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ヴィクトル・ツァノスィナイ 『メリユル』

17
 ところが翌朝になっても、吐き気は消えていなかった。頭どころか全身がまだズキズキと痛い。
「姉さん、まさかゆうべ飲んだんじゃないの?」
廊下でアルビにそう訊ねられて
「コカコーラしか飲んでないわよ」とメリはびくりとしながら答えた。
 アルビはそんなメリにちらと疑うような視線を投げかけた。家の中で物音がして、メリは父親が出かけようとしているのだと気付いた。いつもなら父はコーヒーを待っているはずだ。
 メリは服を着替えると、急いでキッチンへ行き父と顔を合わせないまま朝の挨拶をした。
「やあおはよう」父が声をかけた。「昨日はどうだったね?」
「まあまあね。ごめんね、遅くなっちゃって。今度から気をつけるわ」
「パパはお前を信用しているよ」
 そう言って、父は立ったままコーヒーを口にしたが
「今日はバルザおばさんのところには行かないのかい?」と訊いてきた。
「うん」メリは答えた。「もう少し後でね」
 しかし父が出かけた途端、メリは再びベッドに潜り込んでしまった。そうして1~2時間ほども経った頃、アルビに揺さぶられてメリは目を覚ました。
「あのチビから電話だよ」アルビが言った。
[訳註;長身のシドに対する皮肉]
「とにかく姉さんと話したいってさ」
 メリは頭を抱えた。
「いないって言って」
 アルビは電話のところへ行くと、皮肉っぽい口調で
「ただいま姉は在宅しておりませんが」
と言った。
「頼むよアルビ!こっちは真面目な話なんだ」シドは食い下がった。
 アルビはメリのところに戻った。
「真面目な話なんだって」
「だからいないって言ってよ!」メリは声を上げた。
 アルビはイライラしながら受話器を取ると
「たとえ真面目な話でも、メリはただいまこちらにおりません」
と言うが早いか受話器を切った。
 ところが1時間もすると、またシドが電話をかけてきた。
「とにかくメリと話したいんだよ!」シドの声は焦っていた。
「えーと、今日はもうママにおむつを替えてもらったのかな?」アルビはからかうような口調で言った。
「もう僕たちのことは放っといてさ、さっさと自分のお勉強でもしてりゃいいじゃないか!」
 その言葉を耳にしたメリはびくりとして
「アルビ、何でシドにそんなこと言うの?」と問い詰めた。
「その方がいいじゃないか」
「シドがあなたにひどいことなんか言ってないし、あなただってシドにそんな言い方する必要ないじゃない」
 するとアルビは呆気に取られて自分の姉を見た。
「今日はどうかしてんじゃないの姉さん?!あのシドとは別れたんじゃなかったの?」
 メリも呆気に取られて弟を見返した。
「アルビ・・・何言ってるの?私はシドとは・・・だってシドが私のこと・・・ううん・・・私たち・・・本当はね・・・つまりその、私は・・・でもシドだって・・・」
 しかしシドはプイと背を向け、こう言った。
「ちょっと、ちゃんと説明してよ!姉さんのせいじゃないんならさ!あんなイヤな電話の相手させられるのは僕なんだぜ」
 メリは打ちひしがれた表情のまま、廊下に立ち尽くしていた。結局その日は、家事どころか数学の試験の勉強も手につかなかった。次の日もそんな風で、何も手につかないままだった。どうにか少しは方程式や証明問題を解こうとしたが、頭の中は今にもこんがらかってしまいそうだった。家事をしていてもうわのそらだった。
 午後になって、クララから急に電話がかかってきた。
「ねえメリ、ちょっとだけうちに来ない?」クララは親しげな口調で言った。「ちょっと大事な話があるの」
 メリにとっては嬉しくない招待だった。
「別の日に話せないかしら?」どうにかやり過ごそうとしてメリはそう言った。
「ダメなの。急ぐ話なのよ」
 やむなくメリが服を着替えて家から出ようとすると、バルザおばさんの姿が目に入った。バルコニーのいつもの場所から、メリの方をじっと見やっている。その姿がメリの心を苛立たせた。 『今度は何よ、何だって私のことを見張ってるのよ』とメリは思った。『本当にもう、私が何か悪いことでもしたっていうの?!』
 だがクララの家に行くと、その苛立ちは驚きに変わった。そこにゲンツとアルドもいたからだ。彼らはメリに声をかけ、席を勧めてきた。
「私、時間がないの」メリは彼らと目を合わせずに言った。「帰って勉強しないと」
「5分で済む話さ」アルドはにこにこしながら言った。「まあいいから座って、僕らの話を聞いておくれよ!」
 それでメリはソファに腰を下ろしたが、背は浮かしたままだった。
「これはメリにとって良い話なのよ」クララが口を添えた。
「君の家族の事情は、僕たちも知っているよ」アルドは話を続けた。「僕たちは君の力になりたいんだ。僕たちみんなそうだ。だから君を心から招待する。僕たちと一緒に、ギリシアへ行こう」
 メリはぎょっとして身体をこわばらせた。
「私が・・・ギリシアに?!よりによって私が?!そりゃ嬉しいけど、でも・・・」
 アルドはにっこりと笑った。
「何をそんなに怖がってるんだい?!向こうには良い人がたくさんいるし、僕の家族もいる。ゲンツの叔母さんもいるし、クララだってそうさ」
「ちょっと考えてごらんよ」ゲンツが言った。
「私たち、待ってるからね」とクララも言った。「あなたの試験が終わって、そうしたら・・・」
 しかしメリはすっくと立ち上がってこう言った。
「その・・・私たち・・・たぶん、お互いのことを誤解してるんだと思うわ」
「誤解だって?!」アルドが訊き返した。
「私、自分の家を出るなんてこれっぽちも考えてないの。あなたたちはあなたたちの計画を進めてちょうだい」
「ちょっと待ってくれよ!よく考えてごらんよ。僕たちは君のためを思って言ってるんだぜ」
「それは有難う。でも私にはそんな気ないの」
 メリはそのまま早足でドアの方へ向かった。
「ごめんなさい、もう帰るわ」
 残された3人は、メリの態度にがっかりしていた。
「だから言ったじゃないかアルド、とんだ時間の無駄遣いだったぜ」ゲンツは息巻いた。「メリがお前に首ったけになるだろうなんて、そんな話はもうごめんだぜ」
 そう言われてもアルドは意に介さなかった。
「まあ見てろよ」と彼は憮然としたままゲンツに言い返した。「お前の話にはうんざりだ。クララを連れて出てってくれ!」
「ああ、もうたくさんだね!」
「もう、やめてちょうだいったら」クララが間に入った。「ねえゲンツ、もう少し待ってあげましょうよ」
 一方メリは、クララの家から出たところで、バルザおばさんに呼び止められた。
「ちょっとこっちにいらっしゃい」
そう言ったバルザおばさんの声は、逆らうことを許さないものだった。
 メリはその声に従ったが、心は今にも張り裂けそうだった。最近、バルザおばさんは自分に前にも増して親身に接してくれるようになっていた。何でも聞いてくれたし、何でも相談に乗ってくれた。何日か前にも、メリが何週間もため込んでいた食料品代のツケを払ってくれた。「バルザが立て替えてくれたから、もう払わなくていいよ」と店の人に言われた時には驚いたものだ・・・
 けれどもそれ以上にメリにとって心苦しかったのは、或る晩、おばさんが父のことで見せてくれた気遣いだった。その日、父は酒場で出回っている怪しげなラキにやられてしまい、引っくり返って何度も吐いていた。そんなさんざんな夜を、バルザおばさんはメリの家で明かしてくれたのだ。おばさんは何度も父の額に手をやり、汗を拭いてくれた。そんなおばさんの姿を、メリは決して忘れることができなかった・・・
 バルザおばさんの家に行くと、おばさんは廊下のところで立ったまま、両手を組んでじっとこちらを見つめていた。
「あのクララとはどういう関係なのか、教えてもらえないかしら」バルザおばさんは言った。「あの男の子たちの車で、どこへ行っていたの?それにさっきは何の話をしていたの?」
 メリはもう我慢できなくなって
「何でおばさんがそんなの知る必要があるの?」と冷たい口調で言い返した。「何の権利があってそんなことを?」
 バルザおばさんはそんなメリの口調に身をこわばらせた。
「何でって・・・そりゃそんな権利はないけど・・・権利がなければ聞いちゃダメなの?!」
バルザおばさんの顔は真っ赤になっていた。
「何でおばさんが私に仕事をさせてくれるの?それって私がおばさんにお金を返さなきゃならないからじゃないの」メリは口調を変えずに続けた。「だから今度は私がおばさんに訊くわ。何でおばさんがうちの買い物代を払ってくれる必要があるのかしら?」
 バルザおばさんは呆気にとられ、そしてうなだれた。
「おばさんは・・・あなたの力になりたいのよ」
「私はもう子供じゃないわ。だいたい何でおばさんはそうやってずーっとうちの家族にあれこれしてくれるのよ?何でうちのパパのことばかり聞きたがるのかしら?」
 するとバルザおばさんは両手で顔を覆ってしまった。
「おばさんが何か目当てがあってそうしているんだと思っているのなら、それは間違っているわよメリ。あなたにそんな言い方をされたら、もう何も言えなくなってしまうじゃないの。お願いだからこの家から出て行ってちょうだい。もう二度とここに来ないで!」
 メリは身をこわばらせた。必死で何かなだめるような言葉を口にしようとしたが、バルザおばさんはドアを指差すと
「もう勝手になさい!」と心を揺さぶるような声をあげた。「出て行きなさい、ひとの親切を踏みにじって!この恩知らず!」
 メリは少しだけドアを開けると、そこから飛び出した。家にたどり着いてようやく、自分がひどいことをしてしまったと後悔したが、もう手遅れだった。どうしてあの人にあんなひどいことしてしまったのか、と自問して心は乱れた。
『じゃあ、これから誰が私を助けてくれるの?』
 この日の思わぬ出来事でメリはすっかりわけがわからなくなってしまった。
『どうしてクララやゲンツやアルドは自分をわざわざギリシアまで一緒に行こうと誘ってくるのかしら?』
『クララといえば、彼女はどうして自分にあそこまで親身になってくれるのかしら?』
『どうしてクララはギリシアにこだわるのかしら?』
『アルドとクララの間にはどういう関係があるのかしら?』
 そんなことを何十回もうんざりするほど考えていたら、しまいには頭が痛くなってきた。数学の教科書でも読もうと思ったが、それもできなかった。行が入れ替わり立ち代わり、そこに書かれている文字はまるで、道に迷ってあたふたしている蟻の行進のようだった。

* * *
 シドは数学の教科書を三度も開いてみたが、三度目にはすぐに閉じてしまった。ページをめくるたび浮かんでくるのはただメリの顔ばかり、それもあのディスコでのひどい光景だった。メリの目はらんらんと輝き、軽くカールした髪は汗に濡れて額や頬にべったり張り付いている。
『何がどうなって、あんな連中と一緒にディスコへなんか行くことになったんだろう?』 シドはそんなことをぼんやりと考えていた。
『どうしてあんなにケラケラ笑いながら踊っていたんだろう?はっきりさせなきゃいけない、あのアルドってヤツのことを』
 この前、電話に出たアルドにママがどうしたとかオムツがどうしたとか言われた時、シドはひどく腹が立って、もう金輪際メリになんか近付くものかとさえ思っていた。初めのうちは、あのひどい悪口がメリの差し金のように思われたからだ。しかし後になって、怒りから冷静になってみるとメリがそんなことまでするはずがないと気が付いた。あの馬鹿げた言葉は、アルビ自身の言葉だったのだ。
 シドは椅子から立つと、アドリアン・プリスカに電話をかけた。
「やあシド、今日は人造湖で落ち合おうか?」とアドリアンが訊ねてきた。
「いやアドリアン、今日は練習は後回しにしてくれないかな。君の助けが必要なんだ。メリと一緒にディスコにいたあの男の顔、憶えてるかい?近所で見たことがあるって言ってたよね?何か知ってることがあれば教えてくれないか?」
 アドリアンはぎょっと息を呑んだ。
「君、まだメリのこと本気で信じてるのか?」
「もちろんさアドリアン、メリのことは僕がよく知ってる。ディスコで見たことは気にしないでくれよ」
「わかったよ、じゃあ、『ダイティ』ホテルの前で待ってるから」
 シドは急いで着替えると、自転車を出した。
「どこに行くの?」母親のエロナが居間から顔をのぞかせて声をかけた。
「人造湖に」とシドは答えた。
「でも、スポーツバッグはどうしたの、持ってないじゃないの?」
「今日は練習じゃないよ」
 するとエロナはシドのところに来て
「最近イライラしてるみたいね。何か悩みでもあるんじゃないの?」と訊ねかけてきた。
「別に、悩みなんかないよ」
「さてはメリのことね、そうでしょ?」
「メリのことだったら何だよ、ママに何ができるっていうのさ?」
 エロナは苦笑した。
「何ができるですって?あの娘はもう他の男の子と仲良くしてて、それであなたは馬鹿みたいにイライラしてるんでしょ、そうに決まってるわ」
 シドは両手で自転車のハンドルを握っていたが、自転車を地面から少し持ち上げると、腹立たしげにガシャンと落とした。
「メリが他の男子とだなんて、そんなことあるもんか!」
「ママに嘘をつくのはやめなさい、シド!」
「ママ、ママはメリのことを何もわかってないんだよ!」
「じゃああなたはあの娘のことをわかってるっていうの?あんな5番目のクラスの娘のことをわかってるっていうの?シド、あなたは何も知らないから、あの娘にもて遊ばれてるのよ。いい加減に気付いたらどうなの!」
 シドはうんざりしたように首を振った。
「ああ、ママはそうやって人のことを判断するんだね、うちみたいに車もお金もないからってだけでさ」
「まあこの子ったら、親に向かって立派なことを言うようになったわねえ」
 シドは何とか気持ちを静めようと外へ出た。マンションとマンションの間の狭い小道を通って環状路へ出た。「ダイティ」ホテルの方へ自転車を走らせていると、不意に一台の自動車が近付いてきて、徐々にシドの行く手を阻み出した。やむなくシドがラナ川沿いの歩道に上がると、その自動車が止まって、中から二人の男が物凄い勢いで飛び出してきた。シドはその顔に見覚えがあった。男二人の顔には怒りと憎しみが溢れていた。シドは自転車から降りた。そして自転車のスタンドを立てると、腰に手をやり、二人の前に立った。
「おい坊主、お前に言っときたいことがある」とアルド・ブリミが言った。「メリから手を引く気はないか、どうなんだ?」
「嫌だ、絶対に」シドは静かに答えた。
「俺たちがどんなことに関わってるか、お前、知ってるよな?」
「あんたたちがしたいなら好きにすればいい。でもメリから手を引くのはあんたたちの方だ、僕じゃない」
 アルドはにやりと笑って、ゲンツに目くばせした。するとゲンツは素早く手を伸ばし、力任せにシドの腹を殴りつけた。シドが思わずうずくまると、今度はアルドに顔面を殴られた。メタルフレームの眼鏡が割れて、足元に落ちた。シドは手で顔を押さえた。額から血が流れている感触があった。
「二度とメリに近づくな、さもないと、もっと痛い目にあわせてやるぞ!」アルドが言った。
 ゲンツがシドの自転車を持ち上げると、ラナ川の土手から放り投げた。自転車は土手をガラガラ転がって、浅い川底にバシャンと落ちた。それから二人は急いで車に乗り込むと、排気ガスの臭いを残して走り去った。
 シドは、数人の通行人が怪訝な目で眺める中で身体を立て直した。そして割れた眼鏡をシャツのポケットに入れると、ラナ川まで下りて行って、水の中から自転車を引き上げた。自転車はあちこちに小さな傷がついていて、ハンドルがひん曲がっていた。シドは前輪を両股で挟み付けて、自転車を運転していった。家まで戻る間、鼻の頭のところがズキズキと痛んだ。血が出ている箇所にハンカチをあてると、数分もしないでハンカチが真っ赤になった。
 マンションの廊下に入ると、エロナが手で口を押さえて軽く悲鳴を上げた。父親のアリアンが書斎から飛び出してきた。二人が固まったようになっている間に、シドは自転車を部屋の壁に立て掛けると、バスルームに行って顔を洗った。バスルームから出てくると、両親がタオルを手にしたままシドを待っていた。
「シド、自動車と何かあったのか?」アリアンが訊ねた。
「うんパパ、車とぶつかっちゃったんだ。治療してくれる?」
「勿論だ、座りなさい」
 シドは居間に行くと、ソファに座った。アリアンが出血したところに手当をしている間、エロナはシドを不審そうな目で見つめていたが、不意に
「シド、あなた本当に自動車とぶつかったの?」
と訊ねた。
「うん」シドは一言そう答えた。
「ママはそうは思わないけど」
「何だって?」アリアンが言った。
「うちの息子は誰かに殴られたのよ」
「何だってシドが誰かに殴られなきゃならないんだい?!」
「男の子が殴り合う理由なら、あなただってよく知ってるでしょ」
 アリアンは治療をする手を止めた。
「シド、それはメリのことかい?」
 シドは苦笑した。
「自動車だよ、パパ」
「パパは、お前がメリのために一生懸命だとばかり思っていたんだがなあ」アリアンはがっかりしたように言った。
「何を言ってるの、何だって、この子がメリに一生懸命なのよ?」たまらずエロナが口を挟んだ。
「一人の女の子の為に一生懸命なんて、男らしいことじゃないか」
 するとエロナは額に手をやり、大声をあげた。
「あなたったらこの子に、自分の息子にそんな危ない真似をさせるつもりなの、こんな危ない目に遭ってるのに!シドはあのメリという可愛らしい娘のために喧嘩に巻き込まれたのに、あなたにはそれがわからないの?あの娘はうちの子に仕返ししようと、他の男にシドを襲わせたのよ。ああ、もう、どうしてメリなんて娘と知り合ってしまったのかしら!何だってあんな、ろくでもない連中と!」
 それを聞いたシドは、思わずカッとなった。
「ママ、メリのことをそんな風に言うのはやめてくれないか!」
「メリはそんなことをするような娘じゃないよ」とアリアンも助け舟を出した。
「あんな女の子はそう滅多にいるもんじゃないし、他の連中とだなんて、あり得ないよ。メリがシドの代わりに、この世の他の男子と付き合うなんてないことさ」
「ふーん、そうかしらね?もういいわ、じゃ勝手になさい。そのうち息子がどんな目に遭うか、わかったもんじゃないけど」
「エロナ、頼むから治療の邪魔をしないでくれないか!」
 エロナは居間を出ていったが、シドがソファから立ち上がるや、また戻ってきた。そして
「眼鏡は?」と慌てた風で訊いてきた。
 シドは、ポケットから壊れた眼鏡を取り出すとそれをテーブルの上に置いた。
「何てひどい!」エロナは叫んだ。
「ドイツで買った300マルクの眼鏡なのに!ねえあなた、どうするのよこれ?あんな娘のために勇気を出して、こんな目に遭うなんて!」
 シドはうなだれていた。アリアンは、壊れた眼鏡をじっと見ていた。それはまるで、羽をもがれてもう二度と飛べなくなった鳥のようだった。
「眼鏡が壊れただけの価値はあるさ!」アリアンが言った。
「もう何年かしたら、シドだってメリに自慢できるじゃないか。『メリ、僕は君のために戦って、僕の素晴らしいママが300マルクも出して買った眼鏡も犠牲にしたんだ』ってね」
 それを聞いてエロナはまた額に手をやった。
「何てひどい!あなた何を言ってるの!あなたたち二人ともどうかしてるわよ、親子揃って!」
「そうかもな」アリアンはそう言いながら書斎へ歩いて行った。「人生なんて、どうかすることもあるもんだよ」
 シドは口元に笑みを浮かべた。今日の出来事が少しだけやわらいだような気がした。
 その夜、アドリアン・プリスカから電話がかかってきた。彼は怒っていた。
「おいシド、僕は『ダイティ』の記念碑の前で1時間も待ってたんだぜ」
 そこでシドはアドリアンに、その日の出来事を話して聞かせた。
「へえ、そりゃあとんだ災難だったねえ!」そう言ってアドリアンはため息をついた。「で、今はどうなの?」
「もう平気さ。僕はへこたれたりしないぜ。明日午後会えないかな、午前中は試験があるんだ」
「オーケー、じゃまた明日」

18
 メリは数学の試験のため学校へ向かったが、全くやる気が起きなかった。もう長いこと、成績は芳しくないままだった。もう高校に進むのをやめようか、それともどこか他の学校にしようか、と考えることさえ、もうどうでもよくなっていた。そんなメリの無気力ぶりは、国語の試験の時にも担任の先生の目にとまっていた。それでもメリの成績は9だった。自分自身では7にも届かないと思っていたので、メリにはさっぱりわけがわからなかった。
[訳註:一般にアルバニアの学校の成績評価は10段階で10が最高、一般的な合格水準は5以上。ちなみにこの「担任教師」というのは、これまでもメリに好意的だったリンダ先生のこと]
 校舎に入ると、シドがバスケのバックボードにもたれて立っているのが目に入った。彼はぼんやりして、そして憂鬱そうだった。メリが近付いていくと、鼻の上の辺り、真ん中のところに絆創膏が貼ってあるのが見えた。それに右目の下が青黒くなっている。シドは眼鏡を手にしていたが、それは、いつもバスケの練習の時にするプラスチック製のフレームのものになっていた。最初それを見た時、自転車の事故か、練習中に怪我をしたのだろうとメリは考えた。シドがこちらに気付いて挨拶してくれるのを待ってみたが、彼は心ここにあらずという様子だった。
 メリはもっとそばへ行こうとしたのだが、そこへ数学の先生が、試験会場になっている体育館に入るようにとメリに声をかけてきた。メリが階段を上がっていると、誰かに肩を叩かれた。それはブレダル・ベルシだった。
「シドのこと、聞いた?」とブレダルは不審げに訊ねてきた。
「ううん」メリは答えた。「何かあったの?」
 するとブレダルの不審げな表情はさらに強まった。
「本当に知らないの?」
「ブレダル、どうしてそんな目で私を見るの?」
 ブレダルは、やれやれといった風に首を振った。
「シドの奴、道であのチンピラ二人に襲われたんだぜ」
「誰にですって?!」
「クララの婚約者だよ、何年か前までこの学校にいただろう。それと、その連れの男さ」
 メリは混乱したままブレダルを見つめた。
「本当なの、ブレダル?」
「僕はシド本人の口からそう聞いたんだぜ」
 メリは茫然としたまま、体育館へ向かって歩いて行った。体育館に入ると、すぐそこにある席に座った。しばらくして、試験問題の入った封を開け、問題用紙の演習問題について先生が説明している時になって初めて、メリは自分の後ろにシドが座っているのに気付いた。その後1時間ほどの間、メリは机に肘をついたままで、自分の目の前に置かれた答案用紙のことも考えていなかった。先生が近付いてきて、やっと簡単そうな問題を選んで解き始めたが、終わってみても、答えが合っているのかどうかまるで自身がなかった。それから幾何の問題をやってみようとしたが、まるで手が出なかった。どれだけ頑張っても、方程式ひとつ解けなかった。
 うんざりして、もう答案を提出してしまおうとしたが、先生はメリの退出を認めなかった。
「もう無理です、先生」メリが言うと
「頑張って!まだ12時まで時間があるから」と先生は言った。
 メリはさっきの方程式にもう一度取り組もうとしたが、その時不意にシドの声がした。
「メリ、紙を丸めて足元に投げるから、取って」
「ダメ。そんなのいらないし、できない。写すなんてダメ」とメリが小声で言うと
「君がカンニングなんかしたことないのは知ってる。でも今日はそうすべきだ」とシドは言った。
「メリ、今日だけは!」
 メリは、丸めた紙が足元に落ちるカサッという音を聴いても動こうとしなかった。そのまま数分が経った。
「メリ、取って、頼むから!」シドの声がした。
 メリは身体を震わせた。
「あれは私のせいじゃないって言ってくれたら、取るわ」
「何馬鹿なこと言ってるの?君があの事件に関係ないことぐらい、よくわかってるよ」
 メリは手を伸ばして恐る恐る紙玉を拾い上げると、それを開いて、乱暴な字で解答を書き写し始めた。
 シドは文章題と百分率の問題、それにメリを1時間近くも苦しめた方程式を解いてくれていた。メリは最後に残った生徒らと一緒に体育館を出た。答案用紙を渡す時、先生と目が合った。『さあ行きなさい、何も見なかったことにしてあげるから』先生の目がそう言っているような気がした。
 シドは廊下の隅で待っていた。メリはためらいがちにその傍に立った。
「全部写したわ」メリは自分に罪があるような口調で言った。
「もうこれっきりだから。気にしないで」シドが言った。
 メリは目を上げ、シドをじっと見つめて
「でも、シド・・・あんなひどい人たちのせいで・・・何があったの?」と小声で訊いた。
 シドは肩をそびやかしただけだった。
「シド、私ね・・・死んだママに誓って言うわ・・・私は何も知らなかったの」
 シドは痛みと辛さが入り混じったような笑みを浮かべた。
「メリ、君がいけないのは、何も言わずに僕から離れてしまったことだけだよ」
 メリはシドの顔にゆっくり手を伸ばして、指先で鼻と額の間に貼られた絆創膏に触れた。メリの着ているシャツの開いた襟元から、首筋にかけられた貝殻のネックレスがシドの目に入った。
 メリは小声で言った。
「シド、あなたとはたぶんもう会わないと思う。今まで私のためにいろいろ有難う!」
 シドはぎょっとして身をこわばらせた。
「そんな!僕たちまた会えるじゃないか、これからだって」
 シドに向かって伸ばしたメリの指先が一瞬ぴたりと止まった。
「メリ、僕は君を一人ぼっちになんかさせない」
 メリは何も答えず、廊下から立ち去った。校舎を出て、これまでの数年間で何千回も通ってきた校門を駆け抜けた。学校は遠く、そこがもう自分とは何の縁もゆかりもない場所のように思えた。
 メリは家に帰るまでずっとただ一つのことだけを考え続けていた。そして受話器を取り、クララの番号にかけた。だが誰も電話には出なかった。午後も何度かかけ直していたら、ようやくクララが出た。彼女の声は驚いているようだった。
「まあメリったら、どうしてこんなに何度もかけてきたのよ?私に何か素敵な話でもあるの?」
「ちょっとゲンツとアルドに会いたいのよ」メリは冷たい声で言った。
「どうして?何の用事?」
「それは後で話すわ」
「オーケー、じゃあ一緒に行きましょうよ。今夜は『金魚』ってところで二人と会うことにしてるから」
 メリはアルビに、家のことを頼んでおいた。
「あんまり遅くならないようにするからね」
「またディスコへ行くの?」アルビが訊いた。
「違うわ、クララと散歩するだけよ」
 外に出たメリは、周りの目を気にすることもなかった。クララは通りで待っていて、メリに何があったのかしきりに知りたがった。
「何でそんなにカリカリしてるのよ?」
 メリは事件のことを話した。クララはびっくりしたように、一つため息をついた。
「あの二人ったら、本当にバカねえ!」
 メリはそれに何も言わなかった。
「それであなた、シドのことでそんなに頭にきてるってわけね」
「あの人たちのしたことは、本当にひどいわ」
 二人はそれ以上何も話さず、大通りへと出た。クララもイライラしていた。「金魚」という名のカフェ&バーはオリンピックスタジアムのすぐ近くにあった。名前の由来は、店内にある庭園の隅の木々の間に綺麗な水槽があって、そこに色とりどりの小さな金魚が泳いでいることによるものだった。二人はテーブル席に座り、クララがアイスクリームを二人分注文した。
 ゲンツとアルドは車でやってきた。メリがいるのは二人にとって予想外だったが、それでも笑顔で彼女に接しようとした。
「メリじゃないか、よく来てくれたねえ!」アルドは満面の笑みを浮かべながら言った。
「ちょっと言いたいことがあって来ただけよ」メリは答えた。
「あなたたちに、シドに手を出す権利なんかこれっぽっちもないわ!」
 二人はぎょっとした表情になった。
「でも、僕らは君のために行ってきたんだぜ!」ゲンツが言った。
「そんなヒーロー気取りなんて、私は頼んだ憶えないわ」
「何だって?!いや、なら、悪かったよ」
「僕らが間違っていたんなら、もちろん謝るさ、あのシドにだってね」アルドが言った。「てっきりシドの方が悪いと思ったもんだからさ。わかるだろう?頼むよ、そんなに怒らないでよ」
 そう言われて、メリも少しだけ憂鬱な表情を和らげないわけにいかなかった。
『この二人も、悪気があったんじゃないのかも。私がシドを避けるようになった理由だって知らないんだし』メリはそう思った。
「ねえメリ、こんな話はもう忘れましょうよ。今夜はもうそんな嫌な話、おしまいにしたらいいじゃないの」クララが話に入ってきた。
「あなたたちはそうすればいいわ」
 三人はメリに残るようしつこく言ってきた。アルドはウェイターを呼ぶと、ビールとフルーツジュースを注文した。そしてポケットからチューインガムを取り出して、まず女子二人に手渡した。
「食べてごらんよ。アルバニアじゃまだ手に入らないんだぜ。ねえメリ、お願いだからさ、もう許してくれないかな。僕たちもつい焦ってしまったんだよ」
 メリはキャラメルのような形をしたチューインガムを手に取ると、ろくに見もしないで口に放り込んだ。クララも同じようにした。
「ここの水槽は素敵だよ」ゲンツが言った。
「クララ、メリを案内してあげたらどうだい」
「あらそうね!」
 クララはメリの手を引いて席を立った。メリもつられて立ち上がった。
『座っていたいんだけど』メリは思った。『まあ、魚ぐらい見ておこうかしら』
 メリとクララは水槽のある方へ、興味深そうに歩いて行った。水槽の下の方は海底が再現されていて、珊瑚や緑色の海藻が植えられていた。色とりどりの魚の群れが、その間をぎこちなく動き回っている。それは、その生き物たちがどんな場所で生活しているかよくわかるようになっていた。
[訳註:原語peshku i artëは文字通りに訳せば「金色の魚」となるものの、実際には海生の色鮮やかな熱帯魚も指すことがある]
 1匹だけ、灰色の変わった魚がいて、水槽のガラスに分厚い唇でくっついている。それはじっとしたままで、まるで壁につけたフックのようだった。
「ねえ、これ、何してるの?」クララは近くにいたウェイターに訊ねてみた。ウェイターはにっこり笑って答えた。
「それは『ガラスの掃除屋』で、一日中そうやって仕事をしているんです。ガラスにくっついている微生物を食べて生きているんですよ」
 メリとクララはその不思議な魚をじっと眺めていた。一方、アルドはそんな二人を目で追っていたが
「今日はもっと強い薬があるぜ」とゲンツに言った。
「ご苦労なことだな」ゲンツは言った。「何だか効かないような気がするけどな」
「俺は、効きそうな気がするけどな」アルドは言った。
 しばらくするとメリとクララがテーブルに戻ってきた。メリは椅子に腰を下ろしたが、その時、店と歩道を隔てる柵の向こうにリンダ先生の姿が見えた。
 リンダ先生は夫のアギムと一緒だったが、二人してメリたちのいるテーブルの方をじっと見つめていた。二人には、彼女たちがずっと前からそこに座っているように見えた。リンダ先生はさっと手を振った。メリがそれに応えてくれると思ってのことだったが、メリは椅子を動かして、柵の方に背を向けてしまった。
『気付かなかったのかしら』リンダ先生はそう思った。
 クララたちはメリの落ち着かない様子に気が付いた。
「ねえ、さっきからどうしたの?」
 ゲンツとアルドは柵の方に目をやった。
「まったく、今度は何だよ?」アルドは苛立っていた。
「畜生め!」ゲンツが不満げに言った。「あれこれ口うるさく言ってきやがって」
「向こうを見ないで。私のことで来てるのよ」メリが言った。
「気にすることないわよ」クララが言った。「もう学校は終わってるんだから」
 メリは背を向けたまま、ジュースを一口ごくりと飲んだ。

* * *
 リンダ先生は、自分の生徒がこちらを見ないようにずっと座ったままでいるのが信じられなかった。
「無駄だよ」アギムが言った。
「あの娘はこっちに来るつもりがないんだ。そっとしておこうよ。君が気にする義務なんかもうないんだから」
 リンダは柵の向こうを困惑したように見つめていた。
「何で君がそんなに悩んでいるのか、僕にはわからないなあ」アギムは言った。「あの娘たちはまだ若いんだ。レモネードでも飲んで、そうしたら家に帰るだろうさ」
「アギム、メリはあんなテーブルにいるべきじゃないわ。そうでしょ?誰かが連れて帰ってあげないと、よくないことになるわ」
「君の仕事はもう終わったんじゃないか。これ以上はやり過ぎだよ」
 だがリンダ先生はもう一度振り返って、メリの方を見た。
「ねえアギム、あのメリは、私の人生の一部なのよ。必要な時に手を差し伸べてあげる人がいないからっていうだけで、彼女を簡単に失ってしまいたくはないの。もし彼女が失敗して、間違った道に落ちてしまったら、私は自分の人生の一部を無くしてしまうのよ」
 アギムは何か考えている風で、リンダ先生をじっと見つめていた。
「じゃあ、どうすればいいんだい?」
「きっと何とかなるわ。一度、メリのお父さんに会って話をしたいの」
「それで何とかなると思ってるのかい?」
「何だって、できるだけのことはやってみるわ」
「わかったよ。やってご覧。でもね、君はまた失望させられると僕は思うけどね」
 それから二人は少し歩道を歩いた。メリの家まで来ると、アギムが訊ねた。
「ここで待っていようか?」
「いいわ、先に帰ってて。なるべく遅くならないようにするわ」リンダ先生は答えた。
 リンダ先生は落ち着かない気持ちで、古びた門をノックした。犬の鳴く声がして、アルビの声が聞こえた。玄関の前にいるのが先生だったので、アルビはびっくりした。
「どうぞ」そう言いながらアルビはヴェランダの方に目をやった。
「パパ、リンダ先生だよ」
 メリの父バシュキムは不意の夜の訪問に慌てた様子で、椅子から腰を浮かした。
「ようこそいらっしゃいました、先生!すみません、あいにく娘は今留守で、その・・・」
「実は私、お父様にお目にかかりたくて参りました」リンダ先生はひどく真面目な表情でそう言った。
「とても大事なお話があるんです・・・お嬢さんのメリに関することで」
 バシュキムは軽く驚いた様子で目を見張った。
「うちの娘になにかあったんですか?息子が言うには、友達と出かけたらしいんですが」
 リンダ先生は一旦地面に視線を落とし、それから自分が心配していることをはっきりと、すべて打ち明けた。バシュキムは驚きを隠すことができなかった。
「うちの娘に限ってそんなことをするはずがありません!メリが、知らない男たちと店に入ってるっていうんですか?!」
「残念ですが・・・」
「でも、私が知っているメリのボーイフレンドはシドだけですよ!」
「私にも、どうしてこんなことになってしまったのかわかりません。バシュキムさん、メリには見守る人が必要です。あなたご自身が大変なのは私も存じています。けれども、今はお父さんであるあなたがしっかりしなければ。私の言いたいことはご理解いただけますね」
 バシュキムは、黙ってうなづいた。
「たぶん、私にも責任があります」リンダ先生は話し続けた。
「もっと早く来るべきでした。もっとメリのことに気を配るべきでした。お父様にも迷惑をかけてしまいました」
「とんでもないリンダ先生!あなたは娘のためにいろいろやってくださいました。間違いなく責任は、親としての私にあるんです」
「ええ、でも今は責任を云々している場合じゃありませんね」
 リンダ先生とバシュキムの二人はその後もヴェランダで話し合っていたが、夜10時になってもメリは戻ってこなかった。リンダ先生はずっと門の方を見つめていた。
「先生、もう夜も遅くなりました」バシュキムが言った。「おうちの方もお待ちでしょうから」
 リンダ先生は立ち上がると
「では明日、また参ります」と苛立った口調で言った。「こんなことになってしまって、本当に申し訳ありません。メリがこんなことになるまで、誰もあの娘のことを・・・」
 リンダ先生は、後ろ髪を引かれるような思いのまま、メリの家を後にした。
『あの父親に何ができるのかしら?あの人は自分の娘のことを何も知らないで、ただ驚くだけだったじゃないの。本当は一体どう感じていたのかしら?自分の担任が父親と話していたと知ったら、メリはどうするかしら?』
 リンダ先生はだんだん不安になってきた。自分が夜遅くメリの家を訪ねたことが間違いだったのではないか?それどころか、話をこじらせてしまったのではないか?そう思ったのだ。
 一方バシュキムはしばらくの間、門のところに立っていたが、不意に
「アルビ、こっちに来なさい!」と強い調子で声を上げた。
「姉さんはどこにいるんだ?」
 アルビは無言のまま、父親を見つめていた。
「クララと散歩に行ったはずだけど」
「またあのクララか!あの娘がとんだ嘘つきだってことはお前もよく知ってるじゃないか。うちはあの娘に騙されたんだぞ」
 アルビは何も答えなかった。バシュキムは門の前を行ったり来たりしていたが、その後で近所の酒場へ出かけようとした。そこは、夏は夜遅くまで開いている店だった。
「そんなところに行かないでよパパ!」アルビが言ったが、バシュキムは振り向きもせず
「俺がどこへ行くのがダメだって?」と絶望した口調で言った。
「だったらもっといい場所があるのか?あるんだったら教えてくれよ」
 バシュキムが悪態をつきながら店の中に入っいてくると、常連客達は(ほとんどはその地区の住民だったが)横目でちらちらとその様子を見た。店の主人はカウンターに手を置いたままだった。
「酒をくれ!」とバシュキムが言ったが、主人は動こうとしもしなかった。
「ダメだよ。そんなもん出すわけにはいかんね。[訳註:原文は「私は罪に入らない」要するに、相手の不品行の片棒を担ぎたくない、という意味]うちへ帰んなよバシュキム、子供たちが待ってるんだろ」
 するとバシュキムは拳でドンとカウンターを叩いた。
「くだらないおしゃべりはたくさんだ!金は払うんだから酒を持ってこいよ。これは俺の問題だ、あんたにゃ関係ないだろう」
 店の主人は、視線を左に右にと流し始めた。
「飲ませてやれよ」常連客の一人から声が上がった。
「俺のおごりだ。男同士じゃないか。一緒に飲もうや。ここ以外に行ける店もないんだろう?」
 主人はやれやれといった風でラキの瓶を持ってくると、それをグラスに注いだ。

* * *
 その頃、ディスコ「パラダイス」では、至る所から鳴り響く音楽のリズム、そして天井やフロアを照らして点々と明滅するカラフルなライトの下、メリがアルドやクララ、それにゲンツと一緒になって踊っていた。彼女たちがバー「金魚」を出たのは1時間ほど前のことで、ディスコへ行こうと言い出したのはアルドだった。バーで超有名なロックバンド「ガンズ・アンド・ローゼズ」の曲を聴いている時、メリは手を鳴らしながら声を上げて歌い始めたのだ。不思議なことに、初めてディスコに行ったあの時と同じ、抑制しきれない活力が湧き上がるのをメリは感じた。周りがチラチラとまたたく光に包まれて美しくなり、水槽の熱帯魚たちまでもが流れ星のようにぐるぐると動き出した。メリはさっきまで喋っていたことをすっかり忘れてしまった。クララも歌い始め、ゲンツにしなだれかかった。そして彼の肩にもたれかかり、キスをし始めた。まさにその時、アルドが上機嫌でこう叫んだのだ。
「さあ行こう!俺たちでディスコをかき回してやろうぜ!」
 クララは嬉しそうに両手をすり合わせた。ゲンツはただ微笑んでいるだけだった。何もかもがまさに奇跡のように思えるような、そんなわくわくするような状況の中で、メリは、家のことも時間のことも完全に忘れていた。アルドが彼女の手を取った。
「さあメリ、今夜は朝まで踊ろうぜ、なに構うもんか!」
 メリは彼の後に着いていった。こんな不思議な感覚が、自分の頭の奥底にどうして潜んでいたのかもわからないまま・・・
 ところが夜も更けてきた頃、急に全身の汗が冷えてきたメリは、我に返ってしくしくと泣き始めた。クララに連れられ、新鮮な空気を求めて外へ出ていくと、アルドとゲンツがドアのところまで見送った。
「ほら、またこんな有様だよ」ゲンツはイライラした調子で言った。「もうたくさんだぜアルド!あの娘は向いてないんだ。身体はともかく、頭の中はまだガキなんだよ」
 そう言われてアルドは歯ぎしりした。
「メリはガキなんかじゃない!ただ運が悪かっただけだ。だがな、また今度同じことになったら俺も言わなきゃなるまいさ。その時はもうあの娘をディスコへは連れて行かないよ」
「ねえあなたたち、何してんのよ?」クララが声をかけてきた。
「俺たちを、財布か何かみたいに考えてやがる」ゲンツが苛立った声で言った。「車を取ってくる」
 アルドはメリとクララのところに近付くと
「メーリーユールちゃん!」とからかうようにメリに話しかけた。「音楽が気に入らなかったかな?ねえ、君にはここは何もかも嫌なんだよね。じゃあさ、俺たちと一緒にギリシアへ行こうぜ。ねえ聞いてる?」
「おうちへ帰りたいの!」と怯えた声でメリは言った。

19
 メリたちを乗せた車がクララの家の前に着いた時、メリの父バシュキム・ジョカは自宅の玄関のところで待っていた。彼は、自分の娘が見知らぬ車から降りてきて、尋常でない足どりへこちらへ来るのを見ると、苛立ちをあらわにした。それで何とか自分を抑えようと思ったか、幾分異様な動きで家の中へ戻った。その様子を、アルビが不安そうな表情で横目に見ていた。
 メリは汗びっしょりで、疲れ果てた表情のまま玄関から廊下に入った。すると父と目が合ったので、視線を逸らした。
「どこに行っていた?」そう言いながらバシュキムが近寄ってきた。
「バーと・・・それから・・・ディスコに行って・・・パパ・・・説明させてちょうだ・・・」
 だがメリは言葉を続けることができなかった。激しいびんたをくらって全身が激しく揺れた。頭がぐらぐらとして、目から火花が飛んだ。
「何が説明だ!」バシュキムは怒声を上げた。「あの車の連中はどこのどいつだ!」
 バシュキムは娘の髪をつかみ、さらに殴りつけた。メリは石のように固まり、目は大きく見開かれた。視線は父親に釘付けになり、口はぽかんと開いたままで、唇も舌もかさかさに乾ききっていた。メリは自分の身に起こったことが信じられなかった。父親に殴られたのは生まれて初めてだった。それが父親の手だということさえ信じられなかった。
 その時、アルビがすさまじい表情をしてバシュキムとメリの間に割って入った。そしてメリの身体をかばうようにしながら、涙声でバシュキムに向かって言った。
「姉さんに手を出すな!パパに姉さんのことを言う資格なんかない!」
 メリはアルビの背後で固まったまま、ぶるぶると震え出した。その光景を目にしてバシュキムははっと我に返り、そのまま後じさりすると、椅子にどかっと座り込んだ。視線は子供たちに向けられたままだった。そのまま互いにじっと睨み合っていたが、やがてアルビがメリの手を取り部屋へ引っ込んだ。それから、ドアの鍵をカチャリとかける音がした。
 バシュキムは何度かその部屋のドアに近付こうとしたが、足が動かなかった。しばらくすると部屋の中から子供たちの泣く声が聞こえてきた。耐えきれなくなったバシュキムは家の外へ飛び出すと、そのままその足で、先ほどまでいた酒場へと向かった。
 バシュキムが出ていくと、それを追うようにスパーキーの吠える声がした。
「出て行った」アルビはメリに言った。「もう心配ないよ」
「大丈夫よ」とメリは答えたが
「頭がガンガンするの。全然おさまらないわ」
「ねえ、今度、僕がイタリアへ一緒に行こうって言っても、姉さんは何も言わないよね!こうなったら限界だよ。もうどうなったって構うもんか」
 その夜遅く、幾らか落ち着いてアルビも眠りについた頃、メリはアルビに言われたことを思い返していた。家を出るという考えが、初めてメリの頭の中に浮かんだ。
『ここにいてどうなるの』とメリは思った。
『ずっと同じことの繰り返し。高校にも行けないし、シドも、クラスメートもいなくなる。誰が自分のそばにいてくれるというの?』
 その時、アルドとクララとゲンツと一緒にギリシアへ行く話を思い出した。
『明日、朝になったらクララに電話しよう』メリは追い詰められた気持ちになっていた。
『クララと一緒に行こう』
 その夜、メリの人生も未来も今まで以上に空虚に感じられて、まるで荒れる海のようだった。空はどんよりと曇り、波打ち際まで垂れ下がり、どこを向いても水平線も陸地も見えない。ひとかけらの希望すらそこには見出せなかった。まるで嵐に巻き込まれた船乗りのように、寝付くことさえできなかった。ようやく目を閉じたのは夜が明ける頃で、庭の外で犬たちが吠え合っていた。それはまるで、人間にわからない不思議な言葉で挨拶しているようだった。
 朝になってメリが起きてみると、クララへ電話しようという気はすっかり失せていて、電話の方を見る気にもなれなかった。けれども、またいつか絶望的な状況に置かれたら、家出しようという誘惑に負けてしまうだろうということがメリにはわかっていた。そういうことが起きても全く不思議ではなかったのだ。
 そうしてメリは何時間も、ベッドから起き上がれずにいたので、アルビがベッドまで食事を持ってきた。ようやく午後になって、うんざりしながらもいつもの習慣で、メリは花束を集めた。それを新聞紙にくるむと、メリは墓地へ向かった。曲がりくねった陰鬱な地面をたどって行くと、母の墓の前に出た。墓石にはまだ大理石も張られていなかった。母の死から1年が経っても、墓石を整えることさえできなかった。その墓の上に、まだ切りたての新しい花束が置いてあった。メリはその花に見憶えがあった。そこに何日か前に来たのは父しかいないということが、メリにはよくわかっていた。
 メリはひざまづき、墓の上に花束を置くと、母の名が刻まれ、母の写真がある墓石の表面を掌で撫でた。目に涙が溢れた。
[訳註:アルバニア人の墓石には、名前や生没年と共に、故人の顔写真が小さくモノクロで刻まれることが多い]
 そうしてずっとひざまづいていると、もし母親が死んでいなかったら、自分たちの人生はどれほど違っていただろうと思えてくるのだった。家族はみんな幸せで、何の問題も諍いもなかっただろう。父親も酒びたりになったりせず、アルビは家を出て行こうなんて思いもせず、彼女自身もこんな状況に追い込まれたりしなかっただろう。
『神様、どうして私たちにこんな運命をお定めになったのですか?』メリは疲れ切った心の中で問いかけた。『あなた以外に、誰が今の私たちに手を差し伸べてくれるのですか?』
 ふと気付くと、一人の老婆がメリの肩に手を置いていた。
「お嬢ちゃん、こんなところにずっといるのは良くないよ」
 メリは立ち上がって、ゆっくりと、まるで何か高価なものを置き去りにでもしたようなおぼつかない足取りでその場を離れた。家にたどり着くとそこにはアルビとノラしかいなかった。
「ママのところに行ってきたの?」アルビが訊ねた。
「ママを困らせてきちゃったわ」
「で、これからどうするの?」
 メリは何も答えなかった。夜になって父親が帰ってきたらどうなるのか、彼女にもわからなかった。
「例のクララから姉さんに電話があったよ」アルビは姉の方を見ず、背を向けたままそう言った。
「何の用だって?」
「さあね。電話して欲しいってさ」
 メリはどうでもよさそうな素振りを見せたが、彼女自身もまるで自信が無かった。それからアルビと一緒に家の庭に行くと、そこにある木製の椅子に腰掛けたまま、夜遅くなるまでじっと座っていた。父バシュキムが帰ってきた気配がしたが、誰も立ち上がろうとはしなかった。
「また殴られたらどうしようか?」アルビが訊いてきた。
 メリはぐっと唇を噛みしめたまま、ただ壁の辺りを見つめていた。電話のベルが鳴る音がした。クララからだった。
「ねえ、あの件だけど、考えてくれた?」
「何のこと?」
「何ってギリシアのことよ!もう出発しなきゃ」
 メリは混乱した。
「ごめんなさい、私・・・何も約束できない」
「私たちはあなたが・・・来てくれると思ったのに」
「ダメよ・・・私は・・・」
「そんなに考えなきゃいけないことなの?」
「クララ、私、もうこの話のことは考えたくないの!お願いだからもう言わないで!」
 メリは相手に何か言わせる間も与えず受話器をガチャンと置いた。クララがどうしてそこまで自分にこだわるのかわからなかった。どうしてクララもアルドもゲンツも、自分と一緒にギリシアへ行くことばかり待ち望んでいるのだろう?
『本当に、本当にごめんなさい』と心の中でつぶやきながら、メリは家の周りをうろうろ歩き回り始めた。どうしてあの人たちは自分に近付いてきたのか?これから先、自分を助けてくれるのは本当にあの人たちしかいないのだろうか?
 そんな6月の長い一日が過ぎる中、メリはアルビやノラと一緒に座り、庭の陰でゲームをして遊んでいた。ゲームはそれほど気を紛らわせるものではなかったが、それでもメリたちはサイコロを投げ、小さなマスを辛抱強く数えていた。まだ自分たちの身に起きたことに不安を感じていて、この状況がいつ、どんな形で終わりを告げるのかもわからないままだった。何度かお互いに視線を合わせ、沈黙のままこう問いかけていた。
『パパのこと、どうしようか?』
[訳註:「ゲーム」は原語で“Mos u nxeh”(怒らないで)]
 そんなうんざりするような状況が続いている中突然、門を叩く音がすると、玄関のところで余りにも聞き憶えのある声がした。
「メリ!」
 メリはビクッとして立ち上がった。
「シドだ!」アルビが小声で言った。「いいかい、出て行っちゃダメだ」
「メリ、そこにいるの?」
 メリは、どうにか身だしなみを整えながらゆっくり玄関へ近付いた。シドは自転車のスタンドを立て、落ち着かない様子で待っていた。メリが挨拶すると
「ごめんね、こんな急に」シドが言った。「君に関することで、話したいことがあって」
「聞かせて」
「ゲンツとクララと、あともう一人、ゲンツの仲間のことをいろいろ聞いてきたんだ。気をつけてメリ、あいつらはクスリをやってるんだよ」
 メリは驚いて目を見開いた。
「シド・・・あなた、それ・・・確かなの?」
「勿論さ。信じられないなら、チームメイトのアドリアンの電話番号を教えるよ。あいつなら知ってる。アドリアンはアルドの近所なんだ。アルドの家庭のことで、もっと詳しく教えてくれるはずだよ」
 メリは恐怖で震え始めた。
「どうしたの?」シドが訊ねた。
 しかしメリには、二度にわたってディスコで起きた出来事について、シドに語る気にはなれなかった。最初はコカコーラを飲んだ時、そして二度目は何だか知らないチューンガムを口に入れた時、それらのことと、急に気分が良くなったこととの関連が今になってはっきりわかったのだ。二回とも、ほんの半時間足らずで歌ったり笑ったり、大声で叫び出したい気持ちになっていた。そうして今までないほど気持ちが良くなったその後は、陰鬱な気分になり、胃がむかむかし、頭が痛み、冷や汗が流れ、眠れなくなった。今になってみれば何もかもがおかしかったのだ。店で座るように勧められたこと、ディスコへ行こうとしつこく誘われたこと、道端でアルドが待ち構えていたこと、不意にギリシア行きの話を持ち出してきたこと、クララがやけに親切だったこと、誕生日にまで誘われたこと。驚きはますます増していって、もはやシドと目を合わす元気も残っていなかった。
「メリ、どうかしたの?」シドが訊いてきた。
「ごめんシド、もう中に戻ってもいい?」
「いいとも、また話そう。それと、アルビにも伝えておいて。おむつの話は気にしてないからってさ。じゃあね!」
 シドが帰ろうとして自転車に戻りかけた時、玄関口にバシュキム・ジョカが姿を現した。
「おや誰かと思えばシドじゃないか!」そう言いながらバシュキムはシドに親しげに握手を求めてきた。
「最近見かけなかったじゃないか、どうしてたんだい?」
 シドは、そんなバシュキムの態度を予想していなかった。
「ええ・・・バスケの練習に、勉強に・・・」シドは戸惑い気味に答えた。
「ご家族はどうだい、元気にしてるかい?」
「ええ、どうも」
「どうだね、少し上がっていかないか?」
「いや、また今度」
 バシュキムはメリの方を見たが、メリはうつむいたままだった。彼女の視線がどこに向いているのか、シドにもわからなかった。メリと父親との間に何かがあったことが察せられた。何か容易ならざる状況が発生しているようだった。
「じゃあ気をつけて!」そう言いながらバシュキムはあらためてシドの手をしっかりと握った。それからメリの前を無言で通り過ぎると、ヴェランダの階段を上がって家の中に姿を消した。
「何だかマズいところに来ちゃったみたいだね」シドはつぶやいた。
 メリはずっと横を向いたままだった。
「あれが、僕と一緒にいちゃダメだって言った君のお父さんなのかい?」シドが訊ねると
「そんなの、どこかの嘘つきがでっちあげたに決まってるでしょ!」メリはぼそっと言った。
「何だってそんな嘘をつく必要があるのさ?」
「必要だったのよ」
「頼むよメリ、本当のことを話してよ、こんなうんざりすること、僕らもうやめようよ!」
「本当のことって何よ?」
「どうして僕を避けるの?」
 メリはもう我慢ができなくなった。顔を上げ、涙に濡れた目でシドをじっと見つめると、「本当のこと」をほんの二言三言で語った。それを聞いたシドは後ずさりした。
「メリ、嘘だ、そんな馬鹿な!」
「ごめんね、シド・・・」
「だから僕に何も話してくれなかったの?!」
「何を話せばよかったのよ?」
 シドはただひとこと「おやすみ」とつぶやいてうしろも見ずに走り去った。メリは自分が何を考えていたのかもわからなくなって、玄関の真ん中に立ち尽くしていた。恐怖と不安を感じていた。何週間も前からシドに言いたくてたまらなかったことを打ち明けたのに、気持ちは軽くならなかった。それどころか、何もかもが前よりもっと悪くなったようにさえ思えた。
 それでも、クスリという言葉を聞いても不安はそれほどはっきり現れてはこなかった。クスリについてメリが知っていたことはごく僅かで、それも曖昧なものだった。学校に心理学の先生が来て薬物について話をしてくれたことはあったが、今になって最初にメリが不安になったのは、薬物による影響のことだった。まるで自分の中に得体の知れないものが入り込んで、治すこともできないまま留まり続けるように思われた。
 メリはアルビに、自分が眠るまで傍にいてほしいと頼んだ。
「シドは何しに来たの?」アルビは興味津々で訊ねた。
「ちょっとね。また今度話してあげるわ」
「僕のこと言ってた?」
「オムツの話はもう気にしてないって」
「本当?!ねえ、シドってそんなに悪いヤツじゃないよね」
 メリは自分でもよくわからぬまま、ため息をついた。
「あの人はとってもいい人よ、アルビ。あんな素敵な男の子、もう会うことはないでしょうね」

* * *
 シドの様子が余りにもおかしかったから、テーブルに料理を並べ食事をしようと待っていたシドの両親はギョッとして目を見張った。
「どうしたシド、また喧嘩かい?」父アリアンが訊ねた。
 シドは玄関のところで、両手で頭を抱え込んでいた。
「喧嘩なんかじゃないよ」
「じゃあ、試合にでも負けたかい?」
「パパ、僕は大事な大事な友達を、今失ったところなんだよ」
「おや、そりゃメリのことかい」
「うん。それもママのご命令でさ」
 エロナはパッと顔を赤らめ、そしてアリアンにまるで助けを求めてでもいるような視線を向けてきた。アリアンはエロナを見たが、それはまるで患者を診るような目つきだった。
「エロナ、これはどういうことなのか聞かせてくれるかな?」
「私は・・・シドのためによかれと思って、そうしたのよ」
「したって、何を?」
「メリに頼んだのよ、もううちのシドと付き合わないで欲しいって」
「どうして?!」
「理由はあなただってよく知ってるでしょ」
 アリアンはシドの方を見た。
「だからって、シドに相談もせずそんなことをしたのかい?」
「シドと話なんかできるわけないわよ、メリの話になるとそうなんだから」
「ママにそんなことする権利はないじゃないか」そう言うシドの声は震えていた。
「メリは絶望して、もっと大変なことになるかも知れないんだよ」
 エロナはやれやれといった風に両手を広げた。
「わかったわよ、そうやってママが悪いことにするのね。でもね、こんなこと、いつか終わりにしなきゃならないのよ。そうでしょシド?」
「どうして終わりにしなきゃならないんだよ?」
シドが言った。
「どうしてって、そういう状況だからよ。私たちが、酒場で飲んだくれてるメリの父親や、それにあの弟のことで、責任なんか持てないでしょ」
「メリは僕の大事な友達だよ!」
「あんなありふれた娘、どこにでもいます!」
「そんなことない!ママはメリのお父さんがやけになってお酒を飲むようになってからそんな嫌らしい見方をし始めたんだ。あんなに素敵な家族だったのに、不運なことが重なって、それでメリのお父さんがお酒を飲み出した途端、ママはあの家族を馬鹿にし出したんじゃないか。ママもパパもあの家族をなんにも助けてあげようとしなかった。メリのお父さんが職を失って、お酒に走った時、小指一本動かそうともしなかったじゃないか」
 エロナもアリアンも、固まったまま息子の方を見つめていた。シドの言葉は激しさを増した。
「目の前で一つの家庭が壊れていくのに、ママもパパも、メリから僕を助け出すだとか、そんなことばかり必死になって!それもこそこそと。メリは僕に苦しんでる素振りも見せなかったのに!ママとパパときたら、海外出張だとか高級マンションだとか外車だとか携帯電話だとか、そんな話ばかりして、何もできずに壊れていく家族のことはこれっぽっちも見ようとしなかったくせに。自分たちの息子の、大事な友達の、その家族なのに!ねえ、ママもパパも、一体どういう人間なの!」
 アリアンとエロナは口をぽかんと開けたままだった。まるで世界一難しい謎を解けと目の間に突き出されているようだった。
「ねえ、お願いだから教えてよ!」シドは問い続けていた。
 アリアンはエロナの方を見た。
「どうなんだろうねエロナ、私たちはどういう人間なんだろうな?」
「私たちは二人とも、この町の善良な市民です」エロナは冷たく言った。
 するとアリアンは激しく首を振った。
「違うね!私たちの息子が知りたいのはそんなことじゃないよ。メリだって、君が言ったのと違うことを考えてるさ。シドもメリも私たちの子供だし、私たちのことを違った風に判断している。私たちが自分たちのことを考えているのとは全然違った風にね。そして残念ながら、正しいのは子供たちの方だ」
「どうしてよ?!」
「何故って、彼らが子供だからだよ!子供たちは賢くて、真面目で罪が無いし、大人の嘘やごまかしを認めない。だから、これはむしろ幸いなことだけど、家の壁の外で苦しんでいる人たちがたくさんいるのをよそに壁の内側で快適な生活を送り、清潔を保っていたいなんていう野蛮な欲望も彼らは認めないのさ。ねえエロナ、私たちの息子がこうして悩んでいる限りはダメなんだよ。このままだと状況はもっと悪くなるような気がするね」
「何がダメなのよ?」
「シドの言う通りだってことさ。私たちはメリの家族のために何かできることがあったかも知れないんだ」
「うちは慈善団体じゃないのよ!」
 アリアンは苦笑した
「明日もしかしたら、同じ不幸が私たちの身にも起こるかも知れないとしたら、私たちは慈善団体を頼るしかないのかい?」
 エロナはテーブルの上をじっと見つめたまま
「私は間違ったことをしたのかしら」と言った。
「メリのところに押しかけて、うちの息子と別れてくれだなんて、そんなことを君は言うべきじゃなかったんだよ!」アリアンは言った。
「それが君の間違いさ。そして君はそのことでシドに謝るべきだ。でも、それは今夜じゃなくてもいい。私たちはもう少し話し合うべきだ、シドと一緒にテーブルに着くのはそれからさ。それぐらい問題は深刻なんだよ」
「ああそうやって何でも私のせいにするのね!やめてちょうだい!私に謝る理由なんかないわ。みんなみんな、シドのためによかれと思ってしたことなのよ」
「君はメリに手を差し伸べるどころか傷つけたんだよ。それが間違いなのさ。もう一度言うよ、シドの言う通りだ。シドのためによかれと思って私たちは間違ったことをしていたんだ。少しばかり自分勝手にね。だが、まだ手遅れではないよ」
 アリアンはテーブルを立つと、シドのそばに腰掛け、その肩に手をかけた。
「なあシド、パパたちに少しだけ考える時間をくれないかな。約束するよ、決してお前をがっかりさせるようなことはしない。パパたちにも至らないところや、たぶん間違ったところがあった。誰かがそう言ってくれる必要があったんだが、お前が言ってくれてよかったよ。お前もこんな周囲の利己的な態度に我慢ができなかったんだね」
「僕も考えてみる必要があるよ」シドが言った。
「部屋に戻ってもいいかな?」
「食事はしないのかい?」
「向こうでハンバーガーでも食べるよ」
「オーケー!いわゆる暫定的な和平成立だ、有難いね」そう言ってアリアンはエロナの方を見た。
「あの子も立派になったな」シドが自分の部屋に入ると、アリアンは言った。「私はそれが嬉しいんだよ」
「シドはまだわかってないのよ、バスケの外にどんなことが待っているのか」エロナは言った。
「あの子はまだ小さくて、外の世界の暮らしもわからない。あの子があの立派な考えのせいで損な目に遭うんじゃないか、私はそれが心配なのよ。そういう立派な人間が生きられる時代じゃないわ。今は真面目な人間がバカを見る時代なのよ」
「だが、明日はそうじゃないかも知れない」
「私はそうは思わないわ。私たちが生きている今のシステムでは、そういう誠実さは追放されてしまうのよ」
「それは違うよ!誠実な人間はどんな時代にもいたし、これからもいるだろうさ。さあ、食事を済ませたらじっくり話し合おう」
「私は納得なんかしませんからね、アリアン」
「納得させてみせるさ」

20
 スパーキーが神経質そうに吠える声でメリは目が覚めた。
「家の前に、あのクララとかいう娘がいるよ」少し前に先に起きていたアルビが、大きめのタオルで顔と首筋を拭きながら言った。
「何だかご機嫌斜めみたい」
 メリは着替えて外に出て行ったが、事情ははっきりわかっていた。クララは素っ気ない口調で朝の挨拶をすると
「昨日、電話であんな言い方されるなんて思ってもみなかったわ、どういうことなの?」と不機嫌そうに尋ねてきた。
「ごめん、ちょっとイライラしてたのよ」メリは言った。
「でもどうして?」
「クララ、先に私の方から訊きたいことがあるのよ。アルドとゲンツは、あのディスコにいた時、二度も私たちにドラッグを飲ませたんでしょ?」
 するとクララは、わけのわからないものにでも出くわしたかのように目を見開いた
「メリったら、あなた何を言ってるの?私のゲンツをそんな風に言わないでちょうだい!彼はそんな汚いことなんかしないわ」
「怖いのよクララ、あの人たちは私たちに内緒でクスリを飲ませたのよ」
「もうやめてよ、何を馬鹿馬鹿しいことを言ってるの?何であなたにそんなことがわかるのよ?」
 メリはぐっと言葉に詰まった。その事実を伝えたのがシドだということは言うまいとしたが、相手はすぐにピンときたらしい。
「そんなでっち上げ、どうせあのバスケ君が吹き込んだんでしょ?」クララはにやにやしながら言った。「ははぁんそうか!あの彼氏ったら、アルドとゲンツのあることないこと言ってまわってるのね。きっと他にもそういうこと言ってるのよ!そんなの、みんなあなたを私たちから引き離そうとしてやってることなのよ。あなた、そんなことをまだ信じるほどお馬鹿さんなのかしら」
 するとメリは、もううんざりだというしぐさをしてみせた。
「クララ、私は今までのことは知らなかったことにしてあげる。シドがウソをついてるっていうならそう思えばいいわ。そんなこと私にはもうどうでもいい。でもね、はっきり言うわ、私はもうあなたたちとは付き合わない。だからお願い、もう私に声なんかかけてこないで!」
 クララはメリを見つめていた。
「でも私たちは、私は、あなたのこと助けてあげたかったのよ!あなたが苦しんでるから、何とかしてあげようって!」
「心配してくれて有難う。でも、私はこの家を離れるわけにはいかないわ」
 クララはひどく落胆したようだった。
「よくもそんな盗っ人猛々しい恩知らずなことが言えたものね」その声は怒りに震えていた。
「あなたなんて、これからいくら友達を探したってもう見つかりっこないんだから!」
「そう思いたいなら勝手に思えばいいわ」メリは冷たく言い放った。
「あなたの顔なんか二度と見たくもない!」
そう言ってクララは立ち去った。
「貧乏人が近所の魔女みたいな婆さんと二人してビュレクでもこねてればいいんだわ!」
 門がガチャンと乱暴に閉まると、メリは玄関の真ん中で、腕組みしてポツンと立ったままだった。
「姉さん、そんな気にするなよ」背後からアルビが声をかけた。「あれでよかったのさ」
 メリはアルビを不安そうに見つめた。
「アルビ、今の話、聞いてたの?」
「自然に聞こえてきちゃった。でも姉さん、僕に隠し事なんてずるいよ」
「誰にだって秘密の一つや二つあるわ」
「そりゃそうだ。で、これからどうするの?」
 するとメリは辺りを見回して
「もう一度寝直したいんだけどね」とけだるい口調で言った。
 その日は、前の日よりさらにうんざりする一日で、口ではああ言ったものの、結局メリはその後一睡もできなかった。アルビに何かを言われてもうわのそらで、何度も電話の方に目をやっていたが、ベルが鳴ることはなかった。
「姉さん、まさかシドがまた来てくれるなんて思ってないよね?」アルビがふと訊ねると
「さあね」とメリは返した。
 いよいよ暑さが増してきて、二人の憂鬱が限界に達しかけたその時、突然、門の前に車の停まる音がした。メリはぱっとアルビの方を見ると、いそいそと奥に引っ込んでしまった。すぐにアルビは自分の姉の不安の意味に気付いた。スパーキーを連れて行こうかとも思ったが、考え直して、どきどきする胸を押さえながら玄関のところで待ち構えていた。ところが、門をトントンと軽く叩く音に続いて、その門を開けて中へ入ってきたのは40代半ばぐらいの男の人だった。こめかみのあたりに白いものが混じり、メガネをかけたその顔立ちは、明らかにデスクワークをしている人のそれだった。アルビはすっと息を吸い込んだ。
「もしかして、シドのお父さん?」
 すると相手はにっこり微笑んだ。
「そうだよ。でもバスケはやらないけどね。君はメリの弟さんだね?」
 アルビは慌ててうなづいた。どうしてこの人がうちを訪ねてきたのか、さっぱり見当もつかなかった。
「どうぞこちらに、座ってください」アルビはそう言ってヴェランダへ案内した。
「私はね、君たちのお父さんに会いたくて来たんだよ」
「パパはまだ帰ってないんですけど」
「じゃあ待たせてもらおう。庭を見せてもらっていいかい?ここはすごく涼しいんだねえ」
 アルビは満足げに廊下を通り、家の周りを案内した。
「うちには犬もいるんです。スパーキーっていいます」
「いい名前だね」
 そうする内にメリが奥から出てきたが、彼女も事態がまるで呑み込めていなかった。
「で、こちらが姉のメリです」アルビが言うと、アリアン・アルバナは笑いながら
「やあ、これは見違えた!元気だったかいメリ、久しぶりだねえ」
と言って、メリの手を親しげにぎゅっと握った。
「少しここにいたらどうだい?」そう言いながらアリアンは木の下にあるベンチへメリを座らせた。「で、調子はどうだい?」
 メリとアルビは肩をそびやかした。
「生活は苦しいもんですよ、先生」アルビが言った。
 するとアリアンも肩をそびやかした。
「楽なことなんてないよね!ああ、メリはどう思ってるのか訊きたいな」
「私も、そう思います」メリは答えた。
 アリアンの表情はとても優しげで、その刹那、きっと何か、何か素敵な香りのするような、そんなことが起こるような感じがした。
「アリアンのおじさん、コーヒーでもいかがですか」しばらくしてメリは言った。
「ありがとう、喜んで」
 メリが家の中に引っ込んでいる間、アルビはアリアンの方を横目でちらちらと見ていた。何の話をしたらいいか、わからなかったのだ。
「犬のことって知ってます?」長いこと考えてから、アルビはそう訊ねた。
「少しはね」
「犬が自分の住んでる場所におしっこをするのは何故だと思います?」
「さあ」
「そこが自分の場所だって教えるためです。お互いに場所を分けて。おしっこの匂いがするとよその犬は寄り付きませんから」
 アリアンは笑った。
「ははあ、それは面白い!それは考えてもみなかったなあ。じゃあ犬の方が人間より簡単だね、お互いを隔てるのに壁なんか作らなくていいんだから」
 アリアンたちがそうして長いこと庭に座って話していると、バシュキムが戻ってきた。メリとアルビは不安になって、互いに目を見合った。
『またパパが飲んでたらどうしよう』
しかしバシュキムにその気配は見られなかった。
「これは先生!ようこそいらっしゃいました」
 バシュキムとアリアンは二度ほど学校で会ったことがある。リンダ先生と父母の懇談会の時、それと、シドが優勝カップを貰ったバスケの試合の時だった。
「やあバシュキムさん!すみません、連絡もなしに押しかけてしまって」
「連絡なんて構いませんよ先生。で、お車に何か故障でも・・・」
「いや、故障といっても、別の種類の故障なんですが」
 二人は初めのうち、道路事情とか、そのせいで車に出来た傷の話とか、ごくあたりさわりのない話をしていた。しかしやがてアリアンは真面目な顔になると、こう言った。
「バシュキムさん、もしよろしければ、少しお話ししたいことがあるのですが」
「いいですとも」バシュキムは答えた。
 メリとアルビがその場を離れると、アリアンとバシュキムの二人だけになった。
「バシュキムさん、私は今日、医者として、またシドの父親としてここに参りました」そしてアリアンは言葉を続けた。
「うちの息子とメリさんは友達同士です。二人はお互いのことも、お互いの家族のこともよく知っている。つまり、シドにしても、また私にしても妻にしても、あなた方の抱えている問題はよく承知しているのです。その問題をこれ以上長引かせないために、私はあなたをお助けしたいと思っています。私の申し出を、どうか受け入れていただけないでしょうか」
 バシュキムは、アリアンの言葉に何か重要な意味が含まれていることに気付いた。
「伺いましょう、先生」
「私は、あなたのアルコールにまつわる問題は克服することが可能だと思うのです」
「えっ?」
「あなたは数日ほど、入院するだけでよろしい。アルコール依存症の治療のためです。私の同僚でその方面の専門家がいます。私もそばでお世話しましょう」
「それで、私が救われるというのですか?」
「多くの治療事例で、効果が得られています」
 バシュキムはひとしきり考えているらしかった。
「先生、何もかも私には急な話で」バシュキムは興奮気味に言った。「先生は一体、どうして私のためにそこまでしてくださるんですか?」
 アリアンは、左手の親指と人差し指でメガネを少しだけ押し上げると、こう言った。
「この際、どこまでも正直に申し上げますが、私はこれでも遅過ぎたぐらいだと思っています。自分は今の今まで何をしていたのか、とね。いつも自分の仕事、自分の利益ばかり優先して、あなたの身に起きたことなど気にも留めなかった。でもある人がそれを思い出させてくれた、厳しく指摘してくれたんです。『いい加減にしないか、お前は医者だろう、人間だろう、このままではダメだ』とね。たぶん信じますまいがね、その人というのがあなた、うちのシドなんですよ」
 そこでバシュキムは微笑んだ。が、考え深げな表情は変わらなかった。
「先生がそこまで言ってくださるなら、聞かないわけにはいきませんな。それで私の状況が良くなるのでしたら、私はどんな治療でも受ける覚悟ですよ」
 アリアンはバシュキムに手を差し伸べた。
「わかっていただけて、嬉しいですよ。さあ今度はあなたが勇気を出す番です!きっと良くなりますよ」
 二人は互いの手をしっかりと握った。
 家を立ち去る間際に、アリアンはメリとアルビにも声をかけた。そして二人のもてなしに礼を言った。
「あ、そうそう忘れるところだったよメリ」門を出るところでアリアンが言った。
「シドから君に伝えて欲しいって言われたんだけどね、明日の午前中はバスケの練習に行ってるそうだよ」
 メリはわかったという風にこくりとうなづいた。『そんなこと、電話で言ってくれてもよかったのに』とぼんやり考えていた。アリアンの突然の訪問についてもメリにはわからないことばかりだったが、父バシュキムと玄関で二人だけになると、あらたまった表情でこう訊ねられた。
「メリ、ちょっと訊きたいんだが」
 メリは顔を上げた。そして父娘は、さっきの不思議な出来事から初めてお互いの顔を、まるで知らないもの同士でもあるかのように見合わせた。
「シドのお父さんに、病院に入院してアルコール依存症の治療を受けるように言われたんだ。お前何か知ってるのかい?」
「ううん」メリは即座に答えた。
「お前が向こうの家に、というかシドに、うちを助けて欲しいって頼んだんじゃないのかい?」
「全然」
「じゃあ、あのシドが全部、自分の頭で考えてやってくれたっていうのかい?」
「パパ、彼がそうしてくれたかどうかは、私にもわからないわ。でも、私はきっと彼がしてくれたんだって思うの」
「素晴らしい男の子だなあ!」バシュキムはため息をつきながら、家の中へ入っていった。
『でもねパパ、私はずっと素晴らしい男の子だって思ってたわよ、何年も前に会った時から』
メリはそう思った。
『それにしても彼の家で何があったのかしら?』メリは一度は電話してみようと思ったが、電話で話すようなことではないと思い直した。
「姉さんってば、何を庭の彫刻みたいに突っ立てるのさ?」アルビの声がした。
「ねえ、アリアンおじさんが何しに来たか、わかった?」
 それでメリは事情を話して聞かせた。
「どうなってんの、それ?」アルビが言った。
「また今度、いろいろ話してあげるわ」メリはそう約束した。
 その晩、メリはいつもよりも父のそばにいた。メリとバシュキムと妹のノラはテーブルで一緒に食事をした。アルビにも声をかけたが、アルビはテレビの映画に夢中でそれどころではなかった。
「僕のご飯、こっちに持ってきてよ」
夏場にテレビを置いているヴェランダの方からそんな声がした。しかしメリはテーブルから離れなかった。
「持って行ってやりなさい」バシュキムが穏やかな口調で言った。
 メリは食事の皿を持って行くと、アルビの膝の上に載せてやった。
「そっちはどうなの?」とアルビが小声で訊いてきた。
 メリは、何と答えたらいいかわからず、ただ弟の顔を見つめただけだった。
 その夜、メリは長いこと、ぼんやりとした喜びを感じながら過ごした。
『何かいいことがありそう』彼女は思った。
『きっと、何かいいことが』

* * *
 翌日、メリはほんの少ししか寝ていなかったのに早く目が覚めた。起き出して服を着替え、そこら中を掃除して回ったが、さほど時間が経っていない感じがした。バシュキムが玄関に姿を見せた時、メリは花に水をやっていた。バシュキムは「おはよう」とだけ言って、門の方へ歩いて行った。
「パパ今日はお仕事?」メリが問いかけると
「うん、たぶんね。夕食には戻るよ」
「気をつけてね!」
 メリは朝食の用意にかかった。そしてようやく何もすることがなくなった時、ふと気付いて壁にかかった時計を見ると、針は9時を指していた。
「何してるの?」アルビが姉の方を横目で見ながら訊いてきた。
「何よ、変に見える?」
「全然変だよ」
「ほら遅くなっちゃうわよ」そう言いながらメリはつとめてアルビの視線を避けようとした。出かける時も、シドの家で何が起こったのだろうと、そればかり考えていた。ところが家から200メートルと離れない内に、メリのそばで車のブレーキの音がした。運転席にゲンツがいるとわかった。アルドが急いで車を降りると、こっちに向かってくるのが目に入った。その顔はメリを震え上がらせるほど険しいものだった。前に会った時のソフトな感じはもう跡形も残っていなかった。アルドはメリの腕を摑むと、押し殺したような声でこう言った。
「お前よくも俺たちをコケにしてくれたな。さんざん勿体ぶりやがって。ちょっと来いよ、車の中で話を聞かせてもらうぞ」
「話すことなんか何もないわ」メリは怯えた声で言った。
「車に乗れ!」
 アルドは強引にメリを車の開いたドアの方へ引っ張っていった。メリは精一杯抵抗したが、アルドに拳で背中をどやしつけられ、一瞬息ができなくなってしまった。アルドに後部座席に押し込まれ、通りがかりの人たちの驚いたような視線を浴びながら走り出した。ゲンツは後ろを振り向くと苛立った口調で言った。
「おいおい何てことしてくれたんだよ?」
 アルドはメリの髪を摑んで座席に押し付けた。
「この高慢ちきのぶりっ子に教えてやるんだ!」
 メリは大声を上げて泣き叫んだが、アルドはその顔を容赦なく張り飛ばし、身動きできないように喉を締めつけてきた。メリは危うく呼吸が止まりそうになった。どうにもならないとわかると、メリは手足をばたばたさせてもがいたが、そんな絶望的なまでの抵抗はアルドをますますいきり立たせた。アルドは力まかせにメリを殴り始めた。
「馬鹿な真似はやめろアルド!」ゲンツが声を張り上げた。「このままじゃあ、警察沙汰になっちまうぞ。俺の言ってること、聞こえてるよな?」
 しかしアルドに思いとどまる気持ちは全くなかった。一方メリは身を守ろうと身を屈め、背中を丸めていたが、ふと気付くと車のドアのところに頭が当たっていた。ドアの取っ手がすぐそばにある。メリは手を伸ばすと、ここぞとばかりに取っ手を引っ張った。ドアが開いて、船の帆がちぎれたようにものすごい勢いでバタバタ動いた。
「いい加減にしろアルド!やめろ馬鹿野郎!」
「俺に運転させろ!」アルドが叫んだ。
「やめろ!事故るぞ!手を放せ!」
 ゲンツはやむなくブレーキを踏んだ。
「やめなきゃ俺たちみんなおだぶつだぞ!」そう叫んでゲンツはアルドの肩を引っ摑んだ。通行人が何人か、歩道で足を止めた。男性が一人、車の方へ駆け寄ろうとしたが、連れの男がその手を摑んで制した。
「落ち着けアルド!」ゲンツはもう一度声を上げた。「車から降りろ!俺はもう運転しないぞ」
 そこまで言われてアルドはやむなくメリから手を放したが、今度は荒々しくどんと突き飛ばしたので、メリは頭を抱えたまま道路に放り出された。あばらを打ちつけそうになったので、とっさにくるりと身をかわし、走ってくる車から身を守ろうとした。間もなく悲鳴と、震えるようなブレーキと、タイヤのこすれる音、それにパトカーのサイレンが聞こえてきたが、背中に強い衝撃を感じ、直後に意識を失った。
 気がつくと、メリは病室にいた。そばに看護婦が座っている。メリが周りを見渡すと、看護婦と目が合った。
「どうなったの?」メリはかすれ声で訊ねた。
「大したことなくて良かったわ」そう言いながら看護婦はメリの肩にそっと手を置いた。
「運が良かったのね。ご家族に連絡してあげましょうか?」
 メリは看護婦に電話番号を伝えた。
「おめでとう!頭には異常ないそうよ」
 メリは、手で自分の顔を触っていたが、その内しくしく泣き出した。
 アルビと祖母が病院に着いた時、メリは涙も乾いた顔のまま、じっと天井を眺めていた。無理して微笑もうとしたが、二人は驚きの余りすっかり取り乱していた。祖母はぶつぶつとお祈りの言葉をつぶやき、アルビは枕元でメリの手をしっかり握っていた。
「心配しないで」メリは言った。「そんなに大したことないって、看護婦さんも言ってたし」
「またこんなことになるなんて!」祖母は嘆いていた。「いつになったらうちの災難は終わってくれるんだろうねえ?あんたをはねた、そのいまいましい車は今どこだい?」
「道路を渡ろうとしていたの。車は見てないわ」
 するとアルビはさっきよりも驚いた表情でメリをじっと見つめたが、メリはその視線に何も答えなかった。メリが祖母の方に手を伸ばすと、祖母はそばに来て額にかかった髪を揃え、キスをしてくれた。
「母さんの魂が、お前を救ってくれたんだよ!」
「どこの通りを渡ろうとしてたの?」不意にアルビが訊いてきた。
 メリは、何とか自分の表情が変わらないようにしながら、でたらめな通りの名を言った。
「じゃあ、どこへ行こうとしてたの?」アルビはさらに訊ねた。
「学校よ、シドが練習してるの」
 アルビはその言葉を信じていないようだったがそれ以上何も言わなかった。
「あたしゃちょっと行ってくるよ、先生に話を聞けるかも知れないからね」
そう言って祖母は背中を向けたが、病室のドアのところでまた立ち止まると
「で、バシュキムはどこなんだい?」と訊ねた。
 マリもアルビも、何と答えたらいいかわからなかった。
「仕事だって、朝から出かけて行ったけど」メリが言うと
「何が仕事だい!」とつぶやきながら祖母は病室を出て行った。
 アルビはしきりに病室の中を行ったり来たりしていたが
「で、シドはこのこと知ってるの?」と言った。
「ううん」メリは答えた。
「電話かけてこようか?」
 メリはかすかにうなづいてみせた。

(21につづく)


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