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エルミル・ニカ 『罪びとたちの夜』

 夫は、その朝いつもより遅く目が覚めた。空気は湿気を帯びてどんよりと重く、リューマチにやられた身体の節々が一層痛むのだった。何とか手足を動かそうとしたが、強烈な痛みに襲われて、彼を沼地の穴の様に吸い込もうとするかのようなそのベッドから起き上がる希望も失くしてしまった。僅かに腕を動かすと、まばらになった頭髪に手が触れた。しばらくすると、自分の顔面の皮膚を引き裂きつつある皺のことも思い出した。
「俺も老い始めたな」彼はそうつぶやくと、家の誰かに聞かれたのではないかと不安になり、唇をぎゅっと噛みしめた。廊下の向こうの方で、自分とは違う、肩にのしかかる年月を感じていないような妻の小さな足音がした。夫は、自分がまだ25歳の若造で、彼女に、後に自分の子供たちの母となるその美しい娘に出会い、心を激しくかき乱され町中を歩き回っていた、そんな遠い歳月のことを思い起こした。その刹那、郷愁と絶望が同時に押し寄せて来て、彼はたまらず、自分の弱った身体が貼り付いたその場所から妻を呼んでいた。
「おいお前、ちょっと来てくれ」
 妻は部屋の中に入るなり、夫の青ざめた顔を見て声を上げた。すぐに夫は落ち着くようにと手で制して、穏やかな声で言った。
「こっちに来いよ、そんなに離れてないでさ」
それで妻は風のようにすっと夫の近くまで来た。夫の傍らに立ち、まるで乾いた樫の木の幹を狙う蝮がするように身をかがめた。そんな妻の柔らかな肉付きのよい身体に触れながら、夫は、自分の顔に触れる彼女の髪の重さをも感じていた。その時、彼の脳裏に、自分がその人生の中で最も大切なものだと思っているはずの、その妻をもてあそんでやろうという悪魔じみた考えが閃いた。それで彼は、自分の言うことを妻が信じるように、ゆっくりとした口調で話し始めた。
「俺は今夜どうなるかわからない。身体が鉛みたいに重くて、両足はもう感覚が無いんだ。どうやら俺にはもう、お前と話せるだけの声しか残ってないらしい」 そこで彼は話すのをひと休みし、ぐっと喉を鳴らすと、途切れた話をまた続けた。
「どうやら俺は、最期の日を迎えたようだ」
 辺りに無言の静寂が訪れた。妻は、朝っぱらから不意に舞い込んだこの息の詰まるような状況をどうにか打開しようと、態勢を立て直した。
「何を子供みたいなこと言ってるの?しょっちゅうあなたは途方もなくふさぎ込んで、もう抜け出せないみたいなこと言ってるじゃないの。何でも二人で一緒に分かち合ってきたのに、あなたはどういうわけだか悩んでばかりね。もっと頑張りなさいよ[訳註:原文では「一歩先へ進みなさいよ」]、私が傍にいるわ。あなたが何処かであれこれ言ってまわる[訳註:原文では「樹皮に詩を書き連ねる」]時も私はまたそこにいるわ。あなたの気持ちをまともにできるのは、いつだって私だけよ[訳註:原文では「私はあなたの魂の実質的な模範だ」]
「お前の言うことは聞かなくたってわかるさ」夫は自分の話を続けていた。
「見えない糸があるような感じだ、でそれが俺たちの心に入って来てぐちゃぐちゃにかき乱すんだ、でも俺たち思ってもみなかったよなあ、今の今まで、俺たちの人生が或る日こんな終わり方をするなんて。そうしていつか、誰もいなくなった家の中で、しわくちゃになった写真が、昔の思い出が散らばってるのが見つかるんだろうな。それは憶えておいてくれよ」
 妻は喉に咳がからんで涙目になると、身体の奥から湧き出すような叫び声を上げた。
「俺たち二人の人生は何もないところから始まった」夫は悲痛な声で語った。
「そうしてこの頃になってやっと素晴らしい家庭を築き上げた。今じゃお前は三人の素晴らしい子供たちの母親で、明日も輝かしい未来が待っているんだ」妻はまたしても喉から込み上げてきそうな叫び声を必死に抑えた。
「そんな人生で」夫は最期の言葉を紡ぎ続けていた。「俺には最後に一つだけ訊き残したことがあるんだ。聞いてくれるかい、でなきゃもう寝るかい?」
「ええ聞くわ」妻は熱に浮かされたようになって答えた。
「俺は知りたいんだ・・・このぐちゃぐちゃで目まぐるしく移り変わる世の中で・・・お前は一度でも、誰かのことで俺を裏切りやしなかったかい?」
「まあ何を言うのあなた!」妻は仰天して訊き返した。
「私が自分の人生で知っている男性は一人だけです、私にとってはそれが全て。それはあなたよ、あなただけなのよ」
「お願いだよ、お前」夫は今にも消え入りそうな声で続けた。
「別れのときは近い、だからお願いだ、音を立てて崩れ落ちていく今この時に、お前が人生で知っている何もかもを、俺に語って聞かせて欲しいんだ。だから俺にも、そして神にも誓ってくれ、この恐るべき人生の中の、本当のことを、本当でないことを言うと。お前の隠してきた思いを、そこに含まれる隠された願いも、そして恐らくは語られなかった罪の数々も、何もかも一緒くたにして出してくれ。話せば自由になれる、そして自由は永遠・・・」
「だったら」妻は穏やかな口調で答えながら、皺のよったベッドの半分側に潜り込んだ。
「あなたも誓ってちょうだい、あなたが本当に死にそうなんだって」

(つづく)


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