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ヴィクトル・ツァノスィナイ 『メリユル』

13
いつもと変わらない電話のベルが鳴った。だがメリには、何かあったような予感がした。
「ジョカさんのお宅ですか?」男の人の声が聞こえてきた。「こちらは第二地区警察署です。息子さんをお預かりしています」
 メリはそれで全てを察した。
「こちらへ引き取りにおいでいただきたいのですがね。もしもし、聞いてます?」
「はい、聞いてます」
 メリはぶるぶる震えながら辺りを見回した。父は家にいなかった。メリは急いで着替えると、バルザおばさんのところへ向かったが、おばさんの母親と娘のリラしかいなかった。それで家に引き返したがどうしていいかわからず、ただ室内をうろうろ歩き回るだけだった。祖母に電話しようとも思ったが、それも意味のないことのような気がした。大体、電話したところで祖母の足では50メートルだって歩けやしないのに。
 ふと『シド』とメリはつぶやいた。するといてもたってもいられなくなった。彼女はシドの番号に電話をかけた。
「もしもし」シドの母エロナの声が電話越しに聞こえた
「こんばんは、メリです」メリはためらいがちに言った。
「今シドは勉強中なのよ。何か急ぎの用事?」
「大したことじゃないんですけど」メリはためらいがちに答えた。もう切った方がいいかも知れない。しかし現実には、そこでくじけている場合ではなかった。メリはぐっとこらえて
「いえ、ちょっと大変なことになって」
 そして彼女はシドに震える声で、何が起こったのかを話した。
「そんな馬鹿な!」シドは声をあげた。「きっと何かの間違いだよ」
「そうじゃないのよシド、間違いなんかじゃないのよ。お願い、自転車ですぐに来て!」
「よし、5分だけそこで待ってて」
 シドは急いで服を着替えたが、母親のエロナは部屋のドアの前でひどく不機嫌そうな顔をして立っていた。
「どこへ行くのシド?」
「メリが大変なんだよ」
「大変って何よ?こんな時間に出て行くなんて、どういうことかお母さんに言いなさい」
「そんなこと言わなきゃいけないの?」
「当然じゃない」
「メリの弟が警察に連れて行かれたんだ」
「何ですって?!警察に?!きっと盗みでもしたんでしょう」
「違う、アルビはそんな子じゃないよ」
 エロナは皮肉な笑いを隠そうともしなかった。
「だとしてもわからないわね、どうしてあなたがそんなことに関わらなきゃいけないの」
「僕がメリと警察に行かなきゃ。メリの家には今誰もいないんだ」
「何ですって?!あの父親が酒場なんかうろついてるから、あなたが警察に行かなきゃいけないなんて!シド、悪いけどあなたどうかしてるわよ。そんなことしたって無意味なだけだわ。何かあるたび引っ張りまわされるのはあなたなのよ」
「やめてよママ!」
「出かけることは許しません!」エロナは苛立って叫んだ。「メリには他の人たちがいないわけじゃないでしょ、何であなたがヒーローみたいに出て行かなくちゃならないの?」
「行かなくちゃいけないんだ、ママ」
 二人の激しいやりとりを聞きつけて書斎から出てきたシドの父アリアンが、少し驚いた風で、微笑みながら二人を見つめた。
「これは興味深い!現代の若者世代と旧世代の対立がここにも起こっているじゃないか」
 エロナはアリアンをきっとにらみつけた。
「あなただって旧世代じゃないの!」
「僕も君も一緒だよ、エロナ」
「あらそうなの?!じゃあちょっとこの子に聞いてみて。何の話をしてるか聞いてみたらいいわ」
 シドは父に、自分が行かなければならない場所のことを話した。
「そりゃパパがお前なら、やっぱり行くだろうな」アリアンは笑いながら言った。
 エロナはそんなやりとりにますます苛立った。
「何なのよそれ?!あなたの息子は、まだ子供なのよ!」
 するとアリアンはにっこり笑った。
「父親より足が大きい息子を、子供扱いするのかい?」
「もういいわ、行きなさいよ、どうなることかしらねえ」エロナは息子に向かって言った。
 シドは自転車に乗ると、息つく間もなく外へ飛び出した。
「あいつも大人になるんだよ」アリアンはエロナに話しかけた。「そうして人生いろんなことを学ばなきゃならない。警察だってそうさ」
 エロナは苦笑するしかなかった。だがアリアンが書斎に戻るのを見届けると、そわそわしながら電話に向かった。ジョカ家の番号に電話をかけると、受話器から相手の声が聞こえてくるのも待ちきれず、激しい口調でこう言った。
「シドの母ですけど。ねえメリ、あなたどういうつもりなの、私さっぱりわからないわ。ちょっと聞いてる?何だってうちの息子が警察に行かなきゃならないの?お願いだから、何度も何度もこんなことばかりして、シドを困らせないでちょうだい。あなたのおうちの問題なんて、シドには何の関係もないんだから。わかるでしょ?」
 メリは受話器を手にしたまま、頭が真っ白になってしまった。
「ごめんなさい、おばさん。迷惑かけて・・・ごめんなさい」
 それだけつぶやくと、メリは必死で涙をこらえながら玄関まで歩いていった。それから間もなくシドがやってきたが、メリがその場に立ち尽くしていたので驚いて訊ねた。
「メリ、一体どうしたの?」
「シド、わざわざ来てくれたのにごめんね。バルザおばさんが帰ってきたから、私、おばさんと一緒に行くわ。来てくれて本当に有難う」
「何を言ってるのさメリ。さっぱりわからないよ」
「バルザおばさんと一緒に行った方がいいでしょ、ね?女の人だし、親戚の叔母さんだってことにすればいいし」
「僕も一緒に行かなきゃダメだろう?」
「いいの、いいから家に帰ってちょうだい。今日来てくれたことは忘れないから」
 シドはまだ納得がいかない様子で帰っていった。
 エロナは息子が戻ってきたことに慌てていた。メリが息子に何もかも話したのではないかと不安で、息子と目を合わせようとしなかった。
「ママ、僕が警察に行かずに済んで安心してるんでしょ?」シドは心の中にたまったものを思い切り吐き出そうとするように言った。
「で、どうして引き返してきたの?」エロナは訊ねた。
「メリのお隣さんが一緒に行ってくれるんだって。これでママも安心だろ」
「ママはね、あなたにそんな大変なことは向いてないって思ったのよ。女の子とお付き合いするのだって、まだいろいろあるし」
 シドは何も言わないまま、部屋のドアの方へ歩いていった。
 その頃メリは、泣きながら警察署へと向かっていた。
「ねえシド、あなたのママはどうしてあんなひどいことを言うの」手の甲で涙を拭いながら、メリはつぶやいた。
「私、何か悪いことをした?ねえアルビ、あなたに何があったっていうの?うちはこれからどうなってしまうの?誰も私たちのことを助けてはくれないの?」
 警察署の入口まで来ると、やっとの思いで警官の一人に事情を話した。別の警官がメリの方に目をやりながら、不審げな表情で受話器に向かっていた。しかしどうやら入室許可が下りたらしく、その警官はメリに、着いて来るようにと言った。すぐメリが部屋に通されると、アルビが椅子に座っていた。両手で顔を覆ったまま泣いている。刑事が机から立ち上がると、驚きを隠せない様子でメリを見つめた。
「で、君は誰かね?私は、アルビン君のご両親に来てもらうように言ったんだが」
「姉です、刑事さん。父は病気で来られなくて」
「では、お母さんは?」
「母は・・・うちの母は、去年亡くなりました」
 すると刑事の顔色がさっと変わった。刑事はアルビの前に来ると、その耳をつかみ、アルビの首がねじれるかと思うほど強くひねりあげながら、激しい口調で言った。
「お前、こんな恥ずかしい真似をして、自分の父親や姉さんに申し訳ないと思わないのか?こんな立派な家族がいるのに、何だって道端であんなことをするんだ?いいかよく聞け、もしまた俺の前にお前が連行されてくるようなことがあったら、今度は再教育施設にぶち込んで、二度とティラナに戻れないようにするぞ!わかったか?」
「わかりました刑事さん。もしまたここで会うようなことがあったら、その時は僕を海の中に放り込んでください」
「ほう、そうかい?それは考えておこう。もういいから、廊下で待っていなさい」
 それから刑事はメリの方を向くと
「弟さんをお任せしても大丈夫かね?」と疑わしそうに訊ねた。
「ええ刑事さん、心配ご無用です」
「それにしても、君みたいな年端も行かない女の子がねえ!」
 メリは刑事の言ったことの意味がわからず、肩をすくめた。
「もうよろしい、帰って結構ですよ」刑事が言葉を継いで言った。
 それはメリにとっては奇跡のような結果だった。彼女は刑事に何度も礼を言った。
 アルビと二人で警察署の外へ出ると、幾らか不安が和らいだ。メリは顎の先が胸につくほどうつむいたまま、ずっと泣いていた。アルビはその隣で申し訳なさそうな顔のまま、とぼとぼと歩いていたが、歩道に空いた穴や、外れた舗石に足元を取られて何度もつまづきそうになっていた。
「姉さん、あのさ、僕・・・姉さんにウソついてたんだ」アルビは消え入りそうな声で言った。「何べんも姉さんのこと騙してたんだ。でも約束するよ、もうこんなの終わりにするから。もうあんな連中とは二度と・・・」
 メリはうんざりしきった顔で言った。
「あなたの約束なんてもうたくさんよアルビ!」
「頼むよ姉さん、今度は信じてよ!母さんにかけて誓うよ!僕は何も盗んでないし、もらったアクセサリーを二個売っただけさ。お願い、そんな風に、僕のことを犯罪者みたいに見ないでよ!」
 アルビはしくしく泣き始めた。メリは仕方なく弟をなだめようとするようにその手を握ると、自分から近付いて弟を強く抱き締めた。そうして家にたどり着くまで、二人はずっと抱き合ったままだったが、家の前まで来るとアルビは足を止め、思いつめた口調で言った。
「やっとわかったよ、自分がどうすべきなのか。僕もうこんな国にはいられない」
「あなた、まだイタリアに行くなんて馬鹿なこと考えてるの?」メリが訊ねると
「叔父さんのところへ行くんだ、それで死んだっていい!」
「はいはい、わかったから入ってちょうだい。ちょっと落ち着きましょう」
 メリとアルビは家の中に入ったが、そこに誰がいるのかよくわからないままだった。犬がクゥンと不安そうな鳴き声を出した。その日は何も餌を貰っていなかったのだ。メリが居間をのぞいてみると、ソファに横になっている父バシュキムの姿があった。いつものように毛布にくるまり眠り込んでいる。その傍らに妹のノラも眠っている。テレビはつけっ放しだった。メリは居間に入ってテレビを消すと、アルビに大きな音をたてないようにと言った。
「さあ、もう寝ようか」アルビが言った。「僕、何も食べてないけどさ」
「私もよ」
 二人は横になったが、二人していつまでも目を閉じようとしなかった。アルビはイタリアに行くことばかり考えていたし、メリはシドの母親に言われたことが耳の中でガンガン響いていた。さっきの電話でのやりとりで、自分たちの置かれている状況がはっきりとわかったような気がする。明らかにおばさんは、自分とシドが付き合っているのが気に入らない。
『私のせいなの?シド』メリはつぶやいたが、その時初めて、友達を失ってしまうかもしれないという激しい恐怖に襲われた。
 寝つきは悪かったが、それでも朝早くに目が覚めた。メリは服を着替えるとバルザおばさんのところへ出かけた。「おはようございます」とだけ声をかけて、仕事に取りかかった。バルザおばさんは何か気になる風でメリの方をちらっと見た。
「うちの母から聞いたけど、昨日私に用があって来たんでしょ」
「ちょっと、ベーキングパウダーが欲しかったんです。それだけ」
「母が心配してたのよ。あなたがとても取り乱してたって」
「ううん、何でもなかったの」
「お父さんのこと?」
「ううん」
 二人はそれ以上何も言わず、仕事を続けた。
 メリがいつものように分けてもらったビュレクを持って家に戻ると、アルビが足元にカバンを置いたまま、何か考え込んでいた。一瞬、二人の目が合った。
「人生は続くんだね」アルビが言った。
「何も変わりはしないわ」メリが言った。
「別に変わらなくたっていいさ。姉さん、悪いけど1万レクいるんだ。でないと今日は学校に行けなくなるんだけど?」
「どうせケコに借りがあるんでしょ」
 アルビはうなづいた。メリはビュレクをテーブルの上に置きながら言った。
「姉さんが何とかするわ」
 メリはちょっと部屋を出たが、すぐにレクを手にして戻ってきた。アルビはそれを受け取るとポケットにぐいと突っ込んだ。学校の近くまで行くとケコが疑るような表情で待ち構えていて、冷たい声で呼びかけた。
「ちょっと待てよ。話がある。俺は今日は授業に出るつもりはなくてね。お前・・・昨日は・・・警察に行ったのか?」
「僕はスパイなんかじゃない」アルビは苛々して言った。
「だったらどうだったのさ?」
「ケコ、今日はその話はあんまりしたくないんだよ。もう済んだことだしさ」そう言うとアルビはポケットから金を出してケコに手渡した。ケコは慌てる様子もなくそれを受け取った。
「何だよ、律儀なヤツだなあお前!どうしたのさ、警察で脅されたのかよ?なあ、しっかりしろよ、おい!さては、再教育施設に送られるとか何とか言われたんじゃないか?いいか、初めて捕まった時はな、そういうことを言われるものなんだよ。警察の連中ってのはな、俺たちがガキで法律のことなんか知らないもんだから、そういうくだらない揺さぶりをかけてくるんだよ。わかるか?俺たちはまだ刑務所に入る年齢じゃないんだ。再教育施設なんてのもウソさ。このアルバニアに、アメリカみたいな再教育施設があるもんかい」
 だがアルビは疑るような目でケコを見ると
「どうだっていいよ、そんなこと!」と言った。
 ケコはむっとした。
「お前、俺に向かってその言い方はないだろ!俺たちと一緒にいたくないんなら、もういいさ、行っちまえよ!お前が何をしようが俺たちの知ったことじゃないぜ。でもな、いいか、お前に行く場所なんかないぞ。どうせ俺たちのところに戻ってくるのがオチさ」
 アルビはケコの最後の言葉にびくりとしつつも背を向けた。学校の正門まで来た時、メリがシドと一緒にいるところが目に入った。シドの手は、ほんの少しの間だけメリの肩に置かれていた。アルビはその様子を見ていない振りをした。シドとはしばらく口をきいていなかった。シドの方ではアルビのところへ行こうとしたのだが、アルビはずっと冷淡な態度を取っていた・・・
「メリ、昨日は君が電話してくれるのずっと待ってたんだよ」シドが言った。
「あなたに迷惑かけたくなかったの」メリは答えた。「もう大丈夫、済んだことだから」
「でもお父さんは、そのこと知ってるの?」
「まだ知らないわ」
「お父さんには話さないつもり?」
「ううん、アルビがパパと・・・」
 シドは思わずため息をついた。
「いつか君のお父さんが変わってくれるといいんだけどなあ!」
 その時シドは、まさかメリの父が自分の母との間にとんでもない衝突を引き起こすことになるとは、まるで想像もしていなかったのだ。

***
 その衝突が起きたのは、それからほんの数日後のことだった。シドは両親と一緒に、国際文化センターでのコンサートを聴きに出かける途中だった。そのコンサートではアナもピアノを弾くことになっていた。
 夕暮れ時で、路上は車が多かった。不意にシドたちの近くでけたたましいクラクションの音が聞こえた。酔っ払いが一人、車列の間に割り込んで交通の流れをひとしきり遮っていた。ようやく車道から押し出されたが、本人は全く意に介していない。それでもふらふらしながら歩道の方へやってきた。
 シドはその酔っ払いに見覚えがあった。両親も同様だった。
「助けなきゃ」シドが言った。
「助けるですって?!」母が声を上げた。
「家まで送って行かないと」
「でも私たち、これからコンサートに行くじゃないの!」
「それはまたにしよう」父アリアンはそう言うと手を上げてタクシーを止めた。「シド、メリのお父さんを乗せてあげなさい。タクシーの運転手には家まで行ってもらう。タクシー代はパパが払っておくよ」
 シドは路上に出ると、人事不省のバシュキム・ジョカのところまで大急ぎで飛んでいった。
「バシュキムおじさん、家まで帰れますか?」
 バシュキムは半ばとろんとした目でシドの方をちらりと見た。
「僕ですよ、シドです」
「おお、シドかい!いやあ久しぶりじゃないか、なあ君」
「さあ、僕の肩につかまってください。このタクシーが家まで送ってくれますから」
「俺はタクシーなんかにゃ乗らないぞ」
「今日はいいんですよ」
「いやあシド、君は果報者だなあ」
 タクシーの運転手が手伝ってバシュキムを車内に押し込み、ドアをバタンと閉めた。
「大丈夫ですから、お願いします」シドが運転手に言った。
 シドは、申し訳ない気持ちで両親の方を振り向いた。
「ママにウソをついたのね、今度もまた」シドの母エロナはひどく苛立っていた。
「あなた、これでもメリの家に何も問題がないなんて言うつもりなの?あなたの仲良しのガールフレンドのお父さんは、あの人なんでしょう?」
「ママは僕に何が言いたいの?」シドはすっかり混乱していた。
「ママにずっとウソをついていたって認めなさい。これではっきりしたわ、あの子のせいでこっちはいい迷惑よ」
「何だよ、何がいい迷惑なんだよ?!」
「どうしてあなたがまだあんな女の子と付き合わなきゃいけないの?」
「何が悪いのさ?!」
 エロナは苛立って前のめりになると
「ねえあなた、この子ったら、まだ本当にわかってないのよ!」といまいましげに言った。
「だったらもうあのつまらないコンサートに行こうじゃないか!」シドも苛立っていた。
「こんな話、道端でするものじゃないよ!」
 シドもエロナもそれ以上、その場に留まってはいなかった。コンサートは二人にとってこれっぽっちも楽しく感じられなかった。アナのピアノ演奏は素晴らしかったが、感動は起こらなかった。家へ帰る途中も、二人はろくに口をきかなかった。自動車が絶えず埃を巻き上げ、それがエロナをこの上なくうんざりさせた。
「こんな馬鹿げた町、もう歩きたくもないわ」エロナは誰に言うともなく不平をつぶやいた。「何だってこの道路はこんなにボロボロなのよ?」
 家に戻るとエロナはバッグをソファの上に放り出し、胸の前で腕を組んで仁王立ちしたまま
「何てひどい日なのかしら!」とぼやいた。
「楽しい気分がぶち壊しだわ。わかってるのかしらシド、あなたのせいよ」
「どうして?」
「ねえシド、いい子だから、あんなメリと関わるのはもうおしまいにしなきゃダメよ」
 シドは怒りで目を見張った。
「何だよそれ、ママが許してくれないから君とはもう会いたくありません、なんて僕がメリに言えっていうの?」
「その通りよ!」
 シドははっきり、否定するように首を振った。
「いやだ、そんなことはできない」
「だったらあなたは、これからもあの子と付き合うつもりなの?」
「そうさ」
「ママの言うことを聞きなさい、あなたはママの子でしょ!」
「ママ、悪いけど、メリとそんな最低な形で離れ離れになるなんて、僕にはできないよ」
「そんなの、ごく当たり前のことじゃないの」
「僕にはそんな風には思えない」
 その時、アリアンがその場を離れて書斎に入ろうとしたので、エロナはそれを見咎めてこう言った。
「あなた、私とシドの話なんかどうでもいいと思ってるの?どうして自分の息子に、親の言うことを聞きなさいって言わないの?」
「僕は将軍みたいに命令する立場じゃないよ」アリアンは冷静な口調で答えた。
「僕たちは家族なんだ。民主主義があって、それぞれの権利も尊重されている、分け隔てなくね。シドはもうわかっているんだ、自分で自分の友達を選ぶのに間違いっこないことをね」
「あらまあそうですか?!」
そう言ってエロナはぷいと背を向けた。そして
「いいわ、もういいわよ、どうなるかせいぜい見ものだわ」とぴしゃりと言い切った。

14
 エロナはそれから数日間どうしようかと逡巡していたが、とうとう或る日の夕方、一人で家にいる時に電話をとり、メリを呼び出した。
「あらエロナおばさん、私ですけど」メリの声がした。
 エロナはフンと鼻で笑った。『うまい娘だわ』と思った。私のことを「エロナおばさん」だなんて呼んで、私をいい気分にさせて、何事もなかったような顔をして。
「メリ、私ね、あなたにお願いがあるの」
「はい、何でしょう」
「言いにくいことなんだけど、今、まあいろいろあってね、あなた・・・その、あなたのお宅のことでね・・・あなたとシドのことなんだけど、ちょっと、行き過ぎなんじゃないかって、私思うのよ。あなた・・・」
「エロナおばさん、はっきりおっしゃってくれませんか」
t「そう、だったら・・・私ね、あなたに、うちの息子ともう会わないで欲しいのよ。あなたのことが気に入らないわけじゃないの。ただ、周りの環境がね・・・あなただって、自分が置かれてる状況が普通じゃないって、わかってるはずよ」
「・・・」
「メリ、聞いてるの?」
「ええ、ちゃんと聞いてます」
「だったら、どう?」
 メリの受話器を持つ手が震えていた。そして口を開いた時、メリ自身が思ってもいなかった言葉が飛び出した。
「約束します、もう息子さんとは会いません。今まで迷惑かけてごめんなさい」
「わかってもらえると助かるわ」
「それですみません、シドも、おばさんと同じ考えなんですか?」
 エロナは、ぐっと言葉に詰まったが
「いいことメリ、あなた、私にそんなことを聞くもんじゃないわ!シドがどう思ってるかなんて、全然大したことじゃないでしょ。私はシドの親として、うちの息子とはもう関わらないでって言ってるの。わかった?」
「そうですね。本当にごめんなさい」
 メリは、まるで恐ろしいものでも見るように受話器を置くと、くたくたと気が抜けてしまったようにそばの椅子に座り込んだ。泣こうにも泣けなかった。ひどく疲れきっていた。その刹那、まるで自分が見捨てられて、消えてなくなって、この世で一番不運な人間になったような気分だった。今日この時まで、他人にこれほど見下されたことはなかった。
 そこに、姉の異変に気付いたアルビが、不審げに近寄ってきた。
「姉さんどうしたの?電話の相手、誰?」
 メリは必死で気を取り直そうとした。
「何でもない。少し疲れただけ。ちょっと横になるわ」
 そして部屋に入るとベッドに顔をうずめ、そのままじっとしていた。そのうちアルビとノラが食事の用意をしてくれと言いに来ると
「たまには自分で何とかしなさいよ!出て行って、勝手にして!」と叫んだ。それでアルビはノラの手を引いて部屋から出て行った。
 父親が帰ってきても、メリは起きてこようとしなかった。すっかり眠り込んだように横になったままだった。その夜はベッドに横になっていてもまるでこの世で一番苦しい拷問を受けているような気分だった。自分が寝付けたのかどうかさえもわからなかった。朝になってもいつも通りバルザおばさんのところへ行くことができなかった。
 学校の中に入ると、シドが待っているのが目に入った。シドに別段変わったところはなかった。それでメリは、何もかもがシドの知らない間に進んでいるのだとたちまち気付いて、その状況にますます混乱してしまった。もう自分と一緒にいてはいけないなんて、シドに何と言ってわかってもらえばいいんだろう?
 シドはメリがうろたえているのに何となく気が付いた。
「メリ、何かあったんじゃないの?」
 ここで逃げようとしてもムダだ、とメリははっきり思った。頭の中が使い古した言い訳であふれそうになっていた。
「シド、悪いけど、あなたとはもう一緒にいられないの。教室でもダメよ」
 アルビは耳を疑った。
「何で?!」
「パパがダメだって言うの」
 シドは苛立たしげに首を振った。
「そんなバカな!あり得ないよ!」
「どうして信じてくれないの?」
「そんなの、君だって自分が本当のこと言ってないってわかってるだろう?」
「シドには全然わかってないのよ、私の家がどんなことになってるかなんて。私はパパに厳しく命令されたのよ。もうあなたと一緒にいちゃいけないって。ねえお願いだから、別の席に移ってちょうだい!」
「僕は席なんか移らない!」
「だったら私が移る!」
 シドの顔には深い失望が刻み込まれていた。
 メリはエンテラ・シヤクに頼んで隣の席に座らせてもらった。エンテラはいつもブレダル・ベルシと一緒に座っていた。メリに何があったのか、エンテラにはわからなかったが、たまたま喧嘩でもしたのだろうと思ってオーケーすることにした。ブレダルはというと、シドの方で何かわからないかと思って見ていたが、何も言ってこなかったので結局わからずじまいだった。
 その突然の席替えはたちまち注目を集めることになった。何かあったのだと誰もが気付いたが、具体的に何があったのかとなると、誰にもわからなかった。メリは自分に注がれる好奇の視線を感じていた。誰もが、メリの表情から何かを知ろうとしたがっていた。一方シドは数学の教科書に視線を落としたままで、席替えなんてたまたまだと言わんばかりの態度をとっていた。明日になれば何もかも元通りだと。
 二人の間に起こった異変は、担任の女性教師の目にもとまった。彼女はその様子をじっと見つめながら、こう訊ねたくて仕方なかった。
『ねえあなたたち、どうしてそんなことになっちゃったの?』
 しかし英語の女性教師はフンと軽く笑って
「ストレインジ!」と流しただけだった。「アルバナ君、今日に限ってどうしたの?」
「僕だけじゃないと思いますが」シドは答えた。
「メリがいなくて、あなた一人みたいね」
「ヘイ、ティーチャー、リーヴ・ザ・キッズ・アローン!」とブレダル・ブレシが「ピンク・フロイド」の有名な歌詞で返してきた。
[訳註;微妙に英語が違っているが、Pink Floydの“Hey! Teacher! Leave them kids alone!”]
「オーケイ、ベルシ」と言って英語教師は出席簿を開いた。「静かにして。授業を続けますよ」
 長い休憩の間も、授業が終わっても、シドはメリが何か言ってくるかと待っていた。しかしメリは信じられない言葉をまた繰り返しただけだった。
「あなたとはもう一緒にいられないの」
「おかしいよメリ、僕にそんな態度!」そう言いながらシドは苛立っていた。「そんなやり方で馬鹿にされるおぼえは、僕にはないんだけどね」
「私あなたを馬鹿になんかしてないわ」
「本当のことを言ってよ!」
 メリは泣きそうになるのをこらえきれなくなっていた。神経はくたくたで、もうそれ以上我慢できなかった。
「もう私のことなんかほっといてよ、お願いだから!」メリは涙を流して叫んだ。「今の私がどんなことになってるか、知ってるでしょ?」
「メリ、僕は君を助けてあげたいんだ!」
「シドに私を助けるなんて、もう無理よ」
「できるって言ってるじゃないか」
「ごめんなさい、もう行かなきゃ」
 シドは道端に立ち尽くしたまま、メリが角を曲がって見えなくなるまでずっと目で追っていた。それからすっかりふさぎ込んだまま帰宅した。何度か電話をかけようかと迷ったが、同じ返事をされるのは明らかだった。シドの落ち込み方が余りにも激しいので、両親もその異変に容易に気付いた。母エロナはその様子をちらちらと盗み見していた。
「シド、何を落ち込んでるんだい?」父アリアンが問いかけても
「さあね」と腹立たしそうに答えた。
[訳注;上の会話は原文を直訳すると「船はどこの海に沈んでるんだい?」「その辺に」となっている]
「とうとうママの思い通りになったよ!メリがもう僕と一緒にいたくないってさ」
 エロナはその瞬間に顔を赤らめ、そのままうつむいた。
「どうしていたくないんだい?」アリアンが訊ねた。
「さあね。何も言ってくれないから」
「まあ女の子なんてそんなものさ!くよくよするなよシド、じきに仲直りできるさ」
「だってケンカなんかしてないんだよ!今日になって急にそうなったのさ」
 エロナが軽くため息をついた。
「メリは賢い選択をしたのね。もうすぐ学校も卒業だし、メリはあなたとのお付き合いも終わりだってわかったのよ。だから・・・」
 するとシドはくすりと苦笑した。
「あのさあママ、僕がいつまでもそんな鈍い子供だなんて思わないで欲しいんだけどな!」
「ママからすれば、メリはいいことをしたと思うわ、どういう理由があるかは知らないけどね。あなたたちくらいの年頃の友達付き合いには、いつか終わりが来るものなのよ。もうあなただって勉強に専念すべき時期だわ。もうメリとのことはおしまいになさい!少し行き過ぎてたと思うのよ。ねえそうでしょアリアン?私たち、それなりにこの子の好きにさせてきたわよねえ」
「私はそうは思わないな」アリアンは静かに言った。
 エロナはぎゅっと眉をしかめた。
「ああそうですか。だったらあなたがこの・・・この問題を解決したらいいじゃないの!」そう言ってアリアンのいるところまで近付いてきた。
「どんな問題もいつかは解決できるさ」アリアンは答えた。「大事なのは、ママがその解決をできるだけ手助けしてやることだよ」
「私はこんなできそこないの問題になんか関わりたくありませんからね!」エロナは声を上げた。
 アリアンは息子を見つめると、肩をすくめた。
「なあシド、しっかりしろよ!足のサイズ44のフォワードがそんなことでどうする」
 シドは何とか笑ってみせた。
「不安なんだよパパ、何だか深刻なことになっているみたいで。メリのことはよく知ってるから」
「なあに、いずれ何もかもうまくいくよ。人生には厄介事がつきもの、大事なのは笑って過ごすことさ。お前の年頃は特にそうだぞ!」
 しかしシドは、父の言葉を信じる気にはなれなかった。
 次の日になっても、メリの態度には何の変化も見られなかった。彼女は授業中ずっとブレダル・ベルシの隣に座っていた。どうやら勝負ありのようだった。先生が話すことなど、これっぽっちも耳に入らなかった。シドといつも通りに挨拶はしてくれた。だがシドが昨日の話の続きをしようとするや、急ぎ足で立ち去ってしまうのだった。

***
 メリはヴェランダの階段のところにカバンを置くと、飼い犬のスパーキーのそばに座った。スパーキーは顔を上げ、目をパチパチさせると不思議そうな様子でメリを見つめた。まるで主人の悲しい気持ちがわかっているようだった。
 メリがおいでおいでをしてみせると、スパーキーは嬉しそうに尻尾を振り、メリの両足の間にもぐり込んだ。メリはそのスパーキーを撫でながらつぶやいた。
「あなたは世界一幸せよスパーキー、人間の世界のことなんて、あなたは知らないんだもの」
 そこへアルビが帰ってきたが、一人でつぶやいている姉に気付くと、その隣に座ってコンと肘をついた。
「こんなところで何してるの姉さん?」
「別に」
「わかってるさ、何でそんなに機嫌悪いのか。あの避雷針のせいだろ、もう姉さんと一緒の席に座らないって」
「シドのことをそんな風に言わないで!」
「やれやれ、ママさんたちのつまんない横やりだよ。シドだって、エルリンダだってそうさ」
「でもエルリンダが、あの子がどうして?」
「ママに言われたんだってさ、もう僕と一緒にいちゃいけないって。あれは悪い男の子だ、問題のある一家だって言われたんだって」
 メリはため息をついた。
「まあ、嘘は言ってないわよね」
 アルビはきっとなって顔を上げた。
「てことは姉さんも、僕が悪い子だと思ってるってこと?」
「違うわ。そんなこと全然思ってない。でも・・・家族のことは・・・本当のことだわ」
 アルビはメリのそばに寄った。
「じゃあ、僕たちここを出ていかなきゃならないってことなの!誰もうちに来てくれない。近所の人も前みたいに来てくれないし、もう僕たち、誰にも必要とされてないんだよ姉さん」
 メリはアルビの腕をつかんで引き寄せた。
 昨日と同じく、5月の午後は陽が長かったが、メリは家の中をうろうろするだけだった。教科書はテーブルの上に置いたままだったが、それに取り組む気にはとてもなかった。ほんの2ページほど読もうとしても、全く集中できなかった。このままだと入院患者のように年をとっていく気がして、メリは庭の掃除と花の水やりにかかった。
 その翌朝も、バルザおばさんのところへ仕事に行く気にはなれなかった。しかし何も食べるものがないことを思い出すと、ベッドから出ないわけにはいかなかった。幸い、バルザおばさんは何も訊ねてこなかった。メリの方も、二日続けて来なかった理由をわざわざ説明したりはしなかった。たまにお互いの視線が宙でかち合うことがあったが、先に目を逸らすのはメリの方だった。
 その日も学校ではシドがメリと何とかいろいろ話そうとしてきたが、メリはただ肩をすくめるだけだった。
「電話で話したっていいじゃないか」シドは不機嫌になっていた。「電話番号忘れちゃったの?」
 シドがそこまで乱暴な言い方をする理由がメリにはよくわかっていたが、それでも彼から遠ざかる以外にどうしようもなかった。その一瞬だけ、メリは自分のとるべき態度を忘れて、『もう来ないで』と半ば懇願するような目でシドを見つめた。だが彼女のそんな視線の意味が余りにもわかりやすくて、シドは余計に混乱してしまった。
「なるほど、君はもう僕に本音を言ってはくれないんだな」と腹を立てたシドはその場を立ち去った。
 メリはそれを横目で見ていた。自分がシドに言いたい本当の気持ちは必死で押し殺したままだった。
『ごめんね、シド』メリはつぶやいた。
 それから無味乾燥なうんざりする日々がしばらく続いたが、日曜日の朝、相変わらずにぎやかな調子でクララが家にやってきた。クララはスパーキーに長いこと口にしていなさそうな高級そうな餌を放り投げると、咲いている花を眺めて満足そうに両手を合わせた。
「ねえメリ、バラを少し分けて欲しいんだけど。メ~リ~!」
 しかしクララは、庭に出てきたメリの様子に仰天した。
「メリ、あなたどうしたの?何でそんなひどい顔してるのよ?お父さんと何かあったの?」
「ううん、何でもないわ」
「ああそう言えば、あなた、あのマジック・アルバナと別れたんですって?」
 メリはさっと顔を赤らめた。
「違うわ、私たち今でも友達よ」
「メ~リ~ったら、この私にそんなのは無しよ!だから言ったでしょ、あんなのあなたにはふさわしくないって。あれは上流階級のおうちの子なんだから。きっと両親に言われたのよ、あなたみたいな女の子と付き合っちゃいけませんってね」
「違う、そんなことない」メリはそう反論するのが精一杯だった。
「そのスパーキーみたいにがんじがらめにされるなんて、私はごめんだわ」クララはにやりと笑った。「そんな風に病院から出てきたみたいにしてるなんてよくないわよ。くよくよしてちゃダメ!あんなヤツ別れて正解よ。そんな辛い思いまでしてあなたがまだ学校に行ってるのがわからないわ」
「それは違うわ。仕事だって見つけなきゃならないし」
「でもシドは進学するわよ。そうしたら・・・あなたたち、今よりもっと離ればなれよ。まったくあなたときたら!そんなに美人なんだから、そのうちシドみたいなのが三人は寄って来るわよ。ねえメリ、内緒の話だけど、教えてあげましょうか?別にお世辞じゃなくて、あのアルド・ブリミがね、もうあなたにベタ惚れなのよ。あなた、彼に相当気に入られてるわよ」
 メリは慌てて両手を振った。
「いやよクララ、私そんな話したくない」
「まあ待ちなさいよメリ、大したこと言ってないじゃないの。そんなにお利口さんぶらないでちょうだい」
「ねえ、バラのエッセンスの飲み物でもどう?」メリは話題を変えようとして言った。
 クララは嬉しそうにごくりと喉を鳴らした。
「大きめのコップでいただくわね」
 すぐにメリは家の中に引っ込むと、ガラス製のピッチャーにスプーンでローズエードを加えてかき混ぜた。それをコップ二杯に注ぎ、ピッチャーと一緒に運んでくるとクララのそばに置いて
「ギリシアにはいつ出発するの?」と訊ねた。
「週雇いの仕事でね」クララは答えた。「今ゲンツとアルドがヴィザの手配をしてくれてるわ」
「向こうではどこに泊まるの?」
「ゲンツの叔母さんがアテネにいるわ」
「それで・・・ご両親の方は?」
「親になんか、何も言ってないわよ」
 メリは驚いて目を丸くした。
「何も言わずに家を出ていくの?!」
 するとクララはふっと息をついた。
「そんな必要ないでしょ。親に私をどうこうなんてさせるもんですか」
「でも・・・そんな遠いところへ、男の人と一緒で、怖くないの?」
「怖いって何が?ゲンツは私のこと好きなのよ。彼はしっかりした男の人だし。彼と一緒なら、私グリーンランドまで行ってアザラシとだってうまくやっていけるわ。もうこれ以上こんなところにいるのはイヤ!ただ時間が過ぎていくだけ、ただ生きていくだけ。なんにもいいことなんかありゃしない!」
 メリはどうにも我慢しきれなくなっていたが
「メリ、あなたギリシアに親戚とかいないの?」と不意にクララが訊いてきた。
「いないけど」
「そりゃ残念ね!向こうに誰かいれば仕事にも行けるし、家だって何とかなるのに。あなた、ここんところずっとついてないし。弟さんだってまだ小さいしねえ」
「でも私ギリシアで何の仕事をすればいいの?」
「ゲンツから聞いたけど、向こうには、それこそどんな仕事だってあるんだって。人気トップモデルにだってなれるのよ、あなた美人なんだし」
「そんなこと、考えてみたこともないわよ。無理だもん」
「あらまあ、私たちはそんなにあれこれ悩んだりしなかったけどねえ」クララは顔をしかめた。そしてコップに残っていたローズエードを飲み干すと、楽しそうにこう付け加えた。
「さてと、綺麗な花束を一つ作ってくれないかしら。うちの従姉妹が婚約して、これからお呼ばれなのよ。楽しくなりそうだわ。学校のクラスメートも招待されてるんですって」
 メリは立ち上がると、ハサミを手に、目についたバラの中から特に大きくて綺麗なものを選び出した。そして花束の中にはユリも二本添えた。
「まあ素敵!」クララは満足そうな声を上げた。「こんな素敵な花束、うちの従姉妹も見たことないでしょうね。造花なんてゴメンだわ。そうだ、いいこと思いついた。メリも一緒に来ない?」
 メリは焦ってイヤだというしぐさをしてみせた。
「ダメダメ、行けないわ。だって知らない人ばかりだし。それにそんな気分じゃないし」
「だったら、ここでずっとそうしてふさぎ込んでるつもりでしょ。ますます落ち込むだけよ」クララは譲らなかった。「さあ行きましょうよ、向こうのみんなだって、あなたのこと物凄く気に入ってくれるわよ」
 メリの気持ちは揺れ始めた。気が付いていなかったが、もう随分長いことお祝いで歌ったり踊ったり、そんな楽しい場所に足を踏み入れていなかった。クララの言う通り、これ以上こんな家の中をうろうろして、ぶつぶつひとりごとばかり言っていたら、ますます自分がダメになってしまいそうだった。エロナおばさんからの電話があってからというもの、状況は何ひとつ変わっていない。いろんなことを忘れてしまった方がいい。忘れるためには、いつもと変わらないこの味気ない場所を出るしかなかった。

15
 婚約祝いのパーティーは大きなマンションで行われていた。廊下も部屋も広々としていて、大勢の人が踊れるようになっている。物凄い場所だった。聞こえてくるのは音楽と、大声で話し、笑う人の声。招待客のほとんどは高校生だった。婚約したというクララの従姉妹のブレルタはすらりとした長身で、綺麗な目をしていて、笑顔が素敵な女性だった。クララが差し出した花束を見るとその目を丸くした。そしてクララと互いに長いキスをし合い、その後でメリを紹介されると
「来てくれてありがとう!」と言った。
「でも、ここの男子連中には気をつけることね。あなたと踊りたがって押し寄せてくるわよ」そう言い足してにっこりと笑った。
 そんなブレルタの言葉はすぐさま効果をあらわした。男子二人がメリとクララのところへやって来ると、ダンスに誘ってきたのだ。
「ごめんね、私たちまだ子供だから、ダンスなんかしちゃダメってママに言われてるの」クララが言った。
 男子二人は笑った。クララがメリに目配せしたが、メリはダンスなんて無理だというしぐさをした。
「あなたたち悪いけど後にしてくれないかしら」クララは優しい口調で言った。「ちょっとケーキを食べてきたいのよ」
 男子二人がオーケーしてその場を離れると
「メリ、あなた本気で踊らないつもり?」とクララが訊ねた。
「いいのよ、見てるだけで」
「あ、そう。じゃ着いてきて」
 クララは広々としたバルコニーにメリを連れて行くと、ケーキや果物や冷たい飲み物を持ってきた。驚いたことに、クララの隣には男の子が一人座っていた。膝には辞書を一冊載せている。その男子は辞書のページをしばらくめくっていたが、やがてメリに目を向け、微笑んだ。
「パラグアイの原住民の娘たちが同じ一人の男と結婚の約束をした時、どうやってその問題を解決するか知ってるかい?」
 メリは肩をそびやかした。
「ボクシングのグローブをはめて、どちらかが地面に倒れるまで勝負するんだよ。それまで結婚はおあずけさ」
 メリは思わず吹き出した。
「じゃあペンギンだ、どうやって結婚するか、君知ってるかい?」その男子は更に訊ねてきた。
「ううん」
「十羽の雄ペンギンが軍隊みたいに一列に並ぶと、雌ペンギンがその中から一羽を選ぶんだ。残り九羽は無駄足ってこと[訳注;原文では「指を口に突っ込んだまま」]さ。ね、ひどい話だろ?」
 メリは慌ててコカコーラのコップを口元にやるしかなかった。笑い過ぎて、ケーキが喉に詰まりそうだったのだ。
「ねえ、もっと他の話も聞きたいわ」メリはその男子に言った。
 ところがその男子は真面目な話をすることができなかったので、メリは彼から逃れるため場所を変えるしかなかった。それで太った女子の隣に座ると踊っている客たちをもの思いげに見つめた。そこは他とは違って見えた。彼らには不幸も悩みもまるでなかった。遠くからやってきてまた遠くへ去っていくように響く、その心地よい音楽を聞きながら、自分がどうしてずっとこんな惨めな気持ちでいるのか、メリにはわからなくなった。
 気付くと、クララが肩に手を置いていた。
「ずっと座ってて楽しい?」クララが訊ねた。
「ううん。もう出ましょう」メリはそう言って立ち上がった。
 二人がキャッキャと冗談を言いながらマンションの外へ躍り出たところで、思いもかけずゲンツとアルドに出くわした。
「ずいぶん楽しそうじゃない?」ゲンツが親しげに話しかけた。「こっちで一緒に面白いことでも話そうよ」
「うーん、じゃあ、ペンギンがどうやってプロポーズするか知ってる?」クララが訊ねた。
 ゲンツはひとしきり考え込んでから
「ペンギンはプロポーズなんかしないよ、だって指輪をはめる指が無いんだから」と答えた。
 するとクララとメリはさっきよりも大笑いし始めたので、アルドもつられて笑い出した。アルドはメリにちらりと不安げな視線を向けた。メリが自分のことを嫌いになったのではないかと気になっていたからだ。だがメリの方は何も無かったようにアルドに声をかけてきた。まるで、あの雨の日の出来事などすっかり忘れているかのようだった。
 ゲンツは近所の店に入って話そうと誘ったが、メリは相変わらず不安げで迷っているようだった。クララが訊ねると
「もう家に帰らなきゃ」とメリは言った。「また今度、ね・・・」
「君が僕たちのことを誤解してなければいいんだけどなあ」アルドが言った。
 メリは、決して誤解などしていないことをわかってもらおうと、無理に微笑んでみせた。
「まあいいさ。また今度、きっとだよ」ゲンツが言った。「ねえクララ、僕がメリを家まで送ってあげてもいいかな?」
「だったらみんなで帰りましょうよ」
 それでメリたちはゲンツたちと一緒に歩き出した。道すがらクララは婚約した従姉妹のことを話し、メリたちはそれを聞いていた。そしてメリが別れを告げて急ぎ足で家の方へ歩き出すと
「じゃあ、またね!」とアルドがその背中に向かって声をかけてきたので
「うん、またね」とメリも返事をしないわけにはいかなかった。
 アルドはクララの方をじっと見た。それからゲンツにも視線を向けると、胸を張って
「メリはきっと俺のところに来る」と言った。「何なら賭けたっていい」
 ゲンツは呆れて、両手を広げてみせた。
「何だってお前に、あのお堅いメリが?」
「綺麗なものってのはお堅いものなんだ」アルドは答えた。「そうだろ、クララ?」
「あなたが賭けに勝ったって別に不思議じゃないわ」クララは言った。「メリはあのクラスメートの男子と別れちゃったのよ、あのバスケットボールのね」
「そりゃいいや!」アルドは声を上げた、「なあクララ、俺のことを手伝ってくれよ。俺が本当に本気だってこと、メリに分からせて欲しいんだ」
 するとゲンツがくすくす笑った。
「それでどうやって賭けに勝てるのさ?」
「勝てると思うんだけどなあ。クララはどう思うのさ?」
「まあ、そうかもね」クララは言った。
「おいおい、あれは酔っぱらいの娘だぜ」ゲンツは我慢できなくなって口を挟んだ。「あの親父は大臣でもなければ実業家でもない。あの娘は俺たちと一緒なんだぜ。それを何だい、もったいぶった言い方をするじゃないか!なあ、そうじゃないかクララ、君に言ってるんだぜ?アルドときたら、昔の俺みたいなことを言ってるよ。俺はじきに抜け出したがね」
「まあそのうちそうなるわよ。ね、色男さん」とクララが言ったので、アルドとゲンツは笑った。
 一方メリは、家の玄関で腕組みしたまま立ち尽くしていた。自分が何の話をしていたかも思い出せなくなっていた。辺りを見回せば見慣れた光景で、日曜日の人肌暖かい活気などもう終わってしまっているのが自分でもわかった。あとはただ働いて、妹の面倒を見て、教科書を読んで、そして相変わらず父親と弟のことで気を煩わせなければならない。その弟のアルビはと言えば、自分の殻に閉じこもったまま、家の外にも出ようとしない。アルビが頭の中では何を考えているのか、それは本人にしかわからないことだった。
 ついさっきゲンツに店に入ろうと誘われて断ったことを、メリは半ば後悔していた。ところがその翌日、メリは再び誘いを受けることになった。それは全くの偶然からだった。終業式まであと数日というその日、5時間目は体育の授業だった。
「今日は長距離走をします」と体育教師が説明していた。彼女は授業を抜けることにして、ブレダルに「自分は体調が悪いから帰りますと伝えておいて」と頼んだ。
 メリがぼんやりと家への道を歩いていると、クララとゲンツに出会った。二人に「サンマリノ」でアイスクリームを食べようと誘われて、メリは嫌とは言えなかった。店に入ると、テーブルの一つでアルド・ブリミが待っていた。アルドはメリが来たことに驚きを隠しきれなかった。
「ご一緒できて嬉しいよ」アルドは満足そうに言った。「今日はどうも落ち着かなくてね」
「あらどうして?」クララが訊ねた。
「いやもうギリシアに行きたくてしょうがないんだよ。なあ、もうそろそろ出発しようじゃないか。どうだいゲンツ?」
 ゲンツはうなづいてみせた。
 クララたちはアイスクリームを注文すると、もうすぐティラナでコンサートをするというアメリカのロックバンドの話をし始めた。その時、メリは、シドが店に入ってくるかも知れないなどとは夢にも思っていなかった。だからそのシドが自分たちのいるテーブルに近付いてきたことに気付いた時には、ぞっと身震いした。シドと目が合って、メリは全身が凍りついた。そこで初めてゲンツとアルドはシドの存在に気付き、表情を曇らせた。
「やあ今日は」シドが言った。「メリ、ちょっと話したいことがあるんだけど」
 ゲンツはふんと小馬鹿にした様子でシドに席を勧めた。
「おい、メリは俺たちと遊んでるんだけどな。付き合いたいのなら、椅子を持ってきて座ったらどうだい」
「いいや、僕は座るつもりはないよ」
 メリは緊張で身を固くした。
「今行くわ、シド」
 メリがシドと店の外へ出ていくのを、ゲンツとアルドは目で追っていた。
「あいつの鼻っ柱をへし折ってやりたいな」とアルドが言った。
「おやめなさいよ」クララが言った。「全部メリがうまく話してくれるわよ」
「あの野郎、ムカつくぜ!」
 クララたちは店の大きなガラス窓越しに歩道の方に目をやった。シドとメリが並んで立っている。メリはうつむいたままで、シドがひどく苛立った様子で喋っていた。
「どうしたんだよメリ、授業を抜け出して、あんなよくわからない連中と店にいるなんて!」
「体育の授業には出たくなかったのよ。だから近所の友達とアイスクリームを食べてたの。二人はその娘の彼氏と、その彼氏の友達よ。それだけのこと。二人ともいい人だと思うわ」
 シドはむっとして、しばらくメリを見つめていたが
「メリ、君、一体どうしちゃったの?」と訊ねた。
 メリは肩をすくめた。
「別に」
「僕はもう君のことがわからないよ」
「私が何か悪いことでもしてるって言うの?!私があなたと会わなくなったからって、それであなたがイライラするなんて、そんなのおかしいわ」
 シドはすっかり腹を立てて、その場を立ち去った。メリはテーブルに戻ってくると、どうにか落ち着いて事情を話した。
「ごめんなさい」
「あいつが面倒なことを言うんなら、俺たちが話をつけようか」ゲンツが言った。
「ううん、いいの。シドはクラスメートだから」
「じゃあ、もうあんな真似はするなって言ってやった方がいいよ」
「よしなさいよあなたたち、出過ぎた真似はしない方がいいわよ」クララが口を挟んだ。「ねえ、もっと面白い話をしましょうよ」
 それでアルドがギリシアの離島に旅行した時の話をあれこれして盛り上げようとしたが、どうにも状況は改善しなかった。そんな中でメリの気分を救ったのはクララだった。彼女は急にこんなことを言い出したのだ。
「二人で出かけましょうよ。ちょっと買い物したいの」
「いいよ」ゲンツが言った。「午後電話するよ」
「メリ、また今度ね、きっとだよ」アルドが小声で言った。
「さあ、どうかしら」とメリは答えた。
「ここに来れば会えるわよ」クララが言った。「じゃ、またね!」
 メリはテーブルにアイスクリーム二人分のお金を出したが、アルドはそれを突き返した。
「僕らと一緒にいる時は、金は払わなくてもいいよ」
「ダメよ、自分とクララの分は払うわ」
 メリにここまではっきりと拒絶されるとは、アルドは思ってもいなかった。
「わかったよ。じゃありがたく貰っておくよ」
 メリとクララが店のドアから外へ出て行くのを、アルドはずっと目で追いながら、羨ましげな、そして少しだけがっかりした顔をしていた。
「何だってこんなにメリのことで悩まなくちゃいけないのかねえ!」ゲンツが言った。
「バカ言うなよ」アルドは言い返した。「あの娘をギリシアに連れて行くためだろ。そのために俺もクララ相手にひと芝居打ってるんじゃないか、任せろよ」
 それでもゲンツは信じられないという顔をしていた。
「俺にはそうは思えないがね。まあ時間を無駄遣いするなよ。七面鳥を手に入れたら出発だ。すぐにでも行かなくちゃならない。あの婆さんが電話で何て言ったか、お前も聞いてるだろ?」
「あの二人を連れて行けばいいだろ?婆さんにはああいう甘い飴を二つみやげにすればいいじゃないか?それで俺たちは100万ドラクマが難なく手に入るってわけさ」 
「あの婆さんじゃ100万時間だって無理だろ」
「少なくとも50万は貰えるさ」
 ゲンツは不満げに首を振った。
「なあアルド、どうも時間を無駄にしてるような気がするんだがな。あのメリってのは女狐だぜ。つかまりゃしないよ」
 するとアルドは笑った。
「あれが女狐だって?あれはクララよりもヤスい七面鳥さ。まあ見てなって。おっと、このアイスは歯にしみるな!一服しようぜ。アレあるか?」
「あるよ」
[訳註;アルバニア語bibë「七面鳥」は日本語なら「カモ」]

***
 メリは玄関に入ったところで立ちすくんだ。ヴェランダに担任のリンダ先生が座っていたのだ。ノラも一緒だった。だいぶ前からそこで待っていたようだった。
「こんにちは」メリは顔を真っ赤にしながら挨拶した。
「今日という今日は、あなたが先生に本当のことを話してくれるんじゃないかって思うんだけど」リンダは言った。
 それでメリは、何ひとつ手を加えることなく、ありのままを話した。リンダはメリの話を聞き終わると、しばらく考え込んでいたが
「その三人のことはよく知っているわ」と言った。「わからないわね、どうしてあなたがあんな三人と一緒に?」
「別に何でもないんです先生。クララはうちのご近所さんで・・・とても親切にしてくれていると思います」
「近所なら、他にも女子がいるでしょ」
「その女子たちは・・・もう私のところには来てくれないし」
「それはウソでしょう!」
 そう言われてメリは失望し、溜め息をついた。
「いいえ本当です。先生だって理由はよく知ってるじゃないですか。クラスメートの女子だって、よくうちに来てくれていたのに、今はもう・・・私のことを変な目で見ないのは、シドだけです」
「そのシドとどうして、あなたは会わなくなってしまったの?」
「私のせいです。でもすみません、理由は先生には言えないんです」
 リンダは思案気な目でメリを見つめていたが
「それで、ゲンツとアルドだけど、あなたは二人とも知り合いなの?」と訊ねた。
「クララの紹介で知り合いました」
「ねえメリ、この際クララが親切にしてくれるかどうかは関係ないわ、その人たちの言うことを信じてはダメよ。あなたは今とてもデリケートな状況にあるの。ほんのちょっとのはずみで犠牲者に転落してしまいかねないわ。騙される側になるか、騙す側になるか、今はそういう世の中なの。騙す側は自分が悪人だなんて決して言わないものよ。先生はクララのことも心配だわ。ゲンツと婚約したことだって疑わしいものね」
「だったらあの人たちにも先生が必要だわ!」
 リンダはやれやれと言った顔で苦笑した。
「確かに、クララはそうかも知れないわね。でも彼は・・・信用はできないわ。そういうわけだから、あなたはもうあの三人とは付き合わない方がいいと思うわ。こうしてあなたに話している私が、あなたの担任でいられるのはもうあと僅かしかないけれど。ねえメリ、あなたのお母さんが亡くなってから、先生はずっとあなたのことを気に懸けていたの。まるで自分の娘のように、あなたのことが心配なのよ。あなたには道を誤ってほしくないの。いろんな人が周りからいなくなって、あなたがずっと家のことにかかりきりにならなきゃいけなくて、大変なのはよくわかっています。でもね、人生ってそういうものよ。それでも受け入れなければならないの。いつかきっと状況が変わって、いいことがあるわ」
 メリとリンダ先生はそうやってヴェランダで一時間ほど話していた。そして立ち去り際にリンダはこう言った。
「メリ、先生が言ったこと、よく考えてみてちょうだいね」
 メリは「考えておきます」と約束した。
 その日の午後、メリがバルザおばさんのところへ行った時にも、期せずして同じ話題になった。バルザおばさんも、メリがクララと一緒にいることは同じように快く思っていなかったらしく、ゲンツやアルドには不安さえ感じていた。
「バルザおばさん、どうしてあの人たちのことがそんなに心配なの?」メリには意外だった。「あの二人は働き者よ。もうすぐギリシアへ仕事に行くらしいし」
「そのギリシアっていうのがすごく心配なのよ。まさかあなたも一緒に行こうなんて誘われてないでしょうね?」
「ううん」メリはどぎまぎしながら答えた。
「クララの方だけど、あの娘は連れて行かれるわ間違いなくね」
 メリはその言葉に意表をつかれた。
「だって、クララはゲンツと婚約してるからじゃないの!」
「そんな婚約、あてになるもんですか」バルザおばさんは冷たく言い放った。「メリ、どんな時でもよく考えなければダメよ!」
 一向に埒が明かないままそんなやりとりが続いた後、二人は無言で仕事にかかった。そしてメリが考え込んだまま帰宅すると、父が一人で家にいた。相変わらず無愛想で品のない、ぼんやりとした表情だった。タバコを吸っていないのがせめてもの幸いだ、とメリは思った。
「この頃アルビはどうも元気がないようだな」父が言った。「何かパパに言ってないことでもあるんじゃないのか?」
 メリはぐっと喉を詰まらせた。
「そんな、パパ、私は・・・何もないと思うわ」
 夜になってもアルビの姿は見えなかった。メリは幾度か父と目を見合わせた。外へ探しに行こうかとも考えたが、そこへ電話のベルが鳴った。祖母からだった。
「早く来ておくれメリ」祖母の声には落ち着きがなかった。「アルビがこっちに来てるんだけど」
『今になって一体何が?』メリは自問した。
「パパ、お祖母ちゃんのところへ行ってくるわ。アルビが向こうにいるのよ」
 父は驚いた顔をした。「今夜は戻らないのか?」
「ちゃんと連れて戻るわよ」
 メリは着替えると足早に外へ出た。市内環状路の、外務省沿いの歩道を歩いていると、見覚えのある人影が自転車に乗っているのが目に入った。シドだった。金属製の車体のサドルに二人乗りで座っているのは、シドと同じマンションに住んでいるアナだった。その両手はシドの腰にしっかりと回されていた。メリは慌てて目をそらした。自分があのサドルの後ろに座っていた時のことなど遠く、はるか遠く、最初からないことだったように感じられた。あの頃、自分は嬉しさを隠しきれなくて、幸せで、世界で一番幸せで、自転車ごと道端の穴に落ち込んだって彼にしがみついていたのに。
 我に返ると、メリは祖母の家の前に立ち尽くしていた。

16
 入ってみると、弟のアルビは玄関の床の上に突っ伏していた。そのそばで祖母が何かブツブツつぶやいていたが、メリに気付くと
「ああ、来てくれたかい」と声を上げた。
「あんたのお父さんはともかくとして、何だってこの子はおかしなことを考えついたもんだろうねえ、ねえメリや?」
「それって、イタリアの話じゃ・・・」
 祖母はそれ見たことかと言わんばかりに掌で膝を叩いた。
「一体どこからそんな、イタリアへ行こうなんて考えが出てきたもんだろうね、全く、どうかしてるよ!アルビときたら、叔父さんにイタリアへ連れてってもらうように頼むって言うんだよ。今度の夏には出発だ、アルバニアの9月なんかたくさんだって。とんでもない話じゃないか!この夏だなんて。あんたの叔父さんがそんなことしてくれるってのかい?」
「みんな僕のことが嫌いなんだ!」アルビは叫び出した。「誰も僕のことを助けてくれやしない!」
「おやまあ聞いたかい!」祖母は言った。「あたしたちがお前のことを嫌いだなんて、どうしてあるもんかい?!」
 メリは弟のそばに座り込んで、それから一時間余りもさんざんなだめすかした末に
「叔父さんは今度の夏に帰ってくるからね、その時にお話しすればいいじゃないの」と言った。
「ほら、ね、もうお祖母ちゃんに心配かけちゃダメでしょ」
「でもお祖母ちゃんがウンって言わなきゃ叔父さんに連れてってもらえないよ!」
「ちゃんとお前と話してくれるようにしてあげるよ!」と祖母がとりなした。
 アルビはしぶしぶといった表情で立ち上がった。
「わかったよ、きっとだよ、お祖母ちゃん!」
 祖母はやれやれといった風で首を振った。
「私はお前のことを思っているんだよ、お前のことをね。お前たちのこれからは、この私にとっても大切なんだから」
「おやすみ」アルビは小声で言った。
「お願いだから、そんなに機嫌を悪くしないでおくれ。飴をあげるからね、ちょっと待って」
 祖母は足を引きずりながら台所へ向かったが、ガラス容器を持ってくると、震える手でそれをアルビに差し出した。アルビは飴を一つ取ると、口の中にぽいと放り込んだ。それからその飴をごくりと呑み込むと、祖母を抱き寄せた。
「お前のことが大好きだよ、お祖母ちゃんはね」と祖母は感極まった声で言った。
 メリとアルビは押し黙ったまま家路についた。二人とも自分の問題で頭がいっぱいで、時折、互いの肩が触れるたび、自分に連れがいることを思い出すのだった。途中、バルザおばさんの家の前まで来たところで、車のクラクションを鳴らす音がした。メリの名を呼ぶ声が聞こえる。クララとゲンツとアルドだった。メリは三人にピッツァを食べに行こうと誘われた。
「また今度ね、ありがとう」とメリは言ったが
「いいから行きましょうよ、ね、そこのお店ってピッツァが絶品なのよ」クララも譲らなかった。
 メリが手を振りながら背を向けると、車のクラクションがまた鳴った。運転席に座っているのはアルドだった。
「何なのあの人たち?」アルビが車の方を羨ましそうに眺めながら訊ねてきた。
 メリはクララたちのことを話した。
「行けばいいじゃないか、行けば!」アルビは言った。「車に乗って、散歩して、ピッツァに、音楽に・・・」
「わかってるわよ!」メリは声をあげてさえぎった。
 アルビは肩で門を押し開けた。門扉が動くたびに悲しげな音を上げた。
「ひとのことばっかり言っておいて、姉さんだってさ!」アルビは不満げな口調で言って、玄関口の階段のところに座り込んだ。
「僕は少しここにいるよ、スパーキーと一緒に」
 メリはアルビの肩をぐいと押した。
「中に入って、お父さんにただいまって挨拶しなさい」
「父さん、今夜はどんな感じ?」
「機嫌はいいわよ。仕事から帰ってきたところ」
 二人は家の中に入って父に声をかけた。父がアルビと学校の勉強の話をしている間に、メリは夕食の支度にかかった。
 今日はひどい一日だった。何もかも、元はと言えば自分がクララやゲンツやアルドと一緒にあの店で食事なんかしていたからだ。きっとああいう誘いはこれからも続くだろう。
『どうしたらいいの』メリは自問した。シドやリンダ先生やバルザおばさんの話を思い出した。
『もう付き合うのはやめよう』メリは決心した。
 ところがその二日後、クララが家までやってきて、自分の16歳の誕生日だからと楽しそうに話しかけてきた時、メリの決心は切れてしまいそうだった。
「ハーイ!今から『パラダイス』ディスコに行きましょうよ!ワイワイ騒ぐのよ!」
 メリは両手を握り締めたまま、視線のやり場に戸惑っていた。
「どうしたの?プレゼントのこととか心配してるの?」クララは笑いながら言った。
「そんなこと気にしなくてもいいのよ。あなたには花束だけ貰えればいいんだから。プレゼントはほかの人たちがくれるもの」
「そんなこと心配してるんじゃないの。ただ・・・」メリは言った。
「ディスコなんて、一度も行ったことないし」
「じゃ尚更じゃないの!この機会に行ってみましょうよ」
「でも、もっと他の場所にした方がいいんじゃないかしら・・・」
「メリったら!くだらないこと言わないでよ、私たちもう子供じゃないんだから」
 試験があるから、と言ってメリは最後まで行きたくないと頑張り通した。クララはそんなメリを見つめて不満そうに言った。
「何で?!私の誕生日なのに来てくれないの?夜までに帰ってくれば、勉強する時間はあるでしょ。それともあのバスケ部の彼氏に、私と付き合うなって言われてるの?」
「シドはそんなこと言う人じゃないわ」
「だったら、あのビュレク屋のバルザとかいうおばさんね。あの人、私のこと嫌いだもの、そうに決まってるわ。あの人怒りっぽい顔だから、友達もいないのよ」
[訳註;「怒りっぽい顔」は原語では「パプリカみたいな顔(turispece)」と言っている]
「バルザおばさんのことを悪く言わないでちょうだいクララ。私が言ってるのは別の理由なのよ」
「ねえメリ、これだけは分かって欲しいの。私があなたに親しくするのはただ友達になりたいからで、下心なんかないのよ。ゲンツだって、アルドだってそうだわ。あなたを一人ぼっちにしておきたくなかったから、ただそれだけよ。他の人たちが何を言ったって、そんなの私にはどうでもいいことだわ。でもね、こんなにあなたに親しくできる人が他にいるかしら。私たちがあなたにとって迷惑だって言うんなら、そうして家の中にいればいいんだわ、そう・・・スパーキーと一緒にね!」
 クララの言葉は辛辣なものだったが、そこには確かに一つの事実が含まれていた。
「ごめんなさい、あなたのことを迷惑だなんて言うつもりじゃなかったの」メリは小声でつぶやいた。
「誕生日は誕生日じゃないの」クララの声は少しだけ苛立っていた。「ディスコで踊って、それで用事はおしまいよ」
「お願い、そんな怒らないで」
 するとクララはメリに近付き、抱き寄せた。
「あなたのことを怒ったことなんて、私は一度もないわ。私がムカつくのはね、陰でゴチャゴチャ言ってる連中のことよ。いまいましいったらないわ!こっちが手を伸ばしてるのにパンを握らせてくるみたいなものじゃない。アルバニア人っていつもそう。他人のことには関わる気もないくせに夜は落ち着かなくて、お腹の中はからっぽで、そのくせ舌先だけは剣みたいに切れるのよ。他人のことなんか何にも知らないくせに!周りのことをちゃんと見てないからそうなるのね。やれやれ!で、私たちはどうしようかしら?」
「私、今日は一緒に行くわ。でも暗くならないうちにね」
「いいわ。あとで迎えに来るからね。おしゃれしていかなきゃダメよ」
「うん。なるべくどうにかするけど」
「そうだわ、あの貝殻のネックレスよ。あれまだ持ってる?」
 メリはネックレスを手に取ると、大事そうに触れた。
「持ってるわ。これ、気に入ってるの」
「どうせあのノッポ君がくれたんでしょ」
メリが黙ってしまったので、クララはくすりと笑った。
「メリユルったら!あなたがまだ彼のことを思ってるとしたら、そんなのおかしいわよ。もっと他のことを見つけなきゃ。何か新しいことをね。あなたのその条件なら、もっと素敵な幸運が見つかるわよ。そうすれば家族のことだって楽させてあげられるわ」
「そんな幸運、どうやって見つけるの?」
「うーん、ここじゃ無理ね。だから私はギリシアへ行くの」
「あなたは私とは違うわ」
「どう違うの?」
「あなたにはゲンツがいるもの」
それを聞いてクララは笑った。
「あなたにだって、ゲンツみたいな人がすぐ見つかるわよ」
メリは不安そうに目を上げた。
「そんなの、私には無理だと思うわ」
「ねえメリ、これはよく考えてみなくちゃいけないわよ。バルザおばさんのビュレクなんかじゃ人生は変わらないんだから。でもまあいいわ、今度はもっと別の話をしなくちゃね。私とりあえず行くから!」
 メリは父が早く帰ってこないように願いながら過ごした。父親の許可なく出かけるのは気がすすまなかったが、クララがやってきて門の外から声をかけてきた時も、父の姿は見当たらなかった。それでメリは仕方なく、アルビに言づてを頼んでおくしかなかった。
「あの車の連中と一緒に行くの?」アルビが不意に訊ねた。
「さあ、クララが招待した人だから知らないわ」メリは答えた。
「それで、シドも来るのかな?」
「何言ってんのバカ!」
「僕知ってるよ。あいつ、自分のお母さんに、もう姉さんとは付き合うなって言われたんだ。あんな人の良さそうな、一日に十回も電話してきたあのシドがだよ!本当にガキだよな!口先ばっかりで、あっさり手のひら返しちゃってさ!」
 メリは弟の言葉に心がズキズキと痛んだ。
「そんなことない」
「みんな似たようなもんさ」アルビは言った。
「でもさ、そいつらがいなくなったからって世界中のありとあらゆる伝染病にかかっちゃったみたいな顔しない方がいいよ」
 メリはそんな言葉を振り払うように外へ出た。アルビは自分が口にした言葉に、じっと考え込んでした。母が死んでからというもの、アルビも目に見えて成長していた。
 クララと並んで道路を渡る時、メリの目にバルザおばさんの家のバルコニーが飛び込んできた。今日、メリは店に行かなかった。バルザおばさんからの電話もなかった。バルコニーの大きな窓ガラス越しに、ビュレクを売っている姿が見えた。
『見られた』
おばさんは今頃、何を考えているのだろう。メリは思った。
『もうあんな仕事はいや!』
自分がどこへ行くのかわからず、まるでふらついてる鶏みたい。これが自分の人生なのだろうか。

***
 ディスコ「パラダイス」はティラナ市内ではかなり新しいディスコの一つで、とりわけその独特の建築スタイルとフォルムが有名だった。全体は細長く、天井は弓状にカーヴしていて、まるで巨大な洞窟のようで、音楽がそこら中でガンガン鳴り響いていた。夕暮れ時だったが、店はオープンしたばかりで、まだ客もまばらだった。
 メリは、初めて入ったディスコの薄暗く騒がしい雰囲気を伺う時には誰もがそうするように、ぎこちない動きで店内に入り、おそるおそる左右を見回した。一人ぼっちで踊っていた男性が声をかけてきた。メリとクララはテーブルについた。
 その内だんだんとホールの中に若い男女が増えてきた。ゲンツとアルドも楽しそうな顔でやってきた。クララに『誕生日おめでとう』と言ってから、ゲンツとアルドはメリと握手を交わし、腰を下ろした。
「踊り過ぎて死んじゃうかも」アルドが言った。
「どうだいクララ、今夜はこのディスコをかき回してやろうぜ。そうだよね、メリ?」
メリは申し訳なさそうに肩をすくめた。
「知ってるでしょ、私、踊れないのよ」
「今夜は一緒に踊ろうよ」アルドは食い下がった。「そんなのはやめにしてさ。いやなことは忘れちゃおうよ。おいゲンツ、何か飲み物をもらってこようぜ」
 アルドとゲンツは立ち上がって、バーのある狭いカウンターの方へ歩いていった。ゲンツはビールとコカコーラを二本ずつ頼んだ。
「今夜は僕らのスターにも、ちょっぴり魔法の粉をあげようか」アルドが言った。「そうすればあの娘だって、踊りたくなるかもしれないぜ」
[訳註;原語yll(星)には英語と同じ「スター」の意味もあるが、ここでは勿論メリユル(Meriyll)を指している]
「ヤバいんじゃないか」ゲンツが言うと
「ヤバいもんか。うちのカモだったらヤバいことなんか何にもないだろ」
「あいつは俺が渡したものが何かも知らなかったけどな」
「もう一人の方だって、何もわかりゃしないさ」
 そう言ってアルドはポケットから小さな紙包みを二つ取り出した。そのうちの一つを開いて、紙を漏斗替わりにすると、その中の白い粉をコカコーラの瓶の一本に注いだ。白い粉はまたたく間に溶けてしまった。ゲンツはそれをストローでかき混ぜると、もう一本のコーラの瓶にも同じことを繰り返した。その間、二人はメリとクララが座っているテーブルに背を向けたままだった。
「それで、俺たちはどうする?」ふとゲンツが訊ねた。
「ビールを飲んだら、いったんトイレに行こう」アルドが言った。
 二人はテーブルに戻ってきて瓶を置くと
「クララの人生に乾杯!」と、クララにお祝いの言葉を述べた。
 ホールの音楽のヴォリュームが上がると、踊っている人たちのテンションも上がってきた。メリは、急に元気が湧いてくるような感じがした。そして音楽のリズムに合わせて掌で膝を叩き始めた。うじうじと座ったまま、周りの目を気にしてずっと考え込んでいる自分が、何だかひどく馬鹿のように思えてきた。メリは踊りたくてたまらなくなってきた。この間クラスメートの男女と一緒に踊ったのは何のパーティーだったか、その時のメリには思い出せなくなっていた。
 アルドはクララの手をとって
「さあ今度は僕の番だ」と誇らしげな声で言った。
「まだ僕が一番だぜ」
 アルドは驚くほど激しい勢いで踊り始めた。その手足の動きは余りにも激しく、ホール中の注目を集めた。アルドの周りに男女が集まってきて、手を鳴らし始めた。クララも遅れをとるまいと踊ったが、それでもアルドにはかなわなかった。そんな光景を眺めている内に、メリはますます力が湧くのを感じていた。
「僕らも行こうよ」ゲンツが言った。
 メリは立ち上がりたかったが、そんな衝動が長続きしないであろうこともわかっていた。
「メリ、早く!」クララが呼んでいる。
「メリ、僕らを待たせないでよ!」アルドも声をかけてくる。
 踊っている人たちの視線がメリに向けられた。
「メリ、早く!メリ、早く!」みんなの声が合唱のように響く。
 メリは立ち上がると、踊っているみんなのところへ近付いていった。最初はぎこちなく、ためらいがちな動きだったが、やがて音楽の速いリズムに身を合わせていった。要領がわかってくると、メリはしっかりとした足取りで踊り出した。その隣でアルドが笑いながらアクロバットを披露していた。
 そうして1時間ほども踊った頃、シドがチームメイトのアドリアン・プリスカと一緒にホールに入ってきた。そこでメリに気付いたシドは、自分の目を疑った。メリが「パラダイス」ディスコに入って行くのを見たとアドリアンから聞いた時、シドは自分の友達であるアドリアンのことさえ信じられなかった。それを聞かされたのは、シドがアドリアンと人造湖近くの丘で落ち合って、いつものように夏の夜のトレーニングをしていた時のことだった。
「誰と一緒だったの?」シドが息せききって訊ねると
「僕が知ってるのはあの連中の一人だけだけど」アドリアンは答えた。「アルドと言うヤツで、家の近所で見かけたことがある。こう言っちゃ何だけどシド、僕にもさっぱりわからないんだ・・・」
 シドは、つい何週間か前まで自分のすぐそばにいてくれたその大好きな人物を、じっと見つめていた。『もう帰ろう』そう思って胸がズキズキと痛んだ。とにかく帰れるものならシドはそうしたかった。痛々しくてメリの姿を見ていられなかったのだ。どれだけ思い出しても、彼女のこんな有様は目にしたことがない。完全におかしくなっているようにしか見えなかった。顔は汗びっしょりでシャツをはだけさせ、髪は額にかかっていて、カールしたその何本かが汗でべっとりと張り付いていた。メリはほとんど自制心を失ってしまったような笑い声をあげ、その瞳は異様な輝きを帯びていた。
 ゲンツがアルドの脇腹を小突いて
「あの野郎が来たぜ」といまいましげに言った。
 アルドはシドとアドリアン・プリスカを見ながら、顎をしゃくってみせた。
「今度という今度は、あの鼻っ柱をへし折ってやるぜ」アルドは言った。「もう勘弁できねえ」
「だがこの中でやったら、俺たちがディスコから追い出されちまう」ゲンツが言った。「まあ待て、次の機会をうかがおうぜ」
「何言ってんだよ!あいつはメリを探してるんだぞ。こっちの俺たち二人は狼だが、あっちは俺たちのスターを盗ろうとする本の虫じゃないか!」
「まあ俺たちはスターを見るとしようぜ」
 ゲンツとアルドは再び腰を下ろした。そこへシドとアドリアンが近付いてきた。メリはシドたちに気付いた途端、腕を振り上げたまま、その場に立ち尽くした。シドはメリに話そうとしたが、音楽のために全く聞き取れなかった。それで、ちょっとだけでもメリを外へ連れて行こうとした。
「シド、あなたもこっちにきて踊らない?」メリは笑いながら言った。「ねえ、ディスコって怖くないわね、みんなが噂してたと全然違うもの」
 シドはメリの腕を掴んだ。
「メリ、君は今すぐ家に帰らなくちゃダメだ!」
「どうして?!」メリは呆気に取られて叫んだ。
「君、君は、こんな連中と一緒にいちゃいけない」
「いやだシド、あなたまだそんなお行儀のいいこと言ってるの?今日はクララの誕生日なのよ。今日ぐらい踊りたいじゃない。何の権利があって私に踊らせないつもり?」
 シドはメリにそう言われてぐっと詰まったが
「いいかいメリ」と言葉を続けた。「僕たちは卒業試験があるんだ。君だって今は勉強しなきゃいけないじゃないか。何としても試験で良い点を取らなきゃいけないんだよ」
「何でよ?」
「何でって・・・僕たち、高校に行くためだろ」
 するとメリはあからさまに小馬鹿にしたようにフンと笑ってみせた。
「ああシドったら、笑わせないでよ!私が高校なんて行けないこと、あなただってよく知ってるじゃないの」
 そこへアドリアンがシドの肩をポンと叩いた。
「シド、今日はいくら言っても無駄さ。メリは酔っ払ってるみたいだ」
 それでもシドは引き下がらなかった。
 シドたちがそうしていると、向こうのテーブルにいたアルド・ブリミが立ち上がった。殴り合いを始める気満々だったが、今度はクララが引きとめた。
「馬鹿なことはやめなさいよ」クララは苦笑いして言った。「メリはちゃんとこっちに戻ってくるわよ。いいから見てなさいって」
 アルドは憤懣やるかたない様子で席に着いた。
「あの野郎が連れているガキは見たことがあるぞ。あいつら、メリに俺のことを悪く言ってるんじゃあるまいな。なあゲンツ、お前、あいつらが何を喋ってるかわかるだろ?あの野郎には一発喰らわせて、俺たちに手出しできないようにしてやらなきゃな」
「それもそうだな」ゲンツは言った。「まあ、もう少し待ってみようぜ」
 二人がそんな話をしていると、踊っている男女の間をすり抜けてメリが戻ってきた。
「あの彼、何の用だったの?メガネでも失くしたとか?」クララが笑いながら訊ねると
「本当にもう!」メリは言った。「シドったら、踊る気なんてないんだもん。私はこんなに踊りたいのに!」
「私だって踊りたいわよ!」とクララが言うと
「ならこのスターと踊ればいいじゃないか、好きなだけ」アルドが言った。「メリもコツがつかめてきたし」
「いいえ結構!メリもそろそろ家に帰らないと。あんまり遅くなっちゃいけないしね」
「そうかい、じゃあもうひと踊りしていこうぜ」
 4人がディスコを出た時には夜11時を過ぎていた。メリが我に返ったのは、彼女の家に車が止まった時だった。気付くと車の後部座席にいて、アルドの肩にもたれかかっていた。慌てて飛び起きると、クララたち3人をぼんやりと見つめた。
「ハーイ、私たち楽しかったわよねえメリ。そうでしょ?」クララが言った。
「ああ、うん」メリは小声でつぶやいて車を降りた。「おやすみなさい」
「じゃあ、またね!」
 メリが門から家の中に入ると、どこもかしこもシーンと静まり返っていて、それで夜遅くだということがわかった。見ると、玄関の階段のところにアルビがいて、スパーキーを撫でている。
「へえ、姉さん、ディスコなんか行ってたんだ」アルビが言った。「いろいろ話してよ」
「また明日ね」とメリは答えた。「頭が痛いわ。パパはどこ?」
「もう寝たよ」
「私のこと何か言ってた?」
「何も」
「じゃあ私、もう寝るわね」
 アルビはそんなメリを、理由はわからないながらも、しばらくじっと見つめていた。メリは浴室に入ると、水をザーザー出して顔を洗った。それでもまだ頭がぼんやりしていた。顔を上げて鏡を見たメリは自分の顔にびっくりした。それで急いでベッドへ飛び込んだ。明日には何もかも元通りになりますように、と願いながら。

(17につづく)


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