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エルミル・ニカ 『罪びとたちの夜』

フクロウの夢

 夜も更けて、遅くまで道を行き来していた人々も稀になってきた。話し声も、エンジン音も消えようとしている。路上を支配するのは鳥たちと、ネオンの青白い光だけだった。夜の微風は、町の外の剥き出しになった畑地や丘の上を吹き抜けていた。その先には古い墓地が広がっていて、己自身と彼方の世界を知ろうとする人間の、長く困難な道のりの果てに辿り着く門がそこにあった。フクロウの途切れ途切れの鳴き声が、遠くへ去った人々の眠りをかき乱した。「クー・・・クー・・・クー・・・」それから沈黙し、そしてまた震えを帯びつつ、「クー・・・クー・・・クー・・・!」と。
[訳註:アルバニア語“ku”には「何処」の意味もある]
「俺はここだ」男の震えるような、夜の単調さを切り裂く声がした。毒を盛られた人物の、リンの放つ光に包まれたその遺体は、延々と続く嘆きの下で目覚めた。重たい墓石が、冷たい夜風で火の消えた蠟燭の方へと放り飛ばされた。からからに乾燥し、ほこりまみれになった髪を振り乱し、湿った粘土に埋もれていた手足をどうにか動かしたが、不意に気付けばその手足は殆どちぎれかけ、一面に棺桶にこびりついていた泥にまみれ、棺桶の蓋も錆びつき出していた。しなびた両手が、涙に濡れた両目の先でぶるぶる震えていた。びりびりに破れ、この上ないほどに汚れた衣服のあちこちから、ひび割れ、血に汚れた身体がのぞいていた。と不意に全身に、何かに齧られているような耐え難い痛みを覚え始めた。体内に、地中に住む虫の、無数の蛆が蠢いていて、今となっては大理石の墓石の上に描かれた写真の中にしか面影が残っていないその人物を、内部からついばんでいた。彼は身をよじらせ、泣き喚き、叫び声を上げ、ちぎれかけた自分の肉をゆっくりとついばんでいるその小さな生物に、子供のように懇願し始めた。喉の奥から、白い泡の混じった血が、息を吐き声を振り絞ろうとする度、どっと噴き出してきた。血に飢えた生物たちが深く、更に深く体内に喰い入ってきた。すると、長い間冷たく湿った地の底で耐え忍んでいた昔の心臓の刺し傷が痛んだが、今ではそれも消えてなくなろうとしており、それに伴って、その痛みの故に数か月間の命を与えられたこの人物も消えかかっていくようだった。切れた静脈から噴き出した血のために真っ赤に染まった両手が、湿った土を摑み始めた。その身体が、開いた墓の周囲に飛び散った泥の上に倒れ込んだ。口をきこうと、そして生の証しを示そうとしたが、薄汚れた歯とひび割れた唇から出てきたのは、耳障りで、のろのろした、ガサガサと漏れる息遣いで、それが辛うじて聞き取れる程の、何処か途切れ途切れの音を周囲に響かせていた。目まいがするような夜の闇の中で、殆ど傷ついた狼の咆哮にも似たような言葉が聞こえた。
「地獄だ、地獄だ、おお何と恐ろしい!もう耐えられない、俺をボートの脇腹に縛り付けてくれ、頼むから!何て寒いんだ!・・・この恐ろしい、俺の身体を蝕むような暗闇・・・娘が俺を探している・・・それなのに俺はもう・・・もうダメだ・・・おお・・・!」
「ジョン・・・ジョン・・・ジョン・・・!」コウモリ[訳註:原語zog i natësは直訳すると「夜の鳥」。ちなみに「ナイティンゲール」はbilbil]の絶望的な祈りが、隠者の途切れ途切れの声の下で、苦悶の如く鳴り渡った。
「クー・・・クー・・・クー・・・!」虚空に、フクロウの物憂げな鳴き声が響いた。
[訳註:前述の通り、アルバニア語“ku”には「何処」の意味もある。ちなみに「フクロウ」を意味するアルバニア語kukuvajkëは直訳すると「クークーと鳴くもの」。更に参考までに書いておくと、「ジョン」はアルバニア人の男性名Gjonで、コウモリとフクロウに限らず、このように鳥の(コウモリは鳥類ではないが)の鳴き声が「ジョン」と「クー」に聞こえることに因んだ民話も存在する。拙訳(→)参照のこと]
 翌日の朝は、この片田舎の静かな町にしては普段より薄暗く明けた。白い霧が町の上に垂れ込め、魂の巣床の一つ一つを包み込んでいた。沈黙の中に憑かれたようなこの町にいると、不穏な状況が生じるようだった。人々はまだ、死して後に対する恐怖感にとりつかれていた。そしてそれは、眩惑じみたこの世界へと踏み込む歩みの一つ一つに感じ取れるのだった。何処に目をやっても、読み取れるのは様々な碑文で、祈り、遺言、書きかけの詩、追悼、それらが心を駆り立て、息の詰まるような眠気と共に、思考に深く入り込もうとするのだった。そら、もう少しすると三人の墓堀人が、ゆっくりと、互いに会話しながら姿を現した。作業道具を背負い、これから掘り起こされることになっている何処かの場所へと向かうところだった。その表情には、自分たちの周囲のありとあらゆるものに対する関心の無さが読み取れた。一人が、再び開いている墓に目をとめた。三人がそちらに近付いて見ると、土の盛り上がったところに人骨と、渡り鳥の羽毛が散らばっていた。
「こりゃどうも、墓泥棒がまた夜の内に来たようだな!」一番年かさの墓堀人が、ばらばらになった骨をじっと見つめたまま、そう言った。
「頭のおかしい奴が、死人の命の失せた身体に救いを求めたようだ。たぶん誰にも教えて貰わなかったんだろうな、ここに眠っていたのは男で、それも気の毒な父親だってことを」もう一人の墓堀人がそう呟いて、その墓地が広がる平原を囲む丘の、深く掘られた溝の方に、くたびれた目を向けた。
「靴は傷んでないな!じゃあうちの親父に持って帰ってやろうかな。落とし物を無駄にするってのはないしな。こいつにはもう役にも立つまいて、ハハハ!」残る一人が勝ち誇ったような笑い声で言った。
 互いに二言三言、言葉を交わしてから三人は、散らばっていた骨をぽっかりと暗い穴の中へ蹴落とした。人の残骸は粉々に砕かれ[訳註:原文は逐語訳すると「死の粉砕によって」]からっぽの穴の中でくるくると舞っていた。このおよそ尋常ならざる謎に説明を加えようとする者は誰もいなかった。墓から死人が出て来たことにまつわる話など、今では近所の村の子供らでさえ信じていなかった。死人が住むこの町で働いていれば、耕されないままの土地の住人たちのための生活環境に戻っていくしかないのだ。
 穴が完全に塞がってしまうと。墓堀人たちは、誰かがまた墓を開くことのないようにと、柔らかい土を足で念入りに踏み固めて、無言のまま、別の者が地下に眠る場所へと去っていった。彼らがその場所から離れ、少しずつ白い霧の中へ姿を消していくと、今度はそこへ脚の細い、赤い服を着た少女が現れた。誰か注意深い観察者がいれば、その少女の手に、野原から集めたばかりの小さな花束を見て取れただろう、それは少し前に死んだ父親のため、毎日持ってきていたのだ。それは殆ど毎日見られるものだった。少女は近付き、花束を大理石の十字架の上に置くと、石灰のくずを拭い取り、まるで話を始めようとでも、或いは約束を思い出そうとでもするように視線を向けた。周囲に押し黙った会話が聞こえた。活気を取り戻した石の上で、大理石の瞳が、在りし日の輝きを込めた視線を向けていた。それは少しも変わることがなかった。そこでは人々が自分たちの言葉で語っていた。
 最後の陽の光が西の方へと傾いた。か細い脚の少女はゆっくりと立ち上がった。彼女は冷ややかに[訳註:原語apatiは英語apathyに相当する]夕べの祈りを口にした。石柱[訳註:原語muranëには「刑死者のあったことを示す路傍の碑柱」の意味もある・・・と「罪びとたちの夜」の章でも書きました]聖人たちの色褪せた姿が見えていた。少女は通行人らの足跡が残るぬかるみに足を踏み出すと、軽くため息をつき、夜にむしばまれる[訳註:原語は「夜に喰われる」]言葉を口にした。
「今日もこれで終わり。私の言葉はフクロウの歌と同じ。歩くたび考えるたび、身体がバラバラに砕けそう。そしてまた、決められたこの終わり、そして家まで続くこの長い道!」
 

(つづく)


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