見出し

エルミル・ニカ 『罪びとたちの夜』

シーシュポスの後に・・・

 夕暮れ。一定の呼吸のリズムの下、私の日々は動悸を打っていた。その揺らぎの中で、私は朝と夕が長くなっているのを感じた。そして私は、続けてやって来る翌日への不可解な恐怖に支配された。一瞬一瞬の機会が私の手から滑り落ち、お決まりの日々は夕暮れへと流れていくのだった。そして日々は不可逆の中へと消え失せ、肩にのしかかるのは古い知識の痕跡。毎日私は不意の嘲笑に翻弄され、夜には割れるような電話のベルに怯えるのだった。夢はしぼみ、何もかもが激しい勢いで奪われ引き離されていく。不意に気付けば、息苦しい欲望に縛られ、全てを失い疲れ果てるのだ。更に一人の友人を失ったことも、私にとっては罠にかかったようなもので、その罠の中で獲物はずっと追憶の壁の中に閉じ込められたままでいるという責めを受けるのだ。
 いつかは、遅かれ早かれ我々皆この世を去るだろう。それは私自身、我が旧友アルベン・セイコが不治の病で長く患った後に死んだと知らされた、あの暑い六月の夜から絶えず認めていたことだ。彼はその病のせいで、核心においては途方もなく遠くに見える何か、つまりは死を除いて、どんなことでも考えることができるような年齢で命を奪われたのだ。
 私の視線は戸惑い、両手は突然震え始めた。仕事机に額を押し付け、死んだ友を思ってすすり泣く度、今にも呼吸が完全に止まってしまいそうだった。全てが、まるで一本の映画のように思い出された。あとに残された年月を目まぐるしく生きていく中で、私は幾度か朦朧とした状態に陥った。自分の周りの何もかもが、湯気のように立ち昇る郷愁の息遣いのようにつきまとっていた。そんな状況から私が抜け出したのは夕方の六時を過ぎた頃で、その時までには、もはや何もかもが無駄だ、彼はもう戻らない、そんな思いでまとまっていた。私の記憶の中には、あの芸術家のうつろうような面影と、しわがれた声とが、永遠にとどまり続けることだろう。
 夜になり、私は友人たちがいつも集まるバーへと出かけた。我々の席はまだ混み合っていない、四つの椅子がある場所だった。エリオンとチミは既に座っていて、私がやってきたことで図らずも、気まずい待ち合わせに終止符が打たれた。
「来ないと思ってたよ」エリオンがそう言って、ぎこちない動きで、灰で埋もれた灰皿に煙草を押し付けた。腰掛けながら私は自分自身でも、自分たちの内の一人がサナトリウムの寒々とした一室で最後の呼吸を終えたという考えに屈服するのは殆ど無理だなと感じていた。
「俺が今日このテーブルにいないなんて、本当にそう考えてたのか?!いやいや決して、そんなことはないさ」私はとにかく声帯が震えるのを遠ざけようと、必死の思いで答えた。
「どうも不安だな、なあデニス、俺たちの運命は戻れない道の上に釘づけにされちまったのかもなあ」エリオンはそう言い煙草に火をつけた。ゆらゆらと揺れるマッチの炎の中に、四十を過ぎたばかりの男の、疲れきった顔が浮かび上がった。
「お前怖いのか?!」指先と全身に波のように痺れが押し寄せるのを感じながら、私は自分でも思わず知らずそう問いかけていた。エリオンはうなだれたまま、私に向かって何も答えようとはしなかった。私はエリオンをじっと見つめていたが、彼はどこまでもどこまでも際限なく続く考えに一心に捕らわれていた。
「今になって、こうも一瞬一瞬が長く思えてくると、ますますもって、この無様な状態から俺たちは抜け出せそうにない気がするよ」とチミが言葉を継いで、魂の抜けたような視線を、夜の蒸気に濡れた窓ガラスの方へと向けた。
 そこで急に我々三人は、過ぎ去りし年月を想い、鎮魂に沈んだ。人生と、そしてその人生の、自分たちがこの世に現れ出たその時から踏み出す一歩ごとに自分たちを取り巻く厳しい現実との相克の中から、期せずして生まれたこの状況に自分たちが陥る日が来るなどとは、今まで一度として思ったことがなかった。アルベンが埃をかぶった道の向こうから無遠慮な足取りで窓ガラスの向こうに姿を見せることがないのはこれが初めてで、だから我々は、思わず期せずして、過ぎ去った時のことを語り始めた。彼は今やもう、神の完全なるご意志により、「在りし日の」人となっていた。[訳註:ここで「在りし日の」と訳した“ish”は存在動詞jamの未完了3人称単数形で、「~であった」の意味だが、職名等の前に付けると「旧~」「元~」の意味にもなる]
 するとどういうわけだか、そんな厄介な時に私が思い出したのは、あの遠い九月の日のことだった、あれは我々のグループが卒業を控えた年の九月最後の日曜日で、ティラナ市とエルバサン市の間の岩地の辺り、エルゼン川[訳註:アルバニア中部を東西に流れる川]の増水した川底が広がる岸辺へ泳ぎに出かけることにしたのだ。その朝はとても暑く、足下の石もじりじりと焼けるように熱かった。持って行ったのは各々の水着と「スカンデルベウ」コニャック[訳註:毎度おなじみアルバニアの地元酒の定番]数本、それに古いオープンリール式のマグネトフォンだけだった。当時の社会通念や共産主義体制の健全なる諸原則からすれば、男女入り混じった青年たちで、しかも担任教師や党からの誰かといった引率の責任者もなしで地方へ行くなど、まさに愚行もいいところだった。もしも誰かがその、水際で、ロックンロールとブルースの鳴り響く中、半裸の娘たちがはしゃぎ回っている我々の有様を目にしたらきっと、これこそ世界の終わりに違いないと思っただろう。我々は歓声と、ブルースのリズムと、最後の一滴まで飲み干した瓶を割る音の中で服を脱いた。そんな動きをしている自分たちはまるで、何処までも広がる空間で、音楽の魔力を味わうヒとアルコールによる酩酊と、思い描いたセックスの味を堪能するヒッピーの一団にも似ていた。身に着けているのは下着だけで、酩酊の極みの中、我々はエルゼン川の水へと飛び込んだ。我々は皆熟練の泳ぎ手で、岩場の高い所から身を投げることにも、我々はこともなげに、狂気じみた情熱に駆られて挑んでいた。あの日-今でもよく憶えている-エルゼン川の水には冷たい流れが注ぎ込んでいた。恐らくそれが、天気が崩れる最初の予兆だったのだろう。そして実際、その年の秋は普通よりも早くやって来たのだ。正確にはわからないが、我々はそこで何時間も水の中を泳いで過ごし、冷たい流れを堪能した。それはまさに、私がアニタと戯れた、九月最後の日曜日だった。
 私と彼女が知り合ったのは学校に入った年のことだ。もう何年も経ち、何もかもが引き返せない道へと入ってしまった今になっても、私ははっきりと[訳註:原語は「口を全開で」]言える、彼女との関係はひと目惚れだった。アニタを私は称賛し、狂おしいほどに彼女を欲した。だが彼女はいつも、私に向かって殺意じみた無関心を投げかけてくるのだった。そんな状況で私は深い絶望に沈みつつ、その輝くような姿を思い浮かべては、しばしば自慰に耽っていた。
 こうして三年が過ぎた。氷を砕こうと頑強にこだわり続けていたら、ようやくアニタは私を男性として認めてくれるようになった。そして私と彼女が付き合うようになったのは、名付け親[訳註:原語kumbarは幼子に洗礼を施す聖職者や、或いはその後見人、いわゆる“godfather”を指す]である先輩らから受験生[訳註:原語maturantは高校の卒業試験を控えた学生を指す]の名を冠せられた[訳註:原文の動詞pagëzojは「洗礼を施す」]高校最後の年だった。そして気も狂わんばかりのあの日、何処かしら町外れの人けのない場所で週末を過ごした二人は、初心者ゆえのめくるめく激情を伴う夢を見ていた。それは私にとって初めての性体験だった。一方アニタは、その何年か前まで、私より二つ年上の男子の彼女だった。その年頃の女子が、自分より年齢が上の男性に惹かれるのは珍しいことではない、金銭的な面でも、エロティックな経験の面でもだ。その事実は、顔に髭剃りをあてたこともない自分たちのようなイケてない連中[訳註:原語qyqarは「家族や友人に恵まれない者」、転じて「運の無い者」「孤独な者」の意]からすれば、充分に悲しむべきことだった。だが我々は、こうした障壁を乗り越えるのは時間の問題でしかなく、いずれ物事は収まるべきところに収まるだろうという希望で以て、自分自身のことを慰めるのだった。すると突如、そうして為されたやりとり全てを過去へと押し流してしまうような人生の一瞬がやって来る。友人たちが石の床の上で踊っている間に、私が彼女の肉体の中へと分け入った、まさにその時のことを思い出す。彼女が目を閉じたまま、穏やかな動きに身を任せていたのを憶えている。失われたこの世の辺境にでもいるかのように、私と彼女は二人だけの儀式を続けていた。
「デニス、さっきよりずっと元気ね!」甘く漏れる喘ぎ声の中に、彼女の声が聞こえた。
 女らしい胴体が吸い付くように波打つ、その内と外で、本能的な運動と行為をしながら、今までの自分自身に起きたことがないほどの興奮状態を乗り切り、そして噴き出した自分自身の迸りが川の奔流に混ざると、私はアニタから身を離した。アニタは目を開け、川底深くに身を沈めた。私も、底の方の藻の生えた石に胸があたるほど身を沈めた。その渦巻く流れの中で、何度もアニタの身体に触れた。アニタは私の手を握り、水面へ引き上げてくれたが、そこには我々生物の眼をつぶすほどの強い光があった。二人で水の中から出て、岩の窪んだ所に手足を伸ばしていた時のことを思い出す。太陽の光が細身の身体に降り注ぎ、水のしずくがブロンズ色の肌の上を滑り落ちていた。雲の渦の中を揺らめいているような気分だった。もはや身体の重みも、手足の動きも感じなかったし、仲間たちの話し声も自分にはがやがやと騒がしい音になっていた。オーガズムによってもたらされた解放感の後の、その陶酔した状態の中で私は、自然の多彩さを、空の青さを、どこまでもうねる水の透明さを、そしてチェスの石のようにその辺りに散り散りになっている仲間たちを、渇きを癒すように味わっていた。
 その当時アルベンの恋人だったヴェラは、川辺の水たまりの草の生い茂ったところから積んできた花を、恐ろしく長いネックレスのように編んで、首にかけていた。彼女は確かに美人で、前に我々もみな痛い目に遭わされていた。しかし我々全員の中からヴェラが選んだのは、秘かにヌードを描き、禁じられた作家を読んでいた男、アルベンだった。ヴェラからも、アルベンはそのヌード画を得るに至ったが、彼が住んでいた平屋建ての家の一室にもうけた即席のアトリエでそれを見る幸運に恵まれ、その特別な絵画芸術に情熱をかき立てられた者は、ごく僅かだった。今にして思えば、それを目にした多くの者からすれば最大の関心事は、裸のヴェラを見つつ想像力をかき乱すことだったろうが、それに触れ、愛撫する特権を実際に手にしていたのは、アルベンだけだったのだ。
 あの日、二人は日陰の下で戯れていて、エルゼン川の堰き止められぬ流れをも絶ち切っていた。アルベンはベージュ色のズボン下を履いていて、本人はそれを水着と呼んでいたが、彼の優雅な肉体にはほんの僅かしか余裕がなかった。そのことで我々にはユーモアが生まれ、泳いでいる間も我々はそのことをからかわずにいられなかった。アルベンは我々と一緒に水の中から出てくることはなく、まだ泳ぎたがっていた。
「群れから離れるんじゃないぞ、神の子羊よ!」仲間の一人がアルベンに叫んだ。「お前のいない人生がどうなるかなんて、俺たちには考えられないぜ、おい」
「悪いな、親愛なる友らよ、俺はお前たちを置いていかねばならない。もう水の上にも、風の波にも触れることはない。俺は深みに囚われてしまったんだ。わかったかい?それとお前たち、そこの哀れな連中よ、軍服姿のヌードの絵は隠しておいてくれよ[訳註:ここで「軍服」と訳したアルバニア語uniforma zboriは民間人の軍事教練用の制服を指す]
 我々の間の意味ありげな冗談や会話のやりとりがどれぐらい長く続いたか、正確には憶えていない。我々はそんな風に、誰もが自分たちの軌道の主人であるように仕立て上げられていた。アルベンは川の流れの角度に逆らい泳いで突っ切っていったが、もし天気が崩れでもして、冷たい風が我々のむき出しの身体に打ち付けるようにでもなったら、彼の抵抗[訳註:原語shpengimは「償還」「枷を外す」等の意]もどこまで続くかはわからなかった。水の流れる勢いは一層強くなり、アルベンは必至で流れに抗して泳いでいた。こんな激しい流れの中ではどんな影響を受けるか予想もつかなかったので、我々は何度も水から出ろと叫んだのが、アルベンは我々の叫ぶ声に耳を貸そうとしなかった。いつもそうだった、大抵の場合アルベンを特徴付けていたのは反逆の精神だった。どれぐらい経ったろうか、はっきりとはわからないが、ほんの一瞬、流れる勢いがアルベンの水着を引っ摑むと、彼は突然、母親から生まれ出でもしたかのように姿を現した。我々は大笑いし始めた、笑い過ぎて脇腹が痛くなるほど大笑いした。そのほんの数分後、アルベンは荒れ狂う水の中から全裸で飛び出すと、我々と一緒になって、まるで彼の描いたヌードのようなおかしな姿に笑いこけた。そしてこれもまた、笑いと共にいつまでも、私の記憶に刻まれたままであり続けるだろう。
 アルベンは生まれて、生きて、そして死んだ、穏やかな人々が死ぬ時のように、二つの世界を分かつ薄い布地に描かれた姿の彼方へと。そして私の記憶に残っているのは、あの九月の終わりの日曜日だ、遠く思い出すのはアニタのこと、そしてアルベンの姿も刻まれて・・・
 笑い声と無遠慮な話し声が響き渡って、思いにふける私の頭にハンマーのように打ち付けてきた、そこは自分たちがいる、タバコの煙がもうもうと立ち込めているテーブルだった。
 翌日、アルベンの葬儀には大勢が参加した。その人混みの中には、長いこと顔を見ていないような昔の知り合い達の姿も見えた。みんな変わってしまっていて、誰だか辛うじて分かるという程度だった。時間はそれなりに過ぎていたのだ[訳註:原文の直訳は「時間は自分自身のことを成していた」]。教会で、司祭が葬儀の儀式を執り行った。我々は黙って聞いているしかなかった。最後に全員で「アーメン!」と言うのが聞こえた。ヴェラは全身黒づくめで、夫の棺に寄りかかり、六歳になった娘のエニと一緒に、大声を上げて泣いていた。我々は二人の傍まで行って、アルベンの亡骸から二人を引き離す羽目になった。私はヴェラの腕をとって、自分の方へと引き寄せた。ヴェラは私の肩に頭を載せたまま、二つ続けて咳をした。それから突然気を失った。
「俺たちは無力だ、自分たちの運命ひとつ変えられやしない」私は彼女の耳元でそうささやいた、彼女に聞こえていると確信して。すると私の言葉に、ヴェラは私の指先を軽く握り、青ざめた唇をかすかに動かした。ゆっくりと、彼女は現実に戻ってきた。その刹那、私は何もかも早く終わってくれと願っていた。川辺の砂を押し流す水のように、時間が我々を侵食していった。
 我々は墓地へ向かうことにした。すると急に我々の車に痩せて背の高い、ごわごわの髪を肩まで伸ばして毛皮を着込んだ男が近付いてきた。その男は軽く手を広げて、青ざめた我々の顔を順番にじろじろと眺め出した。我々は冷たく挨拶を交わした。男は前の席に座り、長い長い溜息を洩らした。「さあ行こう!」男の荒々しい、まるでオゾンで痛めた肺からでも出ているような声が聞こえた。その時私ははたと気付いたのだ:シーシュポスだ。奴は自分の運命を追っているのだ。
 私は曇った窓ガラスの外を見た。外は何も変わっていなかった。集まっていた人々は散り散りになり始めていた。車列はのろのろと動いていた。それほど長い道のりではないらしかった。道は随分混んでいて、あわや車列の犠牲者となりかけた酔っ払い二人に、運転手が罵声を浴びせていた。好奇心に駆られた視線が、道路の両側から、興味津々といった風で我々に注がれていた。我々はうなだれたまま、生と死とについての思いにずっと耽っていた。悲しさの重みが、我々の心中に押しかかっていた。シーシュポスは、意味の分からない言葉で何事かを吃り吃り喋っていた。私はその文なり単語なりを解読してみたいという好奇心にとらわれていた。だがそれは全く不可能だった。男の言葉は、遥か太古、おそらくバビロニア人たちが地上に君臨していた頃の言語に由来していたのだ。何もかもまるで、実存主義者の独り言のようだった。だから、永遠に断罪される彼の運命を見ていると、私は彼が気の毒に思えてきた。古代の神々はその英雄を、彼が人間に不死をと願った[訳註:シーシュポスがタナトス(死)を捕らえたために死者が生き返った話を指している]かどで罰したのだ。そしてその時以来シーシュポスは永遠に、山の頂上へ岩を持ち上げては、岩を下まで落とされ、その度に彼自身がそれを頂上へと運ばなければならない罰を受けたのだ。そして我々の運命が交わる先は、嘆き悲しむ時の砕けたかけらの中で彼が運んでくる重みと呪いなのだ。
 墓地に着いた。何人かがアルベンの棺を抱え、残りが家族について歩いた。埋葬場所までやってくると、司祭があらためて聖書の一節を読み上げ始めた。我々にとってこの上なく苦しかったその時の中で、はっきりと記憶に残っているのは、我々の目が、うんざりするような長い時間の中でずっと、熱い涙でぐっしょり濡れていたということだ。ヴェラはと言えば、その時彼女は司祭が読み上げるのをじっと聞いているどころか、その視線はエニを探し回っていたのだが、エニはその時何と自分より少し年上の男の子について行ってしまい、二人して生い茂ったイトスギ[訳註:原語qiparisは学名cupressus semper- virensだが、英語にも“funeral cypress”という表現があるように、欧州では広く「葬式」や「喪」のイメージがある]の木陰に隠れていたのだ。エニが無事なのを見ると、ヴェラは落ち着きを取り戻した。我々はずっと司祭の儀式を聞いていた。周囲には、花輪に隠れて見えないが、悲しげな顔があり、そして我々の頭上には、渡り鳥たちが永遠へと翼を広げる青い空があった。私の両手は痛みと緊張で神経質に震え、自分でも抑えきれないほどだった。ひどく疲れている感じだった。まる一日、目を閉じることがなかったのだ。食べることなどこれっぽっちも頭に浮かばなかった。天から石のように重いものが下りてきて、肩にのしかかってくるような感じだった。こんな底なし沼のような状態にはもう持ちこたえられそうになかった。最後の光のひとすじが消える中で私は、切れ切れに聞こえる聖書の句を繰り返していた。
 ようやく司祭が口をつぐんだ。我々はめいめいロープやシャベルを手に動き出した。シャベルの最後のひとふりが終わると、杭を立てて、そこに花輪を飾り、別れの言葉を書き付けた。そして我々はその場を立ち去った。我々は帰途に就いた。最初に歩き出したのはシーシュポスだった。我々は皆その後について歩いて行った。墓地までの狭い道で、エリオンとチミと私の三人はよく一緒になったものだ。前はアルベンも後からついてきていたのに。我々は、死せる町の大通りに出るまで口もきかずに歩いた。不意に、背後で話す声がしたような気がした。
「悪いな、親愛なる友らよ、俺はお前たちを置いていかねばならない。もう水の上にも、風の波にも触れることはない。俺は深みに囚われてしまったんだ。わかったかい?」
そしてその後から、いま埋めたばかりの穴の中から聞こえてくるような、嘲るような笑い声。私は恐る恐る後ろを振り返った。辺りには何も見えなかった、ただ立ち去る人々の悲しげな影があるだけだった。たぶんそれは風の音か、旧友と別れた運命の皮肉だったのだろう。私は、自分から幾分遠ざかった仲間たちの列に追いつこうと、足取りを早めた。歩みを進め、まばらに並んだ列へと割り込んだ。結局我々は、途中で尻切れトンボになっていた話の続きをした。一日も残り半分となっていた。時間は淡々と、夕暮れに向かって進んでいた。我々は疲労を感じていて、歩みを進める度に足取りも重くなった。我々は、互いの青ざめた顔を見やった。
 私はすすり泣き、そして考えた。この世界からは多くのものが失われてしまった。アニタも今は結婚し[訳註:直訳は「婚姻の冠と共に」]外国へ去ってしまった。アルベンはもういないし、ヴェラも未亡人と化した。私は惰性で足を進め、他の人々に歩調を合わせていた。流れる涙も乾ききって、目袋の下に、冷えて固まった塩の筋がこびりついていた。
 我々は、ほんのしばらくの間、墓地の正門の前の、小路の端のところで立ち止まった。誰か一人が何処かしらぼんやりした声で喋っているのを、残りの我々は、ずっとぶつぶつ呟く声の中で聞いていた。
「それじゃあ、まあ、明日の午後、六時にいつもの店で会おう」
 

(つづく)


ページトップへ戻る/Ktheu