見出し

エルミル・ニカ 『罪びとたちの夜』

罪びとたちの夜

 わが恃みしところ わが糧をくらひしところのわが親しき共さへも我にそむきてその踵をあげたり。(舊約聖書 詩篇41:9)
[訳註:新共同訳では「わたしの信頼していた仲間/わたしのパンを食べる者が/威張ってわたしを足げにします」で、これはイスカリオテのユダがイエスを裏切ることの予言であるとイエス自身の言葉で明言されている(「ヨハネによる福音書13:18)。なお版によっては41章9節でなく10節とも]

 誰にも想像などできまい、打ち捨てられた教会の、風や雨や積もった雪で崩れた屋根の、その上に立つ木製の十字架の重みの下、行ったり来たりで足を引きずり疲れ果てた修道士が、何を求めているかなど。墨色の雲が垂れ込める煙突の下、アンドレア修道士から凍えた息が立ち上った。微かに揺れる蠟燭の灯りの中で、孤独な影がその輪郭を形作り、修道衣がバサバサと音を立てた。消え入りそうな足音と眼差しが、書物のページや典礼書や、蠟で固められた韻律[訳註:おそらく蠟板に刻まれた詩のこと]の散らばる大理石の床の上に、悲しげに投げかけられた。沈黙は湿気を帯びた壁となって辺りを取り囲み、その全てがこの修道士を陰鬱たる思いにするのだった。アンドレア修道士は、世界の多くの土地でキリスト教の教義を伝え、そこに教団の施設を開くという責任ある任務で成功し、その名を知られた聖職者であり、かつて古い墓地の傍に建てられたこの教会にまつわる歴史に関し、二世紀前に黒死病によって潰え去った人々について、最後の十字軍の時代の後に建てられたこの建物で務めに当たり次々と死んでいった聖職者たちについて、既に聞いていたことがあった。風が朽ちかけた窓の開き戸に当たり、激しく鞭打つ冷気が襲ってきた。修道士の視線は、蜘蛛の巣によって制された屋内に釘付けだったが、そこではどんな輪郭も謎めいたヴェールで覆われていて、一方外にはただ分厚い霧が広がっているだけだった。書かれざる法則性の世界観をまとったその境界線は、人間の痕跡が全てよそよそしく感じられるような幻覚の世界にも似ていた。淡い光の反射の下で、蠟に固められた韻律を目で追っていたが、そこで急に、曲がりくねったその道筋がアラム語の文字から成っていることに気が付いた。アンドレア修道士は、その言葉による暗号を十分すぎるほどよく知っていたし、その方法で書かれた、いにしえのキリスト教信仰の書物に数多く接していたから、今や尋常でない情動に突き動かされて、風の流れで揺れ動く、教会の床や壁に埋め込まれた道筋を読み解こうと、思考の糸をたぐっていくのだった。

 私ことエルヴィス・ツェロヴァは、23歳という年齢の時、思いもよらぬ状況で命を落とした。人間がほんの一瞬の裁きに縛られ、二つの世界の狭間にある時に、生前と死後とで最も決定的な選択をするのには、ほんの一瞬あれば充分だ。私の生きてきた年月を通してずっと、私は頭上に存在する天使的なものを信じてきたのだが、自分という存在に起こったありとあらゆることについて語り、そして救いを求めるべき必要性をこれまでにないほど大きく感じたその時になって、私は天使に見放されたのだ。求めていたのは、争いの中で羽を引き裂かれる悪夢のごとき嘆きの声だ、それさえあれば私は、自分を別世界へと運び去る人間や武力にまさしく自分が相対していることを理解できたはずなのだ。そうすればこそ、自分や仲間たちの意志とは関係ないところで、予言者ゲルトルーダの託宣は実現されるのだ。
 私の語りはこれで終わらない。人間という生き物は誰も彼も、自分を一時でも慰める[訳註:原語は「養う、食べさせる」]現実の、その外に自分がいるのだということにようやく気付くその時までは、未知のものに深く魅了させられるのだ。
 全ての始まりは、あの狂気じみた日々だった、共産主義体制は瀕死の状態にあり、我々若者はヒステリーの波に駆られ、歩いて海を渡ろうとしていた。何年も後になって、その何もかもが、定まるところなく湾曲する時の流れの中で沈黙と孤立を強いられてきた民衆が陥った狂気以外の何ものでもないことに思い至るのだ。それこそが、我々の誰もが自分の頭の中に打ち立ててきた天国のせいなのだ。
 我々は皆例外なく群集心理に追い立てられて、大使館の扉を破り、その先へと進み、自由な世界へ飛び出そうとした。幾日も幾晩も、我々はドイツ大使館の区切られた環境の中にひしめき合い、やがて自らの不定形な孤立状態の中で襲い来る、耐え難い飢えや不安の圧迫に直面して、自分らしさもその実体もない存在になり下がり、結果として、人間と呼べるような最も典型的な感性も美徳も粉々に打ち砕かれてしまった。パンも水もごく僅かしか手に入らなかった。およそ四千人が、その大使館の閉ざされた領域の中にいた。人々の間にチフスや赤痢といった病が襲いかかった。そんな状況では医療支援など全く考えられなかった。赤痢は急速に蔓延した。狂乱状態に陥る人々もいれば、更にひどい別の混乱に陥る人々もいた。そんな転落していく日々の中で、このような条件でもなければおよそ考えつくこともないような薄汚い商売が繁盛した。パンと水の値段が滅茶苦茶に高騰した。それなのに、誰も途中でやめようとは思いもしなかった。国家権力が介入してくることへの不安が、誰の中にも存在した。大使館の柵を越えてきた大勢の中には、秘密警察のエージェントも紛れ込んでいた。連中の目的は、避難民の間に諍いを起こさせることだった。そうなればすぐさま、警察の特殊部隊による残忍な介入が実行に移され、最初の政治難民集団である我々は、大使館から根こそぎ一掃されてしまっただろう。そうしたディレンマを抱えつつ、最後の力を振り絞って行きつ戻りつを繰り返しながら、どうにか生き延びた八月初旬の蒸し暑い夜、大型車輌の音が聞こえて来て、我々はそれでドゥラス港まで運ばれた。そこから我々は約束の地へと飛び立つことになっていた。その勝利と感涙の瞬間を思い出すたび私は、我々全員が狂喜乱舞し、笑いのはじけるその中にあふれ出した憂鬱な気分に襲われるのだ。あの時、解き放たれた人々にとっては、我々全員が自由刑を科せられたのだということを理解するのは途方もなく困難だった。けだし、どこまでも思考と行動に限りがないこの広がりこそ、一個の人間という存在にとって制御することが極めて困難な挑戦だったのだ。
 最初に夢が壁にぶつかったのは、我々が難民キャンプで過ごした数か月であり、そこで我々が例外なく隔離施設に押し込まれ、厳しい監視下に置かれた時のことだ。
 我々は難民キャンプに到着した。そこで我々は朝から晩まで管理され、あれこれと指示される厳しい規則に縛り付けられることになった[訳註:ここで「管理」と訳した原語regjimiは「共産主義体制」等の「体制」と同じ単語]。食事は配給制、衣服は近所の教会からの貰い物で、様々な娯楽も、キャンプの周囲をぐるりと囲んだコンクリートブロックとワイヤーで区切られた範囲の中だけだったし、自由に外出できるのは一日の内たった二時間で、それもすぐ近くの村との間を行き来するだけだった。国を逃れてきた者たちの内訳は一様ではなかった。大半は体制によって迫害されていた人々だったが、常に未知なるもの、全体主義体制の哲学においては常に日陰に隠された世界に魅了される魂、つまりは冒険心に駆られて飛び出してきた者達もいた。
「どうも俺たちは石鹸にされるんじゃないかな」そんな日々が続いていた或る日、ミトロという痩せて日焼けした若い男が、控えめな性格をうかがわせつつ、ワイヤーで囲まれたキャンプの中で抜け出す道もなく、疑心に駆られてかそんな仮説をこしらえているのを、私は耳にした。
「何で俺たちがそんな終わり方になるんだよ?」
ヴロラから来たアルマンドという頑丈そうな男が問い返した。彼はムール貝の部隊[訳註:要するに食用貝の養殖業務]の責任者だったが、つい最近そこで諍いを起こして、きつい前線へ死ぬまで送ってやるぞと脅されていた。そんな状況に直面したアルマンドは、国外へ逃れることを唯一つの救いの道と見なして、西側世界を知るという、もう一つの方向へ飛び出そうと決心したのだ。
「この間の親父からの手紙でそんなことを考えたのさ。それを読んでいる内に、俺たちがここまで移動した後、連中の会議でそんな話になってるんだなって気付いたんだよ」
ミトロは真剣な、ところどころ混乱しているようにも感じられる口調で答えた。
「そりゃお前の親父さんとか親父さんの友達の頭の中には1944年の時のことがあるんじゃないか」アルマンドが言葉を継いで言った。
「連中が俺を石鹸にして、それにバラの匂いもつけてくれるって言うんなら、俺は別に嫌じゃないなあ、それでもしどっかの未亡人が身体のけがれを洗い流すのに俺を使ってくれるって言うんなら、俺も心安らかに落ち着けるってもんさ」
[訳註:言うまでもなくナチスドイツの強制収容所で収容者の死体から脂肪を取って石鹸を製造していたという実話・・・と言われている逸話を意識している]
その場にいた者達がどっと笑った。そんな言葉の戯れや賭け事は夜遅くまで続いたが、それらは自分が憶えている限りでは唯一の息抜きの時間で、そんな時だけは、秘密を守るために造られたこの難民キャンプの中で、我々のための書類が準備され、生活を始めるまでの間、いっときでも身の置き場所を得ていられるのだった。その生活のために我々はここまで、この見知らぬ土地へ辿り着くため、あらゆるものを犠牲にしてきたのだ。
 難民にとって、ドイツで生き抜くことは途方もなく困難な挑戦だった。難民キャンプの柵を通り抜け、自分たちにとって未知のこの社会における生活を構成する、ものの考え方や決まり事の数々にぶつかった時、我々はそのことを否応なしに理解させられたのだ。この国が地理的に展開されている、何処までも続く平野の気候は寒冷で、空は雨に覆われていて、地中海の人間がドイツの自然に適応することを一層困難なものにした。今日が自分の最期の日になるのではないかという気分が、毎日のように我々の神経を痛めつけた。次の日がやって来て、夜明けの最初の光が射してくると、眠りと支離滅裂な夢から離れた我々自身の意識の中に、不安の種が蒔かれるのだ。
 難民キャンプの隔離施設を出ると、我々はあちこちの町や地方の居住地区へ振り分けられた。アリアン、スケルディ、ゲルト、そして私を含むグループは、ドイツ西部に位置するゲルゼンキルヒェンに落ち着いた。初めの内、そこでは外国人は自分たちだけだと思っていたが、初心者ゆえのそんな発想はすぐに変わることになった。アルバニア人以外にも、この絶えず雪に包まれた領域にはトルコ人や、ロシア人や、ポーランド人や、クルド人や、アイルランド人がいた。多種多様な難民の集団は、地元住民にとって根本的に危険な存在と見なされていた、というのも、そうしたグループの大半が犯罪組織と化して、盗みを働いたり、様々な集団との取引で荒稼ぎをしていたからだ。警察にとっても、次から次へとこうした犯罪集団を相手にするのは非常に厄介なことだった。時間が経つにつれ、実際ドイツが約束の地でも何でもないことがはっきりわかってくると、我々もまたこうした流れに否応なく巻き込まれていった。徐々に私の頭の中には、別の時代だったら見当違いであっただろう確信が生まれつつあった。大使館の壁を乗り越え、国境を越え、自由な世界に適応しようと努力し、様々な時期での経験を重ねてきた私が理解したのは、独裁体制で個人はずっと自由を奪われたままだが、いわゆる民主制において人は飢えに脅され続けているということだった。至る所で不安に追い立てられ、それでも、自分たちが加わっているこの制度の下では、いかに些細なことであれ、それを変えようとすることにおいて自分がどれだけ無力かということを痛感させられる者さえあった。こうなると、そこから脱し、手っ取り早く金を手に入れるただ一つの方法は、屈服し、有力者どもが定めた法と規則に順応することにしかなかった。その当時、この地域ではトルコ人のグループが最も組織されており、かつ最も力を持っていた。だが我々アルバニア人にとっては、あれこれ考えるよりもトップに躍り出ることはずっと簡単で、それには大した労力もかからなかった。構成員たちの間に深刻な分裂を生じさせ、手向かう者の背中に壊れた椅子を投げつけ、ナイフで襲いかかりさえすればいい、我々がこの村[訳註:ゲルゼンキルヒェンのこと]で権力、つまり売人へのみかじめ料や、東欧からの薬物や女の売買に対する支配権を掌握するにはそれで充分だったのだ。
 アルバニアにはもう戻れそうもなかった。向こうでは状況が更に厄介なことになっていたのだ。我が祖国は、毎日のように西へと向かう人々で引きも切らず、ますます溢れかえるような国と化していた。しょっちゅう新聞の一面も、テレビ番組も、アドリア海やイオニア海をわたるアルバニア人たちの脱出行の映像を取り上げていた。一つのことが、十分過ぎるほどにはっきりと、我々全てにも例外なく感じられるようになっていた。向こうでは状況がもはや手に負えないものになっており、何時の日かアルバニアに戻るという理想は、はかない望みとしか思えなくなっていた。
 ベルリンの壁が崩壊してから、ドイツではナチのスキンヘッドの団体が姿を現した。その活動は充分に組織化され、国のほぼ全土に及び、移民、とりわけ有色人種に対する犯罪行為が行われた。我々アルバニア人は、ずっと前に息の根を止められていた一時代の、こうした狂信的団体と真っ先に協定を結んだ。ナチ派の連中は、彼ら自身の理論に厳格に従い、まず何よりも我々アルバニア人を、神によって選ばれたとされるアーリア民族だと見做していたのだ。こうした真実のおかげで、連中との間には利害の衝突も、物理的な紛争も一切起こらなかった。この協定は双方のグループの代表者同士で取り決められ、我々の影響の及ぶ範囲には、向こうの団体の細胞が活動する地域や単位の版図は含まれないこととなった[訳註:要するに「ショバの線引き」が行われたということ]。どの段階であれ、向こうの団体の構成員たちは自分たちの行動計画を実行に移すに当たって、我々が活動している痕跡のある場所には決して足を踏み入れなかったし、一方で我々も、向こうが他の民族集団といざこざを起こしているところには介入しなかった。
 やがて、我々自身の決断と、共闘するグループとの関係の甲斐もあって、我々は我々の立場を揺るがすような敵対者たちの多くを叩き潰すことができ、今や我々の前には自由な道が開けていた。遠い遠い夢が、ずっと手の触れるところまで来ていたのだ。
 だがこうした献身[訳註:原語blatimは教会用語で「聖体、聖餅を捧げる」こと、転じて「犠牲を捧げる」ことを指す]も何もかも、私の人生にゲルトルーダが現れた時に覆されてしまった。後になって、恐らくはあの女性がもはやこの惑星の住人でなくなった時、私はようやく理解したのだ、彼女と出会ったことが私の心の病にどれほどの影響をもたらしたのかということを。ゲルトルーダはユダヤ人の両親のもとに生まれたが、その両親は二人ともホロコーストの時に、ガス室に消えていた。自分たちの最期を予感した二人は、この世に生を受けてほんの数日も経っていなかった赤ん坊を、と或る修道院の修道女たちに託していたのだ。それから時が過ぎ、その間にその娘は修道女たちの生活と儀礼に馴染み、そして彼女は洗礼を受け、ゲルトルーダの名を授かった。しかしだからといって、まだ赤ん坊に過ぎなかった彼女がホロコーストの犠牲者でなかったとは言えない。彼女の母は、ユダヤ人が迫害されていた時代に妊娠を迎えており、生まれた子は盲目だった。そんな神話的なものを身にまとった女性が存在することが、私には全く意外なものに感じられた。きっと偶然ではない、この世に偶然などというものはないのだから。
 毎週日曜日、私は町はずれの教会に足しげく通ったが、そこには司祭たちの古い棺が置かれていた。完璧な几帳面さで私が礼拝を、そしてゼバスティアン神父が必要な儀礼を終えると、私はその場に残って、信者たちもまばらになり始めた礼拝堂の、祭壇のそばで神父と語り合ったものだ[訳註:ゲルゼンキルヒェンはカトリックの割合が多いドイツ西部のノルトライン・ヴェストファーレン州にあり、この教会もカトリックと思われるので、以下カトリック風に訳します]。神父との話し合いは、社会や人間の思想の継続性に関わる、ありとあらゆる話題に及んだ。会話が信仰にまつわる問題やディレンマに触れることも珍しくなかった。信仰がタブーとされ、無神論が義務とされていた国を代表する私にとって、そういったやりとりの中でゼバスティアン神父が投げかける問いや議論は、些か難しいものに感じられた。いつだったか、神父が私に、そこの教会で働いていた司祭たちの運命について語ってくれた時は、会話の中でゲルトルーダに触れることも度々あった。彼女は、この村に福音を伝えてきた修道士たちの庇護の下、何年も前から神の従順なるしもべであり続けたと。あの頃、私とゼバスティアン神父が、礼拝で話されたことへの意見や評価を、寝不足で充血した眼にまぶたが重く感じられるまで語り尽くしていた頃、その修道士たちに存命の者は一人もなく、過去は伝説の痕跡を残すのみとなっていた。
「彼女こそ、誰にもひとことたりとも解き明かせなかった謎をその身に擁している、ただ一人の生き証人だ。それがまさに彼女、ゲルトルーダ・シュミットなのだ」
 それからゼバスティアン神父が話してくれたことによると、老いたゲルトルーダは、鬱病の症状があり、また異端思想の兆しが見られたことから教皇庁の命令で追放された。その後の彼女は、信者としては教会から疎まれ、周りからも見放されたままだという。彼女の想像力が狂気へと辿り着いてしまったことは、伝道に携わる者達からすれば、破門にするより他にはどうすることもできなかった。聖なる、或いは罪びとたるゲルトルーダについてゼバスティアン神父から聞いた話はおおむねこんなところだ。そんな彼女と私が出会うことになったのも、自分のボヘミアンじみた精神をかたちづくっている好奇心の魔法にかけられたが故のことだった。ゼバスティアン神父の助けを借りて、私は彼女の居場所を探し当てた。何が待ち構えているかなど、思いもしなかった。どうあれ結局のところ、私はゲルトルーダと出会っていたに違いないのだから。そして実際、そうなったのだ。
 ゲルトルーダは旧市街の辺りにあるバロック風の建物に住んでいて、私はそこへ行くのに通った野生の薔薇に囲まれた小道を今も憶えている。人に案内されて、盲目の彼女がいる部屋へ通されたが、その人から、彼女の視力がごくぼんやりと見える程度のものだということを聞かされた。人も物体も、ただの影のようにしか映っていないという。きしむ音と共にドアが開くと、私には自分の目の前にいる生き物が、何か地球外から来た種のようにはこれっぽっちも見えなかった、それどころか十一歳にもならない子供ぐらいの背格好で、「フリードリヒ・シラー」高校の女子寮の寮母だと言われた方がよっぽど納得できただろう[訳註:ノルトライン・ヴェストファーレン州最大の都市ケルンに同名の高校が実在する]。蠟燭の炎と強い香の匂いの中、それらの要素が混じり合った中から生み出される効果と共に引き出される暗号を、ゲルトルーダは読み解いていった。彼女は、皮膚がかさかさに干からび感覚の無くなった指先で、蠟燭の炎に照らされた私の顔に触れた。私は、ひざまずいてそれを受け入れた。溶けた蠟が陶製の皿に広がった。彼女は黒ずんだ指先で私の額から、両眼、汗ばんだ髭と触れていったが、その亡霊のような視線はぼんやりと定まらぬところで消えてしまった。そうした動きを、彼女は決してごく自然に行っていたわけではないが、そこには生者たちの世界とのつながりは欠けていて、そんな中で私は彼女の今にも消え入りそうな声を、自分へと向けられた言葉を耳にした。
あんたの顔はごく若いような気がする、だけどあんたの瞳に見えるものはいつだって厄介なことばかりだね
叫び声こそ挙げなかったが、驚きで私の全身はこわばった。するとゲルトルーダは蠟燭の炎の上に身をかがめ、火のついた香と一緒に、その陶製の皿を手にすると、そこに爪の先で何かしら印のようなものを引き、それから私の顔に蠟燭を近づけると、温かい香の上に蠟を二度たらした。沈むような音色が再び聞こえた。
見える、旅人たちの足跡が残る砂漠だ。四つの影が一つ、また一つ。あんたの行く道は血の川に沈み、あんたの進む道ではいつだって、出会う人もほとんどいない。坊さんどもがあんたの後を追ってくる、何処に行っても、そしてあんたは何故だかいつだって一人っきりさ。洗礼を受けた彼らの行く先には不死が共にある。霧を晴らせない者たちは過ちをおかし、その魂から流れ出る影に押し固められてしまう。この世は子午線で形作られる昼と夜に導かれている、でも彼らは本当は、雲のヒエログリフで黙示録を、聖なる息吹から流れ出る永遠を、予言する使徒でしかない。気候の中から、遠く去った者たちの声が私を呼んでいる、時がフレスコに姿を変える。彼らの足跡には真実が潜んでいる。無知にとらわれた者たちは、夕刻にこうべを垂れる。オリーヴの樹には過去が刻まれている。女があんたのために門を閉めた時、意志は成就される。女だ、この世界の創造者にして破壊者だ、それこそが最後に陥落する城だ。その時あんたは一人のままだ。その最果てで、あんたの前に四人目が立ちふさがる。そこでは失われるものは何ひとつ生み出されることがなく、そして死は私たちと過ぎ去った者たちを引き離すためのただの言葉でしかない。我が息子よ、あんたにはこのひとこともわからないだろう、けれど八日目には、書かれたものは宙に解き放たれる。あんたは異端を述べた者として呪われたままだ。陽が沈み、何もかもが見捨てられたその時、坊さんどもは祈るだろう
 この世にやって来たその時から、私は迷信を信じたことなど一度もなかったし、自分が感じたものも全て、たまたま何かの勘違いの現れとしか思えなかった。一時近くになるまでいたその場所からふらふらと飛び出した時、この上なく混乱しきっていた私は、どうやって外へ出たかさえ思い出せなかった。憶えているのはただ、稲妻に打たれたようになって道を辿りながら、ただの一度たりとも背後を振り返ろうとはしなかったということだけだ。
 自分の身に起きたこと全てを、私は賭博場へ遊びに来ていた友人連中に話して聞かせて、その重苦しい一日のストレスを軽くしようとした。あの世捨て人の言葉に込められたメッセージを解読しようとすればするほど、私は陰惨な気分になっていたのだ。友人連中は私を皮肉交じりに手ひどくこきおろし、彼らから私は、自分が気違いの繰り言にひっかかったのだと教えられた。しかし私は自分が聞かされたことの影響力に呑まれているような感じだったものだから、多額の金をすってしまい、自分自身の中で、これから自分の人生に現れる事どもが、どうかあのゲルトルーダという女の予言のようにはならないでくれと祈っていた。しかし身も心もひきつけを起こしたように痙攣して、感覚の麻痺と不眠の中、私は指先を動かすことも、両唇の間から音を出すことさえもできなくなっていた。
 アンデタは無言のまま、ただ私の動きやしぐさを仔細に観察していた。彼女がまだ、ただの甘えん坊の子供だった時分から、私はどんな時も、彼女の望む通り、自分の弱さを彼女のために与えてきたのだ。彼女の家族の中で、私は一度も自分がよそ者だと感じたことはなかった。私とアリアンとの友情は並外れて固く、我々二人は互いに兄弟のごとき親密さで接していた。アリアンの性格の中にある様々なそのほかの性質は別にしても、いざことに及ぶ際の無鉄砲さにおいて、私は彼のことを評価していた。それは、彼や彼の家族の運命にかかわる、まさしく危機的な瞬間において彼を特徴づけるものだった。アリアンは家族と共に大使館の壁を乗り越えた、移民グループの中の一人だった。妹がアンデタで、母親がサニイェ、いや我々みんなの呼び方ではサノおばさんだ[訳註:ここで「おばさん」と訳したアルバニア語nënëは本来「母」の意味だが、「祖母」の意味で用いられることもあり、また年長の女性に対する親しみを込めた呼びかけとしても用いられる]。我々のグループは固く結びついた仲間同士で、単に友情だけでなく、利害をも共有していた。資金繰りであれ、着るものであれ、車であれ、また必要ならば一部の武器であれ、我々は自分たち仲間内だけで調達し、使用するのだった[訳註:ここで「仲間」と訳したvëllazëriは本来「兄弟」の意味だが、英語のbrotherhoodと同様、「同志」「同胞」「信徒」等の集まりを示す語としても用いられる]。我々の間の不文律では、グループ内の利益を損ねた者は、他の仲間たちによって制裁を受けるとされていた。強盗の計画を実行するにも、他のグループに対する総力戦でも、また従わぬ者たちを始末するにも、我々四人でそれらのことに当たった。アリアンが先頭に立ち、私がそれに続いた。何故なら私と彼は、世界観にしても、行動や理念にしても、まるでシャム双生児のようにうり二つで、いつの日か運命が自分たち二人に微笑んでくれると確信していたからだ。そうだ、その日が来るまでは、罪の代償[訳註:原語shpagimには「(不品行の)弁償」や「復讐」の意味がある]にも立ち向かっていかねばならないのだ。アリアンも私も、いかなる犠牲を払ってでも立ち向かっていく覚悟はできていた。たとえそのために自分の首をもって贖うことになったとしてもだ。我々自身にとっての人生はそうした掟で形作られていて、誰より我々自身がそのことをよく理解していた。いつの日か、運命が我々を互いに争わせることになるなどと、誰が思うことなどできただろうか。
 今でも憶えているが、その日の稼ぎを終えたか或いはナイトクラブで過ごしたかして私とアリアンが夜遅く帰宅した晩には、サノおばさんは我々二人を待っていて、「主よ、私の息子たちに祝福を!」と言ってくれたものだ。そんな深夜の祈りの後で、サノおばさんは我々のために食事や寝床を用意してくれた。時には、我々二人してテーブルの上で、口元にタバコやウイスキーの匂いをぷんぷんさせながら、そのまま寝てしまうことも稀ではなかった。アンデタは我々のためにあちこち回ってくれて、兄の遅い帰宅を待たずに寝ようともしなかった。そんな妹がたまたま寝てしまっていたりすると、アリアンはそこまで行ってキスをしてやるのだった。彼は自分の妹がもう大人になっているとは思いもしなかったのだ。アリアンたちの父親が、かつて冷戦時代に造られた軍事トンネルで起きた地滑り事故で死亡して以来、アリアンは優しい親のようであり、また最も近しい友であり、間違いなく、世界で一番の兄だった。私は彼ら兄妹の固い絆を素晴らしく思っていた。アンデタはアリアンにとっての急所だったのだ。さてアンデタが成長し、自分たちが立ち向かわなければならない問題が次々と押し寄せてくると、それらが余りにも重大なものだったために、多くの事柄が気付かぬまま見過ごされてしまった。だがそこには、我々の日常に直接関わってくるような重要な事柄も含まれていたのだ。
 或る日、それは私からすればとても妙なことだったのだが、アンデタが私に読むようにと言ってブコウスキーの『女たち』を持ってきてくれた。数日後、私はもう一度アンデタと本を交換した。[訳註:チャールズ・ブコウスキー(Charles Bukowski)はドイツ生まれの米国人作家。『女たち(Women)』はブコウスキーの自伝的長編で、邦訳の書名は『詩人と女たち』。なお、ドイツ語版の書名は『ハイエナたちの愛の生活(Das Liebesleben der Hyäne)』で、原題と著しく異なっている]
 私はそういうやり方にたじろいだが、アンデタがまだ幼い年頃であることを暗に示そうと、ナボコフの『ロリータ』を渡した。本当のところ、よりにもよって彼女が、そんな幻想でもって満足するなどという考えを私も認めていたわけではない。しかしどうやら彼女にとってはそれこそが、人生において与えられる一瞬一瞬を生き、変わりたいという支配的な欲求や本能への、何ものにもまさる確信だったのだ。
「エルヴィス!あなたに世界を送ることはできないけれど、私の愛を捧げます」
そんなメモを私は、彼女から送られた本のカヴァーの裏に見つけた。そしてその最後には、こう書かれてあるのが読めた。
「あなたのアンデタより」
そのメモが示すのは本気の武装解除を告げる文書だった。私は表紙を閉じ、窓際へ歩いて行った。外では深紅の雨が激しく降っていた。自然は生き生きとして、猛々しい彩りに溢れ、見通すこともできないほどだった。その時、私は今にも外へ出て、在りし日のヴァイキングの如く、森の奥深くへと駆け込みたくなった。ところが数歩前へ出たところで、狂気に圧され、まるで傷つき捕らわれて再び立ち上がる気力も失った狼のように、何処かで傷を負うのではないかという不安を覚えた。アンデタは私のすぐ傍にいたが、同時にそこには沈黙の愛もあったのだ。私は自分の過去を思い出していた。ずっと長い道のりを辿ってイタケーを探し求めてきたのに、結局は自分自身を取り戻す為の戦いでも敗者のままだったような気分だった[訳註:イタケー(イタカ)はホメーロスの『オデュッセイア』においてオデュッセウスの故郷とされる島]
 毎日、私は自分がぼんやりとした夢の中を生きているようで、そこには有名な人物たちの声や横顔や、薄もやの中に死んでいった聖職者たちの影が見えていた。何時になったらこんな状態から目覚めて、そして真実が始まりと運命の気まぐれの終焉を知ることが出来るのか、私には知る由もなかった。自分が置かれていた状況の中で、私はどうにかしてゲルトルーダの呪いと予言から解放されようとしたが、時間が経つほどに、この枠の中から外へ出ようとする努力が途方もなく不可能であることを自らに思い知らされるのだった。思考の中に時折、隠された墓場の妄想が姿を現した。分厚い雲に覆われた空の下、石の十字架の並ぶ影がはっきりと見えた。何処までも広がる平原の中で、その荒地は四つの墓で区切られていた。沈黙の中、互いに距離を置いた十字架の下には自分たちの名が刻まれていた[訳註:アルバニアから逃れてきたアリアン、スケルディ、ゲルト、そして語り手のエルヴィス・ツェロヴァを合わせてちょうど4人]。私は歩み寄り、順番に、空っぽの墓のざらついた墓碑銘に触れていった。何よりも私が恐怖を感じたのは、四人全員が同じ武器によって、そして「復讐」という同じ動機によって、断罪され処刑されたのだということだった。そして、運命によってこの夷狄の地に送り込まれた、ただの通りすがりであるこの私も、自らによっても誰によっても守られることなく、終わりのない道のりの中、今度は自分自身が孤独の中に置かれているという思いを、自らに認めることができないでいた。私はひっきりなしに頭の中を掻き回すそんな思いと、自分自身から出てくるこうした独り言に苦しめられた。それで私は自分自身そんなことを認めたくはなかったのだが、あの出来事がこの道筋へと流れ込んだ今、私にとっては何もかもがはっきりしている、私はアンデタを愛している、そしてこれこそ私の人生の道筋を完全に変えてしまうような、身を焦がすような感情なのだ・・・
・・・アンドレア修道士は我を忘れ、冷たい大理石の上、紡ぎ出される思考の糸を追っていた。修道士の影がヒエログリフの上に落ち、そうしていると彼自身さえもこの教会にいないような感覚に襲われた。壁の銀製の蠟燭立てのゆらめく炎が作り出す陰影と、イコンの薄ぼんやりした輪郭と、風に押されて絶えず開いたり閉じたりしている扉の立てる音と、隠れ場所を求めて天井の錆びついた梁にやってきた鳥たちの羽ばたく音とが、まるで二つの世界、すなわち、生者が属する世界と、死者の世界との狭間にある魂が、今なおこの建物の中に留まっているような印象を与えるのだった。蠟燭は弱々しい炎の下で燃え続け、熱い蠟が、夜風で冷え切った床の上に溶け落ちた。物語はまだ続いていたが、アンドレア修道士は何と思うところなく、教会の隅の、かつて在りし日の聖職者たちが韻律を唱えていたであろう別の一隅に場所を移した・・・
 ・・・だが神は、我々にとっての、まさにその日をあらかじめ教えてはくださらなかった。薬物売買は、中東諸国での武力紛争の影響で、商品の確保や販売が難しくなっていた。売人たちのネットワークは、しばしば国との衝突や、或いは敵対グループとの抗争といった対立を引き起こした。そして白い肉をめぐる売買[訳註:人身売買を指す]も絶えず動揺をきたしており、それは東欧やアフリカから売られてくる女たちの流れにも及んだ。我々はもっぱら十五歳から二十三歳までの娘たちを選別し、加工していた。今でも私は、こうした商売は原始心性[訳註:原語mendësi primitiveは英訳するとprimitive mentality]の極限にまで達してしまうようなものだと思っているが、しかしそれらは市場が求めていたものなのだし、そうでなければ我々はとっくに破産していただろう。
 彼の人生に影響を与えたのが何だったのか、誰にもはっきりとはわかるまい-物語にはまだ続きがあった。余りにも形容しがたい状況の中に巻き込まれてしまうと、人は平衡を保ちつつ自分の人生の目標を定めることなど、殆どできはしないのだ。
[訳註:上の段落は前段から地の文のように続いているが、おそらくアンドレア修道士のモノローグである]
 その前の週、町は尋常ならざる事件にどよめく中で朝を迎えた。ショッピングセンターが襲撃され、金製品売り場が、空っぽのショーウインドーと裸にされたマネキンを除いてほとんどもぬけのからになっていた。警察が警備の規模を増やし、犯罪集団の大半が、難民の数も多く、それゆえ当然目立つ危険も少ない別の地域へ移ってからというもの、こうした窃盗事件はしばらく滅多にない出来事だった。
 当時、金製品売り場で盗みをはたらくなど実際狂気の沙汰だったし、一歩しくじれば我々全員が破滅へ向かって真っ逆さまだった。その売り場を仕切っていたのはトルコ[訳註:人]で、我々が得ていた情報では、そのビジネスの背後にいたのはイブラヒムというトルコ人グループのリーダーだった。警報のサイレンはうまく解除できず[訳註:原文では「洗浄できず」]鳴りだしたが、その時には我々はハーレー・ダヴィッドソンのバイクに乗っていて、勝利の爆音の中、地獄じみたスピードとエクスタシーを感じながら、市外へと疾走していた。警察が現場で見つけた証拠品は、脱ぎ捨てたマスクと、アスファルトに残ったハーレー・ダヴィッドソンのタイヤ痕だけだった。だが事前の情報と残された証拠と、犯罪捜査の専門家たちの調査があれば、我々のグループに辿り着くだろう。子供に人気のある有名人の顔のマスクをかぶっていたのはスケルディだった。我々がひと仕事こなす時にはいつものことだったが、その日のスケルディはどうかしていたのだ。できるだけ早くその場から離れなければという、追い立てられるような焦り故の不注意によって思いもかけず、ごくあっさりと足がついてしまったのである。だが我々のこうした不注意には、もっと他のことも関係があったのだろうと今は思う。危険な仕事をやり遂げようとしていたあの朝方、我々は明らかに寝不足で疲れきっていて、それも前の晩に娼婦とアルコールのお相伴に付き合わされていたからだ。何とかして我々は市内から姿を消し、できるだけ遠く、バイエルンの州内まで逃れて身を隠し、偽造IDと証明書を使って移り住む必要があった。
[訳註:ちなみにノルトライン・ヴェストファーレン州のゲルゼンキルヒェンからバイエルン州北西部のヴュルツブルクまで直線距離でおよそ280キロ]
 我々の長い旅の終わりは、今となっては名前も憶えていないような田舎の村で、そこに住むほんの僅かな住民の大半が薬草栽培で生計を立てていた。我々は、第二次大戦の退役軍人が経営する小さな宿屋の二間に落ち着いた。静かだというだけでなく、ドイツの至るところで活動している情報屋たちのネットワークによる嫌疑の目を逃れる必要もあった。事件の経過を知ることができる手段はニュース番組しかなかった。一日中、殆ど外にも出ず、食事は年配の、それほど流暢でないドイツ語を話す女従業員に部屋まで運ばせていた。数日経って互いのやりとりが頻繁になってくると、その女がドロタという名で、ポーランド国籍であること、また彼女自身がドイツ人に対して病的なまでの憎悪を抱いており、それでも経済的な事情から祖国を離れざるを得ず、よりにもよって、かつての戦争の時に自分の生まれた村を平らにならしてしまった連中の国で生計を立てざるを得ないのだということを知った。そういった理由でドロタは、まだずっと若い娘だった時分に、廃墟と化した故郷の村を捨て、世界中を放浪[訳註:原文では英語Odysseyにあたるアルバニア語odiseが用いられている]してまわった末、老いさらばえ、疲れ果て、困窮し、家庭も持てぬまま、ようやくこの小さな宿屋の扉にまで辿り着き、元帝国陸軍の司令官だった主人の信頼を得たのだ。彼が対露戦線で率いた部隊の勝利や、或いは敗走の時の写真や勲章が、遺産として残されたその建物の隅という隅に展示されていた。
 ドロタは、我々がドイツ人でなく、バルカンの小さな国からやってきた政治難民であること、そして我々が警察に追われていることを知ると、大いにすすんで情報提供者となり、壁の向こうに広がる世界との橋渡し役を務めることを承知してくれた。
 だが我々が、自分たちの身の安全にかかわる重要な、もう一つの要因を過小評価していたことを私は認めざるを得ない。しかもこの、自分たちの勝利の絶頂と熱狂のせいで我々は、自分たちがその行動の大部分で敵に包囲されていることを忘れかけていたのだ。まさにそのことを私が理解するに至ったのは夜遅く、鉄道の駅から秘かに戻って来た時のことだった。まとまった金を持ってきた知人と会い、隠れ家に戻ると、そこには血まみれで既にこと切れたスケルディの死体が転がっていた。私は震え上がり、喉の奥から絞り出すような叫び声を上げ、目の前が真っ暗になった。こんな状況には馴れっこだったのに、いつだって自分の利益を犯すような相手には死ぬまで撃つなり殴るなりできていたのに、その時私が感じていたのは何か全く別の、痛みと憤りがないまぜになったような感覚だった。ナイフで滅多刺しにされたスケルディの身体や、硬直した顔や、口元に散った血しぶきを見ている内に、私は、遅かれ早かれ自分たちにも皆同じ運命が待っているのだと予感した。私は両手で頭を抱え込み、荒れ模様の天気の中で鳴き叫ぶ獣のように、おいおいと泣き出した。スケルディの顔を、その硬直した顔つきをじっと見つめていると、今にもまた動き出しそうな気がした。だがしかし、その生気の失せた瞳に光が戻ることは二度となかった。もはやスケルディは我々が生きるこの場所から遠く離れた別の世界、別の軌道の住人になってしまったのだ。そんなヒステリー状態のまま自分がどれだけの時間そうしていたのかは覚えていないが、やがて我に返ると、私は古い建物の正面にもたれかかり、両手には我が友スケルディの冷たくなった遺体を抱えていた。
 夜になると、ようやくのことで、湿った壁に力なくもたれかかっていた私に、身を起こすだけの力が戻ってきた。とにかくこの現場から離れる必要があった。スケルディの亡骸は、壁のしっくいの剥がれたところに注意深く安置し、火がついたように、何処へ行くあてもなく、慌ただしい足取りでその場をあとにした。何度も振り返って背後を見た。思い出すたび、一歩また一歩と進むたびスケルディの姿は小さくなり、石造の里程標のように、終わりなく続く道のりを進む私の疲れ切った視界から消えていった。
 スケルディの死は、我々全員にショック状態を惹き起こした。我々の中に死と契約を交わした者がいるなどと思うのは、実に恐ろしく、殆ど不条理と言ってもいいことだった。ゲルトは灰と吸い殻で溢れ返った灰皿の上に一本また一本とタバコを押し付けていた。アリアンはショットガンの手入れをしていて、私はと言えば、テーブルの上に紙幣の山を広げたまま、押し黙って、殺されたスケルディの亡骸に手向ける、口にできなかった言葉の数々を頭の中で反芻していた。
「一人にならない方がいい」アリアンの声が、ニコチンのこもった空気の中で広がるのが聞こえた。
「アリアン、あの殺しは絶対に、偶然なんかじゃないぞ。連中は毎日のように俺たちをつけ回していて、あいつが一人になるチャンスを待っていたんだ」そんな言葉を私は、起こった出来事を全て分析した上での結論として、深い確信と共にはっきりと口にした。
「何にせよ、いったん墓に入ってずっと埋められている奴を引っ張り出すことは、誰にだってできないのさ」ゲルトがタバコの分厚い煙に包まれたまま、そう言った。
「それがあいつの運命だったんだ。たぶん俺たち全員にも、同じ終わりが待ち構えている」
 我々がいた部屋の中が、再び沈黙に包まれた。不意に我々を襲ったこの状況から目をそらしたいという思いが、薄ぼんやりとしたネオンの灯りに舞い踊った。不意に我々は打ちひしがれた三つの影と化し、その向こうには-昨日までスケルディが寝ていた、しわくちゃになったベッドの、空っぽの空間が広がっていた。こんな状況の中で、この仲間たちの存在を守り、殺された仲間の人生を悼む為のただ一つの道は、贖わせることにしかなかった。完璧な冷血さ、そして誓いをその手に固く握りしめて、我々は死のしるしを刻まれた者に襲いかかり、反撃することを心に決めた。
 数日して、事件がありふれた日常の繰り返しに埋もれ、メディアの注目も幾らか離れ出した頃、我々は、イブラヒムの率いるネットワークが急速に、警察よりも急速に活動を拡大させているとの完璧な情報を手に入れた。彼らの居場所は、我々が潜伏していた村から六十キロほど離れた場所にある馬の放牧場だった。その牧場は国道脇にあって、そこに面した丘では家禽類や家畜を飼っていた。スケルディ殺しは綿密な計画にもとづいて、プロの殺し屋によって行われていた。イブラヒムの組織に攻撃を決行する予定だったその日、我々は部屋でギャンブルをしたり、瓶を次から次へと回し飲みしたりして、そうすることで恐れやためらいの感情を紛らせながら過ごしていた。アリアンのぼんやりした表情を見ていた私は、彼が他の者たちにはおよそ把握できないような、何かしらの裁きの掟で頭がいっぱいになっているのだと分かった。ゲルトの横顔は、彼が口にくわえたままくゆらせているタバコの煙に包まれていたが、左眼をうっすらと開いて、ずっと苛立っているように見えたが、彼はそれを隠そうとでもするように両手をせわしなく動かして、テーブルの上のカードに手を伸ばすと、うっかりスってしまった金を素早く勘定していた。私は壁に掛かった時計に目をやり、そろそろ仕事をかたづける為、椅子を立って出かけるべき時刻になっていることを気付かせようとアリアンに目くばせした。アリアンは私の視線に気付いてうなづいた。私とアリアンはゲルトの方を見たが、奇妙なことに、ゲルトは何の反応も示さなかった。
「ゲルト、もう出かけよう。そろそろ時間だ」
私はつとめて苛立ちをにじませた口調で話しかけた。しかしゲルトは目も上げず、テーブルのざらついた木目の上にカードを放り投げた。
「俺は行かないぜ、お前らでやれよ・・・」ゲルトがぞんざいな口調で言った。
 私とアリアンは互いに目を見合わせて、ほんの一瞬だけ無言になった。するとゲルトが切り込むように言葉を続けてきた。
「もうお前らについていかないことにしたんだよ。怖いわけじゃない、そうじゃない・・・俺はもう何も怖れちゃいない、だけどもうこれ以上の犠牲が出ると思うことに耐えられないんだ」
「俺たちは一緒に道を歩いてきたんだぞ、国を離れようと決めたあの時から、それをもうずっと抜けようなんて、まさか言うんじゃあるまいな?」
アリアンがゲルトの言葉を遮った。
「俺たちの道はずっと間違ってたんだ」ゲルトは冷静な口調で言った。
 「俺はここにいる、そして自分とお前らの為に祈ってるよ、探し求める平安が見つかるまでな」
そこまで喋るとゲルトは目を伏せ、それ以上何も言わなくなった。その沈黙に応じようとするのはまるで銅像に話しかけるようなものだった。
 私とアリアンは、必要なだけの銃弾、そしてIDカードを手に取り、それからハーレー・ダヴィッドソンの地獄じみた轟音と速度の中、自らに課した任務を終わらせるべく、二人だけで出発した。
 三十分ほどかかる道のりの途中、私もアリアンも互いに殆ど口をきかなかった。耳に聴こえてくるのはアリアンが気にする様子もなく吹いている口笛だけで、それは昔のカウボーイの歌の替え歌らしかった。我々は速度を上げ、背後に粉塵を巻き上げながら前進した。それからしばらくしてバイクを停めると地図を広げ、自分たちが目当ての場所にいることを確認した。我々はバイクを押して歩き、樹々がうっそうと茂る場所に隠してから武器を取り、牧場の広がっている様が見渡せる丘の方へ向かって歩いていった。手頃な場所に着くと腹這いになり、それからアリアンが双眼鏡を取り出して、襲撃する場所の状況を偵察した。
「ここにイブラヒムが隠れていやがるのか」アリアンの低い声がした。
 私は待ちきれなくなって、アリアンから双眼鏡をもぎ取ると、売人連中の住処の薄ぼんやりとした灯りが見える方をしげしげと眺めた。その先に白いスーツを着た人物が見えた。ボルサリーノ帽が日焼けした顔に影を落とし、口元の周りには短い髭を生やしていて、その男が笑うたび、金歯がのぞいて見えた。左手には皮の握り手のついた杖を持ち、右手に持った綱の先にはブルドッグが繋がれていた。その向こうには、強力な投光器の傍らには武器を手にした男が護衛に立ち、謎めいた牧場を囲う柵の外側に目を光らせていた。百メートルほど先にはもう一人、武装した男が西側の方を監視していた。牧場の四方は武装した護衛係で固められ、この内部へ入り込むのはどうやったところで、途方もなく難しそうだった。
「まず護衛の奴らを片付けて、それから突撃だ」私は辺りを見渡してから言った。
「そうだな、まず気付かれないように監視ポイントを襲って、それから突撃をかける、長くてせいぜい数分ってところだな」
 私はうなずいて、そして再び、自分たちの計画を開始し、そして完了させることになる場所へと視線を向けた。まだあと数時間、完全に夜が更けて、暗闇と風の音に身を隠して行動できるようになるまで待たなければならなかった。
 その間、私とアリアンはずっとその場に待機したまま、自分たちの計画遂行の一挙手一投足を正確に練り上げ計算した。それらの条件の中には、自分たちにとって有利な点もあった。護衛の連中は、互いに連絡を取ることができないほどの距離を置いて立っていたから、連中を手早く片付けて計算通りに行動できれば、農場の居住区内を突破することはずっとやりやすくなるのだ。
 その上でアリアンは狙撃する相手を定め、合図した。私は即座に、ごく一瞬だけそちらの方を眺めた。その男は抜きん出て有能な射撃の名人らしく、極めて冷静で、何をするにも自信に満ち溢れているように見えた。私の耳元では草の尖った先端が絶えずかさかさと音を立てていた。私は、神経質にぴくぴくする両眼に再び双眼鏡を当てると、正門の前で任務に当たる護衛係の男にその先を向けた。赤く光る小さな円がその額に当たった。それからどれぐらい時間がかかったのか、正確には憶えていないが、放たれた弾丸の音が聞こえ、入口を守っていた男が倒れるのが見えた。それから二十秒もしない内に、再び銃弾が放たれ、消音機つきの銃口から打ち出された弾丸の音が響き、別の男が息絶え、私は肩に弾丸の重みを感じた。それから三人目、そして四人目の護衛係が倒れた。二分間で、護衛の男たちは全員一掃された。残るは、もう何時間も居座っているこの場所から飛び出して、グループの構成員たちがいる邸宅へと突撃するだけだった、そこにはイブラヒムもいるのだ。私とアリアンは素早く立ち上がり、急ぎ足でその邸宅へと向かった。門を破り、邸宅内へ押し入り、その場に居合わせた者たちに、今にもぶっ放しそうな勢いで機関銃を向けた。東洋風の音楽が鳴り響き、アルコールの匂いが立ち込める中、パーティの参加者たちは晩餐の最中だった。連中はこの招かれざる客の闖入に凍りつき、心中緊張しているのが見ただけで明らかで、凍りついたまま、何を為すすべもなかった。誰かがどうにか少しばかり身動きしようとしたが、そんなチャンスはなかった、何故ならその瞬間、アリアンが背後の窓ガラスを破るや、すかさずその辺りに機関銃の斉射をかけたからだ。自分が憶えているのは、目を閉じ、休む間もなく、カートリッジが空っぽになるまで撃っていたことだけだ。目に入ったのはただ硝煙と、破壊された調度品と、悲鳴を上げながら倒れる人影だけだった。誰一人として確実に生きては返すまいと、アリアンは手榴弾を二個投げ込んだ。辺りに激しい轟音が鳴り響き、その後は、煙に包まれた静寂だけが支配した。全員、一人も残さず処刑したのだ。
 襲撃を終えると、私とアリアンはすぐさま飛び出し、大急ぎで現場から離れたが、まだ警察のサイレンは聞こえてこなかった。実際のところ、気が楽になったと感じていた。スケルディの復讐を果たし、仲間の名誉は守られた[訳註:原文では「名誉は地に置かれた」とあるが、これは本来「統制された、制御された」の意味で、転じて「維持された、守られた」]
 帰る途中、トルコ人グループを皆殺しにしてからどうするかについては何も聞かされていなかったが、私は、まるで自分が野蛮な、広大な戦場から帰還する騎士のように、心の底から実に安堵した気分を感じていた。同じようにアリアンの顔にも歓喜が溢れ、起きた全てのことについて後悔の念は少しも見えなかった。
 隠れ家へ戻ったのは、安全な他国へ向かうために欠かせない、道中に必要な物品や証明書類を揃えるためだったのだが、ゲルトの寝室に足を踏み入れた私とアリアンは、そこで目にしたものに凍りついてしまった。目の前には予想もしていなかった、運命論じみた芝居の一場面にも似た光景が広がっていたのだ。ベッドは乱れたまま。サイドテーブルには半分残ったラム酒の瓶が一本。その周りに燃えさしのタバコが数本。ゲルトは意識不明のまま、白い泡を吹いて床の上にぐったりとのびている。その向こうには使用済みの注射器と、そして死に至る重い空気。
 私とアリアンは、その場所へと歩み寄った。ゲルとは意識を失っていた。大声で呼びかけても、掌で叩いても、彼には何の反応もなかった。私は必死に、硬直した首筋で脈拍を確かめようと、そして微かな望みをかけて息を吹き返させようと、その全身を覆った死の苦悶からゲルトを引き上げようとした。
「無駄だ・・・もう手遅れだ・・・」絶望の口調でそう言いながら、私の指先は、彼の沈黙した脈拍を探し求めていた。
「もう行くぞ!」アリアンの冷たい一言が、私の耳に響いた。
 門を急いで閉め、我々は、深い鬱状態の中で薬物の過剰摂取によって命を落としたゲルトと、四人で難民キャンプを出たあの日、上機嫌で撮った写真をその場に残していった。
 残るは私とアリアンのみとなったが、もう一歩たりとも後戻りはしないと決めていた。今や敵を根絶やしにし、これといった目標もなく彷徨い歩く我々二人は、まるで風車に戦いを挑むドン・キホーテとサンチョ・パンサであった。ゲルゼンキルヒェンでは、トルコ人グループとの抗争で我々のグループが全滅したというニュースが広まっていた。かくして、偽造した証明書と偽名により、ゲルゼンキルヒェンの近郊に取り敢えずの住居を得たアリアンと私にとって、他国へ逃れるか、或いはアルバニアへ戻るという最終的な手段をとるまでの間を生き延びるのは、多少容易なことになっていた。アルバニアには家族が、子供時代の思い出が、自分自身が、そして自分が敗北者なのではないかという思いを振り切れなくなる度に何度も思い起こす、国を出る時からずっと自分たちの中に残しておいた大切な物事が、置き去りのままになっていた。今この時が自分にとっては、過去や夢といった風の渦の中にあるように思われた。何故だか知らないが夜の祈りの前の、イエスと聖マリアのイコン[訳註:原文でもikonëとあるが、正教会とは限らず、カトリックの聖画像を指していると思われる。ちなみに訳文では殆ど反映されていないが、原文には(カトリック信者が多い)アルバニア北部の方言に由来する単語がしばしば見受けられる]に向かって小声ですすり泣く時、自分の故郷が自分の目の前に母の顔かたちをして現れてくるのだった。ああ主よ、私の気持ちは何と狂おしいことか!もう何年も、心の内でただひたすら願い続けてきました、自分の家の戸口に、力強い父のもとに、愛する母のもとに帰りたいと、そしてもし少しの暇でもあれば、母に伝えられたらと。あなたの息子はまだ生きていて、熱い涙に濡れた手紙を何度も送ろうとしたけれど、でも偽りの指先ではそれも書けはしないのだと。歳月を数える内に自分たちの息子がギャングになってしまったと、両親が気付いているのではないかと、そのことを思うと私は恐ろしかった。それでも日々の暮らしを送る中、私は信じていた。何時の日か、生きてであれ、死んでであれ、自分は故郷に戻るだろうと。故郷の政治情勢も変わり、共産主義体制も息絶え、障壁は破られ、アルバニアは今や自由な国になった。
「聖なるマリアよ、私が両親の地へ戻れるようお力をお貸しください、私の頭にうずたかく土が積み上げられる前に[訳註:つまり「死ぬ前に」]
そんな言葉を毎晩、眠りに目を閉じる前に私は繰り返すのだった。
 ようやくのことでゲルゼンキルヒェンに届いたニュースによれば、警察は我々が二か月にわたって潜んでいた宿の周辺に急襲をかけ、我々の違法行為を立証するのに充分な証拠を集め、更にドロタも逮捕されたという。ゲルトの遺体は死体保管所へ送られ、遺体の身元確認と引き取りのために親戚知人に呼び出しがかけられた。しかし死体保管所の入口へは誰一人、一度として姿を見せなかった。
 そんな日々の大半を虚しく過ごす中で、陽が沈んだ後に、行くあてもなく路上へ出ていた私は、前にゲルトルーダのところへ行った道を辿っていた。私はただ彼女に訊ねたかった、そして自分自身に刻一刻とのしかかるディレンマを解き明かして欲しかったのだ、自分たちに起こった、そして今も自分たちがこの困難な日々を生き続けているのは、予言であらかじめ定められたことなのか、それとも単なる呪いなのかということを。
 気温が氷点下に達し、あらゆるものがうっすらと粉雪に覆われた陰鬱な天候の中を、私はゲルトルーダの家へと向かっていた。彼女の家がある場所を私はよく憶えていたので、野生の薔薇に囲まれた狭い路地を見つけ出すのに苦労はしなかった。その数分後、かつて二度とここを通ることはないと確信しつつよろめきながら立ち去った玄関の前に私は立っていた。だが、もしも人生の歳月の中で、生まれながらにかたち作られたタブーや概念といったものを乗り越えられない人がいるのなら、その者は記憶も、明日への思いもないままに、この融通の利かない肉体へと舞い戻ることをあらかじめ定められているのだ。
 私は強くノックした。寒さでかじかんだ指先が痛んだ。息を吐きかけて何とか手を温めようとしたが、凍えそうなその息では、何の役にも立たなかった。もう一度ノックしたが、中からは何の返事もなかった。私は顔を上げ、ゲルトルーダの寝室がある上の階の窓を眺めた。彼女は血栓症による麻痺の影響で十七年間もそこから外へ出たことがなかったが、それなのに、氷に覆われた窓ガラスには人影ひとつ見えなかった。あれこれ思いを巡らせながら待ち続けるのは拷問のようで、そうしている間に何故だか私は良くない予感にとらわれていた。私は隣接する家の玄関をノックした。ゲルトルーダの身に何があったのか、確かなことを知りたいと思ったからだ。それはすぐ隣の、右側にある建物だった。私は呼び鈴のボタンを押した。中から女性の声が聞こえた。
「どなた?」それから再び、静寂が訪れた。
「すみませんが、ここを開けてもらえませんか」私は、女性がよく聴こえていないのではないかと不安になって声を上げた。
「ゲルトルーダさんの親戚の者なんですが」
 それから数分すると足音と衣擦れの音がして、ドアの錠を開ける音が聞こえた。扉がゆっくりと開き、目の前に高齢の、皺だらけの顔に髪もぼさぼさの女が姿を現した。会話の途中でだんだんと気付いたのだが、自分が話している相手は普通の人間ではなく、本人の記憶も穴だらけな、とんだぽんこつ女[訳註:原文は直訳すると「くる病の女」]だった。会話の中で彼女は時間でも、場所についての言及でも奇妙に飛躍した。半ば頭がおかしくなりそうな彼女とのやりとりから私がどうにか理解したのは、ゲルトルーダは制服姿の連中に力づくで連れて行かれ、もう何か月も前からここには住んでいないのだということだった。そしてその支離滅裂な言葉の中からわかったことは、ゲルトルーダはひとりぼっちの婦人で、長年にわたって患っている病気の影響でいつ何どき死ぬか分からない危険な状態に脅かされていて、しかも彼女の面倒を見る人も誰一人いないので、どこかの慈善家たちが彼女を修道院に閉じ込めて、せめて最後の日々を主の慈愛と加護のもとで過ごさせてやろうと考えたのだということだった。だが私には、目の前にいる人物から聞かされたことの何ひとつ信じることができなかった。ゲルトルーダが連れて行かれたことの経緯について、私に正確な返事をできる者は誰もいなかった。私には分かっていた、ゲルトルーダはもう二度と、ここへは戻って来ないのだと。
 私の頭の中に浮かんだのは全く別の、彼女が連れ去られる有様だった。走馬灯のように現れる幻影と、遠くから聞こえる声と、怖気をもよおすような予見とが、権威と不可侵性を身にまとった人物の上に恐慌をもたらしていた。
 もうそれ以上訊ねる気にもならなかった。ここで食い下がってもたぶん疑念を生むだけだし、それは状況をさらに厄介にしただろう。私は踵を返すと地下鉄の駅へ向かった。
 老女は半開きになった門の傍らでぽかんと立ったまま、不意に立ち去る私を呆気にとられた顔で見送っていた。
 私はまたしても目まいに襲われた。誰にも見られたくなかったし、誰とも会いたくなかった。ゲルトルーダは何か月も前から修道院に閉じ込められていたから、あの偶然とは思えぬ出会いの日からずっと、私は彼女に会えなかったのだ。
「何世紀も前から人々は、蠟燭を片手に、夜を徹して、イエスの復活を伝える鐘が鳴るのを待ち続けていました。二千年前、イエスは世界中の罪をその身に背負い、ローマ人たちによって十字架の上で犠牲となったのです。その十字架には死せる者たちの、そしてこれから生まれるであろう者たちの名が記されていたのです」
 一年前、ゼバスティアン神父がミサを執り行っていた時にアンデタがうっとりした面持ちで語ってくれたそんな話が、ストレスと、毛細血管への圧迫による高血圧とに押しひしがれていた私の脳裏にぼんやりと浮かび上がってきて、一人になろうとすればするほど、私は自身の思いに突き動かされ、ほとんど異端とも言えるような狂気じみた行動に自らを駆り立てようとするのだった。
 自分の人生が二つの世界の狭間でちぎれた糸のようなものでしかない今この時でさえ、私は、自分がそれこそ復活祭の最後の日曜日に、あらゆる予想を裏切って、相応しくない時と場所に現れるような、まさしくそういう人間だということに対して、申し開きのしようもなかったのだ[訳註:最後の部分の直訳は「アリバイを認めることが難しかった」。なお上記の箇所は、復活後のイエスが姿を現した場所や出会った人物の描写が新約聖書内で一致しておらず、復活そのものが時空を超えた出来事として(主にカトリックで)考えられていることを踏まえていると思われる]
 とめどない無気力の波に引っ張られたまま、私は真夜中、秘かに、自分たちが住んでいた家の前までやってきた。外からその建物を見ると、そこは何者にも支配することができなかった城なのだという考えが湧き上がった。周囲に人の気配はなかった。サノおばさんも、夜の祈りを終えてもう眠っているはずだ。窓越しに、蠟燭のぼんやりした灯りが見える。女性の人影だ。蠟燭のちらちら光る炎で、アンデタの顔だと見分けがついた。アンデタは私を探しているのだ。私は目を伏せた。自分で自分に誓いを立てていたのだ、もうこれ以上は先へ進むまいと。それなのに今、全く偶然にも、私は彼女の住む家の柵に寄りかかっている。とにかく引き返すべきだ、そうすべきだ・・・彼女を見たいという私の望みは、遠くからでもかなうのだから。しかしアンデタには何かしら引き寄せるような力があって、その力の前では、私の躊躇も自由落下の有様だった。彼女はまだ窓ガラスの傍に立っていて、私がすぐ近くにいると確信しているようだった。私は自分の意志に反して、生涯最大のディレンマの前に進み出ていた。大人になって少しは道徳も身についているのに、今や私はそれを踏みにじろうとしている。もしももう一歩前に進んだなら、翌日にはきっとアンデタの家族の前で彼女の手をとろうとしているだろう、もっとも彼女にとってみれば私は家族の一員なのだが。ずっと前からアンデタに対する私の気持ちがその場限りの同情の域を超えていたことは、彼女にもわかっていた。私と彼女には時間が必要だったが、それでもまだ二人の将来については何も決められないままでいた。何を決め、行うにもカヌーンの精神[訳註:原語mentalitet kanunorのkanunは中世アルバニアの部族社会に伝わる慣習法を指す]による重圧と、自らの手で裁きをつける定め[訳註:要するに「復讐」の意味]に従わねばならない、そんな現実の中で、自分に何を決めることができるだろう?そこで僅かな合間をぬって、二人はしぐさによる言葉を習い覚え、それによってごく私的な、内密の話も普通にできるようになっていた。アリアンは私とアンデタの関係に気付いていなかったと思う。だが私はできるだけ早くこの旧友に、アンデタとのことを打ち明けようと決めていた。そしてそれは恐らくそれほど遠い先のことではなかったのだ、あの夜犯した罪が私を無に帰してさえしまわなかったなら。
 もし誰かが「お前は罪を犯したのか?」と問えば、「そうだ」と私は答えるだろう。「復活祭の日曜日に俺たちは罪を犯したのだ」と。その日、町は深い眠りに落ちている場所もあったが、祝祭の夜[訳註:復活祭当日の未明、つまり土曜の深夜]に教会の壁を囲んでいる人々もいた[訳註:ドイツでは復活祭の土曜夜から日曜未明にかけて教会で礼拝が行われる]。路上に人気は殆ど無かったが、寝ずに起きている人達に感づかれることが私たちには気がかりだった。私と彼女は二人きりで、躊躇いと不安という鉄のカーテンをどうにか取り除けようと努力していた。二人の振る舞いはまるで夢遊病者のようで、動作の何もかもが無意識に行われているような状態だった。私は彼女に寄り添い手足を絡めようとしたが、突然、復活を告げる深夜の鐘が鳴り響いたので二人ともびくりとした。しばらくの間、二人はじっとその場に固まったままで、何度も互いの顔を見つめ合っていた。やがて、互いにとって未知の部分を見出したいという抑えがたい思いに駆られた二人は、中断していたそれを再開した。私はアンデタに感じること全てを自分へと取り込んで、冬の薄暗い水面に生じる陰影のごとく己の記憶の中に形作られた過去や女たちと結び付け、それらを一つ一つ比べていくのだった。そんな女たちの感触と影に身を明け渡そうともがく中で、私は感じていた、この何もかもが死に至る遊戯なのだと。それも男どもを常に敗者にする遊戯なのだと。それはまさにトロイア陥落に似ている、そこでもまた、そこで起こったこと全ての元凶は女だったのだ。そんな女たちの感触と影に身を明け渡そうともがく中で、私は感じていた、この何もかもが死に至る遊戯なのだ、それも男どもを常に敗者に陥れる遊戯なのだと。それはまさにトロイア陥落に似ている、あれもまた、そこで起こったこと全ての元凶が女だったのだ。
「君を見ていると、女って素晴らしい生き物なんだなってことがわかるよ、微笑みと涙の狭間にある世界だね」私はアンデタの耳元で囁いた。「これなんだ、俺に欠けていた類のものは」
「どうしてこんなになるまでずっと気付かなかったの?その世界に、私が待ってたってことに」重く張り詰めた空気の中で二人の息遣いが交わる中、アンデタの話しかける声が響いた。
「俺はこの世を、君のことを考えながら行ったり来たりしていた、そしてわかったんだ、ここにはもう安らぎの場所はない、もう何もかもが、深い闇に変わってしまったんだって」自分の両腕の中で、アンデタのあらわになった胸元が鼓動を打つのを感じながら、私はやっとの思いで彼女にそう告げた。
「あなたは、私の一生に残るもの全て。あなたを愛していなければ、気持ちが落ち着かないの」彼女は囁き声でそう言った。
「俺たちは一緒だ、失くした時間を取り戻そう」 私は震える声でそう言うと、彼女との会話を締めくくった。
 二人は、沈黙という烙印を押された愛情の、狂おしい感情に駆られて互いを求め合った。アンデタは私に純潔を捧げてくれた。そして、何もかもが、その営みに至る本能と感情の罠へと、突き落とされていくのだった。彼女は、オーガズムの解放へと至る流れの中で、敏感で、繊細だった。私は男性の本能に突き動かされ、欲望に支配されるまま、打ち寄せるぬくもりの波に我を忘れ、その中で画一的に周期を刻む振り子へと、姿を変えていた。外では狂ったような鐘の音が鳴り響いていた。そして私とアンデタは、互いの律動の中で、めくるめく結合の営みを終えようとしていた。
「もっと、もっと欲しい、ずっと、嗚呼・・・!」
アンデタは途切れそうな声で叫んだ。
「そうだ、ずっと、二人しておかしくなってしまえばいい。愛してる、アンデタ・・・」私はぜいぜいと喘ぐような声で、思いを口にした。
 鐘が鳴り止んだ頃、二人は重い息遣いのリズムに合わせるように、互いの身を離した。
 アンデタの柔らかな素肌の上に、温かい精液が点々と散っていた。アンデタはそれを指先で拭い取り、唇に塗り付けた。私にはそのしぐさの意味が理解しきれなかった。するとアンデタは私の表情で何かしらを察したらしく、濡れた指先を私の目の前に差し出すと、こう言った。
「この中に、命が宿っているのね」
「一瞬で生まれて、死んでいく命だよ」私は消え入りそうな声で答えた。
 アンデタの掌が、私の背中にそっと触れるのを感じた。私はすっかり魂が抜けてしまい、痺れたような有様だった。自分の頭上に罪の重圧を感じていた。私の表情に罪悪感を読み取ったアンデタは、とにかくもう一度、私に何か話しかけなければならないと思ったらしかった。
「ねえエルヴィス、人間として生きるって、本当に辛いわね!」
「ああ」私は言った。「どれだけ予想してもしきれないほど辛いよ。自分が石みたいに、どんな感情も通さないようなものになってしまえればいいのにな、だけど神様は一日目に魂を下さった、だから俺は、自分が人間でいられるって思えるんだ」
「ずっとあなたのそばで生きてきたけど、私は悪い夢に連れ戻されるような気がして、ずっと不安だったの。私はあなたと一緒にいたのに、それなのにあなたは、私のことにちっとも気付いてくれないみたいで」
「生まれた時から、俺の今までは長くて険しい道みたいなものだった、君にたどり着くまではね。時々、君と過ごした時間が、人生の全てが、俺にはいつまでたっても読み終わらない小説のような気がする・・・いや、少なくとも、そのページをめくるのも、最後のページを閉じるのも俺たちじゃないみたいな気がする」
 そこまで話したところで、ベッド脇のテーブルの上にある時計に目をやったが、気付けばもう深夜を過ぎていた。すっかり遅くなっていたし、自分の願望とは裏腹に、もう行かなければならなかった。私はアンデタの方を見た。彼女は無言のまま、薄暗がりの中に溶け込む私の横顔を見つめていた。私は彼女に近付き、その唇にキスをした。彼女の手が私のぼさぼさの髪を撫でた。二人は幾度も互いに視線を合わせた。私は彼女の柔らかな掌を摑み、強く握り締め、自分の頬に荒々しく押し当てた。そしてしばらくの沈黙の後、私はその場を離れ、脱ぎ捨てた服のある場所へ行った。私が部屋の隅で服を身に着け始めるまでの間、アンデタの視線はずっと私を追っていた。二人の下着は、互いに狂おしくもつれ合った時のまま、乱雑に散らばっていた。
 その時、一瞬だが、自分の左側に誰かの影が見えた。私は素早く振り向き、反射的に手を、ピストルをしのばせている腰の辺りへとやった。がすぐに、それは大理石のテーブルの上に置いたままだったことに気付いたので、再び相手の方を見ると、そいつはほとんど素っ裸で、何も持っていない両手の先が、神経質にぶるぶる震えていた。その男も私の方に顔を向けていた。しばらくの間、私もそいつも互いに見つめ合ったままだった。私は一歩前に歩み出た。するとそいつも私と同じ動作をした。薄暗がりの中、辺りにある物が辛うじて見える程度だった。私は何とか笑ってみせようと努めたが、凝り固まった表情を思い通りにするのは殆ど無理なことだった。すると向こうもにやりと笑ったらしかった。私は更に一歩を進めた。相手も同じようにして、更に私のいる方へと近付いた。今や、相手を先程よりはっきりと見ることができた。知り合いでもなければ、今まで一度も会ったこともない人物であることは確かだった。顔は痩せて青ざめていて、二つの眼が二つのくぼみの中で探るように動いている、髪はぼさぼさで、その下に伸びる額には汗のしずくが玉のようにびっしりと浮かんでいて、顎髭が内心の不安からぶるぶる震えていて、その背後には、一糸まとわぬ女の姿があった。その瞬間、私は自分がとんだトリックに、それも単なる偶然からとはいえ、見事に引っかかっていたことにようやく気付いた。私は壁に掛かった鏡の前に立っていたのだ。その場を離れて戸口へ向かうと、アンデタの足音と、魅惑的な匂いが後を追ってきた。人々が祝福し、路上には罪びとたちが群れる、呪われたその夜、二人はまるで何事も無かったかのように別れた。
 アンデタの家を出る時、私は出来るだけ用心深く辺りに気を配り、誰の目にも触れないように努めた。玄関を出る前に私は、自分たちの外に存在すること全てを一時でも忘れようと、彼女と強く抱き合った。門を出るところで私は振り返った。アンデタはドアのところで身じろぎもせず立っていて、そんな彼女の姿が、薄暗がりの中に溶け込んだ視線と共に、私の中にずっと残っていた。
 私は夜露に濡れる枯葉の中に佇み、これから起こるであろうことに思いを巡らせていた。明日になったら一刻も早く、アリアンと話さなければ、そして自分とアンデタの関係について説明しなければならない。そんなことを思いながら通りに出た。人々が年中行事の礼拝を終えて帰るところだった。彼にそんな話をすればどんな混乱を引き起こすか、自分でもよく分かっていたが、それでもアリアンと話し合わなければならない・・・話し合わなければならない・・・私は、ひしめき合って歩く人々の流れと反対の方向に歩いていた。何故だか、自分の前に見える顔という顔が薄ら笑いを浮かべ、あの一軒家で起こった出来事のかどで私を断罪しているような気がした。私は何とかしてそこから逃れようとした。
 道はどこまでも終わりなく曲がりくねり、人々の流れはもはや抗いがたいまでのものになっていた。押し寄せる人混みを避けたくて、私は別の道に入り、森の中を歩いて行くことにした。そうすればもっと楽な気分になって、落ち着いたまま、私の頭の中をかき乱す思いの切れ切れをたぐり寄せることもできるだろう。だからそうすることにしたのだ。夜露で濡れた道の上を踏みしめるとすぐに、私は望んでいた自由を感じることができた。ゆるやかな足取りで月を眺めつつ、夜の湿った空気を吸い込んだ。私は踏み固められた土の上を、木の根元に生えている野イチゴ[訳註:原語dredhëzは学名Fragaria vescaで、いわゆるワイルドストロベリーやエゾヘビイチゴを指す]の上を歩いた。罪びとにのしかかる責めの重みを感じながら、アンデタの姿が私の脳裏でいつまでも揺れていた。足音が樹々のよそよそしさ[訳註:原語apatiは英語apathyに相当する]をかき乱し、辺りに反響して更に音量を増し、広がっていくように思われた。
 突然、誰かがすぐそばにいるような気がした。私は振り返った。誰もいなかった。目に入るのは樹々の枝影と、夜鳥の羽ばたく姿だけだった。私は頭の中に次々湧いてくる疑念を強いて振り払った。そしてまた歩き続けた。早い足音と、途切れ途切れの息遣いが、今度は自分のすぐそばに感じられた。私は立ち止まった。もうこれ以上は歩けなかった。誰かが私の後をつけてきているのだ。だが一体全体誰なのか、まさかそんな、この私にとどめをさそうと意を決してきた奴がいるとでもいうのだろうか?私はさっと振り向いた。隠れていた影が、人間の形を浮かび上がらせた。それはまさしく、私がこんな状況では決して会いたくないと思っていた人物だった。それなのに不思議と何の恐怖感も湧いてこなかった。耳元に、聞き覚えのある声が響いた。「その時あんたは一人のままだ。その最果てで、あんたの前に四人目が立ちふさがる
 そこにはただ、お互いに向き合った、私とアリアンの二人しかいなかった。どちらからも口をきこうとはせず、くぐもったその言葉は胸の中に重く沈み込んでいた。自由なる生を知らぬ者からすれば、侮辱されたとデッチ上げて勢いづき、ギャング団の心理状態の中で裁きをつけるのはごく単純なことだった。私は何か言おうとしたが、両唇はこわばった微笑のひりひりする痛みで引きつっていた。アリアンは私に、冷たく、凶暴な、彼の性格からは考えられないような風の視線を向けていた。私は言った。
「なあアリアン、いろいろ迷ったけれど、俺はもうアンデタと生きていくことにしたんだ・・・」
 アリアンはピストルを取り出し、私の方に向けた。目まぐるしく流れるその刹那、自分に助かる可能性など全く無いことは分かっていた。アリアンは私の目の前に、あとほんの数秒もすれば私を生ゴミに変えてしまうような武器を手にしたまま立っていた。私は人生最大の十字路に立たされていた。どうやって切り抜ければいい?大急ぎでその場を離れて弾道を避けるか、それとも友の前に跪いて、自分は信義にもとることなどしていないと赦しを請い願うべきなのか?いや駄目だ・・・私はもうこれっぽっちも、これ以上は一歩たりとも身動き出来なくなっていた。私とアリアンは二人とも黙ったまま、身動き一つせず向かい合っていた。二人の頭上に、どんよりと重苦しい空が広がっていた。
 私はこんな状況が来ることを誰にも、ましてや自分にとって最も信頼していた敵にも望んですらいなかった。自分にはもう逃げ道が無かった。私は目を閉じ、自分の脳髄が無残に頭骸骨から飛び散るその瞬間を待っていた。周囲は、鳥のさえずりの中にぽっかりと穴が開いたような、薄気味悪い静寂に支配されていた。激しい発射音が聞こえた。打ち出された銃弾の衝撃が、殺人的な速さで空中を横切った。私は身震いし、息絶えて地に倒れる様を思った。その後に、急いで立ち去ろうとする足音と、荒々しい息遣いが聞こえた。
 私は目を開けた。闇の中に、パニックに陥り森の中へと立ち去り、生い茂った樹々の間に消えていく人影が見えた。闇の中に消えた人影を見ながら、私は逃れようのないこの結末に思いを巡らせていた。アリアンは銃を撃った、だが私に向けてではなかった。向こうを見ると、ピストルが地面に放り棄てられていて、私の足元のそばに薬莢が落ちていた。左の方には折れたアカシアの小枝があった。屈み込んで銃を手にすると、指先が抑えようのない神経の昂りで震えた。銃身はまだ温かかった。私はそれを両手に抱え、しばらくじっと見つめていた。まだ子供だった時のことを思い出した、父が夜遅く狩りから帰ってきた時だ。父が猟銃を壁に掛けると、母は私たちの方を気にしながら、その銃をこっそりと持ち出し、古毛布にくるんで、誰も知らない場所に隠してしまったのだが、それは私たちに、生き残るためには殺すしかないという価値観を持ったまま成長して欲しくないと母が思っていたからだ。父が私を初めて狩りに連れて行ってくれた時のことも憶えている。私はまだ十六歳にもなっていなかった。今でも忘れることのできない一日だ。目の前に一頭の鹿が飛び出してきた。挑むようなその目つき、頭上で枝分かれした角、傲然と立ちふさがり、呼吸が湯気となって噴き上がり、身震いするような咆哮を上げるその様に、私は魔法をかけられたようになり、自然の生命に魅了されていた。
「撃て!」と父が命令するような口調で私に言った。私はその場に固まった。初めは自分に言われているとは思わなかったのだ。だが父は見逃してくれなかった。
「照準を定めたら、ぐずぐずせずに息の根を止めるんだ」
 私は銃の台尻を肩に載せた。照準を定めた。鹿は一瞬こちらを向いて、私の方を見つめた。私は目を閉じた。何故だか涙が、身体の中から湧き上がる興奮で赤く染まった頬を流れたが、私は鹿に向けて撃った。鹿は崩れるように倒れた。
「でかした、息子よ、でかしたぞ!見事に仕留めたな!ずっと信じていたぞ、お前が立派な男に、立派な家長になれるだろうとな」私は、ひどく興奮した父の声を聞いていた。
 私は何も喋らなかった。起こっていることに動揺し、目をぱちぱちさせていたが、一方で、父の抑えようのないほどの高揚ぶりは理解できなかった。父はナイフと紐を取り出し、私を連れて射殺された鹿のところへ近付いて行った。鹿はまだ四肢をかすかに痙攣させていた。父はナイフを鹿の首筋にぐさりと突き立てると、そのまま頸部を掻き切った。引き裂かれた血管から血が溢れ出し、鹿はもはや身動きすらしなくなった。私は胃がぎゅうっと縮み上がるのを感じ、頭が混乱し、吐き気を催した。
「貧血だなエルヴィス。誰だって最初はそんなものだ。だがいずれ慣れるだろうよ」父が息子である私に話し続ける時、そのあらゆるしぐさは満足感に溢れていて、それらがことごとく私の神経に障った。
「俺が初めて野生の鹿を仕留めた時」父は独り言のように語り続けていた。「ひと月ばかりは肉が喉を通らなかったものさ。俺の親父は厳しくてな、もうあの世に逝ってしまったが、とりわけ俺には厳しかった。姉が三人続いた後のたった一人の男だったから、いつか親父が目を閉じる日が来た時には、俺が家族を支えられるようにならなければいけないんだってな。天のみぞ知るだ、親父は自分がこの世に大して長くいられないことを予期していたのかもな、そして残された俺には、いい日もあれば悪い日もあった!そうそう、親父は俺をよく町の屠畜場へ連れて行ってくれたな、俺に血を見せて、血に慣れさせるために。いや俺もあの頃は、まるで棒切れみたいにがたがた震えてな、自分が目にしていることの意味もろくにわからなかったものさ!今のお前と同じにな。だがお前は初めての試験に合格した。これで俺もお前に任せられるってもんだ。生きていれば、遅かれ早かれ危険に直面する。お前が望もうと望むまいと、生きる権利は自分で勝ち取らなきゃならないんだ」[訳註:原文では引用符が打たれていないが、恐らく上の段落全体が主人公エルヴィス・ツェロヴァの父親の言葉]
 私は顔面蒼白になっていた。何も言葉にできぬまま、自分が今見ているもの全てのせいで身体が熱く火照るのを感じていた。私は自分の父が鹿の皮を剥ぎ、その肉を切り刻む様を見つめていた。屠られた獣の暗くよどんだ目に、ふた筋の涙が見えた。命あるものを殺す決断をしたことを、信じて疑わなかった自分自身に怒りが込み上げてきた。それはただ、父が何日間か家族を確実に養えるようにと行われたことだったからだ。そしてその後は、我々にとってまた何もかもが最初からのやり直しになるのだ。いつもと同じ景色、川を渡るための現実的な苦闘、艱難辛苦、困窮、薄れゆく希望、そして生まれ出で消えていく日々の中、イコンの前で声を落とし祈ること。私の中で後悔の念が、自分が銃の引き金を引き、鹿を地面に撃ち倒したその瞬間から呻き声を上げていた・・・
 私は我に返った。ピストルはまだ両掌の中にあった。アリアンのことを考えると、彼との間に起きたこと全てが申し訳なく思われた。二人で共に進んでいくことを望んだ道のりを思い、完全に、その友情が壊れてしまったのだと考えることに馴染めなかった。恐らくまたそのために誰かが現れて、十字架に名を刻むことだろう。私にはその人物の影が、一生の終わりまで呪いのように、何処へ行こうと付きまとってくるような気がした。いやひょっとしたら、私への付きまといなどどんな時も、どんな状況でも一度たりともなく、これからもピストルを手に、私を殺そうと付きまとうこともないのかも知れない。恐らくそれは全て、私の潜在意識の中の幻影でしかなかったのだろう。だが何故こうなったのか?私はたった一人、このよどんだ薄もやの中で何を探し求めていたのか?私の頭の中には「何故」がその輪郭をあらわにしつつある、きっとそれは私を、生きるため私に残された全てにおいて責めさいなむことだろう。ここから離れなければ・・・だが何処へ?・・・
 ところが後ろを振り返ると、奇妙なことに、帰り道が目の前から消えていた。そこには分厚い霧が広がっていた。私の人生は全て日めくりやアルバムのページをめくるように流れ去ってしまい、そして追憶にふけっている間に私は気付いたのだ、全てを最初からやり直すのはもうすっかり手遅れだということに。アンデタは、冷え切ったガラス窓のそばで、私の遅い帰りを待ってくれているだろう。今となっては何もかもが過ぎ去りしことだと自分に納得させるのは、余りにも辛いことだった。自分の内でそんな葛藤を繰り広げながら私は、熱い銃身を自分の冷えたこめかみに強く押し当てた。空には欠けた月がカルストの幻影[訳註:原語karstikはkarst「カルスト」の形容詞形]のように広がっていた。私は引き金に人差し指をかけると、素早く引いた、何も考えず・・・何も・・・
 それから私は、自分が何処か砂地のてっぺんから紅海の水面に投げ込まれたように感じ、そして身体は珊瑚の上に落下し、血に染まった。苦しみ喘ぎ、うなされたように身体を震えさせつつ、私は流れに乗って波打ち際まで運ばれた。ゆっくりと、波のように襲い寄せる痙攣に見舞われ、手足の一本すら動かすこともままならなかった。そして徐々に苦悶から解放され、痛みの波も引いていった。月の引力が、遥かな高みから私を引き寄せた。私は倦み疲れた肉体から引き離され、そして最後のひと息を以て、私の旅路が始まった[訳註:原語shtegtimiには「旅行」の他、「移住」の意味もある]
 明日になって、霧にかすむ大地に陽が上る頃には、墓地へ遺体を運ぶ司祭たちの姿を目にすることだろう。

 エルヴィス・ツェロヴァの話はそこで終わっていて、アンドレア修道士もそこで立ち止まった。向かいにある崩れた壁の部分が、破れた日記帳のページのように見えた。悲鳴のようにきしむ音を立てる扉の背後に、修道士は、髑髏にからみつく蛇の姿を見た。恐らく何処かの既に消え去った、それに加わっていた者たちの末路を予告していた教団の紋章であろう。アンドレア修道士は激しい震えにその身を貫かれ、身にまとった分厚い外套をぎゅっと押さえたまま、長い歳月を経て穴だらけとなった壁へと、倒れ込むようにもたれかかった。祈りを捧げるため両手を握りしめた修道士の目に入ったのは、聖母マリアのイコンだった。その存在と、慈愛に満ちた眼差しが、終わりも見えぬようなこの孤独の中に置かれた、その修道士の上に注がれていた。
「聖なるマリアよ、どうか、このかき乱される魂どもに平安を!この終焉を迎える暗闇の只中に置かれし私に、道理を知る力を、赦しを与える勇気を、我が先びとたちから引き継いだ務めを果たす意志をお与えください。この廃墟の中、私の叫びに耳を貸す者は誰一人おりません。人々の生み出ししものを覆い隠し得る寺院一つとてありません。およそ全くの偶然なのでしょうか、私はこの城塞の内側で、熱い蝋板に書かれたこの物語と出会ってしまい、そして今この時からは、呪われたように考えにとらわれ不安でたまりません。今この時から、私は見極める力を得て、蠟燭を焚き続けることでしょう[訳註:原語ndez qirinjtë「蠟燭を燃やす」は「いずれ来る死を予期する」意の慣用句としても用いられる]、人の生のいま一つの面を、見えざる面を照らし出し、この世界が天高く挙げられるその時まで。エルヴィス・ツェロヴァを、その生と、死して後を想う時、私の身体は震えに襲われます。彼の魂は風の如く、このいにしえの教会の壁の中を吹き抜けます。そして私は、キリスト教徒の信仰のため、この遺構の扉を再び開く使命を課せられた司祭として、ただ沈黙するしかないのです。聖なるマリアよ、過ぎ去りしものを、時をまといしこの石柱[訳註:原語muranëには「刑死者のあったことを示す路傍の碑柱」の意味もある]を、引き返すことのない道筋に流し込みやり直すことはもはやできません。今となっては、たとえ老婆ゲルトルーダがまだ生きていたとしても、会おうと思うことすら詮無いことです。聖なるマリアよ、私が信じてきたこの長い、使命を帯びた道のりを歩むに至って、私は実に根本的なことを悟ったのです、ありふれた人間の思いに寄り添うことの、かくも難しきことを。この世は我々の誰もが、罪びととして訪れ、そして去っていくのです。そしておしまいには、人の生は懺悔の祈りに包まれるのです。今この時、私はこの開かれし隠れ場の下、己が身を語り、罪を悔いている若者のため、その安らかざるままの魂のため、祈る他はないのです、平安あれかしと!アーメン!

(つづく)


ページトップへ戻る/Ktheu