日々はお決まりの通りに流れ、記憶に特別なものは何も残らない。私たちが過ごしていたのは、家の者たちがいつもより遅く起きる週末の日に過ぎなかった。夜明け頃、最初に目に入るのは、部屋の隅の古い旅行鞄に掛けられた父の軍服だった。一日の行動は決まっていた。私たち、つまり祖父と私は、ほぼ毎週日曜日には散歩に出かけた。町は古いモノクロ映画の場面のように動いていた。人々はまるで粉々に砕けた石炭の破片のように、街路に蠢いていた。時はそのだらだらとした歩みで進み、そして恐らく誰もが皆、そんな時の生き方に適応していた。私たちの頭上には日曜日の空が重苦しく留まり続けていた。祖父は黙ったまま、穏やかな足取りだったが、私はその後を足早に追いつつ、もしかしたら偶然にも、地球から孤立したこの地点で運が向くかも知れないと、通りしなに知り合いの顔を探していた。
祖父にとって日曜日は祝日のようなものだった。そんな日曜日に祖父はブルーの背広を着た。両手は塞がっているのが普通だった。一方の手にはその日の新聞をしっかりと握り、もう一方の手は私の手を握っていた。私の記憶にあるのは、町を埋め尽くす連帯のスローガンと旗と、待ちくたびれた人々で溢れ返るパン屋のかまどと、苛立つパン職人の顔と、恐ろしく下手くそな字で番号が書いてある天板と、それと何処だったか、目の前を通り過ぎる人々の動きを鋭く見つめる片足の時計職人の、射るような眼差しだった。何故だか分からないが何のモチーフも無いその光景に、幼かった当時の自分にその意味などわかったはずもないのに、私は恐怖感を覚えた。
幾度か、レースのカーテンが掛かった小さなカフェに入ることがあった。そこで働く男の動きはのろのろとしていた。その店は何年も昔から何一つ変わらなかった。そこにはタバコの煙と、焙煎されたコーヒーの香りが立ち込めていた。交わされる言葉の喧騒がその場の重苦しい空気の中に充満し、その不穏な雰囲気に圧倒されるのだった。スポーツのついての会話が、空っぽな日曜日の緩慢な生活を埋め尽くしていた。
私たちの周りにはほとんど同じような光景があった。スタジアムは熱狂したファンで溢れ返り、波打つような混乱は私を恐怖に陥れた。私がリラックスできるのはサッカーコートの緑だけだったが、そこでは色とりどりのユニフォームを着た男たちが互いに激しくボールを追いかけ合っていた。そこにいる男たちを見た時、私にはまるで、彼らがその狂乱しきった光景の中で固められてしまったような感じがした。彼らと会えるのは日曜日の町の酒場だけで、試合が終わって彼らが興奮冷めやらぬ様子で出て来る頃には、夕刻の通りは喧騒に包まれていた。それ以外の曜日は、労働時間を延長された、時には朝までかかるほどの仕事にかき消されてしまう。しかし週の七日目になると、女たちはいつまでもシーツを延ばすのに余念がなかった。そして町の至るところでラジオから鳴り響く、スポーツ解説者のつんざくような声が、私の日曜日を台無しにするのだった。
私の町の毎月の日曜日は、大なり小なりこんな風で幕を閉じていった。私はそんな型通りの、いつもいつも似たり寄ったりの日曜日が大嫌いだった。そんな週末の日、男たちはスポーツの絶頂に没頭し、女たちは農婦のように頭に白布を巻き、むせるような洗剤の匂いとはじける泡の中に埋もれていた。
そして今、残念ながら、私にはスポーツの日曜日しか残っていない。それはまるでトロイア最後の包囲の時からの遠い記憶のように、そのまま残っている。盲目的な情熱は風と共に消え失せてしまった。古いカフェは取り壊され、祖父はもういないが、私にはまだ、祖父の手の柔らかさを感じられるような気がする。街路は今では閑散としていて、女たちは自分のことに費やす時間が多くなった。人々はスタジアムの階段に見向きもしなくなり、スポーツ解説者は昼食後のまどろむような休息時に耳をつんざくようなわけのわからない絶叫を上げなくなった。実に有難いことだ、審判に浴びせられる罵声と、群衆の中で警官が張り上げる怒声に、私はもう辛抱できなくなっていた。私は押し潰されるような画一性とは無縁な、本とディスクと私自身の出来事に囲まれた、完全に私自身の日曜日を過ごしている。一週間が日曜日にだけ集約されることもなく、口笛を鳴らす音で日曜日の幕が下りることもない。