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エルミル・ニカ 『罪びとたちの夜』

最後通告
この物語の題材は空想の思いつきであり
いかなる人物の類似も単なる偶然である

 あの一年間は、新たな千年紀を目前に不吉に過ぎていったそれまでの数年とは違って、国じゅうが尋常でない状態の中に置かれていた。のみならず冬までもが例年よりも早く、激しい雨と風を勢いよく解き放って、ドアをノックしてきた。遠く離れた地の異なる信仰を持つ者たちは、これこそノストラダムスの予言の成就に他ならないと語っていた。だがこうした科学的な根拠のない、時として大国が弱小国に対する政治的利害のためのカードとして利用するような主張を退ける人々も多かった。それは、小国を武力衝突の瀬戸際に追い込むような、そんな崩壊の危機の一つだった。真実を請い求める我々の頭上には、一人の例外もなく、パニック状態が支配していた。だが官僚たちや国の首脳たちにとって、それは決して、コインの知られざる一面などではなかった。危機や外交上、或いは軍事上の衝突の時代にはいつも、こんな風にして事が起こるのだ。政府上層部、とりわけ行政には、緊張と、官僚的な手続きとによる、息も詰まるような緊張した雰囲気が立ち込めていた。混濁する世界からすれば、それは今生み出されている時と状況のためには、単に必要という以上の決断でもあった。人類の命運に関わる重大な結果をもたらす戦争の瀬戸際にあって、アルバニアが欧州大西洋の隊列に並んでおり、イラクが大量破壊化学兵器を所有しているという根拠を以て、かの国への軍事攻撃に対する自国の態度を公然たるやり方で明らかにしたという事実は、偶然の状況ではなかった。
 それから数日間、国防省では職員が総出で尋常ではない分量の仕事の重みと、戦争を目前にして生じた状況の緊張感とに沸き立っていた。国防相の閣僚は、イラクに対する正式な宣戦布告に際して組織のトップが用意するための、声明文の起草に極めて真剣に取り組んでいたが、それは、この中東の地が国際連合から示された幾つかの条件、特にこの国が大量に所有している大量破壊化学物質を処分するという主要条件を満たしていなかった時に出すためのものだった。外交文書の形式に従ってその声明文を、出来事の重大性に鑑みつつ、自ら起草することになったのが、国防相だったイブラヒム・チェラマ氏だった。最後の最後まで真剣に取り組んだことで、この声明文は充分に厳しいものになっており、イラクにも、そして将来のイラクの命運に対しても、極度に恫喝じみた最後通告が含まれていた。もう一度その内容を見直している時に目にとまったのは、この国際的な連合に加わっている国々のリストはアルファベット順で、アルバニアがアメリカ、オーストラリアに次いで三番目の国になっていることだった。中東でそれなりに力を持つ、潜在的な軍事力も経済力も充分高い水準にあるような国に宣戦を布告するということは、確かに非常に勇気のいる行為であり、その一歩を踏み出すに先立ってはよくよく考えてみる必要があった。
 チェラマ国防相は、その声明文の文言については了解していたから、ごくりと喉を鳴らし、柔らかい椅子の上で身を引き締めた。自分の眼前に広がる責任は、理解し得る限界を遥かに超えていた。彼は直ちに国防会議のメンバーを招集すると、極めて深刻な理由から、彼自身ではこの文を起草できそうにないことを告げた。
「諸君、忘れてはならないが、極めて基本的なことが一つある」彼は国防会議のメンバーに向かってそう言った。「アルバニア全国の人口の七十パーセント余りがムスリムとしての信仰を持っており、加えて私もまた、国の命をあずかるというかくも重い責務を担う政府を、直接代表する立場にあるからには、それが政治であれ、外交であれ、或いは宗教に関するものであれ、決して一面的な態度をとることはできない。否、断じてそんなことはできない、私に与えられた職責がそれを許さないのだ」
 そんなもっともらしい理由付けを述べて彼はその責任を、更に外交的なやり口で以て、副大臣だったズュベル・ヴェルシュタ氏に押し付けた。異なる二つの政治勢力に属している大臣と副大臣の関係が極めて冷え切っており、互いのやりとりも既に文字通り停滞の域に達しているという事実は、省内じゅうに知れ渡っていた。
 ズュベル・ヴェルシュタ副大臣は、この事実に接すると、自分の上司の悪魔じみた性格をよく知っていたから、自分がこのような重職を担う首脳陣の一人として関わるなど緊密な利益に結びつかないし、それは、こうして他国に宣戦布告するからには、単に声明を読み上げるよりも重大なことだ、とあからさまな態度で抗弁した。午前12時ちょうどに予定されている記者会見の場ではその声明文が読み上げられることになっていたが、そこでヴェルシュタ氏は軍への食料と衣服の補給に関する公開入札を実施することになっていた。閣僚会議の面々は、大物間で生じたこの紛争が更に大きな衝突を引き起こし、互いを代表する二つの主要な政治勢力同士の対決に及ぶかも知れないと考えていた。その只中でずっと議論している内、最終的に彼らの関心は、閣僚会議を率いる人物へと集中していった。その人物は、多数の図版や超音波エコーの写真入りの詳細な診断書を出して、バイパス手術のためトルコの病院に入院することを明らかにしており、激しい感情の昂揚を伴うような仕事に関わることは厳に禁じられていたし、人類に重大な危機をもたらす国に宣戦布告するための文言を手がけるなどもってのほかだった。一方、軍参謀本部の議長だったパルパリム・アスチェリウ氏は、会議に参加している面々が喋っているのを横目でちらりと見てから、嘲るような口調で、自分自身の敵対者に対する責任や能力はかの戦場の最前線で発揮されるものであって、テレビの画面の前ではないと発言した。かくしてパルパリム氏は国防相のいけすかない役人連中とのコミュニケーションの戸口を一切閉ざしてしまった。こうしてリレーのバトンはヒエラルキーの一段階からもう一つ下の段階へと下げ渡され、そして誰かが、そんなディレンマの中で、一同の注目を引くような、幾分かの小声でこう提案した。
「では、例えば・・・ソティルに発表させるというのは・・・」大物だらけでひしめき合う会議室の中で、その誰かの小声が響いた。国防相は目をぱちぱちさせ、声のした方へさっと振り向いた。長い沈黙が、まるで終わりがないほどに続くかと思われた。一同は、かくもとてつもない提案を提示し、かつまた極端なまでの真剣さと希望を与えるような態度でこの提案を取り上げた自分たちの同僚に対して、全身の感覚器官を集中させた。
 ソティルというのは、国防省の図版資料室に勤務する六十歳台の男だった。周りからは徳のある、底抜けに正直な性格の人物として知られており、三十八年にわたり献身的に、高い職業意識をもってこの官庁に勤め続けていた。
「素晴らしいアイデアだ!」国防相は喜びに溢れて声を張り上げた。
「どうしてそれを最初に思いつかなかったんだろうな、我々ときたらさっきまで散々ああでもないこうでもないと無駄に言い合っていただけじゃないか?!ソティルならこの役目をしっかり果たしてくれるだろうさ。ソティルを呼びたまえ!他の仕事はいいから、大急ぎでここへ来るようにとな!時間は待ってくれないぞ」
そう言うと、柔らかくて大きなアームチェアにご満悦でくつろぎながら、肩の荷が下りたという気持ちで、彼はこうつぶやいた。
「この仕事も片付いた、ようやくだ。うまくいったぞ」
そう厳かに、国防相イブラヒム・チェラマ氏は語った。その表情としぐさには、現下の問題に対する鋭い責任を今まさに背負って立つ部下を誇りに思う、勝利者の感慨の波が、いともたやすく見て取れるのだった。
 結局、ソティルは国防相の閣僚会議室で行われている最中の臨時会議から、緊急の呼び出しを受けた。国防相が自分を探していて、緊急に執務室まで来るよう言っているとの知らせを聞いて、ソティルは全身が震えた。この官庁のトップが、行政機構のずっとずっと下のランクに注意を向けるなど、滅多にないことだった。階段を駆け上がりながらソティルは、あれやこれやと思いをめぐらすたび全身に走る震えと息遣いを隠せなかった。そして、望むと望まざるとに関係なく、彼はこの官庁の最高位に立つ人物の、執務室に続く部屋の前に立っていた。国防相付きの秘書は、ソティルを見るや、中へ入るようにと手招きしたが、まず先に説明されたのは、国防相がソティルを呼び出したのは極めて緊急の、そして非常に重要な用件のためだという話だった。ソティルは表情を失い、両眼は黒い二つの丸のようになった。彼はドアを軽くノックすると、ゆるやかに曲がったドアノブを持ったままドアを少しだけ押し開け、身体の半分だけを部屋の中へと滑り込ませた。目の前には閣僚用の長いテーブルがあって、その先に、国防相その人がいた。彼はその刹那、歩を進めるのを躊躇い、喉仏がゴクリと鳴るほどの不安に覆われた。顔からは完全に血の気が失せ、額には冷や汗がびっしりと浮かび、喉の中は唾液がからからに乾ききっていた。国防相は、ソティルの身に起きている尋常ならざる事態をすぐさま見て取ったので、自分が座っていたアームチェアから急いで立ち上がると、彼の極端なまでに酷薄な冷笑屋気質からは考えられないような、兄弟のような親しみを込めた微笑みを満面に浮かべてみせた。
「やあソティル、入りたまえよ」国防相は異常なまでに親愛の情のこもった口調で、ソティルに呼びかけた。
 ソティルはのろのろと[訳註;原語inercishtは「慣性運動で」]歩み出た。
「国防相殿、何だって私をお呼びになったんですか?私に何をしろと?」そう言ってソティルは少しだけぎゅっと肩をすくめてみせた。
「君に頼みたい任務があるのだよ、チョティ[訳註;原語ÇotiはSotirの愛称]君、これは、我々全員[訳註;原文の直訳は「集団責任」]から君に頼むことだ。これから君には、君が務めているこの官庁だけでなく、君の祖国全体のため、最大限の威厳をもって任務に当たってもらいたいのだ」
 ソティルは目を剥いた。彼は必死に、彼の人格を形成するところの自己犠牲的な力を振り絞って、自らの内面の苦悶に抗ってみたのだが、それでも何が何だかさっぱり理解できないままだった。
「一体、何のお話ですか?」恐怖を感じながらソティルはなおも問い続けた。
 国防相は態度を変えぬまま、厳かな口調で、国を預かる男たちの下に暗い影を落としている現下の状況について説明し始めた。
「というわけでだね、あらゆる国際世論に鑑みて、今やイラクが全人類にとって公然たる脅威であることは明らかになったのだ。これに対抗するべく、世界の主要国全てが軍事同盟の隊列に加わっている」
「ええ、それは、知っています・・・新聞やテレビで」チョティはつぶやいた。
「しかしこの戦争では-そしてこのことはしっかりと認識しておかねばならないが-アルバニアにもその立場と役割があるのだ」
「それは確かに」ソティルは言った。「アルバニアもそうでしょう、間違いなく、そうだと思います」
「よって我々はだね、今こうして君も見ている通り、今日ここに集まって、いささかの疑念も抱くことなく、歴史的重みのある最後通告の声明文を作成し、その中で我々の公然たる、そして断固たる政治姿勢を表明すると共に、イラクに対して宣戦を布告することにしたのだ。この声明は、諸国民の運命に関わる重大なものであって、本日午前、本省に集まるメディア各社の前で読み上げられることになっているが、本省首脳陣とも協議した結果、全員一致で、これは当然ながら君が読むべきだということになったのだよ、チョティ君」
 ソティルは[訳註:驚きの余り前のめりになって]地面に激突せんばかりになり、眼鏡がずり落ちそうになった。こんな状況に直面しようとは、彼自身の人生でついぞ想像したことがなかった。『それでこの仕事か?!アルバニアが今突如としてお前の手の中に!』ソティルは心の中で自問した。何とか落ち着きを取り戻そうとした。ほんの少し身体を動かし、眼鏡をかけ直し、どうにか自分自身を励ました。
「私が?でも何故私なんですか?」ソティルは全身全霊を込めて、図版資料室勤めたる己の立場を説明しようと努めた。
「私は今まで生きてきて、こんな仕事には関わったことがございません。それに、いや失礼ながら国防相殿、こういう仕事をやってのけられるような方なら、他にいらっしゃるのではありませんか?」ソティルは冬の雀のように、絶えず身を震わせながらそう言った。
「いや、いないね、ソティル君、いないんだよそんな人は!」
国防相はそう言明しながら、会議用の長いテーブルの、国防会議に居並ぶ代表高官の面々が座っている方をちらりと眺めやった。そして、再びソティルの方に視線を戻すと、よく通るその声で、一層その論拠を語ると共に、説得を続けるのだった。
「君しかいないんだ。そしてチョティ君、君のような人間にとって今こうしていることは大変なことだ。実に大変なことだろうさ、いや誓ってそうだとも!私がこの数日間集めた限りの情報と、我々が君の書類[訳註:原語dosjeは「身上書」を指す]を精査した結果、君こそがこの国防省内で幅広い職務経験を有していることがわかったのだ。君はロシアとの紛争に直面し、その後は中国との件にも関わっている[訳註;1960年代の対ソ断絶と、1970年代の対中批判を指す]、だったらイラクの肩を引っ摑んで壁際まで追い詰めるなんて、君には全く造作もないことだろう。それに加えて、これには戦略的な問題もあるんだ。わかるかね?まず君が撃ち、その後から我々も撃つというわけさ」すると他の出席者たちも一斉に同意したのだ、まるで燃え上がる連帯の音符を施され、刻まれたポリフォニーの中の、光り輝くコーダのように。
「ですが、もしも・・・」ソティルは何とか話題を変えようとした。
[訳註;ここで「話題」と訳したmeseleはトルコ語由来の外来語で、「物語」や「問題」の意味でも用いられる]
「いや、いや、もしもなんてないんだ・・・」国防相がソティルの言葉を遮った。
「さあ、やろうじゃないか、なすべきことを![訳註;ここで「やろうじゃないか」の主語は複数1人称だが、「なすべきこと」は分詞構文で主語が明示されない形になっている]声明文を持っていきたまえ、いいかね、記者会見は一時間後だ」[訳註;原文には引用符がないが、恐らくここまでが国防相の発言]
彼は声明文[訳註;が書かれた紙]を手に取ると、すぐさまそれを両手で力強く握り締め、羽根をむしられた雄鶏のような小さな頭を、栄光に打ち震える広い胸板の上でしっかりと支え、そして声明文[訳註;が書かれた紙]の両面にキスをした。彼に続いて居並ぶ者たちは皆、人としての正直さや誠実さという価値ある素質がまだその輝きを失わないでいるこの人物に対して、儀礼的な挨拶を送るのだった[訳註;直訳は「挨拶の儀式を執り行った」]
 それからどうなったか:ソティルは午前12時きっかりに、印刷メディアや電子メディア各社のカメラやマイクが並ぶ記者会見場に姿を現した。
 光を放つプロジェクターがソティルに向けて設置されており、加えて録音機器も置いてあった。その無意識の動作の中で、彼は意図せずして自国の歴史の新たな一ページを開こうとしていた。明日になれば、全てのニュース番組や日刊紙の一面が、それぞれ大見出しで国防省の公式な態度について報道し、それと並んでソティルの写真が全面を飾ることだろう。それによって、ソティルの容姿や声は歴史的な、それと同時に国民的な価値を得ることだろう。
 ソティルはこの時、ダークグレーのスーツを着ていたが、それは近所のブティックで、この非常に尋常ならざる場合のためにと、特に緊急に購入してもらったものだった。彼は幾らか行進風の足取りで、電源の入ったマイクへと近付きカメラの前に進み出ると、軽く咳払いして声を通してから、躊躇うことなく声明文を読み始めた。
 外では、国防省の中庭に軍楽隊のリズムと行進[訳註;の音]が鳴り響いていた。その周囲には、戦闘の燃え上がるような雰囲気が生み出されていた。好奇心旺盛な人々が、国防省の建物のこちら側と向こう側の歩道を埋め尽くし、壁の内側で起こっている出来事を注意深く見守っていた。「戦争は・・・戦争は・・・血が流れるだろう、もはや一国の猶予もない[訳註:原文は「もうピラフには水が残っていない」]」人混みの中、そんな声があちこちで飛び交うのが聞こえた。官庁の指導者高官たちはどうやらこうしたやり方で、ありとあらゆる形式で以て、そうした光景の中で連帯のスローガンを掲げ、愛国歌を唄う彼らの国民の士気を高めようとしていたようだ。しかしここ、官庁の壁の内側では、何もかもが怯えた静寂の下でふつふつと煮えたぎっていて、そして恐らく、あと少しすれば、疑念を抱く者であれ無関心な者であれ、誰もがその営みの炎を目にすることになるのだろう。会見場の隅の方には、アルバニアで認証を受けている外交団の代表者数名が不安なまま立ちよどんでいたが、それは国防会議のメンバー二、三名も同様だった。彼らは、その声明文が読み上げられるのを非常に注意深く聞きながら、時折それに同意するように首を振っては、その切れ味鋭い内容に承認を与え、評価しているのだった。一方ソティルはと言えば、事前に要請されていた通り、適切なアクセントと強い感情を込めて、文字から文字へと読み進めていたのだが、しかし、ところどころで全くそれとは気付かぬまま、脅迫めいたフレーズをも繰り返していた。「・・・我々はイラクに呼びかける。抵抗をするな、さもなくば、我々は国家として、今後起こり得ることに責任を負わない・・・」或いは、「最後通告の期限は23時00分である・・・」等、等。
 最後に彼は「どうも、ありがとう、ございました」と述べて締めくくると、震える手に握った声明文を降ろし、警備員らに完全に守られた状態で、記者たちからの「攻撃はいつ始まるんですか?・・・」とか「戦争の結果として生じる損害に対し、アルバニアがイラクに補償を行う用意はあるんですか?」とか、そういった類の質問には答えぬまま、会見場の裏へ通じるドアへと向かった。
 毎日、ソティルが帰宅するのは午後になってからだった[訳註;最近は若干業務時間が伸びたようだが、かつてアルバニアの官庁はおおむね15時に閉庁し、職員は帰宅して遅い昼食をとるのが普通だった]。彼は自分が住む路地に、ゆっくりとした足取りで、年相応にくたびれた顔に刻み込まれた疲労を抱えて、普段通りの格好で姿を現すのだった。両手はいつもふさがっていた。一方の手には、父親から引き継いだ古いMIFAの自転車[訳註;MIFAはドイツの自転車メーカー]の車輪を握り、そしてもう一方の手には、旬の果物や野菜の入った買い物袋を抱えていた。ソティルの妻ダフィナは、流しで食器を洗っていた。いつもの一日の終わりと同様、彼女はその日の午後の時刻に夫の普段通りの帰宅を待っていた。既に三十年にわたって、二人はこの家でこうした家庭の儀式を繰り返してきた。そして、ごく普通に共に暮らしてきたこの時間を経て、全ては規則正しく繰り返されていた。ところが、他の日とは違って、ダフィナはこの日、ソティルが家の中に入ってきたのにも気付かなかった。ソティルはフランネルのパジャマ姿でドアのところに姿を現したが、手にはその日の新聞を握っていた。ダフィナはそれを横目で見ると、料理を盛りつけた皿から離れないまま、いつも通りに話しかけた。
「あらどうしたの!あなたいつの間に帰ってたのかしら、あらまあ私ったら[訳註;原文では「烏」「魔女」を意味するkorbëという言葉が挿入されているが、これは女性の嘆きでよく使われる表現]、ドアの音も聞こえなかったなんて?!おかしいわねえ、本当におかしいわ!で、まあ、どうだったの?ちょっと話しましょうよ、今日お仕事はどうだったの?何か変わったことは?」
 ソティルの顔は蠟を塗ったように黄色くなったままで、一日中続いた疲労と緊張で頭はずしりと重く、唇を必死で噛みしめながら、彼は妻に打ち明けるべきディレンマをどうにか言葉にしようとした。
「別に・・・思い出すような楽しいことは何もないよ、なあお前」それから、ほんのしばらく沈黙した後、ソティルは震える声で妻にこう告げた。
「今日俺はイラクに宣戦布告したんだ!」そして、その言葉を吐き出したソティルは、ソファにどっかと身を投げると、湿気を帯びた壁に頭をもたせかけた。
「え?!まあかわいそうに、何を言ってるの?」震える声でどうにか声を絞り出したダフィナだったが、すっかり取り乱してしまい、怯えた目で自分の夫を見つめた。
「他にしようがなかったんだよ、なあお前!みんなが俺のことを、自分からは行動する力のない奴だと思っていて、だから俺にはこの仕事しか残らなかったんだ」ソティルは卑屈な口調でそう答えた。
「でも、どうして言わなかったの、それは私たちみんなに関わることなんだって?!ああ何てこと・・・何だってこんな話になってしまったの!どうして私たちが恐ろしい戦争なんか始めなきゃならないの、どうして?!」ダフィナは身を震わせ、唸った。
 ソティルはもう何も言わず、沈黙に身をこわばらせていた。部屋の片隅でその姿は彫像のような形をしていた。恐る恐るダフィナに目をやると、その瞳には驚くほどの涙がいっぱいに溢れていて、ソティルは少しずつ、少しずつ彼女から視線をそらした。と突然、彼女の手に握りしめていた数枚の皿が、大きな音をたてて床に砕け散った、いやそれはむしろ、まるで遥か遠くの戦線から響いてくる轟音に似ていた。

(つづく)


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