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ヴィクトル・ツァノスィナイ 『メリユル』

21
 シドは壁に自転車を立て掛け、その横にスポーツバッグを置いた。家の中は暑かった。ほこりが入って来るからと、母がいつも窓を閉め切っているのだ。シドは冷蔵庫のところへ行くと、オレンジジュースのパックを取り出した。シドがそれをゴクゴク飲んでいると、電話のベルが激しく鳴り響いた。アルビからだった。彼は多くを語らず、自分の姉が入院している病院の名を告げた。
 シドは自転車に飛び乗ると、病院のある区画へ向かった。何度か行ったり来たりした末、ようやく目指す病院にたどり着くと、メリの祖母が廊下で医師と話しているのが目に入った。病室から病室へと首を突っ込んでいくと、その中の一室で、メリがドアの方に顔を向け、不安げな瞳でこちらを見つめていた。シドはおっかなびっくり部屋に入って来たので、椅子に掛けて雑誌をめくっているシドにも気付かなかった。
「水を買ってくるよ、姉さん」
そう言うとアルビは足早に、シドに挨拶するのもそこそこに、部屋から出て行った。
 メリは「大したことはないのよ」と言いたげに精一杯シドに微笑んでみせた。それでも涙は嘘をつけなかった。シドはメリの枕元に座ると、手を差し伸べた。メリはその手を取り、自分の頬にくっつけた。彼女は声もなく泣き続けた。シドは自分の掌にメリの涙の温かさを感じながら、何気なくメリの首筋のかすかな傷に視線を落とした。貝殻のネックレスがなくなっている。
「メリ、あの二人なのかい・・・あの車の?」シドは小声で訊ねた。
 メリはちらとシドを見て、静かにうなづいた。
「どうしてこんなひどいことを?」
「私にもわからない。でもあなたに嘘はつけないわ。あの人たち・・・」
 メリは何一つ隠すことなく、今までのことを全てシドに話した。そして最後に
「シド、私のことを信じて!」と言った。
「君を疑うなんて、考えたこともないよ」シドは言った。「もう済んだことさ。君の言うことは本当だし、僕もすっきりしてるよ」
「ありがとう、本当に!」
「でもさ、一つ引っ掛かることがあるんだけど。どうして僕が練習してるところへ来ようとしていたの?」
「あなたが私に来て欲しいって言ったから・・・」
「僕が?!」
「だって、アリアンおじさんがそう言ったのよ。シド・・・おじさんがうちのパパに会いに来たこと、知らないの?」
「うちのパパが君のお父さんに会いに?君のうちへ?」
「そうよ。パパのアルコールの問題を何とかしてくれるって約束してくれて・・・あなた、本当に何も知らないの?!」
「いや、実はちょっと聞いてたんだ」シドは嘘をついた。
「早くうまくいくといいんだけど!」
 シドはわけがわからなかったが
『やるなあパパは』そう思った。
『世界一だよ。それも、僕にひとことも言わないでさ』
「きっと何もかもうまくいくさ、メリ」シドはそう言った。
「シドがアリアンおじさんに、うちのパパのこと頼んでくれたのね?」
「メリ、それを話すと長くなるんだ。でもいつか君に話してあげるよ、約束する」
 シドが帰ろうとすると、メリにもう少しいて欲しいと言われた。
「本当のことを知りたいの、でも二人だけの秘密ね。約束してくれる?」
「約束するさ!」
 シドが廊下へ出ると、アルビに出くわした。ポケットに両手を突っ込み、憂鬱そうな表情をしていた。
「お姉さん、早く良くなるといいね」シドが言うと
「どうも」とアルビは目を逸らしたまま答えた。
「じゃまた明日」
 アルビが病室に入ってみると、メリは口元に笑みを浮かべていて、さっきとはまるで別人のようだった。
「これじゃあ、車にはねられたのが僕だか姉さんだかわかりゃしない」アルビは言った。
「すぐに退院できそうな気がするわ」メリは言った。「アルビ、もう一度パパを探してきてくれないかしら」
「何とかやってみるよ」
 そのバシュキムが病院にやってきたのは、夜になってからだった。アルビは結局バシュキムを見つけることができず、家に帰ってようやく会えたのだ。アルビが事故についていささか大げさに伝えたものだから、メリの前に立ったバシュキムはすっかり取り乱していた。
「あらパパ、お仕事大変だった?」そう言ってメリがにっこりすると
「パパのことなんかどうでもいい!お前、大丈夫なのか?」と言いながらバシュキムは震える手をメリの額に伸ばした。
「お医者さんがお祖母ちゃんに言ってたわ、打撲だけだって。二、三日もすれば退院できるそうよ」
 バシュキムはメリの額にしっかりと掌を置き、それから髪を撫でた。
「メリ・・・パパを・・・パパを許しておくれ、あの晩のことは・・・」
 そう言われてメリは、今自分を撫でている父の手が、ディスコから帰った晩にひどく殴られたその手だということを思い出した。
「いいのよパパ」メリは優しく言った。「謝らなくちゃいけないのは私の方よ。叩かれて当然だわ。あれでよかったのよ」
「パパはそんなつもりじゃ・・・」
「わかってるわ」
「メリ、お前はパパにとって、たった一本残った希望の糸だよ。どうかパパを見捨てないでくれ。お前に見捨てられたら、パパはもうどうしようもないんだ」
 メリはバシュキムの、まだ自動車のオイルの匂いがする手をとり、キスをした。
「パパ、私もアルビも、パパのことを見捨てたりしないわ」
 祖母が病室に入ると、バシュキムとメリがしっかり手を握り合っているところだった。バシュキムは立ち上がって祖母に椅子を勧めた。
「お前さんは家にお帰り、アルビやノラが待っているだろう」祖母は言った。「今夜は私がここにいるよ」
 バシュキムはメリにキスをし、病室を出た。
「パパ、お仕事がんばってね」その背中にメリが声をかけた。「私のことは心配しなくていいから」
 祖母はドアの方をちらりと見て
「バシュキムも悪い人じゃないんだよ」とつぶやいた。「お前のことが大好きなのさ。でも人生が変わってしまったからねえ。それも悪いことばかりだよ」
「パパはちゃんと変われるわよ、お祖母ちゃん。そう、私は信じてる」
「お前のママがいてくれたらねえ!」

* * *
 シドは午後の練習を終えて、その夜遅く両親と顔を合わせた。父アリアンと母エロナはいつものように、テーブルに食事の用意をしてシドを待っていた。シドがアリアンを感服したような目で見つめると、アリアンは悪戯っぽい目をした。
「パパ、いろいろ有難う!」
「私はまだ何もしちゃいないさ、シド。お前のパパは、お前に辛い思いをさせたくないだけさ。だがこれだけは約束する!私たちは、メリも、メリの家族も失わせるようなことはしない。なあシド、パパもママも、見かけほど酷い人間じゃないだろう。エロナ、君は何か言いたいことがあるかい?」
「いいさパパ」シドはさえぎった。「ママに急いで答えさせなくたっていいよ。ママはまだメリのことを知らないし、メリのことを信用できないって言ってたしね」
「確かに、私がメリにあんなことをしたのは間違っていたわ」エロナが穏やかな口調で言った。
「私は電話であんな、まるで赤の他人みたいな言い方をすべきじゃなかった。でも、私があの娘を信じられないのも仕方ないでしょ。あの娘があなたを失望させるようなことをしないって確信できるまでは、私はあの娘を信じきれやしないわ」
 アリアンはエロナをちらりと見て、それからシドに向き直ると。
「さて、このままにしておいたものかなシド?」と訊ねた。
「そのままでいいよ。ママだって、僕のためを思ってしたことだからね。疑うのも無理はないさ。それより、大変なことがあったんだ。メリが・・・」
 アリアンとエロナは目を丸くした。シドがメリの事故の話をすると、エロナは手で口を押さえ、アリアンは自分が責められているような表情になった。
「私にも何とかできることがあるんじゃないかなあ。シド、今からでも病院へ行った方がよくないかな?」
「なら私も行くわ」エロナが言った。
「ううん、明日でもいいよ。メリは大丈夫そうだったし、別に特別な治療はいらないって」
「明日はきっと行きましょうね」
エロナはショックを受けているようだった。
「アリアン、私、悪いんだけど、気分がすぐれないわ。部屋に行ってるから、あなたたち二人で食べててちょうだい」
「いいよ、こっちは大丈夫だから」
 そう言ってアリアンとシドは思案気に互いの顔を見た。

* * *
 メリが退院したのは三日後のことだった。玄関に立つと、何もかもが前と違って見えた。
「何だか家がきれいになったみたい」そう言いながらメリは、ノラとスパーキーを連れて出てきたアルビを見た。
 そう言われてアルビは周囲を見回したが、特に前と違うところはなかった。
『そりゃ病院にいたからだろうな』アルビはそう思った。
 メリはスパーキーを思い切り撫でまわし始めていた。
「ああスパーキー、かわいい子ねえ!」
 メリは家の中に入ると、家具を手でさすり出した。それからアルビが用意した昼食を見て、くすくす笑い出した。そしてほとんど最初からテーブルを整え直した。家族四人で食事の席に着くと、父バシュキムがメリの回復と退院を祝福する言葉を述べた。
 四人が食べ始めた時、ドアのところにバルヅァおばさんの娘のリラが姿を現した。両手には大きなビュレクがある。それもどうにか抱えているという様子だった。
「母さんが、持って行けって」リラは顔を赤らめながら言った。「あの・・・母さんが・・・メリが無事に帰ってきて嬉しいからって」
 アルビはイスを一つテーブルのところへ持って行って、リラに座るよう促した。メリは心のざわめきを隠そうともせず、リラの手をとってキスをした。バシュキムと目が合うと、その目は『バルヅァおばさんと何かあったのかい?』と問いたげだった。メリは答えようとしなかったが、そうやって避けていても長続きはしないような気がした。
 その日の午後になると、さらにメリの喜ぶようなことがあった。シドがブレダルやクラスメートの女子数人を連れて、見舞いに来てくれたのだ。それで皆して庭に腰掛け、遅くまで話し込んでいた。話題は次から次へと尽きなかった。メリは、シドがこの素敵な訪問を用意してくれたのだと気付き、心の中で何度も何度もシドに感謝した。
 その夜、アルビとヴェランダに座っていたメリは息を胸いっぱい吸い込んで
「ねえ、空気が前よりおいしいと思わない?」と訊ねた。
 アルビはメリの方を横目でちらりと見た。空気はいつも通りで、しょっちゅう路上を走る車が巻き上げる埃が混じっていた。
『きっと病院にいたからだろうな』アルビはまた思った。
「レモンの花がまだ咲いてるね」
「今夜は眠りたくないわ」メリは言った。「姉さんと一緒にここにいる?」
 しかしアルビが口をぽかんとさせていたので、メリはくすっと笑った。
 翌朝、道路に出ると車のクラクションが聞こえた。シドの父アリアンだった。
「いよいよパパが病院で診てもらう番だよ」そう言いながらバシュキムは、メリが淹れたコーヒーを飲んでいた。
「まさかこんなことになるとは、思ってなかったなあ。でもこれで本当に変われるんだろうか」
「もちろん、きっと何もかも良くなるわよパパ」
 メリがそう言うと、バシュキムは何か考えているような目でメリを見つめていたが、やがて出て行った。

* * *
 メリは、バシュキムが病院から戻ってくるまでの数日間、自分に向けられた視線が頭から離れなかった。戻ってきたバシュキムは顔面蒼白で、頬はこけ、何かに怯えている風で、目はずっと据わったままだった。シドの父アリアンは家の中まで付き添ってくれた上、メリにも幾つか注意事項を伝えた。
「バシュキムさん、医者に出来るのはここまでです」アリアンは言った。「ここからはあなた自身の番です。いいですか、気持ちをしっかりさせて、意志を強くしなければいけませんよ。一瞬たりとも自分を甘やかしてはダメです。自分のすべきことを考えてください。あなたならきっと乗り越えられると、私は信じています」
「先生、本当に有難う!」
「友達じゃありませんか。困ったことがあったらいつでも言ってください」
 アリアンはメリたちにも声をかけると、家を後にした。メリとアルビが父親の方に目をやると、バシュキムはいつもの動作でポケットを探っていた。そしてタバコとチューインガムの箱を取り出したが、それを不審そうにじっと見つめていた。
「パパ、もう吸わないで、お願いだから」メリは言った。
 するとバシュキムはその箱を脇へやり、バジルの小枝を折って香りを嗅ぎながら、そのまま家の中をうろうろ歩き始めた。病院から戻って数日間は力が入らない様子で、ちょっとした庭仕事の後は座って新聞を読むか、テレビを見て過ごした。
 そんな或る朝、家の前に古ぼけたトラックが停まった。そこまでどうにか引っ張ってきた車の持ち主はバシュキムの昔の仕事仲間だったガニで、まるで老いぼれて役に立たない馬を見つめるように、いまいましげにその車体に何度も目をやっていたが
「俺はこの老いぼれで走ってるんだが」とバシュキムに話しかけた。
「明日はコルチャまで行かにゃならんのだ。何とかしてくれんかね?」
[訳註;コルチャKorçëはギリシアとの国境に近いアルバニア南部の都市。当時の道路事情だと首都ティラナから車で6~7時間かかる]
 バシュキムはぼんやりとトラックを眺めていて、傍らではメリが父を横目で見ていた。父が助けを求めるように娘の方を見たので
『パパならできるわ』メリは目でそう言った。
『チャンスを逃しちゃダメよ』
「すぐ取りかかるよガニ」バシュキムは答えた。「ただ、明日までに終わるとは約束できないな」
「そこを何とか頼むよ!」ガニは言った。
「お前さんの腕なら、こんな仕事片付いたも同然だろう」
 バシュキムはメリの方を見ると
「人手がいるな」と言った、
「私たちだって手伝うわ、パパ」とメリは答えた。「アルビも呼んできましょう」
 メリはアルビを起こして、手伝いが必要なのだと言って聞かせた。それまでアルビは父親とろくに口をきこうとしていなかった。家の中でも、目を合わさぬまま挨拶の言葉を口にする程度だったのだ。
「パパと仲直りするチャンスじゃないの」メリはそう言って説得した。「パパが待ってるわ」
 アルビは物憂げに顔を上げた。
「姉さん、姉さんはパパが変われると本気で思ってるの?」
「勿論よ」メリは答えた。「きっと昔のパパに戻れるわ。そうよ、そう信じてる」
「ああもう!今まで何回そんなこと言ってきたのさ」
「今回は、今までと違うわ」
 アルビは、さほど元気よくとはいかないもののそれでもベッドから起き出した。
「わかったよ、ちょっと古着を探してくる」
 メリはアルビを抱き締め感謝した。
 トラックは大き過ぎて玄関の前には置けなかったので、門の前の道路で修理するしかなかった。そこは車の往来が少なく、交通の邪魔にはならなかった。バシュキムとアルビが修理をしている間メリは幾分手が空いていたが、ふと気付くと、道を行きかう近所の人たちが興味深そうにこちらを眺めているのだった。その中の何人かは立ち止まって挨拶までしてくれた。メリは幾度かバルヅァおばさんのいるバルコニーの方に視線をやった。彼女はそこにいた。だがどうすることもできないに決まっていた。
 メリは、これほど疲れている父親を今まで見た記憶が無かった。げっそりとやつれて、無茶苦茶に汗をかいていた。それでも、苛々した様子はこれっぽっちもなかった。アルビが道具を間違えたり、説明をちゃんと聞いていない時でさえそうだった。昼食の時もほとんど休憩をとらず、スープをひと皿だけ片付けると
「さあ続けよう」とアルビに言うのだった。
 アルビは大人しく父親に従った。外はうだるような暑さだった。それでもバシュキムは日が暮れるまで仕事の手を休めなかった。何度かエンジンに点火して、車が動くかどうか様子を見ていた。トラックが走れるようになったのを確認してからやっとしゃがみ込み、門にもたれかかって、軽く息をついた。しばらくして、車の持ち主のガニがやって来た。
「ようバシュキム、いいニュースはあるかい?」ガニは待ちきれない様子だった。
 バシュキムは車のキーを手渡した。
「明日には出発できるよ」
「よくやってくれた!」と言ってガニはズボンの後ろのポケットから金の入った封筒を取り出した。
「そりゃ多過ぎるよガニ」
「いいんだよ、お前さんのおかげで助かったんだから。それに昔の仲間を仕事無しで放っときゃしないぜ。知り合い全員にここを紹介するよ」
「そりゃ有難い!」
 ガニはバシュキムに近寄ると、その肩を親しげにがっしりと摑んだ。
「頑張れよバシュキム!お前さんの腕は黄金の腕だ。もうやけを起こしたりなんかするんじゃないぜ。それと、俺たち昔馴染みがお前さんのことを軽蔑してるなんて思うなよ。お前さんの災難のことは知ってるさ。でも俺たちはな、今のお前さんはずっとずっと立派になったって思ってるんだ。なあ兄弟、しゃんとするんだぜ、俺たちの世代はもうこれ以上時間を無駄にゃできないんだ」
 バシュキムは感謝してガニの手を握り締めると
「ガニ、みんな本当に俺を軽蔑してないのか?」と感極まって言った。
「当たり前だろ!お前さんがどういう人間か、俺たちゃよく知ってるんだ。それじゃあな、とにかくしっかりやれよ」
 ガニを見送ってから家の中に戻ってきたバシュキムは、テーブルの上にお金を出すと、メリにこう言った。
「メリ、これはお前が持っていてくれ」
 ちょうどそこへシャワーを浴びたアルビが出てきた。アルビはバシュキムがバスルームへ入るのを見送ってから、テーブルの上のお金に目をやり
「イタリアでも、みんなこんな風に働いてるのかな?」と言った。
「ね、もうお金を無駄遣いしようなんて思わないでしょ?」
メリは言った。
 オイルとガソリンまみれで門の前に横付けされておんぼろトラックが見違えるようになると、その後には何台もの乗用車が相次いで停まるようになり、近所の車持ちにはすっかり有名になったその門をノックするのだった。バシュキムは仕事のない日の方が珍しくなっていた。ほどなく玄関は事務所に様変わりし、メリはオイルの汚れをきれいにする暇もなかった。工具はどれも出ずっぱりで、朝っぱらからもうそこいらじゅうに散らばっているものだから、きれいにする意味がなかったのだ。
 アルビはだんだん模範的な見習い工のようになり、機械の勉強がしたいと途方もないことまで考えるようになっていた。
「大きくなったらオフロード用のジープを買いましょう」或る晩メリは夢見るような口調でそう言った。「あなたにもタイヤを買ってあげる」
 アルビがオイルだらけになっているのも構わずメリはアルビを抱き締め、にこにこしながらキスをした。
「ほら見て」とメリは数枚の紙幣を見せた。「パパがね、あなたに渡してくれって。さあ、ジーンズ買いに行きましょうよ」
 アルビは信じられないといった顔でメリを見た。
「僕に?!このお金全部?!」
「何びっくりしてるの?あなたはパパを手伝ったんだから」
「てことは、僕はジーンズを貰えたってこと?」
「そう、あなたのものよ!」
 そんな或る晩、バシュキムはメリとアルビを呼ぶと、テーブルに幾らかお金を出してみせた。
「今夜は出かけるといい。アイスクリームでも食べておいで。シドも誘ったらどうかな?」
 メリは顔を赤らめてもじもじした。
「こりゃ僕らから招待した方がいいよね。姉さんが電話しなよ」アルビが言った。
 メリとアルビは着替えて外へ出たが、数歩も歩かない内にアルビは気が変わったと言い出した。
「姉さん、一人で行きなよ。僕、何か決まりが悪いや」
 メリはアルビの手を引っ張った。
「あなたも来るのよ!シドと仲直りしなきゃダメでしょ」
 それでアルビも従った。二人は国際文化センターでシドと待ち合わせて、近くの店に入ると、アイスクリームを注文した。
「調子はどうだいアルビ?」シドが訊ねた。
「壊れた車に囲まれた日々さ。見渡す限り鉄ばかり」
「じゃ君はもう『哺乳瓶』じゃないんだなあ」
「シドだってそうだろ」
 メリは手を口元にやり、笑いをこらえていた。
「ちょっと取引しない?」アルビが言った。
「聞こうか!」シドも応じた。
「カール・マローンの写真と何か交換しない?」
「マローンって『ユタ・ジャズ』のかい?そっちは何が欲しいの?」
「ジーンズのベルト」
 シドは広げた掌を差し出して
「取引完了だ!」と言った。
 二人は手を打ち合わせ、互いににっこり微笑んだ。
[訳註:カール・マローン(Karl Malone)は米国のバスケ選手。ユタ・ジャズ(Utah Jazz)はユタ州に拠点を置くプロバスケチーム]
「今日誘ってくれて良かったよ、だって、明後日から家族とサランダへ行くことになってるんだ」シドがしばらくしてそう言った。
[訳註:サランダ(Sarandë)はアルバニア南部の港町]
 その言葉に一瞬、メリはアイスクリームの入った皿から顔を上げられなくなった。素晴らしい日々が続いた中で、初めて感じた憂鬱だった。去年シドが夏休みでいなかった時のことを思い出した。それは暑く、いつまでも長く続くように思われた日々だった。そんな日々がまた繰り返されようとしている。
 家へ帰る時、アルビがクラスメートの男子と出会ったので、メリはシドと二人だけになった。
「私・・・あなたに言ってなかったことがあるのよ」メリは小声で言った。
「あのネックレスだけど・・・」
「わかってるよ」シドが言った。「新しいのを持ってきてあげる。貝殻は世界中どこにだってあるけど、メリユルは一人しかいないものね」
 メリは顔を上げ、思わず微笑んだ。
「違うのよシド、貝殻だってメリだってどこにだってあるわ。でもシド、あなたは世界で一番の友達よ。私・・・私にとっては・・・」
「僕だって・・・」
「あなたに、何?」
「君から先に話せよ」
「いやよ、最初に言ったのはシドでしょ」
 二人は楽しげに互いを見合ったまま、くすくす笑い出した。メリはアルビが呼んでいるのに気付くと、シドにまたねと言って、アルビのところへ走って行った。アルビと一緒に家に帰ると、バシュキムがノラとヴェランダに座って、ノラに本を読んでやっていた。
「ああ、どうだった?」バシュキムが訊ねた。
「とっても楽しかった」メリとアルビは声を揃えて答えた。
「メリ、ちょっと急いでお祖母ちゃんのところまで行ってきてくれないか?電話があって、お前に来て欲しいって」
「行くわ」
「ちょっと待った。お祖母ちゃんに渡して欲しいものがあるんだ」
 バシュキムは家の中へ入って行ったが、すぐに小さな包みを手にして戻ってきた。メリは、挽きたてのコーヒー独特の香りがするのに気付いた。
「お祖母ちゃんに渡して、よろしく言っておいてくれ」
 その時メリは、祖母に呼ばれた理由がわかったような気がした。
 祖母の家へ向かう途中、メリとアルビは、もうすぐイタリアにいる叔父が帰ってくる話をしていた。
「おやおやあんたたち、最近ちっとも来てくれなかったじゃないか?」祖母は非難するような口調で言った。
「ごめんねお祖母ちゃん、家が仕事で忙しかったのよ」メリは祖母を抱擁しながら言った。
「お祖母ちゃん」アルビも話しかけた。「ここのアパートで車の修理が必要な人がいたら紹介してよ。お祖母ちゃんも少し儲かるよ」
 祖母は、わけがわからず目を丸くした。
「メリや、この子は何を言ってるんだい?」
「あとで説明するわ」メリは言った。「アルビったら車のことで頭がいっぱいなのよ。これ、パパがお祖母ちゃんにって。よろしくって言ってたわ」
 祖母は震える手でコーヒーの包みを受け取った。
「あたしにかい?バシュキムが、これをあたしにって持ってきてくれたのかい?」
 メリがうなづくと
「バシュキムはどうしてるんだい?ずいぶんくたびれてるらしいけど」
「一日中働いてるわ」
「その・・・酒は・・・口にしてるのかい?」
[訳註:原文で祖母は「酒」のことを「毒(helm)」と言っている]
「一滴も飲んでないの」
 すると祖母はため息をついた。
「ずっとそうならいいんだけどねえ!昔のバシュキムのままでいて欲しいもんだよ。そうかい、お前たちのパパがねえ!可哀そうな私の娘、とうとうバシュキムの幸せな様子を見られないまま逝ってしまったよ!」
 メリとアルビは、壁に掛かった母の大きな写真に目をやった。写真の中の母はすぐそばで、本当にすぐ目の前で微笑んでいるように見えた。
「ねえお祖母ちゃん、いつかママの魂はうちに戻って来てくれるの?」
「そうだといいねえ。神様が奇跡でも起こしてくれたらねえ」
 祖母は写真に目を向けると、いつものようにしくしく泣き始めた。メリとアルビが会いに来た時はいつもそうなのだった。二人は祖母に休んだらどうかと勧めた。
「ああそうだね、じゃ休ませてもらうよ」そう言って祖母はスカーフの端で涙をぬぐった。
「明日、あたしもお前たちのうちに寄らせてもらうよ。お昼にはアカザの葉のヤプラクを作ってあげるからね。お前たちのママがいつも作っていたもんだよ、お前たちのパパの好物だからってね。 お前たちはあの娘の天使さ!お父さんを大事にしておあげよ、お父さんもお前たちが大好きなんだからね。でもお父さんがどれぐらいお前たちを愛してるか、お前たちにはまだわからないだろうけどねえ」
 メリとアルビは互いに顔を見合わせるばかりだった。

22
 1996年の夏の日々が終わる頃には、誰もが予想していなかった結末が待ち受けていた。父バシュキムは見違えるように変わった。朝から夜暗くなるまで働いていたが、顔の肉付きは増し、血色もよくなっていた。アルコール飲料の類もタバコも一切口にしなくなっていた。食欲も回復し、出された料理は何でももりもり食べるようになった。もっとも、自分の身に起きたことがまだ信じられない様子で、黙って考え込んでいることもあったのだが。
 アルビとメリは、自動車修理の仕事を毎日出来る限り手伝うようにした。親子の関係は以前に増して温かなものになり、過去に起こった出来事の名残りも、もう忘れかけていた。そして食事の席ではいつも一緒で、家の問題も三人で話し合うのだった。メリがいろいろな相談に耳を傾けるようになったので、アルビも自分が馬鹿にされているように感じることはなくなっていた。
 もうメリたちは、近所を歩いたり店(とりわけ食料品店)に入ったりするたび下を向きうなだれることはなかった。隣人たちはまた親しげに接してくれるようになった。以前のように家を訪ねてくれる人たちも戻ってきた。メリもアルビも、自分たちの父親について良い評判しか耳にしなくなり、そのことでメリは、自分たちが他の同世代と何も違わないのだと感じられるようになっていた。
 だが、門を出る時バルヅァおばさんの店の方に目をやるたび、メリは心の中がぽっかり空いたような感じがするのだった。前のようにバルヅァおばさんの家に行く気には、なかなかなれなかった。そんな或る日、食事をしているとバシュキムがこう言った。
「今ふと思ったんだが、うまいビュレクが食べたいな」
「僕も食べたい!」アルビが賛成した。
「あたしも欲しい」ノラも加勢した。
 メリは門の方を見た。
「じゃあ、バルヅァおばさんのところで買ってくるわ。何がいい?」
 肉と玉葱のビュレクがいいというので、メリはバルヅァおばさんの家のバルコニーの方へと、おぼつかない足取りで近付いて行った。バルヅァおばさんはそこにいた。二人はしばらく黙って見つめ合っていたが、メリは、バルヅァおばさんの眼の中にこれっぽちの怒りも見えないことに気付いた。
「中に入ってもいいですか?」メリが訊ねると
「どうぞ!」とバルヅァおばさんが答えた。
 家の中に入ったメリは、一瞬、そこがとても懐かしい感じがした。
「バルヅァおばさん・・・元気だった?」
「泣きたくなることばかりさ、うちだけじゃないけどね。何にする?」
メリは戸惑い気味に
「私・・・その・・・肉と玉葱のビュレクを、うちに、家に買って帰りたいの」
 バルヅァおばさんはキッチンに入ると、丸いビュレクを四つに切り分け、紙ナプキンに包んでからビニール袋に入れたものを
「さあ召し上がれ!」と言ってメリに手渡した。
 メリはお金を差し出して
「実は・・・私・・・もう一つ用があって」と言った。
「おばさんに本気で謝りたいと思って来たの。おばさんにひどいことをしてしまったから。本当にひどい態度をとってしまって」
 バルヅァおばさんは顔色をほんの一瞬だけ変えたが、両手を広げた。メリがそこにおずおずと歩み寄ると、バルヅァおばさんはメリをしっかりと、まるで母親がそうするように温かく抱き締めた。
「私も言い過ぎたわメリ、でもそれはあなたのためを思ってのことよ。あなたと、あなたのパパのこともね」
「有難う」
「バシュキムも変わったみたいね。良い評判しか聞かないもの」
「バルヅァおばさん、私たちが苦しい時にはいつも来てくれたけど、今度は遊びに来てくれる?」
「ええ、そうするわ」
 そうしてバルヅァおばさんの温かみを感じていたメリは不意に、自分の母が死の床で言った言葉を思い出した。
『これから先、お父さんが他の女の人と結婚することがあるかも知れないわ。あなたはそのことで腹を立てたりしてはだめよ。大事なのは、その女の人があなたたちに良くしてくれて、あなたたちのことを好きになってくれるかどうかよ』
 思わず知らず、胸の奥から長いため息が出た。
「何を考えてたの?」
「ママ」
「メリ、あのママの代わりになれる人なんているはずがないわ。あなたや、あなたのパパの代わりがいないようにね」
 そして二人はしばらく黙って見つめ合ったが、お互いの気持ちはよくわかっていた。
 メリが家に戻ってテーブルの上にビュレクを置くと、バシュキムはそれを目で追った。
「バルヅァおばさんがよろしくって。今度遊びに来てくれるって」メリは言った。
 バシュキムは何も言わないまま、手を伸ばしてビュレクをひと切れ取った。

* * *
 こうして平穏な日々の生活が続き、何事にも、何者によっても傷付けられないように思えていた或る晩、門の外からけたたましい口笛の音が聞こえてきた。アルビとメリは立ち上がった。
「あの人たちったら、何しに来たのかしら?」メリは不安げにつぶやいた。
「そんなの僕が知るわけないじゃないか」アルビが答えた。
 それは「ゼロの三乗」の連中だった。
「外に出ちゃダメ!」メリはアルビに言った。家の中には子供たちしかいない。バシュキムは仕事を済ませた後、珍しくどこかへ出かけていて、まだ戻っていなかった。アルビは家の中をうろうろし始めた。口笛はしつこく続いていた。
「ちょっと様子を見て来る。心配いらないよ」
 そう言ってアルビが外へ出てみると、ケコが自転車を押して近付いてきた。レディとサイミルが少し離れたところで待っている。
「まいったぜアルビ」ケコが言った。「この自転車そこの、お前んちの裏に停めてもいいか?」
 アルビはひと目で、その自転車が盗んできたものだと見抜いた。
「何でそんなことしなきゃいけないの?」アルビは冷たく言い放った。
「何でって、置ける場所がないからさ。追われてるんだよ。誰かがチクりやがったらしい」
「ケコ、僕はもうそういうことに付き合わされるのはゴメンだね」
「いいからやれよ!」
「イヤだと言ったらイヤだ!」
「お前、マジで言ってんのか?」ケコは怒りの余りブルブル震え出した。
「行こうぜケコ、捕まっちまう!」レディが言った。
「アルビ!この落とし前はつけさせてもらうぞ」ケコは息巻いた。
「この野郎・・・!」
 その言葉を聞いた瞬間アルビは気が遠くなり、ケコに拳をくらわせて自転車もろとも殴り倒していた。レディとサイミルがケコに加勢しようと駆け寄ってきた。アルビはそのまま突っ立っていたが、三人はそんなアルビに思い切り殴りかかってきた。
 門の外へ出たメリはこの様子を目にするや急いでスパーキーのところへ行き、首輪を外すとアルビのところへ行くよう命じた。スパーキーはすぐさま状況を理解し、ひとたびうなるように吠えるやケコの方へ走っていき、まっすぐにその胸元へ飛びかかった。
 ケコは恐怖の叫び声を上げると、大慌てで逃げ出した。レディも自転車を抱えて全速力で姿を消した。サイミルだけが逃げ遅れていたが、スパーキーはそんなサイミルのズボンに噛みついた。
「こいつをやめさせてくれアルビ!」サイミルは懇願した。「もうお前につきまとわないから!」
 メリがスパーキーに「家にお戻り」と命じるとスパーキーはそれに従った。サイミルは逃げ去り際に叫んだ。
「憶えてろよ!いつか仕返ししてやるからな!」
 アルビは、血だらけになった鼻を手の甲でぬぐいながら、かつての仲間たちが走り去った方角をじっと眺めていた。メリはアルビの手を取って家に戻り、傷口の消毒を手伝った。
「これでよかったのよ」メリは言った。「これでもう、あの人たちとは縁が切れたんだから」
 アルビは玄関口に座り込んだまま、何も答えなかったが、しばらくして
「気にしてるのは、あいつらのことなんかじゃないよ」と言った。
 メリは壁に掛かった時計を見た。すると急に弟の言いたいことが何なのか気付いた。門から出て通りに目をやったが、父の姿はなかった。メリはしばらくそこに立っていたが、アルビのところへ戻った。
「ん?」アルビが訊ねた。
「・・・」
「姉さん、まさかパパ・・・酒場に行ったんじゃ?」
 メリはアルビの隣に座ったまま、何も答えようとしなかった。二人が不安な気持ちに沈んでいると、やがて門の開く音がして、バシュキムが疲れきった顔で入ってきた。メリとアルビは不安げな表情で父親を見つめた。バシュキムは二人の視線に気付くと「ただいま」と言ったが、二人は小声で冷たく返事しただけだった。
「何でそんな顔をしてるんだい?」バシュキムは戸惑いながら訊ねた。
「パパ、どこに行ってたの?」メリが鋭い口調で言った。
「パパかい?大理石を扱ってる知り合いのところさ。ママのお墓のことで相談にね」
 それでもメリとアルビの顔には疑いが残っていた。それでバシュキムはようやく、二人の表情の理由を察した。
「メリ、アルビ、お前たちはパパのことを心配して・・・」
 思わずバシュキムは喉を詰まらせた。
「違うよ、もう二度とそんなことはしない、パパはお前たちに誓う!ママにも誓うぞ!わかってるさ、パパのせいでお前たちには苦労をかけたってことを。パパのせいでお前たちがひどい目に遭ったってことも。でも、もうこれからは・・・だからお願いだ、もっとパパのことを信じてくれ!パパはお前たち二人のことを大事に思ってるんだ。パパはダメな親だった。でももうあんなことは繰り返さない。決して!メリ、アルビ・・・」
 そう言ってバシュキムは広い肩をいからせていたが、いきなり大声で、全身をぶるぶる振るわせながら泣き出した。父がそんな風に泣くのを見るのは、母が亡くなった時以来だった。メリはバシュキムに駆け寄り、その肩を抱いた。
「パパ、私たち、パパのことを疑ってなんかいないわ。だから昔のことは忘れましょうよ」
 アルビも、もう一方の肩に寄り添った。
「パパみたいな親が他にいるもんか」そう言うアルビもこの場面に感動していた。「だからしっかりしてよ!大の男がそんなことでどうするのさ!」
 バシュキムは両手を伸ばした。メリとアルビはそんな父を抱きしめ、そして父が泣き止むまでずっとそのままでいた。

* * *
 7月の終わり、叔父のバルヅュルが休暇でイタリアから帰ってきた。
[訳註:これまで何度か話題になっていた母方の叔父がここで初登場。バシュキムには義理の兄弟に当たる]
 持ってきてくれた二つの小さな箱には、自動車の修理に必要なありとあらゆる工具類が入っていた。それを見たバシュキムは目を輝かせた。
「これ、俺にかい?!」そう訊ねながら工具を見つめるバシュキムの目は、まるで宝石箱でも見ているようだった。
「そうさ」バルヅュルは答えた。
「さてと、よく聞いてくれ。お前さんだっていつまでも道端や玄関口で車の修理をするわけにはいかないだろう。ひとつ店を立ち上げる必要があるな。場所はここの庭にしよう。まずは屋根を張って、雨の日はその下で仕事すればいい。来年の春には壁を作ろう。金は俺が都合するよ。商売が軌道に乗って、仕事が続けられるようになってから返してくれればいいさ」
 義理の兄弟が支援してくれるという話を義母から聞かされたバシュキムは、その余りにも魅力的な提案に我と我が身を信じることができず、ただ呆気にとられていた。
『自分が、店を持つだって?!』
「まあ少し考えてくれよ」バルヅュルは言った。「そんなに急いで決めなきゃいけないことでもないし。ただね、無一文から始めるのは何もお前さんだけじゃないんだぜ」
 バシュキムは、いつの日か店が出来るであろう庭の一角を見つめた。
「バルヅュル、お前、俺のことを信用してくれるのかい?」
「完全にね」バルヅュルは答えた。「俺の金があてになる間だけは・・・」
「有難う!」
「いいかい、今日のお前さんは金が必要だ。だが人生はわからない。明日には俺がお前に金の無心をしてるかも知れないんだ」
 そんなやりとりから数日後、門から右側の、道路に面して建っている外壁の部分が取り壊された。今や庭と道路が地続きになったその場所には、スモモの木が二本と、ツタのからまるパゴラがあったが、それも切り倒された。そこにコンクリートの土台が敷かれ、車二台がゆうに置けるスペースが作られると、木製の柱を数本立て、ブリキの天蓋を載せた。こうして出来上がった工場(と呼んでいいのかどうかわからないが)の前に、鉄製で黒塗りの広々とした門が建てられた。アルビがそこに赤い字でこう書いた。
『ジョカ修理店 トラック・乗用車 修理・各種サーヴィスいたします』
 イタリアへ出発する前にメリたちに会いに来たバルヅュルは、その門の傍らに立ちニコニコしていたが
「アルビ、ちょっと君に話したいことがある」とアルビを呼び寄せた。
「いいかい、自分が書いたその看板をよく憶えておくんだよ。イタリアだってアメリカだって、財産があって働こうとする人はみんなこうしてるんだ。だがアルバニアはどうだ!俺がイタリアで馬車馬のように働いても、みんな俺を馬鹿にし、笑いものにするだけだ。ここは俺の国じゃない。もうここには何もない。ここじゃ俺は食いものにされるだけさ。わかるかいアルビ?いやいや、何も言わなくていい!あとで手紙でも書いてくれよ」
 アルビはバルヅュルの肩に手をやった。
「僕は叔父さんのこと大好きだよ。叔父さんはママに似てるもの、何もかもね」
 バルヅュルは、アルビをしばらくの間しっかりと抱き締めていたが、こうささやいた。
「叔父さんもアルビのことが大好きさ、遠く離れていてもね。さあ、パパを手伝っておいで!店には仕事が山ほどあるぞ」

* * *
 9月に入った或る日の朝、メリとアルビがいつものようにバシュキムの修理店の仕事を手伝っていると、家の中で電話のベルが鳴った。アルビもバシュキムも顔を上げようとしなかったので、メリは雑巾で手を拭きながら居間へ入っていった。電話はシドからだった。
「やあ、ジョカ修理店はどうだい?」シドの声が聞こえた。
「お客さんを待たせてるの」メリが答えると
「今、マンションの下にブレダルが来てるんだ。一緒に『イスマイル・チェマリ』高校の入学申込みに行くんだけど、メリ・・・君、もう決めたの?」
 メリはただ溜め息をついた。シドが休暇先から戻って以来、高校進学の問題は何度か出ていたがメリはその話題を避け続けていた。彼女の状況からして、高校への進学は不可能なことに思えた。父だけでなく、メリ自身も働かなければならなかった。それに家計も持たないし、修理店の蓄えも底をついてしまうに決まっている。
「ねえメリ、もう一度バシュキムおじさんと話してみなよ」シドが言った。
「バシュキムおじさんが何て言うか、僕にはよくわかってるんだ。午後、練習場で会おう」
 メリは昼食の時間が待ちきれなかった。
「何かパパに言いたいことがあるんじゃないか」不意にバシュキムが話しかけてきたので、メリはテーブルに食事を並べる手を止めた。
「パパ、私、就職することにしたわ。洋裁店か、理容店にでも」
 するとバシュキムは、ひどく真剣な表情をしてメリの方を見た。
「どうして?!」
「だってうちは・・・この家は・・・」
「メリ、パパがあの冬の朝のことを忘れてしまったなんて思わないで欲しいな。お前は暗いうちから起き出して、バルヅァおばさんのところへビュレクを作りに出かけたね。お前が働くのが嫌いじゃないってことはパパだって知ってる。だがこれからは、パパはお前のことも、この家のことも考えていこうと思う。お前にもアルビにも、何より大切なのは教育だ。それ以上に大事なことなんてない。パパを手伝ってくれるのは、時間が空いた時だけでいいよ。さあ、今から高校へ行って、クラスメートと一緒に入学手続きをしておいで。パパはお前のために力の続く限り働くぞ、昼も夜も。それがお前のママから託されたことなんだから」
 メリはバシュキムに歩み寄って抱きついた。
「お前がパパのことを大事に思ってくれてるのはわかってるよ」バシュキムが言った。
「もちろんよ!」メリは答えた。
 その日の午後、メリは何度か迷った末、バシュキムに少し多めの小遣いを頼んだ。
「シドにプレゼントがしたいの」
 バシュキムは食器棚の引き出しを開けると、紙幣の入った封筒を取り出した。
「メリ」バシュキムは言った。「お前もこれで何か買いなさい。もうすぐ新学期だ」
 メリは着替えると鏡の前に座り、ぼさぼさになった髪を、まるでジャングルの中を走破するように櫛で整えた。一瞬、自分が自分だと思えないほどに、メリの顔はふくよかに充実していた。弓型に伸びた濃い眉毛の下、椰子の枝のようにしなる長い睫毛の間に、これまでに味わったことのない喜びに満ちた瞳が輝いていた。
「お馬鹿さんね、あなたって」メリは鏡に映った自分に話しかけた。
 メリは家を出て、足早にスポーツ用品店へと向かった。いろいろあるバスケットボールの中から赤色のものを選ぶと、店員に頼んでボールペンを貸してもらった。店員がボールペンを渡してもの珍しそうに見守る中、メリは背中を向け、大きな文字でボールの表面にこう書いた。
『あなたが世界でナンバーワン』
 店員は薄手のネットに入れたそのボールをメリに手渡しながら、親しげにこう言った。
「そのナンバーワンさんによろしく!」
 メリはシドが練習している運動場へ向かった。そしてほとんど走らんばかりの勢いでたどり着くとシドを呼んだが、その声が余りにも大きかったので、他の男子が全員振り返るほどだった。コーチはシドを手招きしてから、練習継続のホイッスルを鳴らした。
 シドはメリのところに駆け寄る途中で、メリが何を知らせに来たのかピンときた。
「もう練習を切り上げるから、一緒にアイス食べに行かない?」シドが言うと
「ううん」とメリは断った。「練習終わるまで待ってるわ」
「ところでそのボール、ひょっとして僕に?」
 メリはにっこりして、たぶん二人が初めて出会った頃からずっと続いている好意の感情のまま、シドを見つめながら。
「ほら、もう練習に戻って」と言った。
 シドがコートを駆け回り、ゴールをめがけてボールを奪い合っている間、コートそばの椅子に腰掛けたメリは、シドから目を離すことができなかった。
『私の気持ちをこんなに、おかしくなりそうな程にかき乱すこの人は何?』メリは自問していた。
『どうして私の人生はこんなにも変わってしまったのかしら?どうしてこうなっちゃったのかな?私もシドのために、同じことをしてあげられるのかな?ねえ、あなたは誰なのシド?一体誰なのかいつかあなたは私に教えてくれるの?』
 それから二日後の土曜日の朝、シドの母エロナから突然の電話があった。
「メリ、私いま家に一人なんだけど、遊びに来ない?」
 メリはためらった。
「私が?じゃあ・・・はい・・・行きます」
 エロナは、控え目な温かさでメリを出迎えた。あの事故の後、病院へ見舞いに来てくれた時と同じくらい、ひどく真剣な顔をしていた。
「メリ、ずっと二人で話さなければって思っていたの」メリと向かい合って座ると、エロナが切り出した。
「正確に言うと、私はあなたに謝らなければいけないと思うの。私はあなたに厳しい態度をとってしまった。あなたにはそんな扱いを受ける理由なんかないのに。でもそれは、私があなたのことをちゃんと知らなかったから。今はよくわかるの、私はね、自分の息子のことだって知らなかったのよ。人生って不思議なものねえ。長く生きてきたと思ったら、自分が何も知らなくて、もっと知らなければいけないことがあるって突然知らされるんだものね」
 メリは落ち着き払ったまま、エロナをまっすぐ見つめていた。
「エロナおばさん、おばさんはシドのお母さんです。私には、おばさんのことをこれっぽっちも恨むことなんて出来ません。済んだことはもう忘れました。おばさんは、素晴らしい息子さんをお持ちですね。私だって、自分が何もわかっていないって思うことがしょっちゅうありますもの。でもそれでいいんです」
 そう言われてエロナは微笑んだ。
「あなたとシドには、いつまでも良いお友達でいて欲しいわ。だって人生の最初の時期には友達が必要だから。楽な人生や幸運な人生を見つけことはできても、良い友達を見つけることだけは難しいのよ。本当に難しいの。これは私の経験から言うことなんだけどね」
 メリは考え深げにうなづいた。

* * *
 秋の或る日、メリが高校の門を出ようとするとリンダ先生が自分を待っているのが目に入った。リンダ先生は軽く手を挙げ、微笑んでみせた。メリはリンダ先生に駆け寄って抱きついた。
「まあメリ、メリユル!」そう言ってリンダ先生はメリの肩を抱き寄せた。
「一緒に帰ろうと思ってきたのよ、あなたやご家族のことで素敵な噂を聞いてね。あなた本当に、すっかり変ったわねえ。前よりきれいになったみたい」
 メリは顔を赤らめた。
「ごめんなさい先生、私から会いに行くべきだったのに」
「そんなの大したことじゃないわ」
「あの、前から何度も訊きたかったんですけど、どうして先生はそんなに私のことを気遣ってくれるんですか?」
 するとリンダ先生はため息をつき、どこか遠くをぼんやりと眺めていたが
「それはね、あなたと同じことを先生も経験してきたからよ。先生も13歳の時に母親を亡くしてね、大家族だったから、家のことが何もかも先生の肩にのしかかってきたの。妹も弟もまだ小さくて、先生が自分の手で育てたのよ。夜遅くまで勉強を見てあげたし、教科書を読みながら眠ってしまったこともしょっちゅうあったわ。学校が大好きで、教師になりたいと思うようになったのよ。でも先生のうちは子供が多かったから、仕事に出るようになってからもずっと、小さな妹や弟たちの面倒を見続けて、そんな風だったから結婚もしないままだったの。でも数年前に今の夫が好きになってくれて、先生のことを受け入れてくれたのよ。でも今でも時々考えるの。自分が払ったたくさんの犠牲には意味があったのかしらって。それがいつか報われる日は来るのかしらって」
「私は、来ると思います」メリは言った。
「先生もそう思うわ。あなたを見ていると、昔の自分を思い出して、他の生徒よりもあなたのことが気になってしまうのよ。ね、これが先生の秘密」
 メリはもう一度リンダ先生に抱きついた。
「あと今日はね、あなたに悲しいことを伝えようと思ってきたの」リンダ先生は言葉を継いだ。
「ほんの数日前に知らされたばかりなんだけど、クララがひどいことになったのよ、本当にひどいことにね。私の知り合いが内務省でインターポールの担当なんだけど、クララの両親が事情聴取を受けたそうなの、クララが突然いなくなったからって。ギリシア警察から届いた情報では、クララは売春婦にされていたそうよ。あのクララの婚約者が、マフィアのグループに彼女を売り飛ばして売春をさせていたに違いないって」
 メリは驚きの余り目を見開いた。
「先生、それ本当ですか?」
「残念だけど・・・クララはね、余りにも軽率だったのよ」
「クララのせいじゃないわ。クララはゲンツのことが好きだったのよ」
「たぶん好きだったのは本当でしょうね。でもね、人を愛するには、大人になることも大切なのよ。いつだって犠牲になるのは子供なの。弱い人も、誰にも守ってもらえない人もね」
 その時メリは初めて、自分とクララの、ゲンツやアルドとのことが何もかもはっきりとわかったのだった。
『シド、あなたがいてくれなかったら、私はどうなっていたの』メリはそう思った。
 素敵な日々が何日も続いた後に突然襲ってきた過去の絶望感に、メリはしくしく泣き始めた。
「先生、私のせいだわ。私もクララがギリシアに行くって知ってたのに、何も言わなかった。結局は一緒に行かなかったけど、クララのことを引き留めようともしなかった」
「そんな風に自分を責めちゃいけないわ。クララのことは私たち全員の責任よ。私たちが生きているこの社会では、誰しもその責任を逃れることは難しいわ」
 リンダ先生はメリの肩を抱き、一所懸命に慰めてくれた。二人は混雑する交差点で分かれて、メリは家に続く道を、打ちひしがれたまま歩いた。秋の始まりを告げる雨が降っていて、水たまりから溢れ出していた。掘り出した穴や、真新しいビルの中で、道路のアスファルトはほとんど泥まみれになっている。
 それでも、メリにはその道路が今までにないほど愛おしく思えるのだった。それは家へと続く道だった。


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