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ヴィクトル・ツァノスィナイ 『メリユル』

5
 ところが新学期の初日、メリとアルビは、教科書やノートや、着ていく服を探して右往左往した挙げ句、顔をしかめて立ち尽くしていた。昨日は二人とも家に帰るのが遅かった。22時、近所の人から、父がラナ川[訳註:ティラナの中心部を東西に流れる川]のそばの酒場にいると連絡があったので、父を迎えに行かなければならなかったのだ。父がこれほどひどい様子になってしまうことは滅多になかった。メリとアルビはやっとの思いで父を家へ連れて帰った。すると父は突然不安を爆発させて、周りのものを手当たり次第に壊し始めた。子供たち二人にそれを止めることはできなかった。アルビは怯えて部屋の隅に立ちすくみ、メリは涙ながらに、父に落ち着いてくれるようにと懇願した。父はガラスの破片で手をひどく切って、ようやくおとなしくなった。
 メリはやむなくバルザおばさんを呼んで来た。バルザおばさんは勇気を振り絞って父の前に出ると、大声を張り上げた。
「バシュキム、もう、いい加減になさい!」
 父は呆然としてバルザおばさんを見つめていたが、彼女が手の傷にタバコの葉を当て、包帯を巻いてくれている時には、何も文句らしいことは言わなかった。
「もう寝なさいよ」と彼女が言うと
「奥さん、あんたはどなただね?」父はわけがわからない様子で訊ねた。「メリはどこだ?うちの娘はどこだ?」
 メリとアルビは父をベッドに寝かせてから、廊下の掃除をした。だがアルビは怖がったままで、一言も口をきかなかった。それでバルザおばさんは遅くまで二人に付き添った。メリが眠りについたのは、おばさんが帰った後のことだった・・・
 そんな有様にだったところに追い打ちをかけるように、ノラの泣く声が聞こえてきた。メリは不安で、初日の授業に出る気になれなかった。
「もう弱気なこと言うなよ!学校には狼も人喰い竜もいなんだから、何が不安なのさ?」アルビが苛立って叫んだ。
 メリはアルビに大声を出さないように頼みながら、泣いているノラをあやしにかかった。時計が8時を回って、メリ自身も着替えにかかった。クララがくれたブラウスも幾度か手に取ってみた。それは本当にきれいなブラウスだったが、メリはそれを着ようとはしなかった。普段通りのシャツを着て、母の着ていた服からあつらえたスカートに、7年生の時と同じサンダルを履いた。そうして家を出る時、メリは貝殻のネックレスのことを思い出した。引き返してそれを身につけると、彼女は口元にかすかな笑みを浮かべた。
 メリが校舎に入ってみると、早くもシドが待っていた。メリはせいいっぱい嬉しそうな様子を見せながら、シドや、他のクラスメートたちと手を合わせて挨拶を交わした。女子たちは虹のようなネックレスを目ざとく見つけると、どこでそんなものを手に入れたのかと、好奇心満々で訊ねてきた。
「あっわかった!」女子の一人が笑いながら声をあげた。「シドも海に行ったわよね。海と言えば貝殻よね。貝殻と言えばネックレスよね。ではそのネックレスはどこに行った?未知数エックスの方程式ね。エックス・イコール・メリなのよ」
 他の女子たちも笑い出した。
「あのゲントなんかいやんなっちゃう」モンダがこぼしていた。「彼のプレゼントなんてチョコレートだけよ。どうしてこういう、ロマンティックなものを思いつかないかしらねえあの男ときたら!シドは素敵ねえ、本当に素敵!」
 それでみんながさらに大笑いしたので、メリもつられて笑った。自分が笑うことさえ忘れていたことに驚いた。とはいえ、担任教師の前ではそう簡単にはいかなかった。
「どうしたのメリ?ひどく疲れてるみたいね」挨拶のキスをして先生がそう訊ねてきたので、メリはうつむいた。
「家の方はうまく行ってるの?」
「はい、先生」
 そこで先生が話題を変えたので、メリはほっとため息をついた。
 しかしそんなごまかしは、そう長くはもたなかった。家で起こった出来事は、メリでも隠しきれるものではなかったのだ。それはまずテストの成績にあらわれた。そしてメリ自身の表情にもあらわれた。しばしばくたびれていて、暗くて、眠くて口をぽかんと開けていた。遊びにも加わろうとせず、ディスコやその他のことも口にしなくなっていた。
 或る日の数学の授業中、指名されたメリは起立すると挙手もしないで
「習っていません」と言った。
 数学の教師は、彼女からそんな返事が飛び出したことに、呆気にとられていた。
「メリユル・ジョカ、あなたからそんな答えを聞くとは思いませんでしたよ」教師はがっかりした口調で言った。「とにかく、あなたに4点はあげられませんね」
[訳註:一般にアルバニアの学校の成績評価は10段階で10が最高、一般的な合格水準は5以上]
 教室は静まり返った。メリが4点なんてことも、授業で起立して正解しないなんてことも、今までにないことだった。クラスメートの多くが、一体彼女に何が起きたのかといぶかりながら、横目でちらちらとメリの方を見ていた。メリはうつむいたままだった。隣にいたシドは手の上でボールペンをくるりと回したが、しばらくして
「メリ、どうかしたの?」と訊ねた。
「別に。何でもない」メリは言った。
「どうして、数学のこと僕に訊いてくれなかったのさ?」
「指名されないと思ってたからよ」
 シドはそれ以上、メリを問い詰めようとはしなかった。
 その翌日、歴史の時間にも同じことが繰り返された。メリは年表の質問に答えられなかった。歴史の教師は憮然とした顔でメリの方を見た。いつも怒りっぽい、権威主義的な女教師だった。50歳ぐらいの独身で、質問に答えられない生徒にはいつも容赦しなかった。
「おめでとうメリユル・ジョカ!」歴史の教師は嫌味を言った。「今日は4点です。他のことばかり考えてるからこうなるんですよ。その歳でジュリエット役なんかやりたがるから」
「私の4点とジュリエットと、何の関係があるんですか?」メリは傷つけられた気持ちで訊ねた。
「何の関係があるかですって!あなたたちのクラスじゃ、まだ子供のくせに男女でいちゃいちゃし始めてるじゃないの。まるでアメリカだわ。私たちの時代には、そんなことは考えもしませんでしたよ。私たちは模範的な生徒でしたからね」
「先生の時代の話なんて、何だっていうのさ?」
不意にブレダル・ベルシが口を開いた。クラスの男子の中でも無口で、引っ込み思案なタイプの生徒だった。
「ブレダル・ベルシ、それはどういう意味です?」歴史の教師は声を上げた。
「僕たちに嫌味を言う資格なんて、先生にはありません!」ブレダル・ベルシは叫んだ。「そのご立派な先生たちの世代が、アルバニアを貧しい、ゴミだらけの国にしたんでしょう、ありとあらゆるゴミだらけの!それで僕たちにどうしろというんです?」
 生徒らから賛同する声が上がった。
「先生に、僕たちがいちゃついてるとか非難する資格なんてありません。アルバニアがこんなひどいことになったのは僕たちのせいじゃない、先生たち大人が、国のことも政治のことも、ちゃんとできなかったからでしょう!」
「お黙りなさい!教師に向かってそんな口を!」
「ああ、今度はそうやって僕の口まで塞ぐつもりですか!先生が、自分の時代にもそうされたように」
 教室内にざわめきが広がり始めた。歴史の教師は生徒たちの座る席を見渡してから、早口で言い放った。
「ブレダル・ベルシ、あなたとは意見が合わないようです。では授業を続けましょう」
「腹が立ったから僕も4点ですか?」ブレダルはなおも問いかけた。
「それは考えておきます!メリユル・ジョカ、あなたのお父さんと、ちょっとお話ししたいことがあります。担任の先生とも少々相談します」
 メリは暗澹とした思いで頭を抱え込んでいた。そして授業が終わるまでそのままだった。シドはその日メリに声をかけることができなかったが、翌朝、やっとのことで校舎の前で彼女をつかまえると、心配そうに訊ねた。
「メリ、頼むから教えてよ、何かあったんじゃないの?」
 メリは最初、何か言おうとしていたが、途中で気が変わって
「何にもないったら」とかたくなに言い張った。
「メリ、頼むよ!」
「どうしてシドが頼むのよ?」
「だって君、何かあったみたいだから」
「何かって何よ?」
「わからないよ。でも何か変だよ」
「シドがそう思ってるだけでしょ」
 しかし、メリがそうやって隠し通そうとしても無駄なことだった。10月末の或る夜、シドがメリの家の門の前で、メリの父に肩を貸して立っていた。足には自転車を立て掛けてある。メリはそれを見て飛び出してきた。
「やあ今晩は」シドは落ち着いた口調で言った。「練習から帰る途中で、バシュキムおじさんを見かけたんだ。その・・・こんな状態だったから・・・手を貸さなきゃと思って」
「シドリト君、君は素晴らしい子だ」父バシュキムが言った。「こんな俺に気を遣ってくれて、ありがとう!」
 メリはそんな父に肩を貸すと、家の中へ入っていった。そして玄関先に戻ってきた彼女は、涙で両肩を震わせていた。
「シド、ごめんなさい!」彼女はつぶやいた。
「つまりその、お父さんはまだお酒を?」驚いた様子でシドが訊ねた。
「見ての通りよ・・・」
「メリ、言ってくれよ、僕に何かできることはないのかい?」
「わからない。どうしたらいいかわからないの」
 メリは泣きながら絶望的な声を上げた。シドは手を伸ばし、そしてメリの肩に手をおいた。
「メリ、頼むから泣かないで!」
 メリはシドに歩み寄ると、保護を求めるようにその胸に顔をうずめた。
「わかるよ、君の気持ち」
「私のこと、嫌いにならないでね」
「何で嫌いにならなきゃいけないのさ」
 シドはメリの肩を抱いた。
「しっかりして、メリ!きっと何とかなるよ」
 メリは涙の中で、少しだけ微笑んだ。

***
 だがどうしたら何とかできるんだろう?シドは自問した。メリにああは言ったものの、彼自身、自分の言葉を信じきれなかった。自転車に乗って家に帰る間も考えていた。彼の人生の中で、こんな問題に直面したことは今まで一度もなかった。酒場の前でメリの父と出くわした時、シドは恐怖に近い感覚に襲われた。メリの父がまるですっかりダメになった人間にしか見えなかったからだ。最初は近寄りたくなかったが、それでもメリのお父さんだと思って、辛うじてその場に踏みとどまった。自分の友達を苦労の中に置き去りにするのと同じような気がしたのだ。
 くたくたになって家に帰ったシドは、まっすぐシャワーを浴びに向かった。母エロナがテーブルの上に雑誌を置き、お茶を入れ、ケーキを二つ添えて出してくれた。いつも彼女は、練習から帰ってきた息子には優しかった。シドは腰を下ろし、お茶をひとくち飲んだ。エロナはその様子を横目で見ていた。
「今日は遅かったのね」
「練習の始まるのが遅くて」シドは嘘をついた。
「何か困ったことでもあるんじゃないの?」
 シドは驚きを隠せなくて、思わず顔を上げた。
「ひどく悩んでいるみたいに見えるけど」
「そりゃ人間なんだから、悩みもするさ」
「あらそうなの?ねえ、そんなこと言わないで、何があったのかママに教えてちょうだい。メリとそんな約束でもしたの?」
 シドは観念したという顔で
「違うよママ、何でそんな約束なんかしなきゃならないの?」と訊いた。
「でもあの子、何か困っているんじゃないの?」
「そうさ、彼女の家庭のことさ」
 エロナは雑誌を手に取ったが、ページを開こうとはしなかった。そして不意に
「今日、リンダ先生と電話で話したんだけど」と話し始めた。「あの先生、メリのことで困ってらっしゃったわ」
「どうして?」
「メリの成績が落ち始めているんですって」
 シドは気に障ったようにぶるっと身を震わせた。
「ママは、メリのことを訊くために先生に電話したの?」
「何で?メリのことを訊いて何がいけないの?ママだって、自分の息子が誰と付き合ってるか、知っておいたっていいでしょ?」
「それ、僕のことを信用してないって意味?」
 エロナはとんでもないという風に首を振った。
「シド、わかってちょうだい。信じてないとか、そういう問題じゃないの。これは人生経験の問題なのよ。それだけ身体が伸びたって、あなたはまだ子供で、まだ知らないことが多過ぎるわ。それに・・・それに、あなたが、他の人たちがそうするように、間違いを犯してしまうかも知れない」
「じゃあ、ママはメリのこと信用してないの?」
 重苦しい沈黙がのしかかった。
「今のところは、メリを疑う理由はないわね」
「じゃあ、これから先は疑うかもしれないの?」
「それはわからないわ」
「ママ、僕はメリと間違いなんか起こさないって言い切れるよ」
「どうしてそう言い切れるの?」
「メリのことは何年も前から知ってるからさ」
 エロナはそれでも信用できないといった風に、両手を広げてみせた。
「あなたの言った通りになるといいけどね。あなたがママに何か隠してることはともかく」
 するとシドは目を伏せたまま
「僕に隠しごとがあるって、それ、リンダ先生も言ってたよ」と言った。
「で、あなたに言わせると、メリの成績が落ちてるのはどうしてなのかしら?」
「それは、今、彼女が家庭の問題をまるごと背負い込んでるからだよ」
「でも、あの子にはお父さんがいるでしょう?」
 シドはその話題をどう切り抜けたらいいかわからなかったので
「ママ、メリはまた10点を取れるようになる、そういう女の子だよ」
そう言うと、テーブルから立ち上がって、父親の書斎のドアをノックした。左右を無数の本や書類に囲まれる中、父はパソコンで仕事をしていた。
「ハロー、パパ!」シドは、父と二人の時にしばしばする親しみを込めた挨拶で声をかけた。
「やあ、ハロー、マイ・フレンド!」父も挨拶を返してきた。
「まだずっとパソコン使うの?」
「今夜は、お前に使わせるわけにはいきそうもないなあ。パパはとても忙しいんだよ。セミナーの準備があってね」
「じゃあ、僕の英語の宿題はできないの?今夜は大丈夫だって言ったじゃない」
「シド、悪いけど、パパは忙しいんだ。見れば分かるだろう」
「パパはいつもいつも忙しいじゃないか!」
「このセミナーが片付いたら、それから・・・」
「それからまた別の会議だとか、外国の仕事だとかなんだろう」
「シド、生活のためなんだ。勘弁してくれよ」
 シドはがっくりと肩を落として、書斎を後にした。それから自分の部屋に入り、カバンを開けたが、勉強にも集中できなかった。涙ぐんで震えているメリの姿が、まだ胸に引っかかっているような気分だった。シドは考えていた。
『あんなに生活が苦しい人たちがいるなんて。それも、あんなに辛いだなんて。もし僕が同じ立場だったら?』
 シドは国語の教科書を開くと「形容詞は名詞を修飾する」と書かれた箇所に集中しようとした。

***
「名詞を修飾するという役割は、まず形容詞にあてはまる」メリは国語の教科書に目を落としたままそうつぶやくと、ぐったりとしてため息をついた。居間の隅ではアルビが、地理の教科書に肘をついたまま、じっと天井を見つめている。彼はすっかりふさぎ込んでいて、時折、何か独り言をつぶやいているのが姉の耳にも聞こえた。
「アルビ、ちゃんと勉強してるの?」メリは咎めるような口調で問いかけた。
 するとアルビは教科書を押しのけ、床に叩き落とした。
「もう勉強なんかいやだ!もう勉強のことなんか考えたくもない!」
「どうしたの?」とメリが驚いて訊ねると
「もう学校なんか行きたくない。イタリアの叔父さんのところに行くんだ」
「アルビ、それどういう意味?」
 するとアルビは突然泣き出した。
「メリ、僕もう我慢できないよ。うちの家族はめちゃめちゃだ。恥ずかしくて友達に顔向けできない。みんなパパのことも知ってるんだ。エルリンダにも知られちゃう。もう僕の隣にも座ってくれなくなるんだ」
 メリは自分の気を確かに持つのが精一杯だった。
「でも、どうしてエルリンダが知ってるの?」
「エルリンダのお母さんが、この近所で女の人と話してたんだ。あんなひどい話、ばれずに済むとでも思ってたの?」
「いいことアルビ、うちでは何もひどいことなんか起こってないわ。酔っ払いなんて、どこにだっているじゃないの」
「他の連中のことなんかどうだっていい!僕だって困ってる!クラスじゃよそもの扱いで、まともな服なんか一着もなくて、全部古着ばっかり。他のみんなは自転車もパソコンもテレビゲームもカセットフォンもCDも持ってるのに、うちにあるのは詰まった洗面台みたいなマグネトフォンで、それだってしょっちゅうテープが絡まってるじゃないか。何でこんな暮らししなきゃいけないの?」
[訳註;「古着」は原文では“rroba GABI”。“GABI”は中古品の露店を指す俗語。アルバニア語のカセットフォンkasetofonは日本で言うラジカセ、マグネトフォンmagne- tofonはオープンリール式のテープレコーダを指す]
 メリは返す言葉がなかった。震えるような不安に襲われながら、彼女は口を開いた。
「うちだけがこうじゃないのよ。生活が苦しい家なんてどこにでもある。食べるパンにもこと欠く家だってあるのよ。わかるでしょ?」
「他の連中のことなんかどうだっていいって言ったじゃないか!」そう叫んでアルビは、涙を手の甲で拭った。
 メリは何とか話題を変えようとした。
「それで、エルリンダだけど・・・もう、あなたを避けるようになってる?」
「ううん。エルリンダはとっても優しい子だよ。自分で持って来たパンまで僕に分けてくれるんだ。おごってくれることだってある。でも僕は何をあげればいいの?カボチャ?それともヒマワリ?」
「私だって、シドにおごってもらう時は、申し訳ないと思ってるわ」
「別にいいじゃないかそんなの!でも今夜は本当に恥をかいちゃったよ。で、シドだけど、もう、メリを避けるようになってるの?」
「ないわ、今のところは」
「ねえメリ、一つ訊いていい?」
「どうぞ」
「メリはシドのこと、どう思ってるの?」
「そんなのわかってるじゃない。親友よ」
「それだけ?」
「それだけ」
「じゃあ親友の先はどうなるの?」
「アルビはそんなこと考えなくていいの。私もだけど」
「でも、もしシドが他の女子と仲良くし出したらメリはどんな気持ちになる?」
 メリはやれやれといった風に首を振った。
「彼はただの友達よ、他のクラスメートと同じようにね」
「もしエルリンダが僕の隣に座ってくれなくなったら、僕、学校に行くのやめるよ」
「どうして?」
「だって僕なんてつまんないヤツだからさ。飲んだくれの息子だし」
「アルビ、そんな風に考えちゃいけないわ」
 アルビは途切れ途切れのため息をついた。
「きっとこれから、ずっとこんな風なんだ・・・」
「そんなことないわ、そんなことは・・・」
「違う!メリは僕をごまかそうとしてるじゃないか。僕はもう小さい子どもじゃないのに」
「わかったわ。わかったから、本を拾いなさい」
「まだこんなくだらないものを読めっていうの?メリ、僕はもう勉強なんかたくさんだって言ったじゃないか」
「だったら、ノラにアルファベットを教えてあげてくれない?」
「自分の勉強だってしたくないのに、妹の面倒を見ろっていうの?」
 妹のノラは、厚手の敷布を二枚重ねた椅子の上に座り、テーブルの上に両手を載せて休むような姿勢をとっていた。文字を書いている方の腕に頭を寄せていて、身体もそちらに傾いている。メリは仕方なく国語の教科書を読むのを止めて、ノラの隣に座った。アルビは立ち上がると居間から出て行ったが、15分ほどすると戻ってきて、テレビをつけた。
「パパはどうしてる?」メリが訊ねると
「見てないけど」とアルビはそっけなく答えた。
「ちょっと、見てきてちょうだい」
「嫌だよ!こんなめちゃくちゃな家のことなんか僕が知るもんか」
「そんな言い方、二度と聞きたくないわアルビ!あなたのお父さんでしょ」
 するとアルビはまた泣き出した。
「どうしてあんなお酒なんか飲むんだよ、どうしてだよ?」
「どうしてって、わからないの?」そう言うメリの目にも涙が溢れていた。
「パパはもう、ママが生きてた頃みたいに僕らのことを好きにはなってくれないんじゃないかな」
「馬鹿なこと言うんじゃないの!パパは変わらないわよ、これからもずっと。お祖母ちゃんだってそう言ってたもの」
 メリとアルビは涙に濡れた目で、互いの顔を見合った。

6
 家の外では、玄関のコンクリート上に降る雨が不機嫌そうに、11月の風で散った落ち葉の残りに絡みついている。メリは顔を上げ、ぼんやりと空を見た。家の中と外を三往復して、時計を見るともう5時を過ぎていた。外はすっかり暗くなっている。その夜はシドの誕生パーティーで、クラスメートたちと4時に学校の近くで落ち合うことになっていた。電話のベルが三度鳴った。
「メリ、今どこ?」シドの家からクラスメートの女子がかけてきた。
「ええ、もう行くわ。ちょっと遅れそうなの、妹の具合が悪くて」とメリは答えた。
 どうもノラはインフルエンザにかかっているらしかった。高熱が出て、うんうん唸っていた。メリは妹にアスピリンを半錠と、お茶を飲ませてやった。だがまたヴェランダに出なければならなかった。メリは腹を立てていた。その夜はアルビも帰ってきていなかったからだ。昼食の後、どこへとも告げずにぷいと出ていってしまった。
 メリは出かける支度をすることにした。何を着ていくか、あれこれ考えることはなかった。どうせ自分は学校に行く時と同じ格好で来るだろうと思われているのだ。彼女はバスケ用のソックス一足を丁寧に紙で包んだ。これを買うために、ボール箱に硬貨を一枚一枚入れて貯金したのだ。ソックスの一本には、「ナンバーワンになる魔法のソックス」と書いたメモ用紙が入れてあった。
 やっとアルビが帰ってきた。
「アルビ、あなた今までどこにいたの?」メリは厳しい口調で問い詰めた。
 アルビは、自分が責められるのは心外だと言わんばかりに、不満そうな表情をしたまま
「友達のところ」とそっけなく答えた。
「こんなに遅くまで?」
「そっちこそ、こんな遅くにどこ行くのさ?」
「いいこと、そんなに遅くならないから。シドの誕生日で・・・みんな待ってるのよ。ノラの面倒を見てあげて。あの子、具合が悪いの。パパは・・・まだ帰ってこないし」
「嫌だよ、僕だけここに残るなんて」
「どうして?」
「またパパが酔って帰ってきたらどうするの?僕怖いよ」
「お願いよアルビ!」
 メリはうんざりした風で右往左往し始めた。
「わかったよ、行きなよ」少ししてアルビが言った。「でも、早く帰ってきてよ」
 メリは傘を手に、雨の中を駆けていった。パーティーが行われている家に着いた時にはびしょ濡れで、靴もズボンも泥だらけだった。中ではみんながダンスに興じていたが、メリに気付くと立ち止まり、声を合わせて呼びかけ出した。
「メリユル!メリユル!」
 シドはにっこりして顔を赤らめた。メリはシドに近付くと手を握ってお祝いの言葉を述べ、それからプレゼントをそばに置いた。ふと気付くと、彼は少しだけ神経質そうにしていた。
「来てくれないんじゃないかと思ったよ」シドはほっとした口調で言った。
「ちょっとだけでも思って来たの。シドのためだもの」
「何だか大変そうだね、やっぱりノラは・・・」
「ええ、まだ熱があるの。それにパパもまだ帰ってきてないし。それにね、シド、悪いけど私、ダンスはダメなの」
「いいよ。君が来てくれただけで何よりさ」
 メリは腰を下ろしたが、その時、担任の教師がソファでシドの母親と話しているのが目に入った。メリが会釈すると、向こうの二人も微笑んだ。その二人のそばに、きれいな感じの女の子が座っていた。髪を頭の上で丸く束ねていて、みんなの視線を釘付けにするような美しいスカートを履いていた。メリは少し考えていたが、すぐにその女の子が誰だったか思い出した。シドのお隣さんで、メリがシドと一緒にいた時、一度その子と会ったことがある。ピアノの勉強をしている子で、アナという名前だった。
 男子の一人にダンスに誘われると、アナは優雅な身のこなしで立ち上がった。その家の婦人が、お菓子を盛ったお盆を持ってきてくれたので、メリはマカロンを一つ手に取り
「シドが百歳長生きしますように」と言った。[訳註;誕生日を迎えた人への祝い文句]
 ふと気付くと、シドの母エロナ・アルバナがこちらをじっと見つめていた。
「メリ、元気にしてた?学校はどう?」エロナはメリに問いかけた。
「ええ、エロナおばさん、大丈夫ですよ」
「おうちの方は?お父さんは?」
 メリはとっさに嘘をついた。顔が赤らむのを隠しながら
「まあ大体は・・・大丈夫です」とつぶやいた。
 エロナはにっこり笑うと、また担任のところへ戻っていった。
 クラスメートたちはダンスを続けながら、笑ったり、声を上げたりしていた。シドがメリの隣に座った。そこでメリは、自分の前から人がいなくなっていることに初めて気がついた。パーティーという気分になれなかった。もうずっとダンスもせず、気の利いたことも言えないでいた。家の塀の向こうにはまるで違う生活があることを、彼女は思い知らされた。そしてそんな生活を楽しむ星の下に生まれた人たちがいる。こんな人たちは、不安で眠れないことなど一度もない。どうして自分だけがこんな思いをしなければいけないのか。メリはそんなことを考えた。
 パーティーが最高の盛り上がりに達した時、急に音楽が鳴りやんだ。みんなが顔を上げて振り向くと、クラスで一番活発で冗談好きなドニェト・ブラヒャが、CDプレーヤーのコードを手に持ってぶんぶん振り回していた。
「どういうことなのこれは!」ドニェトは、みんながよく知っている人物の声真似で喋った。「まるでアメリカだわ。私たちの時代には模範的な生徒でしたからね。これじゃ踊れないわ。どうして踊ったらいいかもわからないわ」
 みんなが笑い出し、そこでひと休みということになった。するとドニェトが急に静かになり、真面目な顔でこう切り出した。
「髭の生えてない黒のウサギがだね、このシドみたいに14歳になると、どうなるかわかるかい?」
 初めは笑いが起こったが、ほとんどの参加者がドニェトの問いかけが真面目なものであることに気付くと、誰もが、そんなウサギはどうなるのかと考え込んだ。結局、「色が変わる」とか「メガネをかける」とか「おじいさんになる」とか「難民になってイタリアに行く」とか「マフィアに入る」とか「髭が生える」とか、変な答えしか出てこなかったが、ドニェトはそれ見たことかという風に首を振るだけだった。
「違う違う、違うなあ」
「こいつ、教えなさいよ、どうなるのよそのウサギは!もう我慢できないわよ」女子の一人が声を上げた。
 ドニェトは笑いをこらえて一同を見回すと、こう言った。
「どいつもこいつもものを知らないねえ!黒だの赤だの白だの、まして14歳まで生きるウサギなんて、この世にいるもんかい」
 会場は再びの笑いに包まれた。
 メリは壁にかかっている大きな時計に目をやった。『もう帰らないと』そう思った。ところがその直後、食いしん坊な連中が「ケーキ、ケーキ」と叫び出したものだから、ケーキのお披露目会が始まってしまった。ロウソクを立てたケーキが出てきて「ハッピー・バースデー・トゥー・ユー」の歌が聞こえてくると、メリは『もう少し、ここにいようかな』と思った。
 みんなはケーキを囲んだ。まるでお城のような三段もある大きなケーキだった。シドは息を吸い込むと、あっという間にロウソクの火を吹き消した。ドニェトがキッチンから肉を切るような恐ろしげなナイフを持ってきて、ケーキの真ん中に切り込んだ。それを分厚く切り分けて、食べたくてしようがなさそうな連中に配ると、ナイフをその家の婦人に返した。
 メリも立ったまま、小さなケーキのひときれを食べ、それからいとまを告げた。担任の教師が、家まで送ろうかと申し出たが
「ありがとう先生、でもそんなに遠くありませんから」とメリは答えた。
「メリ、何か困ったことがあったら、先生が何とかしてあげるから」担任は名残惜しそうだった。
「その時は、お父さんにも会わせてちょうだい」
「また・・・先生が来てくれると・・・嬉しいんですけど」
「わかったわ。お父さんによろしくね」
 メリは別れの挨拶をすると、シドと一緒に家の外へ出た。シドは階下まで下りて、マンションの入口のところまで送ってくれた。
「ほら、チョコレートとお菓子、持ってきたんだけど」そう言ってシドは、白い紙に包んだ小さな箱をメリに手渡した。「アルビとノラの分だよ」
 メリはお礼を言った。そしてもう立ち去るつもりでいた。マンションの外は雨が降っている。二人は、アスファルトにはじける雨粒をじっと見つめていた。メリはおぼつかない足取りで、歩き出そうとした。すると
「このまま帰るの?」シドがつぶやいた。「僕は今夜、やっと14歳になったのに」
 メリは両手で顔を覆ったまま、シドの方に近付いて
「メガネを取って」と震える声で言った。「目を閉じて」
 シドは右手を上げてメガネを外し、両目を閉じた。メリはやっとのことでつま先立った。シドの両肩に手をやり、相手の方も見ないまま、そっと軽くキスをすると、雨の中へ駆け出した。自分の身体が軽く、何の重さもないように感じられた。唇が熱かった。家の門のところまでたどり着いてようやくメリは我に返った。
 驚いたことに、家の中では父がテレビでニュースを見ていた。テーブルの上には、果物や食べ物の入った袋が置かれていた。アルビとノラはオレンジを食べている。メリは父親に歩み寄ると、肩に手を置いた。
「おや、誕生日はどうだった?」父が訊ねた。
「楽しかったわよ、パパ」
「シドに百歳長生きするようにと伝えてくれよ」
「伝えておくわ。で、パパはどうだったの?」
「今日はうまくいったよ。いい仕事が見つかったんだ」
 メリは嬉しくなって父に抱きついた。
「ノラはどう?」
「だいぶよくなったみたいだよ」
 メリはアルビの方へ行って、お菓子の入った箱を手渡した。
「ノラと分けなさいね」
 メリは家の中をひと回りしてから、10分ほどで夕食の支度を済ませた。しかしテーブルについていたのは父親だけだった。
「お前たちは?」父が訊ねた。
「私はお腹空いてないの。リンゴだけもらうわ」メリは言った。
 アルビとノラは、お菓子でお腹がいっぱいだと言った。アルビはお菓子の箱を包んでいた紙を手でいじっていたが、そのうち笑い出した。メリが不審そうな視線を向けると、アルビはこっちに来いと手招きした。
「このラッピングは姉さん用だよ」そう言って、アルビは包み紙をメリに手渡した。
 メリには、それがシドの書いたものだとわかった。それで廊下に出て紙の裏面を読んだ。
『君は世界一美しい、太陽よりもっと美しい』
それはとても有名な歌のリフレインの部分だった。メリはその紙を頬にあてたまま、しばらくじっとしていた。それから紙を折りたたんで「本当に、何て不思議な夜」とつぶやきながら、それをポケットに入れた。間もなくアルビが廊下に顔を出すと、咳払いしてから
「メリ、大丈夫?」と声をかけてきた。
 メリは弟と目を合わせることができなかった。
「ねえその歌詞、僕に貸してくれない?書き写したいんだけど」
「何でそんなことするの?」
「エルリンダの教科書に書いてあげたいんだ。その太陽がどうとかいうところは書かないよ。でも月じゃ古臭いし、何と比べて美しいって書いたらいいと思う?火星かな?それとも木星?」
 メリは思わず吹き出した。
「アルビ、火星も木星も、地球からは全然見えないのよ」
「だったら何だろう?でも・・・いやちょっと待ってよ・・・そうだ、これなら他にないぞ。『君は空の星を全部合わせたより美しい』だ!ねえ、すごいでしょ?」
「すごいわ!それは思いつかなかったわね」メリがそう答えると、アルビは満足げな笑みを浮かべた。
「つまり、僕の頭もまんざらじゃないってことだね」
「確かにそうね。さあさあ、学校の勉強でもしましょうよ」
 メリは8年生の歴史の教科書を開いた。そして「オスマン帝国のい支配に対するアルバニア人民の抵抗」の課を三度繰り返して読んだのだが、頭に残ったのはただ、スルタンがイタリアへ向かう前にヒマラ[訳註:イオニア海に面したアルバニア南部の都市]の反乱を鎮圧しに行ったという事項だけだった。それで数学をやることにして、裏命題の問題を解き始めたのだが。頭に浮かぶのはこんな命題ばかりだった。
命題:『もしメリが世界で一番美人なら、シドがそうだと言ってくれるだろう』
裏命題:『もし私が世界で一番美人なら、シドがそうだと言ってくれるだろう』
[訳註:一応説明しておくと、「pならばq」の命題に対して「pでなければqでない」が裏命題]
 それからメリは、明日は先生が次の課に進むと言っていたのを思い出して最初から復習にとりかかろうとしたが、ノラの熱がまたぶり返してきたようなので、教科書を置いてそちらへ行こうとした。すると父が
「心配するな、パパが面倒を見るから。ノラの隣で寝ることにするよ」と言った。
「でも、パパ・・・熱が38度越えたらどうするか、知ってる?」
 すると父は微笑んだ。
「おやお前、お前がずっと小さい頃、病気になった時に面倒を見たのは誰だったと思う?」
「ママでしょ」
「その頃のパパは、ママよりずっと心配性でね。一晩中起きていて、お前が熱で苦しんでぜいぜいいう声をじっと聞いていた。刻一刻、どうなることかと思っていたものさ。ママと一緒にお前の枕元で夜を明かしたことだって、何度もあったよ」
 メリは心が震えるのを感じた。
「わからないわ全然、どうしてママが死ななければいけなかったの。あんな素敵なママが」
「素敵だったとも!」父はつぶやいた。「お前がママのようになってくれればと思うよ」
「私もママみたいになりたいわ、パパ」
「そう言ってくれると嬉しいよ。さあ、もう向こうに行ってお休み」
 メリはその夜のことが信じられなかった。何もかもがいつもと違っていた。その夜起こった出来事の何もかもが、素晴らしいものだった。メリはただ嬉しいと思った。眠れないまま、こんな魔法のような夜はこれきりで、こんな日はもう二度と来ないのではないかという気さえした。

***
 そんなメリの不安は正しかった。父はまたしても仕事を失った。インフルエンザで数日間寝込んでしまったのだ。そして或る晩、生活費をしまっている食器棚の引き出しを開けてみると、案の定そこには硬貨が数枚入っているだけだった。
『これじゃ何もできない』メリは思った。食べるものもほとんどゼロに近い状態だった。
 そんな心配で眠れなくなっていたところに加えて、アルビが小遣いをねだってきた。
「明日いるんだよ」アルビはしょげかえった目つきで言った。「わかるでしょ、パパには頼めないんだよ」
「どうしてもいるの?」メリは訊ねた。
「うん、いるよ」
「アルビ、悪いけど、お金はないの」
「そう言うと思ったよ!お金はない、お金はないってさ!」アルビは声を荒げた。
 メリはどうにか気を落ち着かせたものの、弟に返す言葉は見つからなかった。
 次の日、メリがバルザおばさんの店へビュレクを分けてもらおうと出かけてみると
「さあさあ入って。あなたに話したいことがあったの」とバルザおばさんが言った。
 それでメリがビュレクを焼くキッチンに入っていくと
「あなた、この仕事のこと、どう思う?」とバルザおばさんに訊ねられた。
「立派な仕事よ」
「じゃあ、もしよかったら、おばさんと一緒に1日2時間か3時間ぐらい、ここで働かない?少しだけど、お給料も出してあげられるわよ」
 メリは肩をすくめた。
「でも、私・・・どうしよう」
「すごく簡単なことよ。考えてみてね」
「いいわ、ありがとうバルザおばさん!」
「いいのよお礼なんて。そうねえ、あなた6時に起きられる?朝は人手が足りないの。仕事の後なら学校へも行けるし。時間がある時でいいけど」
「じゃあ明日から、お願いします」メリは元気よく答えた。
 その夜メリは、長いこと使っていなかった古い目覚まし時計を探し回って、引き出しの奥にあるのを引っ張り出してきた。時計も、目覚ましのベルもちゃんと動いている。メリは目覚ましを6時10分前にセットすると、それを枕元に置いた。
「そんな恐竜時代の遺物をどうするの?」アルビが不機嫌そうに訊ねた。
「早起きしなきゃいけないのよ」メリは答えた。
「どうして?」
「授業の復習をするの」
「じゃあ耳栓でもするかな」
「心配しなくたって、あなたは起きないでしょ」
 メリは、早朝の仕事のことは父にも弟にも話さないことにした。次の日、ベルがけたたましく鳴るとメリは慌てて飛び起き、手を伸ばしてベルを止めた。音が鳴りやむ。メリは目をこする。まだ両のまぶたが重く感じられたが、彼女はぐずぐずせずベッドから出た。服を着替え、顔を洗い、物音をたてずにそっと家を出た。
 バルザおばさんがにこにこしながら出迎えてくれた。彼女はメリに長いエプロンを渡すと、大きなテーブルの上に幾つか載せてある生地の固まりを指差して言った。
「じゃあ、これを平たく伸ばしてちょうだい。他のはおばさんがやるわ」
 メリは指先に打ち粉をつけてテーブルに向かうと、生地を自分の前に置き、それを小さく、薄く伸ばしていった。生地に上から力をかけ、四方へと伸ばしていく。
「生地がダメにならないうちに、素早く伸ばすのよ」バルザおばさんが声をかけた。
 メリは両手にさらに力を入れた。生地がだんだん薄く広がっていく。バルザおばさんは四本の指でその伸ばした生地を取ると、バターを塗り、チーズを詰め、ほんの数秒で三角形に折りたたむと「はい次!」とメリに告げた。
[訳註:「チーズ」の原語gjizëは羊乳から作られる、塩味の強いカッテージチーズ]
 メリは全身を使って仕事に打ち込んだ。そうして生地に向かっているうちに7時になった。バルザおばさんが声をかけた。
「もういいわよ。家に戻りなさい、みんな待ってるでしょう。ビュレクも少し持っていっていいからね。うちのまかないよ」
 メリは礼を言って微笑んだ。
「それで、午後も頼めるかしら?大丈夫よね」バルザおばさんが訊ねた。
「よろしくお願いします」
 メリは家に戻ると、アルビとノラをゆすぶって起こした。庭の方で父が咳をするのが聞こえた。朝の一服をしているに違いない。
「パパ、おみやげよ」メリは父に声をかけると、ビュレクを一つ皿に載せて差し出した。
「こんなおいしそうなビュレク、どうしたんだ?」父が訊ねた。
「バルザおばさんのところでね」
「ああ、バルザか」と父はほんの少し戸惑った風で言った。「俺みたいなヤツはバチが当たるなあ。あの奥さんか。まあ、有難いが・・・」

7
 アルビは不安な面持ちで学校へ入っていった。1時間目は数学だ。教師に指名されるに決まっている。どうしよう。校舎の入口まで近付いたところでアルビはくるりと向きを変え、バスケのコートがある方へ歩いていった。すると意外にも、そこにはフランチェスク・ドダがいた。クラスメートの男子だが、1時間目から来ているようなことは滅多になかった。ジーンズにウィンドブレーカーを着込み、坊主頭に毛織りの帽子をかぶって、カボチャの種をくちゃくちゃ噛んでいた。右手に新聞紙でくるんだ包みを抱えている。彼が学校にカバンを提げて来ることも滅多になかった。
 彼の目はいつも充血していて、眠そうだった。帽子を取ると、坊主頭に何本もの筋が走っているのが見えた。石が当たって切れたかどこかに落ちたか、少なくとも6回はやられてできたものだという話だ。帽子の下にのぞくフランチェスクの表情は、猜疑心に満ちた、誰のことも信用しない人間のそれだった。
「やあケコ[訳註:フランチェスクの愛称]、昨日はどうしてたの?」アルビは声をかけた。
 フランチェスクはにやにや笑いながら、口からカボチャの種の皮をぷっと吹き出した。
「ちょっと抜け出さないか?」
「どこへ行くのさ?」
「ちょっと売りたいものがあるのさ。うまくいけば、お前さんにも分け前をやるよ。なあ、どうだい?」
 アルビはぶるっと震えた。その日まで、彼が授業をさぼったことなど滅多になかったのだ。
「お前も来いよ、学校なんていつでもやってるだろう!」ケコが言った。
 アルビは校舎の入口の方をちらりと見てから、ケコにうなづいてみせた。それから二人して校舎の裏にまわり、塀を乗り越えた。路地に出ると
「パザーリ・イ・リへ行こう」とケコが言った
[訳註:原語Pazari i Riは「新しい市場」の意味で、ティラナ中心のアヴニ・ルステミ広場(Sheshi Avni Rustemi)にある。実際に食料品の露店が並んでいる]
 アルビはカバンを肩にかけて、ケコが売ろうとしているものが何なのか、あれこれ考えていた。フランチェスク・ドダのことはほとんど何も知らなかった。彼は留年していた。昨年、何ヶ月もギリシアに行っていて、そのため落第してしまったのだ。ケコが向こうで何をしていたのか、それを知る者は誰もいなかった。ケコは背が高かった。子だくさんの家の息子だったが、父親は半身不随だった。不幸なことに、事故に遭って車椅子の生活になってしまったのだ。
 ケコがアルビのクラスに入ってきたばかりの時、二人はすんでのところで殴り合いになりかけて体育教師に止められた。喧嘩の原因は、1枚の紙切使ったゲームだった。ケコがバナナの箱の上で考えついたそのゲームの名は「印のついた紙を見つけよう」だった。その一件でケコは学校で恐れられる存在になってしまった。ゲームに加わろうとした男子生徒から多額の金を巻き上げたのである。何もかもイカサマだった。最初にケコが印のついた紙を見せ、それをバナナの箱に置くふりをしながら、こっそり腋の下に隠し、別の紙とすりかえる。一方、ケコの仲間にはレディ・グンガとサイミル・モラがいた。二人とも頭を剃り上げていたが、この二人が利口な男子役を演じていて、時折ケコに勝つようになっていた。要するに、他の男子生徒らをゲームにのめりこませるためのサクラだったのだ。
 ところが或る日、アルビが立て続けにすったところでそのイカサマに気付いた。
「このイカサマ野郎!」彼はケコに向かって叫ぶとバナナの箱を蹴りつけた。いきなりネタをばらされてカッとなったケコはアルビの首筋に飛びかかろうとした。ところが、アルビがまるで怖気づいていないことに気付くと、こう声をかけてアルビに近付いたのだ。
「おい、お前、なかなか度胸があるじゃないか。俺と仲間になれよ。お前から取った金は返すからさ。それと、おわびに何かおごるぜ」
 アルビはポケットに手を突っ込んだまま身体をゆすっていたが、取られた金は受け取った。ただしおごられるのは断った。その日以来、ケコはそのゲームから手を引いたのだ・・・
 パザーリ・イ・リへ着くと、ケコはカボチャの種をクチャクチャさせるのをピタリと止めた。新聞紙でくるんだ包みを開けると、アルビの目の前に電池式ラジオが姿を現した。「ソニー」製の、ごく最近のものだった。
「さて、これを売るんだ」ケコが言った。
「こんなのどこで見つけてきたのさ?」アルビが訊ねると
「夏に、ギリシアに行った時にね」
 アルビはそのラジオにいささか疑いの目を向けたが、それ以上ケコに訊ねることはなかった。二人は、一軒の屋台で果物を売っている男の方へ歩いていった。
「おじさん、いいラジオがあるんだけど、幾らで買ってくれる?」ケコが声をかけた。
 男は、これといって興味もなさそうに、二人をちらりと見た。そして
「うちには関係ないよ」と答えた。
「でもおじさん、日本製だよ!」ケコはなおも食い下がった。
「カナダ製でもないよ!」
 ケコは口の中でぶつぶつ悪態をついていたが、今度は、積み上げたレタスに水をかけている若い男の方へ向かった。男は仕事の手を休めると、ラジオを手に取り、スイッチを入れてみた。だが、とんでもない値段を口にしたので、ケコは怒りをあらわにした。
「おい、まさかこれ、盗んできたんじゃあるまいな」レタス売りの男が言った。
「そんなのどうでもいいじゃないか」ケコは言い返した。
 自分ではうまくいきそうにないとわかると、ケコはラジオをアルビの手に持たせて
「やってみろよアルビ、何とかできるだろう!」と怒ったような口調で言った。
 アルビは自信のないまま、オリーヴ売りに、さらに何人かにもあたってみたが、ことごとく徒労に終わった。ところがケコにラジオを返そうとしたその時、果物を売っていた婦人に呼び止められた。
 アルビが近付いていくと
「こんないいラジオ、どこで見つけてきたの?」と彼女は、口元に笑みを浮かべ訊ねた。
「悪いけどおばさん、家にあったものなんだ。うちはパンを買うお金がないから、このラジオを売るの」とアルビは答えた。
 値段を訊ねてきたので旧レクで1万だと答えると、彼女は口をぎゅっとへの字に結び
「8000レクならいいわ」と言った。
 アルビがケコの方を見ると、ケコは「売れよ」と辛抱しきれなくなったように首を振った。金を受け取ったアルビは顔を赤らめ「おばさん、ありがとう」と言ってその場を離れた。
「よくやった!」ケコはアルビに背をむけたまま言った。「2000レクとっとけよ。それだけあれば十分だろう」
 アルビは受け取るのを断ろうとしたが、ケコは譲らなかった。
「なあ、俺たちは似たもの同士じゃないか。お前にはお袋がいないし、俺の親父だっていないようなもんさ。俺たちは同じ悩みを抱えてるんだ。お前が困った時は、このケコが放っておかないぜ」
 アルビはケコの言葉に感動した。それで、2000レク分の紙幣をポケットに入れると、まるで宝が入ってでもいるようにそっと撫でた。ケコがずっと近い存在になったような気がした。
 学校に戻ってくると、レディ・グンガとサイミル・モラがいた。二人は別のクラスだったが、いつもケコとつるんでいた。剃り上げた頭と、成績の悪いことから、或る時、一人の女性教師が三人まとめて「ゼロの三乗」と呼んだことをきっかけに、生徒全員がそのあだ名で三人を笑いものにしようとしたことがあった。ところが当のゼロたちはというと、それで気後れするどころか、にやにやしながら、スキンヘッドはアメリカのラップ歌手たちがやっている、こういうヘアスタイルが流行だってことを証明しているのさ、と言うのだった。
「ようケコ、どこに雲隠れしてたんだい?」レディがケコに声をかけた。
「ああ、アルビとひと仕事かたづけてきたのさ」
「その様子だと、うまくいったみたいだな」サイミルが、両手をこすり合わせながら言った。「なあハンバーガーでもやりにいかないか?」
「何だ、ハラ減ってんのか?」ケコはにやりとした。「まあいいや。構わないさ。アルビも来いよ、俺がおごるからさ」
 アルビは断ろうとしたが、ケコに腕をつかまれた。それで四人して学校の近くの、ハンバーガーやサンドウィッチを売っている店へ行った。この「ゼロの三乗」たちはハンバーガーに目がなかった。いつ見ても、この「ゼロの三乗」たちが校内を歩く時は、口の周りをソースやマスタードだらけにして、何かモグモグやっているのだった。三人とも家計が苦しいことはわかっているのに、そんな無駄遣いするようなお金が一体どこから出てくるのかという問いに答えられる者はいなかった。
 レディは小さい頃、両親に捨てられた。両親は離婚し、仕事を求めて二人とも海外へ行ってしまったのだ。レディは孤児院で数年を過ごしたが、その間に二度も脱走した。今は父方の祖母のところで暮らしているが、祖母が受け取る年金では、一人分の暮らしがやっとだった。レディは顔も身体も痩せ細り、ひどく寒そうにしていた。あの剃り上げた頭も、自分自身を痛めつけているようなものらしいが、そんな彼は、ケコのためなら自分を犠牲にすることも厭わなかった。それほどケコには頼りにされていたのだ。
 一方、サイミルは数年前から継母の家で暮らしていた。実母はサイミルがずっと小さい頃に離婚して、別の男性と結婚してしまったのだ。最初の頃、サイミルには実母の結婚の意味が理解できなかった。成長して初めて継母と自分の本当の関係を知った彼は、継母とうまくいかなくなった。サイミルは動きがすばしっこく、特にサッカーにはうってつけの人材だった。頭が角張っていて、顎に伸ばした髭の間からうっすらと傷跡がのぞいている。聞いた話では、ケコとの乱闘でついた傷だということが、それが縁でサイミルはケコと親友になったらしい・・・
 ケコたち四人はハンバーガーを片手に、再び学校へ戻ってきた。アルビは大口を開けてハンバーガーをぱくついていた。朝食べたビュレクはとっくに消化されていて、胃の中がすっかり空っぽな感じだった。それに、ハンバーガーのうまそうな匂いには抗しきれなかった。アルビも、ハンバーガーを食べることなどほとんど縁がない子供の一人だった。彼にはそれがこの世で最も不当なことのように思われた。
『一日に一個ハンバーガー食べるぐらい、ダメなわけないじゃないか』アルビはそう自分に言い聞かせた。
 校舎に入ると、7年生のクラスで体育の授業をやっていた。女子生徒たちがバスケのコートの周りをランニングしていた。その中に一人、ショートカットで小太りな女子が、自分の足取りに格別注意を払いながら走っていた。ケコたちはそれを目で追っていたが
「おうい、お隣さんのリンカじゃないか!」ケコがその女子に声をかけた。「よう、調子はどうだいカップアイス?」
 しかしリンカと呼ばれた女子は聞こえないふりをしていた。
「やあいダブルハンバーガー!」ケコはなおも声をかけていた。
 何人かの女子がくすくす笑い出したが、リンカはケコたちの方を向こうとはしなかった。するとケコは、今度は口笛を吹き出した。まるで古くなった蒸気機関車のようにピューと口笛を鳴らすと、ケコはこう叫んだ。
「やあいリンカ、耳クソ掘ってやろうか!」
 それでケコたちは爆笑した。リンカはやっとのことでケコに向き直り、怒った口調でこう言った。
「ケコ、悪いけどあんたはやっぱりゼロね、頭の中も外も」
 そこへ体育教師がピリピリと笛を鳴らして、男子は来るなと言ったので、ケコたちは慌ててその場を離れたが、その直後、2時間目の終業ベルが鳴った。アルビは教室へ駆け込むと急いでカバンを開け、隣の席のエルリンダに
「ねえエリ、国語の宿題ちょっと写させてよ」と頼みかけた。エルリンダはノートを開いて差し出したが、ふと
「さっきの1時間目と2時間目、どこに行ってたの?」と訊いてきた。
「ちょっとお祖母ちゃんの家に用があって」アルビは嘘をついた。
 するとエリは不審げに首を振って
「アルビ、あなた・・・この頃ヘンじゃない?」
「え?」
「あなた変わったわ、すっかり。前は私があなたの宿題を写させてもらってたのに、今は・・・」
 アルビは気付かないふりをした。
「嘘つかないで。私、窓から見てたのよ。あなたが朝からケコと一緒に出て行くところ」エルリンダは苛立った声で言った
 アルビはびくっとして顔を上げた。
「ごめんよ、エリ。もう嘘なんかつかないよ。わかってるさ、嘘なんて僕の性に合わないんだ」
 アルビがようやく宿題を写し終えた時、教師が教室に入ってきた。するとアルビは、エルリンダが気付かないうちに彼女のノートを自分の前に持ってきて、宿題が書かれているページの最後に、大急ぎで何かの文を書き込んだ。そしてそのノートを閉じ、彼女の席に戻した。
 国語の教師は宿題のノートをチェックしていったが、アルビとエルリンダの席では他よりも長く立ち止まっていた。何が起きたのかエルリンダがのみ込めないでいると、教師はエルリンダのノートを手に取り、そして声を上げて読み出した。
「『君は空の星を全部合わせたより美しい』。まあ面白いわね!この文章を書いたのは誰?」
 教室中が、アルビとエルリンダのいる席に注目した。エルリンダはわけがわからず、唖然としてその様子を見ていた。
「アルビ、この文はどういうことかしら?」国語教師が訊ねた。
「比較級の文です、先生。最上級です」アルビは答えた。[訳註:原文は実際に比較級で書かれている]
 教室に笑いが起こった。
「よく出来ました、アルビ。あなたも新しい比較級の文型を理解したわね」国語教師は言った。
 ノートを返してもらって初めて、エルリンダはそこに何が書いてあるか見ることができた。そのクラスメートの字には見憶えがあった。彼女は顔を赤らめながらつぶやいた。
「アルビ、あなたそんなこと思ってたの」
アルビはただ微笑むだけだった。だが、その日の彼女のユーモアも長くはもたなかった。最後の地理の授業でアルビは4点を取ってしまったのだ。地理の教師から「今年のあなたは、前に比べると余り成績がよくないわね」と言われたアルビは、エルリンダの『あなた変わったわ、すっかり』という言葉を思い出しながら、首うなだれて教室を後にした。
 それでも、校舎の外に足を運ぶと、アルビはそんなことをきれいさっぱり忘れてしまった。ちょうど、男子たちが7年生のクラスとサッカーの試合を始めようとしているところだったのだ。ケコがメンバー選びをしているので、高額な賭けのかかった試合だということはすぐにわかった。ケコが賭けもせずにスポーツをすることなど、決してないのだ。或る時など、教師がどちらの足で入ってくるかでクラスの男子の一人と賭けをしていたほどだった。
 試合に加わりたい男子は大勢いたが、ケコは容赦なく激しい言葉を浴びせた。
「うちのチームに『哺乳瓶』なんかいらないぞ。うちに入れるのは、荒っぽいプレーもキックも怖くないヤツだけさ」
 彼に言わせれば『哺乳瓶』とは、母親によって清潔に育てられ、きれいな服を着せてもらい、いつも10点満点を取り、汚い言葉など使わない、そういう男子のことだった。ケコには、そういう部類の連中が鼻持ちならなかったのだ。
「じゃあ、僕は入れるか?」と言ったのはアルマンド・ホヂャだった。クラスメートの一人だが、服装はいつも真面目そのもので、シャツの襟のボタンを首まで留め、靴もおそろしく丁寧に磨いてあった。ケコはそんなアルマンドを横目でじろりと見てから、こう答えた。
「失せろ、このスープ野郎!とっとと帰ってママに人参のスープでも作ってもらったらどうだ」
 アルマンドは顔をしかめて立ち去った。
 アルビはクラスでそれほどサッカーがうまいわけではなかったのだが、気付くとチームに入っていた。どういうわけか、プレー参加を認められたのだ。この試合、最後は乱闘で終わるだろうということが、アルビにはよくわかっていた。そしてその予測は間違っていなかった。相手チームがゴールは無効だと抗議の声を上げようとすると、ケコは腕力で問題を解決することにしたのだ。アルビもそれに加勢しないわけにはいかなかった。もし午後の授業の副担任が割り込んでこなければ、果たしてこの乱闘はどう決着していたのか、誰にも見当がつかなかった。副担任は、みんなに校舎から離れてやるようにと言いつけた。
 アルビが汚れた服を洗っているところにメリがやってきた。
「アルビったら、一体どこに行ってたの?」メリは咎めるように訊ねた。「うちに帰らないの?」
 アルビはケコたちを前にして、自分の姉のそんな表情を鬱陶しいと感じた。
「おい相棒よ、お前んちもスープが冷めちまうのかい?」ケコが嘲笑うような口調で言った。
 他の男子たちも笑った、アルビはメリに、向こうに行ってくれと手で合図した。メリは弟をじっと見つめていたが、その場から少しだけ離れた。
「おいアルビ、お前も試合の一員だぜ」そう言ってケコは、試合で得た金を差し出した。
「ほら、みんなお前のことをお待ちかねじゃないか。お前の都合のいい時に、俺んちの近所で会おうぜ。今日はどうだい、金曜日だしさ。こんな学校、週に5日もあればもう結構だろ」
 アルビは金をポケットに突っ込むと、他の男子たちに声をかけてその場を後にした。
「ちょっとメリ、何であんなこと言うのさ?」メリの方へ近付いていくや、アルビは不満げに鼻を鳴らした「サッカーしようって気が失せるじゃないか!」
「サッカーやってるなんて、思わなかったんだもの」メリが不安げにいった。「心配になって、来てみたのよ」
「わかったよ、もういいよ」アルビは仲直りするような口調で答えた。
 家に戻ると、アルビはポケットからその日稼いだ金を取り出し、目を見張った。こんな金額を手にするのは初めてだったからだ。
「こんなお金、手に入れるなんて無理だし、どんなに大変なことだろう」アルビはそう思った。

***
 次の日の朝、授業を片付けてから、アルビはアルティン・バルジの家にちょっと遊びにいくことにした。同級生のアルティンはパソコンと、それにものすごくいろいろなゲームソフトを持っていて、家はすぐ近所だった。昔からの馴染み同士だったので、アルビはノックもせずにアルティンの家のドアを押した。ところが、玄関のところで出くわしたアルティンの父は、すぐさま難しい表情をすると
「うん?」と声を上げた。
 アルビはその態度に意表をつかれながら
「ちょっとアルティンに用があって」と言った。
「悪いが、アルティンはとても忙しいんだ」アルティンの父はアルビと目を合わせないまま言葉を返した。「邪魔をしないでもらえると、助かるんだが」
 アルビは踵を返してアルティンの家を出た。とても自分自身を抑えきれなかった。
「どうしたの?」メリが問いかけた。
 アルビは、友達の家で受けた素晴らしい歓待ぶりを語って聞かせた。それで、メリも唇をぎゅっと噛み締めた。
「みんな、僕らが来ると門を閉めてしまうみたいなんだ」アルビが言った。
 弟のそんな言葉が、メリの胸に突き刺さった。多かれ少なかれ似たような出来事が、メリとクラウデタの間にも起こっていたのだ。彼女はメリと同じ通りに住んでいた。メリが電話をかけて、うちで数学の宿題を一緒にしないかと誘ったところ、最初オーケーしてくれたクラウデタは、後になってこう言ったのだ。
「ごめんねメリ、ママが外出しちゃダメだって」
メリはわけがわからないまま受話器を置いた・・・
「もうそんなの気にしないの」メリはどうにか弟をなだめようとした。「アルティンのお父さんだって、よその人が家に入ってくるのは嫌なのよ」
 だがアルビはメリの言葉に納得しなかった。
「何でだよ!今までは嫌じゃなかったのに、何でなんだよ?」
「もうわかったから、本でも読みなさいよ」メリは話題を変えようとして、そう言った。
 しかしアルビは本など読む気になれなかった。ケコのことと、彼に近所で会わないかと誘われたことを思い出した。急いで行くのは、何だかケコに媚びているような気がした。サイミルやレディのことは、何故だか頭に思い浮かばなかった。あの二人のことをアルビはよく知らなかったのだ。他にどうしたらいいのかわからなかったので、アルビは祖母のところへ行くことにした。
 日曜日はもっと憂鬱に感じられた。ケコのところへ行きたいというジリジリした気持ちは、一層激しくなった。その辺をぶらぶらしてくるとメリに言いおいて、アルビは家を出た。学校の近くまでやってきたが、そこで遊んでいるのは小さな子供たちがほんの数人だけだった。わけがわからぬままに、自分が避けて通りたいと思う方向へと足が動いていく。ケコはレディと一緒にいて、古ぼけた自転車でぐるぐると輪を描いていた。程無くサイミルもやってきた。
 ケコは壁に自転車を立て掛けて
「今日はどうする?」と言った。
「懐具合がひどくてさ。なんにも残ってないよ」レディが言った。
「そうだ!」サイミルが声を上げた。「教会へ行こうよ。シスター・ドナータに、何とぞお助けをってお願いするってのはどうだ」
 レディは上機嫌で、サイミルの頭を平手でぴしゃりとやった。
「サイミル、この野郎め、まったくお前って奴はさえてるぜ!」
「レディ、古着を手に入れて来い」ケコが言った。
 アルビは何が何だかわからないまま、それを眺めていた。
「お前も来いよ、先立つものがなきゃ始まらないだろ」
 程無くレディが、ぼろきれの束を抱えて戻ってきた。「ゼロの三乗」たちは笑いながらそれを分け合うと、自分の分を小脇に抱えて歩き出した。アルビもそのあとを着いていくと、15分ほどで古いカトリック教会に着いた。教会の近くには数名の修道女が住んでいて、彼女たちの家の門の前には年配の女たちと、杖をついた男が一人、列を作って立っていた。
[訳註:アルバニアは社会主義時代に宗教活動が全面禁止されていたが、1990年末に信仰の自由が回復された]
 ケコとサイミルとレディは物陰に隠れて服を着替えた。靴も脱ぎ捨てた。それから生気を失ったような顔つきになると、修道女たちの家の門へ近付き、寒さで身を震わせながら、列に加わった。ケコはアルビに、近くにいろと目配せした。
 門のところに、痩せた年配の修道女が姿をあらわした。そして、列に並んでいる人たちに食べ物の包みを配り始めた。「ゼロの三乗」たちがぼろ服姿で背中を丸め震えていると、声をかけられた。
「そこのあなたたち、あなたたちも助けが必要なのですか?」
「はい、シスター・ドナータ」レディが返事をした。
「それでご両親は、あなたたちに何と言われたのですか?」
「主とあなたに感謝します、と」
 修道女は、ケコたちに包みを一つ手渡した。
「シスター・ドナータ、まだ連れがいます」そう言ってケコはアルビの方を指さした。「あれは母親に死なれて、父親は失業中なのです」
 修道女は、アルビに手招きした。アルビは感情を昂ぶらせつつ、彼女の前に立った。
「あなた、お母様は早くに亡くなられたの?」シスター・ドナータが問いかけた。
 アルビの頬と口元がかすかに震えた。
「はいシスター、とても早くに死んでしまったんです」
 すると彼女はアルビの髪を撫でた。
「お母様の魂に祝福がありますように!」
 そして食べ物の入った箱を手に取り、アルビに差し出した。アルビは何度も何度も礼を言った。「ゼロの三乗」たちも同じようにした。レディに至っては、シスター・ドナータの掌を取り、うやうやしくキスまでする始末だった。そうして教会から離れると、彼らは服を着替え、靴を履き直した。
「さあ、ティヂャの店に行くぞ!」サイミルが声を上げた。
 ティヂャの店は、食料品を大量に扱っているところだった。「ゼロの三乗」たちは箱の中身を引っ張り出して、それを半分の値で買ってくれないかと店員に持ちかけた。太った婦人は(もちろんそれがティヂャに違いなかったが)その食べ物をまじまじと見つめてから
「ふん、こんなものどこで手に入れてきたの?」と訊ねた。
「イタリアからの援助品さ。わかってるだろ?」ケコが答えた。
 彼女はさほど手間をかけることなく、勘定にとりかかった。そして
「ほら、あんたたちの分だよ」そう言ってカウンターの上に紙幣を数枚放り出した。ケコはそれをつかんでポケットにねじ込んだ。
「あとで分けよう」彼は仲間たちに言った。
 アルビは落ち着かなかった。自分が受け取った包みがどうなるか、見当もつかなかった。家に帰っても、どこでそんなものを手に入れてきたのかメリに言っても信じてもらえないのではないかと不安だった。それに、メリも父も、自分が無断で施しを受けたと知ったら、自分のことを叱るのではないだろうか。そんなことばかり考えていても仕方がない。アルビはケコに、自分の貰った包みも金に換えて欲しいと頼んだ。ティヂャという名の店員はすぐさま応対してくれた。アルビは受け取った金を数えもしなかった。
「すごいぜ、なあ?」そう言ってレディが両掌をすり合わせた。「今日はスフラチ[訳註:羊肉の串焼き。トルコのシシケバブ、ギリシアのスヴラキに相当]にありつけるぞ」
「まったく強烈だな!」ケコが言葉を返した。「俺たちの金だ。缶ビール4本もつけるぞ」
「いや、3本だよ」アルビが言った。
 するとケコがアルビの肩をポンと叩いた。
「『哺乳瓶』は黙ってろよ!缶ビール1本ぐらいどうってことないだろ」
 ケコたちは一軒のレストランに入り、それから道端の陽当たりのよい一画に陣取って、満足そうに飲み食いし始めた。
 「さあ乾杯だ、シスター・ドナータの健康を祝して!」と言ってケコは缶ビールを高く掲げた。
 アルビはビールが喉に詰まりそうだった。ビールは苦い、ひどく苦い味がした。
『気の毒なシスター・ドナータ、何という連中を助けたんだろう』彼は思った。一体このゼロたちは、自分の家のことで頭を悩ましたりしていないのだろうか?自分みたいに、おばあちゃんに不平を言いに行ったりしないのだろうか。
「さて、一服するか」食べ終えたケコがそう言うと、小さな箱を取り出し、レディとサイミルに差し出した。二人は満足げにげっぷをしながら、タバコを1本ずつ取った。アルビは受け取ろうとしなかった。
「吸えよ、ガキじゃないんだし」ケコが言った。
 アルビは急に恥ずかしさを覚えた。周りは煙を吐き出しながら、ほとんど馬鹿にしたような目でこちらを見ている。吸わないわけにはいかなかった。しかしたちまち咳き込んだので、「ゼロの三乗」たちに大笑いされた。アルビは何度かタバコを吸ってみたが、結局その辺りに放り投げた。
「僕はもう帰る」アルビはそう言って立ち上がった。「明日、また学校で」
 するとケコがアルビの方を向いて言った。
「おい相棒、何だか余り楽しくないみたいだな。何か悩みでもあるんじゃないのか?それとも何かもめごとかい?俺たちがついてるぜ」
「いや、何でもないんだ」アルビは答えた。「じゃまた!」
 「ゼロの三乗」たちは、聞こえるか聞こえないかぐらいの声で返事をした。
「ははあ!」レディが声を上げた。「ケコ、あいつは俺たちとはウマが合わないような気がするんだがなあ」
「俺もだ、どうも気に喰わないな」サイミルも加勢した。
「まあ待てよ、しばらく様子を見ようぜ」ケコが言った。「あいつと手を切るぐらい、そんなにホネじゃないしな」
 アルビは、心の中に罪悪感を抱えて帰宅した。ポケットの中で火傷しそうなほど熱くなっている金を一体全体どうしたらいいか、見当もつかなかった。やっとのことで思いついて、そのほとんどを、生活費がとってある食器棚の引き出しに入れておくことにした。もしメリが気付いても、何も知らないふりをしていようと思った。

8
 その年の冬は雨降りとどんよりした曇りの日が交互に連なって、川の流れのように続いていた。うんざりするような日々だった。メリは毎朝5時50分に起きて、バルザおばさんのところへ行って、7時まで働いた。それから家に戻るとアルビとノラを起こし、学校へ行く支度をさせた。学校が終われば、洗濯に、アイロンがけに、食事の用意といった家事が待っている。メリは僅かな時間を見つけては教科書を手に取った。夕方にはまたビュレクの生地を延ばしに出かけたが、その間も気分は重く、いつも決まって父のことが気になり出すのだった。
 心配なのは父のことだけではない。メリにはアルビのこともますます気がかりだった。家にいないことが多くなり、どこへ行くのか、いつ帰るのかも言ったり言わなかったりだった。夜遅く帰ってくるたびに、友達のところで勉強していたなどと、見えすいた嘘をついた。メリがノラにアルファベットの読み方や書き方を教えている間も、アルビがその場に座っていることはほとんどなかった。アルビに家の留守番をさせていたのに、バルザおばさんのところから戻ってみると、ノラが一人で泣いているのだった。
 或る晩、アルビがテーブルについて食事を急かしてきた時、メリはアルビの手からタバコの匂いがするのに気付いた。それでアルビの手に鼻を近付けると、アルビはびくりとして素早く手を引っ込めた。
「アルビ、あなた、タバコ吸ったでしょ!」
「違うよ」アルビは小声で言った。
「嘘つかないで!どうしてタバコなんか吸ったのよ?」
「吸ってないってば」
メリはアルビの顎をつかみ、顔を持ち上げた。
「いいこと、またタバコを口にするようなことがあったら、パパに言いつけますからね!」
するとアルビはくすくす笑ってこう言った。
「よく言うよ。それがどうしたのさ?パパには僕らの方がいろいろ言いたいぐらいじゃないか。僕に向かって、幼稚園の先生みたいな言い方しないでよ!」
「弟のくせに、まだ子どものくせに」メリは言った。
「もう僕は子どもじゃない」
「誰がどう見たって子どもでしょ」
「はいはい先生わかりました!もう食べてもいいですか?」
 メリは横目でちらりと弟を見て、ますます不安になった。もう前のアルビじゃない、何となく、そんな風に思えていた。
 それから2日も経たない晩のこと、アルビのジーンズを洗濯機に入れようとしていたメリは、片方のズボンのポケットに100レク札が2枚入っているのを見つけた。彼女は前にもまして不安になった。そして動揺したままアルビのところに行った。
「ねえ、これ・・・何なの?」
するとアルビはいきなりイライラ出して
「何のつもりだよ、僕のポケットの中を調べるなんて!」と叫んだ。
 メリは、調べるつもりはなかったのだと説明した。アルビは冷静さを取り戻して
「レクだよ。別に何てことないさ。友達二人と一緒に、はしけ船でバナナの積み下ろしをして、倉庫まで運んだんだよ。船の人がお金を払ってくれたんだ」
「あなたがはしけ船で積み下ろしですって?」
「何だよ、信用しないのかよ?そのレクだって、家のことで払う必要がある時には渡すつもりだったのにさ」
「だったら、ママに誓って本当だって誓いなさい」
アルビはハッと息を呑んだ。顔色がみるみる変わって
「誓うもんか」と冷ややかにつぶやいた。
「だったら、これはバナナのお金じゃないのね」
「メリはこれが盗んだお金だって思ってるの?」
メリはまだ動揺したまま、じっとアルビを見つめていた。
「アルビ・・・そんなことまで・・・だったら・・・だったら・・・」
 しかしメリはそれ以上に言葉を続けることができなかった。しかしようやくのことで
「もうポケットにお札なんか入れておかないでね。これで洗剤を買うから。いいわね?」とつぶやいた。
 アルビはそんなことになるとは予想もしていなかったので
「いいよ」と悔しそうに応えた。
 メリはしばらく考えてから、その紙幣を引き出しにしまった。盗んできたお金だなどとは、これっぽっちも信じたくなかった。かと言ってバナナの仕事というのも信じられなかった。メリは紙幣をもう一度引き出しから取り出した。びりびりに引き裂いてしまおうかと思ったが、その金額を考えて思いとどまった。それから数日間、ずっと気分が悪かった。祖母は足の具合が悪くて、滅多に姿を見せなくなっていた。祖母も余裕がないのだろう、ここ二度ほど来た時も手ぶらだったから。母方の叔母はとうとうドイツに行ってしまい、祖母のところに残った長女は医学部に通っている。エルバサンにいる父方の叔母は来なくなって久しいし、ティラナにいる父方の叔母とも何かあったらしい。その叔母と父との間に流れる冷たいものを、メリも感じとっていた。叔母の夫については一言も口にしない。父と叔母の夫の間には巨大な氷河が横たわっていた。最近も叔母夫婦は高そうな自動車でやってきて、そして父と口げんかになった。叔母の夫はイライラして、口汚く罵りの言葉を浴びせながら帰っていった。メリは父に何があったのかと訊ねたが、父は何も説明しようとせず、ただ
「昔のことさ、お前は知らなくてもいい・・・」
と言うのだった。
 耐えられないほど苦しんだ末に、ようやくメリはさしあたっての解決策を思いついた。彼女はさっきの紙幣を内緒の場所に隠しておいた。それが本当にバナナを運んで貰ったお金なのか、或いはそうでないのか、いずれはわかることだろうと考えたのだ。
 その夜、父はひどく疲れきってうんざりした顔で帰ってきたが、酒は飲んでいなかった。メリはアルビのことを話そうかと思っていたが、前にもそうだったように、すぐさま考えを変えた。父をなおさらうんざりさせるだけだからだ。それにアルビだって、自分を許してはくれないだろう。スパイ呼ばわりされるに決まっている。
 メリは何もかも忘れてしまいたかった。だがそれは無理な話だった。自分の弟が何かしら盗みに手を染めているのではないか、そんな思いがメリをひどく不安にさせた。
「そんなことをしてはだめよ、アルビ。お願いだから、そんなことだけは。お母さんがかわいそうじゃないの!」メリはそうつぶやいた。
 落ち着かない気持ちのまま眠りについたメリは、ベッドの上で幾度となく寝返りを打った。何回やったかわからないほどだった。目覚まし時計が鳴るや、すぐさま手を伸ばした。初めのうちはぼんやりしていた。今日は出かけるのをやめようかとも思った。だがしばらくすると、顔をごしごしとやって起き上がった。眠気がとれないまま玄関に出ると、不意に父親とぶつかった。父は何もかもすっかり気付いているようだった。
「メリ、お前・・・」
「パパ、お願いだから邪魔しないで。働かなきゃいけないの。必要なのよ」
「何もかもパパのせいだ」
「違う、パパは何も悪くない。ここは寒いわ、もう家の中に入って。」
 父は古ぼけた綿のジャケットを肩に羽織っていた。娘を見つめるその両方の目の端には、涙が光っていた。
「メリ・・・パパは・・・パパはやり直すよ。お前に誓って!」
 メリはどうにか微笑んでみせた。
「わかってるわよ、パパ。私はパパのことをとっても信じてるもの」
 メリは門を開け、家の外へ出た。
 その日の朝は、いつにもましてくたくたになって学校にたどり着いた。そのことに気付いた生徒もいたが、それはもう教室内では見慣れた風景だった。担任のリンダ先生はメリに何度となく声をかけてきた。成績が落ちようがそんなことは関係なく、彼女はメリのことを評価していたのだ。
「ねえメリ、家のことで悩みでもあるの?」彼女は訊ねた。
 メリはうなずいた。
「勉強の時間が取れていないんじゃないかしら」
「いいえ先生、勉強は何とかなります」
「じゃあ、夕食が遅いの?」
「それも何とかしています。ただ、眠くなってしまうんです」
「メリ、そんなことでは勉強は身につかないわ。チャンスを無駄にしてはダメよ。辛抱して、頑張るのよ。勉強を投げ出してはいけないわ。それが第一よ」
 メリにとって、そんな類の道徳は飽き飽きするものに感じられた。
『ああ、だったら先生が自分でやってみればいいんだわ』そう思った。他人の言う道徳なんて、この世で一番軽いものなのだから。
 メリはベンチに腰掛けた。そこには、シドが少しそわそわしながら待っていた。メリはその時になってようやく、昨日がシドのチームの試合だったことを思い出した。シドから招待されていて、メリも試合の応援に行くと約束していたのだ。
「ごめんねシド」そう言いながらメリはシドの肩に手をやった。「昨日行けなかったのは・・・」
「構わないよ」シドの声は落ち着いていた。
「何点取れたの?」
「20点。楽勝だったよ。試合の後で電話したんだけど、家にいたのがノラだけでね。急に泣き出しちゃって」
「どうして?」
「窓から狐が入ったって怖がってたんだよ。だから言ってあげたんだ。そこにはスパーキーがいるから大丈夫だって。狐なんか毛皮にしちゃうぞってね」
『その時なら、バルザおばさんのところにいたっけ』メリは思った。けれども、シドが電話をかけてくれた時に自分がどこにいたのか、話したいとは思わなかった。
「カバンにビュレク入れてきたことなかった?」
不意にシドが訊ねた。
「ううん」メリはドギマギしながら答えた。
「ビュレクのいい匂いがしてたよ」
『馬鹿、仕事場の服のままで学校に来るなんて』メリは心の中で自分自身につぶやいた。気付くとズボンの膝にまだ小麦粉がついていた。メリはその場をしのごうと、シドに数学の宿題を見せて欲しいと頼んだ。シドは不審そうな顔で、カバンからノートを取り出した。
「この宿題なら、昨日君に言われて見せたはずだけど」
「時間がなくて」メリは言った。
「メリ、ノートを写すだけじゃ、それは解いたことにならないよ」
 メリは不意にカチンときた。
「何よ、私にノート写させるのが嫌なの?」
「嫌なんかじゃないさ。ただ、そんなことをずっとやってちゃいけないと思うんだよ」
「ああ、そうなの?そういうことを言うのね!あなたにまでお説教されなきゃならないなんて!」
 それでシドもカチンときた。
「僕に説教されなきゃいけないことでもしてるのかい」
「もうお説教はたくさん!わかった?」
 そこへ担任教師が割って入って、二人を落ち着かせた。次の長い休憩時間まで二人の間には冷たい空気が流れていて、ろくに口もきかないままだった。それで校舎を出る時、シドはメリにハンバーガーでも食べようと声をかけた。
「いらない」メリはとりつく島もなかった。
「食べたくないの?」
「シド、あなたにはもうそういう風におごって欲しくないの。だって、ハンバーガーだってお金がかかるでしょ」
「だから?」
「だから、そういう風におごってもらっても、あなたにお返しなんかできないのよ」
「僕にお返ししてくれだなんて、言ってないじゃないか」
「もういいでしょシド!」
 シドは幻滅したように首を振った。
「今日の君は本当にどうかしてるよ。何が何だか僕にはさっぱりわからない」
「こっちのことだから、ただそれだけよ」
 シドが立ち去ると、メリは、12月の明るい陽光がさす校舎の片隅へ歩いていった。ところがそこで気を鎮める間もなく、6年生のクラスの同級生がやってきた。アルビのクラス担任の先生が呼んでいるという。メリには何かピンとくるものがあった。不安を抱えたまま、彼女は職員室のドアの前に立った。
 アルビの担任はアルマという英語の教師だったが、メリにちょっと待つようにというしぐさをした。そして雨雲のような足取りで近付いてきたが慌てて教室へ駆け込んでいく男子生徒2人に腹立たしげな視線をやると、うんざりしたような口調で叫んだ。
「こら、そこの男子!馬みたいにバタバタ走るんじゃありません。ここは学校じゃなくて馬小屋だったのかしらねえ。ジョカ、あなたのことよ!」
 それから彼女はメリの方を向いて言った。
「まああなた、あなたは知ってるかしら、弟さんが不良の仲間入りをしているって?私、他の不良連中と一緒にいるところを見ましたよ。ああいう連中から、いずれ腰にピストルをしのばせるような犯罪者が出てくるんでしょうね。このこと、ご家族の方は知ってるの?あなたのお父さんは、ご自分の息子さんが街角で飲んだくれてても、何も言わないのかしら?」
 メリは真っ赤になった。
「いいこと、しっかりするのよあなた!」アルマは話し続けていた。「二度目はもう忠告しませんからね。うちは36人も生徒がいるの。あなたの弟さんだけではないのよ」
 アルマは来た時と同じく、力強い足取りで立ち去った。
『もうおしまいだわ』メリはそんな思いでいっぱいになった。タバコの件も、あのお札も、帰りが遅いのも、そういうことだった。だったら、これからどうすればいいの?誰に助けを求めたら?
 その日、彼女はイライラする思いで家に帰りついた。そして玄関のところでうろうろ歩き回っていると、そのうちアルビが帰ってきた。彼は鞄を玄関前の階段のところへ無造作に放り出した。
「何だよ、何だってそんな、まるで僕がヴィザもなしに家に入ってきたみたいな目で見るのさ?」アルビはメリに問いかけた。
「残念で、恥ずかしいからよ」メリは答えた。「あなた、よくない男の子たちと付き合い始めて、街をうろついてるんでしょう」
「誰がそんなこと言ってるのさ?」
「あなたの担任の先生よ」
「ああ、そういうことか。あの先生、くだらないことばかり」
 メリはアルビの肩をつかんで、弟の首がガクガク揺れるほど激しく揺さぶった。
「ちゃんと話を聞きなさい!わかった?今日からもう外出しちゃいけません!家から出てもいいのは学校の時と、それと・・・」
 しかしアルビはメリの腕を振りほどくと、腹立たしげに声をあげた。
「もう僕にかまうなよ姉さん!そうやって僕の邪魔をしてばかり。姉さんだって父さんだって、家を空けてるくせに!僕の言ってる意味ちゃんとわかってんの?」
 メリはその言葉に凍りついた。パニックか、それ以上のひどい感覚に襲われていた。もしアルビが家から出て行ったら、一体どうなってしまうだろう?吐き気がしそうだった。だが彼女はもう怖気づいているわけには行かなかった。
『パパと話さなきゃ』メリはそう思った。『手遅れにならないうちに』
 その夜、メリはアルビの目の前で父親に何もかも話して聞かせた。
「そんなことだろうと思ったよ」父は嘆息した。
「この家は何もかもが悪くなる一方だ。大抵の原因は俺なんだが。それはよくわかってるさ。わかっちゃいるが、しかしお前たち・・・お前たちは・・・もう、小さい子供じゃないんだ。だから・・・顔を上げなさいアルビ、父さんの目を見るんだ。このまま行ったらどんなことになるか、どんな目に遭うか、父さんにはよくわかる。そんな悪い連中とは手を切りなさい!」
「僕の友達は悪い連中なんかじゃないよパパ!みんなと同じ、普通の男子だよ」
「だがな、先生はそいつらのことを不良だと言ったんじゃないか?」
「先生から見れば、街をうろついて学校に行かないとみんな不良ってことになるんだよ」
 父は掌で膝をぴしゃりと叩いた。[訳註:不満を表現するしぐさ]
「そりゃ先生の言う通りじゃないか!いいかアルビ、一度しかいわないからよく聞きなさい。悪いことは言わないから、父さんの言う通りにして、街に出るのはもうよしなさい。わかったかい?父さんじゃお手本にならないのはよくわかってる。だがな、自分の大切な息子が道を踏み外すのを放ってはおけないんだ。それに、お墓に眠っているお母さんにも申し訳が立たないじゃないか」
 アルビは疑るような視線を父に向けていた。
「おい、父さんの言ってることがお前にはわからないのか?」父が訊ねた。
 するとアルビはがらりと態度を変えた。
「いや、わかったよ。もう大丈夫だから」
「お前には、また今までみたいに、良い成績を取って欲しいんだよ」
「うん、じゃあこれからは授業にも出るようにするよ」
 だがメリには弟のそういう態度が信じられなかった。アルビはもう父さんの言うことなど聞きはしない、そんな気がして不安だった。父もきっと自分が約束したことなどどこ吹く風で、また酒を飲み始めるのだろう。アルビの態度を見ていればそれがよくわかる。
「姉さんのせいだぞ!」アルビは脅すような口調で言った。
「僕にはやっかいなことばかり押しつけておいて、自分はまるで救世主気どりかよ!姉さんが街をぶらついてることとか、シドとやってるようなこととかは何で父さんに言わなかったのさ?」
 それはメリにとって予想もしていなかった言葉だった。
「何を馬鹿なこと言ってるのアルビ?」メリはぴしゃりと言い返した。「私がシドと何をしてるかなんて、知りもしないくせに」
「知らないわけないだろ、貝殻のネックレスだとか、『君は世界一美しい、太陽よりもっと美しい』とかだよ。あれは何なのさ?」
「アルビ、もう二度とそんなこと言わないでちょうだい!あなた自分がどんどん悪い子になってるのがわからないの」
「そりゃそうだろ!姉さんが怒鳴るから、僕だって本当のことを言ったまでさ」
「それが本当のことだなんて、よくあなたにわかるものね」
 するとアルビはふんと鼻で笑った。
「姉さんがあんな貝殻とか太陽だとか電話とかにすっかりやられちゃったのは本当じゃないか。でなきゃ男子と出歩くことなんてないくせに。僕は姉さんの弟なんだからね。あんな男と付き合うのは僕が許さないよ」
「あんな男って・・・シドのこと?」
「決まってるじゃないか!」
メリは、弟のそういう態度もその場限りの怒りに任せた急ごしらえのものだとばかり思っていた。ところがその翌々日、シドが困惑した様子でこう言ってきた時、メリは事態がずっと悪くなっていることに気付いたのだ。
「アルビときたらわけがわからないよ。僕、彼に何かしたっけ?」
「何で?」メリはどぎまぎして赤くなった。
「昨日電話したら彼が出てきたんだけど、まるで僕のことなんか知りませんって態度なんだよ。でしまいには怒り出して『いいか貴様、もううちの姉さんとは関わるなよ』なんて言うんだ。初めのうちはてっきりジョークなんだろうと思ってたんだけど、でも・・・」
「ごめんねシド。アルビはあなたに何かされたからってわけじゃないの。あの子、私に腹を立ててるのよ」
「何で喧嘩してるの?」
「その話は、また今度ね」
 メリは、自分と弟との間が日毎に難しいものになっていることを思いながら帰宅した。それでもその日、シドと電話で話していた時には別に何の問題も起こらなかった。まるで何ごとも起こっていないような気がした。だがアルビの方は、引き続きのいさかいを待ち構えていた。
「さあ、鞄を出して、勉強しましょう」メリは静かに声をかけた。
 アルビは目を閉じたままだった。
「ふん、明後日はクリスマスじゃないか。学校だってもう終わってるし」
「ちゃんと勉強しないんだったら、家から一歩も出てはいけません!」
 アルビは不満げに鼻を鳴らしたが、言うことを聞かないわけにはいかなかった。
 新年を目前にした数日間も、アルビは「ゼロの三乗」たちと出歩くことができないでいた。それというのも、父が玄関で自動車2台の整備にかかりきりだったからだ。
「アルビ、パパを手伝って欲しいんだ」父はアルビに言った。「お前なら役に立ちそうだ。いい機会だから、車の仕組みを覚えなさい。それに、額に汗して働くのもいいもんだぞ」
 アルビは思わず何か口ごたえしかけたが、父はひどく真剣な面持ちで息子をじっと見つめていた。
「お前に手伝って欲しいんだ」父はもう一度そう言った。
 アルビはやむなく、古い上着を身につけると、玄関脇の物置から工具類を引っ張り出してきた。それから3日間、アルビは父と一緒に朝から晩まで働いた。仕事を離れたのは、昼食を取るための1時間だけだった。2台の車のうち1台は、車の持ち主が注文した通りになるまでに、二度もバラバラに分解し、また組み立てた。時折アルビは、開いたままの門から、外の通りを羨ましげに盗み見ていた。幾度か「ゼロ」の男子たちが口笛を鳴らしてきたが、アルビはそれに返事するわけにはいかなかった。だが余りにも口笛がうるさかったので、父は顔を上げ、落ち着きのなくなっている息子の方を見やった。
「今は出られないって、そう言ってきなさい」父はアルビに言いつけた。
 アルビは、埃とオイルとグリースまみれになっている自分の上着にちらっと目をやった。そして不安げな表情で門の方へ向かった。「ゼロ」たちはアルビの格好を見ると笑い出した。
「僕は行かないったら」アルビは苛立った口調で言った。
 ケコが目配せてみした。
「売れそうなものがあるんだよ」
「ケコ、悪いけど」
「おいおい何だよ、悪いのはこっちの方さ。さあ油まみれになりに行った行った」
 そして連中は冗談を言い合いながら、その場を立ち去った。
「さあ続けるぞ、アルビ!」父が顔を上げ、声をかけてきた。
 12月29日の夜、仕事は全て終わった。車が2台とも引き渡される時、アルビはヴェランダに上がるところで両腕を抱えて座っていた。
「疲れたろう」父が声をかけた。「でもなアルビ、それは名誉ある疲れだ。お前にもう一度だけ言っておく。あの向こうに待っているのは、犯罪と、監獄へと向かう、破滅への道だ。学ばず、働きもしなければ、もうそこから離れて他の進路をとることはできない。わかったね」

(9につづく)


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