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エルミル・ニカ 『罪びとたちの夜』

再会
実際の出来事に基づく話

 人にはいつか、長い人生の大半が両手の間からこぼれ落ちてしまったとわかる時がくるものだ、魂は凍え、もはや辛うじて見えるのは、いつまでも陽が昇り、陽が沈む様ばかり。だがそんなことで私は悲しんだりしない。分かっていたのは、いつの日か自分がこうして車椅子に縛り付けられ、ペンキも塗られていない、古びてぼろぼろになった壁に四方を囲まれ、個室をひっきりなしに出入りする看護婦の殺伐とした視線の下に置かれるだろうということだった。裁判官からも、検事からも、新聞記者からも、もはや私は誰からの興味を引くこともないのだ、私の過去について語るべきことが何もなくなった今となっては。私の日々も年月も変りばえのしないままに過ぎ去り、そして今もまた私には、この人生の薄暗がりの中で、自分が生きてきたのはほんの一瞬ばかりだったような気さえする。この世の思い出に残る全てのものが、私の人生の始まりであり終わりでもあった、あの再会の物語と結び付いているのだ。
 それは曇りと雨の天気が続く季節の、ありふれた日のことだった[訳註:一般にアルバニアの秋、特に11月は天候が不順]。町の上には午後の重苦しい曇り空が垂れ込めていた。路上を歩く人の姿はまばらだった。日中の喧騒はゆっくりと、陽の傾きと共に消えつつあった。既に涼しくなり始めていて、路上には秋の落葉が、戻る場所を失い打ち捨てられていた。町は、秋の終わりの、灰色の流れの中で息づいていた。徐々に、窓の下に広がる白いシーツも、壁際に並ぶ失業者の列も姿を消しつつあった。あの頃は祝日の直前で[訳註:アルバニアの11月末は解放記念日や独立記念日など国の祭日が集中する]、町は人混みと、サイレンと、警備にあたる制服姿と、プラカードで溢れていて、訪れる人々の中には戦争に行ったことのある者たちもいたし、中には、路上で胸元を[訳註:勲章で]重々しく飾り立てている姿も見ることができた。全ては大統領氏の配慮の下で行われていて、群衆の狂騒ぶりもむべなるかなだった。
 当時、私はティラナの喧騒の只中でタクシー運転手の仕事をしていた。車はホテル「ダイティ」の前の駐車場に停めていた。私はいつものように、近くの書店で新聞を買い、車へと戻った。ドアノブを引き、車のドアを後ろ手に閉めると車内へ潜り込んだ。中の方がまだ暖かくて静かな気がしたのだ。煙草に火をつけ、我れらが独立系日刊紙のページをめくり出した。その日はちょうど父が死んで五十年で、私は父が最後の息を引き取った18時を待って、父の魂に捧げるべく二本目の煙草に火をつけた。
 車の外では、酔っ払い二人が互いに大声で言い合っていたが、やがて藪に覆われた側溝に悪態をつきながらその二人は姿を消した。彼らの話し声が消えると、ひとときの静けさが、その場に生まれた虚空を満たした。私は黙ったまま、新聞を読むことに集中しようとしたが、それは無理だということに気付いた。頭に過去の重みがのしかかってきた。私には、自分の人生の流れを変えた人々や出来事を思い出しては我を忘れてしまうことがたびたびあった。
 そんな風にそのけだるい午後は、広げたままの新聞の上で、重い呼吸のリズムの下で、過ぎていくのだった。よく憶えている、時計の針がまるで二人の視線のように垂直に並んだまさにその時だ、いきなり後部のドアが開く音がして、誰かが車の中へ入ってくるのを感じた。私は横目でちらりと見た。分厚く着込んでいて、ひと昔前に流行ったボルサリーノ帽をかぶり、口の端にパイプをくわえ、ぎこちないアルバニア語で、それで私は自分の車に乗り込んできたばかりのこの乗客が外国人だと気付いた。
「すまないが」やがて客は幾分かすれた声で言った。「大統領官邸まで行ってくれ」
 私の声は震えた。身震いした。自分にまとわりつく悪夢から逃れたかった。私は振り向いた。殆ど生気がない青白い顔の、引き上げた唇の左端に、ナイフの切り傷。無数の血管がうっすらと浮き出た、その皮膚。ダチョウの[訳註:脚の]爪のように大きな、その両の掌。そして更に、十一月のくすんだ雪の上の、狼のように輝くその眼。
 どうしたことか、いきなり私の眼前に幻影のように、一九四四年の厳しい冬が広がった、私はまだ幼く、右手に羊飼いの杖を持っている、バロ[訳註:原語baloは白いまだらの入った動物を指す普通名詞だが、原文では大文字になっており、後の内容でもわかるように、犬を指す固有名詞]は古い水車小屋の前で殺され、ドイツ軍は去りつつあり、父はプラタナスの枝の下に縛り付けられ、負傷したイツ軍の将校がピストルを手にしている。それからの出来事は何もかもあっという間だった。ドイツ軍将校はかすれた声で叫んだ。
「奴らは何処だ?パルティザンの部隊はどっちへ行った?言うんだ!」
 父は何も言わず、ただずっとドイツ軍将兵を見つめていた。ピストルの台尻で幾度も殴られて、流れた血の筋が顔面を覆っていた。ドイツ軍将校は父の胸にピストルを突き付けた。ただの脅しだろうと私は思っていた。私は身を震わせ、その場ですすり泣いていた。それから銃弾が撃たれ、父はがっくりとくずおれた。将校は唇をゆがめたが、その左端にはナイフの切り傷があった。私は悲鳴を上げると、父の方へ駆け寄った。父はこと切れようとしていた。既に冷たくなり始めていて、視線は何処か遠くをぼんやりとさまよっていた。私は父に呼びかけ、石を一つ頭の下に置いた。振り向くと、並んで立ち去るドイツ兵たちが見え、その最後列に足から血を流している将校がいたが、その肩章は裂け、足取りはおぼつかなかった。父が何かをつぶやいた。かすかな血の筋が一本、唇の端に触れていた。父はくぐもった声で咳をして、それから悲しげに、むしろ唸り声にも似た溜め息を吐いた。
 真っ暗になっていた。私とその将校の二人だけが、あの山の峠にとり残されていて、降り始めた細く重い雪に、陽の光が反射していた。父は震えに襲われ、額には冷や汗が流れていた。私は無言で父の傍らに座ったままだったが、傷付いた心でも辛うじて理解できたのは、父が徐々に弱っているということだった。生き続けようとする渾身の努力もむなしく、午後の六時頃、父は息絶えた。父のそばにいたのはただ私と、休みなく行き来する風ばかりだった。やがてその場には自分の村や近隣の村から人が大勢集まってきた。私には誰が誰だかわからなかった。誰かが自分のマントを私に羽織らせ連れて行き、別の人達は父の亡骸を木製の担架に載せた。我々はその場を離れた。村人の葬列は、水の流れのように坂を下っていった。全員がおし黙っていた。我々はうなだれたまま、雪の上の足跡を数えていた。我々の後から、夜の冷たい風が追ってきた・・・
 自分がすすり泣いているのがわかった。父の思い出は、私の記憶の中に引っかかったままだった。そしてドイツ軍将校の青白い顔と、かすれた声。私はずっと震えていた。相手の顔には自分の身に起きていること全てに対しての、或る種不可解な表情が見てとれた。私はそれを何時までも見つめていた。一体全体こいつは、どんな遠い場所から舞い降りてきたのだ?どんな偽りの名で、この第三帝国の上級将校は隠れおおせていたのか?沈黙・・・今や時代はすっかり変わった。だがこいつの声と横顔は私の人生をずっと消耗させてきたのだ。眠りを妨げられる事さえ度々だった。あの時からどれだけの木の葉が移り変わって来たことか!どれだけの雨がこの地の上に降ってきたことか!そしてこの秋の強い風こそが、この終わりのない日記のページをめくったのだ!私は押し寄せる記憶の只中で、何度もあのうんざりするような瞬間に立ち戻るのだった。
「そうだお前だ!」私は言った。「あのSSの将校だ、あの十一月の惨たらしい夜の、チェルシ峠[訳註:Qafa e Qershisëはティラナの北30キロにある渓谷]の!何日も俺たちの村では血みどろの戦闘が続いた、大勢のドイツ軍と、パルティザンの部隊と・・・両方に大勢の死人が出た。あの子供の羊飼いを、殺された犬と、木に縛られた男、お前がその後で命を奪ったあの男を憶えているか?お前は憶えているのか?憶えているはずだ、お前の身体に戦いで負けた時の古傷がまだ残っている限りは。今頃お前はきっと戦争の英雄なのだろうな、何処かで人知れず骨になって眠る犠牲者の、その名を偽り、仮面をかぶって。もう何年も経って、今となっては、みんながお前を預言者のように待ち望んでいるんだ!だが俺はお前のことを知っている、お前を忘れたことなどない。俺の過去はお前の顔の形をしている。今日こうして俺たちは向かい合っている、俺は沈黙に罰された男、そしてお前は血と、火葬場の灰の匂いを漂わせた常習の犯罪者だ」
 相手は何も喋らず、ただ二人の沈黙の会話の結末を見つめるだけだった。やがてゆらゆらと近付いたが、小さくなり、徐々にその姿が透明になり、輪郭もなくなり、秋の風に吹かれて窓ガラスの割れ目を通り、消え失せてしまった。
 それが全ての始まりであり、終わりでもあった。今、私は一人、精神病院の隔絶された個室で、聾唖の看護婦に付き添われ、冷たい眼差しを浴びながら、古毛布の腐った糸くずを抜いている他ないのだ。
[訳註:この章の原題takimiは動詞takoj(会う)の名詞形で、「出会い」「会見」「デート」等の意味があるが、ここでは内容に即して「再会」と訳した]

(つづく)


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