗せたままで座っていた。そして周りの目につかないよう壁際にぴったり身を寄せていた。
「もうメリったら、そんな田舎から来た娘みたいにしてないで」クララが言った。「自分が子供じゃないかなんて思うもんじゃないのよ。こっちまで恥ずかしくなるわ」
 メリはどうにか微笑んでみせた。
「ねえこれ見て」クララは自分の胸元を飾っている金製のネックレスを指して訊ねた。「こういうの好きかしら?」
「とっても綺麗ね」
「ゲンツがギリシアで買ってきてくれたのよ」
「いつ帰ってきたの?」
「つい二、三日前よ」
「で・・・クララはこれからどうするの?」
「夏になったら・・・ウフフ・・・アテネよ!」
 メリは目を見開き、息を呑んだ。
「でもね、メリ、あなたこんなすごいネックレスもらったことある?」クララが不意に訊ねた。
「貝殻のなら」
「貝殻ですって?!やだメリったら、ひとを笑い死にさせる気?今は貝のシーズンじゃないわよ。うちにはトルコ製のネックレスもあるから、あなたが欲しければあげるわ」
「いいのよ、金のものなんか欲しくないわ」メリは慌てて答えた。
「じゃ好きにすれば」
 二人が20分ばかりそこに座っていると、店の前に灰色の車が停まって、若い男が二人降りてきた。
「ああ、ゲンツだわ」クララが腰を浮かせながら言った。
「じゃ私・・・もう帰った方が・・・」メリがそうつぶやくと
「あらいいのよ、彼にもあなたを紹介するわ。あとアルドにもね。ゲンツの大親友よ」
 男二人はメリたちのテーブルまで来ると声をかけた。ゲンツはクララとキスを交わしてからメリの方を見た。
「へえ、かわいい女の子たちが座ってらあ!」そう言って彼はにっこりした。「やあメリ、元気だった?僕のこと憶えてるよね?」
 メリは戸惑いながらうなずいた。
「ねえアルド、メリはうちのご近所さんなのよ」クララが言った。
 自分のそばに座ったアルドの、その肩までかかりそうな長い髪を見た時、メリはようやく彼のことを思い出した。3年前、ゲンツと一緒に8年生のクラスを卒業した男子だ。あの時もこんな長髪で、ダンスに興じる男子の中でもやけに目立っていた。いつか夜のパーティーがあった時も、女の子たちが彼と踊ろうと行列を作っていたっけ。
「ごめんよメリ、僕は君のこと憶えてないんだよねえ」アルドは言った。「でも知り合いになれて嬉しいよ」
 メリは顔を赤らめ微笑んだ。
「私、あなたがダンスをしてたのは憶えるわ」とアルドは言った。「急につむじ風が吹いて、みんなきゃあきゃあ騒いでたでしょ」
「いやあ、過ぎたことだから、もう忘れちゃったなあ!」アルドはため息をついた。「今じゃダンスなんてやってる場合じゃないからさ。今ギリシアで働いててね。もう馬車馬みたいにくたくたさ」
 ゲンツが抜け目なさげで、どんなことでも力ずくで解決しかねないという印象だったのに対して、アルドはソフトな性格のように思えた。その甘いマスクには穏やかで、温和そうな表情をたたえている。
 メリがもう少しだけ同席してからいとまをつげようとすると
「もう少し何か飲んでいけばいいのに。僕らに遠慮しなくてもいいんだよ」とアルドが言った。そしてウェイターを呼ぶと、オレンジジュースとココアを注文した。
「いいのよそんな、無駄遣いしないで」とメリが言った。
 その言葉に、ゲンツたちは互いの顔を見合っていたが、やがてゲラゲラ笑い出した。
「金のことを気にするなんて!」ゲンツが小馬鹿にしたように声を上げた。
 ゲンツとアルド、それにクララはギリシアに関する話をし始めたが、一方メリは気まずいものを感じ出していた。タバコの煙が辺りにもうもうとたちこめた。店にはひっきりなしに人が出入りしていて、メリはそのたび誰か知り合いに見られるのではと気が気でなかった。するといつの間にかメリたちのテーブルに男が一人近付いてきた。疑り深そうな顔つきで、両手は丈の長いジーンズ生地のウインドブレーカーのポケットに突っ込んだまま、ゲンツとアルドのほうを見やりながら
「そちらのお嬢さん方、タバコはどうだい?」と話しかけた。「こいつは上物だよ」
 アルドがいらないという風に首を振ってみせると、そのウインドブレーカー男は別のテーブルへ移っていった。そこに座っていた男子数人が、めいめいポケットを探って金を取り出すと、それらをまとめて、金額を確認してからウインドブレーカー男に手渡した。すると男はテーブルに何かを半ば隠すように置いていった。
「じゃあ私もう帰るわね」メリはそう言って立ち上がった。
「車で送ろうか?」アルドが訊ねると
「いいのよ、家は近くだから。じゃあね」
「気をつけてね」
「メリ、付き合ってくれて有難う」クララが言った。「また会いましょうね」
 メリが店を出て行くのを目で追っていたアルドが、真剣な顔で向き直った。
「クララ、またあの娘と会えるかな?」
 するとクララはくすくす笑った。
「何よ、気に入っちゃったの?やめといた方がいいわよ」
「何でだよ?もう彼氏とかいるの?」
「バスケやってる同級生の男子らしいわよ」
「おい聞いたかよゲンツ?俺たちバスケなんかやらないから、勝ち目ないよなあ」
ゲンツは笑いながら、グラスビールをごくりと飲んだ。
「スポーツなら、俺たち何だってやってるじゃないか」
「なあクララ、あのメリってどんな女の子なんだい?」アルドはなおも食い下がった。
「あの娘はね、あなたなんかには高嶺の花よ」とクララが言うと
「彼女に会えるかなあ。また会えるようにうまくやってくれよ、こんなのクララにしか頼めないんだ。どういう家の子なんだい?」
「お母さんは死んじゃって、お父さんは技師で、車の仕事をしてるわ、どこで働いてるかは知らないけど。それでお酒ばかり飲むようになったんですって。前に私も、酔っ払ってるのを見たことがあるわ」
「じゃあ、兄弟は?」
「弟が一人いるわ」
そんな話を聞く内、アルドはそわそわと落ち着かないそぶりを見せ始めた。
「かわいかったなあ。また会いたいなあ」
 その頃、店の外の歩道ではメリが先ほどからずっと深呼吸をしていた。自分の服にまで店内の匂いが染み付いているような気がした。家に着くまでに頭を冷やして、さっきまでいた場所のことは何とか忘れようとした。そして家に帰ったメリは家事にてきぱきと取りかかった。
 時刻が1時を過ぎた頃、思いもかけずシドから電話がかかってきた。
「僕だよ、メリ」シドの声だった。
「今日のこと、君にどうしても謝りたくて。自分が試合に負けたからって、本当にくだらないことで腹を立てたりしてさ。ダメなところ見せちゃったなあ、せっかく君がくれた魔法の靴下を履いてたのにさ。でも約束するよ、もう二度とあんなことしないって」
 メリは、胸がすっと軽くなる感じがした。
「私もね、シドに、試合のこと謝らなきゃって思ってたの。昨日はおばあちゃんが急に悪くなって病院に運ばれてね」
「僕も、きっと何かあったんだって思ってたよ。本当にごめん」
「私の方こそ、本当に本当にごめんなさい」
「じゃあ・・・もう怒ってないの?」
「ええ、ちっとも」
「メリ・・・僕さ・・・」
 メリは顔が赤くなるのを感じた。
「いいの・・・何を言いたいか、私わかってるから」そうつぶやきながら、受話器を置いたメリの手は震えていた。そして夢の中にでもいるように微笑んでいたが、やがて昼食の支度に取りかかった。妹のノラがテーブルについて待っている。弟のアルビはまだ帰ってこない。それで門のところまで出てきょろきょろ見回していたが、道の向こうの方にいる弟を見たメリはぎょっとした。そこには「ゼロの三乗」の連中もいたのだ。
 メリが道へ出て行って呼びかけると、アルビはわかったよとでも言いたげに手を振ってみせた。メリの視線は弟に釘付けのままだった。

***
 「ゼロの三乗」たちは不満そうな表情だった。
「おいアルビ、お前、相変わらず姉ちゃんの言いなりみたいだな」ケコが言った。「毎週ころころ考えが変わるような奴とは、俺たち付き合いきれないぜ」
「姉さんの言いなりになんか全然なってないさ」アルビはむきになって言った。
「てことは、これからも俺たちとやっていくってことかい?」
アルビはうなづいてみせた。
 するとケコはレザーのウィンドブレーカーの内ポケットからしわだけの紙幣の束を取り出して
「いい仕事を見つけたんだ。お前も来ないか」と愉快そうに言った。
「何の仕事?」
「それは、晩飯を食いながら話そうじゃないか。『グロリア』のピザ屋で会おう。」
アルビはさらにうなづいた。
「おいおい、どうしたんだよ」レディがその肩をこづきながら言った。
「大丈夫。じゃあピザ屋で」
 その時、短く切った頭髪を棘のようにピンピンにした男が一人、アルビたちの目の前を通りかかった。
「何だ誰かと思えば、ゴロツキどもじゃないか。よう坊主頭の兄貴たちよ!」とその男はにやにやしながら言った。
 ケコは男の方に目をやると
「誰かと思えばザクじゃないか、ああ?」と軽蔑した風で返した。「ジェルで髪の毛なんか固めやがって、それでカッコいいつもりか?おいザクよ、とっとと失せやがれ、ひしゃげた車みたいなツラしやがって!ジェルを無駄遣いするなよ」
 それで「ゼロ」たちが大声で笑うと、ザクと呼ばれた男は少し言いよどんだが
「おいおい誰にモノを言ってるんだ。井戸の桶みたいな頭しやがってこの野郎が!」
と言い返した。
 言われたケコはとっさに自分の坊主頭に手をやったが、別に気にする風でもなくにやりと笑ってみせた。
「いいか、今夜は俺の縄張りの方に姿を見せるなよ」とザクが言った。「別の歩道を歩くんだな」
「いやだと言ったら?」
「そんなことは聞いてねえよ!いやなら痛い目に遭うぜ」
「勝手にしろ」
 するとサイミルがケコの袖を引っ張った。
「やめとけよ、係わり合いになることないじゃないか」
 「ゼロ」たちはザクに背を向けた。
「缶ビールでも飲みにいくか?」とレディが言うと、ケコとサイミルは承知したという素振りをした。
「僕は昼を食べてくるよ」アルビが言うと
「好きにしろよ」とサイミルが答えた。
 テーブルについたアルビは、憤懣やるかたない顔で
「姉さん、道の真ん中で大声で呼ぶことないじゃないか」とメリに言った。
「僕は羊でも鶏でもないんだ」
「何で呼ばれたのか、自分でよくわかってるでしょう」メリは言い返した。
「何だよ?」
「誰なのよあの連中は?」
「ああまたそれか!」
「いちいち怒らないでちょうだいアルビ!あんな連中ともう付き合っちゃダメよ!」
「そんなわけないじゃないか、付き合うなんて言ってないだろ」
「じゃあいいわ、食事にしましょう」
 その日の午後、アルビは教科書にかかりっきりで、ノラの宿題も手伝ってやった。しかしアルビが出かけようとした時には、メリは鋭い口調で警告した。
「遅くならないうちに帰るのよ!」
 アルビが「グロリア」へ行くと、「ゼロの三乗」たちはもう来ていて、ピザを三つに切り分け、うまそうに頬張っていた。アルビが声をかけると、ケコは自分が食べていたピザを差し出した。
「いやいいよ、ソースが多過ぎるから」アルビは言った。
 ケコは最後の一口を呑み込むと、ズボンで手を拭い、満足そうにげっぷをしてから、ウインドブレーカーの中から金製のネックレスやアームレット(ブレスレット)をぞろりと引っ張り出した。アルビはぎょっとした目で眺めていると、ケコはそれを仲間たちに分け始めた。
「一つ売れても2000レクはいけるな」アルビの分を差し出しながらケコが言った。「お前も売ればいいさ、いい話だろう」
「どこで手に入れたんだよ、こんなもの」
「おい、そんなことお前にはどうだっていいじゃないか。何でも知りたがるんだな!これは中古品だよ。わかったかい?すぐに売れば半額はいけるよ。なあおい、納得したかい?くれた相手だってちゃんと見当がつくだろう」
「信用していいんだね、本当に、盗んだものじゃないんだよね?」
「中古品だよ!」ケコは苛々し始めた。
「たとえ盗品だって、お前にはどうだっていいじゃないか!金が欲しいんだろ、違うか?ごちゃごちゃ言うなよ。さあこの話は終わりだ、俺たちは何も知らないぜ。あとはこいつを売るだけさ」
 アルビは不安と疑念にとらわれながら手を伸ばした。この何日間、ポケットに1チンダルカもなかった。このネックレスの一つでも売れれば悪くはない。レクの誘惑は強烈だった。
[訳註:チンダルカ(qindarkë)はアルバニアの通貨単位。1レク=100チンダルカ]
「あともう一つ言っとくけど」とケコが言った。
「もし誰かに捕まっても、そいつを誰にもらったかは口が裂けても絶対言うんじゃないぞ!もし言っちまったら、お前も俺たちもみんなおしまいだからな!」
 そう言われてアルビは思わず手を引っ込めた。
「何だよ弱虫だな、誰にも捕まりゃあしないよ!この辺じゃあ盗難車だって売られてるんだぜ」とレディが言った。
「まあよく考えてみることだ。明日でもいいぜ」
ケコが言った。
 レディとサイミルは自分の持ち分を手にすると店の前の歩道に出て行った。アルビはそれを目で追った。みんな自分のことにばかり夢中で、自分のことなど誰も気にしていない。
『とりあえず、やってみるか』アルビは思った。『もういいさ、仮にこれが盗品だって、自分のせいじゃないし。とにかく売れればいいんだ。このまま一文無しの薄汚いままでいられるもんか』
 ケコが背を向けようとしたその時、やっとアルビは小声でこう言った。
「わかったよ、僕にも少しよこせよ」
 ケコはネックレスを二つ、ブレスレットを一つアルビの掌に載せると、それぞれの値段を説明しながら
「目を離すなよ、盗まれないように」と言った。「ティラナはそこら中、ガキのコソ泥だらけだからな」 [訳註:日本語訳には全然関係ないが、ここでケコはティラナ(Tiranë)をわざとティロナ(Tironë)と言っている。この呼び方はアルバニア人の会話でもよく出てくる]
 アルビには、その金製品が自分の掌で焼けるように熱く感じられた。それを横目で、まるで見慣れないものでも見るようにちらりと眺めてから、ゆっくりと握り締めた。そしてまず一人の女性に近付くと
「奥さん、金製品なんかいかがですか?」と消え入りそうな声で話しかけた。
 女性は一瞬ぎょっとしてアルビの方を見たが、何も答えずに行ってしまった。みんなにそういう態度を取られるような気がした。なるべく無難にいきたかったので、アルビはもっと若い女性や女子の方に近付くと、おどおどしながら金製品を見せて、何か禁じられたものでも扱っているようにぼそぼそと話しかけた。ほとんどはアルビの持っている品にあからさまな疑いの目を向ける女性ばかりで、一瞥をくれただけで離れてしまう。中には、本物の金だと言っても信じない女性もいた。
 そうやって一時間ほど路上で人波を動き回ったアルビがとうとう辛抱できなくなった時、不意に高校生らしき女子が二人、目の前に現れて値段を訊いてきた。
「結構いいじゃない」黒い服にカーリーヘアの子が言った。「こっちの短いネックレス、いいわね。すごくよくできてる」
 もう一人の子も賛成した。
「ねえボク、こんなのどこで見つけたの?」二人が訊いてきた。
「中古品の店です。心配しないで買ってよ」アルビは答えた。
 カーリーヘアの子はバッグに手を入れて、金を数え出した。
「これ家のお金なんだけど、でもいいわ。何とかなるでしょ」
 彼女はネックレスを首にかけると、もう外そうとはしなかった。アルビは金を受け取りポケットにねじ込むと
「どうも!」と声をかけた。だが女子二人は返事もせず行ってしまった。
 アルビはなるべく早くこの場から姿を消したかった。それでケコに売れ残った分を渡し、売れたネックレスの代金から自分の取り分を受け取った。
「何でそんなに急いで帰る?」ケコが訊ねた。「初めてにしちゃ悪くないぜ」
「そんなもんかな」
「で、明日はどうする?」
「考えてみるよ」
 帰り道、アルビはネックレスの売り上げの紙幣を徐々にポケットの奥深くへとねじ込んだ。もう明日はこんなことはやめよう、そう思った。家の門に肩を寄せ、罪の意識を感じながら中へ入っていった。家の中に入ると、まず姉のメリと目が合った。それから父バシュキムがソファに座って新聞を読んでいるのが目に入った。
「ただいま」アルビが声をかけると
「ああアルビか、どこに行ってた?」とバシュキムが訊いてきた。
「友達のところ。コンピュータゲームしてたんだ」
「勉強はどうだ、ちゃんとやってるか?」
「大丈夫よ。今日の午後はずっと勉強してたし」メリが代わりに答えた。
 バシュキムはそれ以上訊こうとはせず、新聞の続きを読んでいた。アルビはメリの方をちょっと見て、そして夕食のテーブルについた。
 その晩アルビは寝つきが悪く、朝早くひどい夢で目が覚めてしまった。パトカーのサイレンがけたたましく響いている。アルビはどこだかわからない狭い道に追い込まれていた。両方のポケットには金製品がぎっしり詰まっていて、その重みで思うように走れず、息もきれぎれだった。図体のでかい警官の手に首筋を摑まれたその時、アルビは目が覚めた。ぜいぜいとのどを鳴らしながら、自分が今いる場所を見回し、そして初めて安堵のため息をついた。
 その日、「ゼロの三乗」の中で学校に来たのはレディだけだった。
「昨日は先に帰って損したな。俺たちは最高だったぜ」レディはご機嫌だった。
 アルビは、もうそんなことはどうでもいいからよしてくれと言いたげに手を振ってみせた。それでも実際にはたびたび自問するのだった。
『夜になったら自分はどうするだろう?またあの路上に出ることになるのだろうか?』一日中そんな問いが頭から離れなかった。アルビは昨夜手に入れた金をポケットから引っ張り出すと、半分はハンバーガーとコカコーラに使い、残りの半分で同級生の「露天商のアルマンド」からズボンのベルトを買い取った。この同級生はいろいろなものを売りつけるのが好きで、まるで露天商のようにカバンをパンパンにしていることからそんな仇名がついていた。
 ところがそうやって買い物をしてからアルビは急に後悔の念に襲われた。それでアルマンドに返品しようとしたが頑として受け取らなかったのでベルトをゴミ箱に放り込んだ。
 また一文無しになったアルビは貧乏ゆすりをし始めた。今夜は路上には出るまいと思ったが、帰宅途中でケコに声をかけられてしまった。アルビが家に戻ってみるとノラしかいなかった。メリはバルザおばさんのところに行っている。一旦はもう出かけないことにしたが、外ではケコがしつこく自分を呼び続けている。アルビは出かけないわけにいかなかった。結局いつものように、テレビの前でアニメを見ている妹を一人残して。
 その晩、「ゼロ」たちは「グロリア」の前で、陽が落ちる前から路上に立っていた。初めての時の不安感から解放されて、彼らはアルビを迎えた。金製品をこれ見よがしに手に持っていたが、怪しい人物が近付いてこないよう、それらから目を離そうとはしなかった。アルビは昨日とは別のネックレスを一つ、それからブレスレットを一つ売ることができた。両方とも恰幅のよい女性が一人で買ったのだが、その人はブレスレットの鎖の部分を歯の間に挟むと、あらん限りの力でギリギリと噛みしめた。
「あらまあ小さいヤミ屋さん!」その女性は満足げな声をあげた。「本物の金じゃないの。こんな高価なもの、一体どこで盗んできたのかしら?」
「盗んでなんかいませんよ奥さん」アルビは怒った声で言った。
「それで盗んだなんて白状する人なんかいるもんですか!」と言ってその女性は、ガチョウみたいな動きでその場を立ち去った。
 三日目の晩に路上に立った時、アルビには最初の晩のようなおどおどした動きは見られなかった。そして、これから何日やっても知り合いに見つかるようなヘマはせずに済むだろうと思ったまさにその時、不意にアルビの肩を、女性の柔らかい手が摑んできた。アルビは急いで金製品を隠し、おそるおそる振り向いた。そこにはメリの担任の女性教師の見知った顔があった。隣に背の高い男性がいる。彼女の夫に違いない。
「アルビ、こんなところで何をしているの?」そう訊ねる彼女の声は完全に怒っていた。
「僕・・・その・・・友達と待ち合わせを・・・」アルビはもごもごと答えた。
「本当にそうなの?」
「はい先生」
「だったら今すぐ家に帰りなさい!こんな道端で一秒だってあなたを見ていたくないの。あとのことは、また後で話しましょう」
 アルビは素早く後ずさりすると「おやすみなさい」と口の中でつぶやきながら、もといた方も見ずに人波をかき分け走り去った。

12

 メリの担任のリンダ先生は歩道の真ん中に立ち尽くしていた。リンダの夫は妻の肩に手をやると
「どうしたんだよリンダ、まだ何かあるのかい」と苛々した口調で話しかけた。「僕らも帰ろう、遅くなるよ」
「あれはメリの弟よ。私のクラスの女子のね。前に話したでしょ」
「父親がお酒のことでいろいろあるとかいう、あの子かい?」
 リンダはうなづいた。
「そんなの、こうなるってわかりきったことじゃないか、今どき幾らでもある話さ。なあリンダ、もうそんなことでどうしようかなんて頭を悩ませないでくれよ!君が悩んだってどうなるもんじゃないんだから」
「アギム、私もう見ていられないのよ、一年前までは立派な家族に恵まれていたあの子が、こんな路上で盗んだものを売っているなんて」
「だったら今からどうする?」
「あの子の家に行かないと」
「でも、父親がまだ酒場にいたら?」アギムはだんだん苛々してきた。「やり過ぎだよリンダ!」
「ちょっとでもメリに会わなくちゃ」
「何でだよ、それ明日じゃダメなのかい?いいかい、もう遅いんだぜ。あんな学校の厄介者なんて学校に任せればいいのさ」
「お願いだから怒らないで!これは学校だけの問題じゃないのよ」
「だったら何の問題さ?」
「これは一つの家族の問題だし、人間にかかわること、私たちの問題なのよ」
「やれやれ今度はまるでマザー・テレサみたいな言い方だな!」[訳註:マザー・テレサはアルバニア人]
 アギムは二人が行くはずだった方向を指した。
「なあ、もう行かないか?」
「いいわ、行きましょう」リンダは目をそらしたまま言った。「あなたには何にもわからないのよ」
「何だよ、僕はちゃんとわかってるよ。君は自分に変えられるはずのないことで悩んでるんだ。そんなこと続けてたって、頭が痛くなるだけだよ。もうやめろよ。これは生徒一人やその家族を助けるどころの話じゃないんだ。もっと大変な問題を抱えてる家庭がもっとたくさんあるんだぜ。その家庭は誰が助けるのさ?」
「でも誰かが助けなきゃいけないのよ」
「誰だよ、その誰かってのは?」
「誰かなんて、いっぱいいるわよ」
「今までのところ、僕が知ってるのは君しかいないけどね」
リンダはとりなすようなしぐさをしてみせた。
「いいわ、もうこの話はやめにしましょう。あなたひどく苛々してるし。心の中で感じてることは全然違うんだろうなと、私は思うけど」
 リンダの夫はやれやれといった風でため息をついた。
「リンダ、僕だってこの世の中の不正を何とかできたらいいのにって、心から思ってるさ。それは本当だよ」
 その翌日、リンダは学校の正門前でメリを出迎えた。メリはすぐさま、これは何か真面目な話だと気付いた。挨拶を済ませると、メリはためらいながら、リンダが先に口を開くのを待った。
「メリ、おうちの様子はどう?」
「それは・・・先生知ってるでしょ」
「お父さんはまだ・・・お酒飲んでるの?」
メリは恥ずかしそうにうなづいた。
 リンダはメリの肩に手をやり、昨日のアルビの件を話して聞かせた。
「弟が・・・盗品の金ネックレスを売っていたんですか?!」メリは愕然とした。
「残念だけどメリ、先生は自分の目で見たのよ。とにかくこれは何とかしなければいけないわ。あの坊主頭の男子たちとアルビを付き合わせていてはダメよ。あなたもあの連中のことは知ってるでしょ。彼らはいよいよ道を踏み外しているわ、そこから抜け出すのは容易なことではないのよ」
「はい、わかります先生」
「先生が行って、あなたのお父さんと話してあげた方がいいかしら?」
「でも、父にそれを言ったらどうなるか。アルビが家を出てしまうかも知れないし」
「それじゃどうするの?」
「自分で何とかしてみます」
「アルビがあなたの言うことをちゃんと聞くっていう自信はあるの?」
 メリはぎこちなく肩をそびやかした。
「いつでも先生のことを頼ってくれていいのよ。私もアルビの担任の先生と相談してみるわ」リンダは言った。
 けれどもリンダ先生がアルマと顔を合わせることが出来たのは、ようやく長い休み時間になってからだった。アルマはちょうど学校に来たところで、冗談を言うどころではない様子だった。
「ねえアルマ、ちょっと困ったことなんだけど」とリンダが真剣な表情で話しかけると
「生徒がどうこうなんてくだらない話だったら聞きたくないわ」とアルマは言った。「こっちは自分と子供たちのことで頭がいっぱいなのよ」
「そんなこと言わないで、あなたの担任クラスの生徒のことなのよ」
「誰よ、それ?」
「アルビン・ジョカよ」
するとアルマはうんざりした顔つきで
「ああもう!あんな崩壊した家族の問題なんて!何だって私がそんなことに関わり合わなきゃいけないの?それで私に何の得があるの?ただでさえ安月給でふうふう言ってるってのに」
「あなた教師でしょ!」
「あのねえ、そういうカビの生えた理想論は勘弁してよ!こっちは国から給料を貰ってる身だけれど、その国が恵んでくれる額ときたらてんでお笑いぐさじゃないの。理想が通用する時代なんて、もう終わったのよ」
 それでもリンダは食い下がった。
「だったらせめて、アルビをまっとうな道に連れ戻してくれるような仲間を見つけてあげてちょうだいよ」
「そんな気はさらさらないわ!あの子にはエルリンダっていうクラスメートがいたけど、その子だって彼から離れてしまったんだから」
「ねえアルマ、これは深刻な問題よ。問題はここまで進んでしまったの」 そしてリンダはアルマに本当のことを何もかも話して聞かせたが、アルマは驚きもしなかった。
「あらそう、あの悪名高い坊主頭三人組とつるんでるんだったら、もうおしまいね」と薄笑いを浮かべながら「ねえリンダ、私には、あの子の両親に連絡をする義務があるわ。でもこの世の中で 子供たちを立ち直らせたって、私には誰も、びた一文も払ってはくれないのよ」
 リンダはがっくりとうなだれて引き下がったが、同僚であるアルマの方は、リンダとのやりとりから数分もすると、けろりと忘れてしまった。アルマがアルビのことを思い出したのは、ようやく5時間目になって、アルビがメリのいる教室に姿を見せた時だった。
「おやおやメリ・ジョカ、あなたのおうちでは、弟さんが一体何をしてるのか知ってるわよね?」
アルマは腹立ちまぎれにメリに問いかけた。
 メリは身動きできなかった。そんなことを言われるとは思いもしなかったからだ。全身がぶるぶると震え出した。そばでシドがうつむいている。
「すみません先生、おっしゃることがわかりませんが」メリはつぶやいた。しかしアルマは容赦しなかった。
「あなたにはちゃんとわかってるでしょ!あなたの弟が汚い仕事に手を染めて、路上で盗んだアクセサリーを売ってるってことを」
 メリは両掌で顔を覆った。
「それで、あなたのお父さんはそのことちゃんとわかっているのよね?」
 ずっと顔を押さえつけていたので、メリは掌が痛くなった。涙が頬を伝って流れ落ちた。
「先生にそんな、教室の中で私の父のことをどうこう言う権利なんかありません」メリは叩きつけるように言った。
「私は、あなたとあの父親のことを言っているんです!あなたのお父さんが無責任な親だから」
「もうやめてください、そんな言い方やめて!」
「あなたとあの人のことを聞いているだけじゃないの!」
「それでもあの人は私の父親なんです!」そう叫ぶとメリはカバンを摑み、机から立ち上がった。そしてドアの方へすたすたと歩いていった。
「アルビどころか姉までとは!やれやれ一体どうなることかしらねえ!」背後からアルマが声をかけた。
 その時、バシンといきなり大きな音がした。シドが机に拳を叩きつけていた。
「メリにそんな言い方をする資格なんて、先生にはこれっぽっちもありません!それなら古物屋が何か喋ってる方がまだましだ!」シドは叫んだ。アルマはきっと唇を噛み締めた。
「どういうつもりなのシド・アルバナ?!」そう言ってアルマは、右手の人差し指をぶるぶるさせながら突き出した。
「どういうつもりって、僕たちはみんな、メリがどんな子が知っているからですよ」
 ほとんどの生徒がシドに賛同していた。アルマはその様子を左から右まで、じろりといまいましげに見渡していたが、
「シド・アルバナ、その件は後で考えましょう」と言いながら窓の一つに近付いた。そこから下を見ると、メリが校舎を出て正門へ向かうところだった。
「それと、あの聞き分けのない女子の件もね」

***

 メリはずっと目に涙をためたまま、家へ向かう道を歩いていた。車にクラクションを鳴らされて、思わず道路脇によろけてしまった。そこは歩道がないところで、メリは住宅の壁沿いによたよたと歩き続けた。
 不意に知らない男の声がした。アルド・ブリミだった。クララの婚約者ゲンツの友人だ[訳註;ゲンツらとバーに居合わせて、メリを車で送ろうとして断られた男]。どこかの家の門の前で、右手に傘をさして足っている。メリはそこで初めて我に返り、雨が降っていることに気付いた。
「こんちわメリ、どうかしたのかい?」とアルドは言った。
 メリは慌てて涙を拭うと、どうにか微笑んでみせた。相手の表情は道の向こうで、よく見えなかった。昨日もほとんど同じ時刻、メリが学校から帰る頃にアルドはそこに立っていたのだが、メリの方は気付いていないらしかった。アルドはメリに挨拶しようとしたのだが、メリが余りにつんとしていたものだから、できなかったのだ。
「よかったら家まで送ろうか?」アルドは自信なさげな声で言った。「君、泥だらけだよ」
 メリは断る気になれなかった。
「何かあったのかい?力になるよ」アルドは言葉を続けた。「何だかとても心配そうに見えるよ」
「ううん、何でもないの」メリは答えた。「ちょっと、先生と言い合いになっちゃって」
 そして何も言わずに少しだけ先へ歩いた。
「メリ、君は本当に、初めて会った時と変わらないなあ」アルドは言った。「またゲンツやクララと一緒に、どこか店で会わないか?」
「ごめんなさい」と間髪入れずにメリは言った。「私、お店になんか行かないわ」
「それじゃあ、違う場所で会えないかな」
「無理よ。そんな暇ないわ」
アルドはやれやれといった風に首を振った。
「君、何だかゲンツや僕のことを怖がってるみたいだけど。何でそんな風に見られるのかな」
「そんな・・・別に怖がってないわ。ただ私、あなたたちのこと、よく知らないから」
「ねえメリ、はっきり言うけど、僕らはまともな男だよ。立派な生活をするために移民だってしたんだ。よく知らないっていうけど、知り合いになるんだってそんなに大変なことじゃないよ」
「私、別にあなたたちのことを疑ってるわけじゃないのよ。ただね、私はあなたたちと知り合いになって、それで一緒に過ごせるような、そんな年齢じゃないのよ」
 するとアルドは微笑んだ。
「なるほど、わかったよ。でも僕は、いつまでもくだらないことをやってるほどバカじゃないぜ」
「ごめんなさい、あなたのこと悪く言うつもりなんか全然ないのよ」
「悪く言われたって、そんなの大したことじゃないさ。メリは美人だし、メリの悪口なら僕は喜んで聞いちゃうな」
 そんなやりとりがあってから、メリは送ってくれた礼を言うと、さっさと道の向かい側に戻り、そのまま足早に歩いていった。そしてアルドのことはすぐさま忘れてしまった。こんな面倒なことは二度とごめんだとメリは思った。去年だって、路上でもめごとを起こす男のせいで何週間も立て続けに嫌な思いをさせられたのだ。[訳註;おそらく父親の件を指している]
 家に入って濡れた服を脱ごうとした時、アルマ先生の言葉が再び思い出されてきて、メリは教室にいた時よりももっと惨めな気持ちになり、しくしく泣き始めた。
 アルビが学校から帰ってくると、家の玄関で自分の姉が膝を抱えてうずくまっていた。しゃくり上げるたびに、肩がぶるぶると震えている。アルビは姉の前で立ったまま考え込んでいたが、
「姉さん、リンダ先生が言ったようなことなんか絶対ないよ」そして、自分の言葉を何とか証明しようとするように言った。
「僕は、盗品なんか売ってない」
「ねえアルビ、あなた、いつまであんな人たちと付き合ってるのよ。それは本当のことでしょ」メリは苛立った口調で言った。
「でも僕は何も手をつけてない!」
「いつまでもそういうこと言うのはやめなさい!どうして先生があなたについて根も葉もないことを言わなきゃならないの?」
「僕だってあの先生の考えてることぐらいわかるさ。でも僕は何も売ってないからね」
 メリはくたびれた風でため息をついた。
「いいわねアルビ、悪いことはやめなさい」
「何だよ、パパに言うつもりなの?」
「私が言わなくたって、パパは気付くわよ」
「わかったよ、だからもう泣くなよ」そう言ってアルビはメリをなだめにかかった。
「いいよ、姉さんが嫌だって言うんなら、もうあの連中と一緒に外出しないよ。ああそうさ、今日は家にいる。勉強だけしてるよ」
「そうね」メリは目を逸らしたまま言った。
 その日はそんな具合で、いつも通りの憂鬱の中で過ぎていった。夜になって父が帰ってくると、子供たちは何ごともなかったような顔をしていた。しかし電話がかかってくるかも知れないと思うとメリとアルビは気が気でなかった。もしアルビの担任が電話してきたら、黙っていたメリにも責任があるのだから。しかしその夜遅くまで電話のベルが鳴ることはなかった。
 次の日、アルビは「ゼロ」の連中を何とか避けようとしたが、どだい無理な話だった。学校は余りに狭過ぎるのだ。
「ようどうした、辛気臭い顔してさ」[訳註;原語は「何か良い木でも食べたか」]とケコに話しかけられ
「いや別に」とアルビが答えると
「今夜どうだい?」ときた。
「無理だと思う。そっちこそ、まずいことにならなかったのかい?」
するとケコはにやりと笑った。
「まずいことって何のことさ?!」
 すると二人の話から数分と経たないうちに、「露天商のアルマンド」がカバンから上質の綿の上着を引っ張り出した。胸元に帆船のマークがプリントされている。
「これはどうだい。イタリア製だけど、俺には大き過ぎてね。旧レクで一万ってところかな?」

[訳註;「旧レク」はデノミ前の通貨の通称。デノミ後は額面が十分の一になった。要するに1000レクのこと]
 アルビは、帆船のマークに目を奪われていた。
「ちょっと、着てみてもいいかな?」おずおずと訊ねてみると、アルマンドは上着を手渡しながら自信ありげにこう言った。
「お前なら、ちょうどいいはずだよ」
 アルビはその上着を着てみたが、確かに、身体にぴったり合っていた。
「これ、明日までとっておいてくれないかな?金はそれまでに何とかするから」と言うと
「オーケー、今日持って帰れよ。お前のことは信用してるからさ」と言われた。
 アルビは上着をカバンに入れたが、どうやって金を手に入れるかまるで見当がついていなかった。祖母にはとても頼めない。父親は問題外だ。メリに言うしかなかった。
「そんなお金ないわよ」メリは不愉快そうに言った。「ただ、バルザおばさんのところでお金を貰うまで待ってくれるなら・・・」
 しかしメリがどんなにしてその金を稼いでいるか、アルビにはよくわかっていた。
「いいよ、上着は買わなくていいからさ」
 するとメリはアルビに近寄ってキスをした。
「姉さんはアルビのことが大好きよ。でもしばらくは無駄遣いできないの。もうすぐお母さんの誕生日だから、余計な出費はできないでしょ」
 そう言われて思い出したアルビはカレンダーに目をやり、そして深い感慨にふけっていた。
 次の日、アルビは上着をアルマンドに返そうとしたが、ケコが承知しなかった。ケコはズボンのポケットに手を入れると、500レク紙幣を2枚取り出した。
「付き合えよ」それを手にしたままケコは言った。「金は後で返してくれればいいからさ」
 アルビは逡巡したが
「今夜もあそこに行くの?」と訊ねた。
「たぶんな」
「俺の分もあるのかい?」
「好きにすればいいさ」
 アルビは上着をカバンに詰め込んだが、すぐにそれが隠しておけるようなものでないことに気付いた。メリにはウソをつくしかなかった。上着はアルマンドが自分を信頼して譲ってくれたもので、代金は払える時でいい、とメリに言うと
「それ本当なの?」とメリは訊いてきた。
「うん」アルビは答えた。
 その日の午後、アルビは、メリがバルザおばさんのところへ出かけるやすぐに家を出た。その足はまっすぐに「グロリア」へ向かっていた。店では「ゼロの三乗」の連中が待っていて、ヒューと口笛を吹いてきた。互いに物憂げな挨拶を交わすと、アルビはケコの方を見た。
「お前の分も取っておいたぜ」ケコはそう言ってポケットに手をやった。
 アルビが受け取ったのは、丸めた紙の包みだった。中にネックレスが3本、キーホルダーが2本入っていた。暗くなるのを待って、舗道を歩く女性や女の子たちの方へ近付いていった。どうにかネックレス1本を売ることができたが、それ以上はうまくいかないような気がして、アルビは引き上げることにした。
 その時、路上に出たケコとサイミルが勢い余って、行き交う車の中に飛び出すのが見えた。恐ろしいブレーキ音がした。アルビはおそるおそる横目で見ようとしたが、身動きする余裕もなかった。指先が金属のように腕に張り付いている。それから間もなくアルビが我に返ると、警察車輌の中にレディと一緒に座っていた。
 アルビたちは警察署に連れて行かれた。警官に連れられて部屋に入ると、そこには年配の刑事が一人いるだけだった。
「さっさと済ませてくれよ!」というレディの声が聞こえた。
「ふん、とうとうお出ましかい、ええ?」刑事が言った。「いいか、こっちはお前たちにあれこれ付き合ってる暇はないからな。この数日間、お前たちは盗んだアクセサリーを売っていた。こっちが知りたいのはな、誰がお前たちにそんなものを供給していたかってことだ。お前たち、誰に雇われた?」
 アルビは身体中ががたがた震えていたが、レディはおじけづく風もなく、刑事に向かってこう言った。
「そういう言い方はよしてくれないかなあ刑事さん、ポケットにネックレス二個あっただけじゃないか。これは僕のだよ。何なら家に連絡して訊いてみればいい、それで僕の言う通りだってわかるんだから。さもなきゃ警官連中が来てボコボコにぶん殴られるのかよ」 [訳註;「ぶん殴られる」は原語më bëjnë peshk(魚みたいにされる)]
 そんな言葉を聞いても、刑事は驚きもしなかった。レディが警察署に連れて来られるのはこれが初めてではなかったからで、彼は至って落ち着いているように見えた。刑事は言った。
「別に自分が法律をどうこうするつもりはないよ、俺にわかってるのはな、お前みたいなツラの奴をどう扱ったらいいかってことだけさ。両親が迎えに来るまで、お前をこの署から出すわけにはいかん。わかったらとっとと向こうへ行け!」
「え、ちょっとおまわりさん、親まで呼ぶつもりなの!わざわざそんなことしてどうなるっていうのさ!うちの親はティラナにいないんだぜ。どこにいるかも知るもんか」
「だったら誰と暮らしてるんだ?」
「ばあちゃんとだよ。ばあちゃんに何を言えっていうのさ?警察だって、もっとろくでもないのを捕まえてくれれば、こっちだって助かるのにさ。ねえどうなの刑事さん?」
 刑事は、やれやれといった風で両手を広げてみせた。
「お前んとこの家族の事情なんてこっちの知ったことじゃないよ」
 レディが別の警官に連れられて部屋を出ていくと、アルビはさっきよりもぶるぶる震え出した。年配の刑事はその様子に気付くと
「お前、ここに来るのは初めてか?」と訊ねた。
「はい」アルビは小声でつぶやいた。
「じゃ何か言うことがあるか?お前たちに盗んだアクセサリーを供給したのは誰だ?」
「僕・・・僕、何も知りません。あれは、道で拾ったんです」
「何だと?!じゃ何でそれを道端で売ってた?」
「ちょっとお金が欲しかったんです」
「なあ坊主、お前に喋るなと口止めした連中がいることはわかってるんだ。お前は相当危ないことに足を突っ込んでる、ああいう連中ってのはな、ふところに銃をしのばせてる犯罪者だぞ。全く、厄介なことをしでかしたもんだな!家はどこだ?家に電話はあるか?」
「お願いです、刑事さん、許してください!もうしませんから!」
「許して欲しいのなら明日、教会の司祭にでもお願いするんだな。お前の家に電話はあるかと訊いてるんだ。どうしたら親と連絡が取れる?」
 アルビは消え入りそうな声で、自宅の電話番号を告げた。

(13につづく)


ページトップへ戻る/Ktheu