見出し

エルミル・ニカ 『罪びとたちの夜』

独裁者の靴

 この世の道々を渡り歩いてきた人なら恐らく誰であれ、いつその人生に不意に涅槃がやってくるのかはわからないままだ。仏教徒が自らの哲学の中で涅槃について説くところの内容を受け入れた、その時に初めて人はその答えを手にするが、そんな人が極めて予測し難い状況に置かれることも稀ではない。人という存在が生きてきた時代と、人がこの世に立ち現れたことに関連があるのだとしても、そうした過去の全ての行き着く先に終わりなど決してないという、苦い真実があるだけなのだ。そんな印象が生まれてくるのは、我々の中の誰であれ、その生きてきたのが真実のものであったのか、それとも、そうして生きてきた何もかもが銀河の中でほんの一瞬、ただ一度だけ浮かび上がった、ぼんやりと瞬くきらめきでしかなかったのかがはっきりとしないからだ。そしてそう思ったところから人の中には、自分自身について語りたい、そして自分が歩んできたかと思しき道すがら起きた事柄、人が人生と呼ぶところの広漠たる天球について語りたいという、狂気じみた欲求が生まれてくるのだ。[訳註:「涅槃」は原語でもnirvana]
 そんなわけで、私も自分の天球を生き、果てしないその軌道を、太陽系にも似た関係性の中で回ってきた。光と闇が、言葉と沈黙が交錯し、英雄と犠牲者が、主人公と奪われし者が同時に姿を見せるその凸状の空間の内部で、私は、夜が自分の肉体に残した痕跡を追いながら、なお生きている。そして自分の考えに答えが与えられ、自分の判断がさらに峻烈なものとなった今でさえ、私が生きているのか、それともかつて存在していたかも知れないのか、誰一人として興味を見せないことに気付かされるのだ、それは私が彼らと空気を、或いは生きるに必要なその他全てを分かち合っていたとしたらの話だが。そしてそうした全てのことが、私を際限なく痛めつけるのだ。
 小さい頃、両親は私のことを他の同世代とは違う知的な子供だという信念の下で育ててきた。今そこから、思い描くものの中で、せめて一度なりとも、歳月と共に過ぎ去ったものが生き直されようとしている。だが不幸にも、全てはくすんだ過去の追憶の中に寄せ集められてしまい、それら過ぎ去ったものをつなぎ合わせようとする度、何故か私の回想は、学生時代の友人だったドリニのところで途切れてしまうのだ。そして、激情を伴った幾多の感覚の重みの中で不思議に思われるのは、ドリニの思い出が、在学中に彼がずっと履いていた靴と分かちがたく結びついているという事実だった。それは何処かしら奇妙に聞こえるかも知れないが、一見して意味のない事柄の中にこそ、その意味するところは見出されるものなのだ。
 当時、我々は「ヴォヨ・クシ」体育高等学校[訳註:1960年に設立されたアルバニア唯一のスポーツ専門高等教育機関。「ヴォヨ・クシ」はパルティザン闘争の英雄の名。2010年よりティラナ・スポーツ大学に改称、現在に至る]で学んでいた。世界と自由な思想から孤立した国、とりわけアルバニア労働党の第四回総会の後には、自分達の誰もがチャップリンの無声映画の登場人物のようになり、弾圧への不安と恐怖の奔流の中、小魚のように身動きも取れずにいる、そんな国の中にいながら、我々は奇妙な幸福感を覚えていた。あの時代、我々はごく若い年代だったにもかかわらず、多くの事柄を自分達の経験したままに理解し、同時に、人生という名の曲がりくねった困難な道を進む足取りに責任感を覚えていた。あの頃、人々は皆、服装から髪型、考え方から判断の仕方、しぐさや喋り方に至るまで、しつらえられた画一性の中に埋没していた。
 ドリニが興味を示し、そして我々と明らかに違っていたものこそ、他でもないその靴だった。全く重要ではない、ごくありふれたその事実には、容易に納得しづらい理由があった。ドリニの家は、独裁者と縁戚関係のある一族の流れに連なっていた。しかし彼は、我々にも非常に不思議なことだったが、そのことを全く口にしなかった。恐らくそれは、同級生や知人に対して自身が上位に立つことを望まなかったからだろう。だから彼は敢えて、自分のしぐさや振る舞いがごく素朴で普通なものに見えるよう努めていた。そしてそのことが目印や模範のように、我々にとっては充分に意味のありそうなものとして作用した。同級生の間でも、彼の外見には、誰も指摘せぬまま軽く流すことのできない、はっきりと区別できるような特徴があった。だが決してありふれたものではない事実と言うのは彼の着こなしにこそあった。それは他の学生の服装とは見るからに違っており、マルクス主義の情熱に燃える留学生の一団がごく普通にひしめき合う狭い廊下や講義室で姿を見せる中国の学生達、その彼らが着ている青い厚手の木綿の制服とは似ても似つかないものだった。ドリニやその親戚達が着ていたのは、独裁者が衣装箪笥から処分した服であり、その独裁者の分与された衣装の中から、血の繋がりに従って、彼に降りてきたのがその靴だったというわけだ。
「分けられると、それが俺達の方に降りて来るのさ」
或る日、体育の授業が終わって靴を履き替えながら彼はそうつぶやいた。
 不意に漏らしたそんな言葉に、他の学生達は更に耳をそばだて、それらにまつわる来歴を詳しく知ろうとした。私の頭の中にどういうわけだか、スカンデルベウの死後にイェニチェリ達がその身体を切り刻み、亡骸の切れ端を魔除けとして首からぶら下げたという伝説が思い浮かんだ。調べてみて分かったのだが、極めてクラシックな型の、およそ彼のような若い世代には似つかわしくないその靴を、独裁者はアルバニアの外へ歴訪するような特別な時にだけ履いていた。大学の知識人サークルの中で噂されていたのは、まさにこの靴こそ、ニキタ・フルシチョフが憤激の余り国連の演壇に自分の靴を叩きつけた、真の原因だというものだった。フルシチョフは、エンヴェル・ホヂャの靴が自分の靴に対して行った侮辱に、もはや耐えられなかったのだろう。だが、何時のことだ?[訳註:1960年の国連総会でフィリピン代表がソ連の東欧諸国への介入を「植民地主義」と批判する演説をしたことに対してフルシチョフが激怒、自分の靴を脱ぎ自分の演壇をバシバシ叩いて演説を妨害した、という実話がある]それは1960年にモスクワで行われた社会主義陣営81カ国の党会議の時だ。当時我が国を支配していた共産主義国家体制にとってその――ドリニの――靴は、我々にとってのアキレウスの踵のようなものだった。そればかりか、一時限目の講義に間に合うよう足取りを速めつつ、我々はドリニと同じ歩幅で歩こうとさえ努めていた。それで何が悪い?そういうリズムで、あの時代はアルバニア全体が動いていたのだ。我々の頭の中には突如、今まさに我々は歴史の道程を進軍していて、体制の求める通りにすることこそ最良の方法なのだという考えが鳴り響いた。世界はあの頃ビートルズの波に包まれていたが、我々はと言えば、誰にも見つからぬように集まって、当時の体制が厳しく禁じていたロック音楽で夜を過ごすことに、大いなる満足を得ていたのだ。
 今、あの頃に立ち返ってみると、我々がやろうとしていたことは紛れもなく狂気の沙汰であり、狂気じみた体制の下での集団的錯誤の影響によるものだったということが分かるのだ。
 思い起こせば、ドリニは何時も最前列に座り、コウノトリのような細長い足を前に伸ばしていて[訳註:原語lejlekは「コウノトリ」の他に「ガーフィッシュ」「草刈り鎌」「昇降クレーン」「モンキーレンチ」等様々な意味で用いられるが、要するに「細長い脚」の比喩]、それによって実にはっきりと、陰影も鮮やかに、輝かしく、独裁者の靴がその姿を現していた。だから党史について語る教授でさえも、社会主義陣営の亀裂におけるソ連の陰謀や、クーデタを首謀したグループの策略に説明が及ぶ度、ドリニの伸ばした足元に目を遣り、まるでそこから何かの承認を得ようとするかの如く、凝視していた。ドリニの片足が上下して、教師の話した内容に承諾を与えるようなしぐさを見せると、教師の顔は満足げな様子を見せ、穏やかな表情に包まれるのだった。だが彼の両足が沈黙し、何の反応も見せず、悲惨なまでの無関心の中に浸っていると、教師には逆の反応が生じる。その顔は死人のようになり、その場でフクロウのように立ち尽くし[訳註:フクロウはアルバニア語で「呆けた人」の比喩でも用いられる]決算を済まされてしまったかのように、我々の方をちらちらと盗み見るのだった。
 だが、こうした過去への鎮魂の中でも、私の記憶から拭い去りきれないのはスンバのことだ。南アフリカ出身の黒人の女性で、アパルトヘイトの時代にアルバニアでマルクス主義哲学を専攻していた。彼女こそ、私の夢の中の傷跡であり、私は自分の人生の中で初めて、恋という最も崇高な感覚の、燃えるような痛みを感じたのだ。
 スンバは私より二つ年下で、専攻は別々だったが、ストゥデンティ市の近くに広がる射撃訓練場の場所で殆ど毎日、午後になる度に会っていた。[訳註:アルバニア語のstudentiは「学生」で、ストゥデンティ市は首都ティラナの郊外に広がる学生居住区。現在もある]会っていたといってもそれは大抵偶然だったし、会おうとしたのはもっぱら私の方で、ただ彼女と近づきになりたいというだけのことだった。何度も胸が痛くなるような思いを繰り返した後、私はスンバに結婚を申し込んだが、彼女は、自分は人生を革命に捧げているからという理由で私の申し出を断った。そのことで私は引き裂かれるような悲しみに沈んでしまった。
「スンバ、どうして・・・どうして・・・?僕らは二人で人生を紡いでいくと思っていたのに。僕が朝起きて、君が朝食を用意してくれると思ったのに」[訳註:「朝食」の原語はbukëvalëで、ちぎったパンをミルクや砂糖で、或いはチーズ等を加えて煮込んだもの]
 私には、スンバが銃を背に塹壕を掘り進む姿を想像するのは実に困難だった、いや想像すらできなかったと言った方がいいだろう。一方の手に銃弾の入った袋を、もう一方の手に手榴弾を持ったスンバの姿など。私の想いにもかかわらず、彼女はもう後戻りしないことを決意した。そして私は彼女の意志に従った、と言っても別に運命論めいたものにつき従ったとわけではないが。
 スンバは或る朝早く、軍用車輌に乗ってリナス空港へ向かった。車の窓で誇らしくはためいていた彼女のハンカチを、私は忘れることはないだろう。私の頭の中に、自分は彼女の世界観から余りにも遠く離れていたのだという確信が湧き上がった。後になって、スンバが南アフリカの地における人権擁護の為の闘争で重要な活動家になったこと、そして反革命勢力の待ち伏せに遭って重傷を負い捕らわれた後、公衆の面前で処刑されたことを知った。何年経っても私には、スンバがもう生きていないということを理解することがなかなかできないでいた。夜になると悪夢にうなされ、日中は酒を飲んで気を紛らせ、タバコの煙の中に身をうずめていたが、自分自身を痛みの中に置き去りにしない為には、そうするしかなかったのだ。[訳註:原語makthは「スイートクローバー」だが、アルバニア語では「悪夢」の意味も]

 実際のところ、今でも認めないわけにはいかないのだが、我々からすればドリニのあの靴には人に対する不思議な、どうやら抗いがたい力が備わっていたようだ。 「汝の御足の向く先に我が身もあらんことを!御代の栄えを!この愚かな、哀れな女にこれ以上の願いがありましょうか」[訳註:原文は非常にまわりくどい表現なので、文体を尊重しつつあくまでも意訳です]
これはカト婆さんがしょっちゅう懇願めいて繰り返す、祈りのようなものだった。もうかなりの年寄りで、彼女を洗濯場で見かける度、我々は服の洗濯とアイロンかけを頼んでいた。ドリニは誇らしげに歩いてきて、途中でカト婆さんの懇願めいた声を耳にすると、楽しげに彼女に「お婆さん」と声をかけるのだった[訳註:原文で「婆さん」はnënë、「お婆さん」はané]
「何だっていつもそんな風にお祈りしてるんだい、お婆さん?」或る時、ドリニはカト婆さんにそう訊ねた。
「そりゃ、何とかして欲しいことがあるからさ、王様に聞いてもらうのさ」
「指導者に聞いてもらうのさ、カト婆さん、王様じゃないんだ、そりゃ政治的誤りだよ。アルバニアにはもう王様もパシャもいやしない。今は労働者階級が指導者なんだよ、カト婆さん、だから自分の人生だって自分で決める、例えばさ、あんたが自分の人生の主人なんだ、これこそ何にもまして幸せなことじゃないか」
「何を言うのかねえ、何を言うかと思えば、何てことを口にするんだね?何だってお若いの、あたしが決めるんだって?誰がこの独り者の、貧乏者の言うことを聞いてくれるんだって?」
「いやいや、違うよカト婆さん。アルバニアには貧困も、ブルジョアジーもないんだ」
「だったら誰が、あたしの言うことを聞いてくれるんだい?何もない、あたしみたいな女の言うことをかい!」
 余りにも罪の無い、そんなカト婆さんの言葉をやりとりを耳にしつつ、私は沈黙する道を選んだ。
 恐らくカト婆さんの言うことは正しいのだろうが、それでも私が耳にしたことは、私一人の中に留めておくべきだった。私は無言のまま、その老女の当惑した視線を残したまま、その場を立ち去った。
 ここまで書いてきたことに関連して、最後まで自分の話したことに誠実である為にも、もう一つ否定できない事実に触れないでは済まされないだろう。ダンスパーティーのある夜には、ドリニにエスコートされた女子達の誰もが、ついうっかり我が人民の栄光の歴史の遺構を踏んでしまうようなことのないよう、あれこれと努めるのだった。一方、我々が薮の生い茂る丘陵地に農地を開く作業をしていて、朝方、ベッドの裂け目に落ち込むようになりながら寝ぼけまなこで起きようとしたその時には、寝息でよどんだ空気の中、ドリニが眠そうな声で、からかうように我々にこう注文をつけるのを耳にすることも珍しくなかった。
「おい注意してくれよ、いたずら坊主ども、うっかりでも俺の靴を踏むなんてしくじりはやめてくれよな、それが誰の靴だか、お前達にも分かってるだろう」
「勿論、知ってるさ」と眠たげな声で我々は返事しながら、きっとその祝福された遺構のおかげでこの宿舎も村の人々から「ブロック」などという洗礼名を授かっているのだろうなと各々考えているのだった[訳註:原語bllokは社会主義時代のアルバニアで政府・党幹部の邸宅が並ぶ区画を指す俗語としても用いられた]
 今の若い人達には、こんな話は何もかも、頭のおかしくなった奴の作り話に思えるだろう。労働作業や軍事教練[訳註:原語zborは社会主義時代のアルバニアで民間人全員に課せられていた軍事教練を指す]の期間中の楽しみというのが、仲間が寝ている間に歯磨き粉や靴磨き用のクリームで見えないところに落書きしたり、56式の銃[訳註:恐らく中国製の“五六式自动步枪”のこと]の台尻に自分の名前を彫ったりすることだったと話したところで、同じようなものだろう。セックスに関しては、話題にすらならなかった。そんな悲惨な日々の中の或る午後、作業員用の宿舎が並んでいる敷地の中央にしつらえられた水場で我々が工具の洗浄にかかっていた時、その地区の農家に泊まるようにとの指示が出された。知らせを受けるや直ちに、我々は毎朝旗を掲揚する広場の前に並び、青年団の書記が村の議長と共に、我々を農家ごとに二、三人ずつに振り分けていった。私とベルティが割り当てられたのは社会主義労働英雄の家で、その人は当時トラクター操縦士[訳註:原語zetoristはチェコスロヴァキア(当時)のZetor社製トラクターに因んだ造語。なお普通はtraktorからの派生語traktoristが用いられる]としての生産性により、2013年までの予定で働いていた。ところが、初めて彼と会った時、私はショックを受けた、とそう言ってもいいだろう。子供の頃、社会主義労働英雄に対する私のイメージは、超自然的な能力を身につけた人間という高みにまで達していた。ところが、日干し煉瓦で出来た家で我々を出迎えたこの英雄ときたら、くたびれた小柄な男という他の何者でもなく、背中はまるで疑問符のように曲がり、掌は紙やすりのようにがさがさで、皮膚は日光で死んだようにぼろぼろで、頬骨は突き出ていて、顔じゅうは恐ろしいほどのあばたでぼこぼこで、目は不眠で落ちくぼみ、それでも不思議なことに、あらゆる点で並外れた誇らしさがはっきり見て取れた。さてその日の午後、この人の家で冷たいミルクのジョッキを傾けていた時、ベルティの目に妙な事実が映った。ベルティが私に目で合図してきたので、私もその視線の先に目を遣ると、壁の上の方の、木組みされた、戦車色に塗られたところに、昔家族と一緒に撮った写真が掛けてあったのだが、それらの間に独裁者の肖像もあったのだ。私とベルティは無言で顔を合わせ、自分達が目にしたものに何とか解釈を見つけ出そうとしたが、その行為の理由に結びつくような考えはまるで浮かんでこなかった。それでベルティはタイミングを見計らって、家の主人であるその人に訊ねてみることにした。
「ご主人、一つお訊ねしてもよろしいですか?」ベルティは少し探るような口調で、一日のノルマを終えてとても疲れているらしく、眠そうなそのトラクター操縦士に話しかけた。
「どうぞどうぞ、お若いの、遠慮なさらずに!」彼はそう言うと、その瞳をベルティの方に向け、じっと見つめてきた。
「どうして指導者の写真を、ご家族の写真の中に入れているんですか?もっと別な場所に掛けた方が、見映えも良くて、いいんじゃないかと思うんですが?」
 トラクター操縦士の家主は眠そうな目を細め、声の聴こえた方に集中していたが、自分の妻の方に目を遣り、しかつめらしく我々若造の方を見ると、水晶の湧き水のようにごろごろうなる声で答えた。
「ああ、いや、いや、そりゃとんでもない!わしは同志エンヴェルのことをいつだって、それこそ我が家の一員のように感じているさ。嘘じゃないとも、同志エンヴェルは目を開けてわしらのことを見てくれているじゃないか。今この時でも、必要だと言われれば、わしは同志エンヴェルと党に命を捧げるつもりだとも。これはわしの子供らにも言ってきかせていることだよ」そう語って彼は目をしばたたかせた。
 ベルティは唇を噛みしめ、ひとかけらでも笑いを漏らすまいと必死だったし、私も顔の筋肉を突っ張らせ、ベルティとの互いの顔を見つめ合っていた、さもないと吹き出してしまいそうだったからだ。
 その夜、私は目がさえて眠れなかった。古ぼけたマットに横になったまま、キャベツや焼いたパプリカの匂いを胸いっぱいに吸い込むと、それが五感の全てに浸み渡って、あれこれと考えを呼び覚まされてしまうのだった。恐らく自分の人生で初めて、自分が生きているこの体制の検死解剖をしてみたくなった。今この瞬間、幼い頃から注入されてきた宣伝や文書の類が無に帰したのだった。この家の主人は悲惨の極みに身を沈めていたが、更にたちが悪いのは、彼と、そして彼自身のみならずその家族までもが命を費やしてきたところの偽善そのものだった。全くお笑いぐさな話じゃないか、そう考えてしまった途端、誰にもそのことを話してはいけないのだ、友人にも兄弟にも、恐らくは父親にさえもだ。自分たちはいつだって互いに何でも話していたのに、自分の頭の中にこんな考えが不意に芽生えるなんて、今まで考えもしなかった。自分の人生で初めて恐怖を感じた。それは自分自身と、家族のことを思っての恐怖だった。独裁者の影が、11月の重く垂れこめる雲のように、我々の意識にのしかかってくるのだった。そしてどういうわけか、そんな自分の人生の一部は記憶の中の、灰色の背景にしか存在しないような気がしていた。
 学生時代の終わりの、我々が卒業試験のための苦難に直面していた時期に、ドリニは軍高官の娘のフロラと知り合った。実際、フロラはかなりの美人だったし、男子学生全員にとって夢のような存在だったから、我々はフロラが指導者たちの住まう「ブロック」の贅を尽くした邸宅にいるのだろうと想像していたほどだ。それでフロラもお高くとまっていて、そんな彼女がつんと顔を上げてもの思いにふけっていると、バランスを失って今にも倒れそうな危なっかしさがあった。しかしフロラは頭の空っぽな女ではなかったし、そうした諸々のしぐさの中で鍛えられたものによって組み立てられた巧みな策略の甲斐あってか、容易に馬脚をあらわしたりはしなかった。彼女自身が醸し出す、親しみ易いとは言えないそうした雰囲気の中で、ドリニは機会ある限り彼女に接近していった。だからそんな二人が卒業の夜のダンスパーティーで一緒に踊るという事実も、他の者たちにとっては少しも不思議なことではなかった。ドリニはフロラの手を強く握り、フロラはその折れそうに細い腕をドリニの肩に回していた。ドリニは一瞬たりともフロラから視線を外さなかった。だがフロラは正反対だった。彼女はずっと足元を、音楽のリズムに合わせて動く二人のつま先を、ただ見つめ続けていた。
「きっと君にはわかってるよね、僕がしっかりした[訳註:原語は「足が地面にある」]男だってことを」フロラのほっそりとした腰にそっと指先をやると、ドリニが何かを感じた、そう思った刹那ドリニは不意に口を開いてそう言った。フロラはびくりと身を震わせ、視線を上げた。フロラは頭の良い女だったから、ドリニの言葉に隠された意味を充分に理解した。ほんの一瞬だけ目を閉じるとおもむろに、政府高官の邸宅や、武装した警備兵に守られた海辺の別荘や、窓にシェードのかかった車や、海外旅行が浮かんでくるのだった。
「わかるわ、あなたなら私の人生を導いてくれる[訳註:原語は「人生に跡を残してくれる」]って」
 フロラは、その胸躍るような幻影に陶然としたまま目を開き、細い指先でドリニの汗ばんだ肩をそっとなぞりながら答えた。二人は前よりももっと互いに接近し、やがてその晩の集まりがお開きになり、参加者の内の或る者たちは酔いつぶれてテーブルに寝そべったままわけのわからない言葉をわめき、また或る者たちは開け放った扉の傍らでタバコをくゆらせながら、新しい一日の始まりを告げる最初の陽の光を待ち構えるその時になっても、互いに離れようとはしなかった。これから、この級友たち一人一人は水兵として大海原へ赴き、人生の荒波にもまれることになる。それはつまり、彼らが生き延びるため、終わることのない戦いの中、荒れ狂う大波のただ中に放り込まれるということなのだ。足りないのはただ、約束の地へと運んでくれる救命ボートだけだった。そして女たちにとってただ一つの救いの道は、出来る限り海岸線に沿って船を進めることにしかなかった。しかし神々が常に、そして如何なる場所であっても、善を為す者に赦しを示してくれるというわけではないのだ。フロラは人並み外れた強烈な野心と欲望に支配され、むしろそれ故に運命に翻弄されてしまったのかも知れない。男たちにとっての好ましさもずっと続くものではないということをフロラは痛感していたし、焦った足取りで自分を見失いたくもなかった。彼女が何処かの大使館の外交団の何がしかの職務を任命されて、そして何年もかけて幾つもの外国語に取り組んで、それらを充分にものにするなどという理想郷は存在しなかった。フロラの父親もまた、何処の馬の骨とも知れぬ男を自分の娘の夫として認めようとはしなかった。父親はしばしば家で大声を張り上げ、その怒鳴り声は爆弾が破裂でもしたように外まで鳴り響いた。
「誰だろうが、断じて、俺の娘に不釣り合いな奴に、うちの敷居は跨がせないぞ[訳註:原語でも「家の境界線を通過させない」と言っている]!俺たちはそんな木偶の坊[訳註:原語は「囲いの支柱」とか「フェンスの杭」で、要するに「馬鹿」「能無し」の比喩]じゃないんだ。俺が探しているのは、手にたこを作ったり靴を泥だらけにしたりしない[訳註:要するに労働者階級の男ではない]奴だ。だから俺の言うことをよく聞くんだ[訳註:原語「耳にイヤリングをくっつける」は「しっかり聴く」という意味の慣用表現]、おい、ちゃんとこっちを見ろ!分かったか?」
 フロラの父親はそんなことを吠えながら、思わず知らず指先を高々と突き出したが、その視線は首相官邸の方に向いていた。[訳註:社会主義時代のアルバニアでは「閣僚評議会議長(kryetar i këshillit të ministrave)」が「首相(kryeministër)」に相当した。ちなみに戦後約十年はエンヴェル・ホヂャが首相を兼任し、その後任として1954年から1981年まで27年もの長期にわたって首相の座に留まったのが、後にホヂャの政敵として粛清されたメフメト・シェーフ(Mehmet Shehu)。その後アディル・チャルチャニ(Adil Çarçani)が1991年の一党体制崩壊まで首相を務めた]
 ところがそこから運命がフロラに味方した、と言っても別にドリニがその人徳なり、何かしらの特別な資質、例えば外見といったものや、その知性において傑出していたわけではない。この時、誰もが分かっていたのは、ドリニが彼自身に対抗し得る者たちを一掃できるような武器をその身に備えているということだった。そして私自身もまた、閃光ひらめくがごとく、既に亡き祖父が言っていたことを思い出した。
『男の不幸は足元にやってくる』
頭の中で祖父の言葉を反芻していると、私はネズミに齧られてでもいるような悲壮感に身を包み込まれ、人間なんてこの世に平等に生まれてはこないし、その終わりもまた似たようなものだということを一層強く感じるのだった。
 一度だけ、奇妙な考えが頭に浮かんだことがある。自分があの靴を盗んだらどうなるのだろう、と。それのみならず、完璧に秘密裏にその高価なシロモノを強奪する計画を思い巡らせたりもした。しかしすぐさま我に返って、もしそんな行動が明るみに出ようものなら、自分は労役を課され遥か奥地へと、他の大勢の者たちが自らに鉛の弾丸を打ち込む気力も失っているようなところへと送られてしまうかも知れないなと思うのだった。私はそんな自殺まがいの思いつきを断念した。自分で自分の墓穴を掘ろうなどとは考えもしなかったし、私の輝かしい未来に大いなる希望を抱く家族のことを思えば尚更だった。
 決まりきった季節の移り変わりの中で時間は過ぎ、それとは理解せぬまま我々は、自分では抱え込み切れないと感じるほどに重くのしかかる、味もそっけもなく流れる歳月を呑み下していった。年毎に私は、自分という存在の中で起きている変化を感じていた。スンバの件以来、自分の人生には他の女性が一人も入ってこないのだと認めることに、恐れを感じなくなっていたのだ。時間が経つほどに、望み通りの人物を見つけ出すのは私にとって途方もなく困難なことになり、性格を変えるのも無理なことになっていた。かくして、自分の将来について何一つ決められなくなった私には、今現在になっても後悔の念が湧いてこないのだ。自分の人生をスンバの、まだ喉元に髭剃り痕もないような少年の夢をあれほどにもかき乱した、あの南アフリカの黒人女性の思い出と共に終えても、これっぽっちも悪いと思わない。
 そんな日々の中の或る日、体育教師として勤務していたマチェララ[訳註:Maqellaraはアルバニア東北部ディブラ(Dibra)県の、マケドニアとの国境に近い村]で、私が飲んだくれの同僚たちや名高い酒飲み連中と居合わせた時、私の住所宛てに書留の封筒が届いた。誰から送られたのかと封筒を裏返してみた私は、それが学生時代の友人だったドリニからの手紙だとわかって、大いに喜んだ。互いに会わなくなって何年も経っていて、ドリニのことが本当に気になってしようがなくなっていたし、離れ離れになってからの日々を思うとたまらない気持ちになるのだった。そしてその封筒の中に結婚式の招待状が入っていて、しかもそこに、来月の第一日曜日にドリニとフロラが婚姻の契りを交わすと書かれていた時には、私の喜びは更に増大した。私は感動し、目には喜びの余り涙が溢れていた。自分の友人が二人も、結婚という荘厳な行事をしようというのだ、そして自分はその二人が祭壇へと向かうその一挙手一投足のごく近くにいるのだ。私は視線を上げ、雪に覆われた山々の方を見つめた。自分たちにとってはいつもと変わらぬその風景が、その岩々の裂け目に果てるべく費やされてきた自分たちの道のりを忘れさせてくれた。深く息を吸い込むと、冷えきった空気が全身に行き渡って、奔流となって煮えたぎる私の血を冷却してくれるようだった。すると突然、背中に蛇が這いまわるような怖気を感じて震え上がった。私は開かれたままの封筒に視線を落とした。ともあれ、行くとしよう。笑ってしまうようなささやかなことだが、それでも自分のしたいようにするのだ。それから数日間、同僚らは、私が店という店の扉を出たり入ったりしながら、包装紙の匂いの立ち上る衣服を両手に抱えてまわる様子を見て不思議がっていた。
「あの人はティラナに招待されたんだよ」そんな人々のささやきを背中越しに聞きながら、悩み多き日々を生きるがごとく、私を目で追い続けるのだった。
「どうも上から何か呼ばれたらしい。首都へ保証人を頼みに行かなきゃならないらしいよ」
 カフェで交わされるそんなささやきに、いちいち返事をするほど私は暇ではなかった。そんなものを相手にする余裕もないほどのリズムで、私は時間に追われていたのだ。
 ティラナに到着したのは、ちょうど結婚式の前祝いが始まる頃合いだった[訳註:伝統的なアルバニアの婚礼は、日本では考えられないほど長時間にわたって執り行われる]が、その時に気付いたのは、このフロラとドリニの結婚式に、かつての級友が皆揃ってお相伴に預かったわけではないということだった。誰もが人生の濾過器にかけられると、それが余りにも目の細かいものであるが為に、その関門をくぐり抜けられたのは、その人生の記録に一点の汚点も無い、ごく僅かな者たちに過ぎなかった。我々は選び抜かれた、真に清浄なる人格だということだ。
 婚礼は、人工湖に面した丘[訳註:ティラナの中心部から南端、現在のティラナ大学の裏手に広がる湖と、その周辺の景観地を指す]にある、ティラナで一番のレストランの一つで執り行われた。婚礼の中身は実に印象に残るもので、列席者もよりすぐりの人物ばかりだった。そこで我々は、その時代、政治のトップの世界で名の知れた人々を間近で見ることができた。とは言え、我々にとって唯一にして大いなる興味関心はと言えば、かの指導者をこの目で見たいということだった。だがその到着は遅れていた。最初のダンスが始まり、二度目のダンスが終わっても[訳註:アルバニアの結婚式ではとにかくやたらと参加者たちが手をつなぎ、踊りながら式場内を練り歩いている。いつ終わるかはその場のノリとタイミング次第]彼は姿を見せなかった。これは一体、何が起こっているのだろう?ひょっとして、内外の敵どもが我らの背後に忍び寄っているのではあるまいか?これは、ことの成り行きを用心しなければなるまい!帝国主義者どもだ、きっと奴らが、我々を狙っているのだ。我々は何時間もずっと待っていたが、彼も、彼の妻もその晩はドリニの婚礼の場に姿を現さなかった[訳註:言うまでもないが「彼」はエンヴェル・ホヂャ党第一書記。「彼の妻」は当時の翼賛組織「民主戦線」の議長でもあったネヂミエ・ホヂャ]。それでも彼の靴だけは、ドリニが踊るたびに大ホールの全てを圧倒していた。だいぶ後になって、自分の記憶の中で結婚式の印象も薄らいできた頃、フロラの知人筋から或る話をささやかれた時、私はそれを聞いても全く驚かなかった。曰く『婚礼の初夜、ドリニは妻と二人のベッドに靴を履いたまま入ったそうだ』
目ざとく、事情通の人々がそんな話をしたのは、話題になっているその品こそがおそらく、男性としての存在と、そしてかの永遠不滅の存在に確固たるものを与えるのだと思っていたからだ・・・

 気付くと私は、コートを肩から羽織り、プラスティック製の椅子に座ったまま、涅槃の中にすっぽりと包まれて、ここ独居用の老人ホームでカードを切りながら、自分のことや、我が友ドリニのことや、自分たちの人生を思い出として語るようになったこの時代のことを思うのだった。当時から今日この時まで、幾つもの流れや枝分かれが何枚もの木の葉をひっくり返していった。世界は幾つもの進展を見せ、ベルリンの壁は崩れ、アルバニアはもはや閉ざされた国ではなくなった。私はかつて愛したスンバのことを思い浮かべる。ああスンバよ、どうしてこんなことになった。君は幻で、私は廃墟なのか?いやたぶん、君は今も私の傍にいて、あの印象的な声を聴かせながら、息をしているのだろう。だが私には君を見ることができないのだ。自分がどうしようもない人間に堕ちてしまったのではないかと思うと怖くなる。真実に誓って言わねばなるまい、今や私は、ドリニのことを思い出すことさえ滅多になくなっていて、顔もほとんど忘れてしまったのだが、自分の思いの中では今もあの靴の記憶だけが、薄れることなく、そのままの形で、我々全体の過去の一部として残っているのだ。
 しかし今、私は痛みと共に認めなければならない、もうドリニは生きていないのだ。その命は事故という思いもかけない形で失われてしまった。それは大いなる変動の時期だった、冷戦と呼ばれてきたものが一度きりの、そして永遠の終わりを迎えようとしていた頃であり、ベルリンの壁が崩れ落ちる寸前で、銀河にはハレー彗星が姿を現した時期のことだった[訳註:つまり1985年の夏から翌1986年の春頃ということ。ちなみにエンヴェル・ホヂャの死去は1985年4月、レイキャヴィクの米ソ首脳会談は1986年10月、東西ドイツの国境開放は1989年11月]。国中が全面的なうねりを感じていた。ドリニはその晩、住んでいたアパートのテラスに立って、その地球外の天体現象を見ようとしていたのだが、すっかり気を取られていた彼はそのまま下に落ち、頭が粉々に砕けて血まみれになった。そしてそれが彼の最後となった。その夜、彼はもの凄い勢いで部屋から走り出て、テラスに立っていたのだ、彗星を見ようとして、たった一人で、そして・・・裸足だった。
 ドリニを最後の住まいへと送るための葬儀の場には、彼の親戚、知人が全員参列した。彼のために捧げられた弔辞は感動的なもので、よく練り上げられた文で書かれていた。それで我々はあらためて、自分たちが他の誰にも代えがたい貴重な友を失ったことを実感した。棺の中に我々は花束と、妻フロラが心を込めて編んだ手作りのスカーフと、そしてあの靴を収めた。我々が最後の別れを告げる間に、棺はまっすぐ、全く別の法と規則が支配する神秘の世界へと沈んでいった。
 たまたま来合わせたトラックに便乗させてもらい自分の住む町へと戻る中、私は黙って煙草をくゆらせ、死んだ友のことを思っていた。すると私の中に、全くの不意に、裸足のドリニが広い交差点の真ん中で、フロラが編んだスカーフを身にまとい、片手に花束を、もう一方の手に独裁者の靴を持ち、自分を案内してくれる人を待っている光景が浮かんで来た。道路を渡らなければならないが、その道幅は余りにも大きかった・・・
 これで私の語りはおしまいだ。今もまた宙ぶらりんで、薄い膜でできた球体の中に封じ込められているようだ。たぶん自分はただの胎児で、未成熟な胚の形で、自分を呑みこもうと狙う渦の中をずっとぐるぐる回っている他ないのだろう。まるで悪夢から目覚めたばかりのような気がする。今でもまだ自分が、太陽系の天体のごとく、目に見えない軌道を回っているような、そんな感じがする。そんな思いが脳半球にへばりついて、顔面に恐ろしい染みとなって現れて来るのだ。自分がいる球体は気体に覆われ、私にはもはや何も見えない。ただ今だけは、自分がピラミッド様に築かれた大理石の城塞の中にいるような感じで、聞こえるのはただ、たまたま好奇心に駆られ、ファラオの時代よりミイラ化した怪物をひと目見ようと、頻繁に近付いたり遠ざかったりを繰り返す人々の足音なのだ。

(つづく)


ページトップへ戻る/Ktheu